2018年5月31日木曜日

 今夜は雨の予報だったが、どうやら外れ、明日はいい天気になるという。梅雨入りはもう少し先になりそうだ。
 では「幻住庵記」の続き。

 さて、杜甫の「登岳陽樓」の興で、実際の幻住庵からの景色を言い興すことになる。

 「山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。ささほが嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」

 「未申」は南西から西にかけてで、地図を見れば西には音羽山(標高593メートル)、その南に千頭岳(標高602メートル)、醍醐山(標高454メートル)、五雲峰(標高343メートル)、喜撰山(標高416メートル)といった低山が連なっている。南には岩間山(標高443メートル)がある。
 夏の「風薫る」と言われる南風はこれらの峰より吹き降ろし、北から吹く風は琵琶湖に冷やされ、どちらも涼しい。
 比叡山は北西の方向、琵琶湖の西岸にあり、比良岳はその更に北にある。滋賀辛崎は国分山から見るとちょうどその手前になる。

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉

の句は貞享二年(一六八五)の『野ざらし紀行』の旅の時の句だ。
 更に手前には琵琶湖に突き出るように膳所城が聳え、更に手前には瀬田大橋がある。
 「釣たるる舟」は、

 時雨きや並びかねたるいさざふね  千那

と『猿蓑』に選ばれたいさざ漁の舟だろうか。ただし漁期は秋から冬に掛けてで、この時期ではない。それに小魚なので網で捕る。
 となると、そのほかの琵琶湖の固有種はというとビワマス(あめのうお)だろうか。

 月は山けふは近江のあめの魚    荷兮
 やきものは近江成けり江鮭魚    之道

の句はあるが、秋のものだ。之道の撰集のタイトルとなった「あめ子」は九月二十五日のところでも書いたが、琵琶湖に注ぐ川に遡上するビワマスの河川残留型で、川のものだ。
 となるとニゴロブナだろうか。漁期は春で鮒ずしにする。これなら初夏でまだ残っていてもおかしくないかもしれない。
 「笠取に通ふ木樵の声」の笠取山は岩間山のすぐ西にある。醍醐寺の笠取清滝宮がある。
 「ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。」は国分山の南側の風景であろう。
 三上山は草津より彦根よりの守山・野洲の辺りにある。標高432メートルで近江富士と呼ばれている。ここでも「士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。」とある。
 ネット上では紫式部が、

 打ち出でて三上の山を詠れば
     雪こそなけれ富士のあけぼの

と詠んだと言われているが、『紫式部集』にはない。日文研のデータベースで検索しがた見つからなかった。今のところ真偽不明。
 またネット上では、

 三上山のみ夏知れる姿かな

の句が芭蕉の句とされているが、芭蕉の句ではない。レファレンス協同データベースによれば、士朗という暁台の弟子の句で、安永三年刊、士朗・都貢編『幣ぶくろ』に収められている。蕪村の時代の句。
 田上山(たなかみやま)は国分山の南東にある太神山(たなかみやま:標高600メートル)のあたりの山全体を指すという。今では湖南アルプスと呼ばれているようだがそんなに高い山ではない。山の向こうは焼物で有名な信楽。

 木綿だたみ田上山のさなかづら
     ありさりてしも今ならずとも
         詠み人知らず(『万葉集』巻十二、三〇七〇)

の歌もある。
 「ささほが嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」
 ささほが嶽は笹間ヶ岳、袴腰は腰袴山。千丈が峰はよくわからない。千丈川という小さな川はあるが。
 黒津の里は田上山の手前の瀬田川と大戸川の合流点にある。「網代守るにぞ」の歌は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に、

 田上や黒津の庄の痩男
     あじろ守るとて色の黒さよ

という古歌を『万葉集』の歌と混同したとある。この歌はこれより後に書かれた『近江與地志略』(享保十年)にあるという。この地方に芭蕉の時代からこういう伝承歌があったのか。

2018年5月30日水曜日

 昨日の続き。

 この部分は「幻住庵ノ賦」だと啄木のあとに「かつこ鳥我をさびしがらせよなど、ひとりよろこび」のフレーズが入る。
 このフレーズは一年後の『嵯峨日記』の、

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉

の句になる。これをはずした時点で、あるいはもうこの句は出来上がっていたのか。
 元々この句は元禄二年秋の九月に、

   伊勢の国長島、大智院に信宿す
 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺   芭蕉

の改作だった。「かつこ鳥我をさびしがらせよ」のフレーズが出来た時点で、この句を思い起こし、発句に使おうと思ってカットしたのではないかと思われる。
 「かつこ鳥」はカッコウのことで、閑古鳥ともいう。ただ、「郭公」という字を当てると、なぜかホトトギスの意味になる。
 「憂き」と「寂し」の関係は、世の中が嫌で憂鬱になって出家しても、時が経つと段々嫌なことを忘れ、良かったことばかりが残り、記憶は美化されてくる。
 まだそこまで至らなければ、水無瀬三吟十句目の、

   山深き里や嵐におくるらん
 慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き  宗祇

ということになる。隠遁生活は寂しいが、まだ世俗での嫌なことをついつい思い出しては、寂しいけど物憂くもあるが、やがてそれも忘れ、寂しさだけにしてくれというのが芭蕉の句となる。
 「魂呉・楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。」のフレーズは、最初は「呉楚東南のながめにはぢず、五湖三江もここに疑わしきや。」だった。
 「五湖三江」は百度百科には「三江五湖」の形で「指东南方的三条江与太湖流域一带的湖泊」とある。グーグル翻訳だと「南東の三江川と太湖湖の湖を指す」となってやけに「湖」を連呼しているが、中国南東の太湖とその周辺の湖、周辺の川という意味だ。瀟湘・洞庭とは離れた長江下流にある。
 五湖三江も名所ではあるが、杜甫の詩を生かすのであれば、あまり離れた名所を出すのは、ということで変えたのだろう。

2018年5月29日火曜日

 今日は旧暦四月十五日で満月。
 雲が厚く、朧月ともいえないくらいの幽かな光が見えた。
 それでは「幻住庵記」の続き。

 まずは俳諧らしく季節の描写し、そこから中国南部の名所を言い興す。

 「さすがに、春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥しばしば過ぐるほど、宿かし鳥のたよりさへあるを、啄木のつつくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂呉・楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。」

 ツツジは春の季語だが、初夏にも咲き残る。藤もまた晩春のもので、和歌には夏に詠むこともある。

  夏にこそ咲きかかりけれ藤の花
     松にとのみも思ひけるかな
             源重之(拾遺集)

 松に藤を詠む例は多い。
 ホトトギスは言うまでもなく夏の初めを告げるもので、元禄二年刊の『阿羅野』には、あの有名な、

 目には青葉山ほととぎす初鰹   素堂

の句がある。
 「宿かし鳥」は「樫鳥」に「宿を貸す」を掛けたもので、樫鳥はカケスの別名。ウィキペディアには、

 「また信州・美濃地方では「カシドリ」の異名もありカシ、ナラ、クリの実を地面や樹皮の間等の一定の場所に蓄える習性がある。冬は木の実が主食となり、蓄えたそれらの実を食べて冬を越す。」

とある。
 啄木(きつつき)といえば、『奥の細道』の旅の途中、雲巌寺で、

 木啄も庵は破らず夏木立   芭蕉

の句を詠んでいる。
 「宿かし鳥」は幻住庵を借りたという連想が働くし、啄木も仏頂和尚の修行時代の小さな庵が思い浮かぶ。
 そして、それがどういうところなのか、中国の瀟湘・洞庭に喩える。瀟湘は「瀟湘八景」として画題になっているし、洞庭湖の景色も古くから漢詩に詠まれている。
 「魂呉・楚東南に走り」は出典がある。

   登岳陽樓     杜甫
 昔聞洞庭水 今上岳陽樓
 吳楚東南坼 乾坤日夜浮
 親朋無一字 老病有孤舟
 戎馬關山北 憑軒涕泗流

 いつか聞いた洞庭の湖水のすばらしさを、
 今、岳陽樓の登って目にする。
 春秋時代の呉と楚はここを国境として東南と北西に別れ、
 天と地を昼も夜もここに浮かべては映す。
 親からも仲間からも一字の便りもなく、
 老いて病気がちの我が身はただ一艘の小船のみを有す。
 異国の騎馬隊は関山の北に迫り、
 樓の軒にうつ伏しては泪に鼻水がぐしゅぐしゅ。
 
 こうした詩をふまえながら、初夏の幻住庵の景色が描き出される。

2018年5月28日月曜日

 昨日の続き。
 幻住庵の位置や様子、誰の庵だったかが簡潔に語られ、幻住庵が何であるか一応のイメージが出来た所で、芭蕉さんがどうしてここに来たかという経緯を簡単に説明する。

 「予また市中を去ること十年ばかりにして、五十年やや近き身は、蓑虫の蓑を失ひ、蝸牛家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面をこがし、高砂子歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて、今歳湖水の波にただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき蘆の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。」

 「市中を去る」というのは延宝八(一六八〇)年、日本橋から深川へ居を移し、世俗の業務から離れ、隠棲することになった、いわゆる「深川隠棲」を言う。
 三十七歳での隠居は当時としてはそんなに特別早いものではない。人生五十年の時代に、三十七歳は既に初老に差し掛かる頃だ。それにくわえて芭蕉には持病があり、健康上の問題もあったのだろう。
 そして芭蕉が幻住庵に来たのが元禄三年(一六九〇)だから、ちょうど十年ということになる。芭蕉は四十七歳。五十に近いのは間違いない。
 「蓑虫の蓑を失ひ、蝸牛家を離れて」は芭蕉が『奥の細道』の旅に出る際に

芭蕉庵を人に譲り、実際に自分の家がなくなったことを表すものだ。
 「奥羽象潟の暑き日に面をこがし」とあるが、芭蕉はこれよりかなり手前の須賀川で、

 早苗にも我色黒き日数哉   芭蕉

の句を詠んでいる。象潟に着いたときには暑い盛りで、北の方とはいえやはり暑かったという記憶なのだろう。
 このころはまだ『奥の細道』の執筆には入ってなかったが、『奥の細道』の酒田から市振への道筋で「此間九日(このかんここのか)、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病(やまひ)おこりて事をしるさず。」とある。
 「高砂子歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて」はおそらく越後から越中市振へ行く途中、山が迫り狭い海岸沿いの道を行く「親知らず子知らず」のことであろう。ただ、曾良の『旅日記』には特に難儀した記述はない。
 このあたりのことは、「幻住庵ノ賦」だと大分長くなる。冒頭の部分になる。

 「五十年ややちかき身は、苦桃の老木となりて、蝸牛のからをうしなひ、蓑虫のみのをはなれて、行衛なき風雲にさまよふ。かの宗鑑がはたごを朝夕になし、能因が頭陀の袋をさぐりて、松嶋・しら川に面をこがし、湯殿の御山に袂をぬらす。猶うたふ鳴そとの浜辺よりゑぞがちしまを見やらんまでと、しきりに思ひ立侍るを、同行曾良なにがしといふもの、多病いぶかしなど袖をひかるるに心たゆみて、象潟といふ所より越路のかたにおもむく、さるは高砂子のあゆみくるしき北海のあら磯にきびすを破りて、湖水のほとりにただよふ。」

 「しら川に面をこがし」だと、「早苗にも」の句とほぼ一致する。出羽三山の湯殿山では、

  語られぬ湯殿にぬらす袂かな  芭蕉

の句を詠んでいる。
 「うたふ鳴そとの浜辺」は「善知鳥(うとう)鳴く、外の浜」で、

 みちのくの外ヶ浜なる呼子鳥
     鳴くなる声はうとうやすかた
                藤原定家

の歌がある。「善知鳥(うとう)」は「歌ふ」に掛けて用いられるため、ここでは「うたふ」と書かれているのだろう。
 「外の浜」は津軽の青森湾に面した外ヶ浜で、蝦夷への入口だったのだろう。
 芭蕉はこのまま外ヶ浜から蝦夷に渡り、千島まで行きたいと思ったが、当然ながら曾良に止められる。芭蕉が千島がどれぐらいの距離の所にあると思っていたのかはわからないが、そんなところまで行ったら帰る頃には北海道の冬も早く、連日の氷点下の行軍となっただろう。
 当時の旅の大変さを考えれば、ここで引き返したら、もう二度とここまで来ることもないだろう。これより北は生涯の見残しとなり、恨みを残すことになる。おそらく曾良にさんざん八つ当たりしたのではないかと思われる。だから近江にまで戻ったとき、こんなことを恨みがましく書いていたのではないかと思う。
 さすがに完成稿の段階ではこの恨みがましい言葉はカットされ、「象潟といふ所より越路のかたにおもむく、さるは高砂子のあゆみくるしき北海のあら磯にきびすを破りて」の言葉を膨らます感じで仕上げたようだ。ただ、日焼けのネタを無理に挿入したため、白河の関を越え須賀川で詠んだ「我色黒き」が象潟になってしまったようだ。
 「湖水のほとりにただよふ。」のあとの部分は「幻住庵記」の方は、

 「今歳湖水の波にただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき蘆の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。」

 「幻住庵ノ賦」の方は、

 「ことし湖水のほとりにただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき蘆の一葉のやどりもとむるに、その名を幻住庵といひ、その山を国分山といへり。」

となり、家を改装した所は描かれず、そのまま幻住庵の場所説明に入る。順序が逆になるというのは前に述べたとおりだ。
 漂う流浪の身にとって幻住庵はすがるべき一本の芦のようなもので、家を修理して住んだことが書かれている。この一文は、『嵯峨日記』の「予は猶暫とヾむべき由にて、障子つヾくり、葎引かなぐり」という描写にも引き継がれることとなる。
 いつ来たのかわかりやすいように日付も入れている。
 芭蕉は九月二十二日に、

 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ   芭蕉

と詠み、故郷の伊賀へと向う。その途中、『猿蓑』の元となった、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

の句を詠む。
 その後京都へ行き、十二月に大津に来る。その後一度伊賀に戻ってから、再び大津に来て、四月六日に幻住庵に入る。

2018年5月27日日曜日

 さて、宗祇の独吟、宗因の恋百韻の独吟と読んできて、次は何にしようかと思ったが、ちょっと連句から離れて、初夏の季節にふさわしいといえば、芭蕉の「幻住庵記」ではないかと思った。
 「幻住庵記」は『猿蓑』に掲載されているのが初出で確定稿とされている。そのほかに後になって出てきたもう一つの「幻住庵記」と、「幻住庵ノ賦」という二種の文章が『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に収録されている。
 「幻住庵記」のほうは、大雑把に言えば、

 幻住庵の場所の紹介
 奥の細道の旅
 幻住庵からの景色のすばらしさ
 筑紫の僧による幻住庵の命名
 風流の道
 先たのむの発句

という構成で、要約するなら、

 石山の奥の国分山に八幡神社があり、その傍らに荒れ果てた庵があり、名を幻住庵という。曲水の伯父の庵だった。
 自分は五十路に近くなり奥の細道を旅し、近江の国のここに来た。
 初夏の山藤にホトトギスのなく季節、日枝の山々、辛崎の松はすばらしく、色々な故事を思い出す。
 筑紫の僧が京都に来た時、額を乞われて「幻住庵」の三字を送られる。
 自分は閑寂を好んで山野に籠ったわけではなく、色々やろうとしたが、ついにこの道につながる。
 先たのむ椎の木も有夏木立

という感じになる。
 前身となる「幻住案ノ賦」は最初のところが逆になり、

 自分は五十路に近くなり奥の細道を旅し、近江の国のここに来た。その国分山に八幡神社があり、その傍らに荒れ果てた庵があり、名を幻住庵という。曲水の伯父の庵だった。
 初夏の山藤にホトトギスのなく季節、日枝の山々、辛崎の松はすばらしく、色々な故事を思い出す。
 筑紫の僧が京都に来た時、額を乞われて「幻住庵」の三字を送られる。
 自分は閑寂を好んで山野に籠ったわけではなく、色々やろうとしたが、ついにこの道につながる。

という構成になる。発句はない。
 作者として何か表現しようとすると、ついついまず自分のことを先に言いたくなる。しかし「幻住庵記」というタイトルのものを読者が読もうとする時には、まず幻住庵が何なのかのほうが気になるはずだ。くだくだと自分が何者であるかを語られて、いつになったら幻住庵が出てくるのかとなったら、幻住庵が出てくる前に読む気をなくす読者もいるだろう。「前置きはいいから早く幻住庵出せ」というところだ。
 だから、幻住庵が先ずどこにあるどういう庵なのかを頭に持ってくるのは、本に載せるための完成稿に仕上げる段階では適切だったといえよう。
 それから、自分についての説明も、色々言いたいことはあるものの、最小限にとどめるというのも適切な判断だ。
 そしてメインとなる幻住庵周辺の景色のすばらしさを、様々な故事に照らし合わせながら熱弁をふるう。
 そしてお世話になった筑紫の僧への謝辞を述べて、再び自分の事に触れて締めにする。「幻住庵ノ賦」はここで終るが、やはり最後に俳諧師らしい「ここで一句」が欲しい。そうやって『猿蓑』の「幻住庵記」は仕上げられたと思われる。
 「幻住庵記」をそのまま読んでもいいが、こうしたメイキングを含めて読むというのもまた一興ではないかと思う。そういうわけで、先ず冒頭の部分を見てみよう。

 「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また貴し。日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬・根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の叔父になんはべりしを、今は八年ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。」

 石山は滋賀県大津市の瀬田川の西岸にある。草津宿の方から大津宿へ向うと、瀬田川にかかる瀬田の橋を渡る。芭蕉は貞享五年(一六八八)に、

 五月雨に隠れぬものや瀬田の橋    芭蕉

の句を詠んでいる。その瀬田の橋を渡ったあたりが石山になる。
 このあたりは古代には近江国国府と国分寺があり、古代東山道が通っていた。古代東山道はほぼ近世の中山道に受け継がれている。近世の中山道は草津宿で東海道に合流する。
 ここでいう石山は石山寺のある今の伽藍山のことではないかと思われる。
 「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。」とあるが、国分山は石山の西側にあり、岩間山はそのはるかに南側にある。
 「幻住庵ノ賦」には「石山を前にあてて、岩間山のしりへにたてり。」とある。「しりへ」が岩間から北に伸びる尾根の端という意味なら、かなり正確に位置関係を表している。
 「幻住庵記」の「岩間のうしろ」も「しりへ」の意味で用いたと思われるが、かえってわかりにくくなった。
 「そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。」とは、古代にはこのあたりに近江国国分寺があり、「国分」という地名はそこからきていることを言う。
 「ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。」の「細き流れ」は三田川で、「翠微」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 1 薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。
「目睫の間に迫る雨後の山の―を眺めていた」〈秋声・縮図〉
 2 山の中腹。八合目あたりのところ。
「麓に細き流れを渡りて、―に登る事三曲二百歩にして」〈幻住庵記〉

とある。麓に霞がたなびいた時に、その霞がかかるあたりという意味か。
 「八幡宮」は今の近津尾神社で、曲がりくねった石段を登ってゆく。
 「神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また貴し。」
 というのは、明治以降は神仏が分離されたが、当時は神仏習合し、八幡大菩薩が祀られてたと思われる。八幡大菩薩は阿弥陀如来と同一視されてきた。
 吉田家の唯一神道ではこうした集合を忌むというのは、おそらく吉田神道の系譜を引く吉川惟足の神道を学んだ曾良がそう言っていたのか。
 芭蕉は一般論として「両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また貴し。」という。両部神道の和光同塵の考え方に従い、阿弥陀如来の威光が八幡大菩薩を通じて人々に御利益をもたらすことを賛美する。
 このあたりも、「幻住庵ノ賦」には「古き神社の立せたまへれば、六根をのづから清ふして塵なき心地なむせらる。」とだけあって、唯一神道と両部神道の問題にも、八幡大菩薩を祀っていることにも触れてない。
 「日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬・根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。」
 この庵の荒れ果てた様子も、「幻住庵ノ賦」には「かの住捨し草の戸は」としかない。
 おそらく幻住庵という主題を冒頭に持ってきたことで、それについて読者に鮮やかな印象を与えるために、原案よりも若干話を膨らませたのではないかと思われる。「狐狸」というと近代文学の作家に狐狸庵先生遠藤周作がいたのを思い出す。
 荒れ果てた庵はいかにも世捨て人にふさわしく、こうした趣向は『嵯峨日記』の

 「落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作みが ゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。彫せし梁、 畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ」

といった描写に受け継がれている。
 こういう隠逸の士は住むために最低限の草取り、『嵯峨日記』の冒頭部分にあるように「予は猶暫とヾむべき由にて、障子つヾくり、葎引かなぐり」くらいのことはするが、大方荒れたままに放っておく。理由は簡単で、永住を意図してないからだ。一所不住、生涯を旅にすごすと決意した者は、土地に執着しない。いつここを離れるかと思えば、綺麗な庭を作り上げても無駄だからだ。
 次にこの庵が曲水の叔父の住んでた庵を借りたものだということが明かされる。
 「あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の叔父になんはべりしを、今は八年ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。」
 曲水は「曲翠」ともいう。膳所藩の重臣で、経済的な面で芭蕉のお世話になった人だ。ここでも住居を手配してくれている。地位のある人なので「菅沼氏」と名字を明記している。
 「勇士」とあるのはこの頃から正義感の強い人だったからか。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」によると、最期は「享保(きょうほう)2年不正をはたらいた家老を殺害して自刃(じじん)。58歳。子の内記も切腹,妻は出家し破鏡(はきょう)尼と号した。」という。これをもって菅沼家は断絶した。困った勇者様だ。
 句のほうでは、『続猿蓑』に

 梟の啼やむ岨の若菜かな   曲翠

の句がある。
 「幻住庵ノ賦」には「勇士菅沼氏曲水の伯父なる人の、此世をいとひし跡とかや。ぬしは八とせばかりのむかしになりて、棲はまぼろしのちまたに残せり。誠に知覚迷倒も皆ただ幻の一字に帰して、無常迅速のことはり、いささかも忘るべき道にあらず。」とやや詳しく述べられている。

2018年5月25日金曜日

 テレビアニメの「名探偵コナン」ではいつも「たった一つの真実見抜く」と言っている。推理物は作者が神となってあらかじめ真実を定め、それを読者や視聴者に当てさせるゲームだから、そこには別解というのはないし、迷宮入りすることもない。
 だが事実は違う。確かにたった一つの真実はあった。ただそれは一回限りで、そこに存在していた真実は、次の瞬間には時の流れとともに消え去り、後はただ当事者の不完全な記憶と、真偽不明の証言、どうとでも解釈できる物証があるのみだ。
 古代ギリシャの法廷弁論家ゴルギアスは、「何も存在しない、存在したとしても知ることが出来ない、知ったとしても伝えることができない」と言ったが、実際の法廷というのはそういうものなのだろう。
 不確かな記憶と嘘かもしれない証言、それにどうとでも解釈できる物証から、とりあえず何らかの結論を導き出し、判決を下さねばならない。もちろんその判決が「たった一つの真実」である保証などどこにもない。真実は事件が起きたときただ一回限り存在し、あとは存在しないものとなる。
 科学は仮説と検証を繰りかえすことで真実を探求するが、そこで明らかにされる真実は一回限りの事件の真相ではなく、常に反復される法則の真実にすぎないし、それも今まで繰り返し検証されてきたからといって、次もまたそうなるという保証は何もない。科学は仮説検証を繰り返すことで、限りなく真実の近似値に近づくことは出来ても絶対的真理を得る事は出来ない。
 数学的真理は定義や公理の体系が整合する所にあるにすぎず、ゲーデルの不完全性定理で完全で無矛盾の体系が不可能である事が証明されている。
 要するに不完全な人間に絶対的真理なんて無理だということだ。数学でも物理学でも、知れば知るほど謎が深まるのは当たり前のことだ。まして一回限りの事件の真相など、本当の所結論なんて出るもんではない。
 ただ人は邪推と下衆の勘繰りで勝手で「こうだったに決まってる」と決め付け、疑われた人間がそのとおりに自白しない限り永久に「疑惑は深まった」と言い続ける。その自白すら、強要されたものだと言い出されれば当てにならない。
 事件というのはその時には真実があったかもしれないが、今となっては「もはや存在しない」。
 タイムマシンでもあれば確かめられるかって、そうもいかない。タイムトラベルがあれば、それによって歴史は変わってしまうから、過去に遡って目撃した事件は、元の事件と同じとは言えない。シュタゲ的に言えばそれは「別の世界線」の真実だ。
 連歌や俳諧の真実についても、それは確かにかつては存在したが、今では存在しない。全ては仮説にすぎない。ただ仮説を立て、それを文献や遺物などで検証を繰り返せば、他の科学と同様、多少の近似値を得られる。
 今ではネットでいろいろな情報も入手できるし、昔と較べれば格段に研究環境は良くなっている。ぜひたくさんの人に連歌や俳諧の謎解きに挑戦して欲しい。
 たった一つの真実なんてなくていいし、そんなものは知りえない。色々な解釈がありながらも、仮説検証を繰り返して少しづつ精度を高めることができれば、不完全な人間としてはそれ以上望むべきではないだろう。

2018年5月24日木曜日

 ネット上はあいも変わらずディスりあってのディスりトピアで吊るし上げ、血祭りが大はやりだが、無視するというのも一つの良識だと思う。
 そういうわけでいよいよ「花で候」の巻も名残の裏。一気に行きます。

 九十三句目

   やもめにうらに此一やしき
 いたづらのふつつと髪や切ぬらん 宗因

 夫と死別すると貞節の証として女性が髪を切り出家するというのは昔からあった。もっとも、「狂句こがらし」の巻の八句目のような「髪はやすまをしのぶ身みのほど」ということもあったようだ。
 『源氏物語』帚木巻の有名な雨夜の品定めのなかで、左馬頭(さまのかみ)が、

 「にごりにしめるほどよりも、なまうかびにては、かへりてあしき道にもただよひぬべくとぞおぼゆる。(俗世の濁りに染まるよりも、中途半端に仏道に入るのは、かえって往生できずに地獄をさ迷うことになるんじゃないかな。)」

と言うように、平安時代にもほとぼりの醒めるまでしばらく出家しておくという人はいたようだ。そういえば中宮定子も一度出家して還俗している。
 宗因の句の場合、別に出家するために髪を切ったわけでもないから「いたづらの(無駄に)」髪を切ったとなるのだろう。
 『連歌俳諧集』の解説には、談林の俳諧師西鶴が後に書くことになる『懐硯』を引用している。

 「何の気もない顔して、姑の見る前にて、髪くるくると束ねて切りかくるを老母押しとどめ、其方が心底もつともなれども、いまだ若き身なれば我分別あり、待ち給へといふをふるはなし、もはやわたくしの髪の入る御分別(再婚の配慮)はふつふついやでござりますと、無理にはさみ切つて投げ出す」(『連歌俳諧集』p.330)

 70年代くらいまでは、別に出家でもなければ再婚の意志のないことを示すためでもなく、単に気分転換のために失恋すると髪を切る人がいて、当時のニューミュージックなどに「私髪を切りました」なんてフレーズがあったりした。この世代のオヤジは今でも髪を切った若い女の子に「失恋したの?」なんて言って失笑をかったりする。

 九十四句目

   いたづらのふつつと髪や切ぬらん
 後世の外にはものも思はじ    宗因

 前句の「らん」を反語にして、無駄に切ったわけではなく、本気で出家し、後生のことだけを思う、とする。

 九十五句目

   後世の外にはものも思はじ
 待宵の鐘にも発る無情心     宗因

 愛しい人の訪れを待つ夕暮れにも、お寺の鐘の音が聞こえてきて、世の中が空しく思えて憂鬱になる。
 恋というよりは釈教だが、名残の裏ということで、そろそろ締めに入ったという所だろう。

 九十六句目

   待宵の鐘にも発る無情心
 こひしゆかしもいらぬ事よの   宗因

 これも恋の言葉は使っているけど釈教の心だ。

 九十七句目

   こひしゆかしもいらぬ事よの
 つれなきも尤賤の身ぢや程に   宗因

 そうよ私は卑賤の身、そんな女に本気になったりしませんものね。つれなくするのも尤(もっと)もなことです。恋しいだとか惹かれるだとかいうこともどうでもいいのよね、と捨てられた女の恨み言。今だったらもっとあからさまに「体だけだったのよね」と言う所だろう。
 怨念のこもった言葉だけど「身ぢゃ程に」と俗語で落とすところに幽かな笑いが生まれる。これは近代の演歌でもしばしば用いられる手法で、守屋浩の「僕は泣いちっち」などもそうだし、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」(山口洋子作詞)のサビの部分も、「あの人は行って行ってしまった」とあえて反復させる所が重要だと言われている。救いのない恋も、ちょっとした言葉遊びが救いになったりもする。

 九十八句目

   つれなきも尤賤の身ぢや程に
 そもじとばかり文の上書     宗因

 「そもじ」はWeblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「あなた。お前。そなた。▽対称の人称代名詞。女性が対等または目下の者に対して用いる。後、男性が女性に対しても言うようになった。」

とある。ここでは前句は身分の低い男の嘆きの言葉になる。今だとLINEの返事で「そ」とだけ書いてあったるすることもあると言うが、まあ、一々返事書くのも面倒だし、シカトするわけにもいかないし、というところか。

 九十九句目

   そもじとばかり文の上書
 さしにさしお為に送る花の枝   宗因

 其文字はその文脈によってはいろいろな意味になるようで、必ずしも蔑んで用いているとは限らない。名も知らぬ相手なら「そもじ様」と書くほかはるまい。
 花の下で見初めた人なら、身分は低いし、名前も知らない。
 平安時代の手紙は季節の花の枝などに手紙をくくりつけて送ったりした。花の下で見初めた人には花の枝を添えて手紙を送る。
 そっけない前句から一気に王朝時代を偲ばせる華やかな定座へと展開し、次の挙句に繋げる。

 挙句

   さしにさしお為に送る花の枝
 太夫すがたにかすむ面影     宗因

 「太夫」は遊郭の遊女の中でも最高位の遊女。ウィキペディアによれば、

 「宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。」

とあるから、まだ花魁という名のなかった頃の最高級の遊女だった。
 花の枝に、華やかに着飾った太夫は恋百韻を締めくくるにふさわしい。
 この頃の太夫というと東の高尾太夫、西の夕霧太夫と言われている。 Tenyu Sinjo.jpというサイトによると、

 「その知性と美しさで名をはせた夕霧は、京の生まれで、本名は照。もともと京の嶋原・扇屋の太夫であったが、扇屋四郎兵衛が寛文12年(1672)嶋原から大坂新町遊廓へ移転するとき一緒に連れてこられた。このとき19歳であった。」

という。これだとこの百韻が巻かれた寛文十一年にはまだ京都にいたことになる。
 当時の金持ちの名士たちは、こぞってこの夕霧太夫に古式ゆかしく桜の枝に文を添えて贈ったことだろう。もちろんその姿は簡単には拝ませてはもらえない。それはどこまでも高嶺の花の「かすむ面影」だ。

2018年5月23日水曜日

 今日は雨になった。
 それでは「花で候」の巻の続き。

 八十九句目

   ため息ほつと月の下臥
 身にしめて恨を須磨の蜑のこと  宗因

 須磨の海女の恋は、

 須磨の海女の塩焼き衣の慣れなばか
     一日も君を忘れて思はむ
              山部赤人(万葉集)

以来、様々に詠まれてきて、それがやがて『源氏物語』の須磨の物語や、在原行平の伝説と結びついた謡曲『松風』などに凝縮されていった。
 須磨の海女は月の下に臥して、別れた人のことを恨んでいる。

 九十句目

   身にしめて恨を須磨の蜑のこと
 おとどいながらちぎられにけり  宗因

 謡曲『松風』がなにげにすごいのは、二人の女性と同時につきあうという、男なら誰でも憧れるハーレム展開、ポルノで言えば3P。江戸時代の人も、三人でどうやって愛し合ったのかは大いに気になったところだろう。
 「おとどい」は兄弟、姉妹をいう。

 九十一句目

   おとどいながらちぎられにけり
 二十五絃半分わけの形見にて   宗因

 中国には古くから二十五弦の瑟(しつ)があり、四書五経にもその記述がある。『史記』は「太帝使素女鼓五十絃瑟、悲、帝禁不止、故破其瑟爲二十五絃。」という伝説を記し、その起源を伏羲にまで遡らせている。
 ウィキペディアの「古筝」の項には、

 「唐代以降の伝説として、25弦の瑟を兄弟(文献によっては姉妹または親子)で争い、2つに分けたのを筝の起源とする伝説もあるが、これは「筝」という名称を説明するために作られた説話であろう。」

とある。注釈のところに、

  「岡昌名(1727)『新撰楽道類集大全』第2巻・楽器製造集上・箏「或記云:秦女争瑟引破、終為両片。其一片有十三弦、為姉分。其一片有十二弦、為妹分。秦皇奇之、立号為箏。或云:秦有綩無義者、以一瑟伝二女。二女争引破、終為二器。故号箏。」

とある。
 この句の場合、後者の筝の起源となる、二十五弦の瑟を十三弦と十二弦に分けて姉妹とした話が元になっていると思われる。一七二七という年号はこの巻よりかなり後だが、説話自体(或記)はもっと古くからあったのだろう。
 宗因は音楽の歴史にも詳しかったようで、さすがに話の引き出しが広い。グーグル検索がなかったら多分一生かかってもここに辿り着けなかだろう。
 瑟を千切って二つの筝とし、それを弾きこなせばさながら姉妹両方と契ってるかのようだ。

 九十二句目

   二十五絃半分わけの形見にて
 やもめにうらに此一やしき    宗因

 これは「二十五絃」を「二十五間」に取り成したか。まあ二十五間(四十五メートル)というとかなり巨大な屋敷になってしまうから、一間四方×二十五、つまり二十五坪の小さな家と見たほうがいいのか。
 未亡人への形見分けに、本宅の裏に二十五坪の屋敷をあてがってやるという意味か。

2018年5月22日火曜日

 シュタゲを見ていて、久しぶりにディストピアという言葉を思い出したが、笑い事ではない。そのうちスポーツの試合があると警官がずらっと取り囲んで、反則があると手錠を掛けられて退場する時代が来るかもしれない。
 そのうちキスをしたり体を触ったりすることを当事者の感情と無関係に権力が勝手にセクハラと認定してセクハラ罪になり、事実上恋愛のできない時代が来るかもしれない。
 そういえば「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」のアニメは途中までしか見てない。あれも一種のディストピアものだったな。
 それでは「花で候」の巻。江戸時代は「かまわぬ(自由)」だった。

 八十三句目

   夜さの使に行さうりとり
 端ちかき傾城に先立寄て     宗因

 「傾城」は単に遊女という意味。最初は城を傾けるほどの美人の意味だったが、段々意味が矮小化されてったようだ。端ちかきは遊女でも局(六十四句目のところで言った下級の遊女)の中でも端っこのほうということか。主人の女の用立てするついでに、自分の用もちゃっかりと済ます。

 八十四句目

   端ちかき傾城に先立寄て
 きせるにおもひ付てたまはれ   宗因

 第三のところで出てきた「付ざし」は酒だったが、ここではキセルで吸うタバコのこと。
 ところでこの言い回し、粋なのか横柄なのか、当時の人にはどう響いたのか気になる。

 八十五句目

   きせるにおもひ付てたまはれ
 盲目は声をそれぞと聞ばかり   宗因

 これもどういうシチュエーションなのかわかりにくいが、傾城は忘れたほうがいいのだろう。
 「きせるにおもひ付てたまはれ」と言われて、目の不自由な女は誰が来たかわかるということか。

 八十六句目

   盲目は声をそれぞと聞ばかり
 よばひわたるはさてもあぶなや  宗因

 前句の「盲目」は比喩で、真っ暗闇で何も見えないときの夜這いは危ない。ってそれは軒端荻?それとも常陸宮の姫君?

 八十七句目

   よばひわたるはさてもあぶなや
 浮橋を踏はづすかとみる夢に   宗因

 有名な、

 春の夜の夢の浮橋とだえして
     峰に別るる横雲の空
             藤原定家(新古今集)

を卑俗な夜這いにして落とす。
 元歌も「峰に別るる」に後朝(きぬぎぬ)を暗示させているが、「踏みはづす」だと別れどころかどっぷりと泥沼にはまりそうだ。

 八十八句目

   浮橋を踏はづすかとみる夢に
 ため息ほつと月の下臥      宗因

 これは狐に化かされたか。
 天女の屋敷に誘われてついて行くと、突然足元の浮橋が消え去ってまっさかさま。気付くとあれは夢で、月の下に横たわってほっと溜息を付く。

2018年5月20日日曜日

 このまえ列挙した2013年以降に見たアニメのなかで、『たまこまーけっと』と『翠星のガルガンティア』が抜けていた。
 あの事件は結局幼女趣味によるものではなく、事故を起こしてそれを隠そうとしただけのものだったのか。どっちにしてもアニメ関係ない。
 今は『シュタインズ・ゲート ゼロ』が始まったことから、元の『STEINS;GATE』の方をもう一度見ている。七年も経っていてすっかりストーリーを忘れていたからだ。ネットの定額制はありがたい。
 それでは「花で候」の巻の続き。

 七十七句目

   かすむもゆかし小便の露
 ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に 宗因

 「赤ゆぐ」は赤湯具で風呂(サウナ)にはいるときに女性が身につける腰巻のこと。前句の「小便の露」を腰巻の染みとして、干しているうちに段々薄れてゆく様を「かすむ」とした。
 何でそんな染みが付いたかって、それは言えないでしょう。

 七十八句目

   ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に
 湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ  宗因

 「ほのぼのと」の上五が出たあたりから、当然、

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
     島隠れゆく舟をしぞ思ふ
            詠み人知らず(古今集)

の歌を意識していたと思われる。独吟だと、次にこれを本歌で展開しようという計算がしやすい。その分、意外性に乏しく予定調和になりやすい。
 この頃の風呂はサウナだから、湯気の霧の中に消えてゆく。干してある赤湯具に、その持ち主の尻を思い出しているのだろう。

 四表
 七十九句目

   湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ
 ふつと只泪こぼする浅ましや   宗因

 『連歌俳諧集』の解説にあるとおり、高師直(こうのもろなお)が塩冶高貞の家に忍び込んで風呂を覗いた故事で付けている。本来の姓は高階(たかしな)で平安末から鎌倉初期の頃の人で高階泰経(たかしなのやすつね)がいる。高階は苗字ではなく姓になる。その一字を取って「高(こう)」を名乗った時でも、姓であるため「の」が入ることになる。
 高師直は足利尊氏の側近で、『太平記』では神仏を恐れない荒くれものとして描かれていて、こういう人間が無類の好色漢であるのはよくあることだ。
 ウィキペディアには、

 「師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を『徒然草』の作者である吉田兼好に書かせ、これを送ったが拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまでを描いている。『新名将言行録』ではこれは事実としている。」

とある。この横恋慕の際に例の風呂場覗きを行い、塩冶一族が討伐されたときには高貞の妻も自害している。
 『太平記』の物語は江戸時代には庶民の間にも講釈師によって流布された。コトバンクの「太平記読み」の項の、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「太平記講釈ともいう。芸能の一種。『太平記』を朗読し,講釈する人。室町時代の日記類には物語僧から『太平記』を聞いたという記事が散見し,早くからこの種の者に朗読されてきた。江戸時代に入り慶長~元和 (1596~1624) の頃,『太平記』の評判書である『太平記理尽抄』の講釈が武家の間に起り,次第に流布し,貞享~元禄 (84~1704) の頃には民間でも盛んとなり,これが職業として確立してきた。」

とある。これが後の講談になる。
 宗因の独吟は貞享よりは前だが、時代の先端を行く風流人の間では、既にこの風呂覗きのエピソードは有名だったと思われる。まあ、これも見てきたような嘘の一つかもしれないが。

 八十句目

   ふつと只泪こぼする浅ましや
 かたるにおつること葉あやまり  宗因

 講釈師の見てきたような嘘は人を楽しませ、誰も傷つけないが、逆に本当のことをついぽろっと言ってしまうと、それが取り返しの付かないことになったりもする。言葉というのは難しい。
 しまったと思ったときには既に遅く、相手はぽろぽろと泪をこぼし、浅ましいことになっている。あわてて謝っても後の祭。

 八十一句目

   かたるにおつること葉あやまり
 なましりなじゃうるりぶしの前渡 宗因

 平仮名だけだとわかりにくいが、「生知りな浄瑠璃節の前渡り」。
 浄瑠璃は『宗長日記』の享禄四年(一五三一年)八月十五夜のところにも、

 「旅宿たすかる一両輩をつかはし、小座頭あるに、浄瑠璃をうたはせ、興じて一盃にをよぶ。」(『宗長日記』島津忠夫校注、一九七五、岩波文庫、p.164)

とあり、古い歴史を持っている。最初は琵琶の伴奏で語るものだったが、後に三味線になった。これが義太夫や人形浄瑠璃(文楽)に発展するのはもう少し後の貞享の頃になる。
 「前渡り」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 1 前を素通りすること。
「さすがに、つらき人の御―の待たるるも、心弱しや」〈源・葵〉
 2 ある人をさしおいて昇進すること。
「左大弁の―まかりならぬものなり」〈宇津保・国譲上〉
 3 人の前を体裁をつくろって通っていくこと。
「あだめくものは―して通る」〈仮・尤の双紙〉

とある。この場合は3の意味であろう。『連歌俳諧集』の注釈には「好きな人の前を気どって渡り歩くこと」とある。
 女の気を引こうと浄瑠璃の一節を口ずさんでみたものの、生半可な記憶で「言葉誤り」。
 初期の浄瑠璃の代表作で浄瑠璃の名の由来にもなった「浄瑠璃姫十二段草紙」は牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語だった。
 元禄五年十月の「けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉」を発句にした巻の二十八句目、

   いかやうな恋もしつべきうす霙(みぞれ)
 琵琶をかかえて出る駕物(のりもの)  芭蕉

の句は『奥の細道』の旅の途中、塩釜で聞いた奥浄瑠璃の記憶によるものと思われる。昔の名残をとどめる古風な奥浄瑠璃は、戦国時代さながらに琵琶の伴奏で語られてたのだろう。

 八十二句目

   なましりなじゃうるりぶしの前渡
 夜さの使に行さうりとり     宗因

 「夜さの使(つかひ)」は主人の夜の相手(遊女)を手配するために使わされた者か。草履取りの少年が使いに出されたようで、うろ覚えの浄瑠璃を口ずさんで通り過ぎてゆく。

2018年5月19日土曜日

 「花で候」の巻もいよいよ佳境に入る。

 七十三句目

   けふの月見もえんでこそあれ
 秋とならん契宇治茶の後むかし  宗因

 お茶というと今は煎茶が主流だが、この時代はまだ抹茶が主流だった。もう少し後の蕉門の時代になると隠元の淹茶法が広まり、唐茶が流行することになる。
 抹茶は初夏に収穫して碾茶を作ると、それをひと夏冷暗所で保管し秋にそれを茶臼で引いて飲んだ。もちろん、それを待ちきれずに出来たばかりの碾茶をすぐに臼で引いて新茶を楽しむこともあったから、一概には言えない。
 将軍家に献上された碾茶は『日本茶の歴史』(橋本素子、二〇一六、淡交社)によれば、

 「宇治を旧暦の五月二十日前後に出発し、約三十日かけて夏六月に江戸に到着する。そして御茶壺のうち、夏切御壺と御試御壺は、そのまま夏のうちに江戸の将軍家で茶壺の口が切られて消費された。しかしメインの御用の茶壺は、秋に「口切」をして飲まれていた。」(『日本茶の歴史』橋本素子、二〇一六、淡交社、p.125)

という。
 ただし、これは十八世紀の初め頃なので、宗因の時代はこの通りではなかったかもしれない。十六世紀に「口切」が旧暦十月の初め、つまり初冬に行われていたし、現代でも十一月(新暦)は茶人の正月と言われているから、秋の口切はそれに比べればやや早い。
 将軍家ならずとも、夏の新茶も楽しんだ後、秋にようやくひと夏置いた熟成茶の封を切るということは宗因の時代に既に行われていた可能性は十分にあるし、そう考えるとこの句はわかりやすい。
 「秋とならん契(ちぎる)」はようやく秋が来たので碾茶ひと夏置いた碾茶の封を「千切る」。それをもちろん男女の「契り」に掛ける。そしてそれがちょうどそれが名月の頃なので、「けふの月見もえんでこそあれ」と下句に繋がる。
 そして、その封を切ったお茶はというと、最高級の宇治茶の後昔(のちむかし:「あとむかし」とも言う)
 後昔は「コラム孫右ヱ門」というブログの2016年3月19日のところに詳しい説明がある。
 それによると、碾茶には白製法と青製法があり、白製法は、

 「早い時期に摘み取った茶の新芽は、この蒸し製法で仕上げると非常に白っぽい抹茶になります。
 こうして製茶された茶は『白』と呼ばれ、茶葉を蒸す製法は『白製法』と呼ばれていました。」

 これに対し青製法は、

 「古田織部が将軍家の御茶吟味役(毎年抹茶を試飲して、買い上げ品目を定める役)を務めていた慶長末年、宇治茶師の長井貞信によって工夫された製法が『青製法』と呼ばれていたようです。」

とあり、

 「『青製法』の資料は非常に少ないのですが、どうやら古来から続く『白製法』の生葉を蒸す替わりに、生葉を灰汁(あく)に浸した後、茹でてから炙り乾かす製茶方法だったようです。」

とある。そして、

 「古田織部に続いて御茶吟味役となった小堀遠州は、古来から続く白製法による『白茶』の最高級品を『初昔』と名付け、生葉を灰汁に浸してから茹でる青製法による『青茶』の最高級品を『後昔』と名付けました。」

とある。
 宗因のこの一句は、将軍家に匹敵するような上級武士の家で、秋の月見の夜に最高級の宇治茶の封を切るとともに、この月見の宴を婚姻の宴にしようというもので、上級武士の家にも盛んに出入りしていた連歌師宗因ならではの、格調高い一句と見るべきであろう。
 なお、『連歌俳諧集』の注には

 「三月節に入りては二十一日めに摘むを初昔といひ、其の後につむを後昔といふ。昔は廿一日の字謎なり」(事林広記)

とある。
 廿と一と日を合わせれば、たしかに「昔」という字になる。ただ、『事林広記』はウィキペディアによれば、「事林広記(じりんこうき)は、南宋の末に福建崇安の陳元靚(ちんげんせい)が著した」とあり、もっと古い時代の中国で用いられていた、おそらく「後昔」の元の意味ではなかったかと思われる。

 七十四句目

   秋とならん契宇治茶の後むかし
 おけるあふぎのしばしおなさけ  宗因

 謡曲『頼政』の頼政自害の場面に、

 「これまでと思ひて平等院の庭乃面、これなる芝の上に、扇をうち敷き、鎧脱ぎ捨て座を組みて、刀を抜きながら、さすが名を得しその身とて」

とある。
 ただ、この物語の本説だと恋にならないので、それを換骨奪胎する必要がある。
 秋の扇はWeblio 辞書の隠語辞典の「三省堂 大辞林」の所に、

 「②〔漢の成帝の宮女班婕妤(はんしょうよ)が君寵(くんちょう)のおとろえた自分の身を秋の扇にたとえて詩に詠んだという故事から〕 相手の男から顧みられなくなった女性の身。団雪(だんせつ)の扇。」

とある。『連歌俳諧集』の注には「『秋扇賦』を作ってうらみを述べた故事による」とある。秋扇賦は團扇詩とも怨歌行とも言うようだ。
 もっとも、ウィキペディアの「班ショウヨ」の項には、「『文選』の李善注によると、「怨歌行」は本来無関係な詩であったのを班倢伃に仮託したものだという。」とある。

   怨歌行    班婕妤
 新裂齊紈素 皎潔如霜雪
 裁為合歡扇 團團似明月
 出入君懷袖 動搖微風發
 常恐秋節至 涼飊奪炎熱
 棄捐篋笥中 恩情中道絕

 ま新しい斉の国の白練りの絹を裂けば
 霜や雪のように清らかに光る
 これを裁断して寝室を共にする時の団扇にすれば
 丸々と明月のようになる
 君の懐に出入りしては
 揺り動かしてそよ風になる
 いつも恐れてた、秋が来て
 涼しい風が猛暑を奪い去る
 竹籠の中に捨て置かれ
 君の情までもが道半ばに絶えてしまう

 この詩の心と合わさることで、扇を芝の上にしばし置く行為はいかつい武者の者から女のものになる。
 秋になって「飽きて」しまって、契った宇治茶も昔のことになり、宇治だけに平等院鳳凰堂で自害した頼政のように、捨て置かれる扇の私にしばしお情けを、となる。複雑な出典と掛詞と駆使した、宗因の最高の技術による付け句といえよう。
 「團團似明月」は、

 月に柄をさしたらばよき団扇かな  宗鑑

の出典でもある。この古典的な詩があるがゆえに、『去来抄』もこの句を「不易の体」としたのであろう。

 七十五句目

   おけるあふぎのしばしおなさけ
 花の下たたれし君の尻の下    宗因

 さて宗因ならではの佳句が続いた後は、お約束で卑俗に落とすことになる。「落ちをつける」というのは日常の会話でも大事なことだ。特に関西では。
 我が身の分身ともいえる扇がどこに行ったのかと思ったら、立ち上がった彼氏の尻の下に敷かれていた。ここは笑いどころだ。

 七十六句目

   花の下たたれし君の尻の下
 かすむもゆかし小便の露     宗因

 これは、山崎宗鑑撰『犬筑波集』の、

   霞の衣すそはぬれけり
 佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして

を本歌として、女の放尿する姿にもまたむらむらっとくる様を付ける。
 放尿フェチとまでは行かなくても、男なら誰しも多少そういう興味はあるのではないかと思う。こういう多用な性のあり方を認めるのも、俳諧の良い所だと思う。

2018年5月17日木曜日

 「花で候」の巻の続き。三の懐紙の裏に入る。

 六十五句目

   見られたがるやなまめいた顔
 若後家の殊勝気もなき寺参   宗因

 有名なお寺にはたくさんの参拝客が来るから、なかにはナンパ目的の男や女がいたのか。
 昔はポルノのタイトルにやたら未亡人だとか若後家とかあったが、最近あまり見ないような気がする。平和な時代が続いたせいか、未亡人そのものがレアになっているのかもしれない。

 六十六句目

   若後家の殊勝気もなき寺参
 声をきくよりついほれげきやう 宗因

 お寺だけに参拝に来た若後家さんに色っぽい声で話しかけられれば、ついくらっときたりもする。惚れるを「ほれげきやう(法蓮華経)」と掛けている。
 日蓮宗のお題目の「南無妙法蓮華経」は意味的には「南無・妙法・蓮華経」なのだが、唱える時には「南無妙・法蓮・華経」と区切って読む。

 六十七句目

   声をきくよりついほれげきやう
 心根は無二亦無三ひとしきに  宗因

 前句の「ほれげきやう」にその法華経の文句「無二亦無三(むにやくむさん)」が付く。仏になる事のできる教えは一つであり、二つも三つもあるのではない、という意味。
 本当は誰だって一心に仏になる道だけを進みたいのだけど、ついつい迷いがあって法蓮華経が惚れ華経になってしまう。まあ、それが人間というものだ。

 六十八句目

   心根は無二亦無三ひとしきに
 ひねるこよりを引あひの袖   宗因

 昔は紙縒(こよ)りの両端をそれぞれ親指と小指で挟んでひっぱり、紙縒りが指からすり抜けた方が負けという他愛のない遊びがあったそうだ。「袖を引く」というのは気を引くとか誘惑するとかいう意味がある。
 紙縒りは細く切った紙を指先でひねって作るもので、太くなったり細くなったりしないように等しくひねらなくてはならない。ゆえに、「ひとしきに・ひねる」が受けてにはになる。

 六十九句目

   ひねるこよりを引あひの袖
 いさかひに取みだし髪恥かしや 宗因

 紙縒(こよ)りは髪を結うのにも用いた。その紙縒りを引っ張り合ったのか、髪が乱れて恥ずかしい。女同士の争いだろうか。
 「取り乱す」から「乱し髪」へと掛詞にして繋ぐ。

 七十句目

   いさかひに取みだし髪恥かしや
 隣のかかも入おはしたり    宗因

 昔は向こう三軒両隣で、日ごろから家族同然のお付き合いをしていて、夫婦喧嘩となれば、何事かと隣のかかあも飛び出してくる。「取り乱し髪」はここでは隣のかかあのこと。

 七十一句目

   隣のかかも入おはしたり
 思はざるざこねをしたる風呂の中 宗因

 日本のお風呂というと銭湯に素っ裸ではいる姿を想像するかもしれないが、温泉の湯治場以外で湯船に水を張って入るようになったのは江戸時代も後期のこと。それまでは風呂屋というとサウナだった。男女混浴だが素っ裸ではなく、男は褌、女は腰巻をつけて御座の上に寝転がった。
 ただ、男女がそうやって雑魚寝をしていると、やはりむらむらっとくる事もあったようだ。その相手が隣のかかあだったりする。
 雑魚寝というと談林の俳諧師井原西鶴の書いた『好色一代男』に大原の雑魚寝の様子が記されている。もっともこの手の読み物は、多少話が盛ってあったりして、どこまでが本当かはわからない。戦前の学者は「原始乱婚制の痕跡」として真面目に議論したようだが、今時こんな説を信じる者はない。左翼の爺さんの中には未だに信じている人がいるかもしれないが。

 七十二句目

   思はざるざこねをしたる風呂の中
 けふの月見もえんでこそあれ   宗因

 「えん」は宴と縁とを掛ける。月見の宴のあと、人がたくさん集まったので寝るところがなく、風呂場の中で雑魚寝をしたのが縁となった。当時風呂場がある家というのは上級武士の相当立派なお屋敷に限られていたという。

2018年5月16日水曜日

 暑いねー。そろそろコーラとか飲みたくなるねー。
 それにしても北は往生際が悪い。南北統一と体制維持は最初から矛盾しているから、両方は無理に決まっている。これを両立させるとしたら、韓国を消滅させ、金正恩の支配下に吸収するしかない。そりゃいくらなんでも無理というものだろう。
 まあ、おそらく内部に今回の豹変に不満を持つ人たちがたくさんいて、大変なんだとは思う。
 実質的には南に吸収される形になっても、あくまで北の主導で南北統一を実現したことにし、在韓米軍を撤収させて完全中立による独立を実現し、国名にも朝鮮の文字を入れる、というのが最善の形作りではないかと思う。
 それでは「花で候」の巻の続き。

 五十七句目

   泪の小川のちは淀川
 ゆかにつもるちりは誓文愛宕山 宗因

 「誓文(せいもん)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 1 神にかけて誓う言葉。また、それを記した文書。起請文(きしょうもん)。誓紙。
 2 相愛の男女が心変わりをしないことを誓って取り交わす文書。多く、遊女と客の間で交わされた。誓紙。
 3 (副詞的に用いて)神に誓って。
「こりゃ―ほんまのこっちゃ」〈滑・膝栗毛・八〉

とある。この場合は2だろう。積もった誓文はうず高く山になり、さながら愛宕山。
 京都の愛宕山は嵯峨野の北にある。ここから流れ出した小川は桂川に注ぎ、やがて宇治川、木津川と合流して淀川になる。

 五十八句目

   ゆかにつもるちりは誓文愛宕山
 天狗や鼻をはじく我中     宗因

 京都の愛宕山には愛宕山太郎坊という天狗が住んでいた。その天狗の高い鼻もへこますほどの熱愛だという。「我中は天狗の鼻をはじくや」の倒置。

 五十九句目

   天狗や鼻をはじく我中
 たまさかに口説せしことりんきして 宗因

 「たまさか」は滅多にないこと。「悋気(りんき)」は嫉妬のこと。
 「たまさかに悋気して口説せしこと」の倒置。まあ、嫉妬するのも仲の良いしるしか。

 六十句目

   たまさかに口説せしことりんきして
 したたるけれど今すこしねん  宗因

 「したたる」は甘くてべたべたしていること。口説も舌っ足らずの甘えたような声だったのか。語源的には多分関係ないと思うが「舌垂る」と「舌足らず」は何か調和する。
 「ねん」は「寝ん」。

 六十一句目

   したたるけれど今すこしねん
 下帯も汗もかたびらのかたしきに 宗因

 「かたしき」は、

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
     衣かたしきひとりかも寝む
           藤原良経(新古今集)

の歌にもあるように、自分の衣を下に敷いて独りで寝ることをいう。二人でともに寝る時は衣を二枚重ねて寝る。
 汗びっしょりになった褌や帷子を敷いて、べたべたするけど一人寝よう。まあ、汗をかくようなことをした後なのだろうな。

 六十二句目

   下帯も汗もかたびらのかたしきに
 二人むかへる蚊帳ごしの月   宗因

 汗まみれの褌や帷子の片敷きに就寝するのではなく、二人座って寄り添って蚊帳越しに月を眺め、愛し合った後の余韻を楽しむ。艶なるかな。

 六十三句目

   二人むかへる蚊帳ごしの月
 しのばねど局の口もあけひろげ 宗因

 「局(つぼね)」は古くは女房などの居所を言った。
 別に忍んでやってきたわけではないけど、局の入り口は開いていて、蚊帳越しの月が二人を迎える。

 六十四句目

   しのばねど局の口もあけひろげ
 見られたがるやなまめいた顔  宗因

 江戸時代で「局(つぼね)」というと吉原などの下級の遊女をいい、外から見える部屋(局)で待機して、通りがかる男を誘う。口も色っぽく半開きだったりしたのか。

2018年5月15日火曜日

 幼女誘拐殺人事件が起きるたびに、判で押したようにマスコミは犯人がアニメを見ていたなんてことを持ち出す。そりゃ今の日本でアニメを見たことのない人を探すほうが難しいだろう。
 アニメが好きで何が悪い、アニメを見たら犯罪予備軍なのか、そんなことはないというわけで、私もアニメが好きだと大きな声で言いたい。これはMeToo運動だ。
 というわけで、2013年以降に最初から最後まで見たアニメのタイトルを、思いつくままに列記しておこう。全部は見なかったものを加えるとこの何倍にもなる。

デスマーチからはじまる異世界狂想曲
ゆるキャン△
りゅうおうのおしごと!
宇宙よりも遠い場所
異世界食堂
終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?
けものフレンズ
僕だけがいない街
がっこうぐらし!
パンチライン
のうりん
ヤマノススメ
ヤマノススメ セカンドシーズン
灰と幻想のグリムガル
アウトブレイク・カンパニー
甘城ブリリアントパーク
神さまのいない日曜日
COPPELION
PSYCHO-PASS サイコパス 2
残響のテロル
デート・ア・ライブ
東京喰種トーキョーグール
棺姫のチャイカ
棺姫のチャイカ AVENGING BATTLE
映画『アナと雪の女王』
映画『君の名は。』

 みんなみんな大好きだーーーっ、というわけで「花で候」の巻の続き。三の懐紙に入る。

 五十一句目

   さほ姫ごぜと見まゐらせつる
 ふり袖のうしろすがたや霞らん 宗因

 さほ姫ってどんな人?というと、多分降り袖の後姿も霞むような人だろう、ということ。

 五十二句目

   ふり袖のうしろすがたや霞らん
 ひかばなびかでなぜにぴんしゃん 宗因

 前句の「霞らん」はここではたいした意味もなく殺した感じで、振袖の後姿に、袖を引いたのに靡きもせずにピンシャンしていると付ける。
 「ぴんしゃん」は今で言えば「つんとしている」ということか。平安語だと「そばそばし」になるのか。

 五十三句目

   ひかばなびかでなぜにぴんしゃん
 曲馬のやうなおこころ恨めしや 宗因

 ぴんしゃんしていてもやはり惹かれてしまうもの。今だとツンデレだが、江戸時代だと「でれる」は何て言うのか。

 五十四句目

   曲馬のやうなおこころ恨めしや
 坊主もとんと落られにけり   宗因

 ものが曲馬(くせうま)だけに恋に「落ちる」と。

 名にめでて折れるばかりぞ女郎花
     我れ落ちにきと人に語るな
           僧正遍昭(古今集)

も仮名序には「嵯峨野にて馬より落ちてよめる」とある。

 五十五句目

   坊主もとんと落られにけり
 恋の淵わたる世はただ一つ橋  宗因

 これだと単に恋に落ちたという軽い意味ではなく、愛憎の地獄に落ちるという恐ろしい意味になる。「一ツ橋」は丸太一本架けただけの細い橋。

 五十六句目

   恋の淵わたる世はただ一つ橋
 泪の小川のちは淀川      宗因

 恋の淵は最初は泪の小川のようでも、それがいつの間にか淀川のような大河になる。長谷川きよしや野坂昭如が歌っていた「黒の舟歌」を思い出す。

2018年5月14日月曜日

 今日は旧暦で三月二十九日。今日で春は終わり。行く春やー、だ。えーとそのあとの下七五は何にしようかなー。薔薇の花まで行きそうな。

 四十五句目

   はぎとられたる今朝のきぬぎぬ
 色好みばくち迄をや打ぬらん   宗因

 身ぐるみ剝がれるといったら、やはり博打。これで酒飲みなら飲む・打つ・買う三拍子揃うというところだが。
 まあ、酒も悪酔いしたりアル中になったりというリスクが有る所をチャレンジするのだから、一種の博打かもしれないし、女も一種の博打なのかもしれない。

 四十六句目

   色好みばくち迄をや打ぬらん
 つねにうそうそ月の夜ありき   宗因

 「うそうそ」は虚々で、心ここにあらずの虚(うつ)ろな感じを言う。「ありき」は「歩き」。
 月夜とはいえ女や金のことが頭からはなれず、いつも心ここにあらず。

 四十七句目

   つねにうそうそ月の夜ありき
 小男鹿と相腹中の妻ごひに    宗因

 「相腹中(あひふくちう)」は同じ気持ちのという意味。気分は小男鹿(さをしか)というところか。

 四十八句目

   小男鹿と相腹中の妻ごひに
 露ときえばや野でも山でも    宗因

 『伊勢物語』の、

 白玉か何ぞと人の問ひし時
     つゆとこたへて消えなましものを
               在原業平朝臣

の下句の情に、ものが小男鹿だけに「野でも山でも」と付ける。

 四十九句目

   露ときえばや野でも山でも
 花とおもふぬしのあるをも盗出 宗因

 前句の「消えばや」を姿を消すこと、ランナウェイに取り成す。
 綺麗な花は人のものでもかまわないと盗み出し、ドロンする。あとは野となれ山となれ。
 花の定座で春に転じる。

 五十句目

   花とおもふぬしのあるをも盗出
 さほ姫ごぜと見まゐらせつる  宗因

 「こぜ」は御前。「ん」は省略されることが多い。「念仏」をねぶつと言ったりするようなもの。
 垂仁天皇の后の佐保姫(狭穂姫)は兄の沙本毘古王に盗まれたが。

2018年5月13日日曜日

 今日は生田緑地ばら園に行った。
 去年の五月十四日の俳話を見たら、「バラはほぼ咲きそろっていた。人が多く駐車場も列ができていた。バスで行ってよかった。」とあったが、今年も一緒だった。
 去年はミサイルの発射があったようだが、一年たって想像以上に事態は良い方向に流れている。この流れを止めないでほしい。
 それでは「花で候」の巻の続き。二裏に入る。

 三十七句目

   契り置しはけふの聖霊
 みそ萩と袖の露とはいづれいづれ 宗因

 みそ萩は「うたてやな」の巻の二十七句目、

   我女房に逢もうるさや
 鼠尾草は泪に似たる花の色  補天

の所でも触れたが、ミソハギ(Lythrum anceps)は「鼠尾草」という字も当てる。「盆花」ともいうし、「精霊花」ともいう。
 萩の花はよく露に喩えられるが、ここではミソハギも袖の露もどれがどれだかと、似てるものとして扱われる。
 死別した恋人に涙(袖の露)すると、精霊花のミソハギもまるで涙の露のようで「いづれいづれ」となる。

 三十八句目

   みそ萩と袖の露とはいづれいづれ
 うかうかと行かへるかよひ路  宗因

 これは一転して夜這いの句になる。「うかうか」は心が浮かれて思慮もなくという意味。今日の「うきうき」ほどポジティブではない。「うっかり」というのも同じ語源か。
 ミソハギの咲く畦道を会いには行くものの、帰りは涙の袖の露となる。

 三十九句目

   うかうかと行かへるかよひ路
 さりともと頼み頼みて九十九夜 宗因

 これは謡曲『通小町』や『卒塔婆小町』に描かれている百夜通い伝説に基づくもの。ウィキペディアには、

 「百夜通い(ももよがよい)とは、世阿弥などの能作者たちが創作した小小町の伝説。
 小野小町に熱心に求愛する深草少将。小町は彼の愛を鬱陶しく思っていたため、自分の事をあきらめさせようと「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま最後の雪の夜に息絶えた。」

とある。

 四十句目

   さりともと頼み頼みて九十九夜
 是非約束のきりは明晩     宗因

 深草少将も九十九回目に会いに来た時にはこんなことを言ったのか。前句の深草少将と小野小町のエピソードから離れきってなくて、展開が不十分だが、本説付けのときはある程度はやむをえない。

 四十一句目

   是非約束のきりは明晩
 返す返す神ぞ神ぞとかく文に  宗因

 「神」は「しん」と読む。『連歌俳諧集』の注には「多く誓約のときに使う廊のことば。」とある。
 前句を手紙の文言としてかろうじて打越の情を去る。

 四十二句目

   返す返す神ぞ神ぞとかく文に
 おゆかしく候なつかしく候   宗因

 ここでも苦しい展開が続く。とにかくどうとでも取り成せそうな言葉で逃げた形になる。
 「ゆかし」は惹きつけられること。「なつかし」は側にいたいということ。

 四十三句目

   おゆかしく候なつかしく候
 けいはくのたらたら泪こぼされて 宗因

 打越の手紙の趣向を去るなら「けいはく」は手紙の末尾の文言の「敬白」と掛けない方がいい。あくまで「軽薄」で、「たらたら」は涙のこぼれる擬音であると同時に「たらす(騙す)」と掛けている。
 「おゆかしく候なつかしく候」と軽々しくいうC調言葉に騙され、泣いた泪の数も知れない。

 四十四句目

   けいはくのたらたら泪こぼされて
 はぎとられたる今朝のきぬぎぬ  宗因

 これは美人局(つつもたせ)か。けな気に泣く女についほろっとなって一夜を過ごすが、恐いあんちゃんが出てきて身ぐるみ剝がされる。

2018年5月11日金曜日

 今日は晴れた。朝見える月はすっかり細くなり、春ももう終わりが近い。
 それでは「花で候」の巻の続き。

 二十九句目

   なまなかしんでらちあけん中
 いつも只病ほうけたる物おもひ  宗因

 恋の病も重くなれば、いっそ死んでしまいたいと。

 三十句目

   いつも只病ほうけたる物おもひ
 起たり寝たり空ながめたり    宗因

 恋の病は別に寝たきりになるわけではない。むしろそわそわと落ち着かず、寝たかと思えば起き上がって空を眺めてみたりする。

 三十一句目

   起たり寝たり空ながめたり
 むかしむかし男有けりあだ心   宗因

 『伊勢物語』の書き出しの文句で、前句を在原業平さんとした。「あだ心」は浮気心。

 三十二句目

   むかしむかし男有けりあだ心
 小むすめかとてよびし悔しさ   宗因

 小娘かと思って娶ってはみたものの、歳をさば読んでいたか意外に年増で、むかしむかし付き合っていた男があったとさ。

 三十三句目

   小むすめかとてよびし悔しさ
 見返しの笠の内をもちらと見て  宗因

 後姿がまだうら若い娘に見えて声を掛けてみたが、振り向いたその顔は‥‥、古典的なネタだ。

 三十四句目

   見返しの笠の内をもちらと見て
 南無あみだ仏恋はくせもの    宗因

 阿弥陀如来像には頭の後ろのところに頭光という丸いものがある。これが笠に見えたのか、帽子を後ろにずらしてかぶることを阿弥陀に被るという。今は帽子だが、むかしは笠で、阿弥陀笠と言われた。そういうわけで笠と阿弥陀仏は付き物ということになる。
 ただ付き物と言うだけで縁語みたいにして意味もない言葉を出すのは談林流の特長ともいえよう。
 只振り向いた人の笠の内を見て、恋は曲者だと呟くのだが、南無阿弥陀は特に意味はない。二十二句目の「しづのをだ巻」と同じ。
 「恋はくせもの」は謡曲『花月』に出てくる言葉。日本ではダイアナ・ロスのWhy do fools fall in loveが「恋はくせもの」と訳されている。

 三十五句目

   南無あみだ仏恋はくせもの
 月にくる数珠のつぶつぶうき思ひ 宗因

 阿弥陀仏から数珠を付ける。
 月に向って数珠を繰りながらお祈りをする。数珠の粒(つぶ)と胸がどきどきするという意味の「つぶつぶ」とが掛詞になり、念仏を唱えながらも「恋は曲者」だという。

 三十六句目

   月にくる数珠のつぶつぶうき思ひ
 契り置しはけふの聖霊      宗因

 前句の「うき思ひ」を片思いではなく、死別した恋人への思いとする。
 お盆は聖(精)霊祭(しょうりょうまつり)ともいう。お盆の祭壇は精霊棚といい、地方によっては精霊流しを行う。去年のあなたの思いでがーー。

2018年5月10日木曜日

 四日続きの雨。今日は昼頃激しい雨が降り、雷が鳴った。
 それでは「花で候」の巻の続き。二表に入る。

 二十三句目

   いつか女房にしづのをだ巻
 つかはるる前だれ腰の目に付て   宗因

 「巻」から腰に巻く「前だれ」を付ける。前垂れは下女や茶屋女がするものとされてたから「しづ」の「巻」といえよう。
 前垂れは江戸中期頃から前掛けと呼ばれるようになり、町人の男女が一般的に用いるようになったという。
 前垂れフェチということではなく、単なる尻フェチだと思うが、そうやって腰に目をつけて女房にした賤の巻いた前垂れ、となる。

 二十四句目

   つかはるる前だれ腰の目に付て
 馳走ぶりにもほるる旅籠屋     宗因

 前垂れをした女性を旅籠屋の飯盛女とする。
 飯盛女はウィキペディアには、

 「飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。」
 「17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥る。そこで客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。」

とある。
 元禄三年の「灰汁桶の」の巻の二十三句目の、

    旅の馳走に有明しをく
 すさまじき女の智恵もはかなくて   去来

も飯盛女の句か。

 二十五句目

   馳走ぶりにもほるる旅籠屋
 暁のわかれのかねを置みやげ   宗因

 世話になった飯盛女に、明けがたの旅立ちの時にチップを置いてゆく。「かね」は暁の鐘と置いてゆく金とを掛けている。

 二十六句目

   暁のわかれのかねを置みやげ
 鳥はものかは我ぞつたなき    宗因

 「もの」は幽霊か幻か、とにかく心に顕れる不確かなものをいう。「応仁元年心敬独吟山何百韻」の発句に、

 ほととぎす聞しハ物か不二の雪  心敬

とある。もっと古い例では、

   題しらず
 待つ宵のふけゆく鐘の声きけば
     あかぬ別れの鳥はものかは
           小侍従(新古今集)

の歌がある。
 いにしえの貴族のきぬぎぬを遊女の朝の別れに換骨奪胎する。
 「拙き」は天性に恵まれないという意味で、身分(天分)、才能(天才)、運(天命)に恵まれないことをいう。芭蕉の『野ざらし紀行』の富士川の捨て子に対し、芭蕉は「唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」と言う。

 二十七句目

   鳥はものかは我ぞつたなき
 ぎやうぎやうしことごとしくも恨かけ 宗因

 仰々しく事々しく実際以上に恨んでいるかのような鳥の声はこの世の者とも思えず、なんとも運が悪い。面倒くさい女につかまってしまったか。

 二十八句目

   ぎやうぎやうしことごとしくも恨かけ
 なまなかしんでらちあけん中   宗因

 いっそのこと死んで終わりにすることで、思いっきり恨みをかけて、生涯苦しめてやろうか、となんか恐ろしい。
 「埒(らち)」は今では「埒があかない」と否定的に使うが、本来は「埒があく」とも「埒をあける」とも言った。「埒」は区切りのこと。

2018年5月9日水曜日

 ドミノ倒しは日本では将棋倒しと呼んでいた。将棋の駒は立てることができるし、それを並べて倒す遊びは子供の頃よくやった。それに対しドミノの牌は日本の家庭ではほとん見られないし、私自身ドミノ牌を手にしたことがないし、どうやって遊ぶのかも知らない。
 ドミノの牌であれ将棋の駒であれ、次から次へと倒れていったとき、それを止めるのにはどうすればいいかというと、倒れてゆく先端に先回りし、今まさに倒れようとしているそれを止めて、立てるしかない。そして、次にそれに寄りかかっているのを立て、後ろに戻ってゆくしかない。
 核ドミノを止めるには、まず今まさに核開発を進めている国の核を、世界が協力してあらゆる圧力を掛けて止めるしかない。北朝鮮の核はどうやら世界各国の協力のおかげでもうすぐ実を結ぶのではないかというところまで来た。となると、次はイランの核ということになるだろう。おそらくイランの完全な非核化はイスラエルの非核化との取引になるだろう。
 今までの反核運動が実を結ばなかったのは、先端を止めずに最初の原因を作ったアメリカに核廃絶を促そうとしたからだ。ドミノ倒しの一番最初のドミノの牌を立て直したところで、ドミノ倒しは止まらない。子供でもわかることだ。
 以上、じじい放談で、これからが本題。「花で候」の巻の続き。

 十七句目

   道どほりさへなみだはらは
 立宿に胸のけぶりやふすぶらん  宗因

 「ふすぶ」は燻ぶと書き、煙がくすぶるという意味と嫉妬するという意味がある。
 傷心を癒すために旅に出たのだろうか。それでも嫉妬する心は胸の中でくすぶり続け、涙がちょちょぎれる。

 十八句目

   立宿に胸のけぶりやふすぶらん
 しんきはらせぬ萱茨のうち    宗因

 「萱茨」は「かやぶき」と読む。
 「しんき」は「辛気」であろう。「辛気臭い」という言葉は今でも使う。
 五行説では、木、火、土、金、水の五つのエレメントは様々の物の中に見られるとされている。色で言えば、木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒となり、季節で言えば木=春、火=夏、土=土用、金=秋、水=冬となり、方角では木=東、火=南、土=中、金=西、水=北となる。(「五行配当表」で検索すると色々出てくる)
 さらに五味というのがあって、木=酸、火=苦、土=甘、金=辛、水=鹹(しおからい)となる。また、感情については五志というのがある。木=怒、火=喜、土=思、金=悲(憂)、水=恐(驚)。
 これで行くと辛気が金の属性を持つもので、憂鬱を引き起こす気のことだとわかる。
 前句の「立宿に」を仮定として、宿を発ったところでどうせ胸の嫉妬心はくすぶりつづけるだろう、とし、実際は萱葺屋根の粗末な家で悶々としている。
 五行説は芭蕉の発句などでも一つの隠し味になっている。たとえば、

 身にしみて大根からし秋の風   芭蕉

の句は、大根の白に、辛いという味、それに秋という季節がすべて金気で統一されている。

 十九句目

   しんきはらせぬ萱茨のうち
 月にしもお茶をかごとのすき心  宗因

 辛気と金気が出たところで季節は秋になり月を出す。
 前句の茅葺の家を茶室としたか。「かごと」は託言と書き、託(かこ)つこと、言い訳、口実、愚痴など、何かのせいにして自分をごまかすことをいう。
 名月の風流を口実に愛しい人を誘ったりして下心たっぷりでお茶室に入るも、なかなか思うように行かずかえって憂鬱になる。

 二十句目

   月にしもお茶をかごとのすき心
 たつた一筆おくる秋の夜     宗因

 茶の心といえば簡素をもととし、一枚の花びらに満開の花を想像するような省略の美を良しとする。恋文も長くてはいけない。あくまで簡潔な一言で表現する。ある意味俳諧の心にも通じる。

 二十一句目

   たつた一筆おくる秋の夜
 中立に長物がたりくり返し    宗因

 「中立(なかだち)」は仲を取り持つ人のこと。ここでは恋文の代筆でも頼んだのだろうか。依頼者はと自分の思いを長々ととりとめもなく語るばかりでまとめるのも面倒だから、一言だけ書いて相手に贈ってやる。
 この頃には花の定座が習慣化されていたが、発句に「花」があり、花は一つの懐紙に一本なので、ここでは出せない。これを忘れると宗祇法師のように名残の懐紙の花をこぼしてバランスを取ることになる。

 二十二句目

   中立に長物がたりくり返し
 いつか女房にしづのをだ巻    宗因

 「しづのをだ巻」は「倭文の苧環」という字を当てる。「倭文(しづ)」は中国から布が輸入される前に既に日本に存在していた古いタイプの織物のことをいう。「苧環(をだまき)」は麻糸を巻いた巻子(へそ)。難読語辞典

Weblio辞書の「三省堂 大辞林」には、「へそ【綜▼ 麻▽・〈巻子〉】績ぅんだ麻糸を環状に幾重にも巻きつけたもの。おだまき。」とある。
 しづのをだ巻は『伊勢物語』の、

 古のしづのおだまき繰りかへし
     昔を今になすよしもがな
             在原業平

の歌に詠まれている。
 「しづのをだ巻」から「繰りかへし」を導き出すなら掛けてには(あるいは歌てには)になるが、ここではただ「繰りかえし」の縁語で「しづのをだ巻」が出て来たにすぎない。「中立に長物がたりくり返しいつか女房にし」までが句の意味で、最後の「し」に「しづのをだ巻」を掛けた形になる。「まかせてちょんまげ」だとか「いただきまんもす」のようなもの。意味はない。
 仲を取り持ってくれる女に切々と思いを伝えてもらおうと長々と放しているうちに、結局その取り持ち女と結婚してしまったという話。故郷の女に毎日ラブレターを書いていたらその女が郵便屋と結婚してしまったみたいなもの。遠くにいる人よりいつも近くにいる人のほうが強い。

2018年5月8日火曜日

 今日も夕方から雨が強くなった。やはり肌寒い。
 飯舘村の道の駅で買った白狼というどぶろくを飲んだ。見かけは甘酒のようだが、なかなかの辛口の酒だった。白狼、タタール語だとaq bureになるのかな。
 それでは「花で候」の巻の続き、初裏に入る。

 九句目

   引よせ顔の見ゆる三味線
 はなれかねともども綱の舟遊び  宗因

 前句の三味線から川での舟遊びへと展開する。
 「ともども綱」は舟の船尾(艫:とも)にある船を繋ぐための「艫綱」に男女ともどもを掛けたもの。

 十句目

   はなれかねともども綱の舟遊
 川ほどふかきおもひなりけり   宗因

 舟遊びといえば川。「はなれかね」から「ふかきおもひ」と四手に付ける。

 十一句目

   川ほどふかきおもひなりけり
 君となら此酒樽も呑ほさん    宗因

 酒飲みの恋か。「川ほどふかき」は君への思いなのか酒への思いなのか。

 十二句目

   君となら此酒樽も呑ほさん
 一寸さきは名もたたばたて    宗因

 忍ぶ恋なのだろうけど、どうもバレそうになっているような。でもそれでもいい、浮名が立つならそれでもかまわない、といいながら酒を樽で飲む。こうなったら、毒を食らわば皿までというところか。

 十三句目

   一寸さきは名もたたばたて
 浅からぬ千話のあまりに指を切  宗因

 「千話」は痴話で、ここでは痴話喧嘩のことか。多分女が浮気や二股を疑われたのだろう。忠誠心を示すために指を切る。
 指を切るという行為は、近代ではやくざなどが罰として指を詰めさせたりするが、もとは忠誠心の証しとして、特にそれを疑われることがあったときに、忠誠心を示すために行われていたものであろう。
 ウィキペディアによれば、

「誓いだてに指を切らせた例として、井原西鶴の「武道伝来記」で泉川修理太夫が妻の不倫を疑い、「密夫なければ諸神誓文に五つの指を自ら離せ」といって、裸にし、指を断たせたことが見える。また吉原遊女が常連客に「一途であること」を示すために自分の小指を切って送ることがあった。ただしこの際に新粉(しんこ、米粉の餅)細工の作り物や、首切り役人から死体の指を調達して自分の指として送る例も見られた。売れっ子の花魁はその行為は「粋ではない」とし、「離れるなら離れればいい。身請けされる時にみっともない。」と決して行わなかった。身請けをされる見込みがない遊女は逆に必死になり、間男や惚れた男に誓いを立てていた。」

という。
 韓国ではデモなどのときに抗議のしるしとして指を切り落として投げつけるという。

 十四句目

   浅からぬ千話のあまりに指を切
 うかれ女なれどつよき心中    宗因

 「うかれ女」は遊女のこと。
 「心中」は「しんじゅう」で、心の中、胸の内を意味する「しんちゅう」ではない。心中(しんじゅう)というと、いまではほとんどいっしょに自殺するという意味でしか用いられないが、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、それとは別に、

 4 人に対して義理を守ること。
「―が立たぬと思ひ、親へ便りもせずに帰る」〈浄・歌念仏〉
 5 愛し合っている男女が指や髪を切ったりして、愛情の変わらないことを示すこと。また、その証(あかし)。
「女郎の―に髪を切り爪をはなち」〈浮・一代男・四〉

とある。義理の強さ、愛情の強さは義理と人情で矛盾しているようにも見える。むしろ忠誠心の強さと見た方がいい。

 十五句目

   うかれ女なれどつよき心中
 大磯に残るかたみのちから石   宗因

 これは本説による付け。
 大磯には「虎が石」ものがある。ウィキペディアによれば、

 「大磯町の延台寺に伝わる虎が石は、子宝祈願のため虎池弁財天を拝んだ山下長者の妻に与えられ、やがて夫妻は虎御前を授かった。虎の成長とともにこの石も成長し、祐成を賊の矢から防いだことで身代わり石とも呼ばれる。」

とのこと。
 祐成は『曽我物語』の曽我兄弟の兄のほうの曾我十郎祐成(すけなり)で、虎御前はその愛人だった。虎御前は遊女だったから「うかれ女」ともいえる。
 この場合の心中は祐成を守る気持ちということになる。
 蕉門では本説で付けるときは少し変えるが、ここではほぼそのまんまに展開している。

 十六句目

   大磯に残るかたみのちから石
 道どほりさへなみだはらはら   宗因

 大磯の力石は、通りがかりの旅人さえもはらはらと涙を流す。旅体に展開する。

2018年5月7日月曜日

 今日は雨。気温も下がった。
 それでは「花で候」の巻の続き。

 脇

   花で候お名をばえ申舞の袖
 夢の間よただわか衆の春     宗因

 前句の若衆歌舞伎の趣向からすれば、「舞の袖」を「若衆」で受けるのは必然といえよう。そして「花」と名乗るにふさわしく、夢のように過ぎてゆく短い春の今を輝くという決意を表している。
 これも日本人特有の死生観なのかもしれない。神話でイワナガヒメとコノハナサクヤヒメのどちらかを選べといわれたとき、ためらわずにコノハナサクヤヒメを選んだのが日本人だ。永遠の命なんて欲しくない。たとえ短い命でも花を咲かせたい。
 『竹取物語』でも不死の薬を富士山の名前に掛けて、富士山頂で燃やしてしまう。姫が居ないなら永遠に生きる意味などない。そうして不死の薬を燃やしたため、富士山はその後長いこと煙を吐き続けることになったとさ、となる。古代の富士山は常時噴煙を上げていたようだ。

 風になびく富士の煙の空に消えて
     ゆくへもしらぬわが思ひかな
               西行法師

と歌にも詠まれた。

 第三

   夢の間よただわか衆の春
 付ざしの霞底からしゆんできて  宗因

 「付ざし」は『連歌俳諧集』の注に「親愛の情を示すために、口を付けた盃

または吸いつけた煙管を相手に与えること。」とある。
 「霞」は酒の異名だという。今でも濁った酒のことを「かすみ酒」というが、当時の酒は大体濁っていた。

 花に浮世我飯黒く酒白し    芭蕉

の句は天和三年(一六八三年)で、これよりはかなり後。
 「しゆんできて」は凍みてきてということ。前句の「夢の間」を人生が夢だということではなく、単に酒が回ってきて夢見心地の間という意味に取り成される。米米クラブの「オン・ザ・ロックをちょうだい。」を思わせる。

 四句目

   付ざしの霞底からしゆんできて
 手と手まくらをかはすとはなし   宗因

 打越の若衆を離れるため、ここでは男女のこととすべきであろう。
 「かはすとはなし」は「かはすとはなくかはす」で結局交わすのだろう。

 五句目

   手と手まくらをかはすとはなし
 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に  宗因

 前句を交わさない意味に取り成したか。秋に転じ、ここに初表の月を出す。

 六句目

   しのばれぬ昼のやうなる月の夜に
 露にぬれものほほかぶりして    宗因

 「ぬれもの」の用例として、『連歌俳諧集』の注は『好色伊勢物語』(江戸前期、作者不詳)を引用している。

 「ぬれもの、いろ好む女をもいひ、すぐれた姿をもいふ。ぬれもの、しなものといふも同じ詞なり。吉弥といふ女方をほめていひ出したる詞とぞ」

 「月」に「露」は付き物ということで、露から「ぬれもの」を言い興す。なかなか色好みのいい女がいるというので、昼のような月夜でもほっかむりした男がやってくる。

 七句目

   露にぬれものほほかぶりして
 霧ふかき出格子に立門に立    宗因

 前句が夜這いのような情景だったのに対し「出格子」を出すことで遊郭になる。こういうところに出入りする男は、誰だかわからないように顔を隠す。

 八句目

   霧ふかき出格子に立門に立
 引よせ顔の見ゆる三味線     宗因

 三味線が遊女歌舞伎で取り入れられていたから、その遊女歌舞伎が禁じられ、遊女達が吉原などの遊郭に閉じ込められるようになっても、三味線はそこでも遊女達の芸だった。三味線と端唄で人を引き付け、客を誘う。

2018年5月6日日曜日

 昨日は飯舘村の虎捕山津見神社を見た後、南相馬市小高区のフルハウスで行われた角田光代さんの源氏物語の朗読会に行った。
 正直まだ角田源氏は読んでないし、その内容については今は何も言えない。ただ、明石帰りになってしまった私としては、その翻訳作業の大変さは理解できる。自分のはあくまで趣味の訳だが、商品として出版するとなると、また別の苦労もある。監修の人が付いているから、ほぼ今の定説に基づいた源氏物語の無難な解釈で訳されていることは想像できる。それをどうわかりやすく面白く盛り上げるかが苦心するところだろう。
 面白いと思ったのは、いくつかの有名な訳の書き出し部分を比較した時のアーサー・ウェイリー訳だった。そのとき聞いた日本語訳への再訳は正確に思い出せないので、ネットで調べたら英語のが出てきた。

 "At the Court of an Emperor(he lived in matters not when)there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one,

 そうこの「he lived in matters not when」の部分だ。「彼がいつ生きたかは問題でない」という突き放した言い方が面白かった。これがこやん源氏の「何天皇の時代だったかなんてのはどうでもいいことです。」とちょっと似てるかななんて、まあそれこそどうでもいいことだけど。
 私の場合は単に当時はまってた竜騎士07さんの『うみねこのなく頃に』の影響で、「いずれの御時にか」が、これは本当にあった話ではなくあくまで虚構だという宣言の役割もあったのではないかと思って、そう訳しただけだった。
 こやん源氏はできる限り北村季吟の『湖月抄』に基づき、あえて国学や近代の解釈と違う源氏を訳そうと試みたもので、一種の実験というか遊びの訳なので、角田さんには見られたくない。
 いつもはラノベばかりで現代文学をほとんど読まない私としては、正直フルハウスはアウェーな感じだったが、並んでる本の中に白鳥士郎さんの『りゅうおうのおしごと』があったのでちょっと嬉しかった。
 店主の柳美里さんも実物をみる事が出来た。横浜からでも片道四時間の遠い所だけど、北海道から来たという人もいて、あらためてその集客力の凄さに驚いた。この店が福島の復興に寄与することを願わずにはいられない。
 行きは四時間、帰りは六時間、ずっと運転して疲れたのか、今日は少々調子が悪い。そういうわけで「花で候」の巻の続きは明日の心だ。

2018年5月4日金曜日

 薔薇の花もあちこちで咲いて、すっかり気分は夏のようだが、まだ旧暦では弥生の十九日。春はまだ終らない。
 きょうは御近所を散歩して、一万歩ほど歩いた。最近はガラ携といえども万歩計が付いてたりする。グーグルマップにも載り、最近はすっかり有名になった花桃の丘も青葉が茂り、その脇では馬がひひらいでいた。
 「宗祇独吟何人百韻」を読み終えたが、まだ春が余っているということで、同じ『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)にある、宗因の独吟百韻「花で候」の巻でも読んでみようかと思う。
 この百韻は恋をテーマにした恋百韻で、以前小生の唯一の著書である『野ざらし紀行─異界への旅』(ゆきゆき亭こやん、二〇〇〇、東京図書出版会)のなかで、「宗因は『西翁十百韻』恋俳諧「花で候」の巻のような、恋の句だけで百韻を作るほどの、恋句の達人であり」と書いたことがあった。なお、この『野ざらし紀行─異界への旅』は若干書き直して、鈴呂屋書庫で公開している。
 この「花で候」の巻は寛文十一年(一六七一年)に高滝以仙撰の『落花集』全五冊の内の一冊『宗因十百韻』に収められていて、後に延宝元年(一六七三年)に『西山宗因千句』(内題『西翁十百韻』)として再刊されている。談林俳諧がまだ江戸に来る前の上方で盛り上がっているときに作られたものだ。
 西山宗因は加藤清正の家臣西山次郎左衛門を父とする。里村昌琢のもとで連歌を学び、本来は連歌師だった。
 さて、その「花で候」の巻の発句を見てみよう。

 花で候お名をばえ申舞の袖   宗因

 お名前はと聞かれれば「花で候」と答える。本当の名前は「え申すまい」ということで、「舞」と掛けて「え申舞の袖」となる。
 連歌も俳諧も雅号で呼び合う仲で、いわば匿名の世界だ。匿名で身分素性を隠すことで、身分を越えて平等になる事が出来る。花の下で身分の別なく酒を酌み交わすように、日本では昔から雅号という一種の匿名性が身分を越えた自由な発言を得る手段とされてきた。その伝統は今日のSNSでフェイスブックが日本で苦戦している原因ともいえよう。
 日本では本名だと組織での立場や何かに拘束され、なかなか自由な発言がしにくく、ただ組織から与えられた決められた建前を言うばかりになる。だから、実名よりも匿名のほうがその人間の本音が語られるものとして信用される所がある。実名で語ることはただ組織の立場でそう言わされているだけの嘘ばかり、というのが今でも日本の社会の実情だ。
 この発句には長い前書きがついている。

 「いづれの時、いかなる人にか、難波堀江のよしあしにもつかず、男にもあらず、法師にもあらず、住る所もたしかならぬ翁ありけり。春の日の長あくびなるつれづれに、うとうとありきのうとからぬ友もがなと打ながめつつ行に、歌舞伎とかやよせ太鼓のてろつく天も花に酔る心ちして、鼠戸くぐりあへず、のけあみ笠のあけほんのりと見まゐらせ奉れば、打あぐる和歌の御声、親たれさまぞ御名をばえ申まいよのと、そぞろ詞のさまざまに、うつつなの身や、よしよし夢の間よ、ただしゆんできた物を。」

 和歌連歌で盛んに用いられてきた掛詞の技法が駆使された戯文で、難波の芦に掛けて難波の「良し悪し」としたり「春の日永」に掛けて「長あくび」を導き出したりする。
 当時流行していた歌舞伎踊りの客寄せのための寄せ太鼓のテンテンテロテロと鳴り響くところから「天も花に酔る心ち」を導き出し、芝居小屋の鼠戸(鼠木戸)に和歌(小唄)の声が聞こえてくれば、さぞかし立派な親を持っていることだろう親は誰だと言うにも名は言えないという。それを受けて、発句は歌舞伎踊りを舞う若衆の「お名をばえ申舞の袖」の詞をそのまま言い下すことになる。
 初期の歌舞伎は歌舞伎踊りで、最初は男娼の舞う若衆歌舞伎と遊女の舞う遊女歌舞伎とがあったが、寛永六年(一六二九年)ごろから遊女歌舞伎は禁止されて廃れて行き、若衆歌舞伎の流れがやがて元禄の頃に市川団十郎などによって今の姿に発展していった。芭蕉其角両吟の「詩あきんど」の巻八句目に、

   恥しらぬ僧を笑ふか草薄
 しぐれ山崎傘(からかさ)を舞  其角

とあるのも若衆歌舞伎をイメージしている。

2018年5月3日木曜日

 今日は午前中雨が降った。そのまま一日今日はお篭り。たまの休みだからこれもまたいい。
 「宗祇独吟何人百韻」ついに挙句に。さあ挙句の果てに何がある。

 九十五句目

   山こそ行衛色かはる中
 つれもなき人に此の世を頼まめや 宗祇

 宗牧注
 人ハ難面(つれなき)物なれども、世はさハあるまじきほどに、難面き人のやうに世は頼まじと也。
 周桂注
 世ハあだなる物なれバ、人のごとくつれなくハあらじと也。たのみはつべき此世ならねバ、行末ハ山居もしつべき心にや。

 「つれもなき」は「つれなき」を「力も」で強調した形。「つれなきも」の倒置だが、連体形が「ひと」を受けるため「つれなきも人」にも「つれなき人も」でもおかしいので、「つれもなき人」に落ち着く。
 「此の世を頼む」というのは、自分は世を捨てるという意味で、前句の「山こそ行衛」が出家の意味に取り成される。
 色変わりつれなくなった人に、あなたは現世で生きて行きなさい、私は出家します、という意味になる。

 九十六句目

   つれもなき人に此の世を頼まめや
 しぬる薬ハ恋に得まほし     宗祇

 宗牧注
 此世を憑ても甲斐なければ、毒薬にても死せんと也。
 周桂注
 恋ハくるしき物なれバ、しにたしと也。

 「死ぬる薬」は『源氏物語』総角巻に、

 恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに
     雪の山にや跡を消なまし

の歌の用例がある。「雪の山」は『竹取物語』の富士山で「不死」の薬を焼いて限りある命を受け入れたことをイメージしたものといわれている。
 ここではそれとは関係なく、自殺願望の句となる。前句の「や」を反語に取り成すと心中ということになるが、いずれにせよ病んだ句だ。江戸時代の心中ものを経て、今日のヤンデレにつながっているのかもしれない。

 九十七句目

   しぬる薬ハ恋に得まほし
 蓮葉の上を契りの限りにて    宗祇

 宗牧注
 一蓮同生の契をいそぐ心にや。
 周桂注
 後ハ蓮台にあらんほどに、死たきと也。

 「蓮台の上の契り」は『源氏物語』鈴虫巻の、

 蓮葉を同じ台(うてな)と契りおきて
     露の分かるる今日ぞ悲しき

に見られるが、この場合は契りも空しく離れ離れになるというもの。これに対し、宗祇の句はやはり心中をほのめかす展開になっているが、無理心中ではなく同意の下での心中を願う展開になる。

 九十八句目

   蓮葉の上を契りの限りにて
 ちるや玉ゆら夕立の雨     宗祇

 宗牧注
 納涼の仕立也。夕だちの雨といふ事、歌には見えずと也。
 周桂注
 すずしき心也。夕立の雨、古き歌ニおほくはみえぬにや。万葉に、夕立の雨打ふれバ春日野の尾花が上の白露おもほゆ。風雅集ニ、後鳥羽院、かた岡のあふちなみよりふく風にかづかづそそぐ夕立の雨。されども、夕立の雨このむまじき詞也。時雨の雨にハかハりたり。夕だつといはば、雨となくてハすべからず。新古今に、水うみの舟にて夕立の立ぬべき由申けるをききて、かきくもり夕だつ浪のあらけれバうきたる舟ぞしづ心なき。此歌ハ、夕だつ浪に夕立をそへたるなるべし。新拾遺、折しかんひまこそなけれおきつ風夕だつ浪のあらき浜荻、家隆。玉葉集ニ、夏風と云題ニ、夏山の梢の木々を吹かへし夕だつ風の袖にすずしき。

 周桂の注は「夕立」の用例についてかなり詳しく説明している。最初の「万葉に」の歌は、

 夕立の雨うち降れば春日野の
     尾花が上の白露思ほゆ
         詠み人知らず(万葉集二一六九、)
 夕立の雨うち降れば春日野の
     尾花が末(うれ)の白露思ほゆ
         小鯛王、更の名は置始多久美(万葉集、三八一九)

と二首重複している。

 かた岡のあふちなみよりふく風に
     かづかづそそぐ夕立の雨
           後鳥羽院(風雅集四〇四)

 この二首を挙げて、まず「夕立の雨このむまじき詞也。」という。「夕だつといはば、雨となくてハすべからず。」というように夕立だけで雨の意味になるから、「夕立の雨」は同語反復だというのだろう。「夕立」は『応安新式』の一座一句物のところにあるので「夕立」自体は使ってはいけない言葉ではない。
 「時雨の雨にハかハりたり。」とあるのは、時雨が一座二句物で、秋冬それぞれ一句づつになっているが、八十五句目に冬の時雨が出ているので、秋の句にしなくてはならなくなる。九十四句目の秋から三句しか隔ててないのでここでは出せない。

 かきくもり夕立つ波の荒ければ
     浮きたる舟ぞしづ心なき
           紫式部(新古今集・羈旅歌)
 をりしかんひまこそなけれ沖つかぜ
     夕たつ波のあらき浜荻
           藤原家隆(新拾遺)
 夏山の梢の木々を吹かへし
     夕だつ風の袖にすずしき
           権中納言兼季(玉葉集)

 この「夕だつ」は夕べに立つ浪や風を詠んだもので、夕立の歌ではない。
 「たまゆら」は「玉響」で玉と玉がこすれる幽かな音から、わずかなという意味になる。ここでは雨露の玉と掛けて用いられる。
 蓮葉の上を契りの契りも夕立に雨露がはじけるようなあっという間のこと、という、人の一生も一日花のムクゲの命もどちらも長い雨中の時間の中では一瞬のことという達観した句となる。
 そろそろ挙句に向って、「解脱」を意識しだしたか。

 九十九句目

   ちるや玉ゆら夕立の雨
 雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に  宗祇

 宗牧注
 夕立のしたる風雲、跡もなくなりたるは、見はてぬ夢なり。
 周桂注
 夕だちのあらきも夢也。あとなき心也。

 夕立の雨のあっという間に去ってゆくように、我が一生の波乱万丈の雲風も、所詮は見果てぬ夢だと悟る夜にと、「覚むる」に単に夜の眠りから覚めるだけでなく、寓意を持たせている。

 挙句

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
 わが影なれや更くる灯      宗祇

 宗牧注
 有か無かに更たる灯也。
 周桂注
 身の老たる心を深夜の燈にたとへたるなるべし。

 この世は結局一時の夢と悟り目覚めた時、自分の影は油のかすれた灯のように影が薄くなってゆく。燃え盛る炎はくっきりした影を作るが、火が弱まれば影も薄くなる。こうして火が消えたように、この私も世を去る日は近いのだろう、と弟子達への遺言にこの百韻を残す。

2018年5月1日火曜日

 マイノリティーがいじめに遭うと、人権思想に藁をもすがる思いになるのかもしれない。ただ、私のような日本人で男で健常者でノン気という絵に描いたようなマジョリティーだと、いじめに遭っても自分が悪いということにしかならない。
 実際小学校の間はずっといじめられてた記憶がある。今となっては詳しいことは思い出せないから、たいしたことではなかったのかもしれないが、少なくともクラスでは問題児として扱われ、親切にも学級裁判まで開いてくれ、何とか更生させようとみんなで話し合ってくれた。
 そんな中で、いつしか正義だとか建前道徳だとかを信じなくなり、カミュやフーコーに傾倒してゆくことになった。それが今の自分の原点となっている。
 多分、ネトウヨと呼ばれる人たちの多くにも似たような体験があって、何らかの形で西洋的な人権思想への失望というのがあるのではないかと思う。
 いじめや差別をなくすのに、私は法整備で対応するという西洋的な考え方には懐疑的だ。それは結局警察や機動隊といった暴力装置で押さえつけているだけだからだ。ヘイトスピーチやヘイトクライムといった行動に移せば逮捕されるとしても、心に思い描くだけでは罪にならない。だからみんな結局心に思っても我慢しているだけで、何かの弾みで権力の空白が生じれば抑えていたものが一気に爆発する。
 西洋的な方法は旧ユーゴスラビアでも失敗したし、EUも今やかなり怪しくなっている。
 日本はもとより、世界には色々な文化圏があり、そこでも当然いじめや差別はあるのだから、その文化独自の対処法があると思う。西洋的な方法を一方的に全ての国に押し付けるのではなく、それぞれの文化圏での方法を発信し合って、駄目なものは自然と廃れ、良いものが生き残っていくようにすればいい。「多様性」というのはそのためにあるのだと思う。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

  九十一句目

   はやくの事を泪にぞとふ
 物毎に老は心の跡もなし    宗祇

 宗牧注
 老耄のこころ也。
 周桂注
 万端忘却の上にも、涙ばかりハ昔にかハらぬ物也。昔をとハんあひてにハ、心あひたる歟。

 これは前向性健忘であろう。新しいことが覚えられず、「心の跡もなし」だが、「はやくの事」は思い出せるし、涙する。

 九十二句目

   物毎に老は心の跡もなし
 めで来し宿は浅茅生の月    宗祇

 宗牧注
 月をめでこし宿ハ、浅茅原と荒たる也。
 周桂注
 よろづ忘却の上にも、月バかりハ誠にめでつべくこそ。

 一句は倒置で、「月をめで来し宿は浅茅生で、物毎に老は心の跡もなし」となる。
 歳取ると物もなかなか片付けられなくなるし、庭の手入れも行き届かなくなり、チガヤなどが生い茂る。

 名残裏
 九十三句目

   めで来し宿は浅茅生の月
 野辺の露袖より置きや習ふらん 宗祇

 宗牧注
 聞えたる体也。
 周桂注
 露は野べよりをく物なれど、我思のあまりに、袖よりをくらんと也。野べの露ハ色もなくてやこぼれつる袖より過る荻の上風。

 引用されている歌は、

 野辺の露は色もなくてやこぼれつる
     袖より過ぐる荻の上風
             慈円(新古今集)

 句の方は、野辺の露も袖に置いた涙の露に習ったのだろうか、となり、その涙のわけを前句の浅茅生の荒れた宿とする。

 九十四句目

   野辺の露袖より置きや習ふらん
 山こそ行衛色かはる中    宗祇

 宗牧注
 うつろふ袖のゆく衛ハ、山野なるぞといふ心也。
 周桂注
 我中も山とおなじく色かハるとなり。

 山の紅葉は露の色に染まり変わってゆく。前句の袖の露の理由を、山が露をうけて紅葉に変わってゆくように、二人の仲も色あせてゆくからだとする。恋に転じる。