「花で候」の巻の続き。三の懐紙の裏に入る。
六十五句目
見られたがるやなまめいた顔
若後家の殊勝気もなき寺参 宗因
有名なお寺にはたくさんの参拝客が来るから、なかにはナンパ目的の男や女がいたのか。
昔はポルノのタイトルにやたら未亡人だとか若後家とかあったが、最近あまり見ないような気がする。平和な時代が続いたせいか、未亡人そのものがレアになっているのかもしれない。
六十六句目
若後家の殊勝気もなき寺参
声をきくよりついほれげきやう 宗因
お寺だけに参拝に来た若後家さんに色っぽい声で話しかけられれば、ついくらっときたりもする。惚れるを「ほれげきやう(法蓮華経)」と掛けている。
日蓮宗のお題目の「南無妙法蓮華経」は意味的には「南無・妙法・蓮華経」なのだが、唱える時には「南無妙・法蓮・華経」と区切って読む。
六十七句目
声をきくよりついほれげきやう
心根は無二亦無三ひとしきに 宗因
前句の「ほれげきやう」にその法華経の文句「無二亦無三(むにやくむさん)」が付く。仏になる事のできる教えは一つであり、二つも三つもあるのではない、という意味。
本当は誰だって一心に仏になる道だけを進みたいのだけど、ついつい迷いがあって法蓮華経が惚れ華経になってしまう。まあ、それが人間というものだ。
六十八句目
心根は無二亦無三ひとしきに
ひねるこよりを引あひの袖 宗因
昔は紙縒(こよ)りの両端をそれぞれ親指と小指で挟んでひっぱり、紙縒りが指からすり抜けた方が負けという他愛のない遊びがあったそうだ。「袖を引く」というのは気を引くとか誘惑するとかいう意味がある。
紙縒りは細く切った紙を指先でひねって作るもので、太くなったり細くなったりしないように等しくひねらなくてはならない。ゆえに、「ひとしきに・ひねる」が受けてにはになる。
六十九句目
ひねるこよりを引あひの袖
いさかひに取みだし髪恥かしや 宗因
紙縒(こよ)りは髪を結うのにも用いた。その紙縒りを引っ張り合ったのか、髪が乱れて恥ずかしい。女同士の争いだろうか。
「取り乱す」から「乱し髪」へと掛詞にして繋ぐ。
七十句目
いさかひに取みだし髪恥かしや
隣のかかも入おはしたり 宗因
昔は向こう三軒両隣で、日ごろから家族同然のお付き合いをしていて、夫婦喧嘩となれば、何事かと隣のかかあも飛び出してくる。「取り乱し髪」はここでは隣のかかあのこと。
七十一句目
隣のかかも入おはしたり
思はざるざこねをしたる風呂の中 宗因
日本のお風呂というと銭湯に素っ裸ではいる姿を想像するかもしれないが、温泉の湯治場以外で湯船に水を張って入るようになったのは江戸時代も後期のこと。それまでは風呂屋というとサウナだった。男女混浴だが素っ裸ではなく、男は褌、女は腰巻をつけて御座の上に寝転がった。
ただ、男女がそうやって雑魚寝をしていると、やはりむらむらっとくる事もあったようだ。その相手が隣のかかあだったりする。
雑魚寝というと談林の俳諧師井原西鶴の書いた『好色一代男』に大原の雑魚寝の様子が記されている。もっともこの手の読み物は、多少話が盛ってあったりして、どこまでが本当かはわからない。戦前の学者は「原始乱婚制の痕跡」として真面目に議論したようだが、今時こんな説を信じる者はない。左翼の爺さんの中には未だに信じている人がいるかもしれないが。
七十二句目
思はざるざこねをしたる風呂の中
けふの月見もえんでこそあれ 宗因
「えん」は宴と縁とを掛ける。月見の宴のあと、人がたくさん集まったので寝るところがなく、風呂場の中で雑魚寝をしたのが縁となった。当時風呂場がある家というのは上級武士の相当立派なお屋敷に限られていたという。
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