2021年5月31日月曜日

 だいぶ新規感染者数が減ってきたので、久しぶりに散歩に出た。暑いので早朝に近所を歩いた。イソヒヨドリだと思ってたのは違ってて、ガビチョウという外来種らしい。峨眉山の鳥だと思ったら「画眉鳥」で眉を描いたような鳥だからだという。姿は見えなかったが。タチアオイの花が見ごろだった。
 今朝の新聞にオリンピックについての世論調査が載っていたが、「中止もやむを得ない」と「再延期もやむをえない」という項目はあったが、「断固中止すべきである」という項目はなかった。これでは調査する意味がない。
 「中止もやむを得ない」と「再延期もやむをえない」を合わせて62パーセントだが、これはオリンピック開催に反対する人が6割もいるということではない。
 ここにはオリンピック開催には本当は大賛成だがコロナが再び猛威を振るえば中止もやむを得ないという人も含まれているし、誘致の段階からオリンピック開催には絶対に反対だったという人も含まれている。その比率がはっきりしない以上、この調査からは何の判断もできない。すくなくともオリンピック開催に反対が62パーセントということにはならない。
 おそらく本当の反対派は15パーセント程度、賛成だがやむを得ないが47パーセントくらいではないかと思う。そして、この47パーセントは実際ににオリンピックが開催されれば喜ぶと思う。
 最近の世論調査は万事この調子で、論点をわざと隠して、少数意見があたかも多数であるかのように印象操作し、サイレントマジョリティーの声を抹殺している。モリカケの時もそうだった。
 そういえば海外の文化人のコメントってパヨクが教えた通りのことを言うから笑える。まあ、こういう人たちって、日本に来てもパヨクの案内でパヨクの説明を聞くだけだから、いつまでたっても同じことを言っている。日本に芭蕉のことを学びに来る人も、みんなそうなんだろうな。まあ西洋の文学論の鸚鵡返しだから、外人には耳当たりがいいんだろう。
 まあ、そういう人たちにすれば日本は永遠の謎だね。まあ「秘すれば花」ともいうけど。

 それでは「梟日記」の続き。

17,岩国、柱野

「廿五日
   周防國
 この日岩國の續橋を見て、柱野といふ所に宿す。此處を旅立出るに、雨もそぼふりてこゝろぼそき山中なりしが、田舍座頭の琵琶負ふたるさまをはじめて見侍りて、
 ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師」

 ふたたび山陽道の陸路を岩国に向かう。宮島を出て玖波宿から苦の坂の峠を越えると小瀬川に沿って進む。ここをさらに直線的に進み小瀬峠を越えると岩国城のあった所に出る。ただ岩国城は元和元年(一六一五年)に廃城になり、陣屋があるのみだった。
 その南東の錦川に架かる続橋は錦帯橋の名前で今でも有名だ。延宝元年に最初のものが建造され、以後約二十年ごとに掛け替えが行われているという。最初の架け替えが元禄十二年(一六九九年)なので、支考が見たのは初代の橋になる。
 続橋を見てふたたび山陽道に戻り、岩国城址の西側で錦川を渡り、御庄川に沿って行くと柱野に着く。山の中の間宿であろう。
 ここで座頭の琵琶法師に出会う。おそらく古浄瑠璃を語る琵琶法師は延宝の頃にはまだ多少は残っていたのだろう。その頃でも琵琶ではなく三味線を持つようになってたようだが、その後急速に琵琶法師は廃れていったため、寛文生まれの支考には初めて見るものだったのだろう。
 芭蕉は元禄二年の『奥の細道』の旅の時、末の松山で奥浄瑠璃を語る琵琶法師に遭遇している。それからも九年後のことだ。
 支考が竹原で詠んだ、

   箸も一度に切麦の音
 あたまはるまねに座頭のにつとして 支考

の第三も、古い世代の人だったら按摩ではなく琵琶法師の方を想像したかもしれない。
 ここで一句。

 ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師 支考


18,徳山

「廿六日
   德山
 雲鈴曰、今宵此所發句ありや。予曰、なからん。德山とは夏の名にあらず。先師むかし出羽の國を過たまひて、
 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
 此句は吹浦の二字うれしければかく申され侍しを、此ごろなにがしが集には、福浦かけてと出し侍り。是俳諧をしらぬのみにあらず。先師をあやまるにちかし。鈴曰、しからば福浦・德山の類は發句あるまじきや。予曰、季節の相應あるべし。福浦は正月とおもひよせて、万歳・鳥追の類にあるべく、德山は冬きたりて炭賣・柴賣の類にあるべし。このごろの俳諧の撰集に、先師のこゝろにもあらぬ發句を書ならべ、天地にたがひたる句意を集の題號にとりつけたるなど、その場しらぬ人のあやまりたる也。むかしある人、さのゝ渡にほとゝぎすの哥よまれしを、さる事あるまじと人の難じ給ひしとかや。げにさのゝわたりといへば、空晴て寒きやうにおもはるゝかし。いにしへより哥の名所に、そこに是はいはず、こゝにそれはよませじなどいへば、あら氣づまりの哥道や、たゞ俳諧せむといふ人あり。さるは俳諧の仲間にも得あるまじき人なり。かゝる事はその道々の宗匠の格式をたてゝ、無理を云やうにおもふらめど、その場その場の物のかなへる本情は、何の俳諧に無法あらん。富士參に雪隱を案じ、芳野ゝ奥に鰒汁の相談をして、是はめづらしき名所のよせ物などいへるは、世の雜談俚語といふべし。それは鴫たつ澤の夕おかしく、田子の浦のあさ日はなやかならんといふ、その場をしらぬ人なるべし。されば珍しき事あたらしき事をこのむは、人の世の中に何かおもしろからんと、たくみありく遊人のたぐひなるべし。面白事に面白事をかさぬれば、それもおもしろからず、是もおもしろからず。はては金殿樓閣にもあきて、その果は世の中も飽ぬるかし。是風雅の淋しきより、にぎはしき方を見やるべき世にある人の心なるが、まして行脚漂流の身のその場といふをしらねば、たゞ放言の遊人なりと先師も遺誠申されしが、俳諧ならでもたふとむべき事也。先師又いへる、名所に對して當季をむすび、その場を案ずるには、文字の數たらひがたからん。名所などは雜の句などは殊さら名人の手段なるべし。
   佐野礒田
 またぐらに山見る礒の田植かな
   黒髪山
 早乙女や黒髪やまを笠のかせ」

 山陽道の柱野を出て高森宿を過ぎると、次は徳山宿になる。ほぼ新幹線に沿うような道筋になる。
 その徳山だが、徳山市は今はない。平成の大合併で新南陽市、熊毛町、鹿野町と合わせて周南市になった。
 徳山は特に歌枕があるわけでもないし、源平合戦の史跡もない。こういう所での発句は難しい。これはたとえば戦後の歌謡曲でご当地ソングというのがあるが、徳山はそういう意味でも作りにくい場所だろう。徳山周辺の観光スポットをネットで調べても、出てくるのは錦帯橋や岩国城になってしまう。町おこしをするにもきっと苦労しているに違いない。周南市を「しゅうニャン市」にして猫の街にしようとかいうのがあるみたいだが。
 歌枕を読むときにわりかしよくあるのは、地名に掛けて詠むやりかたで、芭蕉が今の山形県の酒田に来た時にも、酒田も特に歌枕ではないし、夏に詠むのにちょうどいい名物もなかったが、たまたま「あつみ山」と「吹浦」という地名を見つけ、

 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ  芭蕉

の句を作った。単独では何の変哲もない地名でも、二つ組み合わせると暑い所に風が吹いて、「夕涼み」という季題で結ぶことができる。
 芭蕉の吹浦は風が吹くに掛けて吹浦だから意味があるので、これを福浦と表記してしまったのでは何の意味もない。
 徳山でも何かそういうのができればいいが、支考は何も思い浮かばなかったようだ。
 「福浦は正月とおもひよせて」というのは、「福」に掛けてのことで、「德山は冬きたりて炭賣・柴賣の類にあるべし」というから、当時は炭や薪のイメージがあったのか。まあ、この支考の予言は当たってなくもない。近代に入って一時期練炭の町になった。
 歌枕の句はその場にふさわしいものを詠むもので、「富士參に雪隱を案じ」は付け句であれば問題はないが、発句のネタではない。シモの発句が許されるのは尿前の関くらいだろう。
 付け句の場合はたとえば『ひさご』の「鐵砲の」の巻二十八句目に、

   から風の大岡寺繩手吹透し
 蟲のこはるに用叶へたき     乙州

の句がある。「太岡寺畷(だいこうじなわて)」は東海道の亀山宿と関宿の間にある鈴鹿川に沿った十八丁(約3.5キロ)にわたる土手の道で、風の通りも良い。それに、腹の虫のせいで腹がこわばって痛むので用を足したい。ただ見通しの良い縄手道では野グソというわけにもいかない。十八丁の道を我慢しなくては、と付ける。これなどは伊勢参りに雪隠を案じの例になる。
 「芳野ゝ奥に鰒汁」もまあ、何しにそんなところまで河豚汁をで、要するに必然性がない。下関の河豚なら普通だが。
 こういうのを窮屈と思うかもしれないが、たとえば「吉野慕情」みたいな吉野のご当地ソングを作る時に「河豚汁が旨い」なんてやるだろうか。ネタにしてもそれを面白く聞かせるのは難しいと思う。同人誌で細々とやっている文学者ならともかく、業界の人のやる事ではない。
 名所の句といっても一番良い時期に旅をできるとは限らないので、芭蕉も松島では満足のいく句は詠めなかった。

 島々や千々に砕きて夏の海    芭蕉

の句があるが、死後に発見されたということは、名所の句として発表するだけのレベルではないと思っていたのだろう。『奥の細道』に掲載された、

 松島や鶴に身をかれほととぎす  曾良

の句は、本来松島にふさわしい「鶴」を「鶴に身をかれ」ということで夏に登場させることに成功している。こちらの句の方が勝っていると判断したのだろう。
 ただ、支考の論がちょっとずれているとすれば、こうした紋切り型の定番を求めるのはむしろ世俗の方で、「世の雜談俚語」の方がそれを求めているということだ。それにうまく合った句を詠むことで良く流行することになる。
 たとえば、木更津でドラマを作ろうとしたら、まずみんなが思い浮かべるのは高校野球だろう。それに潮干狩り、證誠寺の狸、中の島大橋であろう。
 逆をいえばわざとそれを外そうとするのは、人とは違うんだという我の強い、アンチな人間であろう。芭蕉亡き後の俳諧は、そういう人が集まってしまったのかもしれない。
 「鴫たつ澤の夕おかしく、田子の浦のあさ日はなやかならん」というのも、行ったことのない人は和歌のイメージで鴫たつ澤は何だか知らないけど哀れなところで、田子の浦は富士山が見えるくらいに思う所だろう。わざと違うことを言う人間というのは、少なからず、俺は人とは違うんだ、という人間だろう。
 この辺りは支考自身がちょっと世間からずれてしまっているのではないかと気になる。
 まあ、世間も様々だから、いわゆる成金趣味の人というのもいる。「はては金殿樓閣にもあきて、その果は世の中も飽ぬるかし。是風雅の淋しきより、にぎはしき方を見やるべき世にある人の心なるが」というのは、元禄期にはそういう成金が多かったというのもあるのだろう。鴫立沢を埋め立ててリゾートホテルを立てようだとか、今でもいそうな感じはするが。
 まあ、実際勘違いする人は今でも多く、下町のうらぶれた風情が外人の間で人気になっているのに、そこにセーヌ川のようなこじゃれたカフェテラスを作れば外人大喜びで、インバウンドわんさか来てがっぽがっぽなんて開発計画が持ち上がったりもする。
 まあ、名所というのは基本的にブランドだから、そのブランドを壊すようなやり方は得策ではない。それと同じで名所の句というのも、世間が求めている名所のイメージというのを大事にしなくてはならない。

   佐野礒田
 またぐらに山見る礒の田植かな  支考
   黒髪山
 早乙女や黒髪やまを笠のかせ   同

 佐野礒田はどこらへんなのかよくわからない。地名の通りに磯の近くに田んぼがあるのだろう。田植をしている人の視点に立てば、股座から山が見える。
 黒髪山は瀬戸内海に浮かぶ黒髪島のことか。田植をしている早乙女の背後に黒髪島が見えれば、黒髪島があたかも巨大な笠のようだ。早乙女の黒髪に掛けて詠む所はお約束といったところか。

2021年5月30日日曜日

 昔はよく弁証法ということをいったが、資本主義をテーゼとしてマルクス主義をアンチテーゼとすると、その対立をアウフヘーベンするのは疎外なき資本主義ではないかと思う。誰もが気軽に資本参加でき、排除されることのない資本主義、それが今の持続可能資本主義と結びつけば無敵なんではないかと思う。
 歴史の終わりが見えてきたのかもしれない。
 あと、鈴呂屋書庫に「いざ子ども」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「梟日記」の続き。

15,西條四日市

「十九日
 例のさみだれにふられて竹原を旅だち出るに、流水のおのこ、心ありて林光庵の辻といふ所におくり來る。道のほど二里ばかりもあらん。是に留別の句かきて、つかはしける。
 我影や田植の笠にまぎれゆく
 今宵は四日市といふ所に宿し侍るが、蚊屋釣よすがもなきいぶせきやどりなりけり。このあたりは西條とかいへる柿の名所なり。此里に我名しりたるおのこあるて、來りて風雅の事いひていにける。あとに宿のあるじのいかに聞とりてか、我に物かきて得させよといふ。あなかしこ我をたふときものと思ふにこそと、こゝろのほどおかしければ、かくいふ事をかきてとらせける。
 弘法を狸にしたる蚊遣かな
 次の日は廣島にいたる。里洞・柳江を尋るにあはず。是より後、下の關を過て柳江に逢ふ。心ざしのおのこ也。」

 西条四日市宿は内陸部にあるので再び陸路で山陽道に戻ったのだろう。山陽道は尾道から本郷(三原市)から竹原市新庄町を経て、山陽新幹線に近い田万里を通り、三永から松子山大池の西の松子山峠を越えて西条四日市宿に出る。
 林光庵の辻はこの山陽道のルートからすると竹原市新庄町の辺りであろう。流水は竹原での二つ目の表八句で四句目の、

   から笠に皆俳諧の名をかきて
 三日四日の月の宵の間      流水

の句を付けている。別れ際に、

 我影や田植の笠にまぎれゆく   支考

の句を竹原の人たちに書き、流水に托す。
 笠を被った旅姿の自分ではあるが、この季節は田植で笠を被っている人がたくさんいるので、その中に紛れるように去って行きます。田植は神事なので簑笠を着た。
 松子山とうげを越えて歌謡坂(うたうたひざか)を下ると西条四日市宿がある。名産の西條柿がある。渋柿だが糖度が高く、干柿にすれば最高の甘い柿になるという。
 四日市に宿泊すると支考の名を知っている人がいて、「風雅の事」つまり俳諧のことをいろいろ言って去って行く。あとで宿の主に言われたが、揮毫を頼まれる。こういうとき芭蕉だったら「時鳥の所に案内しろ」だとか「代わりに庭を掃いておいてくれ」だとかいう所だが、支考は有名になったなって喜んだか、

 弘法を狸にしたる蚊遣かな    支考

の句を書き記す。これは「串に鯨を」の用法で、狸で弘法にする、つまり狸が弘法に化けるという意味になる。こんな狸を弘法だと思って揮毫せよということか。蚊遣の煙たい宿だった。
 翌二十日は広島まで行く。西條四日市から大山峠を越えて行く、今の国道二号線に並行した道だ。
 峠を越えると海田市の辺りから天神川の方へ行き、広島宿に入る。
 里洞・柳江には会えなかった。後に柳江には下関で逢うことになる。


16,宮嶋

「廿二日
   宮嶋
    神前奉納
 燈籠やいつくしま山波の華
   三とせの先ならん。ある夜の夢に何ともな
   き山里に行けるが、宇金の布衣かけたるお
   のこの我にむかひて、是は安藝の宮嶋とい
   ふ所なりといへるに、ほとゝぎすの聲の山
   影にきこえたれば〽郭公是を山路の小春か
   なとおもひよりて小春の山路とやせん、山
   路の小春とやせんと思ふほどに、夢の行衛
   もしらずなりぬ。されば今宵は廿二日、神
   前の廻廊も百八の灯籠かけわたして、冥感
   と肝にそむばかりにたふとかりしが、眼前
   の境に催されて、たゞ今の句をぞ得侍る。
   當季さだめがたければ、過し夢の事まで思
   ひあはせけるなり。

 華表額 表 嚴嶋大明神   弘法大師筆也
     裏 伊都岐島大明神 小野道風筆也

 御殿の反橋の際に、尊圓親王の落書あり。長谷千松とあり。兒の時なるべし。
   彌山
 彌山とは芥子のつぼみに朝日哉
   尚政亭
 鹿の子のあそびたらでや磯の月」

 日本三景というのは林羅山の息子の林鵞峰が言い出したことで、ウィキペディアによると『日本国事跡考』に、

 「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀」

によると言われている。
 それをいうと、芭蕉は松島には行ったが、後の二つは見残していることになる。
 その見残しの一つ、秋の宮嶋に支考は参拝する。そこで一句。

    神前奉納
 燈籠やいつくしま山波の華    支考

 芭蕉も神社を詠んだ句はあるが「神前奉納」という形を取ってはいなかった。まあ、詠む句すべてが神仏に奉納するものだったのかもしれない。桃隣も「舞都遲登理」で鹿島に行った時に、

 奉納 額にて掃くや三笠の花の塵

と記しているが、芭蕉のように自然な形で神仏に接するのではなく、どこか形式主義化した感じがする。
 竹原での表八句の発句に、あえて「不易」との注を添えねばならなかったような、芭蕉の死後に俳諧のアンチが勢いづくようなことがあって、俳諧を擁護するためのいろいろな名目を述べなければいけないような状況が生じていたのかもしれない。
 支考の句の方だが、眼前に厳島神社の燈籠が並び、背後には厳島の山があり、正面には瀬戸内海の波の花が咲いている。
 土芳の『三冊子』「くろさうし」に、

 「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142~143)

とある。「物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。」を基本通りに実行したような句だ。安芸の宮嶋を見まわして燈籠がある、厳島の山がある、前に海がある、それをそのまま書き写し、特に面白おかしく取り囃したりもせずに静かに詠んだ句だ。
 このあと支考は三年前の夢のことを書き記している。三年前というと元禄八年だから、芭蕉が去った後のことだ。
 見知らぬ山里で宇金の布衣を掛ける人がいた。宇金の布衣はウコンで染めた黄色い衣だろう。タイのお坊さんが思い浮かぶが、当時の日本では高僧の着るものだった。そしてここは安芸の宮嶋だという。
 折からホトトギスが鳴いたので、支考は、

 郭公是を山路の小春かな

と詠もうとしたが「小春の山路かな」の方が良いか、どちらが良いか迷った。「小春」は旧暦十月のことで、それにホトトギスは変だが、そこは夢だからということだろう。夢の中で思いつくことってそういうことが多く、たまたま目覚めて覚えていて書き留めてみても、読んでみると何だこりゃ、使えん、ということがよくある。支考もこの夢のことを忘れていて、この時ふっと思い出したのだろう。
 そして「今宵は廿二日、神前の廻廊も百八の灯籠かけわたして」と「眼前の境に催され」るがままに、「燈籠や」の句を詠んだ。ただ、夏の季がうまく乗っからないので、夢で詠んだ句のようにおかしなものになってしまった、と自嘲する。ただ、名所の句は無季でもいいと、

 歩行ならば杖突坂を落馬哉    芭蕉

の前例もある。
 「波の華」は貞徳の『俳諧御傘』に、

 「花の波 正花也。水辺に三句也。但、可依句体。波の花は非正花、白浪のはなに似たるをいふなり、植物にあらず。」

とある。
 この後に厳島神社の扁額のことが記されている。今の物は有栖川宮熾仁親王の書だという。明治の廃仏毀釈の時に掛け替えられたのであろう。
 支考の見た古い額は厳島神社宝物館にあるという。ただ、これは一五四七年(天文十六年)に大内義隆によって再建され四代目の大鳥居のもので、初代大鳥居に掲げられていた小野道風と弘法大師の額ではないという。
 御殿の反橋も一五五七年に再建されたもので、そうなると「長谷千松」の落書きも怪しい。

   彌山
 彌山とは芥子のつぼみに朝日哉  支考

 弥山(みせん)は宮嶋の最高峰で標高約535メートル。今ではロープウェイで登れる。
 句の方は芥子のつぼみが下を向いているということで、ひたすら拝み、こうべを垂れているところに御来光の朝日が射す、という意味だろう。

   尚政亭
 鹿の子のあそびたらでや磯の月  支考

 尚政亭は支考の宿泊地であろう。関西大学図書館のサイトの鬼洞文庫に、

 「承応二年九月二十五日興行、「賦御何」連歌百韻の巻物一巻がある。発句「世を照す神のめくみや秋の月 仙甫」。連中は仙甫、正音、尚政、昌句、以春、種定、宗因、西順、等二、玖也、盛次、友貞。宗因が出座するもので注目されるが、尾崎千佳氏「西山宗因年譜稿」(『ビブリア』111)にも未収のようである。」

とあり、四十五年前の承応二年(一六五三年)の尚政と同一人物だとしたら、かなりの高齢になる。
 支考編『西華集』には尚政の発句による表八句が収められている。もう少し長く逗留して、俳諧興行をたくさんやりたかったという思いが「あそびたらでや」に込められているのだろう。

2021年5月29日土曜日

 種の保存に関しては何度もいうようだが、生物学的にはそれは偶然の結果であって、何ら目的は存在しない。「種の保存のために」というのはラマルキズムの幻想にすぎない。異性愛になるか同性愛になるかはあくまで偶然であって、そこには何の目的もない。
 種の保存ということに関して言えば、たとえば昔の浄瑠璃にあるような心中物も、種の保存という意味では失敗している。ロミオとジュリエットだってそうだ。種の保存という意味では失敗者だ。それでも恋の情はそうした目的とは何の関係もなく、人々の心を突き動かし、それを扱った芝居は人々を感動させる。
 いつの時代でもどこの国でも人々が求めているのは、そういった純粋な恋愛だと思う。
 ただ、これも繰り返しになるが、子宮を持つ者はペニスを持つ者から守られなくてはならない。
 それとスポーツ競技の男女の別が競技の性質上必要とされるのであれば、肉体的な性によって定義されねばならない。そうでないと女性に生まれついた者がスポーツで一番になる夢を奪われることになる。
 トランスジェンダーは社会的に既にハンディを背負ってるからというのは言い訳にならない。そのハンディをなくすのが我々の仕事ではなかったのかい?
 別の問題だが、囲碁に男女の別がないのに、将棋は何を根拠に男女を分けているのか、藤井君はどう思っているのだろうか。これは「りゅうおうのおしごと!」の提起している問題でもある。
 あとLGBTの開放に必要なのは革命ではない。資本への参加だ。最終的には全員が資本に参加することで「疎外(仲間外れ)なき資本主義」を作り上げることだ。
 「排除なき共同体」は現段階で最も生産効率のいい資本主義とタッグを組むしかない。資本主義よりも効率の良い生産方式が開発されない限り、革命を起こせば貧しくなる。今は持続可能資本主義に広く誰もが資本参加することが望ましい。
 あと、鈴呂屋書庫に「星今宵」の巻をアップしたのでよろしく。この巻は第三までは曾良の『俳諧書留』にあるので間違いはないが、あとの『金蘭集』(文化三年刊)に掲載された部分については蕉門俳諧らしい面白さが感じられない。それと、同じところで巻かれた「文月や」の巻は文月六日の興行ではなく、七日の興行だったので訂正した。発句の日付に騙された。
 あと「野あらしに」の巻も追加。

 それでは「梟日記」の続き。

14,竹原

「十七日
   安藝國
 この竹原といふ所は、山を箕の手におひて、前に汐濱あり。何かゆふべのといへるたびねの心にもかよひて、あはれむべき住どころなりしが、むかしのおとゞはうつしてだに見給へるに、さなく見る事のめづらしければ、なにがし一雨亭にこのほどのやどりもとめ侍る。
 五月雨の汐屋にちかき燒火かな」

 「箕の手におひて」は箕の手形(てなり)のことで、コトバンクの「デジタル大辞泉「箕の手形」の解説」に、「左右に出っ張った形。」とある。ここでは左右山が迫った谷間で、前は浜という竹原の地形をいう。
 「何かゆふべの」はよくわからないが、

 夕されば何か急がむもみぢ葉の
     したてる山は夜もこえなむ
              大江匡房(詞花集)

の歌か。あるいは、

 なにゆゑと思ひもいれぬ夕べだに
     待ち出でしものを山の端の月
              藤原良経(新古今集)

か。「むかしのおとゞ」とあるから、摂政太政大臣藤原良経の方か。
 十七日だから日が沈んだ後に竹原の濱に着けば真っ暗闇になっている。月が登るのを待ってようやく一雨亭にたどり着いたということか。ここで一句。

 五月雨の汐屋にちかき燒火かな  支考

「十八日
 此日梅睡亭にまねかる。是も汐濱の中にありて、千山も万水ものぞみたふまじき別墅なり。今日はことに片照片降とかいふ空のけしきなれば、よのつねにはあらでいとよし。
 夏菊に濱松風のたよりかな」

 竹原の梅睡亭も一雨亭と同様、浜辺にある。裏には千山、正面には万水と、これ以上望むことのできない場所だった。
 「片照片降」は一方で雨が降って一方で日が照っているという安定しない天気とはいえ、雨上がりの光の射す時にはこの上なく美しい世界を映し出す。ここで一句。

 夏菊に濱松風のたよりかな    支考

 ネット上の佐野由美子さんの「竹原地方における蕉風俳諧の伝播」には、支考編『西華集』に収録された竹原での俳諧(表八句)とその支考の注が記されている。

 蓮池は吹ぬに風の薫かな      一雨
   箸も一度に切麦の音      時習
 あたまはるまねに座頭のにつとして 支考
   雨の降日は淋しかりける    孤舟
 磯ちかき野飼の牛の十五六     雲鈴
   宿かりかねし旅の御僧     梅睡
 あらし立今宵の月は細々と     一故
   粟苅れても鶉啼なり      如柳

 発句、

 蓮池は吹ぬに風の薫かな     一雨

の句は、蓮の咲いている池に風が吹いてないのに風の薫りがする、という意味で、風がなくても自ずと蓮の香が漂ってくるという所に、支考は天下泰平の風だと解釈する。注に、

 第一 不易の真也吹ぬに風のと轉倒したる所よりミれは
    かならず蓮池の薫のミならんやかの琴上の南風な
    るべし

とある。
 琴上の南風は『十八史略』に、

 舜彈五絃之琴、歌南風之詩、而天下治。詩曰、

 南風之薫兮 可以解吾民之慍兮
 南風之時兮 可以阜吾民之財兮

とあるという。
 まあ、風流の基本は天下の太平をよろこび、笑い合うことにあるわけで、そうした和を感じさせる挨拶は基本的に風雅の誠に適うもので「不易の真」ということになる。
 ある意味「不易」は流行しない凡句を褒めて言う言い方なのかもしれない。
 脇。

   蓮池は吹ぬに風の薫かな
 箸も一度に切麦の音       時習

 切り麦はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切麦」の解説」に、

 「〘名〙 (「麦」は麺(めん)の意) 小麦粉を練り、うどんより細く切った食品。多くは、夏季、ゆでて水に冷やして食べる。ひやむぎ。切麺。《季・夏》
  ※多聞院日記‐永正三年(1506)五月二六日「今日順次沙二汰之一了〈略〉後段〈うとん・きりむき・山のいも・松茸〉」

とある。
 夏の暑い時に風もないということで、一気に冷や麦をすする。支考の注に、

 第二 其場也箸も一度にといひよセて切麦の凉しき音を
    あつめたる廣き寺かたのありさまなるべし。

とある。
 切麦や切蕎麦は寺で出すことが多い。一斉に冷や麦をすする音に寺の広さというのは、実際の興行の場のことを言っているのだろう。
 第三。

   箸も一度に切麦の音
 あたまはるまねに座頭のにつとして 支考

 まあ、楽しく会食していると、誰かがボケてそれにパシッと突っ込みを入れるふりをしたりって昔からあったのだろう。
 座頭はこの突込みの頭を張る場面が見えてはいないが、研ぎ澄まされた聴覚で何が起きているかはわかっていて、にっと笑う。
 「につと」は今日の「にやっと」のニュアンスではなく「にこっと笑う」の意味。元禄七年の「鶯に」の巻三十二句目に、

   参宮といへば盗みもゆるしけり
 にっと朝日に迎ふよこ雲     芭蕉

の句がある。
 この句は支考の自注に、

 第三 其人の一轉也給仕の者の手もとちかく末座はかな
    らず按摩の座頭ならんされは此下の五もしにいた
    りて一朝一夕の工夫にあらす百錬の後こゝにいた
    る句に雑話をはなるゝ事誠にかたしとうけたまハ
    りしか

 お寺での会食に按摩の座頭がいるのはあるあるだったのかもしれない。切麦の場に按摩を取り合わせたところに、ふざけて頭を張る真似をしたところで座頭がにっと笑うという取り囃しというか、今でいうネタを即座に持って来れるのは、俳諧師としての修行の賜物であろう。日頃から日常の何か面白いことを探し求め、それをたくさん頭の中にストックしているからできる。
 四句目。

   あたまはるまねに座頭のにつとして
 雨の降日は淋しかりける     孤舟

 雨に降る日は淋しすぎるから、なんとか紛らわそうと笑わせようとする、ということだろう。四句目はこのようにさっと流すのは悪くない。支考の注は第三までしかない。
 五句目。

   雨の降日は淋しかりける
 磯ちかき野飼の牛の十五六    雲鈴

 雨の日の野飼いの牛は、たくさんいても淋しそうに見える。「磯ちかき」で水辺に転じる。
 六句目。

   磯ちかき野飼の牛の十五六
 宿かりかねし旅の御僧      梅睡

 磯の傍で家もなく雨宿りする所もない。前句をその旅の風景として旅体に転じる。
 七句目。

   宿かりかねし旅の御僧
 あらし立今宵の月は細々と    一故

 あらし立(たつ)は「風立ちぬ」と同様に嵐が吹いてくること。三日頃の月で細い月が心細くて吹き散りそうだ。宿のない旅僧の心境にに重なる。
 八句目。

   あらし立今宵の月は細々と
 粟苅れても鶉啼なり       如柳

 粟と鶉は和歌にも詠まれていて、

 うづらなく粟つのはらのしのすすき
     すきそやられぬ秋の夕ベは
              藤原俊成(夫木抄)

などの歌がある。それを粟すらなくて鶉が鳴くからもっと淋しい、とする。
 惟然の『二葉集』でも面六句がいくつも収められているように、この頃の中国地方には、一晩で歌仙一巻を満尾できるほどの者が揃わなかったのかもしれない。一句付けるのにうんうん唸りながら時間を食ってしまうと、興行そのものが退屈になるし、こうした難しさがじわじわと俳諧そのものの衰退につながっていったのだろう。
 佐野由美子さんの「竹原地方における蕉風俳諧の伝播」には、メンバーの違うもう一つの面八句が収められている。

 山陰は哥の遠のく田植哉     春草
   昼寐そろハぬ庵の凉風    釣舟
 から笠に皆俳諧の名をかきて   支考
   三日四日の月の宵の間    流水
 雁啼て湖水を渡る鐘の声     似水
   早稲も晩稲もあるゝ軍場   樗散
 今の世は子共も酒をよく呑て   雲鈴
   もたれかゝれはこかすから紙 高吹

2021年5月28日金曜日

 コロナの方は新規感染者数は沖縄を除いてピークアウト、実効再生産数は全国で0.84、ワクチン接種は約1120万回、この辺は希望が持てる。死者の方は大体一か月遅れで増えるので、今月中に1万3000人は越えるだろう。
 まあ、去年は何十万人もの人が死ぬかもしれないと言ってから、それに比べればましな状況になったが、東日本大震災の死者数1万5899人は六月か七月かには上回ることになるだろう。まだまだ戦いは続く。
 あと、「御尋に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「梟日記」の続き。

13,竹原への船路

「十六日
   備後國
  宿福善寺
 此日尾道より小舟に棹して、安藝の竹原といふ處にわたる。道のほど八里ばかり也。青巒の影左右につらなりて江上の望遠からず。淨土寺の塔は松の木間にかくれて、千光寺の塔はこなたの雲にそびゆ。西湖の風月・煙雨の樓臺すべてこのまのあたりをさらず。舟は静にして座せるがごとく、かたはしに苫屋形ふきよせたれば、東坡が赤壁の繪を見るやうにぞ侍る。をりふし酒もあり肴もありて、このふねとぼしからず。殊に年老たる船頭の物いはぬ顔のおかしければとて、たゞ醉によひふしね。かくて楓橋の夢もさめて、夕陽のかけみねにかゝれば、三原の城は松の麓にかゞやきて、鳥の聲もきこゆばかり也。されば此あたりあしか泻ともいひ、能地の浦とかや浮鯛の名所なるよし、かねて人のかたり申されしが、世に櫻鯛の名はありながら、この魚のいろのみよく照りて、風味又よのつねならずと。かの松江のすゞきは、あたまにては侍らざらん。
 浮鯛の名やさくら散三四月」

 尾道から船で竹原へ向かう。八里という道のりは今の地図上を見ても大体あっていると思う。「巒」は峰のことで、青い木木の鬱蒼と茂った山が海の左右に連なって、遠くの方は見えにくい。右側は山陽の山が連なり、左側は向島、岩子島、因島、佐木島、高根島などが並ぶ。
 今の尾道駅の辺りから船に乗ったのなら、転法輪山浄土寺は岡山側に逆戻りすることになる。船から浄土寺が見えたのなら、船はやはり今津宿か、その辺りかから出てたのだろう。これだと海に出て、やがて向島との間の狭い水路を進み、すぐに右側に浄土寺が見えてくる。ウィキペディアには、

 「浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市東久保町にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)。院号は大乗院。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所である。」

 「推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開いたとも伝えられる。」

とある。浄土寺の多宝塔は、ウィキペディアに、

 「 嘉暦3年(1328年)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。」

とある。松の木間からちらっと見えるだけだったか。
 千光寺は浄土寺の少し先の大宝山の中腹にある。ウィキペディアに、

 「千光寺(せんこうじ)は広島県尾道市東土堂町の千光寺公園内にある真言宗系の単立寺院。山号は大宝山(たいほうざん)。本尊は千手観音。中国三十三観音第十番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十番札所である。
 境内からは尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道、向島等が一望でき、ここから取られた写真がよく観光案内などに使用されている。」

とある。大同元年(八〇六年)の創建になる。
 「千光寺の塔」は天寧寺の塔であろう。ウィキペディアに、

 「天寧寺三重塔:1388年(嘉慶2年)に足利義詮が五重塔として建立。元禄5年(1692年)老朽化したため上部の2層(四重目・五重目)を取り除き、現在の三重塔(高さ約20m)の姿になった。」

とある。支考の来た時には既に三重塔になっていたが、「こなたの雲にそびゆ」ように見えた。
 「西湖の風月」は中国の杭州にあり、白楽天の「銭塘江春行」の詩でも知られている。「煙雨の樓臺」は杜牧の、

   江南春望   杜牧
 千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中

 千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
 水辺の村山村の壁酒の旗に風
 南朝には四百八十の寺
 沢山の楼台をけぶらせる雨
 
であろう。
 さて、支考、除風、雲鈴の三人の乗っている船だが、「舟は静にして座せるがごとく」とあるからそんなに小さな船ではないだろう。「かたはしに苫屋形ふきよせ」とあり、小さなキャビンがある。
 「東坡が赤壁の繪を見るやうに」は蘇軾の『前赤壁賦』であろう。

 「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」
 (壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)

の情景は芭蕉が、

 ほととぎす声横たふや水の上   芭蕉

の句を詠んだ時にイメージに合ったもので、元禄六年四月二十九日付の荊口宛書簡に、「水光接天、白露横江の字、横、句眼なるべしや。」とある。支考もこの句を思い出したのではないかと思う。
 「をりふし酒もあり肴もありて」とあるから、昼間っから酒盛りが始まったのだろう。そして、今の慰安旅行でもよくあるパターンだが、午前中に酒飲んで盛り上がると、大体午後にはみんな寝てしまう。
 「楓橋の夢」は、

   過楓橋寺   孫覿
 白首重來一夢中 靑山不改舊時容
 烏啼月落橋邊寺 欹枕猶聞半夜鐘

 白髪になってもずっと見続けている同じ夢
 青々とした山は変わず昔のままさ
 鳥が鳴いて月が落ちて橋の傍の寺
 眠るともなく床の中で聞こえる鐘はもう夜中

の詩で、まあいつまでも若いと思ってたら時はあっという間に過ぎ去り、ということになる。酔っ払って寝ていたら、いつの間にか三原を過ぎていた。ただまだ竹原までの半分くらいしか進んでいない。「夕陽のかけみねにかゝれば」はかなり盛ってるのではないか。三原城が見えたのなら、まだせいぜい須波の辺りだろう。
 ここから左側に佐木島、高根島を見て過ぎる辺りが「能地の浦」になる。今でも「三原市幸崎町能地」という地名が残っている。浮鯛神社があり、海流の関係で深海にいる鯛が浮かび上がってくるという。浮き鯛はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浮鯛」の解説」に、

 「〘名〙 桜の花の咲く頃に海面に群がり浮き上がってくる鯛。鯛類は比較的深い所にいるが、潮流などの影響で急に水圧が減少し、浮き袋の調節ができないで水面に浮いてくる鯛をいう。《季・春》
  ※俳諧・毛吹草(1638)四「安芸〈略〉野路(のぢの)浮鯛(ウキタイ)」

とある。残念ながら浮鯛の季節はもう終わっていたが、ここで一句。

 浮鯛の名やさくら散三四月    支考

 「この魚のいろのみよく照りて、風味又よのつねならず」は松江のスズキにも喩えられる。松江のスズキは上海松江で獲れるという松江鱸魚で、日本でヤマノカミと呼ばれる魚だという。
 この少し先に大久野島があるが、当時は何の変哲もないただの島だった。太平洋戦争の時ここに毒ガス製造施設がつくられ、そこで実験用に飼育されていた外来種のアナウサギが戦後野生化し、つい最近になってウサギの島としてバズることになった。

2021年5月27日木曜日

 今日は一日雨だった。
 パヨクと呼ばれる人たちが何なのか、もうみんな大体わかってきたと思う。基本的には世界が一つになると信じる人たちだ。これはどのような美辞麗句を並べようと、どこかが世界征服をするということだ。
 日本は一九四五年の敗戦を以てこの天下統一の戦いから脱落した。だから日本は早かれ遅かれ消滅する運命にあり、世界征服を果たすどこかに吸収されると考えている。
 それがアメリカンリベラルなのかユーロコミュニズムなのか中国なのかイスラム原理主義なのかというところで、ただ勝ち馬に乗ることだけ考えて日和見している。それがパヨクの正体だ。
 まあ、本命がアメリカンリベラルとユーロコミュニズムで対抗が中国、イスラム原理主義に付くのは大穴狙いだ。
 パヨクはよく言われるような中国の手先ではない。状況次第でどちらにも寝返ろうとしている日和見主義者だ。トランプの時は中国に着く人が多かったが、今はバイデンになったからアメリカに寝返ろうとしている人も多い。
 彼らは日本の十五パーセントくらいにすぎないが、学会とマスメディアでは圧倒的な力を持ち、海外への発信力を持っている。だから世界の人はそれが日本の世論だと信じ込んでしまっている。だが、きっと日本に来ればそれが間違いだということに気付くだろう。
 これに対してネトウヨというのは実際には日本の1パーセントにも満たない人たちで、ただパヨクがネトウヨを「ネット右翼」という言葉に置き換えて極端に拡大解釈することで、あたかも日本の大半がネトウヨであるかのような印象操作を行っている。彼らからすれば基本的に、パヨクに非ずんばネトウヨなのだ。
 実際に日本を動かしているのは残りの八十四パーセントくらい。マスメディアでもネット上でもほとんど声が聞こえてこないから、ラジオを聞くようにしている。
 それでは「梟日記」の続き。

9,備中

「八日
   備中國
 此日雲鹿・舊白をいざなひて倉敷におもむく。鵙がはなといふ處は山城の六地蔵に似て侍りといふに、げにもくらしきは、みやこのたつみともながむべかり。
 宇治に似て山なつかしき新茶哉
 狂客三人除風庵にこみ入、あるじの僧は外にありておどろき歸る。そのよろこび面にあらはれて、心ざし又他なし。茶漬の冷飯は露堂のぬし、行水の湯は誰かれといふより、とうふ・蒟蒻の施主も有て、わかき人老たる人さまざまに行かひさゝやきて、あるじの僧はいきもつきあへず、その事この事漸に暮はてゝ、しばらく灯前夜雨の閑を得たり。されば此あるじの除風は、松島・白川の風月にもやつれ、武城の嵐雪が黑白の論にあづかりて、はじめて風雅に此事ありといふことをしれり。本より眞言のながれに身をおきて、生涯もよくつとめたりといふべし。
 先いのる甲斐こそ見ゆれ瓜なすび
 五月雨に袖おもしろき小夜着哉
 此里の東南に山あり。この山に小堀遠州の汲捨給へる井ありて、今なをしたゝり絶る事なしと。露堂曰、この水又酒によろし。一荷汲ときは底をつくせども、たちかはるほどありて又一荷と。まさに清浄の水にこそありけれ。西華坊かつて姫路を過し時。難の藤三郎とかやいへる少年の、我に初白の茶一ふくろおくりて、たびねの風情をくはえられしが、此里に來てこの茶ある事風流やむ事なし。水汲は雲鈴法師、茶挽は除風とさだまりて、客は尚雪・青楮の二老人、あるじは露堂にもあらず我にもあらず、たゞのみてなむやみぬ。是又一時の風雅なるべし
 茶にやつすたもとも淺し山清水」

 七日に一度岡山に戻った支考は翌日八日に倉敷まで行った。距離としてはそれほど長くない。岡山の雲鹿・舊白が一緒だった。
 百舌ヶ鼻は今の倉敷市中庄の辺りだという。今の倉敷市立北中学校のあるあたりに百舌鳥ヶ鼻バス停がある。ここは山城国の六地蔵という所に似ているという。六地蔵は伏見桃山の東で、JRと京阪宇治線に六地蔵駅がある。ウィキペディアには、

 「小野篁が852年(仁寿2年)に一本の桜の木から6体の地蔵菩薩像を作り、それをこの地(紀伊郡木幡の里、現在は京都市伏見区)にある大善寺に祀った。それにより、大善寺のある付近一帯の広域をさして「六地蔵(ろくじぞう)」と呼んだ。」

とある。

 宇治に似て山なつかしき新茶哉  支考

 この句にもあるように茶畑の広がる光景が宇治六地蔵に似ていたのだろう。

 わが庵は都のたつみしかぞ住む
     世を宇治山と人はいふなり
              喜撰法師(古今集)

の歌を思い浮かべる。
 除風庵はこのあたりにあったのか、支考、雲鹿、舊白の三人がやってくると主の僧が慌てて戻ってくる。露堂からもてなされた茶漬の冷飯を食い、お寺にはよくある水風呂(当時主流のサウナではない、湯舟につかる風呂)に入る。さらに豆腐、蒟蒻などもお寺らしいおもてなしだ。
 若者や老人がいろいろと出入りする中でこの庵の主は忙しそうだったが、やがて夜になり灯前夜雨の閑に話を聞くと、この除風という僧は松島・白川をも旅し、嵐雪に俳諧を学んだという。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「除風」の解説」には、

 「1666/67-1746 江戸時代前期-中期の俳人。
  寛文6/7年生まれ。真言宗の僧。服部嵐雪(らんせつ)にまなび,各地を吟遊。備中(びっちゅう)(岡山県)倉敷に南瓜庵をむすび,松尾芭蕉(ばしょう)をしたって千句塚をきずく。のち讃岐(さぬき)(香川県)観音寺の山崎宗鑑(そうかん)の旧跡一夜庵を再興した。延享3年1月13日死去。80/81歳。備中出身。別号に南瓜庵,生田堂,百花坊。編著に「青莚(あおむしろ)」「千句塚」「夢の枯野」など。」

とある。この南瓜庵の跡は中庄ではなくもう少し東の下庄にある。ここに南瓜庵を結ぶのは支考の旅よりももう少し後のことか。
 支考が寛文五年の生まれなので、除風は年下になる。

 先いのる甲斐こそ見ゆれ瓜なすび 支考
 五月雨に袖おもしろき小夜着哉  同

 書写山では自分を茄子に喩えたが、ともに瓜と茄子でこれからの俳諧を盛り立てていこう、という決意か。
 この庵の南西の山に小堀遠州が汲んだという井戸がある。小堀遠州はウィキペディアに、

 「小堀政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。官位は従五位下遠江守。遠州流の祖。
 一般には小堀遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年の名乗り。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。」

とある。この井戸は教善寺であろう。倉敷美観地区の南、向山公園のある山の西側の麓にある。百舌ヶ鼻除風庵の南西になる。境内に遠州井と呼ばれる井戸がある。
 さきほど茶漬をご馳走してくれた露堂が、この水は酒に良いという。支考は姫路で難の藤三郎から貰ったという茶をここで立てて飲む。難の藤三郎はあるいは姫路の春亭で茶のもてなしを受けた時の主のことか。ともに書写山に登った若きは何がし小三郎という貴公子もいたが。
 水汲の雲鈴法師は 元禄十七年に『摩詰庵入日記』を記した雲鈴法師であろう。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「雲鈴(1)」の解説」に、

 「?-1717 江戸時代前期-中期の俳人。
  陸奥(むつ)盛岡藩士だったが,僧となり,俳諧(はいかい)を森川許六(きょりく),各務(かがみ)支考にまなぶ。元禄(げんろく)13年大坂から北上して,佐渡に滞在,のち南下して京都にいたるまでの紀行「入日記(いりにっき)」を16年に刊行した。享保(きょうほう)2年2月2日死去。別号に摩詰庵(まきつあん)。」

とある。
 ネット上の堀切実さんの『「支考年譜考証」補遺』に、

 「口蓮二房の「雲鈴法師行状記」(『淡雪』巻頭・『和漢文操』巻七所収)に「春はやよひの末なりとや。備の倉敷といふ所にて東華先師に行あひたり」とみえる。「春はやよひ」は記憶違いか。」

とあるが、西宮から岡山までの支考の旅の同行者が記されてなく、当時は基本的に一人旅はしなかったので、むしろ伊勢を出た時から同行していた可能性がある。芭蕉の『奥の細道』でも桃隣の『舞都遲登理』でも、同行者は途中で明かされている。
 茶挽は除風、客は尚雪・青楮の二老人。この二人も倉敷の人なのか。あるじは露堂にもあらず我にもあらず、ともに風雅のひと時を過ごす。

 茶にやつすたもとも淺し山清水  支考


10,藤戸の浦

「十日
 此日人々に催されて藤戸の浦見にゆきけるが、今はむかしにはあらで、田にもなり畑にもなりて、浦の男があはれのみ、その夜いかにとおもひやるばかり也。
 生てゐて何せむ浦の田植時
   簑里號
   笠縫の里は古哥の名所なるに、
   簑といふものは、野夫のたもと
   をかさねて、俳諧のたよりある
   もの也。若き人といへどこのみ
   ちのさびなからんや
 秌ならで五月もさむし鷺の簑」

 藤戸の浦は教善寺の南東の倉敷川を下った所にある。藤戸合戦のあったところで、ウィキペディアに、

 「藤戸の戦い(ふじとのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/元暦元年12月7日(ユリウス暦:1185年1月10日)[1]に備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。」

とある。
 この合戦で源氏方の佐々木盛綱が漁夫に浅瀬の場所を教えてもらって勝利するものの、その時他の者にも教えるのではないかと疑い、先陣を取りたいがためにその漁夫を切り殺したことが謡曲『藤戸』の物語となっていた。
 その哀れな漁夫を偲ぼうにも、今やその浦すらなく、干拓されて田畑になっていた。

 生てゐて何せむ浦の田植時    支考

 殺された漁夫も哀れだが、田畑ができて棲家を奪われた漁夫もどうやって生きていけばいいのか。今日を生きる我々も諫早湾干拓事業を思い起こすと哀れだ。
 ただ、農民は農民で少しでも田畑は欲しいし、国の多くの人も穀物がたくさん獲れることを望んでいるとすると、難しい問題ではある。謝霊運は干拓推進派だったが、漁民の怒りを買って殺された。
 倉敷市藤戸町は今日の地図では海から一里は離れている。児島湾干拓は近代に入っても継続され今は湾すらなく、わずかに児島湖が残っている。
 「簑里號」とあるのは倉敷の大島重右衛門のことか。「ごさんべえ」というホームページに倉敷の大島家の系図があり、

 「寛文8年に亡くなった次郎右衛門の前に2代あるとも云われますがよく判っていません。季雅の長男重右衛門は蓑里という名の俳号をもっていて、家督を継いでいません。」

とある。これは「簑里と号す」で「若き人といへどこのみちのさびなからんや」と言って支考が名付け親になり、

 秌ならで五月もさむし鷺の簑   支考

の句を贈ったのではないかと思う。


11,矢掛

「十三日
 此日倉敷を出て矢懸におもむく。道のほど五里ばかりなるべし。除風・雲鈴ノ二法師をいざなひて觀音寺に宿す。今宵の空のおぼづかなきに、曉の夢さめて鐘の聲をきく。
 夏の夜の夢や管家の詩のこゝろ」

 倉敷から山陽道に戻り矢掛へ行く。山陽道は吉備津宮の辺りから直線的に清音から真備を経て三谷へ抜ける。古代に作られた直線道路をある程度踏襲しているものと思われる。
 今の地図を見ると矢掛町矢掛の小田川に沿ったところに観音寺というお寺がある。寛永七年の創建だという。支考、除風、雲鈴の一行の泊まったのは多分ここでいいのだろう。

 夏の夜の夢や管家の詩のこゝろ  支考

 菅家(菅原道真)の詩というのは、

   自詠
 離家三四月 落涙百千行
 萬事皆如夢 時時仰彼蒼

の詩のことだろうか。


12,尾道

「十五日
 此日矢懸をたちて尾道におもむく。その道のかたはらにあやしき小屋の侍リ。雲鈴曰、我かつて此家に一夜をあかしつるが、能因法師のかくてもへけりとよまれし哥を、よもすがら思ひあはせ侍るといふに、げにもあさましき草のやどりなりけり。
 笹の葉に何と寐たるぞ蝸牛」

 尾道への近世山陽道も引き続き古代山陽道を踏襲するかのように、井原、神辺へと直線的に進む。
 「かくてもへけり」の歌は、

 世の中はかくても経けり象潟の
     海士の苫屋をわが宿にして
              能因法師(後拾遺集)

の歌で、随分と寂れたところに泊まったようだ。尾道とは言うけど、次の竹原へ行く道中を見ても今の尾道駅の付近ではなく、一つ手前の今津宿かその少し先の松永か今の東尾道駅の辺りに泊まったのではないかと思う。
 支考もまた一句。

 笹の葉に何と寐たるぞ蝸牛    支考

 瀬戸内海は古くから海上交通が発達していたため、山陽道は寂れていたのかもしれない。ただ、それにしても寂れすぎている。

2021年5月26日水曜日

  今日の夜は曇って月食は見れなかった。
 まあ、考えてみれば欧米人というのは日本を遅れた野蛮国だと思ってるから、だから、左翼が日本のここは駄目、ここがひどいということを言えばみんなそのまま信じてしまい、簡単に日本に外圧をかけてしまう。それでずっと左翼は少ない人数で政治を動かすことに成功してきたから、こういうのは一朝一夕になくなんないんだろうな。
 きっとオリンピックも外圧で中止に追い込まれるのだろう。別にいいけどなんか癪だ。いまやGAIATSUは世界の言葉だなんていう人もいる。
 きっとこのブログにも近々GAIATSUが来て削除されるんだろうな。

 それと鈴呂屋書庫に「おきふしの」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「梟日記」の続き。

7,岡山

「五月五日
   備前國
 此日岡山の城下にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきはなやかなるを見るにも、泉石の放情はさらにわすれがたくて、
 松風ときけば浮世の幟かな」

 姫路から岡山までは歩いて二日ぐらいの距離だろうか。日付も五月に変わり、五日から始まる。
 「あやめふきわたして」というのは軒菖蒲(のきのあやめ)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「菖蒲葺く」の解説」に、

 「端午の節句の行事として、五月四日の夜、軒にショウブをさす。邪気を払い火災を防ぐという。古く宮中で行なわれたが、後、武家、民間にも伝わった。《季・夏》
  ※山家集(12C後)上「空はれて沼の水嵩(みかさ)を落さずはあやめもふかぬ五月(さつき)なるべし」

とある。
 「泉石の放情」は『旧唐書』隠逸伝序の「放情肆志、逍遙泉石」から来たものであろう。情を放ち志を欲しいままにし、泉や石を自在にさまよい歩くことをいう。隠士の境地をいう。
 こういう端午の節句の華やかな風景を見るにつけても、自由気ままに旅をしていてよかったと思う。そこで一句。

 松風ときけば浮世の幟かな    支考

 松風は本来はシューシュー言う悲し気な響きのものだが、浮を世を離れて旅をすれば、浮世の端午の節句の幟を吹く楽しいものになる。


8,吉備津宮

「六日
 此日吉備津宮にまうづ。此朝はくもりみはれみ、おもひさだめがたき空のけしきなるを、かりそめに思ひ出ぬる道のことさらに照りわたりて、そのあつさたえざらんとす。各かぶり物もとめ出るに舊白はあやまたず、雲鹿は笠の緒のなまめきたる、いかなる人にかかり出らん。ひとつ緒の俄あみ笠は、梅林のぬしの名にこそにほへ、晩翠はよのつねの法師がらにもあらぬに、供笠とかいふなるからかさに、柄のなきものをうちかぶりたれば、夕影のかほもかゞやくばかり、かの祇園の火とぼしなめりと、眞先におしたてらるゝに、雨放しの風に風まけして、果はたゞきずなりぬ。三門柴山のほとりも過行ほどに、夕陽の影は山をひたして、笹が迫とかや、かんこ鳥の聲もきこゆなり。
 俳諧師見かけて啼や諫皷鳥
 されば鶯・ほとゝぎすの世にしられたる、鴈の聲のまたれてわたる空、ちどりのあかつきはさら也。さるは哥にもよみ詩にもいふなる、諫皷鳥の淋しさのみ誰にかよらん。かくて八坂といふ所の橋をわたりて、きびつ山にむかふ。そもそも此神は一神二應とかや。備前・備中の兩國におはして、吉備の中山なかにへだゝりぬ。
 みじか夜やどなたの月に郭公
 備前の御神はちかき比御修覆ありて、朱橡あらたに應化の影をかゞやかす。誠にありがたき御世のありさまなるべし。大藤内屋敷はいづこにかと尋侍りけるに、門戸たかく石垣よもにめぐりて、子孫猶めでたし。
 浄留理にいへば夏野ゝ草まくら
 今宵はなにがしの社家に宿して哥仙半におよぶ。七日又岡山に歸る。
   梅林亭
 窻に寐て雲をたのしむ螢哉」

 吉備津宮は岡山の城下通り抜けてすぐの所にある。ウィキペディアには、

 「岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。」

とある。
 この日は朝から晴れたり曇ったりの天気で、晴れれば日が照ってかなり厚くなると思われたので、まずは笠を用意することになる。
 舊白は「あやまたず」とあるから、普通に旅人が被っているような笠を持っていたようだ。
 雲鹿の笠は緒がやけにきらびやかで、一体誰に借りたんだという感じだった。「ひとつ緒の俄あみ笠」は梅林の主人が被るような笠だった。ひょっとして女性用?
 晩翠も多分かなり身分の高い僧だったのだろう。「供笠」という唐傘の柄がなくて直に被るようなものを被って現われた。多分真っ赤な傘で、光が透けて顔が赤く見えたのだろう。「夕影のかほもかゞやくばかり、かの祇園の火とぼしなめり」と言う。
 ただ、紙の笠なので弱くて、風が吹いたらすぐ壊れてしまったようだ。
 どの辺に泊まってたかはわからないが、吉備津宮に着く頃にはすっかり日も傾いていた。
 「笹が迫(せまり)」は笹ヶ瀬川のこと。この辺りまで来るとカッコウの声が聞こえる。昔は閑古鳥(諫皷鳥)と言った。ここで一句。

 俳諧師見かけて啼や諫皷鳥    支考

 鶯、ホトトギス、雁、千鳥などは和歌にも漢詩にも俳諧にも頻繁に詠まれるが、閑古鳥の淋しさ一体誰が呼んだだろうか、とそれは芭蕉さんでした。

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

 「八坂といふ所の橋」は今の矢坂大橋の辺りであろう。ここから笹ヶ瀬川を渡る。ここから吉備津宮はそう遠くない。吉備津宮のある辺りを吉備津山と言ったのだろう。
 吉備津宮はもともと古代の吉備の国一之宮だったが、吉備の国が備前備中備後美作に分割されたため、この四国の一之宮になるわけだが、実際には備前と備中との境界線近くにあるため、備前備中の神として「一神二應」と呼ばれたのだろう。ウィキペディアには「吉備津神社は『吉備総鎮守』『三備一宮』を名乗る」とある。
 まあそういうわけで、どこの国の神様ですかということで一句、

 みじか夜やどなたの月に郭公   支考

 最近御修覆があったというのは本殿のことで、ウィキペディアに、

 「本殿 - 元禄10年(1697年)に岡山藩主の池田綱政による再建時のもの。桁行三間、梁間二間の流造で檜皮葺。岡山県指定文化財に指定されている。」

とある。支考が訪れた時は建てたばかりだった。鮮やかの朱色は「應化の影」という。「応化」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「応化」の解説」に、

 「おう‐げ【応化】
  〘名〙 仏語。仏、菩薩が世の人を救うために、時機に応じて、いろいろなものに姿を変えて現われること。応現。
  ※霊異記(810‐824)上「舟より道に下れば老公見えず。其舟忽に失せぬ。乃ち疑はくは、観音の応化なることを」

とある。神仏習合の時代ならではの発想だ。
 「大藤内屋敷」は代々神職を務めてきた大藤内(「王藤内」とも書く:おうとうない)家の屋敷で、「門戸たかく石垣よもにめぐりて、子孫猶めでたし。」とこの頃は健在だった。支考が見たのは慶長年間に建てられた屋敷であろう。今は駐車場になっていて家宅跡の碑だけが建っている。

 浄留理にいへば夏野ゝ草まくら  支考

 浄瑠璃姫の屋敷をイメージしたのだろう。自分はここには泊まれず、旅の牛若丸を気取るか。
 とはいえ、別の社家にこの日は泊まる。梅林亭という風流人の屋敷だったのだろう。

   梅林亭
 窻に寐て雲をたのしむ螢哉    支考

を発句として半歌仙興行を行う。翌日岡山に帰る。

2021年5月25日火曜日

 自民党が「LGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案」を了承したのは賢明な判断だと思う。
 基本的に同性愛者を異性愛者に変えるのと同じくらい異性愛者を同性愛者に変えるのは難しい。だから、同性愛を認めても基本的に同性愛者そのものは増えない。カミングアウトする人が増えるだけだ。人類がみんな同性愛者になって人類が滅亡するなんてのはどうしようもなく非科学的な妄想だ。
 少子化は同性愛とは何の関係もない。少子化は過密に対する自然な反応にすぎない。鼠は過密になると共喰いをするが、人間は高等な知能を持つから子作りを控えるだけで対処する。それだけのことだ。
 有限な地球に無限の子孫の繁栄は不可能。あたりまえのことだ。
 同性愛を認めるのは構わないが、前々から言っている通り、たとえ心が男であれ女であれ「ペニスを持つ者」から「子宮を持つ者」を守る社会システムは維持されなくてはならない。これが崩れたらやり放題の世の中になる。
 アメリカも日本の政府と一緒でやることがワンテンポ遅い。「渡航中止・退避勧告」(レベル4)への引き上げは一か月前にやるべきだった。ピークアウトした頃にこれをやられると、やはり日本と一緒なんだなと思う。
 緊急事態宣言下のゴールデンウィークに行われたJAPAN JAM 2021もクラスターは出なかったという発表があった。夏にはFUJI ROCK FESTIVAL '21も行われる。その他野球もサッカーも相撲もずっと観客を入れて行われてたし、毎日のように満員電車も走っていた。それでも収束できたのだから、少なくとも第四波を上回る第五波が来ない限りオリンピックは観客を入れて開催できる。
 日本のワクチン接種も加速していて、一日五十五万回、明日には一千万回突破しそうだ。
 あと、鈴呂屋書庫に「すずしさを」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは「梟日記」の続き

4,姫路

「廿三日
   姫路
 此地に千山・元灌などいへる人は、かねて風雅の名つたへ申されしが、今宵は何となき旅店にかりねして、かくいふ事を人々のかたに申つかはしける。
 晩鐘や卯の華の雪に宿からふ」

 姫路の千山はこの四年後に惟然が訪ねて行き、『二葉集』(惟然編、元禄十六年刊)で超軽みの風を打ち出すことになるが、それはまだ先のことだった。元灌もその時の『二葉集』に名を連ねていて、

 散か散か咲あり花の花の奥    元灌
 なんぞそれぞそれぞれ蚊屋に月はそれ 同

と言った句がある。
 千山は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』に、「勿謂今日不学而」に、

 秋の夜や明日の用をくり仕廻   千山

の句を発句とした表六句が収められている他、「秋興」の歌仙にも参加している。また、支考の行く一年前元禄十年刊風国編の『菊の香』に、

 上京や絵行器をうる足ほこり   千山
   書写山に登りて
 秋の日の入やおり坂十八町    同

といった句がある。同じ集に、

   賤が家の苦熱をみて
 いさかひのあとくれかかる蚊遣かな 元灌

の句が見られる。
 ただ、支考は「今宵は何となき旅店にかりねして」とあり、

 晩鐘や卯の華の雪に宿からふ   支考

の句を贈ったが、この日実際に会ったかどうかは書かれていない。ただ、これから姫路にしばらく滞在することになる。


5,厚風亭

 「廿五日
 厚風亭にいたりて、その父了意老人の閑居を見るに、老父は此ほどいづこへか渡り給ひて、庭には牡丹の花の咲のこりてありしを、
 我袖は牡丹をぬすむ風雅なし
   春亭
 風爐かけて淋しき松の雫かな
   臨川亭
 うの華やちぎれちぎれに雲の照」

 厚風も後の惟然編元禄十六年刊の『二葉集』に、

 ぬけるやら着ぬでもなしに秋の空 厚風
 あたらしき卒塔婆も垣にほうせん花 同

の句があり、

 おさだまりぞないてや鳫の渡るらん 厚風

を発句とする表六句も収録されている。
 厚風の父の了意老人についてはよくわからない。支考も会えなくて、一句残す。

 我袖は牡丹をぬすむ風雅なし   支考

 「春亭」は誰の家のなのか、

 風爐かけて淋しき松の雫かな   支考

 風炉はウィキペディアに、

 「風炉 (茶道) - 茶道で、茶釜を火に掛けて湯をわかすための炉。唐銅製、鉄製、土製、木製などがある。夏を中心に5月初めごろから10月末ごろまで用いる。」

とある。松の雫は抹茶であろう。侘び茶の心を感じる。
 臨川は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』にその名が見える。

 身にしむは桜咲日の念仏かな   臨川
 手にとればつくらぬ菊の花かろし 同

といった発句がある。ここで支考も一句。

 うの華やちぎれちぎれに雲の照  支考


6,書写山

「廿七日
 此日書寫山にまうづ。道のほど二里ばかりも侍らむ。けふは全夷のなにがしにあるじせられて、いざなふ人々あまたなる中に、老たるあり。わかきあり、若きは何がし小三郎とかや、誰が家の白面の郎ぞ。老たるは藥師六兵衛、是もたゞうきたる佛なるべし。たばこは酒にかえむ、さけはたばこにかへむといひあへる、をのれをのれが道すがらの物ずき、いづれにか定侍るらん。山は半里ばかりにそびえて、翠微に頭をめぐらせば、あはぢしま眼の中に落つ。須磨・あかしの浦浪、おのへの鐘は、名のみぞおもひやらる。山のたゝずまゐ、よのつねにはあらで、風聲水音の清浄も人の肌をかゆるばかりにぞありける。いたゞきの僧房あまた、所がら竹藪のくまぐまにかくれて、しばらく思ひかけぬ山のありさま成けり。
 ほとゝぎす鳴山藪や雲つたひ
 笋の露あかつきの山寒し
 それより奥の院にわたりて、性空上人の影堂を拜す。かたはらに池あり。是ハ辨慶がむかし、晝寐のかほを水かゞみけるよりこの名ありとぞいへる。我もその池の邊にたちよりて、
 旅寐せしかほや茄子のむさし坊
 是は夏季の茄子のくるしきこそおかしけれとて、たはぶれに申侍りき。されば夕陽の影も木の間にのこりて、その程もやゝ日暮にけるか、麓のさとにたどりて、明松といふ事をおもひ出して、あと先にふりあげたれば、世にいかめしき葬禮にこそありけれ。さらば孟嘗君がともがらならば、泣まねの上手もあらんといふに、まこと太泣もしつべし。その夜は元灌亭にかへりて、殊さらにくたびれふしぬ。」

 書写山は姫路の北にある山で、甲子園で流れる東洋大姫路の「書写を仰げば」の校歌でも知られている。ウィキペディアには、

 「書写山・書寫山(しょしゃざん)は、兵庫県姫路市にある山。山上には西国三十三所の圓教寺がある。西播丘陵県立自然公園に含まれており、兵庫県の鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されているほか、ひょうごの森百選、ふるさと兵庫50山に選定されている。書写山の一部には原生林が残る。
 室町時代に玄棟によって成立した説話集の三国伝記には三湖伝説の元になったと思われる説話が記載されていて、そこでは書写山周辺の釈難蔵という法華の持者が十和田湖の主になった物語の起源が語られている。」

とある。書写山圓教寺がある。
 姫路宿から北へ二里、全夷のなにがし、何がし小三郎、藥師六兵衛とともに行くことになる。
 「白面の郎」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「白面郎」の解説」に、

 「〘名〙 年少で未熟な男。また、色白の若い男子、貴公子。
  ※田氏家集(892頃)中・継和渤海裴使頭見酬菅侍郎紀典客行字詩「多才実是丹心使、少壮猶為二白面郎一」 〔杜甫‐少年行〕」

とある。酒とたばことどっちがいいかなんて他愛のない話をしながら登って行く。
 翠微(すいび)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「翠微」の解説」に、

 「① 山頂を少し降りたところ。山の中腹。
  ※菅家文草(900頃)五・徐公酔臥詩「無レ情湖水誰遺跡憶昔長山臥二翠微一」
  ※俳諧・幻住菴記(1690頃)「麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして」 〔爾雅‐釈山〕
  ② うすみどり色の山気。また、遠方に青くかすむ山。または、単に山をいう。
  ※本朝無題詩(1162‐64頃)六・別墅秋望〈釈蓮禅〉「木葉声声黄落雨、峡煙処々翠微山」 〔左思‐蜀都賦〕」

とある。山頂までは行かないが眺めのいい場所があり、淡路島や須磨明石の海を見渡せ、心が洗われるような気分になる。山頂には僧坊が並ぶ。ここで二句。

 ほとゝぎす鳴山藪や雲つたひ   支考
 笋の露あかつきの山寒し     同

 笋(たけのこ)はちょうどこの時が旬だったのだろう。
 書写山圓教寺の奥の院、性空上人の影堂は今の開山堂だろうか。
 池というのは鏡井戸で大講堂と食堂の辺りにあるという。弁慶が若い頃ここで修行していて、酒盛りに誘われて酔いつぶれて寝ていると、仲の悪かった信濃坊戒円等が弁慶の顔に「足駄」と落書きし、目を覚ますと戒円等が笑っているものだから鏡井戸で自分の顔を見てその落書きを知る。あとは大喧嘩というか弁慶無双になって大暴れ、終にはお寺が炎上する騒ぎになったという。
 そこで支考も鏡井戸を覗き込んで一句。

 旅寐せしかほや茄子のむさし坊  支考

 夏の暑さでばてたような顔が茄子のようだ、ということだろう。書写山を下りることには日も暮れ、明松ということを思い出すという。明松は「かがり」「たいまつ」という読み方がある。歩く時は篝火ではなく松明(たいまつ)だろう。真っ暗になったので松明を灯して歩くのだが、子供っぽく振り回して遊んだり、やがて何だか葬列みたいだということになって、泣き真似したりする。まあ、俳諧師というのはこういう連中なんだな、というところか。
 孟嘗君は「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」という故事があって、函谷関を越えて脱出する時に鶏の鳴き真似をして騙したという。

 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
     幾夜ねざめぬ須磨の関守
              源兼昌(金葉集)

の歌もこの故事を踏まえたと言われている。
 まあ、そういうわけでいろいろあってとりあえずこの日は元灌亭に帰る。「殊さらにくたびれふしぬ」と遊び過ぎた子供みたいだ。

2021年5月24日月曜日

 今朝のラジオで紹介していた現代詩の一節、

   教室はまちがうところだ
            まきた しんじ
 教室はまちがうところだ
 みんなどしどし手を上げて
 まちがった意見を 言おうじゃないか
 まちがった答えを 言おうじゃないか

 ネットでも同じだと思う。検索すればこの詩は全文読める。
 昔書いた『奥の細道─道祖神の旅─』の尾花沢のところで、俳諧興行がなかったと書いたのは間違いだった。「すずしさを」の巻と「おきふしの」の巻の興行があったので訂正した。この二巻についてはカミングスーンね。
 後から見て間違ってたと思うことは多い。だからといってそれを恐れていたのでは何も書けなくなってしまう。もちろんわざと間違った情報を流して人を騙すのはフェイクニュースだから、それは許されないが、「間違ってもいいから言う」というのは大事なことだと思う。
 あと、『三冊子』を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「梟日記」の続き。

2,須磨

「廿一日
 兵庫の湊川を過て楠が古墳を見る。されば此士は文にあはれに武にたけかれしが、一子正行が櫻井の宿のわかれまでおもひ出られて、
 鎧にも泣たもとあり百合の露
 かの須磨の浦を過るほどは、此里の新茶ほすころにて、それもあはれに淋しとはおぼえられし。
 關守もねさせぬ須磨の新茶哉
 からす崎にいたりて頭をめぐらせば、須磨・あかしの眺望又こよなし。
 山懸て卯の花咲ぬ須磨明石」

 舎羅とは別れたとはいえ、当時の常識から言って一人旅ということはなく、誰か同行者はいたと思う。まずは芭蕉も行ったことのある須磨明石へ向かう。
 湊川は神戸駅の近くでかつては湊川という川がこの辺りを流れていたという。今の湊川神社の場所にはかつては楠木正成公の塚があった。詳しくはネット上の 嶋津尚志さんの『楠木正成の墓からみる、英雄顕彰の一様相』にまとめられている。それによると貝原益軒の「楠公墓記」には、

 「墓は平田の中に在り。榛莽蕪穢。挺隧無く。墓封無く。又、碑碣無し。塋上唯松梅二袾有り。悲
風蕭々。春風青々。」

とあるという。元禄四年には水戸光圀公によってる「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑が立てられたので、支考は見ているだろう。
 「一子正行が櫻井の宿のわかれ」はウィキペディアに、

 「桜井の別れ(さくらいのわかれ)は、西国街道の桜井駅(桜井の駅、さくらいのえき)で、楠木正成・正行父子が訣別する逸話である。桜井駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。桜井の駅の別れ、桜井の訣別ともいう。」

とある。
 桜井駅は今のJR京都線の島本駅の近くにあったという。その訣別の場面はウィキペディアに、

 「桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。」

とある。そんな話を思い起して一句。

 鎧にも泣たもとあり百合の露   支考

 ここから須磨はそう遠くない。古代のような藻塩焼く風景は芭蕉が来た時にもとっくに過去のものになっていた。あるのは茶畑で新茶を干す頃だった。そこで一句。

 關守もねさせぬ須磨の新茶哉   支考

 この句は言わずと知れた『小倉百人一首』でも知られている、

 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
     幾夜ねざめぬ須磨の関守
              源兼昌(金葉集)

の歌を踏まえたもので、千鳥の鳴く声ではなくお茶のせいで眠れないとする。
 からす崎はどこなのかわからない。あるいは芭蕉の『笈の小文』の、

 「きすごといふをを網して、真砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来(とびきた)りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。」

という鴉のいた浜のことかもしれない。
 眺めが良い所なら鉄拐山から鉢伏山にかけてのどこかなのか。芭蕉も鉄拐山に登っている。支考も芭蕉の足跡を慕い、登った可能性はある。

 山懸て卯の花咲ぬ須磨明石    支考

 『猿蓑』の、

 かたつぶり角振り分けよ須磨明石 芭蕉

の句も思い起こされる。


3,明石

「廿二日
   播磨國
     明石
    詣人丸廟
 おのへの松原は、この道より一里ばかり南にあり。高砂の松は江をへだてゝ、是より又十余町ばかりに見渡さる。いづれも見すつまじき風雅の地なり。
 ほとゝぎす高砂おのへ二所帶
   石ノ寶殿
    曾禰ノ松」

 さて、ここから先は芭蕉の見残しになる。
 「詣人丸廟」は今の明石氏人丸町にある月照寺と柿本神社のあたりであろう。かつては人丸神社と呼ばれていた。ウィキペディアに、

 「平安時代初期、弘仁2年(811年)に空海が現在の明石城本丸付近に当たる場所に楊柳寺と建てた事に始まる。楊柳寺は後に月照寺となる。仁和の頃(885年~889年)、住職の覚証が夢のお告げに従って柿本人麻呂を祀り、人丸社ができる。現在でも明石公園城跡に建つ西の隅櫓の前に円形の人丸塚が残っている。こうした神社と共存する月照寺のような寺院を宮寺または別当寺・神宮寺などと呼んだ。本来、神は仏が姿を変えて日本に来たという本地垂迹説があり、神と仏は一体であるという神仏習合の思想によるもので、神社の運営も神官と僧侶が共同で当たっていた。過去、月照寺に隣接している柿本神社と月照寺は一体であったが、明治維新後、明治政府は神社と寺院を分離する神仏分離令を出した。以後、月照寺と柿本神社は別の宗教法人となる。」

とある。
 月照寺は元禄五年に才丸(才麿)も行っていて『椎の葉』に記している。そこには、

 「松原をつゞきにあゆむに、日ははや海にかくれて山のはも見えぬあかしのとまりに入ぬ。先人麿の尊像を崇め置たる一宇をたづね登り、とし月の望みたりて今此岡にまうでける事よと後生の俳心をこらすに、感涙しきり也。
 ほのぼのと御粧(おんよそほひ)や草の香」(『新日本古典文学大系71 元禄俳諧集』一九九四、岩波書店)

とある。月照寺・柿本神社は山陽電鉄人丸前駅の北の低い丘の上にある。
 「おのへの松原は、この道より一里ばかり南にあり」というのは月照寺からではなく、山陽道を二里あまり北西の加古川宿まで行って、そこから南、正確には南西へ一里という意味であろう。
 「高砂の松は江をへだてゝ、是より又十余町ばかりに見渡さる。」とあるように、ここからだと高砂の松は加古川の対岸になる。今は高砂神社になっていて、八代目の尾上の松があるという。
 高砂の松と言えば謡曲『高砂』で、高砂の松を妻とし、大阪住吉の松を夫とする祝言で、

 「高砂や、この浦船に帆をあげて、この浦船に帆をあげて、月もろともに出汐の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて早や住の江に・着きにけり早や住の江に着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1887-1890). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の謡いはかつての結婚式の定番だった。
 ここで支考が一句。

 ほとゝぎす高砂おのへ二所帶   支考

 松の夫婦とホトトギスの夫婦で二所帯ということか。ホトトギスの夫婦は托卵するから鶯の夫婦もいそうだが。
 「石ノ寶殿」は山陽道の加古川を渡った先の生石神社(おうしこじんじゃ)にある。今はJR宝殿駅があり、そこを西へ行った高砂市総合運動公園の先にある。ウィキペディアに、

 「生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
 石の宝殿は、国の史跡[1]で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物。水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない。」

とある。
 「曾禰ノ松」はその先の今の山陽電鉄山陽曽根駅に近い曽根天満宮にある。ウィキペディアに、

 「道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称された。初代は寛政10年(1798年)に枯死したとされる。1700年代初期に地元の庄屋が作らせた約10分の1の模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されたが、昭和27年(1952年)に枯死した。現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている。」

とある。支考が行った時はまだ初代の松が健在だったようだ。

2021年5月23日日曜日

 安田峰俊さんの『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(二〇二一、角川新書)を読み終わった。
 何となく思うんだが、もしあの時中国政府が学生に譲歩して段階的な民主主義路線に梶を切っていたなら、その後の開放政策による高度成長を追い風に選挙で中国共産党が安定的多数を得ていたんではないかと思う。ある意味で今の日本とよく似た状態になれたのではないかと思う。
 パクロッシで失敗したのは中国共産党の方ではないかと思う。あの時民主化できていれば、今の米中の対立も起こらず、香港や台湾も併合して、本当の中国の黄金時代を謳歌できたのではないかと思う。
 そして日韓中が同じ民主主義の価値観を共有して力を合わせれば、北朝鮮問題も解決し、アメリカやEUを凌ぐ巨大な経済圏になっていた。
 九十年代の中国の躍進は確かに目覚ましかったが、民主化していればそれをはるかに超える躍進が可能だった。
 パクロッシは参加した学生以上に中国共産党にとっての呪いとなったのではないかと思う。
 失敗の一番の原因は民衆への不信だ。仁に基づく先王の道を軽んじた結果だ。誰か死に戻って歴史をもう一度やり直してくれ。

 さて、夏は暑さのせいか、この時期の俳諧は少ない。そこで去年桃隣の『舞都遲登理』の足跡をたどったように、また気分だけでも旅に出てみようと思う。
 桃隣については許六が『俳諧問答』の中で、

 「風雅もかくのごとしとおもへるに寄て、算用十露盤の上にて損益を考へ、長崎の行脚よりハ、松島の方に徳ありとおもへるに似たり。」

などと言っているが、江戸に住んでいれば長崎は遠いし、そんなにお金もないなら松島の方に旅立つのは自然なことで、どこぞの家老にとやかく言われることではないと思う。
 まあ、それならばということで支考の『梟日記』を選んでみた。こちらの方は『舞都遲登理』の二年後の元禄十一年の長崎行脚の記録になる。
 まあ、どちらに向かおうが、こちとら所詮火燵記事の旅だけどね。火燵の季節でもなくエアコンにはまだ早いが。
 まず、序文を読んでみようか。テキストは『普及版俳書大系5 蕉門俳諧後集上巻』(一九二八、春秋社)による。

  「梟日記之序
 洛陽花ひらけてあらたに、武城鳥啼て静なる春も、きさらぎのはじめなるべし。いせの國に住なる法師、筑紫のたびねおもひたち侍りけるに、あまてるや此御神の御まへに詣して、この時の風雅のまことをぞ祈りたてまつりける。されば瘦藤に月をかゝげ、破笠に雲をつゝむといふ、むかしのひとのあとをまねびたるにはあらで、風雅は風雅のさびしかるべき、この法師の旅姿なりけり。
 月華の梟と申道心者
 むかし魯の孔丘は、麒麟を得て春秌をしるし給へりしに、をのづから世の人のためしともなれりけり。今又梟の一字に筆をはじむるに、褒貶はしばらくなきにしもあらず、一字の妙處にいたる事は誠に難からん。さるを此記の名になし侍らば、岸のからすの魚をうかゞひたるにやあらむ。西華坊みづから此一稿をなして、是を序のこゝろとはおもへるかし。」

 「洛陽」は京都、「武城」は江戸のことであろう。これは如月を導き出す序詞のようなもので、本題は如月の初めに伊勢の国の法師西華坊支考が筑紫の旅を思い立つところにある。伊勢なので伊勢神宮の天照大神に詣で、旅の風雅の誠を祈る。これは単に旅の無事というだけでなく、旅での俳諧の成功を祈る物であろう。
 「瘦藤に月をかゝげ、破笠に雲をつゝむ」は「自笑十年行脚事 痩藤破笠扣禅扉」という愚堂国師の投機偈によるものであろう。愚堂国師は愚堂東寔といい、ウィキペディアに、

 「愚堂東寔(ぐどうとうしょく、天正5年4月8日(1577年4月25日)- 寛文元年10月1日(1661年11月22日))は、禅宗の臨済宗の高僧。大本山妙心寺第百三十七世住持。父は伊藤紀内、母は斎藤氏家臣の娘とされる。諡号は大円宝鑑国師。」

とある。また、

 「後水尾天皇や徳川家光、保科正之、中院通村、春日局など多くの公家・武家から帰依を受けている。また、宮本武蔵も青年時に妙心寺にいた愚堂の元へ参禅している。弟子に至道無難がいる。」

とある。
 ただ、支考の旅はこの禅師の修行の旅をまねたものではなく、あくまで風雅の旅に出る。
 ここで一句。

 月華の梟と申道心者       支考

 月華を友として旅立つ「梟(ふくろう)」という道心者、だという自己紹介の句だ。
 梟は蓑笠を着て着膨れた姿を自嘲して言ったもので、似たような句に、

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮     其角(いつを昔)
   旅思 二句
 みゝつくの独笑ひや秋の昏    其角(五元集)
 みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 同

の句がある。こちらはミミズクだが。
 「むかし魯の孔丘は」の話はウィキペディアに「獲麟」という見出しで載っている。それによると、

 「魯の国の西方にある大野沢(だいやたく)というところで狩りが行われた際、魯の重臣である叔孫氏に仕える御者の鉏商(しょしょう)という人物が、見たことのない気味の悪い生物を捕えた。人々はそれを狩場の管理人に押しつけ、自分たちは先に帰ったのである。
 たまたまその気味の悪い生物を見る機会があった孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったのである。したがって、『春秋』はこの記事をもって終わるとされている。」

とのこと。
 梟もまた「福来郎」や「不苦労」に通じる吉兆であり、麒麟のような聖獣ではなくありふれた鳥だが、この憂き世の中に梟の一字からこの旅行記を書くことで、何かしらこの世を和ませ、より良いものにしたいという願いが込められている。
 「褒貶はしばらくなきにしもあらず」と賛否両論あるだろうけど、考えた末に選んだ一字で、「岸のからすの魚をうかゞひたる」ことのないようにと釘を刺して、この旅が始まることになる。


1,四月廿日、旅立ち

 「元祿戊寅之夏四月廿日、津の國や此難波津に首途して、人もしらぬひの名にし逢ふ筑紫のかたにおもむく。道遠く山はるかにして、たゞ雲水に身をまかせたれば、世にいふ山姥にはあらねど、みづからくるしび、みづからたのしむ。さるは世の人のありさまにぞ有ける。
 卯の華に難波を出たる無分別
 今宵は西の宮に宿す。難波の舍羅、此處におくり來る。このおのこは、かねてこの行脚にくみすべかりしが、さる事侍りてならずなりぬるを、ことにほゐなき事におもひて、一夜の名殘をおしむべきと也。
 みじか世の名ごりや鼾十ばかり」

 四月二十日に支考は難波津を出発する。だたしこの頃は古代の港だった「難波津」は既になかった。安土桃山時代には淀川左岸の渡辺津が用いられていた。
 江戸時代に入るとどうやら特定の港はなかったようだ。ウィキペディアによると、

 「茅渟の海と呼ばれていた大阪湾から大坂市街へは、淀川水系の河川を数km遡上する必要があり、北前船や菱垣廻船といった大型船は市内まで入らず淀川や木津川などの下流部や河口に停泊し、そこから小型船で貨物を運搬していた。船が市内へ上れるよう、また洪水を防ぐため、河川の改修や浚渫は江戸時代を通じて行われた。1683年(天和3年)には河村瑞賢が、曲がりくねって浅い淀川の水運と治水のため、九条島を二つに割いて安治川を開削。次いで1699年(元禄12年)には木津川の流路も難波島を二つに割いて航行をスムーズにさせ、安治川と木津川は二大水路として繁栄した。」

とのことで、大阪の運河沿いがどこでも港だったようだ。
 芭蕉は貞享五年夏の『笈の小文』の旅で明石に行った時は、尼崎から船に乗って兵庫に夜泊したことが記されている。支考が西宮まで陸路を行ったのか海路を行ったのかは記されてない。西宮は山陽道の起点になるから、陸路を行ったのかもしれない。尼崎よりも先になるが兵庫よりは手前になる。
 大阪から西宮までは一日の行程としてはかなり短いし、歩いてもそれほどかからない。「難波津」は形の上だけの出発点で、もう少し手前から歩いてきたのかもしれない。
 山姥の喩えは謡曲『山姥』に、

 「よし足引の山姥が、山めぐりすると作られたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89714-89716). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあるように、山廻りするものとされていた。また、

 「よし足引の山姥が、よし足引の山姥が・山廻りするぞ・苦しき。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89858-89860). Yamatouta e books. Kindle 版.)

と山廻りは「苦しき」ものでもあり、最後には、

 地 春は梢に咲くかと待ちし、
 シテ「花を尋ねて、山廻り。
 地 秋はさやけき影を尋ねて、
 シテ「月見る方にと山廻り。
 地 冬は冴え行く時雨の雲の、
 シテ「雪を誘ひて山廻り。
 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89949-89955). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と、この旅はどこか風流の旅にも通じる。
 ここで一句。

 卯の華に難波を出たる無分別   支考

 「無分別」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「無分別」の解説」に、

 「① 仏語。誤って、自己にとらわれ、ものを対立的・相対的に見る分別・妄想を離れること。物事の平等性をさとった状態。
  ※梵舜本沙石集(1283)四「正智は必ず無念無分別也。是の故に大智無分別とも云ひ」
  ② 分別のないこと。あとさきを考えないこと。思慮のないこと。また、そのさま。
  ※日葡辞書(1603‐04)「チカゴロ mufũbetno(ムフンベツノ) ヒトヂャ」

とある。無分別にはいい意味も悪い意味も両方ある。
 舎羅はウィキペディアに、

 「大坂生まれ。後に剃髪した。空草庵、桃々坊、百々斎、その他の号がある。俳諧は之道諷竹の手引きによる。貧困と風雅とに名を得たと言われた。妻と娘と暮らしていた。ある日、盗賊に入られ、しかし盗むべき物さえなく、盃をひとつ盗まれた時の句に、

 ぬす人も酒がなるやら朧月

 松尾芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。」

とある。芭蕉の最期の床だが、支考も門人らが住吉詣でに行った時に舎羅の句がなく、支考の句も、

 起さるる声も嬉しき湯婆哉    支考

という住吉で詠んだ祈願の句ではないところから、支考もこの住吉詣でには参加せず、舎羅とともに芭蕉の介護のために残ったのではないかと思われる。
 また、芭蕉の最期の俳諧興行となった園女亭での「白菊の」の巻では支考とともに参加して、

   改まる秤に銀をためて見る
 袖ふさぐより親の名代      舎羅

の句を付けている。
 この旅の同行する予定だった舎羅だが、ここ西宮までの同行となった。そこで一句。

 みじか世の名ごりや鼾十ばかり  支考

 ともに一夜を過ごした鼾だけが名残となる。鼾というと芭蕉の「万菊丸いびきの図」が思い出される。

2021年5月22日土曜日

 パクロッシの方は60パーセントくらいまで読んだかな。香港の話になってきた。部外者の感覚だからか、本土派が一番わかりやすい。
 それでは『三冊子』の続き。最終回。

 「いな妻は宵の内ばかりのものゝやうに、連哥には云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 俳諧では、

 電(いなづま)のかきまぜて行闇よかな 去来

のような句がある。貞享五年夏の「皷子花の」の巻十五句目、

   杖をまくらに菅笠の露
 いなづまに時々社拝まれて    芭蕉

の句も、暗がりの中に稲妻の度に社殿が現れるという句だ。

 「苗代の代といふは、かはるといふ義理也。去年の苗代地を不用して、新に作る所を好む義理也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 苗代の語源の問題で、「しろ」には確かに「よりしろ」が霊を仮のものに乗りうつさせるように、仮に用いる、代用にする、という意味がある。その点からすれば、単に田植の前に仮の場所に植えるから「なわしろ」でいいような気もする。苗の育成地が常設地ではないというところから「しろ」という。

 「夕さりの事、さりさりて夕の間を云。冬さり、秋さり、みな初の秋冬にははいひがたき詞也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 「夕さり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「夕去」の解説」に、

 「〘名〙 (「さり」は来る、近づくの意を表わす動詞「さる(去)」の連用形の名詞化) 夕方になること。また、その時。夕方。夕刻。ゆうされ。ゆさり。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
  ※古今(905‐914)離別・三九七・詞書「あめのいたうふりければ、ゆふさりまで侍りて、まかりいでけるをりに」
  [語誌](1)上代では「夕(ゆふ)さる」という動詞形が使われていたが、中古にはその名詞形「夕さり」で夕方という時間帯を表わすようになった。同じ時代に類義の「夜(よ)さり」も使われているが、「夜さる」という動詞形は、上代には見られない。従って「夜さり」は「夕さり」の影響、または変化によって成立したものと思われる。類例に「ゆふだち(夕立)」が変化した「よだち」がある。なお、「ようさり」という形も中古に見られるが、これは「夜さり」「夕さり」のどちらから転じたのかは明らかではない。
  (2)主として仮名文学に現われるが、中世になると民衆の口頭語となっていたことが、キリシタン資料などからうかがえる。なお「日葡辞書」には「ようさり」「よさり」は採録されず「ゆうさり」だけが見える。
  (3)もともと時間帯を表わす語はその指し示す対象が曖昧であるが、この語も夕と夜の境の不分明や発音の類似などから、中世には「夜さり」との混同が起きている。本居宣長は、「今の俗言に、夜を夕さりとも夜さりとも云は」〔古事記伝‐二〇〕と近世には夜の意味で使われていることを記している。」

とある。
 「夕されば」は夕べが去ればではなく、夕べに去ればであろう。去るが近づくの意味になるのは、前の状態から今の状態に去るからだ。ただ、この用法の場合「さ・ある」で「去る」とは別の言葉だった可能性はないのだろうか。それだと「夕然り」になる。

 「夕まぐれといふ事、間は休め字也。暮てたそがれ迄の間をいふ。しばしの間、人の見ゆるか見へざるかの程をたそがれといふ。誰かれといふ義理也。むかしは人倫にする。いまはそのさたなし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 「休め字」は「休め言葉」でコトバンクの「デジタル大辞泉「休め言葉」の解説」に、

 「詩歌などで、特に意味はないが、調子を整えるために置く言葉。休め字。「山の山鳥」の「山の」のようなもの。」

とある。「夕間暮れ」の方はコトバンクの「デジタル大辞泉「夕間暮れ」の解説」に、

 「《「まぐれ」は「目(ま)暗(ぐれ)」の意。「間暮」は当て字》夕方の薄暗いこと。また、その時分。ゆうぐれ。」

とある。
 「たそがれ」の語源が「誰そがれ」というのは、今日世俗にも膾炙している。

 「はだれ雪、帷子雪、みな大ひら雪の事をいふと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 はだれ雪はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「はだれ雪」の解説」に、

 「〘名〙 はらはらと降る雪。また、薄く降り積もった雪。はだらゆき。はつれゆき。はだれ。《季・春》
  ※主殿集(11C末‐12C前か)「はだれゆきあだにもあらで消えぬめり世にふることや物うかるらん」

とある。
 帷子雪は「精選版 日本国語大辞典「帷子雪」の解説」に、

 「〘名〙 薄く積もった雪。一説に薄く大きな雪片の雪。たびらゆき。だんびらゆき。《季・春》
  ※俳諧・竹馬狂吟集(1499)四「見えすくや帷雪のまつふぐり」
  [補注]「淡雪」に準じて、初期俳諧の頃は冬の季語であったが、今日では春の季語とされる。」

とある。
 「大ひら雪」は太平雪(たびらゆき)であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太平雪」の解説」に、

 「〘名〙 (「だひらゆき」「だびらゆき」とも) 春先に降る淡くて大きな雪片の雪。だんびら雪。かたびら雪。《季・春》 〔名語記(1275)〕
  ※俳諧・鷹筑波(1638)四「声なふて空行鷺や太平雪(ダヒラゆき)〈政之〉」

とある。
 帷子雪は中世連歌の「寛正七年心敬等何人百韻」五十句目に、

   侘びぬれば冬も衣はかへがたし
 かたびら雪は我が袖の色     心敬

の句がある。この場合は冬。寛文の頃の芭蕉の句にも、

 霰まじる帷子雪は小紋かな    宗房

の句がある。
 薄雪は冬、淡雪は春なので、帷子雪は薄雪の扱いになるのだろう。薄雪は薄く積る雪、淡雪は淡く残る雪になる。享禄三年(一五三〇年)の「守武独吟俳諧百韻」の五句目に、

   かすみとともの袖のうす帋
 手習をめさるる人のあは雪に   守武

の句があるように、淡雪は古くから春だった。ただ、『炭俵』の「ゑびす講」の巻十句目の、

   ひだるきハ殊軍の大事也
 淡気(け)の雪に雑談もせぬ   野坡

の「淡気の雪」は冬になる。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「みぞれ」のこととある。

 「すぐろの薄、やけ野に燒殘より芽の出るをいふと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 「すぐろの薄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末黒の薄」の解説」に、

 「野焼きのすすきの穂先が焦げて黒くなったもの。また、末黒野(すぐろの)に新しく萌え出たすすき。《季・春》
  ※後拾遺(1086)春上・四五「粟津野のすぐろの薄つのぐめば冬たちなづむ駒ぞいばゆる〈静円〉」

とある。末黒野は野焼きの後の黒くなった野で、「やけ野に燒殘より芽の出」は後者の意味になる。

 「かつこ鳥、かんこ鳥、二鳥同じ鳥の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 今日でいうカッコウのこと。「かんこ鳥」は閑古鳥。

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

の句がある。

 「氷の衣といふ事は、氷のうちにかいこ有て糸なをなすと、無き事を佛道にいひたるより出たる也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 氷の衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「氷の衣」の解説」に、

 「① 氷におおわれた衣。火に焼けず水にぬれないという。
  ※俳諧・三冊子(1702)黒双紙「氷の衣といふ事は、氷の内にかいこ有て糸をなすと、無き事を仏道にいひたるより出たる也といへり」
  ② 氷のはったさまを、衣服が物をおおい包むのにたとえていう。《季・冬》
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「水ばりに張は氷の衣かな〈光有〉」
  ③ 月の光に照らされて白く光る衣を氷にたとえていう。氷のようにすきとおった衣。
  ※夫木(1310頃)三三「夏の夜の空さえわたる月かげに氷の衣きぬ人ぞなき〈源仲正〉」

とある。
 「氷のうちにかいこ有て」は「氷の蚕」のことだろうか。weblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 「中国の想像上の虫。滝の糸長く氷るのをこの蚕のせいと疑われた
  季節 冬」

とある。氷の衣は存在しない架空の衣ということか。

 「侘と云は、至極也。理に盡たる物也と云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 『去来抄』はさび、しほり、ほそみについてはあるが「わび」については言及がない。今日「わびさび」と言ったりするが、この二つを一緒に論じたものはない。
 「わぶ」というのは元は「下がる」という意味で、頭を下げる、身を低くするから「侘びを入れる」になるし、落ちぶれるということから「侘び人」つまり乞食の意味になる。これが謙虚さ質素さという美徳と結びつく。
 ウィキペディアによると、

 「侘の語は、先ず「侘び数寄」という熟語として現れた。これは「侘び茶人」つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(『宗二記』)[7]のことを指していた。「貧乏茶人」のことである。宗二は「侘び数寄」を評価していたので、侘び茶人すなわち貧乏茶人が茶に親しむ境地を評価していたといえる。千宗旦(1578-1658)の頃になると侘の一字で無一物の茶人を言い表すようになり、やがて茶の湯の精神を支える支柱として侘が醸成されていったのである。
 ここで宗二記の「侘び」についての評価を引用しておこう。「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」とあるから「侘タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。」

とあるように、茶道に起源があるようだ。
 侘びはいわゆる禁欲というよりは、天を恐れ身を慎むこと、つまり人為の限界をする、西洋で言う「無知を知る」ということに近いと思う。それが日本の一君万民の体制と結びついて、王になるのではなく臣下としての徳を積むこととも結びついているのではないかと思う。
 永遠の命を求めず、不変の真理を求めることなく、絶対的な支配(アルケー)を求めない、あくまで慎むことに美を求めることが「侘び」につながっているのではないかと思う。それゆえ至極であり、朱子学の「理」に通じる。理に通じるものは即ち「風雅の誠」に他ならない。

 「若なの發句は、初春七日の跡三日の内也。平句には初春の内にはくるしからずと連哥にいひ來るとあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 若菜は正月行事の初子の日の若菜摘に由来するもので、コトバンクの「世界大百科事典内の若菜摘みの言及」に、

 「平安時代,正月初めの子の日に貴族たちが楽しんだ野遊び。小松の根引き(小松引き)や若菜摘みなどが行われたが,これらは年頭にあたって,松の寿を身につけたり,若菜の羮(あつもの)を食して邪気を払おうとしたものと思われる。」

 「後世これらを七草粥にして正月7日に食べた。若菜は初春の若返りの植物であり,古くは正月初子(はつね)の〈子の日の御遊び〉に小松引きや若菜つみを行い,それらを羹(あつもの)にして食べたりしたが,のちに人日(じんじつ)(正月7日)に作られるようになった。」

とある。それゆえに若菜は初春七日の題材で、七日から三日以内になる。付け句では初春の題材として扱う。

 「霞は夜と晝は似ぬもの也。夜の朧といふ事なし。月星に結びてするよし、連哥にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 霞は山など遠くの景色の霞むさまで、昼などは朝や夕べも含めて景色に詠む。夜の場合は月や星の霞むさまで、真っ暗な夜空そのものが霞んだり朧になったりはしない。今日のように街の灯りがまぶしければ、それが霞む空に映ることもあるが、昔はそのような現象はなかった。

 「月の影と上の句、下の句に留らずと連ニ有。いざよふ月。又月に不限、日ぞいざよふなどゝ云は、聳物に日の影へだちたる也。聳物なくては云がたし。又人をいざよふ、倡也。雲や浪をもいふと連書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 「月の影」は月の光のこと。古語では光のことも影と言った。
 「いざよふ月」は昇るのの遅い月、十六夜のことをいう。「月のいざよふ」はなかなか沈まないで残っていることをいう場合もある。
 「日ぞいざよふ」は特殊な言い回しであろう。日の影が聳物によって遮られることだという。聳物は雲、霧、霞、靄、煙などがある。
 また、「人をいざよふ、倡也。雲や浪をもいふ」というのも特殊な用法であろう。「倡」には「イザナフ」とルビがある。「ためらう」という意味の「いざなふ」と「さそう」という意味の「いざなふ」が混同されたのではないかと思う。

 「師のいはく、大方の露には何のなりぬらんたもとにおくは涙也けり、此うたは鴫立澤に勝ツ哥也。面白しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 これは、

 おほかたの露にはなにのなるならむ
     袂におくは涙なりけり
              西行法師(千載集)

の歌をいう。自然の露と袖の露を区別して、いわば只露に対しての心の露、露の本意を表したといっていいだろう。
 「やまとうたは人の心をたねとして」と古今集の仮名序にもあるとおり、歌は心を述べるもので、物を描写するだけのものではない。物(虚)を通じて心(実)を表すというのは西行の時代から芭蕉の時代までの一貫した考え方だった。
 十八世紀の中頃、このエピステーメは大きく変動し、蕪村や賀茂真淵以降の国学は近代に属する。西行と芭蕉との距離は芭蕉と蕪村の距離と比べても遥かに近かったと思う。
 『三冊子』はこのあと手紙の書き方になるので、この辺りは省略する。

2021年5月21日金曜日

 東京はどうやらピークアウトが見えてきた。第四波の変異ウイルスはさすがに手ごわかったが、強制力のある対策が打てなくても、ワクチン接種が遅れても、どうやら何とかなりそうだ。
 ガザの停戦ということで、まあハマスの思想のことは知らないが、パレスチナを守ろうとしたのだからその点では正義だと思う。ミャンマーでも軍に対して武力闘争を始めた人たちを責めることはできない。思想が問題なのではない。まずは命を守り、生活を守るための戦いなら正当な抵抗権の範囲だと思う。平和デモで戦車に轢き殺されてミンチになれなんこと、言えるわけないだろっ。
 あと、鈴呂屋書庫に「雪ごとに」の巻「皆拝め」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは『三冊子』の続き。

 「順の峯入、逆の峰入とも夏也。むかし紀の國路より、みねに入て是を順といふ。今はよし野よりいりて是を逆と云。今の峯入は逆也。諸ともの哥、順逆ともに夏故に感ふかしと師の云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 コトバンクの精選版 日本国語大辞典「峰入」の解説には、

 「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》
  ※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」

とあり、熊野から大峰の抜けるのを「順」とし、吉野から熊野に抜けるのを「逆」としていて、季語は「夏」としている。
 同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「順の峰入り」の解説」には、

 「天台系の本山派の修験者が、役行者(えんのぎょうじゃ)の入山を慕って、熊野から葛城(かつらぎ)・大峰を経て吉野へ出る行事。真言系の当山派の逆の峰入りに対する語。順の峰。《季・春》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。
 ここでも「順」と「逆」は一緒だが、季語は「春」になっている。
 元禄二年春の「衣装して」の巻三十五句目に、

   折にのせたつ草の初物
 入過て餘りよし野の花の奥    芭蕉

の句がある。この「入」は順の峯入のことであろう。ここでは花の句なので春になる。
 貞享四年の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、

   別るる雁をかへす琴の手
 順の峯しばしうき世の外に入   観水

とあるが、順の峯入りは春の句となっている。

 峯入の笠とられたる野分かな   許六

の発句は秋の句になっているが、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」の句であろう。
 「諸ともの哥」は

 もろともにあはれと思へ山桜
     花よりほかに知る人もなし
              行尊(金葉集)

の歌と思われるが、花の歌で夏とは思えない。
 ネット上の金任仲(キム・イムジュン)さんの『西行の大峰修行をめぐって ─説話との関連を中心に─』には、

 「大永七年(一五二七)奥書がある『修験道峰中火堂書』下巻には、  

 順峰修行ハ金剛界之修行也。秋八月晦日ノ入峰ハ熊野山那智瀧ノ本宿ヨリ大峰へ入リ。十月初八日萬歳峰へ駈出也。逆峰修行ハ胎蔵界之修行也。春三月十八日ハ吉野金峰山ヨリ大峰へ入リ。五月一日萬歳峰へ駈出。互相順逆ノ笈ヲハ萬歳峰渡シ請取ルト云。順峰ハ役君三論天台宗等ヨリ始ル。故二出札山門流ト書ク也。逆峰ハ真言宗ヨリ始ル。故二出札東寺流ト書ク也。

とあり、順峰・逆峰の方式と因縁などが記されている。」

とある。これによると順の峯入りが秋八月晦日に熊野から入るのが「順の峰入り」で、春三月十八日に吉野から入るのが「逆の峰入り」になっている。
 そうなると、春の桜や帰る雁を詠んだ峰入りは「逆の峰入り」で吉野から入ったことになる。これだと、「今はよし野よりいりて是を逆と云。今の峯入は逆也。」というのは正しいが季節は春になる。
 いずれにせよ、熊野から入るのが順で吉野から入るのが逆であることは間違いない。問題は季節で、吉野の桜を詠んだ歌や句がどちらから来たかという問題になる。桜や帰る雁の句が吉野から入る逆だとしたら、野分の峯入りは熊野から入る順になる。
 峰入りの時期は時代によって変わっているかもしれない。いずれにせよ「順の峯入、逆の峰入とも夏也」は疑問だ。

 「和歌には、はねる字を、にとよむ也。緣をえにと云、難波をなにはといひ、蘭をらにと云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 古代の日本語には「ん」で終わる言葉がなかったからであろう。んで終わる言葉は母音を補って「に」としたのであろう。鬼(おに)も隠(おん)が語源だという。
 縁を「えに」と読んだ名残は今日でも「えにし」という言葉に残っている。難波は大阪の地名としては「なんば」と呼んでいる。

 「心の駒は心のさはがしきを云。ひまの駒、光陰の去やすきをいふなり。
 心の松は不變の心也。又直成る心也。しるしの事をも云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149~150)

 「心の駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「心の駒」の解説」に、

 「=こころ(心)の馬
  ※草根集(1473頃)六「つながれぬ心の駒もおとろへき恋路さがしく遠き月日に」

とある。「心の馬」は、

 「(「衆経撰雑譬喩‐上」の「欲求善果報、臨命終時心馬不乱、則得随意、往不可不先調直心馬」による) 馬が勇み逸(はや)って押えがたいように、感情が激して自制しがたいこと。意馬。心の駒。
  ※新撰菟玖波集(1495)雑「あらそへる心のむまののり物に かちたるかたのいさむみだれ碁〈よみ人しらず〉」

とある。
 「ひまの駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隙行く駒」の解説」に、

 「(「荘子‐知北遊」の「人生二天地之間一、若二白駒之過一レ郤、忽然而已」による) 壁のすきまに見る馬はたちまち過ぎ去ることの意から、月日の早く過ぎ去ることのたとえ。隙(げき)を過ぐる駒。白駒(はっく)隙(げき)を過ぐ。ひま過ぐる駒。ひまの駒。
  ※千載(1187)雑中・一〇八七「いかで我ひまゆく駒をひきとめて昔に帰る道を尋ねん〈三河内侍〉」

とある。
 「心の松」は「精選版 日本国語大辞典「心の松」の解説」に、

 「① (「松」を「待つ」にかけて) 心中に期待すること。
  ※拾遺(1005‐07頃か)恋四・八六六「杉たてる宿をぞ人はたづねける心の松はかひなかりけり〈よみ人しらず〉」
  ② 変わらない心を松の常緑であるのにたとえていう。〔宗祇袖下(1489頃)〕」

とある。

 「鳴子は田か畑か植物か、結びてする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 鳴子はウィキペディアに、

 「鳴子(なるこ)は木の板に竹の管や木片を付けて音が出るようにした道具の一種。本来は防鳥用の農具である。引き板やスズメ威しなどの別名がある。また地域や時代によって、ヒタ、トリオドシ(鳥威し)、ガラガラなど様々な呼称がある。」

とある。

 「田鶴は水邊か、里ちかく鳴様にするなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 田鶴はツルのことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鶴・田鶴」の解説」に、

 「〘名〙 鶴(つる)をいう。多く歌語として用いる。たずがね。
  ※万葉(8C後)六・九一九「和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして多頭(タヅ)鳴きわたる」
  ※無名抄(1211頃)「たづは沢にこそ棲め、雲井に住む事やはある」
  [語誌](1)「万葉集」では、助動詞「つる」の訓借仮名として「鶴」を用いることがあるものの、鳥名「鶴」はすべて「たづ」と訓ぜられ、「たづ」は歌語として定着していたようである。
  (2)中古以降、散文にも用例が見られるが、なお雅語としてのニュアンスが強い。」

とある。芦田鶴(あしたづ)など、水辺に詠むことが多い。

 「朝の月は、十七日より廿八日まで也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 朝の月は明け方の沈む月ではないので、満月から二三日は除外する。

 「貌よ鳥、春されば野べに先なく貌よ鳥聲に見へツゝ忘られなくに、といふは雉子をよめり。又鶯をもよめり。霜氷る岩根につるゝ貌よ鳥浪の枕やわびてぬるらん、是鶯也。定家卿の云、貌よ鳥、春の鳥也となり。師の曰く、説々あれども、たゞ春の小鳥のいつくしきをいふと知るべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 貌鳥(かほどり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「かおとり」) 鳥の名。なに鳥かは不明。かおよどり。《季・春》
  ※万葉(8C後)三・三七二「春日を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥(かほとり)の 間無くしば鳴く」
  [補注]中古以後おおむね、「かおどり」の語義を、「かおばな」と同じく、容姿の美しい鳥と考えているが、雉(きじ)の雄、鴛鴦(おしどり)、翡翠(かわせみ)、雲雀(ひばり)、梟(ふくろう)、鴟鵂(みみずく)、蚊母鳥(よたか)、虎鶫(とらつぐみ)、青鳩(あおばと)、河烏(かわがらす)、郭公(かっこう)など、諸説ある。」

とある。

 春されば野べに先なく貌よ鳥
     聲に見へツゝ忘られなくに

の歌は不明だがよく似た、

 夕されば野べに鳴てふかほどりの
     かほにみえつつわすられなくに

の歌が『古今和歌六帖』にある。これはキジのことだという。

 霜氷る岩根につるゝ貌よ鳥
     浪の枕やわびてぬるらん

の歌も不明。ウグイスのことだという。
 容姿の美しい鳥で、春を彩る鳥のことで、特に特定の種を指すのではないようだ。

 「殘鴈、説あり。哥の題には冬也。連俳には秋に用る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 残雁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「残雁」の解説」に、

 「春になっても、まだ北へ渡って行かないで残っている雁。また、秋になっても北陸地方にとどまり、南へ渡らないで残っている雁。《季・春/秋》
  ※無言抄(1598)下「残る鴈 秋なり。帰鴈の残る心な一向不謂。こし路にのこりてをそく渡る心なり」

とある。貞享五年秋の「月出ば」の巻十五句目に、

   谷の庵のあたらしき月
 行雁におくれて一羽残けり    夕菊

の句がある。

 「つぼすミれといふは舊薗のすみれ也。つぼの内のすみれといふ事也。一たびよみて詞やさしき、依てすみれの名になして山野にもよめる也。師のいはく、此類の事どもみなある事也とぞ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 ツボスミレは今日ではスミレの種類の名になっている。通常のスミレは葉が細く花の色が濃いのに対し、葉がハート形で花の色の薄いのをツボスミレと呼んでいる。
 古来のこの二種のスミレが区別されてたのかどうかはわからない。語源的には「壺庭」などの庭に咲くスミレのことを壺菫と呼んだことに始まるのかもしれない。庭のスミレと野のスミレが同じものだったかどうかも定かでない。
 言葉としては壺菫という言葉を野のスミレにも拡張して用いていたのかもしれない。衣装の重ねの色目で壺菫という場合も色の濃いスミレの色に薄い緑を合わせているから、色の白い今のツボスミレの色ではない。
 では今のツボスミレは何と呼ばれていたかとなると、それも定かではない。

 きぎす鳴く岩田の小野のつぼすみれ
     しめさすばかり成りにけるかな
              藤原顕季(千載集)

など、和歌に詠まれている。

 むらさきの野辺の芝生のつぼすみれ
     かへさの道もむつましきかな
              藤原俊成(俊成五社百首)

の歌を見る限りは、紫色のスミレであり、今日のツボスミレとは思えない。

2021年5月20日木曜日

  八九六四の読み方だが、運転手だった頃の会社に「ぱくろっさ(ナンバーが8963)」と呼ばれているトラックがあったせいで、頭の中では「ぱくろっし」と読んでいる。どうでもいいことだが。
 それと『八九六四 完全版』を読んでいて、「東洋的専制主義」という言葉があったななんて、ふと思い出した。
 非西洋圏では民主化はしたいけど伝統的な人間関係を壊したくないという両方の力が働く。日本は一君万民の形態を残しながら、何とか民主主義と調和させたが、中国では皇帝と科挙による官僚の支配という伝統が、なかなか民主主義となじまずに苦労しているのかもしれない。
 それと、関係ないが鈴呂屋書庫「雪の夜は」の巻をアップしたのでよろしく。
 その それでは『三冊子』の続き。

 「清濁、にごるを清は難なし。清ムを濁るは恥也。かり衣、から衣、この二は清也。此類皆下を濁る也。旅衣の類なり。
 はしひめ、さよひめ、さ保姫、此三清て外は下を濁る也。濁るは二ツ物をつゞくるには必あり。酒も大酒といへば、ざけ、とにごる類也。濁るは和らぐ道理也。清ムは陽、濁るは陰也。・は陽、すむ也。‥は陰、濁る也。數一は陽、二は陰也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147~148)

 二つの詞がつながった時に後の言葉も頭が濁音になる現象を「連濁」と呼ぶ。いくつか大雑把な法則はあるが、すべての連濁を整然と説明できるような法則は残念ながら未だにない。
 たとえば「かりころも」「からころも」は濁らないが「たびごろも」は濁る。なぜかと言われてもよくわからない。「衣」を「きぬ」と読む場合は「かりぎぬ」「からぎぬ」になる。
 おおむね、二つの言葉の結合が深い場合は連濁が発生する傾向にある。いわば連濁は接着剤のような効果がある。あと、元から清濁の定まった外来語は連濁しない。
 「濁るは和らぐ道理也」というのは二つの言葉をつなぐ、調和させる、という意味であろう。
 漢語の清濁の場合はまた別の法則が存在している。たとえば一本二本三本を「いっぽん」「にほん」「さんぼん」と読むのは、一が本来ietという子音で終わる字で二がniiで母音で終わる字、三はsambでまた特殊な子音で終わることによる。四は和語で「しほん」ではなく「よんほん」と読むので、和語に外来語と付いた場合に準じて濁らなくなる。七本も「ななほん」と読むので濁らない。六本はliokと子音で終わるため「ろっぽん」になる。
 ただ、これも時代が下り、中国の方で漢音から宋音に変化すると、入声がなくなるため、たとえば「日本」はniet本(にっぽん)ではなくrii本になるので「にほん」になる。中国語のrは濁った音に聞こえるため、マルコポーロはこれを「ジ」と発音して「ジパング」となり、西洋ではJの字を使うようになった。
 「にごるを清は難なし」というのはくっついた言葉を元の形に戻すだけだからそれほど問題ではなく、「清ムを濁る」をくっついてない言葉をくっつけるから恥となる。
 秋葉原は本来秋葉(あきは)神社の原っぱだから、「あきはばら」になる。秋葉を「あきは」と清音で読むのは、古代は「秋津葉(あきつは)」だったからと言われている。
 ただ、最近になって秋葉原の原を略すようになったときには、本来「秋葉(あきは)神社」に由来しているということが忘れ去られてしまったため、秋葉は「あきば」と発音されている。
 地名や人名の清濁は場所によって違い、伊豆大島は「おおしま」だが、江東区大島は「おおじま」になる。こういうのは一つ一つ覚えるほかない。
 清濁を陰陽に結び付ける考え方は中国の陰陽五行説に根差すもので、陽気は澄んでいて上昇し、陰気は濁っていて下降する。上昇した気は天になり、下降した気は地になるという考え方から来ている。連濁の説明とはそれほど関係はない。強いて言えば濁るものは大地のように密着し、清いものは大気のように拡散するという所か。
 澄んだ陽気の上昇と濁った陰気の下降による天地の創造は、沈殿の現象でもって説明されている。

 「呼子鳥の事、師のいはく、季吟老人に對面の時、御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。貞德の心いかにとたづねられしに、老人のいはく、貞徳も古今傳授の人とは見へず、全句をせざる事也といへるよし、師のはなしあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)

 呼子鳥は古今伝授の三鳥の一つ。三鳥は呼子鳥、稲負鳥、百千鳥をいう。
 稲負鳥(いなおうせどり)は延宝の頃信徳が京で百韻七巻と五十韻一巻の『俳諧七百五十韻』を刊行したときの発句の一つに、

 鳫にきけいなおほせ鳥といへるあり 春澄

と詠み、延宝九年の『俳諧次韻』で、

   鳫にきけといふ五文字をこたふ
 春澄にとへ稲負鳥といへるあり  其角

と返したこともあった。

 わがかどにいなおほせ鳥の鳴くなへに
     けさ吹く風に雁は來にけり
            よみ人しらず(古今集)

の歌に詠まれた謎の鳥とされている。鶺鴒説が有力ではある。
 百千鳥(ももちどり)も

 ももちどりさへづる春は物ごとに
     あらたまれども我ぞふりゆく
            よみ人しらず(古今集)

の歌に詠まれていて、謎の鳥とされている。鶯説と不特定多数説がある。
 もう一つが呼子鳥だが、ツツドリ説が有力とされている。
 元禄二年六月十日『奥の細道』の旅の羽黒山で興行された「めづらしや」の巻の三十五句目に、

   行かよふべき歌のつぎ橋
 花のとき啼とやらいふ呼子鳥   芭蕉

の句がある。
 「御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。」とあるが、『日本俳書大系 篇外 蕉門俳諧續集』(一九二七、日本俳書大系刊行會)所収の『俳諧御傘』には、

 「古今の大事なれば、傳受せざる人はむさとせぬ事なりと、近代連歌師は制するげに候。俳諧には傳受せずとも、正躰をしらずとも、春の暮かたになく鳥也と心得てすべし。其子細は、むかし連哥師はこれを不憚すでに宗養は三十九歳にして死去あれば古今未傳の人也。獨吟にも、鳴てかへれば又よぶこ鳥、といふ句あり。その上和哥の題に、よぶこどり常に出せり。更に憚事にあらざる也。大事の春の景物を人にさせぬは、道をせばむる道理あり。呼子鳥 連哥に一座一句なれ共、春の季も大切なれば二句もすべし。但、世上の人大事に思ひ付たる鳥なれば、誰にも壹句にて置べし。」

とある。「夕ぐれ梢高くきて」の文字はない。季吟への口伝だったか。
 ちなみにツツドリはウィキペディアに、

 「平地から山地の森林内に単独で生息するため姿を見る機会は少ないが、渡りの時期には都市公園などにも姿を現す。樹上の昆虫類を捕食し、特にケムシを好む。地鳴きやメスの鳴き声は「ピピピ…」と聞こえるが、繁殖期のオスは「ポポ、ポポ」と繰り返し鳴く。」

とある。

 「い勢の濱荻、芦にあらず。荻に似たる物にて別也。いせに限也。角組とき葉一巻也。祭主祐親娘、濱荻と名付られしと也。伊せの海、するがの海、石見の海等、國の名なれども、名所に取る景をほめていへる故の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)

 伊勢の浜荻というと『菟玖波集』の、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻      救済

の句があるように、同じものが場所によって名前を変える例とされていた。
 謡曲『蘆刈』にも、

 なかなかの事この蘆を、伊勢人は浜荻といひ、
 ワキ「難波人は、
 シテ「蘆といふ。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.44179-44183). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあり、謡曲『歌占』にも、

 神風や伊勢の浜荻名をかへて、伊勢の浜荻名をかへて、よしといふもあしといふも、同じ草なりとく ものを、(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.45414-45418). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 浜荻に関しては今でもコトバンクの「デジタル大辞泉「伊勢の浜荻」の解説」に、

 「1 伊勢の浜辺に生えている荻。
  「あたら夜を―折り敷きて妹(いも)恋ひしらに見つる月かな」〈千載・羇旅〉
  2 《伊勢では「はまおぎ」とよぶところから》葦(あし)のこと。
  「―名を変へて、よしといふもあしといふも、同じ草なりと聞くものを」〈謡・歌占〉」

とあるように、二つの説が併記されている。ただ、いずれにせよイセハマオギのような固有種があるわけではなく、芦か荻かどちらかだとされている。「荻に似たる物にて別也」という説は見られない。実際には、様々なイネ科の植物が伊勢に生えているため、特定は難しい。
 芦であれ荻であれ、わざわざ「伊勢の浜荻」という言葉を用いて歌を詠むというのは、「名所に取る景をほめていへる故の事」だというのは間違いないだろう。

 あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて
     妹恋しらに見つる月かな
            藤原基俊(千載集)

の歌がよく知られている。

 「春雨はをやみなく、いつまでもふりつゞくやうにする、三月をいふ。二月末よりも用る也。正月、二月はじめを春の雨と也。五月を五月雨と云、晴間なきやうに云もの也。六月夕立、しちがつにもかゝるべし。九月露時雨也。十月時雨、其後を雪、みぞれなどいひ來る也。急雨は三四月、七八月の間に有こゝろへ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)

 今日では春雨というと霧のような細かい雨、春の霧雨というイメージがある。「新国劇」の月形半平太の「春雨じゃ、濡れてまいろう」というセリフは昭和の頃よく聞かれたが、最近はあまり言わなくなった。
 中世連歌の「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」九十五句目に、

   八重おく露もかすむ日のかげ
 春雨の細かにそそぐこの朝    心敬

の句があるから、これも間違ってはいないのだろう。延宝四年の「此梅に」の巻第三にも、

   ましてや蛙人間の作
 春雨のかるうしやれたる世中に  信章

の句があるように、春雨は軽く降る。
 ただ、元禄五年刊の才麿編『椎の葉』所収の「立出て」の巻三十二句目に、

   とりどりに骨牌をかくす膝の下
 とまりをかゆる春雨の船     尚列

とあるから、川が増水して船の留める場所を変えるくらい降っている。三月に持続的に降る雨、今日でいう菜種梅雨のことと思われる。
 江戸後期の曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、「兼三春物」として、

 「春雨 春の雨 膏雨 [鬼貫独言]云、春の雨はものこもりてさびし。」

とある。春雨と春の雨は特に区別されてない。
 「春の雨」は今日だと「一雨ごとに暖かくなる」というイメージになる。既に暖かくなった新暦四月の雨ではないので、この区別は今日でも暗黙の裡にあるのだろう。ただ、区別はあいまいで、霧雨なら寒くても春雨ということもある。思うに、近代では「菜種梅雨」という言葉が定着したため、春雨がかつて持っていた旧暦三月に持続的に降る雨という意味が消えてしまい、霧雨だけが残ったのだろう。
 「露時雨」は和歌の時雨が晩秋から初冬にかけてのものだったのを、連歌の式目で時雨を冬としたら、秋の時雨を露時雨とする意味と、露が多く下りてあたかも時雨が降ったようだという比喩の意味とがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「露時雨」の解説」に、

 「① 露としぐれ。《季・秋》
  ※新古今(1205)秋下・五三七「露時雨もる山かげの下紅葉ぬる共をらん秋のかたみに〈藤原家隆〉」
  ② 晩秋のころ、しぐれのように一時さっと降る雨。《季・秋》
  ※至宝抄(1585)「露時雨 初時雨は冬也。霧などかいづれ秋の道具結び候へば秋なり」
  ③ 露がいっぱいおりて、しぐれが降ったようになること。また、草木の葉などに露がたくさんたまって、そのしたたるさまがしぐれの降るようであること。《季・秋》
  ※続春夏秋冬(1906‐07)〈河東碧梧桐選〉秋「露時雨方十尺を踏ましめず〈観魚〉」

とある。
 急雨(きゅうう)はにわか雨で無季。

 「東風、春風也。 東風解凍と書文有。夏は南風、秋は西風、冬は北風と漢に用る也。和にさのみその沙汰なし。されども、その心遣ひはあるべきか。夏は嵐なきやうにする也。春は少の風も花をいとひて、嵐と和にもいふ也。秋の初風、はつ嵐と云。中秋にはあらき風を野分と云。初冬の風を木がらしと云。末の冬に至ては、嵐は却而似ざるやうに連哥に用る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 「東風解凍」は『去来抄・三冊子・旅寝論』の文字がよく読めないためためにこう表記した。解は門構えの中に横棒の入った判読しにくい旁が入っている。レ点があってトクとルビがふってあるので、一般的に用いられている「解」の字で代用しておく。
 東風(こち)は春風に同じ。「東風解凍」は七十二候にある。

 袖ひちてむすびし水のこほれるを
     春立つけふの風やとくらむ
            紀貫之(古今集)

の歌にも詠まれている。紀貫之は貞観の頃の生まれとされているので、宣明暦は既に導入されていた。
 春風は桜の花を散らすものとして、花を厭う。花を散らす風は嵐ともいう。秋の初風は初嵐ともいう。元禄四年秋の「牛部屋に」の巻三十一句目に、

   藪くぐられぬ忍路の月
 匂ひ水したるくなりて初あらし  史邦

の句がある。
 野分は今日の台風のこととされている。当時は気象衛星の映像で見るような台風の全貌を知ることはなかっただろうけど、一過性で移動してゆくことは経験的に知られていて、元禄七年秋に、

 あれあれて末は海行野分哉    猿雖

の発句がある。

 「螢、四五月より秋迄も用る。蟬、六月專に暑の甚しき時を用る。秋までもかゝるべし。日ぐらし、せみのやうに鳴て夜もなく。初秋に啼、日中には不鳴、曇りにはなく。  夕立は夕時分といふにあらねども、晝より後にあるやうにと連歌云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 このあたりは今日の感覚とそれほど離れてはいない。暑い時に鳴く蝉と涼しい時に鳴くヒグラシが区別されている。夕立は夜に鳴っても夕立というのは今日も同じ。

2021年5月19日水曜日

 今日も雨。
 コロナのワクチン接種は今週に入って若干ペースが上がった。五月十七日一日で46万人なら、週で二百五十万くらいまで行く。(高齢者向けは毎日だが医療従事者向けは土日が休み。)十八日の時点で約710万。これでも今月中の一千万は行くか行かないかだ。
 安田峰俊さんの『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(二〇二一、角川新書)を読み始めた。民主化闘争の難しさに思想的な指導者がいなくてばらばらだという問題があるという。まあ、ばらばらでいいというのが民主主義で、それを統一したら独裁になってしまうから、当然と言えば当然だが。
 基本的に民主化闘争は各自の感情や欲望によるもので、一致した思想や要求がないというところを欠点とみなしてはならない。
 日本が非西洋圏で珍しく民主化に成功したのは、日本人が思想的にならなかったからだ。
 明治の開国から戦後に至るまで、日本には目立った指導者は一人もいなかった。
 指導者は必ず独裁を生む。ミャンマーの失敗もいつまでもあの女史を担いでいたからだ。指導者がいなくても何となく収まるようなところまで成熟しなくてはならない。
 西洋ではおそらくそうした民衆の間での意識の高まりが先にあって、そこからいろいろな思想家が生まれたのだと思う。非西洋圏では、そうやってできた西洋の思想を植え付けることから民主化を始めようという誘惑にかられるが、実はそれこそが独裁を生む元になる。開明君主がその国の独裁体質を作ってしまう。
 日本は徳川幕府が終わり大政奉還をしたときに、特に西洋哲学の影響というのでもなく「廣ク天下之公儀ヲ盡シ」という形になった。この時明確なリーダーがいなかったことが、その後の日本の運命を決めたのかもしれない。だから、これから民主化しようという国に必要なのは明確な思想でも優れたリーダーでもない。
 まあ、それはそうと鈴呂屋書庫に「其かたち」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは『三冊子』の続き。

 「一とせ大和の法隆寺に、太子の開帳有。その頃、太子の冠見おとし侍るとて、後の開帳に又趣れし也。かゝる古代のものを心にかけて、旅立れし師の心のほど思ひやるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)

 ネットで見たら「太子ゆかりの寺宝が過去最大規模で一挙公開 特別展『聖徳太子と法隆寺』」というのが目に入った。今でも法隆寺の秘宝の特別開帳は時々あるようだが、それとは別に奈良国立博物館と東京国立博物館で特別展があるようだ。そのポスターにもなっている国宝 聖徳太子および侍者像の聖徳太子は立派な冠を被っているが、これのことだろうか。
 芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の時にも『笈の小文』の旅の時にも奈良に行っているし、最後の旅でも奈良に立ち寄っている。伊賀から奈良は近いので、その他にも行く機会があったかもしれない。

 「ある禪僧、詩の事をたづねられしに、師の曰、詩の事は隱士素堂といふもの、此道にふかき好ものにて、人も名をしれる也。かれつねに云、詩は隱者にふかき好ものにて、人も名をしれる也。かれつねに云、詩は隱者の詩、風雅にて宜と云と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)

 禅僧が誰なのかはよくわからない。伊賀の禅僧か。漢詩のことは芭蕉もそれほど詳しくないのか素堂が常に隠者の詩の風雅が大事だと言っていると答えている。

 「師のいはく、定家卿五首の秘哥に、こぬ人を入るといふ説あり。この秘といふはたゞ難なき哥を出したる所をいふと也。撰者の身として、すぐれたる哥もおとなしかるまじとの心遣ひ也。難ある哥も猶いかゞ也。この心得を秘といふとなり。能見せしめ也と師もいへるなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145~146)

 久保田正文さんの『百人一首の世界』に、
 
 「定家卿五首の秘歌」というのは、徳川時代初期に、二条家において成立した秘伝で、「百人一首五歌の秘事」とも言われ、人麿の「〈3〉あし曳の」、仲麿の「〈7〉あまの原」、喜撰の「〈8〉わが庵は」、忠岑の「〈30〉ありあけの」、定家の「〈97〉こぬ人を」の五首をさすものである。」

とある。
 ネット上の大坪利絹さんの『百人一首秘訣』には、

   二条家
 一あし引の山鳥の尾の      人麿
 山鳥ハ和國の賢鳥也。雌雄尾をへたてゝぬるものなれハ序哥なから甚深の心をふくめり 是ハ其夜をさしてよめる哥にハあらす 明ル日よめる也 又来ん夜も獨あかさんよと 夜のなかき事をおもひ入よめるなり
 一天の原ふりさけミれハ     仲麿
 此作者天文道をきハめ天地を手のうらに提けたる人なれハ 身ハ明州萬里のあなたにありなから 故郷の三笠山の月 端的に心にうかひてあらはれたる也 哥道も天地も心をめくらし手裡におさむる道理を工夫すへしとそ
 一わか庵ハミやこのたつミ    喜撰
 世ハ色受想行識にひかれて六塵の宇治山と人ハいふ也 仍て我もさうそ思ひえて 一念もおこらぬ心王を 何とそして本覚法身の王舎城にすませたく思へハ この宇治山にすむと也 さて六塵にもけかれねハ 都のたつミをのつから王舎城となる也 五蘊もをのつから本覚真如の都となる也 所詮迷悟ハ只一心にあるとさとるへきの教也
 一晨明のつれなく見えし     忠峯
 曉はかりに對してよめる也 宵ならハ何とそしてわひてもミむに曉ほとうき物ハなしと也 不逢皈恋と見る事當流のこゝろなり
 一こぬ人をまつほのうらの    定家
 此哥古事をふまへてよめるを傳にする也 印の烟の古事なり

とある。
 芭蕉によれば、この「来ぬ人」の歌を入れたのは難なき歌だからで、この心得を秘というという。必ずしも優れた歌を選んだわけでもなく、かといって難有る歌を入れるわけにもいかない。
 なお、「印の烟の古事」

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる
     まつとし聞かば今帰り来む
            在原行平(古今集)

の古事のことであろう。

 「伊勢が哥の、としをへて花の鏡となる水は、とある此五文字なくても下ばかりにて哥よく聞へたり。此五文字、年々水清くすみて水のかはらざるに、花のちりかゝるを曇といへる也。五文字粉骨の哥なりと師のいへる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146)

 この歌は、

 年をへて花の鏡となる水は
     散りかかるをや曇るといふらむ
            伊勢(古今集)

の歌で、最初の「年をへて」がなくても意味が通じる。
 芭蕉はこれを、上五がなかなか決まらない発句と同じに考えたのだろう。『去来抄』にも「雪つむ上のよるの雨」の上五がなかなか決まらなくて、芭蕉が「下京や」にして「若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからず」と言ったというエピソードが記されている。
 これは、「花の鏡となる水は散りかかるをや曇るといふらむ」にどのような上五を乗せるという問題だ。それだけに「年をへて」はよくぞ見つけたり、ということになる。

 「涙川たへずながるゝうき瀨にもうたかた人にあはで消めや、この哥の、うたかたは、むしろといふ字、何ンぞといふ字二説あり。義理は何ンぞ也。なんぞ人にあはできへんと也。されども、定家卿の云、何ンぞと義理を結で見るべからず、いやしき也。うたかたはたゞ水のことにいはんと思ひていへる計と聞べしと也。亡師も義理を詰るはいやしといへる、おもしろしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146)

 この歌は見つけることができなかった。
 「うたかた」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「[一]名詞
  (水に浮かぶ)あわ。多く、はかないもののたとえに用いられる。
  出典方丈記 
  「淀(よど)みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」
  [訳] (川の)流れの滞っている所に浮かぶ水のあわは、一方では消え、同時に一方ではできて、そのまま(川の面に)長くとどまっている例はない。
  [二]副詞
  少しの間。「うたがた」とも。▽あわが、はかなく消える意から。
  出典源氏物語 真木柱
  「ながめする軒のしづくに袖(そで)ぬれてうたかた人を偲(しの)ばざらめや」
  [訳] 長雨が降る軒のしずくとともに、もの思いに沈む私は袖をぬらしながら、少しの間でもあなたを思い出さずにはおられましょうか。」

とある。この場合は[二]副詞の意味ではなく[一]名詞の意味だということだろう。
 藤原定家の『拾遺愚草』には、

 いづみ河かはなみきよくさすさをの
     うたかたなつをおのれけちつつ
 きえぬべし見ればなみだのたきつせに
     うたかた人のあとをこひつつ
 今はただわが身ひとつのおもひ河
     うたかたきえてたぎつしらなみ

の三つの用例がある。

 「古今の序に、哥人のうたざまをおのおの難じたるやうに貫之の書なせる也。師のいはく、難じたるにあらず、その人々の粉骨の所を見顯し賞したる所也。喜撰法師の曉の雲の事、我庵はの哥すへ、人はいふ也とあるあたり也。いくたびも可味と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146~147)

 『古今和歌集』仮名序の喜撰法師のくだりは、

 「宇治山のそうきせんは、ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。
 わがいほはみやこのたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふなり
 よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず。 」

で、まあ確かに「わが庵は」と自己紹介のように見えて最後に「人はいふなり」では、本当はどうなんだになってしまう。そこのぼやかした言い方が粉骨であって、余韻になる。それが「曉の雲」に喩えた紀貫之の意図だというのだろう。

 「かさゝぎの哥は、夜をうば玉といふより、かさゝぎの橋と夜るくらき空の事をよめる也。空の事を天のうきはしなど橋にいひたること多し。たゞ夜のくらき空をたる趣向、此うたばかり也。趣向の本所かはりたるをほめたる儀なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147)

 カササギというと『百人一首』にもある、

 かささぎの渡せる橋に置く霜の
     白きを見れば夜ぞふけにける
            中納言家持(新古今集)

の歌が今日ではよく知られているが、これは霜を詠んでいて「たゞ夜のくらき空をたる趣向」ではないように思える。同じく、

 鵲の雲のかけはし秋暮れて
     夜半には霜や冴えわたるらむ
            寂蓮法師(新古今集)

も霜を詠んでいる。家持の歌を本歌とした歌だろう。
 ここで言う「かさゝぎの哥」はひょっとしたら今日茶道具に用いられている、

 長き夜にはねを並ぶる契とて
     秋まちわたる鵲のはし
            藤原定家(拾遺愚草)

のことかもしれない。
 この歌なら霜もなければ雲も詠まれていない。「鵲のはし」はただ夜の暗き空の意味になる。

 「濱庇は高眞砂の崩かゝりたるが、ひさしのごとくなるとなり。又濱にある家、笘屋などの類ともいへり。定家卿哥に、後鳥羽の院熊野へ行幸の供奉に新宮へ三首の哥あり。題庭上冬菊といふにえて、霜おかぬ南の海のはまひさし久しく殘る秋のしら菊、と讀り。此哥は濱家のひさし也。しからねば、庭の字落題也、浪間より見ゆるおしまのはまひさし久しくなりぬ君にあひみて、是は久しきといはん枕詞也。序哥也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147)

 「浜庇(はまびさし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浜庇」の解説」に、

 「① (「万葉集」の「浜久木(はまひさぎ)」を読み誤ってできた語という) 浜辺の家の庇(ひさし)。
  ※伊勢物語(10C前)一一六「浪間より見ゆる小島のはまひさし久しくなりぬ君に逢ひ見で」
  ② 海辺の苫屋(とまや)。漁師の粗末な家。浜屋。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「昔日は浜(ハマ)びさしの住ゐせしが」
  [補注]①については、「日葡辞書」の説明などから、浜辺に打ち寄せる波が砂をえぐって庇のように見える部分ともいわれ、「俳・三冊子‐わすれ水」にも「浜庇は高砂の崩かかりたるが庇のごとく成るとなり」とある。」

とある。「濱庇は高眞砂の崩かゝりたるが、ひさしのごとくなるとなり。」というのはこのどちらでもない。三日月型砂丘のことと思われる。

   庭上冬菊
 霜おかぬ南の海のはまひさし
     久しく殘る秋のしら菊
            藤原定家(拾遺愚草)

の句は浜辺の家の庇で、そうでなければ「庭上冬菊」という題の「庭」という要件を満たさない。
 ちなみに新宮の三首の歌のあと二首は、

   海辺残月
 わたつうみもひとつに見ゆるあまのとの
     あくるもわかずすめる月影
            藤原定家(拾遺愚草)
   暁聞竹風
 あけぬるか竹のは風のふしながら
     まづこのきみのちよぞきこゆる
            同

になる。
 もう一首の、

 浪間より見ゆるおしまのはまひさし
     久しくなりぬ君にあひみて

の歌は『伊勢物語』一一六段の歌で、これは「久し」を導き出す枕詞(今の古典教育だと「序詞」)だという。

2021年5月18日火曜日

 今日も曇り時々雨。これからこんな日が続くのかな。気分はもう梅雨入り。
 それでは『三冊子』の続き。

 「師のいはく、撰集、懷紙、短尺書習ふべし。書やうはいろいろ有べし。たゞさはがしからぬ心遣ひありたしと也。猿みの能筆也。されども今少大也。作者の名大にていやしく見へ侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 俳諧師は揮毫を求められることが多いので書はきちんと習っておく必要がある。特に流派は問わない。芭蕉は大師流だと言われている。
 『猿蓑』が能筆だというのはなるほどと思うので、ネットで早稲田大学図書館のものが見れるので見てみるといい。確かに作者の名前が大きい。読みやすいけど。

 「能書の物かけるには、歌の詞、手爾葉など違ふ事必あり。ふしぎに思ふべからず。かなゝどのつゞき、時の拍子、又書ざま見ぐるしき所、書違へたる事多しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 撰集での書き間違いはそんなに珍しいことではない。手書きで連綿していると、活字と違って後からそこだけ直すということができないからだろう。原稿の段階で間違ってる場合もあるし、清書の段階で間違うこともあるし、版木に移す段階で間違うこともあっただろう。
 今の出版社も校正のプロが一生懸命やっているのだろうけど、やはりたまに誤植がある。ネット上の文章もそうだが、誤字や入力ミスを完全になくすのは難しいから、ネットも間違いは付き物だと思って読んだ方が良い。「ふしぎに思ふべからず。」

 「師常に我をわすれず、心遣ひあること也。或方にて貴人師を座上に請待せらるゝ事しきり也。師の曰、此所似合の所と、落着申也。席過侍れば心しづかならず、俳諧の障に成侍るの間、心まゝにと願ふ也。尤の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 「請待」は「招待」に同じ。
 俳諧の際の席順が普通どうやって決められるのかはわからないが、多分一番上座に座るのは文台を構えた主筆(執筆)なのではないかと思う。
 多分連歌の頃は身分順に上座から下座に並んだのではないかと思う。さすがに摂政関白を下座に座らせることはなかっただろう。地下の連歌師が下座だったのではないかと思う。
 俳諧の場合、麋塒や露沾や許六がどこに座ってたかにしても路通の座る位置にしても、特に記録されているわけではない。連歌でも俳諧でも記録されないということは、それほど関心もなかったということだろう。
 ただ、この文章から何となく伺われるのは、上座下座は俳諧師としての実績ではなく、おおむね俗世間での身分を反映していたのではないかということだ。

 「又、ある旅行の時、門人二三子伴ひ出られしに、難波のすこしこなたより駕おりて、雨の薦に身をなして入り申さるゝと也。その後、此事をとへば、かゝる都の地にては、乞食行脚の身を忘れて成がたしと也。駕をかるに價を人のいふごとくに毎も成し侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 芭蕉が大阪に行ったのは元禄七年九月九日で、このまま芭蕉は大阪で息をひきとることになる。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)によれば、同行した門人は支考・惟然それに加えて実家の又右衛門。江戸から戻った二郎兵衛だったという。
 九月八日に伊賀を出て奈良で一泊してからくらがり峠を越えて大阪に入ったという。くらがり峠は暗峠奈良街道で、今日の国道308号線に引き継がれている。
 おそらくこのくらがり峠を越える直前に駕籠を下りたのだろう。芭蕉の最後の旅は江戸を出た時から駕籠に乗っていた。病状が悪化していて歩くことはもとより馬での移動にも耐えられなかったのだろう。

   くらがり峠にて
 菊の香にくらがり登る節句かな  芭蕉
   九日、南都をたちける心を
 菊に出て奈良と難波は宵月夜   芭蕉

の二句を詠んでいる。
 大阪はあと坂を下りるだけとはいえ、かなりの急坂だし、坂を下りてから宿泊地の高津宮洒堂亭までは三里くらいあるから、かなり無理をしたのではなかったかと思う。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)の九月十日の所には、

 「この日、暁方から寒気・熱・頭痛に襲われる。同じ症状が二十日頃まで毎晩繰り返す。」

とある。
 大阪は『笈の小文』の旅の時に一度来てはいたが、二度目の大阪入りもどうしても自分の足で歩きたかったのだろう。

 「師ある方に客に行て、食の後、蠟燭をはや取べしといへり。夜の更る事眼に見へて心せはしきと也。かく物の見ゆる所、その自心の趣俳諧也。
 つゞいていはく、いのちも又かくのごとしと也。無常の觀、猶亡師の心なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 当時のことだから夕方のまだ明るいうちに夕食を食べたのだろう。それが終わったら興行の予定だったのか、蝋燭を早く持ってくるように言う。早くしないと夜が更けるということでせわしく興行の準備をする様は、それ自体が俳諧のようだ。
 連歌や延宝の頃までの百韻中心の俳諧興行は朝に始まり夕方に終わるが、天和の頃から歌仙興行が中心になり、夕食後に始まることが多くなった。
 こうやって早く興行を始めようとしていると、人生もこんなふうにすぐに終わってしまうんだ、と言う。

 「あるとしの旅行、道の記すこし書るよし物がたりあり。是をこひて見むとすれば、師のいはく、さのみ見る所なし。死て後見侍らば、是とても又あはれにて見る所もあるべしと也。感心なる詞也。見ざれどもあはれふかし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 旅が終わって土芳の所に来たということは、『奥の細道』の旅だろうか。この頃から少しづつ旅の記録を残すようにして、元禄五年夏、第三次芭蕉庵が完成した頃から一気に書き上げたのだろう。
 死後に公開する予定だったので、今は見せられないということだった。

 「師一とせ岐阜鵜飼見の時、鵜尉一人に十二羽宛、舟に篝して其ひかりにこれを遣ふ。十二筋の繩、たて横にもぢれて、さばきむづかしき事を、事やすく是をなす。鵜尉に此事を尋ね侍れば、先もぢれぬよりさばきて、なまもぢれ成るものを又さばく。むづかしくもぢれたるもの、ひとりほどけさばくるといへり。万に此心はあるべし、となり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144~145)

 「もぢれる」は「よじれる」と同じ。この場合は縄が絡まることか。
 鵜飼いを見たのは貞享五年の夏で、

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉

の句を詠んだときであろう。
 鵜匠は十二羽の鵜を一度に扱い、その十二本の繩が絡まって、ほどくのが難しいのではないかと思っても、それを鵜匠は難なくほどいてゆく。鵜匠にこのことを尋ねたら、まずは絡まらないようにし、ちょっとでも絡まったらすぐにほどく。これをやっていると、ぐちゃぐちゃに絡まっても自ずとほどけるようになるという答えだった。
 これはあらゆることにいえることだ。まずはそうならないように、なったら早めに対処する。これを繰り返して行けば、いくら事態が複雑になっても一つ一つ順番にほどいていけば自ずと解決する。

 「ある門人の事をいひて、かれかならず此道にはなれず、取付侍るやうにすべし。はいかいはなくてもあるべし。たゞ世情に和せず、人情通ぜざれば、人不調。まして宜友なくてはなりがたしと也。又いはく、人是非に立る筋多し。今其地にあるべからずと、恨あるべき人の方にも行かよひ、老後には心のさはりもなく見え侍る事あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)

 路通のことであろう。路通が京都や近江の門人とうまくいってないことから、元禄三年春、『奥の細道』の師の跡を尋ねる旅を計画する。これに対し、ほとんど破門とも取れるような、

 草枕まことの花見しても来よ   芭蕉

の句を贈る。
 そしてその直後、路通が茶入れを盗んでその罪を支考に押し付けたという報告を受け、江戸にいた膳所藩士の曲水に手紙を送っている。結局路通は無実だった。
 路通は何らかの形で今日や近江の俳壇から排除されようとして、芭蕉はその動きの本質を理解してなかったのだろう。門人に言われるがままに路通の人格的な問題だと思っていたようだ。
 結局元禄四年秋には芭蕉は路通と同座しているから、その頃には許されていたのであろう。
 この事件の背景には身分の問題が絡んでいたのではないかと思う。後の明治の漂泊の俳諧師「乞食井月」の場合と同様、被差別民の出自だったのではないかと思う。関東に比べて関西、特に長い歴史のある京都や滋賀は今でも深刻な差別のある地域だ。
 幼少期から厳しい差別を受けてきたことで世俗の価値観を信用せず、怒りの矛先をかわすためのその場限りの言い逃れが多くなる。それを不誠実と見られたのであろう。アメリカ映画の黒人キャラにもこの手のものは多い。『スターウォーズ』のジャージャー・ビンクスはアメリカでも問題になったようだが。
 路通がよりどころにするのは仏教の世捨人としての生き方で、芭蕉以上に徹底して一所不住を貫いていた。それは芭蕉のような古典の伝統につながるためではなく、より原理主義的なものではなかったかとおもう。
 芭蕉の『奥の細道』の旅の後の「一泊まり」の巻二十六句目の、

   たふとさは熊野参りの咄して
 薬手づから人にほどこす     路通

の句はそんな路通の理想の高さがあらわれている。これに対し芭蕉は、

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

と返している。薬を施すなんてのは、寺領を所有し、きちんと経済的な基盤があってできるものだ。そう諭しているかのようだ。
 そんな路通の消息だが、岡田喜秋さんの『旅人曾良と芭蕉』(一九九一、河出書房新社)にこんな話が載っている。

 「この紀行文は曾良が若いころ知り合った同学の士のひとり、並河誠所の書いたもので、この人は吉川惟足の門下生で、曾良より若く、江戸へ出てきた曾良がいちはやく親しくなった人である。彼の書いた『伊香保道記』といふ紀行文がある。その中に、榛名神社で、一人の老人に出会った記述がある。」(p.262)

 渡辺徹さんはこれを曾良ではないかと言ったが、曾良を良く知る人物の書いたものなら、この老人が曾良だったらはっきりと曾良だったと書くだろう。岡田喜秋さんは路通ではないかとしている。

 「玉階を下りつくし、楫して過ぎ出れバ楼門の傍より白髪の老翁鋤を荷ひて歩ミ来るに逢ぬ。見れバ二十年前の旧相識なり。世に志も得ざりけれバ一家の婚家すでにをはりぬとて、仕る道をかへして芭蕉翁と云ひし浮屠を友なひ歌枕見んとて出でし人なり、共に年をとりて往事を語る。まことに茫々夢かとのミぞ思ハる。」(p.266)

 路通は当初芭蕉の『奥の細道』の旅に同行する予定だったが、直前に曾良に変えられた。それでも芭蕉を慕い、山中温泉で曾良が先に伊勢長島に向かったあと、路通は芭蕉を出迎えに敦賀まで行き、そこからともに旅をし、伊勢まで同行している。

2021年5月17日月曜日

 家の近くの枇杷が大分黄色くなってきて、朝から鳥がたくさん集まってくる。鳥たちの枇杷祭の季節が今年もやってきた。
 それでは『三冊子』の続き。

 「師の神樂堂と云句を難ずるもの有。師のいはく、俳諧は平話を用ゆ。つねに神樂堂といひならはし侍れば、ふかき事は知らずと也。其後此事をたづねたる人あり。師の曰、唯一の神道には神樂殿、兩部には神樂堂といふ。むづかしくいひ分して益なし。たゞ俳諧には、神樂殿おかしからずと或俳書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142)

 芭蕉の神楽堂の句は不明。俳諧は基本的に日常の言葉を用いるため、専門家から見れば間違ってるだとか正確ではないという指摘はもっともなことなのだろう。コオロギとキリギリスとカマドウマの区別だとか、ミミズや蓑虫が鳴くかどうかだとかも、当時の本草家から見れば指摘する所はあるのだろうけど、基本的には当時の一般人のレベルで変でなければ問題はない。
 まあ、それを言えば、我々の見ている映画やドラマや漫画、アニメ、J-popなども突っ込みどころ満載で、それを笑って済ますのが大人というものだ。神楽殿と神楽堂の違いを芭蕉が知っているのも、きっと後で曾良に聞いたからだろう。

 「季にて、戀の句をつゝむこと、戀の句にて季の句をつゝむこと、むつかしは嫌へども今はくるしからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142)

 「むつかし」は「むかし」の書き間違いであろう。これも江戸初期の連歌にあったしきたりなのかもしれない。宗祇の時代までの連歌の全盛期にはこんな規則はなかったし、蕉門でも嫌わない。
 春夏秋冬の景物に寄せる恋が駄目なら、一体どんな恋が詠めるというのか。恋の情を春夏秋冬に重ね合わすのは、王朝時代の和歌から今日のJ-popにまで脈々と受け継がれている。

 「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142~143)

 そもそも筆舌に尽くしがたいから「絶景」なので、簡単に言い表せるようなものは絶景とは言わない。『士峯の賛』でも、

 「むかふところ皆表にして美景千変す。詩人も句をつくさず、才士、文人も言をたち、画工も筆捨てわしる。」

と記している。
 あえて句にするのであれば、その景色を記憶に留めて消さないようにして、後にそれを写すかのように静かに句にする、という。おそらく

   殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし    芭蕉

はそういう句だったのだろう。これは本当にそのまんまを詠んだ句だ。
 また、象潟で詠んだ

 夕晴や桜に涼む浪の花      芭蕉

の句もそうした句だったのではないかと思う。夕暮れに浪の花という景色に西行の桜の俤で「桜に涼む」と取り囃した句だ。絶景のほんの一部しか記せないもどかしさのようなものも感じられる。
 芭蕉の松島の句というと、今日は、

 島々や千々に砕きて夏の海    芭蕉

の句が知られている。ただこれは『蕉翁全伝附録』という最近になって発見された書にあるもので、ネット上の今栄蔵さんの「新出『蕉翁全伝附録』」に詳しくある。これは土芳も知らない句だったのだろう。
 内容としては夏の海に島々が浮かぶという景色に大山津見神(おおやまつみのかみ)の神話から「千々に砕きて」と取り囃した句で、芭蕉らしさは感じられる。
 この言い尽くさないもどかしさを遁れようとすると、

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き  芭蕉

ということになる。

 「師のいはく、俳諧の益は俗語を正す也。つねに物をおろそかにすべからず。此事は人のしらぬ所也。大切の所也と傳へられ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 今日的な感覚だと、これは俗語を正しい標準語に正すというふうに受け取られやすい。だが、残念ながらこの時代は「標準語」なるものはなかったし、国家が学校教育を通じて日常の口語を管理するという発想そのものが存在しなかった。
 俗語を正すといっても、正しい言い方が存在しているわけではない。ならば何を正すのかといえば、俗語の心を正すことに他ならない。
 だから次に「つねに物をおろそかにすべからず」とつながる。この場合の物は物質ではなく魂であり、心の「誠」に他ならない。いわば四端の情などの人間の本性をおろそかにしてはいけないという意味だ。
 俗語を正すとは、俗語に魂を与えることであり、風雅の誠を与えることだ。
 この時代の「俗語」は雅語に対して用いられている。雅語は風雅の心を述べるために王朝時代の和歌を元にして、中世に確立された。しかし雅語で語れる世界はあまりに限られている。庶民が日常の様々な出来事を語ろうとしても、雅語では言えない事柄が多すぎる。
 俗語を正すというのは、雅語ではない俗語に雅語のような風雅を語る力を与えることだ。風雅の誠を俗語で語ることで、俗語は雅語と同等の言葉になる。これが俗語を正すということだ。
 何度も繰り返して行ってきたことだが「もともと言葉に意味はない、人が喋ればそこに意味ができる。」意味というのは過去に聞いた用例の積み重ねであり、その用例に従って自ら発話することによって、言語の意味は人から人へと広まって行く。
 例えば猫のことを誰かが間違って「ぬこ」と入力した。それを見た人が「ぬこ」という言葉を用い、それが多くの人に広まれば「ぬこ」は猫の意味になる。
 こうしたことは過去にも起こった。たとえば「山茶花」は本来「さんざか」だったのを、誰かが「さざんか」と言ってしまったのだろう。今ではみんな「さざんか」と言っている。「新し」も本来は「あらたし」だったが、今ではみんな「あたらし」と言っている。
 もともと「ぬこ」という音声であれインクの染みであれ液晶の光であれ、そこに意味があるわけではない。人がそれを猫を表すものとして用いてはじめてそれは「猫」という意味を生じる。
 言葉(能記)自体はただの任意に選ばれた符号であり、それを正すことに意味はない。
 たとえば今の人権派の人たちが躍起になっている言葉狩りも、何ら差別の抑止にはならない。たとえば「チョン死ね」を「在日の韓国籍及び北朝鮮籍の方は死ぬべきである」と言い換えたところでヘイトスピーチには変わりない。ヘイトは心の問題であり、そこを正さなければ言葉だけ奪っても何の意味もない。
 同様に言葉自体に美しい言葉なんてのも存在しない、たとえば「ともだち」は米軍が東日本大震災の時の災害救助・救援および復興支援のときに「トモダチ作戦」として用いていたが、私の知っている会社の社長は、いつも社員を罵る時に「ともだち」という言葉を用いていた。駄目な社員がいるとほかの社員が何かミスした時に、「お前はあいつのトモダチか!」という意味で「ともだち」という言葉を乱用していた。あの会社では「ともだち」は人を罵る時の言葉だった。
 「家具」という言葉も普通の人にとっては何の変哲もない言葉だが、竜騎士02さんの『うみねこのなく頃に』の中では「使用人は家具たれ」という家訓から、使用人を罵る時に「家具」という言葉が用いられていた。
 言葉が奇麗かどうかは使う人の問題で、言葉自体にはもともと意味はない。「俗語を正す」というのは心を正すことに他ならない。心を正せばどんな俗語も美しくなる。

 「師のいはく、結び題の發句などの時に、たとへば五句ある時は、秀作三句は過る也。當座の題は猶其心得あり。哥の題の事もかやうの事とやら聞へ侍るとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 「結び題」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「結題」の解説」に、

 「〘名〙 和歌で題詠の際に出される歌題の一種。漢字三、四字から成り、二つないしはそれ以上の事柄を結合した歌の題。「初春霞」「旅宿夜雨」の類。
  ※毎月抄(1219)「結び題をば、一所におく事は無下の事にて侍とやらん」

とある。
 俳諧では題詠で競うことはあまりない。適当に題詠っぽく前書きを付ける場合はある。撰集などで題があってそこに何句か並べてあっても、似たような句を分類して後から題を付けていることが多いのではないかと思う。
 これも多分、撰集で一つの題で句を何句か並べる時に、三句ぐらいにしておいた方が良いという意味であろう。

2021年5月16日日曜日

 コロナの方は東京の方でもやや希望が見えてきた。
 日本は憲法第九条で戦争を放棄しているから、生物兵器の研究はもとよりできない。ならば生物兵器に対する防御の研究はというと、基本的に生物兵器そのものが研究できないのだから、それへの対策も研究できない。
 これがコロナ下で国産ワクチンの開発の大きな障害になったのは間違いない。そればかりでなく、基本的にウィルス対策に国家は何もできない。PCR検査の技術者も養成してこなかったし、ワクチン接種も自治体にゆだねられている。
 こんなことになるなら、加計学園にでもこっそりと生物兵器の研究施設でも作っておけばよかったんだ。そんな日本の映画があったけどね。生物兵器が研究されていれば、当然ながらその防御は並行して研究される。当然だ。味方がやられてしまうような兵器は作れない。
 ワクチンに関しても最新の技術が研究されたはずだ。それがあればいち早く国産ワクチンが作れただろう。基礎研究が完成していれば、あとは治験だけで、一年で実用化できただろう。
 今の日本は異世界に喩えるなら、魔王軍が攻めてきているのに勇者の暴力は禁止、民衆もあくまで非暴力で抵抗しなくてはならない。そして人権派の人たちはこう言う。「人間は今までさんざん悪いことをしてたから、魔族に滅ぼされても、奴隷にされても文句は言えないんだ」と。そんな状態だ。
 日本だけでないかもしれない。今の世界は抵抗権と民族自決権を封印しようとしている。これがあっては世界を一つにできないというのだろう。裏を返せば世界征服ができない、ということだ。

 それでは『三冊子』の続き

 「或二三子、俳諧にしほこりて、哥仙二三巻、老翁に點を乞ふ。師是をうけず。再三の後その人に對していはく、皆秀作也。しかれども、我おもふ所に非ず。しゐてとらんとせば、是彼の内、此二三やり句と捨られし物や取侍らんと也。その人猶思ひやまずして、終に老師の門に入となり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.139)

 誰とは書いてないが、土芳自身のことかもしれない。
 土芳のことだとしたら、貞享二年、『野ざらし紀行』の旅の時で、談林・天和の風の俳諧を芭蕉に見せたのだろう。『冬の日』の五歌仙に手ごたえを得た芭蕉は古典回帰への道を歩んでた頃なら、談林調の笑いではなく、二三ある遣り句を取るということは十分ありうる。

 「師の曰、句は天下の人にかなへる事はやすし。一人二人にかなゆる事かたし。人のためになす事に侍らばなしよからんと、たはれの詞なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.139~140)

 今の文学を見ればわかることだ。ラノベや大衆小説は作品数も発行部数も多く、アニメ化や映画化への道も開かれて、グッズの売り上げなども含めれば巨大な市場を形成している。これに対して純文学で賞を取るのはほんの一握り作者にすぎないし、賞を取ったからどうこうというものでもない。
 つまり大衆に受ける作品を書く方がはるかに簡単であり、過去の権威に認められるようなものを書くのははるかに難しい。だったら審査員の顔色伺うよりも大衆向けのものを書いた方がいいではないか。
 俳諧も点取ることを考えるより、多くの人に気に入られる句を詠むことを考えた方がいい。そうはいいながらもみんな点者に気に入られようと一生懸命になっているのは、今の俳句も何一つ変わらない。

 「師のいはく、俳諧におもふ所あり。能書の物書るやうに行むとすれば、初心道をそこなふ所ありといへり。いかなる所ぞととへども、しがじかともこたへ給はず。
 其後句を心得見るに、くつろぎ一位有、高く位に乗じて自由をふるはんと根ざしたる詞ならんか。末弟の迷ひて道をおろそかにせん事を、なにかに付て心にこめてつゝしみのことば也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 俳諧に限らず解説書や入門書には頼らない方がいいというのは今でも言える。自分がこういう句を詠みたいという強力な初期衝動を持ち続けない限り、本を読でこういう句を詠めばいい、こういうふうに読んだ方が良い、とか書かれていると、何となくその気になって、自分が本当にやりたかったことを忘れてしまうものだ。
 基本的には自分の好きなものを真似るというのが一番の近道だ。『去来抄』「修行教」にも、

 「去来曰、俳諧の修行者は、己が好たる風の、先達の句を一筋に尊み学びて、一句一句に不審を起し難をかまふべからず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.66)

と記されている。
 「くつろぎ一位有」はある程度極めて余裕が出てきて、という意味だろう。そうなってみると芭蕉が何で「初心道をそこなふ」と言ったのかわかったという。
 句は誰のために詠むのかというと、解説者や評論化を喜ばせるために詠むのではない。みんなを楽しませるために詠むんだと、そこを間違えると何がやりたいのか結局わからなくなってしまうものだ。師匠も自分の気に入る句を詠むのではなく、みんなが喜ぶ句を詠んでくれることを望んでいる。そのためには今までの常識をひっくり返すような、「底を抜く」ことをやってほしいと思っている。

 「師の曰、其角は同席に連るに、一座の興にいる句をいひ出て、人々いつとても感ず。師は一座その事なし。後の人のいへる句はある事も有と也。さもあるべき事也。云く、座によりて一座の人にとれて句をそこなふ事あり。門人常に心得べし。其角は生質としてこゝに居らずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 「生質」は性質と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「性質・生質」の解説」に、

 「① 生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり。天性。資性。
  ※地蔵菩薩霊験記(16C後)六「生質(セイシツ)横逆にして終に仏法の名字だも聞くことなし」
  ※今弁慶(1891)〈江見水蔭〉二「何は兎もあれ此儘に、見て居られぬが我性質(セイシツ)」 〔新唐書‐柳公綽伝〕
  ② 生まれながらの姿、形。生まれたときからの身体の様子。
  ※地蔵菩薩霊験記(16C後)一四「形短くして、甚だ醜き生質(セイシツ)なりしが」

とある。
 其角は「空気が読める」ということなのだろう。同座人の顔ぶれを見ながら、その人たちの気に入るような句をさっと言い出すことができるが、芭蕉は相手に関係なく後になって書物にしたとき読者が喜ぶような句を付ける。だからその場で笑いを取れなくても、後になってあれってああいう意味だったんですか、みたいに言われることもあったのだろう。
 その場で受けても、後になって何で面白かったのかという句もある。まあ、空気を読みすぎて自分を殺す(ここに居らず)ことのないようにという注意だろう。

 「又いはく、一とせ對面の始いひ出られ侍るは、俳諧能過たり。碁ならば二三目跡へ戻してすべしと示されし也。面白教也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 以前に対面した時に言ったことは言い過ぎだった、碁ならば、というわけだが、「二三目跡へ戻して」は相手に二、三目置かせてということか。
 人に教える時の注意だろう。

 「ある時、心見に哥仙一巻四唫して送侍れば、我おもふ所よく見知侍る也。此上いふ所なし。猶秀物は時の仕合、機嫌をうかゞひ、千變万化口の外より感ずべし。氣變に任すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 土芳の送った歌仙一巻が高評価を得たようだが、歌仙の出来不出来はその時の偶然に左右されるもので、同じようなものがまた作れるという保証もない。その時その時の連衆の調子、雰囲気などに左右されるため、良い流れができたならそれに逆らわないことが大事だ。
 どこかスポーツで言う「勝負は時の運」というのに似ている。

 「諸集のうち聞がたき句あるよしをたづね侍れば、師のいはく、故ある句は格別の事也。さもなくて聞得ざると有は、聞へぬ句と思ふべし。聞へぬ句多しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 わからない句があったので聞いたら、何か特別な事情がある句でないならそれは「聞へぬ句」で、駄目な句だと思っていいということだ。
 近代だと読者の想像力の不足や勉強不足が指摘されそうだが、実際の所普通の人が読んでみんなわからないような句なら、強いて理解しようと努める必要はない。
 まあ、歴史的研究で、こうやって昔の句の意味を探るなら、理解しようと努めなくてはならないし、そこには謎解きの面白さもあるが、たとえばJ-popの歌詞で意味が分からなくても、それは意味の分からない歌詞ということで聞き流すように、当時の人にとっての同時代の俳諧は、わからなければそれは作者の方の問題といっていい。
 『去来抄』「先師評」の、

 兄弟のかほ見るやミや時鳥    去来

についても、「先師曰、曾我との原の事とハききながら、一句いまだ謂おほせず。其角が評も同前と、深川より評有あり。」と言われ、去来も「ただ謂不応也」と認めている。
 昔の作品であれば、その作品の生み出された時代背景やその時代の文化・生活習慣の違いなどを理解しなくてはならないし、外国の文学を読む際にもそれは必要となる。ただ、リアルタイムの作品でわからないなら、それは作者の問題だ。
 いかがわしい宗教団体の教祖は、わざとわけのわからないようなことを言って、信者に考えさせる。そのうち信者が悩んだ末に、自分にとっての最良の解釈を導き出す。文学はそういうものであってはならない。

 「師、句作り示されし時、腹に戰ものはいまだ有と也。感心の趣也。是師の思ふ筋にうとく、私意を作る所也。元を動ざれば成るといふ事なく、只私意を作る也、工夫して私意やぶる道有べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 「戰」は「おののく」か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「戦・戦慄」の解説」に、

 「〘自カ五(四)〙 恐れてふるえる。わななく。戦慄(せんりつ)する。
  ※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)一〇「聞く者(ひと)皆傷(いた)み、悼(ヲノノキ)、悲しび歎き苦しむこと裁(おさ)ふること難かりき」

とある。
 作品を発表するときの不安は誰しもあることだろう。それが周りの人にどのように評価されるのか、それこそ震えるような思いであろう。
 それは作品は命令ではないからだ。俺は最高の作品を作ったんだ、下々よ心して理解せよ、ではない。どんな名人であっても大衆の評価は絶対だ。
 こんなけの作品を作ったんだから理解するように努めろ、というのは私意に他ならない。

 「師、ある時土芳にはなしの次手に云、いつにても機嫌をはかり、誠の俳諧してと有。後、あるじの云、翁の詞、その誠の俳諧と云事は、いかなる事にか、とたづねらる。師の心しらず、思ふに餘念なき俳諧の事なるべし。師も氣にのらざれば、餘念なき俳諧はいつぞはいつぞはなどいはれし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 誠の俳諧は余念のない俳諧のことではない。「余念」は他の考え、余計な考えのことだが、余念のない俳諧は作者の独断の俳諧で、それこそ私意にすぎない。
 誠は朱子学では格物窮理によって至るもので、そこに至るには何度も仮説検証を繰り返し試行錯誤しなくてはならない。心を無にすれば自ずと誠になるなんてものではない。そんな境地にいつかはなってみたいけど、ということだろう。
 俳諧は日々是工夫であり、聞く人の反応を見ながら作り上げて行くものだ。

 「師の句にても、再三吟じて、猶心得がたくや思はれ侍りけん、その句書付よ、人にも聞かせ見んと、聞へける事もおりおりあり。おろそかならざる所、門人としてわすれまじき所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 芭蕉の句で何度読み返してもわからない句があっても、その句を書き留めて人にも聞いてみるとわかることが何度もある。句について話し合うことは門人として必要なことだ、ということであろう。

 「人の句前にて句の趣向いろいろ沙汰する事つゝしむ所也。或月次の座にて、其事を門人に示されし事あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141~142)

 「句前」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「句前」の解説」に、

 「〘名〙 連歌、俳諧などで、自分の句をつける順番に当たること。
  ※小出吉英宛沢庵書簡‐寛永一六年(1639)二月四日「城雲句前に成申候へば、吉祥寺さし合をくりと申候へば、難儀被レ仕候」

とある。
 三吟四吟など出勝ちではなく順番に付けて行く場合に、自分の番に来て、ここはどういう句を付ければいいかなどとお伺いを立てる人もいるのだろう。
 出勝ちなら素早く面白い句を言い出した方が勝ちだが、順番で付ける場合、付けあぐねても誰かに先を越されるわけではない。そうなるとついつい長考になりがちになる。かといっていつまでも考えていると時間ばかりかかってしまう。それでどういうふうに付ければいいですか、なんて聞きたくもなるのだろう。
 俳諧というのは意外な展開があるから面白いんで、そこに別に答えがあるわけではない。できればあっと驚くような句を出してほしいんで、どうしても付けられないなら助け舟を出すこともあるだろうけど、考える前から聞いてこられても困るというものだ。

 「師のいはく、俳諧を嫌ひ、俳諧をいやしむ人あり。ひとかた有ものゝうへにも、道をしらざる事にはかゝるあやまちもある事也。その品なにゝもせよ、俳諧ならざる事更なし。其人、甚俳諧をして事をさばき、事をたのしむと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142)

 まあ、いつの世にもアンチというのはいるもので、大概はブームに乗り遅れて、時代遅れとそしられるのが嫌だからあれは有害だと言っている連中だ。イソップの「酸っぱい葡萄」だ。
 基本的には道を知らないからだと芭蕉は言っている。風雅の誠を理解せず、私事の主張を繰り返す人間は、結局最後は世間から相手にされなくなって孤立してゆくことになる。それは今のネット上のアンチも一緒だ。
 こういう連中は世間から無視されればさらにヒステリックになってがなり立て、わざと炎上するような発言を繰り返す。忘れ去られるよりは覚えておいてほしいから炎上商法に身をやつすことになる。