2020年11月30日月曜日

  今日の満月は半影月食だというが、見てもよくわからなかった。所々薄い雲もかかり、月が何となく暗く見えても月食のせいなのか雲のせいなのかよくわからない。
 そういえば今年は富士山に雪が少ない。山梨側でも少ししか白くなっていない。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、歳旦三ツ物の事。予此三ツ物ニおいてハ、よく工夫して、年々引付ニ出し侍れ共、誰一人秀たると云人もなし。
 師の手伝し給ひたる三ツ物を見て、慥ニ決定し、年々花やかに仕出したれ共、見るものなけれバ、其分にて反古とハ成ぬ。口おしし。
 此三ツ物俳諧を、常式の俳諧とおもひ給ハバ、大きニあやまり也。三句にて百韻・千句の代をするなれバ、容易なる句を出して、見らるるものにあらず。故ニ第三、名所など結びたる事も、此格式と見えたり。
 予三ツ物をする事、天晴天下ニ肩を双べきものあるべしともおもハず。誰々がするも同じ事とおもひ給ふ人ハ、三ツ物の仕やう見えぬとしれたり。
 されバ大綴を見るに、三ツ物仕様しりたる人、一人もなし。一人もなしとハいはれまじなど云人もあらん。しかれ共、一句か二句ハたまたまあれ共、全篇血脈をする人ハ希也。
 脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.165~166)

 歳旦三ツ物というと、

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

の句があるように、ほとんどは左義長(どんど焼き)で焼かれてしまったのだろう。毎年たくさんの俳諧師が歳旦三ツ物を大量に刷って配った割には、ほとんど現存しない。
 「師の手伝し給ひたる三ツ物」は李由・許六編『宇陀法師』(元禄十五年刊)にある、次のものであろう。『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)に収録されている。

 梅が香や通り過れば弓の音
   土とる鍬に雲雀囀る
 陽炎に野飼の牛の杭ぬけて    翁

 この中村注によれば『一葉集』『袖珍抄』には発句を毛紈、脇を許六としているという。ネット上の『許六画芭蕉書三つ物』(麻生磯次)によると、発句は許六、脇は洒堂だという。
 発句は梅が香に弓始(ゆみはじめ)で正月の目出度い景色としている。弓始はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

とある。
 脇は正月の風景をそのまま受け継いて初春の季語を入れるのではなく、あえて晩春とも取れるような「雲雀囀る」と展開する。
 「脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」
とあるように、初春の句を三句連ねるのではなく、初春から晩春への季移りが大事なようだ。そのために、脇は第三で晩春に展開しやすいように配慮することが大事なのだろう。
 第三は雲雀囀る農村風景に陽炎と野飼いの牛を付けるが、この取り合わせだけでなく「杭ぬけて」と放牧場の杭が抜けて牛が逃げ出すところに一ネタ入れている。
 三つ物は普通の俳諧の発句・脇・第三とはちがい、第三が同時に挙句になると思った方がいいのだろう。芭蕉は見事に最後に落ちをつけている。
 歳旦発句は目出度く、脇は第三の落ちを引き出すために、晩春への転換の伏線を敷きながら穏やかに流し、第三はここで終わらせるという意思を以て落ちをつける。これが三つ物の仕様と言っていいのだろう。第三を名所で締める場合もあるという。

 「一、当時歳旦の発句、歳旦にてなき句大分あり。師云、歳旦と云ハ、元日明けたる時の事也。多ク歳旦の句にてなしといへり。『正月三日口を閉、題四日』と前書して、
 大津絵の筆のはじめや何仏
と云句出たり。此前書にて、後代歳旦の格式ニセよと云心ありて書ると、慥ニ決定し侍ぬ。
 引付帳の内ニ、七種・子の日、あるいハ元日・二日・三日など云題を出して句あり。是大キ成あやまり也。師説なき故也。子細ハ元日明たる時の事と云にてしれたり。遠国の歳旦など入るるも、はばかるべき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.166~167)

 歳旦は本来は元日明けた時のこと、つまり一月一日の朝のことだが、実際にはかなり幅広く正月の句のことを歳旦と呼んでいる。先の「梅が香や通り過れば弓の音」の句も弓初めの句ならば正月七日の句になる。実際に一月一日の朝だけを歳旦にしたのでは、歳旦帳の発句は初日の出しか詠めなくなってしまう。
 そこで芭蕉さんも元旦の吟でなくても題をつけることで歳旦の各式にせよ、と言ったのだろう。

   正月三日口を閉、題四日
 大津絵の筆のはじめは何仏    芭蕉

の句は元禄四年の句で、仏画を主に書いていた大津絵の絵師は、四日の筆始めに何を書くのだろうか、という句で、前書きを付けることで歳旦と同格にした。
 「引付帳」の引付(ひきつけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「④ 俳諧師などが自分の歳旦帳の末に友人・門人などの句を付録として掲載したこと。また、その句。
  ※俳諧・延宝六年三物揃(1678)「俳諧惣本寺引付 歳旦」

とある。筆始めや弓初めは良いとしても、七種・子の日はさすがに歳旦とはし難く、逆に三が日にわざわざ元日・二日・三日などという題をつける必要もない。これは暗黙の裡に歳旦が元旦に限定されずとも三が日のものと定まっていたからだろう。四日以降のものは題をつけた方がいいということと、七種・子の日は正月三が日とはまた別の行事として認識されていたということだろう。
 今でも「元旦」という言葉に関しては、年賀状で正月の午前中に届かないものについては使用しない方がいいということが言われている。「旦」は朝日を意味するから、歳旦と同様元旦も一月一日の朝を意味する。ただ、年末の早い時期に書いているのに「元旦」と書くのもなんか変な気もするが。

2020年11月29日日曜日

  今日は一日曇りだったが、夜になって晴れた。神無月の十五夜の月が見える。
 コロナの感染が急に広まったのは温度湿度紫外線の低下減少といった季節的なものだというのはわかる。そういう状況でこれまで通りのウイズ・コロナでは対応できないから、生活を変えなければならない。そのような時に今まで通りGo ToトラベルやGo Toイートを続けようとしていることが問題なのであって、Go ToトラベルやGo Toイートが感染拡大の直接の原因だと言っているわけではない。
 だからといってGo ToトラベルやGo Toイートが原因でないから続けていいということではない。
 もちろんGo ToトラベルやGo Toイートは強制ではないから、行かない自由を行使すれば無効化できる。誰も行かなくなれば、やっても意味ないということで自ずと止めることになる。キャンペーンに踊らされている連中にも責任がある。またグルメ番組で旅行や外食を日々煽っているマス護美の罪も大きい。
 野党も「Go Toトラベルが原因だというエビデンスがない」という政府の主張に対して、「Go Toトラベルが原因ではないというエビデンスがない」なんて反論するのは愚の骨頂。そういうのを悪魔の証明という。「最初の原因でなくても、今後拡大させる恐れがあるならやめるべき」というのが正論。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、昔も近年も、前書する事、皆其発句の講尺して、前書と云物にあらず。
 前書して、講尺の上にてきこえる句などハ、よき句にハあらず。前書と云ハ、其句の光を添る事也。
 一年江戸にて、晋子が句兄弟あめる時、予に語りて云ク、越人がけしの句ハ、少いひたらず。慥ニけしニしてハ取がたし。其けしの句を返して、
 ちる時ハ風もたのまずけしの花
とせしと語侍る。
 予云、されバ予ハ此越人がけしの句にて、翁の名人を発明すといへバ、晋子が云、如何。答テ云、此句けしにてハいひたらず。故ニ『僧にわかるる』と云前書して、餞別の句ニなし、さるミのニハ入給ふといへば、晋子うれしがりて、此事書入べしとて、前書の事をかけり。越人がけしハ、慥ニ師の前書にて、一句の光をバましたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.161~162)

 越人の句は『猿蓑』に、

   別僧
 ちるときの心やすさよ米嚢花   越人

の形で収録されている。「別僧」は「僧に別るる」と訓じる。

 ちる時ハ風もたのまずけしの花  越人

はその原案と思われる。これだと芥子の花の散る様だけを詠んだ句になってしまう。風もなく散るというと、

 ひさかたの光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
              紀友則(古今集)

の歌が思い浮かぶ。それを芥子に変えただけになってしまう。
 そこで芭蕉は「別僧」の前書きを入れ、句も情景より心情を重視した「心やすさよ」に変えている。

 「路通が月の山の句合にハ、只けしの句ニして前書なし。予此時、路通が未練なる事をしれり。
 師在世の時、此事きかず。先生ハ此集の撰者なれバ、しり給ハむ。実ニ餞別の句にてありや、いぶかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162)

 「路通が月の山の句合」は路通撰『俳諧勧進牒 附月山発句合』(元禄三年刊)で、上巻の末尾に「月山発句合」が収録されている。ここには、

 「二番 いばらがき
 鄙びたる香ばし悪むな茨垣    宵花
     けしのはな
 散ときのこころやすさよ芥子の花 越人
 折々は野渡の船曳、あしまの径を過、孤村のしほり酒をも侘得たる風情、寄の作意といふべきか。続に見ゆるけしの花は、紅白の色をもて興とせず、かろくうり散たるをうらやみたり。見いれ有所猶殊勝。」

とある。
 前書きは芭蕉が『猿蓑』だけに与えたもので、このことを路通が悔しがってたようだ。去来先生は『猿蓑』の撰者だったから何か事情を知らないか、というわけだ。
 許六は本来芥子の花の詠んだだけだった越人の句を、芭蕉が餞別の句に作り直したのではないかと疑っているようだ。

 「予が集の時、李由が云、残暑の句なし、入たしといひて、『下帯に残る暑さや』と云事をいへり。下五字なし。予に談合して色々置共、喰合ものなし。予云、此句下五字あり共、一句おもく成てむづかしからむ。只此ままにて入られよといひて、
 下帯のあたりに残る暑さかな
と一句ニのべたり。此句斗にてハいひたらず。是越人がけしの場所ニて、前書入る句也。則、『贈清貧僧』といふ題を付たり。是此格也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162~163)

 「下帯に残る暑さや」も「鍋ぶた一ッ冬籠」や「足軽町の桃の花」の同様で、これだけで趣向が完結してしまっているため、付け加えるのが難しい。取り合わせは出来ていて、それを囃す適当な言葉もなく、結局「あたりに」を加えてこれで一句にしたが、間延びした感じが残ってしまった。
 「贈清貧僧」という前書きで許六としては機転を利かせたのだろう。まあ、一つの物語を作ったわけだ。芭蕉の先の前書も「作り」だと見てのことだろう。「信濃路を過ぐるに」の例もあるし。

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。
 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。
 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。
 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 これはよくわからない。「こんや」は紺屋のことだろう。「手染の窓と作例の論あり」とあるから、染物屋の紺屋だろう。
 その紺屋の窓が何か特殊なものだったのか、許六の言う「血脈」だから、不易だとか流行だとか理屈を言う以前の、初期衝動的な面白さということなのだろう。
 「鍋ぶた一ッ冬籠」「足軽町の桃の花」にはなくて、「田の草におハれおハれて」「株干すわらの日のよハり」には多少ある物が「血脈」だという。あるいは今の言葉で言う「エモ」に近いのかもしれない。
 まあ、多分「紺屋の窓のしぐれ」や「菜の花に紺屋の窓」は血脈なのだろう。紺屋の窓だから紺色の布がカーテンのようにかかってたりしたのか。取り合わせはそんな重要ではなく「紺屋の窓」が血脈のようだ。関西では紺屋が穢多と結びついていたことは以前どこかで触れた。
 発句道具は発句のネタとして面白い取り合わせで、平句道具はどちらかというと放り込みのような字足らずの時に付け加えるようなものだろう。「紺屋の窓」に「時雨」「菜の花」はその中間のような第三道具ということか。

 「一、ひととせ俳諧せし時、瓜の泥によごれたるハおかしとて、六句めニ
 泥によごるる瓜の網の目
と云句せし。其次のとし、翁の句ニ、
 朝露によごれて涼し瓜の泥
と云句出たり。初て発句の道具たる事を知れり。あたら瓜の泥を平句にして、師ニ先ンをこされたること無念也。是、眼の明ならざる故也。此泥にて、慥ニ場所をしりぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.164~165)

 芭蕉が人の付け句から発句の発想を得た例は、多分幾つもあるのではないかと思う。一番わかりやすいのは『野ざらし紀行』の、

   月見てやときはの里へかかるらん
 よしとも殿ににたる秋風     守武

の句から、

 義朝の心に似たり秋の風     芭蕉

の発句を作った例であろう。
 取られた方は「やられた」と思うのだろう。
 この場合泥に汚れた瓜だけでは発句にはならない。「朝露」に「凉し」があって初めて発句になるのではないかと思う。義朝の句も「心に似たり」があって発句になる。

2020年11月28日土曜日

  月もだいぶ丸くなって満月も近い。
 今日は晴れたが木枯らしが吹いて、だいぶ木の葉も散った。銀杏は黄色で見ごろだ。
 東京のコロナは北海道に続きて多少頭打ちになってきたかな。感染が急速に拡大してもう二週間以上たつから、警戒すればそれなりの結果は出るのだろう。ただ、実効再生産数が1.1では感染者は減らない。夏から秋まで長いこと1.0前後で来たが、1を切らないことには減らない。まだまだこれでは駄目だ。
 死者も一日30人ペースになってきている。このままだと年内に三千人を越えるかもしれない。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、とり合のあやうきと云ハ、猿ミのに
 から鮭も空也の痩も寒ンの内   翁
 角大師井出の蛙の干乾かな    許六
 是、空也の痩のとり合にて作る句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.161)

 「あやふし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典に、

 「①あぶない。危険だ。
  出典徒然草 一〇九
  「いとあやふく見えしほどは言ふ事もなくて」
  [訳] (高くて)大変危険に思われた間は何も言わないで。
  ②不安だ。気がかりだ。
  出典徒然草 一八六
  「轡(くつわ)・鞍(くら)の具に、あやふきことやあるとみて」
  [訳] 馬の轡や鞍などの馬具に、気がかりなところがありはしないかと見て。
  ③不確実だ。
  出典平家物語 五・富士川
  「平らかに帰り上らむこともまことにあやふき有り様どもにて」
  [訳] 無事に帰京することも本当に不確実なようすであって。

 どれも古い時代の用例で、多分許六の時代には「いみじ」「やばい」という同様、良い意味に転じて用いられることもあったのではないかと思う。
 「角大師(つのだいし)」は慈恵大師・良源を象った護符で、ウィキペディアには、

 「角大師と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨と皮とに痩せさらばえた夜叉の像を表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2つのタイプがある。『元三大師縁起』などの伝説によると、良源が夜叉の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は魔除けの護符として毎年正月に売り出され、比叡山の麓の坂本や京都の民家で貼られた。」

とある。空也念仏が冬の句なのに対し、角大師は春の句になる。蹲踞の姿勢で右手を差し出した護符は今でも用いられている。コロナ下でで疫病除けとして一部では盛り上がっているようだが、アマビエほどの人気がないのは可愛くないからだろう。
 なお、芭蕉の句はから鮭と空也を併置しているだけで、空也がから鮭みたいだとは言っていない。許六は「かな」と言い切ってしまっている。その意味では許六の句の方が「危ない」。失敬だと言われれば弁解できないのでは。

2020年11月27日金曜日

  今日は雨になるという予報だったがほとんど降らなかった。
 そういえば武漢で最初にコロナが広まってからもう一年になるのかな。
 コロナも一歳になるのか。まだ一歳。あと何年猛威を振るうのか。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、古事・古実をむすぶ事。猿ミのニ、諏訪の祭りの穂やつくる事にて翁の物語あり。
 予が集の時、李由が云、御玄猪(ゲンヂヨ)の御いわゐに、公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。此事句にせんといひし。
 予が云、是よき古実也。遠境の人々ニしらしめたるがよし。しかれ共、句作り悪敷バ古手に落む。専ラ銀杏の句にして入られべし。
 御玄猪の句ならバ、大きにふるかるべしといへり。古実・古事等ハ、予穂やの時、句作りを発明して置ぬ。
 雪ちるや穂やの薄の刈残し    翁
 御命講や油のやうな酒五升    同
 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由
 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六
 山科や五荷三束に菊の花     同
 皆穂やの格式より作り出る句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.160~161)

 「穂や」の句は『猿蓑』の、

   信濃路を過ぐるに
 雪散るや穂屋の薄の刈残し    芭蕉

の句のことをいう。穂屋は諏訪の御射山社祭のことで、諏訪大社のホームページには、「青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行うので穂屋祭りの名称があります。」とある。旧暦七月二十七日に行われていたが、今では新暦月遅れの八月二十八日に行われている。
 ところで、芭蕉は貞享五年秋の『更科紀行』の旅の時には木曾から更科へ向い、善光寺を経て江戸に帰ったため、諏訪は通っていない。諏訪を通ったとすれば貞享二年夏、『野ざらし紀行』の旅の帰りであろう。いずれにせよ芭蕉は冬の信濃路を通ったとは思えないので、この句は人から聞いた御射山社祭のことを元にした想像によるものと思われる。

 御命講や油のやうな酒五升    芭蕉

の句は元禄五年江戸での句で、御命講は日蓮上人の命日十月十三日に行われる。日蓮消息文「新麦一斗、筍三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」が出典だという。許六が江戸で芭蕉と対面した頃の句だ。「油のような酒」はどういう酒かよくわからない。日蓮の時代なら「南都諸白(なんともろはく)」だったかもしれない。ウィキペディアには、

 「南都諸白(なんともろはく)とは、平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称。
 具体的には菩提山正暦寺が産した「菩提泉(ぼだいせん)」を筆頭として、「山樽(やまだる)」「大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)」などが有名である。
 まだ大規模な酒造器具も開発されておらず、台所用品に毛の生えた程度の器具しかなかったと思われるこの時代に、菩提酛、煮酛など高度な知識の集積にもとづいて、かなりの手間を掛け、精緻に洗練された技術で製造していたと思われる。」

とある。どぶろくが主流の時代に黄色味のかかった透き通った酒を造っていたので、「油のような」と表現したのかもしれない。

 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由

 「御玄猪(おげんちょ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語)
  ① 陰暦一〇月の亥(い)の日。この日の亥の刻に新穀でついた餠を食べて、その年の収穫を祝った。亥の子。おげんじゅう。
  ※俳諧・類柑子(1707)中「偖、仰せ下さるるやうは、此の餠はきのふ御玄猪なりし、宸宴、供物のあまり也」
  ② 陰暦一〇月の最初の亥の日に食べる亥の子餠。おなり切り。玄猪。つくつく。おげんちょう。
  ※年中定例記(1525頃)「禁裏様御源猪のつつみ紙を一番に伝奏御持参にて、ひろげて被レ参候へば、御頂戴候」
  〘名〙 (「ご」は接頭語) 陰暦一〇月の亥の日の亥の刻に、新穀でついた餠を食べて祝うこと。また、その餠。亥子(いのこ)。亥子餠。ごげんじゅう。ごげんちょう。おげんじゅう。おげんちょ。〔俳諧・年浪草(1783)〕」

とある。
 「亥の子餠」は『源氏物語』葵巻にも登場する。おそらく若紫が女になった時であろう。不機嫌に何日もふさぎ込んでたののご機嫌取りと婚姻のお披露目を兼ねて、惟光に亥の子餠ならぬ「ねの子餅」を作るように指示している。(源氏の君の寝た女で処女喪失と思われる記述のあるのは若紫だけではないかと思う。)
 「公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。」というのは言われてみないと、今となってはわからない。この句を見ただけでは、単に御玄猪が銀杏の散る頃のものだというぐらいで通り過ぎてしまうところだ。

 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六

 矢の根は矢尻のこと。神矢の根は岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 「『閑窓随筆』に『出羽国吹浦 一作福浦村の辺に甚雨疾雷ののち、神矢の根といふものを降らす。土人のいはく、是れハ神軍ありて、空中よりふらするものなりと。云々』とある。」

 出羽国吹浦は芭蕉も通っている。酒田で、

 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ  芭蕉

と詠んだあの吹浦で、曾良の『旅日記』の酒田から象潟へ向かうときの記述に、

 「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」

とある。
 「オンライン辞書・事典検索サイト・ジャパンナレッジ」の「日本歴史地名大系ジャーナル」によると、

 「遊佐町近郊では古くから石鏃を神矢石(あるいは神矢根石)=神軍の矢に用いた矢の根石の意=とよび、同遺跡の西南、藤崎ふじさき地区神矢道かみやみちでも、一八世紀後半、庄内砂丘に砂防林を育成中であった佐藤藤蔵が、一升舛で計るほどの石鏃を採集(佐藤家文書など)、一部は現在も鶴岡市の致道博物館などに保管されている。
 近代考古学が確立されるまで、石鏃は天より降りそそぐものと考えられ、矢ノ根石、天狗ノ矢やノ子ね石、また神矢石とよんでいた。」

 つまり、「神矢の根」は縄文・弥生時代などに作られた石鏃(せきぞく)で、雨で土が流されて露呈した物を見た古代人が、神様が戦争をやって、その矢が空から降ってきたと思ったのだという。
 許六の句は立春で、正月飾りに用いる歯朶を取りに行くと神矢の根が見つかって、破魔矢のようでお目出度いということか。

 山科や五荷三束に菊の花     許六

 山科は東海道の京と三条大橋と大津宿の間にあり、交通の要衝だった。「五荷三束に菊の花」は何か出典があったのだろう。よくわからない。

2020年11月26日木曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「又李由ある時、『鍋ぶた一ッ冬籠』と云句に、五字を頼まれたり。是容易に出る五字ニあらず。これ魂魄を入る五文字なれバ、案じ煩て、
 大儀して鍋ぶた一ッ冬ごもり
と云事をすへたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158)

 「鍋ぶた一ッ」はいかにも質素な感じがして、先の、

 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

の句にも通じるものがありそうだ。さすがに鍋本体はなくて木の蓋だけということではないだろう。鍋と蓋のセット一つでということだと思う。幾皿も膳に並べるのではなく、鍋をつつくだけで何日も過ごす生活は、いかにも隠遁者にふさわしい。鍋は火さえ入れておけばいつまででも食えるし、具材を追加してゆくこともでき、汁はだんだん濃くなって味を深めてゆく。
 それに対して許六の付けた上五は、「大儀して」だった。「大儀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 重大な儀式。国家の儀式で、官人すべてが参列するもの。元日朝拝・即位礼および外国使節接見など。⇔小儀。
  ※延喜式(927)四五「大儀 謂三元日即位及受二蕃国使一」
  ※太平記(14C後)二七「当年三月七日に行ふべしと沙汰有しか共、大儀事行はれず」
  ② 表立った儀礼的な催し事。大がかりな法要や演能。
  ※花鏡(1424)序破急之事「序破急の心得、大義の申楽より初めて、酒盛、又はかりそめの音曲の座敷までも、次第次第を心得べし」
  ③ (形動) 重大な事柄。大きな政治的事件や騒乱。大事なこと。また、そのさま。
  ※太平記(14C後)九「御上洛候て後、大儀の御計略を回(めぐ)らさるべし」
  ④ (形動) 経費のかかる事柄。経費を多くかけること。ふんぱつすること。また、そのさま。
  ※虎明本狂言・三本柱(室町末‐近世初)「大儀な御ふしんも大かたすむ」
  ⑤ (形動) やっかいなこと。困惑すること。めんどくさいこと。また、体調が悪くてつらいこと。また、そのさま。
  ※吾妻鏡‐仁治二年(1241)一一月三〇日「武衛斟酌、頗似二大儀一」
  ※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)一五「今朝は化粧をするのも太義(タイギ)だ」
  ⑥ (形動) 他人の骨折りをねぎらい慰労することば。ごくろうさん。御苦労。
  ※大観本謡曲・葵上(1435頃)「唯今の御出で御大儀にて候」

とあり、なかなか多義だ。おそらく④⑤あたりの意味で、いろいろあって鍋蓋一つで冬籠りすることとなった、と原因を付けたのだろう。このあたりはお金持ちの許六さんだから清貧ということが思い浮かばず、「大変なことがあったのだろうな、大儀だったな」という気持ちで乗せてしまったか。

 「又ある時、朱廸が句に、『足軽町の桃の花』と云句ニ五字を頼む。此桃曾て珍敷事なし。人々おもひ寄る所なれバ、たやすき五もじニてハ、新ミなし。発句ニ成がたき故、しバらく案じて、
 実をねらふ足軽町の桃の花
と五文字付て、則韻ふたぎに入たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158~159)

 朱廸(しゅてき)は許六門で、『風俗文選』には「酒徳ノ頌」が収められている。
 「足軽町(あしがるまち)」はコトバンクの「世界大百科事典内の足軽町の言及」に、

 「領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ,いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく,足軽町などは郭外に置かれることが多かった。また足軽などの居住する町には町名もついたが,重臣層の屋敷地などは町名をつけず,道路に小路名がついているだけの場合がある。」

とある。彦根では城下町を取り囲むように足軽組屋敷が建てられ、足軽長屋ではなく庭付き一戸建てだったという。今では旧彦根藩足軽組屋敷は観光名所にもなっている。
 「足軽町の桃の花」は庭付き一戸建てならそう珍しいものではなかったのだろうけど、それは彦根だけの話で、余所の人からすると珍しかったかもしれない。
 「実をねらふ」というのは子供の桃泥棒のことだろうか。60年代くらいの漫画には必ず柿泥棒が出てきたが、高度成長とともに子供が庭木の果実を狙うようなことはなくなっていった。

 「又奚魚と云者来て、『田の草におハれおハれて』といふ事出たり。下の五字なし、頼むと云。予とりあへず、
 田の草におハれおハれてふじ詣
ト云事を付たり。
 又汶村が句に、『株干すわらの日のよハり』と云句、五もじとのぞむ。是もとりあへず、
 蝉の音や株干ス藁の日のよハり
と付てやりぬ。
 愚案ずるに、奚魚・汶村が句ニハ、おのづから句中に少血脈の筋あり。李由・朱廸が句ニハ、血脈の筋なき故に、容易におかれずして、発句ニ成がたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.159~160)

 奚魚(けいぎょ)は『俳諧問答』の横澤三郎注に、「『篇突』等にその句が見えてゐる」とある。許六門と思われる。「篇突(へんつき)」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「俳諧論書。李由・許六(きよりく)共編著。1698年(元禄11)刊。序によれば,当時の俳諧宗匠の暗愚を憂えて成した書という。問題のある季語を取りあげ,例句を掲げて見解を述べ,また,〈賀〉〈挨拶〉などの格式,〈発句評錬の弁〉のような作法などを28項目にまとめ,追加に編著者の俳文を1編ずつ載せる。書名は,漢字の旁(つくり)に偏をつぎ競う中古の文字遊戯による。去来は《旅寝論》を書いて本書を批判したが,未刊に終わった。」

とある。
 「田の草に」は田んぼの脇に茂る草のことで、田の草の茂る道をということだろう。「おハれおハれて」はそのまま読むと何かに追いかけられるか追い立てられるかで、この情景が一体何なのか落ちをつけろということなのだろう。
 田んぼの道を追い立てられたり追っかけられたり、許六の答えは「富士詣で」だった。江戸時代には富士講が盛んにおこなわれ、富士山に登ったり、その周辺の富士五湖や白糸の滝や忍野八海や洞穴などを廻ったともいう。
 富士登山は水無月のものだし、「575筆まか勢」というサイトには、

 数珠玉や里の下草富士詣     才麿

の句があった。言水編『江戸弁慶』の句らしい。この句を見ても、富士詣は夏草の中を行くイメージがあったのだろう。
 汶村(ぶんそん)も彦根藩士で許六門。
 句の方は「株干すわら」がよくわからない。稲の藁を干すのは収穫後の晩秋だし、蕪は冬のものだし、「日の弱り」に「蝉の声」を付けるのだから、晩夏なのは確かだろう。
 李由・朱廸の句に血脈がなく、奚魚・汶村の句には血脈があるというが、李由・朱廸の句は姿がある程度でき上っていて、それに付け加えるものがないからで、奚魚・汶村の句は姿ができてないから五文字追加してようやく意味を成すためではないかと思う。

2020年11月25日水曜日

  いつまで何事もないふりをしているのだろう。
 世界を見れば既に140万もの人が死んでいるんだし、怖いものは怖いんだよ。そこから目を背けたってどうなるものではない。「正しく恐れる」というのは現実を直視することなんだ、違うかい?
 どんなに怖いものでも、しっかりと前を見据えれば必ず道は開けると思う。眼をそらして、逃げていたら、あるのはどん詰まりだ。
 緊急事態宣言が出てた時には自殺者が減ったのに、解除されてから自殺者が増え続けている。ウイズ・コロナには絶望しかないからだ。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、又云、俳諧ハなきとおもへバなき物也。あれ共、案じあてぬとおもひて案じ侍れバ、成程ある物也。
 たとへバ、歳旦ハ事せまくてなき物とおもふ故に、上句希也。歳暮ハひろき物なれバあるべしとおもふ故に、おりふしよき句出るがごとし。是明なる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)

 これは「俳諧は出来ないと思ったら出来ないもの也」ということだろう。「あれ共」は前の文章を受けて、「しかれども」ということで、考えれば必ずできると思って考えれば、成程出来るもの也、と続く。
 歳旦はお目出度いものでなくてはならないし、正月特有のものは限られているなど、いろいろ制約が多くて難しいと思うから、歳旦で名句はなかなか生まれない。この頃の俳諧師は毎年歳旦帳を出していたけど、そのほとんどは左義長で燃やされて消えてしまったのだろう。
 歳暮の場合、年末は人情色々あるし、題材も豊富だから有名な句も多い。

 年暮ぬ笠きて草鞋はきながら   芭蕉
 人に家をかはせて我は年忘    同
 詩あきんど年を貪ル酒債かな   其角
 いねいねと人にいはれつ年の暮  路通
 大晦日定めなき世の定めかな   西鶴

 「一、五文字のすハらざる句、人持来て五文字を頼むと云事。
 李由が句ニ『比良より北ハ雪げしき』といふ句、久しく五文字なし。予翁に尋侍る時、早速『鱈舟や』と云五文字ハすへ給へり。此句門人たる人しらぬハなし。
 此時師の云、凡兆が句ニ、『雪つむ上の夜の雨』と云に、五文字頼む。情を費して案じ出して、『下京や』と云五字をすへたりと語り給ふ。
 同じ五文字をすへ給ふに、容易に出ると出ざるとハ、いかなる子細成とおもふに、愚退て発明するに、『鱈舟』と云五文字ハ、取合もの也。『下京』といふ五字ニハ、例の翁の血脈を入られたり。二ッの五文字同じ事とおもふ人ハ、五文字置事ハ成まじき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157~158)

 比良山は琵琶湖の西岸にある山で、貞享五年秋の芭蕉越人両吟「雁がねも」の巻の十七句目にも、

   物いそくさき舟路なりけり
 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉

の句があった。この場合は前句を、琵琶湖を渡るのに急いでいて瀬田の唐橋まで行かず、近道になる矢橋(やばせ)の渡しを船で渡る人のこととして、そこから北に見える比良山を付けている。
 この場合、比良の北は雪景色で山が真っ白に見えるという下七五ができたものの、上句が決まらないというものだった。
 比良山といえば多くの人が連想するのが琵琶湖だったと思われる。東海道でも中山道でも、江戸と京都を行きかう人は、琵琶湖の向こうにある比良山が嫌でも目に入ってきたのではないかと思う。そうなると「比良より北ハ雪げしき」という下句には琵琶湖の景物を付けないという手はない。ただ「鳰の海比良より北は雪げしき」ではいかにも平凡で、許六なら「是にてもなし」と言うだろう。取り合わせにはなるが、取り囃してはいない。
 芭蕉が「早速」というから、本当に即答したのだろう。

 鱈船や比良より北は雪げしき   李由

 ちなみにこの句は李由・許六・汶邨・徐寅の「四吟」の発句として李由・許六編『韻塞』(元禄九年刊)に収録されている。脇は、

   鱈船や比良より北は雪げしき
 蘆浦納豆寐せ初る比       許六

になっている。
 鱈船は鱈漁をする船ではなく、この場合は蝦夷や東北で獲れた鱈を極寒の中で乾燥させた「棒鱈」を京阪に運ぶ船で、北前船で若狭湾に運び、陸路で琵琶湖の北岸に運び、そこから船で琵琶湖を縦断する、この船を鱈船と呼んでいた。
 棒鱈は許六の同席した元禄五年冬の「けふばかり」の巻の二十一句目に、

    當摩(たへま)の丞を酒に酔はする
 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

とあるように、年末に何日もかけて戻し、正月に食うものだった。韓国にもファンテというオリンピックのあった平昌の名物があり、それに似ている。
 鱈船を出すことで、比良より北の雪景色は単なる琵琶湖の景色というだけでなく、その遥か向こうの見えない所にある棒鱈の産地である北の極寒の地にも思いを馳せることになる。
 許六はそれに琵琶湖南部の蘆原で冬に向けて納豆を仕込む頃と応じる。『炭俵』の「早苗舟」の巻三十句目、

   切蜣の喰倒したる植たばこ
 くばり納豆を仕込広庭      孤屋

の所でも触れたが、「くばり納豆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年末または年始に、寺から檀家へ配る自製の納豆。
  ※俳諧・炭俵(1694)上「切蜣(うじ)の喰倒したる植たばこ〈野坡〉 くばり納豆を仕込広庭〈孤屋〉」

とある。
 この「棒鱈や」の上五を付けた時、芭蕉は凡兆の「雪つむ上の夜の雨」の下七五に「下京や」の上五を付けた時の話をしたという。この話は『去来抄』「先師評」にもある。

 「下京や雪つむ上のよるの雨   凡兆
  此句 初冠なし。先師をはじめいろいろと 置侍りて、 此冠に 極め給ふ。凡兆あトこたへて、いまだ落つかず。先師曰、兆 汝手柄に此冠を置べし。 若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからずト也。去来曰、 此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、 是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。 此事他門の人 聞侍らバ、腹いたくいくつも冠 置るべし。 其よしとおかるる物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.19)

 「棒鱈や」はすんなり出てきたけど「下京や」は門人とあれこれ論じた果てにやっと定まったもので、この違いは何だったのかと許六は考える。
 結論としては、「棒鱈や」は比良の雪との取合せ・取囃しで容易に思いつくものだったが、「下京や」には「例の翁の血脈を入られたり」と言う。
 血脈は前にも論じたように二重の意味があった。一つはほぼ「風雅の誠」と同じもので、其角が「俳諧の神」と呼んでたものだ。しかし、一方では師から相続されたもの意味でも用いられる。
 「下京や」が取り合わせで出てきたものではないのは確かだろう。ただ、雪が積もってはすぐに雨で融かされてしまうというのは「下京あるある」だったには違いない。強いて言えば「雪つむ上のよるの雨」が何らかの多くの人の共通認識(噂)になるような場面は何か、ということから逆算していったのだろう。
 風雅の誠、俳諧の神は、基本的には多くの人の心の底にある共通のものに至りつくことであろう。共通のものに至ることで、その言葉は人と人とを繋ぎ、心を一つにすることができる。それは李退渓の四端九情説で言えば、九情を通じてその根底にある四端に行き着くことだ。
 この「下京や」の句にそこまで深いものを読み取れるかどうかは微妙だが、強いて言えば目まぐるしく変わる世界を肯定的に捉えるという時点で、不易流行に通じるものを読み取ることは可能だ。
 流れる水が濁らないように、雪が降ったかと思ったら雨ですぎに消えてゆく下京の気候に下京の町の繁栄を重ね合わせて、よく流行するゆえに栄えるという「理」を見出したなら、確かに芭蕉が自信をもって「若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからず」と言ったのもうなずける。「雪つむ上のよるの雨」の下七五に芭蕉は最初からそれを読み取っていた可能性は十分ある。

2020年11月24日火曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「一、又、未来の句を案ずるといふハ、五年も七年も先を案ずる事也。未練の者ハ、斗方もなきやうニおもひ侍れ共、眼前ニしれたる事也。
 たとへバ、花と云題にて発句所望せし時、案じて一句出る。又一句のぞむ時、最前案じたる所ハもはやのべがたけれバ、されよりおくを尋て、一句とり出して句とす。又所望する時、ひたものおくを尋る。是、未来の句、眼前にしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.156~157)

 未来の俳諧について考えておく必要というのは、長く俳諧に携わってゆこうとするなら、考えないわけにはいかないだろう。まあ、これは今の芸人にも当てはまるし、ミュージシャンだって五年十年後の音楽がどうなるかは考えざるを得ないだろう。
 世間は常に新しいものを求めている。同じネタはいつまでも使えない。ネタだけでなく同じ手法というのもやがては飽きられる。常に先のことを考えていかなくてはいけないというのは、例えば商品開発などでもそうだろう。トレンドで飯を食っている人間は、常に未来を見ていなくてはならない。
 ただ、それが常にできる人はごくわずかだ。どの業界でも一発屋というのはたくさんいるし、その一発さえ出せなかった人がさらに無数にいる。
 許六さんも次の俳諧には当然関心があったし、去来だって其角だって関心ないわけではなかったはずだ。ただ、惟然のような自分が予期しなかったようなものが出てしまうと、それに乗るというよりはディスる側に回ってしまうものだ。

 「一、又云、俳諧ハ物ずきともいふべし。上手の句ハ物ずきよく、下手の句ハ物ずきあしし。てには・おさへ字等ハ、上手の句も下手の句も、一字もゆるされざれば、物ずきのよきを上手といはむか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)

 「物ずき」というのは、今では変わったものをわざわざ好む人のことを言うが、数奇(数寄)はもともとは和歌を好むことだった。ウィキペディアの「数寄者」のところには、

 「古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指した様であるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
 さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。」

とある。和歌や連歌が数寄なら、当然ながら俳諧も数寄の道ということになる。
 一般的には「流行するものを好む」ことが「数寄」だと言っていいのではないかと思う。今の言葉だとファッションが一番近いかもしれない。
 俳諧は一つのファッションであり、上手の句はファッショナブルで下手の句はファッショナブルではない。文法的な面で上手い下手はあっても、それは上手かろうが下手だろうがどのみち守らなければならない規則なのだから、ファッションセンスのある作者が上手といっていい。
 音楽でもプロで何年もやっていれば歌や楽器など嫌でも上手くなる。でも作詞や作曲のセンスはいくら練習してもどうなるものでもない。若いへたくそなバンドでもヒット曲を連発することはあるし、いくら楽器がうまくてもスタジオミュージシャンにしかなれない人もいる。
 文学の方だと、どう頑張っても面白い文章は書けないが、文法や漢字知識や仮名遣いなどが完璧なら、校正に回った方がいい。
 それと同じで、俳諧の上手下手も結局はセンスの問題で、文法に詳しいからって面白い句が作れるわけではない。

2020年11月23日月曜日

  今日は「『俳諧問答』を読む」の「俳諧自讃之論」までを鈴呂屋書庫にアップした。よろしく。
 あと、それと「『舞都遲登理』を読む」もアップしました。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、発句ハとり合ものといひけるハ、たとへバ日月の光に水晶を以て影をうつす時ハ、天火・天水をうるごとし。
 発句セんとおもふ共、案じずしてハ出べからず。日月斗を案じたる共、天火・天水を得る事あるべからず。外より水晶を求めて、よくとりはやすゆへに、水火を得たるがごとし。水晶あり共、よくとりはやす事をしらずバ、発句に成就しがたし。
 木がくれて茶つミもきくやほととぎす
 是、時鳥に茶つミ、季と季のとり合といへ共、木がくれてトとりはやし給ふゆへに、名句になれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.154~155)

 天火(てんか)は落雷による火、天水は雨水のこと。日月は陽と陰で、陰陽から五行が生成するとき、陽は天となって天から雷が落ちることで火を生じ、陰は地となって地から水が湧き出ることで水が生じる。
 発句を詠むというのは日月を水晶に映した時にそれがただの光ではなく、そこに火や水が生じ陰陽五行の備わった乾坤の姿を描き、この現実の現象界を生き生きと描き出さなくてはならない。日月の光は眼前の神羅万象を描き出すことになって初めて発句になる。
 ここでいう「水晶」は陰陽を五行に変換する装置といってもいいだろう。
 月を詠むといっても、ただ月があるというだけでは発句にはならない。『天正十年愛宕百韻』の十七句目、

   ただよふ雲はいづちなるらん
 つきは秋秋はもなかの夜はの月  明智光秀

では発句にはならない。「秋の夜半の月」に「漂う雲」という水晶があって、それを一句の内に込めれば一つの景色として出来上がる。もっとも、付け句は必ずしもそれをする必要はなく、二句合わせて一つの景になれば良しとする。
 月に梢でもいいし、月に雁でもいい。何かそういう取り合わせがあれば、月は一つの景色の中に溶け込むことになる。

 名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

の句は単純だけど、月に池という水晶を置くことで景として成立させている。もちろん単に月に池では景としては成立しても盛り上がりに欠ける。いわば、そこに心や情がこもらない。「夜もすがらめぐりて」と囃すことで、池の月の景はより際立つことになる。
 「水晶あり共、よくとりはやす事をしらずバ、発句に成就しがたし。」というのは、月に雲、月に池だけでは駄目で、そこにどうゆう状況でどういう心情でというのが伝わらなければ、まあとにかく退屈な句にしかならない。

 木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす 芭蕉

の句は元禄七年の句で『別座敷』に収録されている。
 この場合もホトトギスだけでは景色にならない。ホトトギスに茶摘みを取り合わせることで一つの景色が出来上がる。ただこれだけでは退屈で、もう一つ何かが欲しい。この場合「木隠れて」がその囃しになる。正岡子規が「山」と呼んだものにも似ている。
 ホトトギスの声が聞こえてきて、旅する自分だけではなく、あそこで茶摘みをしている地元の人たちも木の陰に隠れているが、同じようにホトトギスの声を聞いただろうか、と茶を摘む人のことを気遣っちゃうあたりで、いわば「細み」が生じる。
 先の、

 梅が香や客の鼻には浅黄椀    許六

の句で言えば、梅が香が日月で、浅黄椀が水晶、そして「客の鼻には」が囃しになる。

 「一、又云、俳諧ハ題の噂とおぼえたるがよし。たとへバ花の発句せんとおもひしに、花と斗ハ十七文字にのべがたし。故に一句に花と云噂をいへる事也。
 花は風の吹てちると成共いはねバ、一句にならず。
 一度ハ面白けれ共、二度、風ニて花のちるとハおかしからず。されバ入相のかねに花のちるともいひ、風の吹ぬにちるなど、いろいろ噂をいひかへて、今の不易・流行の所へ案じ付たる也。是、噂成事明也。
 よき噂取出したるハ上句也。噂のわろきハ下也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.155~156)

 噂(うはさ)は多くの人ががやがや言うという意味。今日では風評やゴシップに限定されるが、元は世間でとかく言われていることくらいの意味だった。
 だから、「俳諧ハ題の噂」というのは、その題について世間一般の人が言っていること、あるいは抱いているイメージくらいに思えばいい。
 花と言えばここでは桜のことだが、「桜は風が吹いてすぐに散っちゃって儚いね」というのは桜の噂になる。桜だけでは発句にはならず、桜についてみんなが思ってることを言って、桜の意味を共有した時それは発句になる。
 ただ、当たり前なことを言っても面白くない。よく「最初に恋人を花にたとえた人は天才だ」などと言うが、最初は驚く事でも何度も繰り返されれば月並みな表現になる。それに飽き足らず常に新しい言い回しを求めることで、そこに不易流行が生じる。

 五月まつ花たちばなの香をかげば
     昔の人の袖の香ぞする
              よみ人しらず(古今集)

は不易だが、平安時代でもその後色々なお香の流行があり、中世近世近代と人々の生活も大きく変わり、みんながよくわかる噂の香についても、次々に新しいのがあらわられては流行遅れになってゆく。それでも今の新しい香りで置き換えて行けば、それは再び流行のものとなる。ドルチェ&ガッバーナの香水のように。
 近代俳句と違うのは、近代俳句は個の表現であり、世間の噂を嫌う。俳諧は常に新しい噂を広めるのを役目とする。近代俳句は個々の主義主張で分断を生むが、俳諧は世間を一つにする。

 「一、又云、噂と云ハ、予が句ニ、いつぞや洛の和及が弟子何某といへるもの来て、予と俳諧セん事をのぞむ。其時、
 都人の扇にかける網代かな
と云句せし也。都人のあいさつに、扇ハよき噂とおもひて、冬のころなれ共とり合侍る也。此句、翁にかたり侍りしに、よきあいさつの仕やる也とて、感じ給ふ也。此外いくらもあるべけれ共、さし當りておもひ出したる故に、しるし侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.156)

 噂というのはいわば世間の共通認識のようなものだとしたら、それは地方によっても身分によっても多少なりとも違ってたりする。
 京都の露吹庵和及は元禄三年に『雀の森』、元禄四年に『誹諧ひこはゑ』を編纂している。性は三上とも高村とも言われている。まあ、この頃の俗姓は途中で変わることも珍しくない。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「1649-1692 江戸時代前期の俳人。
  慶安2年生まれ。京都の人。姓は一説に高村。隼士常辰(はやし-じょうしん)の門人。元禄(げんろく)5年1月18日死去。44歳。号は露吹庵。編著に「雀の森」「誹諧ひこはゑ」など。」

とある。隼士常辰は野々口立圃(りゅうほ)の門人。貞門の系譜にある。
 元禄二年刊の俳諧作法書『当流増補番匠童』は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)に収録されている。
 句の方は、浪化編『続有磯海』に、

   京なる人に対して
 都人の扇にかける網代哉     許六

という形で収録されている。
 扇を使った挨拶というと、扇をたたんだまま自分の前に置いてお辞儀をすることをいうのか。これによって一時的に上座と下座を仕切るのだという。ただ、これだと「かける網代」の意味が分からない。
 当時の京の人の間では共通認識(噂)ではあっても、時代が変わると分からなくなることはある。

2020年11月22日日曜日

  今日も一日晴れていて夕暮れには半月も見える。こんな日に出かけたい気持ちもわかるが、新規感染者は増加し続けている。繰り返し言うが、とにかく今まで通りの生活では駄目だ。生活を変えなくては防げない。

 さて、「江戸桜」の巻も終わり、次は何をと思ったが、そういえば許六の『俳諧問答』はまだ途中だった。
 ニ〇一九年八月五日の「松の葉の落ちる」が夏の季語かどうかの所で終わっていた。
 今日は久しぶりにその続きを。

 「『内へ這入ればぞつとする』との御一句、田舎までかくれなし。かやうの事、集毎にいくらと云数もなし。見落し・差合などハ少もくるしからず。
 不玉の継尾集の俳諧、穂の上の巻ニも、春の雪二ツ出たり。
 又市菴、落柿舎乱吟も、「ほつとして来る」と云付句ニ、指出してと云「して」の字又あり。ケ様の事ハ、他門の人ニても、よき人ハ見ゆるして論ぜず。右追善の巻の差合ハ、つたなきといふもの也。大き成恥辱也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.150~151)

 「内へ這入れば」の句は十八句目の句で、これはまあ、この句が問題というのではなく、去来さんあんたこの場に居合わせたんなら何か言ったらどうか、という意味。
 元禄五年刊の不玉編『継尾集』巻三の正秀の「穂の上を」の巻の十九句目に「雪消へて」とあり、三十四句目にも「雪解(イテ)」とある。去来も同座している。これは『応安新式』に、「雪(三様之、此外春雪一、似物の雪、別段の事也)」とあり、春の雪は一句ということになっている。
 そのあとの落柿舎乱吟は元禄七年の序のある洒堂編『俳諧市の庵』の「柳小折」の巻だが、この巻は芭蕉の同座している。
 発句も、

 柳小折片荷は涼し初真瓜    芭蕉

で、その二十一句目の、

   新茶のかざのほつとして来る
 片口の溜をそっと指し出して  酒堂

のことだが、前句は芭蕉の句だ。これは違反ではないし、芭蕉も容認していたと思われる。

 「一、予俳諧を見る事、かたのごとく得もの也。あら野・さるミのをにらミ、師の魂を見届ケ侍るといへるも、是得物成ゆへ也。当時末々の集においてをや。句の善悪の事ハ、師の眼前ニおいて論ぜざれバ証拠なし。多ク数寄・不数寄ニ落る事、口おしき次第也。
 我が数寄侍らぬ句をほむる人ならでハ、眞ンの俳諧とハいひがたからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.151)

 ここで一応予防線ということだろう。ここまで書いたことは『阿羅野』『猿蓑』を精読して自得したものであって、芭蕉さんと直接議論して得たことではないので芭蕉さんの考えであることを証明するものではない。
 まあ、去来さんのように直接不易流行説を聞けなかったことは残念だということだろう。いくら血脈がとは言っても好き嫌いの問題と言われればそれまでになってしまう。
 だからあえて「数寄侍らぬ句をほむる人」が真の俳諧だと謙虚にこの章を締めくくる。

 さて、次はいよいよ「第四章 第三節 自得発明弁」に入る。

 「一、師ノ云、発句案ずる事、諸門弟題号の中より案じ出す、是なきもの也。余所より尋来れば、扨々沢山成事也といへり。
 予が云、我あら野・さるミのにて、此事見出したり。予が案じ様ハ、たとへバ台を箱に入、其箱の上ニ上て、箱をふまへ立あがつて、乾坤を尋るといへり。師の云、これ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.152)

 これは題詠を否定しているのではなく、題という箱の中を探すか、題という箱の上に登って広くこの世界を眺めるかの違いになる。
 箱の中を探すというのは、たとえば蛙が題なら、蛙から連想される、山吹、井出の玉水、歌を詠む、蛙いくさ、そいうものが「蛙」という箱に入っている。そこから引っ張り出すのではなく、「蛙」という箱の上に立ってこの世界を眺めれば、いろいろな「蛙あるある」が見えてくるということだ。荒れ果てた池に行くと急に蛙の飛び込む音がしてビクッとすることってあるよね、ということになる。
 海士の屋という題なら、藻塩焼く煙や行平さんではなく、小エビの中に竈馬が混ざっていることってあるよね、となる。
 松茸という題なら、松茸は美味で酒の肴にもいいとかではなく、松茸をよく見ると知らぬ木の葉がへばりついてたりするよね、となる。
 これは古典的な連想の範囲を越えて、実際見たもの聞いたもの世俗の雑談としても面白い物を見つけ出すということが蕉門の面白さだったということだ。

 「されバ社(コソ)、
 寒菊の隣もありやいけ大根
 といふ句ハ出る也といへり。予が発明ニ云、題号の中より尋て、新敷事なきハしれたり。
 万一残りたるもの、たまたま一ッあり共、隣家の人同日ニ同じ題を案ずる時、同じ曲輪を案じ侍れバ、ひしと其残りたる物ニさがしあてべし。道筋同じ所なれバ、尋来ル事うたがひなし。まして遠国遠里の人、我がしらぬ中ニいくばくか仕出し侍らん。
 曲輪を飛出案じたらんニハ、子ハ親の案じ所と違い、親ハ子の作意と各別成物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.152~153)

 これは許六の自賛で、前にも、「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)と書いていた。
 この時の説明と重複するが、「いけ大根」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 ① 畑から引き抜いたままの大根を地中に深くうずめて、翌年の春まで貯蔵し、食用とするもの。いけだいこ。《季・冬》
  ※俳諧・笈日記(1695)中「寒菊の隣もありやいけ大根〈許六〉」

とある。
 冬咲きの菊は寂しげだが、その隣に大根が埋まっていると思えば、その寂しさも紛れるだろうかと、許六の句は「寒菊の隣にいけ大根もありや」の倒置。「や」は疑いの「や」で詠嘆ではない。「も」も力もで並列の「も」ではない。
 冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
 この冬の花の寓意を飛び越えない範囲では、題という箱の上に立っていて、箱から離れてはいない。寒菊から通常連想する範囲を越えているという点では箱の中ではない。箱の上から見渡せば、隣のいけ大根も見えてくる。
 寒菊から通常連想する範囲内のものだと、確かにそれは誰でも思いつくものだし、似たような句が至る所でできているということになる。
 許六のライバルの句、

 寒菊や坪に日のさす南請    洒堂

は寒菊に小春日のイメージで作っているが、「575筆まかせ」というサイトの寒菊のところを見ると、

 寒菊や日の照る村の片ほとり  蕪村
 よろ~と寒菊咲いて日の薄さ  墨水
 寒菊にかりそめの日のかげり果つ 汀女
 寒菊に日ざし来てほぼ午となる 占魚
 寒菊のところに庵の日向あり  年尾
 寒菊の日向日陰を掃きにけり  水巴
 寒菊の日和を愛でて庭に在り  鶏二
 弱りつゝ当りゐる日や冬の菊  草城

などと同じ曲輪の句が並んでいるのが分かる。
 なお、芭蕉はこの許六の句の翌年の元禄六年に、

 寒菊や醴(あまざけ)造る窓の前 芭蕉
 寒菊や粉糠のかかる臼の端    同

の句を詠んでいる。いずれも農家の庭先の景で、むしろ許六の影響を受けた感がある。甘酒は寒い冬の中の暖かさで寒菊の心に通じるものがあり、粉糠のかかる臼は収穫の喜びに結び付けられている。甘酒も収穫祝いに飲んでいたのであれば同じ心を持つことになる。
 「子ハ親の案じ所と違い、親ハ子の作意と各別成物也。」は要するに、親の言う通り受け継いでいる子はそのままだが、子が独立して自分の道を行けば親を越えてゆく、ということだ。

 「師の云ク、発句ハ畢竟取合物とおもひ侍るべし。二ッ取合て、よくとりはやすを上手と云也といへり。ありがたきおしへ也。これ程よきおしへあるに、とり合する人希也。
 師ハ上手ニて、其ままとりはやし給ふ。予ハとりはやす詞ハよくしりたり。案じ侍る時ハ、如何にもよくとりはやし侍る也。是とりはやす詞をしりたる故也。平句猶しか也。
 炭俵・別座敷の俳諧専ラ新ミといふハ、此とりはやす詞の事也。此詞をしらぬ人ハ、遺経の俳諧ニハ通じがたからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.153)

 取り合わすというのは近代で言う二物衝突のことではない。二物衝突はシュールレアリズムの自動筆記に近い、たまたま二つの関連のないものを取り合わせることで、そこに読者が意味を与え、今までなかったような世界が生み出されるというものだ。こうもり傘とミシンのようなものだ。
 ここでいう「取合(とりあはせ)」は「とりはやす」とも言い換えている。「とりはやす」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「座を取りもつ。にぎやかにする。
  出典枕草子 五月の御精進のほど
  「『むげにかくては、その人ならず』などいひて、とりはやし」
  [訳] 「まったくこのようではあなたらしくもない」などと言って座を取りもち。」

とある。あくまで句に今日を添えて盛り上げるためのものだ。
 そのの取り囃す言葉を選ぶ際、芭蕉は天性のものがあったが、許六は「よくしりたり」とあるようにいろいろと勉強したようだ。
 『炭俵』『別座敷』の「軽み」と呼ばれる新味も、この取り囃す言葉によるものだという。

 「予此ごろ、梅が香の取合に、浅黄椀能とり合もの也と案じ出して、中ノ七文字色々ニをけ共すハらず。
 梅が香や精進なますに浅黄椀    是にてもなし
 梅が香やすへ並べたつあさぎ椀   是にてもなし
 梅が香やどこともなしに浅黄椀   是にてもなし
など色々において見れ共、道具・取合物よくて、発句にならざるハ、是中へ入べき言葉、慥ニ天地の間にある故也。かれ是尋ぬる中に、
 梅が香や客の鼻には浅黄椀
とすへて、此春の梅の句となせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.153~154)

 「浅黄椀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 黒い漆塗りの上に、あさぎ色または紅白の漆で花鳥などの模様を描いた椀。
  ※今井宗久茶湯日記抜書‐天正一一年(1583)七月七日「本膳 木具、折しき あさきわん」

とある。芭蕉にも、

 海苔汁の手際見せけり浅黄椀   芭蕉

という貞享元年の句がある。
 浅黄は浅い黄色だが「浅葱」も「あさぎ」と読むので混同されやすい。今日では途絶えてしまったか、この色の漆を見ることはない。陶器の浅黄交趾のことなのかもしれない。グーグルでそれっぽい画像が見つからなかったので、とりあえず幻の椀としておく。
 海苔汁は真っ黒なので、普通の黒塗りや濃い朱塗りの漆椀では映えない。浅黄椀を使うというところに手際があったのだろう。

 梅が香や精進なますに浅黄椀

の精進膾はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 魚類を用いないで、大根、人参など野菜類で作ったなます。
  ※浮世草子・懐硯(1687)一「不断は精進膾(シャウジンナマス)、あるにまかせて魚鳥もあまさず」

とある。梅の目出度さにきらびやかな浅黄の椀、それに精進膾は、う~ん、となってしまう。喪中の正月でもあるまいに。

 梅が香やすへ並べたつあさぎ椀

 これは梅の香にただ並べた浅黄椀があるだけで、まあ殺風景というところか。

 梅が香やどこともなしに浅黄椀

 この「どこともなしに」は梅が香のことで、「梅が香のどこともなしにや、浅黄椀」であろう。

 梅が香や客の鼻には浅黄椀

 これだと正月にお客さんをもてなすために浅黄椀を準備したと、いちおうお目出度い句になる。「鼻」を出すことで、料理の香に混じって梅の香も漂うとなる。あるいは汁に梅の花を添えたか。雰囲気はわかるし梅が香を囃し立てるという意味では間違いない。

2020年11月21日土曜日

 今日も道路は渋滞し、人もたくさん歩いていた。夏ごろから続いている状況に変化はない。東京を離れる高速道路もかなり渋滞してたから、みんなこんな状況でも旅行に出かけたのだろう。
 Go Toなんちゃらが停止されたとしても、結局みんなの生活を変えないことには、感染者は減りようがない。
 今日も全国的に感染者が増えている。

 それでは「江戸桜」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   根松苗杉蝉の鳴声
 池の橋渡し始ぬ垣結て      其角

 庭園の造営とする。
 八句目。

   池の橋渡し始ぬ垣結て
 みなと入帆のみゆるやね越シ   嵐雪

 「垣結て」には人垣ができるという意味もある。港に船が入ってくるので人垣ができる。
 九句目。

   みなと入帆のみゆるやね越シ
 世の中を画にのがれたる茶の烟  濁子

 堺に住んでいた絵師、土佐光吉のことか。今井宗久との交流もあった。
 十句目。

   世の中を画にのがれたる茶の烟
 妹がかしらのからわやさしき   芭蕉

 「からわ(唐輪)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂で二つの輪に作るもの。鎌倉時代の武家の若党や、元服前の近侍の童児の髪形。唐輪髷(からわまげ・からわわげ)。
  ※太平記(14C後)二「年十五六許なる小児(こちご)の髪唐輪(カラワ)に上たるが」
  ② 女性の髪形の一つ。頭上で髪の輪を作り、その根を余りの髪で巻きつけるもの。輪は二つから四つに作るのが普通。唐輪髷。
  ※玉塵抄(1563)四二「その婦は出て草をとるほどに髪をからわにまげて」

とある。この場合は「妹」なので②であろう。「茶の烟」で利休の時代の安土桃山風の女性を付ける
 十一句目。

   妹がかしらのからわやさしき
 かたみてふ袋の切のはつはつに  嵐雪

 「切(きれ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (動詞「きれる(切)」の連用形の名詞化)
  ① 切れて残った、物の一部分。切れ端。
  (イ) 木、紙、髪などの切れ端。
  ※和泉式部集(11C中)上「宮法師になりて、髪のきれをおこせ給へるを」
  (ロ) 布帛(ふはく)の切れ端。また、広く反物(たんもの)、織物をもいう。
  ※閑居友(1222頃)上「腰には薦のきれをまきてぞありける」
  (ハ) 書画などの、古人の筆跡の断片。断巻。「高野切」「本阿彌切」「つたぎれ」など。
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「弘法大師の心経のきれを三くだりばかり求め出して」

とある。この場合は袋に入った遺髪のことか。
 「はつはつ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘形動〙 (「はつか」と同語源)
  ① あることが、かすかに現われるさま、ちょっと行なわれるさま。副詞的にも用いる。ほんのちらっと。はつか。
  ※万葉(8C後)四・七〇一「波都波都(ハツハツ)に人を相見ていかにあらむいづれの日にかまたよそに見む」
  ② やっとのことでそうなるさま。かつかつ。〔日葡辞書(1603‐04)〕

とある。わずかな遺髪だけをやっとのことで手に入れることができたということだろう。悲しい話だ。
 十二句目。

   かたみてふ袋の切のはつはつに
 夢を占きく閨の朝風       濁子

 夢落ちだったが、不吉な夢には違いない。逆夢であってほしい。
 来ない男に、待ちくたびれて寝てしまったのだろう。
 十三句目。

   夢を占きく閨の朝風
 津の国のなにはなにはと物うりて 芭蕉

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、

 津の国の難波の春は夢なれや
     葦の枯葉に風わたるなり
              西行法師

の歌を引用している。ただ、昔は葦原だった難波もこの時代は巨大な商業都市。朝風に聞こえてくるのは物売りの声。難波と「何は何は」を掛けている。
 十四句目。

   津の国のなにはなにはと物うりて
 二夜どまりのつくし侍      嵐雪

 つくし侍は筑紫の国から来た侍。難波に来て二泊で帰るのはさぞかし残念なことだろう。物売りの声を聞いただけで終わり。
 十五句目。

   二夜どまりのつくし侍
 一巻の連歌をとどむ此寺に    濁子

 筑紫といえば宗祇法師の『筑紫道記(つくしみちのき)』。宗祇法師の足跡を慕っての旅であろう。
 十六句目。

   一巻の連歌をとどむ此寺に
 苗代もえる雨こまか也      嵐雪

 連歌師の猪苗代兼載に掛けて「苗代」を出したか。西行ゆかりの遊行柳のある芦野の田舎に住んでいたから、田んぼの中の寺に連歌一巻が残っていても不思議はない。「雨こまか」は春雨で、柳の連想を誘う。
 『三冊子』「しろさうし」に「春雨の柳は全躰連歌也。田にし取鳥は全く俳諧也。」とある。「苗代」も和歌に詠まれているから連歌だが、春雨と言わずに「雨こまか」と言うのは俳諧だ。
 十七句目。

   苗代もえる雨こまか也
 鷺の巣のいくつか花に見えすきて 芭蕉

 鷺はウィキペディアに、

 「巣は見晴らしの良い高木性の樹の上に設け、コロニーを形成する。コロニーにおいては、特定の種が固まる性質はなく、同じ木にダイサギとコサギが巣をかけることも珍しくはない。コロニーは、天敵からの攻撃を防ぐために、河川敷などが選ばれることが多いが、近年は個体数の増加から、寺社林に形成する例も増え、糞害などが問題とされることがある。」

とある。埼玉県吉川市の中川沿いに大量の白鷺の集まる場所がある。さすがに花と見間違うことはないが、白鷺の群れの中に白い昔ながらの山桜があれば、「おきまどわせる白菊の花」のようで面白いかもしれない。
 挙句。

   鷺の巣のいくつか花に見えすきて
 祢宜下リかはる春の夕月     濁子

 神社の祢宜も夕暮れには帰ってゆく。境内の桜には鷺も集まり、そこに朧の夕月がかかれば言うことはない。目出度く神祇で一巻終了となる。

2020年11月20日金曜日

  北海道の新規感染者数は一週間合計だと、372-732-1417と倍々に増えてきたが、今週はやや頭打ちになっている。これは朗報だろう。みんなが危機感を持って外出を控え、繁華街に人のいない状態を作り出せば、ある程度は抑えられる。
 GoToトラベルはいろいろと批判が多いが、今日はあえて逆張りで、安全な旅の方法でも考えてみようか。
 基本的に移動はマイカーとかレンタカーとか、あとバイクや自転車など、大勢で乗らないものを選ぶべきだろう。バスや電車だったら、横にずらっとドアの並んだ完全個室の車両を作るといいが、コストがかかりすぎるか。
 宿泊先はキャンプが一番良いのではないか。ただ、大きなテントに大勢あつまってクラスターになった例があるので、基本はソロキャン。今は夫婦でソロキャンというのも流行っているという。二人で一つのテントではなく、別々のテントでそれぞれに自分の趣味にあったソロキャンをやるというスタイル。
 食材は農家の無人販売を利用するといい。地元の新鮮な食材が食べられる。
 あと、迎える観光地の側だが、極力観光地とその周辺の道路に旅行者を集中させ、市内をうろうろさせないようにした方がいいだろう。それには市内にある様々な名店ので店を観光地にある大型観光施設に集め、屋台や移動販売車などで営業する。
 有名な観光地なら、観光バスが何台も止まれるような施設は必ずある。道の駅やサービスエリアでもいい。そこに市内の有名店ので店を並べ、完全予約制で販売する。予約制ならGoToイートも適用できる。いつどこにどの店が出店するか、一つのサイトにまとめて情報を流せば、旅行者は店を探し回る手間も省ける。

 まあ冗談はこれくらいとして、俳諧の方だが、「旅人と」の世吉興行は旧暦十月十一日、そのあと十月二十五日に旅立つまで、半歌仙興行、十吟一巡興行、七吟十句興行も行われた。今回はこの半歌仙興行、「江戸桜」の巻を見ていこうと思う。
 発句は、

 江戸桜心かよはんいくしぐれ   濁子

 吉野の桜を見に行く芭蕉に対し、吉野の桜も江戸の桜も心は同じだ。われわれも芭蕉さんが吉野の桜を見ているときには江戸の桜を見て、同じ桜を楽しむことにしよう。それまで、いくつ時雨に降られることか。
 これに対して芭蕉の脇はこう答える。

   江戸桜心かよはんいくしぐれ
 薩埵の霜にかへりみる月     芭蕉

 薩埵峠を越える時には江戸の方を振り返って月を見ることになるだろう。薩埵峠で東を見れば、月だけでなく富士山の雄大な姿も見える。
 第三。

   薩埵の霜にかへりみる月
 貝ひろひ貝ひろひゆく磯馴て   嵐雪

 蒲原・由比は磯伝いの道で、その先に薩埵峠がある。
 発句の情を去るので、ここは芭蕉さんの旅ではなく昔の人で、食料となる貝を自分で拾いながら旅をする侘び人であろう。
 四句目。

   貝ひろひ貝ひろひゆく磯馴て
 酔ては人の肩にとりつく     其角

 磯の貝だからサザエやアワビだろう。酒の肴にはもってこいだから、すっかり出来上がって人の肩を借りながらよろよろと歩く。
 五句目。

   酔ては人の肩にとりつく
 けふの賀のいでおもしろや祖父が舞 芭蕉

 祖父(おぢ)の長寿を祝う宴で、祖父がよろよろと舞うが、結局人の肩を借りることになる。
 六句目。

   けふの賀のいでおもしろや祖父が舞
 根松苗杉蝉の鳴声        濁子

 根の付いた松も松の苗だろうか。松の苗、杉の苗を植えて辺りでは蝉の声が聞こえる。「松杉を植える」という言葉には定住するという意味があるらしい。

2020年11月19日木曜日

  感染者は増え続けている。死者も一日十五六人くらいまで増えて、千九百人を越え、このペースだと今月中に二千人を突破する。以前、年末までに二千人なら勝利と言って良いとか書いたが、冬のコロナを甘く見ていた。
 政治家も基本的に憲法上私権の制限は出来ないことと、制限する場合は保証がセットだという論理に縛られて、どうにも身動きができないようだ。
 小池知事の「5つの小」もガースーの「静かな会食」も、会食を禁ずることができないから細かい注文を付けて、「そこまでして食いてーかっ!」てのが本音なんだろうな。go toも業界との約束やら、献金を受けているやらしがらみがあって引っ込みがつかないもんだから、業界向けに「続ける、続けるように努力している」をアピールして、本音は「行くなーっ、空気読めーっ」なんだろうな。
 どこかで十分な保証なしでも私権が制限できるように与野党で協議していかないと、この冬は取り返しのつかないことになる。オリンピックは幾多の屍を踏み越えての開催になる。
 いずれにせよウイズ・コロナは結局無理だったんだとおもう。コロナは共に生きて行けるほど優しいウイルスではない。ワクチンの効果が不十分だったなら、いずれは全世界で力を合わせて一斉ロックダウンをして撲滅するしかなくなる。そうでなければ、毎年冬になると同じことを繰り返すことになる。
 それでは「旅人と」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十七句目。

   幟かざして氏の天王
 御牧野の笛吹習ふ童声      全峰

 牧童であろう。北枝の兄ではなく、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「[1] 牛などの世話をする子ども。牧場で家畜の世話をする者。
 ※菅家文草(900頃)三・舟行五事「荷レ鍤慙二農父一、駈レ羊愧二牧童一」 〔杜牧‐清明詩〕

の方の牧童で、ちなみに「[2] ⇒たちばなぼくどう(立花牧童)」となっている。その立花牧童の支考との共編で『草刈笛』という集があるが、それくらい牧童と草笛は付き物といっていいだろう。
 愛知県の津島神社の「津島神社のしるべ」というホームページには、津島祭の由来として、

 「天王 尾張国、姥か懐(津島市 姥か森)という所に来り給い、其後、居を津島にしたもう。その頃、今の天王嶋(津島神社の所在地、二百年以前は独立の島で、嶋・天王嶋・向島などと呼ばれた)は草野であったが黒宮修理という市江嶋在居の武士の下人が、草刈船に乗って天王嶋に渡り、草刈りをしていたが塩満ち来り、皆々船に乗ろうとした時、下人の一人が、「吾は牛頭天王なり。今疫癘盛んにして万民悩む事少なからず、彼の真要を学び、船の上に種々の荘り物をし、神意をすすめし祭事をなすべし。疫癘静まるべし」と云ったので、草刈船の帆柱に衣類をかけ鎌をならし、舷をたゝき、口笛をふき、神祭を勧めたので、即時に疫癘鎮まり、万民安堵の思いをした。」
 「天王(牛頭天王)西洋(にしのうみ)より光臨され、市腋島の草のに御船がついた折、草刈の牧童が集まっていて、簀を積重ね、枴に手巾ようの物をかけ、笛を吹き、鎌をうち鳴らし、余念なく遊び戯れている姿を愛で給い、児舞・笛(津島笛)の譜を製し、教えられた。」

とある。牧童の笛は牛頭天王とも縁がある。
 三十八句目。

   御牧野の笛吹習ふ童声
 僧くるはしく腰にさす杖     枳風

 「くるはす」は「くるほす」か。僧が持つ杖というと錫杖のことだろう。頭部の遊環(ゆかん)が音を立てる所から、旅の際のクマ除けにもなるし、祭文を詠む際の楽器にもなる。また、武器としても用いられたという。
 ただ、錫杖を刀のように腰に差すというのはあまり聞かないことなので、狂ってるということなのだろう。牧童の笛に浮かれたか、稚児趣味か。
 三十九句目。

   僧くるはしく腰にさす杖
 見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て   其角

 趙子昂はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「中国、元代の儒者、書画家。名は孟頫(もうふ)。号は松雪道人。浙江呉興の人。王羲之の書の正統を守り、画は山水画を得意とし、院画風を排して唐・北宋に復帰することを主張実践した。書に「蘭亭帖十三跋」、著に「松雪斎文集」など。(一二五四‐一三二二)」

とある。
 書に関してウィキペディアには、

 「王羲之の書風を学び、宋代の奔放な書風と一線を画し、後代に典型を提供した。書は王羲之を越え、中国史上でも第一人者ともされている。」

とある。
 「哢て」は「あざけりて」と読む。まあ、腰に杖を差すような狂った坊主だから、王羲之の正統を守る趙子昂の書を嘲ることもありそうだ。
 四十句目。

   見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て
 堺の錦蜀をあらへる       嵐雪

 堺緞通(だんつう)は江戸後期なので、この時代にはまだない。よって堺の錦はよくわからない。
 ここでは堺産の錦ではなく、堺の商人の持っている錦と読んだ方がいいのかもしれない。
 蜀の錦は蜀江の錦で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「① 上代錦の一つ。緯(よこいと)に色糸を用いて文様を表わした錦で、赤地に連珠文をめぐらした円文の中に花文・獣文・鳥文などを織り出したもの。奈良時代、中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。
  ※法性寺関白御集(1145か)浮水落花多「巴峡紅粧流不レ尽。蜀江錦彩濯彌新」
  ② 中国明代を中心にして織られた錦。日本には多く室町時代に渡来。八角形の四方に正方形を連ね、中に花文、龍文などを配した文様を織り出したもの。この文様を蜀江型といい、種々の変形がある。
  ※源平盛衰記(14C前)二八「蜀江(ショッカウ)の錦(ニシキ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、金銀の金物、色々に打くくみたる鎧著て」
  ③ 京都の西陣などで、蜀江型を模して織り出した錦。
  ※浮世草子・新可笑記(1688)一「蜀江(ショクコウ)のにしきの掛幕ひかりうつりて銀燭ほしのはやしのごとく」
  [補注]平安朝の漢詩文では花や紅葉を「錦」にたとえる際に、この蜀江(錦江)の錦でもってすることが、しばしば行なわれた。」

とある。時代的にこの場合は③か。
 「蜀江の錦は洗うに従い色を増す」という言葉はいつ頃どこからきた言葉かはわからないが、蜀江の錦は蜀江の水で洗って作るという。
 前句を趙子昂の書を堅苦しいといって笑うような、不易より流行を重視する人としたのだろう。京西陣の蜀江錦のきらびやかなものを好む。
 四十一句目。

   堺の錦蜀をあらへる
 隠家や寄虫の友に交リなん    観水

 「寄虫」は寄居虫とも書き、「がうな(ごうな)」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「かみな」の変化したもの) 動物「やどかり(宿借)」の古名。《季・春》
  ※枕(10C終)三一四「侍る所の焼け侍りにければ、がうなのやうに、人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ」
  [補注]寄居虫は古くから食膳に供されたようで、「延喜式‐三九」にも「年料〈略〉蠏蜷」とある。また「大和本草‐一四」には「海人多くひろひて一所に集め、泥水をにごらせば殻を出づ。是を取集めてしほからにす」と記されている。」

とある。
 例文にある『枕草子』は「僧都の君の御乳母のままと」を冒頭とする段で、本によっては二九三段になっているものや二九四段になっているものもある。
 僧都の御乳母が御匣殿(みぐしでん:中宮の妹)にいたとき、下男が来てひどい目にあったというので話を聞けば、火事で住んでたところが焼けたので、しかたなくヤドカリみたいによその人の家で暮らしているという。秣(まぐさ)から出火して夜殿が全焼し、焼け死にそうになり着の身着のまま何も持ち出せなかったという話をすると、御匣殿は、

 みまくさをもやすばかりの春のひに
     よどのさへなど殘らざるらん

という歌を詠んで、「燃やす」を「萌やす」に掛けて「夜殿」を「淀野」に掛けた洒落た歌に女房達は大笑いした。世間知らずの御貴族さんには家を焼かれたものの苦しみなどどこ吹く風、というわけだ。
 この話が本説だとすればこの句は、蜀江錦を持っているような堺の大商人には、焼け出されて隠れ家でヤドカリ暮らしをしている友のことなどわかるまい、ということになる。
 四十二句目。

   隠家や寄虫の友に交リなん
 筏に出て海苔すくふ比      芭蕉

 子昻やら蜀江錦やら『枕草子』のマイナーな本説やら、いかにも其角流の好みそうな流れから、芭蕉は何とか蕉風に戻したいところだ。
 ここでは寄虫を本来の動物のヤドカリとして水辺で展開する。海苔の収穫期は冬の終わりから夏の初めまでで、筏で海苔を掬う比というのは春になる。海苔を掬う海士ならヤドカリとも友達だろう。春に転じることで花呼び出しになる。
 四十三句目。

   筏に出て海苔すくふ比
 谷深き日うらは花の木目のみ   挙白

 前句の海の情景に谷深き山の日の当たらぬ影とたがえて付ける。日陰では桜の開花も遅く、まだ木の芽のみ。これから咲くであろう花を余情とする。
 挙句。

   谷深き日うらは花の木目のみ
 声しだれたる春の山鳥      由之

 最後は脇を務めた、スポンサーの磐城平藩の関係者である由之が締めくくる。

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝む
              柿本人麻呂(拾遺集)

の「しだり尾」を枝垂桜に掛けて、山鳥の尾ではなく声がしだれている、とする。「声しだれたる」は「しゃくり」と反対に高い音から低く下げるということであろう。

2020年11月18日水曜日

  今日は季節外れの暑さで、車の窓を開けて走った。
 コロナの感染者が増え続けている。もはや夏の第二波を乗り切った時のレベルの自粛では防げないと思った方がいい。第一波の時の町が閑散とするようなレベルの自粛が必要だ。
 ただ、あの時自治体はかなり金を使ってしまったし、自粛と保証はセットだと言うなら大した自粛要請は出せないだろう。店を開けるのは自由だが、みんな行くなーーっ、空気読めーーっ、という状態が続くと思う。
 それでは「旅人と」の巻の続き。

 二表、
 二十三句目。

   別るる雁をかへす琴の手
 順の峯しばしうき世の外に入   観水

 「順の峯入り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「天台系の本山派の修験者が、役行者(えんのぎょうじゃ)の入山を慕って、熊野から葛城(かつらぎ)・大峰を経て吉野へ出る行事。真言系の当山派の逆の峰入りに対する語。順の峰。《季・春》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。当山派の逆の峰入りは秋になる。春に北に向かう本山派は帰る雁、秋に南に向かう当山派は来る雁ということになる。
 二十四句目。

   順の峯しばしうき世の外に入
 萱のぬけめの雪を焼家      仙化

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「茅葺の屋根の損じた所。雪積る屋根のくずれから炊煙のもれるのを、『雪を焼家』と言った。」とある。
 「抜目(ぬけめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 抜け落ちた所。欠けた部分。もれた箇所。もれ。おち。
 ※夫木(1310頃)三〇「山かつのいほりはかやのぬけめよりわりなくもるる春の雨哉〈源仲正〉」

とある。この夫木の歌が本歌か。これだと抜目から漏れ落ちる雪が囲炉裏の火で溶けるのを「雪を焼く」と言ったのかもしれない。
 二十五句目。

   萱のぬけめの雪を焼家
 老の身の縄なふ程にほそりける  由之

 縄をなうと縄は太くなるが身は衰えて細くなる。雪を焼く囲炉裏端での作業であろう。
 二十六句目。

   老の身の縄なふ程にほそりける
 君流されし跡の関守       芭蕉

 ウィキペディアによると、承久の乱で「後鳥羽上首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。」
 世は乱れ、関屋も破れ、関守は内職をして暮らす。
 二十七句目。

   君流されし跡の関守
 明暮は干潟の松をかぞへつつ   挙白

 清見潟のある清見関のことか。古代東海道の関所で、興津の清見寺の近くにあった。当時は薩埵峠を越える道がなく、海沿いの細い道を通ったため、波が高いと越えられず、関所の関守とは別に波の関守がいたとも言われた。

 さらぬだにかわかぬ袖を清見がた
     しばしなかけそ浪の関もり
              源俊頼(散木奇歌集)

の歌もある。前句の「君流されし」はこの場合波にさらわれたのであろう。
 清見関の前の海はかつては干潟で対岸には三保の松原があった。今は清水港になっている。

 清見潟波路の霧は晴れにけり
     夕日に残る三保の浦松
              北条宗宣(玉葉集)

の歌がある。
 二十八句目。

   明暮は干潟の松をかぞへつつ
 命をおもへ船に這フ蟹      其角

 船の上の蟹は逃げる所がない。干潟で穴を掘って暮らしていれば良かったのに何だこんなところに来てしまったか。食べられちゃうぞ。命を大事思うならここには来ちゃだめだ。そういったところか。
 日本人は昔から蟹を食べてきたと思うのだが、蟹の和歌はあまり聞かない。『万葉集』に蟹を詠んだ乞食者の長歌はあるが、これも蟹そのものを詠んだというよりは、自らを蟹に喩えて食べられてしまうからと仕官の話を断る歌だ。
 二十九句目。

   命をおもへ船に這フ蟹
 起出て手水つかはん海のはた   嵐雪

 「海のはた」は「海の端」で海岸のことか。ただ、打越に干潟があり、水辺が三句続くし、干潟は体、船と蟹が用、と体用と来てまた体にに戻ってしまっている。
 海に近いところだと、朝に手水で手を清めようとするとき、手水場に蟹がいたりしたのだろう。
 前句の「船」を手水船、つまり手水のための水を溜める鉢のこととする。
 三十句目。

   起出て手水つかはん海のはた
 しらぬ御寺を頼む有明      観水

 手水場がある所というので御寺へと展開する。「起出て」は朝なので、有明の月がまだ残っている。四手付けといえよう。
 三十一句目。

   しらぬ御寺を頼む有明
 蕣や石ふむ坂の日にしほれ    金峰

 石ふむ坂は石畳の街道の坂道のことか。前句の有明の御寺の早朝の景に、蕣(あさがほ)は石ふむ坂の日にしほれるや、と今咲いている朝顔も街道の坂を上ってゆくうちに日も高くなり萎れてしまうのだろうか、と付く。
 三十二句目。

   蕣や石ふむ坂の日にしほれ
 小畑さびしき案山子作らん    枳風

 前句の「や」はここでは「しほれ」ではなく「作らん」に掛かる。「蕣は石ふむ坂の日にしほれ小畑さびしき案山子作らんや」の倒置となる。
 朝顔は萎れ、街道わきに小さな畑がポツンとあるのも寂しいので、案山子でも作ればにぎやかになるか。
 三十三句目。

   小畑さびしき案山子作らん
 草の戸の馬を酒債におさへられ  芭蕉

 粗末な藁葺きの家で飼っていた馬も酒の借金が払えなくて差し押さえられてしまい、馬のいなくなった畑は寂しいので案山子でも作って立てておく。
 三十四句目。

   草の戸の馬を酒債におさへられ
 つねみる星を妹におしゆる    挙白

 「つねみる星」、常に変わらずに見える星は北極星のことか。家は没落して草の戸になり馬もいなくなってしまったが、変わらないもののあることを教えようというのだろう。それは愛。
 三十五句目。

   つねみる星を妹におしゆる
 薫のしめり面白き夕涼み     仙化

 夕涼みで星を眺める光景に転じる。着物は薫物(たきもの)の香をしみこませて、打越のような侘し気な空気を断ち切る。
 三十六句目。

   薫のしめり面白き夕涼み
 幟かざして氏の天王       其角

 「天王」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「氏神の天王様の祭の情景」とある。
 天王祭(てんのうさい)はウィキペディアに、

 「天王祭(てんのうさい)は、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。」

とある。京都の祇園祭(祇園御霊会)も牛頭天王の祭りで天王祭になる。旧暦六月に行われていた。江戸では千住の素盞雄神社も元は天王様と呼ばれていて、ここでも天王祭が行われていた。明治になって素盞雄神社に改められたが、今でも天王祭は行われている。時期的にも夕涼みに着飾って訪れるのにちょうど良かったのだろう。

2020年11月17日火曜日

  バッハ会長があまりにも東京オリンピックの開催に前のめりになっていることで、東京の半年後に冬季オリンピックをやるあの国の影があるのではという噂も出てきている。
 ただもし本気でオリンピックをやりたいなら、世界中同時にロックダウンを行い、たとえば三週間新規感染者が出なかった国から解除でき、解除できた国同士は自由に行き来できるようにするとかすればいいと思う。台湾などは即日解除できそうだし、どこの国も競っていち早く解除しようとするのではないかと思う。今からやれば夏のオリンピックの頃には、コロナはほぼ根絶できるのではないかと思う。
 それでは「旅人と」の巻の続き。

 初裏。
 九句目。

   鱸てうじておくる漢舟
 神垣や次第にひくき波のひま   全峰

 「鱸釣じて」から藤江の浦、明石の連想で、『源氏物語』の明石巻の住吉の神によって海の静まる様を付ける。
 全峰も其角門で、其角撰『続虚栗』に、

 一すじに芝ふみからすさくら哉  全峰
 芥子の花ともにうつむく泪かな  同
 旅人に村とことはるきぬた哉   同
 雪の日や柴が日比の道近し    同

などの句がある。
 十句目。

   神垣や次第にひくき波のひま
 齢とをしれ君が若松       嵐雪

 年を重ねても若松のような若々しい君(主君、天皇どちらとも)に、神も天下の浪を鎮めて下さると、賀歌の体になる。
 嵐雪は言わずと知れた芭蕉の門人。
 十一句目。

   齢とをしれ君が若松
 酒のみにさをとめ達の並ビ居て  執筆

 五月女達はたくさんいる孫たちだろうか。爺さんは酒を飲み、子孫繁栄して花笠音頭ではないが目出度目出度の若松様だ。花笠音頭はそんなに古いもんではなく昭和の歌だが。
 十二句目。

   酒のみにさをとめ達の並ビ居て
 卯月の雪を握るつくばね     芭蕉

 いくら江戸時代が寒冷期だといっても、さすがに旧暦四月の標高八七七メートルの筑波山に雪はなかっただろう。これは、

 花は皆散りはてぬらし筑波嶺の
     木のもとごとにつもる白雪
              法眼兼譽(続千載集)

だったのではないか。
 あるいは卯月の雪は卯の花の花びらだったのかもしれない。筑波山の見える所で田植をしていると、苗と一緒に卯の花の花びらをつかむことになる。打越に松があるので卯の花は出せないため、あえて卯の花を抜いたのであろう。
 十三句目。

   卯月の雪を握るつくばね
 鰥つる袖つくばかり早瀬川    由之

 「鰥」は本来は魴鰥(ホウカン)のように大魚の名だったが、やもお(男やもめ)の意味もある。それを「やまめ」と読ませている。「鱸釣じて」から五句去り。
 「袖つくばかり」は、

 逢瀬川袖つくばかり浅けれど
     君許さねばえこそ渡らね
               源重之

の歌がある。逢瀬川は福島郡山の歌枕だが、早瀬川は、

 早瀬川みを溯る鵜飼舟
     まづこの世にもいかがくるしき
               崇徳院(千載集)

の歌があるが、どこの川なのかわからない。王朝時代に鵜飼いというと大井川(嵐山を流れる今の桂川)が歌に詠まれていた。
 ヤマメ釣る早瀬川は袖の付くほど浅いけど、卯月だというのに雪を握る、となる。
 十四句目。

   鰥つる袖つくばかり早瀬川
 蘿一面にのこる橋杭       其角

 「蘿」は「つた」と読む。普段は浅い早瀬でも、台風で増水すれば橋を流してしまい、橋杭だけが蔦の絡まった状態で残っている。
 十五句目。

   蘿一面にのこる橋杭
 道しらぬ里に砧をかりに行    枳風

 砧というと砧を打つ音が漢詩や和歌に詠まれ、俳諧でたいてい音を詠むのだが、「碪をかりに行」というのは珍しい。この場合は砧の道具、木づちと石の台のことになる。
 橋は落ちて道も分からぬ里でわざわざ砧の道具を借りに行くのは、一体どういう人だったのか。
 十六句目。

   道しらぬ里に砧をかりに行
 月にや啼ん泊瀬の篭人      文麟

 長谷寺に籠る人を泣かせるために借りに行くのか。

 砧打ちて我にきかせよや坊が妻  芭蕉

という『野ざらし紀行』の旅で吉野の宿坊で詠んだ句があるが、ここでは長谷寺に籠る人に聞かせよということか。
 十七句目。

   月にや啼ん泊瀬の篭人
 葛篭とく匂ひも都なつかしく   仙化

 これは『源氏物語』の玉鬘で、夕顔の娘で肥後に預けられていた玉鬘が京の都に帰ろうとするとき、途中で初瀬に籠り、夕顔の侍女だった右近と再会する。その時に都で嗅いだ記憶のある匂いがあれば、懐かしくなる。
 十八句目。

   葛篭とく匂ひも都なつかしく
 おもはぬ事を諷ふ傀儡      全峰

 「傀儡(かいらい)」はここでは人形ではなく傀儡女(くぐつめ)のことであろう。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「傀儡師とも書き,〈くぐつまわし〉また〈かいらいし〉などともいう。操り人形を指してもいう。平安末期,大江匡房(おおえのまさふさ)の《傀儡子記》によると,彼らは集団で各地を漂泊し,男は狩猟をし,人形回しや曲芸,幻術などを演じ,女は歌をうたい,売春も行った。のち寺社に帰属して各地で人形回しをするものもでき,摂津西宮を根拠に夷(えびす)人形を回し歩く芸団なども現れた。これら人形回しの流れは,人形浄瑠璃の成立を促したが,一方,胸にかけた箱から人形を出して回す首かけ芝居の形で,江戸時代まで大道芸として存続した。」

とある。
 都から流れてきた傀儡女だったのか、箱から人形を取り出すと都の懐かしいお香の匂いがして、思いもよらぬ都の歌を聴くことができて懐かしくなる。
 一巡目の順番通りだと魚児の番だが、ここからは出がちになったか。
 十九句目。

   おもはぬ事を諷ふ傀儡
 途中にたてる車の簾を巻て    芭蕉

 途中は「みちなか」と読む。傀儡子は情報伝達の役目もあったのか、思わぬ情報に牛車に乗った貴族も思わず簾を開けて聞き入る。
 二十句目。

   途中にたてる車の簾を巻て
 沖こぐ舟にめされしは誰ゾ    由之

 道の車に沖の船と違え付けになる。沖こぐ舟には、

 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
     人には告げよ海人の釣り舟
              小野篁(古今集)

のような配流になった同僚が暗示される。
 二十一句目。

   沖こぐ舟にめされしは誰ゾ
 花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき 嵐雪

 浪花(なにわ)のことか。「波の花」は波の白さが花のようだという比喩だが、「花の波」は花が波のようだという意味になる。「花ゆへに名の付ク波」が波に花の名前がついているという意味なら波の花になる。沖に船もある。波の花、浪花という名前は珍しい。
 二十二句目。

   花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき
 別るる雁をかへす琴の手     挙白

 これは「雁の琴柱(ことじ)」であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「雁が群をなして飛んで行くさまを、琴柱が並んでいるさまにたとえていうことば。連なって飛び行く雁。かりがねの琴柱。《季・秋》
  ※老若五十首歌合(1201)「たまづさのかきあはせたるしらべかなかりの琴ちに過る松風〈慈円〉」

とある。春の帰る雁を琴柱に見立て、琴を掻き鳴らす手があたかも雁を帰らせているように見える。
 挙白は初登場になる。其角門。其角撰『虚栗』に、

 雛若は桃壺の腹にやどりてか   挙白
 香ヲ折ルの坐頭や杜若あやめ   同
 落葉見にたが蹄せし霜馬峯    同
 鰤ばかり霙にそばへたる重し   同

などの句がある。

2020年11月15日日曜日

  さて今日から俳諧では冬になる。神無月朔日。神様は出雲に行ってしまい、恵比寿様が留守を預かる。
 気になるのはやはりコロナだね。これまで日本人は運が良くてたまたま暖かくなってから第一波が来ただけなのか、それとも日本人だけが特別コロナに強いのか。自ずと結論は出るので、今はただ極力感染につながる行動を控えながら見守るしかない。
 こういうので脱亜入欧は御免だ。

 さて神無月の俳諧ということで、今回は貞享四年十月十一日に行われた芭蕉の『笈の小文』の旅の餞別会として行われた世吉(四十四句)興行を取り上げてみようと思う。場所は其角亭だという。
 発句。

   十月十一日餞別會
 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

 有名な句で説明するまでもあるまいとは思うが、

 世にふるも更に時雨のやどりかな 宗祇

をふまえている。
 人生は旅。その旅の途中の時雨の宿りのように、つらいけど軒を貸してくれる人もいる。ここでは人生という旅と実際の旅とを重ね合わせて、旅人になるんだという決意をする。
 「霽」は「はれる」という字だが、ここでは「しぐれ」と読む。雨がやんで晴れるという意味の字で、日本では時雨の意味で用いられている。
 時雨が晴れれば月も出る。こういうと何か「水戸黄門」の唄ではないが、「人生楽ありゃ苦もあるさ/泪の後には虹も出る」みたいに聞こえる。
 脇。

   旅人と我名よばれん初霽
 亦さざん花を宿々にして     由之

 『野ざらし紀行』は秋に旅立って、山茶花の季節に名古屋で『冬の日』の興行を行った。それを思い起こしてのことであろう。

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花   野水

の句によって、旅の笠の山茶花を旅の宿とする。
 由之(ゆうし)は其角の門人で、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)には、

 「由之は磐城平藩内藤家の家人の井出長太郎という人物で、この句会の主催者である。観水の素性は不明だが、由之・観水の二人は其角派の新人である。彼らはこの時芭蕉と初対面であったと思うが、彼らばかりではなく魚児や全峰もこの時が芭蕉と初対面であったと思う。芭蕉送別の句会は其角派の新人を芭蕉に紹介する場でもあったわけである。」

とある。
 磐城平藩三代藩主の内藤左京大夫義泰(風虎)の次男内藤政栄(露沾)が今回の『笈の小文』のスポンサーで、『笈の小文』本文でも、

 「時は冬よしのをこめん旅のつと

此の句は露沾(ろせん)公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初(はじめ)として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪(とぶら)ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧(かて)を集るに力を入れず、紙布(かみこ)・綿小(わたこ)などいふもの、帽子(まうす)・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛(ゆくへ)を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」

と紹介されている。
 今回由之が脇を務めているのは、露沾の代理人の意味もあるからであろう。
 磐城平藩内藤家というと桃隣の「舞都遲登理」の旅でわざわざ小名浜を経由したことが思い出される。領内にみちのくの有名な歌枕になぞらえた名所をたくさん作って混乱させた犯人は風虎だったか。小名浜は宗因も訪れていて、俳諧の盛んな土地だった。
 由之は其角撰『続虚栗』に、

 つゆつゆと焼野にはやき蕨かな  由之
 何事に人走るらん花ざかり    同
 七夕にかされぬ旅のね巻哉    同
 月満て欄干うごく今宵哉     同

などの句が入集している。
 第三。

   亦さざん花を宿々にして
 鶺鴒の心ほど世のたのしきに   其角

 「鷦鴒」は「かやぐき」と読む。『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「荘子・逍遥遊に、小さい斥鷃(カヤグキ)が我が身に相応して鵬の飛ぶを笑った話あり。『斥鷃』は注に『かやぐきと訓ず、俗ニ云フみそさざい』(毛利貞斎荘子俚諺抄)とある。」

とある。
 前句の「山茶花を宿々に」に応じて、木の小さな茂みに暮らすミソサザイが山茶花を宿にしているように、世の中を楽しもう、とする。
 ここには『荘子』の寓意である鵬との比較での小物という意味はない。日本は一君万民の一億総臣下の国、天皇一人を君として万民はみな臣民ということで、だれも鵬になろうともしないし、なりたくもない。まあ、希に道鏡や平将門や織田信長のような例外はいるが、みんな失敗した。そんなおおそれた望みを持たず、人生を旅として山茶花の宿々を楽しむのが日本人だ。
 永遠の命を望まない、この世の王となることを望まない、それが日本人だ。
 四句目。

   鶺鴒の心ほど世のたのしきに
 粮を分たる山陰の鶴       枳風

 鶴は鶴氅衣を着た中国の隠者のことか。鶴氅衣というと江戸中期に浦上玉堂が着ていた。前句を村人として、隠者に食料を提供し、学や遊びの手ほどきを受ける。
 枳風も其角門で、其角撰『虚栗』に、

 初礼や富士をかさねて扇持    枳風
 匂ふらんけふ去人と山ざくら   同
 君火燵うき身時雨の小袖哉    同

などの句がある。
 五句目。

   粮を分たる山陰の鶴
 かけありく芝生の露の浅緑    文麟

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「鶴が芝生をあちこち駆け回るさま」とあるが、鶴って水辺にいるもんで、芝生の上を走ったりするんだろうか、よくわからない。芝生を駆け歩くというと馬が連想されるが。
 文麟は『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)に、

 「文麟が何を生業としていたか不明だが、『隋斎諧話』(文政2)に紹介する「芭蕉庵再建勧化簿」によって、彼の姓が鳥居であったことが分かる。『新山家』(貞享3)に「虚無斎 鳥文麟校」と記されているから、一時虚無斎と号していたのであろう。曰人の『蕉門諸生全伝』(文政頃成か)に「文麟 ヨホドヨキ家柄、堺の庭の主ナリト云フトモ、外ニアリトゾ」と記されており、また「文麟 泉州サカイ人」とも記されている。これが江戸時代における文麟についての唯一の文献であろう。」

と記されている。
 また、「貞享二年五月、其角は病後の保養をかねて箱根木賀温泉に出掛けたが」とあるが、この時「彼は枳風と同行して江戸を出立し、木賀温泉でまず文麟の旅宿を訪ねているから、文麟が湯治のためにここに滞在していたことが分かる。多分其角は文麟に呼び寄せられたのであろう。」とも記している。
 文麟は其角撰『続虚栗』に、

 うばそくが隣をきかん四方拝   文麟
 日ざかりやおとなしく見ゆ山桜  同
 商人も見るものとてや舟の月   同
 歌をよむ身のたうとさよ年のくれ 同

他多数入集している。
 六句目。

   かけありく芝生の露の浅緑
 新シ_舞-台月にまはばや     仙化

 芝生といえば芝居。昔の芝居の客席は文字通り芝生だった。月が照らす夜の舞台に浮かれて駆け回り舞い出す風狂者といったところか。
 仙化は蕉門で、桃隣撰『陸奥衛』の巻頭の俳諧百韻でも桃隣、其角、嵐雪らと名前を連ねている。

 月一ッ影は八百八嶋哉      仙化
 山寺や人這かゝる蔦かつら    同

の句も「舞都遲登理」にある。
 七句目。

   新シ_舞-台月にまはばや
 中の秋画工一つれかへるなり   魚児

 中の秋(仲秋)は放り込の季語で、画工の集団が能舞台の背景の松の木の絵を描いて帰ってゆく。やがて月夜に能の興行が行われるのであろう。
 昔の画工は一種のプロダクション方式で、絵師とその弟子たちとの共同作業で描く。
 魚児も其角門で、其角撰『続虚栗』に、

 抱付て梢をのぞくさくら哉    魚児
 つかまれてまた放さるるほたる哉 同
 我顔の黒くなるまで月はみん   同
 灯の影に顔すすびたる火燵哉   同

などの句がある。
 八句目。

   中の秋画工一つれかへるなり
 鱸てうじておくる漢舟      観水

 「てうじて」は「釣じて」であろう。漢文書き下し文風の言い回しだ。前句の画工から瀟湘八景図などに描かれる中国の漁船をイメージしたのだろう。
 中国の画工の一行が漁船に乗って移動する姿を想像したか。
 鱸(スズキ)と言うと、

 荒栲(あらたへ)の藤江の浦に鱸釣る
     白水郎(あま)とか見らむ旅行くわれを
                  柿本人麻呂(万葉集)

の歌もある。
 観水は前に述べたように、其角門の新人。其角撰『続虚栗』に、

   詠唯一心
 花に来て人のなきこそ夕なれ   観水
   旅寐
 木槿垣花見ながらに寐入けり   同

などの句がある。

2020年11月14日土曜日

  今日で秋は終わり。
 「秋の夜を」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   小袖出して寐たる大年
 使やる所をはたとうちわすれ   支考

 お金を貸していたのをうっかり忘れてしまったか。
 八句目。

   使やる所をはたとうちわすれ
 かえても医者の見廻れにけり   芭蕉

 医者を変えたが、元の医者の所に使いを出すのを忘れていたため、今まで通り往診に来てしまったということか。
 九句目。

   かえても医者の見廻れにけり
 拭立惣々の柱きらきらと     車庸

 「惣々」は総々とも書き、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「そうそう」とも) その場にいる者すべて。ある物すべて。みな。全部。また、一団にまとまること。
  ※小早川家文書‐天正七年(1579)九月七日吉川元春自筆書状「吉田御出張御延引故、惣々の衆も不レ被二罷出一候」
  ※松翁道話(1814‐46)一「いと様の、ぼん様のと、惣々が可愛がりて」 〔揚雄‐甘泉賦〕」

とある。
 きれいに拭いて柱も皆きらきらにしたら、変えたはずの医者が見に来たということか。
 十句目。

   拭立惣々の柱きらきらと
 よつて揃ゆる弁当の椀      洒堂

 この場合の弁当は野弁当のことであろう。野弁当は重箱だけでなく飯椀・汁椀、酒器なども含む大掛かりなピクニックセットで、大名クラスが用いた。
 柱という柱のきらきらと磨かれた家に住むくらいの者が、椀のそろった野弁当の箱を持っている。
 十一句目。

   よつて揃ゆる弁当の椀
 糺より黒谷かけて暮かかり    游刀

 糺の森は下賀茂神社の境内南側にある森で、その南東の京都大学のある方に黒谷さんと呼ばれる金戒光明寺がある。近くに吉田山もあれば銀閣寺もある。散歩して弁当を食べるにはもってこいの場所だ。
 十二句目。

   糺より黒谷かけて暮かかり
 薄がなくば野は見られまい    支考

 夕暮れでも薄の穂は白くて闇の中でも浮き立つ。薄の穂の白いのが見えればそこが野だとわかる。
 十三句目。

   薄がなくば野は見られまい
 鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損    惟然

 当時の宿賃は二百文くらいが相場だったという。鹿の声が聞こえなかったら半分損した気分というところか。
 宿の辺りは薄がなく野原ではなかったので、鹿が来なかった。
 曾良の『旅日記』には月山に登った時、

 「堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役銭弐百文之内。散銭弐百文之内。彼是、壱歩銭不余。」

と記されている。
 一歩が何文かは地方によっても違ったようで、日光のところに「壱五弐四」とあり、白石のところに「一二三五」とあるのがそのレートだとしたら、一分は千二百文から千五百文だったことになる。月山の山小屋は一人二十文、三人で六十文と安かったが、山に登る際の通行料(山役銭)が二百文×3、賽銭(散銭)に二百文×3で結局三人で一歩を使い切ったことになる。
 十四句目。

   鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損
 雨気の月のほそき川すじ     車庸

 雨の降りそうな雲行きの怪しい空に細い月が出ている川に近い宿場で、このまま雨が降ったら鹿は来ないだろうな、とする。気流の乱れた黑雲が低く立ち込める中、異様に空が赤くなる台風前の夕暮れだったのかもしれない。
 十五句目。

   雨気の月のほそき川すじ
 火燈して薬師を下る誰がかか   芭蕉

 「かか」は「かかあ(嚊/嬶)」のこと。薬師堂はいろいろなところにあり、とくにどこのということでもあるまい。夫の病気平癒を祈ってきた帰り道か。前句をその背景とする。不安な空模様がかかあの気持ちと重なる。
 十六句目。

   火燈して薬師を下る誰がかか
 七種まではよろづ隙なき     游刀

 正月は男は酒飲んで遊んでいればいいが、かかあの方はお客さんの接待など大忙しで、七草までは暇がない。
 十七句目。

   七種まではよろづ隙なき
 見せ馬の荷鞍のあかね花やかに  洒堂

 「見せ馬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 正月や祭の日に馬を飾ったり、走らせたりして、群集に見せること。
  ※俳諧・まつのなみ(1702)秋「七種まではよろづ隙なき〈游刀〉 見せ馬の荷鞍のあかね花やかに〈洒堂〉」

とある。
 『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)には、馬の芸についても短いながら記されている。

 「ウマは、神馬とされるなど、信仰とのつながりもあるのに曲馬には、武芸の一環としての馬術披露の歴史があり、そこからの波及として曲芸へ発展したのではないかと思われる。歴史的には、江戸時代に朝鮮からの曲馬団が来訪して芸を披露したのが曲馬芸の初まりという説がある。見世物としての曲馬はこのころから多くなり始めたようだ。また、ウマ芝居の場合には、ウマ自身に何か芝居をさせて見世物とするのではなく、ウマに乗って芝居をするという特殊な芝居だ。どちらの場合にも、ウマ自身が見世物となることはなく、乗っている方が主役だという特色がある。」

 この本には天和三年(一六八三年)の曲馬興行の絵が掲載されていて、「曲馬芸の興行を描いた絵としては、最も古いものではないかという説がある(『シンドラー・コレクション浮世絵名画展』カタログ、1985より)」とある。その絵を見ると、なるほどつばの広いカッ(갓)のような帽子をかぶっている。前年の天和二年には朝鮮通信使が来日している。
 今の台東区台東の三井記念病院の近くに対馬藩の上屋敷があり、朝鮮通信使の接待もここで行われ、馬上才(마상재)もここで行われたという。
 「根岸競馬場開設150周年 馬事文化財団創立40周年記念サイト」には、

 「曲馬とは、馬を用いた軽業[かるわざ]・曲芸のことで、日本では室町時代すでに武芸の余戯として行われ、江戸時代には朝鮮通信使節の馬上才[ばじょうさい]に影響を受けながら、「和式曲馬」として確立しました。」

とある。
 洒堂もどこかで赤い華やかな鞍をつけた馬による曲馬を見たことがあったのだろう。
 挙句。

   見せ馬の荷鞍のあかね花やかに
 小やかたならぶ金杉の春     惟然

 金杉(かなすぎ)は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は「東京芝の金杉。江戸時代魚市場のあったところ」としている。金杉という地名は今の台東区下谷のあたりにもあるが、小やかたが屋形船のことだとしたら芝の金杉の方であろう。芝の増上寺も近くにあり、ここで正月の曲馬が興行されていたとしてもおかしくない。

2020年11月13日金曜日

  今日は旧暦九月二十八日。小の月なので九月は明日で終わり。ゆく秋ぞ。
 あと二日あるので半歌仙でも。
 元禄七年九月二十一日、大阪の車庸亭での興行。五日後の二十六日には「此道や行人なしに秋の暮 芭蕉」を発句とした半歌仙興行が行われ、その翌日には園女亭で「白菊の眼に立て見る塵もなし 芭蕉」の歌仙興行が行われ、これが芭蕉にとっての最後の俳諧興行になる。

 発句

   菊月廿一日湖江車庸亭
 秋の夜を打崩したる咄かな    芭蕉

 秋の夜のしみじみとした物悲しい雰囲気を打ち崩すような話をしましょう、という挨拶。打倒秋の夜!って感じか。
 芭蕉さんの病気もかなり進行していたことだろう。だからといって辛気臭くなってもしょうがない。笑って病気何てぶっ飛ばそう、という意味もあったのだろう。
 脇

   秋の夜を打崩したる咄かな
 月待ほどは蒲団身にまく     車庸

 長月ともなると夜は寒くて、蒲団にくるまって月を待ちながら、秋の夜をぶっ飛ばすような俳諧をしましょう、と受ける。
 十七日は立待月、十八日は居待月、十九日は寝待月、二十日は更待(ふけまち)月、二十一日は何になるのだろうか。
 第三。

   月待ほどは蒲団身にまく
 西の山二はな三はな雁鳴て    洒堂

 『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注には、「はなは組の意。」とある。
 前句を二十一日の月待ではなく夕方の月待とし、夕暮れの西の山に向かって雁が鳴きながら飛んで行く。
 四句目。

   西の山二はな三はな雁鳴て
 しかゆる牛の能うごくなり    游刀

 「しかゆる」は中村注に「底本通りとすれば、取替えたの意と解される」とある。
 関西では荷物運びに牛が多く用いられていた。多分古代からの平坦で広い直線道が多いからであろう。牛を別の牛に取替えたら仕事もはかどり、雁の列になって飛ぶ夕暮れまでの無事終えることができたということか。
 游刀は膳所の人で能楽師だったという。
 五句目。

   しかゆる牛の能うごくなり
 舅の名をまんまと貰ふ真性者   諷竹

 名を貰うというのは襲名のことだろうか。妻の父の名を貰うということは、要するに娘婿、婿養子ということだろう。真性者はここでは天性の才能のある者ということか。
 前句の取替えた牛がよく動くから、実の息子よりも義理の息子に変えた方がよく動くとしたか。
 諷竹は之道のこと。weblio辞書の「芭蕉関係人名集」には、

 「東湖は初期の俳号、元禄3年6月、芭蕉が幻住庵滞在中に尋ねて蕉門に入門。これを機に「之道」と改名。楓竹は晩年(元禄10年)の俳号。」

とある。「芭蕉関係人名集」は何かと思ったら山梨のサイトだった。
 六句目。

   舅の名をまんまと貰ふ真性者
 小袖出して寐たる大年      惟然

 義父の名を襲名した真性者は借金取りに追われることもなく、大晦日は小袖を着てさっさと寝る。昔は初詣も除夜の鐘もなかったから、大晦日は早く寝るものだった。

2020年11月12日木曜日

  「十三夜」の巻の続き。

 二裏。
 三十一句目。

   枝もぐ菊の括りちひさき
 露霜に土こそげたる沓のうち   濁子

 沓は王朝時代の連想を誘い、それこそ、

 心あてに折らばや折らむ初霜の
     おきまどはせる白菊の花
              凡河内躬恒(古今集)

であろう。初霜の白菊を折ったら沓に泥がつくから、それをこそげ落とす。
 三十二句目。

   露霜に土こそげたる沓のうち
 くぐり細目に明る肴屋      曾良

 肴はウィキペディアによると、

 「語源は「酒菜」から。元々、副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字を当てていた。すなわち、酒のための「な(おかず)」という意味である。したがって、「さかな」という音からは魚介類が想像されるかもしれないが、酒席で食される食品であれば、すなわち、肴となる。室町時代頃までは、こうした魚肉に限らない用法が一般的だった。
 なお、魚類のことを「さかな」と呼ぶのは、肴から転じた言葉であり、酒の肴には魚介類料理が多く使用されたためである。古くは「うを」(後に「うお」)と呼んでいたが、江戸時代頃から「さかな」と呼ぶようになった。」

とのことで、酒の「さかな」の方が先で、後に魚のことを「さかな」と呼ぶようになったのだという。
 くぐり戸は門や大きな扉のある所に勝手口として補助的に設けられた小さな戸で、これは肴屋の扉ではなく、肴を届ける立派な屋敷の情景であろう。靴の泥を落としてから恐る恐る中へ入る。
 三十三句目。

   くぐり細目に明る肴屋
 初産はおもひの外に安かりて   岱水

 初産は大変だとよく言うが、思いのほかに楽で、すぐにお祝いの宴が始まる。とはいえ肴屋は気を使ってそっと中に入る。
 三十四句目。

   初産はおもひの外に安かりて
 借りし屏風を返す夕暮      杉風

 出産する場所を仕切るために借りた屏風をその日の内に返す。
 三十五句目。

   借りし屏風を返す夕暮
 華に又はなをかざりし弓空穂   凉葉

 「空穂・靫(うつぼ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 矢の容器。雨湿炎乾に備えて矢全体を納める細長い筒で、下方表面に矢を出入させる窓を設け、間塞(まふたぎ)と呼ぶふたをつける。竹製、漆塗りを普通とするが、上に毛皮や鳥毛、布帛(ふはく)の類をはったものもあり、また、近世は大名行列の威儀を示すのに用いられ、張抜(はりぬき)で黒漆塗りの装飾的なものとなった。江戸時代には紙の張抜(はりぬき)の黒漆塗りに金紋を据え、飾調度(かざりちょうど)とした。うつお。」

とある。
 大名クラスに見せかけた成金商人の花見だったのではないか。どこかから借りてきた立派な屏風に、きらびやかな弓や空穂までこれでもかと並べ、「華に又はなをかざりし」は「屋上屋を重ねる」ようなものだ。
 挙句。

   華に又はなをかざりし弓空穂
 はや鎌倉の道の若草       史邦

 昔の鎌倉の繁栄であろう。鎌倉時代の武士は刀より弓矢が中心だった。

2020年11月11日水曜日

  どうやら第三波の到来だな。
 今思えばコロナはやはり季節性のウィルスで、夏場の高温多湿と紫外線で弱体してたのではなかったか。三月終わりの第一波も意外に早くピークアウトできたのは、やはりそれと関係あったのだろう。ただ、コロナは風邪派の言ってたような自然消滅はせずに、コロナは日本の高温多湿の夏を生き延びた。コロナはサーズのようにはならなかった。サーズよりははるかに進化していた。
 夏の第二波も第一波の時よりかなり緩い自粛で乗り切れたが、今思えば夏だったからなのだろう。太陽の光に耐えられず、夜の街で広がっただけだった。
 今思えば、緊急事態宣言をあと二週間続けていれば、韓国や台湾のようになれてたかもしれないが、後の祭りだ。夏の第二波も根絶するチャンスはあったが、経済に負けた。
 コロナが季節性ウィルスだとしたら、これから来る第三波は今までとは違う、低温乾燥低紫外線でコロナにとってはホームゲーム、日本人が初めて経験する本気のコロナになる可能性がある。今まで通りの緩んだ自粛では通用しないと思った方がいい。
 まあ、俺の予言は二回とも外れているから、今回も外れてくれればいいが。
 それでは「十三夜」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   鶯啼て旅になすそら
 寝覚めにも指を動かすひとよ切  岱水

 「ひとよ切」は一節切と書き、ウィキペディアに、

 「日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。」

とあり、

 「前野良沢や一休宗純、雪舟、北条幻庵なども一節切の奏者として知られている。織田信長に仕えた大森宗勲も名手である。しかし、もともと武家や上流階級の風雅な嗜みとしての趣向が強く、一般市民には普及していなかったことや、より音域が広く音量の大きい普化尺八が普及したこともあって、江戸時代の始まりより徐々に廃れていった。」

 鶯というと鶯笛を連想するが、鶯笛だと思ったのがじつはひとよ切だったという落ちか。
 一回だけの売春を「一夜切」というが、こちらは「いちやぎり」と読む。ひょっとしたら一夜切りに指を動かすでその連想を誘っていたのかもしれない。鶯を鳴かすも女をよがらせるという意味があり、鶯の谷渡りなんて言葉もある。
 二十句目。

   寝覚めにも指を動かすひとよ切
 中能ちなむ兄が膝元       芭蕉

 「中能」は「なかよく」と読む。
 「ちなむ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「ある縁に基づいて物事を行う。縁を結ぶ。親しく交わる。
  出典雪の尾花 俳諧
  「年ごろちなみ置ける旧友・門人の情け」
  [訳] 長年、親しく交わっていた旧友や門人の思いやり。」

とある。芭蕉さんのことだから、単なる旧来からの親しみではなく、前句の「指を動かす」に想像を膨らませ、そっち系に持って行ったのではないかと思う。一節切ではなく尺八だったら、今でもその意味がある。
 二十一句目。

   中能ちなむ兄が膝元
 具足着に雇はるる程場の有て   凉葉

 「具足着(ぐそくぎ)」は具足親のことか。具足親はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 武家で、男子が元服して甲冑の着ぞめをするとき、その具足を着せる役をつとめる人。特にその武勇にあやかるようにと、武功ある人を選んだ。
  ※俳諧・類船集(1676)以「烏帽子おや、具足おや、とりおやと云も家の子歟」

とある。
 兄のお膝元にいると、具足を着せる役割を世話してくれる。
 二十二句目。

   具足着に雇はるる程場の有て
 顔には似せぬ饅頭の好キ     史邦

 具足着に雇われるのは「武勇にあやかるようにと、武功ある人」だが、さぞかし大酒飲みの豪傑かと思ったら、意外に下戸のスイーツ男子だった。
 二十三句目。

   顔には似せぬ饅頭の好キ
 さかりなる隠居の牡丹見て帰ル  杉風

 桜の花見だと酒盛りというイメージがあるが、牡丹で酒盛りはあまり聞かない。今を盛りと咲き誇る御隠居さんの育てた牡丹を見に行っても、酒盛りはなく、饅頭を食べて帰る。
 二十四句目。

   さかりなる隠居の牡丹見て帰ル
 襷はづして出るをほな子     岱水

 「おほな」は嫗(おみな)のことで、「おほな子」は今で言う「 おばあちゃん子」のことか。さては、目当ては牡丹ではなく御隠居さん夫婦と一緒に暮らすこのおばあちゃん子だったか。
 二十五句目。

   襷はづして出るをほな子
 笠借らむ歌の返事に蓑もなし   史邦

 これは太田道灌の山吹の里伝説で、ほとんどそのまんまだ。

 元歌は、

   小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、
   蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取ら
   せて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、
   山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける
   返りに言ひつかはしける
 七重八重花は咲けども山吹の
     みのひとつだになきぞ悲しき
              兼明親王(後拾遺集)

で、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「詞書(ことばがき)によると、雨の降る日に蓑を借りに来た人に作者が山吹の枝を差し出した。その意味を理解できなかった相手が、真意を尋ねたので詠んだ歌。山吹に実がならないことをふまえ、「みの」に「蓑」をかける。室町時代中期の武将太田道灌(おおたどうかん)が、農家で蓑を借りようとして少女に山吹の枝を差し出され、その意味がわからず、後に不明を恥じて歌道に励んだという逸話で有名。結句を「あやしき」とする伝本もある。その場合は、「おかしなことです」の意となる。」

とある。前句の「をほな子」をこの少女のこととする。
 二十六句目。

   笠借らむ歌の返事に蓑もなし
 足はむくみて河原行けり     曾良

 兼明親王のオリジナルの方として、京都の小倉山のあたりとする。この辺りは嵯峨野とも呼ばれ、桂川が流れている。
 笠は借りられず、仕方なくむくんだ足でびしょ濡れになりながら河原を行く。
 二十七句目。

   足はむくみて河原行けり
 よごれたる衣に輪袈裟打しほれ  芭蕉

 「輪袈裟」はウィキペディアに、

 「僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務(さむ)や移動の時に用いるのが一般的である。輪袈裟(りんげさ)や畳袈裟(たたみげさ)と呼ばれることもある。」

とある。白衣の上に輪袈裟を羽織ると、お遍路さんの装束になる。
 長旅に汚れた衣によれよれの輪袈裟。さびを感じる。
 二十八句目。

   よごれたる衣に輪袈裟打しほれ
 伯母の泣るる酌人の貌      濁子

 「酌人(しゃくにん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 酌をする人。酌とり。多く、酒席で客の相手をする女性。酌婦。
  ※咄本・私可多咄(1671)三「酌人(シャクニン)のめもとに塩がこぼるれば手もとの酒はしづくなりけり」

とある。
 この場合の「伯母(おば)」は親族ではなくおばさんののことであろう。みすぼらしい姿に苦労したんだねと涙をこぼし酌をしてくれる。
 二十九句目。

   伯母の泣るる酌人の貌
 けふの月実植の梨の穂がけして  曾良

 実植(みうゑ)は実生(みしょう)のことで、古くは「みばえ」「さねおひ」とも呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 株分け、さし木などによらないで、種子(たね)から直接草木が生えること。また、その草木。みしょう。
  ※俳諧・新撰犬筑波集(1532頃)春「ほうしがへりとひとやみるらん、この梅はさねおひにてはなきものを」
  〘名〙 =みばえ(実生)①〔和玉篇(15C後)〕
  ※随筆・戴恩記(1644頃)上「実生(ミヲヘ)を、御手づから〈略〉うへさせ給ひければ」
  〘名〙 つぎ木、さし木などの栄養繁殖によらないで、種子から発芽した植物。みうえ。みばえ。
  ※談義本・根無草(1763‐69)前「此人先菊之丞が実生(ミセウ)にはあらがねの、土の中より掘り出したる分根なるが」
  〘名〙
  ① 植えたりつぎ木したりしないで草木が自然に芽を出すこと。種子から芽が出て生長すること。また、その草木。みしょう。
  ※俳諧・鹿島紀行(1687)「神前、この松の実ばへせし代や神の秋〈芭蕉〉」
  ② 転じて、物事の起こるきざし。萌芽。発端。また、物事の自然に発生することにいう。
  ※浄瑠璃・双蝶蝶曲輪日記(1749)四「われも余っ程臍より下に、分別のみばえが出来たやら堅い事いふな」
  ③ 親から生まれたもの。子。
  ※浄瑠璃・仏御前扇車(1722)四「機転も利く音に聞く、鎮西八郎為朝が、落し胤のみばへの若者」

とある。
 「穂がけ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 稲の初穂を田の神・氏神などに供える行事。《季 秋》
  2 刈った稲を、稲架(はさ)にかけること。」

とある。この場合は梨農家で、稲穂の代わりに獲れた梨を供えたのだろう。桃栗三年梨八年というように、種から立派に育った梨に、伯母は酒を注ぎながら涙する。
 三十句目。

   けふの月実植の梨の穂がけして
 枝もぐ菊の括りちひさき     凉葉

 菊は江戸時代には観賞用に発達したが、元は菊酒や漢方薬などに用いられていた。この場合の菊は収穫されるもので、凡河内躬恒の「心あてに折らばや折らむ」の歌も、菊は折って用いるものだったからではなかったか。
 枝からもいだ菊も小さな束にして穂掛けに神に供えられた。

2020年11月10日火曜日

  今日の朝は半月よりやや細い月が見えた。まだ長月。「十三夜」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   埃かき流す風呂の水遣り
 きり麦をはや朝かげにうち立て  凉葉

 蕎麦は蕎麦切り、それだと麦は麦切りになりそうだが「きり麦」になる。麦を水を加えてこねて、それを細く切ったもの。うどんより細く、素麺のように油を使ったりはしない。今は「ひやむぎ」として知られているが、かつては暖かい「熱麦(あつむぎ)」もあったという。温麺(うーめん)という名前で残っている地方もある。
 「朝かげ」は「影」に「光」の意味がある所から、朝の光を言う。朝日を浴びながら切り麦を打ち、風呂の水でゴミを流す。
 八句目。

   きり麦をはや朝かげにうち立て
 幸手を行ば栗橋の関       芭蕉

 幸手は春日部の先にある日光街道の宿場で、埼玉は昔は麦の産地だったから、うどんやきり麦が名物だったのだろう。切り麦を食べて朝日の中、「うち立て」を「すぐに旅立って」の意味に取り成す。
 幸手の先に栗橋があり、ここで利根川を渡ると茨城県古河市になる。この渡しの所に栗橋の関があった。
 九句目。

   幸手を行ば栗橋の関
 松杉をはさみ揃ゆる寺の門    曾良

 日光街道は日光に近づくと杉並木になるが、幸手の辺りは松並木だった。このあたりのお寺はその両方を備えているかのように、きちんと剪定された松と杉がある。
 十句目。

   松杉をはさみ揃ゆる寺の門
 ひとり娘の冬のこしらへ     濁子

 「はさみ揃ゆる」を裁縫の裁ち鋏としたか。寺の一人娘の冬場の内職とする。
 十一句目。

   ひとり娘の冬のこしらへ
 梟の身をもかくさぬ恋をして   岱水

 後に支考が著す『梟日記』という紀行文があるが、梟は蓑笠で膨らんで見える旅人の姿の喩えでもある。

 「されば痩藤に月をかかげ、破笠に雲をつつむといふ、むかしのひとのあとをまねびたるにはあらで、風雅は風雅のさびしかるべき、この法師の旅姿なり。
 
 月華の梟と申道心者」(支考「梟日記之序」より)
 其角は自らの旅姿を梟ではなく木兎(みみずく)に喩え、

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮     其角

という句を詠んでいる。
 梟は高い枝にとまり、あまり物陰に隠れたりしない。娘の世話にと言って通ってくる。
 十二句目。

   梟の身をもかくさぬ恋をして
 なみだくらべん橡落る也     芭蕉

 比喩ではなく本物の梟も恋をして泣いているのだろうか。泪ではなく橡の実が落ちてくる。
 十三句目。

   なみだくらべん橡落る也
 うす月夜麻の衣の影ぼうし    史邦

 秋の朧月は薄月という。「麻の衣」は僧衣であるとともに喪服をも意味する。「影法師」に掛けて僧形で喪に服する姿から、死別の泪の落ちるのと橡の実の落ちるのとを重ね合わせ、薄月も涙で霞む。
 十四句目。

   うす月夜麻の衣の影ぼうし
 客まつ暮に薪割秋        杉風

 前句の麻衣の影法師を喪服ではなく普通の隠遁僧として、客をもてなすために薪割りをしている。
 十五句目。

   客まつ暮に薪割秋
 末広を釘にかけたる祢宜の家   濁子

 「末広」は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注に「中啓(ちゅうけい)」とある。中啓はウィキペディアに、

 「中啓は親骨が要よりも外側に反ったかたちをしており、折りたたんだ時、銀杏の葉のように扇の上端がひろがる。「啓」とは「啓く」(ひらく : 開く)という意味で、折り畳んでいながら上端が「中ば(半ば)啓く」という状態から中啓と名付けられた。」

とあり、

 「神社でも神職が、神事で中啓を使用する。帖紙に中啓を添えて懐中したり、神葬祭の遷霊儀式で打ち鳴らしたりする。また、白竹、鈍色、黒色、朱色などのタイプがあり、ぼんぼり、ぼんぼり扇とも呼ぶ[1]。また出雲大社では神職が笏の代用とする風習もある。」

という。
 前句の薪を割る人を祢宜とする。
 十六句目。

   末広を釘にかけたる祢宜の家
 塵うちはらふ片器の食つみ    凉葉

 「食(くい)つみ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 正月に年賀客に儀礼的に出す取りざかなで、蓬莱台や三方(さんぼう)に米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)、勝栗(かちぐり)、昆布、野老(ところ)、干柿などをそえたもの。お手かけ。《季・新年》
  ※俳諧・炭俵(1694)上「喰つみや木曾のにほひの檜物〈岱水〉」

とある。
 「片器(へぎ)」は片木で、薄く削った木で作ったお盆をいう。
 扇を釘に掛けるような祢宜ということでの位付けであろう。
 十七句目。

   塵うちはらふ片器の食つみ
 先ヅ汁と筆をはじむる初花に   芭蕉

 正月で花の定座なので「初花」という言葉を用いるが、ここでは単に正月のことであろう。「花の春」と同様に見ればいいのではないかと思う。
 正月の朝はまずお雑煮だが、それと前句を文人と見て、お雑煮と筆初めで始まるとする。
 十八句目。

   先ヅ汁と筆をはじむる初花に
 鶯啼て旅になすそら       史邦

 旅で迎える正月とする。

2020年11月9日月曜日

  さて、今日は旧暦九月二十四日。まだ長月の俳諧、もう一つ行けそうだ。
 元禄六年九月十三日、深川芭蕉庵にて興行。
 七月に病気の悪化から、

 あさがほや昼は錠おろす門の垣  芭蕉

の句とともに閉門した芭蕉庵は、八月十六日にその閉門を解き、

 いざよひはとりわけ闇のはじめ哉 芭蕉

を発句とした七吟歌仙興行を行う。
 それから一か月、悲しい出来事もあった。八月二十七日、鎌倉から戻った嵐蘭が急死した。二十九日には其角の父東順が亡くなる。その悲しみのまだ癒えぬ九月十三日、ふたたび月見の会が行われ、一か月前と多少メンバーは入れ替わったが七吟歌仙興行が行われた。発句は十六夜の時脇を詠んだ濁子が務める。
 発句。

 十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子

 「あかつき闇」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「夜明け前、月がなく辺りが暗いこと。陰暦で、1日から14日ごろまで、月が上弦のころの現象。あかときやみ。
  「うば玉の―の暗き夜に何を明けぬと鳥の鳴くらん」〈続後撰・雑中〉」

とある。
 十三夜はあかつき闇の終わりだと思うのだが、八月十六日の、

 いざよひはとり分闇のはじめ哉  芭蕉

の句に答えようとして釣られてしまったか。
 十六夜は日が沈んで月が登るまでにわずかに闇が生じる。このあと月の出は遅くなり、闇の時間は長くなる。だが、十三夜だと暁闇は最後になり、闇の時刻は日没後に移る。
 脇

   十三夜あかつき闇のはじめかな
 小袖の糊のこはき薄霧      曾良

 朝起きた時だと小袖は糊が利いていてパリッとしている。着ているうちになれてくる。
 十三夜の白んだ空に月が沈むころには朝霧がかかり、月が白んでゆくが、薄霧に霞んだ感じが糊にさらされたように見えるか。
 第三。

   小袖の糊のこはき薄霧
 焼飯に瓜の粕漬口あけて     芭蕉

 焼飯は今日のようなチャーハンではなく、焼きおにぎりかきりたんぽのようなものだとされている。元禄九年に桃隣が芭蕉の足跡を追って陸奥を旅した時に尿前の関に頼み込んで一泊させてもらい、そのときに、

 燒飯に青山椒を力かな      桃隣

の句を詠んでいる。
 瓜の粕漬は瓜を酒粕で漬けたもので奈良漬とも言われる。
 瓜は夏のものだが、酒粕で漬けこむ期間を加味して秋扱いにしたか。
 口あけては封を切るということか。
 四句目。

   焼飯に瓜の粕漬口あけて
 荏胡麻のからに四十雀つく    史邦

 荏胡麻は主に油を取るために栽培された。韓国では荏胡麻の葉のキムチもあるが、日本で葉を食べてたかどうかはよくわからない。
 荏胡麻の殻は油を搾った後の搾りかすであろう。それを四十雀がついばむ。
 前句の口あけてを四十雀の口をあけてと掛けて荏胡麻の殻に展開する。
 五句目。

   荏胡麻のからに四十雀つく
 雨気から笠の干反リのしめり合  杉風

 植物でできた物は乾くと反りやすい。一度濡れた後乾くとそれがひどくなる。
 「雨気から」「荏胡麻のから」「四十雀」と「から」つながりになる。
 六句目。

   雨気から笠の干反リのしめり合
 埃かき流す風呂の水遣り     岱水

 「埃」はこの場合は「ごみ」と読むようだ。前句の湿りを風呂のせいにする。

2020年11月8日日曜日

  今の中国は社会主義ではなく、グローバル市場を拒否した、強力な国家権力によって統制された資本主義経済で、一国資本主義とでもいうべきものだ。これが可能なのは中国が人口が多く広大で資源も豊富なため、外国資本との貿易にそれほど依存する必要がなかったからだろう。
 かつてアジアにはたくさんの開発独裁国家があったが、その多くはある程度の経済成長を果たすと民主化を余儀なくされた。中国はあまりにも大きく自己完結していたが故に生き残った。
 この一国資本主義が危険なのは、戦前のブロック経済と同様、相互に依存しない孤立した経済であるため、戦争とまでは行かなくても、他国に対し敵対的なふるまいをすることに歯止めになるものがないということだ。
 ある程度国内で完結した経済を保っていれば、経済制裁もなかなか効果を発揮できない。外との戦争さえ起こさなければ、国内でホロコーストやジェノサイドをやっても手出しをできない。それをわかっているから中国は戦争を起こさないが、戦争以外なら何でもやる。
 トランプさんも散々手を焼いたが、バイデンさんに何か手があるのだろうか。
 それでは「青くても」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   たてこめてある道の大日
 擌揚ゲて水田も暮る人の声    岱水

 「擌(はご)」は原文では木偏になっているがフォントが見つからないので手偏の方を用いるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 鳥を捕える仕掛けの一つ。竹の棒や木の枝、わらなどに黐(もち)を塗り、田の中などの囮(おとり)のそばに置いて、鳥を捕えるもの。はご。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ※類従本賀茂女集(10C後)「はかにかかれる鳥、ゑにうたれんことをしらずして」
  〘名〙
  ① =はが(擌)〔羅葡日辞書(1595)〕
  ② ①にかかった鳥が身動きできないように、借金で身動きできないこと。借財。負債。」

とある。
 大日堂の前を擌で鳥を獲って殺生した人が通るというのは、まあ俳諧ではお約束というところか。
 「めづらしや」の巻二十六句目。

   千日の庵を結ぶ小松原
 蝸牛のからを踏つぶす音    露丸
 「海くれて」の巻二十一句目。

   生海鼠干すにも袖はぬれけり
 木の間より西に御堂の壁白く  工山

など殺生ネタ。
 三十二句目。

   擌揚ゲて水田も暮る人の声
 筵片荷に鯨さげゆく      嵐蘭

 擌で小鳥を取って帰る農民とすれ違いざまに、天秤棒の片方に大きな鯨の肉の塊をぶら下げて帰る漁師。「へっ、おまえら小せいな」とでも呟いてそうだ。
 三十三句目。

   筵片荷に鯨さげゆく
 不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市  芭蕉

 池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)東海道五十三次の三十九番目の宿場で愛知県知立市の牛田ICの辺りにあった。古くから馬市や木綿市が立ったという。三河湾で獲れた鯨を干したものも売られていたか。
 貞享元年、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で、

   尾張の国あつたにまかりける比、
   人々師走の海みんとて船さしけるに
 海くれて鴨の声ほのかに白し  芭蕉

の発句を詠んだ時の脇が、

   海くれて鴨の声ほのかに白し
 串に鯨をあぶる盃       桐葉

だった。
 三十四句目。

   不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市
 ごを抱へこむ土間のへつつゐ  洒堂

 「ご」は燃料にする松の落葉のことらしい。貞享四年に東三河吉田宿で詠んだという、

 ごを焼いて手拭あぶる寒さ哉  芭蕉

の句がある。「へっつい」は竈のこと。
 木綿市があるというので池鯉鮒に宿では常に炊飯用のたくさんの「ご」を用意している。
 三十五句目。

   ごを抱へこむ土間のへつつゐ
 米五升人がくれたる花見せむ  嵐蘭

 宿の台所で花見にと米五升をくれた人がいたのだろう。一升は十合で、一人一合(茶碗二杯)としても五十人は食える。盛大な花見になりそうだ。
 挙句。

   米五升人がくれたる花見せむ
 雉子のほろろにきほふ若草   岱水

 雉はほろほろと鳴くと言われているが、実際は羽を打つ音だという。
 ウィキペディアによると、

 「繁殖期のオスは赤い肉腫が肥大し、縄張り争いのために赤いものに対して攻撃的になり、「ケーン」と大声で鳴き縄張り宣言をする。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が、「母衣打ち(ほろうち)」と呼ばれる。」

という。「けんもほろろに」という言葉はそこから来たという。

 春の野のしげき草葉の妻恋ひに
     飛び立つきじのほろほろとぞ鳴く
                平貞文 (古今集)

の歌がある。
 大勢で花見をして気勢を上げる姿は、若草の中で母衣打ちをする雉のようだ。ということで花見も盛り上がった所でこの一巻はめでたく終了する。

2020年11月7日土曜日

  コロナの方も均衡が悪い方に破れてきたというか、二日続けて国内新規感染者が千人を越えたと思ったら、今日は千三百人を越えた。第三波の始まりか。
 欧米に比べれば大したことないかもしれないが、日本はまだ本当のコロナの怖さを知らないだけかもしれない。
 色々不安はあるが、とりあえず「青くても」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   荷とりに馬子の海へ飛こむ
 町中の鳥居は赤くきよんとして  嵐蘭

 「きよんと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘副〙 他に飛び抜けて高く目立つさま。きょいと。
  ※俳諧・深川(1693)「町中の鳥居は赤くきょんとして〈嵐蘭〉 吹もしこらず野分しづまる〈岱水〉」

とある。用例がこの句だった。「きょいと」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」では、

 「[形]《「けうとい」から転じた「きょうとい」の音変化。近世語》
  1 はなはだしい。とんでもない。
  「滅相な―・いこと言はんす」〈咄・無事志有意〉
  2 みごとである。すばらしい。
  「はあ、鯖 (さば) のすもじかいな。こりゃ―・い―・い」〈滑・膝栗毛・七〉」

とある。「気疎(けうと)い」は本来マイナスの意味の言葉だが、「いみじ」や「やばい」同様いい意味に転じて用いられたのだろう。
 赤鳥居というと稲荷系か。稲荷と言うと二月の最初の午の日は初午詣で賑わい、馬に縁がある。前句を馬子たちの祭りかなにかとしたか。二月だと寒中水泳だが。
 二十句目。

   町中の鳥居は赤くきよんとして
 吹もしこらず野分しづまる    岱水

 「しこらず」は醜(しこ)らずで悪くならないということか。「凄し」も「醜(しこ)し」から来ているという。赤鳥居の力で野分もひどくならずに静まる。
 二十一句目。

   吹もしこらず野分しづまる
 革足袋に地雪駄重き秋の霜    洒堂

 ウィキペディアによると、

 「足袋は本来皮革をなめして作られたものであり、江戸時代初期までは布製のものは存在しなかった。皮足袋は耐久性にすぐれ、つま先を防護し、なおかつ柔軟で動きやすいために合戦や鷹狩などの際に武士を中心として用いられたが、戦乱が収まるにつれて次第に平時の服装としても一般的に着用されるようになった。」

という。
 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の八句目に、

   かきなぐる墨繪おかしく秋暮て
 はきごゝろよきめりやすの足袋  凡兆

の句があるように、元禄の頃にはメリヤスの足袋も一般化してきた。
 地雪駄は、きもの館創美苑のサイトの「きもの用語大全」によると、

 「江戸でつくられた「雪駄」のことです。貞享(1684~1687)ごろまでは、「穢多(えた)雪駄」のことをいい、真竹の皮の表に馬皮の裏をつけたもので、下品とされました。」

という。革足袋も地雪駄も動物の皮が用いられている辺り、その種の人たちを連想させたのかもしれない。災害で死んだ家畜などの処理に出動していたか。
 二十二句目。

   革足袋に地雪駄重き秋の霜
 伏見あたりの古手屋の月     芭蕉

 「古手屋(ふるてや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 古着や古道具などをあきなっている店。古着屋、古道具屋など。古手店。また、それを職業にしている人。」

 革足袋も地雪駄も元禄の頃には時代遅れになり、伏見あたりの古道具屋に行くとあるというイメージだったか。
 二十三句目。

   伏見あたりの古手屋の月
 玉水の早苗ときけば懐しや    岱水

 玉水は井出の玉水で、古来山吹と蛙が詠まれてきた。

 かはづ鳴くゐでの山吹ちりにけり
     花のさかりにあはましものを
                よみ人しらず(古今集)
 山吹の花咲きにけりかはづ鳴く
     井手の里人いまやとはまし
                藤原基俊(千載集)
 山城の井手の玉水手に汲みて
     たのみしかひもなき世なりけり
                よみ人しらず(新古今集)
 山吹の花の盛りになりぬれば
     井手の渡りにゆかぬ日ぞなき
                源実朝(金塊集)

など多数ある。伏見より五里ほど南にある。
 伏見の早苗については『連歌俳諧集』の注に、

 伏みつや沢田の早苗とる田子は
     袖もひたすら水渋つくらん
                藤原俊成(夫木抄)
 植ゑくらす伏見のたごの旅寐には
     早苗ぞ草の枕なりける
                後法性寺入道関白(夫木抄)

の和歌が引用されている。
 この場合の「なつかし」は心惹かれるという意味だろう。伏見の早苗も歌に詠まれていたが、井出の玉水の早苗というと山吹にかじか蛙の声のする美しい田園風景が想像される。
 二十四句目。

   玉水の早苗ときけば懐しや
 我が跡からも鉦鞁うち来る    嵐蘭

 鉦鞁は鉦鼓のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 (「しょうご」とも)
  ① いくさで、合図などに用いるたたきがねと太鼓。
  ※続日本紀‐霊亀元年(715)正月甲申「陣二列鼓吹騎兵一。元会之日。用二鉦鼓一自レ是始矣」 〔漢書‐東方朔伝〕
  ② 雅楽に使う打楽器の一つ。青銅または黄銅製の皿形のもので、釣枠(つりわく)につるし二本の桴(ばち)で打つ。野外舞楽用の大鉦鼓(おおしょうご)、管弦の演奏・屋内舞楽用の釣鉦鼓(つりしょうご)、行進(道楽(みちがく))用の荷鉦鼓(にないしょうご)の三種がある。通常、釣鉦鼓をさし、鼓面直径約一五センチメートル。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「稲子磨(いなごまろ)賞(め)で拍子(ほうし)付く、さて蟋蟀は、鉦この鉦このよき上手」
  ③ 仏家で、勤行のときなどに打ちならす円形青銅製のたたきがね。台や首につるしたり、台座に乗せたりして用いる。
  ※今昔(1120頃か)一二「其の南に大皷・鉦皷各二を㽵(かざ)り立て」

とある。この場合は③の意味で、小さな撞木で叩く小型のゴングのようなものをいう。
 井出の玉川へ旅をすると、後ろから西国三十三所の巡礼者の鉦鼓の音が近づいてくる。
 二十五句目。

   我が跡からも鉦鞁うち来る
 山伏を切ッてかけたる関の前   芭蕉

 『連歌俳諧集』の注、『校本芭蕉全集 第五巻』の注ともに謡曲『安宅』によるものとする。これは謡曲『安宅』のストーリーを知らないと意味がよくわからないので、俤ではなく本説になる。
 安宅の物語は弁慶・義経の御一行十二人が山伏に変装して陸奥平泉の藤原秀衡の元に向かう途中、富樫泰家が臨時に設けた加賀の安宅の関を通ろうとしたところ、関の前に山伏の首が切って掛けてあり、これはそのまま通ろうとするとやばいということで弁慶が策を講じて、無事通過することになる。
 このとき義経を体の弱い下っ端の剛力に変装させ、後からよろよろついてくるようにさせたところから、「我が跡からも鉦鞁うち来る」は弁慶から見た義経のことになる。
 なお、安宅関はそのが長いこと所在がわからなかったことから、芭蕉の『奥の細道』の旅でも立ち寄った記述はない。
 二十六句目。

   山伏を切ッてかけたる関の前
 鎧もたねばならぬよの中     洒堂

 元禄の世は平和だったけど、源平合戦の頃の乱世を思えば、鎧がなくては生きていけないような世の中だったな、と思う。
 二十七句目。

   鎧もたねばならぬよの中
 付合は皆上戸にて呑あかし    嵐蘭

 「付合」はこの場合「つきあい」で人が寄り集まることをいう。つきあうこと。「つけあい」と読むと連歌や俳諧の用語になる。
 まあ、何となく上戸(大酒飲み)というと豪傑のイメージがあり、酔えば大口叩く。俺はいつか鎧を着るような身分になるんだ、と気炎を上げるところか。
 二十八句目。

   付合は皆上戸にて呑あかし
 さらりさらりと霰降也      岱水

 霰ふる夜は下戸だと寒いだろうな、というのは酒のみの思うところか。酒飲みも飲んでるうちはいいが、そのまま寝てしまうと明け方には動かなくなってたりして。気をつけよう。
 二十九句目。

   さらりさらりと霰降也
 乗物で和尚は礼にあるかるる   洒堂

 霰が降っても偉いお坊さんは立派な駕籠に乗って檀家を廻る。そこいらの乞食坊主とはわけが違う。
 三十句目。

   乗物で和尚は礼にあるかるる
 たてこめてある道の大日     芭蕉

 和尚は駕籠に乗って通過してしまうから、道端の大日堂は放ったらかしになっている。

2020年11月6日金曜日

 社会契約(social contract)だと内容を法制度として明文化するために多くの人に一律に広めることができるが、社会の変化に対し、いくら法改正をするとしてもなかなか容易でなく、社会情勢が大きく変わっても古い法律がいつまでも残存することになる。
 その根底にある思想についても、一度ある程度体系的な思想が出来上がってしまうと、時代が変わってもなかなか修正が利かない。
 戦後七十年以上にわたる急激な変化に対し、硬直した思想と法制度への不満が、今あたかも民主主義が時代遅れであるかのようなムードを生み出していて、中国やロシアはそこに付け込もうとしている。
 社会の根底は不断の個々の取引(deal)の繰り返しで、常に流動する。本来それを補完し、公正にするためのものだった社会契約(social contract)が独り歩きしてしまわないように、必要な調整をしなくてはならないし、ちょうどその時期に来ていた。
 外交に、とくに社会契約を共有しない中国、北朝鮮、イランなどに取引(deal)を持ち込む試みは面白かったけど、あれはトランプだからできたことで、継承は難しいだろう。取引(deal)は基本的に個と個のものだから、理屈ではない。終わってしまうのは残念だ。また硬直した思想の退屈な世界に逆戻りしそうだ。
 それでは「青くても」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   焙炉の炭をくだす川舟
 祝ひ日の冴かへりたる小豆粥   岱水

 小豆粥はウィキペディアに、

 「日本においては、小正月の1月15日に邪気を払い一年の健康を願って小豆粥を食べる風習がある。この15日は望の日なので、望粥(もちがゆ)とも呼ぶ。また、雪深い東北地方や北陸地方では、1月7日の七草粥のかわりとして小豆粥を食べる地域もある。
 小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。」

とある。「冴える」は冬だが「冴かへる」は冬の寒さが春になっても再び戻ってくることを言う。
 小正月の頃に焙炉は季節が合わないが、焙炉の炭の炭焼きなら冬枯れの落葉樹を用いるため、冬から春になる。小豆粥を炊くのにも使える。
 八句目。

   祝ひ日の冴かへりたる小豆粥
 ふすま掴むで洗ふ油手      嵐蘭

 小麦ふすまは今は健康食品だが、昔は手を洗うのに用いてたようだ。『連歌俳諧集』や『校本芭蕉全集 第五巻』の注にも祝いの日の髪結いの油で汚れた手を洗うとしている。
 九句目。

   ふすま掴むで洗ふ油手
 掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや 芭蕉

 この句は『去来抄』で位付けの例として挙げられていて、「前句、町屋の腰元などいふべきか。是を以て他をおさるべし。」とある。
 掛け乞いは年末の取り立てのことだが、「乞い」を「恋」にして「掛け恋」にしたら、借金取りも優しくなるのではないか。
 というわけで、髪を整えて手を洗って、ちょっとばかり色目を使えば、少しはお手柔らかに見逃してくれるのではないかと、町屋の腰元も思うところだろう。
 十句目。

   掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや
 翠簾にみぞるる下賀茂の社家   洒堂

 翠簾(みす)は「すいれん」と読めばコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の

 「〘名〙 みどり色のすだれ。立派に飾られたすだれ。あおすだれ。《季・夏》
  ※菅家文草(900頃)五・冬夜呈同宿諸侍中「幸得二高躋一臥二九霞一、通宵守禦翠簾斜」
  ※太平記(14C後)一三「翠簾(スイレン)几帳を引落して残る処無く捜けり」

になる。神社の御神体のある神域と俗界を分ける結界の意味もある。代々下加茂神社に仕えてきた社家の人は、冬ともなるとみぞれに打たれながら翠簾の上げ下げを行っていたのだろう。
 御簾というと王朝時代では姫君を隠すもの。掛け乞いを掛け恋にするのなら、翠簾の開け閉めをする社家の人にも王朝の姫君の元に通うような恋の心を持たせてみたいと、そう応じたのではなかったか。
 十一句目。

   翠簾にみぞるる下賀茂の社家
 寒徹す山雀籠の中返り      嵐蘭

 「寒徹(かんとつ)す」はそのまま読むと寒さが染み通るというイメージだが、『連歌俳諧集』の注は「一年中通しての意」としている。夏の季語の山雀(やまがら)が冬を貫徹して籠で飼われているなら一年中ということか。
 『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)によると、ヤマガラは鎌倉時代から芸を仕込まれていたという。

   山陵鳥(やまがら)
 山がらの廻すくるみのとにかくに
     もてあつかふは心なりけり
                 光俊朝臣(夫木抄)
 籠のうちも猶羨まし山がらの
     身の程かくすゆふがほのやど
                 寂蓮法師(夫木抄)

の歌があるが、江戸時代の宝永七年(一七一〇年)刊の『喚子鳥』(蘇生堂主人著)に、

 「くるまぎにつるべを仕かけ、一方に見ず(水)を入れ、一方にくるみを入る。常に水とゑをひかへするときは、かの水をくみあげ、又はくるみの方を引あげ、よきなぐさみなり」
 「籠の内、上の方にひやうたんに、ぜにほどのあなをあげ、つるべし。夜は其内にとどまるなり」

とあり、「廻すくるみ」が釣瓶上げの芸、「ゆふがほのやど」が瓢箪に穴をあけた巣で飼うことを意味していたと思われる。
 この『喚子鳥』には、輪抜けの芸のことも記され、

 「此鳥、羽づかひかろく、籠の内にて中帰りする。かるき鳥を小がへりの内、とまり木の上に、いとをよこにはり段々高くかへるにしたがひ、其いとを上に高くはりふさげ、のちには輪をかけ、五尺六尺のかごにても、よくかへり、わぬけするものなり。」

とある。山雀籠の中返りはこの芸のことと思われる。下加茂神社の門前でこうした芸が演じられてたのであろう。
 この輪抜け芸は昭和初期まであったのか昭和七年の「山雀」という唱歌に、

 くるくるまわる 目が回る
 とんぼう返り 宙返り

のフレーズがあるという。
 十二句目。

   寒徹す山雀籠の中返り
 正気散のむ風のかるさよ     岱水

 正気散は藿香正気散で古くからある漢方薬だという。風邪に効くというから、この句も正気散を飲んで風邪が軽くなったということなのだろう。
 輪抜け芸の山雀が軽く宙返りをするように、正気散飲んで元気ということか。
 十三句目。

   正気散のむ風のかるさよ
 目の張に先千石はしてやりて   洒堂

 島原の遊女高橋のことか。病気を押してなじみの客の前に出て千石の旗本でもコロッとなるが、実は正気散を飲んでいたという落ちにする。何か薬の宣伝みたいだ。正気散飲めば千石も夢じゃない!?
 十四句。

   目の張に先千石はしてやりて
 きゆる斗に鐙おさゆる      芭蕉

 芭蕉さんのことだからこれはお小姓のことにしたのだろう。千石取りの武将をも鐙(あぶみ)に泣いてすがってたらし込む。
 十五句目。

   きゆる斗に鐙おさゆる
 踏まよふ落花の雪の朝月夜    岱水

 踏むのももったいないような散った桜がびっしりと雪のように積もった朝月夜、花びらを巻き散らさないようにそろりそろりと歩く。
 十六句目。

   踏まよふ落花の雪の朝月夜
 那智の御山の春遅き空      嵐蘭

 前句の「踏まよふ」を那智の深い山の中で道に迷うこととする。景に転じた単なる遣り句のように見えるが、結構芸が細かい。
 十七句目。

   那智の御山の春遅き空
 弓はじめすぐり立たるむす子共  芭蕉

 弓はじめはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

とある。
 前句の「春遅き」を暮春ではなく、春が来るのが遅い、まだ寒い山里という意味に取り成して、正月行事にする。

 十八句目。

   弓はじめすぐり立たるむす子共
 荷とりに馬子の海へ飛こむ    洒堂

 「荷とり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「にどり」とも)
  ① 荷物を取ること。荷物を取り上げ、出発の用意をすること。
  ※永久三年十月廿六日内大臣忠通後度歌合(1115)「にどりせよ草の枕に霜おきて月出でば越えむ白川の関〈藤原宗国〉」
  ② 荷物の一部を盗み取ること。また、その盗人。
  ※雑俳・媒口(1703)「追々に荷取りの馬士がちらし髪」

 確かに普通、積荷を降ろすときには海に飛び込んだりしない。ちゃんと着岸して濡らさないように降ろすものだ。まだ海上にいる船から荷を降ろすのは泥棒と見ていい。
 ちなみに海上にいる船から他の船に荷物を移すのを「瀬取り」という。これも大抵小舟に乗って取りに行くので飛び込んだりはしない。
 前句の「すぐり立たる」を「立ちすぐり、居すぐり」のこととしたか。

2020年11月5日木曜日

  旧暦九月二十日。快晴。晩秋長月の俳諧はまだまだいけそうだ。
 次に取り上げるのは『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説のある「青くても」の巻で、『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注も参考にできる。
 興行は九月中旬から下旬とされていて日付ははっきりしない。深川芭蕉庵(第三次)での芭蕉、洒堂、嵐蘭、岱水の四吟歌仙興行で、洒堂編の『俳諧深川集』(元禄六年刊)に収録されている。このすぐ後には許六を迎えての「今日ばかり人も年寄れ初時雨 芭蕉」を発句とする興行も行わる。
 さて、その発句を見てみよう。

   深川夜遊
 青くても有べきものを唐辛子   芭蕉

 唐辛子は戦国時代に宣教師によって日本にもたらされたもので、日本でも栽培されるようになったが、日本では唐辛子を常食するような激辛文化は起こらなかった。薬として用いられるほかは、他の辛くないものとブレンドして薬味(今で言う七味唐辛子)としたり、味噌に混ぜて南蛮味噌にしたり、せいぜいピリ辛程度の刺激を楽しむだけだった。
 許六の『俳諧問答』を読んでた時に、

 「亡師五七日追善、木曾塚ニて、嵐雪・桃隣など集たるれきれきの百韻の巻に、
 青き中よりちぎる南蛮     乙州
 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹」

とあって、許六は南蛮だけでは唐辛子なのか黍なのかわからない、と言っていた。南蛮黍はトウモロコシのことであろう。ただ、当時南蛮だけで唐辛子を意味することもあった。南蛮味噌を作る時には青唐辛子が用いられていた。『連歌俳諧集』の注によると、青唐辛子を酒の肴にすることもあったようだ。
 青唐辛子は芭蕉の時代はよくわからないが、江戸後期には夏の季語となっている。
 句の意味は、折から唐辛子の赤く色づく頃で、それを芭蕉は「青くても有べきものを」と赤くならなくてもいいのにと言わんとしているみたいだ。
 猿蓑の「市中や」の巻に既に、

   戸障子もむしろがこひの売屋敷
 てんじゃうまもりいつか色づく  去来

の句がある。空き家になった売り屋敷に唐辛子が赤く色づいているのが侘しげに見えたのだろう。
 寓意のない本来の意味では、唐辛子が赤くなるのは侘し気で、青いままでも良かったのにということではないかと思う。寓意としては互いに年は取りたくないね、ということか。
 脇。

   青くても有べきものを唐辛子
 提ておもたき秋の新ㇻ鍬     洒堂

 ゲストが脇を詠むのは、洒堂、嵐蘭、岱水を同格と見て、この日の洒堂が特別なゲストではなかったということだろう。
 秋になって鍬を新調したけど、それが重く感じるというところに老いの悲しさが込められている。年は取りたくないという発句の寓意を汲んでのことだろう。
 第三。

   提ておもたき秋の新ㇻ鍬
 暮の月槻のこつぱかたよせて   嵐蘭

 こっぱ(木っ端)は製材するときに生じる小さな木の切れ端を言う。
 欅は硬くて木目も美しい高級木材で、神社仏閣にもよく用いられるという。庭先の欅の木を切って売って、その金で鍬を新調したのだろう。昼に切った欅の木っ端を夕暮れに庭の隅に掃き寄せる。
 四句目。

   暮の月槻のこつぱかたよせて
 坊主がしらの先にたたるる    岱水

 坊主がしらは坊主衆の頭のことか。ウィキペディアには、

 「坊主衆(ぼうずしゅう)は、江戸幕府の職名のひとつ。江戸城内で法体姿・剃髪で世話役などの雑事に従事した人をいう。「表坊主」、「奥坊主」と「数寄屋坊主」などがある。武士の1種であり、代々世襲されていた。初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子息で、年少の頃より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった。表御殿は女人禁制のため、女中の代わりとして雑用を取り仕切る。広大な場内を整理・管理する必要性から生まれた役職である。」

とある。
 江戸城内で欅の剪定でもしたのだろう。木っ端をきれいにに片づけたところを坊主頭に率いられて、将軍や老中、若年寄などが通行する。
 五句目。

   坊主がしらの先にたたるる
 松山の腰は躑躅の咲わたり    洒堂

 広い江戸城内には築山もあって、そこには躑躅が咲いていてもおかしくない。ここの連衆が実際に江戸城に入って見たわけではあるまい。想像だろう。
 六句目。

   松山の腰は躑躅の咲わたり
 焙炉の炭をくだす川舟      芭蕉

 「焙炉(ほいろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「製茶用の乾燥炉。もとは木の枠に厚手の和紙を張ったもので、蒸した茶の葉を炭火で乾燥させながら揉(も)んだ。《季 春》「家毎に―の匂ふ狭山かな/虚子」

とある。茶の産地の景色に転じる。
 『猿蓑』に、

 山吹や宇治の焙炉の匂ふ時    芭蕉

の句がある。

2020年11月4日水曜日

 アメリカの大統領はいつ決まるのかなー。
 まあそれはともかく今日はいい天気だった。
 それでは「雁がねも」の巻の続き。

 二裏。
 三十一句目。

   砧も遠く鞍にいねぶり
 秋の田のからせぬ公事の長びきて 越人

 「秋の田の」と来れば、

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
     わが衣手は露に濡れつつ
              天智天皇(後撰集)

であろう。「かりほ」と来るところを「からせぬ」と展開し、訴訟が長引いたからだとする。所領の境界争いなどで稲刈りに待ったがかかったのだろう。前句を裁判のために忙しくあちこち駆け回る人の姿とする。
 三十二句目。

   秋の田のからせぬ公事の長びきて
 さいさいながら文字問にくる   芭蕉

 訴訟は文書主義で行われるため、そのつど漢文で文章を書かなくてはならない。お坊さんか医者のところに文字を尋ねに何度も何度もやってくる。
 三十三句目。

   さいさいながら文字問にくる
 いかめしく瓦庇の木薬屋     越人

 木薬(きぐすり)は生薬(きぐすり)のこと。鬱金だとか地黄だとか決明子だとか漢方薬の原料はあまりなじみのない漢語が使われている。買いに行こうにも名前は聞いたが字がわからなかったりする。
 三十四句目。

   いかめしく瓦庇の木薬屋
 馳走する子の痩てかひなき    芭蕉

 「馳走」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① かけ走ること。走りまわること。馬を駆って走らせること。奔走。
  ※中右記‐永長元年(1096)八月六日「一寝之間車馬馳走道路」 〔史記‐項羽紀〕
  ② (世話するためにかけまわる意から) 世話をすること。面倒をみること。
  ※中右記‐永久二年(1114)二月三日「神宮之辺寄レ宿有レ恐、又無二先例一、只留二小屋一可レ待二天明一也、次畳三枚馬草菓子等少々所馳送也」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「いかめしく瓦庇の木薬屋〈越人〉 馳走する子の痩てかひなき〈芭蕉〉」
  ③ (用意のためにかけまわる意から) 心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。また、そのためのおいしい食物。ごちそう。
  ※ロドリゲス日本大文典(1604‐08)「ナニトガナ chisô(チソウ)イタサウト ゾンゼラル〔物語〕」
  ※記念碑(1955)〈堀田善衛〉「柚子風呂の馳走にあずかった」

とある。この場合は②の意味。
 店構えは立派な生薬屋だが、その子供はやせ細っている。まあ、漢方でも直せない病気はある。親としては八方手を尽くしているのだろうけど、そこは運命か。
 三十五句目。

   馳走する子の痩てかひなき
 花の比談義参もうらやまし    越人

 「談義参(だんぎまいり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 寺院に参詣して、法話を聴聞すること。
  ※俳諧・類船集(1676)盈「談儀参も遅参の人は縁にゐて聴聞するそ佗しき」

とある。
 寺院には桜の花も咲いているから、花見がてらの談義参りもいいものだ。ただ、子供がやせて病弱だとそれも果たせず、ただただうらやましい。
 挙句。

   花の比談義参もうらやまし
 田にしをくふて腥きくち     芭蕉

 仏法を聞いて殺生を戒めるように言われても、栄養の不足しがちな貧しい百姓さんにとってタニシは貴重なたんぱく源だ。まあ、そこは大目に見てほしいものだ。

2020年11月3日火曜日

  トルコの地震は他のニュースの陰に隠れちゃっているけど、死者がたくさん出て大変だ。イズミルというとヘラクレイトスのいたところだなあ。
 それでは「雁がねも」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   雲雀さえづるころの肌ぬぎ
 破れ戸の釘うち付る春の末    越人

 肌脱いで何をするかと思ったら、破れた戸を釘で打ち付ける。ようやく雪の溶けた雪国の景で、雪の重みで壊れた戸を直しているのかもしれない。
 二の懐紙に入る所で越人が二句続けて、ここから上句が越人、下句が芭蕉になる。
 二十句目。

   破れ戸の釘うち付る春の末
 みせはさびしき麦のひきはり   芭蕉

 麦の碾割(ひきわり)は石臼で荒く砕いただけの麦のこと。米と混ぜて炊く。
 ウィキペディアには、

 「麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき、水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。これを「えまし麦」といい、湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。
 現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠治郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。」

とある。今の麦飯は押し麦を用いるが、その前は碾割を用いていた。
 昔は粟や稗や黍などの雑穀を盛んに食べていたが、春も末となるとそれらは品薄になり代わりに穫れ初めの麦が並ぶようになる。
 二十一句目。

   みせはさびしき麦のひきはり
 家なくて服裟につつむ十寸鏡   越人

 服裟(ふくさ)は袱紗(ふくさ)でウィキペディアには「贈り物の金品などを包んだり、覆うのに使用する方形の布である」とある。
 十寸鏡(ますかがみ、まそかがみ)は真澄鏡とも書き、立派な鏡、澄んだ鏡という意味で、特に十寸という寸法には意味がないようだ。
 「家なくて」は「女三界に家なし」と言われてたように、幼くは親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うとされてきた。俳諧でも田氏捨女を別にすれば女性は苗字や姓で呼ばれることはなかった。夫婦同姓でも夫婦別性でもなく、女性は基本的に姓を持たなかったと言った方がいいのかもしれない。(田氏捨女は田氏の家に生まれ田氏に嫁ぎ、生涯田氏だったため例外的にそう呼ばれている。)
 ひきわり麦を売る粗末な家に嫁いできたのだろう。鏡は大事に袱紗で包んで肌身離さず持ち歩いていたか。
 二十二句目。

   家なくて服裟につつむ十寸鏡
 ものおもひゐる神子のものいひ  芭蕉

 前句の十寸鏡を神社の御神体としたか。霊が憑りついて死者の言葉を伝えるイタコのような巫女が、神具として鏡を持ち歩いていたのだろう。
 二十三句目。

   ものおもひゐる神子のものいひ
 人去ていまだ御坐の匂ひける   越人

 これは『源氏物語』葵巻の物の怪憑依の場面か。
 「御坐(おまし)」は貴人の居所で、そこで焚いていた護摩の芥子の香が人のいなくなった後でも匂い続けているのだが、同じ香が別の場所にいる別の人にもというところは省かれている。
 葵の上を神子に変えるのは本説付けの常で、そのまんまではなく少し変えることになっている。
 二十四句目。

   人去ていまだ御坐の匂ひける
 初瀬に籠る堂の片隅       芭蕉

 同じ『源氏物語』の玉鬘巻の初瀬詣での場面とも取れるが、王朝時代に初瀬詣でをする貴人の多かったので、特に誰のことでもないということで展開をしやすくしている。
 本説付けの後の逃げ句としては模範とも言えよう。
 二十五句目。

   初瀬に籠る堂の片隅
 ほととぎす鼠のあるる最中に   越人

 初瀬のホトトギスというと、

 郭公ききにとてしもこもらねど
     初瀬の山はたよりありけり
              西行法師(山家集)

の歌もあるが、鼠の走り回る中で聞くというところに俳諧がある。
 二十六句目。

   ほととぎす鼠のあるる最中に
 垣穂のささげ露はこぼれて    芭蕉

 ささげは大角豆という字を当てることも多い。かつては赤飯に用いられていたが、今は小豆が使わることが多い。初夏に種を蒔き、夏の終わりには収穫できる。初秋で露の降りる頃にはホトトギスも鳴き止む。
 二十七句目。

   垣穂のささげ露はこぼれて
 あやにくに煩ふ妹が夕ながめ   越人

 垣穂の向こうには恋に悩む少女がいる。垣間見たいものだ。
 二十八句目。

   あやにくに煩ふ妹が夕ながめ
 あの雲はたがなみだつつむぞ   芭蕉

 雲をいとしい人に見立てるのだが、他にも泣かせている人がいそうだ。
 二十九句目。

   あの雲はたがなみだつつむぞ
 行月のうはの空にて消さうに   越人

 『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『源氏物語』夕顔巻の、

 山の端の心もしらでゆく月は
     うはのそらにて影や絶えなむ

の歌を引用している。『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注も同じ。
 夕顔の歌は源氏の君に怪しげな空き家に連れてこられて不安な気持ちを西へ行く月に喩えて、このまま消えてしまうような気がしますというもので、その後の展開を暗示させるものだった。
 ただ、この句では山の端へ消える(西、つまり浄土へ渡る)というのではなく、雲に隠れるだけだ。その雲は誰の涙が包むのかと、自分の悲しみではなく一般的な恋の悲しみに作り直している。
 俳言もなく、連歌のような付け句といっていいだろう。
 三十句目。

   行月のうはの空にて消さうに
 砧も遠く鞍にいねぶり      芭蕉

 月の消えるのを明け方のこととする。さっきまで夜中の砧の音を聞いていたのに、うとうとしている間に夜が明けてしまったか、月は西の空に沈もうとしている。
 戦場へ向かう兵士だろうか。長安の砧の音を思い起こし、それを夢に見たのかもしれない。

   子夜呉歌     李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

の夫の側からの句であろう。