2020年10月29日木曜日

 今日は十三夜。朝から快晴でついさっきまで月が見えていたが、急に曇ってきた。十三夜今日は火星を伴にして。

 さて、楽しかったみちのくの旅も終わり、最後はこの大御所が締めてくれます。芭蕉が江戸に出てきた頃からの弟子にして親友だった素堂さん、それではいってみよう。

 「はせを老人の行脚せしみちのおくの跡を尋ねて、風雲流水の身となりて、さるべき處々にては吟興を動し、他は世上のこゝろごゞろを撰そへて、むつちどりと名付らる。其人や武陽の桃隣子也。予がむかし、かならず鹿嶋・松嶋へといへるごとく、己を忘れずながら年のへぬれば、夕を秋の夕哉といひけむ、松島の夕けしきを見やせまじ、見ずやあらまし。みちのおくはいづくはあれど松島・塩竈の秋にしくはあらじ。花の上こぐ海士の釣舟と詠じけるをきけば、春にもこゝろひかれ侍れど、なをきさかたの月・宮城野の萩、其名ばかりをとゞめをきけむ、實方の薄のみだれなど、いひつゞくれば、秋のみぞ、心おほかるべき、白河の秋風。
   時是元禄丑の年秋八月望に
              ちかきころ
                  素堂
                   かきぬ」

 「みちのおくの跡を尋ねて、風雲流水の身となりて、さるべき處々にては吟興を動し」までは「舞都遲登理」の部分で、「他は世上のこゝろごゞろを撰そへて」他の巻に収められた発句や俳諧のことであろう。「世上のこゝろごゞろ」は素堂の選んだ言葉だが、いわゆる門の垣根を越えて幅広くいろいろなものを選んだ、蕉門から外れた調和や不角の句を選んだことも、「世上のこゝろごゞろ」といえば理解できる。こうして『陸奥衛』全五巻が成立した。
 ここからは素堂の独り言のようになる。素堂もいつか必ず鹿島や松島を見に行くんだとずっと心に思い続けていて、行くなら秋に行きたいと言う。

 松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣

の句に共鳴してのことかもしれない。芭蕉も桃隣も夏の松島だった。秋に行っては見たいけど、帰り道で雪に足止めされることを心配してのことだったか。
 このあと象潟の花の上こぐ海士の釣舟もいいけど、それでも象潟の月、宮城野の萩に心惹かれ、実方の形見の薄になってもいいから秋に行きたいと繰り返し、「白河の秋風」と能因の歌を思い起こして終わる。
 そして日付の所で「秋八月望にちかきころ」と今が秋であることで、秋のみちのくに惹かれる理由というか落ちをつけてこの跋文は終わる。これはこれで何とも俳諧らしい剽軽な終わり方だ。「元禄丑の年」だから桃隣が帰ってきて一年後、元禄十年になる。

2020年10月28日水曜日

 『天野桃隣と太白堂の系譜並びに南部畔李の俳諧』(松尾真知子著、二〇一五、和泉書院)では、談林のブームの去ったあたりから点者や前句付の方に転向していった調和や不角との関係が取りざたされている。あるいは『陸奥衛』全五巻の大作を出版する際のスポンサーで、陸奥の旅も調和の門人から金を集めるためだったのではないかと、勘繰る部分もある。
 その辺の事情はまあとにかくとして、筆者鈴呂屋の印象からすると、この「舞都遲登理」の旅で桃隣は、とにかく芭蕉のように詠みたいというその意気込みがよく伝わってくる。ただ、いくら意気込んでも何か一つ足りないという気分にさせられる。
 思うに、桃隣が芭蕉から受け継いだのは、とにかく何か気の利いたことを言って人を笑わせたい、人を楽しい気分にさせたいという部分ではなかったかと思う。だから桃隣にとって面白くて人を楽しませるものであれば、調和や不角の句を排除する理由はなかったのだと思う。
 芭蕉さんと過ごした日々のように、俳諧を楽しみたい、談笑を楽しみたい、小難しいこと抜きに楽しみたい、それが桃隣だったのではなかったかと思う。
 関西系の去来、支考、許六、越人といったところがそれぞれの理屈にこだわり、議論倒れになってゆく中で、江戸の蕉門は其角にしても嵐雪にしてもそうだが、基本的に理屈が嫌いだったのだと思う。理屈抜きに楽しもうというところで、芭蕉亡き後の全国とも言っていい俳諧師たちが桃隣を中心に一堂に集まった、その集大成が『陸奥衛』だったのではないか。そう思って読んだときに『陸奥衛』の良さがわかるのではないかと思う。
 それでは「舞都遲登理」の続き。あとは伊勢へも行かず帰り道。

 「山形より山路を經て、ゆの原へ出ル。わたる瀬村と關村の間に、飛不動、堂守は茶を煎て往來に施ス。いつの比か飛騨匠、一夜の内に堂建立せんと暫して、良材を集初けるに、半に鷄の聲聞ゆ。夜は明たりと大願むなしく成ぬ。角の柱は崖に連て岩と成ル。今見るに八寸の角を雙べて、幾重竪に立たるがごとし。彼岩の頂は幽に見えて、前は早川也。組立たる岩の高サ八十丈余、横二百丈余、往來の貴賤暫足を留、膽を動ス。是より段々出て桑折に着ク。田村何某の方に休足。」(舞都遲登理)

 山寺を出ると羽州街道を通って桑折(こおり)へ出る帰り道になる。桑折というと飯坂温泉から伊達の大木戸へ行く間だった。
 山寺を出ればまずは山形城下の山形宿、奥羽本線蔵王駅の辺りにあった松原宿、そのすぐ南の黒沢宿、そしてかみのやま温泉のある上山宿から南の山の中に向かい、楢下、そして金山峠を越えれば干蒲、白石川に沿って下れば七ヶ宿町湯原(ゆのはら)に出る。
 関はそこからかなり先になる。渡瀬宿はその次の宿だが、残念ながら渡瀬宿は七ヶ宿ダムができたことによって七ヶ宿湖の底に沈んでしまった。ただ、材木岩はダムのすぐ下に残っている。幅は約100m、高さは約65mで、桃隣の見立てだと幅二百丈余は六百メートル、高さ八十丈余は二百四十メートルだから、かなり差がある。材木岩はダムの上の方まで続いていたのかもしれない。
 材木のように見えるのは柱状節理と呼ばれる玄武岩や安山岩が柱状になったものだからだ。
 飛不動は材木岩の対岸にあり、飛不動跡地の説明書きには、

 「ご由来記によると天正十九年(一五九一年)仙台藩伊達政宗公が羽州置賜郡小松村より、この霊地に不動明王を創建され、武運長久、藩内安全、天下泰平を祈念する。野火の為お堂消失の際本尊不動明王は後方虎岩三十丈余りの高き岩窟に飛んで難を避け無事であることから御霊験を称え飛不動明王と尊崇され大勢の参詣者を得た。
 現在飛不動尊堂は旧七宿街道江志峠(後方これより約一・五キロ)に鎮座し災難よけ、家内安全の祈願者が絶えず訪れている   別当 清光寺」

とある。
 野火は文禄三年(一五九四年)の業火で、今は違う場所にあるのは享保十六年(一七三一年)の大地震により虎岩が崩落の崩落と享保十九年に新しい道ができたため、そこに新たに建立されたという。新しい飛不動の方は今もある。
 「堂守は茶を煎て往來に施ス」というのは唐茶のことであろう。隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、

 「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。
 このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)

とある。
 さて、材木岩を後にすると、街道は白石川を離れ、今の県道46号白石国見線に近いコースで七ヶ宿峠を越えて桑折へ出る。田村何某氏の所に泊まり、この時『陸奥衛』二巻「むつちとり」にある、

 誰植て桑と中能紅畠       桃隣

を発句とする歌仙興行が行われたのだろう。桑と仲良く紅畠というのは、羽州街道で桑折と紅花の産地である山形とが結ばれていることを言うのであろう。
 脇がその田村何某氏であろう。

   誰植て桑と中能紅畠
 蓬菖蒲に葺隠す宿        不碩

 この宿は桑でも紅花でもなく、屋根に生えた蓬と端午の節句で軒に差した菖蒲に隠れてしまっています、と答える。四月にここを通った時に立ち寄ってくれなかったことがちょっと不満だったのかな。
 第三は桃隣とずっとともに旅をしてきたこの人。

   蓬菖蒲に葺隠す宿
 陰の膳旅の行衛をことぶきて   助叟

 「陰の膳」は陰善(かげぜん)のことで、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「旅などに出た家人の無事を祈って,留守のものが仮に供える食膳。長旅,出漁,出稼ぎ,出征などに行われ,椀(わん)のふたに露がつくと無事,つかねば凶としたりする。不在者も家族と同じものを分けて食べることにより一種の同席意識が生じるとみられる。」

とある。場面を転じて、旅に出た家族の帰りを待つ情景とする。

 「仙臺領宮嶋の沖より黄金天神の尊像、漁父引上ゲ、不思儀の緣により、此所へ遷らせたまひ、則朝日山法圓寺に安置し奉ル。惣の御奇瑞諸人擧て詣ス。まことに所は邊土ながら、風雅に志ス輩過半あり。げに土地の清浄・人心柔和なるを神も感通ありて、鎭坐し給ふとは見えたり。農業はいふに及ず、文筆の嗜み、桑折にとゞめぬ
       天神社造立半
    〇石突に雨は止たり花柘榴」(舞都遲登理)

 この黄金天神についてネット上では情報がほとんどないし、結局桃隣のこの文章が唯一の情報ソースとなっている。朝日山萬歳楽院法圓寺のホームページでも、

 「天神様あるいは、天満天神、天満大自在天神は菅原道真公が神格化して、学問の神様として、広く信仰されております。近江の国の「北の天満宮」、九州「太宰府天満宮」は有名ですが、法圓寺にお祀りしてあります天神様は通称『黄金天神』あるいは『宮嶋天神』としたしまれ、不思議の縁により當法圓寺に祀られ、古くから人々の信仰を集めておりました。この天神様の縁起を紹介するものとして、元禄九年(一六九六)芭蕉の甥の天野桃隣が出しました俳諧集『むつちどり』にも次のように記載されております。」

とあり、「舞都遲登理」の文章が引用されている。引用のあと、

 「とありますように、法圓寺の黄金天神は元禄時代にはすでにお祀りされており、文化の守護神として、あるいは、雷神として、人々の信仰帰依を得ていたようです。
享保四年(一七一九)に出されました俳諧集『田植塚』にもその当時の法圓寺の境内図が描かれてありますが、そこには梅の古木と蓮池と『宮嶋天神宮』が描かれております。
 天神様の本地佛は『十一面観世音菩薩』であります。現在、法圓寺には黄金天神さまの御導きにより、この天神様の本地佛として、総本山長谷寺ゆかりの『十一面観世音菩薩』像一体が法圓寺の位牌堂に勧請しお祀りさせていただいております。」

と続いている。
 まず仙臺領宮嶋がどこなのかもわからない。宮戸島なら松島の方にあるが。

   天神社造立半
 石突に雨は止たり花柘榴     桃隣

 「石突(いしづき)はこの場合、建造物の土台とする石を突き固める作業のことだろう。塩釜神社の社殿造営の所でも「石搗の半也」とあったが、これと同じだろう。柘榴(ざくろ)は夏にオレンジ色の花が咲く。天神社はまだ土台を固める段階で、柘榴の花が咲いている。

 「須ヶ川に二宿、等躬と兩吟一巻滿ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正秀陳饗應。
     〇文月に神慮諌ん硯ばこ」(舞都遲登理)

 等躬は芭蕉の『奥の細道』の旅でも、

 風流の初やおくの田植うた    芭蕉
 隠家やめにたたぬ花を軒の栗   芭蕉

などを発句とする興行に参加している。行きに通った時にも一泊して、桃隣、等躬、助叟の三人で三つ物三つを詠む。
 帰り道での桃隣との両吟一巻は等躬撰の『伊達衣』に収録されている。

   奥刕の名所見廻り文月朔日須賀川
   に出て、乍單齋に舍り、一夜は芭
   蕉の昔を語りけるに、去秋深川の
   舊庵を訪し予が句を吟じ返して、
   燭下に一巻綴りぬ。
 初秋や庵覗けば風の音      桃隣

 句は去年の秋に作ったものだという。ちょうど等躬の家に着いたのも文月朔日で秋の最初の日だった。「庵」は芭蕉庵であるとともに等躬宅でもあり、重なり合う。

   初秋や庵覗けば風の音
 蚊遣仕舞し跡は露草       等躬

 蚊遣火を仕舞った後は草に露が降りている。この場合の「露草」はツユクサではなく、単に露の降りた草ではないかと思う。
 芭蕉がいなくなって火が消えたようなという含みもあるのだろう。
 桃隣が参詣した諏訪宮は今の神炊館神社(おたきやじんじゃ)であろう。神炊館神社のホームページに、

 「奥州須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)は奥の細道の途次、芭蕉が参詣した神社です。
 全国でも唯一の社名は御祭神である建美依米命(初代石背国造)が新米を炊いて神に感謝したと言う事蹟に因ります。
 室町時代に、須賀川城主であった二階堂為氏が信州諏訪神を合祀したことから、現在に至るまで『お諏訪さま』としても親しまれています。」

とある。曾良の旅日記にも、

 「一 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。」

とあり、この諏訪明神も神炊館神社と思われる。

 文月に神慮諌ん硯ばこ      桃隣

 文月の最初の日で、その「文」の縁で神慮を諫める「硯ばこ」と結ぶ。

 「又こゆべきと、白河にさしかゝり、
    〇しら露の命ぞ關を戻り足」(舞都遲登理)

 しら露の命ぞ關を戻り足     桃隣

 これは西行法師が小夜の中山で詠んだ、

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや
     命なりけり小夜の中山
             西行法師(新古今集)

の「命」の文字を拝借した形だ。
 初秋で露の降りる季節で、白露のような命で関に戻ってきた、とする。

 「遊行柳。芦野一口一丁、右へ行、田の畔に有。不絶清水も流るゝ。
    〇秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰
 同所家中、桃酔興行。
    〇來る雁の力ぞ那須の七構」(舞都遲登理)

 行きは那須湯本から真っすぐ白河に行ったため通らなかった遊行柳は、帰りに立ち寄った。

 秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰     桃隣

 この句も、

 道のべに清水流るる柳蔭
     しばしとてこそたちどまりつれ
             西行法師(新古今集)

の歌の「柳蔭」を拝借している。夏ではないが残暑厳しく、芦野の遊行柳の柳陰でしばし涼をとる。

 來る雁の力ぞ那須の七構     桃酔

 「七構(ななかまえ)」の意味がよくわからない。桃隣が来てくれたところで、秋になって雁が飛来したみたいに元気づけられる、というのはわかる。七構は七つの(たくさん)のもてなしということか。
 桃酔は芦野の人で、『陸奥衛』に、

 春雨や寝返りもせぬ膝の猫    桃酔

の句がある。まあ、雨の日のネコはとことん眠いという、そういうタイトルの加藤由子さんの著書もあったが。
 他にも、

 温泉(ゆ)に近く薬掘たき芦野哉 桃酔

と地元を詠んだ句もある。

 「喜連川、庚申に泊合て、
    〇御所近く寐られぬ秋を庚申」(舞都遲登理)

 喜連川(きつれがわ)は奥州街道の宿場で、芦野からだと、鍋掛、大田原、佐久山の次になる。その先は氏家、白沢、宇都宮になる。

 御所近く寐られぬ秋を庚申    桃隣

 喜連川藩は足利家の末裔の喜連川氏が治めている。ウィキペディアによると、

 「頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから、1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府からの受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。」

とのこと。「御所近く」の御所は喜連川氏のことで、喜連川氏のお膝元で、寝られぬ夜を過ごしました。なぜなら庚申の日だったから、といったところか。御所号は皇族、大臣、将軍に準じる大変な称号だった。
 庚申待(こうしんまち)についてはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛(しょうめんこんごう)または帝釈天(たいしゃくてん)、神道では猿田彦神を祭り、徹夜する行事。この夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものとなった。庚申会(こうしんえ)。《季 新年》」

とある。

 「宇津宮へかゝり、社頭に登て叩首に、額日光宮と書り。二荒を遷敬し奉るけるにや。
    〇笠脱ば天窓撫行一葉哉」(舞都遲登理)

 宇都宮には下野國一之宮、宇都宮二荒山神社がある。日光の二荒山神社との関係は今を以てしてもよくわかっていない。日光の方は「ふたらさん」と読み、宇都宮の方は「ふたあらやま」と読む。起源も祭神も違う神社だという。
 ただ、ウィキペディアによると、「江戸期には日光山大明神と称されたこともあり」とあり、桃隣が訪れたときには日光宮の額がかかっていたのだろう。江戸時代のことだから東照宮にあやかったということは考えられる。
 叩首には「つかづく」とルビがふってあるが、「ぬかづく」の間違いではないか。

 笠脱ば天窓撫行一葉哉      桃隣

 「天窓」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に「あたま」と読んで「かしらの頂」を意味する用法があるようだ。「あたまなでゆく」なら字余りにならないし、意味も分かりやすい。
 笠を脱いで頭を地にすりつけて参拝すると、頭の上に一枚の葉が落ちてくる。何かそれはありがたい徴なのだろう。

 「小山に宿ス。七夕の空を見れば、宵より打曇、紅葉の橋も所定めず、方角を知べきとて、月を見れば影なし。力なく宿を頼、三寸を求め、牽牛・織女に備へ、間なくいたゞきてまどろみぬ。
    〇又起て見るや七日の銀河」(舞都遲登理)

 宇都宮からは日光街道になる。雀宮、石橋、小金井、新田と来てその次が小山宿になる。
 折から七夕だが夕方から雲が出て月もなく三寸(みき)つまり酒を飲んでうとうとしていた。

 又起て見るや七日の銀河     桃隣

 銀河は「あまのがわ」と読む。「又起て見るや」は疑いの「や」で、多分そのまま寝ちゃったのだろう。
 今の七夕は新暦になって梅雨に重なるため雨になることが多いが、旧暦の時代は逆に秋雨の季節が始まって雨になることが多かった。等躬撰の『伊達衣』に、

   名月はいかならん、はかりがたし
 七夕は降と思ふが浮世哉     嵐雪

の句がある。
 ただ、この年元禄九年の七月七日は新暦の八月四日なので、夕立だったか。寒冷期だから今の気候の感覚とは違うかもしれないが。

 「淺草に入て、はや江戸の氣色、こゝろには錦を着て、編綴の袖を翻し、觀音に詣ス。
    〇手を上ゲて群衆分ケたり草の花
 草扉はそこほれ、破れ果て、蜘蛛は八重に網を圍ふ。
    〇盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ
     子
      仲秋中旬」(舞都遲登理)

 さて、ついに江戸に帰ってきました。編綴(へんてつ)の袖は継ぎはぎということか。ぼろは着てても心は錦というところで、浅草観音に詣でる。

 手を上ゲて群衆分ケたり草の花  桃隣

 群衆は「くんじゅ」だろう。陸奥を旅して帰ってくれば、江戸の人の多さに圧倒されたに違いない。旅の前はそれが当たり前だったけど、長い旅のあとだとその人混みも懐かしい。
 家に帰ってくると、長いこと留守にしていたので、あちこち破れて蜘蛛の巣で埋まっている。桃隣の家は日本橋橘町にあったという。今の東日本橋三丁目だという。

 盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ   桃隣

 「あぐむ」は「倦む」と書き、嫌になるということ。
 最後に日付が入るが子年(元禄九年)仲秋になっている。帰ってきて一か月後には書き上げたようだ。

2020年10月27日火曜日

 今日は『天野桃隣と太白堂の系譜並びに南部畔李の俳諧』(松尾真知子著、二〇一五、和泉書院)が届いた。取り合えず桃隣が日本橋橘町に住んでいたことが分かった。著者は一九六一年の生まれだから鈴呂屋とタメ。桃隣の太白堂は今も続いていて十三世がいるという。
 さて、この辺でまた「舞都遲登理」の続き。前回は羽黒山に到着したので、これから月山と湯殿山を経て立石寺に。

 「湯殿山へ登るに、麓は晴天、山は雨、漸月山ニ詣て、雪の嶺牛が首と云岨に一宿。
 早天湯殿院へ詣ス。諸國の参詣、峯溪に滿々て、懸念佛は方四里風に運び、時ならぬ雪吹に人の面見えわかず。黄成息を吐事二万四千二百息。」(舞都遲登理)

 芭蕉や曾良は南谷から月山に登り、山頂付近の角兵衛小屋に泊まり、翌日湯殿へ行って戻って南谷へ戻った。桃隣もまた月山に登ったが、この日は雨で何も見えなかっがのだろう。
 麓は晴れていても山には雲がかかり雨が降ることはよくある。待った割にはいい天気とは言えないが、滞在期限が来てしまったか。
 月山の山頂付近は「雪の嶺」で、そこから湯殿山方面に少し降りると牛首小屋がある。曾良の『旅日記』にも、

 「七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺へも岩根沢へも行也)、コヤ有。不浄汚離、ココニテ水アビル。」

とある。ここで一泊した。
 翌日、朝早く湯殿山に向かう。大勢の参拝客が訪れていたが、水無月だというのに季節外れの吹雪で人の顔も分からないほどだったという。今では考えられないことだが江戸時代の寒冷期にはこういうこともあったのだろう。
 「懸念佛」は「掛念仏(かけねんぶつ)」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 =かけねんぶつ(掛念仏)
  ※俳諧・口真似草(1656)一〇「つつしんできくや言葉の申次、談義のあとに又かけ念仏(ネフツ)〈信徳〉」
  〘名〙 念仏講などの講中で、鉦(かね)や木魚をたたき、高声で掛け声して念仏を唱えること。かけねぶつ。
  ※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)三「大鉦うち鳴して掛念仏(カケネンブツ)申すを法花のかたより是を嫌ひ」

とある。
 「黄成息を吐事二万四千二百息。」というのは、よくわからないが白い息をはあはあしてたということか。

 「抑御山は靈現あらたにして、神秘の第一也。嶮莫の峯天をつらぬき、雪の花は常盤の枝をささえ、二丈の氷硲峒にしたたり、銀竹は瀧の俤をなす。樹は地に伏て、共に穿つ。草は土中に薶瘞ス。其氣色全臘月のごとし。兩權現の外、靈地の奇瑞、人々の踊躍の歡喜をなし、一度詣ては年々思をかくるが故に、戀の山とは申也。堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。いよいよ敬て、つゝしむべきは此御山成けらし。
    〇大汗の跡猶寒し月の山
    〇山彥や湯殿を拝む人の聲
      曾良登山の比
    〇錢踏て世を忘れけり奥の院」(舞都遲登理)

 「嶮莫」の莫には山偏がついているが、フォントが見つからなかった。「硲峒」の「硲」は谷間のこと。「銀竹」はつららのこと。
 月山の山頂には雪の花が咲き、二丈(約六メートル)の氷が谷の洞窟にあり、つららは瀧のようだという。
 「薶瘞(はいえい)」は埋もれること。木は地に伏すように生え、草は土に埋もれ、その景色は十二月(臘月)のようだという。
 「戀の山」とは言っても性的な意味はない。このような恋の用法は、元禄二年九月の「はやう咲(さけ)」の巻の十三句目。

   書物のうちの虫はらひ捨
 飽果し旅も此頃恋しくて     左柳

にも見られる。
 「堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。」は湯殿山のことだろう。『奥の細道』にも、

 「惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」

とあり、

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな   芭蕉

の句が詠まれている。

 大汗の跡猶寒し月の山      桃隣

 月山に登るには大汗をかくが、動くのをやめると途端に寒くなる。

 山彥や湯殿を拝む人の聲     桃隣

 湯殿山には大勢の人が参拝に来ていて、その声が湯殿山に木魂している。

 錢踏て世を忘れけり奥の院    曾良

 これは『奥の細道』の旅の時の句で、曾良の『俳諧書留』には、

 錢踏て世を忘れけりゆどの道   曾良

になっている。『奥の細道』では、

 湯殿山銭ふむ道の泪なみだかな  曾良

に改められている。

 「登り下り凡十五里也。御山への登り口、都て七口、尊き光を得て、幾かの人民身命を繋ぎ、國豊なり。しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。此所より廿丁東、チトセ山をのづから松一色にして、山の姿圓なり。麓に大日堂・大佛堂、後の麓ニ晩鐘寺、境内に實方中將の墓所有。佛前の位牌を見れば、
 當山開基右中將四位下光孝善等
 あこやの松、此寺の上、ちとせ山の岨に有けるを、いつの比か枯うせて跡のみ也。はつかし川は、ひら清水村の中より流出る。ちとせ山の麓也。
    〇秋ちかく松茸ゆかし千載山
      最上市
    〇野も家も最上成けり紅の花」(舞都遲登理)

 「登り下り凡十五里」は手向町より湯殿山まで十五里ということか。登り口は都(すべ)て七口あるという。
 今の登山コースでも、湯殿山口、羽黒山口、肘折口、岩根沢口、本道寺口、志津口、装束場口の七口になっている。
 「しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。」とあるように、桃隣は志津口へ下り、山形城下へ出た。
 志津口は牛首から南へ下るコースで、寒河江川に出る。今はダムがあって月山湖になっている。寒河江川に沿って下れば天童に出る。そこを南へ行けば山県の城下に出る。
 千歳山は山形城の南東になる。円錐形のきれいな形の山で、全山が松に覆われているという。南側の麓に平泉寺大日堂がある。大仏堂もかつては存在していたらしく、山形市のホームページによれば、

 「実は、かつて千歳山に大仏がありました。寛文12年(1672年)、山形城主であった奥平昌章公は、千歳山の南側に大仏殿六角堂を建立し、木造の巨大な釈迦如来を納めました。その大仏は約9メートルもあったといわれています。残念ながらその後、火災で消失してしまいました。
 現在の山形市でもその片りんを見ることができます。江戸時代末期に大仏の再建が試みられましたが、頭部のみの制作にとどまりました。作られた頭部は現在、平清水にある平泉寺の大日堂に納められています。」

とのこと。
 晩鐘寺は今の萬松寺(ばんしょうじ)のことであろう。千歳山の北側の麓にある。阿古耶姫と実方中将、十六夜姫の墓が並んでるという。
 あこやの松は『平家物語』にも出てくるし、謡曲『阿古屋松』にもなっている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「謡曲。脇能物。廃曲。世阿彌作。陸奥の阿古屋の松に案内された藤原実方の夢の中に塩釜の明神が現われ、松の徳をたたえる。」

とある。

 みちのくの阿古屋の松に木隠れて
     出づべき月の出でもやらぬか
              よみ人知らず(夫木集)

の歌にも詠まれている。
 はつかし川は平泉寺の方を流れる小さな川で、今でも平清水という地名が残っている。これも十六夜姫の伝承に属するもので、

 いかにせん写る姿はつくも髪
     わが面影ははずかしの川

という十六夜姫(中将姫)の歌が伝わっている。
 そこで桃隣も一句。

 秋ちかく松茸ゆかし千載山    桃隣

 松がびっしりと生えている千歳山を見て、やっぱり松茸食べたいなと思うのが俳諧だ。

   最上市
 野も家も最上成けり紅の花    桃隣

 芭蕉は尾花沢で紅花を詠んだが、最上市も紅花の産地。最上(もがみ)の名に最上(さいじょう)を掛けて詠む。曾良の『俳諧書留』には、

   立石の道にて
 まゆはきを俤にして紅ノ花    翁

とある。尾花沢から立石寺に行く間に詠んだ句であろう。

 「寶珠山・阿所川院・立石寺 所ノ者は山寺と云 城下ヨリ三里、慈覺大師開基。山ノ頂上ヨリ曲峒の立石、碧落に登テ、雲頭ヲ蹈ム。嶮難百折ノ靈地、仍、立石寺と名付給ふ。
 對面石・文殊堂・藥師堂 毘沙門天傳教大師・金剛鰐口、是は主護義光朝臣寄進也。清和天皇御廟・三王權現 三月廿五日祭禮近郷氏神・常行念佛堂 此本尊彌陀・御手洗 則阿所川・御枕石・眞似大師御手掛石・無手佛。半途ニ十王・奥院 三十番神十羅刹女・獨鈷水・骨堂・寶蔵・胎内潜・十王堂・印ノ松・慈覺堂・經堂・五大堂・白山堂・地蔵堂・不動堂・十八坊・天狗岩・タチヤ川。
    〇閑さや岩にしみ入蟬の聲  芭蕉
    〇山寺や人這かゝる蔦かつら 仙花
    〇山寺や蔦も榎木も皆古風  風仙
    〇山寺や岩に屓ケたる雲の峰 桃隣」(舞都遲登理)

 立石寺は宝珠山阿所川院立石寺という。立石寺は古代日本語の音ではリプシャクジだったのだろう。それがリッシャクジになって今に残っているが、京の方では「ふ(ぷ)」の音が音便化してリウシャクジになったと思われる。山寺という名でもよく知られている。
 碧落は青空のことで、天に向かって聳える切り立った岩にこのお寺は作られている。
 対面石は山寺観光協会のサイトによると、

 「慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられ、狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される。」

という。仙山線山寺駅から山寺へ向かってゆくと、立谷川を渡る宝珠橋の向こう側にこの対面石がある。
 「文殊堂」は今はないのか、よくわからない。
 薬師如来は立石寺の御本尊なので、「藥師堂」は根本中堂のことか。木造薬師如来坐像は十二世紀の平安時代のものとされている。
 「毘沙門天傳教大師」は木造毘沙門天立像のことであろう。九世紀、立石寺開基の頃のものとされている。これも根本中堂にある。金剛鰐口も根本中堂にある。鰐口はお祈りするときにカーンとならすあの円盤状の鐘で、最上光直が兄の義光の長寿息災を祈って寄進したという。
「清和天皇御廟」は今はないのか御宝塔だけがある。立石寺の開基は清和天皇の勅願によるものとされている。
 「三王權現」は山王権現のことで、根本中堂の脇にある日枝神社のことであろう。旧暦の三月二十五日に祭礼が行われる近隣の人々の氏神様だった。
 「常行念佛堂」は山門の前にある念仏堂のこと。御本尊はにっこり笑顔の「ころり往生阿弥陀如来」。
 「御手洗 則阿所川」は阿所川という川があって、そこが御手洗だということか、これもよくわからない。
 山門を入って少し行くと姥堂があって、山寺観光協会のサイトによると、

 「ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽の登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。」

とあるが、ここが御手洗かもしれない。
 「御枕石」は御休石のことか。慈覚大師が腰を下ろして休んだと言われている。奥院へ登ってゆく道の途中にある。
 「眞似大師御手掛石」はそれよりやや手前にある御手掛石のことか。
 「無手佛」はよくわからないが、宝物館にある右肩以下が失われた阿弥陀如来立像か。
 「十王」は仁王門にある。ここをくぐれば「奥院」になる。もっとも今の仁王門は嘉永元年(一八四八年)に再建されたもので、桃隣の頃のものではない。
 ここまでの凝灰岩の岩肌には、板碑型の供養碑・岩塔婆が数多く刻まれている。姥堂で服を着替えるのは、ここから先があの世だという意味があり、その上にあるこの巨大な岩すべてが死者の霊の弔う墓石ともいえる。
 芭蕉の、

 閑さや岩にしみ入蝉の声     芭蕉

の句もまた、この岩にはかなく死んでいった無数の蝉のような命がしみ込んでいるのを感じたのであろう。宿に荷物を置いて夕暮れ時に訪れ、芭蕉が聞いた蝉は、おそらく悲しげなヒグラシの声だったと思われる。
 「三十番神十羅刹女」は奥院如法堂に安置されている。
 「獨鈷水」は慈覚大師が独鈷で突くと水が湧き出したといわれる湧き水で、奥院如法堂の前にあったという。
 「骨堂」は死者の遺骨の一部を立石寺奥院に納める習慣があり、そのための納骨堂であろう。
 「寶蔵」も昔は奥院にあったのだろう。今は根本中堂の方に立派な宝物殿が建っている。
 「胎内潜」は仁王門からそれほど行かないところにある胎内堂で、岩の迫る道を這って進む胎内潜りができる。
 「十王堂」はよくわからない。仁王門の所にあったという説もある。
 「印ノ松」もよくわからない。松の木だったら既に枯れてしまったか。
 「慈覺堂」もよくわからない。今の開山堂の所にあったか。開山堂は嘉永四年(一八五一年)に再建された。
 「經堂」は開山堂の横の岩の上に建つ小さな納経堂のことか。
 「五大堂」は五大明王を祀る堂で、開山堂の先にある。
 「白山堂」は五大堂のそばにある白山神社のことであろう。
 「地蔵堂」はよくわからない。
 「不動堂」もよくわからない。
 「十八坊」もよくわからない。
 「天狗岩」は五大堂の先にあるという。
 「タチヤ川」は下を流れる立谷川で間違いないだろう。

 閑さや岩にしみ入蟬の聲     芭蕉

これはもういいだろう。

 山寺や人這かゝる蔦かつら    仙花

 山寺の急な石段に人は這うように登り、岩には蔦がからまっている。仙花は仙化のこと。

 山寺や蔦も榎木も皆古風     風仙

 蔦や榎に限らず、ここではすべてが古風に見えるということだろう。

 山寺や岩に屓ケたる雲の峰    桃隣

 「屓ケたる」は「負けたる」で、山寺の切り立つ岩は雲の峰にも勝る。

2020年10月26日月曜日

  「分断」という言葉は基本的に左翼系の人たちの使う言葉で、多分この言葉は「労働者階級を分断する」という意味だったのだろう。労働者と資本家は最初から階級闘争で敵対関係だから、元々ここに分断はない。
 冷戦終結で社会主義への関心が薄れ、労働者と資本家を敵対的に捉える人も少なくなり、また起業や投資による資本への参加が容易になったことで、労働者と資本家との境界もあいまいになった。こうした風潮に対し、あくまで昔ながらのプロレタリアを貫く人との間に、いわゆる「分断」が生じたのではないかと思う。
 マルクスの時代の労働者階級は『資本論』の分析のように、資本の利潤を受けられず、仲間外れ(疎外)にされて、絶対的貧困を強いられていたが、戦後の高度成長を経て労働者の貧困が「相対的貧困」にすぎなくなったあたりで、労働者の間に中流意識が生じ、労働者と資本家との境界意識が薄れた層と、相対的貧困でもあくまで資本主義の矛盾として革命による解決を求める層とに分裂していった。
 今となってはあまり階級を意識せずに国民としての一般的な意識で生活する人の多い中では、あくまで階級闘争に固執する人たちの方が「分断」を煽っているように見える。ただ、左翼の側からすると、資本家が労働者の一部を取り込んで労働者を分断しようとしているというふうに映るのだろう。
 それでは「はやう咲」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   萩とぞ思ふ一株の萩
 何事も盆を仕舞て隙に成     此筋

 お盆が終わって精霊棚やなにかを片付けてしまうとすることもなく、それまで目に留まらなかった萩が咲いているのが目に入る。
 三十二句目。

   何事も盆を仕舞て隙に成
 追手も連に誘う参宮       曾良

 お盆の前は大晦日同様つけや借金を取り立てる。済んでしまえば取り立てに来た人も誘ってお伊勢参りに行く。
 三十三句目。

   追手も連に誘う参宮
 丸腰に捨て中々暮しよき     残香

 宮本注には「武士の身を捨てて、かえって気楽なさま」とある。
 お伊勢参りも格式ばらずに気ままに物見遊山を兼ねた旅ができるのは庶民の特権だった。
 ただ、武士の身分を捨てて困るのは仕事だろう。絵だとか俳諧だとか医者だとか、何か芸がなければ「暮しよき」とはいかなかっただろう。
 三十四句目。

   丸腰に捨て中々暮しよき
 もののわけ知る母の尊さ     木因

 武家身分を捨てても母の援助を受ければ「暮しよき」にはなるか。
 三十五句目。

   もののわけ知る母の尊さ
 花の蔭鎌倉どのの草まくら    如行

 鎌倉殿は鎌倉の将軍のことだが、この場合源実朝のことで、母は北条政子か。政治は母や北条義時に任せ、和歌を好み旅をした。ただその末路は…。
 挙句。

   花の蔭鎌倉どのの草まくら
 梅山吹にのこるつぎ歌      斜嶺

 「つぎ歌」は上句に下句を付けるだけの鎖連歌以前の短連歌のことであろう。
 山吹といえば、

 山吹の花の盛りになりぬれば
     井手のわたりにゆかぬ日ぞなき
               源実朝(金塊集)

の歌がある。

2020年10月25日日曜日

  核兵器禁止条約の批准国が条約が発効する条件に達した。それはそれでいいことだと思うが、問題はこういう運動を推進している人たちが批准しない国を敵視しがちなことだ。
 核戦争なんて誰も望んではいない。自分がやられちまうからね。ただ、核廃絶へのプロセスは一つではない。核兵器禁止条約は一つの方法にすぎない。
 現実に北朝鮮の核開発をやめさせるには、アメリカの核には勝てないということで脅しをかける手段も必要になる。最終的に核をなくすには、あらゆるプロセスの可能性を試す必要があるので、その段階で敵味方に分かれて争ってはならない。
 鈴呂屋は平和に賛成します。そして核のない世界を望みます。
 それでは「はやう咲」の巻の続き。

 二十五句目。

   烏帽子かぶらぬ髪もうすくて
 冬籠物覚ての大雪に       左柳

 髪の薄くなった老人が物心ついて以来初めての大雪だというのだから、五十年に一度、百年に一度の大雪か。江戸時代は寒冷期で、桃隣の「舞都遲登理」によれば元禄九年の東北の栗駒山(1626m)は水無月でも雪があったし、湯殿山に行ったときは吹雪だったという。
 地球は今でも小氷河期に向かって寒冷化していると言われているが、十九世紀からそれをはるかに上回る炭酸ガス濃度の上昇による温暖化が起きて、未曽有の温暖期になっている。
 二十六句目。

   冬籠物覚ての大雪に
 茶の立やうも不案内なる     文鳥

 前句の「物覚て」を物心ついての意味ではなく、茶道を覚えたばかりでという意味に取り成したか。冬籠りで雪となれば、師匠の所に行けず、練習不足になったのだろう。
 二十七句目。

   茶の立やうも不案内なる
 美くしう顔生付物憂さよ     越人

 美少年でちやほやされてきたのか、茶の立て様も厳しく指導してくれる人がいなかったのだろう。肝心な時に恥をかく。
 二十八句目。

   美くしう顔生付物憂さよ
 尼に成べき宵のきぬぎぬ     路通

 女もなまじっか美人に生まれると、悪い男にたかられてしまうものだ。美人だから幸せになれるとは限らない。
 二十九句目。

   尼に成べき宵のきぬぎぬ
 月影に鎧とやらを見透して    芭蕉

 透けて見えるのは亡霊だ。残念ながら主人は戦死しました。明日からは尼です。
 三十句目。

   月影に鎧とやらを見透して
 萩とぞ思ふ一株の萩       荊口

 亡霊の正体見たり一株の萩。ちなみに、

 化物の正体見たり枯尾花     也有

の句はこれより百年後の天明の時代になる。「松木淡々がおのれを高ぶり、人を慢(あなど)ると伝え聞き、初めて対面して」(俳家奇人談)詠んだとされている。淡々を化け物のような人だと思っていたが、会ってみたらしょぼくれた爺さんで枯尾花だったというのが本来の意味。それが後になって「幽霊の」に上五が変わってしまい、今の意味になった。
 ネット上では例によってこういう有名な句を芭蕉に仮託する人がいるようだが、フェイクです。また也有の『鶉衣』にこの句はありません。

 笠もたで幽霊消るしぐれ哉    也有

の句ならあるけど。

2020年10月24日土曜日

 東京のコロナの新規感染者数はほとんど増えてないが、北海道や大阪などそれ以外の地方で増えてきている。これまで実効再生産数が1で安定していたが、その均衡が悪い方に破れなければいいが。
 東京オリンピックを「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として」なんて言っているが、勝ってから言った方がいい。取らぬ狸が多すぎる。
 それでは「はやう咲」の巻の続き。

  二表。
 十九句目。

   塩すくひ込春の糠味噌
 万歳の姿斗はいかめしく     木因

 万歳は正月に複数の人で行われる角付け芸だが、その衣装についてはウィキペディアに、

 「室町時代中期に門付けが一般化してくると、その際に太夫は裁着袴(たつつけばかま)をはいた。江戸時代には三河出身の徳川家によって優遇された三河萬歳は、武士のように帯刀、大紋の直垂の着用が許された。各地に広まった萬歳は、後に能や歌舞伎などの要素を取り入れたりしたことによって、さらに衣装が多様化した。」

とあり、姿だけは立派な武士のように見えたのだろう。だがどこか糠味噌の匂いがする。
 二十句目。

   万歳の姿斗はいかめしく
 村はづれまで犬に追るる     斜嶺

 昔の田舎では犬の放し飼いは普通だった。怪しいものが来るとどこまでも追いかけてくる。
 二十一句目。

   村はづれまで犬に追るる
 はなし聞行脚の道のおもしろや  此筋

 芭蕉や曾良も犬に追いかけられたことあったのかな。
 二十二句目。

   はなし聞行脚の道のおもしろや
 二代上手の医はなかりけり    残香

 医者の二代目は医の方の才能がなく、俳諧師になって行脚の道に出るって、そりゃあ其角さんに失礼だ。それとも去来さんのこと?
 二十三句目。

   二代上手の医はなかりけり
 揚弓の工するほどむつかしき   曾良

 「揚弓」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「遊戯用の小弓。ヤナギ(楊・柳)製の85cmほどの弓で,ハクチョウの羽をつけた矢をつがえ,約13.5mの距離にある的を射る。この遊戯は唐の玄宗皇帝が楊貴妃とともに楽しんだとも伝えられ,古く中国から渡来し,室町時代には宮中の七夕七遊(ななあそび)の一つとしていろいろな作法を伴っていた。江戸時代に入ると民間でも賭(かけ)付きで行われるようになり,元禄期には楊弓場が出現した。」

とある。最後の「楊弓場」は矢場とも言われ、「やばい」の語源とも言われている。
 俳諧師になるのはまだましな方で、矢場にはまってしまうと面倒くさい。
 二十四句目。

   揚弓の工するほどむつかしき
 烏帽子かぶらぬ髪もうすくて   如行

 これは弓を作る職人の匠であろう。烏帽子を被らない髪はいわゆる茶筅になるが、それすらみすぼらしい。

2020年10月23日金曜日

 旅の目的というのは、旅先で不審者にならないために必要なことだ。
 家の周りで見知らぬ人がうろうろしていれば、誰だって気になるし不安になる。どこを旅するにしても、そこに住んでいる人からすれば見知らぬ余所者だし、その姿は不審者に映っても不思議はない。
 だから、旅をするときは目的をはっきりさせ、不審尋問されたときにもきちんと何をしにここに来ているのか説明できなくてはならない。
 巡礼というのは昔からそのわかりやすい目的だった。別に伊勢でなくても、多くの人が納得できる巡礼場所ならだれも不審には思わない。それは幕府の移動制限だとかいう以前の問題だったのではないかと思う。
 街道に立派な並木道を整備したのも、旅人は迷わずにここを通れということだったのだと思う。コースアウトして、見知らぬ民家の前をうろうろするとなると、誰が見ても怪しい人だ。怪しい人になりたくなかったら、きちんと街道を行けということになる。
 今では「観光」というのが巡礼に準じた大義名分になっている。そのためには観光はある程度有名な名所を廻らなくてはならない。誰も行かないようなところに行くと、それは穴場かもしれないが、住民からしたら何しに来たんだとなる。
 次に「趣味」というのが一応の大義名分になる。登山だったり、バードウォッチングだったり、鉄だったり、そういう趣味のために来ているというのも、一応わかりやすい説明にはなる。大事なのはそれっぽい恰好をしていることだ。街道ウォーキングというのも一応名目になる。
 自治体がハイキングコースだとか散策コースを整備するのも、旅人にあまり変なところにコースアウトしてほしくないということなのではないかと思う。
 芭蕉の旅が多くの神社仏閣を廻るのも、旅のために僧形になるのも、不審者に間違えられることなく安全に旅するには不可欠なことだったのだと思う。
 コロナ時代でも地元の人に不安を与えないためには、できるだけ有名な観光地を巡り、下手に穴場探しをしないということも必要なのかもしれない。
 それでは「はやう咲」の巻の続き。

 十三句目。

   書物のうちの虫はらひ捨
 飽果し旅も此頃恋しくて     左柳

 部屋に籠り、書物の虫干しをして、静かに隠棲していても、旅をしていた頃を思い出して旅に出たくなる。
 一度脳内快楽物質の回路ができてしまうと、旅をしていた頃のあの快感が忘れられずに、また繰り返してしまうものだ。元禄七年の芭蕉もそうだったのか。
 十四句目。

   飽果し旅も此頃恋しくて
 歯ぬけとなれば貝も吹れず    芭蕉

 長いこと旅から遠ざかった前句の人物を修験者とする。修験者は巡礼もすれば登山もする。ただ、年老いて歯も抜けて法螺貝を吹くこともできなくなると、さすがに昔を恋しがるだけになる。
 十五句目。

   歯ぬけとなれば貝も吹れず
 月寒く頭巾あぶりてかぶる也   文鳥

 年寄りは頭巾のひんやりするのを嫌い、火にかざして温めてから被る。
 十六句目。

   月寒く頭巾あぶりてかぶる也
 あかつき替る宵の分別      荊口

 「分別」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①心の働きによって対象を理解判断すること。▽誤った理解・判断にもいう。◇仏教語。
  ②(一般に)物事の道理・善悪・得失などを考えること。またその思案。思慮分別。
出典徒然草 七五
  「ふんべつみだりに起こりて、得失止(や)む時なし」
  [訳] 思慮分別がやたらに起こって、利害を思う心がやむ時がない。」

とある。今は道徳的な判断以外にはあまり使わないが、昔はそんな特別なことではなく、この句でも夕方と明け方で考えが変わる程度の意味で用いてたようだ。
 寝る時はまだそんな寒くないと思っていても、明け方になって冷えてきて、あわてて頭巾を取り出し、火で温めて被る。
 十七句目。

   あかつき替る宵の分別
 一棒にあづかる山の花咲て    路通

 「一棒(いちぼう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 仏語。禅宗で師家、禅僧が修行中の弟子を導くために棒で警醒すること。また、それに用いる棒。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※談義本・世間万病回春(1771)二「その躰相(ていさう)さも一棒(ボウ)の下に打殺すべきいきほひ」

とある。弟子を導くと言っても夕べと朝とで言うことが違う困った師匠もいるもんだ。
 ただ、昨日は厳しく修行すると言っていて、今朝花が咲いてるのを見たら一転して今日は遊ぼうと、こういう朝令暮改なら歓迎だ。
 十八句目。

   一棒にあづかる山の花咲て
 塩すくひ込春の糠味噌      越人

 お坊さんだと花見といっても肉や魚はなしで、糠味噌に塩を足して糠漬けを作る。

2020年10月22日木曜日

 『奥の細道』の旅の最後がなぜ伊勢なのかについて、当時はお伊勢参りを名目にしないと旅ができなかったからだという説があったが、桃隣の「舞都遲登理」の旅は象潟まで行ったが、そこで伊勢へ向かわず出羽三山の方へ戻り、そのまま江戸に帰ってきている。
 つまりお伊勢参りは旅の名目にはなるものの、別に伊勢でなくても旅ができたというのは間違いない。芭蕉にも『鹿島詣』や『更科紀行』の旅があった。巡礼であれば別に鹿島神宮でも善光寺でも問題はなかった。江戸時代はお伊勢参りだけでなく、富士講や三峯講や大山詣も人気あったし、札所巡りも盛んだった。
 尿前の関を越える時でも、まったく方向の違う伊勢を引き合いに出すよりは、出羽三山に詣でると言った方が通りは良かったのではないかと思う。
 なら何で『奥の細道』は伊勢で終わるのか。まあ、どう考えても名所でも何でもない大垣で終わるよりは、伊勢で終わった方が見栄えがいいに決まっている。それだけのことではなかったかと思う。
 それでは「はやう咲」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   なをおかしくも文をくるはす
 足のうらなでて眠をすすめけり  荊口

 足の裏には「失眠」というツボがあり、ここを刺激すると不眠症に効果があるという。ただ素人がやってもくすぐったいだけで文をくるわす。
 八句目。

   足のうらなでて眠をすすめけり
 年をわすれて衾かぶりぬ     此筋

 此筋は荊口の長男。
 「衾(ふすま)」は「安々と」の巻の十句目でも登場したが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 布などでこしらえ、寝るときに体をおおう夜具。ふすま。よぎ。
  ※参天台五台山記(1072‐73)三「寝所置衾。或二領三領八十余所」 〔詩経‐召南・小星〕」

とある。
 今でも忘年会というのがあるが、昔の数え年では正月に一つ年を取った。年を取るのを忘れていつまでも若くいようというのが忘年会の趣旨で、今年あったことを忘れるという意味ではない。「望年会」などと言っているのは日本語を知らない連中だ。
 足裏のマッサージで不眠を治し、大晦日は早いとこ衾をかぶって寝て、年を取るのを忘れよう。昔は初詣なんてものはなかったし、大晦日に夜遅くまで起きているのは借金に追われているか取り立てている人だけだ。
 九句目。

   年をわすれて衾かぶりぬ
 二人目の妻にこころや解ぬらん  木因

 江戸時代前期は離婚率も高く、二人目の妻も珍しくはなかった。
 息子が後妻を迎えたはいいが、若い妻にどう接していいかわからず、年甲斐もなく衾を被って引きこもる。
 十句目。

   二人目の妻にこころや解ぬらん
 けづり鰹に精進落たり      残香

 鰹節は関西では普及していたが、関東に普及するのはまさにこれからという時期だった。
 前妻の法要のために肉や魚を断っていたのだろう。だがしかし、二人目の妻と削り節の誘惑に負けて、ついつい精進をやめてしまう。
 十一句目。

   けづり鰹に精進落たり
 とかくして灸する座をのがれ出  曾良

 ここでようやく曾良の登場。
 病気の療養で肉や魚を断ったり灸(やいと)をしていたりしたのだろう。ただ、どうしてもお灸が苦手で、逃げ出したついでに鰹節の利いたものを食べる。
 十二句目。

   とかくして灸する座をのがれ出
 書物のうちの虫はらひ捨     斜嶺

 「虫払い」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「夏の土用のころに衣類や調度,書籍などを取りだして日に干し風にあてて,カビや虫害から防ぐこと。〈虫振い〉〈虫干し〉〈風入れ〉〈土用干し〉などともいう。古くは〈曝涼(ばくりよう)〉といい,正倉院の平安初期の曝涼帳の記載が伝えられている。《日次紀事》には〈此月(6月)土用中,諸神社諸仏寺,霊宝虫払〉とある。 なお沖縄では虫送りをムシバレー(虫払)といい,2月から6月にかけて行っている。これは害虫をバショウの葉などに包んで海に流し,作物を病虫害から守って豊作を祈願するもので,虫が戻らぬように干潮に向かうときに行うのがよいとされ,この日は植付けや火の使用を禁ずる伝承もある。」

とある。この最後の「この日は植付けや火の使用を禁ずる」がヒントだろう。火を使っちゃいけないのだからお灸からも逃れられる。

2020年10月21日水曜日

  「ひぐらしのなく頃に」のアニメが今頃になって新しいのが作られたが、「鬼滅の刃」からの連想買いだろうか。「おおかみかくし」の方が共通点が多いと思うが。闘っているし。

 さて、旧暦九月の俳諧ということで選んでみたのは、元禄二年九月四日、美濃大垣の左柳こと浅井源兵衛宅で行われた歌仙興行で、ここで芭蕉と曾良は再会する。
 『奥の細道』にも、

 「露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたはる。」

とあり、『奥の細道』のエンディングともいえる感動的な場面だ。この文章はすぐに、

 「旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の迂宮おがまんと、又舟にのりて、

 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

と続き、『奥の細道』はここで終わる。
 この日九月四日、芭蕉は如水の家に集まり、芭蕉、如水、如行、伴柳、路通、誾如の六吟一巡(表六句)を詠んでいる。ここに曾良の名前はない。
 曾良の『旅日記』には

 「四日 天気吉 源太夫へ会ニテ行」

とだけある。そういうわけで、芭蕉と曾良との蘇生の者に逢うがごとき感動的な再会は如水宅ではなく左柳宅だった。
 さて、その時の発句。

 はやう咲九日も近し宿の菊    芭蕉

 「咲」は「さけ」と命令形になる。

 重陽も近いというので菊も早く咲いてくれと、特に寓意のない、時節柄を詠んだだけの句のように思える。
 脇。

   はやう咲九日も近し宿の菊
 心うきたつ宵月の露       左柳

 発句に応じて重陽を待ち望む気持ちで和す。四日の月は夕方に出るから宵月になる。発句に「日」の字があるので、去り嫌いを避けて脇で月を出す。
 第三。

   心うきたつ宵月の露
 新畠去年の鶉の啼出して     路通

 今年新たに開いた畑に、棲家を奪われた去年の鶉が鳴いている。収穫は嬉しいが、鶉の身になると悲しくなる。このあたりが路通の「細み」といえよう。
 「うきたつ」はここでは心に沸き上がるという意味で、何がというと「露」つまり泪だ。
 四句目。

   新畠去年の鶉の啼出して
 雲うすうすと山の重なり     文鳥

 前句の新たに開いた畑を山の中の畑とし、山が重なり薄雲がかかる遠景を付ける。
 文鳥は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注によれば、荊口の三男だという。此筋(しきん)、千川(せんせん)、文鳥(ぶんちょう)の三兄弟がいて、この時は千川は参加していない。
 五句目。

   雲うすうすと山の重なり
 酒飲のくせに障子を明たがり   越人

 酒飲みが障子を開けたがるのは、体が熱くなるからか、それとも小便が近いからか。別に景色を見ようなどと殊勝な心持ではないだろう。
 六句目。

   酒飲のくせに障子を明たがり
 なをおかしくも文をくるはす   如行

 障子を開ければ風が入ってきて紙がひらひらと動き、書いていた文も滅茶苦茶になる。

2020年10月20日火曜日

  今日は晴れた。夕暮れには四日の月が見え、東の空には火星が見えた。
 赤い公園は以前好きでよく聞いていたけど、最近はあんまり聞いてなかった。アニメタイアップの「絶対零度」は以前のような実験的なものはなかったけど、それなりにポップに仕上がっていた。いつの間にボーカルが変わっていたし。
 女の子のバンドは一頃シェリーズ、エレクトリック・トイズ、マスドレ、あふりらんぽなど面白いバンドたくさんあったし、ライブハウスにあの頃はよく足を運んだ。赤い公園はそれよりやや遅れて出てきたバンドで、その頃には会社が変わり電車通勤から車通勤になったせいで、ライブハウスから足が遠のいていった時期だった。赤い公園のライブを結局一度も見なかったのは残念だ。
 あれからミュージックシーンの流れも変わり、もうあの時代は帰ってこないのだろう。津野さんもそんな気持ちだったのだろうか。
 「鬼滅の刃」は映画は見てないが、TVアニメはdアニメで見たし単行本は読んだ。まだ結末は知らない。印象としてはコノハナサクヤヒメ神話の、醜く永遠に生きるよりは短い命を美しく生きるというテーマが繰り返されているように思えた。冨樫義博さんの『幽☆遊☆白書』の戸愚呂兄弟編に通じるものが多い。
 鬼は血液感染することと紫外線に弱いということで、ウィルスのようなものが設定されているのか。大正時代という設定もウィルスのような微小な病原体が予言されてはいたが、まだその正体のわからなかった時代だ。
 そのあたりはゾンビ物の影響があるのだろう。ゾンビは元はブードゥーで操られた死体だったが、バイオハザード以降は研究室で発生するものとなった。ただ、鬼滅の鬼がゾンビと違うのは思考力があり、サイコパスではあるが精神が残っていることだ。そこで倒すときに、相手は鬼とはいえ元人間だったという葛藤が生まれ、それが物語に深みを与えている。
 今日は風流の方はお休み。「舞都遲登理」は調べるのに時間がかかるので、また何か俳諧を読んでいこうかと思う。

2020年10月18日日曜日

  「舞都遲登理」の続き。今日は羽黒山へ。

 「此所より右の道筋を坂田へ戻る。尤此時所により津輕・南部・越後筋へ順よし。一里出てうやむやの關アリ。東鑑に、大關笹谷峠の事也。奥州にアリト云々。きさかたのうやむや覺束なし。
    〇うやむやの關やむやむや鬼人艸」(舞都遲登理)

 象潟から北上すれば津軽に行け、東へ行けば南部(岩手)へ行けるが、ここで桃隣も酒田へ引き返す。芭蕉さんは津軽から蝦夷へ行きたかったようだが、これから寒くなるから早く戻らなくてはいけないと曾良に諭されてしぶしぶ酒田へ引き返し、越後へと向かった。
 桃隣もまた無理はせずに出羽三山へと向かう。
 うやむやの関は来る時にも通ったはずだが、帰り道にもってきたのは、桃隣も山形・宮城両県境の笹谷峠にあったという説を知っていて、疑ってたからだろう。

 うやむやの關やむやむや鬼人艸  桃隣

 「むやむや」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
  ① =むらむら(群群)②
  ※漢書列伝景徐抄(1477‐1515)陳勝項籍第一「そこそこでむやむやと、人が多になったほどにぞ」
  ② 怒りや嫉妬(しっと)の気持でもだえるさまを表わす語。
  ※評判記・色道大鏡(1678)五「末席には目をひそめ後指をさすやうにもおもはれるればむやむやとわくより外のことなし」

とある。①は今の「わらわら」に近い。②は「もやもや」に近い。
 まあ正確な位置のはっきりしない「うやむや」にもやもやしたものが残るのは確かだ。
 「鬼人艸」はよくわからないが、鬼草(テングサ)のことか。心太の原料で夏の季語になる。形状からしてもやもやしている。

 「坂田より羽黒山はかゝる。麓に手向町、旅人舎リ所也。此所に芭蕉門人圖子呂丸迚誹士アリ。四年以前洛の土に成ぬ。其所緣はと尋入ル。亡跡は見事に相續して、賑敷渡世す。登山の日和窺がてら滞留。彼の門弟今は便もなくよりそふべきたつきもなかりし處に、かくと聞より詰かけての誹談みだれたる糸筋のもと末もわかず。いざゝらば圖子が懐舊を述んと、坐をしめて見るに、庭のたゝずまひ、むかしになん替らずと云。松は五葉、ことごとしき捨石は莓に埋れ、こゝろなき非情の有樣、淵瀬のさかひをしらざりき。
    〇樹も石も有のまゝなり夏坐鋪  桃隣
       音をいれ際のたかき鶯   露茄
     朝力鉄の錠を引かねて     則堂
       峯よりすつと兀辷ル砂   呂州
     十六夜の光納る六つの鐘    助曳
       案山子を齅で通る獸    普提
 右一巻となして靈全に備ふ。彼呂丸ハ一度風雅の眼を開き、四十にたらずして、行事本意なかるべし。師の信を感じて、門人此道を捨ず、己同士勵とぞ。」(舞都遲登理)

 酒田から羽黒山の麓の手向町に行く。芭蕉と曾良が来た時には手向荒町に近藤左吉(俳号露丸・呂丸)がいた。そのときは、

 有難や雪をかほらす風の音    芭蕉
   住程人のむすぶ夏草     露丸

で始まる興行も行われた。近藤左吉は『奥の細道』では図司佐吉になっている。桃隣は図子呂丸と呼んでいる。
 残念ながら呂丸は元禄九年夏より四年以前(三年以上前)、元禄六年二月に京都で亡くなっている。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「江戸前期の俳人。姓は図司,また近藤,通称は左吉。啁栢堂(とうはくどう)と号す。出羽手向(とうげ)村で染物業を営んでいたが,“おくのほそ道”の旅で来遊した芭蕉に入門,この時《聞書七日草》(呂丸聞書)を残した。1692年江戸に芭蕉を訪ね《三日月日記》を与えられた。伊勢参宮ののち,京の支考を訪ねたが,翌年の2月2日京で客死。《陸奥鵆(むつちどり)》によると40歳に達しなかったらしい。〈苔の実や軒の玉だれ石の塔〉(《三山雅集》)。」

とある。図司とも近藤ともいうというのは、古来の姓(藤原、平などの)でも武家の苗字でもなく、庶民の間で用いられた俗姓であろう。後を継いだのは桃隣の発句に脇を付けている露茄であろう。
 桃隣が来たというので、今は疎遠になっていたかつての呂丸の門弟たちもあつまってきたものの、かつて習ったことをすっかり忘れてしまってたようだ。そこを露茄が呂丸の思い出や教わったことなど話そうと庭を見ると、昔と変わってないとは言うものの、石は苔に埋もれて荒れ果てていた。変わってないというのは放置されてるということだった。放置(淵)と維持(瀬)の区別もつかないのか。

 樹も石も有のまゝなり夏坐鋪   桃隣

 はあ、ちょっと皮肉めいた発句ではある。これに

   樹も石も有のまゝなり夏坐鋪
 音をいれ際のたかき鶯      露茄

と返す。鶯の季節も終わってしまい、鶯は高く飛び立ち、すっかり夏の荒れ果てた景色になってしまいました。鶯は亡き父の象徴であろう。
 露茄の方からすれば、亡き父の庭に勝手に手を入れるよりも、あくまでもそのままにしておきたいという気持ちだったのだろう。その気持ちもわかる。
 第三。

   音をいれ際のたかき鶯
 朝力鉄の錠を引かねて      則堂

 「朝力」はよくわからないが、朝で力が入らず門の鉄の錠を開くことができないということか。
 四句目。

   朝力鉄の錠を引かねて
 峯よりすつと兀辷ル砂      呂州

 「兀辷ル」の読み方がわからない。「兀」は忽然と聳える様だが、「兀々(こつこつ)」は真面目にという意味。「辷」は滑ることをいう。意味としては峯の高いところから砂が滑り落ちてくるということだろう。
 峯の高いところにある岩屋で修行している人がいて、その人が錠を開けようとして崖の下に砂を落とすということか。
 五句目。

   峯よりすつと兀辷ル砂
 十六夜の光納る六つの鐘     助曳

 明六つは卯の刻で日の出の頃。十六夜の月も西に傾き、沈もうとしている。助曳は桃隣の旅にずっと付き従っている。月の定座だがあえて「月」の字を入れず「十六夜」で月としている。
 六句目。

   十六夜の光納る六つの鐘
 案山子を齅で通る獸       普提

 「齅」は嗅に同じ。「獣」は「けだもの」。明け方に夜活動するシカやイノシシも帰ってゆく。
 「右一巻となして」とあるから続きもあったのだろう。歌仙か半歌仙かはわからないが一巻を呂丸の霊前にお供えする。

 「羽黒ヨリ庄内鶴ヶ岡へは三里也。城下近ク行水、梵字川と云。水上は湯殿山。
    〇夏百日身は潔白よ梵字川」(舞都遲登理)

 鶴岡市は羽黒山手向町の西にある。梵字川は今は上流の方だけを示す名称で、湯殿山を水源として大鳥川と合流し、赤川になる。鶴岡の城下を流れる川は今は赤川になっている。

 夏百日身は潔白よ梵字川     桃隣

 「夏百日」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「げ」は「夏」の呉音。「夏」は、ほぼ百日間であるところから) 夏の期間。また、その間、夏籠(げこも)りすること。《季・夏》
  ※浮世草子・好色万金丹(1694)一「夏(ゲ)百日の間酒と煙草を断ちけるも始末のうち也」

とあり、夏安居とも夏行ともいう。夏は虫が多いため、それを踏んで殺生をしないために籠って修行する。
 夏安居の季節にこうやって旅をしているが、罪は清められています。梵字川で清めたから、というところか。

 「六月十五日ハ羽黒山祭禮、三所權現神與御出、鉾幡・傘鉾計ニテ、境内纔一丁計廻リ、其儘本社へ入せ給ふ。繕はぬ古例、謂レ有事とや。近郷擧テ詣ス。
    〇五十間練ルを羽黒のまつり哉
    〇吹螺に木末の蟬も鳴止ぬ」(舞都遲登理)

 出羽三山神社のホームページには、

 「昔は陰暦の四月八日から七月十四日までの九十六日間、羽黒三所権現の宝前に花を供えて、始夜(深夜)と後夜(未明)に鐘を撞いて現世・後世の安穏と菩提を祈るところから、「花供の峰」ともいう。この期間中は諸国の末派山伏が信徒や弟子山伏等を率いて入峰することから「夏の峰」と呼び、煩悩多き現世から悟りの彼岸に駆ける修行としていた。この夏の峰中の盛儀が、六月十五日(陽暦の七月十五日)、羽黒山頂で行われる花祭りなのである。」

 現在は明治政府によって旧暦の行事が禁止されたため、月遅れで七月十四・十五日の二日間行われる。
 桃隣の時代は神輿、鉾幡、傘鉾が百十メートルほどの境内を一周するだけのシンプルなものだったようだ。近郷から人が集まって賑わっていた。

 五十間練ルを羽黒のまつり哉   桃隣

 一丁は六十間だが、五七五に収めるためか五十間とさらに短くなっている。まあ、正確に測ったわけでないから大体の数字だが。

 吹螺に木末の蟬も鳴止ぬ     桃隣

 しきりに法螺貝を吹いてはいても、蝉は泣き止まない。

 「手向町より神宮まで四十丁、石の階、半途に祓川、此所にて垢離をとる。森々たる杉の間より瀧落、水の烟はくりから不動の腰を廻る。修檢横行の珠數の音、邪欲煩悩の夢を覺ず。
 遙に見れば五重の塔、是は鶴ヶ岡城主建立たり。別當は若王寺、高山の岨を請ておびたゞしき一構、風景いふに及ず。同隱居南谷に菴室、風呂の用水は瀧を請てたゝえ、厠は高野に同じ。
    〇水無月は隱れて居たし南谷」(舞都遲登理)

 手向町から羽黒山の神宮(当時は修験の場で若王寺宝前院とそれに付随した神社があった。)までは四百四十メートルくらいで、石段があり途中に祓川(今の京田川)がある。「垢離(こり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「垢離」はあて字で「川降(かわお)り」の変化したものともいう) 神仏に祈願する時、冷水を浴びてからだのけがれを除き、身心を清浄にすること。真言宗や修験道(しゅげんどう)からおこった。水ごり。
  ※山家集(12C後)下「あらたなる熊野詣でのしるしをば氷のこりに得べき成けり」

とある。
 滝は今の須賀の滝で昔は不動滝と言った。今は滝の前に岩戸分神社と祓川神社の社があり、その間に小さな不動像があるが、昔は不動がメインで、立派な不動像が建っていたのだろう。辺りには修験者がたくさんいて、その数珠の音が響き渡っていた。
 その先へ登ってゆけば五重の塔がある。ウィキペディアには、

 「平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。
 塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。」

とある。桃隣は「鶴ヶ岡城主建立」と書いているが、最上義光が修理したことで銘か何かがあって勘違いしたか。
 「別當は若王寺」とあるのはこのあたりの神社や修験の場を統括する別当のいる寺が若王寺という意味。若王寺宝前院のことをいう。
 芭蕉と曾良は本坊若王寺別当執行代和交院ヘ大石田平右衛門から状添を渡し、別当代会覚阿闍利に謁し、南谷の別当代の隠居所、別院紫苑寺に宿泊したが、これも曾良の人脈の力であろう。桃隣はただただ若王寺の大伽藍に驚き、南谷の隠居所も滝から水を引いた風呂と、高野山のトイレと同様の川の水に流す水洗式のトイレを見て、

 水無月は隱れて居たし南谷    桃隣

と、泊まりたかったなとこぼすのだった。

2020年10月17日土曜日

  旧暦九月一日の今日は一日雨。
 今日も「舞都遲登理」の続きで象潟へ。

 「是より尾花澤にかゝり、息を繼んとするに、心當たる方留守也。一のしに大石田へ出て、加賀屋が亭に休足。爰より坂田への乘合を求下ル。爰より彼最上川、間及たるよりも、川幅廣く水早し。左右の山續に瀧數多アリ。中にも白糸の瀧けしきすぐれたり。此川筋坂田迄二十一里、川の中、船關四ケ所アリ。尤大石田宿よりの手形、右の所々にて入ル。此聞繕乘べし。なぎ澤・清水・古口・清川、此四所なり。
    〇短夜を二十里寐たり最上川
    〇しら糸の瀧やこゝろにところてん
 坂田への入口、袖の浦・素我河原。
    〇薫るとは爰等の風か袖の浦
    〇うかれ出る色や坂田の紅衫花」(舞都遲登理)

 山刀伐峠の記述がないので、「笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有」という新庄への脇道を途中まで行って、舟形あたりから南へ行き、尾花沢に行ったと思われる。『奥の細道』のような「究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携え」ということにはならなかったと思われる。
 遠回りだが一気に大石田まで行き、加賀屋で休息する。加賀屋についてはよくわからない。宿泊するでもなく、軽く仮眠をとるだけで船に乗り込み酒田に向かった。
 最上川は川幅が広くて流れが速く、左右にたくさんの滝があったという。
 一方芭蕉と曾良は尾花沢清風宅に滞在し、そこから立石寺へ行ってから大石田で、

 さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉

を発句とする興行を行う。それから最上川を下る船に乗ったから、この時は大石田の河岸から最上川を眺めただけだったのだろう。船に乗ってその流れの速さを実感し、後に、

 五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉

に改作したと思われる。
 白糸の瀧は陸羽西線の高屋と清川の間を下ってゆくと右岸にある。何段にもなって落ち、高さは一二四メートルになる。他にも大滝、轡滝などがあり、周辺の渓谷も併せて最上四十八滝と言われている。
 船関がなぎ澤・清水・古口・清川と四ケ所あり、大石田で手形を準備するように注意している。名木沢は芦沢のあたりにあり、清水は最上郡大蔵村にあり、古口は最上峡の入口で奥羽西線に駅があり、清川は出口で同様に駅がある。

 短夜を二十里寐たり最上川    桃隣

 尿前からずっと歩き続けたから、大石田のからの船でもうとうとしてたのだろう。急流で熟睡とまでは行かなかったと思う。白糸の瀧は一応見ているし。

 しら糸の瀧やこゝろにところてん 桃隣

 ところてんは「心太」と書く。心に心太。
 船で出羽三山とかは吹っ飛ばして一気に酒田に行き、象潟を目指す。
 袖の浦は最上川河口の左岸(南側)になる。素我河原は不明だが、河口左岸の河原のことか。

 薫るとは爰等の風か袖の浦    桃隣

 袖の香に掛けた句で、「薫るとは爰等の風か」と問いかけて、「袖」の浦だからと落ちにする。

 うかれ出る色や坂田の紅衫花   桃隣

 「紅衫花」には「ツシカはな」とルビがふってある。「辻が花」のことか。ウィキペディアには、

 「辻が花は、縫い締め防染による染めを中心にしたもので、室町時代末期から江戸時代初期に至る短期間に隆盛して姿を消した。現存遺品数が300点足らずにとどまることもあって「幻の染物」と称されることがある。この染物は、縫い締め絞りを主体として、これに描絵、刺繍、摺箔などの加飾をほどこしたものであり、地はこの時代に特有な練貫地(生糸を経糸、練糸(精錬した絹糸)を緯糸に用いて織った地)が多く、製品の種別としては小袖および胴服が大部分を占めている。
 しかし、江戸時代中期に糊で防染する友禅の技法が確立、普及していくと、図柄の自由度や手間数の多寡という両面で劣る辻ヶ花は、急速に廃れ消滅した。その技法が急速に失われてしまったこと、また、その名の由来に定説がないこと(詳細後述)なども辻ヶ花が「幻の染物」と称される所以である。」

とある。
 ベニバナは芭蕉も尾花沢で「まゆはきを」の句を詠んでいるように、主に内陸部で栽培されていたが、最上川を使って酒田に運び、酒田から廻船で出荷されていた。その紅花を利用した辻が花がかつて酒田の名産だったのかもしれないが、これはあくまで推測。

 「さかたより象泻は行道、かたのごとく難所、半分は山路、岩角を踏、牛馬不通、半分は磯傳ひ、荒砂のこぶり道、行々て鹽越則きさかたなり。」(舞都遲登理)

 「かたのごとく」は「形の如く」で「形式どおりに。慣例に従って。」という意味だが、ここでは「例によって」「大方の予想通り」って感じか。
 吹浦から先の海岸線は山が迫っていて、山を越える時は岩場で牛や馬は通れず、海に出れば荒砂が風に舞い、吹きつけてきたのだろう。
 曾良の『旅日記』にはもう少し詳しく記されている。

 「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」

 吹浦の先に羽越本線の女鹿駅があるから、その辺りから難所だったのだろう。大師崎、三崎は今は三崎公園になっている。羽後三崎灯台もある。その先に小砂川の集落があり開けた土地があり、羽越本線の小砂川駅もある。
 奈曽川の手前に今でも象潟町関という地名がある。有耶無耶(うやむや)の関は「むやむやの関」とも言う。「うやむや」だと有るか無いかという意味で、有るとも無いとも言えるとなるとうやむやになる。
 ただ有耶無耶の関は山形・宮城両県境の笹谷峠にあったという説もあり、結局よくわからない。
 塩越(鹽越)は今の羽越本線の象潟駅がある辺りで象潟の中心部になる。皇后山干満珠寺(蚶満寺)もここにある。

 「蚶泻眺望 小島の數七十八。東鳥海山。西荒海。町の末板橋の下、晝夜潮の指引有て、滿干毎に泻の姿異也。皇宮山干滿珠寺、額月舟筆、鐘樓山・西行櫻・閻魔堂・骨堂 袖掛堂是也・阿彌陀堂・觀音堂・藥師堂・赤坂普賢堂・十玉堂・冠石・神明腰掛石・兩玉山光岩寺・山光山淨専寺・青塚・若宮・塔ヶ崎・物見山・船着八幡・熊野堂・二堂・三石・堤留・鯨濱・稻賀崎・鼾崎・大石・伊佐野神山・火打山・烏石・上日山・森問・高嶋ノ辨才天・下白山・海人森・大鹿渡・唐渡山・十二森・漕當・男泻・女泻・腰長・合歡木・大師崎・八騎濱・女鹿渡・雎鳩巌・八ツ嶋・能因島。
 松嶋・象泻兩所ともに感情深、其俤彷彿タリ。倭國十二景の第一第二、此二景に限るべし。
    〇きさかたや唐をうしろに夏構
    〇能因に踏れし石か莓の花
      芭蕉に供せられ曾良も、此地に
      至りて
    〇波こさぬ契りやかけしみさごの巢」(舞都遲登理)

 「蚶泻」も「きさかた」と読む。「舞都遲登理」の序文にもこの文字で書かれていた。かつては入り江の中にたくさんの小島があったが、文化元年(一八〇四年)の象潟地震で隆起して今は田んぼになっている。松島が当時は「五十七嶋」だったが、象潟はそれより多い七十八島と言われていた。東に鳥海山を望み、西には日本海の荒海がある。
 象潟の当時の町と蚶満寺との間で象潟は日本海とつながっていて、そこに板橋が架けられていた。そこから海水が流れ込むことで象潟は干潮時と満潮時で姿を変えていた。今は象潟川になっている。
 曾良の『旅日記』に「象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。」とあるのも同じ橋であろう。
 「皇宮山干滿珠寺」は曾良の『旅日記』には「皇宮山蚶弥寺」になっているが、これは曾良の書き間違いだろう。今は皇宮山蚶満寺(かんまんじ)だが、ウィキペディアによると、創建時には「皇后山干満珠寺」と号したという。月舟筆の額があったようだが、曹洞宗の僧で金沢大乗寺にいた月舟宗胡の方か。
 蚶満寺は室町時代に連歌師の梵灯が訪れたときは、

 「海に望て仏閣あり、又社壇あり。この所をばなにといふぞと問侍に、きさがたとなん申侍と答。さて其霊場に詣てみるに、僧坊など甍をならべたるが、築地もくづれ門も傾などして、星霜いくひさしかとおぼゆ。白洲に鳥居あり。」(「梵灯庵道の記」)

と荒れ果ててはいても、大きな寺で、垂迹の神社もあった。
 鐘樓山は蚶満寺の鐘楼堂のことか。
 西行桜は『奥の細道』に、

 「先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、『花の上こぐ』とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。」

とある。能因島は今も地名が残っていて蚶満寺の南側にある。西行桜は蚶満寺にあったと言われている。
 骨堂は蚶満寺の納骨堂か。
 袖掛堂は袖掛地蔵堂のことであろう。
 阿彌陀堂・觀音堂・藥師堂・赤坂普賢堂・十玉堂なども蚶満寺にあったのだろう。
 冠石は象潟海水浴場の方に地名が残っている。
 神明腰掛石は親鸞腰掛石のことか。
 兩玉山光岩寺は塩越の南の方にある。
 山光山淨専寺は塩越の北の方にある。
 青塚は日本海側で、青塚山砲台場がある。
 若宮は淨専寺の隣にある若宮八幡宮のことであろう。
 塔ヶ崎は不明。唐ヶ崎ならある。
 物見山は象潟川の河口南側にある。
 船着八幡は象潟川の北側にある。対岸にある熊野神社が熊野堂であろう。
 烏石は高泉寺の近くにある烏島のことか。
 土地が隆起してすっかり地形が変わってしまったため、かつての名所が今のどこなのかわかりにくく、とりあえず分かったものを列挙したが、また判明したものがあったら付け加えていくことにしよう。
 桃隣が「松嶋・象泻兩所ともに感情深、其俤彷彿タリ。倭國十二景の第一第二、此二景に限るべし。」というときの倭国十二景はおそらく大淀三千風の本町十二景のことではないかと思う。三千風の主張する十二景は次の通りで、世に知られた地であった。
 田子の浦、松島、箱崎、橋立、若浦、鳰海、厳島、蚶潟、朝熊、松江、明石、金沢の十二で、コトバンクの「事典・日本の観光資源の解説」も、

 「[観光資源] 明石 | 朝熊 | 天橋立 | 厳島 | 金沢 | 蚶(象)潟 | 田子浦 | 筥崎 | 琵琶湖 | 松江 | 松島 | 和歌の浦」

と一致するので、元ネタは三千風の「本朝十二景」であろう。三千風は談林時代、西鶴の大矢数と張り合って、三千句興行をやった所からこの名前がある。伊勢の生まれだが寛文九年(一六六九年)に松島に行き、そのまま仙台に住み着いた。天和三年(一六八三年)から七年かけて日本全国を行脚し、「本朝十二景」もそこから生まれたものであろう。朝熊は伊勢の朝熊、金沢は金沢八景、鳰海は琵琶湖のこと。

 きさかたや唐をうしろに夏構   桃隣

 夏構は「なつがまえ」で夏姿というような意味か。「唐をうしろに」は中国のどの絶景も及ぶまいということだろう。

 能因に踏れし石か莓の花     桃隣

 象潟には能因島があるように、能因法師が滞在したところで、

 世の中はかくても経けり象潟の
     海士の苫屋をわが宿にして
              能因法師(後拾遺集)

の歌を残している。象潟に来るとその辺の石も昔能因が踏んだ石ではないかと思えてくる。石には苔が生えていて、苔の花が夏の季語になる。

   芭蕉に供せられ曾良も、此地に
   至りて
 波こさぬ契りやかけしみさごの巢 曾良

 この句は『奥の細道』には、

   岩上に雎鳩の巣をみる
 波こえぬ契ありてやみさごの巣  曾良

の形で載っている。
 自筆本『奥の細道』でも既にこの形になっている。曾良の『俳諧書留』には見られない句なので、帰ってきてから作った句の初案だったのだろう。
 ミサゴを表す「雎鳩」の文字は『詩経』の「關雎」から来たもので、

 關關雎鳩 在河之州
 窈窕淑女 君子好逑
 仲睦まじく鳴き交わすみさごが河の中州にいるように、
 奥ゆかしく清らかな女性を君子は好んで伴侶とする。

に始まる。仲睦まじいミサゴの巣を見て、

 君をおきてあだし心をわが持たば
     末の松山浪も越えなむ
            よみ人知らず(古今集)

のような契りがあったのだろう、という句だ。ミサゴは英語でオスプレイといい、ホバリングの状態から急降下して獲物を取る。

2020年10月16日金曜日

  今日は旧暦八月の晦日。午後は久しぶりに晴れた。
 それでは「舞都遲登理」の続き。尿前の関へ。

 「是ヨリ達谷が窟、岩洞ノ深サ十間余アリ。此洞に二階堂、八間ニ五間と見えたり。多門天安置ス。不斷鎻テ人不入。大同二年田村丸建立と緣起に有。所は高山幽谷にして、人倫絕たる邊土、いが成鬼が住捨て、旅人尋入て道に迷ふ。此所より山の目と云へ出、又一ノ關通金成村へ出る。此村一里脇に、つくも橋あり。
             梶原平次景高
    陸奥の勢は味方につくも橋
        わたしてかけんやすひらが首」(舞都遲登理)

 中尊寺の南西の山の中に達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂がある。ウィキペディアには、

 「延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた悪路王を討伐した記念として建てた。」
 「東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。」

とある。
 当初の毘沙門堂は延徳二年(一四九〇年)に焼失し、すぐに再建されたものの天正年間の兵火で再び焼失し、桃隣が見たのは慶長二十年(一六一五年)伊達政宗により再建された建物であろう。残念ながらこの建物も昭和二十一年に焼失し、今あるのは昭和三十六年に再建されたものだという。岩の下に赤い柱の高床の大きな堂が建っている。階段の下に古そうな狛犬があるが、さすがに桃隣の時代にはまだなかっただろう。
 山の目は一関市の山目で国道四号線が通っていて、国立岩手病院がある。
 この後一関から南へ向かい、有壁よりさらに南へ下ると金成に出る。ここから西へ行くと津久毛橋城跡がある。この城は南北朝の頃の城で、奥州合戦の頃はこの辺りは湿地で江浦藻(つくも)が一面に茂ってたという。頼朝の二十万の軍を渡すために梶原平次景高がそれを刈り取り、敷き詰めて橋にしたというが、どういう橋なのか想像がつかない。
 古代の駅路である東山道は多賀城の辺りに分岐点があって、そこから塩釜の方へ行くのがいわゆる「奥の細道」で、七北田川渡ったところから高森山の麓の利府の菅笠へ行く道がその跡だったのかもしれない。真北よりもやや西よりに直線を引けば、黒川、色麻といった地名のある所を通る。高森山の稜線ルートは木下良氏がすでに指摘している。
 鳴瀬川のところで北東に進路を変えれば低地を避けて栗原に至る。このとき伊治城址の方へではなく、やや西寄りの直線ルートを引けば、山王囲遺跡のあたりから津久毛橋城跡のやや西を経て、厳美渓から達谷窟に至るルートができる。ここからやや東寄りにルートを変えれば衣川関跡に着く。
 頼朝の軍勢も、おそらくこうした古代道路に近い道を通ったのだろう。昔の道は水害や崖崩れなどで多少左右に曲がりくねった道になったとしても、おおむねこのルートなら津久毛橋城跡の近くを通る。
 昔は河川が流れを変えることが多く、津久毛橋近辺も従来の道が通行できなくなっていた可能性がある。そのために新たに橋を架ける必要があったのだろう。
 曾良は『旅日記』に、「タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由。」と記しているように、達谷窟には行かなかった。翌日、

 「岩崎ヨリ金成(此間ニ二ノハザマ有)へ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。」

と記している。岩崎はつくも橋より西の栗駒岩ケ崎だから、芭蕉と曾良は一関から南西へ向かい、古代の道に近い別のルートを通っていたようだ。

 「行ケば澤邊村十五丁南、川向にあねはの松アリ。則此邊栗原と云。宮野・筑舘・高清水、段々宿を來て、荒野と云宿西北ニアタリ朽木橋アリ。栗駒山則伊澤郡ノ内也。此邊よりは見ゆる也。峯高、水無月の雪猶白し。
    〇朴木の葉や幸のした凉
 古川と云宿に來て、秋山壽庵に所緣アリ。尋入て一宿。
    〇暑き日や神農慕ふ道の艸」(舞都遲登理)

 つくも橋から金成に戻って少し行くと迫川があり、その辺りが沢辺になる。川の向こうに『伊勢物語』第十四段に登場する栗原のあねはの松があるという。あの「くたかけ」の歌を詠んだ田舎娘がいたところだ。
 「梅若菜」の巻の二十三句目に、

   わかれせはしき鶏の下
 大胆におもひくづれぬ恋をして  半残

の句があったが、陸奥の国をさまよい歩く都から来た男に恋心を持つ女がいて、最初は恋に死ぬくらいなら蚕になるという歌を送る。それを哀れに思って男はそこに「いきて寝にけり」となるのだが、夜更けに帰ろうとするとその女は、

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの
    まだきに鳴きてせなをやりつる

と詠む。
 「きつにはめなで」は古い時代には「狐に食めなで」つまり「狐に食はさずに」というふうに解釈されていた。今で言う「恨みはらさでおくべきか」のような言い回しで、「夜が明けたなら狐に食わさでおくべきか」といったところか。
 「くだかけ」は「朽た家鶏」。「この糞ニワトリめ」といったところで、現代語訳すれば、

 夜があけたら狐に食わすぞ糞ニワトリ
     まだなのに鳴いて彼氏帰らせ

といったところか。
 それに対し男は、

 栗原のあねはの松の人ならば
     都のつとにいざといはましを
 
と返す。栗原のあねはの松のように待っていてくれる人ならば、都の土産に連れて行こうと思ったのに、さすがに糞ニワトリは引くわ、といったところか。
 今の四号線に沿って進むとやがて栗原市の市街地になり、築館宮野中央という地名がある。その先で再び迫川を渡るが、手前が宮野、向こう側が筑舘だったのだろう。今ではくっついてしまっている。高清水はそれよりまた南になる。
 栗駒山は北西にあり、標高1,627メートルで、江戸時代の寒冷期には夏でも雪をかぶっていたのだろう。
 荒野、朽木橋はよくわからない。荒川という川があるが、そのあたりか。
 芭蕉と曾良は真坂を通っているが、こちらの方は古代の道に近いのだろう。

 朴木の葉や幸のした凉      桃隣

 朴木(ほうのき)の葉は朴葉味噌を乗せるあれで大きく、涼むにはちょうど良い。
 江合川を越えると古川になる。ここで桃隣は一泊する。秋山壽庵がどういう人なのかはよくわからない。

 暑き日や神農慕ふ道の艸     桃隣

 神農が出てくるところをみると多分医者なのだろう。

 「緒絶橋、此古川の町中ニアリ。此橋の名爰かしこにありて、以上四ツは覺えたり。何も故有事にや。此所を出て夜烏と云村へかゝる。小野塚アリ。仙臺名寄を見れば、中納言廷房卿・西行法師、兩説には、當國此所と有。髑髏の説は當國八十嶋と有。此嶋有所不知。
    〇晝顔の夢や夕日を塚の上」
 是より岩手へかゝる。磐提山、則城下の名也。いはでの關此所なり。
    〇爲家の山梔白し磐提山」(舞都遲登理)

 古川の市街地の古川佐沼線が小さな川を渡る所に緒絶橋がある。これで四回目だ。いわき小名浜に、多賀城に、塩釜に、そして古川に、いったいどれが本物なのか。今では一応この古川の緒絶橋が有力というか有名になっているようだが。古代道路が通っているところという意味では多賀城が最有力だが。
 古川からは北西へと向かう。そこには今も大崎市古川新田夜烏という地名がある。今でも小野小町の墓と言われているものがある。ただ、小野小町の墓と呼ばれているものは日本全国に十六か所はあるらしい。どれが本物なのか。もちろん全部偽物かもしれない。緒絶橋と言い、まあ要するにわからないということだ。
 『奥の細道』では松島から石巻へ行く途中で、

 「あねはの松・緒だえの橋など聞伝きて、人跡稀に、雉兎蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻という湊に出。」

とあるが、確かに芭蕉と曾良は一関を出た後、古代道路の道筋に近い岩出山へ直線的に進むコースを取ってしまった。そのせいであねはの松と緒絶橋は通らなかった。でも、そこにないということは、両方とも本物かどうかは怪しい。
 ひょっとしたら曾良は古代の文献から古代東山道の道筋に大体の見当をつけていたのかもしれない。『旅日記』には、岩手山の「東ノ方、大川也。玉造川ト云。」と記しているが、文献から古代東山道が黒川、色麻の次に玉造駅があることを知っていたのではないかと思う。白河の関の場所も突き止めているし、かなり古代の地理を研究していたのではないかと思う。玉造川は今の江合川になり、岩出山の辺りは古代の玉造郡になる。

 晝顔の夢や夕日を塚の上     桃隣

 小野小町と昼顔との縁はよくわからない。ただ塚に昼顔が咲いていたことから、昼顔の夢の夕べに萎れるはかなさを追悼の言葉としただけかもしれない。
 江合川に沿って遡ってゆくと、陸羽東線の岩出山駅がある。このあたりの丘陵地帯が磐提山で、磐提山という峯があるわけではないようだ。

 爲家の山梔白し磐提山      桃隣

 藤原為家の詠んだ歌、

   洞院摂政家百首歌に、紅葉
 くちなしのひとしほ染のうす紅葉
     いはでの山はさぞしぐるらむ
                藤原為家(続古今集)

を思い起こしての句だろう。季節はまだ夏なので、クチナシはまだ白い花を付けているが、やがて山を黄色く染めることだろう。

 「此所より下宮と云村へ出る。さきは鍛冶屋澤、此間ニ小黒崎・水のをしまアリ。是ヨリ鳴子の温泉、前ニ大川綱渡し、彼十つなの渡し是成やと、農夫にとへどもしらず。川向ニ尿前と云村アリ。則しとまへの關とて、きびしく守ル。越へ行ば、笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有。小くにより新庄への脇道也。尿前より關屋迄十二里、山谷嶮難の徑にて、馬足不立、人家纔にアリ。米穀常に不自由。別而飢渇の折節宿不借、可食物なし。二度可通所ニあらず。漸及暮關屋ニ着て、檢斷を尋、歎きよりて一宿明ス。
       山路唫
    〇おそろしき谷を㥯すか葛の花
    〇燒飯に青山椒を力かな」(舞都遲登理)

 下宮は陸羽東線の池月のあたりで、鍛冶屋澤は川渡温泉駅の少し先の小さな川を渡る所に鍛冶谷沢のバス停がある。池月と川渡温泉の間に小黒ヶ崎があり、

 おぐろ崎みつの小島の人ならば
     宮このつとにいざと言はましを
             よみ人知らず(古今集)

の歌がある。「みつの小島(水のをしま)」もこの近くの江合川にある。
 川渡温泉の先に鳴子温泉がある。鳴子のこけしで有名なところだ。とはいえ鳴子のこけしは文化・文政の頃からというから、この時代にはまだなかった。「舞都遲登理」には「ナキ」とルビがふってあって、当時は「なきこ」だったか。
 川に綱を渡して渡れるようにしてあったので、歌枕の「十つなの渡し」かと地元の人に聞いたが知らなかったという。今では十綱の渡しは飯坂温泉ということになっている。芭蕉と曾良は宿泊したが桃隣は素通りしたところだ。ただ、芭蕉も曾良も桃隣も十綱の渡しについて何も記してないところからすると、特に変わったものはなく、普通に川を渡っただけでななかったかと思う。『奥の細道』にも記されているように、当時の飯坂温泉は寂れていて、名前まで飯塚にされてしまっていたくらいだった。
 おそらく『奥の細道』が多くの人に読まれるようになってから、この温泉街を変えようという機運が生まれ、対岸に綱を張った渡し船を作って、ここが十綱の渡しだというキャンペーンをやったのではないか。
 鳴子の先で江合川に大谷川が合流する。この辺りに尿前(しとまえ)の関があったようだ。今では史跡として整備され、建物はないが新たに門が作られ、芭蕉の銅像も立っている。近くに日本こけし館もある。
 尿前の関は大崎市のホームページに、

 「戦国時代には出羽の最上と境を接する 尿前しとまえの岩手の森に、岩手の関がありました。これが 尿前の関の前身です。
 出羽の国飽海郡の遊佐勘解由宣春(鳴子、遊佐氏の先祖)が大永年間(1521年から27年)に栗原郡三迫から、名生定の湯山氏の加勢としてここに小屋館を構え、後関守となりました。
 伊達藩になってから 尿前境目と呼ばれ、寛文10年(1670年)尿前番所を設置、岩出山伊達家から横目役人が派遣され、厳重な取り締まりが行なわれました。」

とある。
 曾良の『旅日記』には「関所有。断六ケ敷也。出手形ノ用意可有之也。」とあるだけが、『奥の細道』には「此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。」とある。「断六ケ敷也」は「ことわりむずかしきなり」と読む。厳しい取り調べがあったかどうかは知らないが、結構長い時間足止めされたのか、岩出山に宿泊して大した距離も進めぬまま、やむをえず堺田で宿を取り、次の日は大雨で足止めされた。そこからあの、

 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと  芭蕉

の句が生まれた。
 桃隣も「則しとまへの關とて、きびしく守ル。」とは書いている。一応はあらかじめ出手形を用意するように曾良からアドバイスを受けていたのだろう。ただ、古川から歩いてきて既に日も傾いている。
 「越へ行ば、笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有。小くにより新庄への脇道也。」の笹森は山を越え山形県最上町の側に入り、堺田と赤倉温泉の間にある。ここを抜けると最上盆地になり、そこを横切った所に陸羽東線の鵜杉駅があるが、ここが桃隣の言う「うすき」だろう。鵜杉の先に瀬見温泉があり、その辺りに亀割山があるから、「かめわり坂」のその辺りだろう。そこを過ぎれば新庄だが、尿前から十二里、馬もなく途中に宿も飯屋もないため、関所の人に頼み込んで泊めてもらったようだ。
 芭蕉と曾良は新庄ではなく、堺田を出た後赤倉温泉の辺りから分岐する山刀伐峠を越える道を行き、尾花沢に抜けている。結局桃隣も尾花沢の大石田に向かうことになるのだが、ルートは不明。山刀伐峠のことに触れてないところをみると、笹森・鵜杉から舟形経由で北の新庄に行かずに南の大石田に出たか。

   山路唫
 おそろしき谷を㥯すか葛の花   桃隣

 この句は2016年9月29日の俳話でも取り上げている。尿前の関を過ぎると鳴子峡で急に深い谷あいの道になる。さっきまで葛の咲いている原っぱだと思っていたら、こんな恐ろしい谷を隠していたか、となる。葛花は万葉集では秋の七草だが、俳諧では葛は秋でも葛の花は夏の季語になっている。

 燒飯に青山椒を力かな      桃隣

 焼き飯は今日のようなチャーハンのことではなく焼きおにぎりかきりたんぽのような携帯食で、おそらく具も何もなく青山椒を利かせることで食べやすくしていたのだろう。

2020年10月15日木曜日

  「安々と」の巻も終わったので、ふたたび「舞都遲登理」に戻る。前回は金華山だったのでその続きで平泉へ。

 「是より右の道筋へ出、石の巻へ戻り、和沼・新田へかかり、清水を離て、高館の大門アリ。平泉ヨリ五里手前、城郭惣構なり。少行テ一ノ關、是ヨリ高館・平泉。義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。龜井が松、田の中に有。北上川・衣川・衣の關・關山・金雞山。和泉城、衣ノ關ヨリハ五丁西南ニアタリ、一方は陸三方は衣川也。弘臺壽院中尊寺は東叡山末寺、當住浄心院。當寺は慈覚大師開基、貞觀四年、元禄九マデ八百八十五年ニ成。金堂・光堂是也。三間四面、七寶莊嚴ノ巻柱、合天井、黄金ヲ彩、獸鳥十色ヲ競、其結構言語ニ絶タリ。唯扉ヲ開ケバ、日月ノ光明タル計也、本尊釋迦。秀衡三代ノ廟、堂ノ下に體を納ム。經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋金泥。寶物、水晶ノ生玉・龍ノ牙齒・秀衡太刀・義經切腹九寸五分。
 白山權現・藥師堂・八幡宮・姥杉十五抱 此外古跡多シ。中尊寺ヨリ案内なくては不叶。
    〇金堂や泥にも朽ず蓮の花
    〇田植等がむかし語や衣川
    〇軍せん力も見えず飛ほたる
    〇虹咲てぬけたか凉し龍の牙」(舞都遲登理)

 金華山から来た道を通り石巻へ戻り、北にある平泉へと向かう。
 「和沼・新田」はこれだけだとよくわからないが、芭蕉と曾良も同じ道を通ったと思われるので、曾良の『旅日記』を見てみよう。

 「一 十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵へ、今一人、気仙へ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、二リ鹿ノ股(一リ余渡有)、飯野川(三リニ遠し。此間、山ノアイ、長キ沼有)。曇。矢内津(一リ半、此間ニ渡し二ツ有)。戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。検断庄左衛門。
  一 十二日 曇。戸今を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、 安久津(松嶋ヨリ此迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)一リ、加沢。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。」

 この行程は『奥の細道』には「心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。」とある。
 北上川に沿って北上したなら、長沼は今の東北本線新田駅にの方にある長沼ではない。鹿ノ股(今の鹿又)で旧北上川を渡り、かつて存在していた陸前豊里のあたりから現北上川が大きく東に曲がる飯野に通じていた飯野川を渡った時、おそらく今の北上川の流れている柳津から飯野までの部分が長い沼になっていたのだろう。これが和沼だったか。
 矢内津がおそらく今の柳津で、ここで再び旧北上川を渡る。そして北上川に沿って北上し登米市登米(とよま)町に出るが、ここが戸伊摩(といま)だったと思われる。芭蕉と曾良はここで一泊した。
 その三里先にある「上沼新田町(長根町トモ)」が桃隣の言う「新田」であろう。今の中田町上沼の上沼古館跡のあたりに長根という地名が残っている。
 曾良の『旅日記』にある「安久津」は涌津(わくつ)のことと思われる。加沢はそのさきにある金沢(かざわ)であろう。その先に東北本線の清水原という駅があり、近くに清水公園があるが、桃隣のいう清水はこのあたりか。今の地名は花泉町になる。
 「清水を離て、高館の大門アリ。平泉ヨリ五里手前、城郭惣構なり。少行テ一ノ關」とあるこの大門は、曾良の『旅日記』に記述がない。清水と一関の間にある城郭惣構というと有壁館跡のことか。有壁氏が天正十八年(一五九〇年)まで居城としていたところで、桃隣の時代から百年前のものだからまだかなりその姿を残していて、高館の大門と勘違いしたのかもしれない。あるいは当時は高館の大門に見立てられていたが、曾良は偽物だと見破って書き留めなかったのかもしれない。
 曾良は平泉を一巡りした日の日記をこう書いている。

 「一 十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉へ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見へズ。タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金雞山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。」

 高館は出てくるが大門についての記述はなく、『奥の細道』には「大門の跡は一里こなたに有」とある。途中の山ノ目から一里半だから、大門の跡は山ノ目の半里先ということになる。この場合の山ノ目は今の東北本線山ノ目駅の方ではなく今の国道四号線に近いルートだったとするなら、今の国立岩手病院の辺りの山目の先の峠のことを言っていたのかもしれない。伊達の大木戸と同じで、大門といっても峠のことというのはありそうなことだ。
 「少行テ一ノ關、是ヨリ高館・平泉。義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。」と、桃隣の文章の方にはここに高館の大門はない。
 高館は中尊寺の手前の北上川の近くのある。今は高館義経堂が立っている。天和三年の建立だが、現在ここにある義経像は宝暦年間の作で、芭蕉や桃隣の頃にはまだなかった。「堂一宇」はあったがここでいう「義経像」は別もので、初代の義経像があったのかもしれない。
 高館は小高い丘で、以前2018年6月27日の俳話で『嵯峨日記』を読んだ時に、『本朝一人一首』という林鵞峰の編纂で寛文五年(一六六五)に出版された漢詩集に収録された、

   賦高館戦場    無名氏
 高館聳天星似冑 衣川通海月如弓
 義経運命紅塵外 辨慶揮威白波中
  林子曰此詩世俗口誦流傳未知誰人所作

 高館は天に聳え星は兜ににて
 衣川は海に通じ月は弓のごとし
 義経の運命は血塗られた戦場の外にあり
 弁慶は武威を揮い白波の中
   林鵞峰が言うにはこの詩は世俗で口承され伝わってきたもので、作者が誰だかは未だわからない。

という詩について触れた。小高い岡の上にあった高館はいつの間にか天に聳えるまでになり、北上川にそそぐ衣川はいつの間にか海にそそぐまでになって、かなり盛られている。
 芭蕉は本物の高館を見ているから、「其地風景聊以不叶。古人と イへ共、不至其地時は、不叶其景。」と言っている。
 「弁慶桜」も、さすがに当時の物は残ってないだろう。伝弁慶墓なら参道の入り口付近にある。中尊寺の入り口付近にあったのだろう。
 「龜井が松、田の中に有」は今の伝亀井六郎重清松跡のことであろう。参道入り口・平泉文化史館傍にあるという。平泉文化史館が建つまでは、この辺りは田んぼだったのだろう。
 「北上川・衣川・衣の關・關山・金雞山。」はこのあたりの名所で、北上川は中尊寺の東に、衣川は北にある。衣の關は衣が関とも衣川関とも呼ばれるもので、正確な位置はわかっていないが中尊寺の西の衣川区川端に衣河関跡擬定地がある。関山は中尊寺の山号でもあり、中尊寺のある辺りの山が関山なのだろう。金雞山は中尊寺の南西にある。中尊寺に続く道は右に高館、左に金雞山が門のように並んでいる。
 「和泉城、衣ノ關ヨリハ五丁西南ニアタリ」とある和泉城跡は中尊寺の北西の衣川を渡った所にある。「一方は陸三方は衣川也」とあるように、衣川はここで蛇行していて、北は陸だが東南西は川になっている。
 衣河関跡擬定地の東三百メートルくらいの位置なので、桃隣のいう衣の關はここではなかったのか。和泉城跡から五百メートル北東というと、長者ケ原廃寺跡の方になる。かつては金売吉次の屋敷跡とされていた。
 さていよいよ中尊寺の境内に入る。
 「弘臺壽院中尊寺は東叡山末寺、當住浄心院。當寺は慈覚大師開基、貞觀四年、元禄九マデ八百八十五年ニ成。金堂・光堂是也。三間四面、七寶莊嚴ノ巻柱、合天井、黄金ヲ彩、獸鳥十色ヲ競、其結構言語ニ絶タリ。唯扉ヲ開ケバ、日月ノ光明タル計也、本尊釋迦。秀衡三代ノ廟、堂ノ下に體を納ム。經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋金泥。寶物、水晶ノ生玉・龍ノ牙齒・秀衡太刀・義經切腹九寸五分。」
 東叡山末寺とあるのは、ウィキペディアに「寛文5年(1665年)には江戸・寛永寺の末寺となった。」とあるように、当時は東叡山寛永寺の末寺だった。今日では慈覚大師による嘉祥三年(八五〇年)に開基と伝えられている、という扱いになっている。桃隣の言う貞観四年だと八六三年になる。いずれにせよはっきりとはしない。
 「金堂・光堂」は二つの呼び方がある同じもので、今日では金色堂と呼ばれている。そのきらびやかさには桃隣も圧倒されたようだ。本尊は正確には阿弥陀如来だがまあその辺の細かい区別は一般人にはわかりにくいところだ。『奥の細道』の方も「三尊の仏を安置す」と大雑把だ。
 金堂・光堂は今の旧覆堂の位置にあったが、一九六三年(昭和三十八年)に金色堂は解体修理され、今の場所に移され、新たな鉄筋コンクリートの鞘堂で覆われることになった。
 金色堂とともに経蔵も古くからの中尊寺の名残をとどめるもので、本尊の文殊五尊像(木造騎獅文殊菩薩及脇侍像)は今は讃衡蔵に展示されている。曾良の『旅日記』には「経堂ハ別当留守ニテ不開」とあり、残念ながら芭蕉と曾良は見ることができなかったようだ。
 一切經二通紺帋金泥は紺の紙に金泥で文字や絵の描かれた一切経で、中尊寺経とも呼ばれている。何千とあったものの近世初頭にその大部分が流出して、今日残っているのは十五巻だという。桃隣が見たのはそのうちの二通だったか。
 水晶ノ生玉は棺の中に収められていた水晶の念珠のことか。秀衡太刀も棺にあったものであろう。
 龍ノ牙齒は不明。
 義經切腹九寸五分も不明だが、元文三年(一七三八年)にここを訪れた田中千梅も『松島紀行』に記しているから、そのような宝物が存在していたのだろう。
 「白山權現・藥師堂・八幡宮・姥杉十五抱 此外古跡多シ。」の白山神社は中尊寺の奥にある。昔は白山権現だったのだろう。姥杉もここにある。峯薬師堂は境内にある。八幡堂も月見坂の入り口付近にある。
 さて、発句だが、

 金堂や泥にも朽ず蓮の花     桃隣

 これは芭蕉の『奥の細道』自筆本にある五月雨の句の初案、

 五月雨や年々降りて五百たび   芭蕉

の影響があっただろう。光堂は鞘堂に守られ、長年の五月雨のもたらす泥にも朽ちることなく、今も蓮の花のような輝きを保っている。
 
 田植等がむかし語や衣川     桃隣

 衣川のあたりは遅い田植が行われていたが、衣川の戦いのことは彼らにあっては遠い昔の物語にすぎない。

 軍せん力も見えず飛ほたる    桃隣

 これも『奥の細道』自筆本の、

 蛍火の昼は消えつゝ柱かな    芭蕉

の影響であろう。蛍火はさながらここで戦死した兵(つわもの)どもの魂のようだが、今となってはもう軍する力もない。恨みは残るものの、その一方で平和な時代を喜ぶものでもある。

 虹咲てぬけたか凉し龍の牙    桃隣

 虹は古代中国では龍の姿とされていた。中尊寺の秘宝「龍の牙歯」は今はよくわからないが、虹をもたらす龍が落としていったものか、雨上がりの爽やかな涼しさが感じられる。

2020年10月14日水曜日

 「安々と」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   粟ひる糠の夕さびしき
 片輪なる子はあはれさに捨のこし 路通

 前句の「簸(ひ)る」、つまり篩い分けるというところから、子の口減らし、間引きへと展開させる。こういう当時にあっても極度の貧困に属するようなネタは、乞食路通と言われた人ならではの発想だろう。
 江戸時代にあっては都市文化が発達したとはいえ、消費の多くはまだ売春がらみの芝居、湯屋、遊郭などが中心で、貧しい家では娘をそういうところに売ることも珍しくはなかったのだろう。ひどい話ではあるが、口減らしで殺してしまうよりはたとえ下級遊女になってでも生き延びてくれればという、その辺りの究極の選択も理解しなくてはならない。
 健康な子供は働ける限りどこかへ売ってしまったのだろう。障害のある子供だけが家に残る。
 三十二句目。

   片輪なる子はあはれさに捨のこし
 身ほそき太刀のそる方を見よ  重成

 片輪には未熟という意味もある。未熟な鍛冶の子の打った太刀でも親としては捨てがたいもの。
 江戸時代は打刀が主流で、大きく反り返った太刀は平安、鎌倉などの古い時代に多い。
 三十三句目。

   身ほそき太刀のそる方を見よ
 長椽に銀土器を打くだき    柳沅

 「椽」は垂木のことで音は「てん」だから、「えん」と読むのであれば「縁」、つまり縁側のことだろう。「銀土器(ぎんかわらけ)」は銀泥の磁器のことか。縁側に落として割ってしまったのだろう。
 松の廊下はもっと後のことだが、縁側で喧嘩でもして、刀も室内で降れば柱か梁にぶつけて反ってしまうし、土器も縁側に打ち付けられて割れるし、良いことは何もない。『去来抄』では響き付けの例として挙げられている。打てば響くような付けということか。
 柳沅はこの一句のみだが、みんなが付けあぐねているときにこの句を言い出して、芭蕉も思わずこれだと思ったのだろう。
 三十四句目。

   長椽に銀土器を打くだき
 蜀魂啼て夜は明にけり     成秀

 「蜀魂」はホトトギスのこと。ウィキペディアには、

 「ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。」

とある。
 前句をホトトギスを待ちながらの酒宴としたのだろう。うとうとして盃を割ってはっと目が覚めると夜明けの空にホトトギスの声が聞こえる。
 三十五句目。

   蜀魂啼て夜は明にけり
 職人の品あらはせる花の陰   絃五

 絃五も初登場だが花の定座を務める。多分居合わせた偉い人なのだろう。
 市場の夜明けであろう。露店には職人の様々な品が薄明かりの中でようやくはっきり見えるようになる。
 挙句。

   職人の品あらはせる花の陰
 南おもてにめぐむ若草     葦香

 職人の工房の昼の景色になり、庭には桜が咲き若草が萌え出る。

2020年10月13日火曜日

  きょうは旧暦八月二十七日。明け方には細い月が見える。この月の呼び方だが、「めづらしや」の巻の四句目に、

   絹機の暮閙しう梭打て
 閏弥生もすゑの三ヶ月      露丸

というのがあったから、八月末の三日月、あるいは「末の三日月」でいいのか。
 それでは「安々と」の巻の続き。

 二十五句目。

   せめてしばしも煙管はなたず
 風やみて流るるままの渡し船  成秀

 この場合は運河を航行する渡し船だろう。風に流されることなく放っておいても船が勝手に進んでいくので、船頭は何もせずにずっと煙管をふかしている。
 二十六句目。

   風やみて流るるままの渡し船
 只一しほと頼むそめもの    路通

 友禅流しのことだろう。色挿し(いろさし)の時は一筆一筆に精魂を込め、最後に川で余分な染料や伏糊を洗い流す。
 二十七句目。

   只一しほと頼むそめもの
 はしばしは古き都のあれ残リ  紫䒹

 近江上布のことか。「月見する」の巻の二十六句目に「高宮」が出てきた時に、高宮が近江上布とも呼ばれ、コトバンクの麻宮布の「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 滋賀県彦根市高宮付近で産出される麻織物。奈良晒(ならざらし)の影響を受けてはじめられ、近世に広く用いられた。高宮。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とあった。古都奈良に滋賀もまた古都で、二つの古都の文化を合わせて生まれたのが近江上布だった。
 「あれ残り」というとやはり、

 さざなみや志賀の都は荒れにしを
     昔ながらの山桜かな
             平忠度(千載集)

の心か。
 二十八句目。

   はしばしは古き都のあれ残リ
 月見を当にやがて旅だつ    丈草

 古都で見る月もまた格別なもので、そのためにあえて旅をする。「やがて」は「すぐに」という意味。
 二十九句目。

   月見を当にやがて旅だつ
 秋風に網の岩焼石の竈     兎苓

 網の岩は「沈子(いわ)」のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「漁具の下辺に取り付けられ、漁具を水中に沈降させる役目をする資材で、「いわ」「びし」ともよばれる。浮子(あば)(浮き)とは逆の働きをする。網漁具では、網地を下方に展開させて水中で所望の形状を保たせる役目をする。釣り漁具では「錘(おもり)」や「しずみ」などとよぶことが多く、浮きと併用して釣り針を棚(魚の遊泳水深)に安定させる役割を果たす。材質は、沈降力が大きく、破損・腐食しにくく、造形加工が容易であるものが望まれる。形状は水中での抵抗が少ない球形、円筒形などが多い。沈子の材料として、従来は陶器(比重2.13)、陶素焼(比重1.72)、錬鉄(比重7.78)、鋳鉄(比重7.21)、石盤石(比重2.62)、錬火石(比重1.90)、セメント(比重2.16)などが用いられたが、現在では鉛(比重11.35)が多く使われている。」

とある。昔は陶器の物も用いられていた。比重はセメントとそれほど変わらない。
 竈は「くど」とルビがふってあるが、「竈 (くど)」はウィキペディアに、

 「竈(かまど)のうち、その後部に位置する煙の排出部を意味する(原義)。
 この意味では特に「竈突」「竈処」と表記されることもある。また『竹取物語』には「かみに竈をあけて…」という一節が存在する。
 京都などでは、竈(かまど)そのものを意味し、「おくどさん」と呼ぶ。南遠州地方でも、かまど自体をクドと呼んでいた。」

とある。ここでは竈そのもののこと。
 前句の「当(あて)」を酒の肴のこととし、月見をするための肴を調達にすぐに旅立つということか。
 三十句目。

   秋風に網の岩焼石の竈
 粟ひる糠の夕さびしき     狢睡

 「ひる」は「簸(ひ)る」で糠(もみがら)を箕(み)で篩い分けることをいう。
 貧しい漁村の景とする。

2020年10月12日月曜日

 「安々と」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   輾る車もせかぬ春の日
 鳶の巣の下は芥を吹落し    狢睡

 鳶は春に木の上に枝を集めて巣を作る。その時使えない枝を下に落としたりもするのだろう。今の時代だと枝だけでなくいろいろなゴミも拾ってくるらしい。前句の「春の日」に応じて春のあるあるネタを付ける。
 二十句目。

   鳶の巣の下は芥を吹落し
 ささやく事のもろき聲なり   正幸

 「もろい」には涙のこぼれやすいという意味がある。今にも泣きそうな声ということだろう。トンビのピーヒョロロという声に寄せての展開だろうか。
 二十一句目。

   ささやく事のもろき聲なり
 なげきつつ文書内は戸をさして 楚江

 前句の今にも泣きそうな声を、苦しい恋に文を書いている様子とした。
 二十二句目。

   なげきつつ文書内は戸をさして
 いくらの山に添ふて来る水   兎苓

 「いくら」はたくさんのという意味。たくさんの山があってもその都度水が添うて来るというのは、夫婦仲睦まじいという比喩だろうか。苦しいときには戸を閉ざして文を書くことはあっても、それも乗り越えていけるということなのだろう。
 二十三句目。

   いくらの山に添ふて来る水
 汗臭き人はかならず遠慮なき  葦香

 汗臭き人は常に労働している人で、いわゆる山賤(やまがつ)のことか。山を歩いてくるとたいてい気安く近寄ってくる。「水」は汗のことであろう。
 二十四句目。

   汗臭き人はかならず遠慮なき
 せめてしばしも煙管はなたず  惟然

 「せめて」は古語では強調の言葉として用いられる。汗臭く無遠慮な人はだいたいにおいていつも煙管を咥えていて手放さない。位付け。

2020年10月11日日曜日

  雨は止んだけど一日曇り。セイタカアワダチソウが少しずつ色づいている。
 それでは「安々と」の巻の続き。

 十三句目。

   瀧を隔つる谷の大竹
 月影にこなし置たる臼の上   正則

 この場合の「こなす」は粉に成すという元の意味だろう、臼とセットになっている。
 名月の頃なら蕎麦だろう。蕎麦切りを作るために蕎麦の実を石臼で挽いてそれを月の光が照らす。
 月影を雪に喩えた紀貫之の、

 月影も雪かと見つつ弾く琴の
     消えて積めども知らずやあるらむ
                紀貫之(貫之集)

が元になっているが、ここでは蕎麦の粉を雪に喩えたのだろう。
 瀧があって水も良く、竹林に住む隠士の打つ蕎麦はまた格別にちがいない。
 十四句目。

   月影にこなし置たる臼の上
 只ちらちらときりぎりす鳴   重氏

 「あなむざんやな」の巻のところでも触れたが、キリギリスはコオロギのこと。
 十五句目。

   只ちらちらときりぎりす鳴
 糊こはき袴に秋を打うらみ   重古

 秋になるとびしっと糊のきいた袴を履かなくてはならない。辺りではコオロギが鳴いているところなど、田舎侍だろうか。
 十六句目。

   糊こはき袴に秋を打うらみ
 鬢のしらがを今朝見付たり   芭蕉

 人間の一生を四季に喩えれば、春は青春秋は白秋、老化で白髪が混じる時期になる。いわゆる「さび」を感じさせる句だ。

 がつくりとぬけ初る歯や秋の風 杉風

は『猿蓑』の句で、秋は老化の季節。この句をひっくり返すと、

 万緑の中や吾子の歯生え初むる 草田男

になる。
 十七句目。

   鬢のしらがを今朝見付たり
 年々の花にならびし友の数   丈草

 この場合の友は友達ではなく伴の方か。出世して、毎年恒例の花の宴の参加者も増え、年々にぎやかになってゆくが、そろそろ鬢に白髪が混じり、隠居も近い。昔は四十前後で隠居した。目出度さの中に淋しさもある。
 十八句目。

   年々の花にならびし友の数
 輾る車もせかぬ春の日     正則

 王朝時代の花宴であろう。

2020年10月10日土曜日

  今日は雨がやや強く降ったが、大した風もなく台風は過ぎて行きそうだ。
 金木犀が散って雨にオレンジの色がまぶしいくらいだ。欅やプラタナスも色づき始め晩秋へと向かっている。
 それでは「安々と」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   城とりまはす夕立の影
 我がものに手馴る鋤の心能   正則

 「心能」は「こころよく」と読む。
 夕立の雲に旱魃の心配もなく農家は鋤をふるう。真新しい鋤もようやく手になじみ、平和と豊かさはあのお城のおかげだと藩主の徳を称える。
 八句目。

   我がものに手馴る鋤の心能
 石の華表の書付をよむ     楚江

 「書付」は「鎌倉タイム」というサイトで引用されている水戸光圀編纂による『新編鎌倉志』の鶴岡八幡宮の鳥居についての記述に、

 「今の鳥居は、寛文乙巳(きのとのみ)の年より、戊申(つちのへさる)の秋に至(いたる)まで、上(かみ)・下(しも)の宮(みや)、諸の末社等に至(いたる)まで、御再興有し時の鳥居なり。其書付(かきつけ)に、鶴岡八幡宮の石隻華表、寛文八年戊申八月十五日、御再興とあり。」

とある。鳥居に記された銘のことであろう。
 農業も順調だから寄付も集まり、神社に立派な石の鳥居が建立され、銘が刻まれる。
 九句目。

   石の華表の書付をよむ
 鴻鶴の森を見かけて競ひ行   勝重

 「鴻鶴」はコウノトリなのかヒシクイなのかは微妙だ。コウノトリはしばしば鶴と一緒にされ、お目出度いものとされるが、ヒシクイの場合は哀鴻遍野という四字熟語もあるように悲しげなものとなる。
 打越からの大きな展開を考えるなら、ここはヒシクイとして飢饉で腹をすかした人たちの比喩とすることもできる。その場合は神社で炊出しが行われると聞いて村民が殺到する様子となる。
 十句目。

   鴻鶴の森を見かけて競ひ行
 衾つくりし日は時雨けり    葦香

 比喩ではなく鳥の方のヒシクイは冬鳥で晩秋に飛来する。ここでは前句を競うように次々とやってくる本物のヒシクイとし、時期的にはちょうど初時雨の頃となる。
 「衾(ふすま)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 布などでこしらえ、寝るときに体をおおう夜具。ふすま。よぎ。
  ※参天台五台山記(1072‐73)三「寝所置衾。或二領三領八十余所」 〔詩経‐召南・小星〕」

とある。冬に備えて衾を準備する。
 十一句目。

   衾つくりし日は時雨けり
 拍子木に物喰僧の打列て    兎苓

 衾を作っているのを大きな寺院の修行僧とする。
 ちなみに「食堂」という言葉は元は寺院の食事をする施設だったという。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 「寺院建築の一つ。古代では大衆(僧で身分の低い人)が食事をする建物で,主要な建物の一つであった。禅宗では斎堂(さいどう),僧堂として残っているが,他宗では庫裡(くり)に移行した。法隆寺に奈良時代の遺構があり,東大寺,興福寺に遺跡がある。」

とある。
 十二句目。

   拍子木に物喰僧の打列て
 瀧を隔つる谷の大竹      正秀

 大竹は日本固有の「しの」や「すずたけ」(メダケなどをいう)や竹細工などに使われるマダケではなく、中国から入ってきた孟宗竹のことだろう。当時はまだ珍しく、渡来僧や留学僧が持ち込んだものがお寺の周囲に植えられたのではないかと思う。初夏になれば大きな筍が食卓に上ることだろう。そのためにはまず修行。滝に打たれて。

2020年10月9日金曜日

  今日も雨。明日は台風が来るのか。
 「安々と」の巻の続き。

 脇。
   安々と出でていさよふ月の雲
 舟をならべて置わたす露    成秀

 発句が月の出てきた時の様子をそのまま述べただけの句で、特に寓意もないので、脇の方もここにみんな舟で来て集まってきた様を「舟をならべて」とし、月に輝く露を添える。
 竹内茂兵衛成秀についてはよくわからない。ただ成秀亭の庭には松の木があって、芭蕉がそれを賛美した『成秀庭上を誉むること葉』という文章が残っている。

 「松あり、高さ九尺ばかり、下枝さし出るもの一丈余、枝上段を重、其葉森々とこまやかなり。風琴をあやどり、雨をよび波をおこす、箏に似、笛に似、鼓ににて、波天籟をとく。当時牡丹を愛する人、奇出を集めて他にほこり、菊を作れる人は、小輪を笑て人にあらそふ。柿木・柑類は其実をみて枝葉のかたちをいはず。唯松独霜後に秀、四時常盤にしてしかもそのけしきをわかつ。楽天曰『松能旧気を吐、故に千歳を経』と。主人目をよろこばしめ心を慰するのみにあらず、長生保養の気を知て、齢をまつに契るなるべし。
   元禄四年舟をならべて仲秋日    ばせを」

 高さ九尺(約2.7メートル)で下枝が一丈(約3メートル)だから、それほど高い木ではなく、枝が横に長く張った、いわゆる笠松ではないかと思う。松風の音は琴や笛や鼓のように天然の音楽を奏でる。『和漢朗詠集』に、

 露滴蘭叢寒玉白 風銜松葉雅琴清
 つゆはらんそうにしたたりてかんぎよくしろし、
 かぜしようえふをふくみてがきんすめり、

とある。
 牡丹の愛好家は奇抜な花を咲かせては他人に誇り、菊の育種家は大輪の花を競って小輪を笑う。柿や蜜柑を植える人は実が大事で枝葉をとやかく言うことはない。松だけが幾年もの霜に耐えて、一年中青々としている。
 芭蕉は松を好む成秀に、人と競うこともなく、ただ一人悠々と生きる人柄を感じたのだろう。
 第三。

   舟をならべて置わたす露
 ひらめきて咲もそろはぬ萩のはに 路通

 風にひらひらとして咲いてもじっとしていない萩の葉には露も散ってしまうが、並べた船は動かないから露が降りている。
 四句目。

   ひらめきて咲もそろはぬ萩のはに
 鍋こそげたる音のせはしき   丈草

 「鍋こそげたる」は鍋に付着した焦げや錆びをこすって落とすことで、宮城野の萩に仙台藩の鋳物の縁で付けたか。咲きそろわぬ萩に焦げた鍋は響き付けであろう。
 露に萩というベタな路通の付け筋に、猿蓑調の最新の付け筋を披露するのだが、ややわかりにくい。
 五句目。

   鍋こそげたる音のせはしき
 とろとろと睡れば直る駕籠の酔 惟然

 駕籠も揺れるから乗り物酔いになったのだろう。駕籠を降りてうとうとしていると酔いも収まり、どこかの宿なのだろう、鍋を洗う音がせわしく聞こえる。
 六句目。

   とろとろと睡れば直る駕籠の酔
 城とりまはす夕立の影     狢睡

 「とりまはす」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①仕事・人などをほどよく取り扱う。うまく処理する。 「店の仕事を一人で-・す」
  ②一部を取って次へ回す。 「料理を盛った大皿を-・す」
  ③ぐるりと囲む。とりまく。 「東一方をば敵未だ-・し候はねば/太平記 9」

とある。この場合は③の意味か。
 駕籠で酔ったのはお城の身分の高い武士だったのだろう。目を覚ませば城の周りは敵の軍勢ではないが、夕立をもたらす黒い雲に取り囲まれている。

2020年10月8日木曜日

 今日は一日雨。
 コロナが増えもせず減りもせずなのは、遊び歩く人と籠っている人に二極化されているからではないかと思う。
 政府がいろいろキャンペーンをやっても、それに乗る人と乗らない人に分かれ、今はそのバランスが絶妙に保たれているのではないかと思う。
 ただ政府はこの状態に満足せず、来年のオリンピックに向けて更なるキャンペーンの追加やイベントの人数制限の緩和や海外からの渡航制限の解除を行い、何としてでも国民を外出させようとするのは間違いない。そうなると当然それに不安を感じる人たちは、余計に行動を自粛するようになる。そうやってバランスが保たれているうちは今のような状態が続くのではないかと思う。
 多分政府もIOCも今のような毎日の新規感染者が五百人前後という状態ならオリンピックを強行するつもりなんだろうな。海外から観戦しに来る人は、今の欧米やブラジルに比べれば安全に見えるかもしれないが、ただ、日本には軍医がいないし、民間の病院は今でもかなり苦しい状態にあるから、オリンピック中に感染が急拡大した場合、安全の保障はないと思った方がいい。
 まして、マスクなしで夜の街で大声で騒いだりすれば、誰も歓迎はしないと思う。それは差別ではなく、実際に怖いからだ。俺だってそんなのには絶対に近寄らない。

 さて、今日も学問の自由の行使ということで、また俳諧を読んでいこうと思う。
 今回は元禄四年八月十六日、近江堅田の成秀(せいしゅう)亭での興行。一年前の尚白戸の両吟とはまたうって変わって路通、丈草、惟然、正秀なども交え、総勢十九人でのにぎやかな興行となった。
 この時の様子は『堅田十六夜之辨』で垣間見ることができる。

 「望月の残興なほやまず、二三子いさめて舟を堅田の浦にはす。其日申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろにゐたる。「酔翁狂客月に浮れて来れり」と声々に呼ばふ。主思ひかけずおどろきよろこびて、簾をまき塵を拂ふ。「園中に芋あり、ささげあり、鯉・鮒の切目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に筵をのべて宴をもよほす。月はまつほどもなくさし出、湖上花やかにてらす。かねてきく仲の秋の望の日、月浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によつて、三上・水茎の岡南北に別れ、その間にしてみね引はへ、小山巓をまじゆ。とかくいふ程に、月三竿にして黒雲の中にかくる。いづれか鏡山といふ事をわかず。主のいはく、「折々雲のかかるこそ」と、客をもてなす心いと切なり。やがて月雲外にはなれ出でて、金風銀波千体仏の光に映ズ。かの「かたぶく月のおしきのみかは」と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、「此堂にあそびてこそ、ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」といへば、あるじまた云、「興に乗じて来れる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に盃をあげて、月は横川にいたらむとす。
 錠明て月さし入よ浮御堂    ばせを
 安々と出でていさよふ月の雲  同」

 堅田は琵琶湖の南の方、今の琵琶湖大橋のあるあたりの西岸で、月は湖の方から登る。ただ、対岸までの距離はそれほどない。
 浮御堂は堅田の海門山満月寺の湖上に建てられたお堂で、橋でつながっている。ウィキペディアには「平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖から救い上げた阿弥陀如来を祀るため、湖上安全と衆生済度も祈願して建立したという。別名に『千仏閣』、『千体仏堂』とも呼ばれる。」とある。「やがて月雲外にはなれ出でて、金風銀波千体仏の光に映ズ。」の千体仏はこの浮御堂を指す。
 鏡山は対岸の野洲にある。三上・水茎の岡の三上山は近江富士とも呼ばれ、堅田から見ると鏡山の右になる。水茎の岡山は鏡山の左やや離れたところの、近江八幡市の琵琶湖の脇にある。いずれも標高は高くなく、小山の巓(みね)といえよう。
 前日の十五夜には膳所の木曽塚無名庵で月見の会を行い、その興の止まぬうちに船で北上し堅田に着いたのであろう。「二三子いさめて」はその時出席していた中の、路通、正秀、丈草のことで、この会に参加した智月、支考、珍碩(洒堂)はここには含まれなかった。
 「何某茂兵衛成秀」は竹内茂兵衛成秀で申の刻(午後三時から五時)に成秀亭に到着する。庭には里芋やささげがあり、鯉と鮒を料理して琵琶湖の岸で宴会を開いた。
 十六夜の月が待つ程もなく出てきたのはこの年の八月が小の月だったことも関係あるのだろうか。ただ、すぐに雲に隠れなかなか姿を現さず、これをそのまま詠んだのがこの日の興行の発句、

 安々と出でていさよふ月の雲  芭蕉

だった。「いさよふ」はためらう、躊躇するの意味で、十六夜の月は日没からややためらうように遅れて出ることからそう呼ばれた。ただ、月の楕円軌道のせいもあって、満月は十五夜とは限らず、後ろにずれることもある。

2020年10月7日水曜日

 増えもせず減りもしないコロナ。まあこれだけ人が動いていて、第三波と言えるほどのものがまだ来なくてすんでいるだけでも良いのかもしれない。こうして時間稼ぎしている間に、外国人観光客に頼らなくてもいい、強い日本経済を作っていってほしいね。
 学問の自由といえば、こうして別にどこの大学にも研究所にも所属してない、学者でもなんでもない人間が、ネット上で俳諧を読んでいけるというのも、学問の自由の行使と言えるのではないかと思う。学者だけが学問をやるのではないし、学術会議に入らなければ学問ができないというものではない。
 まあ、ああいうところに入るには結局どこかの強力な学閥に所属して、そこの推薦を受けなければならないのだから、我々にしてみれば雲の上の話だ。誰か俺を学術会議に推薦してくれ。それで菅首相に拒否されたら一緒に戦ってやらないでもない。
 では冗談はともかくとして、「月見する」の巻の続き、挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   さても鳴たるほととぎすかな
 西行の無言の時の夕間暮      芭蕉

 ホトトギスは夜通し待ってようやく明け方に聞くのを本意とするので、夕方から鳴いてても歌にならない。
 三十二句目。

   西行の無言の時の夕間暮
 小草ちらちら野は遙なり      尚白

 西行だから旅体ということで、遥かな野の風景を付ける。
 三十三句目。

   小草ちらちら野は遙なり
 薄雪のやがて晴たる日の寒さ    尚白

 薄雪が融ければ野には草が見えてくる。
 終わりも近いということで、二句続けて景を付けて、あえて笑いを取りにはいかないようだ。
 三十四句目。

   薄雪のやがて晴たる日の寒さ
 水汲みかへて捨る宵の茶      芭蕉

 雪も上がり晴れたところで水を汲みに行く。水を汲んだら昨日のお茶を捨てて新たにお茶を淹れなおす。単なる景に生活感を加える。
 三十五句目。

   水汲みかへて捨る宵の茶
 窓あけて雀をいるる軒の花     芭蕉

 宵の茶を捨てるのに、台所の明かり取りの窓を開ける。すると軒端に桜の花が咲いているのが見え、雀も飛び込んでくる。
 挙句。

   窓あけて雀をいるる軒の花
 折掛垣にいろいろの蝶       尚白

 「折掛垣(をりかけがき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 竹や柴などを折り曲げて地面にさしたものを続けてつくった垣根。しおりがき。折掛。
  ※菅家御集(鎌倉‐室町)「山里のをりかけ垣の梅の枝わひしらなからはなや咲らん」

とある。軒の花に垣の蝶を添えて、ここも軽く景を付けて終わらせる。

2020年10月5日月曜日

 「月見する」の巻の続き。

  二十五句目。

   暑気によはる水無月の蚊屋
 蜩の声つくしたる玄関番      芭蕉

 ヒグラシは秋の季語になっているが、夏の他の蝉が鳴く頃から鳴き始める。水無月の暑い盛りでも日が暮れる頃にはヒグラシが鳴き、夏バテの玄関番もこの声が聞こえる頃には生き返った気分になるのかな?かな?
 二十六句目。

   蜩の声つくしたる玄関番
 高宮ねぎる盆も来にけり      尚白

 「高宮(たかみや)」は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注に、「近江国高宮から産した荒い麻布」とある。コトバンクの麻宮布の「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 滋賀県彦根市高宮付近で産出される麻織物。奈良晒(ならざらし)の影響を受けてはじめられ、近世に広く用いられた。高宮。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。
 近江上布とも呼ばれ、上布はウィキペディアに、

 「細い麻糸(大麻と苧麻)を平織りしてできる上等な麻布。過去に幕府などへ献上、上納された。縞や絣模様が多く、夏用和服に使われる。」

とある。玄関番のようなぴしっとした格好をする人には夏の必需品だったのだろう。
 盆の頃になるとこれから涼しくなるというので売れなくなるから、そのころ合いを見計らって値切って買い、来年用にする。位付け。
 二十七句目。

   高宮ねぎる盆も来にけり
 薏苡仁に粟の葉向の風たちて    芭蕉

 「薏苡仁」は漢方薬の「よくいにん」で、ハトムギの種皮を除いた種子を原料とする。そのため「はとむぎ」と読む場合もあるが、ここでは「すすだま(数珠玉)」のことらしい。ウィキペディアには、

 「ハトムギ(鳩麦、学名:Coix lacryma-jobi var. ma-yuen)はイネ科ジュズダマ属の穀物。ジュズダマとは近縁種で、栽培化によって生じた変種である。ハトムギ粒のデンプンは糯性であり、ジュズダマは粳性である。
 アジアでは主食やハトムギ茶など食品として、成分の薏苡仁(ヨクイニン)は生薬として利用されている。」

とある。
 ハトムギは夏作穀類なので、粟と同様秋に収穫する。ここで粟と並べられている以上、「すすだま」と読むにしても実質は栽培されているハトムギのことではないかと思う。
 「葉向(はむけ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 風などが草木の葉を一方になびかせること。また、そのなびいた葉叢。
  ※出観集(1170‐75頃)秋「野辺近き荻のはむけはくらけれど月にかへつる風哀なり」

とある。
 ハトムギや粟が背高く伸びて秋風に一斉になびく頃にはお盆になる。
 二十八句目。

   薏苡仁に粟の葉向の風たちて
 随分ほそき小の三日月       尚白

 ハトムギや粟のような雑穀の貧しい感じに細い貧相な三日月を付けるという響き付けになる。
 旧暦にも三十日まである大の月と二十九日で終わる小の月とがある。朔(月と太陽の視黄経が等しくなること)になる日を朔日とし、朔日と次の朔日との間が二十九日しかない場合は小の月となる。
 貞享元年に渋川春海(二世安井算哲)が改暦した時に中国と日本との時差を考慮し、日本時間で朔になる日を朔日としたため、たとえば日本で午前一時に朔になる場合、中国では午後十二時になる。そのため中国を基本にした暦では晦日でも、貞享暦では朔日になるという一日のずれが生じる場合が出てきた。そのためそれまでは二日の月だったものが三日月になる場合も生じた。
 このずれは多分当時の人の間でも話題になったのだろう。尚白の句だけでなく、

 木枯しに二日の月の吹き散るか   荷兮

の句も、従来の朔日が二日になったため、月のない二日が生じたという意味ではなかったかと思う。
 二十九句目。

   随分ほそき小の三日月
 たかとりの城にのぼれば一里半   芭蕉

 奈良の高取藩の藩庁である高取城は日本三大山城の一つで、ウィキペディアによれば、

 「城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と歌われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
 曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。」

という。周囲三十キロだと直径十キロ弱で、まあ門から城の中心まで一里半というのは誇張ではなさそうだ。たどり着く頃には日が暮れてしまう。
 三十句目。

   たかとりの城にのぼれば一里半
 さても鳴たるほととぎすかな    尚白

 山だからホトトギスも鳴く。

2020年10月4日日曜日

 朝は雨降ってあとは曇り。
 トランプさんだけでなくコロナの感染リスクは世界の影響力の大きい人たちに等しく存在している。
 何が起こるかわからないという不安の気分にさせてくれる。世界は本当に大丈夫なのだろうか。
 まあ、ともあれ「月見する」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   八ツさがりより春の吹降
 雁帰る白根に雲のひろがりて    芭蕉

 雲が広がって雨になる。これは遣り句。
 二十句目。

   雁帰る白根に雲のひろがりて
 うちのる馬にすくむ襟巻      尚白

 前句の「白根」を受けて、まだ雪残る山越えの旅とし、寒さで急遽馬に乗ることにして、首に布を巻いて凍える寒さをしのぐ。
 二十一句目。

   うちのる馬にすくむ襟巻
 商人の腰に指たる綿秤       芭蕉

 「商人の腰に指たる」と来て帯刀してるのかと思わせておいて、綿秤で落ちにする。
 軽くてかさのある物を量るため、綿秤は棹が長く、腰に差していると長刀かと見誤る。
 二十二句目。

   商人の腰に指たる綿秤
 物よくしやべるいわらじの貌    尚白

 「いわらじ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「〔「いえわらし(家童子)」の転とも、「いえあるじ(家主)」の転とも〕
  農家の主婦。 「わめく声に出女ども、-もろとも表に出づる/浄瑠璃・丹波与作 中」 〔歴史的仮名遣い「いわらじ」か「いはらじ」か未詳〕」

とある。
 綿農家のところに綿商人がやってくると、そこの主婦がおしゃべりでなかなか綿を出してくれない。秤はいつまでも腰に差したまま。
 二十三句目。

   物よくしやべるいわらじの貌
 蒜の香のよりもそはれぬ恋をして  芭蕉

 これは『源氏物語』帚木巻のニンニク女のことだろう。藤式部(とうしきぶ)の丞の昔付き合ってた女で博士の娘だが、熱病でニンニクを食べていて、その匂いに辟易して逃げ帰ったという話で、筆者は紫式部自身の自虐ネタではないかと思っている。
 その時の、

 逢ふことのよをしへだてぬなかならば
     ひるまもなにかまばゆからまし
 (夜ごとに愛し合ってる仲ならば
     昼(蒜)でもなんら恥ずかしくない)

の歌が思い浮かぶ。
 ここでは相手が田舎の人妻になってしまうが。
 二十四句目。

   蒜の香のよりもそはれぬ恋をして
 暑気によはる水無月の蚊屋     尚白

 ニンニクは夏バテ防止になる。

2020年10月3日土曜日

  昨日は月と火星が近くに見えたが今日は曇り。
 まあ左翼の連中も選挙で勝つ当てがなく、行政府はもとより立法府でも力がないもんだから、司法府での影響力を守るのに必死なんだろうな。黒川前検事長の時はあんなチートまでしてツイッターデモをやって、まあ結局あれで安倍政権が折れてしまったことが敗着となったが。
 菅さんもその轍は踏むまいとの覚悟でチャレンジしているんだろうな。憲法を不磨の法典として改憲論議そのものをタブー視する日本の憲法学者も異常で何とかしなくてはいけないんだろうけど。
 それでは「月見する」の巻の続き。

 十三句目。

   ねぶと踏れてわかれ侘つつ
 月の前おさへてしゐる小屋の宿   尚白

 「おさへて」はこの場合は下に見るという意味か。小屋の宿もよくわからないが、単に粗末な宿屋という意味か、あるいは遊女・若衆のいる芝居小屋か。
 十四句目。

   月の前おさへてしゐる小屋の宿
 桔梗かるかや夜すがらの虫     芭蕉

 月明りの指す宿は小屋でも風流なもので、桔梗に屋根葺きに利用される茅に一晩中鳴く虫の声が聞こえる。かるかやが俳言になる。
 十五句目。

   桔梗かるかや夜すがらの虫
 位散る髪は黄色に秋暮て      尚白

 身分も下がり、抜け落ちた髪も黄色く、秋の終わろうとする。秋の景に老いの悲しさを付ける。
 十六句目。

   位散る髪は黄色に秋暮て
 大工の損をいのる迁宮       芭蕉

 遷宮はウィキペディアによると、「天災・人災により予定外の本殿の修繕・建て替えが必要になった場合に仮の建物に移す遷宮を仮殿遷宮、予定外に本殿を新たに建てた上で正遷宮と同様の儀式を行ない移す遷宮を臨時遷宮と区別する場合がある。」
 大工の損を祈るというとどういう場面があるのだろうか。本地の寺との土地争いで遷宮を余儀なくされた場合なら、訴訟に勝って遷宮をしなくて済むことを祈るというのは有りかもしれない。老いた神主さんで、今更遷宮はつらいし、頑固でとことん争おうということか。
 十七句目。

   大工の損をいのる迁宮
 三石の猿楽やとふ花ざかり     尚白

 コトバンクの扶持のところの「世界大百科事典 第2版の解説」に、「武士1人1日の標準生計費用を米5合と算定して,1ヵ月に1斗5升,1年間に1石8斗,俵に直して米5俵を支給することを一人(いちにん)扶持と呼び,扶持米支給の単位とした。」とあり、三石はこれだと二人扶持にも満たない。元禄七年の、

 五人ぶち取てしだるる柳かな    野坡

の句があったが、それよりも少ない。売れない猿楽師(能楽師)を呼んできて花見の座で舞わせる神主さんは、大工の賃金も安く買いたたくようなケチな男だったのだろう。
 十八句目。

   三石の猿楽やとふ花ざかり
 八ツさがりより春の吹降      芭蕉

 吹降(ふきぶり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 強い風といっしょに雨が降ること。また、その風雨。
  ※俳諧・焦尾琴(1701)風「吹降の合羽にそよぐ御祓哉〈其角〉」

 八ツ下がりは未の下刻で二時から三時で、春の天気は変わりやすく、急に雨風が強くなる。
 吹降は笛を吹くことに掛けて、猿楽師が送り笛を吹いて、いよいよシテの登場でこれから盛り上がるというときに急に雨になる。

2020年10月1日木曜日

  きょうは午前中は小雨が降ったが午後から晴れて十五夜も見ることができた。
 それでは「月見する」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   百家しめたる川の水上
 寂寞と参る人なき薬師堂      尚白

 前句の「川の水上」を山の奥の方として、忘れ去られたような薬師堂を付けて流したと思われる。
 八句目。

   寂寞と参る人なき薬師堂
 雨の曇りに昼蚊ねさせぬ      芭蕉

 人のいないお堂は旅人が野宿したりもするが。雨はしのげても蚊が多いのは困ったものだ。
 九句目。

   雨の曇りに昼蚊ねさせぬ
 一むしろなぐれて残る市の草    尚白

 「なぐれる」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①横の方にそれる。 「烟は横に-・れて/ふところ日記 眉山」 「矢ガ-・レタ/ヘボン」
  ②おちぶれる。 「近ごろどこからやら-・れて来た画工/洒落本・列仙伝」
  ③売れ残る。 「新造の-・れた市とすけんいひ/柳多留 9」

とある。この場合は①であろう。
 市場の撤収した後、草の上に忘れ去られたように筵が一枚落ちてたりする。ちょうど筵があるからとそこで休もうとすると、蚊が寄ってくる。
 十句目。

   一むしろなぐれて残る市の草
 這かかる子の飯つかむなり     芭蕉

 この場合の「なぐれる」は③の意味か。
 市場の草の上で品物の売れ残っている筵があり、小さな子を連れてきているが主人は居眠りでもしているのだろう。子供が勝手に飯を食っている。
 十一句目。

   這かかる子の飯つかむなり
 いそがしとさがしかねたる油筒   尚白

 「油筒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 油を入れる筒。近世には、婚礼用具の一つとして用い、上下に金物をつけ、横に金物の輪を打ち、紅の緒などをつけた。
  ※山科家礼記‐長祿元年(1457)一二月二二日「あふらつつ一〈九合、代は一度申て候也〉」

とある。ここでは単に油を量るための竹筒か。油売りが来たけど忙しくて油売ってる暇がない。
 十二句目。

   いそがしとさがしかねたる油筒
 ねぶと踏れてわかれ侘つつ     芭蕉

 「ねぶと」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「もも・尻など、脂肪の多い部分に多くできるはれもの。化膿 (かのう) して痛む。かたね。」

とある。
 後朝のあと、灯りをと思っても油筒がどこにあるのかわからない。そのうえ腫れものも痛むし、いいことが何もない。