2020年1月31日金曜日

 IOCがWHOと協議しているという情報から、東京オリンピックが中止になるのでは、という噂が駆け巡ったが、とりあえず大会組織委員会は否定した。
 ただ、今後日本での感染の拡大が起こり、東京が今の武漢のような状態になったら、とてもオリンピックができるような状態ではなくなるだろう。そうならないようにしなくてはならない。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 二十三句目。

   いとどへそのを永き日ぐらし
 かげろふのもゆる灸治をする春に  守武

 陽炎(かげろふ)はもゆるもので、

 いまさらに雪ふらめやもかげろふの
     もゆる春日となりにしものを
            よみ人知らず(新古今集)
 かげろふのそれかあらぬか春雨の
     降る日となれば袖ぞ濡れぬる
            よみ人知らず(古今集)

などの歌がある。
 この場合はお灸の燃えるで、かげろふは枕詞のように用いられている。
 お灸をしながら永き日を体を休めて過ごす。
 二十四句目。

   かげろふのもゆる灸治をする春に
 あはれ小野にやこらへかぬらん   守武

 「かげろふ」は小野に掛かる枕詞としても用いられる。

 かげろふの小野の草葉の枯れしより
     有るかなきかと問ふ人もなし
               土御門院(続千載集)

の歌の「かげろふ」も小野の草の枯れるさまを導き出すもので、春の陽炎を詠んではいない。
 「かげろふ」に「小野」、「灸治」に「これへかぬ」と四手に付く。
 二十五句目。

   あはれ小野にやこらへかぬらん
 業平はみやこのかたへましまして  守武

 在原業平は小野の田舎に耐えられずに都に帰ってしまったという句だが、小野と業平は『伊勢物語』八十三段の縁がある。本説ではなく、単なる付け合いと見るべきだろう。
 二十六句目。

   業平はみやこのかたへましまして
 人のむすめに秋の夕ぐれ      守武

 『伊勢物語』十二段に「むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率て行くほどに」とある。業平だけ都に帰り武蔵野に置いてけぼりではさすがに悲しい。
 二十七句目。

   人のむすめに秋の夕ぐれ
 名をとへばきくとかやにやきこゆらん 守武

 名前を聞けば「きく」とか何とか言ったように聞こえた、というわけだが、本来なら菊の花ではなくてはいけないものを人名の菊にしている。
 お菊さんというと、

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ       芭蕉

という『炭俵』「梅が香に」の巻八句目が思い浮かぶ。この場合は前句の植物の菊を娘の名前に取り成している。
 二十八句目。

   名をとへばきくとかやにやきこゆらん
 月よりおくの夜の仙口       守武

 夜に咲く白菊は月に似ているところから、

 いづれをか花とはわかむ長月の
     有明の月にまがふ白菊
               紀貫之「貫之集」

の歌もある。
 菊の酒は不老不死の仙薬にも喩えられ、白菊は手当たり次第に折っては菊の酒にした。そんな白菊の花は仙界への入口のようなものだ。

2020年1月30日木曜日

 「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 十七句目。

   後のなみだはただあぶら也
 口つつむつぼの石ぶみまよひきて  守武

 壺の碑(いしぶみ)はウィキペディアには、

 「12世紀末に編纂された『袖中抄』の19巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。
 「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。」

とある。
 「つぼ」という地名のところにあったから壺の碑で、壺に書いたわけではない。
 江戸時代になると仙台の方で多賀城碑が発見され、芭蕉もここを訪れ、「羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と記している。ただ、これは『袖中抄』の記述とは一致しないし、天平宝字六(七六二)年という碑に記された建立の年号も坂上田村麻呂がまだ四歳の時で、壺の碑より古い。
 壺は「つぼむ」と掛けて、口を包んで(口を抑えてのことか)つぼむ壺の碑となる。そんな言うに言われぬことを記した文に迷い涙を流すが、物が壺なだけに壺に入った油のようなものだとなる。
 十八句目。

   口つつむつぼの石ぶみまよひきて
 奥州なればものもいはれず     守武

 『連歌俳諧集』の注には奥州には口を包む習俗があることと訛りがひどいことをあげているが、後者に関しては近代の標準語制定以降の話で、近世までは奥州に限らず日本中どこへ行っても独自の方言を喋っていた。そのため連歌は八代集の歌語、いわゆる雅語を用いていた。
 俳諧の言葉も雅語を基礎としながら謡曲や浄瑠璃や漢文書き下し文などの言葉を取り込み、さらに江戸上方などの俗語を交えた作られた共通語だった。
 口を包むというのはおそらく寒さのためであろう。
 十九句目。

   奥州なればものもいはれず
 なかなかの判官どのの身の向後   守武

 壺の碑に奥州に判官(義経)と、ここでも展開は緩い。
 源の判官義経殿がその後どうなったかというと、奥州のことなのでなかなかわからない。
 義経が北海道に渡ったという説は、ウィキペディアによるなら、

 「寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。」

という。守武の時代にはまだなかったようだ。義経=ジンギスカン説はシーボルトの『日本』が最初だとされている。
 二十句目。

   なかなかの判官どのの身の向後
 しづかが心なににたとへん     守武

 義経の波乱万丈の生涯を思えば、静御前もさぞかし心休まることがなかっただろう。そんな静御前の心を何に喩えればいいのか。
 天文九年(一五四〇年)の『守武千句』には、

   月見てやときはの里へかかるらん
 よしとも殿ににたる秋風      守武

の句がある。これを受けて芭蕉が『野ざらし紀行』で詠んだ。

 義朝の心に似たり秋の風      芭蕉

という句もある。
 静御前の心も喩えるならやはり秋風だろうか。
 二十一句目。

   しづかが心なににたとへん
 花みつつ猶胎内にあぢはへて    守武

 この頃には各懐紙の最後の長句が花の定座という意識があったようだ。三の懐紙が二句最後から二番目の長句になっているだけで、あとは最後の長句になっている。
 静御前の花の舞だとすると打越の義経からなかなか離れられない。このあたりもやはり展開が緩い。
 鎌倉での静御前の花の舞は桜ではなく卯の花だったが、このとき静御前は義経の子を孕んでいて、頼朝に男子だったら殺すといわれ、その通り男子が生まれ殺されたと『吾妻鏡』は記す。
 二十二句目。

   花みつつ猶胎内にあぢはへて
 いとどへそのを永き日ぐらし    守武

 前句の「胎内にあぢはへて」を『伊勢物語』四十四段の「この歌は、あるがなかに面白ければ、心とどめてよまず、腹に味はひて。」の腹で味わう(腹の中に留めておく)の意味にする。
 花を見ながらそれを腹に留め、「胎内」との縁で臍の緒のように長い一日を暮らす、と続ける。

2020年1月29日水曜日

 伝染病が蔓延してくるといろいろなことが起こるが、ただみんなウィルスが憎いだけで人が憎いのではないと思う。そこは信じなくてはいけないし、安易にヘイトなんて言葉は使わないで欲しい。
 ここはみんな新型肺炎という共通の敵に向って心を一つにしなくてはいけない場面だ。最も避けなくてはならないのはお互いに疑心暗鬼になって足を引っ張り合うことだ。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 初裏
 九句目。

   月につかふや手水ならまし
 下葉散る柳のやうじ秋立て     守武

 今では楊枝というと小さくて尖っている爪楊枝のことだが、かつては歯ブラシとして使われる房楊枝が用いられていた。
 「やうじ」が平仮名なのは、「下葉散る柳の様な」と「楊枝」を掛けているからで、「立て」も「下葉散る柳の立つ」と立秋とを掛けている。
 歯磨きは水のある所で行う。
 十句目。

   下葉散る柳のやうじ秋立て
 はがすみいつの朝ぎりのそら    守武

 「はがすみ」は『連歌俳諧集』の注に「歯くそ」とある。歯垢のこと。
 風邪にすす鼻、房楊枝に歯垢のような時折こういう緩い展開の句があるのは、この時代の特徴なのだろう。その意味でも貞徳の独吟は画期的だったのだろう。
 十一句目。

   はがすみいつの朝ぎりのそら
 かへりてはくるかりがねをはらふ世に 守武

 「かりがね」は雁がねと借金に掛けている。「はがすみ」はこの場合「剝がす身」だと『連歌俳諧集』の注にある。
 「くる」も「繰り越す」に掛けているのか、繰り越してきた借金も払い終えてしまえば、身ぐるみ剝がされるのもいつのことだったか、最悪の事態を回避できたということになる。
 十二句目。

   かへりてはくるかりがねをはらふ世に
 さだめ有るこそからすなりけれ   守武

 帰ってはまた来る雁がねに定住する烏と違えて付ける。
 烏はは烏金に掛けている。烏金(からすがね)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《翌朝、烏が鳴くまでに返さなければならない金の意》日歩で借りて、借りた翌日にすぐ返すという条件の高利の金。」

とある。
 普通の借金は繰り越すことができるが、烏金は期限が決まっていて繰りこせない。
 「さだめ有る」というと、江戸時代の、

 大晦日定めなき世の定めかな    西鶴

も思い浮かぶ。一般論として定め無きは世の常だが、掛乞(かけごい)には定め(期限)がある。
 十三句目。

   さだめ有るこそからすなりけれ
 みる度に我が思ふ人の色くろみ   守武

 外で働く男達は日に曝されることで色素沈着が起こり、歳とともに色が黒くなってゆく。老化は生きとし生けるものの定めではあるが、それにしてもカラスみたいだ。
 十四句目。

   みる度に我が思ふ人の色くろみ
 さのみに日になてらせたまひそ   守武

 色が黒くなるのは日に曝されたからで、ここの展開も緩い。ただ口語っぽくして女性に語りかける体に変えている。咎めてにはの一種と見ていいだろう。
 十五句目。

   さのみに日になてらせたまひそ
 一筆や墨笠そへておくるらん    守武

 前句をそのまま手紙の内容とした。
 「墨笠」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「地紙を黒く染めた日傘。」

とある。
 十六句目。

   一筆や墨笠そへておくるらん
 後のなみだはただあぶら也     守武

 「後」は「のち」ではなく「あと」と読むようだ。「涙の跡」のことか。この墨笠に塗ってある油は私の涙です、ということか。

2020年1月28日火曜日

 「守武独吟俳諧百韻」の成立した一五三〇年だが、どういう時代か少し見てみようか。
 連歌界ではもちろん宗祇法師はもういない。肖柏も大永七年(一五二七年)に没している。宗長は天文元年(一五三二年)まで生きたので、八十二歳の高齢ながらまだ存命だった。
 宗長の弟子で「宗祇独吟何人百韻」の古注を残した宗牧は生まれた年がわからないので何歳だったかわからないが、一五四七年まで生きている。
 同じ「宗祇独吟何人百韻」の古注を残した周桂は一四七〇年生まれで六十歳。一五四四年まで生きる。荒木田守武が一四七三年生まれなので三つ年上になる。
 守武と並んで俳諧の祖とされる山崎宗鑑は一四六五年生まれで守武より八つ上になる。一五五三年没。
 戦国時代を代表する連歌師で、明智光秀の参加した「天正十年愛宕百韻」でも有名な紹巴は大永五年(一五二五年)生まれでまだ五歳。古今伝授の細川幽斎はまだ生まれていない。
 政治の方では西村勘九郎正利(後の齋藤道三)が美濃守護土岐氏から美濃を奪った頃で、織田信長はまだ生まれていない。
 この頃の将軍は十二代将軍足利義晴だった。まあ、戦国時代のことはあまり詳しくないので、これくらいに。
 さて「守武独吟俳諧百韻」だが、少しずつ進んでいきます。

 四句目。

   春寒み今朝もすす鼻たるひして
 かすみとともの袖のうす帋     守武

 「袖のうす帋」は紙子の袖のこと。紙子はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「紙で作った衣服。上質の厚くすいた和紙に柿渋をぬり、何度も日にかわかし、夜露にさらしてもみやわらげ、衣服に仕立てたもの。もと律宗の僧侶が用いたという。古くは広く貴賤の間で用いられていたが、近世ごろは、安価であるところから貧乏人などが愛用した。柿渋をぬらないものを白紙子(しろかみこ)という。かみぎぬ。《季・冬》 〔文明本節用集(室町中)〕
 ※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)草加「紙子一衣は夜の防ぎ」

とある。
 今でも新聞紙などは風を通さないということで防寒着として使わたりする。災害の時やバイク乗りなどが用いる。紙子も夜着としての綿の蒲団が普及する以前には珍重されたのではないかと思う。
 近世になると紙が安価になったため、貧乏人の衣裳となったようだが、守武の時代はどうだったかはわからない。紙が貴重だった時代はそれなりに高価だっただろう。
 春の薄霞とともに袖も薄紙と洒落てみている。
 五句目。

   かすみとともの袖のうす帋
 手習をめさるる人のあは雪に    守武

 手習(てならひ)は「手(書)」を習うことで、「めさるる」というのだから高貴な人なのだろう。
 「『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)の注は蛍雪の功のこととするが、多分それでいいのだろう。紙子も夜着であるなら、紙子で寒さをしのぎながら雪の灯りで書の練習をするのはありそうなことだ。
 実質的には夜分だが夜分の言葉は入っていない。このあと二句去りで「月」が出るのはちょっと気になる。
 「あは雪」と「霞み」の縁について、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)は、

 さほ姫の衣はる風なほさえて
     霞の袖にあは雪ぞふる
            嘉陽門院越前(続後撰)

の歌を引用している。
 六句目。

   手習をめさるる人のあは雪に
 竹なびくなりいつかあがらん    守武

 淡雪に竹靡く(竹が押し倒される)は比喩で、いまは下手だがいつか上達するとする。
 七句目。

   竹なびくなりいつかあがらん
 ともすれば座敷の末の窓の前    守武

 立派な書院造りの座敷であろう。入口のあたりには明かり取りの障子を張った窓がある。
 この場合の前句の「竹なびく」は本物の竹とも取れるが、延々と挨拶が終らない主人と客とのやり取りの比喩とも取れる。いつになったら座敷に上がるやら。
 八句目。

   ともすれば座敷の末の窓の前
 月につかふや手水ならまし     守武

 便所のことを遠まわしに「手水」という。今でも「お手洗い」という言葉があるがそれと同じとみていいだろう。
 特に女性などは「手水に」などとも言わずに、「月を見に行く」というのがその合図だったりする。「お花摘みに行ってきます」のようなもの。

2020年1月26日日曜日

 新型肺炎が大変な状態になっているが、中国からの情報はあてにならないし、マスコミはその中国からの情報をそのまま流すだけだし、日本の政府もいくらもらっているか知らないが対策が甘いな。まあ、自分の身は自分で守れってことかな。
 「竹のカーテン」という言葉を久々に思い出した。
 さて、旧暦でも年が改まり、今年もまた俳諧を読んで行こうと思う。
 今回取り上げてみたのは『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)所収の「守武独吟俳諧百韻」で、『伊勢正直集』の跋文に、

 「享禄三年正月九日夜、時ハ亥、ねぶとやむとさくり出しぬ、さらば初一念ながら法薬にと、びろうながらねながら百韻なれば、さし合も侍らんか」

とある。
 享禄三年正月九日は西暦で言うと一五三〇年二月十六日になる。一年最初の子の日になる。子の日はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「ね【子】の日(ひ)
 (「ねのび」とも)
 ① 十二支の子にあたる日。特に、正月の最初の子の日をいうことが多い。この日、野に出て小松を引き若菜を摘み、遊宴して千代を祝う。《季・新年》
 ※亭子院御集(10C中)「ねのひに船岡におはしましたりけるに」
 ② 「ね(子)の日の松」の略。
 ※後拾遺(1086)雑四・一〇四六「君がうゑし松ばかりこそ残りけれいづれの春の子日なりけん〈源為善〉」
 [補注]「ネノヒ」は「根延(の)び」に通じると解され、「日葡辞書」「書言字考節用集」に「ネノビ」と三拍目が濁音の例が見られる。

とある。
 子の日は若菜を摘み、小松を引き抜いて遊んだ。若菜摘みは後の七草粥に変り、小松引きは門松へと変わった行ったが、両者が並行して行われる時期も長かったと思われる。
 「ねぶとやむ」の「ねぶと」は根太とも書き、おできや吹き出物のことを言う。ぶどう球菌などが皮膚に感染して起こるという。化膿するとひどい痛みに襲われる。
 さて、そんな中で法薬にと一念発起して作ったのが「守武独吟俳諧百韻」で、その発句をまず見てみよう。

 松やにはただかうやくの子日哉   守武

 「かうやく」は膏薬。松脂は膏薬の粘りを出すために用いる。
 子の日の遊びに本来は長寿を願って小松を引き抜いて遊ぶはずだったが、今日は根太の痛みに堪えかねて、だた松脂の入った膏薬だけで子の日を過ごすことになった。
 目出度くもあり目出度くもなしという感じだが、脇もまたそれを引き継ぐ。

   松やにはただかうやくの子日哉
 かぜはひくとも梅にほふころ    守武

 松引きの「引き」を「風邪」に掛けて「風はひくとも」と受ける、受けてにはだ。
 根太だけでなく風邪まで引いて、せっかくの梅の匂いも鼻が詰まって嗅ぐことができないのは残念だ。目出度くもあり目出度くもなし。
 第三。

   かぜはひくとも梅にほふころ
 春寒み今朝もすす鼻たるひして   守武

 「たるひ」は垂氷でつららのこと。すすった鼻水がも凍る寒さで、春の目出度さを離れて悲惨さだけが残る。まあ、自虐というのはギャグの基本だが。

2020年1月24日金曜日

 今日は師走の晦日、大つごもり。除夜の鐘もなければ、初詣の人の群もないし、空には月すらない。でもそれが芭蕉の時代の大晦日だった。借金がなければ早々に酒でも飲んで寝るのが最高の大つごもりだったのだろう。
 もちろん一方では掛け金の取立てに駆けずり回る人、そこから逃れようとする人もいた。これを掛乞(かけごい)と言った。

   深川の草庵にありて、年をむかふる夜、
   人々掛乞の句あまたいひ捨たるに、
   先師の茶話に、掛乞は冬の季しかるべし。
   つなぬきの音さえて小挑灯の影いそがしきは、
   彼が本情にして、よのつねの掛乞おかしからず、
   夜着・ふとん・水風呂の類ならば、
   発句にして冬の雑体ならんと
 掛乞や猫の啼居る台所     支考「草苅笛」

 この句は台所の猫の啼き居るは掛乞や、の倒置で「や」は疑いのやになる。猫が掛乞するわけではなくて、掛乞みたいだという意味だから。

  春来ると猫もいそがし品定   之道「己が光」

 この句は冬の部のところにある。年内立春のことか。

   柊・鰯の頭・豆うつよりはやく、
   立春の暦は
 豆をうつ音よりはやし猫の恋   越人「鵲尾冠」

 春を待たずにさかる猫は「猫の寒ざかり」ともいう。ただ、最近は野良猫も減って、猫の声を聞かなくなった。狸ばかり増えている。

 それはそうと話は変わるが、韓国起源説というのはもともと戦後の日本の左翼系の学者が、韓国に行って日本と同じものを見つけるとみんな朝鮮半島から渡ってきたことにしてしまった、そのあたりから始まったのではないかと思う。
 調査範囲が広がると、同じものが中国の南部や東南アジアなどでも見つかって、あっちの方が起源だということになってゆくが、古い知識のまま止まってしまっている人もたくさんいる。
 李栄薫の『反日種族主義』にも徴用工の問題は、

 「賃金は無きに等しかった。あったとしても朝鮮人を大きく差別し、日本人よりずっと少なかった。
 このような主張は、日本の朝鮮総連系知識人、または日本のいわゆる「良心的」知識人によって一九六〇年代から始められました。それを受けて韓国の研究者たちも、同じ主張を今に至るまで単純に繰り返しています。」(no.1090-94)

と書いていて、もちろん日本の「良心的」知識人も同じ主張を今に至るまで単純に繰り返している。
 同じく『反日種族主義』に従軍慰安婦のことも、

 「最も深刻な誤解は、慰安婦たちが官憲によって強制連行されたというものです。例えば憲兵が、道端を歩く女学生や畑で仕事をしている女性たちを、奴隷狩りをするようにして強制的に連れて行った、というようなものです。こんな話を最初もっともらしく作り、本まで書いた人がいますが、驚いたことに日本人です。」(no.3294)

と書いてある。日本人で左翼の家庭に育った筆者からすれば別にこれは驚くようなことでもなんでもない。彼らは外圧によって日本を変えようとしていたからだ。
 彼らは日本人は外圧に弱いと信じている。ペリーの黒船が来たらあっさりと開国して、原爆が落ちたらあっさりとアメリカの言いなりに民主化した。だから韓国や中国が攻めてくれば日本にも革命が起こるというわけだ。
 「劣等民族」という言葉も日本の左翼が言い出したことだと思う。自発的に革命を起せない劣等民族である日本人は、中国に占領されて初めてまっとうな人間になれるというわけだ。
 何のことない韓国の反日種族主義はすべて日本人が仕組んだことだった。韓国に罪はない。みんな日本人のしたことだ。

2020年1月23日木曜日

 「テコンダー朴」(原作:白正男、作画:山戸大輔)という漫画を読んだ。面白いけどこんなふうに韓国の反日種族主義をパロディーにして大丈夫なのかな。青林堂は勇気がある。さすがに『ガロ』を出していた会社だ。
 ネット上で「鬼滅の刃」が「テコンダー朴」と似ているなんてのがあったが、読んでみて「『鬼滅の刃』の起源は韓国ニダ」という種のネタだとわかった。
 さて、テコンドーといえば踵落とし、踵落としといえば故アンディ・フグということで、今日も鰒の句をつれづれに。

 那須の石玉川の水ふぐと汁   一鉄(俳諧当世男)

 那須の石は殺生石のことであろう。付近の火山ガスの作用により鳥獣の命を奪う。これに対し玉川の水は清らかな水として知られている。この両面を持つのが河豚と汁というわけだ。

 砒礵石瀬ぶみなりけり鰒汁   一閑(俳諧雑巾)

 「砒礵石(ひそうせき)」は有毒な砒素を含む石で、「瀬踏み」は川などで渡れるかどうか試すことをいう。河豚汁は砒素石を試すようなもの、という意味。

 煮売也さよの中山河豚汁    正長(俳諧雑巾)

 煮売りは移動販売の振売りと違い、店舗を構えて料理を提供するものを言う。小夜の中山で河豚と汁を売る茶店があったのか、よくわからない。食べ終わって無事なら、まさに「命なりけり」というところだろう。

 月は霜重ねふとんやふぐの腸  露吸(東日記)

 河豚の内臓には毒がある物が多い。ここでいう重ね蒲団に喩えられている「腸」は白子(精巣)ではないかと思う。
 重ね布団は夜着のことではなく綿の入った敷布団で、ふかふかの敷布団を三段重ねるのは遊郭でも大夫のようの最高位の遊女の贅沢だったという。

 鰒を煮て尺迦の売僧を知ル世哉 濁水(庵桜)

 「売僧(まいす)」は商売をする堕落した僧のこと。そんなことを言ったら今の坊さんはみんな売僧になってしまいそうだが。
 お坊さんも鰒の誘惑には勝てず、殺生の罪を犯してしまうということか。

 あの坊が鰒にまよふて落葉かな 簑里(二葉集)

 これも似たようなテーマだが、落葉に喩えて綺麗にまとめるあたりが、元禄も終わりに近い頃の風だったか。『二葉集』は惟然の撰。

 鰒の子や何をふくれて流レ行  八橋(いつを昔)

 河豚は膨れるものだが、河豚と汁ではなく生きている河豚を詠んだのは珍しい。

 投られて砂にいかるや鰒の面  竹西(一幅半)

これも膨れた河豚を詠んだものだろう。

 人の命や仙家にも鯸を売ならば 鉄卵(庵桜)

 人は河豚で命を落とすが、仙人ならどうなのだろうか。

 葬礼の其中を売ル鰒哉     賀子(蓮実)

 葬式をやっているところに鰒売りが着たりしたら、何かつまみ出されそうだが、実際にそんなことがあったのか。ちょっと作った感じがやはり大坂談林なのだろう。

 喰ふてや死ぬかと思ふふぐと汁 斧卜(卯辰集)

 これはそのまんまという感じで特にひねりはない。

 ちればこそいとど桜はめでたけれ鰒 牧童(卯辰集)

 最後の「鰒」がなければ普通に桜を詠んだ句になる。桜は散るから美しいということだが、鰒を食うにもその美学なのか。どうせ散りもせず、というところで、

 河豚汁や風呂に入ても何のその 尋問(花の雲)

 これは千山撰の『花の雲』からで、惟然の超軽みの風の句。
 ところで筆者はまだ鰒を食べたことがない。

2020年1月22日水曜日

 河豚を詠んだ句が多いのも、河豚が実際はそれほど危険でなかった証拠であろう。
 確かに死ぬことはあるが、かなりの率で死ぬならそれこそ「洒落にならない」わけで、俳諧の洒落になるのは安全だからだ。
 今日安心してふぐ料理が食べられるのは、必ずしも河豚の調理を免許制にして管理されているからだけではない。その免許を取るのに必要な知識や技術は決して一朝一夕に生じたものではなく、それこそ縄文時代からの長い河豚食の歴史によるものに他ならない。
 それに加え、衛生状態が今よりも明治の頃よりも更に悪かった江戸時代にあって、危険は何も河豚だけに限らない。夏に食中毒で死ぬ確率は鰒で死ぬよりも高かったかもしれない。
 また、生活の中でも野草や茸の採集を日常的に行っていた時代には、誤って毒草や毒茸を食べる危険もあった。
 食中毒や毒草・毒茸の危険に較べると、鰒の危険は計算できる危険であり、選択できる危険だった。
 いつ突然変なものを喰って死ぬかもしれない時代にあって、予測できてそれでいてそれほど確率の高くない危険であれば、年末に無事正月が迎えるかどうか占う意味でも、河豚というのは運試しをするのにちょうどよかったのかもしれない。
 そこで、死ぬかもしれない、でも死ななかった、その喜びが河豚の句に溢れているのではないかと思う。芭蕉の、

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁 桃青

の句はまさにその典型と言えよう。
 そして無事年を越せれば、

 鰒汁の白髪めでたし年忘    桃妖(草苅笛)

となる。
 河豚には雪を詠むことが多い。

 雪辱し夜ルかつらぎの鰒姿   暁雲(武蔵曲)
 雪路ふかく水仙刈つ夜の鰒   言水(武蔵曲)
 舟君のさうしや落る雪の鰒   山川(其袋)
 河豚釣らん李陵七里の浪の雪  芭蕉(桜下文集)
 魚店に鰒の残るや雪けしき   呂風(続有磯海)
 河豚つりや海にきわ立ツ山の雪 史邦(俳諧猿舞師)
 初雪の消る所や河豚魚汁    冶天(正風彦根体)
 鰒くふて其後雪のふりにけり  鬼貫(大悟物狂)

 鰒の身が白いこと、雪の季節に食べることなどから、寄り合いになったのだろう。
 発句ではないが河豚が秋に詠まれた例もある。

   世の栄街に月の占見せて
 河豚めづらしく秋の江に釣ル  如泉(庵桜)

2020年1月21日火曜日

 今日は旧暦の十二月の二十七日。夜明け前の東の空の月も細くなった。春は近い。
 まだ冬だということで今日のテーマは鰒、それに河豚、あるいは魨、さらには鯸と、どれも「ふぐ」やないけーっ。
 まあ、

 河豚ほど鰒によう似た物はなし 鬼貫(其袋)

という句もあるくらいだから、鰒の表記の多様さは昔からネタにされていた。
 河豚は豊臣の秀吉が禁止し、伊藤博文が解禁したともいうが、この歴史はあまりに途中を省略しすぎている。

 鰒つりや今も阿漕が浦の波   凉莵(一幅半)

という句もあるから、一応禁制の意識もあったようだが、江戸時代に河豚を詠んだ句はたくさんあり、芭蕉さんも、

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁 桃青(俳諧江戸三吟)

の発句を詠んでいる。
 とはいえ、鰒の句は延宝、天和の頃に流行するが、その後はあまり詠まれなくなっている。
 当時は鰒というと鰒汁(ふぐとじる)だったようだ。

 ふぐ汁や生前一樽のにごり酒  卜尺(俳諧当世男)

 芭蕉が日本橋に居た頃お世話になっていた小沢さんの句だが、鰒喰って死ぬかもしれないから、一樽の酒を飲んで死のう、というわけだが、「一樽」がいかにも大袈裟だ。酒豪自慢か。

 ふぐ汁や其外悪魚鰐の口    泰徳 (俳諧当世男)

 下七五は謡曲『海人』の竜宮の玉塔の守護神八竜の登場の場面の「八龍並み居たり其外悪魚鰐の口」をそのまま用いている。鰒汁も人の命を奪う恐ろしい悪魚や鰐と並ぶというわけだ。

 鰒汁是なん悪魚椀の口     休嘉(俳諧雑巾)

 これはネタ被りだが鰐の口を「椀の口」に変えて洒落ている。

 我や獏荘子が夢を鰒汁     直貞(俳諧雑巾)

 荘子の夢というのは胡蝶の夢のことか。夢に蝶になるように、人は死んでも別の物になり、どっちが生でどっちが死かはわからない、というわけだが、鰒という生死未分の物を喰って、生きるか死ぬかをはっきりさせてしまう自分は、荘子の夢を喰う獏だということか。
 どこかシュレーディンガーの猫を思わせる。

 身はなき物となん読しは魨の浜 少羽(東日記)

 これは西行法師の歌として伝えられている、

 世を捨てて身は無きものとおもへども
    雪の降る日は寒くこそあれ

から来ている。鰒はしばしば雪を一緒に詠まれるが、西行の「身はなきもの」と詠んだのは鰒の浜に立って、これから死ぬかもしれないからだ、というわけだ。

 鰒網やおもへば三途の瀬ぶみなる 一栄

これもやはり鰒を喰って死ぬかもしれないという句だ。
 ただ、みんなこう言いながらも鰒で死んだ俳諧師の話を聞かないものを見ると、鰒での死亡率はそれほど高くはなかったのだろう。
 鰒は縄文時代から食べていたというし、鰒の毒に対する知識もそれなりに経験的に蓄積されていたにちがいない。
 鰒の毒を避けるには、基本的には毒のある腸と皮を取り除かなくてはならない。もちろん鰒の種類によっては肉にも毒がある場合があるから、完全ではない。ただ、腸と皮を取り除き身欠きを作る時点で水でよく洗えば、鰒の危険はかなり減らすことができる。

 河魨洗ふ水のにごりや下河原  其角(有磯海)

の句は、鰒を水で洗う知恵が当時あったことを示している。
 もう少し後の時代だが、

 人ごころ幾度河豚を洗ひけむ  太祇

の句がある。
 鰒のことを鉄砲ともいうが、其角の句が起源か。

 鉄炮のそれとひびくやふぐと汁 其角

 鉄砲といっても今日の自動小銃とは違い、撃つまでに時間がかかる上、命中精度も悪かった昔の銃のことだから、当たったらよほど運が悪いくらいのものだったのかもしれない。

 折を嫌ふべき歟鰒の皮に猫の舌 宗雅(俳諧雑巾)

 この句は鰒の皮に毒があるため、猫を近づけてはいけないという意味ではなかったか。「折を嫌う」は懐紙の表、裏を違えなくてはならない、つまり初表に鰒の皮を出したら、初表に「猫の舌」は出せないが、裏にならいい、という意味。
 鰒は干物にして保存したりもしたようだ。

  ふぐ干や枯なん葱のうらみ貌  子英(虚栗)

 鰒汁なら葱が付き物だが、鰒干しになってしまうと、葱は枯れるしかない。
 鰒汁に葱が付き物なのは、

 河豚ノ記ねぶかが宿に我独居て 其角(東日記)

の句からも窺われる。
 あと、鰒もどきというのもあったようだ。

 其汁の糟をすするや鰒もどき  忠珍(おくれ双六)
 甚太瓶を捨るや仮の鰒もどき  清風(おくれ双六)

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「鯛や鯒(こち)などの皮をはぎ、河豚のように料理して、汁などに作って食べるもの。ふくとうもどき。」

とある。

   妄語
 鯒を煮てふぐに売世の辛き哉  一品(虚栗)

も鰒もどきの句か。

 何ンぞ鱈世挙て皆河豚汁    順也(おくれ双六)

という句もあるように、鰒は人気があった。だから似せ鰒も出回っていたのだろう。
 禁制なんてなんのその、結局みんな鰒を食っていた。

2020年1月19日日曜日

 今日は町田の忠生公園の蝋梅を見に行った。満月蝋梅いい香りに包まれてきた。
 蝋梅は臘月(旧暦十二月)に咲くから蝋梅らしく、冬の季語で春はもうすぐ。
 昨日は結局雪がぱらついただけだが、予報が外れて夜まで降り続いた。雪になっていたら大雪になるパターンだった。
 それでは「半日は」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   世は成次第いも焼て喰フ
 萩を子に薄を妻に家たてて    芭蕉

 「いも焼て」というと今ではサツマイモの焼き芋を連想するが、当時はまだサツマイモはない。里芋は今ではもっぱら煮て食うが、かつては櫛に刺して味噌田楽にしたようだ。
 前句の場合は文無しで串に指して焚き火で炙っただけのような雰囲気だが、ここでは家を建てるくらいだから、それなりの味付けをしていたのだろう。芋というと徒然草第六十段の芋頭の僧都のことも思い浮かぶ。
 妻子を持たずにひっそりと暮らす風狂物のようだが、「妻」は薄で葺いた屋根の妻とも取れる。
 三十二句目。

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

 綾織物はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「模様を織り出した美しい絹織物。朝廷では五位以上の者の朝服に限り許されたが、蔵人(くろうど)は六位でも着用を許された。あやおり。あや。」

とある。前句の隠遁者のイメージにはそぐわない。ここは「萩」という名前の娘と「薄」という妻のために家を建てて住まわせた、光源氏のような人物に取り成したか。
 三十三句目。

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

 これは『去来抄』「先師評」に、

  「あやのねまきにうつる日の影
 なくなくも小きわらぢもとめかね   去来
 此前句出て座中暫く付あぐみたり。先師曰、能上臈の旅なるべし。やがて此句を付く。好春曰、上人の旅とききて言下に句出いでたり。蕉門の徒、練各別也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,26~27)

とある。
 前句が『源氏物語』のような王朝を連想させるだけに、そこから抜け出すのが難しかったのだろう。
 芭蕉のヒントは「上臈」よりもむしろ「旅」の方が重要だった。旅体に転じてはどうかというヒントで、去来のこの句ができたといっていいだろう。
 上臈の方は朝まで寝ているが、お付の者は草鞋を探して駆けずり回っている。
 どちらかというとアドリブに弱い去来さんだが、思うに頭の中にあるあるネタをストックしておくようにしたのではないかと思う。だから「上臈の旅」と言われてすぐに上臈の旅あるあるが出てきたのではないかと思う。
 三十四句目。

   なくなくもちいさき草鞋求かね
 たばこのかたの風にうごける     玄哉

 「たばこのかた」は『校本芭蕉全集 第四巻』の注に、

 「煙草の葉の形をした厚紙に渋を塗って店の軒にぶらさげた看板。」

とある。ネットで検索すると、吉田秀雄記念事業財団のページに「江戸期」の「諸国名葉」と書いてある煙草の葉の形をした看板を見ることができる。江戸中期には、菱形を縦に三つ繋げた看板にそれぞれ多・葉・粉と書いてあるものが用いられていたらしい。これは「たばこと塩の博物館」に再現されている。
 草鞋を探して宿場を歩いていると、ついつい煙草の看板に目が行ってしまうということか。
 三十五句目。

   たばこのかたの風にうごける
 真白に華表を見こむ花ざかり     景桃丸

 会場となる上御霊神社の別当の息子さんにいわゆる「花を持たせる」ということで、二番目の花の定座は景桃丸が詠む。最初の花は季吟門からのゲストの好春が詠んだ。
 「華表」が「とりゐ」と読むのは、「海くれて」の巻の十二句目「花表はげたる松の入口 工山」の時と同様で、ここでは正花の「花」が登場するので同字を避けて「華」の字に変えてある。
 「見こむ」はよくわからないが、ついついじっと見てしまう、という意味だろうか。境内の花が満開で真っ白に見えるので、ついついそちらの方を見てしまう。
 ただ、花盛りも長く続くものではなく、やがて風に散る定めか、タバコ屋の看板が風に揺れている。
 挙句。

   真白に華表を見こむ花ざかり
 霞にあぐる鷹の羽遣ひ        史邦

 神社の花も満開になり、春の霞に若い鷹が羽遣いを覚え、高く舞い上がってゆく。景桃丸の成長を祈ってのことか、この一巻は目出度く締めくくられる。

2020年1月17日金曜日

 今夜は雪になるのかな、あまり積もらないといいな。
 それはそうと、一昨年の四月八日から五月三日までこの俳話で読んでいった「宗祇独吟何人百韻」を鈴呂屋書庫にアップした。よろしく。
 それでは「半日は」の巻の続き。

 二十五句目。

   おさへはづして蚤逃しける
 閑なる窓に絵筆を引ちらし    史邦

 江戸時代に今のようなガラス窓がなかったことは「海くれて」の巻の八句目のところでも触れたが、中世の書院造りには和紙を張った「明かり障子」が登場する。これは「書院窓」とも呼ばれる。採光と喚起を行うためのものだった。
 こうした窓はある程度立派な屋敷かお寺などにあるもので、「閑なる窓」もこうした格式ある家の窓であろう。書院で絵を描いていると蚤がいるのを見つけ、つい墨のついた筆で捕まえようとしたのだろう。結果、墨が窓の障子に飛び散ることになる。
 二十六句目。

   閑なる窓に絵筆を引ちらし
 麓の里のおてて恋しき      凡兆

 「てて」は父(ちち)の母音交替。時代劇などでも「てておや」という言葉が使われてたりする。
 山寺に棲む年少の修行僧であろう。前句の「絵筆を引ちらし」を落書きのこととする。
 二十七句目。

   麓の里のおてて恋しき
 首とる歟とらるべきかの烏啼ク  示右

 合戦の場面であろう。掃討戦になってくると辺りに死体が累々と横たわり、烏が群がってくる。やるかやられるかの極限の状況の中、思い出すのは里に残してきた父のこと。
 二十八句目。

   首とる歟とらるべきかの烏啼ク
 野中に捨る銭の有たけ      好春

 前句を山賊の襲撃とし、ありったけの銭を置いて逃げる。命あっての物種だ。
 二十九句目。

   野中に捨る銭の有たけ
 月ほそく小雨にぬるる石地蔵   史邦

 前句の銭をお賽銭のこととする。村雨も上がり、明け方の空に細い月が浮かぶ。発心し、わずかな財産を捨てて仏道に入るのだろうか。
 三十句目。

   月ほそく小雨にぬるる石地蔵
 世は成次第いも焼て喰フ     凡兆

 「成次第」は成り行きに任せること。英語だとlet it beか。
 村外れに佇む石地蔵。雨上がりの月の出る明け方、これからどうしようかと嘆いても始まらない。まずは芋でも食って、それから考えよう。どうせ成るようにしか成らないのだから。

2020年1月16日木曜日

 昨日は白い韓服の知識は通信使ではなく貿易に来る朝鮮(チョソン)人かと思ったが、秀吉の朝鮮出兵の記憶ということも考えられる。
 この俳諧の興行は元禄三年(一六九〇年)、慶長の役(丁酉倭乱)は慶長二年から三年(一五九七~八年)、つまり九十二年前になる。さすがにこの時朝鮮半島に渡った兵士達は生き残ってはいないし、その息子世代もちょっと厳しい。だが、その孫くらいならまだ存命だった。高麗人の白い韓服の記憶は、そうした人たちが語り継いだものだったかもしれない。
 さて、「半日は」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   春の海辺に鯛の浜焼
 昼さがり寝たらぬ空に帰る雁   凡兆

 春の長閑な日にお祝いの宴で鯛の浜焼きをすれば、いつしか酔いも回って眠くなる。そんな時に帰る雁の姿が見える。
 二十句目。

   昼さがり寝たらぬ空に帰る雁
 雨ほろほろと南吹也       去来

 「南吹」は南風(はえ)の吹くことか。「ほろほろ」は「はらはら」「ぱらぱら」といったまばらな降り方をいう。花が散るときや涙が出る時にも用いられる。花の場合は、

 ほろほろと山吹散るか滝の音   芭蕉

の句がある。
 ほろほろと南風に乗って落ちてくる雨は、さながら雁の涙のようだ。
 二十一句目。

   雨ほろほろと南吹也
 米篩隣づからの物語       景桃丸

 「米篩(こめふるふ)」というのは脱穀した籾のゴミを取り除く作業。籾を落下させて風に当てることで軽い藁屑などを吹き飛ばす。
 「隣(となり)づから」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「隣どうしである間柄。」

とある。米を篩いながら、隣同士で世間話をしたりする。
 二十二句目。

   米篩隣づからの物語
 日をかぞへても駕篭は戻らず   芭蕉

 隣同士での噂話といえば急にいなくなった誰かのこと。駕篭に乗って旅に出たけど、なかなか帰って来ない。何があったのやら。
 二十三句目。

   日をかぞへても駕篭は戻らず
 くだり腹短夜ながら九十度    玄哉

 「くだり腹」は下痢のこと。それも一晩に九度も十度もトイレに行くほどのひどい下痢で、こんな状態だから駕篭は帰って来ない。O157のような病原性大腸菌の仕業か。
 二十四句目。

   くだり腹短夜ながら九十度
 おさへはづして蚤逃しける    去来

 下痢のひどい状態だから、蚤を捕まえようにも逃がしてしまう。

2020年1月15日水曜日

 今日は朝から雨で、午後になってようやく止んだ。
 テレビではどこもかしこも雪が少ないというニュースをやっている。生活するには雪がないほうが楽だろう。ただ、後で水不足とかなければいいが。
 それでは「半日は」の巻の続き。

 十五句目。

   猫のいがみの声もうらめし
 上はかみ下はしもとて物おもひ  芭蕉

 身分の高い人も身分の低い人も恋の悩みは一緒だ。それは猫だって変りはしない。
 猫のいがみ合いに、暗に人のいがみ合いがあることを付ける、違え付けの一種といえよう。
 十六句目。

   上はかみ下はしもとて物おもひ
 皆白張のふすまなりけり     示右

 「白張(しらはり)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「糊(のり)をこわく張った白い布の狩衣(かりぎぬ)。雑色(ぞうしき)などが着た。白張り装束。小張り。はくちょう。」

とある。「はくちょう」と読む場合は、同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「しらはり」を音読みにした語》
 1 「しらはり」に同じ。
 2 傘持ち・沓(くつ)持ち・車副(くるまぞい)などの役をする、1を着た仕丁(じちょう)。
 3 神事・神葬の際、白い衣を着て物を運ぶなど雑用に従事する者。」

とある。「ふすま」は夜着のこと。
 「白張のふすま」はそのままだと白い夜着のことだが、それだと意味がわかりにくい。
 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注には、

 「ここでは葬祭の白装束、白の上衣の意か(柳田國男氏『俳諧評釈』説)。」

とある。
 だとすると、前句の「物おもひ」を「喪のおもひ」に取り成したことになる。
 十七句目。

   皆白張のふすまなりけり
 高麗人に名所を見する月と花   好春

 好春は季吟門で京都の人。
 前句の「白張のふすま」を韓服のこととする。
 朝鮮通信使は天和二年(一六八二年)に来日している。ただ、その時は緑系の官服を着ていて白ずくめではなかったという。京都では八月に本國寺に宿泊している。
 韓服が白いのが多いという知識は、朝鮮通信使とは関係なく、対馬に貿易に来る朝鮮(チョソン)人のことが京にまで噂で広まっていたのではないかと思う。
 白い韓服の御一行を名所に案内すれば、山桜の白い花に白く光る月で白一色の世界になる。
 十八句目。

   高麗人に名所を見する月と花
 春の海辺に鯛の浜焼       史邦

 浜焼きはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「広島県の郷土料理。とりたての魚を浜辺で焼くのをいうが、古くから浜焼きとはタイを材料とすることになっている。『和訓栞(わくんのしおり)』には「鯛(たい)などを塩を焼く釜(かま)の下に生ながら土に埋(い)けて後焼くなり」とある。『料理談合集』には「鯛をよく洗ひ、土間へ塩を厚く敷き、上へ鯛を置き上より瓦(かわら)を蓋(ふた)にして、後先も瓦にてふさぎ炭火を多く瓦の上よりかけて蒸焼きにし(中略)、急なる時は大竹串(たけぐし)にさして長火鉢の縁へ立てかけて焼く」とある。」

とある。
 ただ、『和訓栞(わくんのしおり)』は安永六年 (一七七七年)、『料理談合集』は享和元年(一八〇一年)と時代が下るので、芭蕉の時代でも同じ料理法だったかどうかはわからない。
 いずれにせよ、鯛は目出度いもので、お祝いの席などに出される。

2020年1月14日火曜日

 「半日は」の巻の続き。

 九句目。

   里ちかくなる馬の足蹟
 押わつて犬にくれけりあぶり餅  示右

 「あぶり餅」は京都今宮神社の名物で、ウィキペディアには「きな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、炭火であぶったあとに白味噌のタレをぬった餅菓子」とある。
 今宮神社の辺りから北西へ鷹峯街道が通っていて、若狭の国に通じている。若狭の方から来れば、今宮神社のあぶり餅は「里ちかくなる」あたりだったのだろう。興行の行われた上御霊神社からは二キロくらいの所か。
 十句目。

   押わつて犬にくれけりあぶり餅
 奉加に出る僧の首途       芭蕉

 「奉加(ほうが)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (神仏への寄進の金品に、自分のものを加え奉るの意) 勧進(かんじん)によって神仏に金品を寄進すること。また、その金品。知識。
 ※今昔(1120頃か)一二「此、皆、寺僧の営み、檀越(だんをつ)の奉加也」
  ② 転じて、一般に、金品を与えること、またはもらうこと。また、その金品。寄付。
 ※浄瑠璃・心中天の網島(1720)下「福島の西悦坊が仏壇買ふたほうが、銀一枚回向しやれ」
  ③ 「ほうがちょう(奉加帳)」の略。」

とある。
 「奉加に出る」①の勧進に出ることを言うのだろう。ただ、その出発に当たって犬にあぶり餅を与えるのも②の意味での一種の奉加か。
 十一句目。

   奉加に出る僧の首途
 白川や関屋の土をふし拝み    去来

 「ふし拝み」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「はるかに拝む。遠くから拝む。ひれ伏して拝む。
 出典 平家物語 五・五節之沙汰
 「甲(かぶと)をぬぎ手水(てうづ)うがひをして、王城の方(かた)をふしをがみ」
 [訳] 甲をぬぎ、手を洗い清め、口をすすいで、都のほうをはるかに拝み。」

とある。僧は白川の関でひれ伏して拝んだというよりは、白川の関の方角を向いて拝んだと考えた方がいいのではないかと思う。
 十二句目。

   白川や関屋の土をふし拝み
 右も左も荊蕀咲けり       凡兆

 『奥の細道』の白河のところに、

 「卯(う)の花の白妙(しろたへ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。」

とある。とはいっても、この頃はまだ芭蕉は『奥の細道』を書いてない。旅の土産話にそんな話をしたことがあったか。
 卯の花に関しては、

 見て過ぐる人しなければ卯の花の
     咲ける垣根や白川の関
            藤原季通(千載集)

の歌がある。
 十三句目。

   右も左も荊蕀咲けり
 洗濯にやとはれありく賤が業   乙州

 京都では紺屋が洗濯屋も兼ねていた。ウィキペディアでは紺屋と非人との関係について触れている。

 「柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人と関係を結んでいた。墓場の非人が紺屋を営んでいたという中世の記録もあり、そのため西日本では差別視されることもあったが、東日本では信州の一部を除いてそのようなことはなかった。山梨の紺屋を先祖に持つ中沢新一は実際京都で差別的な対応に出くわして初めてそのことを知らされたという。」

 まあ、そういうわけで京の洗濯屋は荊の路だったのだろう。
 十四句目。

   洗濯にやとはれありく賤が業
 猫のいがみの声もうらめし    景桃丸

 洗濯に雇われていたのは女性が多かったという。年増は猫の声にも嫉妬する。

2020年1月13日月曜日

 今日は三浦半島のソレイユの岡に行った。菜の花が咲き富士は霞み、波の静かな海はのたりのたりと、今年も春をフライングゲット。
 ここにもカピバラがいたしアルパカもいた。
 それでは風流の方に戻り、旧暦の今年はまだ日にちがあるので「年忘歌仙 半日はの巻」を読んでいくことにした。
 去年の暮れ二十九日に発句と脇を読んだので第三から。

   雪に土民の供物納る
 水光る芦のふけ原鶴啼て     凡兆

 「ふけ原」は水の深い原のこと。芦の茂るところを「芦原」というように、水に浸っていても草の茂る所は原になる。
 苗字で「泓原(ふけはら)」さんがいるらしいが、泓の字は水が深くて清いという意味がある。「泓田(ふけだ)」さんという人もいるらしい。
 前句の「供物納る」の目出度さから鶴を付ける。冬枯れの芦原の水が日に照らされ光っていれば、その周りの雪の積もった所もまばゆいばかりに輝いているだろう。そんな中に鶴がいれば、まさに吉日だ。
 四句目。

   水光る芦のふけ原鶴啼て
 闇の夜渡るおも楫の声      去来

 前句の光る水を篝火に照らされた水面とし、場面を夜に転じる。船頭の「面舵いっぱい」の声が聞こえる。
 五句目。

   闇の夜渡るおも楫の声
 なまらずに物いふ月の都人    景桃丸

 景桃丸に関しては『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の補注に、

 「当時の上御霊神社別当は第二十八代法印小栗栖祐玄。俳号、示右。景桃丸は祐玄の子で当時十一歳。のち二十九代別当を嗣ぎ、小栗栖元規と称す。」

とある。
 「月の都」は冥府のことなので、「月の都人」は幽霊か。闇夜に舟漕ぐのは確かに怪しい。
 その幽霊も「都人」なので訛りがないとは洒落ている。
 月の定座で前句が「闇」だから、これは難題と言えよう。
 六句目。

   なまらずに物いふ月の都人
 秋に突折ル虫喰の杖       乙州

 打越の「闇」がはずれるので、ここは単に月の下の都人の意味にできる。「都人」は遠い辺鄙な地で都から来た人を呼ぶ言い方だから、流人のこととしたのだろう。長旅に使い古した杖も虫が食っていて折れてしまう。
 初裏。
 七句目。

   秋に突折ル虫喰の杖
 実入りよき岡部の早田あからみて 史邦

 「早田」は「わさだ」と読む。早稲を植える田んぼ。供給量の少ない時期に取れるため高く売れ、実入りがいい。
 その早稲田も赤く実ったので、もう旅を続ける必要はないと杖を折る。
 八句目。

   実入りよき岡部の早田あからみて
 里ちかくなる馬の足蹟      玄哉

 取れたばかりの稲を運ぶ馬が里へと向う。

2020年1月12日日曜日

 今年はなかなか冬型の天気が安定しない。菜の花や蝋梅など花の便りが若干早いような気もする。
 春が早いのはいいが、夏が恐い。
 温暖化といえばトゥンベリさん日本に来るのかな。来るとしたらシベリア鉄道でウラジオストックまで来て、そこからヨットなのかな。
 きたらぜひ福島の浜通りに来て欲しいな。何か得るものがあると思う。
 あと、鈴呂屋書庫に「天正十年愛宕百韻の世界ー明智光秀の連歌ー」をアップしたからよろしく。
 それでは「海くれて」の巻、挙句まで。

 二裏
 三十一句目。

   棺いそぐ消がたの露
 破れたる具足を国に造りけり  東藤

 『校本芭蕉全集』第三巻の注には「『造』は『送』の草体よりの誤。」とある。それだと普通に合戦で死んだ人の句で、故郷に遺品を送る句になる。
 三十二句目。

   破れたる具足を国に造りけり
 高麗のあがたに畠作りて    桐葉

 ここに「作りて」とあるから「造りけり」だと同語反復になる。やはり「送りけり」で正解なのだろう。
 文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)の時に現地に住み着いてしまった人もいたのだろうか。第二次大戦の時には東南アジアにそのまま住み着いて帰国しなかった兵士がたくさんいたが。
 三十三句目。

   高麗のあがたに畠作りて
 紅粉染の唐紙に花の香をしぼり 芭蕉

 「唐紙」はここでは「とうし」と読ませているが、「からかみ」は京都の名産品で襖に多く用いられたので、近年でも襖のことを「からかみ」と言っている。最近はあまり聞かなくなったが。
 ウィキペディアには、

 「京における高度な紙の加工技術が、平安王朝のみやびた文化を支えたともいえる。豊かな色彩感覚は、染め紙では高貴やかな紫や艶かしい紅がこのんで用いられるようになった。」

とある。
 前句の朝鮮出兵から一変して王朝の風雅に取り成す。
 高麗のあがたはここでは武蔵国高麗郡のことであろう。かつては高句麗の遺民が住んでいた。
 三十四句目。

   紅粉染の唐紙に花の香をしぼり
 ちいさき宮の永き日の伽    工山

 王朝の雰囲気を引き継いで、幼い宮様のお相手をして春の長い一日を過ごすとする。
 三十五句目。

   ちいさき宮の永き日の伽
 春雨の新発意粽荷ひ来て    桐葉

 「新発意」は仏道に入ったばかりの者。「しんぼち」と読む。
 「粽(ちまき)」は最近ではいろいろな具材の入った中国料理を指すことが多いが、日本の粽は餅米を笹や竹の皮やチガヤの葉で包み、灰汁で煮込んだものだった。今でも南九州に「あくまき」と呼ばれるものが残っている。筆者も鹿児島にいた時に食べたことがある。
 粽というと端午の節句だが、かつては上巳の節句でも食べることがあったのか。
 前句の「ちいさき宮」を神社の意味の取り成す。神仏習合でお寺とお宮は一緒にあった。
 挙句。

   春雨の新発意粽荷ひ来て
 青草ちらす藤のつぼ折     東藤

 「つぼ折」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 小袖、打掛などの着物の両褄を折りつぼめ、前の帯にはさみ合わせて、歩きやすいように着ること。
  ※浮世草子・紅白源氏物語(1709)序「吉野山の花を雲と見給ひ、立田川の紅葉を錦と見しは万葉の古風、市女笠着てつぼほり出立の世もありしとかや」
  ② 能の女装の衣装のつけ方の名称。唐織りや舞衣などの裾を腰まであげをしたようにくくり上げて、内側にたくしこんで着ること。
  ※波形本狂言・鬮罪人(室町末‐近世初)「ざひ人のやうにとりつくらふて下され〈略〉ツボ折作物コシラヱル内ニ」
  ③ 歌舞伎で、時代狂言の貴人や武将が上着の上に着る衣装。打掛のように丈長(たけなが)で、広袖の羽織状をなした華麗なもの。壺折衣装。」

とある。この場合は①か。
 藤の花の下、青草を散らしながら小袖を壺折にして粽を運んでくる新発意の姿を描き出し、この一巻も目出度く終わる。

2020年1月11日土曜日

 今日は満月。十七夜。台湾では蔡さんの圧勝が伝えられる。これは予想通りだ。台湾加油。香港加油。
 それでは「海くれて」の巻の続き。

 二十五句目。

   京に名高し瘤の呪詛
 富士の根と笠きて馬に乗ながら 芭蕉

 『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店)の注は、
 伝藤原定家の、

 旅人の笠きて馬に乗ながら
     口を曳かれて西へこそ行け
              (『叛匂物語』)

を引用している。旅人は馬に連れられ、馬は馬子に口を曳かれながら、ということか。「西へこそ行け」は都へ登る道だが、「西」は西方浄土で死を暗示させる。「笠きて馬に乗ながら」はこの歌からそっくり拝借した感じだ。
 同じ頃に芭蕉は、

 年暮れぬ笠きて草鞋はきながら 芭蕉

の発句を詠んでいる。
 「富士の根」は「富士の峰(ね)」のこと。

 時知らぬ山は富士の嶺いつとてか
     鹿の子まだらに雪の降るらむ
              在原業平(新古今集)
の歌も「富士の嶺(ね)」と読む。
 なお、この業平の歌は仮名草子『竹斎』でも引用されていているところから、前句の「京に名高し瘤の呪詛」に竹斎の姿をイメージしたのかもしれない。竹斎は京に名高い「やぶくすし」(ただし似せ物)を名乗っている。

 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉

もこの頃の句。
 二十六句目。

   富士の根と笠きて馬に乗ながら
 寝に行鶴のひとつ飛らん    工山

 「寝」は前句の「根(峰)」に掛けた掛けてにはになっている。富士のねに向って鶴は寝にゆく。
 二十七句目。

   寝に行鶴のひとつ飛らん
 待暮に鏡をしのび薄粧ひ    桐葉

 「粧ひ」は「けはひ」と読む。鎌倉に化粧坂(けわいざか)という地名がある。
 前句の鶴を高貴な男の喩えとし、それが寝に来るということで、ひそかに鏡を見て薄化粧する。
 二十八句目。

   待暮に鏡をしのび薄粧ひ
 衣かづく小性萩の戸を推ス   東藤

 「萩の戸」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (前庭に萩が植えてあったところからとも、障子に萩が描いてあったところからともいう) 平安時代、清涼殿北庇の東に面した妻戸の称。のち、戸わきの弘徽殿(こきでん)の上の局あたりまでを称するようになった。萩殿(はぎどの)。
 ※讚岐典侍(1108頃)下「萩の戸におもかはりせぬ花見てもむかしを忍ぶ袖ぞ露けき」
  ② 近世に、清涼殿を復古した際に①を誤って清涼殿の一室とし、夜の御殿の北、弘徽殿(こきでん)の上の局と藤壺の上の局との間に設けた部屋。萩殿。《季・秋》
 ※俳諧・増山の井(1663)七月「萩殿 萩の戸」

とある。
 前句を小姓(男)とし、女御更衣ではなく男が夜の御殿(よるのおとど)にこっそりと通ってくる。
 「推ス」は推敲の語源となった「僧推月下門」を思い起こさせる。月呼び出しと言えよう。
 二十九句目。

   衣かづく小性萩の戸を推ス
 月細く土圭の響八ッなりて   工山

 土圭(とけい)は機械式の時計、自鳴鐘のことで、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「歯車仕掛けで自動的に鐘が鳴って時刻を知らせる時計。12世紀の末ごろ、日時計・砂時計に替わってヨーロッパで発明され、日本には室町時代に伝えられた。」

とある。
 この種の和時計は高価なもので、将軍大名クラスがお抱えの時計師に作らせたりした。
 「八ッ」はこの場合は夜八ッのことで、丑の刻ともいう。下弦を過ぎて細くなった月が東の空に上る。そんな時間に小姓がこっそりとやってくる。
 三十句目。

   月細く土圭の響八ッなりて
 棺いそぐ消がたの露      芭蕉

 「棺」は「はやおけ」と読む。死者のあったときに間に合わせに作る簡単な棺桶をいう。
 将軍家か大名家で夜中に誰か亡くなって慌てている様子が浮かぶ。
 「此梅に」の巻の五十二句目にも、

   富士の嶽いただく雪をそりこぼし
 人穴ふかきはや桶の底     桃青

とあった。これは昔の葬式では、死者は仏道に入るものとして髪を剃って納棺したので、富士山も死ねば雪を剃りこぼして、富士宮の人穴(溶岩洞穴)を仮桶とするというシュールな句。

2020年1月10日金曜日

 今日も月がきれいに見える。
 「海くれて」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   美人のかたち拝むかげろふ
 蝦夷の聟声なき蝶と身を侘て  芭蕉

 蝦夷はここではアイヌなのか古代のエミシなのかはよくわからない。蝦夷の女に惚れてそこの婿になったとしても、やがて戦乱に巻き込まれ、女は死に婿は悲しみにくれる。いかにもありそうな物語だ。
 二十句目。

   蝦夷の聟声なき蝶と身を侘て
 生海鼠干すにも袖はぬれけり  東藤

 海鼠の内臓を取り除き、海水で煮た後乾燥させたものを煎海鼠(いりこ)という。今は中華料理に用いられるが、かつては日本でも薬として珍重されていたが、江戸時代には中国への輸出品となっていた。
 二十一句目。

   生海鼠干すにも袖はぬれけり
 木の間より西に御堂の壁白く  工山

 干し海鼠に涙を流す人物を、殺生の罪を悲しむお坊さんとし、御堂(みどう)を付ける。
 二十二句目。

   木の間より西に御堂の壁白く
 藪に葛屋の十ばかり見ゆ    芭蕉

 「葛屋(くずや)」は草葺屋根の家のこと。ありふれた農村風景と言えよう。
 二十三句目。

   藪に葛屋の十ばかり見ゆ
 ほつほつと焙烙作る祖父ひとり 東藤

 焙烙は号に虍豆と書く字を用いているが、フォントが見つからなかった。「ほうろく」と読む。素焼きの土鍋。「祖父」は「ヂヂ」と読む。陶芸の集落の情景になる。土地柄からして瀬戸焼だろう。
 二十四句目。

   ほつほつと焙烙作る祖父ひとり
 京に名高し瘤の呪詛      桐葉

 これはこぶ取り爺さんのことか。十三世紀前半の『宇治拾遺物語』に登場する。「呪詛」は「まじなひ」と読む。

2020年1月9日木曜日

 今日の朝、まだ暗い頃、西の空に赤い大きな月が見えた。十四夜の月のちょっと早い有明だ。夕暮れにも月が見えた。師走の十五夜の月が雲のあい間に見えた。
 やはり平和が一番良い。「和を以て貴しとなす」と聖徳太子も言ったように、平和は理想であり目的だ。人はこの目的の王国を作らなくてはならない。それゆえにこの国は「大和」とも言う。
 人は一人一人顔貌が違うように考え方も様々で、いろいろぶつかり合うのは仕方がない。それでもうまく互いに譲り合いながら、自分の身の回りから平和を作ってゆく。世界平和もその小さな日常的な平和の積み重ねから生まれるものではないかと思う。
 戦争に反対したから平和が生まれるのではない。平和は日々一人一人が作り、積み重ねてゆくものだ。鈴呂屋は平和に賛成します。
 風流の道も平和を愛するものでなくてはならない。そういうわけで「海くれて」の巻の続き、行ってみよう。

 十一句目。

   周にかへると狐なくなり
 霊芝掘る河原はるかに暮かかり 東藤

 霊芝はサルノコシカケ科の茸でマンネンタケとも呼ばれる。今では栽培されているが、かつては非常に希少なもので、中国の皇帝がこぞって求めたともいわれる。ただ、霊芝は木の根っこに生えるもので掘るものではない。
 中国の皇帝が求めるくらいのものだから、玉藻前もこれを見つけたら皇帝に献上しなくてはと思ったのだろう。
 十二句目。

   霊芝掘る河原はるかに暮かかり
 花表はげたる松の入口     工山

 「花表」は「とりゐ」と読む。鳥居のこと。元々は中国で宮殿や墓所などの前や大路が交わる所に立てられる標柱のことを花表と言っていたようだが、それを日本の神社の鳥居に当てたものと思われる。
 「とりゐ」は村の門の上に鳥の木形を置いたところから来ているらしく、弥生時代の遺跡から発見されている。長江文明に由来するものと思われる。
 「はげたる」というのは今ではあまり見られないが、木の皮を剝がずに作った黒木鳥居の皮が古くなって剝げたのではないかと思われる。
 「松の入口」というのは、おそらく松林そのものが御神体で、いわゆる「もり」だったからだろう。今日のような拝殿・本殿を持たない古い神社の姿ではないかと思う。
 こういう霊域なら霊芝も生えていそうだ。
 鳥居は桜とは関係ないし、桜のように華やかなという比喩の意味もないので正花にはならない。花の句はこれとは別にこのあと詠まれることになる。
 十三句目。

   花表はげたる松の入口
 笠敷て衣のやぶれ綴リ居る   桐葉

 「敷く」は下に敷くという意味だけでなく、「砂利を敷く」のように地面に撒くという意味もある。「笠敷て」も笠を尻の下に敷いたのではなく、単に地面に置いたという意味。『奥の細道』の中尊寺の場面でも「笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」とある。
 句の方も旅人だろう。杜(もり)の前で笠を置き、衣の破れを繕う。「やぶれを綴る」という言い回しは、『奥の細道』の冒頭に「もも引きの破れをつづり笠の緒付けかえて」という用例がある。
 十四句目。

   笠敷て衣のやぶれ綴リ居る
 あきの烏の人喰にゆく     芭蕉

 前句を河原者に取り成したか。昔の河原には死体が打ち捨てられ、カラスがそれを啄ばみに来る。いわゆる「野ざらし」だ。舟遊びをしていても野ざらしを心に旅していることを忘れてはいない。
 十五句目。

   あきの烏の人喰にゆく
 一昨日の野分の浜は月澄て   工山

 野分の後の浜辺には月が出ている。とはいえ、そこには土左衛門が流れ着いてたりもしたのだろう。
 ところでこの土左衛門だが、江戸中期の成瀬川土左衛門という相撲取が語源になっているので、芭蕉の時代には水死体を表わす「土左衛門」という言葉はまだなかった。
 十六句目。

   一昨日の野分の浜は月澄て
 霧の雫に龍を書続ぐ      東藤

 絵師は帳面を持って、旅先での景色をスケッチしたり、思いついた絵を描きとめたりする。
 ここでは一昨日の台風の荒れ狂う海のスケッチの上に龍を描き足したのであろう。
 十七句目。

   霧の雫に龍を書続ぐ
 華曇る石の扉を押ひらき    桐葉

 ここで花の定座になる。ただ、「花表」から四句しか隔ててないので「華」の字を用いている。
 花曇の灰色の雲の切れ間から現れる龍は、さながら石の扉をこじ開けて出てきたかのようだ。
 十八句目。

   華曇る石の扉を押ひらき
 美人のかたち拝むかげろふ   工山

 これは、

 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
     をとめの姿しばしとどめむ
               僧正遍昭

が本歌か。石の扉は天の岩戸の連想も働く。
 現れた美人はこの世のものではないので、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいている。

2020年1月8日水曜日

 アメリカもイランも戦争はしたくないんだろうな。だから脅すだけで済ませたいというところで、一見子供の喧嘩のようなやり取りになってしまうのだろう。
 北朝鮮と一緒で、完全非核化とひきかえに米軍の撤収というのが落としどころなのかもしれない。北朝鮮の場合は在韓米軍の撤収。イランの場合はイラクからの撤収というところだろうか。
 トランプさんもイラクは重荷になっているんだろうな。シリアから撤退したみたいにイラクからも撤退したいのだけど、イランがどうにも邪魔だというところか。
 イランの非核化に成功し、米軍もイラクから撤収する。そうなるとイランはシーア派の地域を併合するだろうな。クルド人はうまくするとクルディスタン独立につながるかもしれない。
 北朝鮮は自分の方からミサイルを撃って挑発してくるが、イランは潜行して核開発をやっているから、何らかの形でイランの方からの攻撃を引き出したかったのかもしれない。どうせ撤退したら使わない基地だから、解体費用の節約にもなるし。
 まあそれはともかくとして、俳諧のほうに移ろう。「海くれて」の巻の続き。

 五句目。

   樫のたねまく秋はきにけり
 入月に鶍の鳥のわたる空    桐葉

 鶍(イスカ)はウィキペディアに、「スズメ目アトリ科に分類される鳥類の一種」で、「日本には主に冬鳥として渡来するが、年によって渡来数の変動がある。少数だが北海道や本州の山地で繁殖するものもある。」とある。また、「イスカのくちばしは左右互い違いになっており、このくちばしを使って、マツやモミなどの針葉樹の種子をついばんで食べる。」ともある。
 普通なら雁がわたるとでもしそうだが、あえてマイナーな鳥を出してきている。
 六句目。

   入月に鶍の鳥のわたる空
 駕篭なき国を露負れ行     芭蕉

 駕篭なき国はよほど辺鄙な所か。露が負われてゆくというのはわかりにくいが、「追われ行く」に掛けているのか。涙ながらに辺鄙な土地へ行かされるのは左遷か流刑か。
 初裏。
 七句目。

   駕篭なき国を露負れ行
 降雨は老たる母のなみだかと  工山

 駕篭に乗れずに雨に打たれるがまま背中に露を背負ってゆく。それは老いた母の涙であるかのようだ、と。母との間で何があったのか。
 八句目。

   降雨は老たる母のなみだかと
 一輪咲し芍薬の窓       東藤

 江戸時代には今のようなガラス窓はなかった。ならばここでいう窓はどういう窓なのか。老いた母のイメージを重ねるとすれば、台所の換気用の窓だろうか。芍薬は背が高いので窓からでもよく見える。
 九句目。

   一輪咲し芍薬の窓
 碁の工夫二日とぢたる目を明て 芭蕉

 芭蕉の生まれた一年のち、碁聖と呼ばれた本因坊道策が生まれている。芭蕉の時代は同時に本因坊道策の活躍によって囲碁ブームの起きていた時代だった。
 時間制限のなかった時代だから、一手打つのに長考二日なんてのもあったのだろう。「目を明けて」は目をつぶって考えていたのをようやく良いてを思いついて目を明けるというのと、碁は目を二つ作るともはやその石を取られないというのと掛けている。こうしてできた地は格子窓の芍薬の様でもある。
 十句目。

   碁の工夫二日とぢたる目を明て
 周にかへると狐なくなり    桐葉

 妖狐玉藻前は前歴として周の第十二代の王、幽王の后、褒姒だったという。
 碁は平安時代の女房、女官の間でも盛んに打たれていて、『源氏物語』にも空蝉と軒端荻が碁を打つ場面がある。ならば、玉藻前が碁を打っていたとしてもおかしくないだろう。
 碁に負けて正体を表わした妖狐が周へ帰るといって泣く場面もあったかもしれない。

2020年1月7日火曜日

 今日は七草粥の日だが、旧暦ではまだ師走の十三日。今年も俳諧を読んでいくので、まずは師走の俳諧を探してみた。
 そういうわけで貞享元年臘月十九日、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中、熱田で興行された、

 海くれて鴨の声ほのかに白し  芭蕉

を発句とする四吟歌仙を読んでいこうと思う。臘月は師走の異名。
 この発句には前書きがある。

  尾張の国あつたにまかりける比、人々師走の
  海みんとて船さしけるに
 海くれて鴨の声ほのかに白し  芭蕉

 船上での興行なのか、それとも舟遊びのあとでの興行なのかは定かでない。十九日だから、夕暮れに船を浮かべた時はまだ月はなく、かなり遅くなってから月が昇るまでは真っ暗になる。寝待月ともいう。
 発句はその海が暮れて紺色の空に星が瞬く頃、辺りはすっかり暗くなり、波の音に混じって鴨の声がかすかに、それでいてはっきりと聞こえてくる瞬間を捉えている。「白し」は「しるし」ではっきりとという意味がある。
 これに桐葉が脇を付ける。

   海くれて鴨の声ほのかに白し
 串に鯨をあぶる盃       桐葉

 桐葉は熱田の名家で屋敷の間口が七十五間あったという。おそらく今回の舟遊びと興行のスポンサーだったのだろう。芭蕉を迎えるホストということで脇を詠んでいる。
 海岸で火を焚いて串刺しにした鯨肉をあぶったものを肴に酒を飲むとは、何とも豪快だ。
 第三は東藤で、やはり熱田の人のようだ。『熱田皺筥(しわばこ)物語』を編纂し、この歌仙も収められている。

   串に鯨をあぶる盃
 二百年吾此やまに斧取て    東藤

 前句の鯨をあぶって酒を飲む豪快な雰囲気から、二百年山で樵をやっている仙人のこととする。
 連歌でも「山がつ」という言葉は隠遁者の意味でも用いられる。湯山三吟の十四句目に、

    何をかは苔のたもとにうらみまし
 すめば山がつ人もたづぬな   宗長

の句がある。
 四句目は工山。工山はよくわからないが、やはり熱田の人か。

   二百年吾此やまに斧取て
 樫のたねまく秋はきにけり   工山

 前句を山神様か何かにしたか、秋に樫の団栗を落とし、種を蒔く。

2020年1月5日日曜日

 二日には武州柿生琴平神社に初詣に行き、三日には古代東海道を尋ねて龍ヶ崎から土浦のちょっと手前まで歩いた。
 四日は家で休んで、今日は都筑区の北新羽杉山神社に回転式の狛鼠を見に行き、そのあとカピバラカフェに行った。
 そんなこんなで冬休みもあっという間に終わり、明日から仕事始め。
 また灰色の日々に戻るが、きっと様々な芸能が慰めくれて、明日への活力をくれることだろう。
 まあ、正月休みが一日しかなかった幕末期に較べれば今は良い時代になった。そういうことで今日から鈴呂屋俳話も開始。今年最初の一句は鼠年に因んで。

 穴蔵や鶯の異名白鼠      如柳

 これは延宝九年刊清風編の『おくれ雙六(すごろく)』の句。穴蔵の中でたまたま出合った白鼠は大黒様の使いの目出度いもので、鶯のようなものだ、という意味だろうか。
 清風といえば出羽尾花沢の紅花問屋で、芭蕉が『奥の細道』の旅で尋ねて行き、

 まゆはきを俤にして紅粉の花  芭蕉

の句を詠んだことでも知られている。

 蓬莱の火燵猫の不盡見る朝哉  千門(庵桜)

 火燵を蓬莱山に見立て、その上に乗っている猫を富士山に喩える。

 蓬莱の麓へ通ふ鼠かな     鬼貫

 これは散文的には蓬莱飾りの辺りに鼠がちょろちょろしているという句だが、韻文的には東方海上の幻の蓬莱山へ大黒様の使いである鼠が行き来しているとなる。
 芭蕉で鼠と言えばやはり、

 氷苦く偃鼠が喉をうるほせり  芭蕉(虚栗)

だろうか。新暦では正月だが、旧暦ではまだ冬だ。