「舞都遲登理」の続き。今日は羽黒山へ。
「此所より右の道筋を坂田へ戻る。尤此時所により津輕・南部・越後筋へ順よし。一里出てうやむやの關アリ。東鑑に、大關笹谷峠の事也。奥州にアリト云々。きさかたのうやむや覺束なし。
〇うやむやの關やむやむや鬼人艸」(舞都遲登理)
象潟から北上すれば津軽に行け、東へ行けば南部(岩手)へ行けるが、ここで桃隣も酒田へ引き返す。芭蕉さんは津軽から蝦夷へ行きたかったようだが、これから寒くなるから早く戻らなくてはいけないと曾良に諭されてしぶしぶ酒田へ引き返し、越後へと向かった。
桃隣もまた無理はせずに出羽三山へと向かう。
うやむやの関は来る時にも通ったはずだが、帰り道にもってきたのは、桃隣も山形・宮城両県境の笹谷峠にあったという説を知っていて、疑ってたからだろう。
うやむやの關やむやむや鬼人艸 桃隣
「むやむや」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
① =むらむら(群群)②
※漢書列伝景徐抄(1477‐1515)陳勝項籍第一「そこそこでむやむやと、人が多になったほどにぞ」
② 怒りや嫉妬(しっと)の気持でもだえるさまを表わす語。
※評判記・色道大鏡(1678)五「末席には目をひそめ後指をさすやうにもおもはれるればむやむやとわくより外のことなし」
とある。①は今の「わらわら」に近い。②は「もやもや」に近い。
まあ正確な位置のはっきりしない「うやむや」にもやもやしたものが残るのは確かだ。
「鬼人艸」はよくわからないが、鬼草(テングサ)のことか。心太の原料で夏の季語になる。形状からしてもやもやしている。
「坂田より羽黒山はかゝる。麓に手向町、旅人舎リ所也。此所に芭蕉門人圖子呂丸迚誹士アリ。四年以前洛の土に成ぬ。其所緣はと尋入ル。亡跡は見事に相續して、賑敷渡世す。登山の日和窺がてら滞留。彼の門弟今は便もなくよりそふべきたつきもなかりし處に、かくと聞より詰かけての誹談みだれたる糸筋のもと末もわかず。いざゝらば圖子が懐舊を述んと、坐をしめて見るに、庭のたゝずまひ、むかしになん替らずと云。松は五葉、ことごとしき捨石は莓に埋れ、こゝろなき非情の有樣、淵瀬のさかひをしらざりき。
〇樹も石も有のまゝなり夏坐鋪 桃隣
音をいれ際のたかき鶯 露茄
朝力鉄の錠を引かねて 則堂
峯よりすつと兀辷ル砂 呂州
十六夜の光納る六つの鐘 助曳
案山子を齅で通る獸 普提
右一巻となして靈全に備ふ。彼呂丸ハ一度風雅の眼を開き、四十にたらずして、行事本意なかるべし。師の信を感じて、門人此道を捨ず、己同士勵とぞ。」(舞都遲登理)
酒田から羽黒山の麓の手向町に行く。芭蕉と曾良が来た時には手向荒町に近藤左吉(俳号露丸・呂丸)がいた。そのときは、
有難や雪をかほらす風の音 芭蕉
住程人のむすぶ夏草 露丸
で始まる興行も行われた。近藤左吉は『奥の細道』では図司佐吉になっている。桃隣は図子呂丸と呼んでいる。
残念ながら呂丸は元禄九年夏より四年以前(三年以上前)、元禄六年二月に京都で亡くなっている。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、
「江戸前期の俳人。姓は図司,また近藤,通称は左吉。啁栢堂(とうはくどう)と号す。出羽手向(とうげ)村で染物業を営んでいたが,“おくのほそ道”の旅で来遊した芭蕉に入門,この時《聞書七日草》(呂丸聞書)を残した。1692年江戸に芭蕉を訪ね《三日月日記》を与えられた。伊勢参宮ののち,京の支考を訪ねたが,翌年の2月2日京で客死。《陸奥鵆(むつちどり)》によると40歳に達しなかったらしい。〈苔の実や軒の玉だれ石の塔〉(《三山雅集》)。」
とある。図司とも近藤ともいうというのは、古来の姓(藤原、平などの)でも武家の苗字でもなく、庶民の間で用いられた俗姓であろう。後を継いだのは桃隣の発句に脇を付けている露茄であろう。
桃隣が来たというので、今は疎遠になっていたかつての呂丸の門弟たちもあつまってきたものの、かつて習ったことをすっかり忘れてしまってたようだ。そこを露茄が呂丸の思い出や教わったことなど話そうと庭を見ると、昔と変わってないとは言うものの、石は苔に埋もれて荒れ果てていた。変わってないというのは放置されてるということだった。放置(淵)と維持(瀬)の区別もつかないのか。
樹も石も有のまゝなり夏坐鋪 桃隣
はあ、ちょっと皮肉めいた発句ではある。これに
樹も石も有のまゝなり夏坐鋪
音をいれ際のたかき鶯 露茄
と返す。鶯の季節も終わってしまい、鶯は高く飛び立ち、すっかり夏の荒れ果てた景色になってしまいました。鶯は亡き父の象徴であろう。
露茄の方からすれば、亡き父の庭に勝手に手を入れるよりも、あくまでもそのままにしておきたいという気持ちだったのだろう。その気持ちもわかる。
第三。
音をいれ際のたかき鶯
朝力鉄の錠を引かねて 則堂
「朝力」はよくわからないが、朝で力が入らず門の鉄の錠を開くことができないということか。
四句目。
朝力鉄の錠を引かねて
峯よりすつと兀辷ル砂 呂州
「兀辷ル」の読み方がわからない。「兀」は忽然と聳える様だが、「兀々(こつこつ)」は真面目にという意味。「辷」は滑ることをいう。意味としては峯の高いところから砂が滑り落ちてくるということだろう。
峯の高いところにある岩屋で修行している人がいて、その人が錠を開けようとして崖の下に砂を落とすということか。
五句目。
峯よりすつと兀辷ル砂
十六夜の光納る六つの鐘 助曳
明六つは卯の刻で日の出の頃。十六夜の月も西に傾き、沈もうとしている。助曳は桃隣の旅にずっと付き従っている。月の定座だがあえて「月」の字を入れず「十六夜」で月としている。
六句目。
十六夜の光納る六つの鐘
案山子を齅で通る獸 普提
「齅」は嗅に同じ。「獣」は「けだもの」。明け方に夜活動するシカやイノシシも帰ってゆく。
「右一巻となして」とあるから続きもあったのだろう。歌仙か半歌仙かはわからないが一巻を呂丸の霊前にお供えする。
「羽黒ヨリ庄内鶴ヶ岡へは三里也。城下近ク行水、梵字川と云。水上は湯殿山。
〇夏百日身は潔白よ梵字川」(舞都遲登理)
鶴岡市は羽黒山手向町の西にある。梵字川は今は上流の方だけを示す名称で、湯殿山を水源として大鳥川と合流し、赤川になる。鶴岡の城下を流れる川は今は赤川になっている。
夏百日身は潔白よ梵字川 桃隣
「夏百日」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「げ」は「夏」の呉音。「夏」は、ほぼ百日間であるところから) 夏の期間。また、その間、夏籠(げこも)りすること。《季・夏》
※浮世草子・好色万金丹(1694)一「夏(ゲ)百日の間酒と煙草を断ちけるも始末のうち也」
とあり、夏安居とも夏行ともいう。夏は虫が多いため、それを踏んで殺生をしないために籠って修行する。
夏安居の季節にこうやって旅をしているが、罪は清められています。梵字川で清めたから、というところか。
「六月十五日ハ羽黒山祭禮、三所權現神與御出、鉾幡・傘鉾計ニテ、境内纔一丁計廻リ、其儘本社へ入せ給ふ。繕はぬ古例、謂レ有事とや。近郷擧テ詣ス。
〇五十間練ルを羽黒のまつり哉
〇吹螺に木末の蟬も鳴止ぬ」(舞都遲登理)
出羽三山神社のホームページには、
「昔は陰暦の四月八日から七月十四日までの九十六日間、羽黒三所権現の宝前に花を供えて、始夜(深夜)と後夜(未明)に鐘を撞いて現世・後世の安穏と菩提を祈るところから、「花供の峰」ともいう。この期間中は諸国の末派山伏が信徒や弟子山伏等を率いて入峰することから「夏の峰」と呼び、煩悩多き現世から悟りの彼岸に駆ける修行としていた。この夏の峰中の盛儀が、六月十五日(陽暦の七月十五日)、羽黒山頂で行われる花祭りなのである。」
現在は明治政府によって旧暦の行事が禁止されたため、月遅れで七月十四・十五日の二日間行われる。
桃隣の時代は神輿、鉾幡、傘鉾が百十メートルほどの境内を一周するだけのシンプルなものだったようだ。近郷から人が集まって賑わっていた。
五十間練ルを羽黒のまつり哉 桃隣
一丁は六十間だが、五七五に収めるためか五十間とさらに短くなっている。まあ、正確に測ったわけでないから大体の数字だが。
吹螺に木末の蟬も鳴止ぬ 桃隣
しきりに法螺貝を吹いてはいても、蝉は泣き止まない。
「手向町より神宮まで四十丁、石の階、半途に祓川、此所にて垢離をとる。森々たる杉の間より瀧落、水の烟はくりから不動の腰を廻る。修檢横行の珠數の音、邪欲煩悩の夢を覺ず。
遙に見れば五重の塔、是は鶴ヶ岡城主建立たり。別當は若王寺、高山の岨を請ておびたゞしき一構、風景いふに及ず。同隱居南谷に菴室、風呂の用水は瀧を請てたゝえ、厠は高野に同じ。
〇水無月は隱れて居たし南谷」(舞都遲登理)
手向町から羽黒山の神宮(当時は修験の場で若王寺宝前院とそれに付随した神社があった。)までは四百四十メートルくらいで、石段があり途中に祓川(今の京田川)がある。「垢離(こり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「垢離」はあて字で「川降(かわお)り」の変化したものともいう) 神仏に祈願する時、冷水を浴びてからだのけがれを除き、身心を清浄にすること。真言宗や修験道(しゅげんどう)からおこった。水ごり。
※山家集(12C後)下「あらたなる熊野詣でのしるしをば氷のこりに得べき成けり」
とある。
滝は今の須賀の滝で昔は不動滝と言った。今は滝の前に岩戸分神社と祓川神社の社があり、その間に小さな不動像があるが、昔は不動がメインで、立派な不動像が建っていたのだろう。辺りには修験者がたくさんいて、その数珠の音が響き渡っていた。
その先へ登ってゆけば五重の塔がある。ウィキペディアには、
「平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。
塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。」
とある。桃隣は「鶴ヶ岡城主建立」と書いているが、最上義光が修理したことで銘か何かがあって勘違いしたか。
「別當は若王寺」とあるのはこのあたりの神社や修験の場を統括する別当のいる寺が若王寺という意味。若王寺宝前院のことをいう。
芭蕉と曾良は本坊若王寺別当執行代和交院ヘ大石田平右衛門から状添を渡し、別当代会覚阿闍利に謁し、南谷の別当代の隠居所、別院紫苑寺に宿泊したが、これも曾良の人脈の力であろう。桃隣はただただ若王寺の大伽藍に驚き、南谷の隠居所も滝から水を引いた風呂と、高野山のトイレと同様の川の水に流す水洗式のトイレを見て、
水無月は隱れて居たし南谷 桃隣
と、泊まりたかったなとこぼすのだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿