2022年1月17日月曜日

 トンガの方の状況は未だわからないようだ。日本では船がひっくり返ったり、漁業の方に被害が出ている程度。それも大変だけど、トンガに比べればという意味。
 日本海側の山口県阿武町でブリが三千匹なんてニュースがあったが、何か関係あるのだろうか。
 昨日聞いたエリアメールの回数は、横浜経済新聞の、

 「NTTドコモの緊急速報メール「エリアメール」の配信記録によると、横浜18区に対しては、0時に5回、1時に7回、2時2回、3時1回、4時2回、5時1回、7時2回の計20回が、大きな警告音とともに配信された。」

で、大体あっていたと思う。600回以上なんて数字がどこからでてきたやら。本当にそんなことがあったら、三十秒おきでも五時間続いたことになる。
 どうやら、NTTドコモの三十以上の地域でそれぞれの発信されたエリアメールを足し算したものが、600回以上だったという話のようだ。20×30=600でだいたい計算が合う。同一地域では二十回が上限。
 これを勘違いしたか、意図的に印象操作しようとしたか、一晩に600回もアラートが鳴ったかのようなネット情報が拡散された。怪しげなネット情報に踊らされないように気をつけよう。
 通常の津波は海底の地殻変動によって起きるが、今回のは海面付近で起きたために、津波の伝わり方が通常と違っていたのだという。気象庁が早く気が付いて警報を出したのは英断と言っていい。
 エリアメールの問題は気象庁の問題ではなく、エリアメールの管理の問題。気象庁を叩いている奴はお門違い。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「第三 発句本意之事
 秀句をいかほどよく云おほせたり共、其本意たがひたるは、嫌也。

 かへるさは思ひきられぬ藤見かな

 藤見といへる秀句は、人を棄市するわざに藤身といへるもの有て、身もやすらかにただすぎられぬをいへるにや。庭にもせよ山にもせよ、屠所云たてたるもいかがにや。」(俳諧秘)

 公開処刑を執行する者に「藤身」というのがいたのか。これに関してはよくわからない。
 これを踏まえるなら、句はただ藤を見ていて、帰ろうと思ってもなかなか離れがたいほど藤が見事だ、という句に、「藤身といえども斬ることができない」という別の意味が付け加わることになる。これは藤の花の風流に背く、ということになる。
 まあ、今でもほとんどの人が知らない、忘れ去られたような別の意味のある言葉で、たまたまその言葉を使ったら同和差別だといって炎上したりすることがある。「藤身」もあるいはそういう言葉だったか。
 ただ、それだと芭蕉が惟然に送った、

 藤の実は俳諧にせん花の跡    芭蕉

の句は問題にならなかったのだろうか。
 あるいは「藤の実」が「藤身」を連想させるので用いられないというのがあったのを、あえて宗祇の藤白御坂を理由に、俳諧のテーマとして認めさせたということか。

 「是にもかぎらず、

 めぐり来る年も羊のあゆみ哉
 まめがなてかくす七歩の試筆かな

 両句ながら其古事をあなづる時は不吉の例なり。」(俳諧秘)

 「羊のあゆみ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「羊の歩み」の解説」に、

 「(「北本涅槃経‐三八」の「如二囚趣レ市歩歩近一レ死。如下牽二牛羊一詣中於屠所上」から)
  ① 屠所にひかれてゆく羊のような、力ない歩み。刻々、死に近づくことのたとえ。屠所の羊の歩み。
  ※源氏(1001‐14頃)浮舟「ひつじのあゆみよりもほどなき心地す」
  ② 歳月。光陰。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。作者は②の意味で、未年だからということで詠んだのか。ただ、①の意味を知っている人が見ると、なんて不吉な、ということになる。
 ただ、

 門松は冥土の旅の一里塚
   めでたくもありめでたくもなし

というのもあるから、正月が死への歩みというのは間違ってはいない。なお、一休の狂歌と言われているが、出典は定かでない。
 「まめがなて」の句の「まめがな」はカタカナのこと。「て」は手で書のことか。「試筆」は書初めのこと。七歩は「七歩の才」で、コトバンクの「故事成語を知る辞典「七歩の才」の解説」に、

 「すばやく詩や文章を作る才能のたとえ。

  [使用例] なにを田の面もにしのび鳴くらん 寄虫恋むしによするこいというつもりだが、七歩の才おぼつかなく、上の句がすぐに出ない[石川淳*かよい小町|1947]

  [由来] 「世説新語―文学」に見える逸話から。三世紀、三国時代の中国でのこと。魏ぎという国の曹そう植ちという人物は、時の皇帝、文帝の弟でしたが、若いころから才気にあふれていて、その才能を兄にねたまれていました。あるとき、文帝が曹植に向かって、「七歩、進む間に詩を作らなければ死刑に処する」というむごい命令を出します。ところが、曹植は即座に、兄弟が争わなくてはならないことを嘆いた詩を作ったので、文帝は深く自分を恥じたということです。

 カタカナで書いて能筆なのを隠して、わざと下手そうに見せる、ということか。ただ、「七歩の才」は由来のところにあるように、「七歩、進む間に詩を作らなければ死刑に処する」という所から来ているから、正月にはふさわしくないというのだろう。

 「連句などにも、

   華乗上黄蝶
   藤湜繋黒牛 ト云対句有。

 此対字はよく対し侍れ共、やさしき黄蝶にむくつけなき黒牛つなぎあはさんも、おもはしからず。かやうの例もあまた有。」(俳諧秘)

 「乗」には「クルマ」とルビがある。花車に黄蝶を上らせて藤の清きに黒牛を繋ぐ、となるのか。
 伝統絵画の牛は黒く描かれることが多いから、そんなに問題ないようにも思うが。
 なお「むくつけなし」は「むくつけし」と同じ。否定語があってもなくても同じ意味の言葉というと、「はしたなり」「はしたなし」の例もあり、今日でも「何気に」「何気なしに」の例がある。

 「さのみほむまじき花をことごと敷めづるも又、本意ちがひ侍る也。まして愛するものをさもしく云いださんをや。

 あなゆかし鼠のふんの花盛

とせば、花への悪口なるべし。」(俳諧秘)

 「鼠のふん」はネズミモチの別称で、夏に白い花を円錐状に咲かせる。地味な花にはそれにあった褒め方があるもので、

 世の人の見付けぬ花や軒の栗   芭蕉
 寒菊や小糠のかかる臼の傍    同

のような取り囃しがふさわしい。

 「とかく聞なれぬ題をすべからず。

 接足て花の枝折さくらかげ

 をらるる花とふまへて、折器と混乱して何れもわけなく侍る。

 雲やこけら風にしらくる月かへな

 此句もしらくる器は月かへな、しらけらるる物は月なり。しらけらるるもの、しらくる物、一になりてわけなし。」(俳諧秘)

 「接」には「つぎ」とルビがあるので「つぎたして」であろう。「枝折」は四文字なので「えだをる」か。
 花は折るべきものではない。折器は折るにふさわしい題材という意味であろう。不本意にも折られてしまった花を詠むべき所だ。
 「雲やこけら」の句の「しらくる」は、今日でいう「しらける」と同じで興が覚めるの意味になる。「しらくる器は月かへな」は白けさせているのは月なのか、そうれはなく雲や風によって白けさせられているのだが、この言い回しだとどっちだかわからない、ということだろう。

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