2023年8月31日木曜日

 有限な地球に無限の生命は不可能である以上、生存競争は生産力に応じた人口のコントロールがなされない限り生存競争は不可避なものとなる。
 多くの動物では個と個の勝負で弱いものから淘汰されるに過ぎないが、人間の場合は集団でかかればどんな強いものでも倒せることを知ってしまったため、生存競争は多数派工作の勝負になった。
 多数派が少数派を排除する。それが人間の生存競争だ。
 マルクス主義が本当に画期的だったのは、支配者階級というわかりやすい敵を発明したことだった。どの社会でも大概支配者階級は少数派だ。そして彼らは良い暮らしをしてるし権力を持っている。
 そこには単純な羨望から来る嫉妬、妬みそねみといったマイナスの感情に容易に正義の仮面を被せることができる。支配された恨みもまた同様だ。
 そこには難しい理屈はいらない。下層階級の不満を容易に社会正義に仕立てられるこの仕組みこそが、マルクス主義が世界中に広まった要因でもあり、最も厄介な理由でもある。
 ただ、この思想はこうした単純な不満に突き動かされた人達に何一つ幸福をもたらすことはない。なぜなら、支配者階級が存在してる理由が高い生産性への指導力にあるため、支配者階級の排除は間違いなく生産性の低下をもたらし、革命の後は必ず飢餓がやってきた。
 単純な話だが、労働者の主体的な生産活動が資本主義よりも高い生産性をもたらすのであれば、社会主義はみんなを幸せにできたかもしれない。
 実際、資本主義が未発達の国であれば、社会主義体制が一種の開発独裁と同じように、国家主導の資本主義をもたらすことである程度の成功をもたらすこともある。中国やベトナムはその成功例と言えるかもしれない。しかし、資本主義が根付けば逆に国家が足枷になり、そこに自ずと限界が生じる。開発独裁は資本主義を作るものにほかならないからだ。
 労働者の主体的な生産が資本主義よりも高い生産性をもたらせるかどうかというのは、例えば組織の上下関係のない完全合議制によって運営させる企業が市場経済の中で勝利を収めることができるなら、社会主義は可能ということになる。
 暴力によって資本主義を排除して、生産性の低いこのシステムに移行させるなら、間違いなく飢餓への道を歩むことになる。生産性が資本主義より高い場合にのみ革命は成功する。
 だから企業の様々な努力の中で、市場競争に勝ち抜こうとする中で最終的に社会正義的なシステムに行き着くなら問題はない。わざわざ負けるシステムのためにより生産性の高いシステムを排除するような革命をするのであれば、飢えることになる。
 単純な妬みそねみ恨みで革命を起こしても、確実に今より生産性を下げることになる。そして革命を起こした指導者は、今度は自分たちがその妬みそねみ恨みの対象となるのを覚悟しなくてはならない。
 結局革命後はその不満を力づくで抑えるために、資本主義が与える以上の恐怖を民衆の与え続けなくてはならなくなる。
 妬みそねみ恨みは勝利することはない。ただ生産性の高いものが最終的に勝利する。それさえわかれば、社会主義は終わるわけだが、今の社会主義は素朴な妬みそねみ恨みが正義の仮面をかぶる所にのみその命脈を保っている。

 あと、大坂独吟集「軽口に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 ではX奥の細道の続き。

七月一日

今日は旧暦6月29日で、元禄2年は7月1日。村上を出る。

雨が時折降る天気で、曾良とその知り合いの人達と一緒に朝のうちに泰叟院に詣でてから村上を発った。
山を越すと湿地帯の広がる低地で、海岸沿いの砂丘の上を歩いた。ちょうど東海道の沼津から田子の浦の辺りのような感じだ。

昼頃乙(きのと)という村に着いて乙宝寺を参拝した。ちょうど着く前に大雨が降って来たがすぐに止んだ。
乙を出てしばらく行くと、夕方にまた雨になり、やっとのことで築地村に辿り着いて宿を借りた。

七月二日

今日は旧暦7月1日で、元禄2年は7月2日。新潟へ。

朝、出る頃には曇ってたが昼には晴れて来た。
とにかくこの辺りは大きな川が集まって形成された広大な湿地帯で、まさに「潟」だ。最近ではあちこち干拓が進められてるともいう。ここが全部田んぼになったらすごいだろうな。

あれからしばらく行くと広大な河口に着き、船で渡った。気持ちのいいアイに風が吹いて、まだ日の高いうちに新潟に着くことが出来た。
ただ、宿は相部屋の所しか空いてないので、大工の源七という人の母の家を借りて泊めてもらうことにした。

七月三日

今日は旧暦7月2日で、元禄2年は7月3日。新潟。

今日はいい天気だ。これから弥彦明神に向かう。
馬に乗ろうと思ったが、大工の源七が馬は馬鹿みたいに高いから歩いた方が良いって言うので、歩いてゆくことにする。
また湿地を避けての砂丘のコースになる。

砂丘の道をゆくと、海の向こうには佐渡島も見える。前の方にあった小高い山が近づいて来て、その麓までくると、海から離れて山の内陸側へと参道がある。
暑かったけど何とか明るいうちに着くことが出来た。宿を取ったら参拝に行こう。

七月四日

今日は旧暦7月3日で、元禄2年は7月4日。弥彦を出る。

今日も良い天気で、弥彦山の宿坊を出て山を越えた。
峠を越えて右の方へ行くと、谷の中にお堂があって、そこで弘智法印像を見た。即身仏だという。
そのあと野積浜に出た。佐渡島が正面に見える。
日は旧暦7月3日で、元禄2年は7月4日。出雲崎。

野積浜を出て寺泊を経て海岸を歩き続けると出雲崎に着いた。暑かったけどアイの風は吹いて、今日も赤々とした太陽が海に沈んでゆく。

日が沈むと4日の月が西に浮かび、暗くなると頭上に天の川があって二星が見えた。
南西から真上を通って北東へと連なる天の川をそのまま回転させ、地上に降ろして目の前の海に重ねたら、自分が織姫の位置になり、佐渡の牽牛がいることになる。

流刑の地と言われる佐渡島の前には日本海の荒波が横たわり、きっと織姫彦星が見る天の川ってこんなんだろうな。
この荒海は佐渡の前に横たう天の川なるや。

荒海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉

七月五日

今日は旧暦7月4日で、元禄2年は7月5日。出雲崎を出る。

夜中から降り出した雨は朝に一旦止んだんで出発したが、すぐにまた雨が降り出した。
相変わらず延々と海岸沿いの道が続く。今日は雨で海も霞んで佐渡島も見えない。

柏崎まで来たので与三郎が紹介してくれた宿に行ったけど、曾良がブチ切れちゃってね。
まあ、普通に商人が利用する宿なんて、相部屋で詰め込むだけ詰め込むのは普通のことでね。新潟もそうだったし。

確かに曾良の紹介で家老やら阿闍梨やら、いろいろ偉い人にアポを取って、今までの旅にはないような経験もできたけどね。
偉い人にに会ったり、そこの屋敷に泊まるから虱はNGだというのもわかるけど。
路通と旅してたらまた違ってたろうな。辻堂とか平気だし、野宿とかも経験できたかな。

結局あれから柏崎を出て鉢崎まで歩いた。俵屋六郎兵衛という人の宿で曾良も納得して、今日はこれで落ち着くことができた。

七月六日

今日は旧暦7月5日で、元禄2年は7月6日。直江津へ。

朝は雨が降っていて、止むのを待ってから出発したら昼頃になった。まあ、ちょっと休憩できた。
曾良の方がかなり参ってるみたいな。気苦労が絶えなくて心配だ。

黒井の先に川があるので、船で海周りで越えて今町に着いた。
直江津は昔国府のあった所で、宗祇法師も最後はここに滞在してた。そんな土地柄だからか、今夜は興行ができそうだ。発句を用意しておこうか。明日は七夕。
今日は旧暦7月5日で、 元禄2年は7月6日。直江津。

また曾良が忙しく歩きまわって、予定してた聴信寺も葬式のため泊まれず、何とか古川市左衛門の家に泊まることができた。夕方から雨も降り出した。

夜になったら聴信寺の眠鴎和尚やその檀家の石塚喜衛門と源助、右雪などが訪ねてきたが、すっかり遅くなったし、明日改めて興行を行う約束して、発句だけ先に渡しておいた。

文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉

2023年8月30日水曜日

 それでは「鼻のあなや」の巻の続き、挙句まで。
 あと、手違いで八月二十八日の三裏が抜けてしまったので、そちらの方をまず先に、そのあと名残の裏に続く。

三裏
六十五句目

   あつかひ口もねぢた月影
 御もたせの手樽ののみの露落て

 手樽はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「手樽」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 柄を二本の角のように上に出し、手にさげるように造った樽。柄樽。角樽(つのだる)。柳樽。
  ※虎明本狂言・千鳥(室町末‐近世初)「てだるに一つ、よひ酒をつめてくだされひ」

とある。ただ、「デジタル大辞泉 「手樽」の意味・読み・例文・類語」のイラストを見ると、樽の上の部分に注ぎ口が付いていて、その反対側に上に取っ手が付いているものが描かれている。上に二本出てるのは柄樽となっている。
 この場合はそそぎ口が付いた方の手樽で、前句の「あつかい口」をそのそそぎ口として、取っ手を持ち上げると樽が傾いて、取っ手と反対側の口から酒の露がこぼれるということではないかと思う。
 御もたせは手土産のこと。
 点あり。

六十六句目

   御もたせの手樽ののみの露落て
 羽織の下にはるる秋霧

 手樽持参で訪れた客は、酒だけでなく羽織の「袖の下」も用意していて、これにて一件落着となった。
 点なし。

六十七句目

   羽織の下にはるる秋霧
 夕あらし膝ぶしたけに吹通り

 羽織は膝丈なので、膝の下は風が通る。夕嵐に秋霧の晴れるという景と重ね合わせる。
 長点だがコメントはない。

六十八句目

   夕あらし膝ぶしたけに吹通り
 湯ぶねにけづる杉のむら立

 湯船にお湯を張る水風呂(据え風呂とも言う)はこの当時お寺や上流の間で広まりつつあった。特に山の中の修験の寺などでは、豊富にある杉の木を用いた檜風呂があったのだろう。
 とはいえまだ、湯船を作っている所で、嵐の風が膝下を吹き抜けて行く。
 点なし。

六十九句目

   湯ぶねにけづる杉のむら立
 めづらしき御幸をまてる大天狗

 やはり水風呂は修験のイメージなのか、御幸に行くと大天狗が風呂桶を作って待っている。
 点なし。

七十句目

   めづらしき御幸をまてる大天狗
 さて京ちかき山ほととぎす

 京の近くの天狗というと鞍馬天狗だろうか。牛若丸に兵法を授けたと言われている。ただ、鞍馬の方へ御幸というと謡曲『大原御幸』になる。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、

 「岸の山吹咲き乱れ、八重立つ雲の絶間より、山郭公の一声も、君の御幸を、待ち顔なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1689). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 長点だがコメントはない。

七十一句目

   さて京ちかき山ほととぎす
 はせよしの残らずめぐるむら雨に

 時鳥に村雨というと、

 心をぞ尽し果てつる郭公
     ほのめく宵の村雨の空
             藤原長方(千載集)

の歌がある。初瀬や吉野の桜に心を尽くして京まで帰ってくると、ホトトギスの声が聞こえてくる。
 点あり。

七十二句目

   はせよしの残らずめぐるむら雨に
 ちりさふらふよ花の中宿

 吉野が出たので花の定座を繰り上げることになる。長いこと初瀬や吉野を廻ってるうちに村雨が降って花散らしの雨になる。
 点なし。

七十三句目

   ちりさふらふよ花の中宿
 今朝見れば春風計の文ことば

 前句の「花の中宿」に男女の「仲」を掛ける。
 後朝の別れの後に残された手紙を読むと、春風のように二人の仲を散らして行くような激しい言葉が書き連ねられていた。
 点あり。

七十四句目

   今朝見れば春風計の文ことば
 猶うらめしき寺のわか衆

 相手を女ではなく寺の男色の相手に転じる。
 点なし。

七十五句目

   猶うらめしき寺のわか衆
 竹箆をくるるものとはしりこぶた

 「しりこぶた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「尻臀」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 尻の、肉の多い左右のふくらみ。しりこぶら。しりたぶら。しりたぶ。しりたむら。しりぶさ。しりむた。しりゅうた。
  ※俳諧・伊勢山田俳諧集(1650)長抜書「鬼もねふとのてくるくるしみ ねつきする地獄のかまのしりこふた」
  ※文明田舎問答(1878)〈松田敏足〉徴兵「病犬(やまいぬ)が出て、老人や子供の、脛や尻臀(シリコブタ)に噛つく」

とある。
 竹箆(しっぺい)は座禅の時肩を打つ竹で作ったへら状の坊で、てっきりこれで肩を打つのかと思ったら、なにやらお尻の方に別の竹箆が、という下ネタでした。
 指ではじく「しっぺ」もこれが語源だという。
 長点だがコメントはない。

七十六句目

   竹箆をくるるものとはしりこぶた
 ひねるとこそはかねて聞しか

 尻はつねるもんだと思っていたが、ということで、普通に叩かれたことにして逃げる。
 点なし。

七十七句目

   ひねるとこそはかねて聞しか
 三枚のかるたの外に月の暮

 この頃のかるたは「うんすんかるた」であろう。ウィキペディアに、

 「うんすん
  3人から6人。1人に3枚ずつ3回、9枚宛の札を配り、残りは山札として裏向きに重ねておく。
  親から順に左廻り、山札から1枚を引き、不要な札を1枚捨てることを繰り返す。
  3枚以上の同数値のセット、もしくは3枚以上の同スート、続き数値の札のセットができると場にさらす。
  手札が無くなった者が出た時点、もしくは同スートのウン、スン、ロバイを揃えた者が出た時点で、その者の勝とし、1回のゲームを終わりとする。
  上がった者を0点とし、後は手札によってマイナス点とする。数札はその数値、絵札10点、ロバイ15点。
  基本は以上であるが、「つけ札」「拾う」などの細則がある。

とある。
 前句の「ひねる」を勝負事で負ける意味に取り成す。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「捻・拈・撚」の意味・読み・例文・類語」に、

 「⑤ 相撲などを、かるくやる。また一般に、勝負事などで相手を軽く負かす。
  ※浄瑠璃・五十年忌歌念仏(1707)上「若い時は小相撲の一番もひねったおれぢゃ」

とある。今でも「軽くひねられた」というふうに用いる。

七十八句目

   三枚のかるたの外に月の暮
 気疎秋ののらのより合

 「気疎」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「気疎」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘形口〙 けうと・し 〘形ク〙 (古く「けうとし」と発音された語の近世初期以降変化した形。→けうとい)
  ① 人気(ひとけ)がなくてさびしい。気味が悪い。恐ろしい。
  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)四「なれぬほどは鹿狼(しかおほかみ)の声もけうとく」
  ※読本・雨月物語(1776)吉備津の釜「あな哀れ、わかき御許のかく気疎(ケウト)きあら野にさまよひ給ふよ」
  ② 興ざめである。いやである。
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)二「角落して、きゃうとき鹿の通ひ路」
  ③ 驚いている様子である。あきれている。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Qiôtoi(キョウトイ) ウマ〈訳〉驚きやすい馬。Qiôtoi(キョウトイ) ヒト〈訳〉不意の出来事に驚き走り回る人」
  ④ 不思議である。変だ。腑(ふ)に落ちない。
  ※浄瑠璃・葵上(1681‐90頃か)三「こはけうとき御有さま何とうきよを見かぎりて」
  ⑤ (顔つきが)当惑している様子である。
  ※浄瑠璃・大原御幸(1681‐84頃)二「弁慶けうときかほつきにて」
  ⑥ (多く連用形を用い、下の形容詞または形容動詞につづく) 程度が普通以上である。はなはだしい。
  ※浮世草子・好色産毛(1695頃)一「気疎(ケウト)く見事なる品もおほかりける」
  ⑦ 結構である。すばらしい。立派だ。
  ※浄瑠璃・伽羅先代萩(1785)六「是は又けふとい事じゃは。そふお行儀な所を見ては」

とある。この場合は①か。
 人気のない所で人が集まってカルタをしている。何だか妖しげな雰囲気だ。無宿人だろうか。
 点なし。

名残裏
九十三句目

   湯漬も玉をみだす春風
 油断すな花ちらぬまの早使

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『鞍馬天狗』の、

 「花咲かば告げんといひし山里の、告げんといひし山里の、使は来たり馬に鞍、鞍馬の山のうず 桜、手折枝折をしるべにて、奥も迷はじ咲きつづく、木蔭に並みゐていざいざ、花を眺めん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.4009). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。西谷の僧正に仕える能力が、花の盛りを知らせに東谷の僧の所にやって来るところから物語は始まる。
 こうした花の便りを伝える使いに、春風で花はすぐに散るから油断するな、とする。
 点なし。

九十四句目

   油断すな花ちらぬまの早使
 頓死をなげく鶯の声

 鶯に散る花は、

 花の散ることやわびしき春霞
     たつたの山のうぐひすのこゑ
              藤原後蔭(古今集)
   うぐひすのなくをよめる
 木づたへばおのが羽風に散る花を
     誰におほせてここらなくらむ
              素性法師(古今集)

などの歌がある。
 花の散った後の鶯の声の侘しさは、頓死を歎くかのようだが、花がまだ散らぬ間なら「頓死を歎く」はよくわからない。鶯の羽風で花が散るから気を付けろという意味なんだろうけど、うまく言葉がつながっていない。
 点なし。

九十五句目

   頓死をなげく鶯の声
 跡敷の公事は霞てみとせまで

 跡敷(あとしき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「跡式・跡職」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 相続の対象となる家督または財産。また、家督と財産。分割相続が普通であった鎌倉時代には、総領の相続する家督と財産、庶子の相続する財産をいったが、長子単独相続制に変わった室町時代には、家督と長子に集中する財産との単一体を意味した。江戸時代、武士間では単独相続が一般的であったため、原則として家名と家祿の結合体を意味する語として用いられたが、分割相続が広範にみられ、しかも、財産が相続の客体として重視された町人階級では、財産だけをさす場合に使用されることもあった。
  ※今川仮名目録‐追加(1553)一一条「父の跡職、嫡子可二相続一事勿論也」
  ※三河物語(1626頃)一「松平蔵人殿舎弟の十郎三郎殿御死去なされければ、御跡次(あとつぎ)の御子無しと仰せ有つて、其の御跡式(アトシキ)を押領(をうれう)し給ふ」
  ② =あとしきそうぞく(跡式相続)
  ※禁令考‐別巻・棠蔭秘鑑・亨・三・寛保三年(1743)「怪敷儀も無之におゐては、譲状之通、跡式可申付」
  ③ 家督相続人。遺産相続人。跡目。あとつぎ。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「頓死をなげく鶯の声 跡識の公事は霞てみとせまで」

とある。家督相続でもめて裁判になって、三年の月日が流れる。頓死で遺言もなかったのだろう。死を嘆く鶯の声は訴訟の終わらないもやもやの中にある。
 点なし。

九十六句目

   跡敷の公事は霞てみとせまで
 彼行平のちうな分別

 「ちうな」は中納言のこと。謡曲『松風』に、

 「(クドキ)さても行平三年の程、御つれづれの御舟遊び、月に心は須磨の浦の夜汐を運ぶ蜑乙女に、おととい選はれまゐらせつつ、折にふれたる名なれやとて松風村雨と召されしより、月にも 馴るる須磨の蜑 の、 
 シテ   「塩焼き衣、色かへて、
 シテ・ツレ「縑の衣の、空焚きなり。 
 シテ   「かくて三年も過ぎ行けば、行平都に上り給ひ、 
 ツレ   「いく程なくて世を早う、去り給ひぬと聞きしより、」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.1561-1562). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあることから、中納言の遺産が松風・村雨という二人の妻の間で訴訟沙汰になったということか。
 長点だがコメントはない。

九十七句目

   彼行平のちうな分別
 無疵ものあげて一尺五六寸

 行平というと平安時代末期から鎌倉時代前期の豊後国の刀工に紀新大夫行平がいる。ここでは前句の行平を刀鍛冶としてその作品の無傷の一尺五六寸の刀とする。ただ日本刀の標準は二尺三寸くらいだから、これは脇指になる。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注には、中脇指だから「ちうな分別」だという。
 なお、この注には大和の刀匠左衛門大夫行平の名が挙げられていて鬼切丸の作者だという。ネットではこの人物は確認できなかった。酒吞童子を倒すのに用いられたという鬼切丸は、ウィキペディアによると、伯耆国の刀工大原安綱の銘があるが、後の追刻という説もあるという。、
 点あり。

九十八句目

   無疵ものあげて一尺五六寸
 命しらずの麻の手ぬぐひ

 前句の一尺五六寸を手拭の長さとして、麻の手拭は丈夫なので「命しらずの麻の手ぬぐひ」とする。
 点あり。

九十九句目

   命しらずの麻の手ぬぐひ
 柄杓よりつたふ雫のよの中に

 重労働の末に柄杓の水でかろうじて喉を潤すような世の中では、命知らずの麻の手拭は有り難い味方だ。
 長点だがコメントはない。

挙句

   柄杓よりつたふ雫のよの中に
 あらんかぎりはのめよ酒壺

 酒壺の酒を柄杓ですくって、さあこの辛くも儚い浮世をせめては飲みつくそうではないか、と一巻は目出度く?終わる。
 点あり。

 「愚墨六十句
     長廿七

 伝きく天宝の唐がらし、鼻より入て口よりい
 づる色あひは、たちうり染のもみ紅梅、一句
 一句のこまやかなるは、おいまがけしかのこ、
 後藤がほり、すがたうるはしくやすらかなる
 は、柳に桜、あさぎにうこん源左衛門が海道
 下り、筆でかくとも即合点、おそれながらも
 候べく候
      西幽子(さいゆうし)判」

 点の数は鶴永(西鶴)に並ぶが、長点の数は大差をつけて勝っている。西鶴とはまた違った意味で談林俳諧の頂点を感じさせる作品で、由平はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前川由平」の解説」に、

 「?-1707ごろ 江戸時代前期の俳人。
和気由貞の子。大坂の人。西山宗因にまなぶ。井原西鶴,和気遠舟とともに大坂俳壇の三巨頭といわれた。元禄(げんろく)のころ雑俳点者として活躍。宝永4年ごろ死去。通称は江助,江介。別号に半幽,自入,舟夕子(しゅうせきし),瓢叟(ひょうそう)など。著作に「由平独百韻」「俳諧(はいかい)胴ほね」。

と後の大阪談林を代表する人物となっていった。
 ここでも後藤祐乗の彫金の技術と野郎歌舞伎の名女形の右近源左衛門の優雅さに喩えられ、多くの加点となった。

2023年8月29日火曜日

  よくよく思い出してみると、昔は日本人も何かというと抗議の電話を掛けてたな。多分最近は威力業務妨害になるのが恐くてあまりしなくなったんじゃないかと思う。昔は何かというと抗議の電話が殺到したなんてニュースになってた。
 今の処理水放出でも、日本人がそれをやらないというのは、左翼もそれだけ冷静だし、騒いでるのは極一部、れいわが中心で多少の共産党員を巻き込んでるくらいじゃないかと思う。
 中国からの抗議の電話も、中国の人口を考えるならそんなたいした量ではないから、多分そんな組織的なものではないんじゃないかと思う。せいぜいチンケな右翼団体がネットで煽ったとかそういうもんじゃないかな。まあ、国家ぐるみで人海戦術でやったら、国際電話の回線がパンクして全然意味がなかったりして、やるならネットでサーバーをパンクさせることを考えるだろう。
 逆に考えれば、台湾有事になった時には本気で嫌がらせをしてくる可能性がある。甘く見ない方が良いとも言える。

 それでは「鼻のあなや」の巻の続き。

名残表
七十九句目

   気疎秋ののらのより合
 その犬のまたほえかかる村薄

 前句の「のらのより合」を野良犬のこととする。野良犬は群れになってることが多い。
 薄は手招きするように揺れるので、妖しい奴と思って吠え掛かる。
 長点だがコメントはない。

八十句目

   その犬のまたほえかかる村薄
 夜ふけて誰じゃ萩の下道

 夜更けに番犬が吠えるから、誰が来たのかと思う。
 村薄に萩は、

 秋萩の花野に混じる村薄
     草の袂ぞ色にいでゆく
             藤原為家(夫木抄)

の歌がある。萩に混じってた薄に吠えたとも取れる。
 点あり。

八十一句目

   夜ふけて誰じゃ萩の下道
 火打箱さがすや露の置所

 火打箱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「火打箱・燧箱」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 火打道具を入れておく箱。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「夜ふけて誰じゃ萩の下道 火打箱さがすや露の置所〈由平〉」
  ② 狭く小さい家をあざけっていう語。
  ※浄瑠璃・傾城反魂香(1708頃)上「家まづしくて身代は、うすき紙子の火打箱」

とある。
 夜更けに尋ねてきた人がいたので、急いで火打ち箱を探して灯りを灯そうとする。前句の萩に露の置き所と付く。
 長点だがコメントはない。

八十二句目

   火打箱さがすや露の置所
 手きざみたばこ風にみだるる

 刻み煙草はキセルに用いる。「手きざみ」というのは刻んでない葉煙草を自分の手で砕いて吸うということか。煙草の葉を刻んで、さあ吸おうと思うと、火打ち箱が見つからず、探しているうちに煙草の葉が風で飛んでしまう。
 点なし。

八十三句目

   手きざみたばこ風にみだるる
 むら消る雲にしゃくりの声す也

 しゃっくりをしたら、その息でキセルの葉が吹き飛んで火が消える。火が消えて煙草の煙が止むのを、風に雲が吹き飛ばされるのに喩える。
 点あり。

八十四句目

   むら消る雲にしゃくりの声す也
 引立見ればひづむ天の戸

 引立はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「引立」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 横になっている物や人を引っ張って立つようにする。引き起こす。
  ※蜻蛉(974頃)上「生糸(すずし)のいとを長うむすびて、一つむすびては、ゆひゆひして、ひきたてたれば」
  ② 戸、障子などを、引き出してたてる。引いて閉じる。
  ※落窪(10C後)二「やり戸あけたりとておとどさいなむとて、ひきたてて、錠(ぢゃう)ささんとすれば」
  ③ 引いてきた車などを、とめる。車をとどめる。
  ※宇津保(970‐999頃)蔵開下「車ひきたててみる」
  ④ 馬などを、引いて連れ出す。引いて連れて行く。
  ※延喜式(927)祝詞「高天の原に耳(みみ)振立(ふりたて)て聞く物と、馬牽立(ひきたて)て」
  ⑤ いっしょに連れて行く。いっしょに行くようにせきたてる。また、無理に連れて行く。連行する。
  ※源氏(1001‐14頃)夕霧「やがてこの人をひきたてて、推し量りに入り給ふ」
  ⑥ 人や、ある方面の事柄を、重んじて特に挙げ用いる。特に目をかける。ひいきにする。
  ※古今著聞集(1254)一「重代稽古のものなりけれども、引たつる人もなかりけるに」
  ⑦ 勢いがよくなるようにする。気分・気力の勢いをよくする。気を奮い立たせる。
  ※新撰六帖(1244頃)六「杣山のあさ木の柱ふし繁みひきたつべくもなき我が身哉〈藤原家良〉」
  ⑧ 一段とみごとに見えるようにする。特に目立つようにする。きわだたせる。
  ※俳諧・七番日記‐文化七年(1810)九月「夕顔に引立らるる後架哉」
  ⑨ 注意を集中する。特に、聞き耳を立てる。
  ※うもれ木(1892)〈樋口一葉〉八「引(ヒ)き立(タ)つる耳に一と言二た言、怪しや夢か意外の事ども」

とある。戸だから②の意味であろう。
 天照大神が天の岩戸を閉ざそうとするとするが、戸が歪んでうまく閉まり切らず、しゃっくりの声が漏れてくる。しゃっくりが出たのを知られるのが恥ずかしくて、岩戸を閉ざして引き籠ったのか。
 点あり。

八十五句目

   引立見ればひづむ天の戸
 ぬか釘も時雨もみねによこおれて

 ぬか釘はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「糠釘」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 非常に小さい釘。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 「ぬか(糠)に釘」の略。
  ※浄瑠璃・心中刃は氷の朔日(1709)上「鉄鎚こたへぬぬか釘で、後は吹きあげ鞴ふく」

とあり、この場合は天の戸を止めている①の釘であろう。
 前句の「引立」を①の立てるの意味に取り成して、時雨の雲が嶺に横たわってるので、それを無理やり立たせて見たら天の戸の釘が外れて歪んでた、とする。
 時雨は天の戸の雲の通い路のひずみから来るという新説?
 点あり。

八十六句目

   ぬか釘も時雨もみねによこおれて
 磯部の松の針とがり行

 「ぬか釘も」を「ぬか釘の」の強調として、ぬか釘のような松の針も時雨の雲が嶺に横たわって尖って行く、とする。
 磯の松に時雨は、

 袖濡らす雄島が磯の泊りかな
     松風寒み時雨ふるなり
            藤原俊成(続古今集)

の歌がある。
 点なし。

八十七句目

   磯部の松の針とがり行
 はれもののうみすこし有須磨のうら

 海と膿を掛けて、腫物の膿を出すために磯辺の松の針を用いる。
 長点だがコメントはない。

八十八句目

   はれもののうみすこし有須磨のうら
 瘤はかたほに見ゆる舟人

 片方(片頬)と片帆を掛ける。瘤が片方だけなので、須磨の浦の腫物のあるその舟人は瘤を片帆にして航行しているみたいだ、とする。
 日本の船は帆を吊るす帆桁がマストに固定されてないため、左右同じようにして真横になるように張ると横帆になり、片側に寄せて斜めにすると縦帆になる。前者を真帆といい、後者を片帆という。
 点あり。

八十九句目

   瘤はかたほに見ゆる舟人
 柴かりのいはれぬはなし又一つ

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、

 「鬼に片頬の瘤を取られた柴刈の翁の話(宇治拾遺物語)によって前句に付く。」

とある。童話「瘤取り爺さん」の元ネタで、柴刈のそういう話があるから、下手に鬼が瘤を取ってくれるなんてことは言わない方が良い。両方くっつけられる。
 点なし。

九十句目

   柴かりのいはれぬはなし又一つ
 雪の山路もくちへ出るまま

 柴刈りの山賤に雪というと、

 ま柴かる道やたえなん山がつの
     いやしきふれる夜はの白雪
              藤原頼氏(続拾遺集)

だろうか。夜の雪の山路で迷った話を、口から出るままに大袈裟に話を盛って、延々と語ってくれたのだろう。
 点あり。

九十一句目

   雪の山路もくちへ出るまま
 照月の氷も谷へさらさらさら

 月に氷は、

 あまの原そらさへさえや渡るらん
     氷と見ゆる冬の夜の月
              恵慶法師(拾遺集)
 夜を重ね結ぶ氷の下にさへ
     こころふかくも宿る月かな
              平実重(千載集)

などの歌に詠まれている。
 前句の雪の山路に氷るような月の光が谷へとさらさらと落ちて行く美しい句だが、俳味に欠けるというのがマイナスだったか。
 点なし。

九十二句目

   照月の氷も谷へさらさらさら
 湯漬も玉をみだす春風

 湯漬けはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「湯漬」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 飯を湯につけて食べること。また、その食事。蒸した強飯(こわめし)を熱い湯の中につけ、また、飯に湯を注いだ。食べるときに湯を捨てることもある。夏は「水漬」といって、水につけることがあった。
  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「侍従のまかづるにぞあなる。ゆづけのまうけさせよ」
  ※夢酔独言(1843)「酔もだんだん廻るから、もはや湯づけを食うがよひとて」

とある。
 春風は、

 春風も吹きな乱りそ青柳の
     糸もて貫ける露の玉ゆら
             空静(延文百首)

などの歌にあるように柳の露の玉を乱すものだが、ここでは湯漬けの強飯の玉をみだして、さらさらにする。「お茶漬けさらさら」という時の「さらさら」と同じ。それを氷った月が溶けてゆくのに喩える。
 点なし。綺麗だがこういう句は貞門時代には有りがちで、それほど新味はなかったのかもしれない。

2023年8月27日日曜日

  それでは「鼻のあなや」の巻の続き。

三表
五十一句目

   きのふも三人出がはる小もの
 不埒なる酒のかよひの朝がすみ

 三人ほどいつも連れ立って酒屋通いで朝まで飲んだくれてたので、結局首になった。
 点あり。

五十二句目

   不埒なる酒のかよひの朝がすみ
 念比しられぬ晋の七賢

 竹林の七賢は晋の時代の人。特に劉伶は大酒飲みで『酒徳頌』を書いたことでも知られていた。
 その他阮籍も大酒飲みで知られているし、総じて全員酒飲みだったようだ。晋の酒屋にたむろしてたのだろう。
 点ありで「酒代さしのべらるべし。不律儀はいかなれ、七賢に候」とある。

五十三句目

   念比しられぬ晋の七賢
 法度ぞと孔子のいはく衆道事

 孔子が衆道は法度だと言ったかどうかは知らないが、七賢の中に懇ろの関係の者がいてもおかしくはないか。七角関係で乱れたらちょっと問題だ。孔子も顔回との噂がないではないが。
 点なし。

五十四句目

   法度ぞと孔子のいはく衆道事
 遊女のいきは論におよばず

 衆道を禁止するくらいだから遊郭なんてもってのほかだろうな。
 点なし。

五十五句目

   遊女のいきは論におよばず
 絵草子と成はつべきの心中に

 絵草子は挿絵の多く入った浄瑠璃本や仮名草子で、寛文期には数多く出版されてた。寛永の頃の活字本から木版印刷に変わると、文字を掘る手間も絵を掘る手間もそれほど変わらなくなったのだろう。
 心中はこの頃は特に自殺を意味するものではなかった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「心中」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① ⇒しんちゅう(心中)
  ② まごころを尽くすこと。人に対して義理をたてること。特に、男女のあいだで、相手に対しての信義や愛情を守りとおすこと。真情。誠心誠意。実意。
  ※仮名草子・都風俗鑑(1681)一「われになればこそかくは心中をあらはせ、人には是ほどには有まじと」
  ※浄瑠璃・道成寺現在蛇鱗(1742)二「若い殿御の髪切って、廻国行脚し給ふは、御寄特(きどく)といはうか、心中(シンヂウ)といはうか」
  ③ 相愛の男女が、自分の真情を形にあらわし、証拠として相手に示すこと。また、その愛情の互いに変わらないことを示すあかしとしたもの。起請文(きしょうもん)、髪切り、指切り、爪放し、入れ墨、情死など。遊里にはじまる。心中立て。
  ※俳諧・宗因七百韵(1677)「かぶき若衆にあふ坂の関〈素玄〉 心中に今や引らん腕まくり〈宗祐〉」
  ※浮世草子・好色一代男(1682)四「女郎の、心中(シンヂウ)に、髪を切、爪をはなち、さきへやらせらるるに」
  ④ (━する) 相愛の男女が、合意のうえで一緒に死ぬこと。相対死(あいたいじに)。情死。心中死(しんじゅうじに)。
  ※俳諧・天満千句(1676)一〇「精進ばなれとみすのおもかけ〈西鬼〉 心中なら我をいざなへ極楽へ〈素玄〉」
  ⑤ (━する) (④から) 一般に、男女に限らず複数の者がいっしょに死ぬこと。「親子心中」「一家心中」
  ⑥ (━する) (比喩的に) ある仕事や団体などと、運命をともにすること。
  ※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉猟官「這般(こん)なぐらつき内閣と情死(シンヂュウ)して什麼(どう)する了簡だ」
  [語誌]近世以降、特に遊里において③の意で用いられ、原義との区別を清濁で示すようになった。元祿(一六八八‐一七〇四)頃になると、男女の真情の極端な発現としての情死という④の意味に限定されるようになり、近松が世話物浄瑠璃で描いて評判になったこともあって、情死が流行するまでに至った。そのため、この語は使用を禁じられたり、享保(一七一六‐三六)頃には「相対死(あいたいじに)」という別の言い回しの使用が命じられたりした〔北里見聞録‐七〕。」

とある。
 寛文の頃の絵草子だとしたら③の意味で、刃傷沙汰などのスキャンダラスなものではあっても、元禄後期の近松門左衛門のような心中ものではなかったのではないかと思う。
 遊女とのトラブルは最後は絵草子ネタになる。
 点あり。

五十六句目

   絵草子と成はつべきの心中に
 銭一もんのかねことのすゑ

 「かねこと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「予言・兼言」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「かねこと」とも。かねて言っておく言葉の意) 前もって言うこと。約束の言葉、あるいは未来を予想していう言葉など。かねことば。
  ※後撰(951‐953頃)恋三・七一〇「昔せし我がかね事の悲しきは如何契りしなごりなるらん〈平定文〉」
  ※洒落本・令子洞房(1785)つとめの事「ふたりが床のかねごとを友だちなどに話してよろこぶなど」

とある。
 銭一文で占ってもらったらとんでもないことになったということか。
 点なし。

五十七句目

   銭一もんのかねことのすゑ
 わかれより始末を告る鳥の声

 別れの鳥と言えば後朝に鳴く鶏のことだろう。別れの時の言葉は愛の言葉ではなく、金返せだった。クドカンの「ジョニーに伝えて1000円返して」みたいなギャグか。
 点なし。

五十八句目

   わかれより始末を告る鳥の声
 またあふ坂とおもふ腎水

 始末には節約の意味もある。年取って若い頃のような無茶ができなくなったか。ほどほどにしておこうということか。昔は腎水がなくなると腎虚になると言われていた。
 延宝六年の「さぞな都」の巻五十七句目の、

   首だけの思ひつつしみてよし
 憂中は下焦もかれてよはよはと  桃青

の下焦(げしょう)も腎虚のこと。
 点あり。

五十九句目

   またあふ坂とおもふ腎水
 道鏡や音に聞えし音羽山

 怪僧道鏡は女帝の孝謙天皇に取り入って皇位簒奪を企てた人で、この事件で道鏡が排除されることで万世一系の天皇制が確立されるとともに、その後長いこと女帝が途絶えることにもなった。
 なおその後女帝は寛永の頃に明正天皇が皇位について、一度復活している。幼少期に皇位についたため、退位してからの方が長く、実はこの頃も存命で元禄九年まで生きたという。
 道鏡は女天皇をたらし込んだということで巨根伝説もある。
 音羽山は前句の逢坂との縁で、特に道教と関連があるわけではない。腎水から勢力絶倫だと言われていた道教の噂に転じ、逢坂に掛けて「音に聞こえし音羽山」とする。
 点あり。

六十句目

   道鏡や音に聞えし音羽山
 かたりもつくさじ其果報者

 果報者というのは多分巨根や絶倫伝説の方で、男なら憧れるというものだろう。
 点なし。

六十一句目

   かたりもつくさじ其果報者
 身体も次第にはり上はり上て

 身体はこの場合は身代のこと。「はり上げ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「張上」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① いちだんと高く張る。高い所に張る。
  ※改正増補和英語林集成(1886)「ホヲ hariageru(ハリアゲル)」
  ② 声を強く高く出す。大きな声を出す。
  ※浮世草子・世間胸算用(1692)四「投げ節を、息の根つづくほどはりあげて」
  ③ 財産などをふやす。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「かたりもつくさじ其果報者 身躰も次第にはり上はり上て〈由平〉」

とある。果報者と言えば女か金かで、ここは財産の方に転じる。
 点なし。

六十二句目

   身体も次第にはり上はり上て
 天竺震旦からかさの下

 まあ、今は「傘下に収める」という言葉があるが、この時代にその言い回しがあったかどうかはわからない。
 ここでは前句の「はり上げ」から連想であろう。
 長点で「ありがたくも此寺の一本からかさか」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「傘\唐傘一本」の意味・読み・例文・類語」に、

 「破戒僧が寺を追放されること。寺を追放される時、からかさを一本だけ持つことを許されたところからいう。出家の一本傘。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「お住持の不儀はへちまの皮袋 からかさ一本女郎町の湯屋〈意楽〉」
  ※浮世草子・風流曲三味線(1706)一「若衆ぶりして諸山の浮気坊主の心を蕩(とらかし)〈略〉後傘一本(カラカサいっポン)になる時見ぬ顔せらるる」

とある。蝉丸が蓑笠を貰ったように、雨の多い日本にあって、雨露を凌げるというのが最低限の人間の尊厳だったのだろう。お寺だとそれが唐傘になる。だからこそ、笠がないというのは芭蕉の、

 初時雨猿も小蓑をほしげ也 芭蕉

の句はもとより、近代のJ=popでもしばしば「傘がない」というのは象徴的な言い回しとして用いられる。
 一本の唐傘からスタートして成功した人の物語だろうか。さすがに当時は中国(震旦)インド(天竺)を股に掛けることはなく、あくまで比喩だろうけど。

六十三句目

   天竺震旦からかさの下
 大きにもやはらげ来る飴は飴は

 当時の飴売は唐傘を持ってたようで、「十いひて」の巻八十七句目にも、

   からかさ一本女郎町の湯屋
 飴を売人の心もうつり瘡

の句があった。天保の頃の『近世流行商人狂哥絵図』にも、唐傘を立てた飴売りが描かれている。飴売の伝統なのだろう。
 「大きにもやはらげ来る」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『白楽天』の、

 「それ天竺の霊文を唐土の詩賦とし、唐土の詩賦を以つてわが朝の歌とす。されば三国を和らげ 来たるを以つて、大きに和らぐと書いて大和歌とよめり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.639). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。「大きに和らげ」で大和になる。
 詩はインドにも中国にもあるもので、同様の物が我が国では大和歌(和歌)だということで、詩の普遍を説くものだが、飴もインドや中国にもあって日本のは大和飴ということになるのか。
 長点だがコメントはない。

六十四句目

   大きにもやはらげ来る飴は飴は
 あつかひ口もねぢた月影

 「あつかひ口」は扱い言のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「扱言」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 仲裁の口をきくこと。仲裁に立つこと。
  ※読本・春雨物語(1808)樊噲「かれら首にしてかへり、主の君にわびん。扱ひ言して法師も命損ずな」

とある。前句の「大きにもやはらげ」を受ける。
 「ねじた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「捩・捻・拗」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 棒状や糸状など細長いものの両端を持って、互いに逆の方向に回す。また、一端が固定された他の一端をにぎって、無理に回す。ひねる。
  ※仮名草子・可笑記(1642)一「ねぢり殺さうの、なげすてうのとどしめけども」
  ② 回転するようにつくったスイッチや栓などを右または左に回す。また、螺旋のついたものをひねって動かす。ひねる。
  ※明暗(1916)〈夏目漱石〉二八「電燈のスヰッチを捩(ネヂ)った」
  ③ 盛んに苦情や文句をいいたてる。なじり責める。
  ※いさなとり(1891)〈幸田露伴〉五五「反対(あべこべ)に捻(ネヂ)られ、無念にはおもへど」

とあり、③の意味に捻り飴を掛ける。
 「大きにもやはらげ来るあつかひ口もねぢた」と仲裁に来たのに逆になじられるということなのか、それに「飴は飴は」と「月影」がよくわからない。
 点なし。

2023年8月26日土曜日

  芥川賞作家でも紙本を批判するとそんなにバッシングを受けるもんなのかな。まあ、俺なら何でも言える立場だし、紙の本を出してないし、どうせそんな話来るわけないからね。
 ここ何年紙の新刊本はほとんど買ってないし、ラノベはkindleで読んでるし、俳諧関係の電子化されてないものは大体古書を買っている。
 第一に紙の無駄。熱帯雨林が泣いている。大量に紙を消費する社会は、今どき時代遅れ。紙と鉄は使えば使うほど文明人なんて60年代くらいには言われてたけど、その頃若者だった爺さんが未だに大きな顔してるんだろうな。
 第二に紙の本は火や水などに弱い。図書館が火事になったり水害になったりしたら貴重な書籍が失われる。電子化しておけば安心。
 第三に紙の本は場所を取る。図書館だって本が溜まりすぎて困っていて困ってるんじゃないかな。時折あまり価値のない本を整理したりしては、得体の知れないプロ市民が騒いでるけど、電子化しておけば保管に場所を取らなくて済む。
 部屋に置いとくんだって紙の本は場所を食う。それに地震が来たら本棚から落ちてきて危ない。そんなに異世界転生したいのかい。
 そして第四に、かの芥川賞作家も指摘した通り、障害者に優しくない。読書のバリアフリーのためにも、特に分厚い学術書など、電子化を義務付けるべきだ。漫画やラノベは今でもスマホでも読めるからいいとして、専門書は例外なく電子化すべきだ。
 あと、匂いがいいとか言ってるきしょい連中は病院で治療した方が良いね。本馬鹿、本フェチは何とか障害とか病名を与えた方が良い。あっ、だと障害者になっちゃうから、バリアフリーの意味でそういう人たちに少量の紙の本を残さなくてはいけないね。
 アヘン中毒を直すに少量のアヘンを与え、徐々に減らしていくというの、日本もかつて台湾や満州なんかでやってたからね。

 それでは「鼻のあなや」の巻の続き。

二裏
三十七句目

   はづいて来たぞ千代の古道
 ふところへつつと押込松のかぜ

 「外す」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「外」の意味・読み・例文・類語」に、

 ① 取りつけたり、掛けたりしてあるものを取り去る。はまっている所から抜き出す。取り除く。また、比喩的に、ある人をその位置から追いやる。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
  ※宇治拾遺(1221頃)一「箭をはづして火とりて見るに」
  ② つかまえそこなう。とりそこなう。機会などをのがす。また、あやまつ。
  ※宇津保(970‐999頃)国譲上「忍びて御許につかうまつらん。それをさへはづさせ給ふな」
  ※日葡辞書(1603‐04)「モウシ fazzusu(ハヅス)」
  ③ ねらいをそらす。矢などを射て、的(まと)と違う方向にそらす。
  ※宇治拾遺(1221頃)七「三人ながら召されぬ。試みあるに、大かた一度もはづさず」
  ④ 衣服などを身から離す。脱ぐ。「えり巻きをはずす」
  ※虎寛本狂言・茶壺(室町末‐近世初)「一方の肩をはづいてふせって居ましたれば」
  ⑤ その場から離れる。席を去る。避ける。よける。また、相手の攻撃、思惑などをかわす。「席をはずす」
  ※玉塵抄(1563)一五「坊主の曾子が弟子をひきつれてその難をはついたぞ」
  ⑥ 品物などをかすめとる。ちょろまかす。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「豊嶋筵(てしまむしろ)をはづし、はじめて盗心になって行に」
  ⑦ 思わず屁(へ)や尿(にょう)をもらす。失禁する。
  ※咄本・軽口腹太鼓(1752)二「椽先で屁をひとつはづした折ふし」
  ⑧ 遊女が、商売気を離れて心から客と情事にふける。とっぱずす。
  ⑨ 琵琶の左手の使い方の一つ。左手のある指で柱を押え、右手の撥(ばち)で弦をかき鳴らしてから、左手の指を柱から離す。
  ⑩ 能・狂言などのうたい方の一つ。曲の拍子や調子を変えたり、わざと型にはまらない節でうたう。また、本来の調子からずれて音を出す。〔わらんべ草(1660)〕
  ⑪ 将棋で、ハンデを付けるために、上位者が駒の一部を取り除く。
  ※咄本・軽口あられ酒(1705)五「将棋は何と。そうけいに片香車はづし候」

とある、先ほどは⑤の意味だったが、ここでは⑥の意味になる。いまだと「パクってきたぞ」といったところか。昔は懐に金などを入れていた。「千代の古道」に「松のかぜ」が付く。
 点あり。

三十八句目

   ふところへつつと押込松のかぜ
 かたみのあふぎこなたはわすれず

 懐から盗むのではなく懐へ形見の扇を差し入れるとする。
 形見の扇というと謡曲『班女』だろうか。

 「それにつき過ぎにし春吉田の何某殿、東へ御下りの時、わらはが方へお宿を召され、かの花子 にお酌を取らせ候が、何と申したる御事やらん、何某殿の扇と、花子が扇と取り替へて御下り候が、それより花子うつつなくなり、その扇にばかり眺め入り、扇さばくりのみをいたすに依り、皆人 花子がことを、班女と御呼び候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1791). Yamatouta e books. Kindle 版. )

のこの「扇さばくり」のことであろう。
 前句の「松のかぜ」を受けるなら謡曲『松風』になるが、松風が形見に貰ったのは、

 「この程の形見とて御立烏帽子狩衣を、残し置き給へども、これを見る度に、いや増しの思ひぐさ・葉末に結ぶ露の間も、忘らればこそあぢきなや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1563). Yamatouta e books. Kindle 版.)

とあるように烏帽子と狩衣だった。
 『松風』を意識しながら懐に入るものということで班女の扇を思い浮かべたのだろう。
 長点で「行平のゑみがほ思やられ候」とある。

三十九句目

   かたみのあふぎこなたはわすれず
 君すまば朝鮮国のはてまでも

 唐突に朝鮮国が出てきた感じがするが、豊臣秀吉の『三国地図扇』のことだろうか。
 点なし。

四十句目

   君すまば朝鮮国のはてまでも
 その鬼しやぐはんゆるせかよひぢ

 鬼しやぐはんは『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)によると、鬼舎官で加藤清正のことだという。
 舎官はよくわからないが、鬼の棲む家の官僚ということか。本来は旅館という意味。
 補給を考えずに突進しすぎたもんだから、退路を断たれて大変だったようだ。
 点あり。

四十一句目

   その鬼しやぐはんゆるせかよひぢ
 約束でゆけば極楽はるか也

 極楽へ行きたいけど鬼舎官が邪魔する。清正のことではなく、地獄の鬼の意味で用いる。
 鬼舎官は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に「狂言鬼物の常套句」とあるが、具体的な用例は示していない。
 長点だがコメントはない。

四十二句目

   約束でゆけば極楽はるか也
 釈迦はやりてと夕暮の空

 お釈迦さまは遊郭のやり手婆みたいなもんで、極楽へ行けると言いながら、いつになったら連れてってくれるやら。
 点なし

四十三句目

   釈迦はやりてと夕暮の空
 西方は十万貫目一いきに

 西方浄土は十万億の仏土を隔てた所にあるというが、それを十万貫目と金の単位にする。一文銭千枚が一貫だから、一両を四貫とすると、十万貫は二万五千両になる。これだけの大金を払えば西方浄土に行けるのか。お釈迦さまは王子でやり手だからそれくらいの金は持ってたのではないか、ということか。
 長点で「廿あまりに成かへり、此分限にて一いき有度候」とある。

四十四句目

   西方は十万貫目一いきに
 入くる入くるおらんだ船が

 前句の西方をオランダとして、オランダ貿易の船は十万貫もの大取引のためにやって来るとする。
 点あり。

四十五句目

   入くる入くるおらんだ船が
 早飛脚武州をさして時津風

 時津風はタイミングよく吹く追風で、オランダ船が思ってより早く来たので、その知らせを持って早飛脚が江戸城を目指して走る。
 もっとも一人で走るのではなく、リレー形式ではあるが。
 点あり。

四十六句目

   早飛脚武州をさして時津風
 御譜代家とてひかる月の夜

 早飛脚はリレー形式で、交替で夜も走る。東海道を三日で走ったと言われている。約五百キロの道のりを七十二時間で走ったとしたら、時速七キロだから、それほど全力疾走してたわけでもないのだろう。昔の人は歩くのは得意だったけど、そんなに日頃走るという習慣がなかったから、走るのは一般に苦手だったとも言われている。
 今の駅伝ランナーは時速二十キロで走るから、理論的には二十五時間で走れることになる。
 前句の早飛脚を御譜代家からの飛脚とする。
 点なし。

四十七句目

   御譜代家とてひかる月の夜
 鬢つきも出頭はげに秋のいろ

 出頭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「出頭」の意味・読み・例文・類語」に、

 「[一] ある場所へ本人が自分で出ること。役所や集まりなどに出向くこと。
  ※実隆公記‐文明七年(1475)正月五日「今日不出頭無事」
  ※浮世草子・国姓爺明朝太平記(1717)一「偽りかざる事を天性と得たるえせものなれば、〈略〉上にも下にも出頭(シュットウ)して、傍輩にもよく押親(おししたしみ)」
  [二] 他よりまさっている状態をいう。出頭一。出頭第一。
  ① 頭を出すこと。他にぬきんでていること。抜群。
  ※狂雲集(15C後)行脚「一箇出二頭天外一看、須彌百億草鞋埃」 〔魏志‐呂布伝・注〕
  ② 立身出世すること。また、その人。
  ※塩山和泥合水集(1386)「尊貴を帯せず出頭を存せずして或は辞し去って跡を深山にかくし」
  ※仮名草子・浮世物語(1665頃)一「主君の気に入りて、知行を取り、しゅっとうしける程に」
  ③ 要路にあって政務に当たること。主君の傍にあって、政務やさまざまな要務にあずかる役職。また、その人。
  ※甲陽軍鑑(17C初)品一一「叔父や従弟などの出頭を笠にきて」
  ④ 主君から特別の寵愛を受けていること。また、その人。
  ※浮世草子・武家義理物語(1688)四「御寐間ちかふめされ出頭(シュットウ)時を得て。人もうらやむ仕合(しあはせ)なるに」

とある。前句の御譜代家から③や④の人物とするが、鬢付が禿げていることで月夜に頭を手からしていて、これが本当の月代。
 点あり。

四十八句目

   鬢つきも出頭はげに秋のいろ
 露のしのはらたてふとふせうと

 前句の「出頭」を篠原の笹の上に頭が出て、ということにしたか。立てば月が出たみたいに見え、伏せれば篠原の露に濡れて秋の色になる。
 点あり。

四十九句目

   露のしのはらたてふとふせうと
 鑓持は花の安宅の関越て

 謡曲『安宅』では義経や弁慶の一団が山伏に扮して安宅の関を越えようとするが、ここではそれと関係なく、武装した一団が安宅関を通過したのであろう。
 先頭を行く槍持ちは文字通りの意味での「露払い」で、篠原の露を打ち払って後から来る主人が濡れないようにする。
 背の高い篠原の笹は立っては上の方を払い、かがんでは下の方の露を払う。
 長点だがコメントはない。

五十句目

   鑓持は花の安宅の関越て
 きのふも三人出がはる小もの

 謡曲『安宅』では義経弁慶の一団が来る前に、

 「太刀持 用のかはなおしやつそ。昨日も山伏を三人斬つてかけて候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3104). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 ここでは出替りの物を三人、とする。
 第四百韻の「十いひて」の巻十八句目にも、

   客僧は北陸道に拾二人
 きのふも三度発るもののけ

と安宅関ネタがあった。
 長点だがコメントはない。

2023年8月25日金曜日

  それでは「鼻のあなや」の巻の続き。

二表
二十三句目

   まへ髪ごそり少年の春
 親のあと踏では惜む雪消て

 親の後をついて歩いてた少年は、親の付けた雪の足跡の上をたどることができるが、元服して月代を剃って一人前になると、もはや親の足跡をたどることはできない。まるで雪が消えてしまったみたいだ。
 長点で「いかほどの知行職にも器量之仁」とある。
 知行(ちぎょう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「知行」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 事務をとること。職務を執行すること。
  ※貞信公記‐抄・天暦二年(948)正月一日「被レ奏二彼院事長者知行之由一」
  ② 平安時代、知行国制によって特定の国を与えられ、国務をとり行なうこと。→知行国。
  ※山槐記‐治承三年(1179)正月六日「同女房衝重廿前〈丹後守経正朝臣、件国内大臣知行〉」
  ③ 古代末・中世、田畑山野などの所領を領有して耕作し収穫をあげるなど、事実的支配を行なうこと。また、その支配している土地。→知行制。
  ※平家(13C前)三「太政入道、源大夫判官季貞をもて、知行し給べき庄園状共あまた遣はす」
 ④ 近世、幕府や藩が家臣に俸祿として土地を支給したこと。また、その土地。領地。采地。→知行取・知行割。
  ※寸鉄録(1606)「大臣は、知行などは過分にとりながら、主人をよそにしてかまはずして」
  ※夜明け前(1932‐35)〈島崎藤村〉第一部「水野筑後は二千石の知行(チギャウ)といふことであるが」
  ⑤ 俸祿や扶持。
  ※浮世草子・傾城色三味線(1701)大坂「野郎にかぎらず、知行(チギャウ)とらぬほどのものは皆あはぬはづ也」
  ⑥ ⇒ちこう(知行)」

とある。④や⑤の貰える職ということか。職人は親の跡をそのまま行けるが、武家の臣下の道は親の跡を追うばかりでなく、自分で道を開かなくてはならない。

二十四句目

   親のあと踏では惜む雪消て
 死一倍をなせ金衣鳥

 「死一倍」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「死一倍」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 親が死んで遺産を相続したら、元金を倍にして返すという条件の証文を入れて借金すること。また、その借金や証文。江戸時代、借金手形による貸借は法令で禁止されていたが、主として大坂の富豪の道楽むすこなどがひそかに利用した。しいちばい。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「死一倍をなせ金衣鳥 耳いたき子共衆あるべく候 呉竹のよこにねる共ねさせまひ〈由平〉」

とある。
 前句を親が亡くなってその跡目を相続した所、当てにしていた財産は雪のように消えたばかりか、借金を倍にして返せということになっている。
 金衣鳥は鶯の別名で、前句の「雪消て」を受け、金の話だから鶯ではなく金衣鳥にする。
 『談林十百韻』の「いざ折て」の巻六十三句目の、

   あらためざるは父の印判
 借金や長柄の橋もつくる也    一朝

の句も死一倍の句と思われる。親の遺産を当てにして借金しまくって遊んでたが、親父の遺書をきちんと把握してなかったので、長柄の橋も尽きてしまった、という意味。
 点ありで「耳いたき子共衆あるべく候」とあり、俳諧に金をつぎ込んでる親を持つ子がいたら、耳の痛い話だ。

二十五句目

   死一倍をなせ金衣鳥
 呉竹のよこにねる共ねさせまひ

 鶯に呉竹は、

 世にふれば言の葉茂き呉竹の
     うきふしごとに鶯ぞなく
             よみ人知らず(古今集)

の歌があり、「死一倍をなせ(借金を返せ)」の声はまさに辛い時に聞く辛い言葉だ。
 「横に寝る」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「横に寝る」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 体を横にして寝る。横臥する。横になる。
  ※俳諧・誹諧独吟集(1666)上「月にのむ茶の子の腹も更る夜に 横にねられぬ老ぞ肌さむ」
  ② 返済、支払、納入などをしないでいる。特に、借りたものを返さないでいる。
  ※浮世草子・懐硯(1687)四「皆済時には横(ヨコ)に寝(ネ)て幾度か水籠に打こまれ」
  ③ 横領する。非道なやり方で取りあげる。ゆすり取る。
  ※浮世草子・諸国武道容気(1717)二「又しては養子をし、難を付て退出し、敷銀をよこにねて」

とある。この場合は②の意味で、踏み倒そうにも許してくれない。
 点あり。

二十六句目

   呉竹のよこにねる共ねさせまひ
 ふるき軒端につよきつつぱり

 「つつぱり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「突張」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① つっぱること。ものを押しあてて支えること。つっかい。
  ※俳諧・桃青門弟独吟廿歌仙(1680)巖翁独吟「長天も地につきにけり庭の雪 氷のはしら風のつっばり」
  ② 物を支えるために立てる棒や柱など。つっかい棒。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Tçuppariuo(ツッパリヲ) カウ」
  ③ 青少年などが虚勢をはって、不良じみた態度をとったり、目立ったかっこうをしてみせること。→つっぱる(一)③。「つっぱりグループ」
  ※TV局恥さらしな日記(1984)〈村野雅義〉オン・エア「たとえ、暴走族であろうと、ツッパリ娘であろうと」
  ④ 相撲で、両腕を同時または交互に伸ばして、平手で相手の胸や肩を突くこと。〔相撲講話(1919)〕」

とある。
 軒端を支えている呉竹の柱のことであろう。おかげで家が倒れそうで倒れない。
 長点だがコメントはない。

二十七句目

   ふるき軒端につよきつつぱり
 乱以後もかはらで住る月更て

 これは、

 人住まぬ不破の関屋の板びさし
     荒れにし後はただ秋の風
             藤原良経(新古今集)

であろう。
 保元・平治の乱以降の乱世への嘆きを不破の関屋に託した歌だが、ここでは強いつっかえ棒があるので国が乱れてもまだ住んでいて、澄める月を見ている、とする。
 点なし。

二十八句目

   乱以後もかはらで住る月更て
 子をさかさまに老が身の秋

 「さかさま」は逆縁という意味にも取れるが、この場合は乱世の下克上で子の方が偉くなって自分は隠居させられているという意味か。
 長点で「珍重珍重」とある。手紙などの言い回しで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「珍重」の意味・読み・例文・類語」の、

 「③ (━する) 自分を大切にすること。自重すること。書簡などに用いて、相手に自重自愛をすすめる語。
  ※性霊集‐三(835頃)与新羅道者化来詩「入京日、必専候、面披レ未レ聞、珍重珍重、高雄寺金剛道場持念沙門遍照金剛状上、暮春十九日」 〔王僧孺‐与何炯書〕」

の意味に、

 「④ (形動) 和歌・連歌や俳諧などで用いるほめことば。非常にすぐれていること。また、その作品につける評語。俳諧の評点としては、長点と平点の中間の点とされた。
  ※宗尊親王三百首(1260頃)「故郷のよしのの山は雪消てひとひもかすみたたぬ日はなし 只此等之躰にこそ、歌は候へきと承候しか。尤珍重候」

の意味を掛けたものであろう。

二十九句目

   子をさかさまに老が身の秋
 ながらへてあられうものか露の間も

 ここで「さかさま」を逆縁に取り成して、息子に先立たれ、このまま永らえるのも物憂い、とする。
 点なし。

三十句目

   ながらへてあられうものか露の間も
 八重のしほぢを推量せられよ

 「八重の汐路」は幾重にも波の重なる海路ということで、果てしない海の旅路のことを言う。和歌でも謡曲でも用いられる。
 推量はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「推量・推諒」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 何かを手がかりにして、事情や心中などをこうだろうと想像すること。推察。推測。
  ※田氏家集(892頃)中・独坐懐古「暗記徐来長置レ榻、推量鐘対欲レ鳴レ琴」
  ※虎明本狂言・お茶の水(室町末‐近世初)「何しにきたとは大かたすいりゃうさしめ」
  ※病院の窓(1908)〈石川啄木〉「母が親(みずか)ら書く平仮名の、然も、二度三度繰返して推諒しなければ解らぬ手紙!」

とある。
 これから八重の汐路に赴くとあらば、永らえることなんでできはしない、というこどだが、謡曲『現在俊成』の、

 「シテ 世・鎮まつて勅撰の御沙汰あらばその時は、
  地   御身こそ八重の汐路に沈むとも、八重の汐路に沈むとも、藻汐草かき集めたる年来の、詠歌はその儘に、都の春に留めなん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3243). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面だろうか。
 点あり。

三十一句目

   八重のしほぢを推量せられよ
 酢醤油もろこしかけて生肴

 刺身はかつては膾にしていたが、酢だけでなく醤油混ぜて酢醤油にするのはこのことの関西の食べ方なのだろう。
 関東ではまだ醤油は普及してないが、この食べ方はきっと中国でもそうに違いないということか。
 点なし。

三十二句目

   酢醤油もろこしかけて生肴
 けふぞ我せこはな鰹をかけ

 「もろこし」に「けふぞ我せこ」は、

 唐人の船を浮かべて遊ぶてふ
     けふぞ我がせき花鬘せよ
             大伴家持(新古今集)

によるもので、花鬘を花かつおにする。
 鰹節も関西では普及してたが、江戸に広まるのは元禄の頃になる。
 花鰹は松永貞徳の『俳諧御傘』に、「正花を持也。春にあらず、生類にあらず。うへものに嫌べからず。」とある。正花ではないが、花の定座で正花同様に扱うことができるが、ここでは四十九句目に花の句があるので、正花とはしていない。同じように「正花を持」ものに、花嫁、花入れ、花火、絵にある花などがある。
 長点だがコメントはない。

三十三句目

   けふぞ我せこはな鰹をかけ
 恋衣おもひたつ日を吉日に

 「思い立ったが吉日」というのは今でもよく言われる。愛しい男の花鰹かけて食べるのを見て結婚を思い立つ。
 長点で「折から節小袖の用意大悦大悦」とある。節小袖は正月などに着る晴着だが、そこから「花衣」を連想させて花鰹に掛けたのだろう。花衣は正花になる。

三十四句目

   恋衣おもひたつ日を吉日に
 あしにまかせてかのが行末

 「おもひたつ」を旅の「たつ」に掛けて、愛しい男を追いかけて旅に出る。
 点なし。

三十五句目

   あしにまかせてかのが行末
 ててめにはかくせ嵯峨野のかた折戸

 「てて」は父」のこと。嵯峨野の片折戸は『平家物語』の「小督は嵯峨のへんに、かた折戸とかやしたる内にありと申もののあるぞとよ」で、清盛の権勢を恐れて嵯峨野に隠棲した小督の局とする。
 点なし。

三十六句目

   ててめにはかくせ嵯峨野のかた折戸
 はづいて来たぞ千代の古道

 嵯峨野に千代の古道は、

   仁和のみかと、嵯峨の御時の例にて、
   せり河に行幸したまひける日
 嵯峨の山みゆきたえにしせり河の
     千世のふるみちあとは有りけり
              在原行平(後撰集)

で、父親の目をだまして来たぞ、嵯峨野のこの片折戸に、となる。
 「はづして」を「はづいて」とイ音便にする例は『平家物語』にある。
 点あり。

2023年8月24日木曜日

  中国が水産物の輸入停止なんていっても、あの国の人は意外に国家への忠誠心ないからな。密猟が増えそうだし、福島産の魚介でも裏で産地偽装して、いくらでも買ってくれるんじゃないかな。
 何度も異民族に征服されてる国だし、国がなくても親族の結束があれば、何てことない人たちなんじゃないかと思う。中国人が集まればそこが中国になるみたいな。

 それでは「鼻のあなや」の巻の続き。

初裏
九句目

   其外悪魚鰐のかるくち
 火々出見の尊も腹をかかへられ

 彦火々出見の尊(ひこほほでみのみこと)は山幸彦という名でも知られている。兄の海幸彦の釣り針を無くして海神の宮を尋ねてその釣り針を見つけ出しが、そのまま海神の娘の豊玉姫を娶ってしばらくそこで過ごした。
 豊玉姫はもちろんのこと、そこにいたサメたちの軽口俳諧も楽しくて、帰りたくなくなったのだろう。
 長点で「神代のかる口もこれにはよもや」とある。この句は神代の軽口俳諧よりも面白いということか。

十句目

   火々出見の尊も腹をかかへられ
 いま人倫に疝気もつぱら

 前句の「腹をかかへられ」を腹痛として、神代の神様も腹痛に苦しんだのだから、今の人々が疝気に苦しむのももっともなことだ、とする。
 疝気はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「疝気」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 漢方で疝は痛の意で、主として下腹痛をいう。疝病。疝気病。あたばら。せん。
  ※大山寺本曾我物語(南北朝頃)一「居易がせんき思ひ出でられたり」
  ※浄瑠璃・鑓の権三重帷子(1717)上「此方は腰をお引きなさるるが疝気でも起ったか」 〔史記‐倉公伝〕
  [補注]下腹部一帯の痛みを広く指すため、諸症状に適用され、俗間で男性特有の陰嚢・睾丸の病とされた。患部が特定できないため「疝気の虫」のせいにされたりもした。」

とある。
 『去来抄』には「夕涼み疝気おこしてかへりけり」の句を去来が作って芭蕉に笑われたエピソードが記されている。
 長点で「つたへをかれたる末世の病にこそ」とある。

十一句目

   いま人倫に疝気もつぱら
 だいだいもうけがたき世を身にうけて

 人として生まれてくることは滅多にないことで、「受けがたき人身を受け」と仏教では言う。
 それを人は代々子孫をもうけて今に至るまで命を繋いできたわけだが、その「代々」に柑橘類のダイダイを掛けて、代々の薬効を受けることができるのも有り難いことだ、とする。
 正月に飾るダイダイも代々子孫が栄えますようにという意味だというから、掛詞としては自然だ。
 ダイダイの薬効はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダイダイ」の意味・わかりやすい解説」に、

 「果皮を乾燥したものを橙皮(とうひ)といい、リモネンを主とする精油、苦味質、ヘスペリジン、ビタミンA・B・Cなどを含み、食欲を増進する作用がある。このため、芳香性健胃剤として消化不良などの治療に用いられるほか、苦味チンキの原料の一つとされる。落下した未熟果実のうち薬用に供するものを欧米では未熟橙実(とうじつ)Aurantii Immaturi Fructusというが、漢方では未熟果実の小さいものを枳実(きじつ)、やや大きいものを枳殻(きこく)と称する。未熟なものほど苦味質が多く、苦味が強いので、消化を促進する作用はいっそう強力となるため、これらは苦味健胃剤として食滞(消化不良)、胃部のもたれ、胃痛、胸痛などの治療に用いられる。ナツミカン、温州(うんしゅう)ミカンなどの未熟な果実も枳実と称して同様に用いる。
[長沢元夫 2020年10月16日]」

とある。
 点なし。

十二句目

   だいだいもうけがたき世を身にうけて
 吹矢の先にかかる秋風

 人間に生れるのも稀だと言われているのに、代々狩猟を生業とする家に生まれてしまった、ということか。吹き矢は小動物や鳥などを狩るのに用いる。
 貞享二年春の「何とはなしに」の巻二十五句目に、

   花幽なる竹こきの蕎麦
 いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら 芭蕉

の句もある。
 点あり。

十三句目

   吹矢の先にかかる秋風
 散露のこまかな所御らんぜよ

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は吹き矢の見世物としているが、この時代にあったかどうかはよくわからない。楊弓による射的場である矢場が広まるのは元禄の頃ではないかと思う。
 前句の秋風から、吹き矢の命中することを露を散らすと表現したというのは間違いないだろう。ただ、どういうシチュエーションを意図したのかというと、見世物であれを射って見せようという場面なのかもしれないし、ただ吹き矢の腕を自慢したい人のセリフなのかもしれない。
 点ありで「よき所ねらはれ候」とある。秋風に吹き散るのイメージと吹き矢の命中のイメージとを重ね合わせた「狙い」は秀逸といえよう。

十四句目

   散露のこまかな所御らんぜよ
 月をそむいてしはひこころね

 「しはし」はケチという意味。前句の「散露」を露銀での支払いの場面とし、月の光を遮ってよく見えないようにしながら支払うあたり、何か胡麻化されそうだ。
 露銀は豆板銀のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「豆板銀」の意味・わかりやすい解説」に、

 「江戸時代の銀貨。小玉(こだま)銀、小粒(こつぶ)ともいう。秤量(ひょうりょう)貨幣で、形は丸い小塊。重さは5匁(18.75グラム)前後のものが多いが、1匁(3.75グラム)から10匁(37.5グラム)内外まで一定していなかった。豆板銀は銀座において、丁銀(ちょうぎん)と同じ品位でつくられ、「常是(じょうぜ)」「宝」および大黒(だいこく)像のうち一つが極印(ごくいん)として打たれた。豆板銀は丁銀の補助的役割を果たし、丁銀が封包(ふうづつみ)されるとき、その定量を満たすのに利用された。のちに計数貨幣の五匁銀、二朱銀、一朱銀がつくられると、通貨としての重要性が失われた。
[滝沢武雄]」

とある。主に上方で用いられた。
 点あり。

十五句目

   月をそむいてしはひこころね
 つきあひも鳴音淋しきむしの声

 「つきあひ」とあえて平仮名にしてるのは、月末から月初めにかけての「月間(つきあひ)」に掛けているであろう。「付き合いも無く」に「月間も鳴く」を掛けている。
 月のない夜に鳴く虫の声は淋しく、しみったれた感じがする。月の夜だと賑やかなのに、という風情に、人付き合いの悪い男を掛けている。
 点なし。

十六句目

   つきあひも鳴音淋しきむしの声
 穢多が軒ふる霜の朝風

 穢多同士は穢多村や部落に固まって住んでるが、余所との交流はほとんどなく、隔離されている。
 点なし。

十七句目

   穢多が軒ふる霜の朝風
 つなぬきの革を葎やとぢぬらん

 「つなぬき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「綱貫」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =つらぬき(貫)①
  ※曾我物語(南北朝頃)六「愚痴暗蔽のつなぬきはき、極大邪見の鎧に、誹謗三宝の裾金物をぞうちたりける」
  ② 牛の皮で作り、底に鉄の釘を打ったくつ。つなぬきぐつ。《季・冬》 〔俳諧・大坂独吟集(1675)〕」

とあり「つらぬき」は「精選版 日本国語大辞典 「貫・頬貫」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (動詞「つらぬく(貫)」の連用形の名詞化)
  ① 皮革製の浅沓(あさぐつ)。縁に貫緒(ぬきお)を通して、足の甲の上で引き締めて結ぶところからいう。貫緒のくくりから、巾着沓(きんちゃくぐつ)とも。つなぬき。〔江家次第(1111頃)〕

  ※源平盛衰記(14C前)三五「大将軍義経は熊皮の頬貫(ツラヌキ)をき」
  ② 雨や雪の日に用いた、皮革製のくつ。つなぬき。
  ③ 水田の作業をするときに用いた猪の皮などで作ったくつ。田沓(たぐつ)。」

とある。
 日本皮革産業連合会の「皮革用語辞典」には、

 「江戸中期以降の関西にのみ普及した革製の巾着沓<きんちゃくくつ>を指す。革の甲側足首周囲に何カ所かの穴を開けてひも(綱縄)を通し、これを絞り締めるようにして履く。貫き緒を通すところから名前がつけられたとの説が有力である。」

とある。紐を貫いて足に固定する、その紐の代りに葎の蔓を使うということか。前句の「軒ふる」を受けて貧相な感じに作る。
 長点で「扨もよき細工にて候」とある。この句もまた穢多村の人の機転に比すべきものということであろう。

十八句目

   つなぬきの革を葎やとぢぬらん
 下樋の水をはこぶ六尺

 葎の中を綱貫を履いて、下樋から汲んできた水を運ぶ人足とする。
 下樋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「下樋」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① (「したひ」とも) 水を引くために地中に設けた樋(とい)。
  ※古事記(712)下・歌謡「あしひきの 山田を作り 山高み 斯多備(シタビ)を走(わし)せ」
  ※光悦本謡曲・三輪(1465頃)「下ひの水をとも、こけに聞えてしづかなる、此山住ぞさびしき」
  ② 琴の腹部、すなわち甲と裏板との間の空洞の部分。
  ※万葉(8C後)七・一一二九「琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋(したび)に妻やこもれる」

とある。簡易水道のようなものであろう。
 六尺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「六尺・陸尺・漉酌」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 貴人の駕籠を担ぐ人足。また、雑役夫、下僕の称。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※評判記・色道大鏡(1678)一四「婦人歩行のしりへに、六尺(ろくシャク)・小者などに物もたせてつれゆく事」
  ② 雑貨品を売り歩く行商人。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ③ (「漉酌」とも書く) 造り酒屋の下男。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※歌謡・松の葉(1703)三・いけだ「池田伊丹の六しゃく達は、昼は縄おび縄だすき、夜は綸子の八重まはり」
  ④ 棺担ぎ棒。また、棺を担ぐ役目をいう。
  ⑤ 江戸時代、駕籠舁(かごかき)をはじめ、賄方(まかないかた)・掃除夫など雑役人の総称。江戸幕府では紅葉山御高盛六尺二〇人・御賄六尺三八八人・御風呂屋六尺一二人など頭とも数百人の六尺を抱え、それぞれに役米・金、役扶持を給した。」

六尺棒で物を運ぶところから来た名称であろう。
 点あり。

十九句目

   下樋の水をはこぶ六尺
 山陰に半季先よりすみ衣

 半季はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「半季」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 各季節の半分。
  ② 一年の半分。半年。半期。
  ※浮世草子・世間娘容気(1717)五「半季(ハンキ)の買がかりを算用して」
  ③ 江戸時代、奉公人の雇用期間を三月五日と九月五日からの向こう半年間と区切って奉公すること。また、その期限。半季勤。半季奉公。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「山陰に半季先よりすみ衣 二月二日に松の木ばしら〈由平〉」

とある。
 先は今では未来のことも先というが、元々は過去のことだったか。今下樋の水を運んでる六尺も半季方向に入る前は墨染の衣を着た隠遁僧だった。

 岩間閉じし氷も今朝は解け初めて
     苔の下みづ道求むらむ
            西行法師(新古今集)

の歌を詠んだ西行法師さんだろうか。罪荷をあえて習うか。
 点なし。

二十句目

   山陰に半季先よりすみ衣
 二月二日に松の木ばしら

 二月二日は出替りの日。出替りはコトバンクの「世界大百科事典 第2版 「出替り」の意味・わかりやすい解説」に、

 「半季奉公および年切奉公の雇人が交替あるいは契約を更改する日をいう。この切替えの期日は地方によって異なるが,半季奉公の場合2月2日と8月2日を当てるところが多い。ただし京坂の商家では元禄(1688‐1704)以前からすでに3月と9月の両5日であった。2月,8月の江戸でも1668年(寛文8)幕府の命により3月,9月に改められたが,以後も出稼人の農事のつごうを考慮したためか2月,8月も長く並存して行われた。」

とある。
 「かしらは猿」の巻三十六句目に、

   爰に又はたち計のおとこ山
 三月五日たてりとおもへば

の句があり、宗因の評に「近日に罷成候」とあったから、二月二日から三月五日に変わったのは大阪でも寛文の終わり頃だったのだろう。
 ここでは半季前の二月二日に奉公をやめて出家して、松の柱の庵に暮らすことになる。
 点なし。

二十一句目

   二月二日に松の木ばしら
 旅芝居花のさかりにとてもなら

 前句の松の木ばしらを舞台の設営とする。「とても」は「どうしても」の意味で、何が何でも花の盛りまでに舞台を完成させたいというので、二月二日に柱を立てる。
 長点でコメントはない。

二十二句目

   旅芝居花のさかりにとてもなら
 まへ髪ごそり少年の春

 風紀を乱すというので前髪のある若衆姿ではだめで、どうしても興行したけりゃ野郎歌舞伎にしろということか。
 点なし。

2023年8月23日水曜日

  ラノベと純文学の違いは何かと考えるに、ラノベは基本的にはヒロイズムで、主人公は憧れるもので感情移入できるかどうかはそれほど問題にならない。
 これに対して純文学はクズを描くもので、いかにもクズな人間の弱さをさらけ出して、読者はそれに感情移入して、自分だけじゃないんだという安心感を得るものなんだと思う。
 ラノベでもクズな主人公はいるが、ただ特殊な能力を発揮して人を救ったりして賞賛を得ていくうちに、ヒーローへと成長してゆくという上昇志向の強さが大きな特徴ではないかと思う。
 トロッコ問題に喩えるなら、五人であれ一人であれ誰も犠牲にはできないとばかりに、力技でトロッコを脱線させてみんなを救うのがラノベで、どちらも選べないと言ってうじうじ悩んでるうちになぜかどちらも死んでしまい、ずっと後悔と罪の意識に苦しみ続けながら生きて行くというのが純文学ではないかと思う。

 それでは大坂独吟集から、第六百韻。
 由平独吟百韻「鼻のあなや」の巻(宗因編『大阪独吟集』より)

発句

  くさめを誘ふ夜寒のあらし、何としてかはし
  のがんといひもあへねば、煮豆腐うり是へを
  そしと夕なみの、所もところ松がはな、はぢ
  けば落る血のなみだの 白川よぶねにはあら
  で、淀の河づらしかめて、かくおもひよりぬ
               舟夕子 由平
 鼻のあなや紅くくる唐がらし

 新大陸から来た唐辛子は瞬く間に世界中に広まって行き、日本でも唐辛子の未知の辛さは南蛮とも呼ばれ、流行することになった。
 とはいえ料理一般に用いられることはなく、薬味として用いられたり、青唐辛子は味噌と混ぜて南蛮味噌として用いられた。
 唐辛子に含まれるカプサイシンは血流を良くして体を温める作用があり、秋の夜寒に好まれた。
 前書では、夜寒を凌ごうと思ってると煮豆腐売りがやってくる。この頃大阪で売られていた煮豆腐がどのようなものだったかはよくわからないが、唐辛子で味付けした辛いものだったと思われる。
 「所もところ松がはな」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に西区千代崎町の寺島が松ヶ鼻と呼ばれてたという。
 淀川から分れた大川が中之島の先で安治川と木津川に分れ、その木津川を下ると、かつて東に並行してあった百間堀川と交わる地点があり、その地点で木津川も二つに分かれて川がH状になる、その南側の中州の北端に松の名木があり、そこが松ヶ鼻、その中州は松島と呼ばれていた。ここに松ヶ鼻の渡しがあり、東側が新町通りになる。
 当時の煮豆腐は激辛だったのか、鼻が真赤になり、涙が出てくるのを、「松がはな、はぢけば落る血のなみだの 白川よぶねにはあらで」と掛けて、発句に繋がる。
 「紅くくる」は言わずと知れた、

 ちはやぶる神代も聞かず竜田川
     からくれなゐに水くくるとは
             在原業平(古今集)

の歌によるもので、真っ赤になった鼻の穴に涙の水くくるとは、となる。
 長点で「おなじ紅も染やうにて新らしくこそ」とある。唐辛子の鼻の紅は新味があった。


   鼻のあなや紅くくる唐がらし
 夕日こぼるるすりこぎの露

 擂鉢の唐辛子も赤いし、その唐辛子に染まる鼻の紅も夕日が照らしたみたいだ。こぼれる露は唐辛子を擦った時の水分であると同時に、そのときの鼻水であろう。
 長点で「飛鳥井殿の夕日もきえ可申候」とある。飛鳥井殿の夕日というと、この歌だろうか。

 夕日さす裾野の末にわくる露
     うつる香袖に匂ふ浮橋
             飛鳥井雅経(明日香井集)

第三

   夕日こぼるるすりこぎの露
 古筆の先より秋の雨はれて

 古くなった筆が毛が抜けて擂粉木みたいだ、ということか。筆の先から滴る露を擂粉木の露として、前句の「夕日こぼるる」に「秋の雨はれて」とする。

 秋の雨はれて夕日のこぼるれば
     古筆の先より擂粉木の露

とすればわかりやすい。
 点あり。

四句目

   古筆の先より秋の雨はれて
 飛ゆく鴈をみちの記の末

 これも「古筆の先より」「道の記の末」と付いて、「秋の雨はれて」を「飛びゆく鴈」で受ける。道の記というと宗祇の『筑紫道記』も思い浮かぶ。
 点なし。

五句目

   飛ゆく鴈をみちの記の末
 それの年のその比そこの月の景

 「それの年の」は紀貫之の『土佐日記』の冒頭の有名な「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」の後の部分の「それの年のしはすの二十日あまりの一日の、」を拝借して、前句の「みちの記」の書き出しとしたか。
 「飛ゆく鴈」に「月の景」が付く。
 言葉の続き具合が後の、

 見渡せば詠れば見れば須磨の秋 桃青

の句を思わせる。
 点ありで、「貫之が筆の跡めづらしく候」とある。確かに「男もすなる」の書き出しと「むまのはなむけ」は有名だが、その間の文章はあまり引用されない。

六句目

   それの年のその比そこの月の景
 聞たやうなる松風の声

 月に松風は、

 琴の音を雪にしらふときくゆなり
     月さゆる夜の峰の松風
             道性法親王(千載集)
 ながむればちちに物思ふ月にまた
     我が身ひとつの峰の松風
             鴨長明(新古今集)

などの多くの歌に詠まれている。あの時のあの月を思い出してごらんなんて言われると、何となく松風の声も聞いたような気になる。そんなあやふやな記憶で発心したりして。
 点なし。

七句目

   聞たやうなる松風の声
 等類はのがれがたしや磯のなみ

 前句の「聞たやうなる」を松風の声の歌がどこかで聞いたような、という意味に取り成し、その上磯の波となると、これは等類だということになる。
 松風に磯の波といえば、

 春のたつ磯辺の波は高砂の
     尾上に通ふ峰の松風
            藤原範宗(建保名所百首)

だろうか。この歌は『歌枕名寄』にも「春やたつ磯辺の波や」の形で収録されている。
 似たような名所の歌に、

 こゆるぎの磯の松風おとすれば
     夕波千鳥たち騒ぐなり
            源通親(夫木抄)
 たかしやまつなき方の松風や
     麓の浦の磯波の声
            飛鳥井雅有(夫木抄)
 夏の夜をあかしの瀬戸の波の上に
     月吹きかへせ磯の松風
            藤原良経(夫木抄)

などの歌がある。海の名所に磯の波と松風を詠んだ歌はこの他にも多数ある。
 点なし。

八句目

   等類はのがれがたしや磯のなみ
 其外悪魚鰐のかるくち

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『海人』の、

 「かくて竜宮に到りて、宮中を見ればその高さ、三十丈の玉塔に、かの玉を籠め置き、香花を供 へ守護神に、八竜並み居たりその外悪魚鰐の口、逃れ難しやわが命。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.4167). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 悪魚はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「悪魚」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 人畜に害を与える魚。猛魚。
  ※謡曲・海人(1430頃)「そのほか悪魚、鰐(わに)の口、逃(のが)れがたしや我が命」
  ② とくに「さめ(鮫)」の異称。
  ※雑俳・柳多留‐一五(1780)「すりばちへ悪魚を入れるかまぼこ屋」

とある。「わに」も出雲の方ではサメのことをそう呼ぶらしく、神話に出て来る鰐もサメではないかと言われている。となると、悪魚と鰐は等類になる。
 「かるくち」は西鶴(この頃は鶴永)が得意とした速吟俳諧だが、この頃の談林俳諧一般をいう言葉でもある。磯の波に悪魚鰐の口を開けたような軽口俳諧は当世流行で似たり寄ったりの物が多いということか。まあ、ニタリという尾びれの長いサメもいることだし。
 長点で「観世が音局聞心ちし候」と、観世流の謡曲の一節が聞こえてきそうだと評している。当時の軽口俳諧は謡曲の言葉を多用したのもその特徴の一つになっている。

2023年8月20日日曜日

  それでは「軽口に」の巻の続き、挙句まで。

名残裏
九十三句目

   苔のむすまでぬかぬわきざし
 うで香や富士の煙の立次第

 うで香はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「腕香」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 僧侶、修験者などの荒行(あらぎょう)の一つ。腕の上で香をたき、その熱さに耐える修行。
  ※蔭凉軒日録‐延徳元年(1489)一一月一九日「今夜后板於二法堂一焼二腕香一」
  ② 近世のもの貰いの一種。腕に刃物をたてたり、苦行のまねをして米、銭を乞うたり、また、膏薬の類を売ったりした。」

とある。この場合は①か②かはわからない。腕の上に香を富士山のように山にして燃やし、その煙が立つとじっと熱さに耐えている。
 前句を腕に脇指を突き刺した状態で抜こうともしないと取り成して、痛みと熱さと両方に耐える。
 点あり。

九十四句目

   うで香や富士の煙の立次第
 ならびに料足あしたかの山

 富士山の傍には愛鷹山があって、あしらいになる。ここでは腕に富士山のような香を焚く芸人として、その投げ銭は愛鷹山のようにうず高く積まれる。
 点なし。

九十五句目

   ならびに料足あしたかの山
 はなれ駒九十九疋やつづくらん

 はなれ駒は放し飼いの馬のことだが、ここでは一貫の駒引銭から一枚放れた銭とする。駒引銭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「駒牽銭・駒引銭」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 江戸時代、民間製作の絵銭の一種。表面に手綱を引かれた馬の図が鋳出されていて、えびす、大黒などの絵銭とともに日本絵銭の代表的なもの。江戸時代の銭貨鋳造所の「銭座」で数取りのしるしに普通銭貨一〇〇枚に一枚の割で特製したものとする説は誤りで、すべて民間で鋳造されたもの。こまひきぜに。こません。こまひき。」

とある。一枚使えば残りの九十九疋も結局次々と出て行ってしまう。今の一万円札も一度くずすとあっという間になくなるようなもの。
 点あり。

九十六句目

   はなれ駒九十九疋やつづくらん
 あとのまつりにわたる神ぬし

 今日では相馬の野馬追くらいしか残ってないが、かつては馬の放牧をやってたところではあちこちで似たような祭りがあったのかもしれない。
 ただ、気を付けないと馬がみんな逃げて行ってしまい、後の祭りになる。
 相馬の野馬追もかつては五月に行われいたというから、加茂の競馬と同根なのかもしれない。放牧馬の見本市的なものがあったのかもしれない。
 点あり。

九十七句目

   あとのまつりにわたる神ぬし
 素麺も白木綿なれやゆでちらし

 この場合は前句は単に「祭りの後に神主に渡る」の意味になり、白木綿(しらゆう)のような素麺が茹で上がって神主のもとに渡される。
 白木綿はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「白木綿」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 白いゆう。楮(こうぞ)の皮をさらしたりして白い紐(ひも)状にしたもの。幣帛(へいはく)として榊(さかき)、しめなわなどにつける。
  ※詞花(1151頃)冬・一五七「くれなゐに見えしこずゑも雪降ればしらゆふかくる神なみの杜(もり)〈藤原忠通〉」
  ② 植物、浜木綿(はまゆう)をいう。〔俳諧・類船集(1676)〕」

とある。
 点なし。

九十八句目

   素麺も白木綿なれやゆでちらし
 茶屋もいそがし見せさし時分

 「見せさし時分」は店鎖頃(みせさしごろ)のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「店鎖頃」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 店の表戸や錠などをしめる頃。店を閉じる時分。みせさしじぶん。みせさしどき。
  ※浄瑠璃・冥途の飛脚(1711頃)上「待つ日も西のもどり足みせさし比に成りにけり」

とある。
 閉店前の忙しさに茹でた素麺も茹で散らかした状態になっている。
 点なし。

九十九句目

   茶屋もいそがし見せさし時分
 花のなみ伏見の里をくだり舟

 伏見に花見に来た大阪人は、茶店が閉店になる夕暮れ時に、一斉に船に乗って川を下って帰って行く。
 伏見の醍醐寺は嵯峨天皇もお花見した場所で、古くからの花見の名所だった。江戸に飛鳥山公園のできるまでは花見は公園ではなく寺社でするのが普通で、江戸なら寛永寺、京なら清水寺など、多くの群衆が訪れた。
 点あり。

挙句

   花のなみ伏見の里をくだり舟
 あげ句のはては大阪の春

 「挙句の果て」という慣用句は連歌の挙句から来た言葉だが、挙句をこの諺に掛けてこう用いるの誰でも思いつきそうだが、まあ、最初にやったものが勝ちというところか。伏見から川をくだるのだから、最後は大阪に着くのは間違いない。
 長点で、「天満橋八軒屋なりと吟じあげ句、南無天神ばしにひびきて、感応うたがひなくこそ」とある。
 前書きの「あかつきのかね八軒屋の庭鳥におどろき侍る」に応じて、八軒屋で吟じ上げるに挙句を掛けて、その吟は大阪天満宮に響いて天神様を感応させること間違いない、と結ぶ。
 八軒家浜船着場のあった場所は今の天満橋と天神橋の間にある。
 このあと、

 「愚墨六十句
     長十九

 ほととぎすひとつも声の落句なし

 とや申べからん。是こそ俳諧の正風とおぼゆ
 るはひがこころへにやあらん。しらずかし。
      西幽子(さいゆうし)判」

と結ぶ。これこそ俳諧の正風と持ち上げておきながら最後て「しらずかし」と結ぶ辺りは、今の「知らんけど」に受け継がれている大阪人のユーモアといえよう。

2023年8月19日土曜日

  悪の起源ということがXでも話題になっていたが、朱子学で言えば孟子の性善説の根拠とされる四端の心が何で悪に変わるかという問題になる。それは流れる水を堰き止めれば逆流するような、という説明があったような気がするが、昔学校で習ったことなので、もう一度読み返す必要があるかもしれない。
 ただ、何が善かという時に、必ず生命を基準にしてるんではないかと思う。つまり生命のない宇宙空間に善は存在するかというと、それを考えることは難しい。一種の擬人化として、ビッグバンによる宇宙の誕生は善で、最終的にそれが熱死に至るならそれは悪なのかもしれない。ただここでも春に万物が生じるのを喜び、秋に止むのを悲しむの延長のように思える。
 生命=善、死=悪はおそらく全体としては正しいのだろう。個別的にはより多くの命を救うために死ぬのは善という逆転はあるかもしれない。また多くの命を救うために殺すのも善という逆転はあるかもしれない。
 ところで宇宙の大半は広大な死の世界で、生命が或る種奇跡と呼べる現象であるなら、宇宙全体は概ね悪で、その中の例外的な命が善ということになるのか。
 宇宙は生と死を包括してるものだから、それ自身は善でも悪でもあるし、それらをすべて包み込んでいる。そしてその宇宙が生命を誕生させたのなら、そして死すべき運命を与えたのなら、宇宙は善悪を越えたものということになる。
 つまり、仮に全知全能の神が存在するなら、それは善も悪も含んた善悪を越えた存在だということになる。
 しかもこの神は生命が他の生命を殺して食うことでしか存続できないものとしたなら、明らかに悪は生命の創造そのものの内にあることになる。
 我々の意識は、それがたとえ神性に通じる理性だとしても、この理性そのものが他の生き物を殺して食うことによって成り立っている。しかも食料は無限に存在せず、人は絶えず人口の過剰によって人間同士でもまた殺し合ってきた。
 人間は欠陥生物だというが、人間に限らずすべての生物は食物連鎖の中にあるだけでなく、絶えず個体数過剰の中で同種同志て争うことが宿命づけられている。ならば、悪は神が生命を想像した時点既に存在してたと言わざるを得ない。
 多神教であるならば、神が何らかの悪意があって悪を想像したと考える必要はない。神様もまた互いに争い、その争いは人間の争いや他の生物の争いとはまた違う、神にしか理解できない、人知を越えた争いにすぎないからだ。悪は最初からこの混沌とした世界の内に内在してたと考えるしかない。
 「性は善である」という時の「性」は朱子学では理とも誠とも呼ばれるものだが、その根源が緯ではなく経、つまり時間に対して開かれていて、時間を認識し、物事の順序や因果を思考することから生じるものであるなら、意識そのものが善だということになる。ただ、その意識は実際の気の世界の中で生きて行く限り、生きるための争いが不可欠になり、そこに悪が生じる。悪は「気」の側に存在するということになる。
 基本的に生命が殺すことなしに生きられないという時点で、既に悪は存在している。その悪の根源は自然に存在してるのか、造物主が仕組んだのかというだけの違いにすぎない。仕組んだのであればそれは「試練」と考えるのが適切であろう。造物主は殺し合いのゲームとしての生命の世界を創造し、そこでの戦い方を見ながら天国行きと地獄行を判定しているだけのことだ。
 それが何ら意図されない自然のゲームであるにしても、ただ報酬としての天国と地獄がないだけで、実際にやるべきことは変わらない。ただ報酬は自分で満足できるかどうかの問題になるだけのことだ。
 いずれにせよ生命が存在する限り、我々がその生命を意識する限りにおいて、悪が存在し、そこから抜け出したいという思いがひと時の善を生み出すにすぎない。時雨の中の宿りのような。それを見出すのが風雅の誠と言って良い。
 あと、X奥の細道六月分を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「軽口に」の巻の続き。

名残表
七十九句目

   風呂屋の軒をかへるかりがね
 行灯のひかりのどけき天のはら

 「ひかりのどけき」は、

 久かたの光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
             紀友則(古今集)

だが、ここでは行灯だから夜になり、夜の風呂屋の軒の上の空に雁が帰って行く。
 特に本歌というのではなく、ただ言葉としてそのまま用いている。
 点なし。

八十句目

   行灯のひかりのどけき天のはら
 ふりさけ見れば淀のはしぐゐ

 「ふりさけ見れば」は、

 天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
              阿倍仲麻呂(古今集)

だが、特に本歌というわkではない。ただ遠くに淀の橋杭がみえる。
 淀川にはかつて古代に作られた長柄の橋があり、

  難波なる長柄の橋もつくるなり
     今はわが身を何にたとへむ
              伊勢(古今集)

の歌は『談林十百韻』「いざ折て」の巻六十三句目にも、

   あらためざるは父の印判
 借金や長柄の橋もつくる也    一朝

とネタにされている。その長柄の人柱伝説は今は廃曲だが謡曲『長柄』にもなっていた。
 点あり。

八十一句目

   ふりさけ見れば淀のはしぐゐ
 かうぶりの声も跡なき夕まぐれ

 淀川の河口域は蝙蝠の声もない。もっとも、蝙蝠の声は人には聞こえないものだが。

 うらさびて鳥だに見えぬ島なれば
     このかはほりぞ嬉しかりける
              和泉式部(夫木抄)

の歌があるだけに、いっそう淋しげだ。
 点なし。

八十二句目

   かうぶりの声も跡なき夕まぐれ
 みみづくさはぐ萩の下露

 日が暮れると蝙蝠も見えなくなり、ミミズクが鳴き出す。

 秋はなほ夕まぐれこそただならね
     荻の上風萩の下露
              藤原義孝(和漢朗詠集)

の、特に下句のフレーズはかつてはよく知られたものだった。「夕まぐれ」に「萩の下露」で応じ、蝙蝠にミミズクを付ける。
 点なし。

八十三句目

   みみづくさはぐ萩の下露
 野の色もあかい頭巾やそほぐらん

 木菟引(ずくひき)というミミズクを囮にした猟があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「木菟引」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 ミミズクをおとりとして小鳥を黐竿(もちざお)でとらえること。昼間目の見えないミミズクをつつこうとして他の鳥が近づくのを利用して、捕獲するもの。木菟落(ずくおとし)。《季・秋》
  ※俳諧・桜川(1674)冬二「づく引、耳つくやひき野のつつらくる小鳥〈如白〉」

とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によれば、この時の囮のミミズクに赤い頭巾を被せるのだという。張子のミミズクが赤いのもそのためか。
 前句のミミズクを囮のミミズクとする。
 点なし。

八十四句目

   野の色もあかい頭巾やそほぐらん
 木やりで出す山のはの月

 「木やり」は木遣唄でコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「木遣唄」の意味・わかりやすい解説」に、

 「日本民謡分類上、仕事唄のなかの一種目。重い物を移動させるおりの唄の総称で、また曲目分類上の一種目にもなっている。「木遣」とは、文字どおり木、すなわち材木を大ぜいで力をあわせて移動させることであるが、それから転じて、重い物を人力を結集して動かすときの唄はすべて「木遣唄」とよばれるようになった。その発生は古く、日本民謡の仕事唄の原点と思われるが、古くは掛け声とか囃子詞(はやしことば)とよばれるだけのものであったと推測される。ところが社寺建立などのおり、建築用材を氏子や檀家(だんか)の人々が曳(ひ)く場合、全員の力を結集するため、神官や僧侶(そうりょ)が社寺の縁起を唄にして、綱を曳く人々に説いて聞かせ、掛け声の部分で綱を曳かせる方法をとり始めた。これが「木遣口説(くどき)」である。この唄は、和讃(わさん)の七五調12韻や御詠歌の七七調14韻を必要なだけ繰り返していく形式と曲調を母体にしたものらしく、発生は室町時代前後ではないかと思われる。しかし、社寺の縁起だけでは綱曳き連中は飽きてくるし、音頭取りも社寺の人にとどまらず、美声であるためにまかされて代理を務める人まで現れると、歌詞の内容も世話物的なものにしだいに変わっていった。さらに江戸時代に入ると、七七七五調26韻の詞型が大流行したため、ついにはこれへ移行していった。しかし、音頭取りが存在し、囃子詞の部分をその他大ぜいが受け持つという音頭形式だけは踏襲され、のちには盆踊り唄の中心をなすまでになった。木遣唄に無常観のような哀調が漂っているのは、和讃や御詠歌を母体にして派生してきたためと思われる。
[竹内 勉]」

とある。野の赤い頭巾を材木運びの人として木遣唄を歌いながら運ぶうちに日は沈み月が昇る。
 長点で「おききやるかおききやるか、明白なる月に候」とある。「おききやるか」は木遣唄の掛け声と思われる。

八十五句目

   木やりで出す山のはの月
 くらきよりくらきにまよふ日用共

 日用(ひよう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「日用・日傭」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =ひようとり(日傭取)
  ※漢書列伝竺桃抄(1458‐60)陳勝項籍第一「傭耕とは人にやとはれて賃を取てひやうの様につかわれて耕するぞ」
  ※政談(1727頃)二「此七八十年以前迄は日傭を雇て普請する事はなき也」
  ② 日雇いの賃金。日用銭。日用賃。
  ※仮名草子・可笑記(1642)五「傅説(ふえつ)といふ大賢人は、日用をとり堤をつく、人足の中よりたづね出されて」
  ③ 江戸時代、日用座の支配下にあって、日用札の交付を受けて日雇稼ぎをする者。鳶口・車力・米舂・軽籠持などの類。
  ④ 林業地帯において小屋掛け・山出し・管流(くだなが)しなどの運材労働に従事する人夫の総称。」

とある。
 専門の材木運びのプロではなく臨時で雇われた人足は、暗くなるとどうしていいかわからなくなる。
 点あり。

八十六句目

   くらきよりくらきにまよふ日用共
 わらんづ脚絆六道の辻

 「わらんづ」はコトバンクの「世界大百科事典内のわらんずの言及」に、

 「…奈良時代に唐から伝わったくつ形の草鞋(わらぐつ)が平安時代末期に現在のような鼻緒式のわらじに改良され,〈わらうず〉と呼んだ。鎌倉時代には〈わらんず〉,室町時代に〈わらんじ〉,江戸時代になって〈わらじ〉と呼ばれるようになった。」

とあり、「わらじ」の古い言い方。俳諧では字数の関係で「わらんじ」も用いられる。
 前句の日用は亡くなると草鞋に脚絆姿で地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六道の辻でどこへ落ちるか迷う。
 京都東山の鳥辺野葬場の入口付近も六道の辻といい、古代の鳥葬の地を連想させる。
 点なし。

八十七句目
   わらんづ脚絆六道の辻
 たつたいま念仏講はおどろきて

 念仏講は頼母子講とも言い、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「念仏講」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 念仏を行なう講。念仏を信ずる人達が当番の家に集まって念仏を行なうこと。後に、その講員が毎月掛金をして、それを講員中の死亡者に贈る弔慰料や、会食の費用に当てるなどする頼母子講(たのもしこう)に変わった。
  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)一「はなのさかりに申いればや 千本の念仏かうに風呂たきて〈重明〉」
  ② (①で、鉦(かね)を打つ人を中心に円形にすわる、または大数珠を回すところから) 大勢の男が一人の女を入れかわり立ちかわり犯すこと。輪姦。
  ※浮世草子・御前義経記(1700)三「是へよびて歌うたはせ、小遣銭少しくれて、念仏講(ネンブツカウ)にせよと」

とある。訃報が入ると今までの掛金からお金を支出しなくてはならないから大騒ぎになる。
 点なし。

八十八句目

   たつたいま念仏講はおどろきて
 そのあかつきに見えぬ銭箱

 打越を離れると何に驚いたのかはよくわからなくなる。ただ、その騒ぎに紛れて積立金の事をみんな忘れて、銭箱がぽつんの虚しく残される。
 点あり。

八十九句目

   そのあかつきに見えぬ銭箱
 明星が市立跡のあれ屋敷

 明星が市は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によると、伊勢国多気郡明星村にあった茶屋だという。今は明和町明星で、近鉄の駅もある。伊勢街道の名物茶屋だったのか。今は廃墟となって、そこにあった銭箱もない。
 地名が明星だけに「そのあかつき」になる。
 点なし。

九十句目

   明星が市立跡のあれ屋敷
 上戸も下戸もばけ物もなし

 明星が市では、かつては上戸も下戸もたくさん訪れていたのだろう。今は化け物すら出ない。
 点なし。

九十一句目

   上戸も下戸もばけ物もなし
 君が代は喧嘩の沙汰も納りて

 「君が代」に「治まる」は中世によく用いられた言い回しで、君が主君の意味から天下を漠然と表す意味に変わって来たことによるものだろう。

 吹く風も治まりにける君が代の
     千歳の数は今日ぞ数ふる
              後嵯峨院(玉葉集)

の和歌や、応仁元年夏心敬独吟山何百韻七十六句目に、

    身を安くかくし置くべき方もなし
 治れとのみいのる君が代     心敬

の句がある。
 上戸も下戸も喧嘩することなく日本は平和だ、と言いたい所だけど大きないくさがないだけで火事と喧嘩は江戸の花というくらいだ。
 点あり。

九十二句目

   君が代は喧嘩の沙汰も納りて
 苔のむすまでぬかぬわきざし

 江戸の町の平和は、各自が脇指で武装してることで抑止力となっていた側面があった。西鶴は後の貞享三年の『好色一代女』に、

 「町人の末々まで、脇指といふ物差しけるによりて、言分・喧嘩もなくて治まりぬ。世に武士の外、刃物差す事ならずば、小兵なる者は大男の力の強さに、いつとても嬲られものになるべき。一腰恐ろしく、人に心を置くによりて、いかなる闇の夜も独りは通るぞとかし。」

と記している。
 相手も脇指を持ってると思うと、どんな腕力に覚えのあるものでも、グサッとやられれば終わりだと思ってなかなか手も出せない。脇指抑止力とでもいうべきか。
 「君が代」と「苔のむすまで」の縁は言わずとしてたあの歌による。
 点あり。

2023年8月18日金曜日

  それでは「軽口に」の巻の続き。

三裏
六十五句目

   焼亡は三里よその夕ぐれ
 御見廻に尾上のかぜも声添て

 火事のお見舞いに尾上の風が声を添える。
 尾上の松の松風はしばしば歌に詠まれるもので、

 松に吹く尾上の風のたえだえに
     夕山廻る入相の声
              空性(西園寺実兼、文保百首)

の歌もある。特に本歌ということでもなく、尾上の夕暮れ、松風、鐘の音は付け合いといってもいい。同じ『文保百首』に、

 松に聞く風の音さへ高砂の
     尾上の鹿もたへぬ夕暮れ
              六条有忠(文保百首)

の歌もある。
 尾上の松風の声は火事の見舞いのようだ。
 点あり。

六十六句目

   御見廻に尾上のかぜも声添て
 脈うちさはぐ松陰のみち

 前句の「かぜ」を風邪のこととして、脈拍数も上がっている。

 濡るるかと立ちやすらへば松陰や
     風のきかする雨にぞありける
              伏見院(玉葉集)

の歌もある。
 長点で「風邪とはやゆびの先に見え候」とある。

六十七句目

   脈うちさはぐ松陰のみち
 料理してむれゐる鷺やたたるらん

 脈拍が乱れるのをさんざん鷺を食った祟りとする。
 点あり。

六十八句目

   料理してむれゐる鷺やたたるらん
 鬼門にあたるまな板の角

 祟りは殺生のせいではなく、俎板の角が鬼門だったから。
 長点で「王城の鬼門よりおどろきが鬼一口にたたるべく候」とある。平安京の鬼門の守りは比叡山、平城京は東大寺、飛鳥京は初瀬になるが、鬼の四角い俎板の鬼門はただ一口で食べられるのみ。

六十九句目

   鬼門にあたるまな板の角
 ひえの山高さをつもるさしものや

 前句の俎板を平安京に見立てて、指物屋がその鬼門になる比叡山の高さを計る。
 点あり。

七十句目

   ひえの山高さをつもるさしものや
 はたちばかりの年切ぞをく

 年切(ねんきり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「年切」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 樹木が年によって、実を結ばないこと。としぎれ。また、幸運にめぐりあわないことにたとえていう。
  ※後撰(951‐953頃)雑一・一〇七七「今までになどかは花の咲かずして、よそとせばかりとしぎりはする〈藤原時平〉」
  ② 年数を限ること。ある事をするのに一定の年数をあてること。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ③ 年ごとに限ってすること。
  ※箚録(1706)「只編年の法には年切りに書く故、其事次の年にわたれば其間に余のこと入たがる故」
  ④ 年季。また、年季のきれること。」

とある。
 指物屋には年季奉公の人はいそうだが、①の意味に掛けて、仕事の方で芽が出ないまま契約切れになるということか。
 点あり。

七十一句目

   はたちばかりの年切ぞをく
 手形にもたしかに見ゆる力こぶ

 二十歳の若者は昔で言えば男盛りで一番体力もある頃。手形はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「手形」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 手の形。てのひらに墨などを塗って押しつけた形。手を押しつけてついた形。
  ※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)五「背中に鍋炭(なべすみ)の手形(テガタ)あるべしと、かたをぬがして、せんさくするにあらはれて」
  ② 手で書いたもの。手跡。筆跡。書。
  ※譬喩尽(1786)五「手形(テガタ)は残れど足形は不レ残(のこらず)」
  ③ 昔、文書に押して、後日の証とした手の形。
  ※浄瑠璃・日本振袖始(1718)一「繙(ひぼとく)印の一巻〈略〉くりひろげてぞ叡覧有、異類異形の鬼神の手形、鳥の足、蛇の爪」
  ④ 印判を押した証書や契約書などの類。金銭の借用・受取などの証文や身請・年季などの契約書。切符。手形証文。また、それらに押す印判。
  ※虎明本狂言・盗人蜘蛛(室町末‐近世初)「手形をたもるのみならず、酒までのませ給ひけり」
  ※読本・昔話稲妻表紙(1806)三「母さまの手形(テガタ)をすゑて証書を渡し、百両の金をうけとり」
  ⑤ 一定の金額を一定の時期に一定の場所で支払うことを記載した有価証券。支払いを第三者に委託する為替手形と、振出人みずからが支払いを約束する約束手形とがある。もとは小切手をも含めていった。
  ※経済小学(1867)上「悉尼(シドニー)より来れる千金の手形倫敦にて千金に通用し」
  ⑥ 江戸時代、庶民の他国往来に際して、支配役人が旅行目的や姓名、住所、宗門などを記して交付した旅行許可証と身分証明書を兼ねたもの。往来手形。関所札。
  ※御触書寛保集成‐二・元和二年(1616)八月「一、女人手負其外不審成もの、いつれの舟場にても留置、〈略〉但酒井備後守手形於在之は、無異儀可通事」
  ⑦ 信用の根拠となるもの。身の保証となるもの。また、信用、保証。
  ※歌舞伎・心謎解色糸(1810)三幕「あの東林めが、お娘を殺さぬ受合ひの手形」
  ⑧ 首尾。都合。具合。また、人と会う機会。
  ※随筆・独寝(1724頃)下「源氏がなさけは深しといふ人もあれども、しれにくき事の手がたあらんもの也」
  ⑨ 表向きの理由。口実。だし。
  ※洒落本・睟のすじ書(1794)壱貫目つかひ「おおくは忍びて青楼(ちゃや)へゆく。名代(テガタ)は講参会の外、おもてむきでゆく事かなわず」
  ⑩ 牛車の箱の前方の榜立(ほうだて)中央にある山形の刳(えぐ)り目。つかまるときの手がかりとするためという。
  ※平家(13C前)八「木曾手がたにむずととりつゐて」
  ⑪ 武家の鞍の前輪の左右に入れた刳(く)りこみのところ。馬に乗るときの手がかりとするもの。
  ※平治(1220頃か)中「悪源太〈略〉手がたを付けてのれやとの給ひければ、打ち物ぬいてつぶつぶと手形を切りてぞ乗ったりける。鞍に手がたをつくる事、此の時よりぞはじまれる」
  ⑫ 釜などに付いている取っ手。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  [補注]④は「随・貞丈雑記‐九」に「証文の事を手形とも云事、証文は必印をおす物也。上古印といふ物なかりし時は、手に墨を付ておしてしるしとしたると也」と見え、手印を押したところから「手形」といわれるようになったという。

と多義だが、前句の年切に掛かるのは④で、肉体労働をさせるのに体力ありそうだから採用、てところか。
 点あり。

七十二句目

   手形にもたしかに見ゆる力こぶ
 二王もとほす白川の関

 手形を⑥の関所の手形として、二王が関所を通るなら確かに凄い力こぶだ。
 長点で「秀平が光堂よりと手形に出し候哉」とある。奥州三代の藤原秀衡が仁王に手形を与えて通したというのは弁慶のことか。弁慶は最後仁王立ちのまま立ち往生する。

七十三句目

   二王もとほす白川の関
 都をばあうんと共に旅立て

 白河の関といえば、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
           能因法師(後拾遺集)

が有名だが、仁王だけに都を阿形の仁王と吽形の仁王と二人仲良く旅立った。
 点あり。

七十四句目

   都をばあうんと共に旅立て
 出入息やのむ若たばこ

 前句の阿吽を口を開けたり閉じたりの一人阿吽として、吽形で煙草の煙を吸い込み、阿形で吐く。
 点なし。

七十五句目

   出入息やのむ若たばこ
 うかれめも十七八の秋の月

 煙草を覚えた浮かれ女とする。
 浮かれ女はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浮女」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 歌や舞をして人を楽しませ、また、売春もする女。あそびめ。娼妓。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
  ※建武年間記(南北朝頃)「口遊、去年八月二条河原落書〈略〉人の妻鞆のうかれめは、よそのみるめも心地あし」
  ② 身持ちの悪い女。みだらな女。
  ※和泉式部集(11C中)上「扇をとりてもたまへりけるを御覧じて、〈略〉とりて、うかれ女の扇と書きつけさせ給へるかたはらに」

とある。遊郭に閉じ込められた傾城ではなく、田舎などにいた比較的自由な遊女のことか。
 点なし。

七十六句目

   うかれめも十七八の秋の月
 初瀬をいのるかほは冷じ

 「うかれ」から、

 うかりける人を初瀬の山おろしよ
     はげしかれとは祈らぬものを
             源俊頼(千載集)

の縁で初瀬を出して、十七八の浮かれ女は秋の月に神妙な顔をしながら一心に祈りを捧げる。もちろん「激しかれ」とは祈っていない。
 点なし。

七十七句目

   初瀬をいのるかほは冷じ
 さばき髪けはい坂より花やりて

 さばき髪はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「捌髪」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 とき散らした髪。ざんばら髪。さばいがみ。さばけがみ。ちらしがみ。さばき。
  ※仮名草子・竹斎(1621‐23)上「後には行儀を崩しつつ〈略〉大肌脱にさばきがみ」

とある。髷を結ってない髪で、寛文の頃にはまだ普通にいたのかもしれない。島田髷の広まる過渡期になる。
 化粧坂は伊勢街道の初瀬にある坂で、「花やる」は着飾ることをいう。化粧の縁になり、さばき髪の田舎っぽい女も着飾って化粧して初瀬に詣でる。
 点あり。

七十八句目

   さばき髪けはい坂より花やりて
 風呂屋の軒をかへるかりがね

 風呂屋は関西では湯女の性的なサービスのある店。関東では普通の銭湯をいう。湯女は風呂に入るから、髷ではなくさばき髪だったのかもしれない。さっぱりとした顔で男たちが帰って行くのを、「花やりて」が俳諧で春なので帰る雁金に喩える。
 点なし。

2023年8月17日木曜日

  ネットで久しぶりにコロナのデータを検索しようとしてわかったのは、日本も五類意向で五月以降、データの公表が五か月単位になったことと、ジョー・ホプキンス大学のデータが三月九日で停止したことで、以前のような毎日毎日逐一感染者数や死者数がカウントされる時代が終わったのは確かだ。
 まあ、ある程度時間が経過して、十分なデータが揃ったなら、今回のコロナの正確な顛末が分ることにはなるだろう。
 ただ問題なのはリアルタイムな正確なデータが出回らなくなると、検証不能ということで様々なデマが飛び交う可能性があるということだ。特にこうしたデマは政府のコロナ対策を糾弾する反政府的な活動と結びついたもので、世界的な一連の反ワクデマとはまた違ったものになる。
 反政府的デマの特徴は、政府を批判できるという目的のためなら様々な矛盾した主張も厭わないということで、その主張は絶えず変るし、前の主張と完全に矛盾したことを言う場合も多い。
 たとえば、初期の比政府が大規模な行動制限をしようとすれば、コロナはたいしたことないのにそれにかこつけて独裁政治をしようとしてる、なんて調子で煽って来る。
 そして実際に世界で多くの死者を出すようになると一転して日本のコロナ対策は遅れている、中国のゼロコロナを見習えになってくる。
 世界的にコロナが静まってくると、未だに日本だけがコロナをやってるとか言うし、それで日本も五類移行とともに世界の流れに乗って生活を元に戻そうとすると、今度は感染者が急増してるからマスクをしろとか言い出す。
 実際多くの人は既にコロナのデータに関心を失っているから、その人たちにはどうでもいいことなんだけどね。どうせいくらコロナの不安を煽っても、今まで通りマスコミは信用を失い、左翼政党は議席を減らすという流れは変わらないとは思うが。
 デマは基本的には鍋の理論に陥ることが多い。最近のマイナカードデマもその典型だ。

 紙保険証での不正なんて聞いたことがない。

 紙保険証がなくなると不正で飯を食ってる人が困る。
 (不正があったのを認める)

 マイナカードでも不正はできる。
 (なら不正で飯食ってる人は困らないじゃないか。)

 それでは今日はX奥の細道の続き。

六月二十五日

今日は旧暦6月24日で、元禄2年は6月25日。酒田を出る。

今日も天気は良い。朝から大勢の人が見送りに集まってくれて、最上川河口の船場まで送ってくれた。
対岸が歌枕にもなっている袖の浦だという。
いずれにせよ広大な河口域で海も見えて、ここを船で渡らなくてはならない。

最上川を渡って羽州浜街道をしばらく行くと浜中宿があり、昼過ぎにその次の大山宿に着いた、酒田で紹介された丸屋義左衛門の宿に泊まることにする。

六月二十六日

今日は旧暦6月25日で、元禄2年は6月26日。羽州浜街道。

昨日の夜、雨が降ったが、朝には晴れていた。
大山宿を出てしばらく行くと矢引峠越えの狭くて険しい道になり、三瀬宿に出る。

三瀬宿の先に行くと海に出て、今度は岩の切り立った海岸沿いの狭い道になる。
小波渡を過ぎると鬼架け橋という岩の橋があり、大波渡、堅苔沢を過ぎてしばらく行くと巨大な立岩が見えてくる。どれも絶景だ。

温海宿は立岩からそう遠くなかったが、この辺りでまた雨がぱらついてきた。
鈴木所左衛門の家に泊めてもらう。ここも酒田の宮部弥三郎の紹介によるものだ。
夕暮れには大雨になった。

六月二十七日

今日は旧暦6月26日で、元禄2年は6月27日。温海宿を出る。

昨日の雨も止んだ。これから山の方へ入って出羽街道に出て中村宿に向かうが、その前に馬を借りて鼠ヶ関に行ってみようと思う。
曾良は何か面倒くさそうで同行せず、温泉に入って待ってるそうだ。

曾良「ああ、朝湯は気持ちいいな。朝の温泉街も良いもんだ。
えっ?鼠ケ関?古代出羽道が通ってた場所でもないし、昔の念珠関はあそこではないと思うんだ。
古代の出羽路はこれから行く今の出羽街道に近い所を通ってたと思う。それを今から見に行きたい。」

鼠ヶ関には普通に番所があった。番所の向こうは大きな入江があって港町だった。
手形もないし、ここで引き返した。
温海宿に戻ると曾良と合流して、山の中の出羽街道山通りを目指す。

小国宿に出ると、こっちの方が酒田から新潟へのメインなのか、古代の道もこっちを通ってたと曾良も言う。
小名部を過ぎると堀切峠があり、ここも出羽と越後の国境になる。海沿いの険しさはなく、なだらかな山道が続く。

あれから時々雨が降ったが出羽街道山通りは順調で、小俣宿を過ぎ、夕方には中村宿に着いた。

六月二十八日

今日は旧暦6月27日で、元禄2年は6月28日。村上へ。

朝は晴れてたが変わりやすい天気だ。中村宿を出て葡萄峠の山道は険しくはないがだらだらと長かった。途中で激しい雨になったが、すぐ止んだ。

まだ明るいうちに村上に着いた。久左衛門の宿に泊まる。
曾良は用事があるのか、何か三人ばかり宿にやってきて城に行くと言って出て行った。昔伊勢長島にいた頃の知り合いがいるらしい。
城といっても天守閣はない。

六月二十九日

今日は旧暦6月28日で、元禄2年は6月29日。村上。

今日は天気が良い。休養にはちょうど良い。
曾良は昔伊勢長島にいた頃仕えてた主君の息子が今の村上藩の家老で、それで会いに行ってたようだ。主君の方は亡くなられて、今日は墓参りに行くという。
曾良の名前も木曽川と長良川から取ったというし。

曾良が墓参りから帰って来た。昨日から一緒にいる喜兵衛、友兵衛、彦左衛門も一緒で、冷麦を持って来てくれた。
午後は宿の久左衛門も一緒に瀬波の浜の海を見に行く。

瀬波の砂浜で海を眺めながら楽しいひと時を過ごした。
佐渡島の方に赤々とした日が傾いてゆくのは何だかエモい。今日までは6月で暦の上では夏だが、風は秋風だ。
帰りにいろいろお土産を貰ったが取っておいても荷物になるので、宿に帰ってから食おう。

2023年8月16日水曜日

  それでは「軽口に」の巻の続き。

三表
五十一句目

   こよみえよまず春をしらまし
 けぶり立夷が千嶋の初やいと

 夷(えぞ)が千嶋は『西行法師家集』に、

   述懐の心を
 いたちもるあまみかせきに成りにけり
     えぞかちしまを煙こめたり
              西行法師

とあり、『夫木抄』と『山家集』では上五七が「いたけもるあまみるときに」になっている。どっちにしても意味が分かりにくい。

 思ひこそ千嶋の奥を隔てねと
     えぞ通はさぬ壺のいしぶみ
              顕昭法師(夫木抄)

の歌があることをみると、今の千島列島ではなくただ北の方にはたくさん島があるくらいの認識だったのかもしれない。
 「いたちもるあまみかせきに」だと板地を漏る(守ると掛ける)天海が関に、という何か関所があったような感じもする。「いたけもるあまみるときに」だと上五が不明だが、蜑見る(海松と掛ける)時にになりそうだ。いずれにせよ北海道ではなく、陸奥の煙であろう。
 ここでも「立夷が千嶋の初やいと」は東北の田舎の方の人が正月初めてのお灸をするというくらいのイメージで、暦が読めない人でも正月は来てる、という前句に繋がる。
 点あり。

五十二句目

   けぶり立夷が千嶋の初やいと
 あまのあか子も田鶴もなく也

 やはり「いたけもるあまみるときに」を「蜑みる時に」と読んでたか。お灸をする婆に赤子を付けて、海女の三代とする。血筋の絶えないことの目出度さに田鶴を添える。
 点あり。

五十三句目

   あまのあか子も田鶴もなく也
 小便やもしほたれぬる朝ぼらけ

 海女の赤子は当然小便をすることだろう。その様が藻塩草から海水が垂れるかのようだ。
 長点で「行平卿の捨子にやといたはしく候」とある。謡曲『松風』は行平と二人の海女のかつての恋を呼び興す話で、

 「寄せては帰るかたをなみ、寄せては帰るかたをなみ、蘆辺の田鶴こそは立ち騒げ・四方の嵐も 音添へて、夜寒何と過さん。更け行く月こそさやかなれ。汲むは影なれや。焼く塩煙心せよ。さのみなど蜑人の憂き・秋のみを・過ごさん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1557). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と田鶴も登場する。

五十四句目

   小便やもしほたれぬる朝ぼらけ
 須磨の上野にはゆるつまみな

 須磨の上野は歌枕で、

 篠(すず)船を寄する音にや騒ぐらむ
     須磨の上野に雉子鳴くなり
             顕昭(夫木抄)

などの歌に詠まれている。「つまみ菜」は間引き菜で、須磨の漁業だけでなく、海辺の小高い所で畑も作っている。
 長点で「塩汁にても旅行の砌は賞味たるべく候」と名物になっていたか。この時代の須磨は藻塩製塩はやっていない。

五十五句目

   須磨の上野にはゆるつまみな
 山家までかまぼこ汁に霧晴て

 藻塩は焼かなくても須磨は漁村で、京・大阪向けの蒲鉾も作ってたのだろう。蒲鉾にすると保存できるので、山奥の家でも魚が食べられるようになる。
 須磨に霧は、

 藻塩焼く煙になるる須磨あまは
     秋立つ霧もわかずやあるらん
             よみ人知らず(拾遺集)

の歌がある。
 点あり。

五十六句目

   山家までかまぼこ汁に霧晴て
 まつりや秋のとまり客人

 山家に籠る僧がいきなり蒲鉾を食ったりするのは、祭りがあってお客さんが来てるからだ。
 点なし。

五十七句目

   まつりや秋のとまり客人
 御造作や夕月ながる竜田川

 御造作はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「御造作」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「ご」は接頭語) 相手を敬って、その人に饗応、馳走をすること、手数をかけることなどをいう語。また、御馳走になった時の挨拶(あいさつ)に用いる語。ごちそうさま。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「まつりや秋のとまり客人 御造作や夕月ながる龍田川〈西鶴〉」
  ※滑稽本・旧観帖(1805‐09)二「ばあさま御ぞうさになり申す」

とある。祭の客人は竜田川の紅葉を見に来てた。

   秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる
 年ごとにもみぢ葉流す竜田河
     みなとや秋のとまりなるらむ
             紀貫之(古今集)

の歌の縁で、前句の「とまり」を竜田川の泊りとする。
 点ありで「泊なるらんと云る幽成所よく被思召出候」と、よく「とまり」からこの歌を思い起こして竜田川に展開したと感心する。こういう證歌があるかどうかがこの時代は重要だった。

五十八句目

   御造作や夕月ながる竜田川
 からくれなゐのせんだくぞする

 竜田川から「からくれなゐ」はお約束といった所だろう。

 千早ぶる神代もきかず龍田川
     からくれなゐに水くくるとは
             在原業平(古今集)

の歌はあまりに有名だ。「水くくる」から紅葉の流れる水で洗濯をすると卑俗に落とす。
 点あり。

五十九句目

   からくれなゐのせんだくぞする
 のり鍋や衛士の焼火のもえぬらん

 衛士というと、

 みかきもり衛士のたく火の夜はもえ
     昼は消えつつものをこそ思へ
             大中臣能宣(詞華集)

の歌が百人一首でもよく知られていて、和歌ではどちらかというと昼の消える所に恋の悲しみを重ねるものだが、ここでは洗濯糊を煮る鍋の火が燃えて過ぎて、洗濯物を赤々と照らす。別に洗濯物が燃えたわけではあるまい。
 点なし。

六十句目

   のり鍋や衛士の焼火のもえぬらん
 禁裏の庭に蠅は一むら

 禁裏はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「禁裏・禁裡」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① (みだりにその裡(うち)に入ることを禁ずるの意から) 天皇の住居。宮中。禁中。皇居。御所。
  ※明月記‐治承四年(1180)一二月一五日「院并禁裏被レ儲武士、侍臣各可レ進二勇幹者一騎一之由風聞」
  ※撰集抄(1250頃)九「禁裏皆焼けるに」
  ② (①に住んでいる人をさす) 天皇。禁裏様。禁中様。
  ※吾妻鏡‐文治二年(1186)二月六日「左典廐昇進事、及同室家可レ為二禁裏御乳母一歟事、二品所下令二執申一給上也」
  ③ 内裏雛(だいりびな)。
  ※雑俳・柳多留‐一九(1784)「いり豆に花がきんりへちそう也」

とある。洗濯糊に蠅が群がったのだろうか。蠅には走光性があるので、火に群がるのと両方かもしれない。
 点なし。

六十一句目

   禁裏の庭に蠅は一むら
 大師講けふ九重を過越て

 大師講はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「大師講」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 天台宗の開祖、中国の智者大師(智顗)の忌日である一一月二四日に行なわれる仏事。古くは一一月一四日から一〇日間であったが、江戸時代以後は一一月二一日から三日間となった。現在は一〇月と一一月の二三日、二四日にわたって行なう。
  ※日蓮遺文‐地引御書(1281)「二十四日に大師講並延年、心のごとくつかまつりて」
  ② 天台宗で、伝教大師(最澄)の忌日である六月四日に行なわれる法会。六月会。みなづきえ。
  ③ 真言宗で、弘法大師(空海)への報恩のために行なう法会。
  ※斑鳩物語(1907)〈高浜虚子〉上「皆東京のお方だす。大師講のお方で高野山に詣りやはった帰りだすさうな」
  ④ 旧暦一一月二三日から二四日にかけての年中行事。家々で粥や団子汁などを作って食べる。講とはいうものの、講は作らず各家々でまつる。この夜お大師様が身なりをかえて、こっそり訪れるので、家に迎え入れ歓待するのだともいわれている。《季・冬》 〔俳諧・誹諧初学抄(1641)〕」

とある。蠅は大師講の日を境に消えると言われてたらしい。元禄八年浪化編『ありそ海』にも、

 蠅ほどの物と思へど大師講    句空

の句がある。
 点なし。

六十二句目

   大師講けふ九重を過越て
 匂ひけるかな真木のお違

 九重に「匂ひける」といえば、

 いにしへの奈良の都の八重桜
     今日九重に匂ひぬるかな
             伊勢大輔(金葉集)

の歌がある。「真木のお違」はよくわからない。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注には、「仏家などのお違棚か」とある。
 点なし。付け合いに頼ったやや雑な付けが続くのは速吟の宿命なのか。

六十三句目

   匂ひけるかな真木のお違
 井戸輪の下行水やかするらん

 井戸が輪は井戸の淵の部分で四角い井桁の形になってるものが多いが、円形の井戸もある。
 「かする」はこの場合は「かすれる」で、水が少なくなっているということか。
 水が少ないせいで真木のお違いの匂いがする。この場合も真木のお違いの意味が分からないと意味が通じない。
 点あり。

六十四句目

   井戸輪の下行水やかするらん
 焼亡は三里よその夕ぐれ

 焼亡は火事のことで、井戸水が枯れて火が消せなかったということか。三里離れても夕暮れのように空が赤く見えるから、大きな火事なのだろう。
 点あり。

2023年8月15日火曜日

  今日は終戦記念日で、若い頃は左翼だったから「敗戦の日」だといきってたけど、今思うと戦争終結よりも前に失ったものに比べて、敗戦後に失ったものってほとんどなかったんじゃないかと思う。
 三百万の命、主要都市の破壊、植民地や領土の喪失も敗戦前のまだ戦ってる頃に起きたことだし、負けてから失ったものがあまり思いつかない。これでは「負けて良かった」と思うのも無理はない。負けたというよりは単に侵略が止められたと言った方が良い。だったら「終戦記念日」ではないか。
 日本は都市は焼け野原になって、二つの原爆は落されたけど、農村はほとんど無傷だった。せいぜい軍隊に労働力を取られただけで、それは国内の事情だった。外国の軍隊によって農村が蹂躙され、先祖伝来の土地が奪われ、虐殺されたり見知らぬ異国へ連行されたりということは遂に起こらなかった。
 国は飢えたけど、主に引揚者などによる都市人口の急激な増加のせいで、農村は飢えてなかった。だから、みんな農村に買い出しに行って食いつなぐことができた。
 米軍の占領期間も短く、程なく主権を取り戻したし、果たして敗戦と言えるほど負けてたのだろうか。敗戦はむしろ精神的な影響の方が多かったのかもしれない。日本を否定することにやっきになる、いわゆる「戦後思想」を生み出してしまったという、その損失の方が大きかったのかもしれない。
 日本は未だに他の民族に支配された経験がない。その意味では「まだ日本は本当の敗戦を知らない」と言った方が良いのかもしれない。だからやはり今日は終戦記念日なんだと思う。

 あと、鈴呂屋書庫に「大坂独吟集」第四百韻「十いひて」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「軽口に」の巻の続き。

二裏
三十七句目

   時雨ふり置うらやさん也
 年の比雲なかくしそ手かけもの

 「雲なかくしそ」は『伊勢物語』第二十三段の有名な筒井筒の話の後半で、男が高安の女の方に行ってしまった時の、

 君があたり見つつを居らむ生駒山
     雲な隠しそ雨は降るとも

の歌を踏まえている。
 生駒山の方を見やって、雲よ隠さないで、という場面だが、ここでは年頃となる手を掛けて育てた女を雲よ隠さないで、とする。占いに悪い結果が出たのだろう。
 長点で「高安の女のおもかげもうかび候」とある。

三十八句目

   年の比雲なかくしそ手かけもの
 晦日までの末のかねごと

 囲ってた女は晦日までの約束だった。
 点なし。

三十九句目

   晦日までの末のかねごと
 やどがへやすめば都の町はづれ

 前句の晦日までのかねごとを借家契約とし、期限切れで引っ越す。町はずれも住めば都。
 点なし。

四十句目

   やどがへやすめば都の町はづれ
 こしばりにする公家衆の文

 前句を「都の町はづれに住めば」として、郊外の隠棲として、煩わしかった大宮人との付き合いの手紙も、襖の下張りにする。
 点あり。

四十一句目

   こしばりにする公家衆の文
 取売もその跡とふや小倉山

 取売(とりうり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「取売」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 古道具を売買すること。また、その人。道具屋。古道具屋。古手買い。くらまわり。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Torivriuo(トリウリヲ) スル」
  ② 持ち合わせの財物を少しずつ売ってゆくこと。切り売り。
  ※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)一「まだ奇特にもお真向様は入残の取売で女夫暮す中」

とある。
 公家の手紙が腰張りになっているような家なら、宮廷とのかかわりの深かった人で、さぞかし隠れた逸品があるのではと古道具屋も目を付ける。
 小倉山だから藤原定家の時雨亭か。
 点ありで、長点ではないが「いかさまほり出し可有候」とコメントがある。

四十二句目

   取売もその跡とふや小倉山
 十分一ほどさく花すすき

 十分一はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「十分一」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① あるものを一〇にわけたうちの一つ。また転じて、少数であること。わずかであること。じゅうぶんの一。分一。
  ※古文真宝笑雲抄(1525)三「民より十分一の年貢を取て其を賃にして守護代官はやとはれて吏に成て居ぢゃぞ」
  ※浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油屋「草葉の影からにっこりと笑はしまして下されと。恨みも。異見も十分一(じふぶいチ)明けて言はれぬ百千万」
  ② 「じゅうぶいちぎん(十分一銀)」の略。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「ふやが軒端に匂ふ梅が香 春のよの価千金十分一〈三昌〉」

とある。また、「精選版 日本国語大辞典 「十分一銀」の意味・読み・例文・類語」には、

 「〘名〙 江戸時代、婚姻の仲人や就職の斡旋、また借金などを世話した場合に、手数料として、扱った金額の十分の一を取ること。また、その金。じゅうぶいち。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)一「今時の仲人、頼もしづくにはあらず、其敷銀に応じて、たとへば五十貫目つけば五貫目取事といへり、此ごとく十分一銀(じふフいちギン)出して、娌呼かたへ遣しけるは内証心もとなし」

とあり、こちらは「五分一」が二割の手数料だったのに対してその半分ということになる。
 この場合は委託販売のような形式だろうか。骨董屋は十分の一のマージンで小倉山の古物を売却するが、小倉山に咲く花の十分の一は地味な花薄といったところか。
 長点で「半金一二十枚は此句に有之」とある。この句は十分の一どころか半分の小判二十枚くらいの価値はあるということか。 

四十三句目

   十分一ほどさく花すすき
 虫のねも世間各別鳴そめて

 花薄もまだ十分の一ほどしか咲いてない時期なら秋もまだ浅く、いろんな虫が鳴き始める。
 点なし。

四十四句目

   虫のねも世間各別鳴そめて
 うてば身にしむ針は当流

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、

 秋風は身に染むばかり吹きにけり
     いまやうつらむ妹が狭衣
              藤原輔尹(新古今集)

の歌を引いている。砧を打つ歌だが、今流行の針を打てば身に染む、とする。
 点なし。

四十五句目

   うてば身にしむ針は当流
 食後にも今宵の月をこころがけ

 食後に針を打つとかそういう健康法があったのか、よくわからない。
 当時は朝飯と夕飯の二食で、旅などで体を使う時や客人をもてなす時など昼飯も食った。また、遊郭に通ったりすると夜食を食う。この場合は夕飯で、まだ明るいうちに食う。
 点なし。

四十六句目

   食後にも今宵の月をこころがけ
 はたごやたちて名どころの山

 名所になっている山のあるところだと、この時代は寺社へのお参りを口実にした旅行者が訪れるようになり、旅籠屋も月見の客を呼び込む工夫をするようになった。
 こういう今どきの流行のネタが延宝以降の俳諧の方向性になって行く。
 点なし。

四十七句目

   はたごやたちて名どころの山
 かりごろも花見虱やのこるらん

 花見虱は第二百韻の「松にばかり」の巻七十七句目にも、

   宮司が衣うちかへしけり
 神木の花見虱やうつるらん   素玄

の句があった。桜の季節には虱もわいてくる。
 「かりごろも」は狩衣(かりぎぬ)だとすれば古風な感じになる。江戸時代には公家か神職くらいだろう。
 こういう新味と貞門以来の古風な世界の共存が寛文の終わりなのかもしれない。古風な要素がある方が点ありになるのか。
 点あり。

四十八句目

   かりごろも花見虱やのこるらん
 ほとけのわかれなげく生類

 これは釈迦涅槃図であろう。五十二類の動物たちが集まって仏様の死を惜しむ。釈迦入滅の涅槃会は旧暦二月十五日、如月の望月になる。花見虱の出てくる時期でもある。
 点ありで「五十二類の中よりみぐしに取付候哉」とある。集まって来た動物からうつされたか。

四十九句目

   ほとけのわかれなげく生
 盤得がぐちのなみだに雪消て

 盤得は槃特(はんどく)で、「槃特が愚痴も文殊が知恵」という諺があり、頭が悪くても努力すれば悟りを得られるという意味。
 お釈迦様の涅槃を悲しむ槃特の涙も雪を解かす。
 点なし。

五十句目

   盤得がぐちのなみだに雪消て
 こよみえよまず春をしらまし

 暦が読めなくても雪が溶ければ、誰だって春が来たのが分る。
 点なし。

2023年8月14日月曜日

  今年はせっかくのコロナ明けだというのに、ちょうどお盆の時期に台風が来て、関西を直撃しそうだ。
 この前は九州に台風が来て、長崎原爆忌の行事が大幅に縮小されたし、今回は終戦記念日の行事にも影響が出る。
 侵略戦争はやってはいけないことで、それはロシアだろうが日本だろうが一緒だ。ただ、攻めて来た時には守らなくてはならない。それはウクライナも日本も一緒だ。この当たり前のことがなぜかわからない人たちがいる。まあ、わかっていてわざと面白がって騒いでるのかもしれないけど。
 当たり前のこと言ってたんじゃ、目立たないからね。当たり前のことはみんなそう考えてるし、みんな言ってることだからね。
 インフルエンサーになりたかったら当たり前じゃないことを言わなくてはならないからね。だからこいつらを相手にしちゃいけないんだど。愉快犯と一緒だから無酢するのが一番いい。

 それでは「軽口に」の巻の続き。

二表
二十三句目

   浦のとまやのさら世態也
 朝夕に隨縁真如の波立て

 隨縁真如はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「随縁真如」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 仏語。真如は絶対不変であるが、さまざまの縁に応じて種々の差別相を生ずることをいう。真如における二つの相を説く、その一つ。
  ※本覚讚釈(12C前)「真如有二二義一、一不変真如二随縁真如」
  ※十訓抄(1252)三「実相無漏の大海に五塵六欲の風はふかねども、随縁真如の浪のたたぬ時なし」

とある。
 新所帯だから縁あって結ばれたのだろうけど、真如のように不変というわけにもいかず、あれこれ波が立つ。
 点あり。

二十四句目

   朝夕に隨縁真如の波立て
 きけばこそあれ住吉の公事

 「住吉の公事」がどういう事件なのかはよくわからないが、当時神社やその本地のお寺との境界争いなど、至る所で公事(訴訟)があったから、大阪の住吉大社でもご多分に漏れずだったのか。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、四天王寺と住吉神社の『百錬抄』『古今著聞集』の12世紀の境界争いの例を挙げているので、今流行の話題ではなく古い話題として引き合いに出したのかもしれない。
 長点で「和田のはら立たる公事者尤々」とある。

 風はただ思はぬかたに吹きしかと
     わたのはらたつ波もなかりき
            赤染衛門(後拾遺集)

による。
 寛文の頃はまだ今の話題で句を作るのではなく、故事に絡めながらというのが普通だったのかもしれない。後の蕉門でもどこの神社の公事と特定する句は見られない所を見ると、元禄六年の「初茸や」の巻の、

   草赤き百石取の門がまへ
 公事に屓たる奈良の坊方     芭蕉

は画期的だったのかもしれない。これにしても奈良とまでしか言ってない。
 あるいは、元禄五年に許六が芭蕉に見せたという、

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

句が一番最初なのかもしれない。この句は湖東の多賀大社とすぐ近くにある胡宮神社との訴訟ということが特定できる。

二十五句目

   きけばこそあれ住吉の公事
 駕籠かきや松原さして急ぐらん

 公事があるというので駕籠に乗って急いで役人が駆けつける。
 点あり。

二十六句目

   駕籠かきや松原さして急ぐらん
 医者もかなはぬ木曾の御最期

 木曽義仲は最後は宇治川の戦いで破れ、数名で落ち延びて近江国粟津で討ち死にする。
 謡曲『兼平』では最後兼平と二騎になり、

 「今は力なし。あの松原に落ち行きて、御腹召され候へと、兼平勧め申せば、心細くも主従二騎、粟津の松原さして落ち行き給ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.923). Yamatouta e books. Kindle 版. )

となる。
 今だったら駕籠に乗って医者が駆けつける、というところか。
 長点で「さてもさてもさても道三、半井家も叶がたく覚候」とある。道三は曲直瀬道三で戦国末から安土桃山時代の名医。半井家はウィキペディアに、

 「半井家(なからいけ)は、日本の医家の家系。和気氏の流れを汲む。室町時代後期に半井明親(初代半井驢庵)が出て半井の家名を称したと伝えられ、その子孫は江戸幕府の奥医師の長(典薬頭)を世襲する家の一つとなった。また、その一族は各地で医家として続いた。門弟で半井の名字を認められた系統もある。」

とある。

二十七句目

   医者もかなはぬ木曾の御最期
 はや七日寝覚めの床のゆめうつつ

 寝覚めの床はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「寝覚ノ床」の意味・読み・例文・類語」に、

 「長野県木曾郡上松町にある木曾川の峡谷。花崗岩の白い柱状節理と水蝕地形の景観で知られる。浦島太郎伝説がある。国名勝。」

とある。後に芭蕉も『更科紀行』に、

 「棧(かけ)はし・寐覚(ねざめ)など過ぎて、猿が馬場・たち峠などは、四十八曲リとかや」

と記している。
 前句を木曾の旅路での最期と取り成す。
 点あり。

二十八句目

   はや七日寝覚めの床のゆめうつつ
 勧進ずまふありてなければ

 昔の勧進相撲の興行は七日間行われることが多かった。
 「ありてなければ」は、

 世中は夢かうつつかうつつとも
     夢ともしらず有りてなければ
            よみ人しらず(古今集)

の歌によるもので、前句の「夢うつつ」を受ける。相撲の七日間は夢のようだ。それくらいみんな熱狂した。
 長点で「ゆめかうつつか有てなければ、の本歌、此句のためによみ置たるかと思れ候。但丸山岸左門にたづねたく候」とある。
 丸山という相撲取は何人かいたようで、時代は下るが享保の頃には丸山権太左衛門がいるし、この時代には丸山仁太夫もいる。丸山岸左門はその先代だろうか。
 延宝の頃の「見渡せば」四十八句目には、

   腰の骨いたくもあるる里の月
 又なげられし丸山の色      似春

の句がある。

二十九句目

   勧進ずまふありてなければ
 白紙は外聞ばかりの花野にて

 白紙(しらかみ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「白紙」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 色の白い紙。はくし。
  ※蜻蛉(974頃)下「昨日のしらかみおもひいでてにやあらん、かくいふめり」
  ② 何も書いてない紙。はくし。
  ※歌舞伎・名歌徳三舛玉垣(1801)三立「『蜜書でござるか。何と書てござるかな』『一字一点なき白紙(しらかみ)』」
  ③ 後に現金ととりかえる祝儀の白紙。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「勧進すまふありてなければ〈略〉白紙は外聞ばかりの花野にて〈西鶴〉」

とある。「白紙(はくし)」の所にも、

 「⑤ かみばなのこと。遊里では祝儀に用いられ、後日現金と引き換えるしるしとして白い紙だけを包んで与えた。
  ※雑俳・柳多留‐一三九(1835)「銀札に白紙を使ふ別世界」

とある。「かみばな」ともいう所から「花野」が導き出されたか。
 ただ、必ずしも現金に換えてもらえるわけではなく、形だけの白紙もあったのだろう。これでは相撲を取る意味がない。
 点なし。

三十句目

   白紙は外聞ばかりの花野にて
 まだくれがたの月に提灯

 「月夜に提灯」は無用なものの喩え。形だけの白紙は月夜の提灯のようなもので、「花野」には「くれがたの月」という景を添える。
 点なし。

三十一句目

   まだくれがたの月に提灯
 約束も時付をして仲人かか

 時付(ときづけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「時付」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 到着の時刻などを書きしるすこと。
  ※吾妻鏡‐建長二年(1250)四月二日「云二頭人一云二奉行人一、莫レ及二遅参一、且可レ進二覧時付着到一之由」
  ② 「ときづけ(時付)の早飛脚」の略。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「まだくれがたの月に挑灯 約束も時付をして仲人かか〈西鶴〉」

とある。
 ここでは飛脚ではなく、単に会う約束の時間を指定してということか。仲人のおばさんに促されて、黄昏時に提灯を持って会いに行くが、文字通り「誰そ彼」で顔がよくわからなくて意味がない。
 点なし。

三十二句目

   約束も時付をして仲人かか
 一順箱は恋のよび出し

 前句をここで、飛脚の時間指定便で仲人が手紙をよこしたという意味に取り成したか。
 それが連歌の一巡箱みたいな恋の呼出しだとする。
 一巡箱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「一巡・一順・一循」の意味・読み・例文・類語」の、

 「② 連歌や俳諧連句の座で、その会席に連なった人々が、発句から順番に一句ずつ作って、一回り付け終わること。
  ※私用抄(1471)「一巡の名をはじめよりしるすこと」
  ※俳諧・三冊子(1702)わすれ水「一順廻りし時、書翰を以てうかがふ」

のための箱で、おそらく当座の興で句が作れないという事態を避けるために、事前に最初の一順は箱に紙を入れて回して付けて行くことがあったのだろう。脇をすぐに出せるように、発句をあらかじめ作って亭主に教えておくというのはよくあったから、その延長であろう。
 蕪村の時代だと、連衆が一同に集まるのが難しくなったのか、書簡で俳諧をやったりしたようだ。
 点あり。

三十三句目

   一順箱は恋のよび出し
 物まふは夜分に成てどれからぞ

 前句の「恋のよび出し」は連歌や俳諧で次の句に恋を出しやすくするような句を出すことをいう。夜分をだすと男の通うのを待つ、だとか夢にあの人を見るだとか、夜這いネタに持って行くだとか、恋を出しやすくなる。
 ここはそれを踏まえつつ、一巡箱を持って夜分に「物申す」とやって来る場面とする。
 点あり。

三十四句目

   物まふは夜分に成てどれからぞ
 芝居のしくみ明日はつらみせ

 「つらみせ」は芝居の顔見世興行。「しくみ」はここでは段取りのことか。
 明日の顔見世興行の段取りを話し合って、夜になっても誰から出すか決まらない。やはり最後に出るのが一流ということで、出る順番は役者の格を決めるものだから、興行のたびにもめるのだろう。
 映画の出演者のクレジットだと、誰を筆頭にするかでもめたりする。それに近いものだろう。
 点あり。

三十五句目

   芝居のしくみ明日はつらみせ
 看板に偽のなき神無月

 「つらみせ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「面見・面見世」の意味・読み・例文・類語」に、

 「② (面見世) 江戸時代、歌舞伎の一一月一日からの興行で、新一座の役者が総員そろって客に見参すること。顔見世(かおみせ)。《季・冬》
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「物まふは夜分に成てどれからぞ 芝居のしくみ明日はつらみせ〈西鶴〉」

とあり、霜月初日に行われるから、その前日は間違いなく神無月だ。前句の「明日はつらみせ」は明日から面見世、今日はまだ神無月ということになる。
 点なし。

三十六句目

   看板に偽のなき神無月
 時雨ふり置うらやさん也

 「うらやさん」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「占屋算」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 占い。とくに、売卜者(ばいぼくしゃ)が算木と筮竹(ぜいちく)とを使って行なう占い。また、それを業とする者。占い者。易者。うらないさん。うらやふみ。うらおき。
  ※玉塵抄(1563)一三「人のしらぬことをうらや算をおいてしるぞ」

とある。
 時雨は定めなきものだが、それを予想できないで雨に打たれている占い屋は看板通りということか。

 竜田河綿おりかく神な月
     しぐれの雨をたてぬきにして
            よみ人知らず(古今集)

の歌の「神無月しぐれ」という上句と下句の接続が一致していて、連歌でいう「うたてには」になる。
 点あり。

2023年8月13日日曜日

  大坂独吟集「かしらは猿」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「軽口に」の巻の続き。

初裏
九句目

   きんかあたまに盆前の露
 懸乞も分別盛の秋更て

 懸乞(かけごひ)は掛乞で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「掛乞」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「かけごい」とも) 掛売りの代金を請求すること。また、その人。掛取り。《季・冬》
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「きんかあたまに盆前の露 懸乞も分別盛の秋更て〈西鶴〉」
  ※風俗画報‐二五五号(1902)人事門「同十三日は〈略〉、町内掛乞(カケゴヒ)の往来頻繁雑沓を極む」

とある。年の暮れだけでなく、お盆前もその季節になる。
 点あり。

十句目

   懸乞も分別盛の秋更て
 こらへ袋に入相のかね

 「こらへ袋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「堪袋」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 怒りをこらえる度量を袋にたとえていう語。堪忍袋(かんにんぶくろ)。
  ※本光国師日記‐元和六年(1620)正月一九日「拙老心中こらへ袋やふれ候と被二思召一可レ被レ下候」

とある。
 分別盛りなので、払おうとしない相手にもブチ切れることなくぐっとこらえているうちに、入相の鐘が鳴って時間切れになる。
 長点で「よき商人と見え候」とある。「良き」というよりは「よくある」の方か。こういう人情あるあるは西鶴の得意とするところだろう。

十一句目

   こらへ袋に入相のかね
 かひなつく命のうちのしかみがほ

 「かひなつく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「腕引」の意味・読み・例文・類語」の、

 「〘名〙 衆道(しゅどう)または男女の間で、その愛情の深さや誓いの固さを示すために腕に刀を引いて血を出すこと。
  ※浄瑠璃・曾我虎が磨(1711頃)傾城十番斬「心中見たい、指切か、かひな引か、入ぼくろか、此きせるのやきがねかと、一もんじにもってかかる」

の動詞化であろう。
 「しかみがほ」は顔をしかめた状態で、腕引の痛さを堪えた顔になる。変わらぬ恋を命を懸けて誓う。
 点あり。

十二句目

   かひなつく命のうちのしかみがほ
 前髪はゆめさよの中山

 前髪はまだ月代を剃ってない若衆の姿。前句の「命のうち」を「まだ生きてた頃」という意味に取り成して、若衆は腕引で命を落とし、その命は夢となった。
 「命のうち」から、

 年たけてまた越ゆべしと思いきや
     命なりけり小夜の中山
             西行法師

の歌の縁で「小夜の中山」を引き出す。この歌の「命なりけり」もまた「まだ生きてたんだ」という感慨の言葉で「命のうち」に通う。
 点あり。

十三句目

   前髪はゆめさよの中山
 菊川の鍛冶が煙と弟子は成て

 菊川間宿は江戸の方から京へ上る時の直前の宿場になる。矢の根鍛冶五条清次郎のいた所で、そこの弟子が亡くなったとする。
 点なし。

十四句目

   菊川の鍛冶が煙と弟子は成て
 仕きせの羽織のこる松風

 仕着せは従業員に支給される服で、今日でいう制服貸与のようなもの。鍛冶の弟子がなくなって、その弟子に与えた羽織が形見に残される。
 点なし。

十五句目

   仕きせの羽織のこる松風
 今朝見れば霜月切の質の札

 仕着せの羽織も質に入れられてしまい、今朝見れば霜月が期限の質札だけが残っている。羽織が掛かってたところには何もなく、松風の音だけがひゅーーー。
 点なし。

十六句目

   今朝見れば霜月切の質の札
 道場に置二十八算

 道場はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「道場」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 仏がさとりを開いた場所。菩提樹下の金剛座をいう。
  ② 発心(ほっしん)・深心(じんしん)など、さとりを開くもととなる心や布施などの修行をいう。〔法句経〕
  ③ 仏道修行の場所。仏をまつり仏の教えを説く所。寺。寺院。また、寺院としての格を持たない小さな建物や、臨時にしつらえられた法会、法事のための場所などをもいう。
  ※令義解(718)僧尼「凡僧尼非レ在二寺院一。別立二道場一。聚レ衆教化。〈略〉者。皆還俗」 〔白居易‐斎戒満夜戯招夢得詩〕
  ④ 浄土真宗や時宗で、念仏の集まりを行なう場。簡略なものから、寺院までをいった。
  ※改邪鈔(1337頃)「道場と号して簷(のき)をならべ墻をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事」
  ⑤ 特に近世、仏像を安置してあるだけで、寺格もなく住僧も定まらない寺。
  ※咄本・軽口露がはなし(1691)二「去田舎に、一村みな一向宗にて、道場(ダウデウ)へまいりて御讚歎を聴聞いたし」
  ⑥ 弟子が集まり師について武芸を学び、練習する所。
  ※浄瑠璃・夕霧阿波鳴渡(1712頃)中「妻子引具し旧冬より、上本町の道場の玄関構へ借座敷」
  ⑦ 多くの人々が集まり、団体生活をして精神修養・技術の練成などに励む場所。」

とある。ここでは④の意味であろう。藤沢の遊行寺も藤沢道場と呼ばれていた。
 霜月二十八日は親鸞聖人の命日で、二十一日から七日間報恩講を行う。その時の寄付で借金を返す算段か。
 長点で「おとりこしの折からお殊勝に存候」とある。「おとりこし」は報恩講のことで殊勝は立派なことを意味するが、「お」が付くと皮肉に聞こえる。「何とまあご立派な」という感じか。

十七句目

   道場に置二十八算
 知恵の輪や四条通にぬけぬらん

 知恵の輪はコトバンクの「百科事典マイペディア 「知恵の輪」の意味・わかりやすい解説」に、

 「パズル玩具(がんぐ)の一種。種々の形状の輪をつないだり,はずしたりする遊びで,多くは解き方が一通りしかなく,それを考えるのが楽しみ。起源は不明だが,英国ではチャイニーズ・リングchinese ringと呼ばれており,東洋起源のものと思われる。中国では9個の輪からなる九連環が存在し,17世紀後半に日本に伝来した。」

とある。この九連環はウィキペディアに、

 「『九連環』という名前は輪が9個のもので、それが代名詞的ではあるのだが、9個では手数が少々多く、5個前後のものも多い。逆にもっと多い、11個や13個のもの、さらに多いものも存在する。」

とある。
 ここではあくまで比喩だろう。二十八回いろいろ考えた末、知恵を使った小坊主が、今日の本願寺の道場を抜け出して四条通りに遊びに行く。
 長点で「払子はうたがひなく候」とある。払子(ほっす)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「払子」の意味・わかりやすい解説」に、

 「獣の毛などを束ね、これに柄(え)をつけた仏具。サンスクリット語のビヤジャナvyajanaの訳。単に払(ほつ)、あるいは払麈(ほっす)ともよぶ。葬儀などの法要のとき、導師を務める僧が所持するが、元来はインドで蚊などの虫を追い払うために用いたもので、のちには修行者を導くときにも利用される。『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』などによれば、比丘(びく)(僧)が蚊虫に悩まされているのを知った釈尊は、羊毛を撚(よ)ったもの、麻を使ったもの、布を裂いたもの、破れ物、木の枝を使ったものなどに柄をつけて、払子とすることを許したという。その材料に高価なものを使用することは、他人に盗みの罪を犯させるとの理由から禁止された。中国では禅宗で住持の説法時の威儀具として盛んに用いられた。日本でも鎌倉時代以後に禅宗で用いられるようになり、真宗以外の各宗で用いられる。[永井政之]」

とある。あとで説教されるのは疑いない、ということであろう。ただ、浄土真宗では払子は使わないとのこと。

十八句目

   知恵の輪や四条通にぬけぬらん
 竹の薗生の山がらの籠

 薗生はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「園生」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 植物を栽培する園。その。庭。
  ※万葉(8C後)五・八六四「おくれゐてなが恋せずは御曾能不(みソノフ)の梅の花にもならましものを」

とある。
 ここでは比喩で竹籠を竹の薗生に見立てている。四条辺りにはヤマガラの宙返りの芸などを見せる芸人がいたのだろう。前句の「知恵の輪」を輪くぐりの芸としたか。
 点あり。

十九句目

   竹の薗生の山がらの籠
 わこさまは人間のたね月澄て

 「わこさま」は「わこうさま」と同じで、コトバンクの「デジタル大辞泉 「和子様」の意味・読み・例文・類語」に、

 「良家の男の子を親しみ敬っていう語。わかさま。
「こなたの御大切の―を」〈虎寛狂・子盗人〉」

とある。
 「人間のたね」は『徒然草』第一段の、

 「御門の御位は、いともかしこし。竹の園生の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。」

から来たもので、和子様は良家の子息とはいえ所詮は人間ということ。ヤマガラの芸も盛んだったが、道楽でヤマガラを飼って芸を仕込む人も多かった。金持ちだけど所詮はただの道楽者、というニュアンスだろう。
 鳥を駕籠なんぞに閉じ込めて、真如の月が見ているぞ。
 点なし。

二十句目

   わこさまは人間のたね月澄て
 とりあげばばもくれて行秋

 前句を和子様の誕生として、産婆が出産に立ち会うが、和子様はその後大切に育てられて、産婆は用が済んだら去って行くのみ。違え付けになる。
 点なし。

二十一句目

   とりあげばばもくれて行秋
 見わたせば花よ紅葉よおだい櫃

 「おだい櫃」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「御台櫃」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 飯櫃(めしびつ)。
  ※俳諧・独吟一日千句(1675)第三「松青し雛のあそびのおたひ櫃 霞をすこし一対の錫」
  ② 千木箱(ちぎばこ)のこと。」

とある。
 出産祝いで花見と紅葉狩りが一篇に来たようなお目出度さで飯が振舞われる。その陰でひっそりと産婆さんは帰って行く。
 「花よ紅葉よ」というと、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮れ
            藤原定家

の歌だが、ここではその両方共が揃ったような華やかさの中で、去って行く産婆さんの侘しさが対比される。
 長点で「まかなひのばば見るやうに候」とある。まあ、飯炊きの賄婆も裏方だから似たようなものか。

二十二句目

   見わたせば花よ紅葉よおだい櫃
 浦のとまやのさら世態也

 「花よ紅葉よ」と来たからには定家の卿の歌で逃げることになる。
 さら世態は新世帯(さらせたい)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「新世帯」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「さらぜたい」とも) 新しく持った家庭。あらじょたい。しんしょたい。さらじょたい。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「見わたせば花よ紅葉よおたい櫃 浦のとまやのさら世態也」

とある。浦の苫屋の結婚式に転じる。