「むめがかに」の巻の続き。
二十八句目
はつ午に女房のおやこ振舞て
又このはるも済ぬ牢人 野坡
(はつ午に女房のおやこ振舞て又このはるも済ぬ牢人)
芭蕉の時代には大名の取り潰しや改易が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれていたという。笠張りなどの内職で細々と食いつないで日ごろから女房子供に迷惑をかけているそんな負い目からか、初午の日に女房の親や兄弟などに振舞って願を掛けにいくのも、多分毎年のことなのだろう。そして毎年願を掛けていても今年もまた仕官が決まらずに、というところか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「賑ふ頃ハゑならぬ者も入こミなん。ねだる塩梅など来客に余情あり。○又の字去年をふくめり。」とある。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「親子振舞てと云より転じ来て、主家没落したる人の意地を立て二君につかへず、昔を忘れぬこゝろより稲荷祭りにかこつけて、旧友又はゆかりの人などを招き、一盃すゝめたる志のめでたさを余情よせいに見みせたり。」とある。
そんな意固地になって浪人を貫かれたら、女房もその親もたまったもんではない。これは違うだろう。武家道徳の賛美は俳諧の心ではない。俳諧はあくまで本音でなくてはならない。
ウィキペディアによれば、「牢人」は「主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者」のことで、それが改易などによって牢人が急増したため、浮浪者などを意味する「浪人」といっしょこたになって、「江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった」という。
『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)には「牢人ト書損じたり。」とあるが、書き損じではない。ただ、幕末ともなると「牢人」にこの字を当てることはほとんどなかったのだろう。
季題は「春」で春。「牢人」は人倫。
二十九句目
又このはるも済ぬ牢人
法印の湯治を送る花ざかり 芭蕉
(法印の湯治を送る花ざかり又このはるも済ぬ牢人)
江戸時代の修験道は、本山派と当山派、それに天台宗に所属するものに分かれ、本山派は各地の主要な修験者に年行事職を与えた。ここでいう法印はその年行事職クラスの修験者で、浪人などを食客しょっかくとして住まわせたりしていたのだろう。勘当された放蕩息子を親が連れ戻そうとしたところ、法印の粋な計らいで、温泉で湯治に行く留守番の役を言いつけて逃れるといったところか。
「またこの春も済まぬ」を浪人が自分の身を嘆いて言う言葉から、法印の湯治への旅立ちを見送りながら、放蕩息子がまた今年も戻ってこないのかという親の嘆きに換骨した、人情味あふれる句。
春の三句目なので、花の定座が六句もくり上げられているが、両吟ではそれほど定座の位置にこだわる必要はない。ここで花のない春三句連ねて、三十五句目に五句去りでもう一度春にするというのも、形式に振り回された感じて収まりが悪い。
季題は「花ざかり」で春。植物。木類。「法印」は釈教。
三十句目
法印の湯治を送る花ざかり
なハ手を下りて青麦の出来 野坡
(法印の湯治を送る花ざかりなハ手を下りて青麦の出来)
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「湯治を送ると云より転じて、法印の除地を作り居る百姓どもの見送りに出たるが、誰の苗代かれの菜種などいひて、とりどり評議したるさまに思ひよせたり。前句香の花なれば、揚句の心にて作りたるが故に軽し。」とある。
寺社の所領は、幕府や藩からの租税を免除され、「徐地(よけち)」と呼ばれた。「なハ手て」はあぜ道のこと。法印の旅立ちを見送りながら、領内の百姓が集まって、農産物の噂をしている様子を付つけたもので、花の後だけに軽くさらっと付けている。
季題は「青麦」で春。植物。草類。
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