2017年12月31日日曜日

 二〇一七年ももう終わり。世界はそんなに悪い方向には行ってないと思う。来年もきっとそんなに悪くないことを願う。
 そして、なんとか「詩あきんど」の巻も終わった。
 では、

 三十三句目。

   みちのくの夷しらぬ石臼
 武士(もののふ)の鎧の丸寝まくらかす 芭蕉

 「石臼」を捨てて、「みちのくの夷」に古代のいくさを付ける。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注では坂上田村麻呂の蝦夷征伐の場面とするが、蝦夷が枕を貸してくれるのだから衣川の戦いあたりを考えてもいいのではないかと思う。
 ここでいう蝦夷はアイヌではなく、みちのく地方の先住民族。縄文系の民族と思われる。

 三十四句目。

   武士の鎧の丸寝まくらかす
 八声の駒の雪を告つつ      其角

 「八声の駒」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「明けがたにたびたび鳴く鶏を『八声の鳥』というに基づく造語」だという。
 八声の鳥は『夫木和歌抄』に、

 新玉の千年の春の初とて
    八声の鳥も千代祝ふなり
              藤原家隆

の用例がある。
 鎧を着たままう仮眠を取っていると、馬がいなないて雪が降りだしたのを告げる。

 三十五句目。

   八声の駒の雪を告つつ
 詩あきんど花を貪ル酒債哉    其角

 前句の雪を花の散る様としたか。春に転じる。
 発句の「年」を「花」に変えただけの句で、主題を反復する。輪廻を嫌う連歌・俳諧の中では、こうしたリフレインは珍しい。

 挙句。

   詩あきんど花を貪ル酒債哉
 春-湖日暮て駕興吟(きょうにぎんをのする) 芭蕉

 前句が発句のリフレインなので、同じように脇を少し変えて応じる。
 春の湖に日は暮れて、その興を吟に乗せる。花見で借金をこしらえても気にせず、風流(俳諧)の道に明け暮れる。この『虚栗』が売れれば借金が返せるといったところか。
 古典趣味の絵空事が多いという点では、蕪村の『ももすもも』の体はこのころの蕉風に倣う所が大きかったのかもしれない。ただ、芭蕉のほうはこのあとよりリアルな俳諧へと向ってゆくことになる。

 では良いお年を。

2017年12月30日土曜日

 今日は大山街道を鷺沼から青葉台まで歩いた。いい運動になった。
 それでは「詩あきんど」の巻の続き。

 二十九句目。

   うづみ火消て指の灯
 下司后朝をねたみ月を閉     其角

 「下司」は本来は中世の荘園や公領で実務を行う下級職人のことだという。上司(うえつかさ)に対しての下司(したづかさ)だった。それが下種、下衆と書く(げす)へと派生したのか、それとも別のものだったのが混同されたのかはよくわからない。
 ゲスといえばゲスの極み乙女というバンドのボーカル、川谷絵音のベッキーとの不倫報道で、「ゲス不倫」という言葉がしばらく流行した。
 身分の低い女性を后(きさき)に迎えたせいか、朝のきぬきぬの時に、さすがに鶏をキツネに食わすぞとは言わないまでも、戸を閉ざして月を見せないようにして男を引きとめようとする。月明かりがあるとまだ暗いうちに帰ってしまうからだ。火鉢の埋み火も消えて爪の垢を燃やす。
 貞門の松江重頼選の『毛吹草』の諺の部に「爪に火をともす」というのがあるという。今日でもケチの極みを意味する慣用句として用いられている。本当に爪の垢で火が灯るのかどうかはよくわからない。昔は手をあまり洗わなかったから、あちこち掻き毟ったりすると体の油分が爪に溜まったりしたのかもしれない。

 三十句目。

   下司后朝をねたみ月を閉
 西瓜を綾に包ムあやにく     其角

 西瓜はアフリカの乾燥地帯が原産で、室町時代には日本に入ってきたという。中国語のシークワが日本語のスイカとなったという。日本では昔から庶民の食べ物で、上流の人は食べなかった。
 子供の頃読んだ漫画でも主人公の庶民の少年がお金持ちの坊ちゃんを家に呼んでスイカをふるまうが、坊ちゃんは家じゃメロンを食べるとスイカを馬鹿にする場面があった。
 スイカの入れ物というと、昔から紐を編んだスイカ網が用いられている。ここではそんな身分の低い人の食い物であるスイカがあるのを隠すために、入子菱模様の綾布で覆っていたのだろう。模様はスイカ網を髣髴させる。
 スイカがばれないように月を閉じ、綾布をかける。そんなにスイカって恥ずかしかったのか。ものが綾布だけに「あやにく(あや、憎しの略)」。
 形容詞の活用語尾を略して語幹だけで「こわっ」「はやっ」「ちかっ」という言い方は平安時代からあった。源氏物語では光源氏が「あなかま!」という場面がある。「あな、かしまし」の略だが、「かしまっ」が更に略されて「かまっ」になってしまったのだろう。

 二裏、三十一句目。

   西瓜を綾に包ムあやにく
 哀いかに宮城野のぼた吹凋(ふきしほ)るらん 芭蕉

 本歌は、

 あはれいかに草葉の露のこぼるらむ
    秋風立ちぬ宮城野の原
                西行法師(新古今集)

 宮城野は萩の名所で、

 宮城野のもとあらの小萩露を重み
     風を待つごと君をこそ待て
                よみ人しらず(古今集)

 白露は置きにけらしな宮城野の
    もとあらの小萩末たわむまで
                祝部允仲(新古今和歌集)

の歌がある。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると「ぼた」は萩の俚称だという。それだと、「お萩」のことを「ぼたもち」と言うのも、一般的には「牡丹餅」と表記されているが、この俚称に起源があったのかもしれない。
 西行法師のように颯爽と宮城野の萩の歌を詠んで見せたが、つい萩のことを「ぼた」と言ってしまい、身分がばれるというネタだろう。それをスイカを綾で隠すようなものだ、あやにく」とつなげる。

 三十二句目。

   哀いかに宮城野のぼた吹凋(しほ)るらん
 みちのくの夷(えぞ)しらぬ石臼 其角

 「夷(えぞ)」が第三の「夷(えびす)」と被っているのは気になる。やや遠輪廻気味の句だ。
 石臼は製粉作業に用いる回転式の臼のことで、東北の方ではあまりなじみがなかったのだろう。仙台名物で伊達政宗が発明したという伝承のある「ずんだ餅」も太刀で豆を刻んだという。
 石臼のおかげで日本では古くから団子が作られていたが、石臼の普及してないみちのくでは昔ながらのぼた餅やずんだ餅が主流だったということか。

2017年12月28日木曜日

 「詩あきんど」の巻の続き。

 二十三句目。

   黒鯛くろしおとく女が乳
 枯藻髪栄螺の角を巻折らん    其角

 「枯藻髪(かれもがみ)」というのは造語か。要するに脱色した髪の毛のこと。
 前句の黒鯛を乳首の色ではなく本物の黒鯛とし、「おとく女が乳」を海女さんのことと取り成す。始終海に潜っている彼女は塩と紫外線で髪の毛が痛み、脱色して茶髪になる。
 サーファーの髪が脱色するのも同じ理由だし、髪を染められないJCやJKは、昔はビールで髪を洗うといいなんていわれたこともあったが、塩で髪を洗うという方法は今でも行われているようだ。ただ、髪を傷めるだけでお勧めはできない。
 塩水で塗れてべたべたした髪の毛は栄螺(さざえ)の角に巻きついて折ってしまうのではないか、とややおどろおどろしく描く。

 二十四句目。

   枯藻髪栄螺の角を巻折らん
 魔-神を使トス荒海の崎     芭蕉

 ひところのギャルメイクが「山姥」と言われたが、発想は昔からあまり変わらない。茶髪の海女さんから海の妖怪のようなものを想像し、魔神をも使役する。今でいえば召喚魔法か。

 二十五句目。

   魔-神を使トス荒海の崎
 鉄(くろがね)の弓取猛き世に出よ 其角

 これは百合若大臣ネタか。ウィキペディアによれば、

 「百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」

だという。
 魔人を召喚する恐ろしい魔導師を倒すには、勇者様が必要だ。武器は弓。それも攻撃力の高い鉄弓のスキルを持つ勇者様がそれにふさわしい。

 二十六句目。

   鉄の弓取猛き世に出よ
 虎懐に妊るあかつき      芭蕉

 摩耶夫人は六本の黄金の牙を持つ白いゾウが右わき腹に入る夢を見てお釈迦様を御懐妊したという。
 百合若大臣のような勇者誕生には、母親が虎が懐に入る夢を見たという逸話があってもいいではないか、というところか。

 二十七句目。

   虎懐に妊るあかつき
 山寒く四-睡の床をふくあらし  其角

 伝統絵画の画題に「四睡図」というのがある。豊干禅師、寒山、拾得、虎が一緒に寝ている様子を描くもので、悟ったもの、死を恐れぬものには虎が近くにいても恐がることないため共存できるというもの。
 「山寒く」は「寒山」の名を隠しているし、前句の「虎懐に妊る」は夢ではなく本当に虎が懐で眠っているという意味に取り成される。

 二十八句目。

   山寒く四-睡の床をふくあらし
 うづみ火消て指の灯(ともしび) 芭蕉

 「指の灯」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には、「掌(たなごころ)に油を入れ、指に燈心をつかねて火をともす仏教の苦行。」とある。
 芭蕉と同時代に了翁道覚という僧がいて、明から来た隠元和尚にも仕えた。
 ウィキペディアによれば、

 「寛文2年(1662年)にはついに「愛欲の源」であり学道の妨げであるとしてカミソリで自らの男根を断った(羅切)。梵網経の持戒を保ち、日課として十万八千仏の礼拝行を100日間続けた時のことであった。同年、その苦しみのため高泉性敦禅師にともなわれて有馬温泉(兵庫県神戸市)で療養している。摂津の勝尾寺では、左手の小指を砕き燃灯する燃指行を行い、観音菩薩に祈願している。
 翌寛文3年(1663年)には長谷寺(奈良県桜井市)、伊勢神宮(三重県伊勢市)、多賀大社(滋賀県多賀町)にも祈願している。さらに同年、了翁は京都清水寺に参籠中、「指灯」の難行を行った。それは、左手の指を砕いて油布で覆い、それを堂の格子に結びつけて火をつけ、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するという荒行であった。このとき了翁34歳、左手はこの荒行によって焼き切られてしまった。」

と、実際に「指の灯」を実践している。
 寛文11年(1671年)には上野寛永寺に勧学寮を建立し、この歌仙が巻かれた頃も寛永寺にいた。ウィキペディアによれば、

 「天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。」

 芭蕉も当然この了翁の事は知っていただろう。びーちくろいくのシモネタもあればこういう偉い坊さんの話も交える。この何でもありの感じが、まだ談林の延長にあった天和期の蕉風だったのだろう。
 『野ざらし紀行』の伊勢のところで「僧に似て塵有」と自嘲して言うのも、同時代のこういうお坊さんにはとても及ばないという気持ちがあったのではないかと思う。

2017年12月27日水曜日

 霜月も十日となり、空には半月が浮かんでいる。
 では「詩あきんど」の巻の続き。今年中には終わらないかもしれない。

 二表、十九句目。

   鰥々として寝ぬ夜ねぬ月
 婿入の近づくままに初砧       其角

 月に砧は付き物で、出典は李白の「子夜呉歌」であろう。

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征
 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 ここでは出征兵士の帰還を待つのではなく、お婿さんがやって来る不安と気体で眠れない夜の話となる。男が婿入りするというのは、織物の盛んな地域の話だろうか。

 二十句目。

   婿入の近づくままに初砧
 たたかひやんで葛うらみなし    芭蕉

 前句の砧にオリジナルの李白の「子夜呉歌」を思い浮かべて、出征した婚約者が帰ってくる場面とする。
 葛の葉は秋風にふかれて葉がめくれ上がって葉の裏側を見せることから、「恨み」とかけて用いられる。ここは「戦い止んで恨みなし」でもいいところだが、秋の季語を入れなくてはいけないので、「恨み」に掛けて強引に「葛」を放り込んだ感じがする。

 二十一句目。

   たたかひやんで葛うらみなし
 嘲リニ黄-金ハ鋳小紫       其角

 「あざけりに、おうごんはこむらさきをいる」と読む。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、宋の鄭獬の嘲范蠡(はんれいをあざける)という詩が出典だという。まだ訳してない。

   嘲范蠡       鄭獬
 千重越甲夜成圍 宴罷君王醉不知
 若論破吳功第一 黄金只合鑄西施

 范蠡は春秋時代、越王勾践に仕え、呉の夫差を打ち破り会稽の恥をそそいだという。そのときの伝説の一つがウィキペディアに載っている。

 「范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。」

 「嘲范蠡」はこれを揶揄するものだ。越王は范蠡の黄金の像を作ったが、本当に作るべきだったのは西施の像だろう、というもの。
 これに対し小紫はコトバンクのデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によれば、

 「?-? 江戸時代前期の遊女。
江戸吉原(よしわら)三浦屋の抱え。延宝7年(1679)愛人の平井権八(ごんぱち)が辻斬りなどの罪で死罪となったあとをおい,墓前で自害した。この話は幡随院(ばんずいいん)長兵衛と関連づけられ,「驪山(めぐろ)比翼塚」などの浄瑠璃(じょうるり),歌舞伎の素材となった。」

とある。三年前のまだ記憶に新しい事件を題材にした時事ネタといえよう。
 平井権八は遊女小紫に入れ込んで、貢ぐお金欲しさに辻斬りをやった。そのことで、黄金の力で小紫を射止めると洒落て、結局平井権八は死罪になり、小紫が自害したことで戦いは終わり、そのことを嘲る、とする。

 二十二句目。

   嘲リニ黄-金ハ鋳小紫
 黒鯛くろしおとく女(め)が乳  芭蕉

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「おとく」はお多福のことだという。
 ネタとしては、いわゆる業界で言う「びーちくろいく」の類で、シモネタといっていいだろう。黒鯛は「ちぬ」ともいう。
 黄金の小紫に黒鯛のお多福を対比させ、対句的に作る相対付けの句。

2017年12月26日火曜日

 今年も残りわずか。この時期になると思い出すのがジョージ・ハリスンのDing Dong, Ding Dongという曲。多分これを聞いたときは中学生だったか。簡単な英語なのですぐに覚えられた。
 時代遅れなものや捏造されたものは早いこと追い出して、新しいものと真実を迎え入れよう。ネトウヨもパヨクもさようならーーー。容赦なく前へ進もう。一日一日が本の新しいページをめくるようなわくわくするものでありますように。
 さて、「詩あきんど」の巻の続き。

 十四句目。

   ほととぎす怨の霊と啼かへり
 うき世に泥(なづ)む寒食の痩   其角

 「寒食」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によれば、

 「中国において,火の使用を禁じたため,あらかじめ用意した冷たい物を食べる風習。〈かんじき〉とも読む。冬至後105日目を寒食節と呼び,前後2日もしくは3日間,寒食した。この寒食禁火の風習は古来,介子推(かいしすい)の伝説(晋の文公の功臣。その焼死をいたんで,一日,火の使用を禁じた)と結びつけられるが,起源は,(1)古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く),(2)火災防止(暴風雨の多い季節がら)などが考えられている。」

だそうだ。冬至から百五日というと、新暦だと四月の初め頃で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも旧暦三月のところにある。春の季語。
 時期的にはまだホトトギスには早いが、多分本当は寒食で痩せたのではなく、元々貧しくて痩せているだけで、それが寒食の季節になると「寒食で痩せたんだ」と言い訳できて浮世に泥むという意味だろう。

 十五句目。

   うき世に泥む寒食の痩
 沓は花貧重し笠はさん俵     芭蕉

 春に転じたところで花を出すのは必然。前句の寒食の痩せを寒食のせいでなく貧しさのせいとして、その姿を付ける。
 「沓は花」は靴を履いているわけではなく、裸足に散った桜の花びらがくっついているさまが沓みたいに見えるということ。笠は米俵の両端の蓋の部分で「桟俵(さんだわら)」という。ウィキペディアの「俵」のところには、

 「俵は円柱状の側面に当たる菰(こも)と、桟俵(さんだわら)をそれぞれ藁で編み、最後にこれらをつなぎ合わせて作る。
 桟俵とは米俵の底と蓋になる円い部分。別名さんだらぼうし、さんだらぼっち。炭俵では無い場合が多い。」

とある。

 十六句目。

   沓は花貧重し笠はさん俵
 芭蕉あるじの蝶丁(たたく)見よ 其角

 これも楽屋落ち。「芭蕉あるじ」は言わずと知れた芭蕉庵の主だが、この歌仙興行の直後にその芭蕉庵は焼失する。蝶を叩いたりしたからバチがあたったか。
 「蝶」と「丁」は同音で、蝶番(ちょうつがい)を丁番と書いたりもする。同語反復で「蝶丁」を出したところで、あえて遊びで「丁」を「たたく」と訓じてみたのだろう。「丁々発止」という言葉から「たたく」という訓を導き出したか。

 十七句目。

   芭蕉あるじの蝶丁見よ
 腐レたる俳諧犬もくらはずや   芭蕉

 前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成したか。そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。相手は貞門か大阪談林か。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。

 十八句目。

   腐レたる俳諧犬もくらはずや
 鰥々(ほちほち)として寝ぬ夜ねぬ月 其角

 「鰥(かん)」は男やもめのことだが、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、『書言字考節用集』に「鰥々(ほちほち)、不寝之義」とあるらしい。「ほつほつ」だと忙しいという意味と今日の「ぼちぼち」という意味がある。
 犬も食わないような腐れた俳諧でも、やってる人たちはそれなりに楽しんでいて、ほつほつと夜を徹して俳諧に興じる。それを思うと、「くらはずや」の「や」はこの場合反語で、犬も食わないような腐った俳諧だろうか、そんなことはない、と読んだ方がいいだろう。

2017年12月25日月曜日

 今年のクリスマスは連休で、二十三日には二子玉川に買い物に出たが、たまたまGOING UNDER GROUNDの無料のライブがあった。開始前には公開リハもあった。得した気分だ。
 二十四日は家から王禅寺を経て柿生までの散歩コースを歩いた。柿生の菓子工房 la plaquemineでケーキを買って帰った。
 そういうわけでなかなか「詩あきんど」の巻が進まないが、とりあえず一句進む。

 十三句目。

   鼾名にたつと云題を責けり
 ほととぎす怨の霊と啼かへり   芭蕉

 ウィキペディアにホトトギスの伝説が載っている。それによると、

 「長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

だそうだ。ホトトギスが杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥と表記される理由はこれでよくわかる。
 ところで、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には別の伝説が記されている。

 「ほととぎすに『郭公』の字を当てるのは、戦いに敗れて死んだ郭の国の王の怨霊がほととぎすになったという、中国伝説に基づく。よって一名怨鳥ともいう。」

 ただ、ホトトギスを郭公と表記するのは、カッコウと混同されたからだとも言う。
 「啼かへり」というのは繰り返し啼くことで、古来和歌ではホトトギスは一声を聞くために夜を徹するものとされていて、その一声が貴重だということから「鳴かぬなら‥‥ほととぎす」なんて言われるようにもなっている。
 渡り鳥なので渡ってきた最初の一声を聞くのが重要だったのだろう。渡ってきてしまうと後は始終鳴いていて別にありがたいものではない。
 ホトトギスは怨鳥とも言うから我こそは「怨みの霊」だとしきりに鳴いては、「鼾名にたつ」という題で歌を詠むように責め立てる。何だかよくわからない付けだが、こういうシュールさも天和調の一つの特徴なのだろう。
 『俳諧次韻』の「鷺の足」の巻五十五句目に、

   しばらく風の松におかしき
 夢に来て鼾を語る郭公       其角

の句があり、これはホトトギスの声が待てずに鼾をかいて寝てしまうと、夢の中に郭公が出てきて、「あれまあ、こんなに鼾かいて寝ちゃって」などと言ったのだろう。外で鳴いている郭公の声が夢の中でアレンジされてそんな言葉になったのか。この句を思い出しての楽屋落ちだったのかもしれない。其角に「鼾の句を詠め」とホトトギスが繰り返し啼いたのかもしれない。

2017年12月21日木曜日

 昨日今日と夕暮れの空に三日月が見えた。正確には昨日のが十一月三日の三日月、今日のは四日の月。
 暮れも押し迫ってクリスマスも近いが、世間では今年はクリスマス感がないとの声もあるようだ。ハローウィンで盛り上がりすぎたせいか、ハローウィン疲れがあるのかもしれない。
 それはともかく「詩あきんど」の巻の続き。
 八句目。

   恥しらぬ僧を笑ふか草薄
 しぐれ山崎傘(からかさ)を舞  其角

 京都の山崎にはかつて遊女がいたという。前句の破戒僧を遊郭通いの僧として、当時医者や僧侶の間で用いられていた唐傘を登場させる。
 唐傘の舞というと助六が思い浮かぶが、これはもう少し後の十七世紀に入ってからになる。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注や『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)は若衆歌舞伎の『業平躍歌』を引用している。

 「面白の山崎通ひや、行くも山崎戻るも山崎、心のとまるも山崎、山崎の上臈と寝た夜は、数珠袈裟袋は上臈に取らるる、衣は亭主に取らるる、傘は茶屋に忘るる、扇子は路地に落いた」

 ここには唐傘を舞うという発想はない。若衆歌舞伎にそのような舞いがあったのかどうかはよくわからない。ある意味で其角は四十年後の助六を先取りしていたのかもしれない。というか助六の誕生に其角の句の影響があった可能性もある。
 若衆歌舞伎というのは出雲の阿国の歌舞伎踊りに起源があり、風紀を乱すという理由で寛永六年(一六二九年)に女歌舞伎が禁止されたため若衆になったという。やがて若衆だけでなく大人の男が演じる野郎歌舞伎が生じ、今に通じる江戸の歌舞伎が確立されていった。

 九句目。

   しぐれ山崎傘を舞
 笹竹のどてらを藍に染なして   芭蕉

 ウィキペディアには、「丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒用の日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。」とある。そして、「丹前の原型は吉原の有名な遊女だった勝山の衣裳にあるという。」とある。さらに、「勝山ゆかりの丹前風呂では湯女たちが勝山にあやかってよく似た衣服を身につけていたが、そこに通い詰めた旗本奴たちがそれによく似たものを着て風流を競ったので、『丹前』が巡り廻って衣服の一種の名となったという。」とある。
 遊女勝山は一六五〇年代に人気を博した吉原の遊女で、この歌仙の巻かれる三十年くらい前のことになる。
 さらにウィキペディアには「侠客を歌舞伎の舞台でよく勤めた役者が多門庄左衛門であり、彼は当時流行していたこの丹前姿で六方を踏んで悠々と花道を出入りしたことから、絶大な人気を得た。」とある。多門庄左衛門(初代)が寛文以降の人であることから、この句は多門庄左衛門のイメージで詠まれたと言っても良いのではないかと思う。

 十句目。

   笹竹のどてらを藍に染なして
 狩場の雲に若殿を恋(こふ)   其角

 これはホモネタ。どてらを着た奴(やっこ)さんが狩場に行く若殿に見果てぬ恋をする。

 十一句目。

   狩場の雲に若殿を恋
 一の姫里の庄家に養はれ     芭蕉

 雲に思いをはせるかなわぬ恋を、ここではノーマルに姫君の句とする。本来は立派な姫君でありながら故あって庄屋に養われているというのが、かなわぬ恋の理由とされる。

 十二句目。

   一の姫里の庄家に養はれ
 鼾名にたつと云題を責けり    其角

 芭蕉が『万菊丸鼾の図』を描くのはこれより大分後だが、鼾というのはそれ以前にも題になることはあったのだろう。庄屋の家での何の会のお題だかわからないが、姫君にはふさわしくない題をわざと面白がって押し付けたりしたのだろう。『源氏物語』「手習」の大尼君のもとに身を隠した浮舟の本説が隠されているのかもしれない。

2017年12月19日火曜日

 「詩あきんど」の巻の続き。
 四句目。

   干鈍き夷に関をゆるすらん
 三線○人の鬼を泣しむ       其角

 三線はここでは「さんせん」と読む。沖縄では「さんしん」という。
 ウィキペディアによれば、三線は福建省で誕生した三弦が十五世紀の琉球で改良され、十六世紀に日本に伝わったという。「しゃみせん」は「さんせん」の訛ったもの。
 芭蕉の時代には主に関西で義太夫や上方歌舞伎などで用いられていた。江戸時代中期になると爆発的に流行し、日本を代表する楽器になる。
 前句の「干鈍き夷」を琉球の人に取り成したか。三線の音色に思わず鬼のような関守も涙し、関所の通行を許す。この場合「干鈍き」は平和的なという意味に取るべきであろう。
 古今集の仮名序にも「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」とある。詩歌連俳や音楽には非暴力にして世界を動かす力がある。それは風流の理想でもある。

 五句目。

   三線○人の鬼を泣しむ
 月は袖こほろぎ睡る膝のうへに   其角

 「こほろぎ」は九月二十八日の鈴呂屋俳話で、「つまり、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。ならばカマドウマ→キリギリスになるのかというとそうではなく、カマドウマ=コオロギになる。」と述べたとおり、カマドウマのこと。
 前句の「泣しむ」を受けて、月は袖を濡らし、カマドウマは膝の上に眠る、つまりカマドウマがじっとしてられるように体は微動だにしない状態ですすり泣く情景を付ける。

 六句目。

   月は袖こほろぎ睡る膝のうへに
 鴫(しぎ)の羽しばる夜深き也   芭蕉

 「鴫の羽しばる」とは一体何のことかと謎かけるような句だ。古今集、恋五の

 暁のしぎの羽がきももはがき
     君が来ぬ夜は我ぞ数かく
                よみ人知らず

を踏まえたもので、鴫の羽がきは眠りを妨げ、儚い夢を破るものとされてきた。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、『古今集正義』に「嘴を泥土に突きこみて物する音、よもすがらぎしぎしと聞ふる物なりと云り。さらばもし、これを羽かく音とききて、古へ羽がきといへりしにはあらずや」とあり、その音がうるさいので鴫の羽を縛るのだという。
 まあ、実際に羽を縛るなんてことはありそうにもない。こういうむしろシュールとでもいえる展開は、『俳諧次韻』で確立された、談林調から脱した最初の蕉風の姿といえよう。

 初裏、七句目。

   鴫の羽しばる夜深き也
 恥しらぬ僧を笑ふか草薄     芭蕉

 前句の「鴫の羽しばる」を食用に捕らえた鴫を動けないように縛っておくこととする。殺生の罪を恥とも思わない破戒僧を、薄が笑ってこっちへ来いと招いている。招かれる先には当然地獄があるに違いない。

2017年12月17日日曜日

 今年一年、たくさん俳諧を読んだので、経験値をつんで少しはレベルアップしたかな。あまり実感はないが。一応振り返っておくと、

 一月八日から一月十五日まで「雪の松」の巻。
 一月十八日から一月二十六日まで「空豆の花」の巻(再読)。
 一月三十日から二月十六日まで「梅若菜」の巻。
 四月十二日から五月十六日まで「木のもとに」の巻(三種)。
 五月十七日から五月二十五日まで「牡丹散て」の巻。
 六月十六日から六月二十六日まで「紫陽花や」の巻。
 七月八日から七月十一日まで「此さきは」の巻。
 七月十五日から八月三日まで「柳小折」の巻。
 八月三十一日から九月七日まで「立出て」の巻。
 九月十二日から九月二十三日まで「蓮の実に」の巻。
 十月二十三日から十月三十日まで「猿蓑に」の巻。
 十一月九日から十一月十四日まで「この道や」の巻。
 十二月四日から十二月十四日まで「冬木だち」の巻。

 この外にも途中までのものとか、表六句とかがあった。
 さて、新暦では今年も残す所あと二週間。ラストを飾るのはやはりこれがいいか。「詩あきんど」の巻。
 『虚栗』に収められたこの一巻は、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)にも註釈と解説が載っているし、『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)にも解説がある。
 この歌仙は芭蕉と其角の両吟で、天和二年の師走、芭蕉が八百屋お七の大火で焼け出される直前と思われる。
 発句。

   酒債尋常住処有
   人生七十古来稀
 詩あきんど年を貪ル酒債哉    其角

 前書きの漢詩は杜甫の「曲江詩」

   曲江      杜甫
 朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
  酒債尋常行處有 人生七十古來稀
 穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違

 朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
 毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
 行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
 どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
 花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
 水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
 伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
 しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合おう

からの引用だ。「古稀」という言葉の語源と言われている。
 後半は比喩で陰謀術策をめぐらしている同僚や、周りに無関心な上司のことだろう。そして、どうせみんな最後は年老いて死んでくだけじゃないか、と語りかける。
 どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、そう言いながら「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
 其角の発句は俳諧師という職業をやや自虐的にそう語っている。「年を貪ル」は今年一年を貪ってきたという意味で、歳暮の句となる。
 それに対し、芭蕉はこう答える。

 脇。

   詩あきんど年を貪ル酒債哉
 冬-湖日暮て駕馬鯉(うまにこひのする) 芭蕉

 「冬-湖」は前書きを受けて曲江のことであろう。一年を酒飲んで過ごした前句の詩あきんどは、曲江の湖の畔で釣りをして過ごし、鯉を馬に乗せて帰ると和す。
 鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
 まあ其角さんの場合、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのかもしれない。

 第三。

   冬-湖日暮て駕馬鯉
 干(ほこ)鈍き夷(えびす)に関をゆるすらん 芭蕉

 関守は日がな湖で釣りに明け暮れているから、いかにも弱そうな異民族でもやすやすと通り抜けてしまうにちがいない。
 まあ、本格的に攻めてきたならともかく、多少の異民族の国境を越えて出稼ぎに来るくらい良いではないか、ということか。中国は昔から国境に「万里の長城」という壁を築いてきたが。

2017年12月15日金曜日

 蕪村の俳諧を読み終えたところで、タイミングよく今朝の新聞に蕪村の新たな句八句発見のニュースが載っていた。
 ネットで捜したが、結局全部同じソースなのか、八句全部はわからずどれも同じ二句だけが記されていた。
 なんでも、付き合ってる芸者二人の名前を合わせて作られた「雛糸」という名義で記されていて、わざと下手に作ったらしい。「糸」の方は聞いたことがある。
 ロリだった蕪村は若い芸者に入れ込む癖があって、安永九年、おん年六十五歳の時、小糸という芸者にのめりこんでいたのを弟子に咎められて別れたときに詠んだ句が、

 妹が垣根三味線草の花咲きぬ   蕪村

だったという。芸者の弾く三味線だけに「糸」が切れたという落ちになる。一見源氏物語の花散里や蓬生のような高雅な雰囲気をかもしながらも、実は芸者と切れた時の句だという、高雅な言葉で俗情を詠むのが蕪村の持ち味でもあった。卑俗な言葉で高雅な情を詠んだ芭蕉と真逆といえよう。
 その蕪村の今回発見された句というのは、まず一つは、

 ゆふがほの葉に埋もれて家二軒  雛糸

だそうだ。
 夕顔は蔓性だから、壁一面が夕顔の葉で覆われていたのだろう。夕顔は源氏物語にも登場する下町のうらぶれた民家に咲くもので、その俤と見ればそれほど悪い句ではない。花を詠まなくても葉の茂りは十分夏を感じさせる。ただ引っかかるのは「家二軒」というフレーズだろう。
 「家二軒」といえば、

 五月雨や大河を前に家二軒    蕪村

の句はたいてい教科書に載っているし、受験勉強の時に蕪村の代表作として覚えさせられたのではないかと思う。
 この句は安永六年の句らしく、今回発見された句は発見者の玉城さんによれば最晩年の句らしいから、このフレーズは使いまわしと見ていいだろう。
 芭蕉は死ぬ間際に白菊の「塵もなし」が清滝の「浪にちりなき」と被っていることを気にして、わざわざ作り直したことを思えば、「家二軒」の被りはそれだけで駄目な句の見本とするにふさわしかったのだろう。
 それに、家一軒なら夕顔の隠れ住んでた家かなとなるが、家二軒だと一体何なんだということになる。要するに意味がない。あえて自分の代表作をミスマッチネタに使ったと見ていいだろう。
 もう一句は、

 朝風や毛虫流るるよし野川    雛糸

だ。
 「毛虫」は一応夏の季語で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にも載っている。
 吉野川は四国にもあるが、花で有名な吉野山の方を流れている紀の川も吉野川と呼ばれている。どちらも中央構造線を流れている。この場合は紀の川の方だろう。

 見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の
     絶ゆることなくまた還り見む
                柿本人麻呂

の歌でも知られている。
 そういう花の名所で名高い吉野川を流れる散った花びらを詠むのではなく、毛虫を詠んだところに俳諧があると言えなくもないが、ただよほど注意して見ないと毛虫が流れているかどうかなんて誰も気づかないだろうし、要するにこの句はあるあるネタになってない。
 赤塚不二男の漫画なら、桜の花の下に「ケムンパスでやーんす」なんて出てきそうだが、この句の場合「何で毛虫が」で終わってしまう。これもまたナンセンスギャグにしかならない。
 この二句、わざと下手に詠むにしてもあくまでも計算された失敗で、ちゃんと笑えるようにできているところはさすが蕪村だ。あとの六句も早く見てみたいものだ。

2017年12月14日木曜日

 さあ、「冬木だち」の巻、二裏に入り、一気に挙句までいってみよう。

 三十一句目。

   月の夜ごろの遠きいなづま
 仰ぎ見て人なき車冷まじき    蕪村

 また古代ネタに戻る。国学の影響で古代が過度に美化されていたことも一因かもしれない。
 車というと伝統的には源氏物語の車争いなどがネタにされがちだが、そういうどろどろしたものとは別に、人の乗っていない車を景物として扱う。まあ、近代的に言えば「純粋芸術」ということだが。

 三十二句目。

   仰ぎ見て人なき車冷まじき
 相図の礫今やうつらし      几董

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には「恋人をひそかに盗み出そうとする緊迫した情景」としている。そうだとすると穏やかでないし、あまり風流とは言えないが、江戸後期にはそういうのを美化する風潮があったのだろう。
 儒教文化が浸透して女性の処女性が重視されるようになると、それだけ男としては性交の機会が減るわけだから、処女崇拝とレイプは表裏一体をなしているのかもしれない。
 『源氏物語』の解釈も本居宣長によって、それまでの『湖月抄』の解釈とは随分違うものとなった。近代の解釈は基本的に本居宣長の解釈を引き継いでいるため、レイプされた女がその時の快感が忘れられずにレイプした男に恋をするなんて話を安易に信じる。
 女とはそういうものだという観念が、戦時中まで引き継がれてきた。南京事件をはじめとして、戦地でのモラルが崩壊し、その対策として従軍慰安婦が動員された。慰安婦は表向きは娼婦だが、その多くは債務奴隷として売られてきた女性だったというし、一部には強制連行されたケースもあった。そのことは反省すべきであろう。
 『源氏物語』ではっきり処女だったと確認できるのは若紫だけで、あとはよくわからない。昔は処女性にそんなに関心はなかった。

 三十三句目。

   相図の礫今やうつらし
 添ぶしにあすらが眠うかがひつ  蕪村

 「あすら」は阿修羅のことで、まあここでは悪役ということなのだろう。残虐な阿修羅の元から女を助け出すヒーロー物として展開したと見ればいいのか。

 三十四句目。

   添ぶしにあすらが眠うかがひつ
 甕(もたひ)の花のひらひらとちる 几董

 阿修羅が眠っている脇では甕に生けた花がひらひらと散っている。春の長閑な情景に転じる。

 ひさかたのひかりのどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
                 紀友則

の歌にもあるように、花は散るべき時が来れば風のあるなしに関わらず散り始める。

 三十五句目。

   甕の花のひらひらとちる
 根継する屋かげの壁の下萌に    几董

 「根継ぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、

 
 1 (根接ぎ)接ぎ木の一。根を台木として接ぎ木すること。また、弱っている木に強い木の根を添え接ぎし、樹勢を取り戻させること。
 2 (根継ぎ)木造建築で、柱や土台などの腐った部分を取り除き、新しい材料で継ぎ足すこと。
 3 跡を継ぐこと。また、その人。跡継ぎ。

とある。とはいえ「根継ぎ」で検索すると、表示されるのはほとんどが2の意味のものだ。1や3の意味は今日では廃れている。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注も2の意味に取っている。ただ、工事の振動で花が散ったんではあまり面白くない。『炭俵』の「梅が香に」の巻の第三に、

   処々に雉子の啼たつ
 家普請を春のてすきにとり付て   野坡

の句があるように、春は家の修理などを始める季節だったと考える方がいいだろう。

 挙句。

   根継する屋かげの壁の下萌に
 巣つくる蜂の子をいのり呼     蕪村

 家を修理するのも子孫繁栄のためで、蜂が巣を作るのも子孫繁栄を祈ってのこと。最後を人情で絞めるあたりは大阪談林の匂いがする。

2017年12月12日火曜日

 今年の漢字は「北」だというがあの国以外は何も思い浮かばない。まだ「雨」の方が良かったのでは。
 まあどうでもいいことだし、とりあえず「冬木だち」の巻の続き。

 二十七句目。

   三ツに畳んで投ふるさむしろ
 西国の手形うけ取小日のくれ    几董

 筵を片付けるのを日暮れの閉店とする。遠方からの手形の処理も、店じまいした後に行われるのであろう。以前何かのテレビ番組で銀行が営業を終えた後、女子行員の「だいてください」の声が飛び交う様子があったが、「代手(代金取立て手形)」の処理の場面。

 二十八句目

   西国の手形うけ取小日のくれ
 貧しき葬の足ばやに行       蕪村

 前句の「西国の手形」を捨てて「小日のくれ」で付ける。「西国の手形うけ取」は単なる「小日のくれ」の形容というか枕詞のように処理される。
 貧しい葬式は夜になってまで飲み食いしたりしないから日が暮れる頃になると足早に終わらせようとする。

 二十九句目。

   貧しき葬の足ばやに行
 片側は野川流るる秋の風      几董

 遠まわしな言い方だが、要するに河原者の住むあたり。

 三十句目。

   片側は野川流るる秋の風
 月の夜ごろの遠きいなづま     蕪村

 「いなづま」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはこうある。

 「[和漢三才図会]秋の夜晴て電あるは常也。俗伝ていふ、此時稲実る故に、稲妻、稲交(いなつるみ)の名あり。」

 「常也」と言うが、実際には見たことがない。夕立でイナズマが走るのはわかるが、晴れた夜のイナズマは、昔は多かったのだろうか。
 ネットで調べてゆくと、「幕電」という言葉に行き当たった。コトバンクの「世界大百科事典」の引用には、

 「背の低い冬の雷雲では,上部の正電荷と地表との間で放電を起こす落雷もしばしば発生する。雲放電の場合は厚い雲にさえぎられて放電路を直視できない場合が多く,夜間では雲全体が明るく輝くのが見られ,これを幕電という。落雷の場合は雲底下に現れる放電路を直視することができる。」

とある。
 句の方は、前句を単に背景として月夜の稲妻を付ける。

2017年12月11日月曜日

 昨日は丸の内のイルミネーションを見に行った。シャンパンゴールドのLEDの並木道、フラワーアーティストのニコライ・バーグマンのツリー、KITTEの白いクリスマスツリーなどいろいろあった。
 冬の夕暮れは秋にも増して寂しいので、せめては人工のイルミネーションで一年の終わりを盛り上げてくれるのはありがたいことだ。LEDの発明も役に立っている。
 それでは「冬木だち」の巻の続き。

 二十三句目。

   歳暮の飛脚物とらせやる
 保昌が任もなかばや過ぬらむ   几董

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には藤原保昌のこととしている。ただ、俳諧だし、伝承に基づく本説付けでないなら、かならずしも藤原保昌のこととする必要はない。漠然と古代の受領くらいに理解すればいいのだろう。
 飛脚はウィキペディアによれば、

 「当初は専ら公用であった。律令制の時代には唐から導入された駅制が設けられていた。京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、使者が駅に備えられた駅馬を乗り継いだ。重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられた。「飛駅」には「駅鈴」が授けられた。律令制の崩壊に伴い駅制も廃れてしまったが、鎌倉時代には鎌倉飛脚・六波羅飛脚(ろくはらひきゃく)などが整備された。」

というのが飛脚の起源のようだ。
 最近になって言われるようになったことだが、古代の街道は幅12メートルの舗装道路で、ほぼ一直線に作られ、曲がるときもゆるくカーブするのではなく角度をつけて曲がる。おそらく祇園祭の山車や岸和田のだんじりのようなステアリングのない四輪者を走らせることを前提に設計されたのであろう。
 駅はだいたい四里ごとに設けられ、そこに馬が置かれていた。
 『更級日記』の行徳の太日川を渡る場面に、「つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、おくりに来つる人々、これよりみな帰りぬ。」とあるから、当時の貴族は舗装された駅路を牛車で旅することができたのであろう。
 飛脚というと江戸時代の飛脚を連想するが、古代にも駅路を馬で乗り継いで手紙を配達する使者がいて、鎌倉時代には「飛脚」という言葉も登場したようだ。
 「任もなかば」とあるが、ウィキペディアによれば国司の任期は「6年(のちに4年)」だそうだ。

 二十四句目。

   保昌が任もなかばや過ぬらむ
 いばら花白し山吹の後      蕪村

 どうやら「イバラ」という植物はないようで、とげのある低木を一般にそう呼ぶのだそうだ。ここではノイバラのことだろう。五月から六月(新暦)に白い花が咲く。確かに山吹より後だ。

 二十五句目。

   いばら花白し山吹の後
 むら雨の垣穂とび越スあまがへる 几董

 山吹に蛙は付き物だが、ノイバラの季節ならアマガエルということになる。

 二十六句目。

   むら雨の垣穂とび越スあまがへる
 三ツに畳んで投(は)ふるさむしろ 蕪村

 急に雨が降りだしたから、昼寝用に敷いていた筵を三つに畳んで放り投げる。

2017年12月9日土曜日

 昨夜は雨が降ったが、富士山では雪だったようだ。今朝見たら真っ白な富士山に戻っていた。
 最近仕事が変わったせいで待機時間がなくなり、なかなかキンドルが読めなかった。久しぶりに電源を入れようとすると、これがうんともすんとも言わない。家に帰って充電したが、やはりスイッチが入らない。ネットで調べて、長押しすると再起動するというからやってみたが、電池の中にびっくりマークが入った画面が表示されただけだった。
 またいろいろ調べ、USBケーブルを黒い純正のものに替え、しばらく放置したら、確かに直った。やはりネットの情報は頼りになる。
 それでは、「冬木だち」の巻の続き。二表に入る。

 十九句目。

   頭痛をしのぶ遅き日の影
 鄙人の妻(め)にとられ行旅の春 几董

 王侯貴族や戦国大名などは政略的に他所の国に嫁に出されたりする。『漢書』匈奴伝下の王明君が有名で、この句もその俤だという。確かにそりゃ頭痛の痛い話だ。痛みで眉を顰めているとみんな真似しそうだが、それは王明君ではなく西施で、痛んでたのは頭ではなく胸の方だ。
 几董さんのひょうきんな一面が出て、調子が出てきたようだ。

 二十句目。

   鄙人の妻にとられ行旅の春
 水に残りし酒屋一けん      蕪村

 ネットにあった『明治以前日本水害史年表』(高木勇夫)によると、安永四年には「鴨川水溢(四月)、宇治川洪水(五月)、鴨川洪水(六月)」とある。また『泰平年表』によると、安永二年にも「淀・伏見洪水」とある。酒どころの伏見もしばしば洪水に見舞われたようだ。
 この句はどこの酒屋かわからないが、水害で一時的に資金繰りが苦しくなると、田舎の豪商に娘を嫁にやる代わりに資金援助をなんてこともいかにもありそうなことだ。蕪村も調子が出てきたか。

 二十一句目。

   水に残りし酒屋一けん
 荒神の棚に夜明の鶏啼て     几董

 洪水をのがれた酒屋を三宝荒神の御利益とする。三宝荒神は牛頭天王の眷属とされていて、家庭では竃神として台所に祀られている。

 二十二句目。

   荒神の棚に夜明の鶏啼て
 歳暮の飛脚物とらせやる     蕪村

 飛脚は手紙や贈り物だけでなく現金も運んだ。歳暮の飛脚というのは、当時は年末決算だったため、その支払いのお金を運んだりもしていたのだろう。
 年も暮れ、正月の初日が昇る前にようやく支払いのお金が届いたか。こんな遅くまで走り回っていた飛脚に褒美を取らせる。

2017年12月8日金曜日

 今年はやはり暖かいのか、富士山の雪が大分解けていて雪は中腹くらいまであるものの、黒い地肌が覗いて段だら模様になっている。
 さすがに紅葉は色あせ始めて冬木立になりはじめている。
 そういうわけで「冬木だち」の巻の続き。

 十五句目。

   出船つれなや追風吹秋
 月落て気比の山もと露暗き    蕪村

 気比は敦賀の気比松原(けひのまつばら)のある所で、気比神宮もある。気比の浜は白砂青松で知られている。芭蕉も『奥の細道』の旅で、気比神宮に参拝している。

 「けいの明神に夜参(やさん)す。仲哀(ちゅうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷(しけ)るがごとし。」(奥の細道)

 そしてここで、

 月清し遊行のもてる砂の上    芭蕉

の句を詠む。
 月があれば夜露が月にきらきらと輝き、気比の浜の白砂とあいまって幻想的な風景になるが、残念ながらまだ満月に遠い月はすぐに沈んでしまい露も闇に閉ざされる。「船出」と「月の入り」のイメージを重ねている。「出船追風」の無情に「つきの沈んだ闇」を付けるのは、響き付けと言ってもいいかもしれない。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には、「順徳院・日野資朝をはじめ佐渡への流人は多くここから送られた」とある。「出船」と「気比」が付け合いだとすれば、古典的な「物付け」ということになる。

 十六句目。

   月落て気比の山もと露暗き
 鹿の来て臥す我草の戸に     几董

 「山もと」に草庵は相変わらずベタな展開だ。鹿といえば、

 わが庵は都のたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふなり
                喜撰法師

か。

 十七句目。

   鹿の来て臥す我草の戸に
 文机(ふづくゑ)の花打払ふ維摩経 蕪村

 侘び人を僧ということにして釈教に展開するが、花の散る草庵は吉野の西行法師の俤か。

 十八句目。

   文机の花打払ふ維摩経
 頭痛をしのぶ遅き日の影     几董

 まあ、維摩経なんて読むと頭は痛くなるわな。なかなかひょうきんな展開で、こういう句があるとほっとする。いやいや修行させられている坊主の姿が浮かんでくる。筆を鼻の下に挟んでたりして。

2017年12月7日木曜日

 左翼のことで最近「パヨク」と言う言葉がよく用いられるが、これを「パーな左翼」のことだと誤解している人がいる。確かにそういうニュアンスで使われたりもするが、語源的には正しくない。
 「パヨク」は正確には2015年に起きたぱよぱよちーん事件から来たもので、この事件についてはぐぐれば詳しい説明が出てくるから省くとして、つまりは久保田直己氏のメールに使われた謎の言葉「ぱよぱよちーん」がネット上での流行語となり、やがて「ぱよぱよちーん」と「左翼」とが結び付けられて「パヨク」という言葉ができた。それ以前には「ブサヨ」という言葉があったが、今では死語になっている。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の日記の方にも書いたが、国家主義も社会主義も既に時代遅れなもので、これからは急進的資本主義と多元主義が軸になって世界は動いてゆくのではないかと思う。
 AIとロボットの発達によって、次第に労働者そのものが不要なものとなり、やがては皆が資本家になり労働から解放される素晴らしい時代が来るのではないかと期待している。
 いずれにせよかつての社会主義者が思い描いたような牧歌的な世界とはまた違った、日々ベーシックインカムで遊んで暮らしながら、AIでは思いつかないような面白い発想を競い、それを即ロボットで生産販売し世界に広め一攫千金を目指す、そんな起業家の時代が来るのではないかと思う。

 それはともかくとして「冬木だち」の巻の続き。
 十一句目。

   弭たしむのとの浦人
 女狐の深き恨みを見返りて     蕪村

 「女狐」というと今や世界的に知られるようになったアイドルグループ、ベビーメタルに「メギツネ」(作詞:MK-METAL・NORiMETAL)という曲があるが、そこではキツネとメギツネは区別されている。
 古代より乙女の純粋な夢は様々な現実の中で汚され犯され、恨みの歴史を重ねてきた。メギツネはそんな幾千年の歴史を背負って、涙も見せずに今に息づいている。
 能登の浦人もそんなメギツネの恨みのこもった目にはっと我に帰り、これまでの殺生の罪深さと人生の悲しさに何かを感じ入ったことだろう。中世連歌の、

   罪もむくいもさもあらばあれ
 月残る狩場の雪の朝ぼらけ     救済

や、蕉門の、

 あけぼのや白魚白きこと一寸    芭蕉

に通じるものがあるが、この句は単なる殺生の罪だけでなく、恋の罪も含ませていることで秀逸と言えよう。
 句は、「弭たしむのとの浦人を女狐の深き恨みを見返りて」と後ろ付けになっていて、「て」止めの後ろ付けは古くから容認されている。これを倒置として見れば、「女狐の深き恨みを見返りて、弭たしむのとの浦人(を)」となる。

 十二句目。

   女狐の深き恨みを見返りて
 寝がほにかかる鬢のふくだみ    几董

 「ふくだみ」は「ふくらみ」から派生した言葉だが、毛のそばだったふくらみを意味する。
 前句の「見返りて」を過去をふり返るという意味に取り成したか。いつも恨めしそうな目で見ているメギツネ(に喩えられる女性)も眠れば無邪気な顔になり、鬢のふくだみが顔にかかっているのもアホ毛のようでそそるものがある。
 「鬢」は耳の上あたりの毛をいい、島田髷ではこの鬢の毛を丸く膨らます。男の月代では鬢付け油でカチッと固める。

 十三句目。

   寝がほにかかる鬢のふくだみ
 いとをしと代りてうたをよみぬらん 蕪村

 「いとをし」は「いとほし」であろう。元は「厭(いと)う」から来た言葉で、見るに堪えないという意味が転じて可哀相なという意味になった。ただ、今日の「やばい」がそうであるように、あるいはかつての「いみじ」が忌むべきから凄く良いという意味に転じたように、否定的な言葉の肯定的な言葉への転用はしばしば起こる。「すごい」もそうだった。
 「かはゆし」も気の毒から今のような可愛いに変化しているように、「いとほし」も今の愛しいの意味に変わっていった。
 この句ではまだ変わる前の「可哀相」の意味で、鬢の解けた娘の寝顔を見て、そこからさんざん泣き明かした跡を読み取り、それを不憫に思った誰かが替って歌を詠んで男の元に届けたのだろうか、と付ける。うまくいけばいいが、かえってこじらせて小さな親切大きなお世話なんてことにもなりかねない。
 恋の句は蕉門の場合、第三者的な醒めた視点から、時に茶化されたりしているが、恋の情をこういう風にストレートに詠む風は、蕉風ではなく大阪談林から受け継いだものだろう。

 十四句目。

   いとをしと代りてうたをよみぬらん
 出船つれなや追風(おひて)吹秋 几董

 「いとをし」を恋の情から別離の情へと転じる。「追風(おひて)吹秋」は「秋の追風吹く」の倒置でこの「秋」は放り込みではない。「秋の追風吹く出船はつれなや」という意味になる。連歌のような句だ。

2017年12月6日水曜日

 社会主義は現実には不可能な何処にもない国、不在郷(ユートピア)を求める。そういう意味では浮世離れした蕪村の俳諧は社会主義者には受けがいいのかもしれない。
 桃源郷の甘い夢は疲れた心にノスタルジックな癒しと安らぎを与えてくれるが、それはこの世のものではない。死後の世界の安らぎであろう。

 さて、「冬木だち」の巻は初裏に入る。
 七句目。

   春なつかしく畳帋とり出て
 二の尼の近き霞にかくれ住     蕪村

 「畳帋」は鼻紙としても用いられる。となると、「二の尼」が出てきたところで蕪村なら当然『冬の日』の「狂句こがらし」の巻の十八句目は知っていただろう。

   二の尼の近衛の花のさかりきく
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ    芭蕉

 元は宮廷に仕える女性だったのだろう。何らかの事情で出家して八重葎の茂る荒れ果てたお寺で生活することになり、折から春で宮廷では近衛の花が盛りだとの噂を耳にする。自分自身を蝶に喩え、桜ではなく葎に留まる我が身を嘆き涙ぐむのだが、そこは俳諧で涙ぐむことを「鼻かむ」と表現する。
 高雅な趣向も卑俗な言葉で落とすのが芭蕉の俳諧だ。内容が高雅なままだから卑俗な言葉が却って雅語と同格に高められる。これを「俗語を正す」という。逆に卑俗な内容だと、どんな高雅な言葉を用いても、むしろ雅語を貶めることになる。
 蕪村は「鼻かむ」という言葉は使わない。「畳帋とり出て」で「鼻をかむ」=涙ぐむの連想を引き出そうとするのだが、芭蕉の句を知ってないと見落とす所だ。

 八句目。

   二の尼の近き霞にかくれ住
 七ツ限りの門敲く音        几董

 「七ツ」は申の刻で、日没より少し前、日の傾く頃を言う。電気のなかった時代は大体昼の仕事を終える頃で、ここで終わらないとそれこそ「日が暮れちゃう」。
 お寺のほうも七つで閉門となる。だが、そんな時間に門を叩く音がする。誰だろうかよくわからない。

 九句目。

   七ツ限りの門敲く音
 雨のひまに救の粮やおくり来ぬ   蕪村

 係助詞の「や」が入るので、「救いの粮のおくり来ぬや」の倒置となる。
 雨が止んだのでその合い間に急いで城門から兵糧を運び込む。ただ、「や」と疑っているので兵糧が運び込まれたのだろうか、というニュアンスとなる。
 断定せずに軽く疑う表現というのは連句では珍重される。そのほうが次の句が付けやすいからだ。疑問は反語に、反語は疑問に取り成すことができる。

 十句目。

   雨のひまに救の粮やおくり来ぬ
 弭(つのゆみ)たしむのとの浦人  几董

 「弭」は「ゆはず」とも読む。ゆはずは弓の筈で、筈は弓の両端の弦をかけるところを言う。そこが角でできているものを「つのゆみ」という。
 武士というと今では刀のイメージがあるが、古代の源平合戦の頃の武士は馬に乗り弓矢で戦うのが普通だった。
 お約束で前句の「や」を反語に取り成し、来たのは兵糧ではなく弓矢で狩をする能登の浦人だった。

2017年12月5日火曜日

 そういうわけで、「冬木だち」の巻を読んでいこうと思う。今回も「牡丹散て」の巻のときと同様、小学館の『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』を参考にする。
 「冬木だち」の巻、第三。

   此句老杜が寒き腸
 五里に一舎かしこき使者を労て   蕪村

 上五を「五里に一舎」と字余りにするあたりは天和期の蕉門を意識したのか。ただ芭蕉の「櫓の声波を打つて」「芭蕉野分して」「夜着は重し」のような力強いフレーズでないのは残念だ。
 内容は明和天明期に流行した漢文趣味か、五里行く毎に宿を設けて使者を労い、漢詩を詠んでは「此句は老杜が寒き腸です」と言って捧げる。
 蕪村は「右二句共に尋常の句法にてはなく」と書いているらしいが、これは俳諧の常の体ではないという意味もあったのだろう。『去来抄』に「基(もとゐ)より出ると不出(いでざる)風」という議論があったが、確かに次韻や虚栗の体は基(もとゐ)となる和歌の体ではなく「不出(いでざる)風」には違いない。

 四句目。

   五里に一舎かしこき使者を労て
 茶にうとからぬあさら井の水    几董

 使者への労いはここでは漢詩ではなく茶の湯になる。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「あさら井」は「浅ら井」で浅い井戸。
 詩を茶に変えただけで展開に乏しい。

 五句目

   茶にうとからぬあさら井の水
 すみれ啄(はむ)雀の親に物くれん 几董

 前句の茶に疎からぬ人の位で付けたのだろう。
 「すみれ啄(はむ)」は実際にはスミレの葉についた虫を啄ばんでいるのだろう。虫を取って子雀に運ぶ雀の親に餌をやっているのだろうか。いかにも慈悲深い人という感じだが、蕉門が描き出した庶民のリアルな世界には程遠い。
 蕪村より更に後の時代になると、

 雀の子そこのけそこのけお馬が通る 一茶

の句があるが、この句は身分社会を風刺したような十分リアリティーがある。蕪村の俳諧は庶民の鬱屈したエネルギーをあえて嫌って、絵空事の理想の世界に遊ぶのを特徴としている。芭蕉が「帰俗」なのに対して蕪村が「離俗」だと言われるのはそういうところだ。

 六句目。

   すみれ啄雀の親に物くれん
 春なつかしく畳帋(たたう)とり出て 蕪村

 つまりこういう調子になる。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、畳帋はたとう紙のことで懐紙とも言うらしいが、別に花粉症で花を鴨意図して紙を取り出したのではない。前句の心やさしい人は和歌をたしなむ佳人だという単純な展開。

2017年12月4日月曜日

 今日の明け方、仕事に向う時に西の空に大きな丸い月が見えた。あれがスーパームーンというやつか。日本語にすると「超月」になるのかな。聞いたことのない言葉だが。「ちょーつきじゃん」と言うと何か違う感じがする。日本語って面白い。
 旧暦十月、神無月で冬だから寒月になる。凍月(いてづき)というほどには寒くない。凍月はいてつくからいてづきなのか。英語だとフリーズムーン、尾崎かな。
 冬の月というと真っ先に思い浮かぶのは蕉門ではなく、

 冬木だち月骨髄に入夜哉    几董

だったりして、和語で平たく言えば「骨身に凍みる」ということなのだが、それを漢文風に気負って「月骨髄に入」という所が、明和天明の頃の中国かぶれの粋だったのだろう。とはいえ冬木立を我骨身に見立てて、冬木立の枝の突き刺さる月を「月骨髄に」というあたりはさすがに上手い。
 惟然撰の『二葉集』の超軽みの句に、

 爰(ここ)へ出る筈かよ月の冬木立 淡齋

の句がある。葉が茂ってるときは月が見えるような場所ではなかったのだが、という意味か。
 安永五年刊の『続明烏』のこの句は、安永九年の『桃李(ももすもも)』で歌仙の形を取って収められている。
 以前、「牡丹散て」の巻を読んだ時にも触れたが、この歌仙は興行によるものではなく手紙のやり取りによって作られたもので、即興性のない、熟考による歌仙だった。だから、その場の乗りで笑いを誘うものではなく、むしろ近代的な意味でのコラボレート作品を作ったようなもので、現代連句に近い。
 蕪村の脇は、

   冬木だち月骨髄に入夜哉
 此句老杜が寒き腸(はらわた) 蕪村

だが、ちょっと待った、これって、『俳諧次韻』の、

    鷺の足雉脛長く継添へて
 這_句(このく)以荘-子(そうじをもって)可見矣(みつべし) 其角

に似てないか。「寒き腸」も、

 櫓の声波を打つて腸氷る夜や涙  芭蕉

ではないか。「断腸の思い」というのを腸を断つとせずに腸が氷るとしたところに新味があったのだが、それを「寒き腸」にしてもかえって「氷る」よりも弱い言い回しになるだけだ。
 蕪村さんは何だか後世に残る歌仙を作ろうと気負いすぎて、企画倒れになってしまったのではないか。其角の句のパクリだけに。

2017年12月1日金曜日

 今年は五月閏ということで芭蕉の最期の年元禄七年を見てきた。ほんの少しだけど、芭蕉の死を見取ったような気がする。
 支考の『前後日記』に、「飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと」とあるのを読んで、点滴のなかった時代はそうだったんだなと思った。今だったら食べなくても点滴で生きながらえることができる。昔は食べ物が喉を通らなくなった時点で、もう終わりだったんだ。
 芭蕉の死を考るあまりに自分の死を意識すると、なんか厭世的になってくる。生まれてから死ぬまで続く、のがれられない生存競争。この世界の片隅に何とか自分ひとり生きてゆける隙間を見つける、たったそれだけのことで人は疲れ果てて、それで戦う意欲を失ったときは死ぬしかないんだろうな。
 人と人とはお互い張り合って、その「張り」が人間存在の空間性だなんて和辻哲郎は言ってたな。お互い生きようとして、頑張って、その緊張関係が人間の世界を形作っている。個と個もそうだし、民族と民族もそうだし、国家と国家もそうだ。適度の張りがあって、世界はうまく動いてゆく。
 社会主義は一つの哲学が支配することで秩序ある世界を作ろうとするが、結局「一つの哲学」なんてものは存在せず、人間の数だけ哲学ができてしまう。それを一つにするのはただ強力な権力。独裁国家だった。独裁国家で生存競争が終わることはない。ただ独裁者の座をめぐって最も過酷な競争が生じるだけだった。飢餓と粛清、それが社会主義の結末だった。
 世界を一つにしようというインターナショナリズムも、結局は特定の民族が他の民族を支配し、強力な権力で争いを封じてただけだった。それがほころんだ時どうなるかは旧ユーゴスラビアがどうなったかを見ればいい。
 生存競争が避けられないなら、それとうまく付き合って、その軋轢を和らげて行くしかない。怒りを笑いに転じてゆくのが俳諧の知恵であり、日本人の知恵だった。独裁国家は例外なく笑いを奪う。笑うことも戦いだ。
 芭蕉のその後は、支考の『前後日記』には、

 「此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曽塚の旧草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉焼香の外に、余哀の者も三百人も侍るべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)

 其角の『芭蕉翁終焉記』には、

 「物打かけ、夜ひそかに長櫃に入て、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去来・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・寿貞が子治朗兵衛・予ともに十人、笘もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、‥‥」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)

とある。
 『源氏物語』の時代でも京都から舟であっという間に須磨まで移動したが、上方の海運は古代から受け継がれていたようだ。芭蕉の遺体も一晩で伏見に着き、翌日には大津の義仲寺に辿り着いた。そこで葬儀が行われ、三百人もの人が集まったという。やはり芭蕉は当時の大スターだった。笑いは世界を救う力がある。みんなそれを知っている。
 ということで〆にして、次回からは気分を変えたいものだ。

2017年11月29日水曜日

 今日は旧暦十月十二日。芭蕉の命日。暖かな小春日和で、きっとあの日もこんなだったのだろう。
 もっとも新暦に換算すると元禄七年の十月十二日は西暦一六九四年十一月二十八日だから、新暦で言えば昨日が命日ということになる。
 そのときの様子は支考の『前後日記』にこう記されている。

 「されば此叟のやみつき申されしより、飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたたかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)

 其角の『芭蕉翁終焉記』には、「十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく垂れるを期として」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)とあり、午の刻(十二時頃)に目覚めた芭蕉は申の刻(三時頃)に亡くなったことになる。
 たくさんの門人たちがいて、鳥餅をぬった竹で蠅を取ったりして、それを見て笑って最後の時を迎えることができた。ある意味で最高の最期だったかもしれない。
 どんな時でも最後まで笑うことを忘れない、それが俳諧の力なのだろう。

2017年11月28日火曜日

 生きとし生ける者はすべて自分の遺伝子のコピーを作り出し、生存と繁殖に成功した者を残してきた。そこから生きとし生ける者にとって避けられないものとなった。
 人間とて何ら例外ではない。たった一つの地球の有限な台地。地球の面積は増えることも減ることもない。その中でたくさんの生物が暮し、それぞれ子孫を増やそうとする。自分の居場所を確保する、ただそれだけのために他の者の居場所を奪わなくてはならない。
 人間もまた生れ落ちるや否や、一人分の新しい居場所を作らなくてはならない。そのため、泣き叫び手足を振り回す。周りには愛情をもって育ててくれる人もいれば、それに嫉妬する人、あからさまに邪魔者扱いする人などさまざまだ。
 そんな中で幼い頃から生きるということは戦いだ。母も戦い子もまた戦う。親は生きるために働く場所を確保し、競争相手から身を守る。子もまた子供同士のいじめと戦う。戦いは一生止むことなく続く。
 芭蕉もまた、子供の頃は近所の悪ガキ達と争い、物心つくころには奉公に出て、職場のライバルたちと戦ってきた。身分の差は歴然としていて、雲の上の優雅な人たち、すぐ上にいる嫌なことがあると当り散らしてくる下級武士もいただろうし、料理人として一人前になったころには、擦り寄ってくる出入りの商人もいただろう。
 いつの世も人生楽しいこともあれば苦しいこともある。そんな中で芭蕉を変えたのは藤堂藩の跡取り息子に俳諧の席に誘われたことだった。
 そこでは身分の差はない。大名の息子も出入りの商人もみな「俳諧」という一つの言葉のゲームを通じて一つになり、笑い合う。人生の様々な苦しみや悲しみも、そこでは笑いに変えてくれる。
 その席で、芭蕉は自分の才能に気づいた。自分の付けた句に皆が笑ってくれる。「上手い」と褒めてくれる。それは脳内の快楽物質(脳内麻薬)を分泌するのに十分で、やがてその快楽の奴隷となって行く。
 それは別に異常なことではない。人間が一つの趣味にのめりこんでゆくときは、いつでもそんなもんだ。そしてしばしばそれは人間の一生を決める。学芸会で拍手喝采を浴びたばっかりに、役者の道にのめりこみ、貧乏暮らしをしている人はたくさんいるし、山に登った時の快感が忘れられずに、やがて世界中の山に登り、最後は山で死ぬものも多い。
 芭蕉が俳諧の道に入ったのも、そういう意味では運命だったのだろう。
 料理人時代にはちょっとした不注意で袖を焦がしてしまったことがあったかもしれない。さあ、口うるさい同僚から何を言われるやら。そんな悩みも俳諧なら、

   才ばりの傍輩中に憎まれて
 焼焦したる小妻もみ消ス     芭蕉

と、笑いのネタにすぎない。
 やがて恩人の蝉吟も死に、藤堂藩の自分の居場所は少しづつ狭まっていった。だが、芭蕉には俳諧の才能があった。貞門の選集『続山の井』に二十三歳の若さで三十一句入集の快挙を果たしていた。そして終に二十九の時に故郷の伊賀を出て江戸で俳諧師を目指すことになる。
 江戸は当時でも世界有数の大都会で、様々な刺激に満ち溢れていた。ただ生活するとなると決して楽なものではない。
 最初は日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入の家の帳簿付けだった。芭蕉は実務面でも十分な才能を発揮した。やがて、小石川の神田上水の浚渫作業賀行われたときは、人足集めて作業を代行する、一種の人材派遣の仕事を思いついた。そして、その頃江戸で一世を風靡していたのは談林の俳諧だった。
 延宝三年に西山宗因が江戸に来た時は、芭蕉もその一座に加わった。俳諧のほうでも着実に実力が認められていたからだ。
 そして、延宝五年には俳諧師匠として立机した。終に念願かなって俳諧師となる事ができたのだった。そして、延宝九年に出版した『俳諧次韻』で、芭蕉は自らの新風を世間に知らしめることとなった。
 ただ、その頃芭蕉は既に体調を崩していた。頑張りすぎたのか、それとも元から体が弱かったか。延宝八年には三十六歳の若さで深川に隠居する身となった。弟子の杉風から提供された庵の庭には芭蕉の木を植え、自ら芭蕉庵桃青を名乗った。これが芭蕉が「芭蕉」になった瞬間だった。
 静かな隠棲生活も天和ニ年十二月二十八日の八百屋お七の大火によって打ち砕かれ、芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れた。芭蕉はその後しばらく甲斐の国で過ごし、そして再び江戸に芭蕉案を再興して、あの古池の句の着想を得、そして藩籍の関係で伊賀に帰らなくてはならない事情があったときに、それを野ざらし紀行の吟行の旅に変え、旅の俳諧師となり、俳諧を全国に広めて行くことになった。
 その後たくさん旅をした。花の吉野山にも行った。姨捨山の月も見た。鹿島神宮にも詣でた。そして元禄二年にはみちのくを旅し、松島、象潟も見てきた。
 旅先では数々の興行をこなし、たくさんの門人ができた。中には去っていった門人もいたが、芭蕉の周りには常に才能ある人たちが集まってきていた。
 ただ、元から持病のあった芭蕉の体は、知らぬ間に少しづつ蝕まれていた。それでも、最後まで旅を続け、俳諧興行を重ね、俳諧を世に広め、世界に笑いを届けるのが生きがいだった。俳諧は人生のどんな苦しいことも笑いに変えることができる。俳諧の席では身分もなく、みんな一緒に笑い合える空間ができる。願わくば世界がそのようであったなら。

 木の下に汁も膾も桜哉      芭蕉
 影清も花見の座には七兵衛    同

 そこではすべてのものが花となる。悪七兵衛景清だって、ここにくればただの七兵衛だ。俳諧はいつでも花の座だ。

 その命ももう長くない。
 昨夜は支考が早く寝ろとひどく怒られてた。去来もあんなに怒ることないのに。まあ、支考は若くて才能があるから嫉妬する気持ちはわからないでもない。思えば俺も若い頃は随分怒られたな。頑張れ支考。その悔しさを俳諧に叩きつけてやれ。そして一人前の師匠になれよ。
 俳諧師の世界も結局は生存競争だ。それはわかる。之道は人がいいから、酒堂のような大口叩く、はったりで生きているようなやつとはそりが合わないのはわかる。でも負けるなよ。
 うん。だいぶ眠ったようだ。もう昼も過ぎているかな。人生のパノラマを見る小春の日、待てよ、この時代には「パノラマ」なんて言葉はなかったはずだ。この句は没。枕元には支考がいる。其角はまだ寝ているのかな。‥‥。

2017年11月27日月曜日

 昨日は箱根湯本に行った。紅葉は前に東海道の旅で11月23日に行った時よりも浅かった。今年は紅葉が遅いような気がする。これも温暖化のせいか。石畳の猫に再会した。

 さて、今日は旧暦十月十日で、『花屋日記』の方は一日先に進んで十月十一日の所を読んでみる。
 まず、支考の『前後日記』の記述は短い。

 「此暮相に晋子幸に来りて、今夜の伽にくははりけるも、いとちぎり深き事なるべし。その夜も明るほどに、木節をさとして申されけるは、吾生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水荷雲棲の身の、この薬かの薬とて、あさましうあがきはつべきにもあらず。ただねがはくは老子が薬にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみをきて、此後は左右の人をしりぞけて、不淨を浴し香を燒て後、安臥してものいはず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)

 この日も昨日同様意識ははっきりしていたと思われる。そして一番のサプライズは其角の到着だった。其角の句、そしてその後夜更けにみんなで詠んだ句は割愛してあって、夜も明ける頃のことを記している。支考が何らかの理由で芭蕉を取り囲む他の門人たちの所から追い出された可能性はある。ただ、実際の所何があったかはわからない。偽書の『花屋日記』はそこの所を空想で書いているが、多分当たってないだろう。
 支考は他の門人たちと違い、若いということもあって、呑舟・舎羅と同様に介護役を引き受けていた可能性はある。明け方に起きていて薬の話をしているなら、この日は早番で夜遅くまで他の門人たちが句を詠んだりしていたとき、明日早いんだから寝ろとか言われて隣の部屋で休んでいた可能性はある。それが、

 しかられて次の間へ出る寒さ哉   支考

だったのかもしれない。
 これに対し、其角の『芭蕉翁終焉記』は到着してから夜のことは詳しく書かれているが、一気に次の日の午後まで飛んでいる。まあ、酒飲みの其角のことだから何となく想像がつく。
 其角の『芭蕉翁終焉記』には、芭蕉の所に来るまでのいきさつが書かれている。

 「予は、岩翁・亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕へ大坂に着て、何心なくおきなの行衛覚束なしとばかりに尋ねければ、かくやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかがひより、いはんかたなき懐(オモヒ)をのべ、力なき声の詞をかはしたり。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66)

 このときたまたま和泉の国の淡輪(たんのわ)に行き、弟子の岩翁・亀翁の親子とともに船で吹飯(ふけい)の浦を見て堺に戻ってきたところで、十一日の夕方に大阪に着いて芭蕉が病気だと聞いて急いで駆けつけたという。夕方に大阪に着いて暮相には芭蕉の所に来たのだから、そんなに距離はなかったのだろう。
 近頃は疎遠になっていたとはいえ、延宝の頃からの長い付き合いだった其角にしてみれば、これはまさに住吉の神の引き合わせた奇跡だったに違いない。
 折からの時雨に其角は一句、

 吹井より鶴を招かん時雨かな   其角

 出典は新古今集の、

 天つ風吹飯(ふけゐ)の浦にいる鶴(たづ)の
     などか雲居に帰らざるべき
                藤原清正

 ふけゐの浦から吉祥の鶴でも飛んできそうな時雨か。実際に飛んできたのは其角だったが。
 鶴を出すあたりは、賀会祈祷の句の、

 木枯らしの空見なをすや鶴の声  去来

と被っている。
 そのあと

 「露しるしなき薬をあたたむるに、伽のものども寝やらで、灰書に、

 うづくまる薬の下の寒さ哉      丈草
 病中のあまりすするや冬ごもり    去来
 引張てふとんぞ寒き笑ひ声      惟然
 しかられて次の間へ出る寒さ哉    支考
 おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ    正秀
 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
 皆子也みのむし寒く鳴尽す      乙州」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66~67)

の句をそれぞれ詠む。『去来抄』には、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草
 先師難波病床に人々に夜伽の句をすすめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずト也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,19)

とある。

 うづくまる薬(やかん)の下の寒さ哉 丈草

の句は確かにその場にあるものを素直に詠んでいながら、「寒さ」に病床の不安な心情が現れている。事実であると同時に比喩でもあるという表裏ある表現は俳諧では好まれる。
 この句は近代の、

 水枕ガバリと寒い海がある      三鬼

と比較することもできよう。三鬼の句の場合、「寒い海」が比喩なのにもかかわらず「ある」と断定している所が西洋の象徴詩やシュールレアリズムの影響をうかがわせる。江戸時代の俳諧なら、

 水枕ガバリと海の寒さ哉

とするところだろう。これだと「海の」だけが比喩になり「かな」と結ぶことで断定せずに、「水枕は海のようなガバリとした寒さだろうか」となる。

 病中のあまりすするや冬ごもり    去来

 これは『去来抄』で、「興を催し景をさぐる」と言っているように、「冬籠り」という無難な季題から興を起こし、「病中の余りをすする」という景を導き出している。「あまり」というところに謙虚さが感じられるが、型通りの挨拶句で落ち着いている。

 引張てふとんぞ寒き笑ひ声      惟然

 これは病気の情景から離れて、門人たちが雑魚寝をしている情景を詠んでいる。

 しかられて次の間へ出る寒さ哉    支考

 さっき書いたように、「支考、明日早番だからもう寝ろ」といわれてしぶしぶ隣の部屋に行く寒い気持ちを表現している?

 おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ    正秀

 夜伽の句がお題だから、素直にこのままずっと夜伽したいという気持ちを述べ、「冬籠り」の季題を放り込む。

 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節

 これも看病生活の一場面か。飯の当番を籤で決めていたか。
 延宝六年の芭蕉の句に、

 忘れ草菜飯に摘まん年の暮      桃青

の句があるから、菜飯は冬にも詠んだか。

 皆子也みのむし寒く鳴尽す      乙州

 蓑虫は「ちちよ、ちちよ」と鳴くと言われていた。『風俗文選』の素堂の「蓑虫ノ説」に「ちちよちちよとなくは、孝に専なるものか」とある。みんな芭蕉さんのことを父のように慕ってます、ということか。
 『去来抄』に「今日より我が死期(死後)の句也。一字の相談を加ふべからず」と、要するにもう自分はいないものと思い、意見や添削を一切受けられないと思って詠め、ということで弟子たちの到達点を見極めたかったのだろう。丈草はその期待にこたえたが、あとの句はどう思ったかよくわからない。ただ、それほど悪くはなかったのだろう。これで一つまた思い残すことがなくなったか。
 こうしてやがて夜が明けるころ、芭蕉は支考に、延命治療の薬はいらない、老子の薬(無為自然ということか)にしてくれ、と頼み、眠りに着く。

2017年11月26日日曜日

 十月十日。結果的に最後の句となった「清瀧や」の句を詠んだ次の日にはこうある。

 「此暮より身ほとをりて、つねにあらず。人く殊の外におどろく。夜に入て去来をめして良談ず。その後支考をめして遺書三通をしたためしむ。外に一通はみづからかきて、伊賀の兄の名残におくらる。その後は正秀あづかりて、木曽塚の旧草にかへる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.87)

 「身ほとをりて、つねにあらず」つまり異常な発熱があったというが、これは腫瘍熱であろう。腫瘍熱の場合40度を超える熱でも朦朧とした状態にならず、意識がはっきりしているという。
 実際この高熱の中で芭蕉は去来と話をしたり支考に遺書三通を書かせたりしている。そのうち一通は自分で書いたというから、これまでになく元気な状態だともいえる。
 この時も門人たちと話す話題はやはりは俳諧だった。

 「夜ふけ人いねて後、誰かれの人々枕の左右に侍りて、此後の風雅はいかになり行侍〔る〕らんとたづねけるに、されば此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず。その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし。唇を打うるほし打うるほしやや談じ申されければ、やすからぬ道の神なりと思はれて、袖をねらす人殊におほし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)

 「此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。」というのは、芭蕉がまだ二十歳そこそこの頃、伊賀藤堂藩家の料理人をしてた頃、藤堂家の跡取り息子だった藤堂主計良忠(俳号、蝉吟)に誘われて俳諧の道に入って以来今に至る三十年、俳諧は様々に変化していったことをいう。
 貞門から談林、天和の破調を経て蕉風確立期がありその後の軽みへと至る流れが一方にあって、大阪では伊丹流長発句の流行から、従来の談林に蕉風の要素も取り入れながら独自の大阪談林を形成してゆく流れがあった。この二つの流れは今日の関東と関西の笑いの違いの元となっているのではないかと思う。「松茸ゆうたら熱燗やな」は大阪談林で、「送られてきた松茸ってよくわからない葉っぱがくっついてたりするよね」だと蕉門の笑いだ。
 私見だが、蕪村の俳諧は蕉門よりもその土地柄からか、大阪談林を受け継ぐものだったのではないかと思う。
 「しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず」というのは書への例えだろう。楷書は真書ともいう。貞門の真書、談林の草書、そして自ら確立した蕉風を行書に喩えていると見て良いだろう。
 「その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし」というのは、その三つの体がどれも完成には至ってないという意味か。この後の俳諧はそれぞれが完成に向かうということか。これを枕元で聞いた惟然が草書の俳諧に至るのは、この五年くらい後のことだ。

2017年11月25日土曜日

 今日は旧暦十月八日。元禄七年なら住吉詣でと病中吟の日だ。

 その住吉詣での翌日、十月九日、支考の『前後日記』にはこうある。

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 清滝や浪にちり込青松葉   翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

 「大井川」は支考の記憶違いか。元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡に、

 清滝や波に塵なき夏の月   芭蕉

の句があるから、それが元もとの形だったと思われる。
 清滝は京都嵯峨野の北の小倉山や愛宕念仏寺よりも北にある清滝川を指すと思われる。これに対し「大井川」は今の桂川のことで、清滝川は大井川(桂川)に流れ込んで合流する。まあ、清滝川といった場合は、嵐山の桂川よりは上流の細い流れを想像すればいいのだろう。
 細い清流だとすると月を映すにはやや無理がある感じがするから、大井川のほうがイメージしやすい。だから、ひょっとしたらその後上五を「大井川」にしたバージョンがあったのかもしれない。
 芭蕉が末期癌だったとしたら、昏睡状態と激痛や嘔吐、下血に苦しむ状態とが交互に訪れていただろう。当時はモルヒネもなかったからさぞかし苦しかったに違いない。点滴もないから栄養も取れず、日に日に衰弱してゆくのが自分でもよくわかっただろう。そろそろ終わりだと感じていたはずだ。
 今日で終わりかもしれないと思いながら、また目が覚め次の日があって、でもそんな時に頭に浮かぶのは仏道ではなくやはり俳諧だった。
 昨日は最後になるかもしれないと思いながらも、句を案じるのは煩悩で成仏の妨げにしかならないし、それに辞世を詠むほどたいそうな身分でもないなんて思いながら、実質的には辞世のような「病中吟」を詠んだ。
 今日になった気になったのは、多分最後の俳諧興行になるかもしれない園女亭での発句、

 白菊の目に立てて見る塵もなし  芭蕉

の句が、六月に野明亭で詠んだ句に似ていて、等類だの同巣だの言われるのが不本意に思えたのだろう。
 そこで、古い方の句を、

 清滝や浪にちり込青松葉     芭蕉

にしてみた。妄執とは言いながらも、やはり思い残すことなくすっきりした気持ちで死を迎えたかったのだろう。
 並みに月の美しさは、ある意味では古典的な題材で新味に乏しい。だが、青松葉は新味はあるがいまひとつ花がない。むしろ「白菊の」の句を救うための改作だったのだろう。
 結果的にはこれが最後の句となったので、「清滝や」の句が芭蕉の辞世の句だと言う人もいるが、それは「辞世」の意味をわかっていない。ただ最後に詠んだ句を機械的に辞世と呼ぶのではない。辞世はこの世を去るにあたっての最後の「挨拶」であり、「清滝や」の句にはそれがない。
 「此事は去来にもかたりをきけるが」とあるように、このことは『去来抄』にも記されている。

 「清瀧や浪にちりなき夏の月
 先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてて見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然れどもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P.13)

 「旅に病で」の句にしても「清滝や」の句にしても、芭蕉は「仏の妄執」だというが、実際に激痛に襲われて苦しんでいる時には、俳諧のことを考えることでその苦しみが紛れる部分があったのだろう。
 凡庸な男ならいい女のことでも考える所だが、芭蕉さんは俳諧のことを案じるのが一番のだった、そこが凡人と違う所だろう。

2017年11月24日金曜日

 昨日は午後から谷中を散歩した。黄昏の街はやはりいい。ひょっとしてここは異界ではないかと思わせるようで幻想的だ。
 昔、黄昏時の渋谷の街をあるいてて思いついたのだが、あの世というのがもしあるならきっと一年中黄昏時の紫色の空の紫街ではないかと。たくさんの灯りがともり、世界中の死者たちがそこを行き交い、争ってた国もここではノーサイドで酒を酌み交わしたり歌ったり踊ったり、毎日地球祭が行われている。そして思い残すことがなくなった人から順に完全な死へと移行してゆく。

 それはともかくとして、昨日の続き。
 さて、住吉詣でのあったその夜、芭蕉はあの句を詠むことになる。
 支考の『前後日記』はこう記す。

 「之道すみよしの四所に詣して、此度の延年をいのる。所願の句あり。しるさず。此夜深更におよびて、介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおもふに

   病中吟
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る    翁

 その後支考をめして、「なをかけ廻る夢心」といふ句づくりあり、いづれをかと申されしに、その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)と申ば、いとむづかしき事に侍らんと思ひて、此句なににかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍〔る〕らん。今はほいなし。みづから申されけるは、はた生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。此後はただ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすかへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.85~86)

 考えてみれば、芭蕉を一人にしてみんなで出かけるというのはないだろう。となると、支考は居残り組みだったのだろうか。「之道すみよしの四所に詣して」というのは、之道一人が詣でたわけではないにせよ、何人かは居残って芭蕉の看病をしてた可能性が高い。支考の「起さるる」の句も之道らの出発の前に詠んだのなら納得できる。
 木節の発句がないのも、医者が芭蕉のところを離れるわけにはいかなかったからだろう。舎羅の発句もないから、介護要因として居残り組だったのだろう。其角の『芭蕉翁終焉記』に、

 「木節が薬を死迄もとたのみ申されけるも、実也。人々にかかる汚レを耻給へば、坐臥のたすけとなるもの、呑舟と舎羅也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.65)

とある。
 その日の夜も更ける頃、ほとんど動くこともなく言葉もなかった芭蕉の部屋から不意に硯の音が聞こえてくれば、何かあったと思うし、もしや最後の言葉がとも思うだろう。
 幸いまだ「いまは(さよなら)」ではなく、芭蕉の詠んだ句を介護役の呑舟に書き留めさせているところだった。ひょっとして辞世の句かという思いもあっただろう。その句は、

   病中吟
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る    芭蕉

だった。
 支考が部屋に入ると、芭蕉は「なをかけ廻る夢心」という案もあったがどっちが良いかと聞いた。これは「此道や」の句のときと同じパターンだ。芭蕉はよく弟子たちにこういう質問をしたのだろう。
 言葉というのは確かに自分がこう言いたいと思って発してはみても、聞いた人はまったく別の意味に取ることがある。だから自分の句の意味がちゃんと伝わっているかどうかこうして確認したくなるのだろう。
 「その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)」というのは「かけ廻る」の五文字のことだろう。それはどういう意味なのかと思ったものの、そう難しく考えることもないと思い、この句は何の悪い所もないのでわざわざ「かけ廻る夢心」に直すことはないと答えたという。この五文字は「不思議の五文字」だという。

 旅に病でなをかけ廻る夢心

 これだと「枯野」の字が消えてしまい季語が入らないから、確かにどっちが良いかといわれても、そんなに迷うこともないだろう。体言止めで句としての収まりは良いが。むしろ支考が気になったのは「かけ廻る」という言葉が何処から出てきたのかということだった。
 芭蕉が言うには、まず「生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど」とうことで、これは死を前にしたなら一心に仏のことを念ずべきだという意味で言っているのだろう。
 芭蕉には辞世の句を詠まなくてはならないという意識はなかったものと思われる。辞世というのは身分の高い人の詠むもので、自分なんぞはという意識があったのかもしれない。
 そして「よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。」と付け加える。
 言わば商売柄、こんな時にまで俳諧のことが気になってしょうがないのは煩悩の妄執だというわけだ。この「朝雲暮烟の間をかけり」が「かけ廻る」という言葉の意図だったのだろう。
 これに対し支考は「さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」と感想を述べる。これほどの辞世は他にあるまい。芭蕉自身はそのつもりでなくても、最高の辞世の句であることは間違いない。
 偽書の『花屋日記』も「これは辞世にあらず、辞世にあらざるにもあらず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.26)と言っている。近代的にあくまで作者の意図を重視するなら辞世ではないが、読んだ人が辞世として受け止めるならそれはそれでいいと思う。

2017年11月23日木曜日

 今日は旧暦の十月六日。雨の祝日ということで、ゆっくりと岩波文庫の『花屋日記』が読める。

 元禄七年の芭蕉の容態は、九月二十九日の支考『前後日記』に、

 「此夜より泄痢のいたはりありて、神無月の一日の朝にいたる。しかるを此叟(そう)は、よのつね腹の心地悪しかりければ、是もそのままにてやみなんと思ひけるに、二日・三日の比よりややつのりて、終に此愁とはなしける也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.83)

とある。「泄痢」つまり下痢は芭蕉の持病で、以前から時折こういうことはあったし、おそらく最後の旅の途中で何度もこのようなことは続いていたのだろう。だから、支考もこの時はいつものこと(よのつね)と思っていたが、容態はそのまま急速に悪化していったようだ。この日の芝柏亭での興行がキャンセルされたことは前にも書いた。
 其角の『芭蕉翁終焉記』には、

 「伊賀山の嵐紙帳にしめり、有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)にさはる也と覚えしかど、くるしげなれば例の薬といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢度しげくて、物いふ力もなく、手足氷りぬれば、あはやとてあつまる人々の中にも、去来京より馳くるに、膳所より正秀、大津より木節・乙州・丈草、平田の李由つき添て、支考・惟然と共に、かかる歎きをつぶやき侍る。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.64)

とある。
 「紙帳」は紙で作った防寒用の蚊帳のようなもので、最初はその紙帳が伊賀の嵐に湿って黴や茸が生えて、そのせいではないかと思われていたようだ。だが、伊賀にいた頃から病状が既に悪化していたことが窺われる。
 芭蕉が茸に当たって死んだという俗説は、この「有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)」を誤読したことによるものではないかと思う。園女が犯人に仕立て上げられたりして可哀相だ。
 その病を押して大阪に来て、酒堂、之道の喧嘩の仲裁をし、何度か興行を行ったが、相当無理をしていたようだ。九月二十九日の夜、終に床についたまま激しい下痢が続き、喋る力もなく体温も低下し、危篤状態に陥った。去来、正秀、木節・乙州、丈草、李由が駆けつけ、元から大阪にいた支考、惟然ニ合流した。病床で詠んだ賀会祈祷の句に之道の名前はあるが酒堂の名前はない。どこへ行ったか、九月二十六日の興行の挙句に、

   散花に幕の芝引吹立て
 お傍日永き医者の見事さ       酒堂

と詠んだ医者の酒堂は肝心なときにお傍にいない。代わりに呼ばれてきたのは大津の医者の木節だった。
 支考の『前後日記』の十月六日の所にこうある。

 「きのふの暮よりなにがしが薬にいとここちよしとて、みづから起かへりて、白髮のけしきなど見せ申されしに、影もなくおとろへはて、枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて、今もまぼろしには思はれる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.84)

 長いこと昏睡状態にあったようだ。ようやく意識を取り戻して顔を起して白髪頭の様子をみる事ができたが、「枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて」というように痩せ衰えていた。このやせ細った姿の記述からも、末期癌だったと見るのが妥当だろう。
 木節をはじめとする他の京や膳所・大津、伊賀の門人たちが到着したのは、翌七日だったことが『前後日記』には記されている。『花屋日記』には「鬼貫来る。去来応対して還す。」とあるが、これは嘘だろう。鬼貫は之道とも仲が良かったし、本当に来てたなら追い返す理由なんてない。
 十月八日には之道とともに集まった門人たちが住吉四所神社に詣でて、祈願の句を奉納した。それが先に述べた賀会祈祷の句で、其角の『芭蕉翁終焉記』に記されている。

 落つきやから手水して神集め   木節

 折から神無月なので、手水の水もなかったのか、なんとも無念。から手水は今風に言えばエア手水か。

 木枯らしの空見なをすや鶴の声  去来

 吉祥である鶴の声がしやしないかと木枯らしの空を眺める。何度見ても空しい。

 足がろに竹の林やみそさざい   惟然

 「鷦鷯(ショウリョウ)は深林に巣くふも一枝に過ぎず」という『荘子』の言葉によったものか。祈願からはやや離れている。

 初雪にやがて手引ん佐太の宮   正秀

 「佐太の宮」は出雲の国二ノ宮の佐太神社で神無月には八百万の神がここに集まる。初雪が降るころにはその神様たちも戻ってきてくれることだろう、それまで何とか持ちこたえてくれと祈る。

 神のるす頼み力や松の風     之道

 「松風」は、

 深く入りて神路の奥を尋ぬれば
     又うへもなき峰の松風
               西行法師

の縁で、本地垂迹の考え方により、神道の根源には仏道があり、「松風」はそれを象徴する。神社に祈願に来たが留守なので、本地である仏だけが頼みだ、という意味。

 居上ていさみつきけり鷹の貌   伽香

 鷹が身を起こして睨みつけているさまだが、惟然の句と同様、その場にあったものを詠んだのだろう。鷹は吉祥ではある。

 起さるる声も嬉しき湯婆哉    支考

 湯婆は湯たんぽのこと。寒い朝は起きるのがつらいが、湯たんぽのぬくもりが残っていれば起される声も嬉しい。きっとこの日、祈祷に行くといくというので早く起されたのだろう。ただ、芭蕉の病気治癒の祈願にこの句はなんかそぐわない。
 このあとの病床吟「しかられて」の句にも通じるものがある。つまり、支考はいつもこういう調子っぱずれな句を詠む人だというだけのことだったのかもしれない。ある意味それは天才なのだろう。付け句の方ではその才能が遺憾なく発揮されているが。

 水仙や使につれて床離れ     呑舟

 呑舟は芭蕉の介護で、排泄物の処理など汚い仕事を引き受けていたようだ。水仙が春の使いとなって芭蕉を床から上がれるようにしてくれれば、と祈る。
祈願の句としてはこれまででは一番真情がこもっている。

 峠こす鴨のさなりや諸きほひ   丈草

 「さなり」は小さな物音のこと。「さなる(そのようになる)」に掛かる。「諸きほひは峠こす鴨のさなりや」の倒置。ここで皆が祈願の発句を競って詠むことは、峠を越す鴨のさなりのような小さな音にすぎないが、そのように芭蕉の病気も峠を越えてくれればな、と祈る。掛詞と比喩が見事な句だ。芭蕉が聞いたなら、「丈草出来たり」というところか。

 日にまして見ます顔也霜の菊   乙州

 これも比喩で、日ごとに集まる人も増えて、芭蕉の病気が良くなることを祈ってます、ということ。
 神無月ネタに走った者、素直に祈願した者、いろいろだけど、其角が「是ぞ生前の笑納め也。」と言ったように事態は悪化していった。

2017年11月21日火曜日

 芭蕉の命日が近づいてくると、辞世の句というのが気になりだす。
 芭蕉のあの有名な、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る    芭蕉

の句が辞世の句なのか単なる病中吟なのかというのは、これまでも様々に論じられてきたが、それ以前に芭蕉の時代に俳諧師が辞世の句を詠むというのは一般的に行われていることだったのかが気になりだした。
 ネットで辞世の句を検索すると、出てくるのはたいてい戦国武将だったりする。もちろん発句ではなく和歌だ。
 岩波文庫の『俳家奇人談・続俳家奇人談』(竹内玄玄一著、雲英末雄校注、一九八七)を読むと、やはり古い時代は和歌を詠んでいる。

 はかなしや鶴の林の煙りにも
     立ちおくれぬる身こそ恨むれ
                 宗祇法師

 俳諧の祖、荒木田守武は和歌と発句両方詠んでいる。

 越しかたもまた行末も神路山
     峯の松風峯の松風
                 荒木田守武
 朝顔に今日はみゆらんわが世かな 同

 同じく俳諧の祖、宗鑑は和歌の形式ではあるが俗語を交えた俳諧歌になっている。

 宗鑑は何処へと人の問ふならば
     ちとようありてあの世へといへ
                 宗鑑

 貞門の祖、松永貞徳は辞世の歌を三首読み、その中の一つが『俳家奇人談』に記されている。

 明日はかくと昨日おもひし事も今日
     おそくは替る世のならひかな
                 松永貞徳

 野々口立圃は辞世の発句を詠んでいる。

 月花の三句目を今しる世かな   立圃

 桜の満開の時に綺麗な月夜になることが稀なことからの発想か。西行は、

 ねがはくは花のもとにて春死なむ
     その如月の望月のころ
                 西行法師

と詠んだが、今の自分は月の句花の句と続いた後の三句目で、月も花もないということか。実際、立圃は旧暦の九月三十日に亡くなった。
 山本西武(さいむ)は、

 夜の明けて花にひらくや浄土門  西武

と極楽往生への願いを句に込めた。
 斎藤徳元も貞門の俳人で、あの斎藤道三の曾孫で、織田信長、織田秀信に仕え、徳川の世になって江戸の市井の人となり和歌の教師をやっていた。辞世の句は、

 今までは生たは事を月夜かな   徳元

 「生(い)きたは」から「たわごと」を導き出す手法は和歌の手法の俳諧化だ。豊臣の世が続いていたならいっぱしの大名になっていただろうに、そんな不遇な生涯を自嘲して、月にたわごとを言う俳諧師になったと詠んだのだろう。
 こうしてみると、辞世の句を詠んだ人はそれほど多くなさそうだ。
 もっとも、死ぬ直前に辞世を詠めるというのは状況的にも限定されている。まず、死ぬ直前にある程度元気でなくてはならない。長い昏睡状態の末に死んだのでは辞世は詠めない。また、くも膜下出血や心臓発作のような突然死でも辞世は詠めない。一番余裕を持って辞世を詠めるのは刑死する人と切腹する人かもしれない。そうでなければ遺言状のようにあらかじめ作って用意していたか、そんなところだろう。
 そういうわけで、別に俳諧師だからといって辞世の句を詠まなくてはいけないということはなかったのだろう。

2017年11月19日日曜日

 ある程度俳句を勉強した人がこの鈴呂屋俳話を読むと、多分かなりの違和感を感じると思う。
 晩年の芭蕉に関しても、古くからの弟子たちが去っていって孤立する中で、

 此秋は何で年よる雲に鳥     芭蕉
 此道や行人なしに秋の暮     同
 秋深き隣は何をする人ぞ     同

といった句も、自分の目指す俳諧が全然理解されていないことへの孤立と孤独の表現と見るのが普通なのかもしれない。
 実際の芭蕉は常に弟子たちに囲まれ、臨終の際にも多くの門人の見守る中で、さながら釈迦涅槃図のようでもあった。
 桃印、寿貞に先立たれて、その意味でいくら弟子たちがいつも回りにいても、心にぽっかり穴の開いたような孤独感があったのは確かだと思う。「白菊の」の巻の三十一句目、

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

にもそれは表れていると思う。
 ただ、一般の近代俳句に所属する俳人や俳句研究者は、こうした孤独感に近代の文化人の孤独を無理に重ね合わせていたようにも思える。
 明治以降の急速な近代化の中で、日本の文化人は常に西洋化を促進する立場にあり、そのつど日本の伝統的な価値観や風習と戦ってきた。その中で、たとえ成功を収めたとしても、なかなか西洋の価値観を受け入れてくれない大衆への苛立ちを感じ、時としてあからさまに侮蔑の言葉を投げかけることもあった。それを少なからず芭蕉に投影してたのではないかと思う。
 正岡子規が芭蕉の古池の句を「写生」への開眼とと解釈し、それがやがて定説となっていく中で、一方ではそれが弟子たちに十分理解されず、「軽み」の俳諧についても一種の大衆迎合(ポピュリズム)と見て、否定的に評価する人も多かった。
 それは西洋文学を学んで、それを日本に広めようとしながらもなかなか大衆がそれについてこない、近代の文学者自らの孤独に重ねていての発想だったのではないかと思う。
 筆者は別に近代化や西洋化を否定するつもりはない。ただ、近代化・西洋化を急ぐあまりに、伝統文化とあまりに敵対的になりすぎた人たちに関しては疑問を感じざるを得ない。
 今日のジャパンクールといわれる漫画、アニメ、ゲーム、ラノベ、あるいはビジュアル系と呼ばれる音楽も、別に日本の伝統文化から発生したわけではない。漫画やアニメも西洋から入ってきたものだし、コンピューターゲームもさまざまな西洋のゲームの影響を受けながら、日本で独自の文化が形成されていった。ラノベも基本的には西洋の小説の書式によるものだし、ビジュアル系バンドも西洋のロックの日本独自の展開にすぎない。
 こうした大衆の側から発生したジャパンクールは、伝統文化と対峙するのではなく、融和の中から生まれてきた。むしろみんな本当は西洋にあこがれ、西洋人のようになろうとしたのだけど、生まれ育って自然に身についた日本文化の重力で各々日本的要素を含むようになり、それが逆に世界で注目されるようになったといった方がいい。
 明治の旧派の俳諧師も決して伝統に固執して、それをかたくなに守ろうとしてきたわけではなかった。彼等もまた開国によって様々な西洋の文物が入ってくる中で影響を受けただろうし、西洋への憧れもあっただろう。ただ彼等が明治二十五年以降の正岡子規の一派と違っていたのは、日本の伝統を近代化を妨げる敵として対立させることをしなかっただけだと思う。
 正岡子規は『俳諧大要』や『歌よみに与ふる書』などを通じて伝統の詩歌連俳を厳しく糾弾してきた。それをやらなかったのが旧派だという程度の違いで、旧派も基本的には俳句の近代化には賛成だったと思う。そして、筆者もまた西洋文化を否定して近代以前の日本文化に戻そうなどという考えは毛頭ない。ただ、対立的にではなく融和的に考えているだけの違いだ。
 西洋文化に対して排他的な態度を取ることは、自国の文化の更なる発展の可能性を葬り去ることで、むしろいろいろな文化と融合することで自国の文化は無限に発展するものだと考える。
 それと同様、西洋化、あるいはグローバル化にあまりに固執するあまりに、日本の文化に対して排他的な態度を取ることも発展の芽を摘むことになると思う。西洋文化も十九世紀後半のジャポニズムを経て更なる発展を遂げたし、今でもジャパンクールに並々ならぬ関心を持ってくれている。そのことによって西洋も、グローバル文化も発展してゆくのだと思う。日本の文化人だけが自国の文化に対して過度に排他的な態度を取っているのは本当に残念だ。
 まあ、基本的に彼等は輸入商のようなものだから、輸入品の価格を吊り上げるのが仕事で、そのために国産品の価値を貶めているだけなのかもしれない。いずれにせよ、そういう人たちと一線を画すのが、この鈴呂屋俳話のスタンスだと思っていただければいいと思う。
 西洋化が近代という時代の中で避けて通れぬものだったのは、その圧倒的な生産力の高さによるものだったと思う。生産力の高さは豊かさをもたらす。人間は誰でも豊かになりたい。そして自由になりたい。だから西洋を学び、西洋を追いかけてきた。それはごく自然なことだと思う。だから、西洋化の波は今でも世界を覆っている。
 ただ、近代化は世界を一つにするのではない。それは西洋を学び西洋を追いかけている非西洋圏の人たちは、それぞれ独自の伝統文化を背負い、それと融合させながら追いかけているからだ。そこに自ずと近代化の中でも多様性が生じる。日本人は日本人らしい近代化を実現したし、中国人もインド人もアラビア人も彼等らしい近代化を実現している。それらは西洋にない要素を持っていることで、かえって西洋文化を発展させる原動力にもなる。西洋人はそのことをよく知っているから、異邦人を歓待する。日本人だけが卑下する必要はない。胸を張ってこれが日本の近代だと言っていいと思う。
 日本の文化も西洋の文化もどこの文化も、人間の作るものに絶対はない。むしろ完成されてないからこそ、まだまだ発展できる。世界は多様性とその融合によって発展できる。その道を閉ざすような一面的な日本卑下はいい加減に終わりにした方が良いと思う。
 だいぶ芭蕉の話からそれてしまったが、芭蕉も伝統文化と敵対しようなどとはまったく考えてなかっただろうし、新しい俳諧を求めてゆく中で結局は伝統と融合しながら不易と流行のバランスを取った方がいいことに気づいたのだと思う。そして、その歩みは少なくとも俳諧師の間で芭蕉を孤立させることはなく、ただ流行についてゆけなくなった年寄りがいただけのことだと思う。だから、芭蕉と反目していた其角も芭蕉の臨終に駆けつけてくれたのだと思う。

2017年11月17日金曜日

 今日は旧暦九月二十九日。今日で秋は終わり。この日芭蕉は急に容態が悪化した。

   雑秋
 咳しあふ隣や秋の一ちから   梅府『伊達衣』

 この句は「秋深き」の句に通じるというか、影響を受けたという感じだ。

 浅茅生にごそつく人や秋の暮  乙孝『一幅半』

も同巣か。
 秋の暮はとにかく悲しいものなので、

 行秋のさてさて人をなかせたり 越人『卯辰集』
 鬼の目に泪があらば秋のくれ  正丸『一幅半』
   九月尽
 秋の暮男は泣ぬものなればこそ 翁『ばせをだらひ』

 最後の句は「翁」とあるが、芭蕉の句ではなさそうだ。1538さんのサイトに、

 秋には夕(ゆふべ)を男は泣かぬものなればこそ

という越人の句があった。

 秋梟の句がまた一句見つかった。

 梟の何ほうばりて秋の声    巴兮『そこの花』

2017年11月16日木曜日

 今日は旧暦の九月二十八日。夜明け前の空には逆さの三日月が見えた。二十八日の月は昔は何と呼んでたのかよくわからない。特に名称もなかったのか。
 今年は閏五月があるということで、奇しくも芭蕉のなくなった元禄七年と重なるということもあって、ずっと元禄七年の芭蕉と重ね合わせてみてきた。
 九月二十六日は清水の茶店で泥足らと「此道や」の半歌仙を巻いた。二十七日には園女亭で「白菊の」の歌仙を巻いた。そしてこれが芭蕉の最後の俳諧興行となった。
 九月二十八日は畦止亭に芭蕉、泥足、支考、惟然、酒堂、之道、畦止の七人が集まり、七種(ななくさ)の恋を詠んだ。芭蕉の句は、

   月下送児
 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

 この日、次の日(九月二十九日)に予定されていた芝柏(しはく)亭での俳諧の発句として、

 秋深き隣は何をする人ぞ      芭蕉

の句を詠んでいる。
 発句を事前に主人に知らせておくことは中世連歌の時代から普通に行われていたようだ。「此道や」の句も、九月二十三日の書簡で既に作られていたことが確認されている。
 「秋深き」の句は一般には、

 秋深し隣は何をする人ぞ      芭蕉

の形で知られている。前者は支考の『笈日記』、後者は元文三年(一七三八)の野坡等編『六行会』に収録させている形で、おそらく「秋深き」の方が正しく、「秋深し」は伝わってゆくうちに変ってしまったものと思われる。桃隣編の『陸奥鵆』(元禄十年)にも、

   大阪芝柏興行
 秋深き隣は何をする人ぞ      芭蕉

となっている。
 芝柏も大阪の人で、其角編の芭蕉追善集『枯尾花』には、

 石たてて墓も落ちつく霜夜哉    芝柏

の句がある。芭蕉の発句は前日できていたものの、この興行は行われなかった。おそらく芭蕉の体調の悪化によるものだろう。
 秋も深まると寂しかったり悲しかったりで、何となく人恋しくなり、隣の人のことが気になったりする。お隣さんも同じようにこの秋の深まる中、同じような気分になってるのだろうか。
 興行の句としては、「隣」は集まった連衆のことに他ならず、みんなそれぞれ自分の隣に座っている人を見ながら、秋が終わるのがやはり悲しいかい?そうだろうな、なんてそんな情景を期待したのだろう。
 これが「秋深し」になると、本来の興行から引き離されて一人歩きすることになる。「秋深き隣」だと「秋も深まる中でお隣さんは」と繋がるわけだが、「秋深し」と切ってしまうと単に「秋も深まった!隣は‥‥」と暮秋と隣人が分離されてしまい、近代俳句で言うところの二物衝突になってしまう。ちなみに「し」も「ぞ」も切れ字だから、切れ字が二つになってしまう。
 この句はちょうど筆者が子供の頃、つまり七十年代にはマスコミ関係でよく用いられた。つまり、高度成長期を経て様々な地方から大都市へと人口が流入した結果、隣近所との人間関係が希薄になり、それを象徴するかのような言葉として芭蕉のこの句が盛んに引用された。木枯し紋次郎の「あっしには関わりのないことでござんす」が流行語になった頃だった。
 それは芭蕉が思いもしなかった用いられ方だったのだろう。そのせいでこの句は、隣近所への無関心の句というイメージが広まってしまった。
 本来の意味だと、「秋深き隣は何をする人ぞ?」「俳諧に決まってるじゃないか!」という乗りだったのかもしれない。芝柏の脇が残ってないのが残念だ。

2017年11月14日火曜日

 昨日は十六句目まで一気に進んだが、実は十七句目になって、つまってしまった。その十七句目。

   塩飽の船のどつと入り込
 散花に幕の芝引吹立て        畦止

 問題はこの「芝引」で、『校本芭蕉全集第五巻』の中村俊定さんの註釈も、「太刀の鞘尻の刃の方に伏せた金具のことであるが、解し得ない。吹く風に幕のあいだから芝引が見えるという意か。」とやはり満足な答が出なかったようだ。
 確かに「芝引」で検索すると、刀の鞘の下側の金具が「芝引」で上側は「雨覆」というらしい。「火縄銃の台座の先端」というのもあったが、それでも意味不明。
 「幕」という言葉は芝居を連想させるので、何か芝居用語に「芝引」ってないかと思って探したが、やはり見つからなかった。
 似たような言葉でようやく見つかったのが柴引で、「もしかして:柴引」。
 「柴引」は神楽の演目で、太玉命が天の香久山の榊を引き抜いて、天の岩屋の前に飾る踊りで、客席とのあいだで榊の枝を引っ張りっこをするのが一番の見せ場のようだ。
 散る花の頃に幕を開けた神楽の柴引に風が吹いて桜の花びらが舞い、秋には豊作となり米を満載にした廻船がどっと押し寄せる、これもかなり無理矢理だが、意味が通らなくもない。
 米を乗せた「廻船」が秋のイメージなので、それを花の定座ということで無理に春に転じようとすると、向え付けか違え付けになりやすい。今のところ他にいい解釈が思いつかないので、とりあえずこれにしておこう。

 挙句

   散花に幕の芝引吹立て
 お傍日永き医者の見事さ       酒堂

 「お傍」は中村俊定註に「高貴の人の側に侍るの意」とある。高貴な人なら「芝引」は刀の鞘の金具に取り成してもいいのかもしれない。「幕」も芝居の幕ではなく陣を張る時の幕としてもいい。高齢のお殿様で、いつも側に医者を侍らして、この半歌仙の一巻も目出度く終わる。
 酒堂も医者だから、芭蕉さんの側には私がいますというメッセージか。肝心な時にはいなかったようだが。

2017年11月13日月曜日

 昨日は秦野の震生湖から千村の方へと歩いた。震生湖には猫が八匹もいた。釣りをしてる人もたくさんいた。
 栃窪にある愛犬ハウスセキノからは相変わらず膨大な数の犬たちのワンワンキャンキャンいう声が聞こえていた。そういえば一昨年の九月に来た時に、

 騒ぐ犬悲しく一体何の秋の風

とい句を詠んだっけ。ちょっと芭蕉の猿を聞く人の気分になったが、今も犬の声はその頃と何も変っていない。
 千村も以前八重桜を見に行ったが、今は紅葉を通り越してかなり落葉していた。

 さて、「此道や」の巻の続き。

 十一句目

   恵比酒の餅の残る二月
 兵の宿する我はねぶられず     泥足

 二月と八月は関東の譜代大名の参勤交代の季節で、江戸の商人である泥足は、お侍さんの御一行を泊めたりしてたのだろうか。三人称ではなく「我は」と限定するのは珍しい。

 十二句目

   兵の宿する我はねぶられず
 かぐさき革に交るまつ風      芭蕉

 「かぐさき」は獣肉、皮などの匂いのこと。
 展開する時には「我は」は余り気にせず、乱世の頃の話にしてもいい。実際に軍の装備をしている兵(つはもの)は革の匂いがぷんぷんしたことだろう。
 「兵(つはもの)の宿する」に「かぐさき革」、「ねぶられず」に「松風」と四つ手に付ける。

 十三句目

   かぐさき革に交るまつ風
 ばらばらと山田の稲は立枯れて   車庸

 前句の「かぐさき革」を動物の死体のこととしたか。飢饉の光景だろう。

 十四句目

   ばらばらと山田の稲は立枯れて
 地蔵の埋る秋は悲しき       支考

 地蔵が埋もれるのだから、上流から土砂が流されてきたのか、あるいは火山の噴火によるものか。この年の五月に、

 牛流す村のさはぎや五月雨     之道

の句を発句とした「牛流す」の巻が巻かれていることを思うと、何かそういう事件があったのか。
 「埋る」は草に埋もれるとも取れるため、飢饉ネタはここで終わらせることができ、月呼び出しになる。

 十五句目

   地蔵の埋る秋は悲しき
 仕事なき身は茶にかかる朝の月   之道

 草に埋もれた地蔵に貧しさを感じての展開で、仕事もなく朝からお茶を飲んでいる牢人の句とする。抹茶でも煎じ茶でもピンからキリまであり、貧しいなりにもお茶は飲めた。

 十六句目

   仕事なき身は茶にかかる朝の月
 塩飽(しあく)の船のどつと入り込 惟然

 塩飽は瀬戸内海の塩飽諸島のこと。ウィキペディアには、

 「寛文12年(1672年)、河村瑞賢が出羽国の米を江戸に運ぶべく西廻海運を確立すると、塩飽の島民はその運航を一手に担い、新井白石が奥羽海運記で「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず」と記した廻船に乗り、江戸や大阪など諸国の港を出入りする。」

とある。塩飽(しあく)の船は廻船のことをいう。
 この場合は「仕事なき身は」をそういう人もいるという程度に取り成して、朝の月の頃に米を積んだ廻船が続々と入港するという展開と見ていいだろう。

2017年11月11日土曜日

 注文していた『花屋日記』(小宮豊隆校訂、一九三五、岩波文庫)が届いた。先日、やぶちゃんの電子テキストより引用した『笈日記』の中の芭蕉終焉記に相当する「前後日記」がこの本を基にしているというので、早速検索して取り寄せた。この鈴呂屋俳話もたくさんのネット上の見も知らぬ人たちの協力の上に成り立っていて、とにかくみんなに感謝します。ウィキペディアにもそろそろお金払った方がいいかな。
 この本はいわゆる偽書で、「此道や」の巻の興行が九月二十一日になってたりする。
 この本の一番の見所は十月十一日、芭蕉の死の前日、門人たちが集まって夜伽(よとぎ)の句を詠ませた場面だろう。
 『去来抄』「先師評」に、「さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。」とあるその場面だ。「出来たり」というのは、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

の句だった。
 この時の、

 しかられて次の間へ出る寒さ哉   支考

の句だけが異質で、「おい支考、一体何やらかしたんだ」って感じだったが、『花屋日記』では上手く辻褄を合わせて一つのストーリーを作っている。まあ、所詮は見てきたような嘘なのだが。
 そういうわけで、一人では何も出来ない筆者が、会ったことのないたくさんの人たちの協力を得ながら、今日も「此道や」の巻の続きを行きたいと思います。

 四句目

   月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て
 小き家を出て水汲む        游刀

 游刀は膳所の能役者だという。月白む頃に家を出て水を汲みに行く。小さき家は貧しい家の人なのか、それとも隠遁者かと想像を掻き立てる。

 五句目

   小き家を出て水汲む
 天気相羽織を入て荷拵らへ     之道

 前句の人物を商人と見ての位付けだろう。天気の具合を案じながら、羽織を一枚入れて荷支度する。

 六句目

   天気相羽織を入て荷拵らへ
 酒で痛のとまる腹癖        車庸

 車庸は大阪の商人で、元禄五年に『己が光』を編纂している。
 前句の商人を酒飲みと見ての展開。
 YAHOO!知恵袋に「胃が痛い時にお酒を飲むと治ることがあるのですがなぜでしょうか?」というのがあったので、実際こういう人はいるようだ。
 また、zakzakの記事で、「不思議なもので、酒を飲むと痛みも消えるので」というのが実は胆のう炎だったというのもあった。
 酒で痛みが止まるのは単に酔いに紛れているだけで、深刻な病である可能性もあるので注意しよう。

 初裏
 七句目

   酒で痛のとまる腹癖
 片づかぬ節句の座敷立かはり    酒堂

 酒で腹痛を紛らわしているのは、節句の座敷に入れ替わり立ち代り客がやって来るせいで、いろいろ気を使って胃は痛くなる。痛くなった胃を次の客との酒で紛らわす。これじゃ体に良い分けない。

 八句目

   片づかぬ節句の座敷立かはり
 塀の覆にあかき梅ちる       畦止

 畦止も大阪の人。芭蕉も滞在している。
 前句の節句を正月として座敷の塀に散る紅梅を添える。

 九句目

   塀の覆にあかき梅ちる
 線香も春の寒さの伽になる     惟然

 「梅散る」を人が亡くなった暗示としての展開だろう。一人仏前に向えば線香の煙に仏様の方から「元気出せよ」と慰められたような気分になる。

 十句目

   線香も春の寒さの伽になる
 恵比酒の餅の残る二月(きさらぎ) 亀柳

 亀柳についてはよくわからないが、大阪の人のようだ。
 恵比寿の餅というのは正月の十日恵比寿の餅のことか。二月になれば黴だらけだろうな。昔は黴の生えた餅でも平気で食ってた。
 これで一応全員一句づつ詠んだことになる。

2017年11月10日金曜日

 昨日の続き。
 さて、その元禄七年九月二十六日の興行だが、江戸の泥足が『其便』の編纂をやっている頃、たまたま大阪に来ていることを知って尋ねていって実現した半歌仙興行だった。
 『其便』には次のような前書きがある。

 「此集を鏤(ちりばめ)んとする比、芭蕉の翁は難波に抖擻(とそう)し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、晴々亭の半歌仙を貪り、畦止亭の七種の恋を吟じて、予が集の始終を調るものならし。」

 「抖擻」は「ふるえている」ということ。病気で苦しんでいるという意味か。
 「七種の恋」は芭蕉、泥足、支考、惟然、酒堂、之道、畦止の七人がそれぞれ漢語の題で故意を詠むという趣向で行われたもので、芭蕉は、

   月下送児
 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

とあえて男色を詠んでいる。やはり噂通りそういう趣味の人なのか、それとも女色を詠むことに照れがあってホモネタに逃げているのか、定かではない。
 この時芭蕉の体調はかなり悪化していたと思われる。晴々亭の興行が半歌仙で終わったのも、体力的な問題があったと思われる。翌二十七日には園女亭で歌仙興行が行われるが、これが芭蕉の最後の俳諧興行となる。
 泥足は、芭蕉の、

   所思
 此道や行人なしに秋の暮      芭蕉

の発句に脇を付ける。

   此道や行人なしに秋の暮
 岨(そば)の畠の木にかかる蔦   泥足

 ここは余り発句の情を深く受け止めてしまうと重くなり、興行の始まりから暗い気分になりそうなので、あえて情を突き放して付けたのだろう。
 行く人のない道に山奥の情景を付け、そこに暮秋の蔦の紅葉を添えている。四つ手付けの句だ。
 次に支考が第三を付ける。

   岨の畠の木にかかる蔦
 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て  支考

 畠から蕎麦のこぼれ種が花をつけて、それを月が照らし出している美しい情景を付け、そこに鳥が寝てと付け加える。この頃の支考は本当に天才だ。
 「岨の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞にもなっていないし、取り成しにもしていない。ただ何となく繋がっているあたりがやはり一種の「匂い」なのか。
 「牛流す」の巻の六句目

    月影に苞(つと)の海鼠の下る也
 堤おりては田の中のみち    支考

の「つと」→「つつみ」、「下がる」→「おりて」の縁にも似ている。

2017年11月9日木曜日

 昨日雪が降ったのか、今日の富士山は雪をかぶっていた。前は南は少なく北は多く、斜めに雪が積もっていたが、今日の雪は平行で絵に描いたような富士山だった。
 今日は旧暦九月の二十一日で、確実に冬に近づいている。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)には『芭蕉最後の連句、解説』という、「柳小折」「牛流す」「猿蓑に」「白菊の」の四つの歌仙を収めたPDFをアップしたのでよろしく。古典文学関係の連歌の下の方にあります。
 さて、『芭蕉書簡集』(萩原恭男注、一九七六、岩波文庫)の元禄七年九月二十三日付の意専(猿雖)・土芳宛の書簡に、この句が最初に登場する。

   秋暮
 この道を行人なしに秋の暮    芭蕉

 二日後の曲翠(曲水)宛書簡にも、この句は登場する。

 「爰元愚句、珍しき事も得不仕候。少々ある中に
   秋の夜を打崩したる咄かな
   此道を行人なしに秋の暮
 人声や此道かへる共、句作申候。」

と、ここで初めて「人声や此道かへる」という別案があったことが確認できる。
 この別案についてはその後各務支考の『笈日記』(やぶちゃんの電子テキストより引用)に、

 「廿六日は淸水の茶店に連吟して、泥足が集の俳語あり。連衆十二人。
  人聲や此道かへる秋のくれ
  此道や行人なしに龝の暮
 此二句の間いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半とて、是に、所思といふ題をつけて、半歌仙侍り。爰にしるさず。」

というように記されている。

 人声やこの道かへる秋のくれ
 この道や行人なしに秋の暮

の二案があって、支考にどっちがいいかと問うと、支考は「この道や」の方が良いと答えると、芭蕉もならそれに従おうと「所思」という題を付けて半歌仙興行を行ったという。
 これは支考が後から書いたもので、興行の時にはすでに「此道や」の形になっていたが、多分どっちが良いか尋ねられた時にはまだ「此道を」の形だったのではないかと思う。
 芭蕉は時折弟子に向かって二つの句を示しどっちが良いか聞くことがある。弟子を試している場合もあれば、本当にどっちが良いか迷っている時もあったのではないかと思う。この場合は後者ではなかったか。
 半歌仙興行は九月二十六日、大阪の清水の茶店で行われた。実際には連衆は十人だった。もしかしたら主筆を含め、句を詠まなかった二人がいたのかもしれないが、確証はない。
 さて、この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
 それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
 帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

の句で、取り残された自分を描いたのが、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句になる。
 人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
 芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
 その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
 この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
 それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
 芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

 私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
 それに対し、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
 支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。

2017年11月7日火曜日

 立冬だけど俳諧のほうではまだ九月十九日で秋。秋ももう終わりに近い。
 昔の人は季重なりにこだわらなかった。そのため、狼も秋に詠むこともある。昨日はついつい見落としていたが、

    すさまじき女の智恵もはかなくて
 何おもひ草狼のなく   野水

の句は「おもひ草」が秋なので秋の句となる。
 秋の狼は露川撰の『北國曲』にも、

 狼の足跡さびし曼珠沙花    露竹

の句がある。
 秋の梟の句も、以前紹介した許六撰『正風彦根体』の、

 梟の世を昼にして月見かな   希志

もあるが、他にも『杜撰集』に、

 ふくろうの鳴音に落る熟柿哉  百花

の句がある。
 『一幅半』にも、

 梟を布袋のやうにわたり鳥   乙由

の句がある。梟を渡り鳥と間違えたのだろうか。秋に渡ってくる渡り鳥たちを七福神に喩えれば、布袋さんはフクロウというところか。
 『鵲尾冠』の、

   此鳥昼は諸鳥に笑はれ不出
 木兎や見ぬ葛城の神の顔    梅振

の句も秋の所にある。
 葛城の神といえば芭蕉の『笈の小文』にも、

   葛城山
 猶みたし花に明行神の顔    芭蕉

の句がある。
 葛城の神、一言主神はいわゆる異形だったのだろう。「顔が醜いから」というのは役の行者に使役されるのがいやだったから、仕事をサボる言い訳で使ってたのだろう。
 ただ、宮廷では夜にしかお目にかかれない女を「葛城の神」と呼んでたりしたから、中世の謡曲になるといつの間にか葛城の神は女神になってしまったようだ。芭蕉が「猶みたし」というのは本当は美人なんじゃないかと思ったからだろう。美人だけど歳とってちょっとやつれた感じが多分芭蕉の壺だと思う。

2017年11月6日月曜日

 昨日は三峰に行った。天気も良く紅葉も見頃だった。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/ )の「牛流す」の巻を若干書き直した。芭蕉晩年の俳諧を集めたPDFも準備中。『炭俵』の四歌仙、水無瀬三吟、湯山三吟、文和千句第一百韻のPDFが公開中。

 三峰といえば狼だが、狼は冬の季語になっている。

 狼の声そろふなり雪のくれ    丈草

のように、昔は狼の遠吠えが普通に聞こえたりしたのだろう。
 『韻塞』には、

 狼の道をつけたる落ばかな     程己
 狼のかりま高なり冬の月      奚魚

の句もある。「かりま高なり」はよくわからない。
 『猿蓑』には、「灰汁桶の」の巻ニ十四句目に、

   すさまじき女の智慧もはかなくて
 何おもひ草狼のなく       野水

の句もある。前句の「すさまじき」は女の物思いと狼の遠吠えの両方に掛かる。
 いずれにせよ、狼の声は冷え寂びた哀れで悲しげな響きとして聞かれていたのだろう。

2017年11月3日金曜日

 一昨日が十三夜だったから昨日は十四夜で今日は十五夜。別に十三夜に劣るわけではない。満月は明日らしい。
 昼は世田谷の方を散歩した。世田谷線の猫の電車を見た。経堂は農大の収穫祭で盛り上がっていた。後藤醸造の経堂エールを飲んだ。行列の出来るたい焼き屋の隣にある。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の方には「猿蓑に」の巻をアップした。「牛流す」の巻の六句目がないのに気づき、それも加えた。

 今日はまた連歌の付け筋に戻ってみようとおもう。
 今の連句では句が付かなくても誰も問題にしないし、むしろ付いてはいけないと思っている節もあるから、付け筋なんて誰も興味はないのかもしれない。
 しかも、今は興行ではなく、ネットでやる場合でも一日一句くらいのペースでやっているから、句をその場ですばやく即興で付けるということをしない。
 かつては興行の場で、特に古い時代は百韻が普通だったから、みんなが考え込んでしまって先に進まなくなる事を嫌った。だから、付け筋をいくつか覚え、さして内容の意味の深さにはこだわらず機械的に句を付けて切り抜けることも大事だった。いわゆる「遣り句」ができて一人前という世界だ。芭蕉も三十六句遣り句でもいいと言っている。
 梵灯の『長短抄』の「救済、周阿一句付」と呼ばれる、前句付け的な遊びに、

   春夏秋に風ぞかわれる
 雪のときさていかならむ峯の松   侍公
 花の後青葉なりしが紅葉して    周阿

 の句がある。「侍公」は救済(きゅうせい)の別名。

 「春夏秋」に対して冬の雪のときを持ってきて、意味の上できちんと通じるようにするのは違え付けになる。
 これに対し、「春」に「花」、「夏」に「青葉」、「秋」に「紅葉」を付けるのは四つ手付けになる。こういう付け筋を理解していると、難しい前句をふられても、すぐに付けることができる。
 『去来抄』にある芭蕉の、

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲花にかき出す橡のかたぶきて   はせを

は秋の蓮の実から花の定座に持ってゆくつけ方で、秋に春をつけるため、基本的には「違え付け」か「相対付け」になる。
 対句的な「相対付け」ではなく、「違え付け」にする場合、上句下句合わせて意味が通るようにするには時間の経過を句に盛り込まなくてはいけない。この場合は「かたぶきて」が春から秋までの時間の経過を表す。

   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ      はせを

の句も同様だ。この場合は時間ではなく「出つ入つ」が空間の移動を表すため、樫の木の森と咲く花を共存させることができる。
 救済の「雪のときさていかならむ峯の松」の句も、春夏秋に対して「さていかならむ」とすることで、これからの時間の経過を表している。
 一條兼良の『筆のすさび』では、この、

   春夏秋に風ぞかわれる
 雪のときさていかならむ峯の松   侍公

の句が、

   春夏すぎて秋にこそなれ
 雪の比またいかならん峯の松    救済法師

になって、別の付け句を試みている。多分、当時は紙が高価だったため、口承で伝えられた句を記すことが多く、こういう異同が生じたのであろう。
 兼良の付け句は、

   春夏すぎて秋にこそなれ
 実をむすぶなしのかた枝の花の跡
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに
 都出て幾関こえつ白河や

の三句だ。
 「実をむすぶ」の句は「春夏すぎて」に「花の跡」、「秋にこそなれ」に「なし」と四つ手に付いているから、周阿の句に近い。
 「毛をかふる」もまた鷹の換羽を「秋にこそなれ」に付けている。
 「都出て」は、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
               能因法師

を本歌とした付けになる。
 他の付け筋はないだろうか、ここでもう少し考えてみよう。
 たとえば「咎めてには」で付けられないだろうか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 なべて世はうつろふものと心せよ

 「春夏秋」の時間に対し空間に違えて付けられないか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 もろこしもやまとも人はそれぞれに

 周阿の「花の後青葉なりしが紅葉して」を「花」「青葉」「紅葉」をそれと言わずに匂いで付けられないか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 酒を酌み涼みし木々も空見へて

 別に句としての優劣というのではなく、本来連歌というのはいろいろな展開の可能性を試すゲームだったのではないかと思う。

2017年11月1日水曜日

 今日は十三夜で月がよく見える。ようやく天候が安定してきた。公孫樹は黄色くなっている所と緑のままの所が極端だったりする。
 今回は日本人の霊性について考えてみようと思うが、別にそんなに難しいものではない。基本的には多神教のまま近代化したため、神話や神の名は忘れてしまったが多神教の多元性原理だけは残っているという状態だ。
 多元性原理というのは簡単に言えば唯一絶対の物はないということだ。その点では一神教原理と真逆にある。
 唯一絶対の物はないということは、人間はもとより皆不完全だし、人間の理性や思考も完全なものではないから、どんな思想も絶対的なものではない。多神教の場合神様もまた完全ではない。だからどんな宗教も完全ではない。
 完全なものがないから、崇拝の対象としての絶対者は存在しない。日本人が自分の宗教のことを聞かれ、多くの人が「無宗教」と答えるのは、キリスト教のような絶対的な神を信じていないという意味で言っているだけで、神社へ行けば柏手を打ち、お寺へ行けば合掌する。
 絶対的なものがないから、一つの考え方の押し付けは日本では嫌われる。みんなそれぞれある一面では正しくて一面では間違っていることを認め合いながら、お互いに譲り合い妥協しあう。それが日本人のやり方だ。パヨクが嫌われるのも、彼らは一方的に自分の主張を押し通そうとする所があるからだ。
 とにかく自分が不完全であることを認め、謙虚さと慎みがこの国では求められる。
 同じ多神教でもインドではヒンディーの神々や神話が生きているのに対し、日本の多神教がなぜ神話や神の名を失ってしまったかというと、それは古代にまで遡ることができる。
 元来日本列島には縄文人が住んでいたが、中国の長江の下流域、いわゆる江南地方から海流に乗って様々な人間が断続的にやってきた。中国の漢書に登場する江南の倭人も日本人の祖先の一つと思われる。
 万葉の時代には秦人(はたひと)、漢人(あやひと)、呉人(くれひと)、越人(こしひと)、隼人(はやひと)など様々な人が登場する。それに加えて百済や高句麗の難民(いわゆる帰化人と呼ばれる人たち)が多数流入し、多民族の混然とした状態になっていた。
 記紀神話は当時の人たちに伝わるそれぞれの神話を統合した統一神話の試みだったと思われる。ただ、神道はこの神話を教義とすることもなく、その後も八幡神社や高麗神社、白山神社などの渡来系の神社が加わって、神話は結局統一されることなく、神道は結局教義や戒律のない宗教として多様なまま相対化されていった。
 一定の教義や戒律を持たないことで、日本の多神教文化は閉じた体系の宗教ではなく、常に新たな神々へと開かれた多神教という形を取るようになった。神道は仏教と習合したし、儒教も取り入れた。そんな開かれた多神教文化が近代化の際、キリスト教を取り込むことにも何の抵抗もなかった。ただ、多神教の一部として取り込まれただけで、日本は韓国や中国と比べてもキリスト教徒の数は少ない。キリスト教にとって最も難攻不落な土地だった。
 クリスマスやハローウィンは大騒ぎしてくれるけど、決してキリスト教を信じてはいない。多分イースターもだんだん日本に浸透してくるだろう。ただクリスチャンにはならない。日本の多神教的風土の中に取り込まれるだけだ。
 他所の国の人は日本は不思議な国だと思うかもしれない。ただ、ここには絶対的なものは何もないんだということを理解すれば、多少はわかりやすくなるだろう。
 絶対的なものを求めない日本人は、永遠の命も求めない。イワナガヒメではなくコノハナサクヤヒメを選んだ日本人は、限りある短い命を生きることを選んだ。『竹取物語』も本来はそういう物語だった。

2017年10月31日火曜日

 朝鮮通信使に関する資料と上野三碑が世界記憶遺産に登録が認められた、というニュースがあった。
 朝鮮通信使は芭蕉の時代だと天和二年の秋に来ている。ただし、俳諧のネタにはならなかったようだ。この頃の芭蕉は深川に隠棲し、発句も興行も限られている。春には古池の句の着想を得、新たな俳諧を模索していた時期で、冬には「詩あきんど」の巻を巻くが、直後八百屋お七の大火に見舞われ命からがら隅田川に逃れ、第一次芭蕉庵を失った芭蕉は、その後しばらくは甲斐で過ごすことになる。
 貞享元年の『冬の日』「狂句こがらし」の巻の五句目、

    かしらの露をふるふあかむま
 朝鮮のほそりすすきのにほひなき    杜国

は何か関係あるのかもしれないが、よくわからない。
 朝鮮通信使は日本の朱子学の発展に大きく貢献したから、それが朱子学神道の大家吉川惟足の門下生である岩波庄右衛門(曾良)を通じて、芭蕉の不易流行説にも影響を与えたと言えなくもない。そういうわけで、不易流行の起源は韓国にあるニダと、芭蕉を韓国に広めてほしいものだ。芭蕉の句には「恨(ハン)」の心に通じるものもあると思う。
 上野三碑は正直初めてその名前を聞いた。ほとんどの日本人はそうなのではないかと思う。群馬の方では学校で郷土史として習うのかもしれないが、全国的にはまったくの無名だ。
 そういうわけで急遽ググってみて、ようやく高崎市に山上碑(六八一年)、多胡碑(七一一年)、金井沢碑(七二六年)の三つの碑の古い碑があるというのがわかった。
 芭蕉が「壺の碑」として感動の涙を流した多賀城碑が七六二年だから、それよりも古い。
 で、何を記した碑なのかというと、ニュースでは書いてない。ネット上に熊倉浩靖さんの「古典としての上野三碑」という論文のPDFに、詳しい解説があった。

2017年10月30日月曜日

 今日は台風一過のいい天気だったが、なぜか富士山は黒い姿に戻っていた。地上では木枯らしが吹いているというのに。
 さて、「猿蓑に」の巻、二の裏に入り、一気に挙句の果てまで。

三十一句目

   寝汗のとまる今朝がたの夢
 鳥籠をづらりとおこす松の風    惟然

 松風のシューシュー言う悲しげな音は無常の音。それは悟りの音でもある。

  深くいりて神路のおくをたづぬれば
     また上もなき峯の松風
                 西行法師

の歌もある。無常を悟った時に無明の悪夢から目覚める。
 それだけだと説教臭くなるので、夢から醒めて悟りを得る心を裏に隠しながらも、鳥籠の鳥の鳴き声に目覚める普通の朝の情景に作っている。
 惟然は俳号としては「いぜん」と読むが僧侶としては「いねん」と読む。その僧侶としての「いねん」を覗かせる一句だ。

三十二句目

   鳥籠をづらりとおこす松の風
 大工づかひの奥に聞ゆる      芭蕉

 かごの鳥たちが鳴き出す頃、大工さんも朝早くから仕事を始める。まさに朝飯前の仕事だ。

三十三句目

   大工づかひの奥に聞ゆる
 米搗もけふはよしとて帰る也    支考

 「米搗」は精米作業のことで、臼に玄米を入れて杵で叩く。昔は玄米のまま保管し、その日使用する分だけを搗いていた。都市ではお米屋さんが来て搗いてくれたりもしたのだろう。
 大工さんもトントントン、米搗きもトントントンで、文字通り響きで搗く。

三十四句目

   米搗もけふはよしとて帰る也
 から身で市の中を押あふ      芭蕉

 ここで順番が変って、惟然が付けるべき所に芭蕉さんが来ている。おそらく花の定座を惟然に譲るためだろう。これまで芭蕉は花一句月二句を詠み、支考が月を一句詠んでいるが、惟然はどちらも詠んでいない。
 句は米搗きを終えて帰るお米屋さんが手ぶらで市場の中を通り過ぎるというだけのやり句で、花呼び出しと言えよう。賑わう市はまさに人の花。さあ、惟然さん、どんな花を咲かしてくれるのか。

三十五句目

   から身で市の中を押あふ
 此あたり弥生は花のけもなくて   惟然

 ちょっ、待てよ、そりゃないだろうって、花を出さないの?
 まあ、この肩透かし感は斬新だったのかもしれない。
 陸奥の方の花の遅い地方をイメージしたのだろう。花は咲かなくても市場は人で賑わっている。人の花にやがて咲くべき桜の花の匂いだけを付けたこの意外な展開に、芭蕉さんも「これもありか」と驚いたかもしれない。利休の水盤の一枚の花びらのような句だ。

挙句

   此あたり弥生は花のけもなくて
 鴨の油のまだぬけぬ春       支考

 春の遅い地方ということで、鴨の油も抜けない春と結ぶ。
 鴨は冬にたっぷり脂肪をつけ、春になると減らしてゆく。
 この句に春の目出度さが欠けているという人がいるみたいだが、とんでもない。春になってもまだたっぷり油の乗った鴨が食べられるって、目出度いじゃないか。
 最後の二句は伝統的なパターンを思いっきりはずした実験的な終わり方で、芭蕉はこの二人に後の俳諧を託したのであろう。
 ただ、芭蕉亡き後、待っていたのは分裂だった。「大せつな日が二日有暮の鐘」の咎めてにはは結局芭蕉の弟子たちには効果なかったようだ。
 これから大阪へ酒堂と之道の喧嘩の仲裁に行くのだが、これも芭蕉さんのいる時だけは仲直りしたふりして、結局不調に終わる。幸いなのは、芭蕉さんが弟子たちの分裂の中で衰退してゆく俳諧の姿を見ずにすんだことくらいか。

2017年10月29日日曜日

 今日は旧暦九月十日。今週ももうすぐ台風が来る。今日も一日雨だった。
 それでは「猿蓑に」の巻の続きを。

ニ十三句目

   喧嘩のさたもむざとせられぬ
 大せつな日が二日有暮の鐘     芭蕉

 これは一種の「咎めてには」ではないかと思う。この頃の俳諧では珍しい。
 ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日ある。父の命日、母の命日、その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親がなげき悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響く。
 今日なら喧嘩は戦争に置き換えてもいいかもしれない。みんな親に大切に育てられた子供たちだ。無駄に殺しあうことなかれ。ただ、いろいろな家庭があって虐待された子供たちもいたりするから世の中難しい。ちなみに江戸時代は幼児虐待は死刑だった。

ニ十四句目

   大せつな日が二日有暮の鐘
 雪かき分し中のどろ道       支考

 さて、しんみりした後の展開は難しいが、ここは気分を変えたいところだ。
 とりあえず「暮れの鐘」は年末の除夜の鐘のことにして、参道の雪かきをしたが、多くの人が残った雪を踏みしめて通るため、かえって泥道になって歩きにくくなるという「あるある」で展開する。

二十五句目

   雪かき分し中のどろ道
 来る程の乗掛はみな出家衆     惟然

 「乗掛」は乗り掛け馬で、ネットで調べた所、児玉幸多『宿場と街道』の引用で、

「(二)乗掛(乗懸)というのは、人が乗って荷物をつけたものをいう。馬の背の両側に明荷(つづら)を二個つけ、その上に蒲団をしいて乗る。明荷は今では相撲が場所入りの時にまわしや化粧まわしを入れて持ち運ぶために使われている。その荷を乗懸下とか乗尻という。乗掛荷人共というのは、人と荷物がある場合ということである。乗尻の荷物は、慶長七年の規定では十八貫目ということになっていたが、後には二十貫目までとなり、ほかに蒲団・中敷・跡付・小付などで、三、四貫目までは許された。それと人の目方を合わせれば四十貫ぐらいになるわけで、その賃銭は本馬と同じであった。」

とあった。
 北国の大きなお寺の法要だろうか。大荷物を抱えたお坊さんたちが馬で次々とやってくる。そのせいで雪かきした道は泥道になる。

二十六句目

   来る程の乗掛はみな出家衆
 奥の世並は近年の作        芭蕉

 陸奥の作柄は近年にない豊作だという。寺領の豊作でお寺関係はさぞかし潤ったことだろう。

二十七句目

   奥の世並は近年の作
 酒よりも肴のやすき月見して    支考

 前句が秋に転じたところで、ここで遠慮せずにすかさず月を出すのがいい。
 前句を商人などの噂話とし、それとは関係なく月見の情景を付ける。
 何かと見栄を張りがちな武家の月見と違い、商人は質素な肴で酒を楽しむ。「やすき」は廉価と気軽の両方の意味を掛けている。

二十八句目

   酒よりも肴のやすき月見して
 赤鶏頭を庭の正面         惟然

 芭蕉が福井の洞哉の所を尋ねた時の『奥の細道』に、、

 「市中でひそかに引入て、あやしの小家に夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。」

とある。路地裏の小さな家の庭など、どこにでもある花だったのだろう。「肴のやすき」の貧相なイメージから、貧相つながりで付けたのだろう。
 薄だったら農家の風情で、菊だったら武家の立派な庭、商人には鶏頭が似合うというところか。
 なお、鶏頭は食用にもされていたか、

 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花  嵐雪

の句もある。嵐雪のような風流人が知らなかったのだから、この時代には既に廃れていたのだろう。

二十九句目

   赤鶏頭を庭の正面
 定まらぬ娘のこころ取しづめ    芭蕉

 この巻にはなかなか恋の句が出ず、このまま終わるのも寂しいというのか、やや強引に恋に持ってゆく。
 ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか。庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味だが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したか。

三十句目

   定まらぬ娘のこころ取しづめ
 寝汗のとまる今朝がたの夢     支考

 前句の興奮を夢魔のせいとする。あるいは嫉妬に狂った生霊を飛ばす人でもいるのか。

 鈴呂屋書庫の方もよろしく。http://suzuroyasyoko.jimdo.com/

2017年10月27日金曜日

 今日もいい天気だった。明日からはまた台風が来るのかな。
 それでは「猿蓑に」の巻、二表に入る。

十九句目

   荷持ひとりにいとど永き日
 こち風の又西に成北になり     惟然

 東風(こち)が吹いたかと思えば西風になったり北風になったり、春の天気は変りやすい。雨になったりすると困るし、荷持ちもそのつどいろいろ気を使うことがあるのだろう。

二十句目

   こち風の又西に成北になり
 わが手に脈を大事がらるる     芭蕉

 昔ニッポン放送のラジオで人間寒暖計と呼ばれている人がいて、持病で天気予報をするコーナーがあったが、天候の定まらない時に持病持ちというのは結構ありがたがられたりするのかもしれない。

二十一句目

   わが手に脈を大事がらるる
 後呼(のちよび)の内儀は今度屋敷から 支考

 前句の「脈」を人脈のことと取り成す。「後呼(のちよび)の内儀」は後妻のこと。コネでもなければなかなか後妻を立派な武家屋敷からなんてことにはならない。大事がられるはずだ。

ニ十二句目

   後呼の内儀は今度屋敷から
 喧嘩のさたもむざとせられぬ    惟然

 立派な屋敷から来た妻だし、ばついちという負い目もあって、こいつあおちおち喧嘩もできん。超軽みの頃なら、そんな付け句になったかもしれない。

2017年10月26日木曜日

 今日は久しぶりに富士山が良く見えた。山頂から北の斜面が白くなって、富士山らしくなった。
 それでは「猿蓑に」の巻の続き。

十三句目

   一重羽織が失てたづぬる
 きさんじな青葉の比の椴楓(もみかえで) 惟然

 これはなかなかわかりにくいが、おそらく前句の「一重羽織」を一重羽織を着た人に取り成し、それが急にふらっといなくなって青葉の頃の樅や楓を見に行った、ということだろう。まあ、なんともお気楽(きさんじ)なことか。
 きさんじな一重羽織が青葉の頃の樅楓を失せてたづぬる、の倒置になる。

十四句目

   きさんじな青葉の比の椴楓
 山に門ある有明の月         芭蕉

 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、「きさんじ」には「法師程世にきさんじなる物はなし」(西鶴『男色大鑑』貞享四年刊)という用例があるという。芭蕉もまた「きさんじ」から法師を連想したか。芭蕉さんのことだから『男色大鑑』を読んでいたかもしれないが、まあ、芭蕉さんのそれはあくまで噂ですから。
 山はおりしも青葉の頃で、有明の月に夜も白んでくると樅や楓の若葉が次第に姿を現し、その中からお寺の門とおぼしきものも見えてくる。こんな所に暮らすお坊さんはさぞかしきさんじなことだろう。上句は「きさんじな、青葉の頃の‥‥」と切って読んだ方がいいだろう。

十五句目

   山に門ある有明の月
 初あらし畑の人のかけまわり     支考

 「初あらし」は秋の初めに吹く秋風の強いやつだと思えばいいのだろうか。風の音に驚かされるのもこの風だろう。
 山に門あるから山村の風景とし、早朝からせわしく駆け回る農民の姿を付けている。特にひねりのない素直な展開だ。「畑の人の」は「畑を人が」ということ。

十六句目

   初あらし畑の人のかけまわり
 水際光る濱の小鰯          惟然

 畑を海辺の風景とし、人がせわしく駆け回っていると思ったら浜にはイワシの大群が来て海が光って見える。こりゃ大騒ぎするはずだ。鰯も秋の季語。

十七句目

   水際光る濱の小鰯
 見て通る紀三井は花の咲かかり    芭蕉

 紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。
 和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れている。

 行く春にわかの浦にて追付たり   芭蕉

の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、

 見あぐれば桜しまふて紀三井寺   芭蕉
   
の句もある。
 実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。

十八句目

   見て通る紀三井は花の咲かかり
 荷持ひとりにいとど永き日     支考

 紀三井寺に花が咲き、主人は花見に興じているのだろう。荷物持ちの男はただ一人、主人の花見が終わるまで荷物の番をして、ただでさえ春の長い一日が余計長く感じられる。

2017年10月25日水曜日

 今日も一日雨だった。なんかいろいろ事件のあった平成二十九年も、「雨」の一文字で片付けられてしまいそうだな。
 遠藤賢司さんは中学高校の頃よく聞いたな。1stアルバムのniyagoはなかなか入手困難だったが、銚子電鉄に乗りに行った時、銚子のレコード屋でたまたま見つけて買ったのを覚えている。「夜汽車のブルース」は良かったね。2ndアルバムの「満足できるかな」は今で言えばちょっとブルータルの入ったデスメタルだな。あのころはハードフォークと言ってたけど。「KENJI」は名盤だった。だけど、「気をつけろよベイビー」は今となってはマスコミの影響力もなくなっちゃったからな。いるのは下痢気味の気弱な、官僚と財界にめっぽう弱いヒットラー?だけだ。「宇宙防衛軍」辺りまでは聞いてたかな。
 まあ、エンケンについて語りだすときりがないのでこの辺で「猿蓑に」の巻にいくことにしよう。

九句目

   昼寝の癖をなをしかねけり
 聟(むこ)が来てにつともせずに物語 支考

 場面は変って、昼寝の癖が抜けないのは嫁に行った娘のことか。婿が家にやってきて、いかにも不満げにそのことを滔々と訴える。
 前句を物語の内容とした付け。

 聟が来てにつともせずに物語「昼寝の癖をなをしかねけり」

といったところか。

十句目

   聟が来てにつともせずに物語
 中國よりの状の吉左右(きっそう)  惟然

 ここで言う中国は唐土(もろこし)のことではなく、今日の中国地方と思われる。ウィキペディアで「中国地方」を調べると、

 「文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993年)。天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。」

とある。
 これでいくと、「中国」という言葉は南北朝期から戦国時代までの今で言う中国地方を指す言い方で、おそらく前句の「につともせずに物語」からこの婿を、みだりに笑ってはいけないと教育されている武家の位と定め、武士が使いそうな「中国」という言葉を用いたのであろう。
 あるいは戦国時代の設定で、中国戦線から吉報がもたらされたということか。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は大内家か毛利家へ士官の決まった牢人の句としているという。

十一句目

   中國よりの状の吉左右
 朔日の日はどこへやら振舞れ     芭蕉

 朔日(ついたち)は吉日で、特に八月の朔日は「八朔」と呼ばれ、日ごろお世話になっている人に贈り物をしたりした。
 ここでは八月という指定はないので、八朔を匂わせてはいるが無季になる。いろいろご馳走になったりしたのだろう。
 中国からの吉報に加えて、めでたい朔日の接待とお目出度つながりで、これは響き付けになる。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)も「吉左右の状にひびき合せたる詞の栞也」としているという。

十二句目

   朔日の日はどこへやら振舞れ
 一重羽織が失てたづぬる       支考

 「柳小折」の巻の七句目に、

   小鰯かれて砂に照り付
 上を着てそこらを誘ふ墓参      酒堂

とあり、夏場などには羽織だけ着て簡単な礼装としたようだ。
 朔日の振る舞いに招かれ一応一重の羽織だけは羽織って行き形を整えていったものの、いつしか無礼講になり酔っ払った挙句羽織をどこかになくしてしまったと、いかにもありそうな話だ。
 さんざん捜した挙句、実は畳んで懐に入れてあったなんてこともあったかも。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『こと葉の露』の「いさみたつ」の巻に、

   伏見の橋も今日の名残ぞ
 懐へ畳て入ル夏羽織         馬莧

という句があるという。

2017年10月24日火曜日

 「猿蓑に」の巻の続き。

五句目

   篠竹まじる柴をいただく
 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉

 昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝る。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってくる。
 鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
 路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く

を思わせる。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりして。

六句目

   鶏があがるとやがて暮の月
 通りのなさに見世たつる秋    支考

 舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変える。末尾の「秋」はいわゆる放り込みで、とってつけたような季語だが、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせる。

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになる。

初裏
七句目

   通りのなさに見世たつる秋
 盆じまひ一荷で直(ね)ぎる鮨の魚 惟然

 盆仕舞いはお盆の前の決算のことで、年末の決算に対する中間決算のようなものか。
 馴れ寿司を仕込むために魚屋に声かけて、天秤棒に背負っている魚を全部買うから負けてくれと交渉する。人通りのないところで他に売れそうもないので魚屋もしぶしぶ承諾し、今日は店じまいとなる。
 鮨は夏の季語だが、お盆(旧盆)の頃でもまだ暑いので十分醗酵させることが出来る。

八句目

   盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚
 昼寝の癖をなをしかねけり    芭蕉

 この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、

「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」

と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのだろう。
 だが、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれない。
 ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間なら、無駄に働くようなことはしない。昼寝の楽しみはやめられない。
 前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「位付け」の句といっていいだろう。

2017年10月23日月曜日

 雨風が強かったのは朝の五時頃までで、そのあとは台風一過で久しぶりに晴れた。
 それでは「猿蓑に」の巻、行ってみようか。
 まずは発句。

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

 沾圃(せんぽ)は能役者で芭蕉に弟子入りしたのは遅く、元禄六年と言われている。
 五月晦日の、

 其富士や五月晦日二里の旅    素堂

を発句とする興行で、

   家より庭の広き住なし
 晨朝(ありあけ)は汀の楼の水にあり 沾圃

などの句がある。この句は五句目の月の定座ということもあって、庭の広い家から、汀の楼の有明を付けている。
 『炭俵』の「雪の松」の巻の興行にも参加し、

   二三畳寝所もらふ門の脇
 馬の荷物のさはる干もの     沾圃

   わざわざわせて薬代の礼
 雪舟でなくバと自慢こきちらし  沾圃

のニ句を詠んでいる。
 「猿蓑に」の発句もおそらくこの頃のものだろう、「霜」という冬の季語と「松露」という秋の季語が使われているが、芭蕉の脇から冬の句と扱われていたことがわかる。
 「松露」は近代では春の季語になっているようだが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では秋の八月の所に、

 「松露 [和漢三才図会]麦蕈(ばくしん)、俗云、松露。沙地、松樹ある陰処に生ず。松の津液と秋湿と相感じて菌となる。繖(かさ)、柄なく、状ち零余子(ぬかご)に似て円く大きし。外褐色、内白く、柔に淡く甘し。香あり。」

とある。
 芭蕉の「軽み」の風の確立される『炭俵』の頃の入門ということもあって、一躍「軽み」の推進者として『炭俵』の次の集、『続猿蓑』の撰者に抜擢される。
 その、『続猿蓑』のタイトルの由来となる句が、この「猿蓑に」の句だと思われる。
 松露は美味で香りも良く、それに霜の降りる様は単なる食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
 蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
 沾圃としては、ぜひこの霜の松露を救うべく『続猿蓑』が編纂されたと、そういう物語を描きたかったのだろう。
 ただ、さすがにこの句を巻頭に据えるのはためらわれたか。この句は沾圃のいない伊賀の地で、芭蕉自身とこれからの蕉門を担う期待の星、支考と惟然との三人で句を付け、『続猿蓑』の飾りとすることで入集することとなった。
 まずは芭蕉がこの句に脇を付ける。

   猿蓑にもれたる霜の松露哉
 日は寒けれど静なる岡      芭蕉

 冬の句の脇ということで「寒けれど」と冬の季語を入れて、霜の松露の背景を添える。あまり自己主張せずに謙虚に発句を引き立てている。
 第三は支考が担当する。

   日は寒けれど静なる岡
 水かるる池の中より道ありて   支考

 これも穏やかな、連歌のような趣向だ。『水無瀬三吟』の八句目、

   鳴く虫の心ともなく草枯れて
 垣根をとへばあらはなる道    肖柏

の句を髣髴させる。肖柏の句は草が枯れて道があらわになるという趣向だが、支考の句は水が枯れて池の中に道が現れるとする。かつては道だったところにいつしか水が溜まり池になっていたのだろうか。
 「道」はもちろん単なる道路ではなく、この世の「道」の含みも感じさせる。
 四句目は惟然。後に超軽みの風を打ち出すが、この頃は普通。

   水かるる池の中より道ありて
 篠竹まじる柴をいただく     惟然

 山に柴刈りに行くと、そこに笹も混じってくる。芭蕉の『奥の細道』の途中山中温泉で詠んだ、「馬かりて」の巻六句目、

    青淵に獺(うそ)の飛こむ水の音
 柴かりこかす峰のささ道     芭蕉

をより穏やかに流した感じか。

2017年10月22日日曜日

 今日は旧暦の九月三日。これから大きな台風が来る。台風は来ても選挙は無風。まあ、予想通りだが。
 元禄七年のこの頃は、芭蕉はまだ伊賀にいる。九月三日には支考と斗従が伊勢からやってきた。

   伊勢の斗従に山家を訪はれて
 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな  芭蕉

の句を詠む。「夏蒔きの蕎麦も山奥となればさらに遅く、旧暦九月にようやく花が咲く。」と以前、2017年6月24日の鈴呂屋俳話に書いたのでそちらの方をよろしく。
 九月四日の夜には支考、斗従を交えて、

 松茸や知らぬ木の葉のへばりつき  芭蕉

の発句で九吟歌仙興行を行う。松茸に熱燗なら大阪談林だが、松茸にへばりつく木の葉というあるあるネタに走るのが蕉風だ。
 支考の『芭蕉翁追善日記』によると、この興行は九月四日だが、同じ日に、

   戌九月四日会猿雖亭
 松風に新酒をすます夜寒哉     支考

を発句とする五十韻興行が行われている。一日に二つの興行、それも一つは五十韻となるとかなりハードで、「松茸や」の方は別の日だったのではないかと思う。「松茸や」の興行が夜だったなら、「松風に」の五十韻興行は昼間行われたことになる。
 そして、この日に芭蕉は松茸の句と酒の句を別々に詠んだことになる。

 花にうき世我が酒白く飯黒し    芭蕉

は天和三年の句で、この頃は白い濁り酒を飲んで、玄米の飯を食っていたのだろう。その後、もろみを原酒と酒粕に分けることで透き通った酒を造る「清酒」が広まったのであろう。ただ、今日のような炭素濾過を行わないので、まったくの無色透明ではない。
 九月四日よりは多分少し後だろう。

 猿蓑に漏れたる露の松露かな    沾圃

を発句を基にした、芭蕉、支考、惟然の三吟歌仙興行が行われている。こちらの方は『猿蓑』に収録されている。
 さて、そろそろまた俳諧を読もうと思うが、「猿蓑に」の巻は『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)だけでなく、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説があるので、まずこれを読んでみようかと思う。

2017年10月20日金曜日

 宗砌『初心求詠集』の最初の方に、こう書かれている。

 「一、連歌は言葉かかりを元にして、心をもとむる事なかれ、いかに心面白くとも詞下賤(げす)しく、かかり幽玄ならずば徒事なり、されば摂政殿も、レンガは先かかり第一也、かかりは吟なり、吟はかかりなりと仰せられけるにや、」

 摂政殿というのは二条良基公のことで、確かに二条良基の『連歌十様』には、

 「一、連歌ハカカリ・姿ヲ第一トスベシ、イカニ珍敷事モ、姿カカリ悪クナリヌレバ、更ニ面白モ不覚、譬ヘバ微女ノ麻衣キタルガゴトシ、ヤサシク幽玄ナルヲ先トス、雪月花ノ景物ナリトモ、コハゴハシキハ徒事ナリ、是ヲ心得分ベキ物ナリ、」

とある。ただし、「心をもとむる事なかれ」とは言っていない。『連歌十様』の方はこう続く。

 「ニ、連歌は心ヲ第一トスベシ、古事ヲ新クスルヲ吉トスベキニヤ、強チニ珍敷事不可好、一字二字ニテ新シクナル也、是第一用心也、‥略‥」

 また、同じく二条良基の『連理秘抄』には、

 「一、心を第一とすべし、骨のある人は意地によりて句柄の面白き也、ただ寄合ばかりを多くおぼえて、古材料をさし合わせて取立てたるばかりにて、我が力の入ぬは返々面白き所のなき也、」

とある。
 「心」という言葉は多義で、かつては単に「意味」という意味でも用いられた。更には日本の心だとか風雅の心だとか、精神論にも用いられる。
 宗砌が『初心求詠集』で言おうとしたのは、連歌は先ず言葉の続き具合が正しく、上句下句合わせたときの文法的なつながりの正しさを第一とし、それが内容として面白いかどうかというのはその次だという意味ではないかと思う。
 先ずは繋ぐことが肝心。それは蹴鞠に近いかもしれない。蹴鞠はいかに鞠を蹴るテクニックを競おうとも、基本的にはパス回しで、相手が取れないような球を蹴ってはいけない。サッカーのシュートではなく、あくまで輪になってみんなで鞠を落とさないように蹴る一種のリフティングにすぎない。そのなかでテクニックを競う。
 戦後の高度成長期には会社や学校の休み時間にバレーボールの円陣パスをするのがはやった時期があったが、あれに似ている。あくまでパスをつなぎ、いかに落とさないように続けるかが大事で、テクニックは二の次になる。
 連歌も基本的には百韻・千句続けることがメインで、一句一句の面白さはその次ということが肝心だったのだろう。だから、ネタとしての面白さにこだわらずに、先ずはきちんと意味が通っているかどうかだったのだろう。
 文法的に正しく意味がきちんと通れば、とりあえずは合格点で、あとはまず続ける。百韻・千句興行ともなれば、一句付けるのに考える時間はない。その中で時折面白い句が生まれればそれで良かったのだろう。
 おそらく、江戸時代でも延宝の頃の談林俳諧までは百韻興行が主流で、井原西鶴の大矢数興行などもあったように、一句一句の意味よりも、どれだけ早く長く続けられるかの方に重点が置かれていた。
 おそらく書物の普及がこうした連句の本来のあり方を変えていったのだろう。書物にするには紙を節約したい。少ない紙面でいかに面白くするかということに知恵を絞れば、自ずと一句一句のネタとしての面白さが要求される。早く長くということに意味がなくなり、一句の意味が重視されれば、歌仙のような短い形式にならざるを得ない。
 蕉門は一句一句の意味の濃さという点では、俳諧を一つの頂点にまで導いたが、結局は俳諧の衰退の始まりになった。バレーボールでも円陣を組んでパスを廻すだけなら誰でも気軽に参加できる。ところが試合となるとそうはいかない。上手い下手がはっきり分かれてしまう。
 俳諧興行も、すばやくさくさくとつけて行きあまり内容にこだわらない興行なら、誰でも気軽に参加できた。それが一句一句に何か面白いネタだとか、深い精神性なんかを要求されるようになると、みんな一句毎にうんうん呻って考え込んでしまう。本来楽しく談笑する場であった興行の席が、みんな俯いて呻ってばかりでちっと進まず、歌仙一つ巻くのに何日もかかってしまうような状況が、蕉風確立期の蕉門に既に生じていたのではないかと思う。これでは興行は楽しくない。興行というよりは苦行だ。
 そうなってくると、今度は言葉のかかりや文法なんてどうでもよく、とにかくネタとして面白ければいいのなら、別に句を連ねなくてもいいんじゃない?ってことになる。こうして前句付けが流行し、それがやがて川柳の流れを生んでゆくことになる。
 芭蕉はこうした動きに対抗するために、『奥の細道』の旅を終えたあと、「軽み」を提唱して、何とか句を楽につけられるようにと工夫をしてゆくのだが、結果としては文法的にあやふやな、付いているのか付いてないのかわからないような句が多くなってゆくことになった。
 江戸中期になると、句と句とのつながりはほとんどどうでも良くなり、だんだんと近代連句のような連想ゲームに陥ってゆく。江戸後期の蕉門俳諧の注釈は、そうした混乱の中で書かれている。
 宗砌はこうした三百年後の連句の行方を読んでいたかのように、「心をもとむる事なかれ」と言い捨てている。連歌は続けることに意味があるのであり、意味に固執すると衰退することをあたかも知っていたかのようだ。
 ただ、宗砌のこの考え方は一般的ではなかった。一般的には二条良基公のように、かかりも心も両方第一だったのだろう。あまり奇抜なネタに走るのは「心」ではなく「意地」によるものだと認識していた。

2017年10月19日木曜日

 今日も一日雨ざあざあ降っていた。だいぶ冷えてきた。

 「一、韻てにはの事
     しめぢが原はのこるかれ草
   そのちかひちちの仏をただたのめ
  ただたのめしめぢが原のさしも草我世の中にあらんかぎりは
     衣やうすき鳴くらす蝉
   月にをく霜には秋のよやさむき
  夜やさむき衣やうすきかたそぎの行合のまより霜やをくらん
     もろく成行花の夕風
   うきをしる袖の涙の日にそへて
  嵐ふく峯のもみぢの日にそへてもろくなり行我涙かな
     床のうづらをたつるかり人
   はし鷹のつかれの草を犬がみや
  犬がみや床の山なる不知川いさとこたへて我名もらすな
     いなばのうへに風わたる也
   月になる夕の雲の立わかれ
  たちわかれ因幡の山の峯におふる松としきかば又かへりこん
 ただ頼めしめぢと続け、夜さむき衣うすきと言ひかけ、日に添へてもろくとなづらへ、犬がみや床とつらね、たち別れいなば、いづれもやさしく心ありて、真実羨ましくおぼえて候也、いづれもいづれも心にかけられ候はば、自然とかかるてにはも寄りくる事もあるべく候也」

 「韻てには」は「歌てには」ともいう。下句の頭が「しめぢが原」だったら、『沙石集』の、

 ただ頼めしめぢが原のさしも草
    われ世の中にあらん限りは

の歌を思い浮かべ、上句の末尾を「ただ頼め」にして上句下句が「ただ頼めしめぢが原の」と歌の一説で繋がるように詠む。
 「もろく成行」に「日にそへて」を付ける例は、二条良基の『知連集』にも「歌てには」の例として挙げられている。
 現代的にするなら、

   皇帝ペンギンつらい絶食
 突然にプリンセス脱出したし

 さて本歌は何でしょう?

2017年10月16日月曜日

 今日は旧暦八月二十七日で葉月ももうすぐ終わり。今日も一日雨だった。

 「一、重付事
     いたくな吹そ山の夕かぜ
   露のぼる草の庵の板びさし
     しめぢが原はただ秋の草
   うき夕袖を涙になをしめて
     とひてやゆかんさ夜の中山
   さやかにも道はおぼえずふる雪に
     あまりにうきは深山べの里
   袖はよもほすひまあらじ雨そそぎ
     いくたびおしむ命なるらん
   これぞ此人のたづねし生田山
     もしやと後をたのむ玉づさ
   あま人のかくとはこれかもしほ草」

 「重付事」は「重ねてには」とも言う。上句の末尾と下句の頭とで同じ音を重ねて付ける付け方で、「板びさし→いたくな」「なをしめて→しめぢが原」と付く。
 三番目の例は上句の頭の「さやかにも」に下句の末尾の「さ夜の中山」と付く変則的な重ねてにはになっている。
 あとは「雨そそぎ→あまりに」「生田山→いくたび」「もしほ草→もしや」と付く。
 これは和歌の序詞から来たものと言えよう。

 かくとだにえやは伊吹のさしも草 
    さしも知らじな燃ゆる思ひを
               藤原実方朝臣
 みかの原わきて流るる泉川
    いつ見きとてか恋しかるらむ
               中納言兼輔

 現代的にするなら、筆者が昔作った歌だが、

 寝ころべば凍りつくよなアスファルト
    明日のことなどわすれていよう

のようなものか。

 「一、かけてにはの事
     山にかかりて雲やたつらん
   是までは遠きをきつるけふの道
     とくなる御法みな人のため
   これや此たえなるはちす花のひも
     ひく心こそうき中にあれ
   とほるべき暮をいつとかしらま弓
     涙こぼるる袖の上かは
   秋さむき戸ぼその雨のはらはらと」

 重付(重ねてには)は言葉の音の一致または類似でつなぐが、掛けてにはは意味のつながりの縁でつなぐ。「けふの道→山にかかりて」「ひも→とく」「弓→ひく」「はらはらと→涙こぼるる」

2017年10月15日日曜日

 今日も一日雨降りだった。
 それでは宗砌『初心求詠集』の続き。

 「一、ながらにて付事
     関こそやがて遠くなりぬれ
   秋風の山吹こゆる声ながら
     柴の戸さむく秋ぞしぐるる
   露のもる軒ばの松の風ながら
  一、とがめながらにて付事
     又時雨行秋にこそなれ
   嵐ふく雲まの月の影ながら
     苔の衣の春としもなし
   桜さく山の陰には住ながら」

 「ながらにて」の方の「ながら」は「とともに」というような意味で、秋風の山を越える音とともに関所も遠くなる、露漏る軒端の松風とともに柴の戸は時雨れる、と付く。
 これに対し「とがめながら」の方の「ながら」は「なのに」というような意味で、前句に対して否定するような状況が付く。月の影はあるのに又時雨行く、桜咲く山陰に住んでいるのに苔の衣には春もない、と逆説的に展開させるあたりは、咎めてにはの一種といえよう。
 「咎めてには」については、二条良基の『知連抄』には、

 「六、咎てには、たとへば(下句に)、
     こころのままによしやつらかれ
   ちかづけばとをざかるぞときくものを
   身をしらでさのみにしたふものあらじ
   しのぶには月さへ人の関路にて
 此三句、みな心のままに付侍也、」

といった例が記されている。恋のつらい心に対し、近づけば遠ざかるというのに、身の程を知らずに恋なんかするから、お忍びで通うにも月明かりは関所のようなもの、と「よしやつらかれ」の原因を咎めて付けている。
 また、

    「つれなき人のなどやとひこぬ
   ならぶ木の花に風ある庭の松
   有明の月いづるまで待つるに
   あふ事も後の世まではいざしらず」

の例をも挙げて、「庭の松」は「咎めぬてには」とし、「有明」の方は「咎めてには」としている。「有明の月が出るまで待っているというのに」という言葉には、つれなき人を咎める意味が含まれている。
 梵灯庵主の『長短抄』には、

 「六、咎テニハト云は、例エバ
     恋セヌ人ヨナニヲモフラン  ト云ニ
   待テコソウキ夕暮ト成ニケレ
  又云 ワレノミゾキク庭ノ松風  ト云ニ
   捨人ノ跡ニウキ身ヤノコルラン
 此等ハ咎テニハナリ、恋セヌ人ヨナニヲ思ゾ、我ハ待コソ憂ケレト咎メタルテニハ也、又我ノミ松カゼヲ聞トアルニ、身ハ捨人ノ跡ニ残リタリト咎メタルナリ」

とある。
 現代語ならこういう感じか。

   今日も一日雨降りだった
 暇だから借りた漫画を読みながら

では咎めてないが、

   今日も一日雨降りだった
 思いつく楽しいこともありながら

だと咎めたことになるか。

2017年10月14日土曜日

 昨日今日と小雨がしとしと降り続けた。こんな日がしばらく続くのかな。
 とりあえず、宗砌『初心求詠集』の続き。

 「一、上下らんを付てちがふ事
     袖や涙のはてをしるらん
   別ては又あふことをたのむ身に
     人の心はさらにたのまず
   しら菊やうつろふ中にのこるらん
     暁しれと鳥やなくらん
   寺遠き里には鐘の音もなし
     人の心のなき世なりけり
   散のこる花をば風やおしむらん
     うきやあしたの別れなるらん
   夕暮はまつに心のなぐさみて
     ふりぬる橋は末もつづかず
   その名をば富士の煙やのこすらん」

 これは、下句の「らん」に上句を付けるときは「らん」を疑問に取り成し、下句に上句の「らん」を付けるときには「らん」を反語として用いることをいう。
 「別ては又あふことをたのむ身に」つまり未練が残る身には袖に涙が果てることがあるだろうかと疑問に取り成し、「人の心はさらにたのまず」に「らん」で上句を付けるときには、白菊は残るだろうか残るはずもない、人の心はさらに、と付く。
 暁知れと鳴く鳥も、鐘の音がないから鳥で知るのだろうかとなり、人の心のなき世は、風も散る花に容赦なく吹くはんとなり、「惜しむらん」は反語になる。
 朝には別れになるだろうか、という前句には夕暮れは待つに心の慰めてと違えて付け、古い橋は富士の煙の消えてゆくように後に残らないと付く。
 ただ、実際の連歌では、下句が疑問、上句が反語と決まっているわけではない。ただ初心者にはその方がつけやすいということだろう。
 文和千句第一百韻の九句目

   里こそかはれ衣うつ音
 旅人のまたれし比や過ぬらん   救済

は上句を疑問で付けている。み
 水無瀬三吟の五句目、

   船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん   肖柏

は反語の「らん」で付けている。
 水無瀬三吟の四十三句目、

   月日のすゑやゆめにめぐらん
 この岸をもろこし舟のかぎりにて  宗長

の前句の「らん」は疑問になっている。
 文和千句第一百韻の四十七句目、

   我が家々も春やきぬらん
 老らくの身にあらたまる年はなし 救済

の場合は前句を春なんて来やしないと反語にして、あらたまる年もなしと展開する。

 「一、もにもにて付事
     入あひの鐘もけふは聞えず
   花散し後には風も別にて
     人のたもとも露やをくらん
   うき秋は身にもかぎらぬ夕にて」

 これは「はにはをもて付事」と似ている。何々も何々なら何々も何々だ、という付け方だ。
 いがらしみきおの漫画『ぼのぼの』のアライグマの父さんの台詞「青い空も嫌いなら白い雲も嫌いだ」を連句にするなら、

   雲の白きも嫌うべきなり
 青い空それを厭うも道理なら

って感じか。

2017年10月13日金曜日

 梅雨空に『九条守れ』の女性デモ よみ人知らず

 この句の裁判の判決が出たという。「理由を十分検討しないまま掲載しないことにしたと推認するのが相当だ」ということで、5万円の支払いを命じたが、「公民館だよりという特定の表現手段を制限されたにすぎない」として掲載請求は認めなかったという、まあとりあえず中を取ったという形だ。
 この句をネットで調べたが、作者の名前(俳号)が見当たらなかったので、とりあえず「よみ人知らず」と記した。まあ、本当にこの俳句を世に広めたいなら、別に公民館だよりへの掲載にこだわらなくても、ネットで堂々と自分の俳号を記して公開すればいいことで、こう言っちゃ何だが、わざわざ裁判にするために作られた句なのではないかと疑いたくなる。
 確かにこの句は九条デモを肯定も否定もしていない。だから、あえてこれに脇を付けるなら、同じように事実で返すのがいいだろう。

   梅雨空に『九条守れ』の女性デモ
 行き交う人の顔の涼しさ

 この女性デモは見てないが、たまたま新宿へ行ったときに、伊勢丹前の九条デモとやらを見たが、道行く人は関わりになりたくないかのように素通りしていた。デモ隊のほとんどはいわゆる団塊世代の人たちで、いかにもプロ市民というオーラを放っていた。デモ隊は伊勢丹の交差点からビックロの前にかかるかかからないかくらいの人数で、その後ろにできた広い空きスペースで右翼と思しき人が幟を立てていた。
 俳諧の言葉は基本的には多くの人が共有できるような共通の体験に根ざした言葉を作り上げることにあり、分断を煽るような言葉は好ましくない。その意味で、この句は「俳諧」としてみるなら良い句とは言えない。

 まあじじいネタはこれくらいにして、『初心求詠集』の続きに行こう。

 「一、物をにて付事
     鳥はいづくの夜はになくらん
   別をばわが心にもしる物を
     末みじかきは庭の若草
   出しより日影はながくなる物を」

 「物を」は何々になってしまうのになぜ、というようなニュアンスになる。これは咎めてにはに近い。
 咎めてにはというのは前句の作者を咎めているのではない。連句の前句にはもとより人格はない。ただ、前句の解釈の一つの思いがけない可能性を引き出すことが重要で、前句の本来作られた意味が何であったかはどうでもいい。
 例に挙げられている句は、前句を惜しみ、それに対して無常な現実を突きつけるというふうに付けている。夜に鳴く鳥には朝になれば別れが来る物を、秋になって生えてきた若草は育つ前に影ばかり長くなる物を、という具合に、前句の中から惜しむべき残念なという情を引き出して付けている。
 もし「薄が原は銀の輝き」という前句から「物を」で展開を図ろうとするなら、銀の輝きに何か惜しいという情を見出さなくてはならない。

   薄が原は銀の輝き
 木枯らしにやがては寂びて行く物を

みたいな感じか。

2017年10月12日木曜日

 今日も引き続き宗砌の『初心求詠集』から、連歌の「てには」について見てみよう。

 「一、はににをもて付事
     うらの夕はけぶりなりけり
   霞たつ春のあしたとおもひしに
     月にはいとふ秋のむら雲
   花を見る春はのこれと思ひしに
     春は猶ある入あひの鐘
   身をなげく心も今はつきぬ日に」

 前回の「はにはをもて付事」だと、何々は何々で、何々は何々と並列する形になるので展開としてはそれほど大きくならない。大きく展開させたい時には、「何々だというのに、何々は何々」というふうに展開させる。
 たとえば、前回の「薄が原は銀の輝き」だったら、

   薄が原は銀の輝き
 荒涼とした風景と思いしに

みたいな感じか。現代語だとあまり「しに」という結びはないので、

   薄が原は銀の輝き
 荒涼とした風景と思ったが

の方がいいか。
 『初心求詠集』の例句の方も、朝の霞かと思ったら夕べに漂う煙だった、と違えて付けている。月には嫌う雲も花の雲なら残れという、も同様に月に花と違えて付けている。もう一つも、嘆きが尽きないというのに春は、と付く。
 違え付けにするのなら、

   薄が原は銀の輝き
 夕暮れの菜の花の土手俤に

なんてのはどうだろうか。

 月にはいとふ秋のむら雲
 春は猶ある入あひの鐘

 この二つの「は」は単なる主格の「は」ではなく、係助詞になっている。係助詞というと学校では「や」「か」「ぞ」「こそ」の四つしか習わないが、「は」も「も」も係助詞になる。
 この二句は、

 月にいとふは秋のむら雲
 春猶あるは入あひの鐘

と言い換えることが出来る。
 「も」の場合も、たとえば、「春立つらしも」は「春もたつらし」に替えることができる。

 今日ばかり人も年寄れ初しぐれ  芭蕉

の句も、「今日ばかり人年寄るも初しぐれ」が「今日ばかり人も年寄る初しぐれに」なり、それをさらに「年寄れ」と力強く命令形に変えた形になっている。並列の「も」ではなく強調の「も」、いわゆる「力も」はこうした係助詞的用法がもとになっている。

2017年10月11日水曜日

 今日は宗砌の『初心求詠集』の続き。岩波文庫『連歌論集 上』(伊地知鉄男編、一九五三)より引用。
 係助詞「ぞ」も基本的には「こそ」と同じように否定の句を付けることが出来る。「何々ではなく何々ぞ」という風に繋がる。

 「一、ぞ付の事、こそ付と同心なり。
     霞をわけて水ぞながるる
   花さそふ風は心もなかりしに
     月の夜さむく風ぞきこゆる
   千鳥鳴くしほひは浪の音もなし
     露にぞもとの袖はぬれける
   捨る身は物おもふべき秋もなし」

 風は心無いが水は流れて心ある。
 波の音はないが風は聞こえる。
 世を捨てるのだから涙なんかない(はずだが)、露に袖は濡れる。
 どれもわかりやすい付けだ。初心者はこれを覚えておくだけである程度連歌に参加できたのだろう。

 「一、そにて付事
     程なく行や舟路なるらん
   くるしきぞ野山を分る心なる
     秋の時雨はふるとしもなし
   今夜又月にぞ袖をぬらしつる」

 これも「こそ」の時と同じで、苦しいのは野山を踏み分けてゆくのと同じで、船路だと程なく行くのだろうか、そんなことはない、と前句を反語に取り成す。
 時雨は降らないというのを受けて、月にぞ袖をぬらしと付くのも、同様に、否定に対し肯定で付ける。
 江戸時代になると係助詞の使用頻度はかなり減る。こうしたてにはで付ける技法は廃れてしまったようだ。

 「一、はにはをもて付事
     草の庵りはあり明の月
   岩屋にはいかが吹らん秋の風
     よそなる里は又鐘の声
   野を行ば露と霜とに袖ぬれて
     月はいづくの空を行らん
   秋の夜は時雨に成て明にけり
     しほひの雪はのこるともなし
   影うすき朝の月はなを見えて」

 これは「何々は何々、なら何々は何々だろうか」という並列する付け方になる。
 たとえば、「薄が原は銀の輝き」だったら、

   薄が原は銀の輝き
 夕暮れは金の光になるだろか

みたいな付け方だ。

2017年10月10日火曜日

 昨日は箱根千石原へ薄を見に行った。昔(70年代)遠足でバスで通ったときには随分広いところだと思っていたが、今見ると山の麓のほんの一角に過ぎなかった。大人になったせいで小さく見えるのか、それとも薄が原が縮小したのかはよくわからない。それでもきちんと保存されているせいか、他の雑草もなく見事な薄が原だった。
 薄は青い葉と白い穂が日の光に輝いていて銀の野原だった。きれいなのは穂だけでなく、葉に反射する光も大事だとわかった。これが一ヶ月もすると枯れ薄となって金の野原に変るのだろう。
 江戸時代の人は薄が原は当たり前の景色だったのか、

 面白さ急には見えぬ薄かな     鬼貫

という句もある。失われてみると、まとまった薄の群生を見るだけで圧倒される。
 揺れる薄は手招きするが如くで、

 何ごとも招き果てたる薄かな    芭蕉

 風に揺れれば、

 ぞっとするほどそよかかる薄かな  額翁『伊達衣』
 一通り風道見する薄かな      等盛『伊達衣』
 秋の野をあそびほうけし薄かな   李由『韻塞』

 ただ、昔は川原などに野ざらしが落ちていたりしたせいか、死を暗示するものでもあった。月や鹿は付き物。

2017年10月8日日曜日

 今日はちょっと趣向を変えて、中世連歌の付け筋を見てみようと思う。
 宗砌の『初心求詠集』はタイトルのとおり、初心者向けの解説で、今日の連歌に興味持つ者が学ぶにはちょうどいい。
 そのなかで「てには」の使い方について、いかに中世の人が研究していたかを見てみよう。

 「一、こそ付の事
     風こそのこる花をたづぬれ
   山里を春に契し人はこで
     霜こそむすぶ枕なりけれ
   寒夜の鐘の音には夢もなし
     あまりあるこそうらみなりけれ
   あふ夜はのやかてはなどや明ぬらん
 是は各々、こそに当りて付たるなり、口伝あり、」

 前句が「こそ」でもって強調されているときは、「何々ではなく、何こそが」という風に、前句に否定するべき内容を持ってくる。
 「風こそのこる花をたづぬれ」、残った花を尋ねてくるのは風だけとなれば、何かが尋ねてこなくて風だけがと展開できる。そこで「契りし人はこで、風こそ」となる。
 「霜こそむすぶ枕なりけれ」、枕に結ぶのは霜だけとなれば、何が結ばずにということを付ければいい。寒い夜の夜明けを告げる鐘の音には、すっかり夢も醒めてしまい、霜だけが、となる。
 「あまりある」は度を越えたということで、この場合は度を越えてない、常のことを付ければいい。愛しい人と逢う夜半は何ですぐに明けてしまうのだろうか、それにしても短すぎる、と付く。
 湯山三吟の十三句目に、

   世にこそ道はあらまほしけれ
 何をかは苔のたもとにうらみまし   肖柏

という句があるが、これもまた、「こそ」に否定の「うらみまし」を付け、夜を捨てた苔の袂にではなく世にこそ道は、と付く。

 「一、こそをもて付事
     霜にみゆるや枯野なるらん
   雪にこそ山の遠きはしられけれ
     雲の残るや又時雨らん
   我をこそふりぬる身とはおもひしに
     あまや衣をなをぬらすらむ
   心ある人こそうきをしるべきに」

 これは逆に「こそ」を付ける方法で、前句が「らん」止めで疑問だった場合には、反語に取り成して「何々だろうか、そうではない、何々こそ」と付ける。
 霜が降りているように見えるのは枯野だろうか、そうではない、雪だからこそ山がまだはるか遠くだとわかる。
 雲が残っているが又時雨になるのだろうか、そうではない、雲は煩悩の雲で自分自身にこそ時雨がふっているからだ。
 海女は衣をさらに濡らすのだろうか、そうではない、衣を濡らすのは心ある都人でなくてはならない。
 ただ、『水無瀬三吟』の十三句目、

   移ろはむとはかねて知らずや
 置きわぶる露こそ花にあはれなれ   宗祇

の場合は前句の「や」を反語ではなく疑問に取り成し、「花に置きわぶる露こそあはれなれ、移ろはむとはかねて知らずや」としている。「あわれなれ」「かねて知らずや」で、ちゃんと繋がっている。これは「初心」ではなく高度な付け方だ。
 どちらも、上句と下句がきれいに繋がるように工夫されている。

 山里を春に契し人はこで風こそのこる花をたづぬれ
 寒夜の鐘の音には夢もなし霜こそむすぶ枕なりけれ
 あふ夜はのやかてはなどや明ぬらんあまりあるこそうらみなりけれ
 雪にこそ山の遠きはしられけれ霜にみゆるや枯野なるらん
 我をこそふりぬる身とはおもひしに雲の残るや又時雨らん
 心ある人こそうきをしるべきにあまや衣をなをぬらすらむ

 こういう上句下句合わせてすらすらと読み下せる付け方を中世連歌では良しとした。そのために「こそ」は否定か反語で受け、「らん」は反語にして「こそ」で付けるというのが、一つの付け筋とされていた。

2017年10月5日木曜日

 今日は日系イギリス人のカズオ・イシグロさんのノーベル文学賞受賞ということで何かコメントしてみたいけど、正直このごろはラノベ以外の小説はほとんど読んでないので、カズオ・イシグロの名前も実は初めて聞いた。代表作の「わたしを離さないで」も、そう言われてみればそんな映画があったかなくらいの認識だ。
 ただ、テレビのニュースを聞いていると、しつこく「臓器移植の提供者となるために育てられた若者たちが」を繰り返してたが、こういうのって本来なら一体どんな施設なんだろうなんてあれこれ考えわくわくしながら読むもので、最後になってそうだったのかと驚き感動するはずなのに、メディアの報道ってなんでこうネタバレに無関心なのか。
 まあ、大体文学者というのはネタバレに関しては無神経なもので、大事なのは内容で、展開の仕方についてはほとんど関心がない。
 俳諧でも、

 うらやまし思い切るとき猫の恋   越人

の句が、何で「思い切るときうらやまし猫の恋」ではいけないのかわからないなどと言う。
 越人の原案はまだ最後に「猫の恋」で落ちにしているが、これが「猫の恋思い切るときうらやまし」では面白くもなんともない。

 斬られたる夢はまことか蚤の跡   其角

 こういう句も順番は大事で、これが「蚤の跡斬られたる夢まことなり」では目も当てられない。
 だが、かつてほんのちょっとネットの現代連句のサイトにお邪魔した時、

 ダッチオーブン棚にはばかる    春蘭

なんて句が出てきたとき、ちがうでしょ、「棚にはばかるダッチオーブン」でしょと言ってみたものの、なにやら分けのわからない理屈をこねて自分を正当化していた。

 今年竹面妖な皮ぬぎにけり     ゆうゆ

という発句もあったが、これも惜しい。何で、

 面妖な皮ぬぎにけり今年竹

にしないんだ、と思ったが、ネタバレに無関心なのはこういう自称文学者気取りの連中なのだろう。
 イシグロさんのようなノーベル賞を貰うような世界的なベストセラー作家は、こういう過ちはしないし、それを人を煙に巻くような理屈でごまかしたりはしない。所詮は売れない連中のすることだ。
 『源氏物語』でも「末摘花」巻は、本来どんな女の人なんだろうかとあれこれ想像しながら読むから、あの落ちが利いてくるのだが、今じゃ学校の授業のせいでみんな落ちを知ってしまっている。
 野村美月さんの『ヒカルが地球にいたころ……』の「末摘花」はその点よくできていた。最後まで正体は誰だろうとはらはらさせる展開で、オリジナルの『源氏物語』の「末摘花」巻をよく理解しているという感じだった。
 自慢じゃないが学校の古典の時間は大体居眠りしていたので、こやん源氏を訳す時に、「夕顔」巻や「若紫」巻は結末を知らなかったから、結構楽しく読むことが出来た。「末摘花」巻はその点ではがっかりだ。

2017年10月3日火曜日

 明日は十五夜だが、今日の月はまだ満月にはまだまだだ。うっすらと雲がかかり、雲の中を月が通り過ぎてゆく眺めは悪くはない。
 お月見というと、

 盲より唖のかはゆき月見哉    去来

の句をふと思い出す。「かはゆ」は本来の「可哀相」の意味で、今日の「可愛い」の意味ではない。
 目の不自由な人よりも発話に不自由な人のほうが可哀相だというこの句は、一般的には、名月を見れない人よりも名月を見て何も言えない人のほうがかわいそうだ、という意味に解されている。
 今日のように月見が個人的なもので、いわゆる天体ショーとして捉えられる場合は、月そのものが大きな感動を与えるかのように錯覚するかもしれない。
 しかし近代化の前の人たちにとって、月はもっと身近なもので、月の明るさは生活を左右するものだった。月が明るければ夜通し起きて飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしたり、平安貴族の若者たちは、ここぞとばかりに恋人のもとへと通い、楽器を共に演奏したりするいわゆる「あそび」を行ったり、時にライバルとかち合ったりした。
 月の夜はみんなで起きていて音楽や物語などを楽しんだりしたならば、耳が研ぎ澄まされていて音楽に類稀なる才能を発揮する目の不自由な人や、文字に頼らない記憶力でたくさんの物語を記憶している琵琶法師など、案外月見の席で目の不自由な人はスターだったのではないかと思う。
 芭蕉も貞享三年に、

 座頭かと人に見られて月見哉   芭蕉

の句を詠んでいる。これも俳諧興行の席で古の風雅から最新の流行まで雄弁に語る芭蕉さんに、そんなに口が上手いなら琵琶法師にでもなれよと言われたとか、そういうことだったのではないかと思う。そうやって座を盛り上げている時というのはえてして月を見ている暇がないものだ。
 だが、だからと言って月見の席で終始無言な人が可哀相かというと、そんなこともないだろう。去来の「唖のかはゆき」の句は『去来抄』に「事新敷(ことあたらしく)感ふかしといへど、句位を論ずるに至てハ甚(はなはだ)下品也。」とあるように、その場の流行の句としては受けたけど、句としてはたいしたことない。(「下品」という言葉は今日でいうお下劣という意味での下品げひんではなく、『文選』の上品、中品、下品という分類によるもの。)
 この句の疵は月夜の座頭の意外な活躍を見出したまでは良かったが、「唖のかはゆき」は余計だったという所にある。芭蕉の風雅勝れり。

2017年9月30日土曜日

 今日も鬼貫編の『俳諧大悟物狂』から、猫ネタで、鬼貫独吟百韻の四十四句目、

   よはよはと老母の寝ぬ夜思ひ出
 いつまで猫の死を隠すべき     鬼貫

 これはわかりやすい。老母の飼っていた猫が死んだのだけど、ショックを受けないようにと隠しているが、時々思い出したように「たまや、たまはどこにいるの」とか言ったりする。
 次の四十五句目は、

   いつまで猫の死を隠すべき
 北裏の萱草ふとく夭姚(ゆぼやか)に 鬼貫

になる。埋めた猫を肥やしにして萱草(かやくさ)がそこだけ良く育っているというのは、いかにも作りっぽいし、展開に乏しい。
 こういう素直な心付けは、鬼貫の得意とするところだったのだろう。