今日は一日雨。
コロナが増えもせず減りもせずなのは、遊び歩く人と籠っている人に二極化されているからではないかと思う。
政府がいろいろキャンペーンをやっても、それに乗る人と乗らない人に分かれ、今はそのバランスが絶妙に保たれているのではないかと思う。
ただ政府はこの状態に満足せず、来年のオリンピックに向けて更なるキャンペーンの追加やイベントの人数制限の緩和や海外からの渡航制限の解除を行い、何としてでも国民を外出させようとするのは間違いない。そうなると当然それに不安を感じる人たちは、余計に行動を自粛するようになる。そうやってバランスが保たれているうちは今のような状態が続くのではないかと思う。
多分政府もIOCも今のような毎日の新規感染者が五百人前後という状態ならオリンピックを強行するつもりなんだろうな。海外から観戦しに来る人は、今の欧米やブラジルに比べれば安全に見えるかもしれないが、ただ、日本には軍医がいないし、民間の病院は今でもかなり苦しい状態にあるから、オリンピック中に感染が急拡大した場合、安全の保障はないと思った方がいい。
まして、マスクなしで夜の街で大声で騒いだりすれば、誰も歓迎はしないと思う。それは差別ではなく、実際に怖いからだ。俺だってそんなのには絶対に近寄らない。
さて、今日も学問の自由の行使ということで、また俳諧を読んでいこうと思う。
今回は元禄四年八月十六日、近江堅田の成秀(せいしゅう)亭での興行。一年前の尚白戸の両吟とはまたうって変わって路通、丈草、惟然、正秀なども交え、総勢十九人でのにぎやかな興行となった。
この時の様子は『堅田十六夜之辨』で垣間見ることができる。
「望月の残興なほやまず、二三子いさめて舟を堅田の浦にはす。其日申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろにゐたる。「酔翁狂客月に浮れて来れり」と声々に呼ばふ。主思ひかけずおどろきよろこびて、簾をまき塵を拂ふ。「園中に芋あり、ささげあり、鯉・鮒の切目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に筵をのべて宴をもよほす。月はまつほどもなくさし出、湖上花やかにてらす。かねてきく仲の秋の望の日、月浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によつて、三上・水茎の岡南北に別れ、その間にしてみね引はへ、小山巓をまじゆ。とかくいふ程に、月三竿にして黒雲の中にかくる。いづれか鏡山といふ事をわかず。主のいはく、「折々雲のかかるこそ」と、客をもてなす心いと切なり。やがて月雲外にはなれ出でて、金風銀波千体仏の光に映ズ。かの「かたぶく月のおしきのみかは」と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、「此堂にあそびてこそ、ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」といへば、あるじまた云、「興に乗じて来れる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に盃をあげて、月は横川にいたらむとす。
錠明て月さし入よ浮御堂 ばせを
安々と出でていさよふ月の雲 同」
堅田は琵琶湖の南の方、今の琵琶湖大橋のあるあたりの西岸で、月は湖の方から登る。ただ、対岸までの距離はそれほどない。
浮御堂は堅田の海門山満月寺の湖上に建てられたお堂で、橋でつながっている。ウィキペディアには「平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖から救い上げた阿弥陀如来を祀るため、湖上安全と衆生済度も祈願して建立したという。別名に『千仏閣』、『千体仏堂』とも呼ばれる。」とある。「やがて月雲外にはなれ出でて、金風銀波千体仏の光に映ズ。」の千体仏はこの浮御堂を指す。
鏡山は対岸の野洲にある。三上・水茎の岡の三上山は近江富士とも呼ばれ、堅田から見ると鏡山の右になる。水茎の岡山は鏡山の左やや離れたところの、近江八幡市の琵琶湖の脇にある。いずれも標高は高くなく、小山の巓(みね)といえよう。
前日の十五夜には膳所の木曽塚無名庵で月見の会を行い、その興の止まぬうちに船で北上し堅田に着いたのであろう。「二三子いさめて」はその時出席していた中の、路通、正秀、丈草のことで、この会に参加した智月、支考、珍碩(洒堂)はここには含まれなかった。
「何某茂兵衛成秀」は竹内茂兵衛成秀で申の刻(午後三時から五時)に成秀亭に到着する。庭には里芋やささげがあり、鯉と鮒を料理して琵琶湖の岸で宴会を開いた。
十六夜の月が待つ程もなく出てきたのはこの年の八月が小の月だったことも関係あるのだろうか。ただ、すぐに雲に隠れなかなか姿を現さず、これをそのまま詠んだのがこの日の興行の発句、
安々と出でていさよふ月の雲 芭蕉
だった。「いさよふ」はためらう、躊躇するの意味で、十六夜の月は日没からややためらうように遅れて出ることからそう呼ばれた。ただ、月の楕円軌道のせいもあって、満月は十五夜とは限らず、後ろにずれることもある。
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