2022年4月30日土曜日

 今日で旧暦の弥生も終わり。春も終わり。行く春や。

 それでは「啼々も」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   折かけはらん月の文月
 唐秬の起さぬ家に吹なびき    孤屋

 前句の「折掛」を唐黍の折れ掛に掛ける。唐黍はこの時代はコウリャンのことで、高さが三メートルにもなる。今はモロコシと呼ぶようだが、モロコシは漢字で書くと「唐」だから、トウモロコシは唐唐と同語反復になる。
 二十六句目。

   唐秬の起さぬ家に吹なびき
 四手漕入ル水門の中       其角

 前句の唐黍が倒れたのを野分の風として、四手網で漁をする船も水門の中に避難する。
 二十七句目。

   四手漕入ル水門の中
 うち残す浪の浮洲の雪白し    野馬

 前句を水辺の景色として、波のかからない浮洲にだけ雪が残っている、とする。
 浮洲はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浮州」の解説」に、

 「① 泥や流木などが集まり、その上に植物が生えたりして、湖や沼などの水上に浮きただよい、州のように見えるもの。
  ② 海中の州などが水面に現われたもの。また、州が浮いているように見えるもの。
  ※光悦本謡曲・藤戸(1514頃)「あれに見えたるうきすの岩の、すこしこなたの水の深みに」

とある。
 「うきす」は雅語では鳰の浮巣など、巣の意味で用いる。
 二十八句目。

   うち残す浪の浮洲の雪白し
 葉すくなに成際目の松      孤屋

 際に「さかひ」とるびがあり、際目は「さかひめ」と読む。波打ち際の松は葉も少ない。
 松に雪は、

 み山には松の雪だにきえなくに
     宮こは野辺の若菜摘みけり
              よみ人しらず(古今集)
 年ふれど色もかはらぬ松か枝に
     かかれる雪を花とこそ見れ
              よみ人しらず(後撰集)

など、歌に詠まれている。
 二十九句目。

   葉すくなに成際目の松
 数珠引のあたり淋しく寺見えて  其角

 数珠引はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「数珠引」の解説」に、

 「数珠を作る職人。《七十一番歌合》には念珠引として現れ,《人倫訓蒙図彙》《今様職人尽百人一首》などでは〈数珠師〉ともいわれ,洛中洛外図にも数珠屋がみられる。そこに描かれた職人は僧形で,舞錐(まいぎり)を使っているが,その組織などはまだ明らかにされていない。【網野 善彦】」

とある。
 数珠の糸を通すのに松の葉を使っていたか。
 三十句目。

   数珠引のあたり淋しく寺見えて
 あき乗物のたて所かる      野馬

 「あき」は空きで空車のことだろう。寺の外の数珠引が住んでいる辺りは、寺に来る人の駕籠置き場になる。
 二裏、三十一句目。

   あき乗物のたて所かる
 被敷その夜を犬のとがむらん   孤屋

 被には「かつき」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「被・被衣」の解説」に、

 「① 頭に載せること。また、そのもの。
  ※玄々集(1045‐46)「かつきせむ袂は雨にいかがせしぬるるはさても思ひしれかし〈侍従内侍〉」
  ② きぬかずきのこと。公家や武家の婦女子が外出の際、顔を隠すために、頭から背に垂らしてかぶり、両手をあげて支えた単(ひとえ)の衣。かつぎ。衣被。のち、室町時代の中期から小袖被衣(こそでかずき)もでき近世に及んだ。近代は晴の日に帷子(かたびら)などを頭から被り、婚礼のときの嫁や、葬式のときの近親女性が用いた服装。かむりかたびら。」

とある。ここでは単に一重の布を下に敷いたということか。
 駕籠を勝手に止めていたら番犬に吠えられた。
 三十二句目。

   被敷その夜を犬のとがむらん
 うきふしさはる薮の切そぎ    其角

 切そぎは削ぎ切りとおなじで、薮の笹や竹の根元を斜めにカットして尖らせたものであろう。おそらく防犯用にそうしていたのだろう。
 番犬には吠えられ、切そぎを踏んで怪我をして、文字通り「憂き節」だ。

 今更になにおひいつらむ竹のこの
     うきふししげき世とはしらずや
              凡河内躬恒(古今集)
 世の中は憂き節しげし篠原や
     旅にしあれば妹夢に見ゆ
              藤原俊成(新古今集)

など、和歌で用いられる。
 三十三句目。

   うきふしさはる薮の切そぎ
 五月雨塗さす蔵に苫きせて    野馬

 苫はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苫」の解説」に、

 「① 菅(すげ)、茅(かや)などを菰(こも)のように編んだもの。
  ② 着物のことをいう。
  ※洒落本・美地の蛎殻(1779)「お直は番茶ちりめんに、嶋つむきの下着〈略〉何れもとばはよし」

とある。この場合は①で、塗ったばかりの蔵の壁が五月雨に濡れないように、苫で覆う。同時に蔵が泥棒に入られないように、辺りの竹薮を切そぎにする。
 「さつきあめ」は日文研の和歌データベースの検索でヒットしなかった。俳諧特有の言葉か。「さみだれ」の用例は多数ある。
 三十四句目。

   五月雨塗さす蔵に苫きせて
 海の夕も大津さびしき      孤屋

 前句を大津の琵琶湖岸に並ぶ海運倉庫とする。賑やかな港も雨の夕暮れは淋しい。
 五月雨の夕べは、

 五月雨の夕べの空にいがばかり
     寝にゆく鳥も羽しほるらむ
              藤原家隆(壬二集)

などの歌がある。
 三十五句目。

   海の夕も大津さびしき
 思ふほど物笑はまし花の隅    其角

 大津はかつて大津京のあった地で、『平家物語』で平忠度の歌とされている、

 さざなみや志賀の都は荒れにしを
     昔ながらの山桜かな
              よみ人しらず(千載集)

の歌もよく知られている。
 「笑はまし」は「ためらいの意志」という用法だろうか。花見には寂しげな場所だが、周りに人もいないし、心置きなく笑おうではないか、というところか。
 挙句。

   思ふほど物笑はまし花の隅
 つくし摘なる麦食の友      野馬

 吉野隠棲の西行法師であろう。

 さびしさに堪へたる人のまたもあれな
     庵ならべむ冬の山里
              西行法師(新古今集)

のような隣人がいて、ともに麦飯を食い、春になれば一緒に土筆を摘み花見をして、今日くらい笑おうではないか、という所で一巻は目出度く終わる。

2022年4月29日金曜日

 今日は午後から雨。
 それでは「啼々も」の巻の続き。

 十三句目。

   男に見えぬ女かなしき
 きぬぎぬを盗入ルと立さはぎ   孤屋

 「盗」の一字に「ぬすびと」とルビがある。
 前句の「男に見えぬ」は男を見る目がないと取り成したか。夜這いの男は泥棒だった。
 十四句目。

   きぬぎぬを盗入ルと立さはぎ
 今はたぶさにかかる髻      野馬

 「たぶさ」と「髻(もとどり)」は同語反復のようだが、若干のニュアンスの違いがあったのか。切り落とされた髻を「たぶさ」と言ったか。
 人のもとどりを切ることは男としての尊厳を奪う犯罪とされていて、コトバンクの「世界大百科事典 第2版「髻切」の解説には、

 「他人の髻すなわち頭頂部に束ねた髪を切り落とす犯罪。中世では本鳥切とも書いた。《古事談》に,在原業平が二条后を盗み去ろうとして奪い返されたうえに,髻を切られたことが見え,《源平盛衰記》に,平重盛が息子が辱められた意趣返しに,兵をもって摂政藤原基房の車を襲い,基房随従の数人の髻を切ったことが見えるなど,中世の犯罪史にもしばしば現れる特異な犯罪である。烏帽子(えぼし)をもって社会的身分を表す最も有力な外的表徴とした時代にあって,結髪および烏帽子の装着に必須な髻を切断することは,被害者の社会生活を麻痺させるばかりでなく,その人の体面を失わせる凌辱的行為とみなされ,その意味で,女性の髪を切り落とす暴行に比すべき犯罪であったが,これに加えて次の2点が,この犯罪をより特異かつ重大なものとしたと考えられる。」

とある。近世に入って烏帽子が廃れても、髷は男の尊厳の象徴だったことには変わりはなかっただろう。
 ここでは後朝に泥棒と騒がれて取り押さえられて、罰として髻を落とされたのだろう。
 十五句目。

   今はたぶさにかかる髻
 血の涙石の灯籠の朱をさして   其角

 灯籠=お寺の連想から、前句を出家の場面とする。血の涙のように見えたが、それは灯籠の灯りの加減で、普通の涙だった。
 十六句目。

   血の涙石の灯籠の朱をさして
 奥の枝折を植る槇苗       孤屋

 奥は多義だが、家の奥、部屋の奥で「枝折」はなさそうなので、ここは陸奥の意味か。『奥の細道』というあの有名なタイトルも陸奥を「奥」と省略しているし。
 旅人が道を間違えないようにと、枝折の代わりに槇の苗を植え、並木道を作る。陸奥に配流された人の心遣いであろう。
 十七句目。

   奥の枝折を植る槇苗
 降りくもる花にあられの音ス也  野馬

 陸奥の道に迷いやすい所というと那須の篠原で、

 もののふの矢並つくろふ籠手のうへに
     霰たばしる那須の篠原
              源実朝(金槐和歌集)

の歌もあり、霰に縁がある。
 那須の篠原の迷い易さは宗祇の『白河紀行』にも、

 「那須野の原といふにかかりては、高萱道をせきて、弓のはずさへ見え侍らぬに、誠に武士のしるべならずば、いかでかかる道には命もたえ侍らんとかなしき」

とあり、弓の先すら隠れてしまうような背の高い笹に埋もれた道で、案内がいないと迷う、と記している。後に芭蕉が書く『奥の細道』でも、迷いやすいということで馬を借りて、あの「かさね」の話になっている。
 とはいえ、ここは花の定座なので、

 花薄枯野の草のたもとにも
     玉散るばかり降る霰かな
              藤原知家(新後撰集)

の歌を用いて、強引に花の句に持って行く。
 十八句目。

   降りくもる花にあられの音ス也
 月夜の雉子のほろほろと鳴    其角

 「けんもほろろ」という言葉があるが、「けん」は雉の鳴き声で、「ほろろ」は羽音だという。
 桜の花に霰の音がしたなと思ったら、雉の羽音だった。
 花に雉は、

 きぎす鳴く大原山の桜花
     狩りにはあらでしばし見しかな
              藤原定方(夫木抄)

の歌がある。
 二表、十九句目。

   月夜の雉子のほろほろと鳴
 せきだにて鎌倉ありく弥生山   孤屋

 「せきだ」は雪駄の古い呼び方。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雪駄・雪踏」の解説」に、

 「〘名〙 (「せっだ」とも) 竹皮草履の裏に、革をはった草履。丈夫で湿気が通らないようにしたもので千利休が工夫したと伝える。江戸時代、元祿(一六八八‐一七〇四)以降、かかとに尻鉄(しりかね)を打つのが流行し、これを「ちゃらかね」といい、以後、尻鉄のないものは雪駄とはいわなくなった。せちだぞうり。せちだ。せきだ。
  ※かた言(1650)四「雪駄(セッタ)を、せきだといふはわろしといへど、苦しかるまじき歟」
  ※浮世草子・好色盛衰記(1688)二「素足に雪踏(セツダ)の音たかく、禿も鼻紙めに立ほど入て」
  [語誌]この語より古い例に「せきだ」があり、「席駄」と当てた例も多い。「むしろ(席)のはきもの(駄)」の意の「席駄」から「せちだ」「せっだ」「せった」と変化し、のちに「雪駄」と当てられたものと思われる。「雪駄」に「せきだ」のよみをつけた例もある。」

とある。
 「弥生山」は特に鎌倉の地名ということではなく、弥生の山ということか。
 月夜の鎌倉の歌はないが、月のない星月夜なら、

 われひとり鎌倉山を越えゆけば
     星月夜こそうれしかりけれ
              京極関白家肥後(夫木抄)

の歌がある。
 ニ十句目。

   せきだにて鎌倉ありく弥生山
 昨は遠きよしはらの空      其角

 昨はルビがないが「きのふ」だろう。昨日ということではなく、この間まではくらいの意味で、吉原通いをやめて出家したか。出家させられたか。
 二十一句目。

   昨は遠きよしはらの空
 物くはぬ薬にもなれわすれ草   野馬

 わすれ草は萱草のことで、延宝六年冬の

 わすれ草煎菜に摘まん年の暮   桃青

の発句もある。
 恋をすると食う物も喉を通らなくなるといわれるから、恋を忘れるという忘れ草は食欲不振の薬にもならないだろうか、とする。原因と結果を混同している。
 二十二句目。

   物くはぬ薬にもなれわすれ草
 手習そまず角入てより      孤屋

 角入(すみいれ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「角入髪」の解説」に、

 「〘名〙 元祿時代(一六八八‐一七〇四)、男性の半元服(はんげんぷく)の髪型。一四歳になった少年が、前髪の額を丸型から生えぎわどおりに剃ると角(かく)型になるところからいう。すみいれ。」

とある。
 半元服の頃から手習いも手に付かず、物も食わなくなった。忘れ草が本来の薬として役立ちそうだ。
 二十三句目。

   手習そまず角入てより
 親は鬼子は口おしき蓑虫よ    其角

 許六編『風俗文選』(宝永四年刊)の素堂「蓑虫ノ説」に、

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。いかに伝へて鬼の子なるらん。清女が筆のさかなしや。よし鬼なりとも瞽叟を父として舜あり。汝はむしの舜ならんか。」

とある。
 貞享四年の「箱根越す」の巻二十四句目にも、

   ころつくは皆団栗の落しなり
 その鬼見たし蓑虫の父      芭蕉

の句がある。
 蓑虫も大人になると角入で角が生えてきて、読み書きもしなくなる。
 二十四句目。

   親は鬼子は口おしき蓑虫よ
 折かけはらん月の文月      野馬

 「折かけ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「折掛・折懸」の解説」に、

 「① 折って引きかけること。
  ② 乳付(ちづけ)の幟(のぼり)の上の乳(ち)に通すための折金。一方は乳に通し、一方は幟竿に添える。おりがね。
  ③ 「おりかけばた(折掛旗)」の略。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※信長記(1622)一五下「武田入道信玄の旗は、白き絹五はばの折かけに、くろき割菱付たる五本なり」
  ④ 「おりかけどうろう(折掛灯籠)」の略。
  ※俳諧・曠野(1689)八「折かけの火をとるむしのかなしさよ〈探丸〉」
  ⑤ 「おりかけがき(折掛垣)」の略。
  ※歌舞伎・夢結蝶鳥追(雪駄直)(1856)四幕「上の方一間の附屋体(つけやたい)、〈略〉下(しも)の方折掛(ヲリカ)けの竹垣」

とあるが、ここは月の文月(文月の満月)ということもあって④のお盆の折掛灯籠であろう。「精選版 日本国語大辞典「折掛灯籠」の解説」に、

 「〘名〙 お盆の魂祭に用いる手作りの灯籠。細く削った竹二本を交差させて折り曲げ、四角のへぎ板の四すみに刺し立てて、その周囲に白い紙を張ったもの。折掛。《季・秋》 〔俳諧・世話尽(1656)〕
  ※浮世草子・好色五人女(1686)五「なき人の来る玉まつる業(わざ)とて、鼠尾草(みそはぎ)折しきて、〈略〉をりかけ燈籠(トウロウ)かすかに、棚経(たなぎゃう)せはしく」

とある。
 蓑虫は鬼だった亡き父を思い、折懸灯籠を張る。

2022年4月28日木曜日

 まあ、とにかくウクライナでも日本経済のためにも、みんな一生懸命戦ってるんだと思うよ。だから、それを揶揄したり神経を逆なでするような報道は本当に糞だと思う。この国もしっかり守っていかなくてはいけないしね。
 防衛という意味では、筆者はまずは日本の文化の防衛に心血を注ぎたい。たとえ日本が他国に支配されても、亡命した人がこの国を思い出せるように。そして、いつか国土を取り戻した時のために。
 まあ、筆者は一度も海外に行ったことがないし、当然亡命の当てなんて何もないから、最後まで日本に残ると思うけどね。

 それではまだ春は終わらないという所で、引き続き『続虚栗』から「啼々も」の巻を読んでみようと思う。
 発句は、

 啼々も風に流るるひばり哉    孤屋

で、空高く揚がって間断なく囀る、いわゆる揚げ雲雀を詠んだもので、それが風に次第に流されてゆくというところに俳諧の笑いを見出している。
 孤屋は後に野坡・利牛とともに『虚栗』の時代を作っていく人だが、この頃は其角の弟子だったか。
 揚げ雲雀は、

 雲雀あがる山のすそ野の夕暮れに
     若葉のしばふ春風ぞふく
              後二条院(風雅集)
 春深き野辺の霞の下風に
     ふかれてあがる夕雲雀かな
              慈円(風雅集)

など、和歌にも詠まれている。
 脇。

   啼々も風に流るるひばり哉
 烏帽子を直す桜一むら      野馬

 野馬も後の野坡で、『虚栗』の時代を作っていく。
 風が強いということで、お公家さんも烏帽子を飛ばされそうになって位置を直す。
 雲雀に桜は、

 梢より羽風をふれて桜さく
     野辺の雲雀もおつる花かな
              正徹(草根集)

の歌がある。
 第三。

   烏帽子を直す桜一むら
 山を焼有明寒く御簾巻て     其角

 山焼きは元は焼畑耕作時代の名残だったのだろう。正月の早い時期に行われ、山焼きのくすぶる炎が生み出す陽炎が、本来春の季語の陽炎だったのだと思う。
 焼畑農法が廃れたあとは神事として山焼きが行われてきた。
 奈良の若草山の山焼きは有名だが、その起源は、若草山焼き行事実行委員会事務局のホームページでは、鶯塚古墳の幽霊が出るから、誰かがそれを追払うために勝手に火をつけたのが起源だとしている。それも江戸時代後期の話としてるから、芭蕉の時代にはなかったことになる。芭蕉も奈良の句は詠んでいるが、山焼きの句はない。
 となると、古典の山焼きは後世に作られた神事とは別物で、本来の畑作のためのものだったと見た方がいいのだろう。
 ウィキペディアに「焼畑農業」の項には、

 「古代の段階では畿内周辺においても行われている。中世・近世においても焼畑は水田耕作の困難な山間部を中心に行われた。近世以前は山中を移動して生活する人々が多数存在したが、時代が下るに連れ定住して焼畑を中心に生計を立てる集落が増えた。
 近世においては江戸時代中後期の徴税強化や山火事などの保安上の理由、山林資源への影響から禁止・制限が行われた。かつて焼畑は西日本全域、日本海沿岸地域を中心に日本全域で行われていたが、明治32年に施行された国有林施業案の影響により焼畑を営む戸数は激減した。」

とある。
 夜明けの山焼きは、

 あづま野のけぶりのたてるところ見て
     かへりみすれは月かたぶきぬ
              柿本人麻呂(玉葉集)

の歌を思わせる。
 四句目。

   山を焼有明寒く御簾巻て
 光けうとく網に入魚       孤屋

 「けうとく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気疎」の解説」に、

 「〘形口〙 けうと・し 〘形ク〙 (古く「けうとし」と発音された語の近世初期以降変化した形。→けうとい)
  ① 人気(ひとけ)がなくてさびしい。気味が悪い。恐ろしい。
  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)四「なれぬほどは鹿狼(しかおほかみ)の声もけうとく」
  ※読本・雨月物語(1776)吉備津の釜「あな哀れ、わかき御許のかく気疎(ケウト)きあら野にさまよひ給ふよ」
  ② 興ざめである。いやである。
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)二「角落して、きゃうとき鹿の通ひ路」
  ③ 驚いている様子である。あきれている。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Qiôtoi(キョウトイ) ウマ〈訳〉驚きやすい馬。Qiôtoi(キョウトイ) ヒト〈訳〉不意の出来事に驚き走り回る人」
  ④ 不思議である。変だ。腑(ふ)に落ちない。
  ※浄瑠璃・葵上(1681‐90頃か)三「こはけうとき御有さま何とうきよを見かぎりて」
  ⑤ (顔つきが)当惑している様子である。
  ※浄瑠璃・大原御幸(1681‐84頃)二「弁慶けうときかほつきにて」
  ⑥ (多く連用形を用い、下の形容詞または形容動詞につづく) 程度が普通以上である。はなはだしい。
  ※浮世草子・好色産毛(1695頃)一「気疎(ケウト)く見事なる品もおほかりける」
  ⑦ 結構である。すばらしい。立派だ。
  ※浄瑠璃・伽羅先代萩(1785)六「是は又けふとい事じゃは。そふお行儀な所を見ては」

とある。ここでも古代の「いみじ」「まばゆし」「すごし」や現代の「やばい」と同様の、悪い意味だったのが最高の意味に転じられる現象が起きているようだ。
 句の方は、山では山焼きが行われ、海では漁火に魚が意味に掛かるとする相対付けになる。
 五句目。

   光けうとく網に入魚
 水鳥や碇のうけの安からぬ    野馬

 水鳥が沢山いるので、係留碇を投げにくいということか。大漁で帰ってきたけど、魚を満載していると鳥が群がってくる。
 六句目。

   水鳥や碇のうけの安からぬ
 梢活たるゆふだちの松      其角

 碇が投げられないから松の梢を掴んで船を岸に引き寄せる。折から夕立で視界も悪い。
 初裏、七句目。

   梢活たるゆふだちの松
 禅僧の赤裸なる凉みして     孤屋

 禅僧は物事に頓着しないから、夕立が来ると松の下で素っ裸になって涼んでいる。
 八句目。

   禅僧の赤裸なる凉みして
 李白に募る盃の数        野馬

 杜甫の『飲中八仙歌』に、

 蘇晋長斎繍仏前 酔中往々愛逃禅
 李白一斗詩百篇 長安市上酒家眠

とある。李白が蘇晋と一緒に飲む情景を想像したか。これも相対付けになる。
 九句目。

   李白に募る盃の数
 俳諧の誠かたらん草まくら    其角

 この頃はまだ蕉門の俳論として「風雅の誠」があったかどうかはよくわからない。普通に俳諧の神髄について李白と語り明かしたいということであろう。其角も酒飲みだし。
 十句目。

   俳諧の誠かたらん草まくら
 雪の力に竹折ル音        孤屋

 雪に折れる竹は、

 くれ竹の折れふす音のなかりせば
     夜ふかき雪をいかでしらまし
              坂上明兼(千載集)
 明けやらぬ寝覚めの床に聞ゆなり
     籬の竹の雪の下折れ
              藤原範兼(新古今集)

など、和歌に詠まれている。
 夜を徹して俳諧の誠を語っていたら、いつしか外は雪で、竹の折れる音がする。和歌の趣向ではあるが、これこそ俳諧に通う、というところか。
 十一句目。

   雪の力に竹折ル音
 樫原や猪渡る道まけて      野馬

 この場合の樫原は樫原流槍術であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「樫原流」の解説」に、

 「近世槍術(そうじゅつ)の一流派。鍵槍(かぎやり)を主とする。流祖は樫原五郎左衛門俊重(とししげ)(?―1655)。俗に柏原流と書く。俊重は初め穴沢主殿助盛秀(あなざわとのものすけもりひで)(雪斎(せっさい))について直槍(すぐやり)を学び、のち鍵槍の術に熟達した。回国中阿波(あわ)においてやむなく真槍(しんそう)をもって勝負し、高野山(こうやさん)に籠居(ろうきょ)中、紀州和歌山の徳川頼宣(よりのぶ)に招かれ、200石を領して大番衆(おおばんしゅう)に任じた。この門から小谷角左衛門、同作左衛門、木川市左衛門らの名手が出て流名を高め、幕末には笠間(かさま)、高槻(たかつき)、姫路、松山、松江などの諸藩で行われた。[渡邉一郎]」

とある。
 猪の通る道で、雪斎の力で猪と戦ったが、負けて竹槍が折れた。
 十二句目。

   樫原や猪渡る道まけて
 男に見えぬ女かなしき      其角

 樫原を普通に樫の木の生い茂った原の意味として、猪に負けて通ってこなくなった男に、男らしくないと女が悲しむ。
 樫原は、

 とやまなる岡の樫原吹き靡き
     荒れゆくころの風の寒けさ
              藤原為家(夫木抄)

の歌がある。

2022年4月27日水曜日

 そういえば前に「超訳百人一首 うた恋。」ってアニメがあったのを思い出して、dアニメにあったので久しぶりに見てみた。在原行平が、江戸時代の頃と随分イメージが違っている。これが今の歴史観なんだろうな。江戸時代だと基本謡曲『松風』だからな。
 ウィキペディアでも、

 「なお、『古今和歌集』によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。」

となっていて、今の歴史学ではあまり重視されてないようだ。
 歴史を考える時に多産多死補正が必要なのではないかと思う。大河ドラマの鎌倉殿も、かなり今の少産少死の感覚が入っているのではないかと思った。特に自分の息子を殺されたのにその犯人をいつまでも生かしておいて、最後には許しまで与える頼朝にはかなり違和感があった。多分先に『曽我物語』の方を読んでしまったからそう感じるのだろう。
 ウクライナの戦争もフロンティアの内戦が当たり前の所では、また見方が違うんだろうな。でも、白人だから大騒ぎしているというのは当たらないと思う。大量の核を保有している国の侵略だから問題なんで、同じ白人でも北アイルランドのことなど、日本ではほとんど話題にもならない。
 知床の事故でもそうだけど、経営者の理不尽な命令というのはどこの会社でもあることだ。強靭な意志を持つ親分型経営者になぜ逆らえないかというと、保身に走る仲間の裏切りも計算に入れなくてはならないからだ。
 嵐の中を舟を出せと言われても、自分は生活のためにこの会社にしがみつきたいと思っていれば、その船長に「気をつけろよ」くらいは言えるが、一緒になって会社と戦ったりはしない。一人の犠牲で多くの社員の首がつながるなら、という判断をしてしまうものだ。
 西洋はギルドの伝統があり、それが近代の労働組合に繋がっている。日本でギルドというと異世界の冒険者ギルドくらいだ。
 日本の労働組合は職人ギルドからの進化形ではなく、社会主義者によるトップダウン型の組織だから、会社の理不尽な命令に加えて、労働組合の理不尽な命令にまで耐えなくてはいけなくなる。だから、労働組合は人気がない。
 経営側を説得するには、経営側の納得する理論、つまり会社にメリットのある提案をする必要がある。そのためには経営のことを勉強しなくてはならない。嵐に舟を出すことに抵抗するなら、安全を優先することが会社のメリットになるという所で説得を試みる必要がある。
 そういう知恵を日本の労働組合は持っていない。はなから資本主義を否定しているからだ。
 賃上げ要求にしても、賃上げが会社にとってメリットにならなくてはならない。例えば、賃金が高ければ優秀な人材が集まるという所で、実力に見合った適切な賃金体系を提案するとか、そこまでできれば日本の会社も良くなると思う。
 経営者が会社を儲かるようにしたいのは勿論のこと、社員も会社が儲かれば必ずメリットがある。対立図式では足の引っ張り合いにしかならない。会社が儲かり社員も儲かる最善のやり方というところから、「安全」に関しても「給与」に関しても取り引きしていかなくてはならない。
 あと、変換ミスで正徹の草根集が草魂集になっていた。お詫びします。

 それでは「川尽て」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   笑に懼て沉む江の鮒
 松並ぶ石の鳥居の陰くらし    露沾

 富岡八幡宮の辺りか。かつては永代島と呼ばれていた隅田川河口の島にあった。
 天和二年(一六八二年)成立の戸田茂睡の『紫の一本』の永代島の所には、

 「八幡の社あり。この地江戸を離れ宮居遠ければ、参詣の人も稀にして、島の内繫昌すべからずとて、御慈悲を以て御法度もゆるやかなれば、八万の社より手前二三町が内は、表店はみな茶屋にて、あまたの女を置きて参詣の輩のなぐさみとす。
 就中鳥居より内おば洲崎の茶屋といひて、十五六二十ばかりのみめかたち勝れたるを、十人ばかりづつも抱へ置きて、酌をとらせ小歌を謡はせ、三味線をひき鼓を打ちて、後はいざ踊らんとて‥‥以下略」

と賑わっていた。鳥居の内は人の笑い声で溢れていて、それに驚いたか、鳥居の影の江に鮒は深く沈む。
 二十六句目。

   松並ぶ石の鳥居の陰くらし
 凩夜々に寒ン笛を吹       其角

 寒ン笛は「かんてき」であろう。
 一転して寂れた神社の境内に、木枯らしがぴゅうぴゅうと、夜に寒い中に聞えてくる笛の音のように聞こえてくる。
 二十七句目。

   凩夜々に寒ン笛を吹
 葺かけて月見の磯屋荒にけり   沾徳

 かつては月見の宴があって、笛や鼓で賑わっていた磯屋も荒れ果てて、今は木枯らしの寒笛の音しかしない。
 二十八句目。

   葺かけて月見の磯屋荒にけり
 御廟の衛士か袂露けし      露荷

 荒れた磯屋では衛士が御廟を守っている。
 衛士というと、

 御垣守衛士のたく火の夜はもえ
     昼は消えつつものをこそ思へ
              大中臣能宣(詞花集)

の歌が百人一首でもよく知られている。
 二十九句目。

   御廟の衛士か袂露けし
 角切て裾野に放す鹿の声     嵐雪

 春日大社の鹿の角切は寛文の頃に始まったという。麓には本地垂迹の関係にある興福寺があり、明治の神仏分離前は隆盛を誇っていた。北円堂は藤原不比等の廟だったともいう。
 三十句目。

   角切て裾野に放す鹿の声
 鉢に食たく篁の陰        虗谷

 篁(たかむら)は竹薮のこと。奈良の順礼僧が竹薮の陰で飯を焚いている。
 二裏、三十一句目。

   鉢に食たく篁の陰
 山おろし笈を並べてふせぐ覧   其角

 巡礼者は笈を背負って旅をしているので。飯を焚く時、風から火を守るのに笈を並べて壁にする。
 三十二句目。

   山おろし笈を並べてふせぐ覧
 聞に驚く毒の水音        露沾

 水毒のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水毒」の解説」に、

 「〘名〙 水あたりの原因となる水の毒。
  ※俚言集覧(1797頃)「加梨勒 かりろくは薬名にて水毒を解す」

とある。
 突然の下痢に野糞をするのを笈を並べて隠してやるが、音は隠せない。
 三十三句目。

   聞に驚く毒の水音
 笘買によする湊は人なくて    露荷

 笘は苫のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苫・篷」の解説」に、

 「① 菅(すげ)、茅(かや)などを菰(こも)のように編み、小家屋の屋根や周囲などのおおいや和船の上部のおおいなどに使用するもの。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ※後撰(951‐953頃)秋中・三〇二「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ〈天智天皇〉」
  ② 江戸時代、大工仲間で着物をいう。〔新ぱん普請方おどけ替詞(1818‐30頃か)〕」

とある。①の苫を買いに港に入ったが人はいなくて、あとで毒の水が流れていたと聞いて驚く。
 三十四句目。

   笘買によする湊は人なくて
 雪の正月を休む塩焼       沾徳

 苫屋というと古典では藻塩焼く小屋で、

 藻塩焼くあまの苫屋のしるべかは
     うらみてぞふく秋のはつかぜ
              藤原定家(拾遺愚草)
 藻塩焼くあまの苫屋にたつ煙
     ゆくへもしらぬ恋もするかな
              源俊頼(散木奇歌集)

などの歌がある。ただ、江戸時代には入浜式塩田が普及し、藻塩は廃れていた。
 浦の苫屋に人がいないのは、雪の正月で藻塩焼きを休んでいたからだ。
 三十五句目。

   雪の正月を休む塩焼
 万葉によまれし花の名所よ    虗谷

 名所は文字数から「などころ」であろう。

 桜花いま盛りなり難波の海
     押し照る宮に聞こしめすなへ
              大伴家持(夫木抄)

だろうか。
 浪花は浪を花に見立てたもので、雪もまた花に見立てられる。三重の意味で花の名所と言えよう。
 挙句。

   万葉によまれし花の名所よ
 霞こめなと又岩城山       嵐雪

 岩城山は、

 岩城山ただ越えきませ磯崎の
     許奴美の浜に我れたちまたむ
              よみ人しらず(夫木抄)

の歌に詠まれている。東海道の薩埵山のこととされ、許奴美の浜は興津の海岸だという。
 「また言ふ」に「いはき山」と掛けて用いられている。花の霞よ立ち込めてくれと願って、一巻は目出度く終わる。

2022年4月26日火曜日

 今回の知床の事故では、岸田首相が急遽熊本から官邸に戻る事態になった。場所がロシアと国境を接するだけに、自衛隊の災害派遣要請に基づく救助活動に、日本が侵略してきたといちゃもん付ける可能性もないとは言えない。侵略の口実にされるかもしれない。何が起こるかわからない今の情勢だ。
 当然ながら、こういう時は、救助活動の一部始終を録画する必要があるし、衛星などで国際的に無実を証明できるアリバイを揃えなくてはならない。ただでさえ悪天候の中で、大変な作業になる。
 とにかくロシアは侵略の意図を隠さないし、中国が連動しなかったのが誤算だったにしても、未だに世界大戦の混乱を狙っている。反米諸国が一斉に放棄すれば、世界最強の米軍とはいえ多方面に戦力が割かれてしまい、ウクライナにも手が回らなくなる。
 あと、日本も今はコロナの恐怖が終わり、関心が防衛の問題に向かっているはずだ。これに乗じて、これを最大のチャンスとして、防衛に対する議論を高めてゆかなくてはならない。
 あえて「乗じて」だとか「チャンス」だとか、左翼を挑発する言葉を使っても良い時だと思う。大きな災害が起きた時は、防災の意識を高める最大のチャンスであり、それに乗じて防災対策を推し進めることは何ら悪いことではないし、恥じることでもない。防衛の議論もそれと同じだ。
 挑発のスキルは大きく言って二つの使い方がある。
 一つは格下に対して用いるやり方で、要するに挑発して、それに乗っていきり立って攻めてきたら、そこを力でねじ伏せる。対立状態を一気に解消したい時に用いる。
 もう一つは格上に対して用いるやり方で、挑発して、それに何らかの反応を示した時点で思いっきり被害者面する。北朝鮮の得意とする瀬戸際外交がそれで、被害者面してごねながら、何らかの譲歩を得ようとする。
 今のところロシアがやっているのは後者の方で、冷静に分をわきまえて、格下だということがわかっててやっているんだと思う。だから余計たちが悪い。
 話は変わるが、ウィキペディアの李白の所を読んでいたら、

 「草堂集序」「新墓碑」『新唐書』などが伝えるところによると、李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。」

とあった。李白の字は太白。
 そこであの「狂句木枯し」の巻の三十三句目、

   箕に鮗の魚をいただき
 わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮

は空海ではなく、李白のことだったと考えた方が良いのかもしれない。鮗(このしろ)を「子の白」と取り成す。
 李白が日本に転生したら「しろちゃん」て呼ばれるのかな。

 それでは「川尽て」の巻の続き。

 十三句目。

   侘てはすがる僧の振袖
 思ひ得ず揚弓くるる園深し    露沾

 揚弓は矢場などで用いる遊戯用の弓で、元禄二年九月、大垣での「はやう咲」の巻二十三句目にも、

   二代上手の医はなかりけり
 揚弓の工するほどむつかしき   曾良

の句がある。
 ここでは矢場ではなく、稚児が庭で揚弓で遊んでたら殺生をしてしまったのだろう。主人の僧に怒られている。
 十四句目。

   思ひ得ず揚弓くるる園深し
 三たび浴ミて夏を忘ルル     其角

 揚弓で汗を流した後は、三回水を浴びて涼む。
 十五句目

   三たび浴ミて夏を忘ルル
 我鞍に蝉のとどまる道すがら   沾徳

 旅体に転じる。馬を降りて水浴びをしてると、鞍に蝉が止まる。
 十六句目。

   我鞍に蝉のとどまる道すがら
 砂吹上る垣の松風        露荷

 海辺で風の強い所だろう。砂除けに松を植えている。
 蝉に松風は、

 琴の音に響きかよへる松風を
     調べてもなく蝉の声かな
              よみ人しらず(新拾遺集)

の歌がある。
 十七句目。

   砂吹上る垣の松風
 燭とりて花すかしみる須磨の浦  嵐雪

 松風から須磨の浦を付ける。謡曲『松風』では在原行平が須磨に配流されたときに、松風・村雨の二人の海女と暮らしたというその跡を訪ねて行く物語で、

 「さてはこの松は松風村雨とて、姉妹の女人のしるしかや。その身は土中に埋もるれども、名は残る世のかたみとて、変らぬ色の松一木、緑の秋を残すらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.31684-31688). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と、形見の松が残されている。
 三年の月日をここで過ごしたなら、紙燭の明りで花を見ることもあっただろう。
 十八句目。

   燭とりて花すかしみる須磨の浦
 小の弥生の光みじかき      虗谷

 旧暦では大の月は三十日で小の月は二十九日になる。一日でも春が早く行ってしまうように思える。その短い春なら、夜でも花を楽しみたい。
 二表、十九句目。

   小の弥生の光みじかき
 濃墨に蝶もはかなき羽を染て   其角

 この頃は蝶というと黄蝶を指すことが多かったが、短い春を儚んだか、出家して墨染の衣を着る蝶がいる、とする。クロアゲハか何かだろう。
 二十句目。

   濃墨に蝶もはかなき羽を染て
 氷を湧す蓬生の窓        露沾

 宮廷の華やかな蝶のような女性も、後ろ盾を失い、家は荒れ果てて蓬生の宿になる。冬は雪に埋もれ、氷を沸かして溶かして生活する。
 『源氏物語』蓬生巻に、

 「霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて、ほかには消ゆる間もあるを、朝日、夕日をふせぐ蓬葎の蔭に深う積もりて、越の白山思ひやらるる雪のうちに、出で入る下人だになくて、つれづれと眺め給ふ。」
 (十一月になると雪や霰が時折降って、余所では所々融けているのに、朝日や夕日を遮る蓬や葎の陰に深く積ったまま、越中白山を思わせるような雪の中には出入りする下人すらいなくなって、ただぼんやりと眺めていました。)

という場面がある。
 二十一句目。

   氷を湧す蓬生の窓
 うれしさよ若衆に紙子きせたれば 露荷

 寒い中の貧しい生活で、紙子を着せてもらえれば嬉しい。紙は風を通さないので暖かい。
 二十二句目。

   うれしさよ若衆に紙子きせたれば
 東に来てもまた恋の奥      沾徳

 紙子を旅支度とする。後の芭蕉の『奥の細道』にも、「帋子一衣(かみこいちえ)は夜の防ぎ」とある。
 東国にやって来て、更に陸奥まで行っても恋をする。在原業平であろう。
 二十三句目。

   東に来てもまた恋の奥
 常陸なる板久にあそぶ友衛    虗谷

 板久は「イタコ」とルビがあるので潮来のことだろう。潮来は水運の要衝で遊郭があった。
 井原西鶴の『好色一代男』の世之介も全国津々浦々の遊郭めぐりをやっていて、常陸鹿島にも来ているから、潮来にも立ち寄っていたかもしれない。
 友衛はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「友千鳥」の解説」に、

 「① 群れ集まっている千鳥。むらちどり。むれちどり。
  ※源氏(1001‐14頃)須磨「ともちどりもろ声になくあか月はひとりねさめのとこもたのもし」
  ② 植物「こあにちどり(小阿仁千鳥)」の異名。」

とある。遊郭があれば人も群がる。
 友千鳥は、

 友さそふ湊の千鳥声すみて
     氷にさゆる明け方の月
              和泉式部(続千載集)
 友千鳥群れて渚に渡るなり
     沖の白洲に潮や満つらむ
              源国信(新勅撰集)

などの歌に詠まれている。
 二十四句目。

   常陸なる板久にあそぶ友衛
 笑に懼て沉む江の鮒       嵐雪

 「懼て」は「おぢて」とルビがある。「沉む」にルビはないが「しづむ」であろう。
 遊ぶ友千鳥だから、その声は笑っているように聞こえる。鮒は食われまいと千鳥の笑い声を恐れ、川深く潜る。

2022年4月25日月曜日

 ルペンさんはロシアのことがなければ勝っていたのか、日本人的にはそういう感覚になるが、フランス人のことはよくわからない。
 日本の右翼は北方領土とシベリア抑留のことがあるから、大体元からロシア大っ嫌いというのが多いけどね。八月九日は反ソデーといって、毎年右翼の街宣車が行進したりしてたけど、今年は盛り上がるんじゃないかな。今は反ロデーというのか。
 まあ、左翼の連中があたかも右翼が親ロシアであるような印象操作をしようとしているけど、日本では無理筋だ。
 西洋の右翼は案外親ロシアが多かったりするのかな。だとすると西洋人はころっと騙されてくれるかもな。まあ、日本だけでなく海外の人権派の人たちが、neto-uyoという実態のない藁人形叩きに熱中してくれれば、日本の右翼は安泰だ。
 その左翼、今は維新叩きに熱中してるから、まあ自民党も参院選は楽勝だな。
 それとあの知床の事故で思ったんだけど、日本で会社の社長になろうという人は、大体はどことなくアウトローで、強靭な意志の強さでもって、少なからず人を脅して従わせるタイプの人が多いと思う。
 そういう人というのは、自分が理不尽な命令を受けたり、無茶な取引を持ち掛けられても、相手がだれであろうと頑として跳ね返す力があるんだ。だから親分として君臨できる。
 そういう人は、部下も同じように、無茶を言われてたら当然刃向かってくると思っている。自分だったらそうするから、人もそうするはずだと思う。
 ところが、凡庸な人間はとてもじゃないけど刃向かえない。無理だとわかっても引き受けてしまう。そこでああいう事故が起こるんじゃないかと思う。
 刃向かってこないから、納得してると思い込んでいる。ロシアのあの人もそういう所があるんじゃないかな。
 昨日の続きで鶴と亀が出た所で籠目歌の考察になるが、あれは夜這いの歌ではなかったか。

 かごめかごめ
 籠の中の鳥はいついつ出会う

の籠の鳥は、大切に育てられて世間から隔絶された女性の象徴で、

 夜明けの晩に
 鶴と亀がすべった

は陰陽和合の象徴になる。おそらく「鶴と亀が統べった」であろう。陰陽和合は陰気の上昇の△と陽気の下降の▽を合わせて、六芒星の籠目のマークになる。そこで、

 後ろの正面だーれ

というのは、密かに通ってきて後ろ正面(真後ろ)に立っているのは誰だ、という意味になる。夜這いの犯人捜しの歌だ。

 さて、それでは春の俳諧の続きで、『続虚栗』(其角編、貞享四年刊)から、「川尽て」の巻を行って見ようと思う。
 発句は、

 川尽て鱅流るるさくら哉     露沾

 鱅はここではカジカとルビがふってある。多分元は日本にいない魚の字だったのか、他にもハクレン、コノシロ、ハマギギ、ダボハゼ、チチカブリ(ウキゴリ)などの読み方がある。
 「尽くす」という言葉は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「尽・竭・殫」の解説」に、

 「① つきるようにする。
  (イ) なくする。終わりにする。
  ※万葉(8C後)一一・二四四二「大土は採りつくすとも世の中の尽(つくし)得ぬ物は恋にしありけり」
  ※地蔵十輪経元慶七年点(883)四「我等が命を尽(ツクサ)むと欲(おも)ひてするにあらずあらむや」
  (ロ) あるかぎり出す。全部出しきる。つきるまでする。
  ※万葉(8C後)四・六九二「うはへなき妹にもあるかもかくばかり人の心を尽(つくさ)く思へば」
  ※源氏(1001‐14頃)桐壺「鈴虫の声のかぎりをつくしてもながき夜あかずふるなみだ哉」
  ② その極まで達する。できるかぎりする。きわめる。
  ※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)五「永く苦海を竭(ツクシ)て罪を消除し」
  ※春窓綺話(1884)〈高田早苗・坪内逍遙・天野為之訳〉一「凞々たる歓楽を罄(ツ)くさんが為めのみ」
  ③ (動詞の連用形に付いて) 十分にする、すっかりする、余すところなくするの意を添える。「言いつくす」「書きつくす」など。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Yomi(ヨミ) tçucusu(ツクス)。モノヲ cuitçucusu(クイツクス)」
  ※日本読本(1887)〈新保磐次〉五「マッチの焔を石油の中に落したるが、忽満室の火となり、遂にその町を類焼し尽しぬ」
  ④ (「力を尽くす」などを略した表現で) 他のもののために働く。人のために力を出す。
  ※真善美日本人(1891)〈三宅雪嶺〉国民論派〈陸実〉「個人が国家に対して竭すべきの義務あるが如く」
  ⑤ (「意を尽くす」などを略した表現で) 十分に表現する。くわしく述べる。
  ※浄瑠璃・傾城反魂香(1708頃)中「口でさへつくされぬ筆には中々まはらぬと」
  ⑥ 心をよせる。熱をあげる。
  ※浮世草子・傾城歌三味線(1732)二「地の女中にはしゃれたる奥様、旦那様のつくさるる相肩の太夫がな、見にござるであらふと」
  ⑦ (「あんだらつくす」「阿呆(あほう)をつくす」「馬鹿をつくす」などの略から) 「言う」「する」の意の俗語となる。
  (イ) 「言う」をののしっていう語。ぬかす。ほざく。〔評判記・色道大鏡(1678)〕
  ※洒落本・色深睡夢(1826)下「大(おほ)ふうな事、つくしやがって」
  (ロ) 「する」をののしっていう語。しやがる。しくさる。
  ※浄瑠璃・心中二枚絵草紙(1706頃)上「起請をとりかはすからは偽りは申さないと存じ、つくす程にける程に」

とある。この場合は③の意味で、美味なカジカが獲れて桜の花びらも流れてきて、川の面白さもここに極まる、というところだろう。
 脇。

   川尽て鱅流るるさくら哉
 黄精ある峡の日の影       其角

 黄精は「あまところ」とルビがある。アマドコロ(甘野老)のことで、ウィキペディアには、

 「アマドコロ(甘野老、学名: Polygonatum odoratum)は、キジカクシ科アマドコロ属の多年草。狭義にはその一変種 P. o. var. pluriflorum。日当たりのよい山野に生え、草丈50センチメートル前後で、長楕円形の葉を左右に互生する。春に、葉の付け根からつぼ形の白い花を垂れ下げて咲かせる。食用や薬用にもされる。変種に大型のヤマアマドコロ、オオアマドコロがある。」

とある。野老(トコロ)に似てるが甘みがあり、春は若芽を食用にする。
 発句の「川尽て」の応じて、カジカに桜に更にアマドコロと谷に射しこむ日の光りを付ける。至れり尽くせりだ。
 第三。

   黄精ある峡の日の影
 春を問童衣冠をしらずして    沾徳

 「はるをとふわらはいかんを」であろう。衣冠はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「衣冠」の解説」に、

 「① 衣服と冠(かんむり)。
  ※続日本紀‐養老六年(722)一一月丙戌「敬二事衣冠一終身之憂永結」
  ※文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉一「衣冠美麗なりと雖ども、衙門巍々たりと雖ども、安ぞ人の眼を眩惑するを得ん」 〔論語‐堯曰〕
  ② 衣冠をつけている人。高貴な人。天子、皇帝に仕えている人。〔李白‐登金陵鳳凰台詩〕
  ③ 平安中期から着用した装束の名称。束帯よりも略式の装束で、下襲(したがさね)および石帯(せきたい)を着けず、表袴(うえのはかま)、大口もはかないので、裾は引かない。冠をかぶり、縫腋(ほうえき)の袍(ほう)を着、指貫(さしぬき)をはくのがふつう。はじめは宿直装束(とのいそうぞく)として用いられたが、参朝などの時にも着用されるようになった。
  ※大鏡(12C前)六「布衣、衣冠なる御前のしたるくるまのいみじく人はらひなべてならぬいきほひなるくれば」

とある。
 そのままの意味だと山中に棲む童は高貴な人の衣装を知らない、ということだが、それだけなのか、何か出典があるのか。「あま」の日の光りに、天子様の縁で付けたか。
 四句目。

   春を問童衣冠をしらずして
 壁なき間屋に残る白雪      露荷

 問屋(といや)ではなく「間屋」なので、「まや」だろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「真屋・両下」の解説」に、

 「① 切妻造りのこと。「ま」は両方、「や」は「屋根」の意とする説と、神社建築がすべて切妻造りであるところからも、仏教建築渡来以前は切妻造りが上等な建物に用いられたため、「真(ま)」の意とする説とがある。⇔片流れ。→真屋の余り。
  ※尊勝院文書‐天平勝宝七年(755)五月三日・越前国使等解「草葺真屋一間〈長二丈三尺 広一丈六尺〉」
  ② 四方へ屋根が傾斜するように建てた家。寄せ棟(むね)づくりに建てた家。あずまや。また、屋根と柱だけの小さい家。〔名語記(1275)〕
  ③ 別棟などに対して、主となる家屋をいう。〔改正増補和英語林集成(1886)〕」

とある。②の「屋根と柱だけの小さいら」なた「壁なき間屋」と一致する。牧童のような童形の職業の人の作業小屋であろう。高貴な人とは縁がない。
 五句目。

   壁なき間屋に残る白雪
 月冴て砧の槌のつめたしや    嵐雪

 「月冴て」は冬月になる。

 月さゆる氷のうへにあられふり
     心くだくる玉川のさと
              藤原俊成(千載集)

の歌は冬に分類されている。
 月に砧は、

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

による。
 六句目。

   月冴て砧の槌のつめたしや
 人は風ひくね覚ならまし     虗谷

 寒い冬の夜に砧を打っていると風邪をひく。
 初裏、七句目。

   人は風ひくね覚ならまし
 傾城の淋しがる顔あはれ也    其角

 風邪で訪ねていけないとなると吉原の傾城も寂しがる。多分紋日であろう。この日は遊女は客を取らなくてはならないから、普段からなじみ客に声をかけて確保しておく。それが風邪でドタキャンになると結構困る。
 八句目。

   傾城の淋しがる顔あはれ也
 初秋半恋はてぬ身を       露沾

 「半」は「なかば」。初秋の半ばはお盆のころ。お盆は遊郭も静かになったか。
 九句目。

   初秋半恋はてぬ身を
 蛬歯落て小哥ふるへけり     露荷

 蛬は「きりぎりす」とルビがある。コオロギのこと。
 初秋のコオロギの淋しげな声が、歯が抜けても昔の遊郭通いが忘れられずに唄う爺さんの小唄のようだ。弄斎節だろうか。

 秋風の吹きくるよひは蛬
     草のねごとにこゑみだれけり
              紀貫之(後撰集)

の歌の心か。
 十句目。

   蛬歯落て小哥ふるへけり
 楼おりかぬる暁の雁       沾徳

 楼は妓楼だろうか。歯が抜けても生涯遊郭で過ごす老いた遊女とする。秋に飛来した雁が地面に降りられないような宙ぶらりんな状態だ。
 十一句目。

   楼おりかぬる暁の雁
 鼓うつ田中の月夜悲しくて    虗谷

 刈ったばかりの田んぼの真ん中で鼓を打って、月見のどんちゃん騒ぎをしている人がいるので、明け方になっても飛来した雁は地面に降り立つことができず、高い楼の上にいる。
 十二句目。

   鼓うつ田中の月夜悲しくて
 侘てはすがる僧の振袖      嵐雪

 「僧の振袖」がよくわからないが、昔は元服前には男女とも振袖を着ていた。僧に仕える稚児のことか。
 田中の寺で、僧は鼓を打っては慰めるが、それでも悲しくも侘しくて、稚児が僧にすがりつく。

2022年4月24日日曜日

 鶴は今では「つる」と呼ぶのが一般的だが、古代では「たづ」と呼ぶことが多く、古今集以降の和歌の言葉では「あしたづ」という住之江の芦とセットで呼ぶことが多い。
 元になったのは、

 和歌の浦に潮満ちくれば潟をなみ
     芦辺をさして田鶴鳴きわたる
              山部赤人

の『万葉集』の歌だったが、この歌が勅撰集に採用されたのは、文永二年(一二六五年)の『続古今集』とかなり遅い。おそらくこの時代の和歌に「芦田鶴」という言葉が頻繁に用いられるようになったので、その出典を勅撰集で公認する必要があったのだろう。
 中世和歌は基本的には八代集までの歌人の言葉を「雅語」として使用するものだったが、それでは趣向的に行き詰ってしまうので、『万葉集』や俗歌などの言葉をそれとなく取り入れながら、マンネリを打開しようとしていたのであろう。
 もちろん「芦田鶴」という言葉は『古今集』にもある。

 住の江の松ほど久になりぬれば
     芦田鶴の音になかぬ日はなし
           兼覧王(古今集)

の歌は、今の鶴のお目出度いイメージとはかなり違う。ただ、鶴がなぜお目出度いものになったかという原因には大きくかかわっている。
 キーワードは住の江の松で、ここで来ぬ人を待つ趣向は、そのまま謡曲『高砂』に直結するからだ。

   法皇にし河におはしましたりける日、
   つるすにたてりといふことを題にてよませたまひける
 芦田鶴のたてる河辺を吹く風に
     よせてかへらぬ浪かとぞ見る
           紀貫之(古今集)

の歌も、兼覧王の歌同様、芦辺に立って来ぬ人を待つというテーマが仄めかされている。

 芦田鶴のひとり遅れて鳴くこゑは
     雲の上まて聞こえつかなむ
           大江千里(古今集)

の歌は、渡りをする鶴の一羽取り残された姿とするが、芦辺の鶴の声にやはり悲しみを読み取る。
 住之江の松はやがて住吉神社の雌松となり、播磨潟の尾上の松が夫だったという伝説に発展し、その尾上の松が大阪湾を渡って住吉の雌松に逢いに行き、目出度し目出度しとなるところに、謡曲『高砂』が成立する。

 「高砂や、この浦船に帆をあげて、この浦船に帆をあげて、月もろともに出汐の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて早や住の江に・着きにけり早や住の江に着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1887-1890). Yamatouta e books. Kindle 版.)

の謡いは長いこと結婚式の定番となった。
 悲し気に鳴いていただけの芦田鶴は、やがて夫婦の仲介者になって行く。
 その一方で、中世の歌人たちは、こうした悲しい情を含ませながらも、景物として芦田鶴を詠むような傾向が生じて行った。

 さ夜更けて声さへ寒きあしたづは
     幾重の霜か置きまさるらむ
           藤原道信(新古今集)
 難波潟汐干にあさる芦鶴も
     月かたぶけば声の恨むる
           俊恵法師(新古今集)
 和歌の浦に月の出汐のさすままに
     夜鳴く鶴の声ぞ悲しき
           慈円(新古今集)

がその走りとなる。
 この流れから、山辺赤人のあの歌の再評価の声も上がって行ったのだろう。
 一方で「つる」という言葉は主に賀歌に用いられてきた。

   藤原三喜の六十の賀のために詠む
 鶴亀も千とせののちは知らなくに
     飽かぬ心にまかせはててむ
           在原滋春
 この歌は、ある人は在原時春の歌ともいう。(古今集)

のように長寿の象徴として詠まれている。
 『拾遺集』の賀歌には、

   ある人の産してはべりける七夜
 松が枝のかよへる枝をとぐらにて
     巣立てらるべき鶴の雛かな
              清原元輔(拾遺集)
   大弐国章、孫の五十に破籠調じて歌を絵に描
   かせける
 松の苔千歳をかねておひ茂れ
     鶴のかひこの巣とも見るへく
              清原元輔(拾遺集)

のように鶴の雛や卵を詠んでいる。
 鶴と亀をセットにするのは、鶴を朱雀に、亀を玄武に見立ててのこととも言うが、その起源は定かでない。北を天にして南を地とすれば、これは天地の和合、陰陽和合のシンボルになる。空を飛ぶ鶴に、水に棲む亀のセットは、花に鳴く鶯、水に棲む蛙の組み合わせにも似ている。
 雲居からの鶴の飛来は天の陽気の下降になり、亀が現れるのは地の底からの陰の気の上昇となる。この二つが合わさると易でい地天泰の卦になる。天地和合、夫婦和合のお目出度い徴となる。
 ちなみに陽気の下降は▽の記号で表され、陰気の上昇は△の記号で合わされ、その和合はこの二つを合わせた六芒星の形で表され、日本では「籠目」と呼ばれる。
 江戸時代になると鶴は縁起物として定着し、折り紙などでも盛んに折られ、一枚の紙からたくさんの鶴を折り出すような遊びも生じた。寛政九年(一七九七年)刊の『秘伝千羽鶴折形』などが、その一つの頂点を示している。
 その鶴が平和のシンボルになったのは、意外に新しい。広島市のホームページには、

 「平和記念公園内ではいたる所で、色鮮やかな折り鶴が見受けられます。折り鶴は日本の伝統的な文化である折り紙の一つですが、今日では平和のシンボルと考えられ、多くの国々で平和を願って折られています。このように折り鶴が平和と結びつけて考えられるようになったのは、被爆から10年後に白血病で亡くなった少女、佐々木禎子さんが大きくかかわっています。
 佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳のときに被爆しましたが外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、9年後の小学校6年生の秋(昭和29年・1954年)に突然、病のきざしが現れ、翌年2月に白血病と診断され広島赤十字病院に入院しました。回復を願って包み紙などで鶴を折り続けましたが、8か月の闘病生活の後、昭和30年(1955年)10月25日に亡くなりました。
 禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにものぼります。」

とある。
 来ぬ人を悲し気に待つ鶴の声から、逢うことのできたお目出度い鶴へと変わっていった日本の長い歴史と、長寿の象徴として亀とともに古くからある鶴からすると、平和の象徴としての鶴はやや異質な感じがする。むしろ発想的には願掛けであって、ミサンガに近い。
 今、ウクライナへ千羽鶴を送るべきか否かの議論が巻き起こっているが、歴史を踏まえるなら、それほど長い歴史を持った習慣でもなく、連続性も疑わしい。広島長崎だけの習慣に留めても良いのではないかと思う。
 あと「『蛙合』を読む」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「山吹や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   なみださがしや首なしの池
 ぬれ具足芦刈やつに剥れけん   藤匂子

 合戦で死んで首を持ち去られた死体の具足は、芦刈る人が持ち去って、どこかに売るのだろう。
 芦刈は和歌では芦刈小舟として用いることが多く、芦刈る人は、

 霜枯れの芦刈る人の宿なれば
     八重垣にして住まふなりけり
              永縁(堀河百首)

が数少ない用例になる。ここでは俳諧なので、「芦刈る奴」とする。
 二十六句目。

   ぬれ具足芦刈やつに剥れけん
 婆-靼にわたる島おろし舟     其角

 婆-靼はフィリピンのバタン島で、ウィキペディアには、「1668年(寛文8年)、渥美半島沖で漂流した千石船がバタン島に漂着した。」とある。参考文献の「尾張者異國漂流物語」のところに、寛文十年(一六七〇年)九月十九日に尾張国に帰ってきたとある。
 漂流先で略奪にあったことなどが、寛文の終わりから延宝の頃の話題になっていたのだろう。
 二十七句目。

   婆-靼にわたる島おろし舟
 鳥葬にけふある明日の身ぞつらき 其角

 鳥葬はチベットのものがよく知られているが、前句の異国ということで、何となくそういうのがありそうだというので出したのだろう。
 バタン島で死んで鳥葬になった人を見ると、明日は我が身と思えて辛い。
 日本でも古代は特定の葬送地とされる野原に打ち捨てていたから、結果的に遺体は鳥に食われるので、それも鳥葬と言えなくはない。「鳥辺野」という地名も残っている。

 薪尽き雪ふりしける鳥辺野は
     鶴の林の心地こそすれ
              法橋忠命(後拾遺集)
 はれずこそかなしかりけれ鳥部山
     たちかへりつるけさの霞は
              小侍従命婦(後拾遺集)

などの歌はあるが、この時代は火葬の地になっていた。
 二十八句目。

   鳥葬にけふある明日の身ぞつらき
 寐ざめ語りをきらふ上-臈     藤匂子

 「寐ざめ語り」は平安後期の物語『夜半の寝覚』のことか。書き出しに、

 「人の世のさまざまなるを見聞きつもるに、なほ寝覚めの御仲らひばかり、浅からぬ契りながら、よに心づくしなる例は、ありがたくもありけるかな」

とある。
 この物語に登場する中の君が「寝覚の上」とも呼ばれている。かなり過酷な運命をたどるので、この物語を好まない上臈も多かったか。
 二十九句目。

   寐ざめ語りをきらふ上-臈
 残る月戸にきぬぎぬの歌ヲ書   藤匂子

 前句を普通に、寝覚めた時の後朝に何も言いたくなくて、として、戸に後朝の歌を書き付けておく。
 残る月は、

 松山と契りし人はつれなくて
     袖越す波に殘る月影
              藤原定家(新古今集)

の歌がある。どんな波も末の松山を越すことがないと誓った人も口先だけだった。
 三十句目。

   残る月戸にきぬぎぬの歌ヲ書
 蕣の朝粧ひ髪ゆふてやる     其角

 粧ひは「よそひ」とルビがある。
 『源氏物語』の朝顔には特に後朝の場面はないので、特にそれとは関係なく、朝顔の咲く朝に、帰る男の髪を結ってやり、男は戸に後朝の歌を書いて行くということで、遊郭の朝の場面か。
 二裏、三十一句目。

   蕣の朝粧ひ髪ゆふてやる
 蜩の虚労すずしく成にけり    其角

 虚労(きょらう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「虚労」の解説」に、

 「① 病気などで、心身が疲労衰弱すること。また、その病気。
  ※菅家後集(903頃)叙意一百韻「嘔吐胸猶遂、虚労脚且」
  ※咄本・多和文庫本昨日は今日の物語(1614‐24頃)「ある人、きょらふして、さんざん顔色おとろへ、医者にあふ」
  ② 肺病。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。秋になって蜩の声も衰えて来るのを「蜩の虚労」とする。前句の朝の支度に季候を添えて流す。
 蜩は、

 いま来むと言ひて別れし朝より
     思ひくらしの音のみぞなく
              僧正遍照(古今集)
 秋風の草葉そよぎて吹くなへに
     ほのかにしつるひくらしのこゑ
              よみ人しらず(後撰集)

など、古くから歌に詠まれている。
 三十二句目。

   蜩の虚労すずしく成にけり
 雨母親の留守を慰む       藤匂子

 一人家に残された母は日頃の疲れを癒し、雨上がりの夕暮れの蜩の声の涼しさに癒される。
 雨の蜩は、

 小萩咲く山の夕影雨過ぎて
     名残の露に蜩ぞ鳴く
              藤原良経(夫木抄)

の歌がある。
 三十三句目。

   雨母親の留守を慰む
 烟らせて男の立テ茶水くさし   藤匂子

 母親の留守に男が自分で立てた茶は、雨で湿った薪で煙たい上に水っぽい。
 三十四句目。

   烟らせて男の立テ茶水くさし
 入あひ迄を借ス座敷かな     其角

 昼の座敷を借りて男たちが集まって、そこでお茶を立てたりしたのだろう。男ばかりというと俳諧の集まりか。
 三十五句目。

   入あひ迄を借ス座敷かな
 蝶-居-士が花の衾に夢ちりて   其角

 蝶居士はここでは人間ではなく、死んだ蝶のことであろう。蝶の死骸のうえに散った桜の花びらが積もり、その様がさながら花の衾(ふすま)のようだ。
 衾はウィキペディアに、

 「衾(ふすま)は平安時代などに用いられた古典的な寝具の一種。長方形の一枚の布地で現在の掛け布団のように就寝時に体にかけて用いるため、後世の掛け布団も衾と呼ぶことがある。」

とある。
 前句を花見の座敷とする。昔は夜になると真っ暗になるので、花見は昼間するものだった。
 挙句。

   蝶-居-士が花の衾に夢ちりて
 仏にけがす茎立の露       藤匂子

 茎立(くくたち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「茎立」の解説」に、

 「① スズナやアブラナなどの野菜。また、それらの薹(とう)。くくたちな。くきたち。くきたちな。《季・春》
  ※万葉(8C後)一四・三四〇六「上毛野佐野の九久多知(ククタチ)折りはやし吾れは待たむゑ今年来ずとも」
  ※古今著聞集(1254)一八「くくたちをまへにてゆでけるに」
  ② (━する) 芽や茎などがのびること。薹(とう)がたつこと。
  ※読本・椿説弓張月(1807‐11)後「切口より葉生出、いく度も茎立(ククタチ)して、春に至りても尽ずといふ」
  [補注]ククは、ククミラ(=韮(ミラ))のククと同様に、クキ(茎)の被覆形。」

とある。スズナやアブラナの薹(とう)というと菜の花のことではないかと思う。
 菜の花の露が泥を濡らし、仏となった蝶の死骸を汚して行く。
 蝶というと胡蝶の夢という『荘子』の言葉もあり、きっと何かに転生してまた生まれてくるのであろう。悲しむなかれ、ということか。

2022年4月23日土曜日

 Apple Musicのニュー・ミュージック・ミックスににТінь Сонця(ティン・ソンチャ)の「Новий світанок (feat. Юрій Руф) 」が入っていた。グーグル翻訳だとタイトルは「新しい夜明け」だそうだ。
 四月一日にドンパスのルハンシク方面で戦死したウクライナの詩人「ユーリー・ルフ」の最後の投稿を歌にした曲だという。
 夜明け前の空、暗がりの中の錆色の地平線で空が燃え上がり、雲の裂け目が顕わになる。また、尾を曳いた光る飛翔体が空を横切って行く。
 仲間たちの寝静まる中、春もまだ凍える寒さの中で紡ぎ出された言葉は、残念ながらグーグル先生の翻訳でも意味は掴みにくい。
 ユーリー・ルフさんは初めて聞いた名前だし、日本語版のウィキペディアにその項目はまだないけど、でもルフさんが見ることのできなかった夜明けを、いつか世界中の人が見られることを祈ろう。いつか見よう焼けた高炉の朝霞。
 今日は等覚院のツツジを見に行った。今でこそツツジは奇麗に刈り込まれていろんな色の花が楽しめるが、古典の世界では山の岩場に自生するツツジだったんだろうな。美しい庭園の景色も、長い歴史の積み重ねがあってのものだ。
 国を守るというのは、それを守ることなんだ。今日撮影の写真。


 それでは「山吹や」の巻の続き。

 十三句目。

   小袖をさらす凉店の風
 夕闌て官女の相撲めし給ふ    藤匂子

 「闌て」は「たけて」で宴もたけなわというときの「たけ」。
 裸の男たちが体をぶつけあう相撲は官女たちの楽しみ。前句をその情景とする。
 十四句目。

   夕闌て官女の相撲めし給ふ
 夭-盞七ツ星をちかひし      其角

 夭は若いという意味で、力士の若者が盃を取って、白星を七つ上げることを誓う。
 十五句目。

   夭-盞七ツ星をちかひし
 月兮月兮西瓜に剣を曲ケル    其角

 月兮には「つきなれや」とルビがある。兮は漢詩の調子を整えるための言葉で、上古では「ヘイ」と発音していた。「月が出たぜhey!」といったところか。
 前句を若い武将の北斗星への誓いとし、月夜の宴に西瓜を剣を刺して謡い舞う。
 北斗星は天を指すということで、俺は皇帝になるぞ、といったところか。三国志的な乗りだ。
 十六句目。

   月兮月兮西瓜に剣を曲ケル
 弓張角豆野に芋ヲ射ル      藤匂子

 三日月のことを弓張り月というところから、剣舞の横では弓で芋を射って、その腕前をアピールしている。
 「角豆」は「大角豆」のことで「ささげ」であろう。弓を張り捧げ、と掛けて用いる。
 十七句目。

   弓張角豆野に芋ヲ射ル
 里がくれおのれ紙子のかかしニて 藤匂子

 芋を射ているのは、そういう格好をした案山子だった。紙子のを着て弓を以て、ささげの畑に立つ。
 十八句目。

   里がくれおのれ紙子のかかしニて
 なじみは離ぬ雪の吉原      其角

 「離ぬ」は「かれぬ」と読む。雪の吉原でなじみ客も来ない。
 案山子はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「案山子・鹿驚」の解説」に、

 「① (においをかがせるものの意の「嗅(かが)し」から) 田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く。おどし。
  ② (①から転じて) 竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。田畑などに立てて人がいるように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの。かがせ。そおず。かかし法師。《季・秋》
  ※虎寛本狂言・瓜盗人(室町末‐近世初)「かかしをもこしらへ、垣をも念の入てゆふて置うと存る」
  ※俳諧・猿蓑(1691)三「物の音ひとりたふるる案山子哉〈凡兆〉」
  ③ 見かけばかりで、地位に相当した働きをしない人。つまらない人間。見かけだおし。
  ※雑俳・初桜(1729)「島原で年迄取った此案山子」

とあり、ここでは③の意味に取り成される。なじみ客は格好だけの男で「おのれ」を罵る時の言葉とする。
 二表、十九句目。

   なじみは離ぬ雪の吉原
 米の礼暮待文にいはせけり    其角

 「暮待文」は「暮れ待つ文」か。年の暮れになって米の礼状が来た。
 二十句目。

   米の礼暮待文にいはせけり
 初木がらしを餝ルしだ寺     藤匂子

 餝ルは「かざる」。しだ寺は歯朶の生い茂る寺ということか。苔寺は有名だが。
 二十一句目。

   初木がらしを餝ルしだ寺
 暁の閼伽の若水おとかへて    藤匂子

 閼伽は仏に捧げる水。
 若水は古代は立春の日の朝に汲む水で、

 袖ひちてむすびし水のこほれるを
     春立つけふの風やとくらむ
              紀貫之(古今集)

の歌も若水を詠んだものであろう。
 江戸時代では正月の朝に正月行事を司る年男(今のようなその年の干支の男という意味はない)が汲むものだった。『阿羅野』に、

 わか水や凡千年のつるべ縄    風鈴軒

の句があるところから、普通に井戸で汲んでいたようだ。
 毎朝閼伽水(あかみづ)を汲む歯朶寺では、正月になるとその水が「若水(わかみづ)」と若干音を変える。
 外は寒くていまだに木枯らしが吹いているが、正月に吹く木枯らしは初木枯らしだ。
 二十二句目。

   暁の閼伽の若水おとかへて
 崫も餅はかびけりの春      其角

 前句の閼伽水を若水に変える僧を、岩窟に籠る修行僧とする。湿っぽい岩窟では餅もすぐにカビが生える。
 二十三句目。

   崫も餅はかびけりの春
 猟師をいざなふ女あとふかく   其角

 猟師を「れふし」と読むと字足らずだから、「かりびと」か「かりうど」だろう。
 その猟師を岩窟に誘う女は普通の女ではなさそうだ。人外さんか。
 「あとふかく」は女のあとをついて行って奥深くへということか。
 二十四句目。

   猟師をいざなふ女あとふかく
 なみださがしや首なしの池    藤匂子

 首無し死体の沈んでいる池があって、首がどこへ行ったか涙ながらに探す。前句は猟師に首の捜索を頼むということになる。
 今のところそれしか思いつかない。何か出典があるのかもしれない。

2022年4月22日金曜日

 思うに日本の終身雇用制と主婦制が最も良く機能していたのは六十年代の高度成長期で、その後、繊維や造船などの戦後初期の主力産業が急速に衰退していったときに、終身雇用の人材の流動性のなさが既に日本経済の足を引っ張り始めていた。
 非常に高いビジネス能力を持つ者が、斜陽産業にいるというだけで、倉庫の雑務にまわされたり、窓際の椅子を温めてるだけになる。だからといって、一度会社を辞めると世間では落伍者扱いで、ろくな就職先もない。
 その後オイルショックによって、高度成長期が終わった頃から、何度となく終身雇用制の問題点は指摘されてきた。
 ただ、その都度立ち消えになっていったのは、終身雇用を前提に作られた日本の諸制度が、それをやめると大きく作り変えなくてはならず、与党も野党も尻込みした結果だった。
 終身雇用制を維持するなら失業者はほとんど出ず、欧米レベルで言う完全雇用の状態が維持できる。そのため、セーフティーネットに予算をかける必要がなかった。これが、随時失業者が出てはやがて新しい産業に吸収されていくような社会になると、その繋ぎの間を保証するシステムを整備しなくてはならない。
 終身雇用制の元では失業保険も生活保護も「人生の落伍者の貰うもんだ」で済んでいた。それを誰もが失業するものだという前提で整備し直さなくてはならない。
 そうなると当然増税ということになる。欧米並みの消費税が必要となると、与野党とも選挙対策で躊躇せざるを得なくなる。
 もちろんセーフティーネットだけの問題ではない。企業の人材育成は、基本的に新入社員が生涯会社を留まることを前提に、その会社独自の研修システムを作り上げていた。
 そこには独自の仕事のノウハウだけでなく、会社への忠誠心を養うための様々な経営思想がが含まれている。これがその会社独自の常識を作り上げてしまっていて、余所の会社に移った時に一から教育し直さなくてはならなくなる。これが日本の企業が中途採用を嫌う原因となっている。
 年功序列の給与体系もまた、転職の足を引っ張る。雇う方は新卒の若者と同様の賃金で済ますわけにもいかず、「高い買い物」になる。会社を越えた仕事のノウハウの統一がされていないので、一から教育し直さなくてはならなくなる。
 そういうわけで企業は中途採用を嫌う。このことが一度失業すると再就職が困難になる原因となっている。
 終身雇用をやめるとなると、企業を越えた普遍的なビジネス教育が必要になる。つまりビジネススクールを整備しなくてはならないし、通常の学校教育でもビジネスで役に立つ授業を行わなくてはならなくなる。これは均質な工場労働者の養成を前提としたこれまでの学校教育の根底を揺るがすことになる。
 日本の学校ではお金の稼ぎ方は教えない。商品を売り込むためのプレゼンの仕方も議論や交渉の仕方も教えない。ただ従順に、決められた答えを答案用紙に書き込む能力だけが求められている。それらはすべて就職してから会社独自の研修の中で学ぶことになっている。そのとき必ず新入社員は先輩からこう言われる。「学校で学んだことは一度全部忘れろ」と。
 終身雇用をやめるなら、日本の教育を根本から変えなくてはならない。学校を出たらその知識で、すぐにでも仕事ができる状態にしなくてはならない。
 企業は社員研修のコストを削減できるが、その分優秀な人材確保のために、能力に応じた給与体系を作らなくてはならなくなる。給料を渋っていると優秀な人材が他社に引き抜かれてしまう。つまり人件費の高騰が起こる。
 今までは会社に莫大な利益をもたらすような画期的なイノベーションを思いついた人がいても、通常の年功序列給に若干の金一封渡せばそれですんでいた。それができなくなる。これも企業の側が年功序列の解消に躊躇する要因になっている。
 政治の世界でも大きな影響を与える。これまでは政治家を志すというのは年功序列社会からのドロップアウトを意味していた。年功序列がなくなれば、実社会に於いて真の実力を持った人間がいつでも政界に進出してくる。つまり、これが世襲議員の地位を脅かすことになる。
 もう一つ問題なのは、日本の官僚が終身雇用制度の中で、独自の村社会を保っていることだ。国家公務員試験に受かり、一度官庁に採用されれば一生安泰で恩給までついてくるという生活設計が根本から崩れ去ることになる。そういうわけで、年功序列をやめることに関しては、まず官僚が反対するだろう。
 年功序列をやめるということは、日本の社会のあらゆる場面に大きな変化をもたらすことになる。年功序列の廃止は、文字どうりの革命になる。それゆえにこれまで誰もが尻込みしてきたし、これからも尻込みし続けることだろう。それが今の日本だと言って良い。

 鈴呂屋書庫の書き直し作業を進めている。今のところ「蕉門俳諧集 上」の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」から「色付や」の巻までと、「古俳諧、貞門、談林俳諧集」の宗因独吟「花で候」の巻を若干書き直したのでよろしく。

 さて、だいぶ発句が続いたが、そろそろまた俳諧の方を読んでいこうか。
 今回は天和調の代表とも言うべき『虚栗』の「山吹や」の巻を、『普及版俳書大系3 蕉門俳諧前集上巻』(一九二八、春秋社)からノーヒントで読んでみようと思う。
 発句は、

 山吹や无-言禅-師のすて衣    藤匂子

で、无は無と同じ。今でも中華人民共和国ではこちらの文字が用いられている。台湾や香港では繁体字の無が用いられている。元は別字だったという。
 山吹の捨て衣というのは黄衣(くわうえ)のことで、この時代の日本では隠元禅師が着ているというイメージだったのではないかと思う。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「黄衣」の解説」に、

 「① あさぎ色の上着。無位の人が着用するもの。
  ※続日本後紀‐承和七年(840)六月辛酉「流人小野篁入京。披二黄衣一以拝謝」
  ※太平記(14C後)一三「黄衣(クヮウエ)著たる神人、榊の枝に立文(たてぶみ)を著て」 〔論語‐郷党〕
  ② 黄色の法衣。僧の着る黄色の衣。ただし、もとは黄色を正色として、僧衣には用いなかった。
  ※参天台五台山記(1072‐73)六「是只被響応大師故也者、院中老宿等多著黄衣」 〔僧史略‐上〕」

とある。②の方の意味になる。
 また、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「黄衣」の解説」には、

 「黄色の法衣。黄色は正色の一つであるところから初めは僧侶の衣には用いられなかったが,中国で用いられるようになった。元の時代にはたびたび朝廷から黄衣を与えられている。またチベットのラマ教の旧教が紅衣を用いているのに対し,ツォンカパ (宗喀巴) によって設立された戒律を重んじる新教では黄衣を着用している。」

とある。
 隠元禅師の肖像を見るとラマ僧の黄衣にも似ているが、その辺の詳しいところはよくわからない。
 捨て衣は文字通り打ち捨てられた衣で、山吹の花が咲いているのを見ると無言禅師という禅僧が打ち捨てて行った黄衣のようだ、というのがこの句の意味になる。
 無言禅師は実在の僧ではなく、無言のうちに真理を語る高僧のイメージで作られたのではないかと思う。まあ、とにかく、山吹の花の色はお目出度いということだ。
 脇。

   山吹や无-言禅-師のすて衣
 腕を薪の飢の早蕨        其角

 立派な高僧としての黄衣を捨てて隠遁した無言禅師は、薪を腕に抱えて運び、早蕨を食べて飢えを凌ぐ。
 早蕨というと、

 岩そそぐたるひの上のさ蕨の
     萌え出づる春になりにけるかな
              志貴皇子(新古今集)

の歌が百人一首でもよく知られているが、早蕨は早春の野焼きとともに詠まれることが多く、晩春の山吹とともに詠まれることはない。「萌え出づる」も野焼きの「燃え出づる」と掛けていると思われる。
 ここでは早蕨が山奥の山賤同様の身の隠遁者のイメージで用いられているので、発句のすて衣に付く。

 山がつの衣の色に紫の
     ゆかりぞ遠き道のさわらび
              正徹(草魂集)

の歌もあるので、紫も黄衣も尊い色ということで並べたのかもしれない。
 第三。

   腕を薪の飢の早蕨
 子路カ廟夕べや秋とかすむらん  其角

 「子路カ廟」はよくわからない。子路は戦争で死に、その遺体は塩漬けにしてさらされたと言われている。
 霞に早蕨は、

 霞たつ峰のさわらびこればかり
     折知りがほの宿もはかなし
              藤原定家(風雅集)

の歌がある。「夕べや秋」は、

 見渡せば山もとかすむ水無瀬川
     夕べは秋となに思ひけむ
              後鳥羽院(新古今集)

で、これと合わせて考えると、腕に薪を抱えて早蕨で餓えを満たす夕暮れを、時節を心得ている宿だと思い、夕べは秋だけでなく春の早蕨の夕べも哀れなものだ、という意味になる。
 孔子が遺体を塩漬けにされた子路を思い、塩漬け肉は食べず、蕨だけで我慢したということか。
 四句目。

   子路カ廟夕べや秋とかすむらん
 其きさらぎの十六日の文     藤匂子

 「其きさらぎの」は、

 願はくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ
              西行法師(新古今集)

であろう。
 秋にも劣らぬ春の夕暮れの霞みに、その日は死ぬことなく十六日(いざよいひ)を迎えた。旧暦二月十五日は釈迦入滅の日でもある。
 五句目。

   其きさらぎの十六日の文
 花鮎の䱜のさかりを惜む哉    藤匂子

 䱜はシャク、あるいはサクと読むようだが、刺身のさくのことか。鮎のさくを桜に見立てて、如月の十六夜に散るのを惜しむ。
 六句目。

   花鮎の䱜のさかりを惜む哉
 樽伐なりとひびく杣川      其角

 杣川は滋賀県の甲賀の方を流れる川で、和歌では、

 杣川のいかだの床のうきまくら
     夏はすずしきふしどりなりけり
              曾禰好忠(詞花集)

のように、杣人の筏、浮くという連想を誘う。
 この場合は花見の酒の酒だるを切って筏にして、花鮎の盛りを惜しむとする。
 初裏、七句目。

   樽伐なりとひびく杣川
 金滅す我世の外にうかれてや   其角

 我世(わがよ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「我が世」の解説」に、

 「① 自分の寿命。自分の生涯。
  ※万葉(8C後)一・一〇「君が代も吾代(わがよ)も知るや磐代(いわしろ)の岡の草根をいざ結びてな」
  ② 自分のものである世。何事も自分の思い通りになる世。
  ※小右記‐寛仁二年(1018)一〇月一六日「但非宿構者、此世乎は我世とそ思望月乃虧たる事も無と思へは、余申云、御歌優美也」
  ③ 自分の生きている世界。自分の範疇である世界。
  ※徒然草(1331頃)二六「うつろふ人の心の花に、なれにし年月を思へば、〈略〉我世の外になりゆくならひこそ、亡き人のわかれよりもまさりてかなしきものなれ」
  ④ 自分の所帯。自分の生活。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「小者が布子に、手染の薄色仕立着せる程せはしき内証、我世(ワガヨ)なればとて、面白からず」

とある。この場合は④で、余所で遊び歩いて財産を使い果たして、今は材木屋で働いている。
 八句目。

   金滅す我世の外にうかれてや
 褞-袍さむく伯母夢にみゆ     藤匂子

 褞-袍は「うんぼう」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「縕袍・褞袍」の解説」に、

 「〘名〙 (「おんぼう(縕袍)」の変化した語) 綿入れの着物。また、粗末な衣類。人をののしって、その衣服をいうのにも用いる。うんぽう。わんぼ。
  ※玉塵抄(1563)一五「まゑまゑの守護たちはきぶう年貢をもをもうしてとらしますほどに一まいわんぼうさゑなかったぞ」

とある。
 この場合は粗末な衣類の方であろう。寒くて故郷の伯母のことを夢に見る。両親とは早い時期に死別して伯母に育てられたか。
 九句目。

   褞-袍さむく伯母夢にみゆ
 ひだるさは高野と聞しかねの声  藤匂子

 出家して高野山で修行していると、質素な食事に腹は減るし、夜は寒くて残してきた伯母を夢に見る。『苅萱』の石童丸か。
 十句目。

   ひだるさは高野と聞しかねの声
 心ン-鼠は昼の灯をのむ      其角

 高野山というと空海弘法大師で、その書とされる般若心経に「鼠心経」と呼ばれているものがある。
 ここではそれとは関係なく、ひもじさに心が鼠となって、行燈の油を飲む。
 十一句目。

   心ン-鼠は昼の灯をのむ
 あさましき文字の賊衣魚となる  其角

 賊衣魚は「ぬすびとしみ」とルビがある。衣魚(しみ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「衣魚・紙魚・蠧魚」の解説」に、

 「① (体形を魚に見立てて多く「魚」の字をあてる) 総尾目シミ科に属する昆虫の総称。体長八~一〇ミリメートル。体は扁平で細長く、全体に銀白色の鱗片(りんぺん)でおおわれる。頭部に糸状の触角、体の後端に三本の尾毛がある。原始的な昆虫で、はねはなく変態もしない。家屋の暗所を好み、本、衣類の糊などを食べる。洞穴や落葉の下にすむ種類もある。温帯に広く分布し、日本ではヤマトシミが普通にいる。しみむし。きららむし。《季・夏》 〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
  ② 書物ばかり読みふけって、実社会のことにうとい者をあざけっていう語。〔モダン語漫画辞典(1931)〕」

とある。
 鼠心経の文字を盗んでいったのはシミ虫だった。
 十二句目。

   あさましき文字の賊衣魚となる
 小袖をさらす凉店の風      藤匂子

 凉店は「|てん」とルビがある。この縦棒はよくわからないが、前句の「文字の賊(ぬすびと)から、このルビがシミ虫に盗まれたということか。
 虫の食われないように小袖を風にさらす。

2022年4月21日木曜日

 そういえば、どうでもいいような巨乳叩きや言葉狩りのニュースの陰で忘れ去られがちだが、園子温、榊英雄、木下ほうか、梅川治男など、日本でもMeTooという言葉は使われないが、同じような告発が相次いでいる。誰がどう見ても、こっちの方が大きな人権問題だ。
 二〇一七年にハリウッドを揺るがしたMeToo運動は、日本ではハイヒールの問題にすり替えたりして、劣化したパロディーしか生まなかったが、そういう言葉だとか運動だとかいう名前はなくても、日本は日本なりのやり方で、同じ問題に向き合って、解決していかなくてはならない。
 こういうことは一過性のブームではなく、個別な生存の取引の問題として地道な告発を繰り返すことの方が大事だ。
 日本の終身雇用制の元では、解雇されて失業者となる代わりに、昔から「窓際族」なんて言葉があったように、社内失業という形で余剰人員が処理されてきた。
 余所の社会では景気の変動で失業者は常に出るものという前提で、消費税を20パーセントにしてでもセーフティーネットを整える必要があった。日本は社内失業なので、それほど増税をしなくても、会社が不要な社員に給料を払い続けることで対応してきた。
 日本でベーシックインカムはもとより様々なセーフティーネットの議論が盛り上がらないのも、基本的に会社が生涯社員の面倒を見るもので、セーフティーネットは落伍者のものとされていたからだ。
 そのため、選挙になるとセーフティーネットは口先だけで財源確保の議論もなく、ひたすら減税を連呼することになる。
 終身雇用の恩恵を受けているサラリーマンが多数派を占める限り、日本のセーフティーネットの議論は進まない。減税の連呼と、できもしないばら撒き公約が繰り返される。
 逆に終身雇用を守るべきなら、年金の問題は企業に投げるという手もある。企業に老齢年金を義務付ければ、公的な老齢年金をかなり縮小できる。失業保険も企業の側に負担させればいい。ついでに再雇用の世話も企業に丸投げすれば、ハローワークも要らなくなる。
 高度成長期には、確かにこうした方向性があったと思う。オイルショック以降低成長期に入って、企業が福利厚生を切り捨ててきたことで、今の状態になっている。
 ただ、今後国家の方が困窮して来れば、企業に負担を求めるという選択肢もあると思う。終身雇用を守るのであれば、企業は生産性の向上に全力を注ぎ、その金を社会に還元しなくてはならない。

 それでは『蛙合』の続き、最終回。

 「第十九番
   左勝
 堀を出て人待くらす蛙哉      卜宅
   右
 釣得てもおもしろからぬ蛙哉    峡水
   此番は判者・執筆ともに遅日を倦で、我を忘
   るるにひとし。仍而以判詞不審。左かち
   ぬべし。」

 おそらくこの興行は、最初の芭蕉の「古池」の句があり、それに対を成す仙化の句ができ、もう一対この後に出て来る第二十番が先に作られたのであろう。
 その後、門人たちの持ち寄った句を大まかなテーマを決めて二句づつ番わせて行ったとき、この二句は最後に余ってしまったのではないかと思う。
 適当な判詞を付けるより、春の遅日を理由にして、洒落で終わらせようという意図であろう。
 「堀を出て」の句は江戸の小名木川のような運河の蛙で、時折通る舟に驚いて水から上がり、そのまま別の舟が来るのを待っているかのように土手に座っている蛙であろう。
 一方、「釣得て」の句は残念ながら「さでの芥」の句と被ってしまった。一方は叉手の外道で、一方は釣りの外道。役に立たないが故に放されるわけだが、釣りの句は人間の側からの面白くないで、蛙の側の共感が欠けている。そのため、「さでの芥」の句にも負けていた。ここでも右負けとなる。
 実際本当に蛙が釣れたら笑っちゃうと思うが。

 「第二十番
   左
 うき時は蟇の遠音も雨夜哉     そら
   右
 ここかしこ蛙鳴ク江の星の数    キ角
   うき時はと云出して、蟾の遠ねをわづらふ草
   の庵の夜の雨に、涙を添て哀ふかし。わづか
   の文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の
   妙也。右は、まだきさらぎの廿日余リ、月な
   き江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかと
   して、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて
   物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきた
   らず、半夜を過と云ける夜の気色も其儘にて、
   看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へ
   たるならんかし。」

 「うき時」の句は草庵で暮らす隠遁者の風情で、隠遁者にとっての「憂き」とは、隠遁の原因になったような、まだ世俗にいた頃受けた様々な苦痛を思い出す状態で、これが次第に癒されてくると、「寂しさ」へと変わって行く。
 ヒキガエルは声が低く、雨の中でも遠くからの声が聞こえてくる。梅雨の鬱陶しい雨の夜に、低く絶え間なく聞こえてくるヒキガエルの声、それがかつて受けた世俗の罵詈雑言のトラウマを掘り起こす。思わず叫びたくなるような状況だろう。
 まさに「わづかの文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の妙」だ。
 「ここかしこ」の句はいつもながら其角らしい難解さを含んだ句だ。
 「星の数」は今日のような満天の星空の美しさのイメージではない。当時は満天の星空は当たり前すぎてそれを美しいとは思わなかったし、むしろ月のない夜は恐ろしい闇の世界だった。
 その闇の中、そこかしこから響いてくる蛙の声、所も風を遮るもののない大河のほとりで、春とはいえ夜風は寒い。それは果てしない虚無と渾沌の呼び声だ。蛙の声に春の艶なるものは含まれていても、あくまで荒涼とした「物凄き」世界だ。
 芭蕉の古池の句はまだ、世俗では春が来ているのに、この古池は取り残されたように荒涼としているという世界だったが、其角の句はその閑寂をはるかに越えている。
 「青草池塘処々蛙」は芭蕉の古池の句を指して言っているのだろう。この言葉は謝霊運の『登池上樓(池上樓ちじょうろうに登る)』の「池塘生春草(池塘春草を生ず)」から来ている。

   登池上樓   謝霊運
 潛虬媚幽姿 飛鴻響遠音
 薄霄愧雲浮 棲川怍淵沈
 進徳智所拙 退耕力不任
 徇祿反窮海 臥痾對空林
 衾枕昧節候 褰開暫窺臨
 傾耳聆波瀾 擧目眺嶇嶔
 初景革緒風 新陽改故陰
 池塘生春草 園柳變鳴禽
 祁祁傷豳歌 萋萋感楚吟
 索居易永久 離羣難處心
 持操豈獨古 無悶徴在今

 (地に潜む龍の子はその奥ゆかしい姿が麗しく、空飛ぶ巨大な雁は遥か遠くからの声を響かす。
 なのに私は空に迫り雲に浮かぼうとしては心が萎縮し、かといって川に棲み淵の底に身を潜めるのは身も切られる思いだ。
 君子となって徳を世に広めるには智恵が足らず、引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐える体力もない。
 役人の給料を求めては最果ての見知らぬ海辺に来て、厄介な病気を抱えてはひと気のない林を眺める。
 寝床にいたため季節がわからなくなっていたが、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見た。
 耳を傾けて大きな波の連なるのを聞き、目を挙げては険しくのしかかってくるかのような山を眺める。
 初春の景色は去年の秋冬の名残の風を革め、下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わってゆく。
 池の土手は春の草を生じさせ、庭に鳴く鳥も変わった。
 ゆったりとした遅日に『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞』の「招隠士」を感じる。
 一人引きこもれば永久にそのままになりそうで、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
 それでも操を守り続けるのは一人古人だけだろうか、易に言う「無悶」の徴は今ここにある。)

という詩で、『文選』に収録されている。
 其角の句も世間では春が来ているというのに、わが心は未だ闇の中にいるという意図で詠んだのであろう。この荒涼たる心は見てとれるが、芭蕉の古池の句のような青草池塘のわずかな心の救いすらもない。
 この二句のテーマは「闇の蛙」と言って良いだろう。。判はないが、第一番が言わずとも芭蕉の勝ちであるように、この第二十番も其角の勝ちということを暗に仄めかしているのではないかと思う。
 其角も遊郭に通い、享楽的な生き方に身を置いていたが、それだけに人間の心の闇を嫌というほど見てきた人だったのだろう。それだけに俳諧の風流に救いを求めた一人だった。
 天和の頃には、芭蕉の「蛙飛び込む水の音」の下七五に「山吹や」の五文字を冠した其角だったが、芭蕉の「古池や」の五文字に触発され、それをさらに一歩推し進めた、より荒涼とした虚無と渾沌の世界に踏み込んでいった。それが「九重の塔の上に亦一双加へたるならんかし」だったのだろう。
 「屋上屋を重ねる」というもので、ちょっと極端にやりすぎたかな、という評価だった。

  「追加
    鹿島に詣侍る比真間の継はしニて
 継橋の案内顔也飛蛙        不卜」

 まあ、最後に「物すごい」句が来てしまったので、ほんの少しここでシリアス破壊しておく必要もあったのだろう。落ちを付けるというか。
 真間の継橋は下総国府の南側にあった橋で、ウィキペディアには、

 「真間の継橋とは下総の国府があった国府台へ向かうための橋で、砂洲を中継地点として複数の板橋を架け渡してあったことから「継橋」という名を得たとされる。この橋は真間の象徴として『万葉集』にも詠まれており、歌枕として知られた存在であった。」

とある。
 古代東海道は鐘ヶ淵の辺りで隅田川を渡り、今で言えば京成立石、京成小岩の辺りを結び、下総国府のあった今の千葉商科大の辺りへ一直線に通じ、そこから北へ常陸国へ向けて折れ曲がっていた。南側の真間の継橋のあった道はおそらく上総、安房へ向かう道だったのだろう。
 今は小さな橋になっているが、かつては大日川(今の江戸川)下流域の砂州を繋ぐ複数の橋だったようだ。
 芭蕉が鹿島詣での旅で通った道筋は小名木川を舟で言って行徳から木下街道に向かっているから、この辺りは通ってないと思う。歌枕ということで、わざわざ立ち寄ったのであろう。
 この継橋はとっくの昔になっくなっていて、その正確な場所すらさだかでなく、江戸時代にはあたりはすっかり田んぼになっていたのだろう。
 細い畦道のような所を歩いて真間の継橋の跡を訪ねてゆくと、進むごとにじゃぼじゃぼ飛び込む蛙が、真間の継橋はこっちだよと案内しているかのようだ。あちこちに飛んでいくから、どこが本当なのかわからない。
 まあ、こういう他愛のない笑いで、『蛙合』興行の落ちを付けるとしましょうということで、執筆が挙句を付けて一巻を終わらせるような感覚で載せたのではないかと思う。実際の興行が行われてたとすれば、不卜が執筆を務めて、これらの句と判詞を書き留めていたのであろう。
 和歌では『千載集』に、雑体歌が収録されている。

   下総の守にまかれりけるを、
   任果てて上りたりけるころ、
   源俊頼朝臣もとにつかはしける
 東路の八重の霞を分けきても
     君にあはねば猶隔てたる心地こそすれ
               源仲正
   返し
 かきたえし眞間の継橋ふみみれば
    隔てたる霞も晴れて向へるがごと
               源俊頼

 源仲正の歌の方は五七五七七七の仏足石歌の体だが、源俊頼の歌は五七五五七七で仏足石歌と旋頭歌の中間のような体だ。
 「かきたえし」とあるから、この時代でも既に真間の継橋はなくなっていて、伝説の橋になっていたのだろう。

 夢にだに通ひし中もたえはてぬ
     見しやその夜のままの継橋
               西園寺実氏(続後撰集)
 夢ならでまたや通はむ白露の
     おきわかれにしままの継橋
               土御門院(続後撰集)

などのように、「かきたえしまま」「夜のまま」「わかれにしまま」の「まま」と掛けて用いられる。

2022年4月20日水曜日

 テレビは連日のようにロシアの快進撃を報道して、スプートニクよりひどい。まあ、国民は誰も信じちゃいないけどね。日本には「大本営発表」という言葉があるから、こういう印象操作には免疫がある。毎日快進撃している割には、ロシアの支配地域は一向に増えてないしね。
 日本はロシアと国境を接していて、北方領土を奪われているから、ロシアがここで調子づいたら日本に攻めて来るんじゃないかという危機感を強く持っている。だから、自民党から共産党までウクライナ支持に回っている。最初の頃あった降伏論もすっかり沈黙してるね。
 ただ、防衛に関して何ら議論が進展していないどころか、政治家は概ねきれいごとばかり言って、議論そのものに消極的だ。もっと国民の声が必要なのではないかと思う。防衛問題に消極的な党は参議院選で落とそう。いくら派手なばら撒き公約をしても、国がなくなったら元も子もない。
 日本は輸入品価格が上昇しても、基本的に物価上昇は起きていない。輸入品価格の上昇をそのまま販売価格に反映させないように、企業が様々に知恵を絞ってコストダウンを図っているから、それが人件費の抑制につながり、基本的にデフレ基調は変わっていない。
 かつて右肩上がりの時代の時、日本は常にインフレ基調だった。インフレだったから金利も高く、十年銀行に預けておけば、簡単に資産は倍になった。ただ、それを当時の左翼やマス護美は「狂乱物価」だと批判し続けてきた。
 やがてバブルがはじけてデフレスパイラルの時代が来る。企業は物価を挙げまいと必死になる。その上終身雇用で労働者の解雇もできない。年功序列給だから、正社員の給料を下げることもできない。そのしわ寄せが非正規に向かう。
 終身雇用制が維持される限り、非正規はドロップアウトであり、非正規雇用の改善には左翼までが消極的で、あくまで非正規雇用をなくし正規雇用化を進めることにしか関心がなかった。それは今も続いている。
 終身雇用制と主婦制を守り、日本独自の経済を作るというのであれば、徹底したAI化とロボット化でコスト削減を図るしかない。その際の失業を防ぎつつ、人材を流動化させるには、社内企業や出向社員の制度をフル活用しなくてはならない。
 ただでさえ、日本では会社内の畑違いの仕事への配置転換は普通に行われていた。それを社外に拡大して、必要な人材を必要な場所に配置転換してゆく必要がある。
 終身雇用制の元では、企業家への道も終身雇用の枠からのドロップアウトとみなされてしまい、それがベンチャー企業の育たない元になっている。日本では新しい産業は斜陽企業の業種転換から生まれる。繊維やカメラなどのいくつかの会社がそれに成功している。
 ベンチャーが育たなくても、企業内および出向による企業間の配置転換でも、同様の効果を上げることはできる。破壊的イノベーションのアイデアがあるなら、複数企業の間でその有志を集めて新プロジェクトとして立ち上げる方が、日本の現状には合っているかもしれない。
 製造業やサービス業の余剰人員を大胆にAIやロボット業界に移動させることができれば、日本の生産性は飛躍的に向上する。物価上昇なしに給料の上がる豊かな社会を作れる可能性は十分にある。

 それでは『蛙合』の続き。

 「第十六番
   左
 這出て草に背をする蛙哉      挙白
   右勝
 萍に我子とあそぶ蛙哉       かしく
   草に背をする蛙、そのけしきなきにはあらざ
   れども、我子とあそぶ父母のかはづ、魚にあ
   らずして其楽をしるか。雛鳧は母にそふて
   睡り、乳燕哺烏その楽しみをみる所なり。風
   流の外に見る処実あり、尤勝たるべし。」

 蛙が草の中から這い出てきて、その草を背にして座っているという情景は、たしかに「あるある」ではあるが、それのどこが面白いのかよくわからない。
 我が子と遊ぶ蛙は蝌(かえるご)、つまりオタマジャクシと遊んでるということか。浮草の上に座って水面を見つめている蛙は、我が子の遊ぶのを見守っているかのように見える。
 「魚にあらずして」というのは、『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注にもあるが、『荘子』秋水編の「知魚楽」で、

 莊子與惠子遊於濠梁之上。
 莊子曰「鯈魚出遊從容是魚樂也」
 惠子曰「子非魚安知魚之樂」
 莊子曰「子非我安知我不知魚之樂」
 惠子曰「我非子固不知子矣子固非魚也子之不知魚之樂全矣
 莊子曰「請循其本子曰女安知魚樂云者既已知吾知之而問我我知之濠上也」
 (これは荘子と恵子が濠水の橋に遊びに行った時の話。
 「ハヤが遊んでて楽しそうだな。」
 「そなたは魚ではないのだから、魚が楽しいかどうかなんてわかるはずもない。」
 「なら、おめー、俺じゃないのに、何で俺が魚が楽しいかどうかわからないってのがわかるんかい?」
 「そなたのことは承知しない。ただそなたは魚ではない故、魚が楽しいかどうかわかるはずもないと言っておるのだ。」
 「ちょっ待てよ。『魚が楽しいかどうかなんてわかるはずもない』ってのは、俺がそれをわかっていると知っているからそう言ったんだろっ。俺にはわかるんだよ。この濠水の水辺でね。」)

という問答のことであろう。
 この会話がかみ合わないのは、双方の「わかる」の意味が違うからで、共感というのは直感的にはわかるが、正確にわかるわけではないという、それだけのことではある。
 直感は投網のようなもので、投げかけたからと言って、それで魚が取れるかどうかはわからない。だから人は涙話に騙されたりする。直感でこの人は困っているんだと判断しても、実はそれは演技で金をせびろうというだけのものだった、というのはよくある。
 ただ、騙すというのは「わかる」というのが前提になっている。他人の気持ちが最初からわからないなら、苦しそうにうずくまって倒れていても無視して通り過ぎるだけだ。なまじっかわかるばかりに、そこで騙し騙されの駆け引きになるというだけのことだ。
 魚が楽しそうだと思うのは、魚にも感情があるという推量で、誰しもこの推量の能力を持っているという前提で、我々の日常の会話は成り立っている。荘子はそれを言っているだけで、恵子はそれが厳密な認識ではないことを指摘しているだけだ。
 浮草の蛙が我が子であるオタマジャクシを見守りながら一緒に遊んでいるように見える、というのは、この共感能力が生み出す気遣いであり、それを蕉門では「細み」と呼ぶものだが、実際これなしでは我々は他者との関係を築くことができない。
 相手の気持ちが正確に認識できるわけではないが、実際にはこのあやふやな能力なしに社会生活というのは成り立たない。その意味ではこの能力は社会の基礎であり、儒教で言う「仁」の端緒になる。それを表現する所に、「風流の外に見る処実あり」ということになる。
 それは後の言葉で言えば「風雅の誠」ということになる。
 人間ばかりでなく、様々な生き物にこの共感能力をあまねく投げかける所に、この句は単に蛙の草の前に立つという表面的な描写以上の価値がある。それゆえ「萍」の句の勝ちとなる。
 この対決は風流の根幹にかかわるが故に「尤勝たるべし」となる。
 人の心がわかったようでわからないように、魚の心がわかるというのも正解だが、わからないというのも正解になる。わかるというのも大事だが、わからないということを知るのも大事だ。元禄四年の師走に芭蕉はこう詠む。

 魚鳥の心は知らず年忘れ      芭蕉

 この歳になっても未だ魚鳥の心が本当にわかったわけではない、という自戒であろう。

 「第十七番
   左勝
 ちる花をかつぎ上たる蛙哉     宗派
   右
 朝草や馬につけたる蛙哉      嵐竹
   飛花を追ふ池上のかはづ、閑人の見るに叶へ
   るもの歟。朝草に刈こめられて行衛しられぬ
   蛙、幾行の鳴をかよすらん、又捨がたし。」

 桜が散って水面に落ちると、最近よく用いられる「花筏」の状態になる。そこを泳ぐ蛙は、頭に桜の花びらを乗っけたりする。見たわけではなくても、いかにもありそうだ。
 桜の花の散る池をのんびり眺めてられるのは、やはり閑人であろう。本当に頭に花びらを乗せた蛙が現れたら、さぞかし感動することであろう。
 朝草の句は、朝刈り取られた草にくっついた蛙は、馬に乗せられ、いずこともなく旅に出る。人生もまた行衛の知れぬ旅と思えば、これもまた感じ入るものもあって捨て難い。
 これは花実の対決であろう。散る花の「花」、行方知れぬ旅の「実」。ここでは花の勝ちとする。

 「第十八番
   左持
 山井や墨のたもとに汲蛙      杉風
   右
 尾は落てまだ鳴あへぬ蛙哉     蚊足
   山の井の蛙、墨のたもとにくまれたる心こと
   ば、幽玄にして哀ふかし。水汲僧のすがた、
   山井のありさま、岩などのたたずまひも冷じ
   からず。花もなき藤のちいさきが、松にかか
   りて清水のうへにさしおほひたらんなどと、
   さながら見る心地せらるるぞ、詞の外に心あ
   ふれたる所ならん。右、日影あたたかに、小
   田の水ぬるく、芹・なづなやうの草も立のび
   て、蝶なんど飛かふあたり、かへる子のやや
   大きになりたるけしき、時に叶ひたらん風俗
   を以、為持。」

 「墨のたもと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「墨の袂」の解説」に、

 「墨染めのころも。また、そのたもと。
  ※浄瑠璃・蝉丸(1693頃)五「かさ一本におきふすも身の程かくす我庵と、すみのたもとにすみづきん、経論少々懐中し」

とある。
 山に隠棲する僧は、自ら水を汲みに行く。その時に懐に蛙が飛び込んでくる、という情景を思い浮かべればいいか。
 山の井はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「山井」の解説」に、

 「〘名〙 山中にある井。山野に自然に水のわき出ている所。山の井。
  ※宇津保(970‐999頃)楼上下「楼の南なる山井のしりひきたるに、浜床(はまゆか)水の上に立てて」

とあるように、井戸として掘って造られたものではなく、湧き水などの天然の井戸をいう。
 西行の「とくとくの泉」は芭蕉も『野ざらし紀行』の旅で訪れている。そういった西行の俤もあって「幽玄にして哀ふかし」というところなのだろう。
 思いがけない蛙に春を感じ、岩などもあり見た目に冷え寂びた山居にも、思わず顔をほころばす。
 辺りの自生する松の木に藤の花が咲き、その下を清水が流れる。そんな情景も浮かんでくる。
 一方、尾は落ての句は、オタマジャクシにやがて手足が生え、尻尾が落ちて小さな蛙の姿に変わるその瞬間をとらえたもので、蛙の姿にはなったけど、まだ鳴くことはできない。
 人間であれば元服であろう。子供の成長する姿というのは見ていて微笑ましいものだ。
 この二句は微笑ましい句の対決であろう。一つは隠者の聖なる微笑み、一つは俗なる子孫繁栄の微笑み。俳諧は俗を以て聖を表すもので、どちらの要素も欠くことはできない。故に引き分け。

2022年4月19日火曜日

 今日は晴れて、朝はあざみ野の八重桜並木を散歩した。染井吉野が散った後は、八重桜が最後の桜になる。ツツジや藤が咲き、春を惜しむ季節になる。
 山は新緑で草の生える、山笑う季節になる。
 「山笑う」は郭煕『臥遊録』の、「春山淡冶而如笑、夏山蒼翠而如滴、秋山明浄而如粧、冬山惨淡而如睡」が起源とされていて、和歌の言葉(雅語)ではない。俳諧の言葉になる。多分芭蕉の時代には流行の言葉だったのだろう。
 言葉は流行を繰り返し、毎年のようにたくさんの新語・流行語が現れては消えて行く中で、残った言葉はこうして四百年たっても生き続けている。
 今日撮影の八重桜並木。

 何かにはまるというのは、基本的には脳内に快楽物質を求める回路を形成することで、偶発的にであれ、なにか生涯を通して夢中になれることを見つけた人は、この回路に支配されていると言って良い。
 それはサッカーかもしれないし、マラソンかもしれないし、登山かもしれない。あるいは三国志だったりガンダムだったりもする。ネトゲにはまる人と囲碁や将棋にはまるひとと何の違いがあるのか。文学にはまる人とラノベにはまる人に何の違いがあるのか。脳の回路に於いては大差ない。ただ社会の側の問題だ。
 スポーツであれ学問であれ仕事であれ、何か一つのことに打ち込んで偉業を成し遂げる人は、基本的にそれが楽しいから、快楽をもたらすから夢中になれるのであって、それはやはり偶発的に形成された脳内の回路によるものだ。
 この回路は性的嗜好に関しても言えることだが、違うのは性に結びつかない快楽回路も多く存在することだ。
 性に結びつかなくても快楽をもたらすが故に、孔子は徳の追究にはまってしまい、「已矣乎、吾未見好徳、如好色者也(已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり)」と言ったと『論語』にある。孔子は本当に色を好むがごとく徳を好んだのだろう。それは脳内の快楽回路の仕業だ。
 まあ、他の物にはまった人も、しばしば女よりも趣味を優先させることってあるよね。これだけは譲れないって感じでね。
 本人の意思ではなく偶発的に形成された快楽回路に関しては、何らその人の責任ではないし、基本的に自由だ。
 こうした脳内快楽物質の回路と、薬物による脳内快楽物質の回路は、似ているけど全く違うものだ。薬物は偶発的なものではなく、必然的に直接脳に作用する。
 そのため、ひとたび薬物に手を出すと、それをやめるという選択肢が消失するばかりか、他の脳回路にまで影響を与えゆく。
 必然性のあるものを選択することには、当然本人の責任が伴うし、犯罪として規制する必要がある。
 ネトゲ廃人という言葉はあるが、この「廃人」は比喩にすぎない。薬物は本当の「廃人」を作り出す。
 比喩というのは述語の一致による誤謬推理を利用したもので、「君はまるで薔薇の花のようだ」というのは、「君は美しい、薔薇の花は美しい、故に君は薔薇の花だ」というだけのことだ。
 ネトゲ廃人という言葉も同じで、「ネトゲははまるとやめられなくなる、薬物もやめられなくなる、ゆえにネトゲは薬物である」、というところで「ネトゲ廃人」だとか「ゲーム中毒」ということばがあるだけで、脳内のメカニズムはまったく違うものだ。
 ゲームがeスポーツとして社会的に何らかの役割を得るようになったなら、ネトゲ廃人という言葉もなくなって、ネトゲ名人として尊敬されるようにもなるだろう。そうなれば囲碁や将棋と何ら変わらない。国民栄誉賞を貰うゲーマーだって現れるかもしれない。結局は金が稼げるかどうかの問題だ。
 比喩というのは述語の一致による誤謬推理なだけに、しばしば人を惑わす効果がある。あの吉野家のオヤジだって、あくまで比喩で言っただけなんだけど、比喩が分からない人たちというのもいる。
 言葉狩りの好きな人というのは、「比喩を誤謬推理として告発する人」とだと言ってもいいのかもしれない。

 それでは『蛙合』の続き。

 「第十三番
   左持
 ゆらゆらと蛙ゆらるる柳哉     北鯤
   右
 手をかけて柳にのぼる蛙哉     コ斎
   二タ木の柳なびきあひて、緑の色もわきがた
   きに、先一木の蛙は、花の枝末に手をかけて、
   とよめる歌のこと葉をわづかにとりて、遙な
   る木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだの
   ぼらざるけしき、しほらしく哀なるに、左の
   蛙は樹上にのぼり得て、ゆらゆらと風にうご
   きて落ぬべきおもひ、玉篠の霰・萩のうへの
   露ともいはむ。左右しゐてわかたんには、数
   奇により好むに随ひて、けぢめあるまじきに
   もあらず侍れども、一巻のかざり、古今の姿、
   只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心
   心にわかち侍れかし。」

 柳に蛙というと小野道風で、花札の絵柄にもなっているが、ウィキペディアには、

 「道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり : 宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られる。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった(戦後の道徳の教科書にも採用されているものがある)。」

とある。
 この逸話が広まったのは『蛙合』から八十年も後のことで、蕉門の人たちの知る所ではなかったのだろう。むしろ、道風の逸話の起源がこの『蛙合』第十三番にあった可能性もある。
 「花の枝末に手をかけて、とよめる歌」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注にもあるとおり、

 山吹のしづえの花に手をかけて
     折りしり顔に鳴く蛙かな
               源仲正(夫木抄)

の歌のことと思われる。この「手をかけて」の五文字を取って、「柳にのぼる蛙」と展開する。
 この「手をかけて柳に登る」という言い回しは微妙で、時制の曖昧な日本語だと、現在とも現在進行形とも未来とも受け取れる。日本語では「為せば成る」のように、英語ならwillを使うような強い意志を持った未来には現在形を用いる。
 判詞にも「遙なる木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだのぼらざるけしき」とあるように「登る」に意志未来、現在進行、まだ完了しないというニュアンスを読み取っている。
 つまりこの句は、蛙が柳の枝に飛びつこうとして、ようやく飛びついて、今まさにさらに上に向かうという一連の流れを表している。この蛙のけなげな姿が、後に小野道風に仮託された可能性が十分にある。
 左の句の方は既に枝に飛びついていて、柳の枝の途中で風にゆらゆら揺られて、落ちまいとしている描写になる。
 「玉篠の霰」は、

 もののふの矢並つくろふ籠手のうへに
     霰たばしる那須の篠原
               源実朝(金槐和歌集)

 「萩のうへの露」は、

 おきあかし見つつながむる萩の上の
     露ふきみだる秋の夜の風
               伊勢大輔(後拾遺集)

であろう。
 柳の枝に飛びついた蛙も、風にゆらゆら揺られながら、結局は散ってしまう。
 趣向としてはどちらもよく似ていて甲乙つけがたい。
 「一巻のかざり、古今の姿、只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心々にわかち侍れかし。」とあるように、この二句は「一巻の飾り」でありどちらも捨てがたい好句だということで、後の人に判定を任せることになる。よって引き分け。
 その後の人は、結局ここから勝手に小野道風の柳の蛙の寓話を作ってしまい、このオリジナルの二句を忘れてしまったというわけか。

 「第十四番
   左持
 手をひろげ水に浮ねの蛙哉     ちり
   右
 露もなき昼の蓬に鳴かはづ     山店
   うき寐の蛙、流に枕して孫楚が弁のあやまり
   を正すか。よもぎがもとのかはづの心、句も
   又むねせばく侍り。左右ともに勝負ことはり
   がたし。」

 「孫楚が弁」は「石に漱ぎ流れに枕す」で、ウィキペディアには、

 「孫子荊(孫楚)がまだ仕官する前、王武子(王済)に対して隠遁したいと思い「石を枕にして、川の流れで(口を)漱ぎたい(枕石漱流、そのような自然の中での暮らしの意味)」と言おうとしたところ、うっかり「石で漱ぎ、流れを枕にしたい(漱石枕流)」と言い間違えてしまった。すかさず王武子に「流れを枕にできるか、石で口を漱げるか」と突っ込まれると、孫子荊は「枕を流れにしたいというのは、汚れた俗事から耳を洗いたいからで、石で漱ぐというのは、汚れた歯を磨こうと思ったからだよ」と言い訳し、王武子はこの切り返しを見事と思った。感心する意味で「流石」と呼ぶのは、この故事が元という説があるという。」

とある。
 蛙なら「流れに枕す」は別に耳を洗うなんて言わなくても、普通に流れの上にいる。「石に漱ぐ」ことはなさそうだが。
 流れに逆らわずに生きるというのは、『楚辞』の漁父問答を思わせる。
 「蓬に鳴かはづ」は「蓬生」という言葉を連想させ、訪ねてく人もなく、草の生い茂った里の侘び暮らしを連想させるが、それ以上にイメージが膨らまない。
 ちりの句は「手をひろげ」の描写が、山店の句は「露もなき昼の」の描写が、今一つ取り囃しとして生きてないような気がする。

 「第十五番
   左
 蓑捨し雫にやどる蛙哉       橘襄
   右勝
 若芦にかはづ折ふす流哉      蕉雫
   左、事可然体にきこゆ。雫ほすみのに宿か
   ると侍らば、ゆゆしき姿なるべきにや。捨る
   といふ字心弱く侍らん。右、流れに添てす
   だく蛙、言葉たをやか也。可為勝か。」

 捨てられた蓑の雨の雫に濡れる中に蛙がいるというのは、いかにもありそうだ。ただ何で蓑が捨てられたのか、ちょっと気になる。
 「雫干す蓑に宿かる蛙哉」なら、蓑を捨てるという不自然さがなく、雨の中旅する中に、いつの間にか美濃の中に蛙が紛れ込んで、お前もともに旅をして、ここに宿るかという細みの句となる。
 「心弱く」の「心」はこの場合心情のことではなく「意味」という意味で、要するに「蓑捨し」が意味不明ということ。
 若芦の句は、流れのあるところでは、流れにくい若い元気な芦の葉を宿とするという句で、蛙の宿対決になる。特に難がないので「若芦」の句の勝ちになる。

2022年4月18日月曜日

 和辻哲郎は世界の四大文明とともに日本も一つの独立した文明だと主張していた。
 今は世界的な考古学の進歩によって、四大文明という考え方自体が時代遅れになった。ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河の外にも、マヤ・アステカ、インカ、ニジェール、長江に独自の文明があったことが分かっている。
 日本はというと、基本的には長江文明の継承者として一つの文明を名乗る権利があると思う。長江文明の本拠地は黄河文明の侵略によって黄河文明に吸収されてしまったが、その時四散した末裔の一つが対馬海流に乗って日本に辿り着き、この国に長江文明の純粋な形が残ることとなった。
 この文明の特徴は自然崇拝で、中国でも楚人の老聃(老子)によって開かれた道家の中にその名残をとどめている。
 日本や朝鮮半島や中国南部から東南アジアにかけて、長江文明の影響は今も様々な形で残っている。日本独自のもののように見えるものの多くは、この地域で広く見られる。そして日本は島国であるがゆえに他国に征服されることなかったため、今となっては最も純粋な形で長江文明の栄光を残す国になっている。
 明治以降、西洋文明の影響を強く受けながらも、キリスト教が広まらなかった唯一の国でもある。
 自然崇拝の伝統は、今日でも自然を人間の理性でゆがめることなく、ありのままに受け入れる文化となって残っている。そのため、日本ではダーウィン進化論が伝統文化と衝突することなく、広く国民に受け入れられている。
 西洋文明が未だ創造説や霊肉二元論の蒙昧から抜け出せないのに対し、日本は科学を抵抗なく受け止める。だからこそ、西洋の創造説や霊肉二元論に基礎を置く諸思想の侵略に抵抗する権利がある。権利、即ち「正しさ(right)」だ。
 LGBTやフェミニズムや人種問題に関しても、遅れてるのは西洋の方ではないかと思う。こうした人たちが日本に来て暮してくれれば、多分納得できると思う。
 日本には西洋のような、弁証法の螺旋的上昇によって形成された、化物のように巨大な形而上学の体系はない。それは別に恥ずべきことではない。なぜなら西洋哲学自体がそのせいで行き詰まり、既に終わりを迎えているからだ。

 それでは『蛙合』の続き。

 「第九番
   左勝
 夕月夜畦に身を干す蛙哉      琴風
   右
 飛かはづ猫や追行小野の奥     水友
   身をほす蛙、夕月夜よく叶ひ侍り。右のかは
   づは、当時付句などに云ふれたるにや。小の
   のおく取合侍れど、是また求め過たる名所と
   や申さん。閑寥の地をさしていひ出すは、一
   句たよりなかるべきか。ただに江案の強弱を
   とらば、左かちぬべし。」

 田舎の蛙というテーマか。
 夕暮れで虫が獲れなくなると、蛙も畦に上がってじっとしていることもあるのだろう。それを亀の甲羅干しみたいに「身を干す」と言い表している。まだ日の光りの残る夕月夜の頃だから、その情景が見られる。
 真っ暗になると、今度は一斉に鳴きだす。その前の時間の感覚が良く表れている。
 猫が蛙を追いかけるというのはありそうなことだが、それだけだと発句の題材としては弱く、付け句の体になる。そこを「小野」という名所に詠む所で発句らしく仕上げようとしたが、閑寂な山科の小野にふさわしくないという所で、「夕月夜」の句の勝ちになる。
 どちらも蛙の長閑さがテーマになるというところでの組み合わせであろう。
 山科の小野は「石田(いはた)の小野」「小野の細道」などが歌枕になっていて、

 今はしも穂に出でぬらむ東路の
     石田の小野のしののをすすき
               藤原伊家(千載集)
 秋といへば石田の小野のははそ原
     時雨もまたず紅葉しにけり
               覚盛法師(千載集)
 眞柴刈る小野のほそみちあとたえて
     ふかくも雪のなりにける哉
               藤原為季(千載集)

などの歌に詠まれている。

 「第十番
   左
 あまだれの音も煩らふ蛙哉     徒南
   右勝
 哀にも蝌つたふ筧かな       枳風
   半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語、な
   どとも聞得たらましかば、よき荷担なるべけ
   れども、一句ふところせばく、言葉かなはず
   思はれ侍り。かへる子五文字よりの云流し、
   慈鎮・西行の口質にならへるか。体かしこけ
   れば、右、為勝。」

 雨だれ、筧と居所の蛙の対決になる。
 「半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、

 「この詩句は増補国華集の「雨」の項に載る「●半檐の疎雨愁媒を作す[石門]●空階余滴有り、幽人と語るに似たり[坡]によるもので、前半は釈恵洪の石門文字禅の「和余慶長春十首」の一句、後半は蘇東坡の「秋懐二首」中の二句で、後半に「鳴蛙」の語を冠して七言詩の一句のごとくに仕立てたもの(石川八郎説)。」

とある。
 『増補国華集』は漢詩を作る人のためのネタ帳のようなもので、そこには、

 「●半檐の疎雨愁媒を作す[石門]●空階余滴有り、幽人と語るに似たり[坡]」

とのみある。この語句を用いて、判者の言葉として「鳴蛙以」を付け加えて、庇の雨だれにの愁いに帰ると語らうというふうに作っている。
 ただ、この情を引き出すには「あまだれの」の句は言葉足らずでわかりにくい。
 「あまだれの音に煩らふにも、蛙哉」であろう。「も」は強調の「も」(力も)で、雨だれの音にこそ煩わされるが、そこには友となる蛙がいる。
 それを倒置にして「も」を「煩らふ」の前に持ってきて「あまだれの音も煩う」としている。ただ、この句だと、蛙が雨だれに煩っているように聞こえてしまう。
 蝌は「かへるご」と読む。オタマジャクシのこと。「あはれにも」の上五から一気に読み下す作風は、

 あはれいかに草葉の露のこほるらむ
     秋風立ちぬ宮城野の原
               西行法師(新古今集)
 いつまでか涙くもらで月は見し
     秋待ちえても秋ぞ恋しき
               慈円(新古今集)

などにも通じるということか。
 小川から水を汲むための筧にオタマジャクシが流れて来るのを見て、「哀れにも」と強く感情をこめる、その句の姿が評価され、この句の勝ちになる。

 「第十一番
   左
 飛かはづ鷺をうらやむ心哉     全峰
   右勝
 藻がくれに浮世を覗く蛙哉     流水
   鷺来つて幽池にたてり。蛙問て曰、一足独挙、
   静にして寒葦に睡る。公、楽しい哉。鷺答へ
   て曰、予人に向つて潔白にほこる事を要せず。
   只魚をうらやむ心有、と。此争ひや、身閑に
   意くるしむ人を云か。藻がくれの蛙は志シ高
   遠にはせていはずこたへずといへども、見解
   おさおさまさり侍べし。」

 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、これも『増補国華集』の鷺の項の、「●静かにして寒葦に眠る雨颼颼」を引用して判の文章を作っている。
 『荘子』に見られるような問答の形で、寒葦の中に悠々と眠る鷺を見て、蛙がそれをうらやむが、鷺が言うには別に殊勝な心があってのことではなく、魚を獲るためだと答える。そうなると、蛙は何を羨んでいるのかよくわからない。
 鷺には鷺の生活があり、蛙には蛙の生活があり、生き物は皆それぞれで多様なのだから、誰しも我が道を行けばいい、余所を羨むな、というところか。
 なるがままに任せよという教えは『荘子』というよりは、『楚辞』の漁父問答に近いかもしれない。
 これに対し藻隠れの蛙は、市隠の生き方に通じる。俗の中にあって、俗に交わりつつ、孤高の心ざしを保つ。
 これは隠者の寓意としての蛙の対決で、迷いの「鷺を羨む蛙」に対し、悟った孤高の「藻がくれ」の蛙に軍配が上がる。

 「第十二番
   左持
 よしなしやさでの芥とゆく蛙    嵐雪
   右
 竹の奥蛙やしなふよしありや    破笠
   左右よしありや、よしなしや。」

 何だかやる気なさそうな判だ。
 「さで」は叉手のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「叉手・小網」の解説」に、

 「〘名〙 掬網(すくいあみ)の一つ。交差させた竹や木に網を張ったもの。また、細い竹や木で輪を作り、平たく網を張って柄を付けたもの。さであみ。すくいあみ。
  ※万葉(8C後)九・一七一七「三川(みつかは)の淵瀬もおちず左提(サデ)さすに衣手濡れぬ干す児は無しに」

とある。
 叉手に掛かっても、外道としてそのまま放される。役に立たない故に自由でいられる『荘子』の「無用の用」の心といえよう。
 竹の奥は竹林の七賢だろうか。わざわざ蛙を飼うようなこともなかろう。蛙使いの蝦蟇仙人ならともかく。
 いずれにせよ蛙は無用の用で、「よしなし」の「よしあり」というところだろう。

2022年4月17日日曜日

 思うに同性愛というのは男と女とは違う第三の性が存在するのではなく、男女それぞれにある性的嗜好の多様性の一つなんだと思う。要するに趣味の問題なんだと思う。この趣味という考え方は、日本では多くの人が支持していると思う。
 一度性的少数者のことを言い出すと、LGBTだったのがLGBTQになり、さらにLGBTQIAPZNになっていったように、際限なく多様な性が存在することになる。
 同じ異性愛でもおっぱいやら足やら尻やら様々なフェチがあり、デブ専や熟女趣味もあれば、ロリやB専もあるように、その延長線上に同性フェチがあると考えても良いのではないかと思う。LGBTなる「性」が存在するのではなく、たまたま同性へ拡張されたフェチが存在すると考えた方が良い。
 とにかくこの問題はそんなに難しいものではない。
 ごく稀な両性具有を除けば、人はペニスを持つ者か子宮を持つ者かどちらかに生まれる。
 後はそれぞれ後天的な脳回路の形成の段階で、偶発的に様々な性的嗜好が生じるにすぎない。
 LGBTはこうした多種多様な性的嗜好がたまたま男女の境界を越えただけにすぎない。
 多種多様な性的嗜好は基本的に等価であり、自由であるべきである。ただ、それが暴力となる場合のみ抑制されなくてはならない。
 この場合の暴力は、単純な暴力と、未成年者への暴力と、ペニスを持つ者が子宮を持つ者に対して行う暴力との三種類があり、いずれも犯罪として禁止されなくてはならない。
 特にペニスを持つ者が子宮を持つ者に対して行う暴力を抑止するための、公衆便所や公衆浴場や更衣室などでのペニスを持つ者と子宮を持つ者との分離には、一定の合理性がある。
 スポーツにおける男女の別は、基本的にペニスを持つ者と子宮を持つ者との肉体的な差異によるものであり、心と関係なく肉体によって分けられるべきである。
 婚姻は基本的に肉体や精神と無関係に自由であるべきだ。ただ、複数のパートナーを容認する場合は、それが異性間にも平等に適用された場合、一夫多妻の容認に繋がるので慎重に決めなくてはならない。
 多分西洋と西洋崇拝者の人権の議論がおかしいのは、未だに異性に対する無差別な欲望とそれを制御する理性という、古い霊肉二元論の形而上学が支配しているからだと思う。
 この理論だと、おっぱいどーんの画像があれば、すべての男が等しく欲情するという仮説も成り立つ。そんな下らない理由で巨乳叩きをやっているなら、すぐにでもやめるべきだ。
 また、この理論だとLBGTが説明できないものだから、そこであたかも男でも女でもない第三、第四の性が存在するかのような幻想が生じてくる。LBGTそれぞれに独立の性として個別に法律を作るとなると、社会がどうしようもなく煩雑になり、かえって軋轢を生むことになる。それが欧米社会の病だ。
 性欲は無差別かもしれないが、それは対象が女に限定されないどころか、人間にすら生物にすら限定されていない。対象は後天的に刷り込まれ、発達過程で偶発的に様々な脳の回路が形成されると考えた方が良い。そうでなければ性的嗜好の多様性は説明できない。
 そして、それとは無関係にペニスを持つ者はばら撒く性としての性質を具え、子宮を持つ者は選ぶ性としての性質を具えている。これは先天的な部分に属するため、個体差はあるが大まかな傾向として存在している。
 個体差があるというのは、男女で背の高さが違うようなものと考えていい。個体差が性差を上回るために、個別的に見れば一概に言えないが、平均すれば性差は存在する。男がばら撒く性だとはいえ一穴主義者は存在するし、女が選ぶ性だとしてもビッチは存在する。
 それでは『蛙合』の続き。

 「第六番
   左持
 鈴たえてかはづに休む駅哉     友五
   右
 足ありと牛にふまれぬ蛙哉     琪樹
   春の夜のみじかき程、鈴のたへまの蛙、心に
   こりて物うきねざめならんと感太し。右、
   かたつぶり角ありとても身をなたのみそとよ
   めるを、やさしく云叶へられたり。野径のか
   はづ眼前也、可為持。」

 駅が「むまや」と読む。馬屋のことで宿場の伝馬のいる所であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、

 「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。

 伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。」

とある。伝馬ではあっても、一般の貨物の輸送も行い、忙しい時には駆り出されたようだが、ここでは伝馬の鈴も鳴らない夜の間は辺りでは蛙が鳴き、それを聞きながら馬がゆっくり休んでいる。
 なお、駅の鈴は、『和漢朗詠集』に、

 漁舟火影寒焼浪。駅路鈴声夜過山。
 秋夜宿臨江駅 杜荀鶴

とある。
 「足ありと」の句は、

 牛の子に踏まるな庭のかたつぶり
     角のあればとて身をば頼みそ
               寂蓮法師(夫木抄)

の歌を踏まえて、カタツムリと違って蛙にはぴょんと跳ねる立派な足があるから、牛に踏まれることもない、とする。
 馬の蛙の声を聞きながらの、仕事に追われることのない穏やかな朝のけだるい雰囲気もさることながら、蛙の牛に踏まれることを心配し、気遣う「細み」も捨てがたく、引き分けとする。

 「第七番
   左
 僧いづく入相のかはづ亦淋し    朱絃
   右勝
 ほそ道やいづれの草に入蛙     紅林
   雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき、さ
   ながらに寂しく聞え侍れども、何れの草に入
   かはづ、と心とめたる玉鉾の右を以て、左の
   方には心よせがたし。」

 「雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき」は、『和漢朗詠集』の、

 蒼茫霧雨之晴初。寒汀鷺立。重畳煙嵐之断処。晩寺僧帰。
 閑居賦 張読

を踏まえたもので、ここでは入相の鐘ではなく、雨上がりの蛙の鳴き声に僧が帰るとする。古典の情を受けついて、「入相の蛙」と卑俗に落とすパターンだ。ただ、これだとオリジナルの「閑居賦」の情を越えられない。」
 「ほそ道や」の句が何で僧の句と並べられたのかというと、おそらく『和漢朗詠集』つながりで、

 帰谿歌鴬更逗留於孤雲之路。辞林舞蝶還翩翻於一月之花。
 今年又有春序 源順

と対にしたのであろう。鶯の孤雲之路の逗留を元にしながらも、細道の蛙は逗留する草すらないという哀れさで、羇旅の哀愁もあっての勝ちとする。

 「第八番
   左
 夕影や筑ばに雲をよぶ蛙      芳重
   右勝
 曙の念仏はじむるかはづ哉     扇雪
   左、田ごとのかはづ、つくば山にかけて雨を
   乞ふ夕べ、句がら大きに気色さもあるべし。
   右、思ひたへたる暁を、せめて念仏はじむる
   草庵の中、尤殊勝にこそ。」

 筑波の蛙というと蝦蟇の油の縁がある。ウィキペディアに、

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。主成分については植物のガマの花粉「蒲黄(ほおう)」とする説やムカデを煮詰めた「蜈蚣(ごしょう)」、馬油とする説もある。」

とある。蝦蟇の油はこの頃からあったものの、あの有名な口上は、わりと最近の物とも言われている。江戸時代にあったかどうかはよくわからない。
 第一番の仙化の句の「蛙つくばふ」も、蛙と筑波の縁によるものと思われる。
 筑波山の雲は、

 君が代は白雲かかる筑波ねの
     峰の続きの海となるまて
               能因法師(詞花集)

の賀歌にも詠まれている。そのお目出度い筑波山の雲を、雨を欲しがる筑波山の蛙たちが呼んだものだとする。雨は農耕に欠かせぬもので、春の時期の雨は田植の水としても重要になる。
 蛙の声に筑波山の雨を呼び、豊年満作を願うスケールの大きさは認められる。
 これに対し暁の念仏は、

 ものをのみ思ひ寝覚め枕には
     涙かからぬ暁ぞなき
               源信明(新古今集)

の心か。この思いを断つために出家し、せめては草庵に念仏を唱える尼僧とする。
 神祇と釈教の対決ではあるが、ここでは本地たる釈教の勝利とする。

2022年4月16日土曜日

 今日は雨も止んでようやく晴れた。
 あちこちでツツジが咲き出した。
 今日は十六夜で満月は明日とのこと。
 ひょっとして人権派の人たちってポルノサイトを見ることってないのかな。男なら密かに見てると思うけど、ただ漫然と見るのではなく、あそこからも学ぶべきことはたくさんあると思う。
 まずは性的嗜好の驚くべき多様性だ。これを見れば、おっぱいの大きな女をドーンと出せば男どもはみんな興奮するなんてのは嘘だとわかるはずだ。おっぱいはその種の嗜好の人にしかアピールしない。
 昔は限られたポルノ媒体しかなかったから「選べない」ということもあったけど、これだけ選べるようになるとはっきりするのは、男の欲望がいかにピンポイントなものかということだ。
 無数にあるポルノビデオも、そのほとんどの物はすぐ見飽きてスルーするようになる。そのなかで、これは抜けると思う物は本当に少ない。同じようなシチュエーションで似たような女優を使っても、抜けるものと萎えるものがある。これは本当に不思議だ。
 まあ、普通に考えて、男の嗜好が多様でなかったなら、人類はとっくに滅んでいたね。どんな女性でもそれを好む男がいるから、人類はここまで増えてしまったんだ。
 昔の社会は女性が家同士で物として交換される社会だったから、そのための商品管理の必要があって、ステレオタイプ的な「女らしさ」というのが存在したのは事実だ。そういう時代は男どももこういうのが女だと洗脳されてたのかもしれない。
 ただ、ひとたび男の欲望が無数のポルノによって解き放たれてしまうと、こうしたステレオタイプへの興味が急速に失われてゆく。昔は人気アイドルは御三家だとか何とかトリオだとか言われて、ほんの一握りのアイドルに好みが集中していたが、いまは四十八人単位で無数のアイドルグループが存在する。
 メジャーなアイドルだけでなく、様々な地下アイドルが存在するし、アニメキャラでも今どき一人のヒーローやヒロインに好みが集中するなんてことはない。
 新聞の一面を巨乳キャラが飾ったとしても、ピンポイントにはまる人以外は皆スルーしている。逆に言えば、どんなキャラを使おうと、必ずピンポイントでそれに興奮する奴はいる。
 性的嗜好の開放が進めば、性の商品化も恐ろしく多様化し、様々なニッチなロングテール市場を形作る。この現実に人権派やフェミニストの人たちも、早く適応してほしいものだ。巨乳叩きは卒業しよう。

 それでは『蛙合』の続き。

 「第三番
   左勝
 きろきろと我頬守る蛙哉      嵐蘭
   右
 人あしを聞しり顔の蛙哉      孤屋
   左、中の七文字の強きを以て、五文字置得て
   妙なり。かなと留りたる句々多き中にも、此
   句にかぎりて哉といはずして、いづれの文字
   をかおかん。誠にきびしく云下したる、鬼
   拉一体、これらの句にや侍らん。右、足
   音をとがめて、しばし鳴やみたる、面白く侍
   りけれ共、左の方勝れて聞侍り。」

 嵐蘭の句は「我頬(わがつら)守る」の中七文字が生命だという。「我面」と書いた方が分かりやすいが、「つら」には単に顔というだけの意味ではなく、「つらを汚す」というように、体面という意味もある。
 「頬(ほほ)」だとすると、芥川龍之介の『芭蕉雑記』の中に、

 「芭蕉は北枝との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」と作品の自釈を却けてゐる。」

とあるが、「頬がまち」という場合は外面ではなく、その隠された部分という意味がある。
 頬は顔の輪郭を構成する重要な部分で、「頬歪む」は事実をゆがめるという意味を持つ。
 ただ、この場合は頬の字は当てるが「ツラ」を守るなので、体面を保つとか、体裁を取り繕うだとかそういうニュアンスがあるように感じられる。きろきろと鳴きながら顎を膨らませている姿は、どこか威張っているような印象を与える。
 「きろきろ」は蛙の鳴き声と思われるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「きろきろ」の解説」に、

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) 目などの光るさま、また、落ち着きのない目つきを表わす語。
  ※狭衣物語(1069‐77頃か)三「おとどはよしな。嵯峨の院こそ、頭はきろきろと、恐ろしげなれ」

とある。この場合、発音は「ぎろぎろ」で、今でいう「じろじろ」ではないかと思う。
 ここでは単に蛙の鳴き声で、ケロケロ鳴きながら体面を保っている蛙ではないかと思う。
 哉は治定の哉で、単なるストレートな断定ではなく、「そうだろうか」と一度疑いならの「やはりそうだ」という主観的な断定になる。「我頬守る」は人間の側からの擬人化で、人間の側の感情の投影なので、単純な断定ではなく治定の「哉」がふさわしい。関西弁っぽく言えば「我が頬守ってんがな」だ。
 「鬼拉一体」は拉鬼体(らっきてい)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「拉鬼体」の解説」に、

 「〘名〙 藤原定家がたてた和歌の十体の一つ。強いしらべの歌。のち、能楽の風体にも用いられた語。拉鬼様。→十体(じってい)②(ハ)。
  ※毎月抄(1219)「かやうに申せばとて必ず拉鬼躰が歌のすぐれたる躰にてあるには候まじ」

とある。鬼を拉(ひさ)ぐ、つまり鬼を押しつぶすということで、力で圧倒するような体をいう。
 例として定家は十二首の歌を掲げているが、その冒頭の歌は、

 ながれ木とたつ白波とやく塩と
     いづれかからきわたつみのそこ
               菅原道真(新古今集)

で、掛詞や縁語などの小細工がなく「いづれかからき」に力が込められている。
 孤屋の句は人が近づいてくる足音を知っているかのように、人が来るとかたっと鳴き止むという句で、あるあるネタとしてはわかるが、「人あしを聞しり顔」はわりと普通の言い回しで、「我頬守る」ほどのインパクトはない。「我頬守る」の勝ちになる。

 「第四番
   左持
 木のもとの氈に敷るる蛙哉     翠紅
   右
 妻負て草にかくるる蛙哉      濁子
   飛かふ蛙、芝生の露を頼むだにはかなく、花
   みる人の心なきさま得てしれることにや。つ
   まおふかはづ草がくれして、いか成人にかさ
   がされつらんとおかし、持。」

 氈(せん)は毛織の敷物のことで、花見のなどの時に貧乏人は筵を敷いて金持ちは毛氈を敷く。
 そのため「氈に敷るる」は「花みる人の心なきさま」の連想にすぐに結びついた。毛氈を敷く時に慌てて逃げて行く小さな蛙の姿が浮かんでくる。どことなく、庶民を蹴散らして行くお偉いさんの風姿のようにも見える。
 「妻負(おう)て」の句もそうやって逃げて行く蛙の姿で、生物学的に言うなら、上にいる方が雄であろう。古語だと「妻」は夫婦両方の意味があるから、どっちでもいいことではあるが。
 まあ、交尾の最中に邪魔されてそのまま逃げてゆくわけだが、古典の風雅の情としては、『伊勢物語』第六段の鬼一口であろう。絵に描く時には在原業平が女をおんぶして逃げる場面が描かれている。
 「いか成人にか探されつらん」は、見つかったら鬼一口だぞ、という意味だろう、そういう想像が膨らむ所でも、この句も捨てがたく、持ち、つまり引き分けになる。

 「第五番
   左
 蓑うりが去年より見たる蛙かな   李下
   右勝
 一畦はしばし鳴やむ蛙哉      去来
   左の句、去年より見たる水鶏かなと申さまほ
   し。早苗の比の雨をたのみて、蓑うりの風情
   猶たくみにや侍るべき。右、田畦をへだつる
   作意濃也。閣々蛙声などいふ句もたより
   あるにや。長是群蛙苦相混、有時也作
   不平鳴といふ句を得て以て力とし、勝。」

 蓑売はその言葉の意味は蓑を売り歩く人だが、どういう人たちだったのか、その実態はよくわからない。簑笠は田植の時の晴れ姿でもあるから、田植の前に売り歩くものなのだろう。
 簑笠が単なる雨具ではなく神具の意味があったとするなら、そういった関係者なのだろう。
 簑笠は田植だけでなく、竹植える日(旧暦五月十三日)の晴れ姿でもあった。

 降らずとも竹植うる日は蓑と笠   芭蕉

の句がある。
 その蓑笠売りが去年と同じように、売り歩く時に蛙を見るということで、別に同一個体という意味ではない。蛙の個体識別は無理だろうし。
 季節的には春の蛙だとやや早く、夏の水鶏(くいな)の方がふさわしかったのだろう。風情はあるが、そこが疵になる。
 「一畦は」の句も、蛙という題材ながら初夏の田植の頃を連想させるという意味で、「蓑売」の句と対になったのだろう。片方の田に人が入れば、その田だけ一枚、蛙の声が止む。
 「閣々蛙声」の句は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、

 「円機活法二十四・蛙の箇所に「濮陽伝詩」として「閣閣の蛙声聞くべからず」をあげる」とある。
 その詩は蛙ではなく蜂の所に、

   濮陽傳詩
 過再花飛暮色殷 浮沉風遣月穿雲
 夜來魚卵乖春夢 閣閣蛙聲不可聞

とある。
 「長是群蛙苦相混、有時也作不平鳴」の句は蝶の所に、

 長是群蛙苦相混 乗時不羨雲溟樂 城邊鼾睡休驚醒
 有時也作不平鳴 口作儀同鼓吹聲 免使三軍動戦情

とある。
 蛙軍(かへるいくさ)は、

 歌軍文武二道の蛙かな       貞室

の句があり、歌を詠む蛙とともに俳諧のネタになっていた。
 蛙軍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蛙軍」の解説」に、

 「〘名〙 蛙が群集して、争って交尾すること。多くの蛙が戦っているさまに似ているところからいう。早春にアカガエル、ヒキガエルが行なう。がま合戦。蛙合戦。かわずいくさ。」

とある。
 去来の句もそのネタで、強いものが来ると軍は収まるが、その力の及ばない所で蜂起するという風刺を込めていたか。その寓意を取って勝ちとする。

2022年4月15日金曜日

 予報通り今日も雨だった。
 比村奇石さんの「月曜日のたわわ」はヤンマガWebで無料公開中だった。
 筆者はエルフ族保守派の方なので巨乳に思い入れはないが、巨乳も貧乳も一つの個性として、みんなありのままで楽しく生きられたらいいなと思う。
 世の男性が欲望丸出しにせずに、非暴力的で紳士的にふるまうことが大事で、これは見る男の方の問題で、巨乳だけを規制するのは間違っている。
 貧乳萌えもたくさんいて、貧乳に興奮する男もたくさんいるんだから、貧乳キャラも同じように規制するというならまだわかるが、巨乳だけを叩くのは間違っている。実際、胸が大きいというだけで公共広告に出られない女優がいたりしたら、それこそ差別というものだ。
 多様性とは巨乳も受け入れることだ。ドイツのユニフォームと一緒で、男性の目を規制するのではなく女性の側に不自由を強いるやり方は、西洋社会をイスラム化させるだけだ。

 春も弥生もはや半ばということで、芭蕉の記念碑的なあの句の発表された、あの『蛙合』でも読んでみようかと思う。
 古池の句自体は天和の終わり頃にできていたというが、これを発表するのにいろいろな準備があり、『野ざらし紀行』の旅で、江戸だけでなく中京や上方の俳諧師たちとも交流を持ち、十分勢力を広げた上での、満を持しての興行だった。
 『蛙合』のテキストは『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)による。
 ではその第一番

  「左
 古池や蛙飛こむ水のおと      芭蕉
   右
 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化
   此ふたかはづを何となく設たるに、四となり
   六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におく
   の品、をのをのあらそふ事なかるべし。」

 芭蕉の古池の句は支考の『葛の松原』によれば、おそらく天和二年の春、深川に隠棲してそれまでの桃青から芭蕉を名乗るようになった頃、「山吹や蛙飛こむ水の音」の形の句ができて、やがて上五を「古池や」として治定したという。
 山吹の蛙は古歌の趣向で、そこから思い浮かぶものは古歌の知識のなかの井出の玉川の蛙にすぎない。一部の歌枕を訪ね歩く数寄者以外は、どのような景色なのかはただ想像するしかない。
 これが「古池や」になると、誰もがそれぞれ記憶の中にある古池を思い浮かべることができる。田舎には農業用水を溜めておく池があり、また寛文・延宝の頃は新興商人が台頭し、その一方で没落する旧家も多かったし、武家でも廃藩・改易が続き、廃墟となった屋敷の古池もそれほど珍しいものではなかっただろう。
 こうした古池はどこか寂し気で、廃墟ともなればそれこそ幽霊が出そうな不気味な雰囲気もある。そんなところでじゃぼっという濁った水音がきこえて、一瞬ぎょっとすることもあっただろう。
 そういうわけで、古池の蛙の水音は当時の人にとって、幼少期の共通体験のような者を呼び起こす「あるある」だったのではなかったかとおもう。どこか懐かしく、どこか寂し気で、不気味な怖さも感じさせる、そんな原体験を呼び起こしたのではなかったかと思う。
 荒れ果てた古池はまた、古典の情にも通じている。それは『伊勢物語』第四段の、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして
               在原業平

の歌で、

 「またの年の睦月に梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど去年に似るべくもあらず。うち泣てあばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。」

と続く。
 春なのに昔と変わった姿に、目出度いはずの梅も月も涙を催すものになる。
 あるいは杜甫の春望のように、「時を感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」の心にも通じる。
 古池の句はこうした個人体験と古典の悲しい場面を繋ぐもので、それが多くの人の感動させ、当時の身分の低いものや子供に至るまで、誰しも知らない者のないような大ヒットとなった。
 この時はまだそれがいよいよ発表されるという段階だったが、事前にこの句を知らされた門人たちは感動に打ち震え、これをとにかくいかに効果的に世に伝えるかに腐心することとなったのだろう。それがこの『蛙合』だった。
 実際に来られる門人だけでも集まって、公開の興行として行われたかもしれない。立ち会えた人は少なくても、噂口コミは馬鹿にならない。こうしたこともプロモーションとしては重要だったのではないかと思う。
 さて、句合なら、この古池の句と並べる句はといったとき、いくつか候補に挙がりながらも定まったのが、この、

 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化

の句だったのだろう。
 一見何でもないような句だが、「蛙つくば」という文字が隠されている。つまり連歌の準勅撰集『菟玖波集』『新撰菟玖波集』があり、その俳諧版として俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑が編纂した『新撰犬筑波集』があったので、それに倣う形で、この『蛙合』を「蛙菟玖波集」としてアピールする意図が隠されていたのではないかと思う。
 この言葉遊びを別にしても、浮葉の上にいたいけに這いつくばう蛙の姿は可愛らしくも不安げで、そこにはあの蛙があたかも自分の姿であるような共感を誘う。こうした生命への共感と憐憫は、のちに「細み」と呼ばれるようになった。
 まあ、もっと大きく言うなら、人生というのはほんの小さな浮葉の上に漂うようなものだ、と言ってもいいかもしれない。死と無常の虚無の海に浮かぶほんのの小さな浮葉のような命。そう思えばこの句は十分古池の句と張り合える。
 この二句をつがわせた所で蛙合興行は始まる。この二句について勝ち負けの判定はない。

 「第二番
   左勝
 雨の蛙声高になるも哀也      素堂
   右
 泥亀と門をならぶる蛙哉      文鱗
   小田の蛙の夕ぐれの声とよみけるに、雨のか
   はづも声高也。右、淤泥の中に身をよごして、
   不才の才を楽しみ侍る亀の隣のかはづならん。
   門を並ぶると云たる、尤手ききのしはざな
   れども、左の蛙の声高に驚れ侍る。」

 雨の蛙というと、

 三稜草這う汀の真菰うちそよぎ
     蛙鳴くなり雨の暮方
               藤原定家(夫木抄)

の歌があり、室町時代の和歌になると、

 俄なる夏の雨風くもりきて
     木末の蛙こゑしきるなり
               正徹(草魂集)
 深小田に妻呼ぶ蛙雨降れば
     いとど惜しまぬ夕暮れの声
               肖柏(春夢草)

といった歌も出て来る。雨の蛙の声高はこうした流れの延長線上にあるもので、判定の言葉にある「小田の蛙の夕ぐれの声」は、

 折にあへばこれもさすがに哀れなり
     小田の蛙の夕ぐれの声
            藤原忠良(新古今集)

の歌は雨ではないが「さすがに哀れなり」の情を受け継いでいる。
 古典の王朝時代から中世和歌への引き継がれていった風雅の心を、「声高」という俗語で表す所に手柄があったといえよう。
 泥亀は「不才の才を楽しみ侍る亀」で、これは『荘子』秋水編の、

 莊子持竿不顧、曰「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣、王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死為留骨而貴乎。寧其生而曳尾於塗中乎。」
 二大夫曰「寧生而曳尾塗中。」
 莊子曰「往矣!吾將曳尾於塗中。」

であろう。
 楚の国に祀られている神亀は死して三千年廟堂に保管されているが、この亀は死んで甲羅を残すよりも、むしろ生きて泥の中で尾を曳いていたかったのではないか、という荘周の問いに、二人の大夫が尤もだと同意したので、なら吾も泥の中で尾を曳いていよう、と仕官の話を断る場面だ。
 「不才の才」は無用の用と同じ言い方で、才能のないがために政争に巻き込まれずに永らえるという、隠士の心をいう。
 蛙もまたこの隠士たる亀を隣として、悠々と生きている、という句だ。「手利き」の句ではあるが、理に走って余生に乏しいということで、声高の句の勝ちになる。

2022年4月14日木曜日

 今日は雨、あしたも雨のようだ。
 でもまだ春は終わらない。何か楽しいことを考えよう。

 それでは『阿羅野』の暮春の発句の残り。

 あそぶともゆくともしらぬ燕かな 去来

 燕はいつもせわしく飛び回っているから、遊んでるのかどこか行こうとしているのかよくわからない。芭蕉のように一所不住の旅をする人の比喩かもしれない。

 去年の巣の土ぬり直す燕かな   俊似

 秋になると去って行き春になると戻ってくるツバメは、去年の巣が壊れていると修復してそこに棲む。これも何となく、久しぶりに我が家に戻った旅人に似ている。

 いまきたといはぬばかりの燕かな 長之

 ツバメは春に日本にやって来ると、すぐに繁殖期に入るため、すぐに相手を探すための囀りをする。それが「ただいま」の挨拶のように聞こえる。

 燕の巣を覗行すずめかな     長虹

 燕が巣に戻ってくると、雀がそれを覗きにきたかのように集まってくる。雀は集団でやって来てツバメの巣を乗っ取ったりするらしい。去年の巣が壊れてたのも犯人は雀か。
 燕と雀は「燕雀」と呼ばれ、小者の意味で用いられる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「燕雀」の解説」に、

 「① ツバメとスズメ。また、そのような小鳥。
  ※菅家文草(900頃)二・元慶三年孟冬八日、大極殿成畢、王公会賀之詩「燕雀先知聖徳包、子来神化莫二空抛一」
  ※史記抄(1477)一五「燕雀は人に馴れ近き者ぢゃほどに」 〔孔叢子‐論勢〕
  ② (陳渉が、小人物には英雄の志がわからないことを「燕雀安知二鴻鵠之志一哉」と嘆いたという「史記‐陳渉世家」の故事から) 狭量な人。小人物。
  ※凌雲集(814)高士吟〈賀陽豊年〉「寄レ言燕雀徒、寧知二鴻鵠路一」
  ※読本・椿説弓張月(1807‐11)拾遺「小ざかしき燕雀(ヱンジャク)の共囀(ともさへづ)り、汝等がしる所にあらず」

とある。「燕雀安(いづく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」という諺もある。

 黄昏にたてだされたる燕哉    鼠弾

 「たてだす」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「立出・閉出」の解説」に、

 「〘他サ四〙 しめ出す。人を外に出して門などをとじてしまう。〔羅葡日辞書(1595)〕
  ※浮世草子・好色産毛(1695頃)五「一間をみれば、影の男はたて出(ダ)されて、夕霧ばかりぞ目にみへける」

とある。

 燕鳴く軒端の夕日かけきえて
     柳に青き庭の春風
              花園院(風雅集)
 うつる日の夕陰遠し行き帰り
     燕鳴く野の道のはるくさ
              肖柏(春夢草)

の歌もあり、燕は夕暮れに詠まれる。宿に帰る燕からの連想であろう。ただ、そこは俳諧で、帰ってくると巣がなくなっていて閉め出されてしまう。

 友減て鳴音かいなや夜の雁    旦藁

 帰る雁とははっきり書かれてないが、帰る雁の句になる。

 北へゆく雁ぞ鳴くなるつれてこし
     数はたらでぞ歸るべらなる
              よみ人しらず
 この歌は、「ある人、男女もろともに人の國へまかりけり。男まかりいたりて、すなはち身まかりにければ、女ひとり京へ歸りける道に、歸る雁の鳴きけるを聞きてよめる」となむいふ」(古今集)

の心といえよう。

 角落てやすくも見ゆる小鹿哉   蕉笠

 鹿は春になると角が落ちて生え変わる。「やすく」は平穏という意味と「やすっぽい」という意味と両方に取れるが、ここはいかにも強そうな牡鹿が女鹿みたいになって、小鹿からすれば怖い大人がいなくなったということか。どこか緩んでいるように見える。

 なら漬に親よぶ浦の汐干哉    越人

 前句の鹿の縁で「なら漬」に展開する、といっても連句ではないが。
 奈良漬はウィキペディアに、

 「江戸時代に入ると、奈良中筋町に住む漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596年 - 1615年)に、シロウリの粕漬けを「奈良漬」という名で売り出して評判となり、奈良漬けの言葉を広める。大坂の陣の時に徳川家康に献上して気に入られ、やがて医者をやめて江戸に呼び寄せられ幕府の奈良漬け担当の御用商人になった。奈良を訪れる旅人によって庶民に普及し、愛されるようになる。「奈良は春日(粕が)あればこそ良い都なり」といわれ、奈良は酒の産地で、奈良漬の発祥地ともなった。将軍徳川綱吉の時代、浅草の観音の門前で「奈良漬を載せたお茶漬け」が評判となり、大当たりした。やがて、瓜の粕漬から野菜の粕漬の総称となり、幕末の『守貞謾稿』後集巻1「香物」には「酒の粕には、白瓜、茄子、大根、菁を専らとす。何国に漬たるをも粕漬とも、奈良漬とも云也。古は奈良を製酒の第一とする故也。」とあり、銘醸地奈良の南都諸白から生まれる質のよい酒粕に負うところが大きいことが記されている。」

とある。
 大人の好むものだから、子供が親を呼ぶときに「奈良漬」を出しにする。

 おやも子も同じ飲手や桃の酒   傘下

 桃の酒は貝原好古の『日本歳時記』に、

 「三日桃花を取て酒にひたし、これをのめば病を除き、顔色をうるほすとなん。桃花を酒に浸さば、ひとへなる花を用べし。千葉の花を服すれば、鼻衂いでてやまずと本草に見えたり。」

とある。桃は不老不死の仙薬でもあり、桃の酒も長寿を願って飲むものだったのだろう。芭蕉がまだ伊賀にいた頃の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」六句目にも、

   けうあるともてはやしけり雛迄
 月のくれまで汲むももの酒    宗房(芭蕉)

の句がある。
 この桃の酒に限っては、子供、特に女の子が飲むことも許されたのだろう。

 人霞む舟と陸との汐干かな    友重

 舟や陸が霞むのは春なら普通で、古来和歌にも多く詠まれているが、潮干狩りの時には人もまた遠浅の浜で霞んで見える。

 山まゆに花咲かぬる躑躅かな   荷兮

 「山まゆ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「山眉」の解説」に、

 「〘名〙 山の端のほのかなさまを眉墨に、また、美しい眉を山の稜線に見立てていう語。
  ※藻塩草(1513頃)一六「山まゆ かすみのまゆ」

とある。和歌では「遠山眉」という言葉で、

 佐保姫のとほ山まゆもうす墨の
     夕ほのかにかすむ春かな
              正徹(草魂集)
 明けゆくか在明の月のほそくかく
     遠山まゆをみたす横雲
              同

など、正徹の和歌にも見られる。
 ツツジもまた山の夕暮れに詠むもので、

 入日さす夕くれなゐの色はえて
     山下てらすいはつゝじかな
              摂政家参河(金葉集)

の歌もある。山にツツジが咲いて華やぐとツツジの存在感が強すぎて、山眉のような仄かな感じにはならなくなる。

 朧夜やながくてしろき藤の花   兼正

 朧月の夜の薄明かりに、松などに何となく白くて長いものが掛かっているようにみえるが、それが藤の花だ。電気などのなかった時代には、夜の花はほとんど幽かにしか見えなかった。

 篝火に藤のすすけぬ鵜舟かな   亀洞

 鵜舟はかつては晩春にも行われていたか。篝火に藤の花が白く浮かび上がる。昔は自生する藤がどこにでも咲いていて、河辺でも普通に咲いていた。

 永き日や鐘突跡もくれぬ也    卜枝

 昔は不定時法だから、日が長くなったら入相の鐘を撞くのも遅くなるものだが、ついつい習慣で早く打ってしまうのだろう。

 永き日や油しめ木のよはる音   野水

 「油しめ木」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「油搾木」の解説」に、

 「〘名〙 果実や種子などを圧搾して、油をしぼり取る器械。あぶらしめ。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)「かしましき物の品々〈略〉あぶらしめぎの音」
  ※思ひ出(1911)〈北原白秋〉柳河風俗詩・ふるさと「なつかし、沁みて消え入る 油搾木(アブラシメギ)のしめり香」

とある。
 植物油の圧搾絞りは重労働なので、日が長いとやがて疲れてきて、音も弱くなってゆく。

 行春のあみ塩からを残しけり   野水

 アミの塩辛は韓国ではキムチの原料になるが、日本ではご飯のお供か、酒の肴にするくらいだった。
 秋から冬にかけて大量に獲れるアミは塩辛にして保存するが、春も終わる頃になっても食べきれずに残っていたりしたのだろう。

2022年4月13日水曜日

 福島は二〇一九年十一月三日以来だった。二年五か月ぶり。放置された家が並んでいたところの多くは更地になり、新しい家や店ができた所もあった。六号線もアコーディオンフェンスがほとんどなくなり、黒いフレコンパックもほとんど見なくなった。夜の森の桜並木も解放され、ゆっくりとではあるが復興は進んでいる。
 ウクライナも、たとえロシア軍を追い出すことに成功したとしても、復興には何年もかかるんだろうな。
 まあ、世界のみんなで協力して助けて行かなくてはいけないな。
 我々の盾になって犠牲になったのを忘れてはならない。ウクライナは盾の勇者だ。アメリカやNATOの剣と槍と弓に見放された盾。日本は人権のないただのモブだし。
 まあ、ロシアと戦えないなら、まずは国内にいる独裁支持者と戦うしかないが。
 もうそろそろみんな気付いてもいいんじゃないかな。世界平和と核のない世界を実現するには、独裁国家をどうにかしなくてはいけないということに。
 国際条約で独裁体制を禁止し、世界から独裁国家が撲滅されるまで、自由主義国家が一丸となって集団的自衛権を行使し、対抗しなくてはならない。
 アメリカが世界の警察をやめてモンロー主義の時代に戻りたいなら、アメリカ抜きで、環太平洋の集団防衛体制を作り上げる必要がある。集団的自衛権が現行憲法の解釈の範囲内であれば、憲法改正の必要もない。
 TPPがアメリカ抜きでできたのだから、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本を軸としたアメリカ抜きの環太平洋版NATOも可能だろう。
 アメリカ抜きなら反米思想の人たちも取り込めるのではないか。台湾や香港も独立すればみんな仲間だ。
 いくら第三次世界大戦を望まないと言っても、独裁国家がそれを望む限り避けられない。ならば迎え撃つ以外の選択肢はない。最後は剣と槍と弓と盾とモブが揃って戦うことになる。

 それでは引き続き『阿羅野』の発句で暮春の句をみてみよう。

   暮春

 何の気もつかぬに土手の菫哉   忠知

 菫はどこにでも咲いているが、小さくて目立たなくて見落としがちな花でもある。
 日本の菫はスミレとツボスミレが古来和歌に詠まれてきた。スミレは葉が長く花は濃い紫、ツボスミレは葉が丸くて花は白に近い紫。今は西洋スミレ(ニオイスミレ)と交雑して、概ね葉の丸いものが多く、色は白や濃淡の紫など様々で二色咲きのものもあったりする。
 西洋のニオイスミレも食用やハーブとして用いられるが、日本でも昔は食用になっていたので、

 春の野にすみれ摘みにとこし我ぞ
     小野なつかしみ一夜寝にけり
              山部赤人(続古今集)

の歌もある。
 ツボスミレは、

 道とほみいる野の原のつぼすみれ
     春のかたみに摘みてかへらん
              源顕国(千載集)
 春雨の布留の野道のつぼすみれ
     摘みてをゆかむ袖はぬるとも
              藤原定家(続後拾遺集)

の歌がある。
 芭蕉も貞享二年の『野ざらし紀行』の旅の途中に、「何となくなにやらゆかしすみれ草」の句を詠んで、五月十二日の千那宛書簡には改作して、

 山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

の句を詠んでいる。
 和歌ではスミレを山に詠まないという指摘もあったようだが、実際は、

 箱根山うす紫のつぼすみれ
     ふたしほみしほ誰か染めけむ
              大江匡房(堀河百首)
 老いぬれば花の都にありわびて
     山にすみれを摘まむとぞおもふ
              永縁(堀河百首)
 色をのみ思ふべきかは山の辺の
     すみれ摘みける跡をこひつつ
              寂蓮法師(寂蓮無題百首)
 とふ人は主とてだに来ぬ山の
     懸け路の庭に咲くすみれかな
              藤原為家(夫木抄)
 きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ
     標指すばかりなりにけるかな
              藤原顕季(六条修理大夫集)

などの歌がある。
 菫はどこにでも咲いているから、山路にも咲けば土手にも咲いている。何気なしにそれに気づいた時、何か得したような、豊かな気持ちになる。

 ねぶたしと馬には乗らぬ菫草   荷兮

 旅の道筋であろう。馬上で居眠りすると落馬する危険があるので、実際問題としてあまり眠いなら歩いた方が良い。とはいえ眠くなるのは、電車に乗って座ると眠くなるようなものか。
 歩けば馬上からはよく見えなかった菫草が近くでよく見えるようになる。
 芭蕉の『笈の小文』の旅の、

 歩行ならば杖つき坂を落馬哉   芭蕉

の句を思い浮かべたのかもしれない。杖ついて歩くから山路の菫にも目が留まる。

 ほうろくの土とる跡は菫かな   野水

 ほうろくは焙烙で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「焙烙・炮烙」の解説」に、

 「① 素焼の平たい土鍋。米・豆・塩などを炒(い)るのに用いる。昔、船中で婦人の便器に利用されることもあった。
  ※杜詩続翠抄(1439頃)八「土 ほうろく也、蜀之俗多用之也」
  ※蓼喰ふ虫(1928‐29)〈谷崎潤一郎〉一四「うちでは除虫菊を炮烙(ハウロク)へ入れてくすべることにしてゐるんでね」

とある。素焼きの鍋を作るのに用いる土を採取する現場は荒れ地になり、木はもとより背の高い草もなくて、こういう所には春になると菫が一面に咲いてたりする。

 昼ばかり日のさす洞の菫哉    舟泉

 洞に籠る修行僧も日の射す所に咲いた菫に心を慰められるのだろう。菫は「棲む・澄む」に通じ、「墨染の衣」のイメージもある。

 草刈て菫選出す童かな      鷗歩

 この頃も菫を食用にしていたのか、雑草を刈る時に、刈った中から菫を選り分けるのは子供の仕事になる。

 行蝶のとまり残さぬあざみ哉   燭遊

 アザミの花にはやってきた蝶が必ず止まってゆく。アザミは蝶に限らず、昆虫がよく集まるという。

 麦畑の人見るはるの塘かな    杜国

 春になると麦の葉が伸びて、畑は青々としている。田んぼにはまだ人はいないが、麦畑には仕事をしている人が見える。

 はげ山や朧の月のすみ所     式之

 春の月は朧に霞、澄んではいない。そんな朧月だけど、はげ山だと遮るものがないので、心なしか月が澄んでいるように見える。

 霞む夜の月の桂も木間より
     光を花とうつろひにけり
              藤原為家(宝治百首)

のように、和歌では朧月は木の間に詠むことが多い。
 「澄む」と「住む」の掛詞はお約束。はっきりと分かる掛詞の例は、

 ささ浪や国つ御神のうらさびて
     ふるき都に月ひとりすむ
              藤原忠通(千載集)

があるが、山に「すむ」月も概ね「澄む」と「住む」に掛けている。
 あるいは「はげ」は出家者の坊主頭のことで、坊主だから霞む月も澄んで見えるということか。

 ほろほろと山吹ちるか滝の音   芭蕉

 貞享五年(一六八八年)の春、『笈の小文』の旅で芭蕉が杜国とともに吉野の花見に行った時の句で、吉野の西河(にじつこう)で詠んだ句。
 西河は吉野の東側を流れる音無川で蜻蛉(せいれい)の滝がある。
 吉野は古代の錬金術の地でもあるから、散った山吹の流れる水は、さながら黄金の水のようでもある。
 「ちるか」の「か」は「かな」と同じ。治定の切れ字。

 松明に山吹うすし夜のいろ    野水

 昔の夜は街の灯りが空に反射したりしないから、今とは比べ物にならないくらい真っ暗だった。松明を焚いても、花はうっすらとしか見えない。うっすらと見える山吹の花は闇の中に黄金の輝きを放つ。

 山吹とてふのまぎれぬあらし哉  卜枝

 昔は春の胡蝶というと黄蝶のことを指すことが多かった。蕪村にも、

 ばうたんやしろがねの猫こがねの蝶 蕪村

の句がある。
 嵐が吹いて蝶が山吹の中で風を凌いでいると、どれが山吹でどれが蝶やら。

 一重かと山吹のぞくゆふべ哉   襟雪

 山吹は一重のものと八重のものがある。

 七重八重花はは咲けども山吹の
     みの一つだになきぞあやしき
              兼明親王(後拾遺集)

の歌は、「蓑」を借りようとして断られるエピソードとしてよく知られている。
 華やかな八重山吹が昼の太陽なら、一重の山吹はどこか物悲しげな夕日のようでもある。

 とりつきてやまぶきのぞくいはね哉 蓬雨

 山吹は水辺で詠むことも多いが、岩根にも咲く。

 さもこそは岩根におふる花ならめ
     くちなし色ににほふ山吹
              郁芳門院安芸(久安百首)
 暮れはつる春の名残ををしとだに
     えやはいはねの山吹の花
              小倉公雄(続千載集)


の歌もある。「岩根」は「言はね」に掛けて用いられるが、発句の方はこうして伝統的な言い回しではなく、「とりつきて」という俗語の描写で岩根の山吹を表現している。