2016年12月30日金曜日

 今年もあと今日と明日のみとなって、一年の仕事も終わり、思えばあっという間の一年だった。

 行き行きて脇道もなし年の坂   不角 『伊達衣』

 本当に時間というのは止まってはくれない。年の坂は下り坂なんだろうな。ただ死に向かって転がり落ちてゆくだけなのか。

 くれて行年漕戻せ渡し守     近正 『皮籠摺(かはごずれ)』

 色々悔いを残して、もう一度時間を戻してくれる渡し守がいたらいいのにって、気持ちはよくわかる。

 晦日やはや来年に気がうつる   路通 『桃舐集(ものねぶりしふ)』

 まあ、くよくよしてもしょうがない。また来年って、まだ一日あるか。

2016年12月26日月曜日

 今年ももうすぐ終わりということで、何とか「むめがかに」の巻も終わった。

三十四句目

   千どり啼一夜一夜に寒うなり
 未進の高(たか)のはてぬ算用     芭蕉
 (千どり啼一夜一夜に寒うなり未進の高のはてぬ算用)

 千鳥の鳴く冬の寒い時期は、農村では収穫も終わり、村長は年末までに納める年貢の計算に追われる季節でもある。不作が続いたのか年貢を払いきれず、未進となった金額が膨れ上がって、外も寒いが懐も寒くなる。
 『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)には「寒うなるといふに、貧き人の未進と附たり。」とある。「寒い」にダブルミーニングを読み取ってのことだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)にも「貢税の事なり。○はてぬの語、前句を結べり」とある。前句の一夜一夜期限が迫っていることに対し「未進の高のはてぬ」と結んだというわけだ。千鳥に「鷹」を掛けて縁語にしていたとすれば更に芸が細かい。
 芭蕉さんは伊賀藤堂藩に仕えていたときも料理人として調理場のお金の管理などもやっていたのだろう。江戸に出てきてからは日本橋本船町(ほんふなちょう)の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやったというから、お金のことにはかなり詳しい。この歌仙の四句目の、

   家普請を春のてすきにとり付て
 上(かみ)のたよりにあがる米の値  芭蕉

もそうだし、

   灰うちたたくうるめ一枚
 此筋は銀も見しらず不自由さよ    芭蕉

   今のまに雪の厚さを指てみる
 年貢すんだとほめられにけり     芭蕉

   名月のもやう互ひにかくしあひ
 一阝(いちぶ)でもなき梨子の切物  芭蕉

   吸物で座敷の客を立せたる
 肥後の相場を又聞てこい       芭蕉

など、経済ネタも得意としていた。

無季。

三十五句目

   未進の高のはてぬ算用
 隣へも知らせず嫁をつれて来て    野坡
 (隣へも知らせず嫁をつれて来て未進の高のはてぬ算用)

 忙しいということもあるし、未進の年貢が膨れ上がっていて祝言を挙げる余裕もないということで、隣近所にも知らせずにこっそりと嫁を呼び寄せたということか。
 通常は花の定座になるところだが、花を二十九句目に引き上げたため、ここに「花嫁」を匂わす「嫁」を出したとも言われている。「花嫁」「花火」等、桜の花ではなくても正花と扱われる言葉がいくつかあった。
 中世連歌の式目「応安新式」では、「花」は一座三句物で、それとは別に一句「似せ物の花」という、いわば比喩としての花を出すことができた。『文和千句第一百韻』には、

   門(かど)は柳の奥の古寺
 これをこそ開くとおもへ法(のり)の花  良基

の句がある。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の雑の部にも正花となる言葉の一覧があり、植物でないものとしては、花火、花相撲、花燈籠、作花、花塗、花かいらぎ、茶の花香、花形、花子の狂言、燈火の花、花がつをといった言葉が見られる。
 「けうばかり」の巻(「けふばかり人も年よれ初時雨」を発句とする歌仙)では、十三句目に、芭蕉が「宵闇はあらぶる神の宮遷し」という月の字のない秋の夜分の句を出したために、月の定座に月を出せなくなり、十五句目の「八月は旅面白き小服綿 酒堂」を月の句の代用とした例がある。こういうちょっと苦し紛れな展開も、「機知」ということで連句の面白さの一つでもある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「せつろしき時節を憚れるや。○花の座なれバ、花嫁の響をもていへりといふ説あり。さもあれ一座の説といふべし。」とある。「せつろしき」は忙しいということ。京都では今でも「せつろしい」という言葉を使うらしい。

無季。「嫁」は恋。人倫。通常、名残の裏には恋を出さないのが常だが、一巻に恋句が少なく、花の定座をくり上げたために名残の裏に花がないため、一巻に花を持たせる意味であえて恋を付けたのであろう。

挙句

   隣へも知らせず嫁をつれて来て
 屏風の陰にみゆるくハし盆   芭蕉
 (隣へも知らせず嫁をつれて来て屏風の陰にみゆるくハし盆)

 「屏風」があるということで、前句を貧しい家ではなく、裕福な家に取り成す。挙句(あげく)ということで、どういう事情でとか重い話題は避け、ただ、菓子盆が隠して置いてあるのを見て嫁が来たのが知れるというだけの句で、あくまで軽く流しているが、花嫁に菓子盆とあくまで目出度く終わる。
 『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に、「爰(ここ)にては貧き人にもあらず。唯ひつそりと嫁を迎へしを、近辺の人が来て、菓子盆の見ゆる故、嫁でも迎へたかと思ふなるべし。」とある。『俳諧古集之弁』系の註には「富貴の変あり。」とある。
 無季の挙句は、花の定座が確立された江戸時代には珍しいが、定座のなかった中世にはそう珍しいことではない。宗祇・肖柏・宗長の三人による中世連歌の最高峰ともいえる『水無瀬三吟』は

   いやしきも身ををさむるは有つべし
 人ひとをおしなべ道ぞただしき  宗長

というふうに無季で終わっているし、『湯山三吟』は、

   露のまをうき古郷とおもふなよ
 一むらさめに月ぞいさよふ    肖柏

と、秋で終っている。
 かえって、花の定座が確立されたことで、挙句は判で押したように春の句になってしまい、変化に乏しい。この巻で花の句を引き上げたのも、そうした月並を打破しようという一つの試みだったのかもしれない。ただ、それでも目出度い言葉で収めるところは近世的。中世の連歌はもう少しメッセージ的な終わり方をした。

無季。

2016年12月25日日曜日

 一日遅れだけどとりあえず、はぴほり。
 世界の多種多様な文化を、互いに抑制することなく共存できる寛容な世界が理想だけど。まだそれには遠い。シリア難民のヨーロッパへの大量流入は去年のことだったが、それによって行過ぎたグローバル化に待ったが掛かったのが今年だった。
 グローバル化は一歩間違うとお互いの文化に不快感ばかり表明しあって、無色透明の没個性な世界にしてしまう危険をはらんでいる。他の文化との接触を新たな刺激として積極的に受け止め、自らの文化を高めることでお互いを高め合う方向に向かわなくてはいけない。互いに抑制しあうなら別々に暮らした方がいい。
 日本も昔から中国や半島やオランダなどから刺激を受けて発展してきた。そして日本の文化もまた世界を刺激している。これからも日本文化が発展を続け、真のグローバル化に貢献できることを祈りながら‥‥、今日も「うめがかに」の巻の続き。二裏に入る。

三十一句目

   なハ手を下りて青麦の出来
 どの家も東の方に窓をあけ      野坡
 (どの家も東の方に窓をあけなハ手を下りて青麦の出来)

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に、「加茂堤のほとりなる乞食村のもやうにも似たり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者・年次不詳)にも同様の記述がある。
 日本の家屋は通常南向きに作るから、東向きの家というのはかなり特殊なもので、あるいは被差別民の村にそのようなものが見られたのかもしれない。古代日本では太陽を崇拝していたため、東の方角は神聖な意味を持っていたから、その名残をとどめていたのかもしれない。
 西洋でも「朝日の当る家」というのは娼館のことをいうが、一般的には、空調設備のなかった時代には、東向きの家は朝から直接日が当るため、夏場は特に気温が上昇しやすく、非衛生的で嫌われる傾向にあったのだろう。
 江戸時代には白米の文化が広がり、都市の人間はいわゆる「銀シャリ」を食うようになったが、田舎では麦や粟・稗など、雑穀を混ぜて食うのが普通だった。前句の「青麦」から、米よりも雑穀を多く食う貧しい村を連想したのだろう。

無季。「家」は居所。

三十二句目

   どの家も東の方に窓をあけ
 魚に食あくはまの雑水     芭蕉
 (どの家も東の方に窓をあけ魚に食あくはまの雑水)

 家を東向きに建てるというのは、もう一つの可能性として、西側に海があり、潮風の害を防ぐために家を東向きにしたということが考えられる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句を漁村と見ることハやすく、附句のほそミを得ることハ難し。」とあり、『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には、「西風をいとふ海辺なるべし。」とある。
 曲斎著の『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)によれば、「食ひあく」というのは、飽きるまで食うという意味で、「船中にて活間(いけす)の魚死(あが)り売場なき時ハ、切懸干しにして置、常の雑炊用とす。又直にならぬ雑魚多き時ハ、肉醤に作て雑炊にも用る也。」とある。漁村では生簀で死んで売り物にならなくなった魚を干物にして、雑炊の具とし、雑魚で作る肉醤(しょっつるやナンプラーのようなものか)で味付けし、明け方の漁の前に腹いっぱい食うのだという。
 「ほそミ」というのは『去来抄』によれば、

 「去来曰く、句のしほりは憐れなる句にあらず。細みは便りなき句に非ず。そのしほりは句の姿に有り。細みは句意に有り。是又證句をあげて弁ず。

 鳥どもも寐入って居るか余吾の海   路通

 先師曰く、此句細み有りと評し給ひし也。」

とあるように、句の意味の中にある。
 鳥が寝ているところを見ているわけではないのに、それを気遣う心の中に細みがあるように、この付け句にも貧しい漁村の人たちの心を思いやる細みが感じられるということか。

無季。「魚」と「はま」は水辺。

三十三句目

   魚に食あくはまの雑水
 千どり啼一夜一夜に寒うなり     野坡
 (千どり啼一夜一夜に寒うなり魚に食あくはまの雑水)

 漁村の食生活を詠んだ前句に冬の季節を付けて軽く流したという感じだ。
 『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には「海辺の雑炊に付て、一夜一夜に寒うなりといへり。」とある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「客中の趣ありと見て、衣の薄き意をふくミいへるや。郷愁かぎりなし。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「流浪ノ人ト為テ、夜ノ物ノ薄キナドモ寒ウノ語ニ聞ヘタリ。とあり、漁村を渡り歩く旅人の俤を読み取っている。

季題は「千どり」で冬。鳥類。水辺。「一夜一夜に」は夜分。

2016年12月23日金曜日

 「むめがかに」の巻の続き。

二十八句目

   はつ午に女房のおやこ振舞て
 又このはるも済ぬ牢人     野坡
 (はつ午に女房のおやこ振舞て又このはるも済ぬ牢人)

 芭蕉の時代には大名の取り潰しや改易が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれていたという。笠張りなどの内職で細々と食いつないで日ごろから女房子供に迷惑をかけているそんな負い目からか、初午の日に女房の親や兄弟などに振舞って願を掛けにいくのも、多分毎年のことなのだろう。そして毎年願を掛けていても今年もまた仕官が決まらずに、というところか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「賑ふ頃ハゑならぬ者も入こミなん。ねだる塩梅など来客に余情あり。○又の字去年をふくめり。」とある。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「親子振舞てと云より転じ来て、主家没落したる人の意地を立て二君につかへず、昔を忘れぬこゝろより稲荷祭りにかこつけて、旧友又はゆかりの人などを招き、一盃すゝめたる志のめでたさを余情よせいに見みせたり。」とある。
 そんな意固地になって浪人を貫かれたら、女房もその親もたまったもんではない。これは違うだろう。武家道徳の賛美は俳諧の心ではない。俳諧はあくまで本音でなくてはならない。
 ウィキペディアによれば、「牢人」は「主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者」のことで、それが改易などによって牢人が急増したため、浮浪者などを意味する「浪人」といっしょこたになって、「江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった」という。
 『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)には「牢人ト書損じたり。」とあるが、書き損じではない。ただ、幕末ともなると「牢人」にこの字を当てることはほとんどなかったのだろう。

季題は「春」で春。「牢人」は人倫。

二十九句目

   又このはるも済ぬ牢人
 法印の湯治を送る花ざかり      芭蕉
 (法印の湯治を送る花ざかり又このはるも済ぬ牢人)

 江戸時代の修験道は、本山派と当山派、それに天台宗に所属するものに分かれ、本山派は各地の主要な修験者に年行事職を与えた。ここでいう法印はその年行事職クラスの修験者で、浪人などを食客しょっかくとして住まわせたりしていたのだろう。勘当された放蕩息子を親が連れ戻そうとしたところ、法印の粋な計らいで、温泉で湯治に行く留守番の役を言いつけて逃れるといったところか。
 「またこの春も済まぬ」を浪人が自分の身を嘆いて言う言葉から、法印の湯治への旅立ちを見送りながら、放蕩息子がまた今年も戻ってこないのかという親の嘆きに換骨した、人情味あふれる句。
 春の三句目なので、花の定座が六句もくり上げられているが、両吟ではそれほど定座の位置にこだわる必要はない。ここで花のない春三句連ねて、三十五句目に五句去りでもう一度春にするというのも、形式に振り回された感じて収まりが悪い。

季題は「花ざかり」で春。植物。木類。「法印」は釈教。

三十句目

   法印の湯治を送る花ざかり
 なハ手を下りて青麦の出来   野坡
 (法印の湯治を送る花ざかりなハ手を下りて青麦の出来)

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「湯治を送ると云より転じて、法印の除地を作り居る百姓どもの見送りに出たるが、誰の苗代かれの菜種などいひて、とりどり評議したるさまに思ひよせたり。前句香の花なれば、揚句の心にて作りたるが故に軽し。」とある。
 寺社の所領は、幕府や藩からの租税を免除され、「徐地(よけち)」と呼ばれた。「なハ手て」はあぜ道のこと。法印の旅立ちを見送りながら、領内の百姓が集まって、農産物の噂をしている様子を付つけたもので、花の後だけに軽くさらっと付けている。

季題は「青麦」で春。植物。草類。

2016年12月22日木曜日

 今夜は寒冷前線の通過で雨風ともに強く嵐のようだ。明日は寒くなるのかな。
 昨日の話だが、「ん」のつく食べ物はまだまだある。カツ丼、天丼、牛丼などの丼物を忘れていた。あと、カレー粉もクミン、コリアンダー、ウコン、シナモンなど「ん」の付くものが含まれているからカレーでもいいし、ナンやタンドリーチキンを添えれば言うことない。チキンと付くものも何でもいいし、タイ料理にはナンプラーも欠かせない。パクチーもコリアンダーの葉だから有り。
 要するに大体何を食っても「ん」の付くものは含まれている。
 芭蕉の次代の人は冬至だけでなく、二十四節季自体にほとんど関心がなかったのではないかと思う。立春以外はそれほど意識されなかったのではないか。俳諧の「春」も旧暦の一月二月三月で立春立夏とは無関係だし、彼岸の句が少ないのもそのためだろう。
 芭蕉の時代はまだ明の滅亡のショックが尾を引いていた頃で、文人の中国崇拝が頂点に達するのは清の最盛期となる乾隆帝の時代(1735~1796)ではないかと思う。二十四節季もそれに伴い次第に庶民の間に降りてきたが、二十四節季が本格的に喧伝されるようになったのは案外明治の太陽暦採用以降なのかもしれない。
 さて、「むめがかに」の巻の続き。

二十五句目

   桐の木高く月さゆる也
 門しめてだまつてねたる面白さ    芭蕉
 (門しめてだまつてねたる面白さ桐の木高く月さゆる也)

 冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。
 前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。
 門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのである。
 前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「桐の木高く月冴ると云より転じ来て、晋人などの気韻をうつし取て、世を我儘に玩びたる隠者のおもむき也。無隣氏の民か、葛天氏の民かと云し淵明の俤も見みえて、余情あふるゝばかり也。だまつて寝たるとあしらひて、ちつとも寝ぬさまをおもしろさの詞にて見みせたり。翁曰、炭俵の一巻は、門しめての一句に腹をすゑたりと或書に見みえたり。」とある。
 この「或書」とは土芳の『三冊子』のことであり、そのなかの「赤冊子」に、

  「この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思おもふ所に非ずとなり。」

とある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「窓影愛すべき夕べならん。隠逸の人ひとなどミゆ。高くといひ冴るといえるを、心の高明なるにとりて趣向せられけん。妙境妙境。○臼と十夜の二句を昼と見みさだめ、与奪して、夜分をつらね給へるなるべし。」とある。 
 打越の「十夜」が夜分なら夜分三句続いて式目に反することになるが、。「十夜念仏」が昼夜に渡って行なわれるもので、夜に限定されるものでないというところから、十夜の鐘に臼を貸すという二句を昼のこととして、あえて「寝たる」という夜分の言葉を付けている。

無季。「門」は居所。「ねたる」は夜分。打越の「十夜」は昼夜に渡って行われる十夜念仏のことなので、夜分にはならない。

二十六句目

   門しめてだまつてねたる面白さ
 ひらふた金で表がへする    野坡
 (門しめてだまつてねたる面白さひらふた金で表がへする)

 芭蕉の高雅な趣向の句の後に同じように高雅なもので張り合おうというのは却って野暮というもの。ここは卑俗に落として笑いに転じるのが正解。
 大金を拾ったりすると、あぶく銭ということで、何かと周りからたかられたりして、酒でも振舞って奢ったりしなくてはならなくなる。それが嫌で、金を拾ったことは人に黙っていて、さっさと自分の部屋の畳替えに使ったら、ばれないように早々に門を閉めて、狸寝入りを決め込む。けち臭いけど、気持ちはわかる。前句の「だまって」に「拾う」が付く。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「いやしき面白ミに転ず。拾ふにだまるの語にらミあり。」とある。
 こうしたあえて卑俗に落とした例としては、芭蕉の最後の興行となった「白菊の」の三十二句目に、

   野がらすのそれにも袖のぬらされて
 老の力に娘ほしがる     一有

の句がある。前句は、

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

で、前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成した句で、このときの芭蕉の姿にも重なる。
 好句が生れた時には、それに張り合うようなことをせず、あえて卑俗な句で謙虚さを示すのも、礼儀のうち。俳諧はあくまで談笑であり、全体にあまり深刻になりすぎないようにするバランス感覚も重要だ。

無季。

二十七句目

   ひらふた金で表がへする
 はつ午に女房のおやこ振舞て     芭蕉
 (はつ午に女房のおやこ振舞てひらふた金で表がへする)

 初午(はつうま)は旧暦二月の最初の午(うま)の日のことで、京都伏見稲荷を初めとする稲荷神社で初午大祭が催される。
 ここでは前句の「ひらうた」を文字通り道で拾ったのではなく、初午の日に女房の親子にご馳走を振舞ったところ、そのご利益か臨時の収入があり、その「拾ったような」金で畳の表替えをする、という意味になる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「与奪なり。」とだけある。与奪は前句の情を一度殺して新たな生命を吹き込むとでも言えばいいのか。換骨奪胎に近い。
 『七部集纂考』(夏目成美著、年次不詳)には、「おやこハすべて親属の事をいふ。中国の俗語也。」とあるが、一般になじみのない中国の俚言をいかにも教養あるふうに持ち出すのはこの頃の芭蕉の軽みの風とは思えない。

季題は「はつ午」で春。初午詣での意味なので神祇。「女房」「おやこ」は人倫。

2016年12月21日水曜日

 冬至というとカボチャと柚子湯だが、これがいつからなのか、芭蕉の時代には登場しないから、そんなに古くもないのだろう。カボチャは新大陸の原産で日本に渡ったのは戦国時代だから、一般に広まったのはもっと遅かっただろう。
 ネットで調べたら、

 ずっしりと南瓜落ちて暮淋し   素堂

の句が出てきた。『番橙集(ざぼんしゅう)』(除風編、宝永元年九月刊)にあるらしい。この編者の除風は南瓜庵を名乗っていたともいう。
 南瓜は秋の季題らしい。ただ、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「南瓜」も「かぼちゃ」も載ってない。
 柚子湯も遡れるのはおそらく江戸末期までだろう。「柚」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の秋のところに見られるが、「柚子湯」という季語はない。
 今年に入って「ん」のつくものを食べると運が付くというのをテレビやラジオで聞くようになった。朝の番組ではうどんをプッシュしていたが、さてはうどん業界の陰謀?だとしたら失敗だろう。「ん」の付くものは多すぎるからだ。
 まず、おでん、トン汁、けんちん汁などがこの季節に合っているし、ラーメン、つけ麺など「麺」のつくもの、ご飯、チャーハン、天津飯などの「飯」のつくもの、参鶏湯、コムタンなど「湯」がつくもの、洋食ならもちろんパンがあるし、ハンバーガーもある。
 ネットで見ると「ん」のつくもの七種と言って、なんきん・れんこん・にんじん・ぎんなん・きんかん・かんてん・うんどん(うどん)というのが載っているが、これもそんなに古い謂れのあるものではないだろう。
 冬至の太陽の復活の祭りは、いまやすっかりクリスマスに取って代わられたと言っていい。クリスマスの起源ももとは北欧の土着信仰の冬至祭りで、それをキリストの生誕に強引に結びつけて、クリスチャンからの異教弾圧をのがれて今に至っているもので、キリストは本当は12月25日に生まれたわけではない。
 クリスマスは本来冬至祭りでペイガンの祭りだから、ムスリムもそんなに気にしなくてもいいのではないかと思う。それとも、多神教の祭りならもっと許せないとかなるのだろうか。イエス・キリストはイスラム教でも預言者の一人として認められているが、多神教はもっとまずいか。

それはさておき 「むめがかに」の巻、続き。

二十二句目

   江戸の左右むかひの亭主登られて
 こちにもいれどから臼をかす  野坡
 (江戸の左右むかひの亭主登られてこちにもいれどから臼をかす)

 前句はやはり、「向いの亭主の江戸より登られて、江戸の左右聞くに」と読む。江戸の話を聞きに近所の人が集まり、忙しくなるので、唐臼を貸してあげるという、隣近所の人情味ある句だ。「こちにもいれど」はの「いる」は要るという意味で、「こちらでも臼は必要だけど、先に使ってくれ」という意味。
  唐臼は餅などを搗く「搗き臼」ではなく、籾を摺るための磨り臼で、ペッパーミルを大きくしたようなもの。両側に二本の棒が突き出していて、それを二人がかりで回す。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「世情を尽せり。二句一章なり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「二句一章ニシテ、有ソウナコトヲ附タリ。向ヒト言ニ、コチニト言ニテ一章ナリ。」とある。
 「二句一章」というのは「二句一体」と同様、付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。ただ、この場合は、「向かいの亭主」に「こちにも」という「向付け」にもなっている。
 『秘註俳諧七部集』では、八句目の、

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ     芭蕉

の句にも、「二句一章」の言葉がある。

無季。

二十三句目

   こちにもいれどから臼をかす
 方々に十夜の内のかねの音      芭蕉
 (方々に十夜の内のかねの音こちにもいれどから臼をかす)

 「十夜」というのは十夜念仏(じゅうやねんぶつ)のこと。京都の真如堂(真正極楽寺)をはじめ、浄土宗の寺で十日間に渡って行なわれる念仏会(ねんぶつえ)で、旧暦十月五日から十五日の朝にかけて行なわれた。明治以降、旧暦の行事は禁止されたため、今日では新暦の11月六日から十五日に行なわれている。念仏の時に鳴らされる鐘の音は、初冬の風物でもあった。
  十夜念仏の頃には、ちょうど稲の収穫も終わり、籾摺の作業に入る。そんなときは、近所の家同士で臼の貸し借りもあったのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「臼のいそがハしき用をいへり。前底の体なることを見得すべし。」とある。臼を貸すという用に十夜の鐘という体を付ける。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、
「こちにも入る碓(うす)といふより転じ来て、初冬稲をこきあげて米にする時節と思ひよせたり。十月と作りてはひらめになる故、一つぬきて十夜とあしらひたる也。」とある。
 ただ十月の時候を付けるだけではひらめ(平目:平板というような意味)になるので、十夜念仏の風景にして、一つの独立した体としている。
  「壬生の念仏」から四句しか隔てていないので、「念仏」という言葉は同字五句去りなので出せない。そこで「十夜」というだけで十夜念仏のこととしている。
  談林俳諧では、こうした制にかかわる言葉を抜いて式目をかいくぐる手法が多用されたため、「抜け風」と呼ばれたが、本来こうした式目の抜け方は中世連歌の時代からあったもので、『水無瀬三吟』の六十九句目の、

   うす花薄ちらまくもをし
 鶉なくかた山くれて寒き日に    宗祇

の句に、「風とはいはずして風あり此風にてすすきちり給はん」という古註がある。

季題は「十夜」で冬。「十夜」はここでは単なる十日の夜ではなく、十夜念仏のことなので冬になる。念仏なので釈教になる。釈教は三句去りで「壬生の念仏」四句隔てているので問題はない。「鐘」もこの場合は時の金ではないので釈教。「十夜念仏」は昼夜続けて行われるので「夜」の字があっても夜分ではない。

二十四句目

   方々に十夜の内のかねの音
 桐の木高く月さゆる也     野坡
 (方々に十夜の内のかねの音桐の木高く月さゆる也)

 夜分ではないにせよ「夜」の文字が出たのですかさず月を出す。季節は冬なので「さゆる」という冬の季語を用いることで冬の月、寒月のこととする。
 葉を落とした桐の木に寒月がかかる様は冷えさびていて、鐘の音はマイナーイメージで却って静寂を感じさせる。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「鐘を聞居る寂莫の風情、桐の木をあしらへる所妙也。味ふべし。」とある。

季題は「月さゆる」で冬。夜分。天象。月の定座は普通は二十九句目だが、定座は式目ではなく、単なる会式の作法であるため、それほどこだわる必要はない。「桐の木」は植物。

2016年12月20日火曜日

 さて、「むめがかに」の巻は二表に入る。

十九句目

   門で押るる壬生の念仏
 東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
 (東風々に糞のいきれを吹まはし門で押るる壬生の念仏)

 ここでまた壬生念仏の様子を付けると輪廻になって展開しないので、背景を付けて流したと言っていいだろう。
 「門で押るる壬生の念仏」の句は、一句が独立しすぎて、他の意味に取り成すことが難かしく、展開しにくい。時期も舞台も登場人物も限定されていて、発展性がない。こういうときには、芭蕉といえども逃げ句になるのはやむをえない。
  ここでふたたび壬生念仏を見る群集の景色に戻ってしまっては、輪廻になる。壬生寺が畑の中にあるところから、まわりの畑の景色に転じるというのが、一つの付け筋となる。打越に「町衆」という人倫の言葉があるから、人物を登場させることはできない。ただ、春風に畠の肥臭い匂いを付けるだけにとどめる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「壬生寺ハ畠中なり。○此附二句がらミに似たれど、全く前句の用といハん。」とある。
 二句がらみというのは壬生念仏のつらりと酔うた町衆の情景に声の匂いを加えて三句連続のイメージではないかというものだが、そうではなく壬生念仏の群衆の押し寄せる様を体として、それに付随するものとして肥えの匂いを付けただけで、打越の酔った聴衆とは離れているというものだという。三句にまたがっていけないのは本来連歌俳諧の基本なのだが、江戸後期ともなるとかなりそれが忘れられている。だから、これを「二句がらみ」という人も結構いたのだろう。
 前句の用というのは、たとえば川に橋を付けるようなもので、一つの趣向をこらした情景に対し、それに従属するような言葉を添えることを言う。壬生念仏に酔った町衆は体に体を付けているが、壬生念仏に春風は体に用を付けるということになる。
 『去来抄』「先師評」に糞尿の句は嫌う必要はないが、「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」と、むやみに多用することを戒めている。ここでは、ただ春風だけでは発展性がないので、一つの趣向を立て、句の俳味を出すためにも、意味のある「糞(こえ)」の使い方だと言ってもいいだろう。

季題は「東風々(こちかぜ)」で春。

二十句目

   東風々に糞のいきれを吹まはし
 ただ居るままに肱(かひな)わづらふ   野坡
 (東風々に糞のいきれを吹まはしただ居るままに肱わづらふ)

 春風が肥えの匂いを吹きまわす頃はまだ農閑期で、農家の人はやることのないまま体がなまって肘などを痛めたりする。これはわかりやすい展開だ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「田家の正月などミゆ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「糞のいきれといふより転じ来て、百姓の此時節農隙(のうげき)ありて、ぶらぶら遊び居る体と思ひよせたり。日に日にはたらき馴れし身をあまり隙に居る故に、却て肱などいたしといふさま折々見聞処也なり。」とある。
 「折々見聞処」つまりあるあるネタ。

無季。

二十一句目

   ただ居るままに肱わづらふ
 江戸の左右(さう)むかひの亭主登られて   芭蕉
 (江戸の左右むかひの亭主登られてただ居るままに肱わづらふ)

 「左右(さう)」というのは古語辞典によれば「かたわら」「あれこれ」「結果」といった意味があり、なかなか多義な言葉だったようだ。単にみぎひだりを言うのではなさそうだ。
 この句は「向いの亭主登られて江戸の左右(聞く)」の倒置で、左右はあれこれという意味になる。「ただ居るままに肱わづらふに、むかひの亭主登られて江戸の左右を聞く」というのが二句通した意味。
 『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に「前句の人、立病ミのぶらぶらして、向ひの亭主に江戸の左右抔(など)を聞也。」とある。
 前句は農閑期の百姓のことだったが、ここでは京に住む店の奉公人に取り成されている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「店奉公の楽過たる趣をおかしくいへる按排に、前句を換骨し給へり。妙々。」とある。

無季。「亭主」は人倫。十八句目の「町衆」から三句隔てている。

2016年12月19日月曜日

 『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)をめくっていたら、「無名宛(元禄七年春筆か)」に「木兔(みみづく)の角あるけしき先(まづ)感心仕候」というのがあった。芭蕉が褒めた句だからどんな句だったのか興味あるが、句は残ってないようだ。
 「むめがかに」の巻の続き。

十六句目

   はつ雁に乗懸下地敷て見る
 露を相手に居合ひとぬき    芭蕉
 (はつ雁に乗懸下地敷て見る露を相手に居合ひとぬき)

 ここでは、前句の「見る」は試みるの意味になり、居合い抜きを試みるとつながる。山賊に備えてのことか。『奥の細道』の山刀伐(なたぎり)峠の所には「道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ふて人を頼み待れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携たづさへて、我々が先に立ちて行く。」とあるが、そのときのイメージかもしれない。「はつ雁に乗懸下地敷て露を相手に居合ひとぬきを見る」の倒置。
 「露払い」という言葉もあるが、むやみに草や竹などの生き物を切るのではなく、そこに結ぶ露だけを切るというところに、命の尊とさを知る風流の心がある。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)にも「心がけのある武士と見て附たり。」とある。
 『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年四月跋)には「風雅弁に、玉散るの詞を俗語の姿に強て仕立たる句也といふ。」とある。「抜けば玉散る氷の刃」は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の村雨という刀を形容した言葉で、これに類する言葉が芭蕉の時代にあったかどうかはよくわからない。
 なお、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には「此句此集出板の頃、翁旅立事序に見ゆ。其時島田の駅より杉風方への書簡に、予が居合い一抜の句、露を相手にと御直し可給候。くれぐれ野坡へ御伝頼入候とあり。」とある。一応『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)を調べてみたが、それらしきものはなく、「杉風宛(元禄七年閏五月二十一日─推定─付)の中に、「嶋田より一通、書状頼置候。相届候哉。」とあるから、それのことか。「曾良宛(元禄七年五月十六日付)」には「十五日嶋田へ雨に降られながら着申候。」とあり、この書簡については「曾良宛(元禄七年閏五月二十一日付)」に「嶋田より一通頼遣し候。相届申候哉。」とある。このことからすると、五月十六日頃に曾良宛と同様、杉風宛の手紙を書いていたと思われる。ただ、引用された文があったかどうかは今のところ定かではない。

季題は「露」で秋。降物。次は花の定座で、露のような、秋の季題でありながら春にもあるものを出すことで、季移りを容易にしている。

十七句目

   露を相手に居合ひとぬき
 町衆のつらりと酔て花の陰      野坡
 (町衆のつらりと酔て花の陰露を相手に居合ひとぬき)

 花見はもっぱら町人のものだったが、お忍びでやってくる武士も多く、中には刀を持ったまま堂々と来る者もいたようで、

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

の句もある。
 大勢の酔っ払った町人の前で、これも酔った勢いで居合い抜きなど披露して、決まれば拍手喝采だが刀は無残にも空を切ってという落ちではないかと思う。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「歯ミがき売りの芸と転じて、見る方のさまをいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)なども大体同じことが書いてある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「花の頃賑合場所へ出て、居合を抜き人よせをして歯磨楊枝等を売ニ」とある。江戸後期や幕末の人には居合い抜きを見せながら歯磨きを売る姿はお馴染みのものだったかもしれない。ただ、芭蕉の時代にあったかどうかは不明。
 「つらり」は今の「ずらり」で、あちこちに人ひとが分散している状態ではなく、ひとところに勢ぞろいして、というニュアンスで、見物人の人垣を連想させる。

季題は「花」で春。植物。「町衆」は人倫。

十八句目

   町衆のつらりと酔て花の陰
 門で押るる壬生の念仏     芭蕉
 (町衆のつらりと酔て花の陰門で押るる壬生の念仏)

 「壬生(みぶ)念仏」は壬生大念仏狂言のことで、壬生狂言とも呼ばれる。円覚上人が正安二(一三○○)年に壬生寺で大念佛会を行ったとき、集まった群衆にわかりやすく、無言劇を行なったのが起こりとされている。専門の役者ではなく地元の百姓が演じるもので、江戸時代にはその名が広く知れ渡り、境内の桟敷は京都・大阪から繰り出してきた金持ちに占領され、地元の町衆は門のところで押しあいへしあいしながら見物してたという。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「在所のものゝ桟敷をうらやむ以為を含め給へれど、人倫の異乱なき句作のちらしを見るべし。但、此会式を猿の狂言ともいふ。里人の鉦うちて、おかしき物真似をするなり。」とある。押し合いへし合いしながらも、さしたる混乱もなく行儀良く芝居をみている様子は、まさに「人倫の異乱なき」でこの国の誇りであろう。
 「酔て」もここでは酒ではなく芝居に酔いしれていると見た方がいいだろう。

季題は「壬生の念仏」は春。釈教。「門」はこの場合、お寺の門なので、居所にはならない。

2016年12月17日土曜日

 「むめがかに」の巻も「ゑびす講」の巻も『炭俵』だが、その『炭俵』に冬の猫の発句もある。

 初霜や猫の毛も立(たつ)台所  楚舟

 昔の台所は北側の寒い所にあることが多かった。初霜が降りる様な寒い朝、猫が台所で毛を膨らませている様を詠んだものだろう。

 凩(こがらし)や盻(またたき)しげき猫の面(つら) 八桑

 猫は普通あまり瞬きをしない。ゆっくり瞬きするのは愛情表現だという。もし盛んに瞬きするようなら目の病気を疑った方がいい。

 さて、「むめがかに」の巻の続き。

十三句目

   ひたといひ出すお袋の事
 終宵(よもすがら)尼の持病を押へける  野坡
 (終宵尼の持病を押へけるひたといひ出すお袋の事)

 前句のお袋を存命の人として、尼の持病の看病を、お袋もそうだったからと一心に行うさまを付けている。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「旅などに寝て慕ふさまならん。哀ふかし。但し、存命の人にかえたり。」とあり、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「よもすがら 看病ヲシナガラ、我母ノ持病ノコトヲ云出ス也。」とある。
 持病というと代表的なのか「癪」で、ウィキペディアによれば「近代以前の日本において、原因が分からない疼痛を伴う内臓疾患を一括した俗称。」だという。江戸時代の読者も明治の人も大体持病というと癪のことだと思ったのだろう。『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)に「尼の持病を押える人、五十余の女にてもあらん。お前の母親も癪持で有た、或ハお前の事のミ案じてござつた抔(など)いふなり。」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「私がお袋も癪持で」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも癪とある。

無季。「終宵」は夜分。「尼」は人倫、釈教。

十四句目

   終宵尼の持病を押へける
 こんにゃくばかりのこる名月  芭蕉
 (終宵尼の持病を押へけるこんにゃくばかりのこる名月)

 終宵(よもすがら)という夜分の言葉が出たことと、そろそろ月を出さねばという所で、すかさず月を付ける。夜分三句去りなので、ここで出さないと花の上座の十七句目まで出さないか、夜分にならない明るいうちの月を出すことになる。
 名月の宴のさなか尼が癪をもよおし、看病して戻ってきたらコンニャクだけが残っていて、他の御馳走はみんな食べられていたという一種のあるあるネタで、前句の看病の重苦しい雰囲気を笑いで振り払おうというものだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「暁ちかく酒盛を覗きたらん。執中紳に銘ずべし。」とある。『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)も「名月ハ人々酒のミものくひして、夜すがら月をながめあそびしに、ひとり尼の持病を押えゐて、月も見ざりしとの附合ならむや。」とある。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)にも、「其看病人夜フケ空腹ニナレバ、物クハントテ食物ヲ尋ルニ、イササカコンニャクノコリテアル暁方ノサマ也。」とある。こうした解釈でいいと思う。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「尼ヲ老人トミテ、歯ニ合ヌ蒟蒻ヲ附玉へり。」とある。看病してたら御馳走がなくなっていて蒟蒻だけ残っていたというだけでなく、その蒟蒻がまた老いた尼には噛めないと二段落ちになるというのだが、そこまで考えなくてもいいだろう。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には「こんにゃく斗 月見の夜の硯ふたやうのもの也。」とある。「硯ふたやう」というのは目出度い席などで硯の蓋に料理を盛り付けることで、最初は本物の硯の蓋を使っていたが、やがて専用の硯蓋状の容器を用いるようになったようだ。硯蓋には何種類もの料理を彩り良く盛ることが多い。

季題は「名月」で秋。夜分、天象。

十五句目

   こんにゃくばかりのこる名月
 はつ雁に乗懸下地敷て見る      野坡
 (はつ雁に乗懸下地敷て見るこんにゃくばかりのこる名月)

 街道の馬を利用する時には、まず馬に荷物を載せ、その上に人が乗るため、そこに薄い座布団のようなものを乗せる。これを乗懸下地(のりかけしたじ)という。前句を宴席から旅体に転じる。
 句は倒置で「はつ雁に乗懸下地敷てこんにゃくばかりのこる名月を見る」となる。蒟蒻は昨日旅立ちの別れを惜しんで集まった人たちから振舞われた御馳走の残りであろう。
 マガンは冬鳥で名月の頃から日本に渡ってくるため、名月に初雁は付け合いとなる。物付けと言っていい。渡り鳥を出すことも旅の情につながる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「残酒に朝出を祝ふならん。前句と時日を異にしたるの作略あり。」とある。

季題は「初雁」で秋。鳥類。乗懸下地は旅。

2016年12月15日木曜日

 今日も月が出ていたので、冬の月でもう一句。

 影法師の踏つふまれつ冬の月  池天

 露川・燕説編の『北國曲(ほっこくぶり)』の句で、作者がどういう人なのかはよくわからない。影法師というと、

 冬の日や馬上に凍る影法師   芭蕉

の句があるが、池天の句は夜の月の光の淡い影法師で、夜道を歩いている時の情景か。何となく幻想的で近代的な感じがする。露川と燕説も何となく捨て難い気がしてこの句を載せたのだろう。

 「むめがかにの巻」の続き。

十句目

   奈良がよひおなじつらなる細基手
 ことしは雨のふらぬ六月     芭蕉
 (奈良がよひおなじつらなる細基手ことしは雨のふらぬ六月)

 これは「恋離れ」の一句で、天候などの話題に逃げるのは常套手段といえば常套手段だ。前句の「通ひ」という恋の言葉をあえて殺して、じ奈良へ行き来する馴染の零細商人同士が天気の噂をする情景とする。
 『俳諧古集之弁』系の註釈は「さらし買出しの商人」としている。晒し布は奈良の名産品で、商人たちが買出しに集まってきていたようだ。
 逃げ句とか遣り句とかは、一巻のメリハリの中では必要なもので、連句も初心の者はいかに良い句を作るかに腐心し、ついつい句が重くなりがちだが、上級者になると、逃げ句を楽しむ余裕も出てくる。適切な場所でうまい逃げ句が詠めるというのは、むしろ技術のいることであり、一巻全体の流れを支配することでもある。

季題は「六月」で夏。「雨」は降物。

十一句目

   ことしは雨のふらぬ六月
 預けたるみそとりにやる向河岸(むかうがし) 野坡
 (預けたるみそとりにやる向河岸ことしは雨のふらぬ六月)

 旧暦六月は今のほぼ七月に相当し、前半はまだ梅雨が続くが、後半には梅雨が明け、かんかん照りの日が続く。あまり早く梅雨が明けると、日照りによる旱魃の恐れが生じるため、水無月には雨乞を行う。
 そんな農家の心配を他所に、商人にとっては川の増水の心配もなく船を走らせて、商売にいそしむ。味噌がよく売れれば、奉公人が川の反対にある河岸(かし、市場)に預けた味噌を取りに行ったりもする。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「水涸(みづがれ)の自由をいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「水涸になりたるゆへ、運ぶ自在をいへり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「水涸ニナリタル故ニ、自在ナル体ヲ言リ。」とある。

無季。「河岸」は水辺。

十二句目

   預けたるみそとりにやる向河岸
 ひたといひ出すお袋の事    芭蕉
 (預けたるみそとりにやる向河岸ひたといひ出すお袋の事)

 「ひた」は「ひとつ」から来た言葉で「ひとすじ」ということ。今でも「ひたすら」という言葉に名残をとどめている。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「ひたといひ出す ヒタハ一向也。一筋ニ也。孝心ノスガタ也。」とある。
 お袋のことを一途に思って味噌を取りにいくところを、昔の人は既に亡きお袋の法事のために味噌が必要だと解した。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「ミその用あるを年回と見て、いひ出すとハ作り給ひけん。」とある。「年回」は年回忌のこと。

 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には、「此句につけて人にききける事あり。此前に御頭へといふ事ありて、又御袋といふ事いかがならむと翁にたづねけるに、翁のいハく、御袋より猶よき事あらバかへよ、もしかへがたくバ此巻の見落しにしておけ、といハれしよし。尊むべし、あふぐべし。翁の俳諧をさバける河海の細流を択(えら)バずといハむか、さし合(あひ)くりといハれむより上手といハれよといふも、俳諧の金言也。此事をしらざるものハ、たださし合のミにかかりて、俳諧の去嫌(さりきらひ)にあらざる事をしらず。翁のこのことバを紳(しむ)に記すべし。」とある。
  連歌の式目には、同字五句去という規則があり、これは同じ字でも読み方が違えば問題はないのだが、「御頭(おかしら)」と「御袋(おふくろ)」の「御」の字は読み方も用法も同じで、しかも七句目の、

  御頭へ菊もらはるるめいわくさ    野坡

の句から四句しか隔てていない。これは違反になる。
  ただ、連句の去り嫌いの規則というのは、基本的には景物の多用を戒ましめるもので、ただ花やら鳥やら不必要に句をきれいな景色で飾ることを嫌うものにすぎない。意味もなく「御袋」を出したのではないのなら、それほど厳密に咎める必要はない。
 「さし合のミにかかりて、俳諧の去嫌にあらざる事をしらず。」というのは、規則の判定ばかりに目を奪われ、去り嫌らいの本質を知らないという意味。
 これはサッカーの判定のようなものかもしれない。ただ規則に厳密に笛を吹いていれば良いというのではなく、試合の流れをスムーズにするためには小さな違反は笛を吹かずに流すことも必要になる。
 なお、江戸後期の俳諧師夏目成美(せいび)の『七部集纂考』(年次不詳)、『標註七部集稿本』(文化十三年以前成立)に、室町時代十五世紀前半の外記局官人を務めた中原康富の日記『康冨記(やすとみき)』の「亨禄四年正月九日今暁、室町殿姫君誕生也。御袋大館兵庫頭妹也云々。」を引用していることから、いくつかの注釈書もこれに習っている。「お袋」という言葉は室町時代からあった古い由緒のある言葉だということか。
 『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年十二月刊)もこれを引用して、「愚考、後宮名目云、母を袋になぞらへる事ハ、腹中にその子籠れる時、袋の中にものの在如くに侍れバ、めでたき事にことぶきて申侍る也。山崎闇斎云、俗称人はハ袋と云、蓋胞胎之義を取矣。」と、お袋の語源についての薀蓄を披露している。
 最近は関東でも「おかん」という人が増えて、「お袋」という言葉があまり聞かれなくなってきている。

無季。「お袋」は人倫。九句目の「娘」から二句隔てている。

2016年12月14日水曜日

 今日は夕方から晴れ間が見えて、月が丸かった。久しぶりに満月を見たような気がする。冬の月、寒月といったところか。凍月というほど寒くはない。

 皆落て木末に丸し月の影   孤白

は『卯辰集』の句。枯れ枝に月というのは百年のちの、

 冬木立月骨髄に入る夜かな  几董

の句に受け継がれる。「骨髄に入る」というのは体の芯まで冷えるというだけでなく、冬木立の枯れ枝に我が身を投影させてのことではないかと思う。
 さて、「むめがかにの巻」の続き。初裏に入る。

七句目

   藪越はなすあきのさびしき
 御頭(おかしら)へ菊もらはるるめいわくさ    野坡
 (御頭へ菊もらはるるめいわくさ藪越はなすあきのさびしき)

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)に「御頭へ 前句の藪越はなすを押て、組屋敷などの附なり。」とある。「組屋敷」はネットで調べると「江戸時代、与力・同心などの組の者にまとめて与えられていた屋敷。」とある。これだとここでいう「御頭」は与力で、同心たちが組屋敷の藪越しに「御頭に丹精込めて育てた菊を取られてしまって、まったく迷惑な話だ」とか話しているということになる。
 与力同心は直接罪人に触れる「不浄役人」で被差別民がその職務に当たっていたことを考えると、前句の所にあった『俳諧古集之弁』の「在所」はやはり被差別部落だったか。
 いずれにせよ上下関係の厳しい世界で、御頭の言うことは絶対。菊を見て「くれないか」と言われて断れるもんではない。

季題は「菊」で秋。植物で草類。植物が二句続くが、二句までは問題はない。「御頭」は人倫。

八句目

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ     芭蕉
 (御頭へ菊もらはるるめいわくさ娘を堅う人にあはせぬ)

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)の三つは大体内容が似ているので、『俳諧古集之弁』系と言っておこう。『俳諧古集之弁』系は前句の「菊」を娘の名に取り成しての付けだとしている。これだと、御頭が嫁を探していてうちのお菊に白羽の矢が立ったら迷惑とばかりに、娘を御頭に合わせないように隠している、という意味になる。
 その他の系統のものは、菊を趣味としている御頭をいかにも堅物な人物と見立てて、そういう親父は娘に虫が付いてはいけないとばかりに人に合わせないようにしていると解釈する。これだと位付けになる。
 たとえば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は、「菊もらはるる迷惑と云やぶさかなる情より起し来て、六十前後の老と思ひよせたり。おもての色飽まで黒く、半白の髪の終にそそけたる事なくうるみ鞘の大小に葛布の古袴着て、極ていふ今の若きものは不人品也。容易に娘など出すべからずと、小家をつつまやかにおさめたるさまを余情に見せたり。」とある。
 この句は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)に「ことに人のよくおぼえたる俳諧也」とあるように、かつては一般によく知られた芭蕉のヒット作の一つだったようだ。それだけに、いろいろ解釈するものがあり、そうした巷での論議を呼ぶというのも、人気の秘密といえるかもしれない。
 私は前者の「菊」を「お菊さん」のことと取り成したとする説を採りたい。というのも、頑固親父の描写という説も確かに面白いが、それだと単純な「あるあるネタ」だけに終おわってしまうし、展開にも乏しい。
 菊を大事にするのはともかく、娘を大事にするあまりに人に会わせないというのは、あくまで独占欲から来る私情であり、こうした情は風流に欠ける。
 本当に迷惑しているのは、実じつは娘の方だったるする。むしろ、大事な家族を横暴な組頭から守るという方が、より人間としての真情が感じられるため、句としても深みがある。

無季。「娘を人に会わせぬ」が恋かどうかも、かつていろいろ論議があったようだ。中世であれば、自分の切ない恋の情を詠んだもの以外は恋句ではなかったが、江戸時代ではもう少し緩く解釈している。他人の横恋慕を恐れて娘を隠すのも、恋の一場面といえば一場面であり、恋句としても間違いではない。「娘」「人」は人倫。人倫が二句続くが、二句までは良い。

九句目

   娘を堅う人にあはせぬ
 奈良がよひおなじつらなる細基手   野坡
 (奈良がよひおなじつらなる細基手娘を堅う人にあはせぬ)

 「細基手」は今でいう小資本のこと。というわけで舞台は組屋敷や足軽屋敷から商人の家に変わる。娘を嫁にくれという商人が何人も足しげく通ってくるが、みんな似たり寄ったりの小資本の連中で、我が家の格には合わないとばかりに娘を隠しておく。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「娘をあハせぬを豪家と見て、乏しき商人の趣向を設け、うらやむ情を含めたらん。尤自他の変なり。○奈良がよひの語ハ、伊勢が艶詞の面影ありて、松をしぐれの染かねし恋をかくせり。さハ二句の間の余情といハん句作妙なり。」とある。
 「松をしぐれの染かねし恋」は『伊勢物語』ではなく『新古今和歌集』の、

 我が恋は松を時雨の染めかねて
   真葛が原に風さわぐなり
              慈円

ではないかと思う。『伊勢物語』で奈良と言えば、冒頭の「昔、男初冠して、平城の京、春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。 その里に、いとなまめいたる女はらから住けり。‥‥」のことか。
 いにしえの身分違いの恋の情を、奈良の豪家のところに通う小資本の商人の情に、いわば今風に翻刻したということか。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「奈良がよひ 奈良ニ遊女町アリ、木辻ト云」とあり、『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「奈良ノ木辻遊郭ニ通フ若者共ノ俤ナリ。」とある。奈良の木辻遊郭はウィキペディアによると西鶴の『好色一代男』にも「木辻」の名が出てくるというから、芭蕉の時代にもあったのは確かだろう。ただ、句の内容からすると直接は関係なさそうだ。

無季。「奈良通い」は恋。「奈良」は名所。「つら」「細基手」はどちらも人倫にはならない。「つら」は体の一部にすぎず、「細基手」は商売の状態を表す言葉にすぎない。人倫を三句続けてはいけない場面なので、うまく人倫の制をかいくぐっている。

2016年12月13日火曜日

 『むめがかに』の巻の続き。

四句目

   家普請を春のてすきにとり付て
 上(かみ)のたよりにあがる米の値   芭蕉
 (家普請を春のてすきにとり付て上のたよりにあがる米の値)

 上方の方面の情報で米の値が上がっているので、春の農閑期に家の改築に着手して、となる。「て」止めはこうした倒置的な用い方をする。
 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)に「これハ炭俵の一体なり。家普請を春の手すきにとり付たる人ハ、米商人(こめあきむど)の仕合よくて買こむだる米も次第に値上りするさま也。」とあるように、この句は前句の家の改築をする人を、農家ではなく、米問屋に転じたものだというところに、注意する必要がある。収穫直後は米の在庫が豊富にあるので、特に豊作の年は米の値は下がるが、春になり、やや品薄感が出てくると米の値はじわじわと上昇し、秋風の吹く頃には、

 十団子も小粒になりぬ秋の風   許六

となる。
 春の農閑期に入る頃から米の値が上がり出すとなると、夏には米が不足しがちになり、かなりの高値がつきそうだと見込んで家の改築をやっているのである。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「さがるとせバ死句ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「上るといふに意味あり。さがるとせバ死句ならん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「上ルト言ニ普請ノ意味有。下ルトセバ死句ナラン。」とある。米が値下がりしたなら家普請どころではない。値下がりで家普請をするとしたら、米を金で買っている町人だろう。農家や武家や米問屋は値上がりを喜ぶ。

無季。

五句目

   上のたよりにあがる米の値
 宵の内ばらばらとせし月の雲     芭蕉
 (宵の内ばらばらとせし月の雲上のたよりにあがる米の値)

 前句の米の値上りを、春になって順調に米相場が上昇するという意味ではなく、収穫直前であれば、ちょっとした天候の変化に敏感に米相場が変動する、という意味に取り成す。今でも首都圏でちょっと雪が降ったりすると、たちまち野菜が値上りすることを考えればいい。実際に流通に支障をきたすほどの雪でなくても、心理的な要因で、相場は敏感に反応する。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の「根のなきあげと見てあしらハれけん。抑揚自在といふべし。」とあるが、「根のなきあげ」はそうした心理的な相場の変動のことか。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)にも、「稲の花ざかり頃は、鬢の毛三本動く風吹ても相場の狂ふ事、夜と日とたがふ其おもむきを月の雲にてあしらひたる也。」とある。

季題は「月」で秋。夜分、天象。「ばらばらとせし」は雨のことなので降物。

六句目

   宵の内ばらばらとせし月の雲
 藪越はなすあきのさびしき   野坡
 (宵の内ばらばらとせし月の雲藪越はなすあきのさびしき)

 「藪」は森でも林でもなく、手入れのされていない木や草の茂る場所をいい、古くは水の流れていない沢のことだったという。田舎でもさびれた荒果てた村を連想させる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「在所の気やすきさまならん。夜も又静かになりけらし。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「秋の寂寞、農家の気安きさま成べし。但し、世にいふ二百十日の前後無難にあれかしの話しならん。」とある。「在所」はここでは郷里のことで、特に被差別部落ということでもなさそうだ。
 月の雲に藪越の顔を合わすこともない会話は、響くものがある。どちらも隠れていて見えないという共通点があり、響付けといえよう。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「月の雲といふさびしびの余韻をうけて、藪ごしに噺すとあしらひたり。言外の味あじはひなり。」とある。

季題は「あき」で秋。「藪」は植物。発句から四句隔てている。

2016年12月12日月曜日

 昨日は千葉市美術館の「文人として生きるー浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術」展の後期を見に行った。前期は11月13日に見た。
 今回はついつい字の方に気持ちがいってしまった。玉堂は隷書を多用しているが、行書や草書のものもある。やはりところどころ知っている字がある程度で、解説を見ながら、ああ、これがこの字かという程度で、これが全部読めたら玉堂の絵も違って見えてくるかななって思った。
 今日は今年の漢字が発表になって、書かれた字が読めないと話題になっていた。確かに「く」の下に左右の点があって、中央にくちゃくちゃっと書いたあの字は、金の草書体を知らなければわからない。将棋をやっている人なら香車の裏にあるあの字だが。
 今はなき古いHP「ゆきゆき亭」では「炭俵」の「梅が香にの巻」をアップしていたが、今回は書き直そうと思った。とりあえず第三まで。あと、「ゑびす講の巻」は鈴呂屋書庫にアップしている。

発句

 むめがかにのつと日の出る山路かな  芭蕉

 学校でも習う有名な句なので、ほとんど解説の必要はないだろう。
 あえて言うなら、苦しい旅の中も、一瞬漂うほんのりとした梅の香と一気に昇る朝日の姿にしばし癒やされる。それを「のっと」という俗語を巧みに使って表現しているといったところか。
 「のっと」は「ぬっと」と同じで、oとuの交替は古語ではしばしば見られる。「こがね(黄金)」「くがね」、「まろ(麿)」「まる(丸)」、「しろし(白し)」「しるし」など。
 『俳諧古集之弁』には、「かの檜木笠着そらしつつ、細脛に余寒の凍(こほり)ふミしだきて、によひ出給ひけん。」とあり、『俳諧鳶羽集』には、「如月のはじめつかた、いまだ夜深きに旅立、数里にしてほのぼのと明はなれ、右左の小家(こいへ)ありありと見えわたるに、栗柿の林は霜さえ、小笠の藪は赤ばみて今に冬のままながら梅ひとり咲出でて、ほのかに其香をはこび来る中より、朝日の隈もなくぬくぬくとさしのぼりたる味はひいはん方なし。風騒の人、神(たましひ)を奪るる処也。」とある。
  『俳諧古集之弁』は遅日庵杜哉(ちじつあんとさい)の著で寛政四(一七九ニ)年三月刊。『俳諧鳶羽集』は幻窓湖中(げんそうこちゅう)の著で、文政九(一八二六)年九月稿、近代に勝峰晋風(かつみねしんぷう)によって翻刻されたもの。

季題は「梅」で春。植物(うえもの)、木類。「日」は天象。「山路」は山類(さんるい)。「旅体」の句。



     むめがかにのつと日の出る山路かな
 処々に雉子(きじ)の啼たつ     野坡(やは)
 (むめがかにのつと日の出る山路かな処々に雉子の啼たつ)

 厳かな春の朝の情景にあちこちで雉が鳴き始める情景を、特に凝った意図はなく、さらっと付けている。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「句作に巧ミを用へず。立の字ちからあり。」とあり、『俳諧鳶羽集』には、「脇は発句のいひ残しをいふこと勿論ながら、我力をぬきて少しも滞(とどこ)ほる方(かた)有べからず。いささかも節くれたる所あれば、発句にそふ事なし。雉子の啼立の詞、発句に覆ひかぶさりたるがごとく聞ゆる也。後世の亀鑑(きかん)ともいふなるべし。」とある。
 脇は体言止めというのを規則だと思っている人もいると思うが、あくまでそれは習慣的なもので、そのような規則はない。あえて体言止めにこだわらず「啼きたつ」と力強く言い切ったあたりが、この句の芯とも言えよう。発句に「かな」という、主観性の強い、完全に断定しない曖昧な切れ字で結ばれている場合、それに答えるような断定が効果的になる。「~だろうか、そうだ‥‥だ」と覆いかぶさるような構成になる。これが、古註の指摘している点であろう。
 
季題は「雉子」で春。鳥類。

第三

     処々に雉子の啼たつ
 家普請(やぶしん)を春のてすきにとり付て    野坡
 (家普請を春のてすきにとり付て処々に雉子の啼たつ)

 雉の声と金槌で鑿を打つ音とが似ていて、相響く。蕉門の匂い付けの一つ、「響付け」といえよう。春のまだ農作業に取り掛かる前の暇な時期に家を改築しているのか修理しているか、工事を入れている。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「脇の風調のおのづから鑿彫(さくてう)の音賑ひ初る村里の春色にひびきあり。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「第三は転の場也。処々といふをたしなく啼しさまと思ひよせて、正月末二月はじめ頃と転じたり。取つけてよむべからず。取つき(い)てなり。」とある。
 『俳諧鳶羽集』は発句の初春の情を正月末から二月初めの情に転じたとしている。「たしなく」というのは「他事なく」で、一つのことに専念している様を言い、雉のあちこちで啼く声に、忙がしげに普請に取り掛かる様が響くもとのしている。「取付て」は「とりつきて」あるいは「とりついて」と読よみ、取り掛かる、始めるの意味。「とりつけて」と読むと、すがりつくという意味になり、意味が通らない。

季題は「春」で春。「家普請」は居所。

2016年12月10日土曜日

 「♪もしもー古文書がー読めーたならー」って「ゑびす講」の巻を読み終えて痛切に感じた。
 古註の有効性を再認識させられたし、特に参考になった『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)はネットで検索すると、ちゃんと読める状態で公開されている。残念なのはそれが昔の本で、草書で書かれているため読めないということだ。
 日本人なのに日本語でかかれた日本の古典が読めないというのは恥ずかしい限りだ。それも古文だからという以前に文字が読めないというのは最悪だ。
 浮世絵などにも字が書かれてあるし、ひらがな(時々変体仮名)だから、昔は庶民の多くがこれを読めて、無筆なんてそんなにはいなかったのではないかと思う。それが今読める人が皆無というわけだから、少なくとも古典に関して文盲率9割以上ではないかと思う。これが文化国家化かという惨憺たる有様だ。
 まず学校教育では草書を教えない。英語の筆記体は教えるが、なぜか日本語の筆記体は教えない。行書も書道の時間にほんの少し触れる程度で、学校は基本的には「楷書で正しく書きなさい」という所だ。
 戦前はどうだったか知らないが、戦後は「戦争に負けたんだから」ということで、日本の伝統文化に興味を持つこと自体が、日本を再び悲惨な戦争に導き何百万人もの人間を死に至らしめる危険思想とみなされるようになってしまった。
 古典は偉い左翼学者さんが安全だと認め、あるいは西洋風の解釈を施し、活字に起したものだけをきちんと指示に従いながら読め、というのが戦後日本の教育だった。
 大学では一応古文書学の授業があった。主に日本史や国文学専攻の学生を対象としたもので、哲学専攻だった私はフランス語とドイツ語は学んだが、遂に古文書を学ぶ機会は失われた。
 これから55の手習いで古文書を学ぶにせよ、もう一度大学にいくとなればお金もかかるし、仕事もやめなくてはならない。
 民進党が大学の無償化とか言っているけど、本当に誰でも無償になったらニートがみんな大学に籍を置きたがって殺到しそうだから、予算の方が大変だろうな。多分無理だろう。
 俳諧の研究者はおそらく日本には数えるほどしかいないだろうし、それもみんな西洋文学の観点から評価するというものばかりだから、私のやろうとしていることとはかなり隔たりがある。
 何でこんな国に生まれてしまったのか、日本死ね‥‥ではなかった、日本を殺そうとする奴ら死ね!って勿論これは比喩だよーん。
 まあ、何とか今からでも遅くないという所で、独学で古文書の勉強でもしようかと思い立った次第でした。
 待ってろよ、『俳諧古集之弁』。必ず読んでやるからな。そして目指すは文化勲章だwww。

2016年12月7日水曜日

 さて、「ゑびす講」の巻も残す所あと二句。まず三十五句目、行ってみよう。

   目黒まいりのつれのねちミやく
 どこもかも花の三月中時分  孤屋

 二裏の花の定座なので、目黒参りに花の季節を付けたと言えばそれまでだ。ただ、「どこもかも」の一言が、「つれのねちミやく」の原因となっているあたりはうまく付いている。そこらじゅうは桜が綺麗だから、目黒参りに行くにもあれこれ目移りがしてしまい、つい道を外れてふらふらと花の方へ誘われる。
 『俳諧古集之弁』系に「花の一字なかりせバ前句の噂とならん。」とある。単に「どこもかも三月中時分、目黒まいりのつれのねちミやく」たっだら、前句の時期を特定しただけの内容になる。それを「前句の噂」と言うのか。「どこもかも」が「花」だから「ねちミやく」につながるのは確かだ。
 ただこれも、目黒参りの途中のことなのか、目黒参りに行こうと誘ったら他にも花の名所があるからぐずっている、という解釈も成り立つ。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「どこもかも花の三月中時分トハ、此頃ハどこの参所も花盛で面白いのにどうだ付合ぬか、おてかの顔ハ晩にも眺めらるる、思切て参らぬかと、種々説法しても、出嫌隠居の尻重き様也。」とある。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも、「目黒参りを誘ふに、いづれもぐずぐずして定らぬは、飛鳥山も上野も花のさかりなれバ」とあるが、飛鳥山は吉宗の時代なので残念。上野寛永寺や浅草浅草寺には桜も植えられていて、

 花の雲鐘は上野か浅草か   芭蕉

だった。この頃は寺社の花見が普通で、邸宅に住む身分の人は庭でも花見をしたのだろう。公園が整備されるのは享保の頃の飛鳥山が最初で、他は明治に入ってからだ。
 たくさんの桜がまとまってある所で花見をしたわけではなかったので、「どこもかも花の」というのはそこかしこにある寺社の境内や屋敷の庭の桜に目移りするという意味ではなかったかと思う。そんなのに気を取られていたのでは、いつまでたっても目黒不動に辿り着かない。
 季題は「花の三月」。「花」は植物で木類。

 さて、ラスト、挙句。

   どこもかも花の三月中時分
 輪炭(わずみ)のちりをはらふ春風   利牛

 「輪炭(わずみ)」は茶事に用いる輪切りにした墨のこと、とネットの辞書を引けば出てくる。
 『俳諧古集之弁』系には「野風呂堤たばこ盆などの趣向にあるや。」とあるが、「野風呂」は露天風呂ではなく、お茶の野点のことだろう。茶の湯を沸かす風炉から来たと思われる。「たばこ盆」は火入れ、煙草入れ、灰落とし、キセルをセットにした手で下げて持ち運べるお盆のこと。ただ、煙草盆が茶席などで一般的に用いられるようになったのは江戸後期なので、ここでは単に野点の風炉と考えて方が良いだろう。
 花の下での野点は風流なもので、そこかしこで行われていたのだろう。その灰が春風に巻き上げられていくさまに目を留めるのは、まさに俳諧だ。野点あるあるとでも言うべきか。
 季題は「春風」で春。

 こうして目出度く春の野点のいかにも江戸時代のリア充な風景で歌仙一巻は終了する。花の定座が習慣化して以来、連歌も俳諧もこうして予定調和的に終わる。湯山三吟のような秋の挙句のような、挙句の多様なパターンが試せなくなったのは残念なことではある。
 花の句や恋の句を遠慮し合い、花呼び出しや恋呼び出しが行われて意外性がなくなり、何もかもお膳立てされた形式ばった方向は、芭蕉といえども逆らいようがなかったのだろう。
 芭蕉の軽みの俳諧は、そんな中世に花咲いた連歌の最後の輝きだったのかもしれない。連歌俳諧はそういう意味では、正岡子規が登場しなくても既に衰退の一途をたどっていたし、近代文学の観点から「愚なるもの」として一蹴されなくても、既に十分愚だったかもしれない。
 それでも昔の華やかなりし時代の連歌俳諧を蘇らせてみたい。今は衰退していても、未来には世界のどこかで息を吹き返し、新たな文学の可能性を開くかもしれないからだ。
 連歌俳諧の文化は副産物として、大喜利やネタものや今日の日本のお笑い芸の隆盛を生み出した。今や日本の芸人がyoutubeを通じで世界を制する時代にすらなった。あるいは世界に広まった日本の漫画アニメもまた、俳画の系譜を引いているともいえる。俳諧の精神はそこかしこ日本人の遺伝子(文化的遺伝子:ミーム)となって今の日本の平和な文化を支えている。それは誇りにしてゆきたい。

2016年12月6日火曜日

 三十四句目。

   ちらばらと米の揚場の行戻り
 目黒まいりのつれのねちミやく 野坡

 「ちらばら」もそうだったが「ねちミやく」も謎の言葉で、多分元禄の頃には普通に使われていたが、江戸後期には死語になっていたのだろう。辞書だと「思い切り悪く、ぐずぐずするさま」とあって、「辞がねちみゃくして」という用例が載っている。
 「ねちみゃく」は「けちみゃく(血脈)」のような漢語っぽい響きがあり、「熱脈」「涅脈」「涅覓」「佞脈」などの字を当てる説もあるが、定説はない。
 目黒参りの目黒は目黒不動尊のことで、東京都目黒区下目黒にある瀧泉寺が不動明王を祀っている所からそう呼ばれている。
 江戸の中心地からそれほど離れていないので、日帰りで行けたのだろう。そうは言っても何か迷う所があったのか、米の揚場のあたりでうろうろしてなかなか着かない、ということか。「ちらばら」が影のことだとしたら、途中の高輪あたりで日が暮れてしまったということだろう。『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「賑しき米上場ハ、品川高輪辺也。」とある。『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も「前句の米の揚場を高輪、品川あたりに転じたり。」としている。
 品川から目黒だと今だったら山手通りだが、その前身となるような目黒川に沿った道があったのだろう。「品川観光協会」のホームページには、
 「目黒不動から荏原神社までは目黒川に沿って居木橋村を通る道と平塚橋を経由して南品川に達するみちがあるが、文政10年(1827年)戸越村御屋敷絵図には目黒川沿いに品川道が記されている。」
とある。
 無季。「目黒まいり」は釈教。「つれ」は人倫。

2016年12月5日月曜日

 三十三句目。

   鯉の鳴子の網をひかゆる
 ちらばらと米の揚場の行戻り  芭蕉

 「ちらばら」は「ちらばる」ということで、多分「ちりちりばらばら」というのも同じ所から来たと言葉なのだろう。「ちらほら」とか「ちらりほらり」とかいう言葉とも類縁なのか。
 『俳諧古集之弁』系の註釈だとこの言葉は斜陽の人影の水面に映る様だという。貞享元年の『冬の日』の句、「ひのちりちりに野に米を刈る 正平」の「ちりちり」に近いのか。「はらはら」も乱れ落ちてゆく様を言うから、光がゆらゆらしながら降り注ぐ様を「ちらばら」と言ってた可能性は無くもない。
 幕末系の註釈は舟の往来のちらほらだとか、揚場から行き戻る人のちらほらだとか、ほぼ今日のちらほらの意味で解釈している。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は「ちらほら」の誤りだというが、それは明治の感覚で、「ちらばら」だとか「ちらはら」という言い方をこの頃にはしなくなっていたからだろう。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「人多く往来するさま」としているから「ちらほら」というわけでもない。むしろ「ぱらぱら」だろう。
 芭蕉の時代に「ちらばら」がどういう意味で用いられていたかは、ここからではわからない。辞書を見たら用例が芭蕉のこの句だった。これではどうしようもない。
 米の揚場とは言っても大きな港のような所ではないのだろう。人もまばらで辺りに鯉の生け簀があるような所だから、町外れの川沿いの開けた所か。
 とりあえずここでは、鯉の鳴子の網の情景にその原因の鷗が付いていたのを原因とは切り離して単純な風景として、米の揚場の風景に転じたと見ておくことにしよう。「ちらばら」が人なのか影なのかは、保留する。
 無季。「揚場」は水辺。水辺が三句続くが、「鷗」「鯉」は水辺の用で「揚場」は体だから輪廻にはならない。『俳諧古集之弁』系に「体用の変あり。」とあるのはそのことか。

2016年12月3日土曜日

 三十二句目。

   風やミて秋の鷗の尻さがり
 鯉の鳴子の網をひかゆる   孤屋

 江戸時代は鯉などの魚の養殖が盛んで、芭蕉の弟子に鯉屋杉風という人がいたが、魚問屋で深川に生け簀を所有していて、芭蕉はその近くの家を譲り受けて、そこに芭蕉を植えて芭蕉庵とした。使われなくなった生け簀は古池になり、あの名句を生んだ。
 深川あたりには養殖用の生け簀がたくさんあったのであろう。魚をユリカモメなどの鳥に食われないようにこうした生け簀の上には鳥除けの鳴子が取り付けられていたのであろう。「鳴子の網」というのは生け簀の上を覆うように、鳴子のたくさん取り付けられた網を張っていたのではないかと思う。
 こうした風景も幕末には既に失われていたのではないかと思われる。江戸の人口の増加によって隅田川の東岸の宅地化が急速に進み、今でいう下町が形成され、それと同時に輸送手段の発達で海で取れた魚が新鮮なうちに江戸に届くようになり、鯉の養殖は次第に廃れていったのであろう。いわゆる江戸前寿司が隆盛を極める傍らで、鯉料理は隅に追いやられていったのではないかと思われる。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「鷗ト言ヨリ、隅田ノ州崎村ノ生州ニ為タリ。」とある。天保の頃にはまだ州崎(今の東陽町)にこうした生け簀が残っていたのだろう。おそらくかつては深川あたりにもたくさんあったのではないかと思われる。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「これは旧解の、鯉の生州の上にしつらひたる鳴子にて、風止み日和らぎたれば鯉の小さきは長閑に浮み出でて禽獣などに捕らるるあるを防ぐなり、と云へるが却って宜し。」とある。
 風が止んで鷗が空を舞っては鳴き交わす情景に、鯉の生け簀を付ける。それが日常の風景だった時代の人には、悩むような句ではなかったであろう。
 季題は「鳴子」で秋。しし威しと同様本来は秋の稲穂を守るための鳥獣除けで秋の季題となっている。「鯉」は水辺。前句の「鷗」も水辺で、水辺が二句続く。

2016年12月2日金曜日

 さて、あとは名残の裏の残す所六句。
 三十一句目。

   壁をたたきて寝せぬ夕月
 風やミて秋の鷗の尻さがり   利牛

 「鴨の尻さがり」について、『俳諧古集之弁』系には何の説明もない。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「鷗は都鳥の事にて、尾の方のあがりたる鳥なるを、尻さがりとひねりて作りたる也。」とある。都鳥は今で言うユリカモメのこととされているが、概ねこうした水鳥は尻が上がっている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「尻さがりハ句作ながら、秋の高汐に引方ハ出水の流るるにひとしけれバさも有べし。」というのはわかりにくいが、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「尻下がりは尻の方の低くさがりたるにはあらで、流の上に向ひて浮み居り、自然と流れて後退するを云へるなり。」と同じだろう。
 多分、尻下がりは説明の必要のないことだったのだと思う。それはカモメの声を聞けばわかることで、カモメの声が尻下がりということなのではないかと思う。
 「壁をたたきて」の主語は省略されているが、擬人化ではなく人が叩いているのだろう。
 「風やミて秋の鷗の尻さがり壁をたたきて寝せぬ夕月」とした時、上句と下句は「て」止めのときと同様倒置の関係になる。
 風が止んで秋のカモメも盛んに鳴き交わしている、さっきまでは友が壁を叩いて遊びに誘い寝かせてもらえない夕月だったが、とそう読むのが良いだろう。
 そう読めば、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の「青楼の酔をふかれに遊侠の徒のうかれ来れる升崎ハたりの風情などミゆ。変化おかし。」の註がぴたりとはまる。「青楼」は吉原のこと。「升崎」は真崎か。
 季題は「秋」。「鷗」は鳥類。

2016年12月1日木曜日

 二十九句目。

   無筆のこのむ状の跡さき
 中よくて傍輩合の借いらゐ    野坡

 さて、あるあるネタの連続で月の定座ことが忘れられてないかなという感じだが、ここは次の芭蕉さんに譲るということか。といっても、これは月呼び出しとは言えない。
 傍輩は同僚というような意味。「合」がつくと同僚同士ということか。
 『俳諧古集之弁』系では「女の風あり」と、女同士の仲良しグループのようなものを想像している。手紙を代筆させても、ついついガールズトークに花が咲いてしまい、なかなか進まないというのはありそうなことだ。そんな仲だから気軽にものの貸し借りもするのだろう。
 幕末・近代系の註釈は「いらゐ」という言葉についていろいろ論じてる。「借いらゐ」という言葉は、幕末あたりを境に日常的に用いられなくなり、死語となっていたか。「いらゐ」は「いらひ」の間違いというところはほぼ共通して指摘されている。ただ、それが答えるという意味の「いらへ」なのか、借りるという意味の「いらへ」なのか、議論が分かれている。てっきり「借り依頼」かと思ったが、この言葉が幕末にあったなら議論にはならなかっただろう。一応保留にしておく。
 無季。「傍輩」は人倫。

 三十句目。

   中よくて傍輩合の借いらゐ
 壁をたたきて寝せぬ夕月   芭蕉

 誰も月を出さないもんで、結局ニ表の月の定座は芭蕉さんに丸投げとなった。初表の月花もそうだったが、俳諧の衰退もこうした過度な気配りや空気読みが原因の一つだったと思う。芭蕉さんも内心苦々しく思ってたのかもしれない。
 「夕月」は夕方に出る月で、満月よりも早く、三日月や半月のことを言う。七月七日の七夕の月の連想も働く。「星祭」とも呼ばれていた。
 町は七夕祭りで賑わい、寝ようにも傍輩がやってきては服を貸してくれだとか、なかなか寝させてくれないのも、江戸時代のあるあるだったのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「帯も頭巾も人の物にて、夜祭などへ出かけるやつともミゆ。ひとへにこの附の姿なることを感ず。前句を実となせバ越の論なし。」これに論なし。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)が「夕月の一語に夜々の踊りに労れしものと為せるは、余りに思ひ過ぎたる解にて、窮屈なり。」と言うのは、明治になって旧暦の行事が禁止され、江戸時代の七夕の賑わいも見る影も無く、家庭での子供の行事と化した時代だったから、その意味では納得がいく。
 当鈴呂屋俳話は近代的に(あるいは西洋文学的に)「改釈」することを目的とはしていない。あくまで作られた当時の本来の意味を探求することを旨とする。幸田露伴の注釈は、近代的解釈としては敬意を表するが、ここではそれが目的ではない。
 古註を読むことで、われわれの知らない世界が見えてくる。面白いと思わないか?
 季題は「夕月」で秋。天象。

2016年11月30日水曜日

 十一月も今日で終わり明日からは新暦の師走。今年一年も短かった。たいしたこともしない間にもう終わりか。こんなふうに一生って終わっちゃうんだろうな。
 と、気を取り直して、せめて「ゑびす講」の巻くらいは今年中に終わらせよう。

 二十七句目。

   又沙汰なしにむすめ産
 どたくたと大晦日も四つのかね  孤屋

 「どたくた」は「どさくさ」に同じ。「さ」と「た」の交替は、サ行をしばしばthに近い音で発音することから起こるものであろう。「真っ青」が「まっつぁお」なったりするのもその一例。相撲でよく使われる「どすこい」も「どつこい」との交替が成り立つ。「どつこい」は一方で促音化して「どっこい」になる。
 大晦日(おおつごもり)はかつては決算日で、借金取りもこの日に回収しなきゃと走り回っていた。今で言えば年度末の3月31日と大晦日がいっぺんに来たような忙しさだったのだろう。

 大晦日定めなき世の定めかな  西鶴

は談林の俳諧師でもあった井原西鶴の発句。
 大晦日の四つというのはこの場合夜四つ(午後11時ちょい前)か。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「夜いそがしき折ふしに」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も「四ツは亥の刻なり。」としている。これに対し『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「昼からの騒ぎに」と朝四つ(午前10時過ぎ)としている。
 どっちにしても大晦日は忙しいことに変わりない。その忙しいさなかに出産となれば、それこそ「どたくた」している。
 わかりやすい句で、『俳諧古集之弁』系では「句作おかし」とだけある。
 季題は「大晦日」で冬。

二十八句目。

   どたくたと大晦日も四つのかね
 無筆のこのむ状の跡さき   利牛

 「無筆」は読み書きのできない人、「このむ」は注文をつけることをいう。日本は中世から識字率が高く、読み書きできない人は庶民といえどもそう多くはなかったし、連歌や俳諧が日本の識字率の向上につながった面もある。
 当時は年賀状はあるにはあったが、年明けていばらくしてから書くことが多く、年内に出さなくてはいけないわけではなかった。大晦日のどたばたしている時にわざわざ書かせる書状というと、借金の催促とか延期願いだとかだろうか。それにしては遅すぎる。
 『俳諧古集之弁』系では「前へ無用なる晦日へ附たり。」とある。前句の大晦日の体に打越の「むすめ産」の用が付いているから、ここで大晦日の用を付けると「用付け」になって、展開に乏しく輪廻気味になる。そのため「無用」、つまり大晦日の出来事としてそれほど必然性のないことを附ける必要があった。
 字の書けない人が手紙の代筆を頼むのは、別に大晦日でなくても良いことで、「むすめ産」のように「こんな時に」というネタにもなっていない。
 代筆を頼む人はお年寄りであったりしたのだろう。繰言が多くてどうにも要領を得ないのは、遺言を代筆する公証人の心境のようなものだろう。その呑気さと世間の大晦日の忙しさを対比したと見た方がいいのかもしれない。
 無季。

2016年11月29日火曜日

 二十五句目。

   塩出す鴨の苞ほどくなり
 算用に浮世を立る京ずまひ    芭蕉

 なかなか良いテンポで進んでいるので、この調子を維持したい所だ。ただそこは芭蕉さん、やっぱり少しひねってくる。それだけにわかりにくい。
 まず今までかなりの信頼性のあった江戸後期の『俳諧古集之弁』系の注釈を見てみよう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「塩鳥に出てたまかなるそこの風俗をいへるや。」とある。「たまか」は堅実とか実直とかいう意味でつつましい、倹約という意味もある。まあ、悪く言えばケチということか。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「塩鳥より出たり」としかない。これではよくわからない。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「塩鳥ヨリ洛ノ生モノ不自由ノ地ヲ宣エリ。」とある。京都は海から遠いから鮮魚も入りにくいし、農産物や野生動物の肉に関しても生ものより乾物の方が主流だったということか。
 幕末系の注釈は、こうした注釈を踏襲している。
 『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)は「前句ハゐなかよりの到来もの也。まことにめづらしと引ほどきたるハ、算用に浮世を立るからき京の住居なるべし。よくはまりたる附合也。」とある。京都は商業都市で生ものに乏しいから、田舎から送られてきた塩鴨をありがたがるし、それが京都の人の合理精神でもあるといったところか。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「算用に浮世を立つるは、農もせず漁もせず樵牧もせで、商利のこまかきを積み、小利口に世を渡るを云ふなり。」も大体似たようなことだろう。
 京都というと今でも鰊蕎麦が名物だし、身欠き鰊のような乾物は京都の人の気質にもあっているのだろう。乾物はもどすのに手間はかかるものの、安くて長期に渡ってストックしておけるので、京都の商人気質に合っていたのだろう。多分芭蕉の時代に塩鴨から京都を連想するのは無理のない自然なもので、京都人の気質を象徴するものだったのだろう。
 無季。

 二十六句目。

   算用に浮世を立る京ずまひ
 又沙汰なしにむすめ産(よろこぶ) 野坡

 『俳諧古集之弁』系の註では、前句の算用に浮世を立てる京住まいの人を「算術の師」と取り成しているという。ただ、算術師と多産がどう結びつくのかよくわからない。京都の算術師というと、芭蕉と同時代の渋川春海(二世安井算哲)が思い浮かぶが、子どもは一人しかいなかった。父親の一世安井算哲も京の算術師だったが、こちらもなかなか子どもに恵まれず安井算知を養子としている。
 算術師というと関孝和が有名だが、こちらは江戸に住んでいた。関孝和が継子算を数学的に解明したからか、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「御内義迄継子算が上手と咄す様也。」とある。面白いけど後付けだろう。
 『俳諧古集之弁』に、「さハ四方髪の兀あがりて先生顔ならんに、若やかなるものもてるなるべし。せつろしき所帯にあまた産せる按排余情あり。」とあるから、自由気ままに生きる流浪の算術師に、ナンパなイメージがあったのかもしれない。
 「産」と書いて「よろこぶ」と読むことに関しては、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「京都の方言に女の産するをよろこびと云。」とある。
 無季。「むすめ」は人倫。

2016年11月27日日曜日

 今日も午後から雨。寒い一日だった。
 二十句目。

   新畠の糞もおちつく雪の上
 吹とられたう笠とりに行     利牛

 雪解けの頃に吹く強い春風を付ける。東風(こち)とも呼ばれている。ただ、「東風」という言葉を使わずに東風を表現するところが匂い付けになる。

   抱込で松山廣き有明に
 あふ人ひとごとの魚くさきなり   芭蕉

と同じで、「松山」に「漁師」を付ければ普通の言葉付けだが、漁師と言わずしてそれを匂わせることで、文字通り魚の匂いを付けている。
 「東風」を表に出さないことには、無季の句となり、次の句の展開がしやすくなるというメリットもある。
 句意は明瞭で、前句を背景として、風に吹き飛んだ傘を拾いに行く人を付けている。畑の真ん中で春風に笠を吹き飛ばすのは「あるある」ネタ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の系統は「東風の時候」とだけ記している。
 無季。「笠」は衣装。

 二十一句目。

   吹とられたう笠とりに行
 川越の帯しの水をあぶながり   野坡

 昔の街道は幕府が橋を作らせなかったため、川の水につかりながら徒歩で渡ったのは学校でも習ったことで今更だが、そうして渡る途中に風で笠が吹き飛んで腰まで水につかりながらおそるおそるそれを取りに行くというのは、当時の「あるある」だったのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)系は「二句一体にして与奪の意なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「帯しハ腰のあたりといふ義也。」と付け加えている。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)はこれを大井川の川越制度に結び付けているが、川越制度は元禄九年からなので、この俳諧が巻かれた時にはまだなかった。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「驚き恐るべき程にもなき纔(わずか)腰切りの水を、かしましくいふ余情あり。」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「川越人足ともあるものの帯ほどの水を危がるべきや。」とあるが、この両者は明治三年に川越制度が廃止された後の世代なので、川越の実態を知らない。みんなが渡ってたり、普段渡り慣れている所ならともかく、川下に流されていった笠を拾うために道を外れるとなると、急に深みにはまることがあるので危ない。今でも川で遊ぶ人は注意しなくてはならない。
 無季。「川越」は水辺。旅体。「此島」から三句隔てている。

 二十二句目。

   川越の帯しの水をあぶながり
 平地の寺のうすき藪垣    芭蕉

 平地は今では平らな土地という意味だが、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「平地は水辺の体」とあるから、かつては川や干潟を干拓した土地を意味していたのであろう。そのあたりは腰ほどまでの水の流れる用水路が縦横無尽に走り、それを避けながら寺の藪垣を頼りに進むと良かったのだろう。お寺は大概盛り土をしたりしてやや高い所に建てる。「うすき」というところに心細さを感じる。
 これは旅体ではなく、平地に住む人の日常の風景に転じている。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)や『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)はお寺が水に流されるのではないかと心配しているが、意外に他は沈んでも寺は残るものだ。お寺の開祖となるようなお坊さんは馬鹿ではない。
 無季。「寺」は釈教。「平地」が式目上の水辺になるのかどうかはよくわからない。

 二十三句目。

   平地の寺のうすき藪垣
 干物を日向の方へいざらせて  利牛

 干物といってもお寺だから魚やイカではなく、柿だとか大根だとかだろう。「いざる」というのは「どかす」「移動させる」という意味。元は膝で歩くことを言ったが、そこからゆっくり移動するという意味に拡大されたようだ。名詞形はやばいので割愛。
 平地の寺で干物を日向に干すのは日常の光景で冬が来たなと感じさせる。日が低くなると薮垣の影になるので、垣から遠ざけたのだろう。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「其場ニシテ明ナリ。」としている。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「いざらせて」の「いざる」を接頭語「い」+「去る」で「ゐざる」とは別だとしている。「い」と「ゐ」は江戸時代には既に混同されていて、発音に違いは無かったと思われる。「ゐざる」も「居(ゐ)」+「去る」から来たと言われている。
 無季。「干し菜」は冬の季題だが、干し蕪や干し大根は春の季題で、「干し物」だけでは季題にならない。十三句目の「干葉」も「干し菜」にしなかったのは「淡気の雪」から二句しか離れてなかったからだろう。

 ニ十四句目。

    干物を日向の方へいざらせて
 塩出す鴨の苞(つと)ほどくなり  孤屋

 「塩出す」は保存のために塩漬けにした食品(塩蔵)を塩抜きして戻すことを言う。江戸時代には鴨肉も塩蔵にしていたのだろう。塩漬け肉はかつて世界中にあり、ヨーロッパにも鴨の塩漬けや生ハムがあり、中国にも咸鴨腿というのがある。
 せっかく手に入った鴨肉なので塩出しして食べようと思うと、狭い長屋では置き場所がない。干してある干物をちょっとどける。
 こうしたあるあるネタでさくさく進んでいくあたりが、「軽み」の風の真骨頂なのだろう。こういうネタだと古註の意見もほとんど分かれない。
 無季。「鴨」はここでは食品なので鳥類にはならない。

2016年11月26日土曜日

 さて、初の懐紙が終わり、二の懐紙の表に入る。
   十九句目

   砂に暖のうつる青草
 新畠の糞もおちつく雪の上   孤屋

 「新畠の雪の上の糞もおちつく」の倒置か。「上」は「かくなる上」のように「あと」という意味がある。「雪ノ解けた後糞もおちつく」という意味に取った方がいいのだろう。
 川原や中洲など川沿いの石や砂でできた土地を開墾して切り開いた畑に雪が積もり、それが解ける頃に肥料をやると土壌が改良され、折から春の青草が生えてくる。大きな川の河口付近は幾筋もの流れに分かれ、その間に無数の砂州が形成される。江戸時代にはこうした土地の開墾が進んでいた。
 肥料を先にやってから雪が積もると、雪の水分で酸欠を起し、肥料の発酵が不十分になって有機酸が発生し、肥料あたりを起こすらしい。肥料は雪の上(後)というのはそういう長年の経験から来た知恵であろう。
 この句に関しては古註の意見はかなり割れている。新畑が川原を開拓した所だということはほぼ一致している。「雪の上」の解釈が割れている。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「新畠の 雪ノ上ニ芥土ヲオクトキハ、雪モハヤクキユトゾ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「雪の上は雪の後といふがごとし。」とある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には、「雪の上ニ置し厩肥のしっかりとしたりとなり。」とあるが、この「雪の上ニ」も雪の後にという意味だろう。
 これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「配置し厩こえの上に雪降」とある。肥が先で雪が後になっている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「配り置たる糞壌の雪きへて、おちつきしならん。」とあるが、この文章だと肥と雪どっちが先かよくわからない。「雪きへて配り置たる糞壌の」の倒置なら雪の後の肥になる。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には、「新畠はしんはた、糞はこえと訓むべし。」とある。それ以前の古註には読み方が指示されてないので、当初の読み方はよくわからない。新畠は多分「しんはた」で良いのだと思う。「新田」に対しての「新畠」であろう。「糞」は「くそ」なのか「こえ」なのかはよくわからない。ただ、『去来抄』にある「でっちが荷ふ水こぼしけり 凡兆」の句の初案の「糞こぼしけり」の読みが「こえこぼしけり」だったとしたら、ここも「こえ」であろう。
 なお、『去来抄』のこの場所には「凡兆曰、尿糞の事申すべきか。先師曰、嫌ふべからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改あらたム。」とある。まあ、「糞」や「尿」はシモネタなので、一座一句と考えた方が良い。
 まあ、だけど芭蕉さんも、

 蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと  芭蕉
 鶯の餅に糞する縁の先      同

という発句を詠んでいる。『荘子』にも「道はし尿にあり」とある。
 季題は「雪の上」が意味としては雪解けなので春になる。

2016年11月24日木曜日

 今日は寒かった。54年ぶりの降雪とか言っていた。1歳の時にそんなことがあったのか、もちろん記憶はない。淡気(け)の雪というのはこういうのを言うのか、確かに雑談する気にもなれない。

 十五句目。

   馬に出ぬ日は内で恋する
 絈(かせ)買の七つさがりを音づれて 利牛

 絈(かせ)買についての解説は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にまかせよう。

 「絈は『かせ』と訓ます俗字にして、糸未だ染めざるものなれば、糸に従ひ白に従へるなるべし。かせは本は糸を絡ふの具にして、両端撞木をなし、恰も工字の縦長なるが如き形したるものなり。紡錘もて抽きたる糸のたまりて円錐形になりたるを玉といふ。玉を其緒より『かせぎ』即ち略して『かせ』といふものに絡ひ、二十線を一トひびろといひ、五十ひびろを一トかせといふ。一トかせづつにしたるを絈糸といふ。ここに絈といへるは即ち其『かせ糸』なり。絈或は纑のかた通用す。絈糸を家々に就きて買集めて織屋の手に渡すものを絈買とは云ふなり。」

 それが七つ下がりの刻、つまり夕暮れも近い頃になってやってくる。ネットで見ると「午後4時を過ぎたころ」とあったりするが、当時は不定時法なので春分秋分の頃なら四時過ぎだが、夏はもっと遅く冬は早い。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「二句がらみの附ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも「打向ハせて二句がらミに附なしけん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「打向ハセテ二句ガラミニハシタリ。」とある。この三つは大体一致することが多い。これまでからすると幕末のものよりは信頼度が高いが、「二句がらみ」はどうかと思う。
 熟女のうわの空から、馬士と宿屋の女の恋と二句続いたので、ここは恋離れと見て良いのではないかと思う。夫が馬に出ぬ日は一日ラブラブで過ごしていたが、夕暮れになってお邪魔虫でも良いのではないかと思う。
 無季。「絈買」はこの場合人物を指すので人倫。

 十六句目。

 さて、次の十七句目は花の上座で、初裏の月もまだ出ていない。ここで花を呼び出さなくてはいけない。ここはさらっと行きたい所だ。

   絈買の七つさがりを音づれて
 塀に門ある五十石取      孤屋

 ネットで「五十石取り」を検索すると「たそがれ清兵衛」が出てくる。「教えて!goo」の回答によると、武士でも下っ端の方で年収125万円なんていう算定もある。今で言えば相対的貧困家庭か。女房が内職して糸を紡いでいるのだろう。絈買が出来上がった絈を買いに来る。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、には「用体の変なり。」とあり、『弁解』のみ「付意句意明也。」と付け加えている。「音づれて」に「恋する」と用で付いていたのを、訪れる場所である五十石取りの家という「体」を付ける。当時は句意明瞭すぎて解説の必要なしと判断されたか。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「絈買といふより転じ来て、小身侍の家の老婦、又女兄弟などの手業に絈を製りて売なし、日用のたすけとするさまを余情に見せたり。」とある。異論はない。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「塀に門あるは門に塀あるにあらず、簡略なり。」「塀は勿論板塀の古びたるにて、筋塀錬塀などの立派なるにはあらず」とある。「門に塀ある」は立派な門に塀がついているというニュアンスで、「塀に門ある」は粗末な塀に小さな門が付いているというイメージか。
 五十石取りの家があるというだけの単純な句なので、次の句ではどうにでも展開できる。花呼び出しの見本のような句だ。ここまでお膳立てされるとかえって次の芭蕉さんにはプレッシャーかもしれない。
 無季。「門」は居所。「五十石取」は人倫。次の句で人倫は出せない。

 十七句目。

   塀に門ある五十石取
 此島の餓鬼も手を摺月と花  芭蕉

 さあ、お約束で花ばかりか月も出してきました。
 五十石取りとはいえ小さな島ではいっぱしの島奉行で、最も偉くて最も金持ちということもあるが、月花の風流の心を知るということが何より慕われる理由だという、風流の道の宣伝とも取れる。
 隠岐に流罪となった後鳥羽院の、

 我こそは新島守(もり)よ隠岐の海の
    荒き波風心して吹け
              後鳥羽院

あたりの俤を意識したか。
 それにしても島人のことを「餓鬼」だなんて、いくら人倫を出せないからといって、「土人」同様今だったら先住民族差別だって騒ぎになりそうだ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句の語勢に情を起し、文に武もある島奉行と見て、いと怪しげなる夷等も心腹したる以為をいへりかん。句作の按配感味すべし。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じだが、「文に武も」のところが「仁徳」になっている。「月と花」とあるのだから『笈の小文』の、

 「風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

にひれ伏したと考えた方が良いと思う。
 なお、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、今だとやはり問題になりそうな文章だ。

 「此句は餓鬼といひ、島といへるに、宜しからぬ海中の荒れたる島の、痩せさらぼひて衣服だに能くも身を被はぬやうなる浅ましき土民をあらはし、しかも其の餓鬼のやうなる者も月花にあくがれ、それを見たしとは念ずるといふことを、餓鬼も手をする月と花とは作れるなり。‥‥略‥‥およそは伊豆の大島、薩摩の種子島あたりを想へるなれど、想像より成れる句にて、もとより確と定めてのことにはあらず。」

 まあ、こういう認識だった時代もあったってことか。
 季題は「月」と「花」だが、月は一年中あるのでこの場合は花を優先して春の句となる。「花」は植物。「月」は天象。「島」は水辺。「餓鬼」は人倫にならない。

 十八句目。

   此島の餓鬼も手を摺月と花
 砂に暖(ぬくみ)のうつる青草  野坡

 打越の島奉行のことを忘れて前句を見れば、単に花咲く月夜をに手を摺る島の先住民族ということになる。あるいは今日で言う「餓鬼」つまり子どものことか。
 季節は春で「砂に青草のぬくみのうつる」を倒置にしてこの句となる。砂浜にも春の草が生えてきて暖かそうに見える、ということか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「踊躍したのしむ姿と見て、花下のけしきをいへるや。」とあり「餓鬼の語を転用して、かつぎの蜑の子どもらの花間に戯れ遊べると見ても変化おかしからん」とある。、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「悦び楽む姿と見て」としていて、後は大体同じ。
 季題は「青草」で春。植物、草類。

2016年11月23日水曜日

 今日は寒い一日で、久しぶりにゆっくり休んだので、「ゑびす講」の巻の方も一気に進んだ。

 十句目

   ひだるきハ殊軍の大事也
 淡気(け)の雪に雑談もせぬ   野坡

 前句の軍仕立てを引きずってはいけない。前句を単なる「腹が減っては軍はできぬ」という慣用句として、冬の寒い中では人もついつい無口になるという情景を付けたと解した方がいい。1977年のヒット曲「津軽海峡冬景色」(作詞:阿久悠)の「北へ帰る人の群れは誰も無口で」みたいなものか。気温が下がると体温を維持するためにそれだけ多くのカロリーを消費するから、どうしても腹が減る。腹が減っては軍はできぬとばかりに人は無口になる。と、そういうわけでこれを軍仕立ての句の続きと見た注釈は残念。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「雪は趣向にして句作に用を結べり。尤、爰に此季を出せる変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも、「淡気の雪ハミぞれならん。是を趣向にして其用を結べり。尤、爰に此季を出せるハ変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。後半はコピペ。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「冬を附タルハ変化の大事ナリ。工夫スベキコトナリ。」とある。
 『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)には「其人を見定たる附也。雑談もせぬハひだるきさま成べし。消へ安き淡雪に空腹をとり合ハせたる句作りなり。」とある。
 『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「冬の泡しき雪也。」とある。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「淡気の 雪ふり出し、たれだれも寒くおぼえて、雑談もせぬうちに時刻うつりて空腹になる。」とある。
 こうした解釈の方が当を得ている。
 季題は「雪」で冬。降物。六句目の「露霜」から三句隔てている。

 十一句目。

   淡気の雪に雑談もせぬ
 明しらむ籠挑灯を吹消して  孤屋

 「籠挑灯」が何なのかは芭蕉の時代にはおそらく自明だったのだろう。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「句意分明ナリ。」とだけある。
 しかし、幕末ともなると、既にわかりにくくなっていたか。ネットで調べても駕籠かきが使う小田原提灯のようなものを駕籠提灯と言ってたり、竹で編んだものに紙を張った看板用の提灯を駕籠提灯と言ってたりする。ただ、幕末明治の註でも概ね駕籠屋の使う小田原提灯系のものということで一致している。『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)のみ、籠に紙を張った元和の頃(江戸時代初期)の提灯としている。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「籠ハ書損ならん。箱の字成るべし。」とあるが、箱提灯も円筒形の小田原提灯系のもの。
 ここではおそらく駕籠かきの使う円筒形の折りたたみ式の提灯、小田原提灯系のものとし、雑談をせぬ者の位を駕籠かきに取り成しての句だと見て良いと思う。こういう物は場所によって呼び方がいろいろあるので混乱するのだろう。
 当時の旅は一日の距離を稼ぐために未明に出発することも多く、しばらく行って夜が白む頃提灯を黙々と吹き消して仕事を続ける。ついつい「いやー寒いっすねー」「マジ痺れるわー」なんて言いたくなるが、そこはお客さんの前、我慢するのがプロだ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「用体の差別といひ句体の虚実に変あり。」とある。打越の「ひだるきハ‥‥」があくまで比喩だったのに対し、提灯を打ち消すとえう実景を付ける。「用体の差別」というのは、「ひだるきハ」の例として、いわば前句が体となり、その用(用例)として「淡気の雪に雑談」が引き合いに出されたのに対し、それを体として付けているという意味か。
 上句下句を合せた時「明しらむ籠挑灯を吹消して淡気の雪に雑談もせぬ」となるが、これは「淡気の雪に雑談もせず、明しらむ籠挑灯を吹消して」の倒置。
 無季。夏冬は一応三句まではつづけられるが、一句で捨てる場合が多い。

 十二句目。

   明しらむ籠挑灯を吹消して
 肩-癖(けんぺき)にはる湯屋の膏薬  利牛

 肩癖は肩凝りのこと。湯屋の膏薬については、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)に「湯屋、床屋等にて昔は薬を売りしこと間々あり。明治初年、猶ほ湯屋にて按摩膏、角力膏の類を売り居りしなり。」とある。ネットでも大体同じような記事がある。
 これも句意は明瞭で、特に駕籠かきに限らず携帯用の提灯を持ち歩く職業の人が、明け白む頃に湯屋で買った膏薬を張って肩こりに鞭打ち、さあ今日も頑張るぞといった所だろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「前底無用なるより奪て二句一章に作れり。」とある。「前底無用」は前句を必ずしも駕籠かきが旅の途中でという風景を引きずらなくても良い、むしろそれを一度忘れよということではないかと思う。「二句一章」は特に付け筋によらず一首の和歌のように構成したということで良いと思う。
 これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句てノ余韻明しらむ迄駕児の物堪し体ト見立、建場に休む間の用を付たり。」とし、「奪て二句一章に作れりト云ハ並物也。」と遅日庵杜哉をディスってる。曲斎はあくまで前句の人物を駕籠かきだとし、その用を付けたのであって、「無用」ではないと主張する。だが、これだと展開が甘くなる。
 無季。

 十三句目。

   肩-癖にはる湯屋の膏薬
 上をきの干葉刻もうハの空   野坡

 「干し葉刻む」で肩に膏薬を張った人物を女性にし、片肌脱いだ熟女の色気に転じている。「うわの空」は肩こりがつらいとも取れるが、誰かのことを思って上の空になっているとも取れる。もちろん恋への展開を予想しての恋呼び出しであろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「肉太なる女の肌ぬぎたる姿ミるがごとし。変化ハ更に自他明か也。」とある。遅日庵杜哉さんは熟女好き。
 これに対し、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「賤の女の四十もこえたるが、肩より胸のあたりまで、きたなく張りちらしたるさまと思ひよせたり。其痛みに堪えかねし余情をうはの空とあしらひたる也。」と言う。幻窓湖中はひょっとして蕪村派(ロリ)?
 無季。

 十四句目。

   上をきの干葉刻もうハの空
 馬に出ぬ日は内で恋する    芭蕉

 恋呼び出しとあっては、それに答えないのは野暮というもの。肩凝りは前句の話で、ここではそれを忘れ、棚の上に置いた乾燥させた野菜を切っている多分若い女性に取り成されている。相手は街道で馬を引く馬士(ばし)か何かだろう。仕事のない日は家で睦み合うのだが、それを思うと干し菜を刻む手もうわの空になる。
 位付けの見本の一つとして、『去来抄』はこの句を引いている。

  「上置の干菜刻もうはの空
 馬に出ぬ日はうちで恋する
此前句は人の妻にもあらず、武家町屋の下女にもあらず、宿や問(とひ)や等の下女也なり。」

 ここでは干葉が干菜になっているが意味は同じだろう。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には『去来抄』に関して、「宿屋問屋の下女ト云ハ、食品をしらぬ故也。」と言っているが、幕末と元禄では宿屋の食事事情もかなり違っていることだろう。
 また同書は各務支考の『続五論』を引いてこう記している。「賤しき馬士の恋といへども、上置の干菜に手をとどむといへバ、針をとどめて語るといへる宮女の有様にも、心ハなどか劣らむ。如此ハ恋の本情を見て、恋の風雅を付たりト賛じたり。」とある。この言葉は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)でも引用されている。
 これは賤しき馬士が干し菜を手にとどむということなのか。そうではないだろう。宮女の有様に例えられるのだから、宿屋の娘が干し菜を手にとどむと見るべきだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、傍輩なる男の脚ふミそらして、挑み居る風情ならん。」とある。また、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、「暁台曰く、傍輩なる男の風情と見るべしと。下品なる男女の挑みあひたるさま見えていとをかし。」とある。「挑む」は古語辞典だと「恋の誘いかけ」とあり、宮女の「語る」と同様、それ以上の想像はしないほうが良いのか。源氏物語でも時折「語る」という言葉が出てくる。
 無季。「恋」は恋。「馬」はここでは姿として登場しないので獣類といえるのかどうかは微妙。

2016年11月22日火曜日

 さて、初の懐紙も裏に入り、次が七句目。

   割木の安き国の露霜
 網の者近づき舟に声かけて    利牛

 これはわかりにくい。古註にヒントを得ながら読み解くとしよう。
 まず、露霜を捨てて「割木の安き」を割木舟(薪舟)のこととみなして「近づき舟」とし、海に網を張っている漁師がそれに声をかける。
 露霜を捨てているのは、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)が「此句露霜ト云ヲ付もらしけり。」と指摘している通りで、上句下句合せて読んだとき露霜は特に意味を持っていない。
 「割木の安き」から割木舟を導き出していることは、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「即割木ぶねなり。」とし、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)なども同様の指摘をしている。割木舟は瀬戸内海など松の多い地方で薪を積んで売り歩く船のこと。
 「近づき舟」が近づいてくる舟のことで、網の物の方から舟に近づくのではないことは、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「近づき舟とつづけて読むべし。」とあり、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)にも「沖の通船の近づき船」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「向より走来る舟」とある。
 ただ、何のために漁師が声をかけたかとなると、是もほぼ皆共通して網があるから入らぬように声をかけているという点で一致している。
 ただ、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)のみ、「割木を積し舟人と漁師は、平生心易き近付にと、海原迄と声をかけ船よばひして、語り合うさま也。」としている。
 この句は概ねの解釈に従い、割木の安い国から来た割木舟が近づいてきたので、地元の漁師が網に触らぬように声をかける、としておこう。「露霜」というのは「ちょっとした事件」くらいの意味にとっておくのが良いのかもしれない。
 なお、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「天地を一壺にちぢむるの術ありといハん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「大山を罌粟(けし)の一粒にちぢむる術ありといはん」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「大ナル者ヲ小サナル物ヲチヂムル変化也。」とある。同じことを言っていると思われる。スケールの大きな句という意味か。
 無季。秋が三句続いた後無季に転ずる。「網の者」は人倫、水辺。「舟」も水辺。

 八句目。

   網の者近づき舟に声かけて
 星さへ見えず二十八日     孤屋

 これはわかりやすい。近づき舟が何であれ、星も見えない二十八日の夜だから網の者がこっちに網があるよ、と声をかけている。場面を夜に転じている。
 『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は『土佐日記』の正月二十八日の条を踏まえているのではないかと指摘している。本説というほどのものではなく「俤(おもかげ)」といったところか。
 無季。「星」は天象(光物)。四句目の「月」から三句隔てている。

 九句目。

   星さへ見えず二十八日
 ひだるきハ殊軍(ことにいくさ)の大事也 芭蕉

 「ひだるき」は空腹のこと。腹が減っては戦はできぬというのは確かに大事なことだ。
 「也」留めは和歌の体ということで、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「二句一意」とある。
 『俳諧古集之弁』、『俳諧七部集弁解』、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「曽我兄弟の御狩場へ出たつもよう」とある。また、本願寺合戦だという説もある。元ネタをちょっとだけ変えて用いる本説と違い、俤はあくまで何となくそんな雰囲気がする程度のもの。前句の船旅から夜討ちへの転換なので、読者がそれぞれいろいろな夜討ちの場面を思い浮かべるのは、計算済みであろう。
 俳諧は平和主義を本意とするもので、基本的には武勇を賛美したりするものではない。この句も、みんな腹が減っているのに星さえも見えない夜に出陣とは、もののふとは気の毒なものだという情で読んだ方が良いだろう。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)の「暗のまぎれニ、夜討の大将より軍令する腰兵糧の用意ならん。」はその辺がわかってない。明治の軍国主義の解釈か。
 無季。

2016年11月21日月曜日

  「ゑびす講」の巻の五句目。

   片はげ山に月をみるかな
 好物の餅を絶やさぬあきの風   野坡

 「片はげ山」はこの際単なる背景として捨てて、月を見る人のイメージから次の句へ展開する。これを位付けという。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)には、「桑門隠者のもやうなど見定、それが有べき一事をのべたり。即換骨の意にして、打越の論なし。季節に無用の用あり。」とある。例によって『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)はほとんど同じ。
 桑門は出家僧で、山に篭って修行している僧の位で付けている。登場人物を番匠から出家僧に変えることで片はげ山の月を見る風景は換骨奪胎され、打越の趣向を離れ、輪廻を免れる。
 「季節に無用の用」というのは、いわゆる「放り込み」と呼ばれる、式目上季語が必要なため特に必然性もなく季語を放り込むことを言っているのだろう。「無用の用」は役に立たないことが役に立つこともあるという『荘子』の言葉。体に障害があるから戦争に取られなくてすむだとか、無能で使えないから権力闘争に巻き込まれないだとか、そういうことを言う。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は、前半はほぼ一緒だが「無用の用」に関しては「秋風トハ季節ノ用フカラ無用ノ用と言モノ也。秋ノ風サビシサヲ含ム。是則用也。」と反論している。秋風の淋しさに桑門隠者の風情があるから放り込みではないとのこと。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は、「淳撲なる人の隠宅しておもしろくも、おかしくもなく明し居て外出もせず、唯好物の食類などたしなみ置さまを見せたり。<響>」と月見る人の位に踏み込んだ解釈をしている。概ね間違いないと思うが「響」ではなく「位」だと思う。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「劉伯倫が友ならで餅徳頌作る雅人ならむ。」と言っているが、ちょっと漢籍に詳しいことをひけらかしたかったか。劉伯倫の「酒徳頌」はかつては有名だったか。芭蕉の談林時代の『次韻』の「鷺の足」の巻の発句の前書きにも引用されている。ただ、そういう出典関係を知らなくても普通に楽しめるというのが「軽み」のコンセプトなので蛇足。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も『徒然草』の真乗院盛親僧都の三百貫の芋頭のことを引き合いに出しているが、近代のようなもはや桑門隠者そのものが過去のものになって、どういう人たちなのかイメージしにくくなってしまった時代には、こういう解説は役に立つ。『徒然草』の第六十段に出てくる芋頭ばかり食ってるお坊さんだが、ググるとすぐに出てくる有名な話なので、ここでは割愛。
 秋風の頃は収穫前で、前年収穫した米がそろそろ底を尽く頃。米の値も上がり十団子も小粒になる季節だ。その時期でも餅を絶やさないというのはどんなけ餅が好きかという所なのだろう。
 季題は「あきの風」で秋。「餅」は昔は必ずしも正月のものではなかったので無季。ただし餅搗きは冬になる。

 六句目。

   好物の餅を絶やさぬあきの風
 割木の安き国の露霜   芭蕉

 「割木」は薪のこと。鉈で薪割りするから割木。「安き」は安価ではなくやすやすと手に入るという意味だろう。近くに里山があり、薪がいくらでも手に入るような田舎ということか。

秋風に露霜と言葉付けになっている。
 芭蕉があえてこういう言葉付けをするのは、まだ初折の表ということで軽く遣り句で流したかったからだろう。舞台を都から遠く離れた遠国のこととすることで、「好物の餅」はむしろその土地の名物の餅という意味に近いのではないかと思う。赤米か黒米か、あるいは粟稗などの雑穀を混ぜたものか、きっと素朴な味わいの餅があるのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)には、「前句に辺土の風ありと見て、趣向し給ひけん。句作のさびハいふも更に附はたの寛なるをミるべし。季節又妙なり。」とあり、『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「二句の間にかぎりなき世態、まことに解つくすべからず。餅をたやさずくふてゐる人を貧士の驕者と見て、されど割木の安き国にて住よし、とことわりたる也。」とある。「解つくすべからず」というのは単なる遣り句だから特に明確な解もないということなのだと思う。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「コハ翁出羽行脚の事を思出て付られけむ。彼国ハ年中餅料理とて数百品に調して、酒の肴にもせり。」とある。数百品は大袈裟だが、それもあるかもしれない。多分干し餅のことだろう。冬の寒さで天然のフリーズドライとなった餅は保存性が高く秋まで持つ。
 季題は「露霜」で降物。降物というと脇に「時雨」があり、ちょうど三句隔てている。

2016年11月20日日曜日

 今日は足柄峠へ行った。富士山がよく見えた。道了尊へも行った。紅葉が綺麗だった。
 それでは 「ゑびす講」の巻、四句目。

   番匠が樫の小節を引かねて
 片はげ山に月をみるかな    利牛

 第三が原因の「て」で付けたため、四句目も軽く流すようにさくっとつけようとすれば、第三が原因で四句目が結果になるという句になり、そのため脇句の趣向から思いっきり離さなくてはならないという苦しさがある。
 「片はげ山」はおそらく材木を取るために半分伐採した山のことなのだろう。番匠は本来建築だけでなく材木の伐採などに携わる者も含む建築一般に従事する人のことだった。ここでは大工の下働きという江戸時代的な番匠ではなく、律令時代の山から木を切り出していた番匠に取り成しているのであろう。樫の木を半分伐採した所で片禿になった山に月を見ている。
 古代のことなので句もやや古めかしく「かな」で留めている。和歌や発句では珍しくないが、連歌俳諧のつけ句としては珍しい。
 元禄三年の「灰汁桶の」の巻の、

   堤より田の青やぎていさぎよき
 加茂のやしろは能き社なり   芭蕉

の「なり」留めもそうだが、古い時代の素朴な感じを出そうという演出なのだろう。「かな」留め「なり」留めは和歌の体で、付け句の体ではない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)に「古今抄に、番匠といふ詞の古雅なる万葉体の歌と聞なして、見るかなとハいへりけるとぞ。しかれバ論なふ二句一体にして、親疎に与奪の意あり。」とある。
 二句一体というのは付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。「親疎に与奪」というのは、親句にすることで前句に生命を吹き込んでいる、といったような意味か。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)もほぼ同じ。ここでもコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)にも、「片はげ山 前の番匠の句を上の句として、歌のやうに付なしたる也。」とある。
 季題は「月」で秋。連歌では「光物」というが江戸時代の俳諧では「天象」と呼ばれていた。「片はげ山」は山類。
 月の定座を一句引き上げているが、蕉門の俳諧ではよくあることで、七七の短句で月や花を詠むことも蕉門では嫌っていない。そもそも定座というのは連歌の式目には無く、あくまで慣習にすぎないのだから、厳密に守る必要はない。

2016年11月19日土曜日

 さて、それでは「ゑびす講」の巻の第三を見てみよう。

   降てハやすミ時雨する軒
 番匠が樫の小節を引かねて    孤屋

 「番匠(ばんじょう)」は建築現場で大工の下働きをする人。樫の木を鋸で引いていると、小さな節があって堅くて切れないで困っているという情景だろう。うまく切れなくて四苦八苦しているうちに時雨になって、仕事の手を休める。「軒」はここでは今建てている建築物の軒ということになる。
 前句の「やすミ」を雨宿りのことではなく、仕事の手を休めることに取り成して付けている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)に「やすむの語に出て体用の変あり。」というのはそのことを言うのであろう。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は同一の文章でコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「休ムト言語ヨリ体用ヲワカテリ。」とある。
 軒での「休み」は雨宿りの「休み」なので名詞であって体言、引きかねて「休み」は休むという動詞の活用形なので用言となる。なるほと、古人は文法的な違いをよく観察している。
 これに対して、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は前句の「やすミ」を雨宿りではなく時雨が降っては休むとし、時雨で湿った木を番匠が引きかねてと解する。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)は「時雨ノ雨ヲイトヒテ、ハヤクシマハントスルニ、樫ノ節引割カネテ。」とする。
 この二つの解釈は一応理由がある。
 連歌も俳諧も第三は「て」で留めることが多い。これは「て」が原因にも結果にも使える便利な言葉だからだ。
 たとえば、

 急に雨降り俺はびしょ濡れ

という句にその原因を「て留め」で付ける。

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 油断して傘を持たずに家を出て

 これだと、

 油断して傘を持たずに家を出て急に雨降り俺はびしょ濡れ

とスムーズにつながる。
 結果を「て留め」で付けると、

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 脱いだ服ストーブの上で乾かして

となる。これだと、

 脱いだ服ストーブの上で乾かして急に雨降り俺はびしょ濡れ

となる。やや違和感はあるものの、上句の「て」で一度間を置き、一首全体が上句と下句で倒置になっていると思えば意味は通る。
 連歌俳諧ではこうした「て留め」で結果を付けることが多い。それは次の句を付ける人が結果を原因としてさくっと次に展開できるからだ。たとえば、

   脱いだ服ストーブの上で乾かして
 布団の上で猫もくつろぐ

のように。
 「番匠が」の句を脇句の原因ではなく結果だと解釈すれば、時雨が降ったので鋸を引きかねたというふうにも読めてしまう。ただ、節で引きかねているのに更に時雨で引きかねているとするのは屋上屋を重ねるようでくどい。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は前句の時雨の降りては休みを鋸の屑のはらはらと落ちては節に引っかかって休みという比喩としている。これを「響き付け」としているが、明治三十年ともなれば蕉門の響き付けが正しく認識されていたかどうかは怪しい。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「時雨する櫨に番匠の鋸挽、樅の小節の厭はしきに渋り働きするさま、ただ是市井の有るところの情景なり。」と単に前句の景色から連想される景色を付けたとする。現代連句の付け方は大体こんなもの。俳諧に非ず。
 冬は三句まで続けることができるが、三句まで続けることは稀で、たいていは一句か二句で終わる。ここでも発句脇と二句で終わり、第三は無季になる。月の定座があるので秋に転じやすくしている。
 「番匠」は人倫。人倫と人倫は打越を嫌うが、発句の「振売」は行為を表すもので人倫ではないのでセーフ。「樫」はこの場合材木なので植物ではない。

2016年11月18日金曜日

 「ゑびす講」の巻、昨日の続き。
 「振売の」の句は倒置になっているので、それを元に戻すと「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也」となる。恵比寿講から「あはれ」を言い興す。
 連句の場合、去り嫌いなどの式目上のルールがあるため、分類される句材がある。「振売の」の句の季題は「恵比寿講」で冬。冬は一句から三句まで続けることができる。
 「振売」は「振売をする人」という意味では人倫になるが、ここでは「振売」という行為によって売られている雁なので、人倫にはならないと思われる。この辺は杓子定規に、ある言葉が使われていれば自動的に振り分けられるのではなく、実質的な意味で判断した方がいい。談林の頃は季題も句材も形式的扱われていたこともあったが、連歌や蕉門の俳諧では実質的に判断した方がいい。
 「雁」も同様、ここでは肉であって生きてないので生類にはならない。故に「鳥類」ではない。

 さて、それでは次の句、「脇」を見てみよう。

   振売の雁あはれ也ゑびす講
 降てハやすミ時雨する軒    野坡

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「佇ミ居たる風情ならん。句作に哀調を和せりといふべし。」とある。
 「降りては休み」というのは時雨が降ったので雨宿りして休むという意味。時雨が降ったり止んだりというのではない。当時の語感では雨が休むという擬人的な言い回しはほとんどなく、「休む」と言ったらその主語は人だと読んだ方がいい。
 発句が「恵比寿講」から「あはれ」の情を言い興しているので、脇はその情に逆らわず、和すように作る。雁の哀れに時雨の哀れを添える。時雨の雨宿りといえば、

 世にふるもさらに時雨のやどりかな 宗祇

の句が思い浮かぶ。
 倒置を元に戻すと、「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也、時雨する軒で降てはやすみ」となる。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、今だったらコピペのように同一の文章。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ説で宗祇の句についても触れている。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「時雨の折々降休みては又降」と時雨が休むとしている。
 他は発句の解釈が異なるため省略する。
 句材の方は、まず「時雨」が冬の季題で降物(ふりもの)。「軒」は居所になる。俳諧は連歌の式目に準じるとはいえ、かなり簡略化され、特に歌仙などの短い形式で行われることが多いため、連歌では五句去りになるものも三句去りくらいにとどめている場合が多い。降物、居所なども俳諧ではおおむね三句去り。

2016年11月17日木曜日

 俳諧連句の面白さを知るには、やはり一巻を一句一句たどってゆくのが一番だが、なにぶん江戸時代のこととなると生活習慣も今と異なり、当時の人がどんなネタで笑っていたのか知るのは難しく、当時のあるあるも今では意味不明になってたりする。
 そういう時役に立つのが古註で、竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(1995、和泉書院)は有難い。
 今回読んでみようと思ったのは、「ゑびす講」の巻。まずはその発句を見てみよう。

   神無月廿日ふか川にて即興
 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 旧暦の神無月二十日は恵比寿講の日だった。江戸時代の商人の家では恵比寿様を祭り、恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。恵比寿様だけに特に鯛は人気があった。
 日本橋のべったら市は江戸時代後期なので、芭蕉の時代にはなかったと思われる。元禄の頃の恵比寿講はもっぱら各家ごとに行われていたと思われる。
 元禄6年の神無月二十日に芭蕉は、深川の第三次芭蕉庵(第一次は天和の頃八百屋お七の大火で消失、第二次は『奥の細道』旅立ちの時に人に譲る)で野坡、孤屋、利牛を集め、歌仙興行を行っているが、これもささやかな恵比寿講だったのか。
 「即興」というのは、今日即興演奏とか言う意味での即興とは限らない。文字通り興に即しで、「興」というのは言い興すことで、たとえば桃の花の興で嫁ぐ娘のあでやかさを言い起こしたり、鼠の逃げてゆく様から圧制の苦しみを言い起こしたり、本題に入る前にそれを言い起こすための明白なイメージを与えることを言う。
 この場合は折からの世俗での恵比寿講から何かを言い起こす、恵比寿講の興に即すという意味で用いられていると思われる。
 恵比寿講の興に即すというように、芭蕉の発句は「恵比寿講」という冬の季題で始まる。

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 振り売りは天秤かついで売り歩く商人のことで、店舗がなくても、立派な屋台を設置しなくても、商品さえ仕入れてくれば手軽に移動しながら商いができるため、小資本でも始められる。当時は鴨や鴫などと同様、雁も食用として普通に売られていたのであろう。ここでは恵比寿講の御馳走にと売られていたのか。
 「雁」は春の季語だが、それは帰る雁を本意本情とするもので、この場合は無季として扱われる。
 単純に考えれば、恵比寿講のために殺生される雁が可哀相という意味でいいのだと思う。仏者で晩年は菜食主義者だった芭蕉としては自然な発想だったと思う。
 『「炭俵」連句古註集』に列挙されている古註の多くはそう解している。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「畚(ふご)のさかなの類ひにはあらで、秋に迎ひ春に送り詩歌の人にもてはやさるれバ、其姿を見其情を思ふにもなどか感慨のなからざらん。しかるを歌舞遊宴の夷講にかけ合せて、無尽の情を含められり手段常ならず。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「雁鴨など買て恵比寿講するは世のならひなるに、都で雁を売て夷講せうとは、さてもさてもあはれなる事よと観想の句なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も同じような解釈。
 その他の意見としては、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の雁(がん)は元(ぐわん)に通じるから、雁を食うことは元銀を食うことになるので縁起が悪く、商人はそれを嫌う。それを知らない田舎物が雁を売り歩くのが哀れだ、としている。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)では、雁の鮮度が悪くて、よほど売れなくて生活に困っているんだなという哀れとしている。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)では、夷講は鯛を食うもので雁など売っても買う人もいないだろうにと解する。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)もそれと似ていて、「雁の振売、何程の価にもあらざあるべきに、それさへ買手無ければ、しきりに雁や雁やと呼びあるかるるを、蛭子講の賑ひにつけて、雁あはれなりとは興じたるなり。」としている。
 これで見ると、天保までの古い解釈では雁は恵比寿講の時に盛んに食べられていたが、幕末の万延あたりでは食う習慣がなくなっていたのではないかと思われる。これより新しい解釈は、雁など売れもしないのに哀れだという解釈に傾いている。ここは古い解釈に従ったほうがいいと思う。

2016年11月16日水曜日

 昨日の夜のスーパームーンは朧月だったが、今朝のスーパー有明ムーンは澄んでいた。
 有明というと、『炭俵』にこんな句があった。

 在明となれば度々しぐれかな  許六

 関東では時雨ることはほとんどないが、彦根では有明に時雨はお約束なのか。
 同じ『炭俵』の時雨の句。

 黒みけり沖の時雨の行どころ  丈草

 『猿蓑』の時雨あるあるとはまた違った、水墨画の空を墨で暗く塗ったような、遠くから見た沖の時雨の風景を描く絵画的な句だ。
 丈草というと、『続猿蓑』に、

 あら猫のかけ出す軒や冬の月  丈草

の句もある。蕪村の風を先取りするかのような絵画的な句だ。
 『猿蓑』の頃にひととおりあるあるネタが出尽くしてしまったせいだろうか。芭蕉もまた『炭俵』に、

 鞍壺に小坊主乗るや大根引   芭蕉

の句がある。単なるあるあるネタから、ありがちな光景でも視覚的の鮮烈なイメージを狙う方向に発展して行ったのだろう。

2016年11月14日月曜日

 今日はスーパームーンだが、あいにくの雨。何かデジャブ感があるのは、このブログを始めた時に「今日は折りしも十五夜。あいにくの曇り空。」と書いたからか。

 さて、『猿蓑』では、芭蕉の「猿に小蓑を」の句の次には、序文を書いた其角の句が並ぶ。

 あれ聞けと時雨くる夜の鐘の声   其角

 ネットで検索するとトップに出てくるのが山梨県立大学の伊藤洋さんの「芭蕉DB」の

 「時雨の降る夜半、『あの鐘の音を聞いて』と遠くの寺の打ち出す鐘の音を抱き合いながら聞く男女二人。」

という註で、この解釈は19世紀の地歌「影法師」の歌詞、

 あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声
 寒さによする置炬燵
 ついとろとろとうたた寝の
 夢驚きて甲斐なくも
 しょんぼり二人が差し向かひ
 かきたて見ればともし火の
 曇りがちなる心のうち
 鬢のほつれや寝乱れ髪に
 やつれしゃんしたお前の姿
 私がやせたも道理じゃと
 私が泣けばお前も涙
 ほんにこの身はあるやらないやら
 夢幻の浮世じゃな
 なんとお前は思はんす
 返答しゃんせ影法師

の影響ではないかと思う。実際は男女二人ではなく、影法師だったという落ちになる。
 地歌の場合、この鐘の音は夜明けを告げる鐘であろう。
 この地歌が果たして其角の当初の意図に沿ったものかどうかは定かでない。其角に多い心余って言葉足らずの句で、この句に関しては謡曲『三井寺』ではないかという説も古くからあるようだ。
 謡曲『三井寺』では生き別れになった息子を探しに三井寺にやってきた母が、月夜に浮かれて鐘を撞くという「狂」に、何ごとかと駆けつけた修行僧の中に‥‥というわけだが、季節は時雨の季節ではない。
 ただ、時雨の後の月は古歌にも詠まれているし、本説をとる場合には元ネタをそのまんま使用するのではなく多少変えることになっているので、『三井寺』の可能性はある。
 「鐘」というと明け方の鐘か入相の鐘を詠むことが普通で、時の鐘を詠むことはあまりない。それでいくと夜の鐘は特殊で、そこから『三井寺』を連想が働いたのであろう。
 江戸時代の言語感覚だと、無生物を擬人化した表現というのはそれほど多くない。特に俳諧のような節約された言葉で主語が省略されている場合は、一番常識的に考えられる主語を求めた方がいい。となると、「あれ聞け」と言っているのは時雨や鐘ではない。人間と考えた方がいい。地歌説も三井寺説もその点では古い解釈に属する。これに対し、時雨や鐘の発言とするのは近代的な解釈ではないかと思う。
 三井寺説だと、「あれ聞け」と言われて耳を澄ますと、時雨の雲の切れ間から月が現れ、それに浮かれたかのような狂女の撞く鐘の声が聞こえてくる、ということになる。
 この句が単独ではなく、芭蕉の句の隣に並んだ時には、「あれ聞け」が芭蕉の声であるかのように聞こえるというのも、多分この配列の意図ではないかと思う。巻頭の芭蕉の句の、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けというのをふまえて、あれは幻で聞こえてくるのは時雨来る夜の鐘の声だったと和す、脇句のような働きをしている。
 そして『猿蓑』の三句目からは、芭蕉の断腸の叫びの情を断ち切って、普通に時雨あるあるの句が並ぶことになる。

 時雨きや並びかねたる魦(いざさ)ぶね 千那

 ひと時雨来た後だろうか、魦漁の舟が慌てて引き上げてきたせいで、きちんと並んで泊ってない。ありそうなことだ。

 幾人かしぐれかけぬく勢田の橋   丈草

 勢田の橋を幾人か慌ててかけてゆく。あるある。

 鑓持(やりもち)の猶振たつるしぐれ哉 正秀

 大名行列で先頭を切って勇ましく鑓を振りたてる鑓持ちが、冷たい雨の中でもそれでも振り立てているのが、何かミスマッチで可笑しい。これも時雨あるあるといえよう。

 広沢やひとり時雨(しぐる)る沼太郎  史邦

 京都嵯峨野の広沢の池では時雨で人もいなくなり、沼太郎(ヒシクイ)だけがぽつんと時雨に打たれている。これもありそうなことだ。

 舟人にぬかれて乗し時雨かな    尚白

 これは雨にかこつけて、川が増水して渡れなくなるから乗ってった方がいいよと言われて乗ったところ、時雨だからすぐに止んでしまったということか。これもあるあるネタ。
 こういった句はわかりやすく、素直に笑える。芭蕉・其角の句に対し、これが当時の当世風といったところだったのだろう。ただ、こればかりだと飽きてくるから、次は、

   伊賀の境に入て
 なつかしや奈良の隣の一時雨    曾良

 これは旅体の句。芭蕉の句も伊賀山中だったことも思い起こされる。連句で言えば、ここでひとまず遣り句して一休みという所か。
 このように『猿蓑』の句の配列はなかなか芸が細かくて楽しませてくれる。

2016年11月13日日曜日

 今日は千葉市美術館で「浦上玉堂父子」展を見た。そちらの話題はmixiの方で。
 時雨は冬の季題だが、紅葉を染める時雨は秋のものだった。

 龍田河紅葉はながる神なびの
    みむろの山に時雨ふるらし
              文武天皇
 しら露も時雨もいたくもる山は
    下葉のこらずいろづきにけり
              紀貫之

といった歌が『古今集』に見られる。初時雨も前回書いたように、秋に詠まれている。
 連歌の発句でも、秋の季題と重ねて秋の句として詠まれることもあった。

 長月や山どりのおのはつ時雨  智蘊
 露にみよ青葉の山ぞ初しぐれ  宗祇

 冬の時雨も『古今集』では詠まれている。

   貞観の御時、
   万葉集はいつばかり作れるぞと問はせたまひければ、
   よみてたてまつりける
 神な月時雨ふりおけるならの葉の
    名におふ宮のふるごとぞこれ
              文屋有季
   はゝがおもひにてよめる
 神な月しぐれにぬるゝもみぢばは
    ただわび人のたもとなりけり
              凡河内躬恒

 さらに『後撰集』では、

 神無月ふりみふらずみさだめなき
    時雨ぞ冬のはじめなりける
             よみ人知らず
   山に入とてよめる
 神無月時雨ばかりを身にそへて
    しらぬ山路に入ぞかなしき
             増基法師

 時雨の定めなさ、そして旅の僧に冷たく苦しく降りつける時雨の趣向は、『新古今集』の、

 世にふるは苦しきものを槇の屋に
    安くもすぐる初時雨かな
             二条院讃岐
 冬を浅みまだき時雨と思ひしを
    堪へざりけりな老いの涙も
             清原元輔

といった歌に受け継がれてゆく。
 さらに、時雨の晴れ間の月を見出すことによって、より冷えさびた趣向へと高められてゆく。

 月を待つ高嶺の雲は晴れにけり
    心あるべき初時雨かな
             西行法師
 たえだえに里わく月の光かな
    時雨を送る夜半のむら雲
             寂蓮法師

 連歌発句の、

 月は山風ぞしくれににほの海 二条良基

もこの系列にある。
 老いた旅の僧に定めなき時雨の苦しさは、「降る」「経る」「古る」の縁を見出すことで、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

の句に凝縮されてゆくことになる。
 芭蕉にも、「猿に小蓑」の句のほかに、『笈の小文』の旅立ちの句、

 旅人と我名よばれん初しぐれ  芭蕉

の句や、元禄四年の、

 宿借りて名を名乗らする時雨かな 芭蕉

 元禄五年の、

 けふばかり人も年よれ初しぐれ 芭蕉

の句がある。いずれも宗祇の時雨を引き継いでいる。

2016年11月10日木曜日

 昨日は木枯らしが吹き、今日はさらに冷えまさる日だった。それでは、初しぐれの句の続き。

 日本の文化の大きな特徴として考えられるのは、職人文化だということだ。
 今日でも「ものづくり」がしきりに叫ばれ、技術はあってもビジネスモデルがないだとか言われるし、長時間労働体質も職人文化の、一つの技能に生涯命を賭けるべしという古くからのモラルが関係していると思われる。
 それはおそらく日本の国の成り立ちが大陸から渡ってきた職能集団によるもので、職能集団が土着の狩猟民族や農耕民族を統治する所に最初の朝廷が立てられたことに由来するものであろう。
 そのため、職人芸能の人たちは直接天皇に結び付けられ、皇族を祖先とする神話を持ち、天皇の供御人とされてきた。彼らは租税の免除と諸国往来の自由を認められていた。
 中世にあっては彼らは寺社勢力と結びつき、公界を中心とした文化を生み出していった。連歌もその一つであり、能や茶道もこうした場から生まれた。
 芭蕉の『笈の小文』の冒頭の、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」という言葉も、自らをこうした中世の公界の文化の継承者に位置づけるものと見ていい。
 しかし、江戸時代になると、こうした公界を自由に往来していた職人芸能の人たちに定住を命じ、その中の一部は非人弾左衛門(だんざえもん)の支配下に置かれ、士農工商の身分のさらに下に置かれるようになった。そこには歌舞伎役者も含まれていた。
 芭蕉は、

  節季候(せきぞろ)の来れば風雅も師走哉  芭蕉
  節季候を雀のわらふ出立(でた)ち哉    同
  から鮭も空也(くうや)の痩せも寒の内   同
  納豆きる音しばしまて鉢叩(はちたたき)  同
  年々(としどし)や猿に着せたる猿の面   同

といった句を詠んでいるように、節季候(せきぞろ)、鉢叩(はちたた)き、空也念仏(くうやねんぶつ)、猿引(さるひ)きなど、卑賤視された人々に常に目を向けていた。
 芭蕉が一所不住を誓い旅に出るようになったのも、かつての中世の公界の精神に自らを同化させようとしてたからではないかと思われる。
 江戸幕府の政策の中で抑圧されてゆくかつての公界の精神を、芭蕉は蓑笠を失い雨に打たれるがままになったサルの姿に託したのではなかったか。
 芭蕉は延宝八年(一六八〇)に深川に隠棲し、天和二年(一六八二)の春には談林俳諧のリーダーだった西山宗因が死去している。宗因もまた旅に生涯を送る最後の連歌師の一人とも言える人物だった。芭蕉はそんな中で旅への思いを募らせてゆく。
 その天和二年の冬の句、

   手づから雨のわび笠をはりて
 世にふるもさらに宗祇の宿りかな    芭蕉

は、中世連歌の大成者宗祇法師の発句、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな    宗祇

のオマージュだった。
 「ふる」は時雨の「降る」と、歳を取っていくという意味の「世に経る」との掛詞になっている。年老いてゆく苦しみは冷たい時雨の雨に打たれる苦しみと二重写しになり、そんな中で雨宿りにほっと一息つく、人生は苦しくもあればこうした幸せな瞬間もある、そんな句だ。
 『去来抄』には芭蕉の言葉として、「上に宗因なくば、未だに貞門のよだれをぬぐうべし」と記されている。芭蕉は宗因を尊敬してたし、宗因との出会いがなければ蕉門の俳諧も生まれなかったであろう。その宗因の本職は連歌師であり、旅に生きたその姿はいにしえの宗祇法師にも重なるものがあったのではないかと思う。
 天和二年は芭蕉にとっての大きな転機となった年で、各務支考が後に記す所によれば、この年の春に「古池の句」の着想を得ているし、暮れには八百屋お七の大火で芭蕉庵は炎上し、芭蕉自身も隅田川に飛び込んで難を逃れている。
 このあと芭蕉庵再建までの間甲斐で過ごしたのが、最初の旅とも言える。
 そして二年後の貞享元年(一六八四)の秋、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。
 このたびの途中で、先の「笠もなき」の句のほかに、

 この海に草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ 芭蕉
 草枕犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ  芭蕉

の句も詠んでいる。この年は生類哀れみの令の始まった年でもあり、野犬がやがて大きな問題になっていく頃でもあった。
 そして元禄二年の『奥の細道』の旅の途中では、

    洞(ほら)の地蔵にこもる有明
  蔦の葉は猿の泪や染つらん       芭蕉

の句を詠んでいる。古来楓や蔦の葉を赤く染めてゆくのは時雨で、

 小倉山秋の梢の初しぐれ
   今いくかありて色に出でなむ
               藤原為相
 初しぐれ降るほどもなくしもとゆふ
   葛城山は色づきにけり
          仁和寺後入道法親王覚性

などの古歌もある。それをサルの涙が染めるとした所に、この年の冬に詠む「猿も小蓑を」の句の原型ともいえるモチーフを感じさせる。
 芭蕉は中世の公界の文化に憧れ、自らも中世連歌師のように旅をしようと試み、古人の魂に同化しようとした時、そこにあったのは、江戸時代の身分制度の下での蓑笠を失い時雨に打たれるがままの自分の姿だった。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 猿が叫んだのはあの頃の公界の文化を、公界の自由と人としての権利を返してくれ、ということではなかったか。
 猿は江戸時代の儒家神道では猿田彦大神として最高神として祀られている。猿田彦大神は道祖神や青面金剛とも習合し、庚申待ちは江戸時代の庶民に広がり、今日でも至る所に庚申塔を見ることができる。
 初しぐれに叫んだサルは蓑笠を着た聖なる猿の幻想を生み、その姿は芭蕉の終生崇拝していた道祖神の姿でもあり、江戸幕府の精神的支柱でもある儒家神道の猿田彦大神の姿にも重なる。まさにそれが「俳諧の神」だったのではないか。

2016年11月9日水曜日

 海の向こうではトランプ大統領が爆誕したとのこと。それについては鈴呂屋書庫の日記の方に譲るとして、ここでは風流の話をメインに。
 蓑笠が雨具ではなく晴れ着あることは、芭蕉の次の句からも読み取れる。

 たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠  芭蕉
 降らずとも竹植ゑる日は蓑と笠  芭蕉
 年暮れぬ笠着て草鞋はきながら  芭蕉

 「たふとさや」の句は三井寺で卒塔婆小町の絵を見たときの句で、真蹟懐紙が残され、そこには少々長い前書きがある。

   あなたふとあなたふと、笠もたふとし、蓑もたふとし。
   いかなる人が語伝え、いづれの人かうつしとどめて、
   千歳のまぼろし、今爰に現ず。其かたちある時は
   たましゐ又爰にあらむ。みのも貴し、かさもたふとし
 たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠
   応定光阿闍梨之覓

 卒塔婆小町は能の演目の一つでもあり、年老いた小野小町が卒塔婆の上に座って登場する。絵にはおそらく蓑笠を着た小野小町が描かれていたのであろう。蓑笠は落ちぶれた小野小町の卑賤さを現すと同時に聖なる存在であることをも表す。それゆえ「あなたふとあなたふと」となる。
 「降らずとも」の「竹植ゑる日」というのは、旧暦5月13日の竹酔日のことで、この日に竹を植えると枯れないと言われていた。それゆえ「竹植ゑる日」は夏の季語となるわけだが、『去来抄』によれば芭蕉が見つけた季語で、「季節の一ツもさがし出だしたらんは後世によき賜也なり」という芭蕉の言葉を紹介している。この句も蓑笠が雨具ではなく晴れ着であることを示している。
 「年暮れぬ」の句は『野ざらし紀行』の旅の句で、自らの旅姿を詠んだ物。旅もまた非日常であり「ハレ」といえよう。
 蓑笠は世間一般の日常的な世界からの逸脱であり、それはドロップアウトでもあると同時に世俗のしがらみからの自由を得ることでもある。そこから卑賤は自由、何者にも囚われない聖なるものをも意味する。
 網野善彦によれば、農民が一揆を起こすときも蓑笠を着たという。
 こうした賎と聖との両義性は、わらわ髪、頭巾、柿帷子、乞食袋(大黒様の持っているような)、赤という色彩にも見られる。それらは両義的な意味で「お目出度い」というわけだ。
 これに対して、蓑笠の喪失を訴える句も存在する。

 笠もなき我をしぐるるかこは何と  芭蕉

 これも『野ざらし紀行』の旅の途中で詠んだ句だが、『野ざらし紀行』には登場しない。
 笠もなく冷たい雨にずぶぬれになっている姿は以下にも惨めだ。この感覚は近代に入っても受け継がれている。「雨の中傘をささずに」といったフレーズは演歌などでもありがちなフレーズだし、井上陽水の『傘がない』という歌もあった。

 笠島はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

 これは『奥の細道』のなかで、藤中将実方の塚のある笠島を探した時の句だ。笠島という地名に掛けて、五月雨にぬかるんだ道を笠を探して歩くイメージが重ねあわされている。
 「猿も小蓑をほしげ也」というフレーズも、雨の中で笠もなく濡れるがままになっている姿を描き出しているという点では、この二つの句の延長線上にある。
 蓑笠は日常的世俗的な世界を追放される時の、家はなくても雨露をしのぐことを許す、いわば人間としての最低限の権利でもあり、自由の証でもあった。それがないということは、日本人にとってはもはや人間であることを否定されてるような惨めさを感じさせる。西洋人にはそういう感覚はないようだ。雨の多い風土が生んだ感覚だろう。
 謡曲『蝉丸』では、皇子でありながら目が不自由だという理由で逢坂山に捨てられる蝉丸の宮を描いている。その時臣下の藤原清貫は蝉丸に蓑笠杖のセットを与えている。

 清貫:この御有様にては、なかなか盗人の恐れもあるべければ、御衣を賜はって、蓑といふものを参らせ上げ候。
 蝉丸:これは雨にきる田蓑の島と詠み置きたる、蓑といふものか。
 清貫:また雨露の御為なれば、同じく笠を参らする。
 蝉丸:これは御侍御笠と申せと詠み置きつる、笠といふものよのう。
 清貫:又この杖は御身地しるべ、御手にもたせ給ふべし。
 蝉丸:げにこれをつくからに、千年の坂も越えなんとかの遍照が詠みし杖か。

 蝉丸は事実はともかくとして、琵琶法師の祖先とも言われている。実際、中世の芸能や職人の集団には、たいてい皇室を祖先とし、それを自らの技術の独占の理由とする伝承を持っていることが多く、このときの蓑笠杖のセットも、天皇の供御人としての身分を保証するものだったのであろう。
 蓑笠は中世の「公界」と深く結びついたものだったと思われる。(続く)

2016年11月8日火曜日

 今は雨が降っている。これは寒冷前線の通過で、この雨が止むと西高東低の冬型になり、多分木枯らしが吹くのだろう。
 東京生まれで横浜育ちの私としては、冬というと大体晴れた日が続き空気が乾燥していて、雨と言えば時折その冬型の気圧配置が崩れた時くらいだった。だから、長いこと「時雨」というのが何のことかわからなかった。
 若い頃鹿児島で6年過ごした時、冬になると天気がいいのに夕方と朝方に決まって雲が出てきて一雨降るのが不思議だった。後になって古典を読むようになって、ああこれが時雨だったんだと思った。
 時雨は日本海や東シナ海のような日本列島の大陸側の海が暖められて発生した雲によるものらしく、日本海の遠い横浜では縁がなかったのだろう。
 時雨の句と言えばやはり一番有名なのはこれだろうか。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 これは伊賀山中での句で、琵琶湖の北にそれほど高い山がないせいか、日本海で発生した時雨の雲は滋賀、京都そして伊賀の方にもやってくるのだろう。
 芭蕉のこの句はかつては古池の句と並ぶ芭蕉の代表作で、この句ができたことを記念して去来と凡兆を中心に蕉門の総力を上げて作ったのが撰集『猿蓑』だった。『猿蓑』は軽みの風に至る前の蕉風確立期の蕉門の集大成と言っても良く、俳諧史上の一つの頂点とも言える。
 『猿蓑』の序文は其角が書いている。

 「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起(おこす)べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。」(『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫p.173~174)

 俳諧の集を作るのは、昔も今も一緒でこの道を広く世に知らしめる必要のできた時で、俳諧は見えないものを見せるという幻術であり、句に魂が入ってなければそれは単なる幻にすぎない。(要するに、句自体が人々の脳内に作り出す世界は虚構にすぎなくても、そこには見えない真実が表現されてなければならない。)
 長く人々に愛され、流行して止まぬものの中にも変わらないものがあることを人々に知らしむる。儒教で言う五常の徳(仁・義・礼・智・信)はもとより、『中庸』に「苟不至德、至道不凝焉。(苟し至德ならざれば、至道凝らず。)」とあるように、心に至徳をもたらすための修行でもある。
 『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」では、西行法師が人から聞いた「鬼が人の骨を集めて人を作ったことがある」という話を信じて、実際原っぱで人の骨を並べて骨格を復元し、それに亜ヒ酸を塗ってイチゴとハコベの葉を揉み合わせて、藤もしくは糸などでその骨格を吊るして水で何度も洗い、髪の毛の生える辺りにはサイカチの葉とムクゲの葉を灰にして付け、土の上に畳を敷いてその骨格を置き、空気に触れぬようにして二十七日間置いた後、沈水香木を薫いて、反魂(はんごん)の秘術を施したものの、出来た物は人の姿に似てはいるけど色も悪く心を持たず、声はあっても管弦の音のようで吹き損じた笛のようにしかならなかったという。反魂の術が完全でなかったからだ。
 それと同じように、俳諧も魂がこもればアイウエオの響きも整い、様々な名吟が生まれる。
 芭蕉翁はただ俳諧に魂を入れなければと思い、『奥の細道』の行脚を終えて、伊勢から故郷の伊賀へ向かう時、伊賀越えの山中で猿に小蓑を着せて俳諧の神を入れた所たちまち断腸の思いを叫ぶこととなった。まさに身の毛のよだつほど恐ろしい幻術だ。
 これを元にこの集を作り、「猿蓑」と名付けることとなった。この序文もこの趣旨に応じて共鳴し、撰者の去来と凡兆に求められるがままに書くこととなった。

 この句は、今日なら単に冬の冷たいにわか雨に打たれたサルの姿が可哀相で、雨具を欲しがっているように見えた、ぐらいの解釈になりがちだ。そこに、サルだから蓑ではなく「小蓑」といった所が洒落てるだとか、動物への愛情が感じられるといった評が加わったりする。
 そこには「猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」という其角の感動はどこにもない。まして、そのために門人一同集まって撰集を作ろうとしたあれがなんだったのか、残念ながら伝わってこない。
 まず、其角が「猿に小蓑を着せて」と言っていることに注意しておこう。
 句はあくまで「ほしげ也」と言っているだけで、小蓑がもらえたとは書いてない。そこから、近代的で合理的な感性は、これはあくまで雨に打たれたサルを描いたもので、「ほしげ也」は作者の主観にすぎない、ということになる。だが、当時の人はむしろ、書かれてないにもかかわらず蓑笠を着たサルの姿が浮かんでしまったという、そこに感動したのではないかと思う。
 マイナーイメージだとか、言わずして言うとかいうと何てこともないが、見えないものを見せるというのが幻術の基本だ。
 そしてそれが単なる「ゆめにゆめみる」ような意味のない妄想ではなく、何か大事なことをい意味していたということが重要なのではないかと思う。それが何だったか、確かに今日のわれわれの感覚では再現することは難しい。だが、それを再現するということが、この句を本当の意味で「読む」ということではないかと思う。
 「蓑笠」の持つ意味については、歴史学者の網野善彦の指摘によれば、中世から江戸時代にかけて蓑笠から真っ先に連想されたのは「非人」だったという。今日であれば、お百姓さんを想像するかもしれないが、蓑笠は決して農民の普段着ではなく、田植えの時に着る一首の晴れ着だったという。
 猿に小蓑を着せるというのは、サルを卑賤なものであるとともに聖なるものでもあるという二重性を持たせていた可能性がある。詳しくは次回に。

2016年11月7日月曜日

 ネットを探してたら、其角自撰句集『五元集』に、

   旅思 二句
 みゝつくの独笑ひや秋の昏     其角
 みゝつくの頭巾は人にぬはせけり  同

とあった。一つは前回紹介したが、もう一句も同じように自分の旅姿を詠んだものと思われる。
 もう一つ、『五元集』の春の所に、

 梟にあはぬ目鏡や朧月     其角

の句があった。例によって企画の句はわかりにくい。ここでも自分を梟に例えているのだろうか、あるいは梟と同化しているのか。夜目の利く梟でも眼鏡が合わなければ月も朧に見える。つまり、「眼鏡をかけているように見える梟もその眼鏡が合ってないのか、月が朧に見える」と言うような意味なのだろう。
 近代俳句だが、

 ふくろうの声ふところの孤独かな  窓秋

の句は何か惹かれるものがある。窓秋の句は近代俳句の中では前衛として扱われているが、案外ポップでわかりやすい句が多い。写生句か象徴詩かという近代俳句の枠組みに収まらないため、前衛として扱われているのだろう。
 「ふくろう」と「ふところ」が何となく韻を踏んでいるのか踏んでないのかの微妙なつながりで、それに「こどく」と畳み掛ける言葉遊びが面白いし、情景としても梟の声を聞くようなところではきっと山奥で一人っきりなのだろう。梟の声にはっと我に帰り、孤独はいつでも自分の懐にあることを自覚する、という意味か。

2016年11月6日日曜日

 湯山三吟を鈴呂屋書庫の方にアップしたのでよろしく。他にも水無瀬三吟、文和千句第一百韻もあるし、蕉門の俳諧もあるからそっちもよろしくね。
 連歌の面白さは新しい句が付くとそこにまったく違う世界が開けることで、百韻百句、千変万化して一つとして同じ世界はない。
 だから連歌を読むときには斜めに読み飛ばすのではなく、一句一句立ち止まって、そのつど変化を楽しむ方がいい。
 近代の連句だと、歌仙を三十六行からなる一つの詩みたいに捉え、イメージのシーケンスを味わうということもあるらしいが、連歌や俳諧にはそういう考え方はない。
 よく、連歌、俳諧、連句何が違うのかというと、まったく同じで区別は不要と言う人がいるが、それは例えて言えばジャズもロックもクラッシックもみんな同じ音楽だから同じように楽しめばいいというようなものだ。
 だが、理想はいいが、実際にクラッシックのコンサートに行ってロックコンサートの乗りでイェーッなんてやってたらつまみ出されるから、現実にはジャンルの壁というのは確かに存在する。
 私の書いた連歌や俳諧の解説を読んで興味を持ったからといって、そのつもりで近代連句の会に行ったりすると顰蹙を買うこともあるので注意が必要だろう。私自身、連句のサイトではひどい目にあっている。文学に関してはとかく糞真面目で、笑いとなると親父ギャグレベルの人が多いので注意を要する。やはり連歌・俳諧と近代連句は別物だと考えた方がいい。

 それはともかくとして、文化の日に掛川花鳥園に行ってたくさんフクロウを見てきたので、今日はフクロウ・ミミズクの発句を拾ってみた。

 梟のこゑ拾ひ出す落葉哉   東月

 『奥の細道』の須賀川の所に登場する等躬の撰の『伊達衣』の句。東月は山形の人。
 落ち葉の音に耳を済ませているとかすかにフクロウの声が聞こえてくるのを、「拾い出す」と表現するあたりはなかなかだ。

 梟の咳せくやうに冬ごもり  一旨

 伊勢の乙孝(おとたか)撰『一幅半(ひとのはん)』の句。
 梟の咳というのは「ほうほう」ではなく短く「ほっほっ」と鳴く時の声か。その声にせかされるように冬ごもりの季節がやってくる。

 梟の世を昼にして月見かな  希志

 許六撰『正風彦根体(しょうふうひこねぶり)』の句。
 夜行性のフクロウは人間からすると昼夜が逆転しているので、フクロウからすれば月見をしている今が昼のようなものだという句。
 梟は冬の季題だが秋にも詠む。
 続いて、ミミズクの句。

 木兎も寝に来る冬の案山子哉 等麗

 等躬撰『伊達衣』の句。「等」がつくから等躬の身内か。
 鳥除けのための案山子も稲刈りが終わってしまった後は冬休みか。ミミズクも安心して寝ている。

 木兎の寝よふとすれば時雨哉 乙由

 伊勢の凉菟の撰『皮籠摺』の句。
 ミミズクの声がしてそろそろ寝る頃かと思えば時雨が降ってくる。

 木兎やおもひ切たる昼の面  井境

 これは『猿蓑』の句。井境は尾張の人。
 昼のミミズクは目を細め体を丸くして眠っていることが多く、それが恋の思いを吹っ切って悟りきったような顔をしているように見えるということか。

 みみづくは眠る処をさされけり 牛残

 これも『猿蓑』の句。牛残は伊賀の人。
 ミミズクの昼間眠っている所を見つけると指を指して「あれ、あそこっ」とか言いたくなるということか。

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮   其角

 其角撰『いつを昔』の句。
 これはミミズクを詠んだのではなく、自分自身の蓑笠来た旅姿をミミズクに見立てた句。ただ、昼間のくつろいだミミズクの顔が笑っているようにも見えるところから、そのイメージを自分に重ねたのだろう。
 ふくろう同様、ミミズクも冬だけでなく秋にも詠む。
 フクロウ・ミミズクの句の数はそう多くなかったようだ。芭蕉にフクロウ・ミミズクの句がないのは残念だ。

2016年11月5日土曜日

 さて、湯山三吟も残す所あと三句。
 まず九十八句目から。

   心をもそめにし物を桑門
 いでばかりなるやどりともなし 宗長

 この句もさらっと心(意味)で付けている。
 「心をもそめにし」の心に執着するものを長年住み慣れた家のこととし、この世は皆仮の宿に過ぎないのだと思ってはみても、とてもそんな気にはなれないとする。出家するとはいえ、住み慣れた家をあとにするのは心残りだ。
 次ぎ、九十九句目。

   いでばかりなるやどりともなし
 露のまをうき古郷とおもふなよ    宗祇

 これは「咎めてには」という付け方で、前句がその前の句、つまり打越の心を受けて素直に付いているときに、それを否定する句をつなげることで展開を図ることができる。決して前句の作者を咎めているのではない。あくまでゲームとしての咎めにすぎない。
  水無瀬三吟には咎めてにはの句が三句ある。

   慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き
 今さらに一人ある身を思うなよ 肖柏

   老の行方よ何にかからむ
 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏

   身のうきやども名残こそあれ
 たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏

といずれも肖柏の句だが、その前句は、

   山深き里や嵐におくるらん
 慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き 宗祇

   見しはみな故郷人の跡もなし
 老いの行方よ何にかからむ  宗祇

   草木さへふるきみやこの恨みにて
 身のうきやども名残こそあれ 宗長

といずれも前句に逆らわずに素直に心で付けている。こういう句の後に咎めてにはは一つのパターンなのだろう。
 「露」が出て、季節は秋に転じる。次は挙句ということでこれは月呼び出しでもある。
 そしてその挙句。

   露のまをうき古郷とおもふなよ
 一むら雨に月ぞいさよふ    肖柏

 近世になると花の定座が挙句の手前と定まり、判で押したように最後は春で締めくくることになる。月で締めくくるというのは中世連歌ならではの面白さでもある。
 生きていくというのは様々な人間との軋轢の中で苦しいことも多い。だが、それもにわか雨のようなもので、涙の後には月も出るというところか。
 そういうわけで、苦しくても頑張って生きてゆきましょう。いつかきっといいことあるよ。そう思いながらね。
 人生でやり残したことが、これで一つ減った。

2016年11月1日火曜日

 今日は午前中雨が振り午後からは晴れた。
 夕暮れの空は大気が安定しているのか、地平線付近は赤みは少なくやや緑がかかり、その上の色をなくした空に爪で引っ掻いたような細い三日月が見えていた。今日は旧暦だと神無月の三日。もう冬だ。
 さて、それでは湯山三吟の続きで、今日は九十五句目から。

   誰よぶこどり鳴きて過ぐらん
 おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁   宗長

 「らん」は前句では疑問の意味だったが、お約束通りここでは反語となる。呼子鳥が鳴いて通り過ぎたかと思ったがそうではない、帰ろうと飛び去った天津雁の飛行ルートが霞んでいたためにその姿が見えなかったからそう思っただけだった、という意味になる。
 九十六句目。

   おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁
  さこそは花を跡の山ごえ    宗祇

 「思い立つ」を「思い断つ」に取り成し、花の咲く山を跡にして越え去ってゆく旅人の心情の句とする。「思い断つ雲路も霞むぞ、天津雁、さこそは花を跡の山ごえ」の倒置となる。相変わらず高度な「てには」の使い方で付けてくれる。
 惜しむ気持ちを振り切ろうとすると雲路も霞む、天津雁よ、お前こそは花を跡にして山を越えて行く、という意味になる。
 九十七句目。

   さこそは花を跡の山ごえ
 心をもそめにし物を桑門     肖柏

 この付け句はわかりやすい。
 前句の「花を跡の山ごえ」をいろいろな世俗への執着を断ち切って世捨て人になることの例えと取り成す。
 心にいろいろ執着するものがあっただろうに世捨て人、それこそは花を跡にしての山越えだ、という意味になる。

2016年10月31日月曜日

 世間はハロウィンで盛り上がっているのかな。現代俳句では一応ハロウィンもカボチャも秋の季語になるようだ。
 神無月は本来旧暦の十月だったが、今はこの季節に新暦の七五三が重なってしまっている。七五三に神社へ行っても神様がいないんじゃ困るから、神様も今では新暦で行動しているのだろうか。その辺はよくわからない。
 昔は神無月の留守を守る神様として旧暦十月には恵比寿様を祭るえびす講が盛んだった。ハロウィンは新暦のその場所にうまくはまったのかもしれない。
 恵比寿様は「蛭子」と書くと天照大神や素戔男尊の目立たないお兄ちゃんだが、一方で海の向こうから来た外来神だともいう。それがケルトの神々に取って代わられたか。
 多神教の文化では神様と悪霊との境界は曖昧で、死者の霊もまた同様にとにかく陰陽不測はみな神様とばかりに混然とした形で迎えられた。妖怪やモンスターの類も皆友達というのが、日本の風土に合っている。
 ハロウィンはキリスト教圏の中にあって、数少ないペイガンの祭りとして生き残ったもので、それがアメリカで盛んになったのは、やはりお菓子会社の陰謀か。
 それが日本の多神教の中に戻っきたもんだから、子どもたちのお菓子の祭り以上に大人の間での仮装パーティーとして盛り上がり、妖怪、モンスター、亜人から漫画やゲームの様々なキャラクターに至るまで何でもありの世界になった。

2016年10月30日日曜日

 今日は湯山三吟の九十四句目。

   わりなしやなこその関の前わたり
 誰よぶこどり鳴きて過ぐらん   肖柏

 名残の裏ということで、ここは恋を離れる逃げ句となる。つまり「前わたり」を恋の情から切り離さなくてはならない。
 そこでさすが肖柏さん。なこその「来るな」に対して呼子鳥が「来よ」と言っているから、どっちに従えばいいのかわからず行ったり来たりしているというロジカルなネタとして展開する。
 なこその関も諸説あったが、今回の「呼子鳥」も難問だ。ネットを検索すると、カッコウのことだという説、「呼ぶ」ということに掛けた、何かを呼んでいるかのように聞こえる鳥一般を指す、特定のとりではないという説、ウグイス説、ホトトギス説、ツツドリ説、猿説などいろいろ出てくる。
 特定の鳥ではないという説は、時代が下って呼子鳥がどの鳥をあらわすのかわからなくなった頃には、実際にそういうふうに用いられていたと思われる。多分肖柏さんもそうだと思う。前句の「なこその関」もわからないし「呼子鳥」もわからないけど、中世の和歌や連歌では「な来そ」「呼ぶ」に掛けて習慣的に用いられていたに違いない。だから肖柏のこの句に関しては、それでいいのだろう。
 ただ、それでは何かすっきりしないのは確かだ。
 呼子鳥に関しては曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草(上)』(2000、岩波文庫)には、

 「此鳥のこと、古今集三鳥の一などいひて、諸書に説々あり。或は猿の事といひ、或は山鳥也といひ、又は山鶫つぐみ、又は鶯、郭公、などさまざまの鳥にあてていへど、みなたしかならず。」(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』曲亭馬琴編、2000、岩波文庫p.109)

とあり、『年浪草』の説として、ツツドリを挙げている。ツツドリはカッコウやホトトギスの仲間でカッコウよりは小さいが、同じく夏鳥で托卵する。全身灰色の鳥で、筒を叩いたような「ココッ、ココッ」という声で鳴く。ツツドリの声はyoutubeでも聞ける。今日見たのでは「フォ フォー」という字幕が出てたが、「ポ」とも「コ」とも聞こえる声なので、これが一番それらしい。
 『増補 俳諧歳時記栞草(上)』はまた、賀茂真淵の説も紹介している。

 「真淵翁曰、よぶこ鳥は春の暮より夏にかけて啼鳥也。此声は、人を呼がごとくきこゆるによりて呼子鳥と云。鳩に似て羽も背も灰色ににて、腹はすずみ鷹のごとく、足は鳩より少し高し。また曰、かほ鳥と云いふもこの鳥也。今俗のかんこ鳥と云もの也。喚子鳥の字音よりとなへ誤れる也。」(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』曲亭馬琴編、2000、岩波文庫p.109)

 カッコウ説はこれが元になっているのだろう。
 がだ、カッコウは閑古鳥と呼ばれ、江戸時代でも夏の季題として定着しているのに対し、呼子鳥は春の季題だ。季節はずれのカッコウという説はやや無理がある。ツツドリならカッコウともホトトギスとも別だから、独立して春の季題としてもおかしくない。ツツドリはホトトギスやカッコウの陰に隠れて忘れられた鳥になっていたのではないかと思う。

2016年10月28日金曜日

 さて、今日は湯山三吟の名残の裏の最初の句、つまり九十三句目。

    うときは何かゆかしげもある
 わりなしやなこその関の前わたり    宗祇    

 「や」や「か」は古文の時間に疑問・反語と習うが、連歌の場合は疑問は反語に、反語は疑問に取り成すのが定石とも言える。
 前句が「よそよそしくしている人に何で惹かれたりするんですか(惹かれたりしないでしょう)」という反語だったから、ここは疑問に取り成す。句の意味は、

 どうしたらいいことか、なこその関の前をうろうろしている、よそよそしくしている人に何で惹かれたりするだろうか。

といったところか。
 よそよそしい人になぜか惹かれてしまうというのはよくあることで、寄ってくる人はいつでもモノにできるとばかりキープするだけで、よそよそしい人にほどチャレンジしたがる。それを逆手に取ったのが、いわゆる「ツンデレ」だ。古語だと「つんつん」は「そばそばし」、「でれる」は「なつく」だから、「そばなつ」とでも言うべきか。
 なこその関は一般的には福島県いわき市の南部、茨城県北茨城市との境界近くで観光地にもなっている勿来の関とされているが、これは江戸時代に一般化した説で、実際の所は諸説あってよくわからなという。
 陸奥への古代の駅路は東山道だと白河を通り、東海道の方から行くと今の国道349号線、茨城街道の方から白河の先で合流し中通りを行く。浜通りのほうを北上する古代道路も存在したとされるが、そこにあったのは菊多関で「勿来の関」はその別名だとする説もあるが定かでない。後に菊多関と勿来関が混同された可能性もある。
 陸奥国府のあった宮城県の多賀城の北に勿来川があり、勿来神社があったことから、惣の関が勿来の関ではないかという説も有力になってきている。
 和歌や連歌では勿来の関は、「なこそ」という名前を「な・来(こ)そ」つまり「来るな」という意味と掛けて用いられることが多い。
 平安時代にあって勿来の関を有名にしたのは、『千載和歌集』の、

     陸奥國にまかりける時、
     勿來の關にて花のちりければよめる
 吹く風をなこその関と思へども
   道もせに散る山ざくらかな
              源義家朝臣

の歌で、吹く風を来るなと言って追い返す関なのに道が見えなくなるほどの山桜が散っているというこの歌には、戦には勝っても多くの人が散っていった悲しみが感じられる。
 『山家集』にも「旅の歌とて」という前書きで6首連ねるうちの一つに、

 東路やしのぶの里にやすらひて
   なこその関をこえぞわづらふ
             西行法師

の歌がある。
 信夫の里というと「しのぶもじ摺り」で、芭蕉も信夫の里尋ねて、もじ摺り石がひっくり返ったまま放ったらかしになっているのを嘆いているが、これは中通りの福島市内だ。位置的にもここから浜通りのいわきへ行くよりは、多賀城の方に向かうほうが自然なように思える。
 西行法師がみちのくを旅したのは確かだから、勿来の関の正確な位置を知っていたかもしれないが、都の大宮人の多くはただ噂に聞くだけで、もっぱら「なこそ」の掛詞の面白さが中心となっている。
 この宗祇の句でも、本当のなこその関のことではなく、来るなと言われている思い人のところについつい行ってはうろうろしてしまう様を、あくまで喩えとして「なこその関」と言っているにすぎない。まあ、気持ちはわかるが、今だったらストーカーだ。

2016年10月27日木曜日

 湯山三吟の91句目。

   尾上の松も心みせけり
 たのめ猶ちぎりし人を草の庵   肖柏

 さすがに肖柏さん、恋を振られてもさらっと付けてくれる。
 これも複雑な倒置。「たのめ猶ちぎりし人を草の庵」は「草の庵にちぎりし人を猶たのめ」で、「草の庵にちぎりし人を猶たのめ尾上の松も心みせけり」となる。松は「待つ」との掛詞になる。
 「ちぎる」は約束するという意味もあるが、遠まわしにあの行為の意味でも用いられる。
 「草の庵」だとか「草庵」だとかいうと、何となく隠棲しているお坊さんが浮かんできてしまって、ひょっとしてそっちの道?と思ってしまうが、「草庵」のそういうイメージは多分江戸時代になってからのもので、中世では普通に貧しい掘っ立て小屋のイメージだったのだろう。 そんなところで愛し合って、いつまでも待ち続けているというと、ちょっと万葉時代の恋のようで、王族が気まぐれでやっちゃった村の娘が、いつまでも待ち続けていたことを後で知って感動するなんて物語があったような。
 そして、92句目、名残の表の最後の句。

    たのめ猶ちぎりし人を草の庵
  うときは何かゆかしげもある   宗長

 前句を「たのめ猶ちぎりし人を」で切って「草の庵」に住んで人を避けているような私に何の魅力もないでしょう、と付ける。ここでは隠遁者のイメージになる。

2016年10月26日水曜日

 湯山三吟の続きで、今日は2句。
 まずは、

   衣手うすし日ぐらしのこゑ
 色かはる山の白雲打ちなびき     宗長

 ヒグラシは夏から秋の初めにかけて朝や夕暮れに鳴くもので、竜騎士07の『ひぐらしのなく頃に』は新暦の6月と夏の早い時期の設定になっている。もっとも、この人の作品は『おおかみかくし』で八朔が「八月食べごろ」になっているくらいだから、季節感は割と適当だったりする。
 「色かはる山」は紅葉の季節ということになると晩秋の季語になる。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には「色かはる」はないが、「色不変松(いろかへぬまつ)」が九月のところにある。「色かはる」自体が季語というよりは、意味の上で紅葉のことだから秋ということになるのだろう。
 初秋のヒグラシに晩秋の色変わると、何か季節的に合わない感じがするが、「ヒグラシの声に色変わる」と付くことで、秋の長い時間の流れを表しているのだろう。
 句としても、

 色かはる山の白雲打ちなびき衣手うすし日ぐらしのこゑ

と一首の和歌の形にしたときには複雑な倒置になっていて、倒置を元に戻すと、

 日ぐらしのこゑに色かはる山の白雲打ちなびき衣手うすし

となる。前句の「衣手うすし」を打ちなびく白雲の衣と取り成している。
 二句前の、

    この比ごろしげさまさる道芝
  あつき日は影よわる露の秋風に   宗祇

の句に劣らず、高度な技術を感じさせる。逆に言うとこういう高度なてにはの使い方をしないと展開できないほど、詰まってしまって重い展開になっている感じもする。
 次の、

    色かはる山の白雲打ちなびき
 尾上をのへの松も心みせけり     宗祇

の句は素直にすっと付いている。
 松は常緑樹で紅葉はしないし、枯れて茶色くなることもない。いつでも夏のように青々としてはいるものの、山の稜線にうっすらと薄い雲が打ちなびくと、松もうっすらと白く色を変え、秋めいて見える。
  白くなるというのは、人間の頭が白髪になってゆくのを連想させる。寓意としては、いつまでも若いつまりでいても頭は白くなり、人生の秋を知るということか。
 名残の懐紙の裏になる前にもうひと展開欲しい所で、「心見せけり」の擬人化した言い回しは、寓意と取り成して恋への展開を催促しているように思える。いわゆる「恋呼び出し」の句だ。

2016年10月25日火曜日

 湯山三吟の方は、今日は3句進んだ。

   よもぎふやとふをたよりにかこつらん
 この比しげさまさる道芝  宗長

 これは遣り句で、道の芝が茂っているありふれた情景を付けて、何とか「蓬生」の強烈なイメージをぬぐおうとしている。
 連歌では同じ本説の句を続けてはいけない。ただ、「蓬生」という有名な物語のタイトルが出てきてしまうと、そのイメージを振り払うのは難しい。

   この比ごろしげさまさる道芝
 あつき日は影よわる露の秋風に   宗祇

 この句は複雑な倒置と「てには」の使い方で、まさに宗祇ならではの技ありの句といえよう。
 「あつき日は影よわる露の秋風に」は「影よわるあつき日は秋風に露の」の倒置。「この比ごろしげさまさる道芝」と合わせると、「影よわるあつき日は秋風に道芝の露のこの比ごろしげさまさる」となる。「しげき」を道芝の茂きではなく、露の茂きと取り成している。
 「暑かった日の光も弱れば秋風に道芝の露もますますしげくなってゆく」という意味。

   あつき日は影よわる露の秋風に
 衣手うすし日ぐらしのこゑ     肖柏

 これも「影よわる」を季節の移ろいではなく日が傾くという意味に取り成している。

2016年10月24日月曜日

 私事になるが、二年前の春に父母を相次いで亡くし、直後の忙しさとその後に来た倦怠感や昔で言う「無常観」のようなものから、と要するに今の言葉では単なる「欝」なわけだが、それまで読んでいた源氏物語は明石の途中で終わったままになり、他にも書きかけになっていた文章がたくさんあって、未だに放ったらかしになっている。
 この「鈴呂屋俳話」を始めたのも、少しづつ昔のペースに戻そうと思ったからで、ただ、いろいろやりかけのことがあって、何から手を付けていいかわからない。
 昨日は昔書いた「浦上玉堂の山水画を読む」を「鈴呂屋書庫」http://suzuroyasyoko.jimdo.com/ にアップした。11月10日から千葉市美術館で「文人として生きる−浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術」展が始まると聞いて、そういえばこういうのも書いていたと思い出した。
 そのあと今日、「文和千句第一百韻の世界」をアップした。連歌関係では「湯山三吟」が84句目で止まってしまっている。
 その85句目は、

    古人めきてうちぞしはぶく
 よもぎふやとふをたよりにかこつらん 肖柏

で、三つの古註が残っている。

 古註1蓬生の巻に、侍従のおば君、惟光を見付て、かこち出いでたる事なるべし。
 古註2よもぎふノやどへ源氏御出ありしとき、侍従げんじニとりつきたてまつりて、うらみ

を云へル事あり。
 古註3源氏よもぎふの巻の体也。古人のうちしはぶく事、この巻にみへたり。(『連歌俳諧

集』日本古典文学全集32、1974、小学館より)

 共通して『源氏物語』の蓬生巻の本説であることを指摘している。
 明石の次が澪標でその次が蓬生だから、本来ならとっくに読んでいたはずの箇所だ。
 取りあえずネットで既存の訳を読んで大雑把なあらすじを把握しなければならないが、これから読むところがネタバレになってしまうのは残念だ。
 大体ここの場面だろうというところが見つかった。源氏が末摘花の君の荒れ果てた家を訪ねたとき、惟光に様子を見てもらおうとしたとき、

 よりてこわづくれば、いと物古りたる声にて、まづしはぶきを先に立てて、彼は誰れぞ、なに人ぞととふ。

とある。
 前句の「古人めきてうちぞしはぶく」をこの人物に取り成したということはわかった。この人物は「侍従が叔母の少将といひ侍りし老い人」だということがわかる。古註1の通りだとわかる。
 問題はこの人物が以前に出てきてたかどうかだが、自分で訳した末摘花巻を読み返したがよくわからない。
 とりあえず「よもぎふやとふをたよりにかこつらん」の句は、「よもぎふをとふをたよりにかこつらんや」の倒置で、蓬生を訪れて来たのを何かの縁とばかりについつい愚痴ってしまったか、すっかり年寄りくさくなって咳払いをしてしまう、という意味になる。
 

2016年10月22日土曜日

 前に書いた『鵲尾冠(しゃくびかん)』の、

   清少納言もよく見て
 木耳(きくらげ)の形(なり)むづかしや猫の耳   機石

の句だが、『枕草子』の「むつかしげなるもの」にも猫の耳が登場する。

 「むつかしげなる物、ぬい物のうら。ねずみのこのけもまだおひぬを、すの中よりまろばしいでたる。うらまだつけぬかはきぬのぬいめ。ねこのみゝの中。ことに清げならぬ所のくらき。ことなる事なき人の、こなどあまたもちあつかひたる。いとふかふしも心ざしなきめの、心ちあしうしてひさしうなやみたるも、をとこの心ちはむつかしかるべし。」

 何気にうざい物。刺繍の裏側。毛の生えてないネズミの子が簾の中から転がり出てくる。裏地のまだ付いてない毛皮の服の縫い目。猫の耳の中。暗くて雑然とした所。たいした身分でもないのに子どもをたくさん作って手に負えなくなっている。大して気があるわけでもない女が気分を悪くして長いこと塞ぎこんでいるのも、男の心情としてはうざいでしょうね。

 この場合は猫の耳の形状ではなく耳の中が汚れていることを指すと思われる。
 越人撰に『猫の耳』と言う俳書があり、これは享保2年刊の『鵲尾冠』よりもかなり後の享保14年のもので、前書きに、

 「集を猫耳といふ事は清女が筆にとるならしけにやよつのときの何くれより人物技芸のくだくだしきまで耳のにこけと生出たるこれや彼垂雲の翼具したる鳥の化して牡丹に眠れるかはた西域より貢せし猫の世にかたましき此道の鼠輩の人もなげにあれわたるを壇によりて威をなせるかしらず千載の子雲をまちて是がために伯楽とせむ」

とある。
 猫がいないのをいいことに鼠のような奴らが威張り散らすといけないので、千載の子雲が現れるのを待って今は逸材の発掘に専念しようというのだが、これは芭蕉を猫にたとえて各務支考をディスっているのか。要するに「うざい」ということか。

2016年10月20日木曜日

 連歌も俳諧も基本的にはこういう会話の機知を基本として、そこで面白い冗談を言って人を笑わせたり、ちょっといい話をしてみたり、時にはしんみりさせてみたりして、会話がどんどん脱線してゆくのを良しとする。
 連歌には両吟や三吟、四吟のような、少数の連衆(連歌の参加者をこう呼ぶ)が順番に付けてゆく場合と、ある程度の人数の連衆が大喜利のように次の句を競って付けて、その中の一句をその場で選んで続けてゆく出勝ちという方法とがある。
 「大喜利のように」と言ったが、むしろ「大喜利」自体が連歌の出勝ちが元になっているのではないかと思う。連歌・俳諧はその後の日本のお笑い芸の基礎となっている。
 連歌会(れんがえ)が催されると連衆は採用される句の多さを競ったり、その中で一番良い句を選んだりして、それに賞品を出したりした。こうして楽しいひと時を過ごした後は御馳走が振舞われ、飲んだり唄ったり賑やかなものだった。
 会話の楽しさという点では、後の漫才にもこれは受け継がれている。
 漫才は中世に流行した千秋万歳(せんずまんざい)が元になっていると言われている。二人一組で正月などに鼓を打って舞を舞ったりしてみんなの長寿を祈願するもので、江戸時代の俳諧でもしばしば千秋万歳のことが詠まれている。

 やまざとはまんざい遅し梅の花    芭蕉

 これは千秋万歳の興行が都会から徐々に田舎の方に移動してゆくことを詠んでいる。当時の「あるある」だったと思われる。
 なお、今の「漫才」は大正末期の吉本興業の芸人、エンタツアチャコによって確立されたという。
 江戸時代の俳諧師のイメージが今の芸人に近いのは、次の句からも伺われる。

 今朝国土笑はせ初ぬ俳諧師    高政

 菅野谷高政は宗因の高弟で京都談林の中心人物だった。
 この句からは、江戸時代の俳諧師のイメージが今日の俳人のイメージと随分と異なることが感じ取れる。
 彼らは文人として知識人の一翼として世間からの尊敬を集めてはいたものの、そこには真面目で神経質な芸術家というイメージはない。
 子弟の間ではぴりぴりとした関係はあっただろう。仲間同士で真剣な議論をすることもあっただろう。でも世間の前では笑いを振りまく存在だった。
 それは今日の「芸人」の世界に近いといってもいいのではないかと思う。テレビでおちゃらけて笑いを振りまいてはいても、その裏では厳しい修行があり、上下関係があり、真剣な議論がある。お笑いの道も決して誰でもできるような生易しいものではない。ただ、それを表に出さないのがプロというものだ。
 今日でもお笑い芸人の世界からいっぱしの文化人になった者がいる。ビートたけしなどそのいい例だ。今や世界に誇る北野監督だ。もちろん芥川賞作家のピース又吉も忘れてはいけない。
 多分、たくさんの弟子達を抱えた芭蕉翁の姿は、たけし軍団に近いものがあったのだろう。今だったら芭蕉は「翁」ではなく「殿」と呼ばれていたかもしれない。
 俳諧師になるものの素性は様々だが、江戸時代の俳諧文化の礎を築いた松永貞徳は藤原惺窩に儒学を学んだ儒者だった。それだけでなく古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人だった。「松永」の姓も戦国武将の松永弾正の甥ということで、由緒正しい血筋を表わしている。
 その貞徳の句はというと、

 霞さへまだらにたつやとらの年
 雲は蛇呑みこむ月の蛙かな
 花よりも団子やありて帰る雁
 冬ごもり虫けらまでもあなかしこ

といったもので、真面目な学者が馬鹿をやると、それだけで面白い。馬鹿をやっているようでも、「雲は蛇」の句は、中国では月の模様を兎ではなく蛙に例えていることを知っていないとわからないし、そういうところでチラッと教養を覗かせたりする。
 もちろん、今日のお笑い芸人も結構そうそうたる名門大学の出身者が多い。ネタもかなり高度な知識を必要とするものがあったりする。それを思うと、貞徳は今日の芸人の祖だったと言ってもいいのだろう。
 才能があるからといって偉ぶってはいけない。才能がある人間がその才能でもって人を笑わせ、溢れる知性をみんなを幸せにするために使う。決して戦争のために使ったりはしない。それが日本の文化人のあるべき姿であり、その伝統は今でも生きている、と信じたい。

2016年10月19日水曜日

 連歌は本来雑談のような気楽なものだった。
 伊地知鐵男は宗祇法師の言葉を引用してこう言ってる。

 『宗祇は連歌の特質を、

 連歌は、先世上の雑談の返答をなすに似たり。さても昨日の風はいかめしく吹つるかな、といひ侍らば、さこそ、いづくの花も残らず、散つらめ、などと返答をしたるやうにあるべき也。又至極の後は、西といへば東と答ふるやうに句をなす物なり。(『宗祇初学抄』)

と、連歌は問答対話におなじだという。』(『連歌の世界』伊地知鐵男、1967、吉川弘文館p.2~3)

つまり、
 「昨日は風が強かったなー。」
 「花もみんな散っちゃっただろうなー」
みたいな乗りが大事で、当意即妙の問答が要求される。
 おそらく平安時代の貴族社会でも、こうした季候の挨拶がうまくできるか、スムーズでいて、それでいて機知の聞いた面白い会話ができるというのが条件だったものと思われる。
 清少納言の『枕草子』も、本来はそういった会話の手引書だったのではないかと思われる。「枕」というのは頭に敷くもののことで、会話のきっかけに、という意味があったと思われる。つまり、
 「いやー春でんなー。」
 「春ゆうたらあけぼのでんなー。」
 「そや、紫色の雲が低くたなびいていて、あれは奇麗でんなー。」
というような会話が理想とされていたのであろう。連歌もその延長線上にある。
 機知に富んだ会話というのは、ありきたりな返しだけでなく、変化も必要になる。
 「昨日は風が強かったなー。」
 「花もみんな散っちゃっただろうなー」
 「そうだな、風が強かったからなー。」
なんて元に戻ってしまうと、会話が堂々巡りして何の発展もなくなる。連歌でも同じことが言える。そこでたとえば「今日花見に来る人は悔しいだろうなー」みたいな展開が必要になる。
 たとえば、

 春夏秋に風ぞ変れる

という前句に対し、

    春夏秋に風ぞ変れる
 花のあと青葉なりしが紅葉して     周阿

と付けるとする。ここで、
 「春夏秋と風は変って行くもんだなー。」
 「そうだな、桜の花も散った若葉になって秋には紅葉するようなもんだな。」
という受け答えが成立する。
 和歌の形にしても、

 花のあと青葉なりしが紅葉して春夏秋に風ぞ変れる

と奇麗につながる。
 ここには別の発想ももちろんある。

    春夏秋に風ぞ変れる
 雪の時さていかならむ峯の松    二条良基

 これだと、
 「春夏秋と風は変って行くもんだなー。」
 「これから雪の季節になって峰の松はどうなっちゃうのかなー。」
となる。これでもいい。
 周阿の句は前句の春夏秋をそのままなぞって具体例をあげたのだが、二条良基は春夏秋と来たら次は冬という発想をしている。
 和歌の形にしても、

 雪の時さていかならむ峯の松春夏秋に風ぞ変れる

と、きちんとつながる。
 一条兼良は『筆のすさび』のなかで、初心者のために、他にどういう付け句が可能かというところでいくつか試みている。

    春夏秋に風ぞ変れる
 実を結ぶ梨のかた枝の花の跡

 既に秋になって実がなっている梨の片枝にまだ花の跡が残っているのをみると、いきなり実がなったのではなく、春夏秋と季節が変って実になったのだなー、て感じがします、というやや回りくどい付けだ。

    春夏秋に風ぞ変れる
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに

 これも春夏秋と鷹の毛が変ったという受け。

    春夏秋に風ぞ変れる
 都いでていく関越えつ白河や

 これは春に都を出て白河の関に到達するまでに春夏秋と過ぎ去ったというもの。言うまでもなく、

 都をば霞みとともにたちしかど秋風ぞふく白河の関   能因法師

の歌を本歌としたもの。
 和歌の形にすると、

 実を結ぶ梨のかた枝の花の跡春夏秋に風ぞ変れる
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに春夏秋に風ぞ変れる
 都いでていく関越えつ白河や春夏秋に風ぞ変れる

となる。
 いずれも発想としては、周阿と同様、春夏秋という変化をそのまま具体化する発想で、これらに比べると二条公の発想が秀でているように思える。
 後に紹巴は、今では周阿の体は時代遅れで、二条公を良しとすると言っている。
 このように、日常会話の延長にありながら、57577の形でその機知を競うというのが連歌の本来の楽しみだった。
 俳諧で例を挙げれば、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の発句に、二つの脇が付けられている。
 一つは、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 明日来る人はくやしがる春    風麦

で、これだと、
 「桜の木の下では汁も膾も桜が散って何もかもが桜でんがなー。」
 「こんなに散ってしまうと、明日来る人はさぞかし悔しいやろな。」
てな感じの会話になる。
 さらに第三はこう付ける。

   明日来る人はくやしがる春
 蝶蜂を愛する程の情にて     良品

 「こんなに散ってしまうと、明日来る人はさぞかし悔しいやろな。」
 「そうそう、蝶や蜂のことまで気遣ったりして。」
と会話が展開する。
 もう一つのバージョンだと、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり    珎碩

で、これだと、
 「桜の木の下では汁も膾も桜が散って何もかもが桜でんがなー。」
 「そや、西日も長閑でいい天気やな。」
 そして、第三は、

   西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行く春暮れて    曲水

 「そや、西日も長閑でいい天気やな。」
 「春も終わりのこの季節になると旅する人は虱が痒くて、ぽりぽりやってんやろな。」
と会話が発展してゆく。
 どちらが良いか悪いかということではなく、俳諧の連歌も基本的にはこういう会話が基本になっている例として提示しておきたい。
 これを和歌の形にすると、

 木のもとに汁も膾も桜かな明日来る人はくやしがる春
 蝶蜂を愛する程の情にて明日来る人はくやしがる春
 木のもとに汁も膾も桜かな西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行く春暮れて西日のどかによき天気なり

ときちんと付いて和歌の体をなしていることがわかる。

2016年10月18日火曜日

 俳諧は俗語の連歌であり、ならば連歌はというと、 二条良基の『連理秘抄』にはこうある。

 「連歌は歌の雑体也、昔は百韻五十韻などとてつらぬる事はなくて、只上の句にても下の句にても言懸けつれば、今なからを付けける也」

 また、同じく二条良基の『知連集』にはこうある。

 「連歌は歌をもって文として、和歌の便をわきまえて後、言葉を分て連歌に取なす也」

 宗砌の『初心求詠集』にはこうある。

 「夫謌道は、花になく鶯、水にすむ蛙にいたるまでもその器と申侍れば、人(倫)の心あらむ如何でか是を翫事なからむ哉、殊連歌は三十文字あまりの言の葉を上下に分けて、是に深き心あり」
 宗祇の『長六文』にはこうある。

 「抑連歌と申事は只歌より出来事候、又貫之が詞に人の心を種としてよろづの言葉とぞなれりけると侍れば、連歌も心の外を尋べき事にも侍らず、然共歌と連歌との替目少侍るべきにや、歌には五句を云くだして終に其理を述べ、連歌には上句と云へ下句といひ別々に取分侍れば、分々に其理なくては不叶事也、連歌は昔は只続句などの如く前句に云かけて、一句の理をばさらに届ざる事侍」

 宗長の『連謌比况集』にはこうある。

 「夫連歌は歌より出て其感情歌より深し、猶し氷の水より出て水より寒に異ならず、これによりて君も臣も心を一にして是を翫ひ、賢なるも愚なるも姿を同くして是を学ぶ」

 紹巴の『至寶抄』にはこうある。

 「然に連歌は哥一首を二に分て百韻となし申候、乍去哥と連歌と少替申候、哥は上の句に其意聞え候はねども、下の句にて断り、(又下の句の心を上の句にて理り)申候事多し、連歌は一句一句に其断りなくては叶はざる事候」

 ここからはっきりしているのは、連歌は和歌の上句と下句を分けたものだということだ。
 宗祇の『長六文』では、57577の五句を言い下してその理があるが、連歌では上句・下句それぞれに理が必要だとし、紹巴の『至寶抄』もそれを受け継いでいる。
 これはたとえば、和歌では、

 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ     伝柿本人麻呂

のように、上575は単なる序詞として、下句を言いだすための特に意味のない言葉でも良いという場合がある。
 これに対して、連歌では上句もちゃんと意味を持ってなくてはならないということをいう。

 連歌は本来和歌の一つの体、つまり和歌の一首として捉えられていて、基本的には57577、上句下句合わせて一首の和歌を仕上げるゲームだった。
 なら、それはどういうゲームかというと、伊地知鐵男は尻取り遊びに例えている。

 「わが国に古くから「尻取り」「後取り」という遊びがある。
 イヌ(犬)─ヌエ(鵺)─エビ(蝦)─ヒグマ(羆)─マス(鱒)─スズメ(雀)─メジロ(目白)
と、詞の末尾の音と次詞の頭首の音とが同音でつづくように、詞、体言を連ねていく文字つなぎの遊戯である。おなじように室町期15世紀半ばごろ、専ら文字鎖という文学的な遊びが流行した。たとえば御陽成院御製と伝える『いろは文字鎖』は「色よき柘榴─轆轤ひく縄─花咲ける谷─庭の朝顔─仏の教へ─下手の射る的‥‥」のように尾音と頭音と同音でつなぎ、しかも連続する頭音はいろはで統一されている。」(『連歌の世界』伊地知鐵男、1967、吉川弘文館p.1)

 むしろ子供の頃に唄ったあのわらべ歌に似ているかもしれない。

 「金平糖は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはウサギ、ウサギは跳ねる、跳ねるはカエル、カエルは青い、青いは葉っぱ、葉っぱは揺れる、揺れるは地震、地震は恐い、恐いはお化け、お化けは消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父のはげ頭。」

というやつだ。

 こんがりと金平糖が焼きあがり
    その甘いことその甘いこと
 お砂糖が壺一杯に入ってて
    まばゆいばかりの真っ白白な
 現われた因幡の国のウサギ殿
    ぴょんと一跳ね人驚かす

とでもすれば、連歌っぽくなる。
 これを確か昔の漫才のネタかなんかで、「金平糖は甘い、甘いは金平糖、金平糖は甘い」、と延々と反復してボケるのがあったが、連歌もこれと同じで前の句の発想に戻ったら永遠に堂々巡りしてしまう。それゆえ前の句とまったく違った発想で展開させなくてはならない。
 この種の言葉遊びは他の国にもあるのかもしれない。ただ、多くの文化では単なる子供の遊びというところで終っているのだと思う。こうした言葉遊びを大人が真剣にやるあたりが、日本の文化の特徴なのかもしれない。
 日本人はよく、車を発明しながらも明治になるまで戦車を作るという発想がなく、その代りに精密なからくり人形を作ったと言われている。
 和を尊び平和を愛する日本人は、言葉遊びを大人の娯楽に高め、文学にまで高めた。
 それが明治以降は軍国主義教育の影響で、大の大人が遊ぶなんて怪しからんなんてことになり、文学からも笑いの要素が排除され糞真面目なものじゃないといけないみたいになってしまった。
 そこから連歌はいわゆる近代文学から締め出される形となった。
 そして、それ以降の「連句」の復興の動きは、基本的には上句と下句を合わせて一首の和歌を完成させるというゲーム性を排除する形で行なわれ、今に至っている。

 「子規はこのとき連句を、隣り合った二句の上の句や下の句を共有して読むものだと思っていたようだ。これには驚かされた。こういう解釈では連句は知的ゲーム以外のなにものでもないだろう。」(『連句のたのしみ』高橋順子、1997、新潮選書p.60)

 今日のいわゆる「連句」は「知的ゲーム」ではあってはいけないらしい。それは伝統的な連歌や俳諧とはまったく別のものと言ったほうがいい。連歌や俳諧は是非ともマンガやお笑いの好きな人に読んでもらいたい。

2016年10月17日月曜日

 今日は十七夜で昼間の雨も夕方にはあがり、うす雲ごしに月が見える。
 それとは関係なく、今日も越人撰の『鵲尾冠(しゃくびかん)』から、

 ゆくあきは五郎丸なき五郎哉   飛泉

 作者の飛泉についてはよくわからないが、この集の中にかなり頻繁に登場する名前で、越人門の主要人物と思われる。
 「飛泉」を検索すると近代の歌人真下飛泉ばかりでてきてしまう。「五郎丸」に至っては去年話題になったあのラグビー選手のことばかりずらっと並んで、なかなかそれ以外の五郎丸の情報が出てこないのは困ったものだ。
 ただ、どうやら「五郎丸」は曽我物語の御所五郎丸ではないかというところに辿り着いた。曽我物語の主人公は曽我十郎と曽我五郎で、五郎丸なき五郎というのは曽我五郎と御所五郎丸に関係がありそうだ。
 曽我物語というと、『去来抄』にある、

 兄弟のかほ見るやミや時鳥   去来

の句がある。これは「去来曰、是句ハ五月廿八日夜、曾我兄弟の互に貌見合せける比、時鳥などもうちなきかんかしと」作った句で、芭蕉や其角からは「謂ひおほせず」と評された。
 飛泉のこの句も「謂ひおほせず」という感じがする。兄弟力を合わせてついに父の仇、工藤祐経を富士野の巻狩りの夜に討ったあと、兄の十郎は討ち死にし、弟の五郎も女装した五郎丸の取り押さえられた。
 曽我物語は遊行巫女(ゆぎょうみこ)によって口承され、様々な女性芸能者によって完成されていったとあって、兄弟二人の固い絆は今でも腐女子の想像を誘いそうだし、そこに女装の五郎丸の登場で花を添えている。
 仇討ちは夏に行われたから「ゆくあき」という季語との関係がよくわからないが、五郎丸の出ない曽我物語は行き秋のように淋しいということか。

2016年10月16日日曜日

 今日は十六夜で満月。
 月とは関係なく、今日は越人撰の『鵲尾冠(しゃくびかん)』から拾ってみた。

   清少納言もよく見て
 木耳(きくらげ)の形(なり)むづかしや猫の耳   機石
 南天は星を括(くく)るや実の光          同

 機石という作者のことは不明。
 乾燥させた木耳を見て猫の耳みたいだと思った人はたくさんいると思う。これだけだと「あるある」だが、耳が木耳みたいなのは耳が黒い猫に限られるというところで、清少納言の『枕草子』の「猫は上のかぎり黒くて、他はみな白からん」を引いてきて、「清少納言もよく見て」という前書きをつけているあたりは、出典に頼る古典の知識をひけらかしたふうなところは其角の風か。
 「むづかし」は「面倒くさい」だとか「うざい」とか言う時に使う言葉で、単なる三角形のように見えて意外に複雑な形をしている所をそう表現したか。木耳は茸の一種なので秋の句になる。ただし近代では夏。
 南天の句は南天の実が星を括って束にしたみたいだという句。「南天の実の光は星を括るや」の倒置。南天の実は秋だが、近代では冬とする場合もある。

2016年10月15日土曜日

 今日は月がよく見える。先月今月と新暦旧暦がちょうど一ヶ月ずれているため十三夜は13日、そして今日は十五夜。ただし、長月の。
 十三夜の二日後ということで、桃隣撰『陸奥鵆』の秋の部で一連の後の月の句の二句後に出てくるのがこれ。

 紛らしや木の実の中に鹿の糞   李里

 ララといいリリといい、こういう名前の人はシモネタが好きなのか。どういう人なのか、今のところ情報をつかんでない。
 鹿の糞というと昔の「笑っていいとも!」のタモリとさんまのコーナーでも話題になった吉永小百合の「奈良の春日野」を思い出す。この曲の鹿の糞は、

 草花や寺無住にして鹿の糞    子規

の句の影響を指摘する人もいるが、鹿の糞の句は子規が最初ではなかったようだ。
 正岡子規は入手できる限りの江戸時代の俳書を集めて分類した人だから、『陸奥鵆』は当然読んでいただろうし、この句も知っていたにちがいない。

2016年10月13日木曜日

 今日は十三夜だが空は曇っている。
 桃隣撰『陸奥鵆』には「芭蕉庵十三夜の記」という貞享五年九月十三夜、芭蕉庵で月見した時の句に、素堂が前書きし、芭蕉が後書きをした一連の句が掲載されている。

   十三夜
 芭蕉の庵に、月をもてあそびてただ月をいふ。越の人あり、つくしの僧有、まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし、あるじも浮雲流水の身として、石山の蛍にさまよひ、さらしなの月に嘯て菴に帰る。いまだいくかもあらず、菊に月にもよはさて、吟身いそがしいかな。花月も此為に暇あらじ。おもふに今宵を賞すること、みつればあふるる悔あればなり。中華の詩人、わすれたるに似たり。ましてくだら・しらぎにもしらず、我国の風月にとめるなるべし。
 もろこしに不二あらばけふの月見せよ  素堂
 かけふた夜たらぬほどてる月見哉    杉風
 後の月たとへば宇治の巻ならん     越人
 後の月名にも我名は似ざりけり     路通
 我が身には木魚に似たる月見哉     宗波
 木曽の痩もまだなをらぬに後の月    芭蕉
 中秋の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、なおあはれさのめにもはなれずながら、長月十三夜になりぬ。こよひは宇多のみかどのはじめて、みことのりをなし世に名月と見はやし、後の月あるは二夜の月など云める。これ才士・文人の風雅なくはふるなるべし。問人のもてあそぶべきものといひ、且は山野のたび寝もわすれがたうて、人々をまねき瓢を扣(たたき)、峯のささぐりを白鴉と誇る。隣の家の素翁、丈山老人の一輪いまだみたず二分虧(かく)といふ唐哥は、この夜折にふれたりと、たづさへ来れるを壁のうへにかかげて、草の菴のもてなしとす。狂客何某しらら・吹上とかたり出ければ、月も一期は栄えある屋うにて、なかなかゆかしきあそびなりけらし。

 芭蕉が姨捨山の月を見に行った『更科紀行』の後、江戸に戻ったときの十三夜のお月見だった。まず、素堂の序文。これはこの日に書かれたのではなく、後から加えられたものらしい。書簡と思われるものが残っている。

 「芭蕉の庵に、月をもてあそびてただ月をいふ。越の人あり、つくしの僧有、まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし、あるじも浮雲流水の身として、石山の蛍にさまよひ、さらしなの月に嘯て菴に帰る。いまだいくかもあらず、菊に月にもよほされて、吟身いそがしいかな。花月も此為に暇あらじ。おもふに今宵を賞すること、みつればあふるる悔あればなり。中華の詩人、わすれたるに似たり。ましてくだら・しらぎにもしらず、我国の風月にとめるなるべし。」

 素堂は芭蕉が江戸に出てきた頃からの古い門人で、代表作は「目には青葉山ほととぎす初鰹」。季語を三つも使った贅沢な句だ。
 「越の人あり」は越智越人。『更科紀行』の旅に同行し、その流れで江戸までついて来たのであろう。
 「つくしの僧」は宗波のことか。一年前の貞享四年八月に曾良とともに芭蕉の『鹿島詣』の旅に同行している。路通も僧なので路通の方を指すのかもしれない。
 「まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし」は同語反復になっているが、浮き草が同じ仲間の浮き草に合う、類は友を呼ぶという意味か。
 「あるじ」は芭蕉庵の主、芭蕉庵桃青のこと。
 「石山の蛍にさまよひ」は、

   木曽路の旅を思ひ立ちて大津にとどまるころ、まづ瀬田の蛍を見に出でて
 この蛍田毎(たごと)の月にくらべみん  芭蕉

の句のことか。
 「さらしなの月に嘯て」は言わずと知れた『更科紀行』の、

   姨捨山
 俤(おもかげ)や姨ひとりなく月の友   芭蕉

を指す。
 「菊に月にもよほされて」の菊は、九月十日に素堂亭で「残菊の宴」を催したことを言う。「月」は今回のことか。
 「花月も此為に暇あらじ」は元は「花月もこの人の為に晦あらじ」という発句だったらしい。編纂の段階でカットされたか。
 「中華の詩人、わすれたるに似たり。ましてくだら・しらぎにもしらず」は十三夜のお月見が日本独自のものであることを言っているのだろう。くだら・しらぎはいつの時代かという感じだが、この時代のあの地域は、朝鮮と言っても李氏朝鮮と言っても李朝と言っても差別になるらしいので、一体何と呼んでいいものか。

 もろこしに不二あらばけふの月見せよ  素堂

 中国に富士山があったなら十三夜の月見をするべきだ。
 まあ、中国には泰山や廬山をはじめとするあまたの名山はあっても富士山はないから、十三夜の月見を強制はしない。

 不二晴よ山口素堂のちの月   白雄

の句はこれより百年くらい後のこと。

 かけふた夜たらぬほどてる月見哉    杉風

 これは芭蕉七部集の『阿羅野』にも収められている句。「かけ」は「影」で、影は光という意味。十五夜にふた夜まだ光が足りないはずなのに、それ以上に明るく見えるのは空が澄み切っているせいなのだろう。

 後の月たとへば宇治の巻ならん     越人

 十五夜が『源氏物語』の本編なら、十三夜は続編の「宇治十帖」だろうか。

 後の月名にも我名は似ざりけり     路通

 「後の月」という名前だけど、元の月の十五夜とはまったく似ていない独自の月だ、という意味か。「後の月、名月にも我名月は似ざりけり」とすればわかりやすい。

 我が身には木魚に似たる月見哉     宗波

 僧である我が身には十三夜の不完全な丸い形が木魚に見える。

 木曽の痩もまだなをらぬに後の月    芭蕉

 木曽へ名月の旅をして痩せてしまったのがまだ治ってないうちにもう十三夜か、忙しいなあ。
 このあとの芭蕉の文章は有名だし、ネットでもいろいろな人が解説しているのでひとまず置いておく。