予報通り今日も雨だった。
比村奇石さんの「月曜日のたわわ」はヤンマガWebで無料公開中だった。
筆者はエルフ族保守派の方なので巨乳に思い入れはないが、巨乳も貧乳も一つの個性として、みんなありのままで楽しく生きられたらいいなと思う。
世の男性が欲望丸出しにせずに、非暴力的で紳士的にふるまうことが大事で、これは見る男の方の問題で、巨乳だけを規制するのは間違っている。
貧乳萌えもたくさんいて、貧乳に興奮する男もたくさんいるんだから、貧乳キャラも同じように規制するというならまだわかるが、巨乳だけを叩くのは間違っている。実際、胸が大きいというだけで公共広告に出られない女優がいたりしたら、それこそ差別というものだ。
多様性とは巨乳も受け入れることだ。ドイツのユニフォームと一緒で、男性の目を規制するのではなく女性の側に不自由を強いるやり方は、西洋社会をイスラム化させるだけだ。
春も弥生もはや半ばということで、芭蕉の記念碑的なあの句の発表された、あの『蛙合』でも読んでみようかと思う。
古池の句自体は天和の終わり頃にできていたというが、これを発表するのにいろいろな準備があり、『野ざらし紀行』の旅で、江戸だけでなく中京や上方の俳諧師たちとも交流を持ち、十分勢力を広げた上での、満を持しての興行だった。
『蛙合』のテキストは『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)による。
ではその第一番
「左
古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉
右
いたいけに蛙つくばふ浮葉哉 仙化
此ふたかはづを何となく設たるに、四となり
六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におく
の品、をのをのあらそふ事なかるべし。」
芭蕉の古池の句は支考の『葛の松原』によれば、おそらく天和二年の春、深川に隠棲してそれまでの桃青から芭蕉を名乗るようになった頃、「山吹や蛙飛こむ水の音」の形の句ができて、やがて上五を「古池や」として治定したという。
山吹の蛙は古歌の趣向で、そこから思い浮かぶものは古歌の知識のなかの井出の玉川の蛙にすぎない。一部の歌枕を訪ね歩く数寄者以外は、どのような景色なのかはただ想像するしかない。
これが「古池や」になると、誰もがそれぞれ記憶の中にある古池を思い浮かべることができる。田舎には農業用水を溜めておく池があり、また寛文・延宝の頃は新興商人が台頭し、その一方で没落する旧家も多かったし、武家でも廃藩・改易が続き、廃墟となった屋敷の古池もそれほど珍しいものではなかっただろう。
こうした古池はどこか寂し気で、廃墟ともなればそれこそ幽霊が出そうな不気味な雰囲気もある。そんなところでじゃぼっという濁った水音がきこえて、一瞬ぎょっとすることもあっただろう。
そういうわけで、古池の蛙の水音は当時の人にとって、幼少期の共通体験のような者を呼び起こす「あるある」だったのではなかったかとおもう。どこか懐かしく、どこか寂し気で、不気味な怖さも感じさせる、そんな原体験を呼び起こしたのではなかったかと思う。
荒れ果てた古池はまた、古典の情にも通じている。それは『伊勢物語』第四段の、
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
在原業平
の歌で、
「またの年の睦月に梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど去年に似るべくもあらず。うち泣てあばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。」
と続く。
春なのに昔と変わった姿に、目出度いはずの梅も月も涙を催すものになる。
あるいは杜甫の春望のように、「時を感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」の心にも通じる。
古池の句はこうした個人体験と古典の悲しい場面を繋ぐもので、それが多くの人の感動させ、当時の身分の低いものや子供に至るまで、誰しも知らない者のないような大ヒットとなった。
この時はまだそれがいよいよ発表されるという段階だったが、事前にこの句を知らされた門人たちは感動に打ち震え、これをとにかくいかに効果的に世に伝えるかに腐心することとなったのだろう。それがこの『蛙合』だった。
実際に来られる門人だけでも集まって、公開の興行として行われたかもしれない。立ち会えた人は少なくても、噂口コミは馬鹿にならない。こうしたこともプロモーションとしては重要だったのではないかと思う。
さて、句合なら、この古池の句と並べる句はといったとき、いくつか候補に挙がりながらも定まったのが、この、
いたいけに蛙つくばふ浮葉哉 仙化
の句だったのだろう。
一見何でもないような句だが、「蛙つくば」という文字が隠されている。つまり連歌の準勅撰集『菟玖波集』『新撰菟玖波集』があり、その俳諧版として俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑が編纂した『新撰犬筑波集』があったので、それに倣う形で、この『蛙合』を「蛙菟玖波集」としてアピールする意図が隠されていたのではないかと思う。
この言葉遊びを別にしても、浮葉の上にいたいけに這いつくばう蛙の姿は可愛らしくも不安げで、そこにはあの蛙があたかも自分の姿であるような共感を誘う。こうした生命への共感と憐憫は、のちに「細み」と呼ばれるようになった。
まあ、もっと大きく言うなら、人生というのはほんの小さな浮葉の上に漂うようなものだ、と言ってもいいかもしれない。死と無常の虚無の海に浮かぶほんのの小さな浮葉のような命。そう思えばこの句は十分古池の句と張り合える。
この二句をつがわせた所で蛙合興行は始まる。この二句について勝ち負けの判定はない。
「第二番
左勝
雨の蛙声高になるも哀也 素堂
右
泥亀と門をならぶる蛙哉 文鱗
小田の蛙の夕ぐれの声とよみけるに、雨のか
はづも声高也。右、淤泥の中に身をよごして、
不才の才を楽しみ侍る亀の隣のかはづならん。
門を並ぶると云たる、尤手ききのしはざな
れども、左の蛙の声高に驚れ侍る。」
雨の蛙というと、
三稜草這う汀の真菰うちそよぎ
蛙鳴くなり雨の暮方
藤原定家(夫木抄)
の歌があり、室町時代の和歌になると、
俄なる夏の雨風くもりきて
木末の蛙こゑしきるなり
正徹(草魂集)
深小田に妻呼ぶ蛙雨降れば
いとど惜しまぬ夕暮れの声
肖柏(春夢草)
といった歌も出て来る。雨の蛙の声高はこうした流れの延長線上にあるもので、判定の言葉にある「小田の蛙の夕ぐれの声」は、
折にあへばこれもさすがに哀れなり
小田の蛙の夕ぐれの声
藤原忠良(新古今集)
の歌は雨ではないが「さすがに哀れなり」の情を受け継いでいる。
古典の王朝時代から中世和歌への引き継がれていった風雅の心を、「声高」という俗語で表す所に手柄があったといえよう。
泥亀は「不才の才を楽しみ侍る亀」で、これは『荘子』秋水編の、
莊子持竿不顧、曰「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣、王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死為留骨而貴乎。寧其生而曳尾於塗中乎。」
二大夫曰「寧生而曳尾塗中。」
莊子曰「往矣!吾將曳尾於塗中。」
であろう。
楚の国に祀られている神亀は死して三千年廟堂に保管されているが、この亀は死んで甲羅を残すよりも、むしろ生きて泥の中で尾を曳いていたかったのではないか、という荘周の問いに、二人の大夫が尤もだと同意したので、なら吾も泥の中で尾を曳いていよう、と仕官の話を断る場面だ。
「不才の才」は無用の用と同じ言い方で、才能のないがために政争に巻き込まれずに永らえるという、隠士の心をいう。
蛙もまたこの隠士たる亀を隣として、悠々と生きている、という句だ。「手利き」の句ではあるが、理に走って余生に乏しいということで、声高の句の勝ちになる。
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