2022年1月31日月曜日

 きょうは旧暦師走の二十九日で小晦日。明日は旧正月になる。
 沖縄の事件はなぜかマスコミや人権派と称する人達が沈黙している。ヤンキーを差別しているのが誰なのかがよくわかる。人権派は左翼が利用できる反政府暴動しか支持しない。海の向こうの黒人には声を上げても、日本人の人権には声を上げない。
 日本ではヒットラーの喩えはかなり頻繁に用いられる。日本は全員一致主義というのがあって、それを無視すると過半数以上の賛成があっても独裁者だのヒットラーだの言われる。政治家に対してこれが用いられるときは、大概少数派の左翼の意見が通らない時だ。
 多数決=独裁。少数派の自分たちの意見で政治を行う=民主主義。これが左翼の論理だ。
 今回の菅(かん)さんはそれとちょっと違っている。まあ、維新の会自体そんな多数派でないし、そんな力を持っているわけじゃないからね。大阪都構想も二回も住民投票で否決されているし。
 その非力な政党を非難するのに、「弁舌の巧み」を理由にヒットラーだなんて言っている。演説が上手い人は皆ヒットラーなのかい。
 日本はナチスドイツの同盟国だったし、何よりも国内のユダヤ人が極めて少ない。山本七平の『日本人とユダヤ人』だって、本物のユダヤ人がいないから書けたというもんだろう。
 だから、ナチスに対するタブーはかなり世界でも低い方だろう。左翼の人達が安易にヒットラーの喩えを使うのは、そのせいなんだろうな。
 まあ、立件の人達がみんな菅さんをかばっているところを見ると、ヒットラーに喩えることが悪いという認識はまったくないんだろうな。自分の意見が通らないとすぐに「ヒットラーだーーーーっ」て騒ぎだす。まあ、これが日本の人権派という人たちだ。
 あと、マスコミは連日のように値上げの報道をしている。日本では物価上昇とデフレが同時に起きているようだ。この前米が五キロ千円になってたと喜んでたんだが。大根一本も白菜一個も百円で買えるし、豚肉も百グラム百円を切っている。これで鍋を作るのが今の楽しみ。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「脇句
 ひこからみといふ事脇に有。たとへば、藤などの発句に、松を縁にして這かかる物なり。然間、一句の内に、松などを取合する也。唯、花を賞翫の発句に植物添事、いらぬ事也。又、口伝大かがみ、小かがみ、病者の所にて、蔦などすべからず。山に霞霧などつつみたるやうにせず。かやうの事也。」(俳諧秘)

 「ひこからみ」はよくわからないが、「ひこばえ」と同系統の言葉か。「ひこばえ」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「ひこばえ」の解説」に、

 「植木の管理上の用語。樹木の根元にある不定芽から出る徒長枝のことで、一名やごともいう。成長力が旺盛(おうせい)なため幹の肥大が悪くなるので、ひこばえが伸び出したらすぐに切除することが望ましい。「ひこ」は曽孫(ひこ)からきた語。やごはその愛称で、地方によってはやご吹きともよぶ。[堀 保男]」

とある。ここから推測すると、余計な枝が生えてきて絡みつく、という意味と思われる。
 藤の発句に松を添えると、松の木に絡んだ藤という趣向になる。

 紫の藤さく松のこすゑには
     もとの緑もみえずぞありける
              源順(拾遺集)
 みなそこの色さへ深き松が枝に
     ちとせをかねてさける藤波
              よみ人しらず(後撰集)

などの歌がある。
 ただ、一応礼儀としては、脇は発句の主を立てなければいけないので、藤に松と張り合うべきではないということになる。
 「然間、一句の内に、松などを取合する也。」というのは、松に絡まる藤の趣向発句の主が意図しているなら、発句の中に藤と松を取り合わせるはずなので、藤に松を読んでないという時点で藤に松の趣向の句ではないと判断すべき、ということだろう。
 発句が花であれば、別の花を出して張り合うものでもない、というのも基本的には発句の主を立てろ、ということで、やはりマナーの問題になる。特に発句が大名・家老などの偉い人である場合は注意ということだろう。
 「口伝大かがみ、小かがみ」は不明。病者に蔦はやはり縁起悪いということだろう。
 山に霞霧も、山の美しい景の発句に、それを霧で隠すような脇はいかがなものかということ。
 これも天の香具山に霞みたなびくは有りのように思えるが、ならば発句に天の香具山の霞が詠まれるべきで、それがないなら別の趣向と判断しろということだろう。
 仮に藤に松、香具山に霞みの松と霞を詠み損ねたなら、脇でそれを補うとその不備を咎めたことになり、それも避けるべきだろう。

 「第三て留常の事也。らん、もなしに留り、三ツは習ひ有。
 発句、脇、うたがひか、未来か、下知ならば、右三ツの留めくるしからず。発句、脇、落着の時はせぬ也。是習也。」(俳諧秘)

 て留はどんな時でも用いることができるが、「らん」「もなし」「に」の三つは制限があり、発句、脇、落着の時は用いない、としている。
 第三の留め字が発句に拘束される、というのは諸説あったのか、宗因の『俳諧無言抄』には、

 「又うたがひの切字の発句の時、第三はね字ならず。うたがひの句は二句去ゆへ也。
 又、うたがひの発句に、脇にこしのてもじ有は、第三はてとまりもはね字もならぬやうの時、もなしとまりにとまり也。
 さあらずともむまれ付たるにとまりも、なしとまりならばくるしからず。
 又文字にてとむる事有也。惣じてむかしは句の留りの沙汰なし。」

とある。発句に疑いの切れ字(「や」など)があれば、第三で「らん」留はしない。こちらの方がまだ分かりやすい。
 いずれにせよ連歌の時代にはこういう細かいルールはない。
 松意編『談林十百韻』を実際に見てみよう。

   第一百韻
 されば爰に談林の木あり梅の花  梅翁
   世俗眠りをさますうぐひす  雪柴
 朝霞たばこの煙よこおれて    在色

 発句、脇ともに落着で第三は「て」留になる。

   第二百韻
 青からし目をおどろかす有様也  松臼
   磯うつなみのその鮒鱠    ト尺
 客帆の台所ふねかすみ来て    一鐵

 発句、脇ともに落着で第三は「て」留になる。

   第三百韻
 いさ折て人中見せん山桜     雪柴
   懐そたちの谷のさわらび   正友
 鼻紙の白雪残る方もなし     松意

 発句は未来で「し」留になる。

   第四百韻
 郭公来べき宵也頭痛持      在色
   高まくらにて夏山の月    松意
 凉風や一句のよせい吟ずらん   正友

 発句、脇ともに落着で第三は「らん」留になる。

   第五百韻
 くつろぐや凡天下の下涼み    ト尺
   民のかまどはあふぎ一本   松臼
 はやりふし感ぜぬ者やなかるらん 一朝

 発句に疑いの「や」があり、第三に「や」とあって「らん」留になっている。これは「又うたがひの切字の発句の時、第三はね字ならず。」に反している。
 ということで、宗因門の方でもそんなに厳密なものではなかったのではないかと思われる。

2022年1月30日日曜日

 この頃雲一つない冬空の日がなくて、晴れても雲が多くなった。今日は富士山が見えなかったし、これが春なのかな。
 そういえば今日は早咲きの紅梅だけでなく、白梅が咲いているのを見た。
 旧暦だと冬はあと二日残すのみ。
 蓬生巻の最後の所で、「今またもついであらむ折に、思ひ出でて聞こゆべきとぞ。」のところを「またいつかスピンオフの話でもあれば、その時に思い出して語っていきたいと思います。」と訳したのは、まあ冗談というか遊びが過ぎたかもしれないが、女房語りというのが近代文学のような孤独な自己表現ではなく、あくまで女房同士の会話の中で、こういう話が聞きたいな、みたいなところで生まれていたんじゃないかと思う。
 宇治十帖もそういう続編のリクエストに答えた後日談ではなかったか。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「大廻し之句とて、
 五月は峰の松風谷の水

 右大廻し共、三段共、三明の切字共云也。やの字をくはへてきひて書也。十八てにをはの格也。

 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん

 右の格也。上五文字にて、し、やと疑ひ、扨はねるにてにをはなり。」(俳諧秘)

 大廻しは第十二と三段切発句は第十と被っている。
 ここで大廻しとして例に挙げている発句、

 五月雨は峰の松風谷の水

は、第十の三段切発句、

 花はひも柳は髪をときつ風
 織女は何れの薄ぎり雲の帯    則常

と同じような分の続き方で、大廻しと三段切の区別は混乱していたか。
 前にも述べたが、梵灯『長短抄』では、

 「発句大廻ト云 在口伝、
   山ハ只岩木ノシヅク春ノ雨
   松風ハ常葉ノシグレ秋ノ雨
   五月雨ハ嶺ノ松カゼ谷ノ水
  三体発句
   アナタウト春日ノミガク玉津嶋」

とあり、「五月雨は」の句はこれだと大廻しで合っていることになる。
 「十八てにをは」は「切れ字十八字」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切字十八字」の解説」に、

 「〘名〙 連歌、俳諧で秘伝とする一八語の切れ字。「かな・けり・もがな・らん・し・ぞ・か・よ・せ・や・れ・つ・ぬ・ず・に・じ・へ・け」の一八語をさす。このうち、「せ・れ・へ・け」は動詞の命令形語尾、「し」は形容詞の終止形語尾、「に」は副詞「いかに」であり、他は助動詞と終助詞である。室町中期に成立し、江戸時代まで秘伝とされた。十八の切れ字。〔白髪集(1563)〕」

とある。出典は紹巴編『白髪集』になっている。大廻し、三段切はこの十八と同様の格になる。
 梵灯『長短抄』では「かな、けり、か、し、や、ぬ、むハネ字、セイバイノ字、す、よ は、けれ」が「発句之切字」として挙げられている。

 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん

の二句については、「第十一 はね字とめ発句」と被っている。

  「発句のけり留之事

 神無月紅葉も春に成にけり
 あまた度来てねこそげに喰にけり

 右之格也。七文字にて、にとをさへ、下にてけりと留るなり。」(俳諧秘)

 けり留については土芳の『三冊子』「くろさうし」には、

 「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

とあり、あまり好まれなかったようだ。芭蕉の、

 道のべの木槿は馬にくはれけり  芭蕉

の名作はあるが、ここでも「にとをさへ」は守られている。

 ゑびす講酢売に袴着せにけり   芭蕉(続猿蓑)

も同様、「に」と押さえて「けり」で結んでいる。

  「第三 もなしの事

 木の葉ちる分入山の道もなし

 此格也。発句のもなしは、なき事を有様に云たて、第三のもなしは、有事を有様に云也。此替なり。

 朝雰に海辺とならぬ山もなし

 右に云、なき事を有様にいひなす格也。はなし留も同前。はも通韻なり。」(俳諧秘)

 朝雰は「あさぎり」。
 発句は、木葉が散って分け入る山に本当は道があるのだけれど、落葉に埋まって道がなくなっているという意味で、「道がない」ということは「ない」のだけど、「ある」と言い立てている。
 第三の方は山の上から見下ろす景色だろう。どの山の中腹までも雲海が広がり、雲海の海辺とならない山もない、となる。海辺はあくまで雲海の海辺で、本当に海辺に山があったわけではない。
 「応仁二年冬心敬等何人百韻」の発句、

 雪のをる萱が末葉は道もなし    心敬

の場合は、萱(かや)の葉の先は雪が乗っかって折れて倒れて、それが道を塞いでしまっているというもので、道がある者がなくなってしまったとなる。なき事を有様に言い為す格になる。
 あるものをあるというだけでは、一つの状態を提示しただけで、発句にふさわしい完結性がなく、ないものをあえてあるというところに、一つのはっきりした意思が働き「もなし」が単なる状態ではなく、強く言い切る形になる。
 「もなし」留は連歌発句ではわりと普通に見られる。ただ「はなし」留の句はかなり珍しいのではないかと思う。

  「祝言の事
 発句、脇、第三の仕様、梅、花、柳、椿、松、若葉の末をかかへたる事可然。
 祝言の時、松は千代と限を定事心得有べし。花をうへ、小松を植初る心持能なり。
 但、病人などの所望にて発句するには、椿、卯木をせぬ也。又、つづきのあしきを嫌。」(俳諧秘)

 これはマナーの問題になる。祝言ならお目出度いのを読むのが普通で、松と言えば千代の松の常緑で枯れることのないのをことほぎとする。花を植えるのも、小松を植えるのも、未来の繁栄を願うもので、祝言にふさわしい。
 病人がいる場合は、椿は首がぼとっと落ちて縁起悪い。卯の花も仏様の花というイメージがあったか。

2022年1月29日土曜日

 沖縄のヤンキー三百人の警察署襲撃は日本版のジョージ・フロイド事件か。日本ではヤンキーが差別されていて、歩いているだけで職質され、犯罪者扱いされたりする。日本の黒人といっていいだろう。ヤンキー・ライブズ・マター。
 北京オリンピックと東京オリンピックが違うのは、東京の時はデルタ株で、それ以前のものよりは感染力が高かったとはいえ、従来の感染防止体制で何とか凌ぐことができたが、オミ株の感染力は半端ではない。
 選手が現地に行くことはできても、無事に競技に出場できるのかどうか。有力選手の続々欠場では見ても面白くない。
 あと、こやん源氏の『蓬生』をアップしたのでよろしく。一夫多妻が女性の生活保護のシステムの側面を持っていたことがよくわかる。

 さて、『俳諧秘』をもう少し読んでみようか。
 まず、「或人之説 連俳十三ケ条」の「一 賦物の事」から。

  「或人之説 連俳十三ケ条
 一、賦物の事、六義の第一なり。則賦之字をクバルトヨム。百韻の全体此一字より起るなり。
 此儀は神道より出たる也。しかるにより、むさと云べき事ならず。連は清浄なるゆへ、必賦物取也。俳は穢れたる事も云出すゆへ、とらざるなり。俳賦物取時は、一座清浄也。」(俳諧秘)

 賦は詩の六義の一つで、詩の六義は『詩経』大序に「故詩有六義焉。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。」とある。
 このうち「風」「雅」「頌」は詩経の章のタイトルになっているように、風は諸国の民謡、雅は宮廷での儀式の歌、頌は祖霊に捧げる歌と、歌われる場面で分けられている。ここから「風雅」というのは民謡と宮廷の歌とを合わせていう言葉になる。「風流」はもっぱら庶民の芸能やその趣向やトレンドなどを表すことになる。俳諧も「風流」と呼ばれるのはこのためだ。
 「賦」「比」「興」は詩の手法による分類で、「賦」は直接的に相手に語りかける体、「比」は風刺などでよく用いられる、そのものではなく別の物に喩えて語る体、「興」は他の物から言い興す体を言う。
 「賦」は後に詩よりもやや散文的な文章として独立したジャンルになって行った。
 西洋かぶれの文学者は賦=直叙、比=比喩、興=隠喩と西洋の概念に単純に当てはめてゆくことが多いが、興に関しては正確ではない。
 一応『中国古典文学大系15 詩経・楚辞』(目加田誠訳、一九六四、平凡社)の解説を引用しておく。

 「賦・比・興のうち、賦と比とはあまり問題はないけれども、この興というものは、『詩経』の詩の特色でもあり、非常に多くの問題をもっている。興という言葉はもともと起こすという意味の言葉で、詩の興は、はじめにあることを言って、それによって主題を引き起こす方法である。たとえば関々と連れ鳴く雌雄の鳥の睦まじさを始めに言って、すぐれた若い人と美しい乙女とが似合いの夫婦であることを言い起すようなものである。比喩ではなく、一つの発想法でもあり、この形が三百篇のおよそ半ばを占めている。」(中国古典文学大系15 詩経・楚辞)

 「関々と連れ鳴く雌雄の鳥の」は『詩経』国風の冒頭の詩で、

 關關雎鳩 在河之州
 窈窕淑女 君子好逑
 仲睦まじく鳴き交わすみさごが河の中州にいる。
 奥ゆかしく清らかな女性を君子は好んで伴侶とする。

から始まる。
 現代でもJ-popでもこうした手法は時折用いられる。THE BOOMの『島唄』(宮沢和史作詞作曲)では「でいごの花がさき/風を呼び嵐が来た」で始まり、花が咲いては嵐に散ってゆく悲しみを引き出し、そこに「ウージの森であなたと出会い/ウージの下で千代にさよなら」と展開させ、恋の情を引き出して行く。
 これに倣って『古今和歌集』仮名序には「うたのさま、むつなり。」とあり、「そへうた、かぞへうた、なずらへうた、たとへうた、ただことうた、いはひうた、」の六つが列挙されている。

 「そもそも、歌の様、六つなり。からの歌にも、かくぞあるべき。
 そのむくさの一つには、そへ歌。おほさざきのみかどを、そへたてまつれる歌、

 難波津にさくやこの花冬ごもり
     今は春べとさくやこの花

と言へるなるべし。
 二つには、かぞへ歌、

 さく花に思ひつくみのあぢきなさ
     身にいたつきのいるも知らずて

といへるなるべし。[これは、ただ事に言ひて、物にたとへなどもせぬもの也、この歌いかに言へるにかあらむ、その心えがたし。五つにただこと歌といへるなむ、これにはかなふべき。]
 三つには、なずらへう歌、

 君に今朝あしたの霜のおきていなば
     恋しきごとにきえやわたらむ

といへるなるべし。[これは、物にもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この歌よくかなへりとも見えず。たらちめの親のかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
 四つには、たとへ歌、

 わが恋はよむとも尽きじ荒磯海の
     浜のまさごはよみつくすとも

といへるなるべし。[これは、よろづの草木、鳥けだものにつけて、心を見するなり。この歌は、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへ歌とおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。須磨のあまの塩やくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この歌などやかなふべからむ。]
 五つには、ただこと歌、

 いつはりのなき世なりせばいかばかり
     人のことのはうれしからまし

といへるなるべし。[これは、事のととのほり、正しきをいふ也。この歌の心、さらにかなはず、とめ歌とやいふべからむ。山桜あくまで色を見つる哉花ちるべくも風ふかぬ世に。]
 六つには、いはひ歌、

 この殿はむべも富みけりさき草の
     みつ葉よつ葉にとのづくりせり

といへるなるべし。[これは、世をほめて神につぐる也。この歌、いはひ歌とは見えずなむある。春日野に若菜摘みつつよろづ世をいはふ心は神ぞしるらむ。これらや、すこしかなふべからむ。おほよそ、六くさにわかれむ事はえあるまじき事になむ。] 」

とある。
 そへうたが頌、かぞへうたが賦、なずらへうたが興、たとへうたが比、ただことうたが風、いはひうたが雅に相当する。
 ただ、連歌の賦物をこの「賦」に擬えるのはやや強引な感じもする。単に賦が「捧げる」という意味を持つ所から、一巻を神仏への貢ぎ物に凝らすためのものと考えた方が良いように思える。
 連歌会は神社仏閣などで興行されることが多かった。「花の下連歌」というのも、公園などのなかった時代には寺社が花見の場であり、花の下で連歌興行を行うというのは、そのまま寺社での興行であり、連歌は神仏を楽しませるための貢ぎ物だった。
 「此儀は神道より出たる也」とあるように、神仏は本地垂迹の関係にあり、神仏に捧げると言っても、直接的には垂迹である神の方に捧げるもので、連歌会は神事の形式を取ることで、神聖なものとして公界でそれを興行する特権を得ていたのではないかと思う。
 たとえば「賦山何連歌」と言った場合は「やまびと」「やまどり」「やまかぜ」「やまほととぎす」「やまみち」などの雅語を捧げるわけだが、これも神の言葉を用いるという意味があっただろう。
 「しかるにより、むさと云べき事ならず」の「むさ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「むさくるしい。不潔である。心ぎたない。卑しい。
  出典西鶴織留 浮世・西鶴
  「塩籠(しほかご)にむさき事どもして」
  [訳] (油虫どもが)塩籠に不潔なことごとをして。」

とある。
 その派生語か、「むさと」もweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

  ①むやみに。やたらに。
  ②うっかりと。
  出典国性爺合戦 浄瑠・近松
  「むさと鉄砲はなすな」
  [訳] うっかりと鉄砲をはなすな。
  ③取るに足らない。

とある。いずれも用例が江戸時代のものだ。季吟や芭蕉の時代の俗語であろう。「無作」が語源か。
 ただ、この場合の「むさ」という言い方は、どこか現代の「うざっ」つまり「面倒だ、わずらわしい」の用法に似ている。あるいは、「うざい」は「むざい」で「むさし」から来たのかもしれない。「うめ」「むめ」、「うま」「むま」の交替と同じ。
 「連は清浄なるゆへ、必賦物取也。俳は穢れたる事も云出すゆへ、とらざるなり」というのは、興行の会場からして俳諧は私邸で行われることが多く、必ずしも神域ではなかったからではないか。
 いずれにせよ、俳諧は神仏に捧げるという意味が薄れてしまったが故に、賦物を取らなくてもいい、というふうになったのだろう。

 「依其、長頭丸風に、発句花なれば華の俳諧、月なれば月の俳諧、と端書する也。
 是は、一字露顕の格也。」(俳諧秘)

 長頭丸は貞徳のこと。「一字露顕」は「二字反音」「三字中略」「四字上下略」と並ぶ賦物で「山何」などと同様に扱われる。発句の中の一文字を捧げるという意味になる。

 「一、発句は陽也。天地開初一陽起る也。然るにより、如何にも長高く云上也。
 脇は又、陰也。陰は不断陽に籠りて有り故、陰字をする也。陰は陽にしたがふ物なれば、発句により、取寄、天地和合すべし。
 第三は、天地極て人の道始也。然るにより、発句、脇に目をかけず、又、発句する心地にすべし。天地人の三才也。元朝の三ツ物と申も、天地人の三才也。
 四句目、八句め、かろがろとする也。面八句は八卦にかたどる。八ツは数の字たる始也。裏面有事は陰陽なり。四折は四季をかたどる。百韻も、上五十韻は陽、下五十韻は陰なり。」(俳諧秘)

 これは後付けの理由というか、方便と見た方が良いのではないかと思う。合掌をするのは、お手々の皺と皺と合わせて幸せになれるからだ、という類のものに近い。両の拳を胸の前で合わせると、指の節と節が合わさるから不幸せになるという。(これはフィスト・バンプのことではなく、喧嘩をするときの威嚇の仕草をいう。)
 面八句の進め方をわかりやすくする効果はある。

2022年1月28日金曜日

 『曽我物語』を読み終わった。最後まで読むなら、この物語は遊女のお虎さんが語り伝えたもの、ということで、女芸人によって伝播されたと言われているのもわかる。まあ、諸説ありだが。
 まあ、それだけでなく、物語を楽しむというのはいつの世でも女性が多い、ということもあっただろう。最初の方に相撲大会があって、裸の男たちがぶつかり合う所を想像して、きゃーだったんだろうな。
 『さんせう太夫』にも「女に氏はないぞやれ」とあったように、女性にとって仇討は男が勝手にやるもので、正直迷惑なものだったのだろう。それを十郎と五郎の今でいうBLめいたものにして楽しんでいたのか。
 もちろん現実には迷惑でも、物語の世界の仇討なら、その快楽を共有しないという法もあるまい。十郎五郎の無双も当然ながら一番の見せ場だ。
 そんな巷に伝わる物語を、後に箱根権現か時宗の僧が漢文で『真名本』に書き残し、その翻訳で『仮名本』として今日に伝わる、といったところか。
 こんな古い大衆向けの物語がきちんと保存されているというのも、日本の文化の底力なのではないかと思う。ハイカルチャーよりも大衆文学の方が凄いのが日本だ。それは今でも変わらない。

 それでは「俳諧秘」の続き。

 「第十九」の末尾に、

 「是マデハ第十九ノ口義ナリ。ココニ第二十二出ル。此間闕文歟。不知筆者云々。」(俳諧秘)

とあり、欠落があって第二十二に飛ぶ。
 巻頭の目次を見ると、「第二十 句数之事并去嫌」「第二十一 糸遊霞長閑の事」が欠落している。

 「第二十二 春秋両字添季持句之事
 たとへば、春の夕暮、秋の中空、云付たる云に不及。春の築山、秋の泉水は、春山秋水と云へる文字もあれば、不苦。
 又、春の臺、つまりたるやうなれ共、春臺と云字あれば、不苦。
 詩之題に春女之恨と云へるありといへ共、春の女一向にいはるまじ。詩之題の心は、女は陰気をつかさどるゆへ、春の陽気に感じて、恋暮の心も起るといふ心也。おもひ切つつ世をそむく秋、かやうの句も秋といふ字。」(俳諧秘)

 春夏秋冬の文字は、談林の頃から放り込みで、無季になるような付けに季節の句にするののに用いられてきたが、これはそのことへの苦言というべきものであろう。
 基本的には古典に典拠のない言葉は認めないということだ。
 秋の夕暮れは有名な三夕の歌にもある。

 寂しさはその色としもなかりけり
     槙立つ山の秋の夕暮れ
              寂蓮法師
 心なき身にもあはれは知られけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮れ
              西行法師
 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮れ
              藤原定家

 夕暮れというと『百人一首』の、

 むらさめの露もまだひぬまきの葉に
     霧たちのぼる秋の夕暮れ
              寂蓮法師

の歌もよく知られている。
 春の夕暮れというと、それほど有名な歌もないが、

 かげたえて下行く水もかすみけり
     浜名のはしの春の夕暮れ
              藤原定家(拾遺愚草)
 いたづらに花や散るらむたかまどの
     をのへの宮の春の夕暮れ
              世尊寺行能(続後撰集)

など、和歌に詠まれている。
 「秋の中空」も、

 わたつうみの沖つしほあひに宿る月の
     よるかたもなき秋の中空
              宗良親王(李花集)

の歌がある。
 「春の築山、秋の泉水」は、漢詩にしばしば見られる「春山」や、『荘子』「秋水編」など成語になっている。
 「春臺」も、

   苑中遇雪應制   宋之問
 紫禁仙輿詰旦來 青旂遙倚望春臺
 不知庭霰今朝落 疑是林花昨夜開

に用例がある。
 「春女之恨」という詩題は、漢詩の題詠の時にしばしば用いられていたか。春という言葉は、今でも春情、売春など、性的な意味を持つ。
 春に恋して秋に別れ、なんてのも近代の歌謡曲のお約束になっている。
 その意味では「春の陽気に感じて、恋暮の心も起るといふ心也。おもひ切つつ世をそむく秋」も春秋の本意にかなうものとしてOKということになる。

 この後目次には「第二十三 つつ留り之事」「第二十四 に留り并にて留り」「第二十五 てにをは之事」「第二十六 故事取用様」「第二十七 親句疎句之事」「第二十八 篇序題曲流之事并用付後付」「第二十九 前句もたれ前句をかる句」「第三十 霊形通体并四手付」「第三十一 六義之事」「追加 書物題号之事」とあるが、これも欠落している。
 この後は「或人之説 連俳十三ケ条」になる。
 「或人之説 連俳十三ケ条」は十三条に分けて書かれているわけではない。「一 賦物の事」「一 発句は陽也」の二つが一応条になっているが、それ以降は一度バラバラになってテキストを寄せ集めたものか。途中「以下白紙」とあって「百人一首」に続き、ふたたび「以下白紙」で終わっている。
 そのあとに「相伝一大事被切紙弐拾五ケ条」があり、五ケ条があるが、そのあと二つ目の「第五」があり、「第二十五」まで続く。
 そのあとに、「外に口伝之儀、書加へ侍る。七ケ条如件」の七ケ条がある。
 そのあとに、別の十七条があり、十八以下が省略されて終わっている。
 全体に口伝の断片を寄せ集めたものといえよう。

2022年1月27日木曜日

 『曽我物語』の仇討とその事後処理の場面まで読んだ。今日の我々とは違うのは、不平等を前提としたルールが存在することだ。
 不平等は常に恨みを生む。前に比喩で言ったような、定員の限られた船に全員が乗れないという社会では、誰が乗るべきか、乗れなかった者はどう振舞うべきか、厳密なルールがなくてはならない。そうしないとわれ先に乗ろうとして殺し合いになる。
 多分、一番重要なのは、船に乗れた側のものに、乗れなかった者の無念の分を相殺できるほどの責務を負わせる、ということではなかったかと思う。
 そのルールが一度ほつれると、恨みの連鎖が生まれる。恨みの連鎖を残さないための暗黙のルールがそこにあった。ひとたび仇討が起きてしまったとき、それが新たな仇討を生まないように、その連鎖を断っていくにはどうすればいいか。そこに昔の人が知恵を絞ったのは確かだ。
 その思考の跡を今の我々が再現するのはかなり難しい。当時の人なら誰でも知っていた基礎設定が今では忘れられてしまっている。でもその基礎設定が分かった時、多分本当に『曽我物語』を読んだと言えるんだろう。
 「驕る平家は久しからず」というのは、本来は平治の乱で源義朝を倒した時、その恨みを断ち切るべく頼朝も処分するとともに、その罪を背負って自制しながら政務に当る、というのが筋だったのだろう。敵を殺すことで、自分も殺す。そこでバランスが取れていた。
 それを敵を生かすことで、その罪を背負わずにすまそうとした。それが「驕り」だったのではないか。
 おそらく、殺した敵の人生を自分が背負って生きることが、日本の武士道の根底にあったのだろう。それがいつでもまた自分が死ぬ覚悟に繋がる。
 曾我兄弟がなぜ本懐を遂げた後、関係ないそこにいた武士たちと無双をやったのか。多分その答えもそこにあると思う。「俺たちは死ぬ覚悟でここに来た、おまらにその覚悟があるのか!」
 前近代社会では、世界中にたくさんの異なるルールが存在していた。それは近代と違い、不平等を前提として、それぞれに民族が知恵を絞った結果だった。
 平等を前提とするルールに慣れている我々には、それがともすると野蛮なものに映るかもしれない。だがそれは間違っている。
 近代化を達成した国でも、フロンティアの国々でも、その根底にある文化はかつての不平等時代に悪戦苦闘した結果生み出されたもので、それに敬意を払わないなら、今のこの世界の問題を解決することはできない。
 「一家心中」というのは、おそらく古い時代の習慣の名残で、親がルールに従って死ななくてはならなかった場合、子供にそのルールを無視して仇討をさせないため、親自らが子供を殺して恨みの連鎖を断ち切る、という所から来たのではないかと思った。
 現代の一家心中の多くは借金によるものだが、一家心中を防ぐには子供の権利を説くよりも、債務者の権利を説く方が効果的なのではないかと思う。
 一家心中をするのは、借金をした自分が全面的に悪いという罪悪感によるものだからだ。子供の権利だけ説いて、親は勝手に死ねというのは、人権を理解している人間の論理ではない。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第十九 呼出し花引上華の事
 呼出しの花、大方はせぬ事也。裏の六句目より後に春の句出せば、花呼出しになる。其ゆへ、裏の六句目以来、春をせぬ也。春は三句せずば、かなはぬ事也。六、七、八句と来て、九句目より十二句目迄四句なれば、定座の花の句、五句去りに一句近き故也。
 され共、貴人、高家、六句目以後に春をせられし時、悪きと云がたし。」(俳諧秘)

 裏十四句の十三句目が花の定座なので、春の句になる。春と春は連歌式目では五句去りなので、十三句目に春を出すには、十二、十一、十、九、八、と最低五句隔てなくてはならない。
 七句目に春の句があるということは、春の句は三句続けなくてはならないので、五句目、六句目、七句目と三句並ぶことになる。
 五句目に春を出しても、五、六、七と春の句を続け、八、九、十、十一、十二と五句隔てて、十三句目の定座には春を出せることになる。
 それゆえ、懐紙の裏に入った時は五句目までは春の句を出せる。六句目以降だと十三句目に花を出せなくなる。
 「花呼出し」という言葉は、ここでは花の付けやすいような句を出してやるという意味ではなく、六句目以降に春を出すと、強制的に次の長句で花を出さざるを得なくなる、ということを言う。
 「呼出しの花、大方はせぬ事」は、裏の懐紙の六句目になったら春の句を付けるな、という意味になる。
 ただ、貴人、高家などの上客を接待するときの連歌会なら、咎めるようなことはしない方が良い。「悪きと云がたし」というのは、「そりゃ言えないよな」というような含みがある。
 六句目以降に春の句が出た時には、基本的には定座を繰り上げて次の長句で花を出す。もっとも花を短句にした所で、式目に反することはない。
 もう一つの解決法は、春を花なしで終わらせて、十三句目に春にはならないが正花として扱われる言葉を出す。貞徳の『俳諧御傘』には、

 餅花 正花也、冬也・植物に二句也。
 花よめ・花婿 恋也、雑也、正花を持也。人倫也。植物に非ず、春に非ず。
 花かいらき 正花を持也。春にはあらず、植物にあらず。
 花うつぼ 雑也。正花にもする也。うへものにあらず。
 ともしびの花 正花を持也。春にあらず、植物にあらず、夜分也。
 花火 正花を持也。春に非ず、秋の由也。夜分也。植物にきらはず。
 花がつを 正花を持也。春にあらず。生類にあらず。うへものに嫌べからず。
 作り花 正花也。雑也。植物に二句去べし。
 花ぬり 漆の事也。雑也。正花をば持也。植物にあらず。
 花がた 小鼓にあり。正花にはなれども季はもたず、植物にならず。

などがある。
 餅花は餅搗き同様、歳暮扱いになる。『阿羅野』にも、

 もち花の後はすすけてちりぬべし 野水

の句が歳暮の所にある。
 花火は昔はお盆のものだったので秋になる。今でも八月にするところが多い。新暦の感覚だと、一般的に学校の夏休みが終わるまでは夏というイメージがある。
 蕉門ではこうした春でない正花は用いられていない。定座の繰り上げは時折見られる。

 「雑の花、他の季の花とは余花、花聟の類、また、花の後の青葉なりしが紅葉して、と云句の類也。春にてもなき花の句をする事なり。」(俳諧秘)

 季吟門では「雑の花、他の季の花」も用いられる。
 本来連歌式目では「花」は一座三句で、「にせものの花」を加えて四句だった。そのために百韻一巻の中の一句は桜の花ではなく、比喩としての花を用いなくてはならなかった。「雑の花、他の季の花」もその名残といえよう。

 「裏にても、五句目本のママニは春も仕候。花の句と五句隔有故也。
 いづくにても春一句来るには、花の句を付、二句、三句来て後は、花の匂せぬと云、田舎説也。不可信用。
 九句目より後、高き植物せず、十句目より後は低き植物もせぬ事也。」(俳諧秘)

 これも前に述べたように、五句目より前なら三句続けた後五句去りで十三句目に花を出せるのでOKということになる。
 「花の句を付云々」は、花の句を三句続く春の一句目に出さなくてはいけないという田舎説(ローカルルール)がある、ということだろう。従う必要はない。春は五句まで続けることができる。長句に出すのが普通だが、稀に短句になる例もある。句が良ければ問題ない。
 「高き植物」は木類のことで「低き植物」は草類の事と思われる。厳密に言えば、藤など木部を持つ蔓性植物も草類として扱うため、「高き植物」「低き植物」の言い方の方があっているのかもしれない。
 竹は木類でも草類でもないが、俳諧では高いか低いかで分類されたのかもしれない。詳しいことはわからない。
 俳諧では木と木は三句去り、木と草は二句去りになる。そのため、九句目に木類を出すと、十、十一、十二と三句去ってぎりぎりで木類の「花」を出せるが、十句目以降だと出せなくなる。草と木は二句去りなので、十句目で出しても十一、十二と二句去って十三句目で「花」を出せる。
 但し、植物を二句続けるのは構わないので、十二句目に植物を出すのは問題ない。
 これらは基本的に百韻五十韻、世吉など、懐紙の表裏に十四句連ねる場合の句数で、十二句の歌仙の場合は十一句目が定座になるので、二句前倒しすることになる。

 「二句去り、雰はふり物、聳物両方に嫌也。器物、同じき様成物は三句はつづかず、此去り嫌、宗匠の次第にすべきなり。」(俳諧秘)

 「雰」の訓読みは「きり」だが、霧は聳物(そびきもの)で『応安新式』には「可嫌打越物」の所に「霧にふりもの」とあるから、二句去る必要はない。
 器物は植物、降物、聳物、光物、衣裳、獣類、鳥類、虫類などの類か。二句続けるのは構わないが、三句続けることはできない。ただし『応安新式』では「山類、水辺、居所」は三句続けることができる。詳しいことは宗匠に聞くように、とのこと。

2022年1月26日水曜日

 最悪の場合を考えてみよう。ロシアがウクライナに侵略すると同時に中国が台湾を侵略した場合、第三次世界大戦の様相を呈するのは間違いない。
 米軍の多くがウクライナと台湾の両方に割かれてしまえば、韓国が手薄になる。北朝鮮がこのチャンスを逃すかどうか。
 中国とロシアに挟まれた隠れた大国、カザフスタンが、このチャンスに周辺国へ動き出すかもしれない。
 中国とロシアに挟まれたモンゴルも、そのままでは中国とロシアの睨み合いになるところだが、何らかの密約が生じれば危ない。あともう一つ危ないのは、軍事クーデターを起こして西側を敵に回したミャンマーだ。中国はここを制すればインド洋へのルートが開かれるし、東南アジアを孤立させることができる。
 また、台湾戦が膠着すれば、中国は重要な補給基地である沖縄を攻撃してくるだろう。日本本土も無傷では済まないかもしれない。国内の十五パーセントの左翼層が無抵抗と米軍排除を唱えて実質的に中国側に回れば、大きな混乱が生じることになる。
 この戦争はアフガニスタン・イラン・シリアなどの反米諸国にも大きなチャンスがある。どさくさに紛れて動き出す可能性がある。
 核の使用はお互いにリスクが大きいので可能性としては低い。ただ、経済的損失の少ないフロンティアが戦場になった場合は起こりうる。
 ただ、第三次世界大戦に発展すると、逆に反米勢力が一気に掃討されて終わる可能性もあるので、ロシアも中国もそれを避け、一気に決着付けるよりも緊張を持続させることを選ぶだろう。北朝鮮同様の瀬戸際外交である可能性が高い。
 威嚇して西側の譲歩を引き出すのが目的なら、それに屈するべきではない。太陽政策の失敗は北朝鮮だけでいい。
 逆に北朝鮮のようなじり貧を嫌い、一気に決着をつけるなら、コロナの混乱の収まらない今が狙い目なのは確かだ。すべてはプーちんとプーさんの決断にかかっている。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第十八 月花之事
 月、面の七句まで、花、裏の十三句目を定座といへり。され共、脇、第三にも花をする也。
 裏の月ははやく出した可也。月をおそく出せば、花の句につかへてわるし。また、花の句に月を結てする事有。月は四季共有。ゆへに花にひかれて春になる也。花紅葉しては雑也。」(俳諧秘)

 定座は基本的に月は初表は七句目、二表、三表、名残表は十三句目。花は初裏、二裏、三裏の十三句目と名残裏の七句目。これが共通認識として根底にあり、それに付け加える形で説明している。これは式目ではなく紹巴の時代辺りから江戸時代初期にかけて作られた慣習にすぎない。
 「月、面の七句まで」は初表の八句目に月を出すのを嫌うという意味で、定座を繰り上げる分には問題ない。歌仙の六句目の月もこれに準じれば嫌うことになる。
 蕉門では、貞享四年十一月二十八日、名古屋昌碧亭興行の「ためつけて」の巻六句目に、

   水浅く舟押ほどの秋の暮
 もう山の端に月の一ひろ      聴雪

の句があるが、これは数少ない例外と言っていい。
 「され共、脇、第三にも花をする也」というのは、脇か第三に花を出すのは問題ないということ。
 紹巴の時代でも「天正十年愛宕百韻」では、

 ときは今天が下しる五月哉     光秀
   水上まさる庭の夏山      行祐
 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

と、紹巴自身が夏の発句と脇に対し、第三で季移りさせて花を出している。
 ただ、天和二年春『武蔵曲』所収の「錦どる」の巻では、

 錦どる都にうらん百つつじ     麋塒
   壱 花ざくら 二番 山吹   千春
 風の愛三線の記を和らげて     卜尺

と脇で花を出している例があるが、これも例外で、蕉門では「桜」をだすことはあっても正花を脇や第三で出すことはなかった。
 月は面に定座があり、裏にもそれぞれ一句月を出すが、位置に関してはかなり柔軟に対応している。ただ、連衆が遠慮して月を出しそびれて、花の定座と重なってしまうことは度々あった。
 延宝六年秋の「のまれけり」の巻十七句目、

   鬼こらへずを生捕にして
 天も花に毒の酔狂月に影     似春

 貞享二年四月の「ほととぎす」の巻十七句目、

   一里までなき産神の森
 散はなを待せて月も山ぎはに   桂楫

 貞享四年の春の「久かたや」の巻十七句目、

   軍の加減うとき長追
 去ほどに心にそまぬ月も花も   去来

 元禄四年七月の「蠅ならぶ」の巻十七句目、

   室の八島に尋あひつつ
 陸奥は花より月のさまざまに   芭蕉

などがある。
 月と花とが両方詠まれた場合は、基本的に春の句となる。月は一年中あるからだ。
 「花紅葉」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「花紅葉」の解説」に、

 「① 春の桜の花と秋の紅葉。花や紅葉。また、広く春秋の美しい自然のながめをいう。
  ※宇津保(970‐999頃)祭の使「めづらしき花もみぢ、おもしろき枝に、ありがたき紙に書きて」
  ② 花のように色あざやかな紅葉。
  ※蜻蛉(974頃)上「車のしりのかたに、はなもみぢなどやさしたりけん」

とあるが、この①の意味で用いられる「花紅葉」は春と秋の両方ということで、雑として扱われる。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮
              藤原定家(新古今集)

の歌も「花」の字はあるけど秋の歌になる。
 仮に「見渡せば花も紅葉もなかるらん」という付け句があったとしたら、雑の扱いになるということだろう。

 「華の後青葉なりしが紅葉して

と云句、三季あれ共秋也。」(俳諧秘)

 この句は、

   春夏秋に風ぞ変れる
 花のあと青葉なりしが紅葉して  周阿

で、

   春夏秋に風ぞ変れる
 雪の時さていかならむ峯の松   二条良基

のバージョンもある。難題に対する答えの例とされている。周阿の句は春に花、夏に青葉、秋に紅葉と平に付けているのに対し、二条良基の句は違え付けになる。
 一条兼良は『筆のすさび』にある、

   春夏秋に風ぞ変れる
 実を結ぶ梨のかた枝の花の跡

は実った梨の枝に花の跡を見つけて季節の変化を感じるという、意味的に付いているので心付け、

   春夏秋に風ぞ変れる
 都いでていく関越えつ白河や

は能因法師の歌による本歌付けになる。
 「春夏秋に風ぞ変れる」の句は、春風が夏風になり今は秋風になったという意味なので、春夏の文字があっても実質的に秋の句になる。

 「花の句おもはしからぬ句有之。

  障子のそとへもるる人声
 集りて双六をうつ花の春
  身を粉になして棒つかふ也
 渡る世やそば切を打花の春

 加様の句、他流に多し。花の春に相応とも見へず、前句には能付、花の春、付除りたるとやいはん。
 又、華の春を言葉のたらぬ所、たしにしたる様にて聞にくし。
 花の句は、花と云字なくて聞之難きやうなるよし。
 花をやとひたるは花の本意にあらず。」(俳諧秘)

 これは「放り込み」という談林以降多く見られるもので、「花」の字を付け足して、形式的に花の句にするというやり方だ。
 蕉門でも月や露や春夏秋冬などの放り込みはしばしば見られるが、花の句の放り込みはほとんどない。
 元禄七年の夏の「秋ちかき」の巻十七句目の、

   持寄にする医者の草庵
 結かけて細縄たらぬ花の垣    木節

は、食料を持ち寄りにするくらいの流行らない医者だから、垣根を結ぶにも縄が足りない、という句だから、「花」にする必然性はそれほどない。これなどは「放り込み」と言ってもいいかもしれない。
 放り込みかどうかは、その言葉を抜いても意味が通じるかどうかでわかる。
 貞享五年秋の、

 初秋や海やら田やらみどりかな  芭蕉

の発句への重辰の脇、

   初秋は海やら田やらみどりかな
 乗行馬の口とむる月       重辰

の句の場合、海も田も緑で景色が良いので、乗っていた馬も止めてそれに見入る、という句なので「月」は添え物にしかなっていない。「みどり」がはっきり見えるのだから、まだ日の暮れていない、明るいうちの月であろう。
 「花をやとひたるは花の本意にあらず」の「やとひ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①賃金を払って人を使う。雇う。
  出典大和物語 一四八
  「人にやとはれ、使はれもせず、いとわびしかりけるままに」
  [訳] 人に雇われたり、使われたりもせず、たいそう貧しかったのにつれて。
  ②借りる。利用する。
  出典方丈記 
  「舌根(ぜつこん)をやとひて不請(ふしやう)阿弥陀仏(あみだぶつ)、両三遍申してやみぬ」
  [訳] 舌を借りて儀礼を整えず阿弥陀仏の名を二三回唱えてやめた。」

の②の方の意味であろう。
 定座の花はどこまでも主役であり、花を人数合わせのエキストラに使うではない、ということであろう。

 「月花の句、時宜ある也。三人以上の会には、発句の人は仕らず。月の句にも時宜ありといへ共、華の句、大切成ごとくにはあらず。
 十三句目、花の定座と定事、句毎に我人花の句を憚りて、十三句目迄延したるを、十四句目、下の句にせん事いかが迚、十三句目にせし事なり。其故に、独吟か其座の宗匠なれば、何方にも辞儀なしにする事なり。
 また、余人も珍重なる句は、宗匠、貴人へ理てする也。」(俳諧秘)

 「三人以上の会には、発句の人は仕らず」とは言っても、三吟、四吟、五吟などは順番に付けて行く場合はこの限りではない。出勝ちの場合であろう。
 「貞徳翁十三回忌追善俳諧」の場合は発句は蝉吟だが、二裏の花の定座の花の句を付けている。ただ、五人の連衆による百韻の四花八月の中で、わずか一句だけなのは、やはり季吟門では遠慮する所があったのだろう。
 貞享三年正月の「日の春を」の巻は十八人の連衆による百韻だが、発句を詠んだ其角は月も花も詠んでいない。ただ、貞享二年六月の小石川での「賦花何俳諧之連歌」では発句を詠んだ清風が二花一月を付けている。
 蕉門の場合、この習慣はそれほど守られているわけでもない。発句を詠むのは特別なゲストなのだから、ゲストに花を持たせるのも自然なことではなかったかと思う。
 月花の定座が式目ではないということは前に述べたことで、月花の句を皆が遠慮するようになったところから、月花の句が懐紙の最後に残ってしまいがちで、最後の句だと短句になってしまうので、最後の長句が自ずと定座に定まったと言われている。
 中世では月花の句はむしろ早い者勝ちのような所があった。好句を競うという連歌のゲーム性が薄れ、儀礼化していったことが、定座を生む原因だったと思われる。
 おざなりな連歌になれば、月花は偉い人に譲りなさいということにもなるが、好句を競うのであれば、身分や子弟、先輩後輩関係なく、好句があれば、定座に関係なく月花の句も取るということになる。
 「余人も珍重なる句は、宗匠、貴人へ理てする也」というあたり、あくまで偉い人にお伺いを立てなさい、という所で濁している。蕉門もその慣習を突き破れなかった辺りが、結局は俳諧の衰退につながったのではないかと思う。

 「月の句、月にしのべる、月に画を見るなど、不然。季を持たせんため計に、月に何する、月にかをするなど、月の縁なきは聞にくし。」(俳諧秘)

 「月にしのべる」は月明りに忍んで女の元に通う、「月に画を見る」は月明りで絵を見るということか。月が主役でなく、月を明りとする句も良くないというわけだが、実際の所月に宴というのも、月に相撲というのも月の明りを利用しているのではないか。
 貞享元年九月の「時は秋」の巻二十三句目の、

   弟にゆるす妻のさがつき
 物かげは忍び安キに月晴て    沾荷

 貞享四年冬の名古屋での「ためつけて」の巻二十九句目の、

   細きかいなの枕いたげに
 月しのぶ帋燭をけしてすべり入  荷兮

も駄目ということか。蕉門では嫌わない。

2022年1月25日火曜日

 月夜涙さんの『回復術士のやり直し』の二巻に、ケヤルが楽しいから敵(かたき)を討つんだというようなことを言う場面があった。

 「楽しくて気持ちいい。それ以上は何も望まない。」
 「ひとによっては楽しくもないのに、そうしないといけない強迫観念に突き動かされる。そういう連中は不幸だ。復讐を楽しむのではなく復讐にとらわれている。」

 曾我兄弟もそうだったのだろうか、と思いを馳せる。
 兄弟は家督を争うライバルで、しばしば殺し合いにもなるような時代に、まだライバルとして意識することもない無邪気な年齢で父親が殺され、一緒に仇を討とうということで意気投合し、この上もない仲のいい兄弟になって行った。
 兄が所領を得て、弟が僧にさせられるのも、普通なら恨みを残し、ぎくしゃくした関係になりかねないところだが、仇討という共通の目標があったから最後まで仲良くいられた。
 あの兄弟も自分の幸せのために仇討を行ったのかもしれない。
 そう考えると忠臣蔵も、今まで同じ藩の仲間だったのが、お取り潰しで散り散りバラバラになる運命だった。だが、仇討という共通の目標があった。今までどうりの仲間たちとの幸せな日々が、この目標のために続けることができた。
 案外、仇討の真実というのはそういうことだったのかもしれない。
 敵討ちの物語がみんな好きなのも、仇討が快楽だという所で同意できるからなんだと思う。
 まあ、世界中から可哀想な人たちのことを拾い上げて戦っている人たちも、少なからずこの快楽のとりこになっているのかもしれない。BLMデモの白人も、「義によって助太刀いたす」ってところなのかな。
 仇討は快楽だが、その一方で報復の連鎖を生む。それを消して行くのは、時間はかかるが忘却だ。日本人はそれを知っている。
 そういえば小林湖底さんの『ひきこまり吸血姫の悶々』七巻も報復が一つのテーマになっていたな。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第十五 四句目之事
 脇の句のおもふりとは、一くらゐ替りて、いかにもかろく仕立たるよし。其故に、てにをは、たる、なり、めり、など、留る由、紹巴の口伝には侍れ共、又、文字にて路、雪、歌などと留りたるもあるなり。
 連歌には面連歌とて、かるきを専にし侍れ共、俳諧にはかろきばかりにて、なまつきなるはおもしろげなき也。能心得べき。」(俳諧秘)

 紹巴の『連歌教訓』に、

 「四句目をば脇の句より引さげ、やすやすと付候を四句目振といふ也、留りをば、なりか、けりかにて留る也、」

とある。後に「けり」のような強い断定は好まれなくなったか。発句でもあまり用いられない。
 面連歌は面八句のことか。『連歌教訓』に、

 「惣じて面八句、十句の内は各心得候間、許しなき者也、四句目をば脇の句より引さげ、やすやすと付候を四句目振といふ也、留りをば、なりか、けりかにて留る也、五句目をば第三の句を形どり長高く、覧どまりか、けらしなどにて留めらるべし、六句目は脇の様に打添ひてやり候なり、七句目、五句目より句柄をやすやすと(風景)風情ばかりにて可有也、八句目は詞つまりぬる故に、唯何となくかろがろと其体をもてやり候を、八句目振といふ也、九句目は殊つまり行ものにて、前句のてにをはに、そとあたりて可有、さりながら紙移りの事にて候間、たけを引立られ候やうに心得有べし。」

とある。また、紹巴の『至寶抄』には、

 「面八句の内十句までも不仕事、神祇、釈教、恋、無常又は名所、其外さし出たる言葉など不仕候、」

とある。
 実際に紹巴同席の「天正十年愛宕百韻賦何人連歌」を見てみようか。

初表
 ときは今天が下しる五月哉     光秀
   水上まさる庭の夏山      行祐
 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴
   風に霞を吹き送るくれ     宥源
 春も猶鐘のひびきや冴えぬらん   昌叱
   かたしく袖は有明の霜     心前
 うらがれになりぬる草の枕して   兼如
   聞きなれにたる野辺の松虫   行澄
初裏
 秋は只涼しき方に行きかへり    行祐
   尾上の朝け夕ぐれの空     光秀

 四句目の、

   花落つる池の流れをせきとめて
 風に霞を吹き送るくれ       宥源

は、「なり」「けり」ではなく文字留(体言留め)になっている。内容的には落花に風と打ち添えて、「風に霞みを吹く送る」という言い回しに一工夫ある。
 五句目。

   風に霞を吹き送るくれ
 春も猶鐘のひびきや冴えぬらん   昌叱

 「らん」留は定石通りで、「猶‥ひびきや冴えぬ」に力強さが感じられる。時刻を告げる鐘は釈教にはならない。
 六句目。

 春も猶鐘のひびきや冴えぬらん
   かたしく袖は有明の霜     心前

 前句の鐘を夜明けの鐘として、有明を打ち添える。「かたしく袖」に寝ざめの生活感を与える。
 七句目。

   かたしく袖は有明の霜
 うらがれになりぬる草の枕して   兼如

 かたしく袖の霜を草枕とし、草の末枯れを添える。第三や五句目のような丈高さはなく、「やすやすと」付けている。
 「草枕」は羇旅になるが、十句目までは神祇、釈教、恋、無常、名所を嫌うだけで、羇旅は問題ない。
 八句目。

   うらがれになりぬる草の枕して
 聞きなれにたる野辺の松虫     行澄

 末枯れの草に松虫、草枕の旅に聞きなれたる、と付く。これも特にかろがろと付けている。
 九句目。

   聞きなれにたる野辺の松虫
 秋は只涼しき方に行きかへり    行祐

 「前句のてにをはに、そとあたりて」とあるが、ここでは「そ(ぞ)」ではなく「は」を当てている。
 「は」は切れ字の「や」に近く、係助詞同様に「は」以下の文を強調し、秋が涼しき方に行きかえったので、松虫の聞き慣れると原因結果で繋がる。この句は「秋ぞ只」としても通じる。
 強調する言葉が入ることで、丈が引き上がる。
 以上、概ね紹巴先生の教えの通りの展開と言えよう。
 ただ、季吟もことわっているように、「俳諧にはかろきばかりにて、なまつきなるはおもしろげなき也」ということで、俳諧は神祇、釈教、恋、無常、名所などを避けつつも、一句一句に面白い笑いを展開しなければならない。
 季吟門の作風ということで、宗房(芭蕉)同座の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」を見てみよう。

初表
 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉   蝉吟
   鷹の餌ごひに音おばなき跡   季吟
 飼狗のごとく手馴し年を経て    正好
   兀たはりこも捨ぬわらはべ   一笑
 けうあるともてはやしけり雛迄   一以
   月のくれまで汲むももの酒   宗房
 長閑なる仙の遊にしくはあらじ   執筆
   景よき方にのぶる絵むしろ   蝉吟
初裏
 道すじを登りて峰にさか向     一笑
   案内しりつつ責る山城     正好

 四句目。

   飼狗のごとく手馴し年を経て
 兀たはりこも捨ぬわらはべ     一笑

 前句の「飼狗(かひいぬ)」を張り子の犬と取り成して、禿げてボロボロになった張り子を捨てられないでいる子供へと展開する。
 一句としてもあるあるネタとして成立していて、独立性も高く、笑いもある。
 これも文字留(体言留め)になる。
 五句目。

   兀たはりこも捨ぬわらはべ
 けうあるともてはやしけり雛迄   一以

 前句を雛人形とともに飾る張り子として、ひな祭りの日まで捨てずにもてはやす。「らん」留にこだわってはいない。「もてはやしけり」と強く断定することで、丈高く作っている。
 六句目。

   けうあるともてはやしけり雛迄
 月のくれまで汲むももの酒     宗房

 これは芭蕉の句だが、前句の「雛」に「ももの酒」を打ち添えている。春の句になったところでためらわずに定座を引き上げて月を出すところは堂々としている。ただ、「まで」を重ねてしまったところは若さか。式目上の問題はない。
 七句目。

   月のくれまで汲むももの酒
 長閑なる仙の遊にしくはあらじ   執筆

 「ももの酒」が不老不死の桃から作られた仙薬に見立てられていたので、ここは仙人を登場させる。
 八句目。

   長閑なる仙の遊にしくはあらじ
 景よき方にのぶる絵むしろ     蝉吟

 「絵むしろ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「絵筵」の解説」に、

 「〘名〙 種々の色に染めた藺(い)で、花模様などを織り出したむしろ。花むしろ。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。前句の「しく」を「敷く」との掛詞として、「絵むしろ」を敷く、とする。「かけてには」になる。
 九句目。

   景よき方にのぶる絵むしろ
 道すじを登りて峰にさか向     一笑

 「さか向(むかへ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「平安時代,現地に赴任した国司を現地官が国堺まで出迎えて行った対面儀礼。《将門(しょうもん)記》に常陸(ひたち)国の藤氏が平将門(まさかど)を坂迎えして大饗したとみえる。新しい支配者を出迎えてもてなした行為に由来し,堺迎・坂向とも書く。また中世伊勢参詣などからの帰郷者を村堺まで出迎えて共同飲食した行為を,坂迎えといい,酒迎とも記した。」

とある。前句の絵むしろを国境の対面儀礼のためのものとする。
 ここまで、連歌の面十句の穏やかな雰囲気を踏襲しつつも、一句一句の展開に俳諧ならではの面白みを出そうとしているのが分かる。これは蕉門の、貞享三丙寅年正月の「日の春に」の巻でも変わってないように思える。

初表
 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉    其角
   砌に高き去年の桐の実     文鱗
 雪村が柳見にゆく棹さして     枳風
   酒の幌に入あひの月      コ斎
 秋の山手束の弓の鳥売ん      芳重
   炭竃こねて冬のこしらへ    杉風
 里々の麦ほのかなるむら緑     仙花
   我のる駒に雨おほひせよ    李下
初裏
 朝まだき三嶋を拝む道なれば    挙白
   念仏にくるふ僧いづくより   朱絃

 九句目に「三嶋を拝む」と神祇があり、十句目が「念仏にくるふ」と釈教があるように、神祇、釈教、恋、無常、名所などの制は面八句にまで短縮されている。

  「第十六 五句目之事
 是は、たけ高く、第三のおもかげに仕立たる能也。すべて上句、てどめ、らん留の句は、第三つかうまつる心にて仕立たるよし。」(俳諧秘)

 これは、

 「五句目をば第三の句を形どり長高く」(紹巴『連歌教訓』)

を引き付いてはいるけど、てにはに関しては「覧どまりか、けらしなどにて留めらるべし、」(紹巴『連歌教訓』)は取らずに、一般論として「て」留「らん」留の句は第三と同じように仕立てるとしている。

  「第十七 面八句之事 九句目
 八句之事は大方の法度、貞徳の十首の歌をもつて、類せし給ふべし。歌略之。」(俳諧秘)

 俳諧式目歌十首というのがあるらしいが、ネット上では見つからなかった。

2022年1月24日月曜日

 ふと思ったが、人は厳しい生存競争の中で、ともに戦うから友情というのがあるのではないか。戦わないなら一緒にいる理由もない。戦うのをやめた現代人がボッチになるわけだ。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第十四 第三之句の事
 第三、て留、らん留、なへの事也。様子により、に留ももなし、とも留る事有。
 貞徳老の第三、紅梅千句に、

 春の末天下に名あるほととぎす

とこれあり。此留やう、百韻俳諧にはなき事也。
 に留もなし、と留る事、勿論習ひある事なれば、師伝なき人は得せぬ事と云ながら、又、其習ひを得れば、別の事もなき事也。
 かやうの曲は常にせぬ事也。只、て留、らん留第三にたけ高く、景気うつり、思ひ入ふかく、第三めきて聞ゆるに浅からぬ伝も工夫もある事也。」(俳諧秘)

 第三に「て留」「らん留」が多用されるのは、第三は発句の心を去らなくてはならない難しさがあるのと、興行の際に発句脇は事前に用意される場合が多く、第三が即興の始まりになる場合が多いから、ここで長考して進行が妨げられるのを防ぐために、迷わないようにパターンを決めておくという意味があったのだと思う。
 「て」留は、脇の内容に対し、その原因とか理由とかを発句と違えて展開するパターンになる。そして「て」留に限って言えば、長句(上句)から短句(下句)へ読み下すのではなく、短句から長句へ77575と読み下すような付け方が許されている。これも迷わないように、という配慮であろう。
 「らん」留は「らん」と疑うことで、実際にない仮定や想像の事象や主観的内容で展開できるという利点がある。そして、次の句では疑問の「らん」を反語の「らん」に取り成すことができる便利さがある。
 要するに、悩むくらいならこの二つのパターンで紋切り型に付けろということだった。
 宗砌の時代の『千句連歌集 二』(古典文庫 405、一九八〇)の三千句を見ても、

 文安月千句 第一 発句「哉」脇「秋風」第三「て」
       第二 発句「哉」脇「雲井路」第三「て」
       第三 発句「月」脇「露」第三「て」
       第四 発句「かな」脇「明仄」第三「にて」
       第五 発句「清し」脇「漣」第三「て」
       第六 発句「都鳥」脇「友」第三「て」
       第七 発句「哉」脇「頃」第三「て」
       第八 発句「顔」脇「枕香」第三「て」
       第九 発句「秋」脇「大空」第三「て」
       第十 発句「哉」脇「て」第三「らん」
 文安雪千句 第一 発句「深雪」脇「ころ」第三「て」
       第二 発句「かせ」脇「こほれる」第三「て」
       第三 発句「雪」脇「ころ」第三「らん」
       第四 発句「かな」脇「て」第三「らん」
       第五 発句「雪」脇「空」第三「にて」
       第六 発句「雪」脇「らん」第三「て」
       第七 発句「山」脇「たふる」第三「て」
       第八 発句「はな」脇「竹」第三「て」
       第九 発句「なし」脇「しく」第三「て」
       第十 発句「哉」脇「かさなる」第三「にて」
 顕証院会千句第一 発句「柏」脇「声」第三「て」
       第二 発句「松」脇「葉かくれ」第三「て」
       第三 発句「枝」脇「霧」第三「て」
       第四 発句「哉」脇「露」第三「て」
       第五 発句「薄」脇「来る」第三「て」
       第六 発句「かな」脇「ころ」第三「らん」
       第七 発句「草」脇「秋風」第三「て」
       第八 発句「朝ねかみ」脇「秋」第三「に」
       第九 発句「秋」脇「覧」第三「て」
       第十 発句「哉」脇「本」第三「て」

と、三十句中二十五句が「て」四句が「らん」一句が「に」で留まっている。
 ちなみに宗因判『大阪独吟集』十百韻は「らん、て、らん、て、て、て、らん、て、て、て」松意編『談林十百韻』は「て、て、し、らん、らん、に、らん、て、て、て」で「らん」が三割を占めている。
 「に」留が希に混ざるのは、千句興行の場合、一回くらい変化を求めてのことで、貞徳の体言留の第三も「此留やう、百韻俳諧にはなき事也」とあるのは、千句興行であれば一句くらいあっても良いという意味だろう。
 蕉門でも『冬の日』の第五歌仙に、

   田家眺望
 霜月や鸛の彳々ならびゐて    荷兮
   冬の朝日のあはれなりけり  芭蕉
 樫檜山家の体を木の葉降     重五

という、第三のみならず発句、脇とも変則的な一巻がある。これも五歌仙六句興行の中の曲の一つと見ていいだろう。『ひさご』でも五歌仙の最後の巻は、

   田野
 疇道や苗代時の角大師      正秀
   明れば霞む野鼠の顔     珍碩
 觜ぶとのわやくに鳴し春の空   珍碩

と体言留が三句続く展開になっている。
 『猿蓑』巻五の四歌仙では、第一第二が「て」留で第三が「に」留、第四が、

   餞乙州東武行
 梅若菜まりこの宿のとろろ汁   芭蕉
   かさあたらしき春の曙    乙州
 雲雀なく小田に土持比なれや   珍碩

と、「や」留になっている。ここにも、変化をつけるという意識があったのではないかと思う。『俳諧秘』の言う「かやうの曲は常にせぬ事」というのは、蕉門でも守られていたと考えていいと思う。

「梅の花見にこそ来つれ雪はきて  可全
 御所車花にくるくるみすまきて  梅清
 にくや風花と散てぞ吹ぬらん   昌珎
 後々も見よとや古歌を集むらん  正慶

 大方かやうの風情なるべし。前句を聞ざれ共、面白し。第三のみにかぎらず、前句なしに面白き上品の句也。中品の迄は前句の光りにて能聞へて、前句なしにはさもなきことなり。
 それさへあるを、前句をかり前句にもたれんは作者の無念歟。
 され共、前句にもたるる句を聞知人も稀也。前句にもたれぬやうにと年比心かくれ共、甚なりがたし。」(俳諧秘)

 土芳『三冊子』「しろさうし」には「「第三は師の曰、大付にても轉じて長高くすべしとなり」とあるが、この「長高く」の解説と見ていい。
 「長け高く」というと「居丈高」という言葉もあるように、力強い調子を言う。
 付け句の場合は次に付ける人の付け易さを考えると、あまり力強く言い切らずに、ある程度曖昧にしておいた方がいいが、第三はそこはあまり気にするな、ということなのだろう。そのために「て」留「らん」留があると言っても良いのかもしれない。
 一句の情報が多いとそれだけ内容が限定される。例えば『山中三吟評語』で、北枝の四句目「鞘ばしりしを友のとめけり」を「やがてとめけり」に直したのは、次の展開を考えると「友の」とすれば複数の人間のいる場面になるが、「やがて」とすれば一人だとして展開できる。また、「友」は人倫になるので次の次の句で人倫を出せなくなる。
 この『山中三吟評語』の第三は芭蕉の句で、「月はるゝ角力に袴踏ぬぎて」を「月よしと」に案じかえたという。「月よしと」という主観的な言葉の方が確かに一句として力強い響きがある。これも「長高く」であろう。
 付け句は、あまり情報や景物を詰め込み過ぎてはいけないが、それによって句としての力強さが失われてはいけない。

 梅の花見にこそ来つれ雪はきて  可全

 この句も「見にこそ来つれ」に力強さがある。「見に来てみれば」では情けない。

 御所車花にくるくるみすまきて  梅清

 この句は「くるくる」のオノマトペに取り囃しがある。

 にくや風花と散てぞ吹ぬらん   昌珎

 この句も「にくや風」に力強さがある。

 後々も見よとや古歌を集むらん  正慶

 この句も「後々も見よ」に力がある。

 第三に限らず、それ以外の付け句でも、力強い句は好句といっていい。『猿蓑』の「灰汁桶の」の巻三十句目、

   堤より田の青やぎていさぎよき
 加茂のやしろは能き社なり    芭蕉

の句も情報量は少なくして、同語反復で力強いリズムを生み出している。
 力なく、景物を並べただけのような句は、それだけでは何を言おうとしているかわからないし、一句としての面白さもない。
 ただ、蕉門では前句の突飛な取り成しなどによる二句一章の好句も多い。『炭俵』の八句目、

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉

などがそれだ。
 「前句をかり前句にもたれんは作者の無念歟」はこういう句のことではなく、前句の趣向にさほど新たな趣向を加えられなかった凡句のことではないかと思う。

   堤より田の青やぎていさぎよき
 村のやしろに向かう旅人

では、いくらなんでも残念だ。ただ旅人がいるというだけで、前句の田の青やいだ潔い景色にもたれただけの句になる。「加茂」という名所があって、それを「やしろ」の反復で取り囃す所に一句の面白さがある。

2022年1月23日日曜日

 一月の初め、最初に感染が急拡大した沖縄がピークアウトしたか。実効再生産数が1を切っている。これは希望だ。
 そういえば、北京オリンピックは今のところ盛り上がってないね。まあ、東京のオリパラに反対した人たちは、今更北京は賛成なんて言える雰囲気ではないし、右側の人はもとより中国に協力したくないしで、興味を持っているのはコアなスポーツファンだけじゃないかな。
 まあ、開会式はどうせ漢民族独裁国家の国威発揚イベントだからどうでもいいけど、ネットで配信してくれるなら競技くらいは見ても良いかな。正常に運営されればの話だけど。
 今どき中国に固執するのは、財界の保守層くらいだろう。かつて天安門事件の時に中国を許したことが、その後の開放政策で大儲けに繋がった、その過去の成功体験から抜け出せない人たちだ。
 たとえウイグルや香港を許しても、開放政策を終わらせたシーがのさばる限り、中国がふたたび急成長することはないと思うが。
 『曽我物語』の方は、佐殿が挙兵した後はあっという間に平家は滅亡していて、幕府を開く頃の場面になる。まるで三谷脚本だ。
 兄は家督を継げたが、弟は出家とこれも当時では当たり前のパターンなんだろう。
 「争ったりせずに、みんな仲良く分け合えばいいじゃないか」というのは生産性の高い近代人の発想だ。一人生きて行くのがやっとの食料で、みんな仲良く分け合ったらみんな餓死する、というのが前近代。
 人権思想は理想としては素晴らしいが、その前提条件がついつい見落とされがちだ。経済あっての平等ということを忘れてはいけない。平等のために経済を犠牲にしたら大勢の餓死者を出す。二十世紀社会主義の教訓。

 それでは「俳諧秘」の続き。

 「紹巴法橋より玄仍へ遣され候書、脇に五法あり。
 一相対 二打添 三 違付 四 心付 五 比留り」(俳諧秘)

 これは紹巴の『連歌教訓』のことであろう。
 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.203)

とある。
 相対付は対句を作るような付け方で、『春の日』の、

   炭売のをのがつまこそ黒からめ
 ひとの粧ひを鏡磨寒       荷兮

 炭売に鏡磨と相対して付け、炭売の妻は黒く、鏡磨はその装いを助ける、と付く。
 打添は『連歌教訓』に手本として、

 年ひらけ梅はつぼめるかたえかな
   雪こそ花とかすむはるの日
 梅の薗に草木をなせる匂ひかな
   庭白妙のゆきのはる風
 ちらじ夢柳に青し秋のかぜ
   木の下草のはなをまつころ

が挙げられている。
 四に心付けがあるところから、これは物付けで受けることをいうと思われる。
 「年ひらけ」の句は新春の句で、梅に雪を添える。花は咲いてないが、梅に添う雪が花となる。
 「梅の薗」もまた「梅」に「ゆき」、「薗」に「庭」と四手に受ける。
 「ちらじ夢」の句は「柳」に「木」、「秋のかぜ」に「はなをまつ」と受ける。
 違付は相対付けに似ているが、相対する言葉を対句的に用いるのではなく、意味の上で反対のものに持っていく付け方で、『去来抄』にある芭蕉の、

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲花にかき出す橡のかたぶきて  芭蕉
   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ     芭蕉

はいずれも違え付けになる。強引に花の定座に持っていきたい時などに、時間の経過や芭蕉の転換などで、辻褄を合わせるような付け方だ。
 脇だと『文安月千句』(『千句連歌集 二』古典文庫 405)の、第七百韻、

 光をも天に満たる月夜哉
   初夕霜に野分たつ頃     良珍

は天に満ちる月夜に野分と違えて付けている。
 心付は意味で付けることで、

   鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
 一ふき風の木の葉しづまる    芭蕉

のように、鳶が羽を掻い繕うのを風が静まったからだと、意味的につながっている。
 比留りは「第十三 脇句之事」で述べた。
 脇の五法は土芳『三冊子』「しろさうし」にも、

 「對付、違付、うち添、比留の類、むかしより云置所也。師云、第一ほ句をうけてつりあひ専に、うち添て付るよし。句中に作を好む事あるべし。留りは文字すはり宜すべし。かな留メ自然にある。心得口決あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95~96)

とある。
 また、宗因の『俳諧無言抄』にも、

 「又発句によりて相対(アンタイ)して付る有。打そへて付る有。ちかひ付、心付、比とまりなどの格はつねのならひ也。」

とあり、五法は宗匠のみの知る特別なものではなく、誰もが知る基本だったようだ。
 相対は「あんたい」と読むこともあったようだ、「違付」も「たがひ」と読むことが多いが、「ちがひ」と読むこともあったようだ。
 今みたいな文部省が国語を管理していた時代ではなかったから、概ね昔の言語に関しては「たった一つの真理」なんてものはないと言っていい。
 名前の漢字も音があっていれば違う字を書いても問題はなかったし、同じ漢字でも漢音・呉音・訓読みとで使い分けることもあった。惟然も僧名は「いねん」で俳号は「いぜん」と使い分けていたらしい。宗房は名乗りとしては「むねふさ」だと思うが、俳号としてはあるいは「そうぼう」という読みもあったのかもしれない。
 中世の連歌師の救済も「きゅうさい」「くぜい」「ぐさい」などの読みか方あるが、これも使い分けていた可能性がある。吉川惟足の「よしかわこれたり」と「きっかわこれたる」にしてもそうだ。いずれも本名の概念のない時代のことだ。

 「本歌、本語、世話など、大方発句に云残したる詞を取也。発句よりその云残さぬ詞をとらぬ有。いささか習ひ有。大小の脇などいへる事あり。先師貞徳老よりの口伝。」(俳諧秘)

 脇を本歌は古歌で付けることで、本語は本説と同じで古事・物語などで付けることをいう。「世話」は古典ではないが世間によく知られた小唄や諺などで付けることか。

 ゆづり葉や口に含みて筆始    其角

の句は芭蕉書簡に「ゆづり葉を口にふくむといふ万歳の言葉、犬打童子も知りたる事なれば」とあり、千秋万歳(せんずまんざい)の口上だったか。こういうのもおそらく世話に入るのだろう。
 出典のある発句の場合、脇はその出典にある言葉を用いないということか。
 『野ざらし紀行』の旅で、貞享元年の冬、熱田での、

   檜笠雪をいのちの舎リ哉
 稿一つかね足つつみ行      芭蕉

の脇は玉屑の「閩僧可士送僧詩」の「笠重呉天雪 鞋香楚地花」を踏まえて、檜笠の雪に「鞋」の文字を用いずに藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きます、としている。
 貞享三年秋の、

   夕照
   蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな
 潮落かかる芦の穂のうへ     芭蕉

の発句は、

 真萩散る庭の秋風身にしみて
     夕日の影ぞかべに消え行く
              永福門院(風雅集)

を本歌にしたものと思われるが、「萩」「庭」「秋風」などの詞を外さなくてはならないという制約があったのかもしれない。ここでは蜻蛉(とんぼう)から蜻蛉嶋(あきつしま)=豊葦原瑞穂国の連想で付けている。
 ただ、本歌・本説は付け合いとして定着しているものも多い。延宝四年の句に、

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作        信章

という脇があるが、「花に鳴く鶯、水に住む蛙」という古今集仮名序の詞にまで厳密に適用されることはなかったのだろう。「いささか習ひ有」というのは、そういうことか。
 「大小の脇」というのは、発句を大刀、脇を脇差に喩えるということか。

2022年1月22日土曜日

 図書館で『曽我物語』を借りてきた。何だか大河に出てきたような人たちが出て来ると思ったら、『曽我物語』が出典だったようだ。あの爺さんの孫が五郎十郎なのか。頼朝はやっぱ佐殿(すけどの)なんだ。
 子供は簡単に殺すし、夫に死なれたら自害か出家、なんて今では考えられないけど、都市が未発達な時代は、男は家督を継げなければ生きる道がないし、女も家督を継ぐ者の妻になれなければ生きる道がない。ただでさえそれは狭き門だから、失ったらもう次はないという時代だったのだろう。
 一人の親の家督を継ぐのが基本的に一人だと、それを脅かすものは容赦なく殺す。兄弟でも子供でも。そうしないと自分が殺される。そういう時代だ。
 それを考えれば、江戸時代に大都市が形成されたというのがどんなに凄いことだったのか。
 現代社会のイージーモードに慣れていると、古代中世のハードモードはなかなか想像もつかない。それを少しでも想像させてくれるのが物語の役割なんだろう。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第十三 脇句之事
 まづ脇は発句にしたがひて、時節たがひなきやうに打添付たるよし。
 其上、月、雪、宿、或、草木、鳥獣の名、比留り、又、涼しさ、長閑さと留るも自然ニあり。
 発句は客、脇は亭主、第三は相伴人。
 まづ亭主脇は、客人発句の御意ニそむかぬやうにと心持よき也。」(俳諧秘)

 これは連歌の時代から変わらない基本で、紹巴の『至寶抄』にも、

 「脇句の事、よく発句の心うけて、其時節背きなき様に一かどさはやかに(可被遊候)」

とある。
 発句を客が詠み、脇を亭主が付けるというのは慣習的なもので、必ずしもこの通りでない場合も多い。貞享二年の夏に出羽の清風が江戸にやって来た時の興行は、

 涼しさの凝くだくるか水車     清風
   青鷺草を見越す朝月      芭蕉
 松風のはかた箱崎露けくて     嵐雪

と、客人の清風が発句を詠み、江戸の芭蕉が脇を付けているが、会場は清風の江戸屋敷だった。清風は出羽から来たという意味では客だが、会場は清風のもので、その意味では芭蕉の方が招かれた客だったとも言える。こういう複雑な状況もあるので、臨機応変に運用する必要がある。
 翌年の春にふたたび清風の江戸屋敷に招かれた時には、

 花咲て七日鶴見る麓哉       芭蕉
   懼て蛙のわたる細橋      清風
 足踏木を春まだ氷る筏して     挙白

と芭蕉が客人になっている。
 貞享四年の冬、芭蕉が『笈の小文』の旅で名古屋の荷兮亭に招かれた時には、そこに岐阜の落梧も招かれていた。この時は、

 凩のさむさかさねよ稲葉山     落梧
   よき家続く雪の見どころ    芭蕉
 鵙の居る里の垣根に餌をさして   荷兮

と、芭蕉が落梧に発句を譲り、亭主が第三を付けるという変則的な形になっている。
 「比留り」というのは発句に対して、「何々の頃」とその時候を添える付け方で、特に思いつくことのない時は無難な付け方になる。
 宗砌の時代の『千句連歌集 二』(古典文庫 405、一九八〇)の三千句を見ると、「文安月千句」の第七百韻に、

   光をも天に満たる月夜哉
 初夕霜に野分たつ頃        良珍

 「文安雪千句」の第一百韻に、

   なをつれも弥とよとしの初深雪
 玉松かえとあられふるころ     日晟

 第三百韻、

   里わかぬ花の本かな木々の雪
 梅冬ごもり月にほふころ      智薀

 「顕証院会千句」の第六百韻に、

   秋草は露をつつまぬ袂かな
 すすきおしなみほに出るころ    貞運

のように、十巻に一回は用いられるくらいの頻度があった。
 ただ、判で押したような印象を与えるので、芭蕉の時代にはあまり用いられていない。
 『阿羅野』の、

   雁がねも静にきけばからびずや
 酒しゐならふこの比の月      芭蕉

は微妙にその単調さを回避している。
 また、「ころ」という字は用いなくても、その場の季節時間などを添えるのは『ひさご』の、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり     珍碩

のように、良い付け方とされていた。
 「客人発句の御意ニそむかぬ」というのは、まあ挨拶の基本だが、おざなりの季候の挨拶でスルーするというのは一つのテクニックでもある。

 雪のをる萱が末葉は道もなし    心敬

のような会の目出度さもなく、どこか応仁の乱後の国の行く末を憂いているかのような発句に、宗祇は、

   雪のをる萱が末葉は道もなし
 ゆふ暮さむみ行く袖もみず     宗祇

と、簡単に旅の風景を添えて流している。
 有名な『天正十年愛宕百韻』の、

 ときは今天が下しる五月哉     光秀

の句にも、愛宕西之坊の住職の脇は、

   ときは今天が下しる五月哉
 水上まさる庭の夏山        行祐

と、そっけないものだった。
 江戸後期の竹内玄玄一の『俳家奇人談』の山崎宗鑑の所にあるエピソードだが、宗鑑と宗長が三条西実隆のところを尋ねて杜若を献じた時、お貴族様の実隆は旅の連歌師を蔑んで、

 手に持てる姿を見れば餓鬼つばた

と発句したのに対して、

   手に持てる姿を見れば餓鬼つばた
 のまんとすれば夏の沢水      宗長

と、ちょっと水を飲みに来た、と無難に返している。
 ただ、それを見かねたか、宗鑑が第三で、

   のまんとすれば夏の沢水
 蛇(くちなは)に追はれて何地かへるらん 宗鑑

と実隆を蛇呼ばわりして反撃している。
 まあ、礼儀も大事だが、それ以前に人間だということも忘れないことだ。

 「時節たがはぬ一の法也。同じ春にても三月にわかち、一か月の中にても、上旬、中旬、下旬と分侍る。
 同じ時節といひながら、霞などのやうに春三月ニわたる物あり。されど、霞にもうすきこきの時節、景気あり。
 忠峯のいふばかりにや。みよし野の山も霞て、と読れしは元日のかすみなり。此いふばかりにやといへるに、深キ心ある事也。
 同じ上旬にても元日の句に白馬節会、時節違なり。立秋の句に七夕の道具付たるも其心也。此心持肝要也。」(俳諧秘)

 季節の一致に関しては、かなり細かいことを言っている。まあ、面倒な時は「春」だとか「秋」だとか三か月使える言葉を用いればいいのだが。

   霜月や鸛の彳々ならびゐて
 冬の朝日のあはれなりけり     芭蕉

のような例もある。
 「白馬節会(あおうまのせちえ)」はコトバンクの「百科事典マイペディア「白馬節会」の解説」に、

 「朝廷の年中行事の一つ。正月7日に白馬を紫宸殿の前庭にひき出し,天覧のあと,宴を開く儀式。邪気を払う効があるという中国の故事による。初め〈鴨の羽の色〉(大伴家持)つまり青色の馬であったが,のち白色が重んぜられ,白馬となったという。」

とある。
 まあ、元旦の朝にいきなり七草粥がないのと同様、元旦の句に白馬節会もふさわしくない。「立秋」「七夕」もそうだが、一日限定のピンポイントな季語は使いにくいので、脇ではあまり用いられることはない。

 「取なりかつてせぬ事なり。詩の法に起承転之心能す。
 第三相伴人なれば、かけはなれ取なしも仕候。」(俳諧秘)

 脇は発句の意図を汲み取ってそれに逆らわず付けるのだから、前句を別の意味にとる為すことはあまりやらない。
 ただ、「かつて」とあるように、俳諧では特にやっていけないということはない。
 宗因の「俳諧無言抄」にも、

 「取なして付る事、古来きらふといへども発句によりてかならず取なして付る有。」

とある。発句によっては取り成した方が良いものもあるということだ。
 芭蕉の貞享四年の、

   久かたやこなれこなれと初雲雀
 旅なる友をさそひ越す春     芭蕉

の句は去来の、芭蕉さんを雲雀に喩え、「遥かなる高みからここまで来てみろと言われているような気持ちです」という寓意には答えずに、「去来さんの方が私を旅に誘って春を越しているのではありませんか」と別の寓意に取り成している。
 「こなれこなれ」と言っているのはあなたの方ではありませんか、と相手の詞を切り返しているわけだから、挨拶として不自然なものはない。
 「詩の法に起承転」とあるのは、漢詩の起承転結に喩えて、発句=起、脇=承、第三以下=転、とするもので、挙句が結になる。
 第三は句を大きく展開させた方が良いので、大きな取り成しで発句とかけ離れたものにすることもある。

2022年1月21日金曜日

 欧米はロシア、アジアも中国で世界的に緊張が高まってきている。コロナ下の混乱に付け入るなら、この春が最後のチャンスということか。もちろんそういう連中は内側にもいる。
 コロナが当初は生化学兵器でなかったにしても、後付け兵器として利用できる。既にされていると言っていいだろう。コロナを痛快だと言った人が出てきた辺りから、コロナは政争のための兵器だった。
 オミ株の感染力で強毒のウイルスが変異する可能性があるなんて言っている人がいるが、それを人工的に作っちゃおうなんて馬鹿が現れたら、本当にこの世界は終わるかもな。小松左京の「復活の日」だ。
 ゼロコロナはそのための演習だったりして。
 冷戦が終わった頃のあの希望に満ちた時代はどこに行ってしまったんだろうか。冷戦を終わらせたくないという、平和に反対する勢力が何でこんなに勢いづいてしまったんだろうか。
 鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第十 三段切発句之事

 花はひも柳は髪をときつ風
 織女は何れの薄ぎり雲の帯    則常」(俳諧秘)

 これは梵灯庵主の『長短抄』では三体発句ではなく、「大廻」の方のように思われる。
 『長短抄』には、

  「発句大廻ト云 在口伝、
   山ハ只岩木ノシヅク春ノ雨
   松風ハ常葉ノシグレ秋ノ雨
   五月雨ハ嶺ノ松カゼ谷ノ水
  三体発句
   アナタウト春日ノミガク玉津嶋
  此等ハ切タル句也、
   庭ニミテ尋ヌ花ノサカリ哉
   山近シサレドモヲソキ時鳥
   花ハ今朝雲ヤ霞ノ山桜
 此三句キルル詞ハアレドモ不切、」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.180)

とある。
 「山ハ只」の句は「山は只岩木のしづくが春の雨や」という意味で、この末尾の治定の「や」が省略されているとみていい。
 「松風ハ」の句も「松風(の音)は常葉の時雨や、秋の雨や」という意味で、治定の「や」が省略されている。
 「五月雨ハ」の句も「五月雨は嶺の松かぜ(に)谷の水(をそえる)や」で、いずれも治定の言葉が省略されている。それを補えば「〇〇は〇〇や」という主語述語整った形になる。

 蚤虱馬の尿する枕もと       芭蕉
 目には青葉山ホトトギス初鰹    素堂

もこの類といえよう。「蚤虱や馬の尿する枕もと」「目には青葉山(には)ホトトギス(口には)初鰹や」となる。
 これでいうと、

 花はひも柳は髪をときつ風

の句は「花はひもや、柳は髪をときつ風」であろう。
 花は紐だろうか、と謎掛て、何でそう思ったかというと、柳の髪は風が解き放つが、桜は解き放たれることなく動かないから、紐で髪をくくっているのだろう、ということになる。「ときつ風」は「時津風」に「解く」を掛けている。この句の上五は「花や紐」でも良かったのではないかと思う。
 「織女は」の句も、「織女は何れの薄ぎり(や)雲の帯」の省略と考えればいい。「や」を置かなくても「何れ」があるので省略できる。むしろ「何れ」が切れ字の役割を果たしているといった方がいいか。
 雲の帯だけが見えるがどこに織姫の本体があるのか、薄霧しか見えないという句。

  「第十一 はね字とめ発句

 名ぞ高き月や桂を折つらん
 歌もなし老やめいぼくなかるらん  季吟」(俳諧秘)

 らん留め発句は『新撰菟玖波集』に、

 月ほそしかつらやしげりかくすらん 法眼専順

の句がある。
 「月ほそし、かつらのしげりかくすらんや」「名ぞ高き月に桂を折つらんや」「歌もなし、老のめいぼくのなかるらんや」の倒置で、「や」「らん」を合わせて「らんや」という切れになる。

  「第十ニ 大まはし発句事

 あなたうと春日のみがく玉津嶋   古句
 花さかぬ身はなく計犬ざくら    元隣

 右の三通の発句、甚深の相伝有事也。其道の堪能ならずしては、仕立やう知とも無益の事也。僣踰の罪のがるるに所なけれ共、とてももの事に愚句一句書付侍し。」(俳諧秘)

 三通とあるが、二句しかない。「愚句一句書付侍し」の一句が抜け落ちたか。
 これは梵灯庵主『長短抄』の三体発句になる。ここにも、

 アナタウト春日ノミガク玉津嶋

の句が例示されている。
 これは形容詞の活用語尾の省略で、「春日のみがく玉津嶋はあなとうと(し)」になる。この「し」があれば、それが切れ字ということになる。

 あらたうと青葉若葉の日の光    芭蕉

もこれにあたる。形容詞の語尾は今日の口語でも頻繁に省略されている。「でかっ」「こわっ」の類。
 踰僭は僭越と同じ。分限を越えること。愚句一句は記されてない。

  「宗養より伝授の書に云、
   永享年中北野万句
 みづかきのふりて久しく松の雪   御所様御句

と被為遊しを、梵灯庵主宗匠にて、是は久しきと御沙汰候はば、珍重の御句なるべきを、大廻し御存知なきゆへと被申しをきこしめさせられ、御機色あしかりければ、都のすまゐ叶ずして、する河のかたはらに侍しと也。」(俳諧秘)

 宗養は宗長の弟子の宗牧の子で十六世紀の中頃に活躍した人。永享年は一四二九年から一四四一年までで、宗養からすれば百年以上も前になる。
 何度が北野社法楽万句が興行されているが、日文研の連歌データベースにある永享五年と永享七年のものにこの発句はなかった。
 ただ、梵灯が応永二十四年(一四一七年)頃の没なので、時代が合わない。宗砌や心敬の時代になる。
 要は「久しく」の形で切れているということで、これを三体発句の例としている。この場合は「瑞垣の経て久しく(なりぬ)松の雪」の省略であろう。「久しき」だと「松の雪」に係るので、切れない。

2022年1月20日木曜日

 トンガにニュージーランドの救援機が降りたって、多くの人や犬の映った画像が公開され、大変なことにはなっているけど、壊滅のような最悪な事態ではなかったので、少し安心した。
 夜中にあんなにエリアメールが鳴らなかったら、ひょっとしたら無関心だったかもしれないと思うと、あのエリアメールも役に立ったのではないか。
 昨日でオミ株の新規感染者数が四万人を越えた。まだ医療の方は余裕がある。感染拡大が急だったために、重症患者の増加とのタイムラグが大きくなっているのだろう。あと一週間すると切迫するかもしれない。
 「全国で一日四万人に達する前にピークアウトできれば、一応の勝利と言えよう。」なんて言ったのは一月四日で、まだあの一日1.5倍ペースでの拡大が始まる前で、オミ株の感染力を甘く見ていた。今までの日本の自粛体勢では、もはやほとんど感染拡大を抑止する効果がないと見るべきだろう。感染拡大の抑止を無視してでも、重症化防止にシフトすべき時だ。
 マスク、消毒、密の回避、などは、感染は防げないにしても、一度に吸い込むウィルス量を減らすことで、重症化を防ぐ効果がある。これは続けるべきだ。
 ワクチンも感染は防げないが、重症化を抑止できる。三回目接種を速やかに行わなくてはならない。
 その一方で、二週間の隔離措置は速やかに廃止した方が良い。経済活動が止まる恐れがあるし、エッセンシャルワーカーの感染により医療がストップする危険の方が大きい。
 五類引き下げだと、さすがにワクチンや治療薬が有料になってしまうので、そこまではすべきではない。隔離措置に関してだけは非常事態ということで、たとえ超法規的にでも柔軟に対応すべきだ。
 あと、既に新規感染者が一日四万人に達し、これからすぐに十万人に達するようであれば、欧米の感染状況との差がほとんどなくなるので、渡航制限もすみやかに解除した方が良い。在日米軍の外出制限についても同じ。
 そういうわけで、状況は変わった。「感染を広める」といった批判はもう無視していい。感染は止められない。重症化を食い止めろ。城壁で防げない時は、城内招き入れて搦め捕れ。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第八 発句切字なくてかなはぬ事也。
 猶予細有哉。
 所願(モガナ)、をの字、切字心持有也。
 しの字、むかふしの字はきれ字。過去のし、切字にならず。ぬの字、おはんぬのぬはきれ字。ふのぬはきれず。上に下知して、下に哉ととめ、上にこそといふて、下に哉ととむる事、宗匠はざなり。仕立やう有。」(俳諧秘)

 「猶予細有哉」は古来切れ字は多くの連歌書や俳書に書かれてきて、重複を避けるというのと、あとは口伝があるという意味だろう。門人向けにはここを多少補ってこの本を渡したのかもしれない。
 心持はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「心持」の解説」とあり、

 「① 心の持ち方。心がけや気立て。
  ※静嘉堂文庫本無名抄(1211頃)「身のふるまひもてなし、心もちなど、赤染には及び難かりけるにや」
  ※随筆・戴恩記(1644頃)上「其物語いまおもへば、みな人の心持になる殊勝の事どもなり」
  ② 実際はそうでないのに、そうであるかのような気持。また、何かしようとする気持。つもり。
  ※浮世草子・好色万金丹(1694)一「あふたびごとに壱歩壱つ宛銭箱に入て、是を揚銭の心もちとのけてをき」
  ③ 何かをしたり、されたりした時に、受ける感じ。
  ※滑稽本・古朽木(1780)二「宜敷気もち心持、嚊(かか)もやき餠打忘れ」
  ④ 生理的な心のぐあい。気分。「急に心持が悪くなった」
  ※人情本・清談峯初花(1819‐21)後「あつさつよきゆへにや、おりしこころもちあしくなりければ、やまのちゃやにやすむところへ」
  ⑤ 能楽などで、演じている外見の様子から察せられる、場面ごとの心のありよう。
  ※童舞抄(1596)源氏供養「正面へおもてをなをし、物を案ずるやうに心持をすべし」
  [2] 〘副〙 わずかにそれと感じられるだけ。ほんの少し。やや。
  ※狂言記・棒縛(1730)「小舞をまへ。いや此のなりではまわれぬ。どうなりと心持斗まへ」
  ※虞美人草(1907)〈夏目漱石〉一一「首を心持(ココロモチ)藤尾の方へ向け直した」
  [語誌]→「きもち(気持)」の語誌
  出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について」


とある。⑤の用法に近いもので、「もがな」「を」の字はかなり文脈に左右され、切字になったりならなかったりするという意味だろう。
 「もがな」は宗因の『俳諧無言抄』には、「ねかひかなは花も哉、月もかな也」とあり、「願ひ哉」とも呼ばれていたようだ。

 盛なる梅にす手引風も哉     宗房
 春風にふき出し笑ふ花も哉    同

など、古風な感じがする。
 「し」の字の「むかふしの字はきれ字」というのは形容詞の終止形語尾のことだと思われる。「過去のし、切字にならず」というのは、過去や完了を表す「き」という助動詞の連体形で、終止形ではないからだ。
 『野ざらし紀行』の三井秋風亭での句、

 梅白し昨日や鶴を盗まれし    芭蕉

の場合も、「白し」の方が切れ字で、「盗まれし」は切れ字ではない。「昨日は鶴をぬすまれしや」の倒置になる。
 紹巴の『至寶抄』は形容詞の「し」を「現在のし」と呼んでいる。
 「ぬの字、おはんぬのぬはきれ字。ふのぬはきれず。」は「終わんぬのぬ」「不のぬ」のこと。完了の「ぬ」は終止形で切れ字になるが、否定の「ぬ」は「ず」の連体形なので切れ字にはならない。
 「上に下知して、下に哉ととめ」の下知は命令のこと。命令形語尾や命令を表す助詞も切字になるので、それに哉を加えると切れ字が二重になる。『新撰菟玖波集』に、

 髪こほれまゆうちけぶるやな木哉 後成恩寺入道前関白太政大臣

の句がある。
 「上にこそといふて、下に哉ととむる」は「こそ」という係助詞を已然形ではなく「哉」で受けるということか。『新撰菟玖波集』に、

 名こそ萩ひかりは冬の月よかな  法橋兼載

の例がある。
 いずれにせよ変則的な切れ字の使い方で、宗匠格以外はやらない方が良いということのようだ。
 ついでだが、上に「や」と言って「哉」で結ぶ例も、『新撰菟玖波集』の連歌発句に見られる。

 春や風ふけば色そふ柳哉     宗長法師
 山や雨花にやどかす霞哉     藤原房定朝臣
 

  「第九 をまはしの発句

 花さかぬ草木もあるを石の竹
 どんぐりの木さえもあるを利根草

 此仕立やうは、上にさへと云て、下にをと押へ侍る也。
 句のこころは花さかぬ草木さへあるを、此石の竹の花咲は奇妙也。石や竹にも花さかぬ物なるを、くらべいへる心、自然に切る也。
 をの字、切字の所に出し侍れば、常のてにはをはのをの字、切字に成と思ひあやまり、又、古人のこの句のとまりに、をの字をすへたるを見て、切字かと思ふ人有故、是一ッの口伝。」(俳諧秘)

 「を」を用いた句というと、芭蕉にも、

 青くてもあるべきものを唐辛子  芭蕉

の句がある。逆説の仮定条件を表す接続助詞の「を」に限り、切字に用いられる。

  「第九ノ余リ爰ニ記ス

 白雲と花咲く木々をみねの雪

 かやうなるは切字にてなく侍る。
 又、物二つくらべずして切る有。ここに一両句あげ侍る。其格は口伝に残ス。

 霜にたへしみさほも有を雪の雲
 をしかりし春さへあるを年の暮  愚句

 祖白の句 

   暁がた雨はれたる元日
 来る春はさはらぬものを夜の雨

 此句は、来る春は八重むぐらにもさはらざりける、と云めづらしく侍るにや。其隠者の身の程を思へば、一入珍重成るにや。これら、をまはしの句の手本なるべし。」(俳諧秘)

 「白雲」の句は「木々や」とすべきところだろう。白雲と見まごうばかりに花さく木々や峯の雪なるらん、という意味で、「を」だと、白雲と見まごうばかりに花さく木々を峰の雪と見て、という付け句の体になってしまう。
 「物二つくらべずして切る有」は先の芭蕉の「青くても」の句も同じ。逆説の仮定条件として他の者を出すか出さないかの違い。
 祖白の句は、

 とふ人もなき宿なれど来る春は
     八重葎にもさはらざりけり
              紀貫之(新勅撰集)

によるもので、「さわらざりけり」は「障らざりけり」で、障害にはならない、という意味になる。八重葎の茂る宿にも春は気にせずに来てくれる。
 これに対し祖白の発句は、来る春は夜の雨でも気にせずに来てくれるものをという逆説の仮定を示すことで、句自体には現れない前書きの「暁がた雨はれたる」に応じている。

2022年1月19日水曜日

 今朝のニュースでトンガの津波が15メートル何てあったが、どこから出てきた数字なのか。昨日の航空写真を見ても、灰に埋もれてはいても建物や木などが流されたふうではない。当初言っていた1~2メートルが妥当な感じがする。英語版のウィキペディアには、

 As a result of the eruption, a 1.2 m (3 ft 11 in) tsunami, struck the Tongan capital Nukuʻalofa. Tide gauges in the city recorded waves 1.5–2 m (4 ft 11 in–6 ft 7 in) in height.

とある。
 ソースはどうやら駐日トンガ王国大使館のfacebookだったようだ。そこには、

 generating tsunami waves rising up to 15 metres, hitting the west coasts of Tongatapu Islands 'Eua, and Ha'apai Islamds.

とあった。
 トンガタプ島は首都のある一番大きな島で、エウア島はその少し南東にある島、ハアパイ諸島は火山を挟んで反対側の北東の方にあり、リフカ島、フォア島、ハアアノ島、ウイハ島などがある。これらがトンガの主要な島になるため、これはほぼ全土にと言っていいだろう。
 「未だトンガとの通信が困難なため、在トンガオーストラリア高等弁務官事務所のご協力によりトンガからこの情報を伝達いただきました。」とあるところから、この情報は在トンガオーストラリア高等弁務官事務所から何らかの形で伝わったものと思われる。
 問題はこの津波の高さに関する情報が正確なものかどうかだ。十五メートルの津波の破壊力は、東日本大震災を経験した日本人なら誰もが知っている。あの時の東北の惨状と比べて、昨日公開された航空写真に違和感を感じるのは筆者だけだろうか。希望的には1.5 metresの間違いであって欲しい。
 まあ、でも15メートルって宣伝しておいた方が募金集まるかな。
 話は変わるが、そういえば「男は敷居を跨げば七人の敵あり」なんて諺があったななんてふと思って。「敷居を跨げば」だから女房子供や同居親族のことではない。一歩外に出れば、という意味。
 基本的には昔の男社会にあって、男の敵は男しかいなかったのだろう。みんなライバル。生存競争でも恋でも。
 女だって、女同士はライバルで、家の中では嫁舅、恋をすれば友情より愛情。男と女は愛し合うものだから、結局男の敵は男、女の敵は女というのは自然な結論になる。
 人間の敵はというと、やはり人間が一番怖い。野生動物で死ぬ人なんてそんなにいないが、戦争では大勢の人が死んでいる。
 Dアニメにマイメロディのアニメ「おねがいマイメロディ」があったので見てみたが、そのうちこういうのもダメということになるのかな。一つわかったのはマイメロディは異世界から来たということだ。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第六 きき発句之事 色々有之。略之。」(俳諧秘)

 「きき発句」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「聞句」の解説」に、

 「〘名〙 謎のような句で、意味が容易に解けない俳句。句の言いまわしの技巧や切れるところによって解釈の変わるような俳句をいう。聞発句(ききほっく)。
  ※俳諧・去来抄(1702‐04)同門評「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」

とある。
 『去来抄』「同門評」の用例は、

 「まんぢうで人を尋ねよ山ざくら  其角
 許六曰、是ハなぞといふ句也。去来曰、是ハなぞにもせよ、謂不応と云句也。たとへバ灯燈で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也。是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂へる事を、我一人合点したる句也。むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41~42)

とある。具体例はない。
 其角の「饅頭で」の句は元禄九年刊の李由・許六編『韻塞』にも収録されているが、元禄十年の桃隣編『陸奥衛』の巻に「むつちどり」には、

 「遙に旅立と聞て、武陵の宗匠残りなく餞別の句を贈り侍られければ、
  道祖神も感通ありけむ。道路難なく家に帰り、再会の席に及び、此道
  の本意を悦の餘り、をのをの堅固なる像を一列に書て、一集を彩ものなり。
    子の彌生 日」

と前書きし、調和、立志以下二十人、一人一ページ座像入りで一句ずつ掲載している。ただ、ここには故人である芭蕉も含まれているため、全部がこの時の餞別の句ではない。
 確かにそこには、

   餞別
 饅頭て
 人を尋よ
  やまさ
   くら  其角

と記されている。
 そして巻五の「舞都遲登理」の桃隣の紀行文の序文の最後に、

   首途
 何國まで華に呼出す昼狐     桃隣

の句がある。これはおそらく、「饅頭へ」の句への返しのようにも見える。饅頭を持って行って人を尋ねてこい。それにたいして「どこまで行かせる気だよ」と返すやり取りは面白い。昼狐は其角のことだろう。
 饅頭の句の最初に作られた時の意図とちがっていたにしても、集を盛り上げるために転用した可能性はある。
 許六はこれをあざ笑うかのように、

 「此人にハいろいろおかしき咄多し。ミちのくの旅せんといひしハ春の比也。其春晋子が句に、
 饅頭で人を尋ねよ山ざくら
と云句せしに、此坊ミちのくの餞別と意得て、松島の方へ趣たるもおかし。戻りて後の今日ハ、餞別にてなきとしりたるや、かれにききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.203~205)

と記しているが、『去来抄』を読む限りでは許六は「是ハなぞといふ句也」というだけで、正解を知っているわけではない。
 饅頭の句は、酒の苦手な芭蕉さんの足跡を訪ねて陸奥へ行くなら饅頭を持って行くと良い、という句とみなして良いと思う。
 これは聞句ではない。ということで、聞句の具体的なことは、とりあえず今はわからない。季吟も語らない。

  「第七 詞をのこす発句

   千代も経ん丁固が夢を春の門

 是丁固が古事也。千代もへんといひ、春の門といへるにて、松といふ事をいはずして、言外にあらはしたり。」(俳諧秘)

 「丁固が夢」はウィキペディアにある、

 「宝鼎3年(268年)2月、司徒に昇進した。以前丁固が尚書であった際、松の木が腹の上に生えるのを夢に見て、ある人に「松の字は十・八・公からなる。十八年後、私は三公になっているであろう」と言っており、結局夢のとおりになった。」

のことであろう。
 丁固が夢の時代から既に千年以上が経過した今も、やはり出世の夢を見せてくれるのか、正月の門松は、という句になる。「春の門」には門松の「松」が省略されている。

  「星祭る香の煙や蚤のいき   季吟

 是は、蚤のいき天へ上るといへる世話也。」(俳諧秘)

 「蚤のいき天へ上る」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蚤の息さえ天に上る」の解説」に、

 「力の弱い者でも、一心になって行なえば何事でもなし遂げることができるというたとえ。蟻の思いも天に届く。農民の息が天に上る。蚤の息が天。
  ※名語記(1275)一〇「のみのいき天へのぼるといへる対記あり、蚤の息のそらへのぼれる証拠ある歟」」

とある。
 百姓の思いも天に届くように、先祖を祀る香の煙も天に届いてくれ、という句か。

 「彼在原の中将、我身ひとつはもとの身にして、と云はなちて、二条の后はましまさぬとい事を言外にもたせたると、事こそかはれ大方心通ひ侍る也。此体初心ならぬ体也。」(俳諧秘)

 「我身ひとつはもとの身にして」は在原業平の有名な、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして
              在原業平(古今集)

の歌で、『伊勢物語』では、東の五条に大后の宮の西の対に住む人の所に通っていたが、やがていなくなってしまっい、次の年に尋ねて行った所、正月の梅の花盛りだが、去年とはうって変わった荒れた空き家のあばらなる板敷に月も傾き、去年を思ひ出して詠んだ、とある。
 「我身ひとつはもとの身にして」の後には「二条(五条の間違い?)の后はましまさぬ」が省略されている。
 上句は「月はないのだろうか、昔と同じように輝いている、春は昔の春ではないのか、いや、昔のように梅の花が咲いている。」となる。

 「又、賓主差別の事、仮令ば松の雪といふ時は松は主也。雪は賓也、客也。又、宿の秋、秋の宿など云心持也。他准之。」(俳諧秘)

 賓主差別は、この例によれば、松の雪は松が主人で、その松の所にお客さんとして雪が来ている、というもので、「宿の秋」は宿が主で秋が賓なら、宿に秋が来ている、「秋の宿」なら秋が主で秋の景色の中に宿がある、ということになる。
 これでいうと、「秋の暮」は秋が主で暮(終わり、あるいは夕暮れ)となり、「暮の秋」は季節の終わりが主で秋が客になる。

2022年1月18日火曜日

 筆者はいじめる奴を「病んでる」と思ったことは一度もない。
 人を「病んでる」なんてレッテル貼って断罪する発想が、そもそもいじめなんではないかと思う。
 いじめは生存競争の自然な姿で、誰でも知らないうちにいじめる側になっている。いじめられた時だけ気付いて、いじめたことには気づかない。それが人間だ。
 THE BLUE HEARTSの「TRAIN-TRAIN」にもあるように、「弱い者たちが夕暮れ、更に弱いものを叩く」で、いじめる奴らももっと強い奴らからいじめられている。上のカーストの奴らの傲慢が中層下層を圧迫し、それが最下層にまで降りてくるといじめも悲惨なものになる。これが世の中だ。
 まあ、あのドラマは「たった一つの真実なんてない」と言っているから、いじめる奴が病んでいるというのも、一つの見方ではあるけどね。
 あと、いじめられていた人に言っておきたい。自分の心の傷を絶対に忘れるな。目を背けたらお前は終わる。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第四 無心所着の体
 無心所着といへるは、和歌よりも難ずること也。其有様心を着る所なし。一首にしかとしたる体なきなり。
 八雲御抄云、誰そぞろとあやしくよめば、その姿なきものなり。

 わぎもこがひたいにおふるすぐろくの
     ことひのうしのくらのうへのかさ

 はいかいにも、

 花は根にかへるの声や先ばしり
 足引の山さるや月のかつらの木

 これらの句、云かけのみに心を入て、何共聞へず。平句など数不知侍れ共、前句にまぎれて一句立やうなれば、誰も気を付ず。」(俳諧秘)

 無心所着はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「無心所著」の解説」に、

 「〘名〙 各句ごとに全く関連のない事をいい、全体としてまとまった意味をなさない歌。わけのわからない歌。
  ※無名抄(1211頃)「あるは又、おぼつかなく心こもりてよまんとするほどに、はてにはみづからもえ心えず、たがはぬ無心所着になりぬ」
  [補注]「万葉‐三八三八・題詞」に「無二心所一レ著歌二首」とある。」

とある。
 この「万葉‐三八三八」は岩波文庫の『新訂万葉集 下』では、

   心の著く所無き歌二首
 吾妹子が額(ぬか)に生ひたる双六の
     牡牛(ことひのうし)のくらの上の瘡
 吾背子が犢鼻(たふさぎ)にする圓石(つぶれいし)の
     吉野の山に氷魚(ひを)ぞ懸有(さがれ)る
   右の歌は、舎人親王侍座に令せて曰く、もし由る所無き歌を作る人あ
   らば、賜ふに銭帛を以ちてせむとのたまひき。時に大舎人安倍朝臣子
   祖父、乃ちこの歌を作りて献上りしかば、登時募れりし物鏡二千文を
   給ひき。

とある。要するに余興としてわざと意味のない歌を作らせたわけだ。
 意図的に意味を生じないように、通常の文脈から外れる言葉をあえて選び出して作っているから、近代のシュールレアリズムの自動記述とは異なる。
 吾妹子の方は「吾妹子が額(ぬか)に生ひたる」まで作って、普通なら角を連想する所を、まったく関係ない「双六」に変える。ただ、角のイメージが暗に残っているため「牡牛(ことひのうし)のくら」と展開していて、鞍にあるはずのない「瘡」で結んでいるが、冒頭の「額(ぬか)に生ひたる」の瘡なら意味を持つ。
 つまり、この歌は、

 吾妹子が額(ぬか)に生ひたる角ふたつ
     牡牛(ことひのうし)のくらの上に居り

なら意味が通じる。「額(ぬか)に生ひたる角ふたつ」が「牡牛(ことひのうし)」を導き出す序詞の役割を果たす。
 つまり、和歌に習熟した人が、わざと一部言葉を変えて意味不明にしたと見ていい。
 これは例えば、

 電柱はたんぽぽのやうな月を飾り
     もう夜あけである事を示す
              中野嘉一

のような、近代シュールレアリズムの影響を受けた歌とは明らかに異なる。この歌は、基本的には有明を詠んだ歌だが、月の色を蒲公英に喩え、それにススキならぬ電柱をあしらい、夜が明けてゆくと、奇抜な比喩を除けばわりと普通の歌だというのがわかる。
 あくまで意味の有る歌を作ろうという意図が感じられ、無心所着とは言えない。
 無心所着が歌学で難ずべきものだとすれば、それは技術のなさによって意味不明になってしまったときであろう。
 無心という言葉は、近代では邪心や欲得のないという良い意味で用いられることが多いが、本来は「意味がない」という意味で用いられることが多かった。「こころ」には「意味」という意味があった。

 花は根にかへるの声や先ばしり

の句は、「心あまりてことばたらず」の悪い方の例だろう。作意が強くて技量が追い付かない、いわば企画倒れの句だ。
 花は根に帰るは花が散ることで、それを死の暗示で「土に帰る」から唐突に蛙を導き出し、晩春の蛙の声が先走って聞こえてくる、というものだ。

 足引の山さるや月のかつらの木

の句も、足引きの山から、月に泣く山猿の声を導き出し、その月には古来桂の木があるとされている。月に叶わぬ思いを抱いて泣く猿の声の悲しさは、古来漢詩にも詠まれてきた。ただ、「足引の山さる」「月のかつらの木」の作意が過ぎて、その情が伝わりにくくなっている。

  「第五 歌之制詞はいかいにも
 古人此詞に粉骨したる詞なり。

 月やあらぬ 霞かねたる ほのぼのとあかし

などいへる詞也。
 制の詞とて一冊有也。有が中にも家隆の歌おほし。され共、此一冊に限べからず。
 近代の歌也とも、作者ふかく思ひ入たる詞取べからず。

 久かたの月 をしてるや難波 足引の山鳥

の類なり。
 同じ人丸の歌ながら、足引の山鳥はまくら詞也。幾度よみてもくるしからず。ほのぼのとあかしの歌は人丸ふかく思ひ入、珍しき景気をつらねし故也。
 かやうの詞を主有詞といへり。霞を衣にたとへ、色葉をいろはにたとへ、霜を柱などの類、千度万度も新敷く、一言さへくはへばくるしからず。
 俳諧平句ニも、

   稀にあふ夜をばまん丸ねもせいで
 玉子のおやかいそぐきぬぎぬ   貞徳

   ま虫のさたはおかしませとよ
 見るににくへの字戴ヨ入道    季吟

 かやうの類あげてかぞふべからず。姿の字の類、際限なき事也。」(俳諧秘)

 「制の詞」は今で言えば著作権の問題になる。今日の著作権の考え方は完全な一致がどの程度の量で見られるかから判定される。だから、一字変えるとか、音楽で言えば一音変えるとかで逃れる場合もある。それでも似ていれば「パクリ」だと言われ、作者の評判を落とすことになる。
 かつては法的な規定もなく、和歌では有名な和歌のフレーズなどが制の詞とされてきた。
 「月やあらぬ」は、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして
              在原業平(古今集)

で、これは有名。
 「霞かねたる」は、

 今日見れは雲も桜に埋づもれて
     霞かねたるみ吉野の山
              藤原家隆(新勅撰集)

で、今ではあまり顧みられない歌だ。「有が中にも家隆の歌おほし」とあるところを見ると、制の詞が定められる過程で、何らかの大人の事情があったのかもしれない。
 「ほのぼのとあかし」は、

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
     島がくれ行く舟をしぞ思ふ
  この歌、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり(古今集)

の歌で、かつては誰もが知るような歌だったが、今はそれほどでもない。
 「久かたの月」「をしてるや難波」「足引の山鳥」に関しては、人麿の歌であっても、枕詞なので制の詞にはならない。
 「久かたの月」は、

 ひさかたの天行く月を網に刺し
     我が大君は蓋にせり
              柿本人麻呂(万葉集巻三、二四〇)

だろうか。
 「をしてるや難波」は、

 おしてるや難波の御津に焼く塩の
     からくも我は老いにけるかな
              よみ人しらず(古今集)

の歌がある。
 「足引の山鳥」は言わずと知れた、

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝む
              柿本人麻呂(拾遺集)

になる。
 「霞を衣にたとへ、色葉をいろはにたとへ、霜を柱などの類」などは、和歌でも連歌でも俳諧でも繰り返し用いられてきた言葉で、こういう言葉も制の詞にはならない。ほんの少し変えるだけでも新しくなるからだという。
 むしろ和歌は俳諧といった雅語に拘束される文芸では、限られた語彙の中でいかに新味を出すかが求められる。俳諧の場合は新しい俗語に置き換えることができるが、雅語の文芸はそうはいかない。

   稀にあふ夜をばまん丸ねもせいで
 玉子のおやかいそぐきぬぎぬ   貞徳

 前句の「まん丸」を卵として、「音も急いで」から卵の親の音、つまり鶏の声とする。

   ま虫のさたはおかしませとよ
 見るににくへの字戴ヨ入道    季吟

 「ヨ入道」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「夜入道」の解説」に、

 「〘名〙 (「ヘマムショ入道」の「ヨ」を「夜」にいいかえて上略した語) 入道姿をした人。また、夜歩きをするあやしげな坊主。
  ※俳諧・天満千句(1676)二「かたかなつくる色々の草〈宗因〉 よ入道その味ひをかんがへて〈西鬼〉」

とある。「ヘマムショ入道」は同じく「精選版 日本国語大辞典「ヘマムショ入道」の解説」に、

 「〘名〙 「ヘマムシ入道」の横顔に片仮名の「ヨ」を加えて耳を描いたもの。
  ※随筆・遠碧軒記(1675)下「青蓮院殿にヘマムショ入道」

とある。画像があるが、「へのへのもへじ」のような字で顔を書く遊びで、へが頭に、マが眉と目に、ムが鼻に、シが口と顎になり、「入」が首と襟と背中、「道」のしんにょうが袖になる。
 前句の「まむし」に「へ」の字の頭を戴き、更に「ヨ入道」を書くことで、可笑しさが増す。
 まあ、俳諧は新しい言葉を工夫することが大事で、古臭い制の詞をわざわざ用いることもない、ということだろう。
 前に、

 いにしへの奈良のみや此八重桜

の句が出てきたが、当時は文字の一致は盗用とはみなされなかった。

 はぜ釣るや水村山郭酒旗の風   嵐雪
 よにふるもさらに宗祇の宿りかな 芭蕉

のような句も特に問題はなかった。
 ただ、言葉の続きが似ている句は『去来抄』で問題にされてたりする。

 樫の木の花にかまはぬ姿かな   芭蕉
 桐の木の風にかまはぬ落葉かな  凡兆

 くずの葉の面見せけり今朝の露  芭蕉
 蕣の裏を見せけり秋の風     許六

 ともに意味が大きく異なるもので、等類にはならない。

2022年1月17日月曜日

 トンガの方の状況は未だわからないようだ。日本では船がひっくり返ったり、漁業の方に被害が出ている程度。それも大変だけど、トンガに比べればという意味。
 日本海側の山口県阿武町でブリが三千匹なんてニュースがあったが、何か関係あるのだろうか。
 昨日聞いたエリアメールの回数は、横浜経済新聞の、

 「NTTドコモの緊急速報メール「エリアメール」の配信記録によると、横浜18区に対しては、0時に5回、1時に7回、2時2回、3時1回、4時2回、5時1回、7時2回の計20回が、大きな警告音とともに配信された。」

で、大体あっていたと思う。600回以上なんて数字がどこからでてきたやら。本当にそんなことがあったら、三十秒おきでも五時間続いたことになる。
 どうやら、NTTドコモの三十以上の地域でそれぞれの発信されたエリアメールを足し算したものが、600回以上だったという話のようだ。20×30=600でだいたい計算が合う。同一地域では二十回が上限。
 これを勘違いしたか、意図的に印象操作しようとしたか、一晩に600回もアラートが鳴ったかのようなネット情報が拡散された。怪しげなネット情報に踊らされないように気をつけよう。
 通常の津波は海底の地殻変動によって起きるが、今回のは海面付近で起きたために、津波の伝わり方が通常と違っていたのだという。気象庁が早く気が付いて警報を出したのは英断と言っていい。
 エリアメールの問題は気象庁の問題ではなく、エリアメールの管理の問題。気象庁を叩いている奴はお門違い。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第三 発句本意之事
 秀句をいかほどよく云おほせたり共、其本意たがひたるは、嫌也。

 かへるさは思ひきられぬ藤見かな

 藤見といへる秀句は、人を棄市するわざに藤身といへるもの有て、身もやすらかにただすぎられぬをいへるにや。庭にもせよ山にもせよ、屠所云たてたるもいかがにや。」(俳諧秘)

 公開処刑を執行する者に「藤身」というのがいたのか。これに関してはよくわからない。
 これを踏まえるなら、句はただ藤を見ていて、帰ろうと思ってもなかなか離れがたいほど藤が見事だ、という句に、「藤身といえども斬ることができない」という別の意味が付け加わることになる。これは藤の花の風流に背く、ということになる。
 まあ、今でもほとんどの人が知らない、忘れ去られたような別の意味のある言葉で、たまたまその言葉を使ったら同和差別だといって炎上したりすることがある。「藤身」もあるいはそういう言葉だったか。
 ただ、それだと芭蕉が惟然に送った、

 藤の実は俳諧にせん花の跡    芭蕉

の句は問題にならなかったのだろうか。
 あるいは「藤の実」が「藤身」を連想させるので用いられないというのがあったのを、あえて宗祇の藤白御坂を理由に、俳諧のテーマとして認めさせたということか。

 「是にもかぎらず、

 めぐり来る年も羊のあゆみ哉
 まめがなてかくす七歩の試筆かな

 両句ながら其古事をあなづる時は不吉の例なり。」(俳諧秘)

 「羊のあゆみ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「羊の歩み」の解説」に、

 「(「北本涅槃経‐三八」の「如二囚趣レ市歩歩近一レ死。如下牽二牛羊一詣中於屠所上」から)
  ① 屠所にひかれてゆく羊のような、力ない歩み。刻々、死に近づくことのたとえ。屠所の羊の歩み。
  ※源氏(1001‐14頃)浮舟「ひつじのあゆみよりもほどなき心地す」
  ② 歳月。光陰。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。作者は②の意味で、未年だからということで詠んだのか。ただ、①の意味を知っている人が見ると、なんて不吉な、ということになる。
 ただ、

 門松は冥土の旅の一里塚
   めでたくもありめでたくもなし

というのもあるから、正月が死への歩みというのは間違ってはいない。なお、一休の狂歌と言われているが、出典は定かでない。
 「まめがなて」の句の「まめがな」はカタカナのこと。「て」は手で書のことか。「試筆」は書初めのこと。七歩は「七歩の才」で、コトバンクの「故事成語を知る辞典「七歩の才」の解説」に、

 「すばやく詩や文章を作る才能のたとえ。

  [使用例] なにを田の面もにしのび鳴くらん 寄虫恋むしによするこいというつもりだが、七歩の才おぼつかなく、上の句がすぐに出ない[石川淳*かよい小町|1947]

  [由来] 「世説新語―文学」に見える逸話から。三世紀、三国時代の中国でのこと。魏ぎという国の曹そう植ちという人物は、時の皇帝、文帝の弟でしたが、若いころから才気にあふれていて、その才能を兄にねたまれていました。あるとき、文帝が曹植に向かって、「七歩、進む間に詩を作らなければ死刑に処する」というむごい命令を出します。ところが、曹植は即座に、兄弟が争わなくてはならないことを嘆いた詩を作ったので、文帝は深く自分を恥じたということです。

 カタカナで書いて能筆なのを隠して、わざと下手そうに見せる、ということか。ただ、「七歩の才」は由来のところにあるように、「七歩、進む間に詩を作らなければ死刑に処する」という所から来ているから、正月にはふさわしくないというのだろう。

 「連句などにも、

   華乗上黄蝶
   藤湜繋黒牛 ト云対句有。

 此対字はよく対し侍れ共、やさしき黄蝶にむくつけなき黒牛つなぎあはさんも、おもはしからず。かやうの例もあまた有。」(俳諧秘)

 「乗」には「クルマ」とルビがある。花車に黄蝶を上らせて藤の清きに黒牛を繋ぐ、となるのか。
 伝統絵画の牛は黒く描かれることが多いから、そんなに問題ないようにも思うが。
 なお「むくつけなし」は「むくつけし」と同じ。否定語があってもなくても同じ意味の言葉というと、「はしたなり」「はしたなし」の例もあり、今日でも「何気に」「何気なしに」の例がある。

 「さのみほむまじき花をことごと敷めづるも又、本意ちがひ侍る也。まして愛するものをさもしく云いださんをや。

 あなゆかし鼠のふんの花盛

とせば、花への悪口なるべし。」(俳諧秘)

 「鼠のふん」はネズミモチの別称で、夏に白い花を円錐状に咲かせる。地味な花にはそれにあった褒め方があるもので、

 世の人の見付けぬ花や軒の栗   芭蕉
 寒菊や小糠のかかる臼の傍    同

のような取り囃しがふさわしい。

 「とかく聞なれぬ題をすべからず。

 接足て花の枝折さくらかげ

 をらるる花とふまへて、折器と混乱して何れもわけなく侍る。

 雲やこけら風にしらくる月かへな

 此句もしらくる器は月かへな、しらけらるる物は月なり。しらけらるるもの、しらくる物、一になりてわけなし。」(俳諧秘)

 「接」には「つぎ」とルビがあるので「つぎたして」であろう。「枝折」は四文字なので「えだをる」か。
 花は折るべきものではない。折器は折るにふさわしい題材という意味であろう。不本意にも折られてしまった花を詠むべき所だ。
 「雲やこけら」の句の「しらくる」は、今日でいう「しらける」と同じで興が覚めるの意味になる。「しらくる器は月かへな」は白けさせているのは月なのか、そうれはなく雲や風によって白けさせられているのだが、この言い回しだとどっちだかわからない、ということだろう。

2022年1月16日日曜日

 夜中にいきなり緊急速報エリアメールで起こされて、その後も五分間隔で鳴り続ける。
 夕方のニュースでトンガの火山噴火のことはニュースになったが、「津波の心配はない」を繰り返すだけで、肝心なトンガやその周辺でどういう被害が出ているかという情報が何もなく、もやもやしていたところだ。
 津波が来るとしても0.2m?これってみんなを叩き起こす程のことなのか。それよりもトンガの人達を心配する気持ちがないのか。
 今日になっても、トンガの情報は入らない。津波はそれほど壊滅的な被害を出したのではなさそうだが、火砕流とかは大丈夫だったのか。
 コロナの方は一月九日、十日をピークにして実効再生産数が下がり、増加のペースがダウンしている。良い兆候だ。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「本歌本語を用て心ヲ添有

 女郎花たとへばあはの内侍かな  季吟

 是は、かの蒸る粟のごとしといへるを、内侍と云そへたり。」(俳諧秘)

 「本語」は本説と同じと考えていいだろう。この場合の粟は「邯鄲の夢」、粟一炊の夢を本説としたものであろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「邯鄲の夢」の解説」には、

 「人の世の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。「一炊(いっすい)の夢」「邯鄲夢の枕(まくら)」「盧生(ろせい)の夢」などともいう。中国唐の開元年間(713~741)、盧生という貧乏な青年が、趙(ちょう)の都邯鄲で道士呂翁(りょおう)と会い、呂翁が懐中していた、栄華が思いのままになるという不思議な枕を借り、うたた寝をする間に、50余年の富貴を極めた一生の夢をみることができたが、夢から覚めてみると、宿の亭主が先ほどから炊いていた黄粱(こうりゃん)(粟(あわ))がまだできあがっていなかった、という李泌(りひつ)作の『枕中記(ちんちゅうき)』の故事による。[田所義行]」

とあり、『邯鄲』は謡曲にもなっている。
 内侍は「あはの内侍(阿波内侍)」で「あは」は掛詞になる。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「阿波内侍」の解説」に、

 「生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の女性。『平家物語』に登場する建礼門院徳子の女房。『平家物語』の中でも信西(藤原通憲)と紀二位朝子の娘とするものと,信西の子藤原貞憲の娘とするものがある。信西の孫真阿弥陀仏などの説もあるが,実在は確認できない。文治1(1185)年平家滅亡後剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る建礼門院に,大納言佐と共に尼となって仕え,女院の最期を看取ったという。文治2年の後白河法皇の大原御幸で両院の対面の司会者的役割を果たし,信西の縁者ともされるため,『平家物語』の成立との関係,醍醐寺および安居院流唱導との関連などが指摘されている。(櫻井陽子)」

とある。句の方では平家一門の繁栄を邯鄲の粟一炊の夢として、平家の盛衰を見守ってきた阿波内侍のイメージを重ねている。

 「月になけ同じくは今郭公

 是は、月になけをなじ雲井のほととぎす、と云をとれり。同敷は今句の働き也。
 月見れば千々に物こそかなしけれ我身ひとつの秋にはあらねど、というをとりて、長明

 詠むれば千々に物思ふ秋にまで
     我身ひとつの峯の松風

 是は、かのみつねの我身の秋にはあらねど、といへるにあたりて、その詠こし月に、また我身ひとりの秋也、とこたへ侍る贈答の各なりとぞ。」(俳諧秘)

 「月になけをなじ雲井のほととぎす」は不明。日文研の和歌検索にはかからなかった。似ているものには、

 月になけ過ぎゆく秋のきりぎりす
     なかはもいまは有明の空
              藤原雅経(明日香井集)
 ほととぎす雲のいづくにやすらひて
     明方ちかき月になくらむ
              後鳥羽院(後鳥羽院御集)

などがある。こうした歌の心から、我も同じくと同意して、「月になけ同じくは今郭公」となる。興行開始の挨拶ならば、我々も今こそ鳴こうではないか、という意味になる。
 長明の「詠むれば」の歌は、

   月前松風
 ながむれば千々にもの思ふ月にまた
     わが身ひとつの峰の松風
              鴨長明(新古今集)

で、

 月見れば千々にものこそ悲しけれ
     我が身ひとつの秋にはあらねど
              大江千里(古今集)

を本歌としている。秋は我身一つのものではないけど、月は我身一つ悲しい、という本歌に、峯の松風もまた、と付け加える。大江千里に賦す形になる。

 「又、法橋兼載の句に、

 まつ人に立枝ややすむ宿の梅

 是は、我宿の梅の立枝や見へつらん思ひの外に君が来ませる、といふをとりて、待人のこぬは我宿の梅の立えや其人のために霞みつらん、と人と梅とを恨心を打かえして仕立給へり。
 此打かへしていへるにて、心新しく成り侍る。かやうなるも一の格也。」(俳諧秘)

 「我宿の」の歌は、

 わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ
     思ひのほかに君が来ませる
              平兼盛(拾遺集)

で、これを本歌にして、「まつ人に」(「君が来ませる」のに来ないので、「立ち枝や見えつらむ」の)「立枝」も霞むとなる。となると、発句は「立枝やかすむ」ではないのか。
 「君が来る」という本歌の設定を、君が来なくて「かすむ」と打ち返すことで、心が新しくなる。

 「又、声をかり、余の物に云たて、或は秀句をかぬるもあり。

 治るや神祇霊地の四方の春
 なむといつは味奇妙也菊の酒   元隣

 此類も世間の格とおなじ。」(俳諧秘)

 『新続犬筑波集』巻十一、春上に、

 仁義礼智しんとしつけし四方の春

の句がある。この儒教の仁義礼智を神道の神祇霊地に変えて作っている。名前がないのは季吟の句か。
 元隣はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「元隣」の解説」に、

 「江戸前期の俳人、国学者。山岡氏。字(あざな)は徳甫(とくほ)。別号而慍斎(じうんさい)、洛陽(らくよう)山人、抱甕斎(ほうようさい)。医名は玄水。伊勢(いせ)山田(三重県)の商家の出身。上京して俳諧(はいかい)、国学を北村季吟(きぎん)について修行。また儒学や禅学にも通じ、さらに医学をも修めた。季吟門の逸材で、仮名草子、俳諧、古典注釈などに活躍した。仮名草子作者としては、教訓的随想集『他我(たが)身の上』(1657)や『小さかづき』があり、俳諧関係では『身の楽(らく)千句』『俳諧小式』『歌仙ぞろへ』の編著がある。また日用の家具、文房具を題材とした『宝蔵(たからぐら)』(1671)は、俳文集の嚆矢(こうし)として評価される。ほかに、古典注釈書として『徒然草鉄槌(つれづれぐさてっつい)増補』『鴨長明方丈記(かものちょうめいほうじょうき)』『水鏡抄』『世の中百首註(ちゅう)』などがある。[雲英末雄]」

とある。元句がわからない。

 「又、一字をたがへずして用るも有。これも其所によりて、用やう心を格別にして用る也。
 伊勢物語に融の大臣のしのぶもぢずり歌も女の返歌に用たる、此心也。
 左伝などにも詩を賦すとて、古詩を用たる例あり。或人の物語に桜を見て、

 いにしへの奈良のみや此八重桜

 此句は、俳言なきやうにきこゆ。され共よくは云まはしたり。
 古本歌本語を取用格也。されど是のみにかぎらず、大方此理を以て古人の句をおほく見れば、自然に知る也。
   定家卿詞云和歌無師匠唯以旧歌為師
   染於心古風習詞先達者唯人不詠之哉」(俳諧秘)

 「しのぶもぢずり」の歌は『伊勢物語』第一段にもあり、男の、

 春日野の若紫のすり衣
     しのぶの乱れ限り知られず

の歌に対して、地の文で、

 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに
     乱れむと思ふ我ならなくに
              源融(古今集)

を引用して、「といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。」と締めくくっている。これを女の返歌で、源融の歌をそのまま返したと解釈している。
 左伝の例はよくわからない。

 いにしへの奈良のみや此八重桜

の句は、

 いにしへの奈良の都の八重桜
     けふ九重に匂ひぬるかな
              伊勢大輔(詞歌集)

の上句の取り成しで、「いにしへの奈良のみや、この八重桜」と読み替える。
 最後に定家の「和歌に師匠なし、古歌を以て師匠となす」の言葉を引用し、本歌本説のことも古歌から学べと言って締めくくる。

2022年1月15日土曜日

 医療従事者の隔離期間を二週間から一週間に縮めるなんて言ってたと思ったら、十日に修正で早くも腰砕け。
 感染拡大が抑えきれない中で、重症化防止の治療体制を優先しなくてはならない時に、医療従事者の二週間のブランクは大きい。
 しかもその数は今後増え続け、多くの病院で誰もいない状態が生まれる恐れがある。
 ワクチンやマスクは重症化抑制にはなっても、感染防止の効果は薄い。ECMOや人工呼吸器の数少ない技術者にも感染が広まるのは避けられない。それが十日も休んでしまったら、多くの死者を出すことになる。
 今から二週間前を思い出してみればいい。ちょうど正月だ。新規感染者の数もまだ457人(東京は79人)。十日前でも一月五日の新規感染者の数もまだ2491人(東京は390人)。十日間のブランクは致命的で、浦島太郎のようなものだ。出てきたら状況が全く違っている。
 あと、「あはれしれ」の巻「鴨啼や」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 では「俳諧秘」の続き。

  「第二 発句之事本歌本語取用様
 発句仕立やう、様々の師伝、品々の工夫もある事、何れをさして、是ぞと云出んも風をつなぐ類なるべけれ共、本歌を取事、和歌連歌よりも有法なれば、いささか記し侍る。
 恋雑の歌をとりては四季の歌を読、四季の歌を取ては恋雑の歌を読、常の習ひ也。月の歌を取て、月の歌をよみ、花の歌を取て、花の歌を読む。狼藉の至とぞ、古人掟也。俳諧にも此心なり。假令、

 契けんこころぞつらき七夕の
     年に一たびあふはあふかは

と有歌をとりて、

 契けん心ぞつらき餅つつじ    則常

 おもへども人めつつみの高ければ
     川と見つつもえこそわたらね

と云を取て、近代の歌に、

 五月雨にふるの中道しるぬれば
     川と見つつも猶渡りけり

是は、恋の歌をとりて、季の歌に読なし、其心も新し。」(俳諧秘)

 恋の歌を本歌にとって四季の歌に作り替えるというのは、中世の和歌では頻繁に行われていたのだろう。恋の心を俤にして季節に情を添えるというメリットがある。

 思ひいづるときはの山の岩躑躅
     いはねばこそあれ戀しきものを
              よみ人しらず(古今集)

から、

 ときは山秋はみざりしくれなゐの
     色に出でぬる岩躑躅かな
              頓阿法師(続草庵集)

 あるいは、

 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに
     乱れむと思ふ我ならなくに
              源融(古今集)

から、

 遠かたの梢の風やさわくらむ
     かすみの衣しのふもちすり
              正徹(草根集)

など、岩躑躅の花や霞に女の俤を添えている。

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝む
              柿本人麻呂(拾遺集)

 ひとり寢る山鳥の尾のしだり尾に
     霜置きまよふ床の月影
              藤原定家(新古今集)

もその例といえよう。
 逆のパターンは何々に寄す恋、という形でいくらでもありそうだ。
 月や花の歌はもとから数が多いため、それを本歌取りしても大体似たり寄ったりの歌になってしまうというのもあるのだろう。珍しい趣向の方が、本歌取りに向いているのかもしれない。

 これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
 これはこれはとばかり散るも桜哉 其角

の例は其角の句合集『句兄弟』にあるが。

 契けん心ぞつらき餅つつじ    則常

の「餅つつじ」はウィキペディアに、

 「ツツジ科ツツジ属に属する植物。落葉(半落葉)低木。本州(静岡県・山梨県~岡山県)と四国に分布。」

とあり、粘毛をもつことで、

 「花柄の粘りが鳥もちなどに似ているとして、名前の由来となっている。また、餅が由来として餅躑躅と書かれる場合もある。
 ‥‥略‥‥
 そのほか、野外では花を折り取って、衣服や帽子にくっつける、という楽しみもある。」

とある。つまり「契る」と「千切る」を掛けている。ただ、千切る楽しさでパロディーにするのではなく、恋の本意を残しているというところが季吟門の風なのであろう。

 「又、上の句に読たる詞を腰へやり、下の句になし、又、下の句に有を上句に成てよむも不苦。
 又、其歌をあらはして取も一の法なり。
 其歌を取としらずして取を、絹を盗て染て着たる心と、先達ふかくにくみ侍し。」(俳諧秘)

 受験なんかで覚えさせられるような、本歌取りとして有名な和歌の例は、たいてい元歌の流れに沿ったものが多くてわかりやすいものが多い。

 苦しくも降り来る雨か三輪の崎
     佐野の渡りに家もあらなくに
              長忌寸奥麿(万葉集)

 駒とめて袖打ち払ふかけもなし
     佐野の渡の雪の夕暮
              藤原定家(新古今集)

の場合も「佐野の渡」の位置は一致している。これが、

 家なしときくぞあやしきかくばかり
     月はすみける佐野の渡りを
              宗良親王(宗良親王千首)

になると、下句の「家」が上句に来ていて、佐野の渡りが末尾に来る。これがさらに、

 日暮だに宿なき佐野の渡くる
     雁がねさむし秋の村雨
              正徹(草根集)

になると、「佐野の渡」が上句に着て、「雨」が下句に来る。
 俳諧で本歌を取る時も同様、下句の言葉が上句に来ても、上句の言葉が下句に来ても問題はない。
 「其歌をあらはして取」はよくわからないが、歌の一部を長く引用して用いるような取り方のことか。貞徳の「哥いづれ」の巻第三の、

   どこの盆にかをりやるつらゆき
 空にしられぬ雪ふるは月夜にて  貞徳

の句の本歌は、

 さくら散る木の下風は寒からで
     空にしられぬ雪ぞふりける
              紀貫之(拾遺集)

になるが、「空にしられぬ雪」から「ふる」「ふりける」と、ほぼそのまま取っている。
 これに対して蕉門の「あれあれて」の巻三十三句目、

   加太へはいる関のわかれど
 耳すねをそがるる様に横しぶき  猿雖

の句は、

 苦しくも降り来る雨か三輪の崎
     佐野の渡りに家もあらなくに
              長忌寸奥麿(万葉集)

の歌が元になっているが、「苦しくも降り来る雨」を「耳すねをそがるる様に横しぶき」と完全に俗語で言い換えている。
 「其歌を取としらずして取」というのは、本歌を取っているのに本歌がないかのようにふるまう、ということだろう。偶然の一致ということではあるまい。これはまあ、盗用ということになる。
 本歌に対する考え方は季吟門と談林では異なっていたのか、宗因の『俳諧無言抄』には、

 「三句めの事、たとへば朝霧と云句に、人丸の歌にて明石と付、その次の句に舟を付るは、逃歌有故成。是は三句にわたらざる也。他准之。
 蜑小舟苫吹かへす秋風に独明石の月を見かな」

とある。
 これは物付けの発想で、歌の内容だとか情だとかに関係なく、同じ歌に出て来る単語と単語で付けることを本歌と呼んでいる。
 たとえば、延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻五十一句目に、

   ふられて今朝はあたら山吹
 ひよんな恋笑止がりてや啼蛙   桃青

の句があるが、この山吹と蛙の付け合いは、

 かはづ鳴く井出の山吹散りにけり
     花のさかりにあはましものを
              よみ人しらず(古今集)

に由来する。談林ではこうした物付けの句も「本歌」と呼んでいたのだろう。
 蕉風確立期の『春の日』「なら坂や」の巻三十句目の、

   陽炎のもえのこりたる夫婦にて
 春雨袖に御哥いただく      荷兮

の場合の「陽炎」に「春雨」の展開は、

 かげろふのそれかあらぬか春雨の
     ふるひとなれば袖ぞ濡れぬる
             よみ人しらず(古今集)

の歌が本歌になるが、「もえのこりたる」に「それかあらぬか」が意味的に近いのと、「春雨袖」が涙に袖の濡れるの意味なので、言葉だけでなく文脈的にも本歌を取っていて、この方が季吟流に近いのであろう。
 「朝霧と云句に、人丸の歌にて明石と付」というのは、

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
     島がくれ行く舟をしぞ思ふ
  この歌、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり(古今集)

の歌に、「朝霧」と「明石」の文字があるからで、「その次の句に舟を付るは、逃歌有故成」とあるのは、人麿(人丸)の歌にも「舟」があるから人麿の歌を本歌にした句が三句に渡って続いて輪廻ではないか、という疑問に答えたもので、

 あま小舟苫吹かへす浦風に
     ひとりあかしの月をこそ見れ
              源俊頼(新古今集)

の歌を本歌にしたと言えば逃れられる。
 本歌の意味や文脈に関係なく単語と単語だけの物付けとしての本歌だから、一つの和歌の単語の三つめが出たからと言って、必ずしも一つの歌が三句に跨るわけではない、という判断になる。

2022年1月14日金曜日

 オミ株が最初に報告されたのは去年の11月8日。まだ二ヶ月ちょっとしか経っていない。たった二ヶ月で一体どれくらいのことが分かっているのかということで、オミ株の情報の多くはまだ仮説の域を出ていないというのが現状であろう。
 オミ株の後遺症に対する懸念は、今の段階ではデルタ以前のコロナからの類推による部分が大きい。類推という考え方は、コロナの初期の段階で、従来のコロナの常識からの類推が武漢株の過小評価を生んだ前例がある。
 後遺症がどの程度の期間残るかについては、その期間が経過してみなければわからない。ただ、世界にこれだけ多くの感染者がいるんだから、そう遠くない時期にわかってくるはずだ。今は類推ではなく、これから上がってくる報告を待たなくてはならない。
 最初の武漢肺炎の頃から今に至るまで、コロナは小刻みに変異を繰り返し、その都度状況は変化している。残念ながら科学的なエビデンスが確定するのを待ってはくれない。わからなくても我々は決断を下さなくてはならない。「南泉斬猫」のようなものだ。
 混乱はどうしたって生じる。ただ、不満はいろいろあっても、混乱が暴力になって、コロナ以外で多くの人が死ぬようなことは避けなくてはならない。
 暴力ではなく、あくまで多数決で解決できる文化を守らなくてはならない。

 旧暦師走もまだ半月以上あるということで、この辺で俳論の方も読んでいこうと思う。
 選んでみたのはネット上にあるPDFファイルの「翻刻 立命館大学図書館 西園寺文庫所蔵『季吟法印俳諧秘』の紹介」で、『俳諧秘』には寛保元年(一七四一年)の奥書きがある。季吟没後三十六年になる。
 なお、季吟は芭蕉の師匠で、かなり年上なのにもかかわらず八十まで生きて、芭蕉の方が先に亡くなっている。

  「第一 賦物之事
 連歌、山船人木路五ケといふ。其他、唐神垣嵐此衣など、千変万化の字小賦物と云也。委は賦物集とて、宗伊の定をかれ侍れば種々の子細有。伝授、第三までに通はぬ字を賦する也。追善の連歌、経文の連歌、夢想の連歌など書ことあり。されども、当流には賦物をとらず。ただ俳諧之連歌と五文字にて、はし書する也。」(俳諧秘)

 連歌にはタイトルに賦物(ふしもの)が付く。宗祇・肖柏・宗長による『水無瀬三吟』には、「水無瀬三吟何人百韻」と「何人百韻」がタイトルについている。この「何人」が賦物で、発句が、

 雪ながら山もと霞む夕べかな   宗祇

なので、「山船人木路」あるいは「唐神垣嵐此衣」のなかの「山」の字が入っている。
 同じメンバーによる『湯山三吟』も「湯山三吟何人百韻」で、発句に、

 うす雪に木葉色こき山路哉    肖柏

と、やはり「山」の字がある。
 賦物は紹巴の『連歌初学抄』を見ると、

 山何 何路 何木 何人 何船 以上五ケ之内最可用之 朝何 夕何 花何 花之何 唐何 青何 白何 手何 下何 初何 御何 片何 薄何 何風 何水 何屋 何所 何田 何鳥 何馬 何色 何手 何心 何衣 何文 何物 此外旧賦物雖有数多於不宜者略之 何世 千何 玉何 以上新造 一字露顕 二字反音 三字中略 四字上下略

というように列挙されていて、「山何」の「何」の部分に入る字として、

 石 林 原 郭公 鳥 路 主 出 入 蕨 風 隠 河 影 垣 田 橘 椿 梨 卯木 井 雲 草 下 松 守 眉 藍 嵐 桜 里 沢 木 霧 雉 岸 衣 北 雪 百合 メグリ 水 柴 人 姫 女 蝉 関 菅 手 鳩 畑 鬘 産 榊 木綿 使 祭 煙 寺 声

といった文字が挙げられている。
 これが「賦物集とて、宗伊の定をかれ侍れば種々の子細有」の内容と思われる。
 季吟の時代には連歌の方でも簡略化されて、「山何、何船、何人、何木、何路」以外はほとんど用いられなくなっていたのだろう。「以上五ケ之内最可用之」とあるように、紹巴の時代でもこの五つが多かったようだ。
 これは連歌の話で、俳諧は賦物を取らずに「俳諧之連歌」とのみ記すとある。
 蕉門では、

   貞享二年と九月二日東武小石川ニおゐて興行
   賦花何俳諧之連歌
 涼しさの凝くだくるか水車    清風

が、珍しく賦物と「俳諧之連歌」が両方記されているが、これは連歌式目の「古式」の基づくという異例のものだった。
 その他に、大津奇香亭での、

   元禄元歳戊辰六月五日會
    俳諧之連歌
 皷子花の短夜ねぶる昼間哉    芭蕉

   貞享五戊辰七月廿日
    於竹葉軒
     長虹興行
   俳諧之連歌
 粟稗にとぼしくもあらず草の庵  芭蕉

 元禄二年十一月三日伊賀半残亭での、

   霜月三日
    俳諧之連歌
 とりどりのけしきあつむる時雨哉 沢雉

など、「俳諧之連歌」と付くものが時折見られる。芭蕉もかつての季吟の門弟として興行の席ではこれを守っていて、大概のものは編纂の過程で削られていたのかもしれない。
 賦物は基本的には雅語になる文字の組み合わせを用いる。ただ、延宝の俳諧ではあえて俗語の賦物を試みたか、

   延宝五年冬
    二字返音之百韻三吟
 あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青

は「二字返音」、つまり二文字をひっくりかせということだから、ここでは「ふぐ」をひっくり返して「ぐふ」、つまり愚夫に賦すということだろう。

   延宝六之春
    三字中略之百韻三吟   
 さぞな都浄瑠璃小哥はここの花  信章

の「三字中略」は、「都」の三字「みやこ」の中を略せば「みこ」になる。巫女に賦す百韻になる。

   延宝六年之春
    飯何之百韻三吟
 物の名も蛸や故郷のいかのぼり  信徳

は以前読んだ時に、「飯物」つまり「召し物」着物のに賦すとしたが、雅語にこだわらないなら、「飯蛸(いいだこ)」に賦すとした方が良いかもしれない。
 「追善の連歌、経文の連歌、夢想の連歌など書ことあり」とあるのは、通常の連歌と性質が違うということで記した方がいいという意味だろう。
 寛文五年冬の「宗房」の名前が唯一見える「貞徳翁十三回忌追善俳諧」にも「追善俳諧」が明記されている。また、芭蕉が没した時に木曽塚で行われた百韻興行にも、「元禄七年十月十八日於義仲寺追善之俳諧」というタイトルがついている。

2022年1月13日木曜日

 散歩していると、鳥の声が変わったような気がする。ちょっと前はヒヨドリの声ばかりだったが、この頃はシジュウカラの声を聞くし、メジロの姿もよく見る。
 オミ株の新規感染者は毎日1.5倍のペースで増えて行く。このままいくと一か月後には、コロナに罹らないのは馬鹿だけだとか言われそうだな。
 まあ、冗談はこれくらいにして、コロナ前はインフルエンザによる死者が一年で一万人と言われていたし、オミ以前のコロナの死者も二年で一万八千人だから、それ以下に収まってくれればいいな。

 それでは「鴨啼や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   雪あそびてん寺の入あひ
 八景の月と鴈とを見尽して    去来

 八景というと瀟湘八景で、日本のあちこちにある何とか八景も皆瀟湘八景に倣ったものだ。
 前句の「雪」の入相は江天暮雪 、「寺の入あひ」は煙寺晩鐘。それに加えて、月は洞庭秋月、鴈は平沙落雁。
 月が美しく雁の飛来する風光明媚な土地を廻り尽くした風狂人は、次は雪の日の寺に行って江天暮雪と煙寺晩鐘を楽しむ。
 二十六句目。

   八景の月と鴈とを見尽して
 越のきぬたのいとあはれ也    去来

 「越のきぬた」は何か出典があるのか、よくわからない。琵琶湖の近江八景に見飽きて北陸の旅に出たということか。
 山里で聞く砧は、

 みよしのの山の秋風さよふけて
     ふるさと寒くころも打つなり
              飛鳥井雅経(新古今集)

の歌の心になる。
 二十七句目。

   越のきぬたのいとあはれ也
 狩倉にもよほされたる秋の空   去来

 狩倉はウィキペディアに、

 「元は荘園の在地領主が荘園内や公領の一部であった山野を占拠して狩猟・騎射の場としたことに由来している。在地領主が武士として台頭するとともに狩猟や騎射が軍事訓練の一環として行われるようになり、一般の立入を規制して広大な狩倉を持つようになった。また、狩倉とされた山野から排除された狩猟民を自己の家臣に取り立てて軍事力を強化する者もいた。14世紀に入ると社会の変動に伴って、狩倉であった山野が売買や譲渡の対象とされたり、領主である武士の没落に乗じて周辺の農民の開墾地になるなど衰退していったが、近世の幕藩体制の下で将軍や大名の狩猟場として再び置かれるようになり、狩場・狩庭・鹿倉山(かくらやま)などとも呼ばれた。」

とある。
 秋の小鷹狩に転じる。狩倉の外からは里人の砧を打つ音が聞こえてくる。
 二十八句目。

   狩倉にもよほされたる秋の空
 贈りものには酒ぞたうとき    去来

 小鷹狩の後の打ち上げは、やはり酒盛りか。
 二十九句目。

   贈りものには酒ぞたうとき
 今こんと云しばかりに床とりて  嵐雪

 「今こんと」と言えば、

 今来むといひしばかりに長月の
     有明の月を待ち出でつるかな
              素性法師(古今集)

の歌だが、ここでは友が酒を持って訪ねて来るのを待つだけ。
 三十句目。

   今こんと云しばかりに床とりて
 火燵を蹴出す思ひあまりか    其角

 「思ひあまり」は恋しさにどうして良いのかわからない状態で、なかなか来ない相手に火燵を蹴り出す。
 二裏、三十一句目。

   火燵を蹴出す思ひあまりか
 手形かく恋の隈リと成にけり   其角

 手形は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手形」の解説」に、

 「① 手の形。てのひらに墨などを塗って押しつけた形。手を押しつけてついた形。
  ※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)五「背中に鍋炭(なべすみ)の手形(テガタ)あるべしと、かたをぬがして、せんさくするにあらはれて」
  ② 手で書いたもの。手跡。筆跡。書。
  ※譬喩尽(1786)五「手形(テガタ)は残れど足形は不レ残(のこらず)」
  ③ 昔、文書に押して、後日の証とした手の形。
  ※浄瑠璃・日本振袖始(1718)一「繙(ひぼとく)印の一巻〈略〉くりひろげてぞ叡覧有、異類異形の鬼神の手形、鳥の足、蛇の爪」
  ④ 印判を押した証書や契約書などの類。金銭の借用・受取などの証文や身請・年季などの契約書。切符。手形証文。また、それらに押す印判。
  ※虎明本狂言・盗人蜘蛛(室町末‐近世初)「手形をたもるのみならず、酒までのませ給ひけり」
  ※読本・昔話稲妻表紙(1806)三「母さまの手形(テガタ)をすゑて証書を渡し、百両の金をうけとり」
  ⑤ 一定の金額を一定の時期に一定の場所で支払うことを記載した有価証券。支払いを第三者に委託する為替手形と、振出人みずからが支払いを約束する約束手形とがある。もとは小切手をも含めていった。
  ※経済小学(1867)上「悉尼(シドニー)より来れる千金の手形倫敦にて千金に通用し」
  ⑥ 江戸時代、庶民の他国往来に際して、支配役人が旅行目的や姓名、住所、宗門などを記して交付した旅行許可証と身分証明書を兼ねたもの。往来手形。関所札。
  ※御触書寛保集成‐二・元和二年(1616)八月「一、女人手負其外不審成もの、いつれの舟場にても留置、〈略〉但酒井備後守手形於在之は、無異儀可通事」
  ⑦ 信用の根拠となるもの。身の保証となるもの。また、信用、保証。
  ※歌舞伎・心謎解色糸(1810)三幕「あの東林めが、お娘を殺さぬ受合ひの手形」
  ⑧ 首尾。都合。具合。また、人と会う機会。
  ※随筆・独寝(1724頃)下「源氏がなさけは深しといふ人もあれども、しれにくき事の手がたあらんもの也」
  ⑨ 表向きの理由。口実。だし。
  ※洒落本・睟のすじ書(1794)壱貫目つかひ「おおくは忍びて青楼(ちゃや)へゆく。名代(テガタ)は講参会の外、おもてむきでゆく事かなわず」
  ⑩ 牛車の箱の前方の榜立(ほうだて)中央にある山形の刳(えぐ)り目。つかまるときの手がかりとするためという。
  ※平家(13C前)八「木曾手がたにむずととりつゐて」
  ⑪ 武家の鞍の前輪の左右に入れた刳(く)りこみのところ。馬に乗るときの手がかりとするもの。
  ※平治(1220頃か)中「悪源太〈略〉手がたを付けてのれやとの給ひければ、打ち物ぬいてつぶつぶと手形を切りてぞ乗ったりける。鞍に手がたをつくる事、此の時よりぞはじまれる」
  ⑫ 釜などに付いている取っ手。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  [補注]④は「随・貞丈雑記‐九」に「証文の事を手形とも云事、証文は必印をおす物也。上古印といふ物なかりし時は、手に墨を付ておしてしるしとしたると也」と見え、手印を押したところから「手形」といわれるようになったという。」

とある。確約のない、保証のない、という意味であろう。
 「隈リ」は「くもり」か。暗雲垂れ込める恋に火燵を蹴り出す。
 三十二句目。

   手形かく恋の隈リと成にけり
 にくまれつつも宮仕へする    去来

 『源氏物語』の朧月だろうか。
 三十三句目。

   にくまれつつも宮仕へする
 顔なをし賑はふ方のめでたきに  去来

 恋の争いに負けても同じ職場で、愛しい人の外の女との祝言の宴席も断れなかったのであろう。時折席をはずしてはひそかに涙を流し、化粧をし直して戻ってくる。
 「身をば思はず」というところか。
 三十四句目。

   顔なをし賑はふ方のめでたきに
 長をくらべてむすぶ水引     嵐雪

 お目出度の席で偉い人が集まっても、その力を見極めながら、結ぶ水引にも差をつける。
 三十五句目。

   長をくらべてむすぶ水引
 花のもとに各当座つかまつり   其角

 花の本の連歌の席であろう。長点の数を競って、優勝者には水引を結んだ景品が授与される。
 挙句。

   花のもとに各当座つかまつり
 柳にうかむ絃管の舟       嵐雪

 雅な花の宴には、川に管弦の舟を浮かべる。『源氏物語』の紅葉賀を春に移したような景色と言えよう。

 「れいの、がくのふねどもこぎめぐりて、もろこし、こまと、つくしたる舞(まひ)ども、くさおほかり。
 楽の声、鼓の音、世を響かす。」
 (例によって、船首を龍などで飾った二艘の船の上にステージを組んだ楽団の乗る双胴船が漕ぎ廻り、唐楽、高麗楽などありとあらゆる舞が舞われ、その種類も豊富でした。
 管弦の声、鼓の音、辺り一帯に響き渡ります。)

 そして、源氏の君と頭の中将の青海波の舞が始まるのだろうか、というところで一巻は目出度く終了する。

2022年1月12日水曜日

 今日は町田の忠生公園の蝋梅を見に行った。晴れた青空に蝋梅の黄色が映える。
 コロナの第一波が広まる前の一昨年にも一度来ている。それ以来だ。これもワクチンのおかげだ。
 
 それでは「鴨啼や」の巻の続き。

 十三句目。

   平家の陣を笑う浦人
 船かけてとまりとまりの玉祭   其角

 瀬戸内海で合戦を繰り返し、多くの死者を出しながら移動していくから、行く先々で誰かの初盆を迎える。
 十四句目。

   船かけてとまりとまりの玉祭
 畠の中にすめる月影       嵐雪

 船から上り畠の中に澄む月を見る。違え付け。
 十五句目。

   畠の中にすめる月影
 いきて世に取後れたる老相撲   其角

 月夜で相撲の句は、『阿羅野』の「初雪や」の巻五句目、

   賤を遠から見るべかりけり
 おもふさま押合月に草臥つ    野水

や、「山中三吟」第三にも、

   花野みだるる山のまがりめ
 月よしと角力に袴踏ぬぎて    芭蕉

の句がある。
 前句を「畠の中に住める」として、引退した力士とする。月を見ると若くて強かったころを思い出す。
 十六句目。

   いきて世に取後れたる老相撲
 元よし原のなさけ語らん     嵐雪

 昔も今も相撲取りというのは持てたのだろう。若い頃は明暦の大火で移転する前の旧吉原でぶいぶい言わせていた。
 十七句目。

   元よし原のなさけ語らん
 花鳥に夫婦出たつ花ざかり    其角

 新婚夫婦を送り出すときに、必ず昔の吉原通いの話をする爺さんっていたのだろう。性教育のつもりなのか。
 十八句目。

   花鳥に夫婦出たつ花ざかり
 若餅つくと家子に告こす     嵐雪

 家子は「けし」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家子」の解説」には、「いへのこ」「けご」「やつべ」の読み方はあるが「けし」はない。家に仕える子弟から従者、下僕に至るまで広く指す言葉だったようだ。
 若餅は正月三が日の間に搗く餅で、正月に婚礼と目出度さが重なり、家じゅうみんなで餅を搗くという意味だろう。
 二表、十九句目。

   若餅つくと家子に告こす
 荒神に絵馬かけたる年の棚    嵐雪

 荒神は竈の神。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「荒神」の解説」に、

 「① かまどを守る神。かまどの神。民間で「三宝荒神」と混同され、火を防ぐ神として、のちには農業全般の神として、かまどの上にたなを作ってまつられる。毎月の晦日に祭事が行なわれ、一月・五月・九月はその主な祭月である。たなには松の小枝と鶏の絵馬を供え、一二月一三日に絵馬をとりかえる。荒神様。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「又壱人、『掛鯛(かけだい)を六月迄、荒神(クハウジン)前に置けるは』と尋ぬ」

とある。正月だと荒神様の棚と年神様の棚が一緒になってしまう。
 ニ十句目。

   荒神に絵馬かけたる年の棚
 うつばりかくす関札の数     其角

 「うつばり」は屋根を支える梁で、関札はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「関札」の解説」に、

 「① 関所の通行のための札。関所手形。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「三月五日たてりとおもへば関札のかすみや春をしらすらん〈三昌〉」
  ② 江戸時代、公家・大名・役人などが宿駅に泊まったとき、その称号、宿泊の旨を記し、宿駅の出入口、宿舎の前に立てた立札。
  ※俳諧・類船集(1676)也「大名高家は道中に関札を立つ也」

とある。①は書状の形式なので②であろう。
 正月に泊まる旅人の多い宿では、梁に関札が並んで、年神様の棚が隠れている。
 二十一句目。

   うつばりかくす関札の数
 よめ娘見分る恋のいちはやき   嵐雪

 宿の人は客の連れが嫁なのか娘なのかをすぐに見分ける、ということか。
 二十二句目。

   よめ娘見分る恋のいちはやき
 小原黒木ぞ身をふすべける    其角

 小原は京都大原のことであろう。かつては「小原」と表記することもあった。黒木は炭にする前の乾燥させた木。元禄二年の「かげろふの」の巻二十七句目に、

   黒木ほすべき谷かげの小屋
 たがよめと身をやまかせむ物おもひ 芭蕉

の句がある。黒木に大原の雑魚寝を付けている。
 「ふすぶ」はくすぶることで、大原女の恋は黒木を炭にするように、身をくすぶらせている。
 大原女は炭や黒木を京の街に売り歩き、京のエネルギーを供給していた。
 二十三句目。

   小原黒木ぞ身をふすべける
 味噌さます草のさむしろ敷忍び  嵐雪

 酒の肴の焼味噌を冷ます情景とする。草の上に黒くなった薪がくすぶっている。
 二十四句目。

   味噌さます草のさむしろ敷忍び
 雪あそびてん寺の入あひ     其角

 雪の上で味噌を冷ます情景を、お寺の夕暮れの雪遊びとする。

2022年1月11日火曜日

 今日は一日雨が降った。
 岸田のような調整型の首相は、マスコミや官僚に流されやすく、軸足が定まらないという欠点がある。
 コロナ対策でも、このままではやはり去年と同じような厳しい自粛要請に向かう可能性が高い。
 去年だったら厳しいコロナ対策を打ち出せば、間違いなく支持率が上がった。ただ今のオミ株では逆に支持率が下がる可能性がある。実際に感染者急増でも街はほとんど今まで通りだ。公共施設の閉鎖ばかりが先走っているが、これは事なかれ主義によるものだ。
 維新、国民、立件の中道連合が成立すれば、夏の参議院選では自民党をかなり追い詰めることができるかもしれない。ただ立件には相変わらず革命の夢を捨てきれない人たちがいるから、難しいとは思うが。だから総理大臣になれないんだけどね。

 さて、冬の俳諧をもう一つ。元禄三年刊其角編の『いつを昔』から去来・嵐雪・其角の三吟歌仙を見てみよう。三吟と言っても順番に付けて行くのではなく、途中去来の句が何句も続いたりしてかなり変則的な三吟になっている。
 発句は、

   続みなしぐりの撰びにもれ侍りし
   に、首尾年ありて、此集の人足に
   くははり侍る。
 鴨啼や弓矢を捨て十余年     去来

 其角編の『続虚栗』は貞享四年刊で、この年の春には芭蕉・去来・其角・嵐雪による四吟歌仙「久かたや」の巻が作られている。去来の発句もこの頃ということで、貞享三年の冬の句ではないかと思われる。
 去来はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「去来」の解説」に、

 「江戸中期の俳人。向井氏。通称平次郎、字(あざな)は元淵、庵号(あんごう)落柿舎(らくししゃ)。儒医元升の次男(兄元端、妹千代など9人兄妹)として肥前国長崎に生まれ、8歳のとき、父の移住に伴い上京。一時、福岡の母方の叔父久米(くめ)家の養子となって武芸の道を学び、その奥儀を極めたが、24、25歳のころ弓矢を捨てて帰京し、陰陽道(おんみょうどう)の学をもって堂上家に仕えた。」

とあるように、「弓矢を捨て」は二十四、五の時のことのようだ。
 去来は慶安四年(一六五一年)の生まれで、数え二十四というと延宝二年(一六七四年)になる。貞享三年が一六八六年なので十余年と計算が合う。
 句の方は鴨に弓を引くこともなくなったという意味で、かならずしも風流の道に入ったという意味ではない。鴨の声を聞きながら、あれから十年以上経ったかという感慨以上の意味はないと思うし、それだけで十分だと思う。
 前書きの「首尾年ありて」は一巻の完成までに何年もかかったということで、貞享三年にはおそらく去来・嵐雪・其角による表六句までだったのだろう。
 そのあと去来が一人で初裏の六句を付け、懐紙は書簡で京と江戸を行き来したのではないかと思う。十三句目から二十四句目までは江戸で其角と嵐雪が付け、その後二十八句目までを去来が付け、二十九、三十、三十一は江戸、三十二、三十三は京、再び江戸で首尾となったのであろう。
 脇は、

   鴨啼や弓矢を捨て十余年
 刃バほそらぬ霜の小刀      嵐雪

 「刃バ」と「バ」を補っているので、ここは「やいば」で良いのだろう。「ほそらぬ」というのは錆びて欠けたりはしていないという意味で、武士だった頃の魂は未だに旅に持ち歩く小刀に残っている、とする。「霜」は放り込みだが、「氷の刃」という言い回しもあるように、今でも研ぎ澄まされているという意味になる。
 第三。

   刃バほそらぬ霜の小刀
 はらはらと栗やく柴の圓居して  其角

 圓居は「まどゐ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「円居」の解説」に、

 「① 集まってまるく居並ぶこと。くるまざ。団欒(だんらん)。
  ※古今(905‐914)雑上・八六四「おもふどちまとゐせるよは唐錦たたまくをしき物にぞありける〈よみ人しらず〉」
  ② ひと所に集まり会すること。会合。特に、親しい者同士の楽しい集まり。団欒。
  ※神楽歌(9C後)採物・榊「〈本〉榊葉の 香をかぐはしみ 求め来れば 八十氏人ぞ 万止為(マトヰ)せりける 万止為(マトヰ)せりける」

とある。
 栗はそのまま火にかけると破裂するので、あらかじめ切れ込みを入れておく。前句の小刀をそれに用いるものとする。
 四句目。

   はらはらと栗やく柴の圓居して
 影くるはする龍-骨-車の月    去来

 龍骨車はウィキペディアに、

 「竜骨車(りゅうこつしゃ)は、農業用水を低地の用水路から汲み上げ、高地の水田に灌漑せしめる木製の揚水機。中国で発明されたとされ、日本にも伝来した。その形状が竜の骨格に似るところからの命名。
 水樋の中で、数多くの板を取り付けた無限軌道を回転させ、樋内の用水を掻きあげる。無限軌道は、上下2個の車輪で回転させるが、うち上端の1個の車輪を2人が相対して踏み、回転させる。
 ‥‥略‥‥
 日本では寛文年中(17世紀頃)に大坂農人橋において踏車が発明され、宝暦から安永年間(18世紀頃)に普及したことにより駆逐された。これは竜骨車の欠点に加え、踏車の方が、仕組みがシンプルであり、農民にとっては単純な構造品の方が使い勝手が良く手頃であったからと一般では考えられている。」

とある。この踏車の方は、元禄五年の「打よりて」の巻二十句目に、

   愚なる和尚も友を秋の庵
 高みに水を揚る箱戸樋      黄山

と詠まれている。
 去来の句は、竜骨車が水を汲み上げるので水に映る月が乱れている、という意味であろう。
 五句目。

   影くるはする龍-骨-車の月
 きりぎりす螽も游ぐ山水に    嵐雪

 螽はイナゴ。「游ぐ」は「およぐ」だが、本当に水に浮かんでいるのではなく、水の周りで遊んでいるという意味だろう。
 六句目。

   きりぎりす螽も游ぐ山水に
 盞付ケて鶴はなちやる      其角

 中国の高士の架空の遊覧にする。貞享二年の鳴海知足亭での「杜若」の巻、二十句目に、

   燕に短冊つけて放チやり
 亀盞を背負さざなみ       芭蕉

の句があったが、ここでは鶴に盃を背負わせる。
 初裏、七句目。

   盞付ケて鶴はなちやる
 うれしくも顔見あはする簾の間  去来

 ここから去来の句が続く。
 婚礼の祝言であろう。お目出度い。
 八句目。

   うれしくも顔見あはする簾の間
 また手枕を入かへて寝る     去来

 交互に手枕し合いながら、纏き寝する。万葉集の趣向か。
 九句目。

   また手枕を入かへて寝る
 旅衣まてども馬の出がたき    去来

 旅立つのだけど馬の準備がなかなか整わないので二度寝する。
 十句目。

   旅衣まてども馬の出がたき
 留守おほかりし里の麦刈     去来

 宿場の馬ではなく、農家の馬を借りての旅立ちとする。芭蕉も『奥の細道』の那須野で馬を借りている。
 あいにく馬は麦刈の方で使われていて、こちらに回してくれない。
 十一句目。

   留守おほかりし里の麦刈
 誰が子ぞ幟立置雨の中      去来

 端午の節句の幟であろう。幟というと今は鯉幟だが、鯉幟が広まるのはもう少し後になる。この頃は、武家は軍に使う旗幟を立て、庶民は絵の描いた紙の幟を立てた。

 笈も太刀も五月にかざれ帋幟   芭蕉

は佐藤庄司の旧跡の「義経の太刀・弁慶が笈」を見た後だったので、それを紙幟に飾れ、という句だった。
 紙幟だから、雨が降ればボロボロになる。麦刈で留守にしている間に雨が降り出して、こんなことになってしまった。
 十二句目。

   誰が子ぞ幟立置雨の中
 平家の陣を笑う浦人       去来

 前句の幟を軍の幟として、都落ちした平家の軍隊を見て、浦人が笑う。
 ただ、それで源氏の軍に浅瀬の場所を教えたりすると、「良いことを教えてもらった。だがこのことを他に知られるわけもいかない」と言ってその場で斬られたりする。