2022年5月31日火曜日

 そういえば昨日から旧暦では五月だった。五月雨の季節。
 かつてはある程度経済成長を遂げた国は民主化の方向に向かうとされていたが、今は至る所で民主化を達成した国がその後の経済の伸び悩みから、独裁帰りする事例が増えている。ロシアもその典型だし、トルコもその後に続こうとしている。大統領権限の強化という形で、徐々に議会を停止してゆくパターンもあれば、ミャンマーのようなクーデターで逆行するケースもある。
 経済が緩やかだが順調に成長していても、先進国のイノベーションの速度について行けなくて、相対的に経済が後退しているかのような錯覚を起こすのだろう。ただその「相対的貧困」に騙されてしまうと、そのうち絶対的貧困にまで後退してゆく危険がある。
 独裁帰りを防ぐには、先進技術を囲い込まずに解放する必要がある。これは企業の側の問題になる。
 一方では知的所有権の壁が技術転移を妨げ、もう一方では国家ぐるみで技術を盗み出そうとしている独裁国家がある。
 あと、フェアトレードを国家ではなく市場の方でルール化する必要があるのではないかと思う。新しい資本主義は国家の目標ではなく、市場主導で世界共通ルールにしてゆく必要がある。
 国ごとにルールが異なると、その国家の政策によって有利不利ができてしまい、政策を誤った国が独裁帰りする危険もある。
 知的所有権の問題は難しいが、根本的なルールの再編が必要なように思える。コロナワクチンでも知的所有権が壁になって、先進国でワクチンが余り、フロンティア諸国で不足する事態になった。
 経済成長は長距離走と一緒で、距離が長くなればなるほどトップとビリとの差が開いて行く。そこで前を走ってる奴を力づくで転ばしてやろうと、その発想が独裁を生み出す。そうなるまえに後ろを走っている選手にローラースケートを履かせることも考えなくてはならない。
 国家ではなく市場がそれを援助してゆく必要がある。将来のお得意さんや良きビジネスパートナーを育てることは、必ず利益になる。

 それでは「月に柄を」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   また献立のみなちがひけり
 灯台の油こぼして押かくし    傘下

 灯台は背の高い足のついた油を入れて火を灯す皿で、そこに燈芯を置いて火をつける。「灯台下暗し」というのは、この灯台の真下が皿の陰になって暗いという意味で、海の灯台のことではないというのは、トリビアとしてよく話題になる。
 まあ、うっかりこの灯台にぶつかったりすれば、当然油がこぼれる。それを掃除してたりしたら時間を取ってしまって、献立を変更することになった、ということか。
 二十六句目。

   灯台の油こぼして押かくし
 臼をおこせばきりぎりす飛    越人

 こぼした灯台の油の後始末に臼を動かせば、コオロギが飛び出してくる。
 二十七句目。

   臼をおこせばきりぎりす飛
 ふく風にゑのころぐさのふらふらと 越人

 エノコログサは猫じゃらしとも言う。猫ではなく、飛び出してきたのはコオロギだった。
 あるいは猫がじゃれついたのでコオロギがびっくりして飛び出したという、「猫」の「抜け」か。
 二十八句目。

   ふく風にゑのころぐさのふらふらと
 半はこはす築やまの秋      傘下

 庭の改修で築山を半分突き崩すと、そこに生えていたエノコログサが転がってふらふら揺れる。
 二十九句目。

   半はこはす築やまの秋
 むつむつと月みる顔の親に似て  傘下

 「むつむつ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「むつむつ」の解説」に、

 「① =むっつり(一)①
  ※俳諧・更科紀行(1688‐89)「六十許の道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが」
  ② =むっちり(一)①
  ※俳諧・類船集(1676)恵「少人のむつむつとこえたるにゑくほのあるはあいらし」

とある。①の方の意味になる。
 俳諧の祖の宗鑑の句に、

   切りたくもあり切りたくもなし
 さやかなる月をかくせる花の枝

というのがあったが、これもそのパターンで、築山が邪魔で月がよく見えないからというので半分壊してみたが、今度は庭が面白くない。
 まあ、それだけのネタに終わらせずに、二代揃ってこういう人だったという落ちを付ける。
 三十句目。

   むつむつと月みる顔の親に似て
 人の請にはたつこともなし    傘下

 請は「うけ」とルビがあり、かなり多義な言葉で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「受・請・承」の解説」に、

 「① 相手の動作や働きかけに反応を示すこと。
  (イ) 相手の要求、命令、申し出などを承諾すること。引き受けること。
  ※承応版狭衣物語(1069‐77頃か)一「え否むまじうて、忽ちのうけはせねど〈略〉など契りけるに」
  ※今昔(1120頃か)一六「云はむ事、請(うけ)有て聞け」
  (ロ) 競技、ゲーム、闘技などで、相手の攻撃を防御すること。また、する人。「攻めと受け」「受けにまわる」
  (ハ) 歌舞伎十八番の「暫(しばらく)」で、花道からのせりふを舞台の二重(にじゅう)にいて受けとる公家悪(くげあく)の敵役の通称。
  ※雑俳・柳多留‐二五(1794)「美しいうけで国からしばらくウ」
  (ニ) 能楽、または長唄の囃子(はやし)で、大鼓(おおつづみ)、小鼓、太鼓の打ち方の名称。受頭(うけがしら)、受三地(うけみつじ)、受走(うけばしり)など。
  (ホ) 旅芝居などで、町触れの太鼓が帰ってきたとき、小屋で待ち受けてたたく大太鼓の称。
  (ヘ) 注文をうけること。〔模範新語通語大辞典(1919)〕
  ② 世間の評判。おもわく。受け取られ方。
  (イ) 世間の評判。人望。特に演劇で観客の反響をいうことがある。
  ※浮世草子・当世芝居気質(1777)一「太夫は声にはよらぬ。見物のうけばっかりをあぢいれ」
  (ロ) 相手に与える感じと相手の反応。もてなし。待遇。あしらい。態度。
  ※浄瑠璃・躾方武士鑑(1772)八「浪人じゃと云と、強(きつ)い茶屋の受けが違ふて」
  (ハ) 相手の意向などの理解のしかた。さとりかた。
  ※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)初「土瓶をとって『これか』『アレサどふも請(ウケ)のわりい』『ヲットしゃうちだ』ト、そばにある燗徳利をとり」
  ③ 物を受け取ること。他人から、なにかを手に入れること。受け取り。
  ※碓井小三郎氏所蔵文書‐永仁三年(1295)五月三〇日・松王法師供米請取状「請 一切経御供米事。合玖斗者。右、去年八月分、法印信顕所レ請之状如レ件」
  ④ 物を受けたり支えたりするもの。
  (イ) 物を受け入れる設備。「新聞受け」「郵便受け」
  (ロ) 支えるもの。つっぱり。「棚の受け」
  (ハ) 立花(りっか)で、心(しん)、副などの枝に対して、低く横に出て全体の釣り合いをとる枝。うけえだ。
  ※立花秘伝抄(1688)四「往昔花を指初るに法式有、いはゆる心、正心、副、請、見越、流枝、前置、〈略〉是を七ツ枝と名付」
  ⑤ 相対すること。ある方向に面すること。また、面している部分。多く造語要素のように用いられる。
  (イ) 能の演技の型で、正面、または、ある方向に体を向けている者が、他の方向に向きを変えること。左受(ひだりうけ)、隅受(すみうけ)、脇正受(わきしょううけ)、脇座受(わきざうけ)など。
  (ロ) 建造物などで、ある方向に向いている部分。
  ※浄瑠璃・冥途の飛脚(1711頃)下「にしうけのたけれんじ、ほうぐしゃうじをほそめにあけて」
  ⑥ 代価を償って、一定の拘束をうけていた人や品物を引き取ること。
  ※歌舞伎・時桔梗出世請状(1808)二幕「殊の外質屋は忙がしうござりまする。〈略〉二朱一本の兜を持って来ましたが、これは受けになりますかえ」
  ⑦ 保証すること。特に、貸借関係や身もとの保証をすること。また、保証する人。保証人。うけにん。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑧ 請け負うこと。
  (イ) 中世、地頭、名主などが領主への年貢納入を請け負うこと。地頭請、守護請、地下請、百姓請などがある。
  (ロ) 江戸時代、新田の開墾をするときに、請け負ってその土地を借り受けること。村が借り受けるときは「何々村受」と称し、個人の場合は「何々受」とした。
  (ハ) =うけあい(請合)(一)②
  ※試みの岸(1969‐72)〈小川国夫〉「日当は元通りでいい、〈略〉一円五十銭でもいいな。請(ウ)けで行くんなら、四十三円と」

とある。
 多義の言葉は次の句での取り成しもあるので、一応全部掲げておく。ここでは『芭蕉七部集』の中村注にある通り、⑦の意味であろう。
 まあ、安易に人の保証人なんかになってはいけない。
 請人はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「鎌倉,室町時代の荘園において,地頭,荘官らが一定額の年貢納入を荘園領主に対して請負う場合 (→請所 ) ,請負う側のものを請人といった。また,中世,近世における保証人を請人と称した。中世における請人は,債務者の逃亡,死亡の場合に弁償の義務を負い,債務者の債務不履行の場合にも,請人に弁償させるためには保証文書にその旨を記載する必要があった。近世における請人は,人請,地請,店請,金請などの場合が主であったが,金請の場合中世とは異なり,債務者の債務不履行の場合当然に弁償の義務を負い,債務者の死失 (死亡) の際に請人に弁償させるためには債務証書にその旨を記載する必要があった。しかし,宝永1 (1704) 年以降,死失文言の有無にかかわらず,債務者死失のときも請人が弁償すべきものとされた。」

とある。この時代の請人は死失 (死亡) の際のことについての記載がなければ補償義務はなかった。ってことは、いざとなったら殺せばいいということか。
 また、延宝五年の「あら何共なや」の巻九十二句目に、

   走り込追手㒵なる波の月
 すは請人か芦の穂の声      信章

の句があるように、近代みたいな自力救済の禁止がなかったので、債務者を追っかけて締め上げるくらいのことはできた。
 二裏、三十一句目。

   人の請にはたつこともなし
 にぎはしく瓜や苴やを荷ひ込   傘下

 苴は「あさ」とルビがある。この場合は②の意味で「荷受け」であろう。自分の所の荷物だけをさっさと受け取って運び込む。
 三十二句目。

   にぎはしく瓜や苴やを荷ひ込
 干せる畳のころぶ町中      越人

 荷物を背負った人足が沢山通ると、一人くらいは干した畳にぶつかって倒して行くやつもいる。
 三十三句目。

   干せる畳のころぶ町中
 おろおろと小諸の宿の昼時分   傘下

 小諸宿は中山道の軽井沢の先の追分宿から北国街道に入った先にある。長野へと向かう途中になる。
 小諸と畳の縁はよくわからない。
 三十四句目。

   おろおろと小諸の宿の昼時分
 皆同音に申念仏         越人

 北国街道と言えば善光寺参りの人が多かったのだろう。善光寺には宗派がないので、どの宗派の人も集まってくる。念仏は共通の言葉か。
 三十五句目。

   皆同音に申念仏
 百万もくるひ所よ花の春     傘下

 謡曲『百万』は狂乱物で嵯峨の大念仏が舞台になる。

 「さん候この嵯峨の大念仏は、人の集まりにて候間、面白き事の数多御座候。中にもここに百万と申す女物狂の候が、われ等念仏を申せばもどかしいとあつて出でられ、おもしろう音頭を取り申され候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.42084-42093). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 旧暦三月に行われるもので、謡曲でも、

 「雲に流るる大堰河、まことに浮世の嵯峨なれや。盛り過ぎ行く山桜・嵐の風松の尾・小倉の里の夕霞、立ちこそ続け小忌の袖、かざしぞ多き花衣、貴賤群集する・この寺の法ぞ尊き。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.42276-42282). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と季節の描写が入っている。「盛り過ぎ行く山桜」で花の春となる。
 挙句。

   百万もくるひ所よ花の春
 田楽きれてさくら淋しき     越人

 嵯峨大念仏のような大きな法会には、田楽の店なども並ぶものなのだろう。それも人があまりに多くてどこも売り切れだと、花見もやや寂しい。

2022年5月30日月曜日

 今日は朝の散歩でホトトギスの声を聞いた。去年は生田緑地だったが、今年は何でこんな所にというような普通の住宅地の道だった。
 今日の人権派の行き過ぎは、主に白紙説に基づく過剰な表現の規制、サピア=ウォーフ仮説による言葉狩りという非科学的なものによるもので、LGBTについてもきちんと科学的に扱うなら、今の日本は人口の増加圧がほとんどないと言ってもいいので人権思想は十分機能する。ただし、移民を無制限に受け入れるようなことをして人口増加圧が生じれば、その限りでない。
 あと、肉親、恋人、親友など特別な人を優先するのは差別ではない。これも間違ってはいけない。差別は個別的な優遇ではなく、人種、性別、宗教などのカテゴリーによる優遇をいう。
 日本人は創造説に拘泥されないし、また創造説の権威と戦わなくても良いというメリットがある。欧米よりも科学的な人権思想を作ることが可能だ。

 それでは「月に柄を」の巻の続き。

 十三句目。

   月の夕に釣瓶縄うつ
 喰ふ柿も又くふかきも皆渋し   傘下

 貧乏くじを引く人は、柿もはずれてばかり。ただ、当時は甘柿は少なかったのかもしれない。干柿にして渋を抜いて食う方が多かったのだろう。
 明治の頃に正岡子規は、

 柿の実の渋きもありぬ柿の実の
     甘きもありぬ渋きぞうまき
              正岡子規

の歌を詠んでいる。
 十四句目。

   喰ふ柿も又くふかきも皆渋し
 秋のけしきの畑みる客      越人

 人里離れた所の草庵を尋ねてきた人か。畑をみながら、こんなところで渋柿を食って暮らしているのかと感慨にふける。

   源清雅、九月はかりにさまかへて
   山てらに侍りけるを、人のとひて侍りける
   返ことせよと申し侍りけれは、よみてつかはしける
 おもひやれならはぬ山にすみ染の
     袖につゆおく秋のけしきを
              源通清(千載集)

の心か。
 十五句目。

   秋のけしきの畑みる客
 わがままにいつか此世を背くべき 越人

 いつかは遁世しようと、その予定の場所を内見に行く。
 十六句目。

   わがままにいつか此世を背くべき
 寝ながら書か文字のゆがむ戸   傘下

 前句の「背く」を文字通り背を向けるとして、うつ伏せに寝そべって戸の下の方に文字を書く様とする。
 壁の下の方の「腰張」は、落書きなどよく物を書き付けたりしたのだろう。元禄二年の山中三吟九句目に、

    遊女四五人田舎わたらひ
 落書に恋しき君が名もありて   芭蕉

の句の初案は「こしはりに恋しき君が名もありて」だったという。
 腰張だけでは足りず、戸の下の方にも書き付けたか。  
 十七句目。

   寝ながら書か文字のゆがむ戸
 花の賀にこらへかねたる涙落つ  傘下

 花の賀というと『伊勢物語』第二十九段に、

 「むかし、春宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに、

 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども
     今日の今宵に似る時はなし」

とある。在原業平との恋を引き裂かれた高子の嘆きとされている。
 泣き伏せてこの歌を書いたということか。
 十八句目。

   花の賀にこらへかねたる涙落つ
 着ものの糊のこはき春かぜ    越人

 花の賀に出席するために、糊の利きすぎた着心地の悪い着物を着せられる。涙。
 二裏、十九句目。

   着ものの糊のこはき春かぜ
 うち群て浦の苫屋の塩干見よ   越人

 浦の苫屋というと、すっかりよれよれになった着物の流人や海女の袖を濡らすのが連想される。いつもパリッと糊を利かせた着物を着ているお偉いさんも、時にはそういう気分になってくれ、ということか。
 二十句目。

   うち群て浦の苫屋の塩干見よ
 内へはいりてなをほゆる犬    傘下

 野犬の群れに吠えたてられて、浦の苫屋に避難するが、そとでずっと吠え続けてなかなか立ち去らない。
 生類憐みの令で、当時野犬の増加が問題になっていたか。
 二十一句目。

   内へはいりてなをほゆる犬
 酔ざめの水の飲たき比なれや   傘下

 酔っ払って喉が渇いて、ちょっと水を飲もうと外に出ようとすると犬に吠えられる。
 二十二句目。

   酔ざめの水の飲たき比なれや
 ただしづかなる雨の降出し    越人

 水を飲みに行こうとしたら雨が降り出す。
 二十三句目。

   ただしづかなる雨の降出し
 歌あはせ独鈷鎌首まいらるる   越人

 独鈷鎌首はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「独鈷鎌首」の解説」に、

 「〘名〙 (六百番歌合のとき、僧顕昭が独鈷を手に持ち、僧寂蓮が首を鎌首のようにもたげて論争したのを、左大将藤原良経家の女房たちが「例の独鈷鎌首」とあだ名したというところから) 議論ずきの歌人をいう。
  ※井蛙抄(1362‐64頃)六「殿中の女房、例の独古かまくびと名付られけりと云々」

とある。
 後に蕪村は、

 独鈷鎌首水かけ論の蛙かな    蕪村

の句を詠んでいる。蛙を歌詠みとする発想は、一見貞門の発句かという感じがする。
 越人の句も、静かな雨夜に歌というと何となく蛙を連想させる。あと一歩で蕪村の発句を先取りできたかも。
 二十四句目。

   歌あはせ独鈷鎌首まいらるる
 また献立のみなちがひけり    傘下

 歌で議論しているのかと思ったら、歌会の席の献立の議論だった。
 今でも目玉焼きは醤油かソースかだとか、唐揚げにレモンを絞るかどうかだとか、酢豚にパイナップルは必要かどうかだとか、料理の事となると熱い議論が交わされる。

2022年5月29日日曜日

 世界の平和を維持するシステムを考える場合、まず国連がなぜ失敗したかから考えてゆく必要があるだろう。
 国連というシステムをどう手直しするかではなく、もっと根底からの問いが必要なように思える。
 基本的には国家と国家の争いを鎮めるには、すべての国家を包括する上位組織を作ればいいというのは、いかにも誰でも思いつきそうな発想だが、そこにまず落とし穴がないかを考える必要がある。
 先ず、近代社会の根底にある「万人の万人に対する戦い」という発想があり、これを調停するのは、それを制御する上位の組織、つまり国家を必要する、というのがあった。国連はその延長線上で、国家と国家もまた「すべての国家のすべての国家に対するリバイアサンの戦い」があるという前提に立ち、そこで上位組織として国連を作ったら?となったわけだ。
 まず、自然状態において、「万人の万人に対する戦い」は起きない。これ自体が近代哲学の最大の妄想だった。あるのはシンプルな生存競争だけだった。生存競争は子孫を残す戦いであり、その目的さえ達成できるなら必要以上に争うことはない。
 人間以外の多くの動物は順位制社会でそれを解消している。生存競争は有限な大地に無限の生命は不可能という単純な理由で、一定の定員を維持するための戦いだ。多くの生物は単純に「強い者に優先権がある」という所で生きている。
 互いの強弱を量るのに、相手を殺すまで戦う必要はない。戦ってみてどっちが優勢かが判明すれば、そこで戦いは終わる。これはしばしば「儀礼的闘争」と言われるくらい簡略化される。
 そして、一度優先順位がはっきりしたら、負けたものは生活に必要ななわばりを持つことができず、放浪の果てに野垂れ死にするだけだった。その多くは肉食獣の餌食となって行く。
 多くの動物はフィジカルな強さで大まかな順位が決まる。ただ、知能が発達するにつれ、強い相手でも二人がかりなら倒せることが分かり、仲間を作ることが生存競争の役に立つことが分かって来る。
 そして人類に至っては大勢でかかればどんな強い相手でも倒せることと、石器で寝込みを襲えば単独でも強い奴を倒せることを知ってしまう。そこから人類はフィジカルな強さを誇示する争いをやめ、より多くの仲間を作り、数で圧倒する戦略を取るようになった。人類の生存競争は多数派工作の戦いで、仲間外れになったものが淘汰されることとなった。
 人間はこの中で仲間への優しさを獲得すると同時に、仲間でない者に対しての残虐さも同時に獲得した。人類にとって普遍的に存在するのは、万人の万人に対する戦いではなく、仲間の中で誰を排除するかを廻る排除のための戦いだった。
 この排除が闇雲に行われないようにするには、ルールが必要だった。そこで生存権に序列を付ける厳格なルールが作られ、排除もまたルールに沿って厳格に行われることで、無用な争いを避けるようになった。このルールは神話に於いて、神や天の名に於いて絶対化されていった。
 ただ、それは合理的な根拠に基づくものではなく、あくまで任意に作りうるものであるため、様々な民族独自のルールが作られ、様々な宗教が作られることとなった。
 個人と個人の争いは同一ルール内での誰が真に排除されるべきかをめぐる掟の解釈の争いの範囲に留まる。だが、異なる民族同士の争いは共通の規範を欠いている。そのため、民族と民族の争いは殲滅戦になることも珍しいことではなかった。
 西洋近代が生み出した近代国家観は、こうした過去の掟の神秘的な支配を終わらせ、万人平等の名のもとに新たなルールを再編する中から生まれた。しかし、社会はこれまで通り多産多死の状態が続き、常に人口の増加圧にさらされている状態で人権の優先順位を撤廃したらどういうことになるか。そこで起きたのは飢餓か侵略かの究極の選択だった。
 事実西洋人は瞬く間に全世界を植民地化し、新大陸の先住民族を瞬く間に駆逐していった。
 「万人の万人に対する戦い」は平等な個人を前提とした一つの仮説であり、現実には生存権に優先順位を付けることで争いを回避してきた。この優先順位が乱れて無視され、秩序を逸した時に初めて「万人の万人に対する戦い」の状態が生じる。
 ただ、ヨーロッパ社会でもそんなに急に古い秩序が壊れたわけではなかった。特に同性愛者の排除などはかなり後まで残った。それに加えて侵略と植民地化の歴史は、人種差別を生み出していった。
 人類は皆平等なのに、なぜある種の人間は排除され殺されたり奴隷にされたりするのか。レイシズムはそこから生まれた。人類ではないから平等の範疇に入らない。それが答えだった。
 さて、西洋の近代社会は、一つの仮説としての「万人の万人に対する戦い」を回避するために、社会契約による国家という概念を作り出した。
 国連の理想もまた、諸国家を一種の法人格とみなし、放置すると「万国の万国に対する戦い」になるということで、社会契約において国家の上位組織を作るという発想だったと思う。仮説の上に仮説を重ねた形だ。カントの『恒久平和のために』も基本的にこの延長線上にあったと思う。
 ただ、民主主義国家ですら、平等な個人というのは一つの理想であり、相変わらず古い掟が残存し、差別や迫害が続く現実との間に大きなギャップがあった。
 国連もまたその誕生時点で、第二次世界大戦の戦勝国によって作り上げられた「連合国=国連」であり、常任理事国は戦勝国によって独占されている。いわば、第二次大戦終了時の序列がそのまま反映されている。
 あの時点ではまだ東西の勢力は伯仲し、均衡が保たれていた。それがやがて西側の資本主義諸国が高度成長を遂げ、東側の社会主義陣営が経済的に取り残されて行くこととなった。
 建前としての平等に対し、現実は大きな格差を持つ者が同じ国連に同居している。
 それに加えて、戦後かつての植民地の多くが独立してゆき、数の点では非西洋圏の国家が圧倒的に優位に立った。その多くは多産多死の状態から抜けられないまま、民主化がなかなか進まず、自ずと独裁国家群を形成することになった。
 国連内部はその理想に反して独裁国家群が大きな力を持っていながら、何とか本来の理想を維持できたのは、多国籍軍による軍事制裁という暴力装置が存在したからだ。これには先進諸国でもいろいろ批判はあったが、世界中にある独裁国家の侵略戦争を防ぐには必要なことだった。
 ロシアのウクライナ侵略は、多国籍軍の弱体化の隙をついて行われたといっていい。事実米軍もNATOも動かなかった。
 たとえこの戦争でロシアが勝利したとしても、むしろなまじっか勝利したならと言った方が良いが、ロシアはグローバル市場経済から取り残されたまま、経済格差は決定的なものになって行く。
 同じようにロシアに追随して侵略戦争を行う国が出てきたとしても、領土は広がったが生活は貧しくなるという状態になる。グローバル市場の恩恵を放棄して戦争を起こしたのだから、この帰結は当然のことだ。独裁国家が勝てば勝つほど、世界は貧しくなり、前近代の多産多死社会に逆戻りしてゆく。
 このシナリオには基本的に希望はない。人類の衰退以外の何ももたらさない。行き着く果ては猿の惑星だ。
 かつての人権思想が見切り発車して、地球レベルでの植民地争奪戦を引き起こしたように、国連もまた明らかに見切り発車だったことに気付くべきだろう。
 今できることはというと、まずグローバル市場経済をとにかく死守することだ。そのためには自由主義諸国だけで、市場経済を壊す恐れのある独裁国家を排除した状態で、集団防衛体制を作らなくてはならない。NATOは残念ながらトルコを何とかしないと、最後まで足を引っ張られる可能性がある。
 国連の再建は独裁国家群が十分に弱体化してから始めなくてはならない。そうでないと、国連再建案は結局悉く独裁国家群によって潰されることになる。
 旧社会主義者と独裁国家が手を組んでいる限り、豊かで平和な未来は見えない。ロシアはまさにその象徴だ。
 基本的に人権思想が少産少死の民主社会が達成された時には十分機能するように(昨今は過剰が問題だが)、国連も世界中がそうなったときには十分機能する。その時はおそらく核兵器禁止条約も機能すると思う。要するにみんな早すぎただけだ。条件が整わないうちに見切り発車しただけなので、今は再建よりも保留の方が良い。

 それでは「月に柄を」の巻の続き。

 第三。

   蚊のおるばかり夏の夜の疵
 とつくりを誰が置かへてころぶらん 傘下

 前句の疵を転んで怪我した疵とする。
 四句目。

   とつくりを誰が置かへてころぶらん
 おもひがけなきかぜふきのそら  傘下

 転んで仰向けに倒れれば思いがけず空が見える。
 五句目。

   おもひがけなきかぜふきのそら
 真木柱つかへおさへてよりかかり 越人

 「つかへ」は胸の詰まりで、風に吹かれて冷えて心臓発作を起こし、真木柱に寄りかかる。
 六句目。

   真木柱つかへおさへてよりかかり
 使の者に返事またする      越人

 これは『源氏物語』の蓬生巻であろう。大弐の奥方が蓬の生い茂る末摘花の家にやって来た時、門を開けようとすると、左右の戸が倒れて来る。前句を真木柱をつっかえ棒にして寄りかかって、倒れるのを防ぐ様とする。
 ここで末摘花を連れ出そうとするが、末摘花はそれを拒み、長年いっしょだった侍従だけを連れて行くが、その間誰かが門を抑えて待っていたのかもしれない。
 初裏、七句目。

   使の者に返事またする
 あれこれと猫の子を選るさまざまに 執筆

 使いの者は猫を引き取りに来たが、どの猫をしようか迷う。
 黄庭堅の「乞猫」という詩に、

 秋來鼠輩欺猫死 窺翁翻盆攪夜眠
 聞道狸奴將數子 買魚穿柳聘銜蟬

 秋が来て鼠たちが猫が死んでこれ幸いと、
 甕を窺いお盆をひっくり返し夜の眠りを攪乱す。
 聞く所によると狸の奴に子どもが数匹いるというので、
 魚を買い柳の枝に差して銜蟬を召喚す。

とある。
 「銜蟬」は伝説の猫で鼠捕りの名人だったという。それを選び出すのに手こずっているのか。
 八句目。

   あれこれと猫の子を選るさまざまに
 としたくるまであほう也けり   傘下

 「としたくる」は年齢を重ねるという意味で、年をとってもアホやねん、ということ。この年になって猫を真剣に選んでいて、何やってるんだというところか。
 九句目。

   としたくるまであほう也けり
 どこでやら手の筋見せて物思ひ  傘下

 手の筋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手の筋」の解説」に、

 「① 手の皮膚を通して見える血脈。あおすじ。
  ② てのひらについているすじ。てのひらにあらわれた紋理。手相。てすじ。てのあや。
  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第九「千貫目親のつたはり穐の月〈西道〉 よい事計手の筋の蔦〈西伝〉」
  ③ ②を見て、運勢吉凶を判断する人。手相見。また転じて、相手の身の上についてうまく言いあてること。
  ※歌舞伎・勧善懲悪覗機関(村井長庵)(1862)序幕「とてもの事に手の筋と言ひたい程に当てられたが」
  ④ 文字の書きざま。また、文字を書く巧拙の性分(しょうぶん)。
  ※蜻蛉(974頃)下「陸奥紙にてひき結びたる文の〈略〉みれば、心つきなき人のてのすぢにいとようにたり」

とある。①の意味で、自分の手を見ながら年取ったなと物思いに耽る。相変わらず恋に苦労してアホやな、というところか。
 十句目。

   どこでやら手の筋見せて物思ひ
 まみおもたげに泣はらすかほ   越人

 泣きはらして目の周りが腫れたから、瞼(まみ)が重たく感じる。前句の「物思ひ」を受けて、その様を付ける。
 十一句目。

   まみおもたげに泣はらすかほ
 大勢の人に法華をこなされて   越人

 「こなす」はいろいろな意味があるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「熟」の解説」の、

 「[二] 上位に立って他を思いのままに扱う。
  ① 思いのままに自由に扱う。与えられた仕事、問題をうまく処理する。
  ※説経節・さんせう太夫(与七郎正本)(1640頃)上「きをば一ぽんきりたるが、こなすほうをしらずして、もとをもっておひきあれば」
  ※人情本・春色辰巳園(1833‐35)初「色の世界のならひとて、〈略〉男をこなす取まはし」
  ② 思うままに処分する。片づける。征服する。
  ※両足院本山谷抄(1500頃)一「艸枯時分に夷をこないてくれうと思ぞ」
  ③ 見くだす。軽蔑する。軽く扱う。
  ※土井本周易抄(1477)一「上なる物は負くるもやすいぞ。下なる者は一度あやまりしたれば、取てかへされぬぞ。こなさるる程にぞ」
  ※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)三「元主人の娘のおめへを、あんまりこなした仕打だから」
  ④ いじめる。ひどい目にあわせる。苦しめる。〔観智院本名義抄(1241)〕
  ※虎明本狂言・右近左近(室町末‐近世初)「おのれはなぜにさんざんに身共をこなすぞ」

の意味であろう。「けなされて」に近いか。
 どういう状況なのかよくわからないが法難のことか。
 十二句目。

   大勢の人に法華をこなされて
 月の夕に釣瓶縄うつ       傘下

 人が月見で浮かれている時に、井戸の釣瓶の縄を打たされている。これもいじめか。

2022年5月28日土曜日

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 ウイグルのことが今の状況だとどうしてもウクライナの陰に隠れてしまうけど、虐殺が続いていることには変わりない。
 ウクライナと違うのは、対戦車ミサイルを持って抵抗することすらできずに、やられっぱなしになっているということだ。
 中国に対抗できる軍隊もない。武器の支援を受けているわけでもない。でも、これが国際社会でまかり通るんだという前例を作ってしまえば、こうしたことはやがて世界中で起こるかもしれない。
 今のところ中国の動きは香港・台湾・それと小さな島以外で国境を越える動きはなく、逆に国境を越えて来ないから他所の国も手出しがしにくい状態にある。「内政干渉」という概念に守られてしまっている。
 北朝鮮のロケットマンも相変わらずだし、こうした国々に囲まれた日本の平和もすっかり黒い雲に覆われてしまっている。
 こうした中で今の平和な暮らしや子供たちの命を守っていかなくてはいけないと思ってはみても、ただひたすら平和を祈るだけという選択肢はもうないと言って良い。 少なくとも抵抗できるだけの力を持つべきなのか、無抵抗で外からの愛する人や子供たちが殺されていくのを黙って見ているべきなのか、我々は選ばなくてはいけない。
 世界平和の夢を再構築するには、独裁国家の暴走を止める実効性のある手段を持たなくてはならないが、今の状態では経済制裁も市民運動もあまりに無力だ。
 経済制裁は長期戦になれば戦費を枯渇させる効果はあるかもしれないが、初動のさいの抑止力にはならない。武力を伴わない丸腰の市民運動は、それぞれの国の政府の対応に影響を与えることはできても侵略国家の抑止力にはならない。
 概ね反戦運動は、参戦や武器供与に反対するもので、むしろ侵略国家を助けることになる。
 理想を言えば、それに代わる実行力のある方法を考えなければいけないのだが、いつになるかわからないので、緊急事態には間に合わない。
 特効薬の開発と対症療法とは別物で、それらは並行してやっていかなくてはならない。その二つの並立は矛盾するものではないので、あれかこれかの二者択一ではない。まして争うべき事案ではない。
 いずれにせよ、世界平和を願うなら、ウクライナ侵略とウイグルホロコーストを容認するな。これだけは言っておきたい。

 さて、そろそろ平常運転に戻るということで、『阿羅野』から、「月に柄を」の巻を読んでいこうと思う。
 俳諧や連歌の全句解説や、何々を「読む」のシリーズは、基本的には有料化せずに、鈴呂屋書庫の無料コンテンツに留めておこうと思う。
 さて、発句には前書きが付いている。

   月さしのぼる気色は、昼の暑さもなくなる
   おもしろさに、柄をさしたらばよき団(うちは)と、
   宗鑑法師の句をずむじ出すに、夏の夜の疵
   といふ、なを其跡もやまずつづきぬ
 月に柄をさしたらばよき団哉

 この句は俳諧の祖と言われる山崎宗鑑の句で、

 月かげの重なる山に入りぬれば
     今はたとへし扇をぞおもふ
              藤原基俊(新千載集)

 よそへつる扇の風やかよふらん
     涼しくすめる山のはの月
              洞院実雄(宝治百首)

など、しばしば夏の月が扇の風の涼しさに喩えられてきたのを受けてのもので、『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注は、

 夏の夜は光涼しく澄む月を
     我が物顔にうちわとぞ見る
              高松院右衛門祐(夫木抄)

の歌を引いている。
 山の端の月は山の谷の所に月がかかれば扇の形になるが、団扇ならそのまま中空の丸い形になる。
 その意味では題材として新しいものではなかったが、ただ比喩として喩えるのではなく、「柄をさしたらば」という所に俳諧がある。
 このことは『去来抄』修行教にも、

 「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一の物数寄なき句也。一時の物数寄なきゆへに古今に叶へり。譬ば、
 月に柄をさしたらばよき団哉   宗鑑」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とあり、「月を団扇に見立たるも物ずきならずや」という魯町の問いに「賦比興は俳諧のみに限らず、吟詠の自然也」と答えている。見立ては詩歌連俳の常で、それ自体が物数寄ではないと答えているが、月を団扇に見立てること自体も別に新しいことではなかった。
 「夏の夜の疵」というのは、

 夏の月蚊を疵にして五百両    其角

の句がある。この句は『五元集拾遺』にある句で、いつの句かはわからない。
 付け句がヒントになって発句が作られることは珍しいことではないので、多分次の越人の脇の方が先であろう。
 貞享四年の「ためつけて」の巻二十一句目に、

   釣瓶なければ水にとぎれて
 夕顔の軒にとり付久しさよ    越人

の句があるが、これなども、

 朝顔につるべとられてもらひ水  千代女

に先行する句となっている。
 その脇だが、

   月に柄をさしたらばよき団哉
 蚊のおるばかり夏の夜の疵    越人

 「春宵一刻値千金」を踏まえての「五百両」という発想に至らなかった分、損しているが、越人にはこういう「あと少し」の句が結構ある。

2022年5月27日金曜日

 ロシアはルハンシク州を死守する方針に切り替えたが。ここだけでも領土にできれば勝利だとして、戦果をアピールするつもりなんだろうな。逆に言えば、それだけは許してはいけないということだ。
 またロシアの宣伝やマス護美の印象操作で、ルハンシク州割譲で妥協せよみたいな降伏論が盛んになりそうだな。それを許すと、近いうちに北海道割譲論が出て来る。今が頑張りどころだ。ルハンシクすらも無理となったらロシア軍のお偉い方もさすがに心が折れる。(ルガンスクはロシア語なので用いないように。)
 領土の割譲というのは、相手国だけでなく、そこの住人との間に長年に渡って遺恨を残すことになる。実際、ロシアが攻めてきて、北海道の割譲で手を打てと言われたら、北海道に住んでいる人はどう思うか考えてみればいい。
 沖縄は割譲したわけではなくても、戦後長いことアメリカに占領されていて、やはり多くの遺恨を残している。
 それと、左翼連中は完全にウクライナから目をそらそうとしているな。AV禁止法はAV女優が賤業だという偏見によるもので、これは差別の問題であり人権問題だ。
 何が人間の尊厳かは他人がとやかく言うものではなく、それぞれ自分が決めるものだ。自分が決めた尊厳が脅かされたなら、それは人権侵害だ。マドンナさんも過去がスクープされた時に、胸を張って恥じるようなことは何もやってないって言った。
 本番AVというのは、もともと日本にはなかったもので、日活ロマンポルノもすべて演技だった。
 故武智鉄二監督が一九八一年に『白日夢』という映画を作った時に、「本番」ということで随分と話題になって、筆者もスケベ心で見に行ったけど、大したストーリーもなく、前半はほとんど今でいうAV(それもNTRもの)で、後半はよくわからないイメージ映像。どこに谷崎潤一郎がいたのやら。
 まあ、前半の本番AVがメインで、後半はそれを芸術っぽく偽装したというのが一番納得がいく。
 まあ、そうは言っても本番第二弾の『花魁』も見に行ったけどね。
 村西とおる監督が登場して世にAVブームが起きたのはその三年後になる。この頃日本でもようやく「本番」が定着した。
 あの頃は結構左翼の人が猥褻裁判に係わったりして、ポルノ解禁を主張していたのに、時代は変わったものだ。まあ、ポルノがサブカル(革命の方便なら低俗な作品も許されるという主張)の意義を失ったというのもあるのかな。使えない道具は切り捨てる、というところか。
 まあ、選挙でウクライナ問題や国家の防衛問題が争点になったら勝ち目がないと、自分たちもよくわかってるんだろうな。でも、これは男性票を失うし、女性だってそんなに馬鹿ではない。
 まあとにかく、日本も平和の夢にどっぷりつかってられる時代は終わった。いつ火の粉が降りかかってくるかわからない。この国の平和を守るために必要なのが火の粉に備えることなのか、それとも火の粉が飛んできても何があっても、ただ過去の罪の報いとじっと耐えて、滅びの日を待つことなのか、大きな選択に立たされている。

2022年5月26日木曜日

  侵略戦争に一つでもやったもん勝ちの前例を作ってしまったら、必ず真似する国が出てくる。世界はふたたび戦乱の時代となり、戦争が日常化する。ウクライナ戦争で領土の妥協は絶対にしてはならない。世界の国が力を合わせて取り戻す必要がある。


 「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─惨」をKindle ダイレクト・パブリッシングの方にアップしたのでよろしく。
 いざ原稿を手直ししようとすると、こんなに入力ミスが多かったのかと、改めて恥ずかしくなる。次の明石から関屋までは訳し終わっているので、ここで一区切りとして、この俳話も平常運転に戻そうかと思う。
 源氏の文章は誰の台詞かわかりにくいので、ちょっと大袈裟にキャラを作って、癖をつけてみている。

 多産多死社会での掟は任意なもので、文化が違えば掟も違う。ただ、日本にも確かに乱世と下克上の時代があったとはいえ、西洋にくらべれば平和だったのは、同性愛を完全には排除しなかったということも大きいのではないかと思う。
 同性愛は勿論異性愛と同等に扱われることはない。ただ、武家やお寺での衆道は黙認され、江戸時代初期には女歌舞伎と同様、売春を伴う衆道歌舞伎も存在していた。これはやがて禁止されることになったが、日本には同性愛そのものが死に値する犯罪だという考え方はなかった。
 同性愛条項は多産多死社会特有の、生存権に順位を付ける中から生じるもので、西洋では真っ先に剥奪されるべきものだったのに対し、日本ではむしろ人口調節に利用されたといってもいい。
 日本では、家督を継げない者がお寺に預けられることは普通の事だったが、このお寺で同性愛が容認されることで、破戒僧が幼女を誘拐するようなことを防ぐことができたのではないかと思う。
 幼女は別にそういう趣味とは関係なく、人口学的に意味があった。人口を抑制するのに最も効果的なのは処女を間引くことだったから、処女をいけにえに捧げる文化は世界中至る所に存在していた。
 単純な理由で、男は一人で無数の女を孕ませることができるから、男の数を減らしても人口の抑制にはならない。女を減らせば、それだけ生まれる子供の数を減らせる。それが男尊女卑の起源だということは人類学者のコリン・ターンブルが指摘していた。
 既に出産を終えた女性を間引いても意味がないので、間引かれるのは出産経験のない女性ということになる。前近代では十五で結婚というのがどこの国でも普通だったので、間引くのはそれより前ということになる。
  チベットでも修行のためと称して少女との性交を行っていた。オウム真理教の浅原彰晃がそれを真似たことは有名だ。
 『源氏物語』でも源氏の君が美少年に興味を抱いたり、兵部卿宮がそれっぽいことを考えてたりするあたりも、同性愛的な感情にそれほどタブーはなかったことが窺われる。特に女子の妄想の中では、今のBLとそれほど変わらないといっても良いのではないかと思う。その兵部卿宮が誘拐された娘に無関心だったのは、コリンターンブルの説から説明がつく。
 源氏の君の場合、女の子は入内させて皇子を生ませようだとか、勿体ないから自分で食べちゃおうだとか、かなりよこしまではあるものの、結果的にはそれが女の子を大切に扱うことになる。
 また浮気心から来る一夫多妻のハーレム生活も、一方では後ろ盾を失って困窮する女性の救済になっている。蓬生巻はそうした文脈で読むべきなのだろう。結果的によこしまな浮気心であっても、それが女性の救済になっている。このパラドックスが『源氏物語』が多くの女房の心を捉えたのではなかったか。
 しょうもない男だけど、それでみんなうまく不思議と平和に収まって行く。その鍵となっているのは、単に欲望だけで動いているのではなく、源氏が相手をするのはみな風流を解するもので、女の美醜に係わらず、その人の持っている才能に並々ならぬ好奇心を持っているという所だ。
 和歌も無駄に詠んでいるのではなく、相手の才能をうかがう試金石の意味もある。即興で、如何に機知にとんだ受け答えができるか、姿かたちの美醜よりもそちらに重点が置かれていた。書や楽器の才能も勿論のことだった。まあ、大体あの時代は滅多に顔を見れない世界だったし、大事なのはそっちの方だった。
 文学は架空の世界を舞台にしたものであればなおさら、その世界観の理解が欠かせないように、古典文学を読むというのもまた、その時代の世界観やルールと切り離すことはできない。いたずらに今の感覚で光源氏は怪しからんということもできないのが古典の世界だ。
 明記されてない裏設定、つまりその時代の暗黙の了解事項を読み解くというのも、古典の楽しみの一つだ。

2022年5月25日水曜日

 選挙が近づくと相変わらず投票率が上がらないなんて、メディアがわあわあ言っているけど、こうした連中は「選挙に行こう」と言いながら、特定勢力に投票するように誘導しているのが見え見えだから、全然信用されてないんだと思う。
 女性候補者が少ないといいながら、こういう連中は保守系の女性政治家を集中攻撃したがる。高市さんがその良い例だ。まあ、女同士で足を引っ張り合ってるってところもあるかな。女性の敵は女性。これは永遠の真理なのかもしれない。
 隣の国があんなことを始めちゃったから、今の日本も平和だなんて言ってられなくなった。今は平和そのものでも、いつウクライナみたいにならないとも限らない。今度の選挙はその意味では水面下で密かに盛り上がってくれるといいと思う。
 大声を上げると、奴らは必ず叩きに来るからね。選挙に関心ないふりをしながら、あとでショックを与えてやろう。
 芭蕉自筆の「野ざらし紀行」図巻の発見というニュースが昨日の昼頃のラジオで流れて、「えっ?」っと思ったが、その後ネットのニュースを読んで、なるほど「半世紀ぶり」というのはそういうことだったのかと納得した。
 この画巻は『甲子吟行画巻』と同じもので、筆者は『芭蕉の書と画』(岡田利兵衛、一九九七、八木書店)と『図説日本の古典14 芭蕉・蕪村』(一九七八、集英社)で知ってて、後者はその画巻全部が掲載されている。解説文は岡田利兵衛さんが書いている。
 『芭蕉の書と画』には、

 「昭和十七年十月の「芭蕉翁生誕三百年記念展覧会」に出品された。爾來終戦後、杳としてゆくえがわからなくなった。ところが昭和四十一年に突如として発見され、本書(「別冊太陽」No.16)に掲載することができたのである。」(p.60~61)

とあるだけだったから、てっきりその後もどこかにあるものだと思っていたが、また行方不明になっていたというのを初めて知った次第だった。
 昭和四十一年は一九六六年。確かにそれから半世紀たっている。ニュースには「1970年代半ばから半世紀近く所在が確認できていなかった」とあるから、再発見されてからまた十年も経たずに行方不明になっていたようだ。
 まあ、この画巻も芭蕉さんの魂が乗り移ったかのように、放浪癖があるのだろう。

 マルクス主義者がマルサスの『人口論』を軽視してきたのは、ひとえに「ブルジョワイデオロギー」だという理由からだった。
 確かに生存権に優先順位を付けると、どこの国でも上流階級を優先させる。だから、人口論は階級の理論だ、ということになった。
 ただ、階級をなくしても人口問題は解決しない。多産多死の国で革命が起きると、中国でも北朝鮮でもカンボジアでも、大規模な粛清が行われた。彼らは生存権の優先順位を経済から思想に切り替えただけだった。
 厳密に言えばこの時の勝者は思想的に優れたわけでも何でもない。密告と讒言のゲームの勝者にすぎなかった。ただ、やられる前にやれというだけの単純なゲームだった。このゲームなら、ただかつての盟友であっても冷酷になれる人間だけが勝つ。情にほだされて躊躇したら負ける。
 かつての共産圏の多くの国が多産多死から脱却する前に、飢餓と粛清によって行き詰っていった。なのに冷戦後の左翼はこのことを反省するどころか、全部アメリカのせいにしてきた。
 この時植え付けられた反米感情が、今のロシアを突き動かしているのは間違いない。そして、他の国のマルクス主義者も、ロシヤや中国の侵略に表向き反戦平和を口にしていても、心の中では頑張れと言っている。
 それだけではない。フロンティアの余剰人口を先進国が受け入れるのが当然のように主張し、先進国の経済を破壊しようとしている。
 この地球のもたらす生産力は有限であり、それを越えて人口が増えれば何らかの形で命の選別を行わざるを得なくなる。その選別が一部の経済的に成功した国に押し付けられてしまうと、二つのどちらかが必要になる。
 一つは経済を犠牲にして他国の余剰人口に富を配分すること。もう一つの道は移民に対して元からいる国民の生存を優先させること。つまり、定員オーバーの船に全員乗っけて共に沈むか、泣く泣くも後から来た人を船から降ろすか、という選択になる。
 多分この問題は時が解決する。フロンティアがそこそこ経済的な発展を遂げれば、必ず少子化が起る。その時まで我慢できれば逃げ切れる。
 ただ、フロンティアの独裁者はそれを歓迎しない。なぜなら、命の選択権、いわば生殺与奪権を握ることで彼らは独裁者でいられるだけだからだ。それを手放したら、独裁者は駆逐され、民主化されることになる。
 中国がなぜ経済を犠牲してまでゼロコロナにこだわるかも、そこに理由があるのではないかと思う。コロナを武器に、中国共産党が国民の生殺与奪権を握っていることを示す必要があるからだ。
 経済が発展し、少子化が定着した国から順次民主化し、独裁を終わらせるというのが一つの理想になる。ロシアと中国はそのタイミングを逃した。それが今の世界の危機の原因となっている。
 独裁は中国の経済の足かせとなり、この国は天安門の亡霊に呪われ続けることになる。ロシアは戦後処理を誤れば巨大な北朝鮮となり、飢餓と粛清の大地に逆行する危険がある。
 問題をややこしくしている原因の一つは、先進国に住む我々がすっかり少産少死の常識に慣れてしまい、多産多死がどういう時代だったか、若い世代には再現することが困難になっているからではないかと思う。
 古い時代を記憶を受け継ぐためにも、文学の果たす役割は大きと思う。古典を現代化するのではなく、古い時代の記憶を今に伝えるという機能を重視しなくてはない。俳諧も源氏物語も「現代的に」改釈するのではなく、当時を再現することに心血を注いでいきたい。こやん源氏(超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─)は基本的には『湖月抄』に戻れ、という所で訳している。
 言葉は新しく、心は古く、基本です。

2022年5月24日火曜日

 今日の散歩で、カルガモの子を見た。まだムクドリくらいに小さいけど水の上を走り回っていた。今年も子連れのカルガモが見られる季節になった。

 ちょっとまとめてみると、前近代社会というのは基本的に多産多死で、常に人口増加の圧力にさらされ、その土地の生産力に対して定員オーバーになる。
 そのため、生まれてくる子供たちに生き残れる優先順位を明確な「掟」とする傾向が生じる。
 この掟が破られると、生き残りをかけて親子兄弟とはいえ熾烈な生存競争が生じる。
 そのため、この掟はどんな不条理なものであっても神や天の名において絶対化される傾向にある。
 社会の定員が限られているなら、生存権に優先順位を付けなくてはならない。この順位が混乱すれば世の中は乱れ、下克上の乱世の時代になる。これは日本に限らず、前近代社会の共通認識と言って良いだろう。
 (現代社会はこれとは逆に、少産少死であるために人口増加の圧力から解放され、むしろ「少子化問題」という定員割れが問題になる。
 そのため生まれてくる子供たちが皆平等に生きる権利があることを疑う者もいない。すべての社会ルールは万人平等を原則として形成される。
 ただ、近代化の過渡期においては、多産多死のまま万人平等の意識が目覚めたため、人口の爆発を止める手立てがなく、それが地球規模での植民地争奪戦を生み、二度の世界大戦となった。)
 さて、そういう時代の中で『源氏物語』の源氏の君は一体何だったのか。
 皇室は確実に御世継をもうけ、皇統を継続させなくてはならない。
 そのため一夫多妻が容認される。
 そのため、今日の皇室のような皇子の不足で悩むことはなく、逆に悩みの種になるのは皇子の過剰だった。
 そのため、皇位継承権を剥奪し、臣下に降格させるシステムが存在し、それによって臣下に下り「源」の姓を賜る、それが「源氏」だった。皇族に姓はなく、姓を持つ者は臣下だった。
 通常の臣下であれば、たとえ最大勢力の藤原氏であっても、天皇の義父にしかなれない。しかし、臣下であっても入内した女御更衣に密かに子を産ませれば、天皇の実の父になれる可能性が生じる。これこそが皇室の最大のタブーだったと見ていいだろう。
 これはいわば最大のスキャンダルであり、下克上になる。
 多分『源氏物語』が世に出た時に誰もが思い描いたのは、清和天皇の女御の藤原高子に手を出した在原業平だったはずだ。在原業平の恋は悲劇に終わり、その噂は『伊勢物語』に残されることとなった。
 多産多死社会の掟の中心は定員オーバーの中で誰が優先的に生き残るべきかという所にある。このことは同時に、誰が子孫を残す権利を持つかということでもある。その優先順位が乱されれば下克上が起る。
 たかが恋の問題とはいえ、されど恋。本当は生まれてきた子供たちがすべて幸福に生きられるならそれに越したことはないし、誰もが好きになった人と結ばれるならそれにこしたことはない。それを阻む壁はひとえに人口問題にあった。
 自由に恋をしたい。でもそれが生存権の優先順位を混乱させ、親子兄弟の血みどろの争いに発展しかねない。貴族だけでなくあらゆる階層でそういう葛藤があったのではないかと思う。
 さすがに弱小家系の下克上は無理があった。そこで天皇の子でありながら臣下である「源氏」という特別な存在がそれをやったらどうなるのか、そのシミュレーションが、その思考実験が『源氏物語』だったのではないかと思う。
 源氏の場合、元は王家なので、冷泉帝が即位しても桐壺帝ー源氏の君ー冷泉帝と皇族の父系は繋がっている。基本的に皇統を揺るがすことにはならない。ただ、臣下の不倫によって、臣下の分際で天皇の実の父となったということは、明らかにイレギュラーでスキャンダルになる。
 この源氏の微妙な立ち位置が、この物語を面白くしていると言って良いだろう。
 万世一系の天皇制のもとでは、不倫によって天皇の父となる可能性というのが常に大きなテーマとなっていた。
 古くは道鏡事件。そして、この後に起きる西行法師の出家もまた皇族の女との恋が噂されている。今の眞子様と小室家もその延長なのかもしれない。
 多分イギリスの薔薇戦争を廻るシェークスピアの戯曲も、自由な恋愛が国を乱して血みどろの争いに発展するというテーマで読み解けるのではないかと思う。
 逆に『源氏物語』はそうならない、あまりにも平和的に解決される物語なので、それがドナルド=キーンさんを引き付けたのかもしれない。

2022年5月23日月曜日

 日本の今の円安は、日本には安い労働力があるということだから、日本に工場を引き戻し、物作りを復活させるチャンスなのではないかと思う。
 特に半導体の安全保障という点で、半導体の脱中国が求められている。日本の半導体復活のチャンスになる。ドローンやソーラーパネルなども、安全保障という面では脱中国化した方が良い。ついこのあいだマスクでも懲りたではないか。
 コロナが始まった頃、不織布マスクの生産を中国に依存してたから、それが入ってこなくなってマスク不足が生じて、慌ててベトナムやミャンマーでガーゼマスクを作らせて、国で配布することになった。それを忘れたか。
 あのアベノマスクが、医療従事者に優先的に不織布マスクを回すために必要な措置だったということも、今では忘れ去られている。
 災い転じて福となす。ピンチは同時にチャンスでもある。それを利用することは不謹慎なことではない。震災は防災を見直すチャンスだし、戦争は防衛を見直すチャンスになる。恥じることではない。
 昨日の続きだが、結局独裁というのは、いろいろな意見の人がいて煩わしい複雑な人間関係の調整から逃げたい、という欲求から生まれるのかもしれない。だが、それは異なる意見の抹殺にすぎない。人間関係の複雑さは逃れなれないものとして、腹をくくって向き合っていかなくてはならない。それが人間だ。
 逃れたいなら昔から「引き籠る」というのが一つの答えだった。仏教は引き籠りに積極的な名目を与えてきた。引き籠りが恥ずかしいことではなく、世俗を断つことが敬意を持って受け入れられる社会なら、彼らがネット上で独裁者のようにふるまうこともなくなるのではないか。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き、挙句まで。

 名残裏、九十三句目。

   弓手に高札め手に落書
 下馬先に御かご童僕みちみちたり 志計

 童僕はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「童僕・僮僕」の解説」に、

 「〘名〙 少年の召使い。男の子のしもべ。
  ※凌雲集(814)伏枕吟〈桑原公宮〉「池台漸毀、僮僕光離」
  ※方丈記(1212)「妻子・童僕の羨めるさまを見るにも」 〔易経‐旅卦〕」

とある。
 宿場の風景で、駕籠が着くと子供たちがそこいらに落書きしたりする。
 そんな沢山の童僕を引き連れた人って、やはりその趣味なのかな。
 九十四句目。

   下馬先に御かご童僕みちみちたり
 遠所の社花の最中        松意

 辺境の田舎の神社では籠が珍しいのか、子供たちが寄って来る。
 九十五句目。

   遠所の社花の最中
 ゆふしでやあらしも白し米桜   正友

 米桜はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「米桜」の解説」に、

 「〘名〙 植物「しじみばな(蜆花)」の異名。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)四「花散らばいかにしゃう野の米桜」

とあり、蜆花は「精選版 日本国語大辞典「蜆花」の解説」に、

 「〘名〙 バラ科の落葉低木。中国原産で、観賞用に栽植され、生垣などにする。高さ一~二メートル。枝は叢(そう)生し若枝には綿毛状の毛がある。葉は長さ三センチメートルぐらいの楕円形で縁に細かい鋸歯(きょし)がある。春、葉に先だって多数の八重咲きの白色花が小球状に密生して咲く。八重咲きの白花を蜆貝の内臓に見たててこの名がある。漢名、笑靨花。〔和漢三才図会(1712)〕」

とある。ユキヤナギに似ているが八重咲。神社に咲いていると木綿四手が下がっているようでもある。風に散ると嵐も白い。
 九十六句目。

   ゆふしでやあらしも白し米桜
 雀は巣をぞかけ奉る       雪柴

 木綿四手の垂れている神聖な場所だから、雀も巣をかける時は心しなくてはいけない。
 九十七句目。

   雀は巣をぞかけ奉る
 やぶれては紙くずとなる歌枕   一鉄

 歌枕で「やぶれる」というと、

 人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風
              藤原良経(新古今集)

だろう。不破(やぶれず)と書く不破の関も破れて荒れ果てている。廂(ひさし)の「抜け」と見ていいだろう。雀が破れた庇に巣を掛ける。
 不破というの後に芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で訪れた時、

 秋風や薮も畠も不破の関     芭蕉

の句を詠んでいる。
 九十八句目。

   やぶれては紙くずとなる歌枕
 ねり土にさへ伝授ありとや    松臼

 ねり土はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「練土・煉土」の解説」に、

 「〘名〙 粘土に石灰、小砂などを混ぜ合わせたもの。建物の外壁などに用いる。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「やぶれては紙くずとなる歌枕〈一鉄〉 ねり土にさへ伝受ありとや〈松臼〉」

とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「紙屑などを混ぜて練り合わせる」とあるように、和歌を書き付けた紙も反故になれば紙屑でねり土にされてゆく。
 歌枕に古今伝授などがあるように、それが反故になっても何かの伝授があるのか、とする。
 九十九句目。

   ねり土にさへ伝授ありとや
 見ひらくやさとりの眼大仏    卜尺

 「眼大仏」はここでは「まなこ、おおぼとけ」と読む。
 悟りを開いた大仏様は目を開いて、練土までも伝授するって、まさかね。
 挙句。

   見ひらくやさとりの眼大仏
 三千世界芝の海づら       一朝

 三千世界はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「三千世界」の解説」に、

 「仏教の世界観による全宇宙のこと。三千大千世界の略。われわれの住む所は須弥山(しゅみせん)を中心とし、その周りに四大州があり、さらにその周りに九山八海があるとされ、これを一つの小世界という。小世界は、下は風輪から、上は色(しき)界の初禅天(しょぜんてん)(六欲天の上にある四禅天のひとつ)まで、左右の大きさは鉄囲山(てっちせん)の囲む範囲である。この一小世界を1000集めたのが一つの小千世界であり、この小千世界を1000集めたのが一つの中千世界であり、この中千世界を1000集めたのが一つの大千世界である。その広さ、生成、破壊はすべて第四禅天に同じである。この大千世界は、小・中・大の3種の千世界からできているので三千世界とよばれるのである。先の説明でわかるように、3000の世界の意ではなく、1000の3乗(1000×1000×1000)、すなわち10億の世界を意味する。[高橋 壯]
 『定方晟著『須弥山と極楽』(1973・講談社)』」

とある。日常的には、普通に広いこの世界くらいの意味で用いられる。
 芝というと芝の増上寺が思い浮かぶが、増上寺に大仏はない。
 ただ、延宝元年に鋳造された高さ3.3メートルの大きな梵鐘があることから、当時話題になっていて、これを大仏(おおぼとけ)に見立てたのかもしれない。
 大仏様の目は芝の東京湾を見渡し、釈教をもってして一巻は目出度く終わる。

2022年5月22日日曜日

 どういう人が独裁支持者になりやすいかというと、思うに「交渉力」というステータスがあるのではないかと思う。これはコミュニケーション力ともまた違う。単に他者と共感しあう能力ではなく、自分の欲しいものと相手の欲しいものを理解したうえで取引を行う能力で、この能力が低い人は日常的な問題に対して理論や規則を振り回した杓子定規な解決をしようとする。
 取引ではなく自動的な命令で解決したがることが、最終的に独裁体制に導くことになる。
 別に自分が独裁者になろうと思わなくても、誰か他の力で自動的に問題が解決されることを望んでいれば、必然的に一人の人間の一つの理論に支配されてゆくことになる。
 独裁政治を防ぐには、こうしたコミュ障ならぬ、交渉障をこじらせないようにする社会をつくらなくてはならない。基本的には論理や法律の限界を叩き込み、生きていくために自分の欲望と他人の欲望を秤にかけて、駆け引きをすることの大切さを教えていかなくてはならない。これは今の日本の教育に欠けている。
 まず、人の言葉を額面どうりに受け止めるのではなく、その裏の意味を探らせる。これは文学の役割だ。日本では昔から「行間から汲み取れ」と教えてきた。
 次に欲望の多様性を教える。求めるものは人によって違うということを理解すれば、自分の欲望と他人の欲望が競合しない所で、妥協の余地があることを知ることができる。欲望は万人共通ではない。これは大事なことだ。
 コミュニケーション力はこれとは逆に、自分の欲望を以てして他人の欲望を推測する所に成り立つので、交渉力とコミュニケーション力は同じでない。コミュ障でも交渉の得意な人はいくらでもいる。セールスで天才的な業績を上げるのは、むしろこのタイプだろう。
 交渉力は黄金律に反する。自分のしてもらいたいことを他人に施すのではなく、自分はしてもらいたくなくても他人はしてもらいたい、それを見つけ出す能力だ。思うにナンパ師はこの能力が高い。男と女は違うんで、自分がしてもらいたいことではなく女がしてもらいたいことを正確に見抜けるものがせいこうする。
 次に、同じ理論、同じ法律でも多様な解釈があるということを教える。人それぞれ脳の回路が異なり、処理の仕方も違う。同じ理論でも同じ法律でも、脳の処理の仕方が異なればまったく違うものになる。基本的に「言葉」も同じだ。同じ言葉を使っていても、人によって意味は違う。
 このことが理解できているなら、無用な批判や口論を避けることができる。人の批判ばかりしている人は、おそらく他人も自分と同じ言葉を語っていると錯覚して、自分が間違っていると思うことは万人が間違っていると思うと錯覚している。
 最後に行きつくのは、要するに人の言葉に絶対はない、ということだ。神の言葉なら絶対はあるかもしれないが、神の言葉も人を介したものは絶対ではない。人は皆それぞれ違うから、全部違った言葉になる。
 つまり、誰の言葉も平等に価値がある。これが本来の基本的人権の基礎とならなくてはならない。民主主義の基礎もまたそこにある。これを誰か一人の言葉に合わせろと言うと、必ず独裁になる。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き。

 名残表、七十九句目。

   罪業ふかき野辺のうぐひす
 雪汁のながれの女と成にけり    一鉄

 雪汁は雪解け水のことで、「ながれの女」はあちこち転々とする遊女であろう。前世の罪業でこういう境遇になったということか。
 雪解けの鶯は、

 今日やさは雪うちとけて鶯の
     都へいづる初音なるらん
               藤原顕輔(金葉集)
 春たてば雪のした水うちとけて
     谷のうぐひすいまそ鳴くなる
               藤原顕綱(千載集)

などの歌がある。
 八十句目。

   雪汁のながれの女と成にけり
 袖に筏のさはぐそらなき      松臼

 「袖に湊の騒ぐ」であれば、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「袖に湊の騒ぐ」の解説」に、

 「港が打ち寄せる波で騒ぐように、激情のあまりに泣く声とともに袖に涙がふりかかる。
  ※伊勢物語(10C前)二六「思ほえず袖にみなとのさはぐ哉もろこし舟の寄りしばかりに」

とある。
 物が「流れの女」だけに、港ではなく筏が騒ぐ。「そらなき」は嘘泣きの意味もあるが、ここでは泣いてる余裕すらないという意味か。

 ゆく末のたのめし人の言の葉に
     消えむそらなき露の夕暮れ
               藻壁門院但馬(洞院摂政家百首)
 夕暮れの雲の景色も愛発山
     越えむそらなき峰の白雪
               肖柏(春夢草)

の用例もある。
 八十一句目。

   袖に筏のさはぐそらなき
 毒かひやむなしき跡の事とはん   卜尺

 「毒飼(どくがひ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「毒飼」の解説」に、

 「〘名〙 毒を飲ませること。転じて、身を破滅させること。〔運歩色葉(1548)〕
  ※信長公記(1598)首「次郎殿を聟に取り、宥め申し、毒飼(ドクカイ)を仕り殺し奉り」

とある。
 毒殺となれば犯人は誰だということになる。嘘泣きしてるやつが怪しい。
 八十二句目。

   毒かひやむなしき跡の事とはん
 うはのが原にあはれ里人      一朝

 前句の「毒かひ」の「かひ」に掛けて甲州街道の上野原宿で事件が起きたとして、そこの里人が弔う。
 八十三句目。

   うはのが原にあはれ里人
 これやこの鷹場の役に幾十度    松意

 上野原に鷹場があったかどうかはわからないが、ここは「うわのが原」で、架空の地名として、そこの里人はたびたび鷹狩に駆り出されている。
 「これやこの」は歌枕に対して、これがあの有名な、というような意味で用いられることが多い。

 これやこのゆくも帰るも別れつつ
     しるもしらぬもあふさかの関
               蝉丸(後撰集)
 これやこの月見るたびに思ひやる
     姨捨山のふもとなりけり
               橘為伸(後拾遺集)

などの歌がある。
 八十四句目。

   これやこの鷹場の役に幾十度
 黒羽織きてたななし小舟      在色

 「たななし小舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「棚無小船」の解説」に、

 「〘名〙 棚板すなわち舷側板を設けない小船。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。ただし近世では、一枚棚(いちまいだな)すなわち三枚板造りの典型的な和船の小船をいう。棚無船。
  ※万葉(8C後)一・五八「いづくにか舟泊(ふなはて)すらむ安礼(あれ)の崎こぎたみ行きし棚無小舟(たななしをぶね)」

とある。
 将軍や大名の鷹狩りにお供する人は、黒羽織を着て小さな船に乗っているのが何とも不釣り合いだ。
 たななし小舟は歌語で、

 ほり江こぐたななしを舟こぎかへり
     おなし人にやこひわたりなむ
               よみ人しらず(古今集)
 あまの漕ぐたななしを舟あともなく
     思ひし人をうらみつるかな
               凡河内躬恒(続後撰集)

などの歌がある。
 八十五句目。

   黒羽織きてたななし小舟
 津国の難波堀江のはやり医者    雪柴

 前述の『古今集』よみ人しらずの歌の縁で、津の国の難波堀江が付く。古代は葦の中を海士が漕ぐ舟だったが、今は町中で医者が移動に用いる。

 津の国の難波堀江に漕ぐ舟の
     みぎはも見えずまさる我が恋
               伊勢(伊勢集)

の歌もある。
 八十六句目。

   津国の難波堀江のはやり医者
 玄関がまへみゆるあしぶき     志計

 難波堀江の医者だから、玄関を葦葺きにしている。
 八十七句目。

   玄関がまへみゆるあしぶき
 さび鎗や門田を守る気色なり    松臼

 葦葺きだと、

 夕されば門田の稲葉おとづれて
     蘆のまろやに秋風ぞ吹く
               源経信(金葉集)

の歌の「蘆のまろや」を連想し、鎗を持った門番も門田を守っているみたいだ。
 八十八句目。

   さび鎗や門田を守る気色なり
 一犬ほゆる佐野の夕月       正友

 門田の錆び鎗を案山子か何かに取り成したのだろうか。うらぶれた田舎に犬が吠える。
 佐野の月は、

 忘れずよ松の葉ごしに波かけて
     夜ふかく出でし佐野の月影
               後鳥羽院(夫木抄)
 月に行く佐野の渡りの秋の夜は
     宿ありとてもとまりやはせむ
               津守国助(新後撰集)

などの歌がある。
 八十九句目。

   一犬ほゆる佐野の夕月
 こもかぶり露打はらふかげもなし  一朝

 佐野の夕暮れといえば、

 駒とめて袖打ち払ふ陰もなし
     佐野のわたりの雪の夕暮れ
               藤原定家(新古今集)

ということで、月に露が付け合いということで、「露打ち払う陰もなし」とする。「こもかぶり」は乞食のこと。

 薦を着て誰人います花の春     芭蕉

は元禄三年の歳旦の句。
 九十句目。

   こもかぶり露打はらふかげもなし
 疵に色なる草まくらして      一鉄

 斬られたのか疵から出た血で草を染めて横たわっている。「打はらふかげもなし」は抵抗するすべもなく斬られたという意味に取り成す。
 「色なる」は和歌では風流で色のあるという意味で用いられる。

 池寒き蓮の浮葉に露はゐぬ
     野辺に色なる玉や敷くらむ
               式子内親王(正治初度百首)
 暮れはつる籬の花は見えわかで
     露の色なる草の上かな
               日野俊光(嘉元百首)

などの歌がある。
 九十一句目。

   疵に色なる草まくらして
 追剝や此辻堂のにし東       在色

 辻堂は街道ぞいなどの旅人が休むためのお堂で、元禄九年の桃隣の陸奥の旅を記した「舞都遲登理」に、「此道筋難所と云、萬不自由、馬不借、宿不借、立寄べき辻堂もなし。一夜は洞に寐て」とある。元禄二年九月の「一泊り」の巻三十二句目にも、

   谷越しに新酒のめと呼る也
 はや辻堂のかろき棟上げ      路通

の句がある。
 辻堂にある付近には旅人を狙った追剥もいたのだろう。あまり金を持ってなさそうだが。血の草枕になる。
 九十二句目。

   追剝や此辻堂のにし東
 弓手に高札め手に落書       卜尺

 この辻堂の辺りに追剥が出ると、右の高札にも左の落書きにも書いてある。高札は宿場などにある公の掲示で、落書きも旅人同士で注意を喚起する掲示板の役割があったのだろう。

2022年5月21日土曜日

 さんざんコロナで騒いだあとで、それが収束ムードになってくると、やれ変異株だのなんだの言いだしたものの、それがいま一つインパクトに欠けていたが、ここにきてサル痘はパンデミックを長引かせたい人にとっては救世主になるのかな。
 サル痘は日本では四類感染症で、コロナが二類、インフルが五類だから微妙な所だ。ただ、日本では長いこと患者が発生してなかったので、対症療法に有効な薬とかが流通していないという事情はあるようだ。
 接触感染なので、感染力はそれほど憂慮するほどのものではない。今まで通り消毒や手洗いをちゃんとやっておけば防げそうだ。少なくとも空気感染するような改造が施されてない限り。このタイミングだとあの国を疑いたくもなるけどね。
 リス属やげっ歯類が媒介するようで、今まではペットで輸入されたものからの感染が多かったようだが。
 とにかくアフリカに昔からあるウイルスなので、改造されてなければそれほど心配する必要はない。
 症状は天然痘に似ているから、昔で言う「いも」だね。


 「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─尼」の方もKindle ダイレクト・パブリッシングの方にアップしたのでよろしく。コストがゼロだから物量で勝負するという手もあるなと思った。源氏物語がまた絵合で止まってしまってたが、続きを急ぎたい。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き。

 三裏、六十五句目。

   長き夜食のにはとりぞなく
 下冷や衣かたしく骨うづき    松意

 「衣かたしく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「衣片敷く」の解説」に、

 「着物の片そでを下に敷く。ひとり寝をすることをいう。
  ※万葉(8C後)九・一六九二「吾が恋ふる妹は逢はさず玉の浦に衣片敷(ころもかたしき)独りかも寝む」

とある。寒い時に衣を敷いただけの湯かで寝れば、体のあちこちが痛くなるのもわかる。
 「衣かたしき」というと、

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
     衣かたしき一人かもねむ
              藤原良経(新古今集)

の歌が百人一首でもよく知られているが、他にも、

 白妙の衣かたしき女郎花
     咲ける野辺にぞ今宵寝にける
              紀貫之(後撰集)
 さゆる夜に衣かたしき思ひやる
     冬こそまされ人のつらさは
              藤原清輔(久安百首)

などの歌がある。
 六十六句目。

   下冷や衣かたしく骨うづき
 打たをされし道芝の露      在色

 野宿の衣かたしきで、寝返りを打っているうちに、付近の道芝がなぎ倒され、その露に濡れる。
 六十七句目。

   打たをされし道芝の露
 追からし昨日はむかし馬捨場   松臼

 家畜は死ぬと穢多の人たちがやって来て即座に解体し、使える部位を持ち去った後、専門の馬捨場に処分される。それが死ぬまで働かされた馬の末路だった。
 六十八句目。

   追からし昨日はむかし馬捨場
 志賀のみやこにたかる青蠅    志計

 志賀の都というと、

 さざなみや志賀の都は荒れにしを
     昔ながらの山桜かな
              よみ人しらず(千載集)

の歌が有名で、『平家物語』では平忠度の歌とされている。ここでは「荒れにしを」を導き出すだけの言葉で、使い捨てられた馬は荒れ果てて、蠅がたかる。
 青蠅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「青蠅」の解説」に、

 「① クロバエ科のハエのうちで、からだが青黒く、腹に光沢のある大形のものの総称。あおばい。くろばえ。くろるりばえ。《季・夏》
  ※宇津保(970‐999頃)国譲下「恋ひ悲しび、待ち居て、あをばへのあらんやうに立ち去りもせでおはすれば」

とある。
 六十九句目。

   志賀のみやこにたかる青蠅
 から橋の松がね枕昼ね坊     雪柴

 志賀と言えば瀬田の唐橋で、東海道と中山道が分かれる前の交通量の多い所。そんなところで松の根を枕に昼寝している坊さんって‥‥。まあ、乞食坊主であまり衛生的とは言えない。蠅が寄ってくる。

 松が根の枕もなにかあだならむ
     玉のゆかとて常のとこかは
             崇徳院(千載集)

の歌は蝉丸の、

 世の中はとてもかくても同じこと
     宮も藁屋もはてしなければ
             蝉丸(新古今集)

の心にも通じる。
 七十句目。

   から橋の松がね枕昼ね坊
 朽たる木をもえる丸太船    正友

 丸太船はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「丸太舟」の解説」に、

 「① 中世末期以降、主として琵琶湖で用いられた丸子船。丸船。
  ※俳諧・紅梅千句(1655)六「湖の浪を枕に聞あきて〈貞徳〉 丸太舟にし明し暮しつ〈季吟〉」
  ② =まるた(丸太)②
  ※浄瑠璃・五十年忌歌念仏(1707)下「いや御僧とは空目かや、我もこがるる丸太舟浮世渡る一節を」

とある。丸木舟ではなく立派な和船で、丸太を二つわりにしたおも木が船腹に憑りつけてあるのが大きな特徴だった。
 接岸するときのショック止めだったとすれば、朽ちた松の木を用いることもあったのだろう。
 七十一句目。

   朽たる木をもえる丸太船
 石台や水緑にしてあきらか也  一朝

 石台(せきだい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「石台」の解説」に、

 「① 長方形の浅い木箱の四すみに把手(とって)をつけた植木鉢。箱庭を作ったり、盆栽を植えたりするのに用いた。
   ※俳諧・談林十百韻(1675)上「朽たる木をもえる丸太舟〈正友〉 石台や水縁にしてあきらか也〈一朝〉」
   ② 石の台座。銅像などの台石。
   ※俳諧・芭蕉庵小文庫(1696)伊賀新大仏之記「涙もおちて談(ことば)もなく、むなしき石台にぬかづきて」
   ③ 石のうてな。石の台。〔王建‐逍遙翁渓亭詩〕」

とある。箱庭に水は緑で表され、朽ちた木で船を作る。
 七十二句目。

   石台や水緑にしてあきらか也
 二十五間の物ほしの月     一鉄

 一間は畳の盾の長さで、約1.8メートル。二十五間は約四十五メートル。途方もなく長い物干しざおがあったものだ。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

   帰雁     銭起
 瀟湘何事等閑回 水碧沙明両岸苔
 二十五絃弾夜月 不勝清怨却飛来

 何でこの瀟湘の地を見捨てて帰る。
 水は碧く砂は白く両岸は苔が生える。
 二十五絃の箏を月夜に弾けば、
 却って飛んで来るさ、侘しさにあらがえず。

の詩が引用されている。二十五絃は宗因独吟の「花で候」の巻九十一句目にも、

   おとどいながらちぎられにけり
 二十五絃半分わけの形見にて   宗因

の句があり、中国には古くから二十五弦の瑟(しつ)があり、四書五経にもその記述がある。『史記』は「太帝使素女鼓五十絃瑟、悲、帝禁不止、故破其瑟爲二十五絃。」という伝説を記し、その起源を伏羲にまで遡らせている。
 ちなみに五十絃の瑟は、

   謝公定和二範鞦懷五首邀予同作 黄庭堅
 四會有黄令 學古著勳多
 白頭對紅葉 奈此摇落何
 雖懷斲鼻巧 有斧且無柯
 安得五十絃 奏此寒士歌

 四会県には黄という令がいて、古典を学んですぐれた著作も多い。
 白髪頭で紅葉に向かっても、これを揺り落すことはできない。
 鼻を削ぐような技術があっても、ここにある斧は取っ手がない。
 どうして五十絃の瑟を得ることができよう、貧しい寒士の歌を奏でるのに。

の詩に登場する。
 二十五絃から二十五間の物干しざおとするが、それにしても長い。
 七十三句目。

   二十五間の物ほしの月
 秋の空西にむかへば角屋敷    在色

 角屋敷はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「角屋敷」の解説」に、

 「〘名〙 江戸古町の四つ角にあった屋敷、また、その所有者。所有者は、名主と同じく年の初めと大礼節に将軍に賜謁(しえつ)することができたため、御目見屋敷ともいう。天保(一八三〇‐四四)頃には四一軒あったといわれる。角屋。角屋の者。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「二十五間の物ほしの月〈一鉄〉 秋の空面にむかへば角屋敷〈在色〉」

とある。この場合は角屋敷までの道筋に二十五間くらい物干しざおを出している家が並んでいる、という意味になる。
 七十四句目。

   秋の空西にむかへば角屋敷
 両替見世のすゑの雲霧      卜尺

 角屋敷の方に来たのは両替のためだった。最後の金銀を銭にくずして、それを使い切った後のことは末の雲霧となる。
 末の雲霧は

 雲霧に分け入る谷は末くれて
     夕日残れる峰のかけはし
              嵯峨院(風雅集)

の歌がある。
 七十五句目。

   両替見世のすゑの雲霧
 袋もと峰立ならす鹿の皮     志計

 両替する前の金銀は、鹿の皮の袋に大切にしまっていた。
 峰立ならす鹿は、

 行く人を留め兼てぞ瓜生山
     峰たちならし鹿も鳴くらむ
              藤原伊尹(新勅撰集)

の歌がある。出て行く金銀も留められなかった。
 七十六句目。

   袋もと峰立ならす鹿の皮
 山の奥より風の三郎       松意

 「風の三郎」は風神のことで、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。山の奥から風が吹いてきて鹿の皮の袋を鳴らす。何の袋かよくわからないが。
 延宝五年の「あら何共なや」の巻八十八句目にも、

   米袋口をむすんで肩にかけ
 木賃の夕部風の三郎        桃青

の句がある。
 七十七句目。

   山の奥より風の三郎
 神鳴の太鼓の音に花散て      正友

 風神と来れば雷神で、あたかも風神雷神図だ。風が吹いて雷が鳴れば花も散る。
 七十八句目。

   神鳴の太鼓の音に花散て
 罪業ふかき野辺のうぐひす     雪柴

 鶯は花を散らすという。

 鶯の鳴き散らすらむ春の花
     いつしか君と手折りかざさむ
               大伴家持(新続古今集)
 袖たれていざ我が園に鶯の
     木伝ひ散らす梅の花見む
               よみ人しらず(拾遺集)

などの歌がある。その上雷まで呼ぶとは、罪業深い鶯がいたか。

2022年5月20日金曜日

 『源氏物語』の女房語りが、女房達がうわさ話に花咲かすような乗りで、物語が女房によって語られた物であれば、物語の本来の役割というのは「誰も傷つかないうわさ咄」だったのかもしれない。
 実在の人間の噂は、根も葉もないことを言い立てられてはスキャンダルにされ、批判や誹謗中傷の嵐になりかねない。そうやって恋に名が朽ちていった人がどれほどいたか。
 あくまで架空の物語であれば、誰も傷つかずに済む。うわさ話を楽しむなら、実在の人間ではなく、架空の人間の噂話をすればいい。それが人類の偉大なる進歩だったのかもしれない。
 俳諧も基本的には「うわさ」であり、江戸時代の俳論の中ではしばしば「噂」という言葉が用いられている。そしてその俳諧が「虚」であるなら、俳諧もまた架空の人物の噂話であり、誰も傷つくことのないうわさ話を楽しもうというものだったのではないかと思う。
 もっと拡大して考えるなら、哲学ですら帰納法は未来の真実を保証せず、演繹法も無矛盾な体系は不可能、ただ自由の中にのみ真理があるというなら、哲学もまた何ら確実なものではなく、真理に関するうわさ話にすぎない。
 歴史も実際に過去に行って検証することができないんだからあくまで仮説にすぎず、少ない手掛かりに無数の仮説が乱立する「諸説あり」の状態だから、歴史もまた過去の人間のうわさ話の域を出るものでもない。
 まして日々駆け巡る世界のニュースも、様々な政治的立場から任意に切り取られ、印象操作されたり、偽のニュースを捏造したりして何が本当かわからない。これもまた「うわさ話」にすぎないのではないか。
 とにかく確実なものは何もない。すべては噂にすぎない。ならばそんなものを真に受けて、腹を立てて生きるなんて、何てつまらないことか。
 噂を信じちゃいけないよ。信じる者は馬鹿を見る。適当にふんふんと頷きながら生きるくらいでちょうどいい。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き。

 三表、五十一句目。

   目利はいかが見る庭の梅
 出替りや大宮人の御座直し    雪柴

 御座直しはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御座直」の解説」に、

 「① 謁見のとき、主君が座を直して、その人に敬意を表すること。
  ※随筆・松屋筆記(1818‐45頃)九三「御座(ゴザ)直しの侍、御目見えの時、君の御座を直し給ふは臣下の面目也」
  ② (寝所を用意する女の意) 妾(めかけ)、かこいものなどをいう。御座敷女。筵敷(むしろしき)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)「出替りや大宮人の御座直し〈雪柴〉 けはひけすりてけふもくらしつ〈正友〉」

とある。②の用例になっているが、「大宮人の」と付くから「おましどころ」の意味の御座を他の人と交代するということかもしれない。
 大宮人であれば、贅を尽くした調度を用いているから、次に交代でその局(つぼね)を使う人が残して行った調度の値踏みをしたついでに庭の梅を見たのかもしれない。
 五十二句目。

   出替りや大宮人の御座直し
 けはひけずりてけふもくらしつ  正友

 ここで②の意味の御座直しで、大宮人の妾がその後ろ盾を失い、荒れた蓬生の宿で化粧する金も削って暮らす、とする。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、

 ももしきの大宮人はいとまあれや
     さくらかざしてけふもくらしつ
              山部赤人(新古今集)

の歌を引いている。「大宮人」「けふもくらしつ」の位置が一致しているので、パロディーとも取れる。
 五十三句目。

   けはひけずりてけふもくらしつ
 俤やきり狂言におしむらん    一朝

 きり狂言はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切狂言」の解説」に、

 「① 歌舞伎の一日の上演狂言のうち、最終に演じる狂言。元祿期の上方から起こり、本狂言にそえた短時間のもの。のちに江戸では二番目狂言の終わりにつけた所作事をいう。切(きり)。大切(おおぎり)。
  ※評判記・役者評判蚰蜒(1674)ゑびすや座惣論「初太か小指のきり狂言にとうがらしの赤へたもなく山さるののふなしもまれにして」
  ② 物事の終わり。おしまい。
  ※譬喩尽(1786)六「切狂言(キリキャウゲン)じゃ 浄瑠璃より出たる語にして物の終に用る詞」

とある。
 歌舞伎役者とは言っても、この頃はまだ野郎歌舞伎の創成期で、市川なんちゃらのような千両役者の登場はまだ先のことだったのだろう。舞台の華やかさとは裏腹に、舞台を降りると侘しい生活をしている。
 五十四句目。

   俤やきり狂言におしむらん
 半畳敷ても命さまなら      一鉄

 半畳は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「劇場の切落し(大入場)の土間などで、観客に貸す一尺五寸四方の畳・茣蓙。新小夜嵐物語に「半畳の銭五文」とある。」

とある。
 命様はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「命様」の解説」に、

 「〘名〙 男の心を奪うような美女への呼びかけ。また、その女。男色の相手をいう場合もある。命とり。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「俤やきり狂言におしむらん〈一朝〉 半畳敷ても命さまなら〈一鉄〉」

とある。
 若衆歌舞伎の時代は衆道の売春もやっていたが、この時代だと普通に「押し」のことではないか。前句の「おしむ」を入場料を惜しんでの、半畳敷の安い席で応援とする。
 五十五句目。

   半畳敷ても命さまなら
 護摩の壇思ひの烟よこをれて   在色

 護摩はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「護摩」の解説」に、

 「〘名〙 (homa 焚焼、火祭の意) 仏語。真言密教の修法の一つ。不動明王または愛染明王の前に護摩壇を設け、護摩木を焚(た)いて、息災、増益(ぞうやく)、降伏(ごうぶく)などを祈るもの。しかし護摩には内外の二種があって、実際に護摩壇を設けて行なう修法を外護摩といい、内心に智火をもやして煩悩(ぼんのう)を焼除するのを内護摩という。
 ※続日本後紀‐嘉祥三年(850)二月丙子「又於二豊楽院一、令下真言宗修中護摩法上」
  ※十善法語(1775)九「火天の法、護摩あり、事火婆羅門は殊に敬重す」
  [語誌](1)元来、バラモン教で火神アグニを供養するために、供物を焚焼する儀礼があり、これが密教にとり入れられたもの。
  (2)密教の護摩は人間の煩悩を智慧の火で焼尽する修法である。祈願を書いた板や紙を護摩札といい、護符として用いられた。また護摩木の燃え残りや灰を服用したり、お守りとすることがあり、高野山奥院の護摩の灰は有名であった。」

とある。
 半畳敷きの祭壇で護摩を焚いて、その煙が命様の元に届くことを願う恋心とする。 間違って護摩の匂いの染み付いた生き霊を飛ばしちゃったりして。
 五十六句目。

   護摩の壇思ひの烟よこをれて
 ししつと笑ひさる狐つき     卜尺

 護摩を焚くのを狐憑きを治すためとする。「ししっ」と不気味な笑いを残して狐は去って行く。
 五十七句目。

   ししつと笑ひさる狐つき
 鮗や舟ばたをたたいて取上たり  志計

 鮗はコノシロ。焼くと人の死体を焼く時に似た独特な匂いと言うので、そこから子の代りに焼きいたからコノシロという伝説が生じた。ウィキペディアに、

 「むかし下野国の長者に美しい一人娘がいた。常陸国の国司がこれを見初めて結婚を申し出た。しかし娘には恋人がいた。そこで娘思いの親は、「娘は病死した」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬してみせた。その時棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれたツナシで、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。」

とある。芭蕉も『奥の細道』の室の八島のところで、

 「将(はた)このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨(むね)世に伝ふ事も侍りし。」

と記している。
 この句の場合は「取上げたり」とあるから、船に上がったコノシロを、狐憑きの女がししっと笑って、自分の子供が生まれたみたいにコノシロを取り上げたということか。今でいう糖質か。
 五十八句目。

   鮗や舟ばたをたたいて取上たり
 源平たがひにたうがらし味噌   松意

 「源平たがひに」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「平家物語に材を得た謡曲の常套句」とあるが、野上豊一郎の『解註謡曲全集』を検索した限りでは、謡曲『八島』の、

 「もとの渚はここなれや。源平互ひに矢先を揃へ、船を組み駒を並べて、うち入れうち入れ足なみに、鑣を浸して攻め戦ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15529-15533). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と謡曲『景清』の、

 「さもうしや方方よ、源平互ひに見る目も恥かし。一人を留めんことは案のうち物、小脇にかいこんで、何某は平家の侍悪七兵衛景清と、名乗りかけ名乗りかけ手どりにせんとて追うて行く。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.60590-60597). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の二例がヒットした。
 唐辛子味噌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「唐辛子味噌」の解説」に、

 「〘名〙 味噌に、唐辛子を混ぜて、味醂(みりん)で伸ばし、とろ火でねり上げたもの。田楽や風呂吹大根などにつける。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「や舟ばたをたたいて取上たり〈志計〉 源平たがひにたうからし味噌〈松意〉」

とある。前句の「取上たり」を奪ったという意味に取り成して、コノシロを失った源平双方とも唐辛子味噌の田楽で我慢した、ということか。
 五十九句目。

   源平たがひにたうがらし味噌
 さもしやなかたがたは皆やつこ風 正友

 「さもしやなかたがた」は前述の謡曲『景清』の「さもうしや方方よ、源平互ひに見る目も恥かし。」で、やっこ姿だから見る目も恥ずかしく、いかにも貧しそうに田楽を食っている。貧乏な野郎歌舞伎役者であろう。
 六十句目。

   さもしやなかたがたは皆やつこ風
 金にはめでじ恋はいきごみ    松臼

 貧しい奴の恋は金に物を言わすのではなく、脅迫まがいの意気込みで落とそうとする。
 六十一句目。

   金にはめでじ恋はいきごみ
 労瘵の声にひかれて樽をいだき  一鉄

 労瘵(らうさい)は弄斎節であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「弄斎節」の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌謡。癆瘵、朗細、籠済などとも記す。隆達節に続いて寛永(かんえい)(1624~44)ごろに京都で流行し、その後江戸でも流行して「江戸弄斎」とよばれた。語源については、癆瘵(ろうさい)という病気にかかった人のように曲調が陰気であったため(嬉遊笑覧(きゆうしょうらん))とか、朗らかな声で節細かく歌うため(異本洞房(どうぼう)語園)とか、籠済(ろうさい)という浮かれ坊主が始めたため(昔々物語)など諸説があるが、いずれもさだかではない。元禄(げんろく)期(1688~1704)にはまったく廃れているので、曲節は現存しないが、詞章は江戸時代の歌本類のなかに相当数散見できる。詞型の多くは七七七五調の近世小歌調を基本としており、三味線にあわせて歌ったものと思われる。八橋検校(やつはしけんぎょう)の箏(そう)曲『雲井弄斎』や佐山検校の同名の長歌(ながうた)物など、芸術音楽にも取り入れられているが、曲節の関係については不明である。[千葉潤之介]」

とある。
 樽には「そん」とルビがある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、謡曲『千手』の、

 「今日の雨中の夕の空、御つれづれを慰さめんと、樽を抱きて参りつつ既に酒宴を始めんとす。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.26293-26298). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の一節を引用していて、ここでは樽は「そん」と読む。
 後の俳諧では「たる」でも良かったところも、この時代は謡曲の出典のある言葉でないと多くの人に伝わらないという事情があったのかもしれない。「樽を抱きて」はこの出典がある限り、宴会の酒樽に限定される。
 前句を弄斎節の歌詞として、宴会の場面に転じる。
 六十二句目。

   労瘵の声にひかれて樽をいだき
 内二階より伽羅の追風      雪柴

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、同じ謡曲『千手』に、「樽をいだき」のだいぶ前の方に、

 「妻戸をきりりと押し開く。御簾の追風匂ひ来る、花の都人に、恥かしながら見みえん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.26239-26243). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあることを指摘している。御簾は香を焚き込むもので、御簾の追風を伽羅の追風としてもおかしくはない。
 とはいえ前句が弄斎節で江戸時代の遊郭。千手の前は御簾ではなく内二階(中二階)にいる。
 六十三句目。

   内二階より伽羅の追風
 ことさやぐ唐人宿の月を見て   卜尺

 唐人宿はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「指宿・差宿」の解説」の、

 「② 江戸時代、長崎に入港し、最初市内に宿泊することを許された中国の商人が指定した宿舎。寛文七年(一六六七)に禁止され、以後、各町が順番に彼らを宿泊させる宿町の制がとられ、さらに、元祿二年(一六八九)唐人屋敷を作り、ここに宿泊せしめた。」

とある、寛文七年に禁止された指宿以降で、元禄二年の唐人屋敷以前の中国人の商人が泊った宿であろう。やはり接待する遊女がいて、伽羅の香りがしたのだろう。
 「ことさやぐ」は外国人の意味の分からない言葉のざわざわいう音を表す。
 「さやぐ」は笹の葉などのざわざわいう音で、和歌では「笹の葉」「霜」と一緒に用いられることが多い。

 さかしらに夏は人まね笹の葉の
     さやぐ霜夜を我がひとり寝る
              よみ人しらず(古今集)
 君こずはひとりや寝なむ笹の葉の
     みやまもそよにさやぐ霜夜を
              藤原清輔(新古今集)

などの用例がある。
 六十四句目。

   ことさやぐ唐人宿の月を見て
 長き夜食のにはとりぞなく    一朝

 外国人の声が騒がしくて眠れなかったのであろう。唐人がこういう時に夜食にしている鶏が、朝の時を告げる。

2022年5月19日木曜日

 マウリポリで実際に何が起きているのか、どこを見てもロシア側の情報が多すぎてわかりにくい。日本のメディアだけでなく、世界の多くのメディアも、ロシア側からの情報提供を遮断されるのが恐くて、ロシア側の情報を流し続けているのかもしれない。マス護美は世界の言葉か。
 確かに戦地での独自取材は困難で、ウクライナ側は抵抗で必死で出てくる情報も少ない。これだけだとニュース番組が成り立たなくなるからというので、ロシア側の情報で穴埋めしているのだろう。
 トルコがロシア側に付くなら、NATOから排除するというのも選択肢の一つではないか。スウェーデン・フィンランドの加盟に全会一致が無理なら、トルコの排除を全会一致で可決すればいい。
 全会一致主義にも問題がある。一つの国が裏切れば機能不全に陥るような軍事同盟では困る。それじゃ国連と一緒だ。
 ロシアも相変わらずネオナチガーを連呼しているが、日本でもやれヒットラーだのレイシストだの、安易なレッテル張りが横行している。本人たちは軽い気持ちで言っていることでも、それで日本政府がネオナチだということになると、侵略の格好の口実になってしまう。この種のレッテル張りは侮辱罪で厳罰に処すべきだ。
 とにかく今回の戦争はプーちん一人が悪いのではない。世界中におびただしい数の陰でプーちんを援護する連中がいる。そいつらとも戦わなくてはならない。表向き反ロシアを掲げていても、戦争反対を口実にウクライナの軍事行動を積極的に支持しない人たちは疑った方が良い。
 少な目に見積もっても、世界には一億人のプーチンがいると思った方が良い。
 筆者は平和に賛成します。早くロシア軍を追っ払って、ウクライナに、そして世界が平和になることを望んでます。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き。
 證歌を探りながら読んでゆくと、季語などのいわゆる「放り込み」というのはほとんどなく、きちんと古歌の意味や情を踏まえているのが分かる。これからは安易に「放り込み」という言葉は使わないようにしよう。

 二裏、三十七句目。

   売渡し申軒の下風
 一此ざうりわらんぢ雨過て    在色

 「一此」は「ひとつこの」とルビがある。雨宿りのついでに草履や草鞋を買ってゆく。
 今で言うとコンビニでトイレを借りた時に缶コーヒーを買ってくような感覚か。
 草履草鞋は消耗品で、「二束三文」と言われるくらい安いので、雨宿りして何も買ってゆかないのも、という時に買っていったのだろう。
 三十八句目。

   一此ざうりわらんぢ雨過て
 死骸をおくる山ほととぎす    卜尺

 前句の草履草鞋を死出の旅のものとして、遺骸に添える。
 ホトトギスの口の中が赤いのは、悲しみのあまりにに血を吐くまで鳴いたからだと言われている。
 正岡子規の「子規」という号は結核で血を吐いたからだと言われているし、アララギ派の和歌の、

 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて
     足乳根の母は死にたまふなり
              斎藤茂吉

歌も、玄鳥(つばくらめ)をホトトギスの代用として用いている。
 井上陽水の父のみまかりし時に作ったという「帰郷」という唄にも、「喉に血反吐見せて狂い鳴く/あわれあわれ山のほととぎす」の歌詞がある。
 雨の山郭公には、

 昔思ふ草の庵の夜の雨に
     泪な添えそ山時鳥
              藤原俊成(新古今集)

の歌がある。
 三十九句目。

   死骸をおくる山ほととぎす
 奥の院花たちばなや匂ふらん

 大きな寺院の奥の院は山の中にあることが多い。お寺で葬儀を行うと、奥の院の方からホトトギスの声が聞こえてくる。あの辺りでは花橘が香り、故人の袖の香を偲ばせるのだろうか。
 橘と言えば、

 五月待つ花橘の香をかげば
     昔の人の袖の香ぞする
              よみ人しらず(古今集)

の歌がよく知られていて、「昔の人」は故人の意味にも転用できる。
 郭公に橘は、

 宿りせし花橘もかれなくに
     などほととぎす声絶えぬらむ
              大江千里(古今集)
 色かへぬ花橘に郭公
     ちよをならせる声きこゆなり
              よみ人しらず(後撰集)

など、多くの歌に詠まれている。
 四十句目。

   奥の院花たちばなや匂ふらん
 むかしは誰がたてし常灯     松意

 常灯はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「常灯」の解説」に、

 「① 神仏の前にいつも点灯しておく火。みあかし。常灯明。長明灯。定灯。
  ※宇津保(970‐999頃)藤原の君「比叡の中堂に、しゃうとうを奉り給」
  ※太平記(14C後)五「山門の根本中堂の内陣へ山鳩一番飛び来て、新常燈(じゃうトウ)の油錠(あぶらつき)の中に飛入て」
  ② 江戸時代、千貫目以上の長者が金蔵(かねぐら)に点灯した常夜灯。
  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第二六「高野遠し其外爰にも難波寺 末世の奇特常灯の影」
  ③ 街路、つじなどに夜の間点灯しておくあかり。街灯。
  ※花柳春話(1878‐79)〈織田純一郎訳〉一「子是れより左に路を取らば必ず常燈あり」

とある。こんな山奥の奥の院に、昔の人はどうやってこんな重い常灯を運んで建てたんだろうか、と不思議になることがある。
 橘に昔は前述の「五月待つ」の歌の縁。
 四十一句目。

   むかしは誰がたてし常灯
 舟人も広きめぐみの守護代リ   正友

 守護代(しゅごだい)は都に入る守護に変わって領地を治める人で、ここでは語数の関係から「しゅごかわり」とする。
 前句の常灯を海の灯台のこととして、昔の守護代が建てたとする。
 四十二句目。

   舟人も広きめぐみの守護代リ
 四面にさうかの歌うたつてくる  松臼

 四面楚歌という言葉はあるが、ここではそれをもじって四面の早歌とする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「早歌」の解説」に、

 「① 催馬楽(さいばら)や神楽歌で、ふつうより拍子の速いうた。はやうた。
  ※神楽歌(9C後)「早歌」
  ② (「そうが」とも。やや速いテンポで歌われたことに基づく名称という) 中世、武家を中心に貴族・僧侶などの間に流行した宴席のうたいもの。初めは扇拍子で歌われ、沙彌明空(しゃみみょうぐう)によって集大成された。現爾也娑婆(げにやさば)。理里有楽(りりうら)。宴曲。
  ※梁塵秘抄口伝集(12C後)一〇「我独り雑芸集をひろげて、四季の今様・法文・早歌に至るまで、書きたる次第を謡ひ尽くす折もありき」
  ※徒然草(1331頃)一八八「仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌と云ふことを習ひけり」
  [補注]①については一説に「雑歌(ぞうか)」と同じとも、また、本と末をすばやく応答していく歌ともいわれる。」

とある。
 守護代の仕事はと言うと、宴会を開いて地元の名士・業者をもてなすことだ。地元との関係が良好なら至る所で宴会が開かれ、早歌の声が聞こえてくる。
 四十三句目。

   四面にさうかの歌うたつてくる
 銭さしに泪つらぬく夜の空    一鉄

 宴会は金のかかる物で、宴会が続くと懐が淋しくなる。これが本当の四面早歌。
 四十四句目。

   銭さしに泪つらぬく夜の空
 念仏講も欠てゆく月       雪柴

 念仏講はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「念仏講」の解説」に、

 「① 念仏を行なう講。念仏を信ずる人達が当番の家に集まって念仏を行なうこと。後に、その講員が毎月掛金をして、それを講員中の死亡者に贈る弔慰料や、会食の費用に当てるなどする頼母子講(たのもしこう)に変わった。
  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)一「はなのさかりに申いればや 千本の念仏かうに風呂たきて〈重明〉」
  ② (①で、鉦(かね)を打つ人を中心に円形にすわる、または大数珠を回すところから) 大勢の男が一人の女を入れかわり立ちかわり犯すこと。輪姦。
  ※浮世草子・御前義経記(1700)三「是へよびて歌うたはせ、小遣銭少しくれて、念仏講(ネンブツカウ)にせよと」

とある。
 さすがに②ではないだろう。①の意味で念仏講のメンバーから死者が出ると、集めたお金で葬式代を出す。不幸が続くと人も欠けて行くし銭もなくなってゆく。それを満月以降の欠けてゆく月に喩える。
 四十五句目。

   念仏講も欠てゆく月
 相店の人の世中すゑの露     雪柴

 相店(あひだな)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「相店」の解説」に、

 「〘名〙 同じ棟の中にともに借家すること。また、その借家人。相借家(あいじゃくや)。相長屋(あいながや)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「念仏講も欠てゆく月〈雪柴〉 相店の人の世中すゑの露〈卜尺〉」
  ※咄本・鹿の子餠(1772)俄道心「相店(アイタナ)の八兵衛、欠落(かけおち)して行衛しれず」

とある。
 今回亡くなった念仏講のメンバーは相店の借家人だった。人の死も悲しいが、店が存続できるかどうかも不安だ。今で言えばテナントビルのオーナーが亡くなって、余所に売却されたようなものか。
 四十六句目。

   相店の人の世中すゑの露
 分散何々なく虫の声       一朝

 分散はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「分散」の解説」に、

 「② 江戸時代、競合した多数債権を償うことができない債務者が債権者の同意を得て、自己の全財産を彼らに委付して、その価額を各債権に配当すること。現在の破産にあたる。分散仕舞。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「相店の人の世中すゑの露〈卜尺〉 分散何々なく虫の声〈一朝〉」

とある。
 相店のオーナーが破産し、分散仕舞いになる。行き場を失った小さな店は行き場がなく、秋の鳴く虫の声が絶えて行くように消えて行く。
 虫の音の露は、

 命とて露を頼むにかたければ
     ものわびしらに鳴く野辺の虫
              よみ人しらず(古今集)
 おぼつかないづこなるらん虫のねを
     たつねは草の露やみだれん
              藤原為頼(拾遺集)

などの歌に詠まれている。
 四十七句目。

   分散何々なく虫の声
 舟板のわれからくぐるあかの道  松意

 ワレカラはウィキペディアに、

 「ワレカラ(割殻、破殻、吾柄、和礼加良)は海洋に生息する小型の甲殻類である。海藻の表面に多数見いだされるほか、深海底にも生息している。ヨコエビと近縁で端脚目に分類されるが、腹節および尾節が著しい退化傾向にあり、身体の大部分が頭部および胸部により構成される。多くの種において、身体を屈伸させるほかに単独で水中を移動する術はなく、専ら生息基質である大型藻類等の表面に定位し、デトリタスや藻類を食べる。」

とある。海藻に付着することが多く、「ワレカラ喰わぬ上人なし」と言われるくらい、いくら殺生をしないと言ってる偉い坊さんでも、知らずに食っていることが多かった。
 「あかの道」の「あか」は垢で、水垢のことであろう。
 舟板に付着していたワレカラが、水垢と一緒に洗い落とされると、固まっていたワレカラが分散してゆく。ワレカラが鳴くわけではないが、心の中で鳴いているようだ。
 四十八句目。

   舟板のわれからくぐるあかの道
 あらがねの土うがつ穴蔵     在色

 「あらがね」は鉱物の原石のこと。
 前句を「舟板の割れから」と取り成して、水垢の付着した廃船の割れ目をくぐって、鉱物の原石を含んだ土を穴蔵へと運ぶ。
 四十九句目。

   あらがねの土うがつ穴蔵
 久堅の天目花生瀬戸物屋     松臼

 天目茶碗でよく知られている曜変天目は、鬼板という鉄分を多く含む鉱物が用いられているという。
 曜変天目の花瓶を作る瀬戸物屋には粗金が穴蔵に仕舞われている。
 天目に枕詞の「久かた」を付ける。
 五十句目。

   久堅の天目花生瀬戸物屋
 目利はいかが見る庭の梅     志計

 曜変天目の真贋を見分ける目利きは、庭の梅をどう思ってみるのか。

 雪ふれば木ごとに花ぞさきにける
     いづれを梅とわきてをらまし
              紀友則(古今集)

の歌のように、雪と梅を見分けることができるか。簡単だとは思うが。

2022年5月18日水曜日

  久しぶりに晴れた。ちょっと早いけど気分は五月雨だね。
 タケノコの季節はそろそろ終わりかな。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き。

 二表、二十三句目。

   孤雲の外に鳥はさえづる
 打かすむ山ふかうして谷の庵   正友

 山奥の隠棲とする。

 山深み霞みこめたる柴の庵に
     こととふものは谷のうぐひす
              西行法師(玉葉集)

によるものか。
 二十四句目。

   打かすむ山ふかうして谷の庵
 わらびよぢ折る苔の衣手     松臼

 山に隠棲する者は、春には苔の上の早蕨を取って食っている。
 春と言えば早蕨で、

 岩そそぐ垂水の上のさわらびの
     萌え出づる春になりにけるかな
              志貴皇子(新古今集)

の歌は百人一首でもよく知られている。
 二十五句目。

   わらびよぢ折る苔の衣手
 これも又王土をめぐる鉢ひらき  一鉄

 王土は王の支配する土地という意味で、ここでは天皇の支配の及ぶ日本中どこでもということか。
 鉢開きはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鉢開」の解説」に、

 「① 鉢の使いはじめ。
  ※咄本・醒睡笑(1628)七「今日の振舞は、ただ亭主の鉢びらきにて候」
  ② 鉢を持った僧形の乞食。女の乞食を鉢開婆・鉢婆という。鉢坊主。乞食坊主。」

で②の意味であろう。鉢坊主とも言う。後の『炭俵』の「空豆の花」の巻二十句目に、

   不届な隣と中のわるうなり
 はっち坊主を上へあがらす    利牛

の句がある。
 乞食坊主なので、道端の食べられそうなものはみんな取って食う。
 二十六句目。

   これも又王土をめぐる鉢ひらき
 慈悲はこころの鬼をほろぼす   雪柴

 鉢坊主の功徳を述べる。
 一般論として、こうした乞食坊主であっても、仏の慈悲が人の心の邪悪なものを滅ぼすことを説いて回る所に、その存在理由がある。
 二十七句目。

   慈悲はこころの鬼をほろぼす
 わつさりと一たび咄せなふ女郎  卜尺

 「わっさり」は今のさっぱりする、というのに近い。
 「心の鬼」の最たるものは恋の嫉妬の心。
 江戸時代の遊郭は出会い系に近く、単純に金で一時の快楽を買うわりきった関係ではなかった。そのため、客の男は遊女に他の客を取らないように貞操を求めることも多かった。
 客の男の嫉妬心は遊女からすれば悩みの種で、それをなだめるために起請文を配ったりもした。貞享二年の「涼しさの」の巻七十一句目に、

   小女郎小まんが大根引ころ
 血をそそぐ起請もふけば翻り   コ齋

の句がある。血判を押した起請文も実際は形だけのものだった。
 『ひさご』の「疇道やの巻」九句目の、

   片足片足の木履たづぬる
 誓文を百もたてたる別路に    正秀

の誓文も起請文のこと。
 だいたいは遊女の立場を理解して、起請文はそういうもんだと腹を立てないのが粋な遊び人なのだが、中にはそれで逆上して、爪を剝いでよこせ、さらには指を詰めろとか言う男も結構いたようだ。
 卜尺の句は、嘘の起請文ではなく、正直に話せ、と迫る。それで本当のことを知っても許してやる慈悲の心があれば、男の心の鬼も滅びるのだが、なかなかそうもいかない。
 二十八句目。

   わつさりと一たび咄せなふ女郎
 うき名は何のそれからそれ迄   一朝

 「それからそれ迄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「其からそれまで」の解説」に、

 「限られたそれだけのこと。それまでのことだ。やむを得ない。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「うき名は何のそれからそれ迄〈一朝〉 御仕置ややぶれかぶれの衆道事〈松意〉」

とある。
 遊郭の浮名は遊郭の中だけのことだ。とはいえ、奥さんは何と思うことか。
 二十九句目。

   うき名は何のそれからそれ迄
 御仕置ややぶれかぶれの衆道事  松意

 男色が発覚すると、武家の場合は処分を受けることもあったが、西鶴の『男色大鏡』では、わりと穏便に済まされることが多かったようだ。男女の不倫が死罪になる時代にしては緩かったと言えよう。
 まあそういうことで、御仕置きなど恐れずやっちまえ、ということになる。
 三十句目。

   御仕置ややぶれかぶれの衆道事
 家老をはじめすでに付ざし    在色

 付けざしは口を付けた煙草や盃を回す、一種の間接キスで、宗因独吟の「花で候」第三にも、

   夢の間よただわか衆の春
 付ざしの霞底からしゆんできて  宗因

の句がある。
 家老を初め、多くの男たちが付けざしをしたというから、相当な美少年だったのだろう。まあ、家老まで巻き込んでしまえば御仕置きもできないという所か。
 三十一句目。

   家老をはじめすでに付ざし
 城の内あすをかぎりの八九人   松臼

 ここでは衆道を離れて、籠城戦にも敗れ、切腹を覚悟した武将たちの最後の盃とする。
 三十二句目。

   城の内あすをかぎりの八九人
 しまひ普請のから堀の月     志計

 前句の「あすをかぎり」を城内の工事の終わりとする。お堀の補修だったか。
 三十三句目。

   しまひ普請のから堀の月
 金山の秋をしらする雁鳴て    雪柴

 金山(かなやま)は鉱山のことで、しまい普請は閉山のことか。月に雁の声が心の秋を知らせる。
 「秋をしらする」は

 風吹くに靡く浅茅は我なれや
     人の心の秋を知らする
              斎宮女御(後拾遺集)

の用例がある。
 月に雁は、

 さ夜なかと夜はふけぬらし雁金の
     きこゆるそらに月わたる見ゆ
              よみ人しらず(古今集)
 大江山かたぶく月の影冴えて
     とはたのおもに落つる雁金
              慈円(新古今集)

など多くの歌に詠まれている。
 三十四句目。

   金山の秋をしらする雁鳴て
 訴訟のことは菊の花咲      正友

 江戸時代の訴訟というと境界争いが多かったようだが、鉱山の権利などでももめることがあったのだろう。「訴訟のことは聞く」に「菊」を掛ける。
 三十五句目。

   訴訟のことは菊の花咲
 我宿の組中名ぬし罷出      一朝

 組中はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「組中」の解説」に、

 「① 組にはいっている人全部。
  ② 組の仲間。同業者。また、江戸時代の五人組の仲間。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「訴訟のことは菊の花咲〈正友〉 我宿の組中名ぬし罷出〈一朝〉」

とあり、名主は「精選版 日本国語大辞典「名主」の解説」に、

 「③ 江戸時代、江戸の各町にあり、町年寄の支配を受け、町政一般を行なったもの。町名主。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「訴訟のことは菊の花咲〈正友〉 我宿の組中名ぬし罷出〈一朝〉」

とある。ちなみにこの興行に参加している卜尺も日本橋大舟町の名主だった。
 訴訟というと名主の出番だったか。
 三十六句目。

   我宿の組中名ぬし罷出
 売渡し申軒の下風        一鉄

 名主が何しに出てきたと思ったら、この家を売るという話だった。
 下風という言葉は和歌では、「花の下風」「森の下風」「松の下風」「葛の下風」など、大体は植物の下を吹く風を言う。「軒の下風」の用例もあるが、植物と合わせて用いる。

 皆人の袖に匂ひぞあまりぬる
     花橘の軒の下風
              藤原家隆(壬二集)
 かたしきの小夜の枕にかよふなり
     あやめに薫る軒の下風
              藤原実房(新続古今集)

などの例がある。

2022年5月17日火曜日

 マクドナルドがロシアから撤退ということで、これで「マクドナルドのある国同士は戦争をしない」という状態に戻ったということか。
 マクドナルドのある国同士が戦争をすれば、マクドナルドの方が出て行く。それはグローバル経済から除外されるということだ。ロシアはフロンティアへ転落し、北朝鮮のような道を歩むつもりなのか。
 飢餓と隣り合わせの世界は、喉元にナイフを突きつけられた上、家族を人質に取られた状態だ。国民の逆らう気力が失せれば、独裁国家は逆に安定する。あとは国民に被害者意識を植え付けて、自分たちの貧しさは全部アメリカが悪いということで納得させてゆく。そのヘイトが独裁国家を存続させる理由になって行く。
 ロシアがそれで安定を得れば、次は中国、そして韓国か。そして日本もそういう国にしようとしている人たちがいる。どこかでこの連鎖を止めなくてはならない。
 ロシアは叩かなくてはならない。でもロシアを救わなければ次は我々だ。
 ロシアがウクライナに負けたにしても、戦後処理を誤ればもっと恐ろしいことになる。ロシアが巨大な北朝鮮にならないように、知恵を絞らなくてはならない。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き。

 初裏、九句目。

   酒酔をくるあとのしら波
 蜑人の喉やかはきてぬれ衣    卜尺

 濡れ衣で透け透けというのは狙った感じがする。そうでなくても体の線が出る。
 酒飲んで海に飛び込んだのだろう。酒を飲むと喉が渇く。
 十句目。

   蜑人の喉やかはきてぬれ衣
 かの海底の玉のあせかく     執筆

 海底の玉というのは謡曲『海人(あま)』に出てくる、高宗皇帝から興福寺へ贈られた三つの玉の一つの「明珠」というもので、途中瀬戸内海で竜神に取られて、それを里の海女が取り返したという話だ。
 海底深く潜って玉を取り返すのは大変だっただろう。まさに玉の汗をかく。
 十一句目。

   かの海底の玉のあせかく
 さらさらともみにもふでぞ一いのり 松意

 「もみにもふで」は「揉みに揉んで」のウ音便化したもので、『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注にある通り、謡曲『船弁慶』に、

 「その時義経少しも騒がず打物抜き持ち現の人に、向ふが如く、言葉を交はし戦ひ給へば、弁慶おし隔て打物業にて叶ふまじと、数珠さらさらと押しもんで、東方降三世南方軍荼利夜叉、西方大威徳、北方金剛夜叉明王、中央大聖不動明王の索にかけて、祈り祈られ悪霊次第に遠ざかれば、弁慶舟子に力を合はせ、」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.7489-74909). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を踏まえている。この祈りで平知盛の亡霊は海底へと消えて行く。
 十二句目。

   さらさらともみにもふでぞ一いのり
 くだけて思ふ散銭なげさい    在色

 「なげさい」はここでは賽銭のことか。
 「くだけて思ふ」は、

 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ
     砕けてものを思ふころかな
              源重之(詞花集)
 見せばやなくだけて思ふ涙とも
     よもしら玉のかかるたもとを
              伏見院(新後撰集)

などの歌がある。波の砕けると心を砕く(心を痛める)とを掛けて用いることが多い。
 十三句目。

   くだけて思ふ散銭なげさい
 まつ宵の更行かるた大明神    松臼

 前句の「なげさい」をサイコロを投げるとして博徒の神頼みとし、夜通し博奕を続ける中で、当時流行していたうんすんカルタのウン(福の神)に祈る。
 この時代は天正カルタからうんすんカルタへの過渡期でもあり、これより後の延宝六年秋の「のまれけり」の巻二十九句目に、

   古川のべにぶたを見ましや
 先爰にパウの二けんの杉高し   似春

の句は天正カルタのパウ(棍棒)が斜めに交差させた形で描かれ、数字が多くなると杉の木のような形ことを詠んでいるが、天正カルタの絵札は西洋のトランプのように女王・騎馬・国王だったのに対し、うんすんカルタはそれにウン(福の神)スン(唐人)、ロバイ(龍)のカードが加わる。
 棍棒(今日のトランプのクラブ)の書き方は似ているので、「のまれけり」の巻の方もうんすんカルタだった可能性はある。
 十四句目。

   まつ宵の更行かるた大明神
 泪畳の塵にまじはる       正友

 「塵にまじはる」は「和光同塵」のことで、神様は本地である仏さまの光りを和らげ、塵に同じうする姿でもある。
 とはいえ、神も仏もいなかったのか、博奕に負けて涙が畳の塵に交わる。
 十五句目。

   泪畳の塵にまじはる
 腹切はあしたの露と消にけり   雪柴

 「あしたの露」は朝露のこと。露の命とも言うが、切腹は畳の上に血を流し、畳の露と消える。
 十六句目。

   腹切はあしたの露と消にけり
 軍散じて野辺のうら枯      志計

 「軍(いくさ)散じて」はいくさに散ってということで、負けた大将は切腹し、戦場の野辺のうら枯れの露と消える。
 うら枯れは葉先の方から枯れることで、

 露さむみうら枯れもてく秋の野に
     さびしくもある風のおとかな
              藤原時昌(千載集)
 人目見し野べのけしきはうら枯れて
     露のよすがに宿る月かな
              寂蓮法師(新古今集)

などの歌に露とともに詠まれている。
 十七句目。

   軍散じて野辺のうら枯
 虫の髭人もかくこそ有べけれ   一朝

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注にある通り、謡曲『実盛』の、

 「気霽れては風新柳の髪を梳り、氷消えては、波旧苔の、髭を洗ひて見れば、墨は流れ落ちてもとの、白髪となりにけり。げに名を惜しむ弓取は、誰もかくこそあるべけれや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18174-18179). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面で、老人であるはずの実盛だが、打ち取った首の髪は黒く、池で首を洗えばその染めた色が落ちて白髪の姿になるという場面だ。
 軍に破れ、野辺のうら枯れのなかで、老いた武者の髭の色も落ちるように、鳴く虫の髭もやがて力尽きる。
 野に朽ちて行った実盛を虫に喩えるというのは、後の、

 無残やな兜の下のきりぎりす   芭蕉

の句を先取りしている。
 十八句目。

   虫の髭人もかくこそ有べけれ
 目がねにうつる夕月の影     一鉄

 まずこのメガネだが、ウィキペディアによればザビエルが日本に伝えたもので、周防国の守護大名・大内義隆に献上したという。また、徳川家康が使用したという眼鏡も久能山東照宮にあるという。
 このの時代に眼鏡がなかったわけではないが、眼鏡の値段は曲亭馬琴の時代でも一両一分だったという。
 遠眼鏡も西洋から入ってきたもので、元禄九年の桃隣が金華山を旅した時の句に、

 水晶や凉しき海を遠目鑑     桃隣

の句がある。金華山の大きな水晶は今ではほとんど輝きもないが、かつては透き通った姿でこれでレンズを作って遠眼鏡にという発想が湧いたのかもしれない。
 延宝六年冬の「青葉より」の巻七句目、

   天下一竹田稲色になる
 淀鳥羽も鏡のかげに見えたりや  似春

の句の「鏡」は天下一の銘をもつ柄鏡の意味だが、その句が八句目で、

   淀鳥羽も鏡のかげに見えたりや
 やよ時鳥天帝(ダイウス)のさた 春澄

隣る時には南蛮の遠眼鏡の意味に取り成されている。
 この場合は虫を見るのだったら虫眼鏡ということになる。虫眼鏡も江戸時代初めに三浦按針が徳川家康に献上したという。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「虫眼鏡」の解説」にも、

 「① 小さな物体を拡大して見るための焦点距離の短い凸レンズ。像は正立の虚像。拡大鏡。
  ※俳諧・境海草(1660)夏「みて蚤や人にかたらん虫目金〈長成〉」

とあり、この時代に知られていたのは間違いない。
 前句を虫眼鏡で虫の髭を観察して、人もかくこそ有べけれ、とし、この句は「眼鏡にうつる」で切って、「夕月の影」を添えたという所で良いのではないかと思う。
 十九句目。

   目がねにうつる夕月の影
 唐船は遠の嶋山乗すてて     在色

 ここで遠眼鏡に取り成される。
 唐船は遠くの島で乗り捨てたのか見えなくなり、夕月の影だけが見える。
 二十句目。

   唐船は遠の嶋山乗すてて
 何万斤のいとによる波      卜尺

 斤(きん)は主さの単位だが、中国と日本では異なる。江戸時代に一般に用いられていた斤は百六十匁(もんめ)で約六百グラムだという。十斤が約六キロだから一万斤は約六トンになる。
 近代でこそ日本は生糸の輸出国になったが、江戸時代は中国から輸入していた。当時の中国船は何十トンもの絹糸を積んでいたのか。
 難破して島に打ち捨てられていたのだろう。貴重な絹糸も波を被って使い物にならなくなる。
 この場合糸の撚ると波の寄るを掛けているが、和歌では撚ると夜を掛けて用いられることが多い。

 白河の滝のいとなみ乱れつつ
     よるをぞ人は待つといふなる
              藤原忠平(後撰集)
 あふまでの人の心のかた糸に
     なみだをかけてよるぞ悲しき
              平重時(続後撰集)

などの歌がある。
 二十一句目。

   何万斤のいとによる波
 見あぐればああ千片たり花の滝  志計

 前句を滝の糸波として、千片の花びらの落ちる花の滝の糸波とする。
 落花を滝に喩える例として、

 吉野山雲の岩根に散る花は
     風より落つる滝の白糸
              慈円(夫木抄)

の歌がある。
 二十二句目。

   見あぐればああ千片たり花の滝
 孤雲の外に鳥はさえづる     松意

 孤雲はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「孤雲」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 一つだけはなれて、ぽっかりと浮かぶ雲。ひとひらの雲。はなれ雲。片雲(へんうん)。
  ※文華秀麗集(818)上・敬和左神策大将軍春日閑院餞美州藤大守甲州藤判官之作〈巨勢識人〉「郷心遠樹孤雲跡。客路辺山片月寒」 〔陶潜‐詠貧士詩・其一〕」

とある。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、謡曲『羽衣』の、

 「簫笛琴箜篌孤雲の外に充ち満ちて、落日の紅は蘇命路の山をうつして、緑は波に浮島が、払ふ嵐に花降りて、げに雪を廻らす白雲の袖ぞ妙なる。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.30855-30863). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 ここでは天人の楽の音ではなく、鳥の囀りを添える。

2022年5月16日月曜日

 まあ、出る杭は打たれるというのは世の常だからね。目立たないに越したことはない。日本文明の復興も水面下からじわじわとというのが理想的だ。
 左翼連中の攻撃をかわすには、象徴にならないということが大事だ。一つ象徴を作り上げると、そこを集中的に攻めてくる。だから、偽の象徴を作って叩かせるのが一番いい。「ネトウヨ」という言葉もその意味では役に立っている。
 反日的なメッセージというのは、基本的に日本以外の国ならどこでも受けがいい。だから奴らはそれを積極的に利用して、如何に日本を貶めるかに日々切磋琢磨している。ただ、奴らが叩いてるのは藁人形だ。偽物の日本だ。
 他の国でもこのことは言えると思う。アメリカが失敗したのはトランプさんという象徴を作ってしまったからだ。だが、それは藁人形だから、それを逆手に取って、トランプさんにヘイトを集めさせるというのも一つの手だ。日本でも安倍さんがヘイトを一気に引き受けてくれてるから、かえって保守派の人はやりやすくなっている。
 友橋かめつさんの『その門番、最強につき~追放された防御力9999の戦士』ではないが、敵のヘイトを一人に集中させれば、敵の防御はがら空きだ。
 逆に言えば、ウクライナを助けるのであれば、プーちん一人にヘイトを集中させるやり方は賢いとは言えない。ロシア人のある程度はこの戦争を支持しているし、独裁国家は他にもあるし、今は沈黙してても独裁を支持する連中はどこの国にでもいる。油断のないように。
 今日は旧暦四月十六日で満月だが、朝から雨だった。
 ラジオでは今日が芭蕉が『奥の細道』に旅立った日だと言っている。
 そういうわけで「こよみのページ」で調べてみると、元禄二年三月二十七日は新暦五月十六日になっている。この年は一月潤があったので、三月がやけに遅い。

 さて、夏の俳諧の方は、もう一つの「郭公」の巻、「郭公(来)」の巻を読んでみようと思う。
 松意編延宝三年刊の『談林十百韻(とっぴゃくいん)』は春に第一、第二、第三百韻を読んだので、その続きということで、第四百韻を読んでいこうと思う。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)を参考に。
 発句は、

 郭公来べき宵也頭痛持      在色

 郭公は和歌では明け方に詠むことが多く、宵というと、

 宵の間はまどろみなましほととぎす
     明けて来鳴くとかねて知りせば
              橘資成(後拾遺集)
 ほととぎす来鳴かぬ宵のしるからば
     寝る夜もひとよあらましものを
              能因法師(後拾遺集)

など、宵には鳴かないということが詠まれている。
 ただ、『千載集』の頃になると、

 心をぞつくしはてつる郭公
     ほのめく宵の村雨の空
              藤原長方(千載集)
 声はして雲路にむせぶ時鳥
     涙やそそぐ宵の村雨
              式子内親王(新古今集)

など、宵の村雨のホトトギスを詠む歌が登場する。
 頭痛はロート製薬のサイトによると、

 「気象病の症状の中でも最も多いのが頭痛です。どのように傷みが起こるかをお話しましょう。
 漢方医学では、気象病の多くは【水毒(すいどく)】だと考えられています。水毒とは、汗やリンパ液など、体液の循環が悪くなった状態のこと。
 頭痛は、血液に水分が溜まって血管が拡張し、神経を圧迫することで起こります。湿度が高く汗をかきにくくなる梅雨は、特に頭痛が起こりやすくなります。
 気象の影響で起こる頭痛としては、まず片頭痛が挙げられます。ズキズキと脈打つように痛むのが特徴で、“片”頭痛という名前の通り、多くの場合が頭の片側だけに起こります(両側に起こることもあります)。
 中には、緊張型頭痛が現れる人もいます。頭がぎゅーっと締めつけられるような痛みが特徴。ただ、この頭痛は血管が拡張して起こるものではなく、後頭部や首の後ろ側の筋肉が収縮することが原因。同じ頭痛でも、気圧の変化によって血管に影響を受ける人、筋肉に影響を受ける人がいるということ。それぞれの自律神経の“バランスの乱れ方”が違うのです。」

ということで、五月雨の頃は頭痛の季節で、雨が降る前に頭痛がする人もいるという。
 そういう人からすると、頭痛がすればホトトギスの季節だ、ということになる。
 脇。

   郭公来べき宵也頭痛持
 高まくらにて夏山の月      松意

 緊張型頭痛の場合は、枕が合ってないことも原因の一つになる。前句の頭痛の原因を高枕のせいとして、夏山で高枕をして宵に眠りにつき、頭痛ながらに明け方のホトトギスの声を聞く。
 郭公に夏山の月は、

 時鳥鳴きているさの山の端は
     月ゆゑよりも恨めしきかな
              藤原頼実(新古今集)
 有明の月は待たぬに出でぬれど
     なほ山深き時鳥かな
              平親宗(新古今集)

などの歌がある。
 第三。

   高まくらにて夏山の月
 凉風や一句のよせい吟ずらん   正友

 高枕で夏山の月に涼んで、その涼しい風の余情を吟じているのだろうか。吟じると言っても高枕だから、鼾のことではないか。
 夏の月に涼風は、
 
 夏の夜の有明の月を見るほどに
     秋をもまたで風ぞすずしき
              藤原師通(後拾遺集)

の歌がある。
 四句目。

   凉風や一句のよせい吟ずらん
 旅乗物のゆくすゑの空      松臼

 旅乗物はこの時代なら馬か駕籠であろう。涼しいのは馬の方か。
 朝早く馬で旅立ち、明け方の涼しい風を受けながら、一句の余情を吟ずる。旅体に転じる。

 月影のいりぬるあとにおもふかな
     まよはむやみのゆくすゑの空
              慈円(千載集)

を余情とするか。
 五句目。

   旅乗物のゆくすゑの空
 うき雲や烟をかづくたばこ盆   志計

 浮雲の煙は、

 恋わびてながむる空の浮雲や
     わが下もえの煙なるらん
              周防内侍(金葉集)

の歌がある。ここでは旅の空の浮雲が実は煙草の烟だったという落ちになる。
 旅の雲といえば杜甫の「野老」という詩に、「長路關心悲劍閣 片雲何意傍琴台」とあり、後に芭蕉が『奥の細道』の冒頭で「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて」という一節に用いている。
 六句目。

   うき雲や烟をかづくたばこ盆
 時雨をまぜて亭に手たたく    雪柴

 亭を「ちん」と読む場合はお茶室であろう。煙草盆は茶道のお茶室に入る前の待合に用いられる。
 手を叩くのは時雨で煙草の火が消えて、「煙草盆、はよ」ってことか。
 浮雲の時雨は、

 折こそあれながめにかかる浮雲の
     袖もひとつにうちしぐれつつ
              二條院讃岐(新古今集)

の歌がある。
 七句目。

   時雨をまぜて亭に手たたく
 欄干もあらしにうごく大笑    一鉄

 前句の「手をたたく」を誰か何か面白いことを言って、思わず手を叩くこととする。お茶会の前の談笑ではそんなこともあるか。
 時雨の嵐は、

 しぐれつつかつ散る山のもみぢ葉を
     いかに吹く夜の嵐なるらん
              藤原顕季(金葉集)

の歌がある。
 八句目。

   欄干もあらしにうごく大笑
 酒酔をくるあとのしら波     一朝

 酒を酌み交わした後、船で旅立つ人を橋の欄干から見送る。
 酒が入っているから、何がおかしいか大笑いして、言ってしまったあとは「知らない」に「白波」を掛ける。見知らぬ人同士で酒を飲んで盛り上がるのはよくあることだ。
 嵐に白波は、

 見わたせば汐風荒らし姫島や
     小松がうれにかかる白波
              宗尊親王(続古今集)

の歌がある。

2022年5月15日日曜日

 今日は生田緑地ばら苑に行った。薔薇も良く咲いていて、人も多かった。去年一昨年とコロナに重なっていたが、今年はコロナ明けで人も一気に増えた感じだった。
 Kindle Direct Publishingから出した本のタイトルは「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─」なのでよろしく。『源氏物語』の大きな特徴でもある女房語りの一人称というところを強調してみた。三人称の小説として訳してない所が味噌。
 こやん源氏の桐壺・帚木・空蝉・夕顔と若干手直ししたものなのでよろしく。表紙は急ごしらえで御簾をイメージしてみた。物語は御簾の向こうにある。

 では「ほととぎす(待)」の巻の続き。挙句まで。

 二十九句目。

   太皷たたきに階子のぼるか
 ころころと寐たる木賃の草枕   荷兮

 木賃はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木賃」の解説」に、

 「〘名〙 (薪(たきぎ)の代金の意から)
  ① 木賃宿で、泊まり客が自分で持ってきた米などの食糧を煮炊きするために支払う薪の代金。すなわち、木賃宿の宿泊代金。木銭(きせん)。
  ※俳諧・望一千句(1649)三「かやもつらざるかりふしの宿 木ちんさへもたねば月をあかしにて」
  ② 「きちんどまり(木賃泊)」「きちんやど(木賃宿)」の略。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「太鼓たたきに階子のぼるか〈野水〉 ころころと寐たる木賃の草枕〈荷兮〉」

とある。木賃宿で太皷を叩くことに何か意味があったのか、よくわからない。
 いつまでも寝てると、太皷を叩いて誰かが起こしに来るのか。
 三十句目。

   ころころと寐たる木賃の草枕
 気だてのよきと聟にほしがる   野水

 木賃宿に長居しているうちに、宿の仕事のことなんかもいつの間にか覚えてしまったか、なかなかできると宿の主人が娘の婿養子にしたがる。
 三十一句目。

   気だてのよきと聟にほしがる
 忍ぶともしらぬ顔にて一二年   野水

 娘の所に忍んで通ってくる男がいたが、気付かないふりをしていてその男を値踏みしていた。二年ずっと通い続けている辺り、なかなか真面目で悪くない。
 三十二句目。

   忍ぶともしらぬ顔にて一二年
 庇をつけて住居かはりぬ     荷兮

 庇は古代の寝殿造りだと、母屋の外側の部屋を意味する。前句の「しらぬ顔」を断り続けてという意味にして、あまりしつこく通って来るので寝る所を庇に移した、とする。
 三十三句目。

   庇をつけて住居かはりぬ
 三方の数むつかしと火にくぶる  荷兮

 これもよくわからない。
 三方はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「三方」の解説」に、

 「① (現在は「さんぽう」とも) 三つの方向。三つの方面。
  ※平家(13C前)一一「能遠(よしとを)が城におしよせて見れば、三方は沼、一方は堀なり」
  ② 角形の折敷(おしき)に、前と左右との三方に「刳形(くりかた)」もしくは「眼象」と呼ばれる透かし穴のあいた台のついたもの。多く檜の白木で作られ、古くは食事をする台に用いたが、後には神仏や貴人へ物を供したり、儀式の時に物をのせるのに用いる。衝重(ついがさね)の一種。三宝。
  ※三内口決(1579頃)「盤。〈四方三方事〉。大臣以上は四方。大納言以下は三方也」
  ※俳諧・犬子集(1633)一「三方につみしをいかに西ざかな」
  ③ 和算で、正三角形のこと。
  ※竪亥録(1639)六「置二歩数一、用二三方之方鈎相因之歩法一、五帰而得二歩数一、於レ是用二〈鈎方〉之尺数一帰除、則得二尺数一、是〈方鈎〉也」
  ④ 近世、大坂の蔵屋敷米を出米する際の仲立人で新地四組・古三組・上組の総称。〔稲の穂(1842‐幕末頃)〕」

とある。
 昔は四方に透かし穴のあいた四方も用いられていたが、ここは三方でなくては駄目だということで、用意し直すのも面倒(むつかし)だからって、透かし穴の一面を剥がして火にくべて、そこに庇をつけて三方にするということか。ただ、これだと「住居かはりぬ」の意味が分からない。
 三十四句目。

   三方の数むつかしと火にくぶる
 供奉の草鞋を谷へはきこみ    野水

 供奉(ぐふ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「供奉」の解説」に、

 「① (「くぶ」とも) (━する) 物を供給すること。供えること。供え奉ること。
  ※続日本紀‐和銅元年(708)一一月己卯「大甞。遠江但馬二国供二奉其事一」
  ② (━する) 従事する、仕えるの意を、その動作の相手を敬っていう語。お仕え申し上げること。
  ※令義解(718)職員「侍医四人。〈掌レ供二奉診候。医薬一〉」
  ③ (━する) 天皇の行幸などの行列に供として加わること。また、供の人々。
  ※太平記(14C後)一一「此寺に一日逗留有て、供奉(グフ)の行列還幸の儀式を被レ調ける処に」
  ④ (「くぶ」とも) 仏語。宮中の内道場に奉仕する僧。内供奉(ないぐぶ)のこと。日本では十禅師が兼ねた。内供(ないぐ)。供奉僧。
  ※性霊集‐二(835頃)大唐青龍寺故三朝国師碑「若復、印可紹構者、義明供奉其人也」
  ⑤ =ぐぶそう(供奉僧)①」

とある。
 三方の数を数えるのを面倒くさがるような人だから、供奉の草鞋も谷底へと履いて捨てる。草鞋は消耗品ではあるが。
 三十五句目。

   供奉の草鞋を谷へはきこみ
 段々や小塩大原嵯峨の花     野水

 小塩大原は小塩山大原院勝持寺のことか。嵯峨野の南西にあり、花の寺とも呼ばれている。前句をそこへ出入りする供奉僧が草鞋を履き古しているとする。
 挙句。

   段々や小塩大原嵯峨の花
 人おひに行はるの川岸      執筆

 花を追いかけて人々は小塩大原から嵐山の大堰川(桂川)の川岸へと移動する。

2022年5月14日土曜日

 昨日言った「でんでんコンバーター」を使って、Kindle Direct Publishingに挑戦しようと思った。とりあえず「こやん源氏」で作ってみた。
 ただ、手続きの方となると、こういうの苦手だから、口座登録でどうすれば半角カタカナになるのか知らなくて、F8を押せばよかったのね。あとTINがわからなくて、マイナンバーのことだったんだね。
 そんなことでバタバタしているうちにあっという間に時間が過ぎて行った。
 でも、昔『野ざらし紀行─異界への旅─』という本を自費出版して、金も時間もかかって売れたのは百冊なんて頃にくらべると、時代は変わったもんだ。
 何のかんの言って一日で本ができたんだから、これなら何度でもチャレンジできる。前は大赤字だったが、今度は小遣い銭くらい稼げるといいな。

 それでは「ほととぎす(待)」の巻の続き。

 二表、十九句目。

   かけがねかけよ看経の中
 ただ人となりて着物うちはをり  野水

 「ただひと」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「徒人・只人・直人・常人」の解説」に、

 「① 神仏、また、その化身などに対して、ふつうの人間。また、特別の能力や才能を持っている人に対して、あたりまえの人間。つねの人。ただのひと。多く、打消の表現を伴って、すぐれていること、ただの人間でないことなどを評価していう。
  ※書紀(720)神代下(兼方本訓)「顔(かほ)色、甚だ美(よ)く、容貌(かたち)且閑(みやび)たり。殆に常之人(タタヒト)に非(あら)す」
  ※平家(13C前)六「凡はさい後の所労のありさまこそうたてけれ共、まことにはただ人ともおぼえぬ事共おほかりけり」
  ② 天皇・皇族などに対して、臣下の人。
  ※伊勢物語(10C前)三「二条の后のまだ帝にも仕うまつり給はで、ただ人にておはしましける時」
  ③ 身分ある人に対して、身分・地位の低い人。なみの身分の人。摂政・関白に対して、それ以下の人、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじょうびと)などに対して、それ以下の人など、場合により異なる。
  ※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)一〇「土庶(タダヒト)の百千万なるい 亦王に随ひて城を出でぬ」
  ※徒然草(1331頃)一「一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など給はるきははゆゆしと見ゆ」
  ④ 僧侶に対して、俗人をいう。
  ※書紀(720)推古三二年四月(岩崎本平安中期訓)「夫れ道(おこなひする)人も尚法を犯す。何を以て俗(タタ)人を誨(をし)へむ」

とある。
 前句の看経からすると、④で還俗したということであろう。財産に執着するようになって、鍵をかける習慣を付ける。
 二十句目。

   ただ人となりて着物うちはをり
 夕せはしき酒ついでやる     荷兮

 還俗したということで、酒を断つ必要もなく、まあ一杯。
 二十一句目。

   夕せはしき酒ついでやる
 駒のやど昨日は信濃けふは甲斐  野水

 馬で旅する人で宿に着いてもいろいろやることはあるが、それでもまあ一杯。
 二十二句目。

   駒のやど昨日は信濃けふは甲斐
 秋のあらしに昔浄瑠璃      荷兮

 古浄瑠璃を語る琵琶法師とする。この時代にはかなり珍しくなっていたか。陸奥にはまだいて、芭蕉が『奥の細道』の旅で遭遇している。
 二十三句目。

   秋のあらしに昔浄瑠璃
 めでたくもよばれにけらし生身魄 野水

 生身魄は「いきみたま」。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生御霊・生身魂」の解説」に、

 「〘名〙 両親のそろった者が、盆に親をもてなす作法。また、そのときの食物や贈り物。他出した息子や嫁した娘も集まり、親に食物をすすめる。精進料理でなく、贈り物にも刺鯖(さしさば)を使うことが多い。近代、東京でも、老いた親のある者が、盆中に魚を捕り、調理して親にすすめる風習があった。これは生きたみたまも盆に拝む風習があったためといわれる。生盆(いきぼん)。《季・秋》
  ※建内記‐嘉吉元年(1441)七月一〇日「五辻来、面々張行、聊表二祝著一之儀、毎年之儀也。世俗号二生見玉一」
  ※俳諧・花摘(1690)下「生霊(イキミタマ)酒のさがらぬ祖父かな〈其角〉」
  [語誌](1)「生きている尊親の霊」の意で、死者の霊ばかりでなく、生きている尊者の霊を拝むという気持から始まった。
  (2)「盂蘭盆経」に「願使三現在父母、寿命百年、無レ病無二一切苦悩之患一」とあるのに基づくものか。」

とある。
 お盆の時にまだ健在な両親への孝行として、琵琶法師を呼ぶ。
 二十四句目。

   めでたくもよばれにけらし生身魄
 八日の月のすきといるまで    荷兮

 「すきと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「すきと」の解説」に、

 「① 少しも残るところがないさま、また、ある状態に完全になるさまを表わす語。すっかり。
  ※史記抄(1477)四「秦使相国呂不韋誅之、此ですきと滅たぞ」
  ※評判記・色道大鏡(1678)一五「帰国の事をすきとわすれつつ、二ケ月ばかり京にとどまりてかよひ」
  ② (下に打消を伴って) その事すべてにわたって否定するさまを表わす語。全然。まるで。すっかり。
  ※箚録(1706)「其れほど又海殊外(ことのほか)遠くして海魚の分すきと無レ之」
  ※談義本・水灌論(1753)三「われらすきと合点まいらず」

とある。今の「すっきり」と「すっかり」に相当する。
 八日の月は上弦の月で、夜中に沈む。お盆には少し早いが七夕の後という微妙な日付だ。十五日の死者を迎えるお盆と区別して、少し早く生身魄を行っていたか。
 二十五句目。

   八日の月のすきといるまで
 山の端に松と樅とのかすかなる  野水

 暗い半月だから、山の端の松と樅もはっきりとは見えない。
 二十六句目。

   山の端に松と樅とのかすかなる
 きつきたばこにくらくらとする  荷兮

 景色がはっきり見えないのを、きつい煙草のせいとする。
 二十七句目。

   きつきたばこにくらくらとする
 暑き日や腹かけばかり引結び   荷兮

 ただでさえ暑さでくらくらしそうな時に、腹掛け一つのほとんど裸でタバコを吸う。
 二十八句目。

   暑き日や腹かけばかり引結び
 太皷たたきに階子のぼるか    野水

 夏祭りの情景か。

2022年5月13日金曜日

 フィンランド人にもスウェーデン人にもウクライナ人と同様、バイキングの血が流れている。まあ、それを言ったらロシア人も同じだけどね。
 メタルに目覚めたのは、フィンランドのLORDIをたまたま配達中にヒルトンホテルで目撃して、その異様な姿に何だこれはと思ってからか。
 その後北欧のメタル文化に興味を持っていくうちに、なぜがずるずるはまっていったのがバイキングメタルで、そこからフォークメタルへという流れだった。
 九十年代にはワールドミュージックの洗礼を受けていたから、フォークメタルはそれのメタル版みたいで面白い。メタルという一つのプラットフォームをいろんな民族がそこに独自の音楽を乗っけていて、フォークメタルはワールドメタルと言ってもいい。
 メタルは白人の音楽みたいなところもあるが、黒人でも白人でもない日本人はその両方から等しく影響を受ける。メタルも好きだが、九十年代の終わりからゼロ年代にかけてはヒップホップも随分と聞いた。その時の影響か、ついつい韻を踏んでみたくなる。
 話は変わるが、ネット上に「でんでんコンバーター」というのがあった。これを使うとEPUB3の電子書籍が作れるようだ。以前PDFで作ったことがあったが、さすがにファイルが重すぎた。

 それでは「ほととぎす(待)」の巻の続き。「ほととぎす」の巻は貞享二年熱田での八吟歌仙にもあったので、(待)を付け加えることにする。

 初裏、七句目。

   一荷になひし露のきくらげ
 初あらしはつせの寮の坊主共   野水

 木耳はお坊さんの好物だったのか、長谷寺の寮に寝泊まりすっる坊主たちも木耳を背負って寺に戻る。
 寮はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寮」の解説」に、

 「① 役所。官司。特に、令制で、多く省に属し、職(しき)より下位、司(し)より上位に位置する官司。四等官として、頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)を置く。允に大・少のあるものとないものによって、さらに二種に分けられる。この名称は明治以後の官制にも使用されたが、明治一八年(一八八五)の内閣制度実施以後は、宮内省の部局名としてのみ用いられ、昭和二四年(一九四九)に廃止された。
  ※続日本紀‐大宝元年(701)七月戊戌「太政官処分、造レ宮官准レ職、造二大安薬師二寺一官准レ寮、造二塔丈六一二官准レ司焉」 〔爾雅‐釈詁〕
  ② おもに禅宗で、僧の住む寺内の建物。また、その部屋。修行する堂とは区別された。寮舎。
  ※正法眼蔵随聞記(1235‐38)四「寺の寮々に各々塗籠をし」 〔陸游‐貧居詩〕
  ③ 僧が寄宿して自宗の学業を修学する道場。室町時代末から江戸時代にかけて、多く一宗一派の宗徒を集めて入寮させたもの。談所(だんしょ)。談林。学林。学寮。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「ややはつ秋のやみあがりなる〈野水〉 つばくらもおほかた帰る寮の窓〈舟泉〉」
  ④ 部屋。居室。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑤ 江戸時代、幕府の学問所、藩の学校、私塾などで、学生が寄宿して学問する所。寄宿寮。居寮(きょりょう)。学問寮。学寮。
  ※肥後物語(1781)「居寮の事〈略〉其内一廉才学成就すれば、直に役儀を申付らるることもあり、〈略〉もし案外に進まぬ人は、一年にても寮を出さる」

とある。この場合は③の意味になる。
 長谷寺のはる初瀬は、

 うかりける人を初瀬の山おろしよ
     はげしかれとは祈らぬものを
              源俊頼(千載集)

の歌が百人一首でも有名なように、嵐に縁がある。
 初瀬の嵐を詠んだ歌には、

 初瀬山嵐の道の遠ければ
     至り至らぬ鐘の音かな
              道助入道親王(新勅撰集)
 初瀬山尾上の雪げ雲晴れて
     嵐にちかき暁の鐘
              藤原景綱(玉葉集)

などの歌がある。
 八句目。

   初あらしはつせの寮の坊主共
 菜畑ふむなとよばりかけたり   荷兮

 この時代の初瀬の辺りは菜の花畑が多かったのだろう。春の嵐に転じる。
 春の初瀬の嵐を詠んだ歌に、

 山とかは桜乱れて流れきぬ
     初瀬の方に嵐ふくらし
              衣笠家良(夫木抄)

の歌がある。
 九句目。

   菜畑ふむなとよばりかけたり
 土肥を夕々にかきよせて     荷兮

 踏むなというのは糞を踏むからだった。
 十句目。

   土肥を夕々にかきよせて
 印判おとす袖ぞ物うき      野水

 印判を肥溜めに落とす。とほほ。
 十一句目。

   印判おとす袖ぞ物うき
 通路のついはりこけて逃かへり  野水

 「ついはり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「突張」の解説」に、

 「〘名〙 (「つい」は「つき(突)」の変化した語) ものをつっぱるために立てる柱や棒。つっぱり。つっかい。
  ※虎明本狂言・腰祈(室町末‐近世初)「よひとおもふ時分に、うしろからつひはりをめされひ」

とある。突っ張り棒のことで、これに足を引っかけると自分も転ぶし、立てかけてあったものも倒れてくる。慌てて逃げかえると判子を落としている。その判子から犯人がバレてしまう。
 十二句目。

   通路のついはりこけて逃かへり
 六位にありし恋のうはきさ    荷兮

 昇殿は五位以上だが、蔵人なら六位でもぎりぎり昇殿が許される。下っ端ではあるが殿上人で、下っ端の気楽さから恋の浮名を振りまく。
 十三句目。

   六位にありし恋のうはきさ
 代まいりただやすやすと請おひて 荷兮

 身分が低い分フットワークも軽く、代わりにお参りに行ってくれと言われれば、安請け合いする。
 まあ、体よくパシリにされているというか。でもそういう所でこそ出会いがあったりもする。
 十四句目。

   代まいりただやすやすと請おひて
 銭一巻に鰹一節         野水

 代参りの駄賃が銭一巻と鰹節一本。名古屋からだとこれで何とか伊勢までたどり着けるか。
 十五句目。

   銭一巻に鰹一節
 月の朝鶯つけにいそぐらむ    野水

 江戸時代になっても鶯の鳴き声を競わせる鶯合せは盛んで、ここは鶯の買い付けのことか。
 十六句目。

   月の朝鶯つけにいそぐらむ
 花咲けりと心まめなり      荷兮

 前句を鶯告げにとして、鶯が鳴いたらその報告に来て、花が咲いたらその報告にと、豆ではある。
 十七句目。

   花咲けりと心まめなり
 天仙蓼に冷飯あさし春の暮    荷兮

 天仙蓼は「またたび」とルビがある。マタタビはキウイの近縁種で実がなるが、辛いので塩漬けや味噌漬けにしたり、マタタビ酒にしたりするが、酒好きにはその辛さも心地良いのかもしれない。
 食べると「又旅ができる」と言われ、元気になる。暮春の頃から冷飯をマタタビで食べる。
 十八句目。

   天仙蓼に冷飯あさし春の暮
 かけがねかけよ看経の中     野水

 看経(かんきん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「看経」の解説」に、

 「〘名〙 (「きん」は唐宋音)
  ① 経文を黙読すること。もと、禅家で行なわれた。
  ※参天台五台山記(1072‐73)二「候二看経一百日一、設二羅漢斎僧一方畢」
  ② 声を出して経文を読むこと。読経。誦経。
  ※栂尾明恵上人伝記(1232‐50頃)上「僧俗群集して、或は看経し或は礼拝す」

とある。
 「かけがね」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「掛金」の解説」に、

 「① 戸や障子などに付けて置き鎖した時、もう一方の金物の穴に掛けて、締りとする鐶(かん)または鉤(かぎ)。かきがね。
  ※枕(10C終)八「北の障子に、かけがねもなかりけるを」
  ② 顎(あご)の骨の顳顬(こめかみ)につながる部分。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Caqegane(カケガネ)〈訳〉顎の継ぎ目。関節」

とある。この場合は両方に掛けて、看経の間につまみ食いしないように口に鍵をかけておけということか。

2022年5月12日木曜日

 アップルミュージックの二〇二〇年に作ったプレイリストを久しぶりに聞いていたら、いきなり「マスクどこにも売ってない」とか、そうだったな。あの年の春頃って、マスクの入手にみんな苦労してたな。
 日本で流通していた不織布マスクの多くは中国で作られていて、それが止まってしまって、あわててシャープなどの日本企業が国産マスクの生産を始めたりしていた。 本来ならマスク着用を義務化しなくてはならない時に起きたマスク不足に、国からのマスク配布は必然的な流れだった。使う使わないは別としても、買い占めを防ぐためには有効な手段だったと思う。
 筆者はそのころ会社から不織布マスクの配布を受けてはいたが、毎日取り換える程の量もなく、アベノマスクを長いこと愛用させてもらった。不織布マスクに比べてガーゼマスクは呼吸が楽なので、肉体労働には向いていた。
 その安部さんのロシア政策は、特に北方領土での二島で妥協するような姿勢は、最初からかなり批判を受けていた。多分エリツィン以降の民主化の流れが定着するという読みで動いていて、プーちんの本質を見誤っていたのは間違いない。ただ、外交は外務省のお膳立てが必要なものだけに、当然外務省にも責任がある。
 コロナの方は五月十日の時点で全国の重症者数が163人、東京は9人。これくらいが常態化していくのかもしれない。ちなみに重症者数のピークは去年の九月三日の2,223人。デルタ株が猛威を振るったときのピークで、オミ株のピークは二月二十五日の1,507人になっている。重症化率が低くなったのがよくわかる。
 あと、「郭公」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それではふたたび夏の俳諧ということで、上五はおなじ「ほととぎす」。阿羅野の荷兮・野水の両吟歌仙を読んでいこうと思う。区別する意味でこっちを「ほととぎす」の巻、とする。

 ほととぎす待ぬ心の折もあり   荷兮

 郭公はその人声を夜通し待って、明け方の一声を聞くことを本意とするが、実際古歌を見ると必ずしもそうではなく、ホトトギスを待つというのは元はホトトギスを待つというよりも、来ぬ人を待って夜が明けてホトトギスを聞くか、物思いで眠れずにいるとホトトギスの声がするだとかいうものも多かった。

 夏山に鳴くほととぎす心あらば
     物思ふ我に声な聞かせそ
              よみ人しらず(古今集)
 足引きの山ほととぎす我がごとや
     君に恋ひつつ寝ねかてにする
              よみ人しらず(古今集)

などの歌は別にホトトギスを待っているわけでもない。
 ただ、古今集の時代にも、ホトトギスを待つ歌はあった。

   さぶらひにて、男どもの酒たうべけるに、召して、
   「ほととぎすまつ歌よめ」とありければよめる
 ほととぎす声もきこえず山彦は
     ほかに鳴く音をこたへやはせぬ
              凡河内躬恒(古今集)

は待つ郭公が題詠になっていたことがわかる。
 ホトトギスを朝まで待つというのは、どこか「罪なくして配所の月を見る」に似ている気がする。眠れぬような悩み無くして夜明けのホトトギスを聞くといったところか。

 待たぬ夜も待つ夜も聞きつほととぎす
     花橘の匂ふあたりは
              大弐三位(後拾遺集)

の歌もある。
 待って聞くホトトギスも一興だが、待たずして聞くホトトギスも、深い心があってのことなのだろう。
 まあ、風流というのは基本そういうものなのかもしれない。平和で豊かで何不自由ない生活をしていても、苦しい思いをしている人の気持ちを理解するというのは、人間として心を豊かにしてくれる。それを可能にするのが文学の力だ。
 「罪なくして配所の月を見る」というのは、罪がなくても罪人の気持ちを理解するということだ。 
 脇。

   ほととぎす待ぬ心の折もあり
 雨のわか葉にたてる戸の口    野水

 ホトトギスというとあやめ草や花橘や卯の花を読むことは和歌にもあるが、若葉を付けるのは近世的な発想なのだろう。とはいえ、室町時代には、

 時鳥鳴くや涙のはつ染に
     木木の若葉や色に出つらん
              正徹(草根集)

の例がある。『阿羅野』というと、

 目には青葉山ほととぎす初鰹   素堂

の句は有名だ。
 この場合は戸口を閉ざして、前句の「待ぬ」の心を、誰を待つでもなくホトトギスを待つでもなく、一人引き籠るということで、夏安居の心としたか。
 夏は虫が多く、歩くだけで殺生をすることになるので、外出を控える。夏籠りとも夏行ともいう。
 第三。

   雨のわか葉にたてる戸の口
 引捨し車は琵琶のかたぎにて   野水

 「かたぎ」は「堅木」か。枇杷の木は堅くて木刀などに用いられる。
 ここでは戸口の枇杷の木の辺りに車を引き捨てて、戸口を閉ざすとする。雨なので仕事はお休みということだろう。
 四句目。

   引捨し車は琵琶のかたぎにて
 あらさがなくも人のからかひ   荷兮

 からかひはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「からかう」の解説」に、

 「[1] 〘自ハ四〙
  ① 押したり返したりどちらとも決しない状態で争う。葛藤(かっとう)する。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※古今著聞集(1254)一六「心のはたらく事しづめがたけれども、猶とかく心にからかひて、其の年も暮れぬ」
  ② 言い争いをする。また、争う。闘う。
  ※九冊本宝物集(1179頃)八「とりくみ引くみて、夜もすがらからかひて」
  ※葉隠(1716頃)一「渡し舟にて、小姓酒狂にて船頭とからかひ」
  ③ 関心をよせる。かかわる。
  ※大恵書抄(14C後‐16C後)「あるないにはからかうまい」
  [2] 〘他ワ五(ハ四)〙 冗談を言ったり困らせたりしながら相手をなぶりものにする。じらして苦しめる。
  ※滑稽本・浮世床(1813‐23)初「小ぢょくは供をしながらふりかへりて熊にからかふ」
  ※多情多恨(1896)〈尾崎紅葉〉後「那様(あんな)事を言って僕を娗(カラカ)ったに違無い」

とある。ここでは口論か軽い小突き合い程度の争いということだろう。
 前句の枇杷の堅木を木刀として、物が木刀だけに真剣ではない喧嘩というところか。
 [2] は今でも用いる「からかう」だが、最近は「いじる」の方をよく用いる。
 五句目。

   あらさがなくも人のからかひ
 月の秋旅のしたさに出る也    荷兮

 まあ、日々の喧騒というか、いじったりいじられたりするのも面倒くさくなると、人は旅に出たくなるものだ。
 六句目。

   月の秋旅のしたさに出る也
 一荷になひし露のきくらげ    野水

 木耳(きくらげ)は中華料理などにも用いられるが、江戸時代の人も好んで食べていた。旅のお供に木耳を背負ってゆく。