2018年2月27日火曜日

 先日も貞門時代の芭蕉(宗房)の句と田氏捨女の句を比較してみたが、今回も句合わせのようにして、両者を比べてみようと思う。

 春風に吹き出し笑ふ花もがな    宗房
 木のめにもこぼすしおがまや花の顔 捨女

 芭蕉の句の良さはシンプルで覚えやすいという所にもある。今で言えばキャッチーということか。「春風に」の句は一読してわかりやすい。
 これに対し捨女の「木のめにも」の句は、木の芽の蕾を結ぶさまを塩釜からこぼれた塩に喩え、そこに花の顔の笑ったようなイメージを作り出す。複雑な構成で味わい深いものの、後になって思い出すのはおそらく芭蕉の句のほうだろう。

 糸桜こやかへるさの足もつれ    宗房
 散行やあともむすばぬいとざくら  捨女

 糸桜の「糸」をどう展開させるかというのが、この両句のポイントとなる。
 芭蕉は糸桜の立ち去りがたい雰囲気を、糸に足が引っかかりもつれたようだと展開する。芭蕉らしいやや突飛な思い付きで、足のもつれる様は現実味はなく、むしろシュールともいえる。
 これに対し捨女は糸なのに散る桜を結び止めてくれないと嘆きに展開する。落ち着いた無難な展開と言えよう。

 しばしまもまつやほととぎす千年  宗房
 待ほどやみろくの出世ほととぎす  捨女

 ホトトギスはその一声を待つことを古来本意とするが、芭蕉はそれを一日千秋の思いに掛けてしばし間も千年と大きく出る。
 捨女の句はそのさらに上を行く。弥勒が現れるまでの間、つまり五十六億七千万年。『源氏物語』夕顔巻の「うばそくがおこなふ道」ではないが、「いとこちたし。」

 七夕のあはぬこころや雨中天    宗房
 女七夕男たなはたつる関か今日の雨 捨女

 芭蕉の「雨中天」は「有頂天」に掛けて作られた造語であろう。逢えれば有頂天、逢えなきゃ雨中天、なるほどキャッチーで覚えやすい。
 捨女の句は「女七夕男(めたなを)たな」というやや聞きなれない言葉を用いる。「女棚・男棚(めんたな・おんたな)」という牽牛淑女二星の和名で、当時の人はすぐわかったのかもしれない。
 その末尾の「たな」を「たなばた」と伸ばし、そこから「はたつる(端つる・隔つる)」を導き出し、関所の景まで添える。かなり手の込んだ重層的な句の作り方をしていて、貞門の技法の一つの頂点ともいえるかもしれない。
 ただ、一読してのわかりやすさという点では芭蕉の句のほうが後まで記憶に残りそうだ。

 影は天の下てる姫か月のかほ    宗房
 俗もこよいいもいして見ん月の顔  捨女

 芭蕉の句の「下照姫」は記紀神話に登場する神様の名前で、「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる歌を詠んだことから、『古今和歌集』の仮名序に、

 「この歌天地の開け始まりける時よりいできにけり。しかあれども世に伝はることは久方の天にしては下照姫に始まり、あらがねの地にしてはすさのをの命よりぞおこりける」

と和歌の起源に結び付けられている。
 ただ、ここでは「月の顔」という言葉に掛けて「天の下てる姫」の名を持ち出したにすぎない。
 捨女の句は、月の顔を何か神聖なものに喩えてはいるものの、俗の方に重点が置かれている。
 俗、いわば一般人も今夜は「いもい(いもひ)」つまり物忌みして月の顔を見よう、という言葉の中には「芋」が隠され、芋名月と掛けている。
 ここまで見ても捨女の作風は複雑で重層的な構成にあり、幼少期の伝説の「二の字二の字」の句とはかなりかけ離れている。
 芭蕉も当時は貞門のこうした手法を学んではいるが、複雑でありながらもキャッチーでわかりやすい五七五の中に納まるあたりは、やはり貞門の枠に収まらない非凡さではなかったかと思う。

 霰まじる帷子雪はこもんかな    宗房
 姫松のかたびら雪やだてうすぎ   捨女

 帷子雪は牡丹雪のことだが、ここではその「帷子」という名に掛けて、芭蕉は霰が混じれば霰小紋だと洒落てみる。
 それに対し捨女は姫松に帷子雪がかかれば、帷子が一重の衣なので伊達の薄着だと洒落てみる。甲乙つけ難し。
 全体としてみればやはり捨女の句は貞門の一つの到達点というか完成形のようなものを感じさせるのに対し、芭蕉の句はまだ習作のような、まだ基本を学んでいる段階だが、貞門の複雑な技法を用いながらもそれを感じさせないキャッチーさが、その後の様々な流行の中でもトップを走り続けることのできた要因ではなかったかと思う。
 捨女の句は貞門の句として完成されすぎてしまったため、おそらく談林の流行にはついてゆけなかったし、心惹かれるものもなかったのではないかと思う。

2018年2月26日月曜日

 ネットで注文していた『捨女句集』(捨女を読む会編著、二〇一六、和泉書院)が届いた。
 「捨女句集」は捨女自身が書き残した自筆の稿本で、いつごろ書かれたかは定かでない。一六七四年(延宝二年)に夫と死別し、仏門に入って以降は俳諧から離れていたとすると、俳諧の方での活動は延宝の初めまでで、句集はそのあとに過去の作品をまとめようとしたものかもしれない。
 丹波新聞のサイトによると、伊賀在住時代の宗房(後の芭蕉)が二十八句入集の鮮烈なデビューを飾った季吟撰の『続山の井』に、捨女は三十八句入集していたという。捨女が最も活躍したのはおそらくこの頃だったのだろう。だとしたら、捨女が談林の流行期には既に俳諧から離れていたわけだから、談林や蕉門の俳諧師との交流がなかったとしても何ら不思議はない。「捨女句集」の句はいずれも典型的な貞門の句で、談林や蕉門の影響は見られない。
 季吟編の『続連珠』(延宝四年刊)に初出する、

 花をやるさくらや夢のうき世者  捨女

があるいは最後の作だったのかもしれない。
 「花をやるさくら」というのは「正花を演じる桜」というような意味か。そのさくらは「夢のうき世者や」であり、末尾の「や」を倒置にして前に持ってきて「花をやるさくらや夢のうき世者」となる。「うき」は夢に浮かれているものと「憂き」との両面の意味を持つ。つまり浮かれてはいるが、散る定めを思うと憂きものでもあるというわけだ。そこには「この世は夢」という夫に先立たれての出家の暗示を読み取ることができる。
 この句集には、一番有名な「二の字二の字」の句が入ってないことと、この句の初出が『続俳家奇人談』であることから、数え六歳の時にこの句を詠んだというのは伝説に属するようだ。まあ、疑えば疑えるが、だからといってはっきり否定できる証拠があるわけでもない。
 捨女の「女」は女性俳諧師に添えられる文字で、同様な例で加賀の千代女がいる。この場合の「加賀」は苗字ではなく、加賀の人という意味。当時は今のような本名の概念があったわけではないが、俳諧師としてではなく普通に呼ぶときは「おすてさん」だったのだろう。今日では田捨女と呼ぶことが多いが、これは明治以降の苗字+名前(俳号)の表記法によるもの。
 捨女の出身地の柏原(かいばら)と京都は、篠山(ささやま)街道で繋がっていたから、京都へ出るのにさほどは苦労しなかったのだろう。この街道は古代の山陰道を継承するもので、確かに道筋はかなり直線的だ。
 さて、その句集の句を少し見ていこう。

 こぞのしわすことしのびてや若えびす 捨女

 「師走」と「皺」を掛けて、去年の師走の皺も今年はのびて皺がなくなり、若恵比寿になる、という句だ。
 この句は、

 年は人にとらせていつも若夷   宗房(後の芭蕉)

の句と比較すると良いかもしれない。
 若夷はweblio辞書の「三省堂大辞林」によれば、「恵比須神の像を刷った札。近世,元日の早朝に売り歩いた。門に貼ったり歳徳棚(としとくだな)にまつって一年の福を祈った。」という。
 昔の数え年では正月になると一歳年を取る。誰だって年はとりたくないから、いつまでも若くいられるようにという願いを込めて若夷を飾ったのだろう。 捨女の句の皺が伸びて欲しいというのはいかにも女性的な願いだ。これに対し芭蕉は、自分は年を取ったが若夷だけはいつも若いままで「人に年をとらせてずるい」と、シュールな発想のなかにも自分は現実に年を取っているという現実を直視した部分とが同居している。突飛なことを言いながらもしっかり現実を見ている、これが終生芭蕉のキャラクターとなってゆく。
 猫の日はもう過ぎたが、猫の句が出てきたので、

 ざれあいてつな引きするや猫のまね 捨女

 これは「猫のまねてざれあいてつな引きするや」の倒置であろう。猫が二匹縄にじゃれている様が小正月の前の十四日の綱引みたいだ、という意味ではないかと思う。じゃれあって綱引?何だろう?とおもわせて「猫のまね」で落ちをつけている。

 妻こうやねうねうとなく猫の声 捨女

 猫は寝るから猫だという説は良く知られているが、語源的には「ねうねう」と鳴くから猫だという説が有力だ。この「ねうねう」という泣き声を「寝う寝う」に掛けて妻を誘う声にしている。昭和末期に「にゃんにゃん」が性行為を表す隠語として用いられたのをちょっと思い出す。

2018年2月25日日曜日

 オリンピックも今日で終った。
 振り返ってみるとなかなか楽しいオリンピックだった。
 日本選手にとってそれほどアウェーにならなかったのは、寒さと交通の便の悪さから客席ががらがらだったからだろう。
 まあ、いろいろネット上では小ネタがあったな。
 確かに日本選手の活躍は凄いが、どうでもいいことでケチつけて回る凄くない日本人もたくさんいた。
 Jambinaiはチェックしてなかったが、オルタナ系で、日本で言えばHeavensDustのようなものか。フォークメタルは土の匂いがぷんぷんしてクサメタルとも呼ばれるが、オルタナ系は西洋的なサウンドの中に民族楽器を吸収するため、音としては洗練されているが初期衝動に欠け、全体におとなしいというか、眠くなる。
 まあ、北朝鮮情勢のことでいろいろ危ぶまれている部分もあったが、何とか平和の内にオリンピックが終ったのは何よりだ。ただ、これから先はまた何が起こるかわからない。あの国は挑発している時よりも融和に動いている時の方が危ないって昔から言われている。
 体制の違いを超えてなんて軽々しく言う人もいるが、かつての西側諸国は市場を自由化し、どの国でも参入できるグローバル市場を作り出すことで、市場拡大のための侵略戦争を過去のものとした。マクドナルドのある国同士は戦争をしないといわれるのはそういうことだ。侵略しなくても資本はいくらでも世界へ出てゆける。
 だが、社会主義を未だ建前とする独裁国家はそうではない。彼等は様々な制限を課して自国のグローバル市場化を拒み、独占できる閉鎖的な市場を広げるためには自分の国に同調する独裁国家を作り上げるという、レーニンの時代の帝国主義と変わらない方法を用いている。カンボジアも最大野党を解散させ、独裁を強めている。
 スポーツも音楽はもちろん全ての大衆文化は平和が前提となっている。戦争になったらそうしたすべては吹っ飛んでしまう。だからこそ自由経済を守らなくてはならない。そして、同じ価値観を共有する国々と連携していかなくてはならない。

2018年2月24日土曜日

 田氏捨女について、これまで名前の話しかしてこなかったが、代表作といえばやはり、

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡 捨女

だろう。数えで六歳の冬だから、今で言う五歳くらいか。
 土芳の『三冊子』の「あかさうし」に、「師の詞にも、俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれなどと、たびたび云ひ出られしも」とあるのを地で行くような句ともいえよう。
 捨女は寛永十一年(一六三四年)の生まれで芭蕉より十歳年上になる。今で言う兵庫県丹波市柏原の生まれで、季吟に和歌を習い、俳諧は宮川松堅に学んだという。いずれも貞門の系統にある。蕉門との関わりがあったかどうかはよくわからない。
 雪の朝の句は今でこそ忘れられているが、かつては人口に膾炙する句だった。
 筆者がこの句を知ったのはまだ小学生の頃、家に置いてあった週刊朝日の(左翼の家庭だから週刊朝日と朝日新聞は普通にあり、たまに朝日ジャーナルもあった)佃公彦の「ほのぼの親子」という漫画だったと思う。
 この句を基にしながら、下駄にもう一枚歯を打ちつけて、二の字コの字にして、ニコニコニコとする話だったと思う。今だったら「ニッコニッコニー」にしたいところだ。
 かつてのホトトギス系の影響力が強いのか、貞門の句は学校では習わない。これも偏向教育ではないかと思う。俳諧の初期衝動を感じさせるような好句だと思うがいかがだろうか。

2018年2月23日金曜日

 昨日は一日雨が降り、今日も午前中は雨だった。とはいえ、おそらく一時間一ミリに満たない雨なら、昨日も今日も記録の上では雨は降らなかったことになる。気象庁の雨雲レーダーを見ていても、雨が降っていることにはなってなかった。だがしかし、記録に残らなくても雨は降っていた。
 ただ、気温も低く、時折霙や雪が混じる状態なので春雨とは言えないだろう。
 この前、女性の俳諧師の中で田氏捨女だけ苗字があるということにふれたが、「丹波資料室」というサイトにこういう記述があった。

 「ステ女が生まれた 丹波柏原の田家は織田家に仕えた名家でした そんな田家に 寛永10年 父 季繁、母 妙善の長女として生まれました  しかし ステ女が3歳の時に 母 妙善が38歳の若さで亡くなり 母親の亡き後 母親役となっていた祖母もステ女が 12歳の時に亡くなりました」
 「父 季繁は映智と言う女性を後妻に迎えます この映智には連れ子が一人いて それが後に ステ女の夫となる又左衛門季成です」

 父の季繁が田氏であるのは間違いない。季繁の最初の妻の妙善がどこの家の者かはわからない。ただ、姓が血統を示すもので終身変わらないのに対し、苗字は家をあらわすものだから苗字は夫婦同苗字になる。もっとも、今日のように苗字+名前という形で呼ばれることはまずない。妙善はあくまで田氏に嫁いだ妙善で、田妙善といった西洋式の呼び方がなされることはなかった。
 その後妙善が亡くなり、季繁は後妻に映智を迎える。これも元の姓は別でも田氏に嫁ぐことで、田家の妻映智になる。その連れ子も同様田家に入るから、捨女の夫は田氏の季成ということになる。苗字は同じだが家系は異り(姓は別になる)血は繋がってないため、結婚は可能だったのだろう。
 『俳家奇人談』の「宗族へ嫁して」というのは、やはり同じ田の苗字の季成のもとに嫁いだという、やや異例な状況の表現として用いられたのだろう。
 その後季成に先立たれ、出戻りとなったが、婚前も結婚中もその後も終生田氏であったから、捨女だけは例外的に田氏捨女と呼ばれていたのだろう。
 他の女性俳諧師はたとえばおとめさん、俳号羽紅は、今日では夫の野沢凡兆の俗姓を借りて野沢羽紅と呼ばれることはあるが、当時の女性は一般的に名前だけで呼ばれていた。芭蕉の『嵯峨日記』にも、「羽紅夫婦」という文字はあるが野沢夫婦とは書かれていない。
 夫婦同姓は明治に入ってから西洋に習って導入されたもので、江戸時代の苗字が血統ではなく家をあらわしていたからといって、今日のような意味での同姓ではなかった。ただ出自の苗字と現在所属している家の苗字があるだけで、出自ではない後から所属することとなった家の苗字は、果してその人の苗字と言えたのかどうかすら定かではない。出自の苗字が変わってなければ、田氏捨女のように苗字をつけて呼ばれることもあったが、他家に嫁いだ場合は苗字を失ったと考えた方がいいのかもしれない。
 近代の夫婦別姓論議は、男女平等の立場からなされているが、江戸時代の姓や苗字にそのような考え方はなかったし、韓国や中国の夫婦別姓も男女が平等だったからではない。近代の夫婦別姓論議は、いわゆる「家」や血統というものが解体され、個々の男と女に立ち返るところに発生したもので、同列に議論することはできない。
 今日の日本の夫婦同姓は明治に始まるもので日本の長い伝統ではないというのは、似て非なる見かけの上での夫婦同苗字に惑わされてはいけないという意味でもある。
 元来日本の夫婦同姓は日本の昔からの「家」の概念によるものではないし、明治に導入された西洋的な家概念すら今の時代にはそぐわないのであれば、筆者は夫婦別姓もありだと思う。

2018年2月22日木曜日

 今日は新暦で二月二十二日、猫の日。
 これまでも猫の俳諧はいろいろ紹介してきたので、あとはもう、落穂拾いのようなものだ。
 今まで紹介した猫の句は、以下の通り。

発句
 何事ぞぼたんをいかる猫の様   南甫
 牡丹や白金の猫黄金の蝶     蕪村
 北窓に後めたしや猫の恋     万山 「西國曲」
 美尾谷が錣になくや猫の恋    卷耳 「北國曲」
 痩る程恋する猫や夜の雨     貴和 「北國曲」
 猫の恋通ふや犬の鼻の先     重行 「陸奥鵆」
 朧月猫とちぎるや夜の殿     越闌 「正風彦根躰」
 春雨や寝返りもせぬ膝の猫    桃醉 「陸奥鵆」
 若菜摘姿なりけり猫背中     秏登 「皮籠摺」
 あれちらせ上野の梅に猫のこゑ  厚風 「二葉集」
 行春や猫に胡蝶のそで別     正興 「西國曲」
 出代やあとに名残の猫の声    丶嶺 「西國曲」
 うそ眠る猫のつらはる椿かな   一桃 「杜撰集」
 柳されて嵐に猫ヲ釣ル夜哉    木因
 猫の尾の何うれしいぞ春の夢   賢明
 猫逃げて梅ゆすりけり朧月    言水
 ねこの子のくんずほぐれつ胡蝶哉 其角
 猫の妻竃の崩れより通ひけり   芭蕉 「江戸広小路」
 京町のねこ通いけり揚屋町    其角 「焦尾琴」
 うき友にかまれて猫の空ながめ  去来 「猿蓑」
 にくまれてたはれありくや尾切猫 芦本 「皮籠摺」
 懐旧や雨夜ふけ行猫の恋     千那 「鎌倉街道」
 ははき木の我が影法師や猫の恋  斗曲 「北國曲」
 手をあげてうたれぬ猫の夫かな  智月 「卯辰集」
 のら猫の恋ははかなし石つぶて  等年 「西國曲」
 雨だれの水さされてや猫の恋   化光 「北國曲」
 猫の恋やむとき閨の朧月     芭蕉 「をのが光」
 うらやまし思ひ切る時猫の恋   越人 「猿蓑」
 盗して見かぎられけり猫の妻   乙由 「皮籠摺」
 羽二重の膝に飽きてや猫の恋   支考 「東華集」
 傾城の生れかはりか猫の妻    木導 「韻塞」
   五十ばかりの古猫の鼠もとらずなりて、
   常にいろりに鼻さしくべて冬籠りたり、
   なまじい南泉の刀をのがれたるを、身の
   幸にして今年も暮ぬ
 いづれもの猫なで声に年の暮   嵐雪
 猫の妻いかなる君の奪ひ行く   嵐雪の妻
 初霜や猫の毛も立(たつ)台所  楚舟
 凩や盻(またたき)しげき猫の面 八桑
 あら猫のかけ出す軒や冬の月   丈草
   清少納言もよく見て
 木耳(きくらげ)の形むづかしや猫の耳   機石
 懐の猫も夜寒し後の月      秋色
   名所もそこそこに
 猫の居る木は何じややら何じややら 洛茨「花の雲」
 猫の恋初手から鳴きて哀れなり  野坡 「炭俵」
 あたまからないて見せけり猫の恋 枳邑 「二葉集」
 我影や月になを啼猫の恋     探丸 「続猿蓑」
 おもひかねその里たける野猫哉  巳百 「続猿蓑」
 いろいろの声を出しけりたはれ猫 穂音 「一幅半」
 田作りの口で鳴きけり猫の恋   許六
 石磨の音にうかれつ猫の恋    孤松 「幾人主水」
 まとふどな犬ふみつけて猫の恋  芭蕉 「茶のさうし」
 猫の恋のぼりつめてか屋根の音  信昌 「一幅半」
 ふみ分て雪にまよふや猫の恋   千代女
 行衛なき恋に疲や船の猫     擧桃 「花の雲」
 うき恋にたえてや猫の盗喰    支考 「続猿蓑」
 麦めしにやつるゝ恋か猫の妻    芭蕉 「猿蓑」

連句
   月花を糺の宮にかしこまる
 ああらけうとや猫さかり行    丹野 元禄七年「ひらひらと」の巻
   桶もたらいもあたらしき竹輪(たが)
 投うちをはづれて猫の迯あるき  木節 元禄七年「秋ちかき」の巻
   ふらふらふらのすすきふらふら
 くはとその猫にはかえぬ鳥啼て  定當『二葉集』
   よはよはと老母の寝ぬ夜思ひ出
 いつまで猫の死を隠すべき    鬼貫『大悟物狂』
   おなじ夜ねられぬほどにここかしこをめぐりて
 いとど鳴キ猫の竃にねぶる哉   鬼貫『大悟物狂』

 さて、これに付け加えるとすれば、まず、

   窓のほそめに開く歳旦
 我猫に野良猫とをる鳴侘て   芭蕉 元禄二年「水仙は」の巻

 正月の朝、窓を細く開けて外を見るとうちの猫と他所の猫が鳴きながら通り過ぎてゆく。歳旦に猫の恋の訪れを付ける。

   一霞おち来る瀧にかた打て
 猫ざれかかる蝶のむらがり   梅額 元禄二年「とりどりの」の巻

 前句の春の霞の中での滝行の句を、蝶を追っかけているうちに猫が誤って滝に打たれてしまうとした。滝といっても修行用の滝だから、石樋で引いてきた水を修行場に落としているだけのものだろう。

   洗濯にやとはれありく賤が業
 猫のいがみの声もうらめし   景桃丸 元禄三年「半日は」の巻

 「洗濯・クリーニングの教科書」というサイトによると、

 「江戸時代になると「洗濯女」が登場します。大商人の家、裕福な屋敷をもわり、洗濯物を集めては共同の井戸で洗う仕事です。」

 富山県クリーニング生活衛生同業組合のサイトには、

 「室町時代(1338~1573年)に、染物屋である紺屋が営業としてはじめたものである。 顧客は、公卿や幕府に仕える武家やあった。
副業から専業になるのは、江戸時代の元禄(1668~1704年)から、享保(1716~1736)にかけてであり、江戸で洗濯屋が、京都では、紺屋から独立した洗い物屋が出現する。」
 「江戸時代の洗濯屋は洗濯女が2人1組になって、顧客の家へ出かけ灰汁を使った洗濯で木綿を主とする衣料の洗濯をしている。しかし身分の高い武士や豊かな商人の高級衣料は、悉皆屋(しっかいや 染め物や洗い張りをする店)を通して、京都の洗い物屋へ送るのが常であった。」

とある。
 とにかく、芭蕉の時代には既に洗濯を職業とする女性がいたようだ。井戸端で作業をしていると、横で恋するオス猫同士がかち合って喧嘩を始める。おわーーーっ、わーーーーおっ、ってこれがうるさい。

   漸とかきおこされて髪けづり
 猫可愛がる人ぞ恋しき     野坡 元禄七年「五人ぶち」の巻

 髪を結ってもらっている女性。元禄の頃から島田髷が流行し、髪を結う人が増えてきた。貞享の頃の芭蕉の『甲子吟行画巻』の西行谷の芋洗う女は、昔ながらに長い髪を後ろに垂らし、一箇所でまとめるだけだったが、この頃から少しづつ都会を中心に江戸時代特有の髷を結う習慣が浸透してきたのだろう。
 「猫可愛がる人」は『源氏物語』の柏木の俤か。

   急に建ぬる別屋寂しき
 若猫のさわたりありく草の中  可雪 「西國曲」

 家の庭に急遽建てた別屋は寂しい所にあり、あたりは猫がうろうろするほか何もない。ただ草だけが生い茂っている。紫陽花でも咲けば「別屋敷」になるのだが。
 そして今回のおまけは、近代俳句から。

 去勢の猫と去勢せぬ僧春の日に   金子兜太

 猫を去勢するようになったのは、おそらく高度成長期以降であろう。まずは裕福な家で大事に飼われている猫からだったにちがいない。今でこそ地域猫とか言って野良猫を去勢したりするが。
 猫が去勢される一方、お坊さんはすっかり俗化し金儲け主義になっていった。昔も妻帯する僧はいたが、明治五年に「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」となり、僧の妻帯が一般化し、それとともにお寺の経営も世襲に近くなっていった。今でもお寺を継がなくてはいけないからといってミュージシャンが突如引退したりする。
 春の日に恋もせずに子猫のように無邪気にふるまう猫と、色欲に取り付かれる僧の組み合わせは面白い。
 日清紡のCMではないが、近代の俳人は名前ばかりが有名で代表作はと聞かれても答えられない人が多い。金子兜太もその一人で、名前は知ってるけどーー、何の句を詠んだかは知らないーーだが、ネットで検索してこの句を見つけた。
 まあ、また一つ近代俳句が遠くなったなという感じで、ご冥福をお祈りします。

2018年2月20日火曜日

 ようやくあちらこちらで梅が咲いているのを見るようになった。今日はやや暖かく、夕暮れには三日月(正確には五日の月)がぽっかりと浮かんでいた。
 こうなると思い出すのが、

 春もやや気色ととのふ月と梅   芭蕉

の句だ。元禄六年の春の句で、『続猿蓑』にも収録されている。木因宛ての書簡には正月廿日という日付がある。この句には真跡自画賛もあり、そこには右側に丸い月の上半分が描かれ、左下から梅の枝が伸びて、その上に句が書かれている。
 梅に朧月という情景は綺麗だけど特に新しいというものではない。むしろあまりにもベタだから、「やや気色ととのふ」とはぐらかした感じが面白い。これぞこれ春の景色は月と梅、では俳諧にならない。春には桜もあれば他にも目出度く華やかな景色を彩ってくれるものはたくさんある。その中では月に梅も「やや景色ととのふ」程度とする所が俳諧になる。
 月に照らし出される梅は目には幽かにしか見えなくて、それだけに香りが際立つ。月もまた朧に霞んでいる。梅は春の初めに咲くことから、時期的にも、「やや春らしくなったな」という時に咲く。
 この年の歳旦には、

 年々や猿に着せたる猿の面    芭蕉

の句を詠んでいる。梅に月という使い古されたテーマでも、「やや景色ととのふ」という口語的な言い回しで新しいお面を被せて新しい句に作り上げる、それはまさに「猿に着せたる猿の面」だろう。
 同じ年の春に、

 蒟蒻のさしみもすこし梅の花   芭蕉

 これは追悼句だという。精進料理の蒟蒻の刺身を亡き人に供え、そこに梅の花を添える。古今集の、

   あるじ身まかりにける人の家の梅の花をみてよめる
 色もかもむかしのこさににほへども
     うへけん人のかげぞこひしき
                 紀貫之

の古歌に「蒟蒻のさしみ」という新味のお面を被せている。
 古典の本意本情の不易に新味のお面を追加する。それが芭蕉の句の基本でもある。

2018年2月18日日曜日

 今オリンピックをやっている平昌の名物ということで干鱈がテレビで紹介されたりしていた。まあ、開会式の会場の寒さを揶揄して、これじゃあ干鱈になるなんていわれたりしたが、開会式の日はちょうど居座ってきた寒気団が移動して、若干寒さが緩んだようだ。
 平昌の干鱈はファンテと呼ばれる極寒の中で長期間乾燥させたもので、プゴよりも乾燥の進んだものだという。ファンテで作ったファンテクッは透き通ったシンプルなスープだという。
 日本にも似たものはある。棒鱈と呼ばれるもので、東北や北海道で冬の間やはり長期に渡って天日干ししたもので、京都では正月料理に用いられる。
 棒鱈は江戸時代からあったもので、元禄五年の初冬、許六亭で興行された、

 けふばかり人も年よれ初時雨   芭蕉

を発句とする「けふばかり」の巻の二十一句目に、

    當摩(たへま)の丞を酒に酔はする
 さつぱりと鱈一本に年暮て   嵐蘭

の句がある。正月に向けて年の暮れに長時間掛けて棒鱈を戻し、正月の準備をするという句だ。ファンテクッは酔い覚ましに良いというから、當摩の丞がいくら飲んでもこれがあれば安心という意味もあったのか。
 今では海老芋と一緒に醤油、みりんで炊く芋棒が京都名物になっているが、海老芋は江戸中期からというから、芭蕉の時代の料理法はよくわからない。

2018年2月17日土曜日

 学校の歴史の授業では、江戸時代は武士以外は苗字帯刀が禁じられていたと習うが、江戸時代の俳諧師の名前には大抵苗字のようなものがくっついている。
 江戸時代後期に書かれた竹内玄玄一の『俳家奇人談』『続俳家奇人談』は岩波文庫にもなっているので、手に入りやすいが、この目次を見ると、全員に苗字がついているわけではない。しかも本文を読むと、「苗字」という文字は出てこなくて、所々「姓」と記されている。
 一般には江戸時代は既に「姓」と「苗字」が混同されていたとされているが、果してそうだろうか。だったら、なぜ姓と苗字の両方の文字が出てこないのか。むしろ「姓」は本来の源、平、藤原などの限られた姓とは別に、苗字ですらない任意につけられたものを「姓」と呼んでいたのではないかと思われる。
 たとえば、俳諧の祖荒木田守武のところでは、「荒木田」は明らかに苗字なのだが、そこには特に「姓」とも「苗字」とも書かれていない。
 同じく俳諧の祖山崎宗鑑のところには、「本姓支那氏」と書かれている。足利家の家臣だが、支那氏を検索してもなかなか出てこない。ウィキペディアで山崎宗鑑のところを見ると、

 「近江国栗太郡志那村(後の常盤村、現草津市志那町)に生まれ、佐々木義清の裔で志那弥三郎範重と言い、幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)、一休禅師とも親しくよく連れ立って志那に来たと伝えられている。」

とある。
 そしてその後出家し、「山城国(摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた」とある。
 支那も山崎も地名で、おそらく苗字は佐々木だったものと思われる。苗字とは別に最初の姓(一種の通名)が支那氏、のちに山崎姓に改名したと考えれば納得がいく。
 松永貞徳は戦国大名の松永弾正の親戚で「松永」は苗字だったと思われる。ここには荒木田と同様、姓とも苗字とも書かれていない。
 野々口立圃はウィキペディアによれば、

 「先祖は地下侍といわれる。京都一条に生まれ、父の代に丹波国桑田郡木目村から京へ上り、雛人形を製造・販売していたため、雛屋を称す。」

とあり、『俳家奇人談』には「野々口立圃、初名親重、俗姓雛屋市兵衛」とある。屋号と思われる「雛屋」が俗姓とされている。
 松江重頼はウィキペディアによれば「京都の裕福な撰糸商人」とあり、武士ではなかった。『俳家奇人談』には「松江重頼、俗名大文字屋治右衛門、俳名維舟といふ。」とある。「姓」だったと思われるが特に書いていない。
 ここまで見ると「姓」は屋号も含めた一種の通名としても姓のことを言っていると思われる。
 さて、それでは芭蕉はどうかというと、まず名前を「松尾桃青」と記していて今日のように「松尾芭蕉」とは呼んでいない。「松尾芭蕉」という呼び名がいつ頃から用いられるようになったかは興味深いテーマだが、なかなか調べるのも大変なので今は保留する。
 芭蕉の俳号は桃青で、自らの住居を芭蕉庵と称したことで芭蕉庵桃青となり、自ら句の下に「はせを」と署名するようになった。それに出自を示す松尾の苗字を冠し、松尾桃青になったものと思われる。
 『俳家奇人談』には「松尾忠左衛門は、伊賀上野藤堂何某の近臣なり。」とだけあり「姓」とは記されてない。
 ちなみに伊賀の松尾氏は桓武平氏に端を発する柘植氏の系譜を引くから、芭蕉に本来の意味での姓があったとしたら「平」ではなかったかと思われる。世が世なら平宗房(たいらのむねふさ)になっていたか。
 其角の場合は『俳家奇人談』には「榎本其角」になっているが、「榎本(母方の姓、後改姓宝井)其角は、竹下東順が子也」とあり、途中で改姓している。ここで「姓」は途中で変えられるものだということがわかる。
 『続俳家奇人談』の「谷口蕪村」のところにも、「谷口蕪村は別姓与謝」とある。ウィキペディアには「本姓は谷口、あるいは谷」で、「丹後を歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。」とある。蕪村も姓を途中で変えたといっていいだろう。
 ここでいう「姓」が途中で変えられるという性格を持っている以上、やはり本来の姓でも武家の苗字でもない、一種の通名と考えるのが妥当であろう。
 それではこの通名としての「姓」は夫婦同姓だったのかどうかというと、それもよくわからない。女性の俳諧師は姓も苗字も記されていない。唯一の例外が田氏捨女で、「捨女は丹波の国田氏の娘なり」とある。結婚して苗字が変わったなら田氏ではなくなるが、「はたちの春宗族へ嫁して、ほどなく嬛(やもめ)となる。」とある。「宗族」は同じ田氏に嫁いだということなのか、出戻りだから田氏に戻ったのか、よくわからない。
 江戸時代の人の名前というのはなかなか難しい。年齢によっても名前を変えてゆくし、俳号と僧名を使い分けたり、奥が深い。
 近代のような戸籍上の本名というのがなかった時代だと、デスノートにはどの名前を記せばいいのか謎だ。

2018年2月16日金曜日

 今日は旧正月で韓国の皆さん、中国の皆さん、あけましておめでとうございます。日本人は‥‥関係ないね。
 日本は明治の初期に旧暦での行事が禁止され、ほとんどの行事は新暦に改められた。新暦にすると季節感が狂うからという理由で、七夕やお盆は新暦の一月遅れという妥協策がとられたが、旧暦では行われていない。新暦八月七日の七夕を旧七夕と言ったり、新暦八月十五日のお盆を旧盆と言ったりするが、正確ではない。正しくは月遅れ七夕、月遅れ盆だ。
 韓国では旧正月が連休になったり、秋夕も旧暦で行われ祝日になっているから、韓国のほうが伝統が生きているのだろう。日本は西洋かぶれの長州の連中に自己植民地化されたから、韓国や中国以上に徹底的に伝統が破壊されてきた。
 韓国の創氏改名は昭和十四年だが、日本では明治四年に姓尸(セイシ)不称令が出されて、姓を名乗ることが禁止されたことはあまり知られていない。以後明治八年に平民苗字必称義務令が出され、西洋に倣って夫婦同姓の「苗字」を名乗らねばならなくなり、苗字のことを「姓」だとか「氏」だとか呼ばせて、日本に本来苗字とは別に「姓」があったことを忘却させた。このことを知る日本人は少ない。結局韓国人の姓は残ったが日本人の姓はほぼ消滅した。筆者も自分の姓は知らない。
 日本の右翼は勉強しないから、夫婦同姓が日本の昔からの伝統だと信じ込んでいる。愚かなことだ。
 おもえば、日本の侵略戦争も去年の三月十五日の日記に書いたが、長州藩士の吉田松陰が言い出したことだった。日本は長いこと長州藩士とその後継者や長州崇拝者によって自己植民地化され、日本の伝統文化が破壊され続けてきた。連歌も俳諧も「愚なるもの」の一言で片付けられ、近代文学から長いこと排除されてきた。
 日本の文化人の評価した伝統文化は西洋人が評価したものだけだった。そんな日本も、文化人がいかに日本の文化伝統をこき下ろそうとも、庶民文化の中で伝統は形を変えて受け継がれている。いわゆる「文学」とか「芸術」とか呼ばれることの少ない大衆文芸の中で。
 芭蕉の俳諧は今日の芸人たちのお笑い芸に引き継がれているし、絵巻や俳画や浮世絵は漫画に引き継がれ、伝統音楽は今日のビジュアル系の音楽の中に息づいている。そして日本の本当の伝統の復興はまさにこれからだと思っている。
 我々日本人も伝統を大切にしていきたい。そして韓国や中国の人も伝統を大事にしていって欲しい。平昌オリンピックの開会式に出てきた五人の子供の未来の中にも、韓国の伝統の継承というのがあっても良かったなと思う。日本人だったら宮大工や刀鍛冶になるという未来があってもいいように。伝統分野とAIが結びつけば怖いものはないと思う。
 『卯辰集』に、

 曙の惜しや春たつ蝦夷が島  勤文

という句がある。曙の惜しや日本の旧正月。

2018年2月15日木曜日

 今日は旧暦だと十二月三十日で大晦日(おほつごもり)。

 月花に馴れし矢立も大三十日   由平

 これは大阪談林の賀子編の『蓮実』(元禄四年)の句。昔は矢立だったが、今は月花を記してきたキーボードの大晦日ということか。ただ、今は新暦の世の中なのでそんなに実感は湧かない。別に明日「あけましておめでとう」を言うわけではないし。
 今年は年内立春ということで、既に立春から十日以上経過している。昔はこういうときに「冬の春」という言葉があった。

 連歌師の去年とやいはん冬の春 菊阿(『正風彦根躰』)
 根つぎする柱ごよみや冬の春  同
 冬の春心の外や梅の花     智月(『韻塞』)

 まあ、今年は蝋梅を見に行ったり、熱海桜を見に行ったり、けっこう冬の春を楽しめた。蝋梅に熱海桜に冬の春。

2018年2月12日月曜日

 また寒さが戻ってきたけど、まあ今まで春が来なかったことはないから、すぐに暖かくなるにちがいない。もうすぐ旧正月で俳諧も春になる。
 アイスホッケーの次の試合は荒れなけりゃいいな。勝っても一切ガッツポーズなしでお葬式のように引き上げた方がいいんだろうな。浦和レッズの教訓。なぜか日本のマスコミはあちらの味方だから。
 では「日の春を」の巻、今日は一気に挙句まで。

 名裏、九十三句目。

   笑へや三井の若法師ども
 逢ぬ恋よしなきやつに返歌して 仙化

 女っけのない武家や寺院での男色は半ば公認のものだったが、これもその稚児ネタになる。
 とはいえこれはからかわれたのだろうか。いかにも脈の有りそうの和歌を送ってきて、それに返歌して逢いに行っても姿を見せてもくれない。三井寺の若法師たちのせせら笑う声が聞こえてくるようで切ない。

 九十四句目。

   逢ぬ恋よしなきやつに返歌して
 管弦をさます宵は泣るる    芳重

 舞台を王朝時代に変え、管弦のあそびも失恋の痛みから少しも楽しむ気分にはなれない。恨みがましい返歌を曲に乗せて歌い上げ、側近などもともに泪したのであろう。『源氏物語』などにあってもよさそうな場面だ。

 九十五句目。

   管弦をさます宵は泣るる
 足引の廬山に泊るさびしさよ  揚水

 これは白楽天が廬山尋陽で作詞した『琵琶行』を本説としている。

   琵琶行     白楽天
 今夜聞君琵琶語  如聴仙楽耳暫明
 莫辞更坐弾一曲  為君翻作琵琶行
 感我此言良久立  却坐促絃絃転急
 凄凄不似向前声  満座重聞皆掩泣
 座中泣下誰最多  江州司馬青衫濕

 今夜は君が琵琶を弾きながらする物語を聞くとしよう。
 仙楽を聴いているようで、耳は少しづつさえてくる。
 遠慮しないで坐ってもう一曲弾いてくれ。
 君のために「琵琶行」という詩に作り直してあげよう。
 私がそういうとしばらく立っていたが、
 再び坐り直すと絃を促し、激しくかき鳴らす。
 凄凄として今まで聞いたのと違う声となり、
 満座は重ねて聞いて、皆涙をおおう。
 座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、
 江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。

 元ネタでは琵琶の演奏で盛り上がることになるが、「管弦をさます」というところで若干元ネタと変えていることになる。

 九十六句目。

   足引の廬山に泊るさびしさよ
 千声となふる観音の御名    其角

 これは京都の廬山寺のことか。洛陽三十三所観音霊場の三十二番目の霊場となっている。巡礼者の唱える「南無観世音菩薩」の御名が聞こえてきたとしてもおかしくない。
 想像上の中国からいきなり京都の街中の現実に引き戻すあたり、さすが其角さんといった展開だ。

 九十七句目。

   千声となふる観音の御名
 舟いくつ涼みながらの川伝い  枳風

 熊野詣は本宮と新宮の間を船で行き来する。巡礼者は船の上で観音の御名を唱える。

 九十八句目。

   舟いくつ涼みながらの川伝い
 をなごにまじる松の白鷺    峡水

 納涼船を連ねて川を行くと、岸辺には水汲みや洗濯などの女たちの姿がちらほら見え、それに混じって白鷺の姿も見える。

 九十九句目。

   をなごにまじる松の白鷺
 寝筵の七府に契る花匂へ    不卜

 『夫木抄』の、

 みちのくの十符の菅薦七符には
     君を寝させて三符に我が寝む
             よみ人知らず

を本歌とする。
 『奥の細道』の多賀城へ向う所に「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻(とふ)の菅有。今も年々十苻の管菰(すがごも)を調て国守に献ずと云り」とある。十苻の菅は良質で、十苻の菅で編んだ御座はかつて都でも評判だったし、芭蕉の時代でもまだ作られていた。
 十符という数字に掛けて七符は君で三符は私と遠慮がちに分け合って添い寝する夫婦を詠んだ歌で、前句の「松の白鷺」を白髪の比喩と見たか、末永く寄り添う夫婦に桜の花よ匂えと祝福する。

 挙句。

   寝筵の七府に契る花匂へ
 連衆くははる春ぞ久しき   挙白

 前句の「寝筵」は捨てて、「寝筵の七府に契る」という花も匂ってくれ、こうしてたくさんの連衆が集まって俳諧百韻興行を成し遂げたその春をいつまでも、と締めくくる。

2018年2月11日日曜日

 先日仕事で通り過ぎた熱海へ、今日はあらためて遊びとして花見に行った。
 熱海桜はほぼ満開で、桜祭が行われ、たくさんの人が訪れていた。花が下向きに咲くあたり、やはり寒緋桜が入っている。今日は暖かくて春をフライングゲットした気分だった。
 熱海梅園の梅もよく咲いていた。韓国庭園があった。森元と金大中がここを訪れたことを記念して作られたものだという。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 八十七句目。

   欅よりきて橋造る秋
 信長の治れる代や聞ゆらん  揚水

 織田信長は言うまでもなく戦国時代の人で始終戦争に明け暮れ、徳川の太平の世なんて想像もしなかったにちがいない。「らん」はこの場合反語に取った方がいいだろう。今は太平の世で、欅の木を集めて橋を作る。

 八十八句目。

   信長の治れる代や聞ゆらん
 居士とよばるるから国の児  文鱗

 信長というと森蘭丸との関係が有名で、バイセクシャルだったとされている。それに信長は中国かぶれで、朝鮮半島から中国全土を征服して中華皇帝になろうとした人だったから、「丸」ではなく「居士」と呼ばれる中国のお稚児さんを囲っていそうだな、ということか。
 前句を信長の治めていた時代にこんな噂が聞こえなかっただろうか、と取り成し、中国の稚児を囲っていたという噂を付ける。
 今では「居士」というと戒名くらいにしか使われないが、中国の文人などが仏教に傾倒しながらも在家にとどまるものを居士というようになり、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

「中国では,唐・宋時代,禅がさかんになるとともに居士と称する人が漸増。龐居士,韓愈,白居易などがよく知られ,明代の《居士分灯録》,清の《居士伝》などの居士伝も選述されている。宋代の字書《祖庭事苑(そていじえん)》は,(1)仕官を求めず,(2)寡欲にして徳を積み,(3)富裕で,(4)道を守りみずから悟ることの4点をあげて,居士の定義としている。」

とある。信長が中華皇帝になっていたら、こうした人たちを稚児として侍らしていたとしてもおかしくない。

 八十九句目。

   居士とよばるるから国の児
 紅に牡丹十里の香を分て   千春

 中国の「居士」と呼ばれる文人なら牡丹を十里に渡って植えるようなこともしそうだ。まあ、「白髪三千丈」の国だから実際に十里なくても誇張してそういう詩を書きそうだ。

 九十句目。

   紅に牡丹十里の香を分て
 雲すむ谷に出る湯をきく   峡水

 十里の牡丹を花の雲に喩え、そこに湧き出る温泉があるとなれば、まさに極楽極楽。

 九十一句目。

   雲すむ谷に出る湯をきく
 岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨  其角

 岩山を地蔵を背負って運んでいたものの、その重さに耐えかねて地蔵は地面に落ちる。すると霊験あらたかにそこから温泉が湧き出てくる。ありがたやありがたや。

 九十二句目。

   岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨
 笑へや三井の若法師ども   コ斎

 これは「弁慶の引き摺り鐘」を本説にしたものだろうか。
 弁慶はその怪力でもって三井寺の鐘を背負って比叡山に持ってゆくが、そこで鐘を撞いてみると「いのー、いのー」と音がし、「いのー」は「去のう」で帰ろうという意味。そこで、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と谷底へ投げ捨てたという伝説が残されている。
 本説をとる場合は必ず少し変えなくてはいけないので、ここでは釣鐘ではなく地蔵にする。

2018年2月9日金曜日

 いよいよ平昌オリンピックも始まる。開会式どれが本当かCGか。この頃の技術はよくわからない。大量のドローンのコントロールの技術はおそらくインテルのもので、スーパーボウルでも用いられていたが、それよりもはるかに複雑になって精度の高いものになっている。
 伝統の踊りといかにも韓流アイドルといったヒップホップ系のダンスとの間が抜けていて連続しないあたりも、今の韓国文化の状況を象徴している。ちょっと前はラップとパンソリを融合しようなんてのもあったが。
 入場行進でのバミューダの人や上半身裸の人、寒い中でアンタは偉い。
 南北融和の演出はやはりこれでもかだった。
 これが夢に終らず、北朝鮮が早く核放棄して国際社会に復帰することを願い(と、この鈴呂屋俳話も政治的に)「日の春を」の巻の続きを。

 名表、七十九句目。

   あるじは春か草の崩れ屋
 傾城を忘れぬきのふけふことし 文鱗

 前句の崩れ屋を遊女に入れ込んだ挙句の果てとした。春を三句続けなくてはいけないので、「けふことし」で無理矢理歳旦の言葉を入れて春にしている。

 八十句目。

   傾城を忘れぬきのふけふことし
 経よみ習ふ声のうつくし   芳重

 傾城の遊女もいろいろなことがあったのか、今は出家してお経を読んで日々を過ごすが、そこはかつての傾城の美女。その声はやはり美しい。

 八十一句目。

   経よみ習ふ声のうつくし
 竹深き笋折に駕籠かりて   挙白

 竹林の奥深く、筍を掘りに行くとどこからか経を読む美しい声が聞こえてくる。
 『竹取物語』の最初の場面を踏まえているのだろう。「駕籠かりて」は「妻の嫗に預けて養はす。美しきことかぎりなし。いと幼ければ籠に入れて養ふ。」からの発想か。ただ、ここではただ読経の声が聞こえただけで、駕籠には筍を載せて持ち帰ったのだろう。

 八十二句目。

   竹深き笋折に駕籠かりて
 梅まだ苦キ匂ひなりけり   コ斎

 筍を掘る頃は梅もまだ熟してなくて苦い匂いがする。

 八十三句目。

   梅まだ苦キ匂ひなりけり
 村雨に石の灯ふき消ぬ    峡水

 前句の「苦き」を捨てて梅の花の匂いとする。石灯籠の火が消えて庭が真っ暗になると雨の匂いの中にかすかに梅の匂いが混じって、それが苦く感じられるということか。

 八十四句目。

   村雨に石の灯ふき消ぬ
 鮑とる夜の沖も静に     仙化

 「石の灯」を灯台にして、火が消えたから鮑取る海女も帰ってしまい静かになる。

 八十五句目。

   鮑とる夜の沖も静に
 伊勢を乗ル月に朝日の有がたき 不卜

 鮑といえば伊勢。

 伊勢の海女の朝な夕なにかづくちふ
     鮑の貝の片思ひにして
              よみ人知らず(万葉集)

の歌もある。
 前句を静かに進む船として、月と朝日に照らされて無事伊勢に辿り着いたことを有り難いという。

 八十六句目。

   伊勢を乗ル月に朝日の有がたき
 欅よりきて橋造る秋    李下

 切り出した欅の木を筏にして伊勢まで運び、伊勢神宮に橋を架ける。「秋」は放り込み。

2018年2月8日木曜日

 今日たまたま仕事で熱海の方へ行ったが、桜が咲いていた。河津桜がもう咲いているのかと思ったら、「あたみ桜」という河津桜よりも早咲きの種類だという。
 今年はどこの梅も遅いらしい。河津桜も遅れているという。日本も寒いが平昌はもっと寒いんだろうな。暖房が壊れてたりバスは来なかったり、日本選手には殊更寒そうだ。まあ、アメリカ映画でもそうだが、ハンディを背負ってもそれでも勝つというのが最高にかっこいい。期待しよう。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 七十五句目。

   萩さし出す長がつれあひ
 問し時露と禿に名を付て   千春

 「禿(かむろ)」はウィキペディアに、

 「禿(かむろ、かぶろ)は遊女見習いの幼女をさす普通名詞。
 本来はおかっぱの髪型からつけられた名であるが、時代と共に髪を結うようになってからも、遊郭に住み込む幼女のことをかむろと呼んだ。7 - 8歳頃に遊郭に売られてきた女子や、遊女の産んだ娘が該当する。最上級の太夫や、または花魁と呼ばれた高級女郎の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学んだ。」

とある。
 前句の長を遊女のこととし、その連れ合いのかむろの名前を聞かれた時、咄嗟に「露」と答えて、その場の名前とした。まあ、「露(仮)」といったところか。『伊勢物語』の、

 白玉か何ぞと人の問ひしとき
     露と答へて消えなましものを
               在原業平

の歌を踏まえて遊女が洒落てみたもので、元歌の意味と何の関係もないので、本歌や本説ではない。

 七十六句目。

   問し時露と禿に名を付て
 心なからん世は蝉のから   朱絃

 この付け句だと、前句と合わせて『伊勢物語』の本説となる。
 本説をとる場合、元ネタと少し変えなくてはならない。変えなければただのパクリだ。
 遊女はかむろを連れて逃げたもののかむろは連れ戻されてしまう。そこでなんと心無い世の中だ、まるで蝉の抜け殻のようだ、と結ぶ。
 「蝉のから」は空蝉ともいう。

 七十七句目。

   心なからん世は蝉のから
 三度ふむよし野の桜芳野山  仙化

 花の定座なので、前句の心に違えて心ある芳野山を出す。ただ、通常は「花」という文字を入れなくてはいけない。
 これより後の元禄三年の秋、『猿蓑』にも収録された「灰汁桶の」の巻の興行の時、去来は芭蕉に、この花の定座は桜に変えようかと提案する。このときのことは『去来抄』に記されている。

 「卯七曰、猿みのに、花を桜にかへらるるはいかに。
 去来曰、此時予花を桜にかへんといふ。先師曰、故はいかに。去来曰、凡花は桜にあらずといへる、一通りはする事にて、花婿茶の出はな抔も、はなやかなるによる。はなやかなりと云ふも據(よるところ)有り。必竟花はさく節をのがるまじと思ひ侍る也。先師曰、さればよ、古は四本の内一本は桜也。汝がいふ所もゆひなきにあらず。兎もかくも作すべし。されど尋常の桜に替たるは詮なし。糸桜一はひと句主我まま也と笑ひ給ひけり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,54~55)

 「四本の内一本は桜」という規則はいつ頃の何によるのかはよくわからない。連歌の式目『応安新式』では花は一座三句で、似せ物の花(比喩としての花)を入れて四句になっている。宗祇の時代の『新式今案』では、花は一座四句になる。ただ、ここでは三の懐紙の花を桜にしているから、「四本の内一本は桜」という芭蕉の知っているルールに従っているのであろう。
 ちなみの芭蕉の貞門時代の貞徳翁十三回忌追善俳諧「野は雪に」百韻の七十七句目は「一門に逢や病後の花心 一以」で、似せ物の花になっている。談林時代の延宝三年、宗因が江戸に来たときの「いと涼しき」百韻も、九十九句目が「そも是は大師以来の法の花 似春」で、やはり似せ物の花になっている。
 「花」は昔は一座三句だったし、一座四句になったといっても四句詠まなくてはいけないというものではない。だから、別に似せ物の花の句を入れなくても違反にはならない。百韻一巻に四花八月というのは式目にはないし、そもそも「定座」自体が式目にはない。戦国時代末期に習慣として定着したものだろう。
 三度(みたび)来てもやはり吉野の桜はすばらしく、人を圧倒するものがある。「よしの」を重複させることで、「よしの」が「良し」にかけて用いられることを意識させる。

 七十八句目。

   三度ふむよし野の桜芳野山
 あるじは春か草の崩れ屋   李下

 三度目の吉野来訪で、以前尋ねた草庵に行ってみたら空き屋になっていた。高齢でお亡くなりになったのか、あるじはなく、春だけがあるじか、と在原業平の「月やあらぬ」の心を感じさせる。

2018年2月7日水曜日

 もうすぐオリンピックが始まるが、今回はなにやら競技そっちのけの政治の匂いがぷんぷんする。南北融和と反日、それが今度のオリンピックのテーマなのか。
 ところで、日韓の対立を煽っているのが誰かという問題で、ヒントを少々。
 日本の左翼は、侵略戦争の原因を帝国主義論に基づいて、資本主義社会の必然だとしてきた。
 日本の左翼は戦後の植民地の独立などの動きを資本主義社会の変化としてではなく、あくまで米ソ対立への移行と捉え、アメリカを「米帝」と呼び、反米闘争を行った来た。
 日本の左翼は資本主義の世の中が続く限り日本は再び侵略戦争を起こすとし、平和のためには革命が不可欠だとしてきた。
 安倍政権に限らず、日本の左翼は一貫して歴代日本の首相に対し、軍国主義を復活させ、再び悲惨な戦争を起こすものであると批判し、糾弾してきた。
 日本の左翼はこの革命のために、常に外圧を利用してきた。日本政府が軍国主義を復活させ、再び戦争を始めようとしていることを、ことあるごとに世界に説いて回っていた。もちろんそこには韓国、北朝鮮、中国も含まれる。
 そのために、日本の左翼は旧日本軍の残虐性を実際以上に誇張し、その世界に類を見ない残虐さを、日本人が残虐な原始的衝動を抑えられない劣等民族であるからだと言い広めてきた。
 日本人は劣等民族だから、当然オリジナルの文化なんてものはなく、全て中国や朝鮮半島からの借り物だということも言い広めてきた。
 80年代に遠藤みちろう率いるザ・スターリンというバンドが、「おいらは悲しい日本人/西に東に文明乞食/北に南に侵略者」と唄っていた。タイトルは「stop jap」。こういう劣等民族観は日本の左翼の間では常識的なものだった。
 さて、これを信じてしまった韓国人は日本人をどう思うだろうか。戦争のことをいくら謝罪して、これからよりよい未来を作ろうと言っても信用するわけがない。日本という国そのものが消滅し、日本人がこの世から消え去る以外に解決策はない、と思うにちがいない。
 それだけではあるまい。その劣等民族に何で自分たちが勝てないのかと思い、そこで焦り、死に物狂いで勉強し働いて過酷な競争社会(ヘル・チョソン)を作り出している。これも日本人がいるからだ、ということになる。
 まあ、これはあくまで吹き込まれたイメージで、実際に日本人や日本文化に接すれば、なんか変だとは思うだろう。日本人も韓国人もほとんどの人はこんなことはみんな馬鹿げていると思っているだろう。だが、双方に少数ではあるが冗談ですまない人たちがいる。
 そう思えば、日本と韓国の間で何が問題なのか理解できるのではないかと思う。
 こやんも両親が日教組の教員で、典型的な左翼の家庭で育ったから、左翼の考え方はよくわかる。
 それでは「日の春を」の巻の続き。なかなか進まないし、さすがに百韻は長い。

 七十一句目。

   おもひあらはに菅の刈さし
 菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗

 本歌は、

 秋萩をしがらみふせて鳴く鹿の
     目には見えずて音のさやけさ
             よみ人知らず(古今集)

で、萩を菱に、鹿を高部に変えている。
 高部はコトバンクの「動植物名よみかた辞典 普及版の解説」に「動物。ガンカモ科の鳥。コガモの別称」とある。
 菱の葉の上に伏せる水鳥の哀れさに、菅を刈るのを途中でやめ、邪魔しないようにする。

 七十二句目。

   菱のはをしがらみふせてたかべ嶋
 木魚きこゆる山陰にしも   李下

 舞台を山の影にある寺のあたりとする。「たかべ」に「山陰」は、

 吉野なる夏実の河の川淀に
     鴨ぞ鳴くなる山かげにして
               湯原王(万葉集)

の縁。

 七十三句目。

   木魚きこゆる山陰にしも
 囚をやがて休むる朝月夜   コ斎

 「めしうと(囚)」は元の意味は召された人で、古くは舞楽をする人や貴族の私宅にかこってる女などを言ったが、やがて囚人の意味になった。ここでは、捕らえた盗賊の一味を山陰の岩屋か何かに閉じ込めていたのだろうか。朝になり、月は傾き、どこからか朝のお勤めの声が聞こえてくると、盗賊も脱走をあきらめ眠りに落ちる。

 七十四句目。

   囚をやがて休むる朝月夜
 萩さし出す長がつれあひ   不卜

 囚人と言ってもそんなに悪い人ではないか、無実の罪で捕らえられたか、村長の妻が少しばかり情けをかける。「月」に「萩」は付き物。

2018年2月5日月曜日

 「こやん」は韓国語で猫のことだが、これはちょうど八十八年のソウルオリンピックの頃に、その後の韓流ブームに先行するような韓国ブームがあり、又ちょうどその頃多言語のラボ活動にはまってたということもあってこんな名前をつけてしまっただけで、少なくとも自分の知る限り先祖に韓国・北朝鮮の国籍の人はもとより、他の外国人もいない。母方は奄美大島だが、まあこれは日本人といっていい。つまり純粋な日本人ということになる。
 ソテジ・ワ・アイドルの「ナン・アラヨ」に韓国のラップに興味を持ち、DEUXや朴善美とかも聞いた。
 その後、音楽の好みがヒップホップからメタルに変わったが、gostwind、gaia、sad legendなど、韓国にはいいバンドがたくさんある。mad fretとdark mirror ov tragedyは実際にライブを見た。アイドルだけが韓流ではないと言いたい。
 「嫌韓」は日本でもほんの一部の人のことだと思うし、多分韓国の「反日」も一部の人だと思う。慰安婦の少女像の前でデモしている人もそんなにたいした人数ではないし、日本の在特会のデモだってたいした人数ではない。その少数の活動を、テレビやネットがあたかも国全体に蔓延する大きな動きであるかのように煽り立てて、結局それが嫌韓・反日のムードを作っているだけなんだと思う。
 日本のいわゆるパヨクが根も葉もない「安倍が侵略戦争を企てている」というデマを流して、それを韓国人が真に受けて北朝鮮よりも日本の方が脅威だなんて思っているなら悲しいことだ。対立を煽っているのが誰なのか、敵を見誤らないようにしたい。
 沖縄の問題でもそうだ。対立を煽っているのは誰なのか、間違えてはいけない。小生も非力ながらアジアの平和を祈っている。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 六十七句目。

   梅はさかりの院々を閉
 二月の蓬莱人もすさめずや  コ斎

 蓬莱山は東の海にある神仙郷で、正月には米を山のように盛り、裏白やユズリハや乾物などを乗せた掛蓬莱を飾った。
 二月に入っても掛蓬莱を飾ることがあったのかどうかはよくわからない。
 ここでは前句の梅を二月(きさらぎ)の蓬莱と呼んだのかもしれない。梅の枝は蓬莱の玉の枝のようでもあり、それを愛でずにお寺の門を閉ざしているのを見て、二月にも蓬莱があるのに心を寄せることがないのだろうか、となる。
 「すさぶ」「すさむ」は心の趣くままにという意味で、「すさめ」はその他動詞形。

 六十八句目。

   二月の蓬莱人もすさめずや
 姉待牛のおそき日の影    芳重

 蓬莱から来る正月様は牛に乗ってやってくる。

 誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年  芭蕉

は貞享二年、『野ざらし紀行』の旅の途中、故郷の伊賀で正月を迎えたときの句だ。
 二月の牛はそんな正月の牛のように心引かれることもなく、ただ待っている姉の元へゆっくりと歩いて行く。それはまるで遅日の歩みのようだ。

 六十九句目。

   姉待牛のおそき日の影
 胸あはぬ越の縮をおりかねて 芭蕉

 「胸あはぬ」は、

 錦木は立てながらこそ朽ちにけれ
     けふの細布胸合はじとや
               能因法師
 みちのくのけふの細布程せばめ
     胸あひがたき恋もするかな
               源俊頼

などの用例がある。「狭布(けふ)の細布」は幅が細いため、着物にしようとすると胸が合わないところから、逢うことのできない恋に掛けて用いられた。
 「越後縮(えちごちぢみ)」はウィキペディアの「越後上布」の項に、

 「現在では新潟県南魚沼市、小千谷市を中心に生産される、平織の麻織物。古くは魚沼から頚城、古志の地域で広く作られていた。縮織のものは小千谷縮、越後縮と言う。」

とある。「縮織(ちぢみおり)」はコトバンクの「大辞林第三版の解説」によれば、

 「布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯よこ糸に強撚糸を用いて織り上げたのち、湯に浸してもみ、皺を表したもの。綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮など。」

だという。
 前句の「牛」から牽牛・織姫の縁で、狭布(けふ)の細布ならぬ越後縮みを折る女性を登場させたのだろう。
 ただ、ここでは胸が合わないのは元々細い布だからではなく、多分皺をつけるときに縮みすぎたのだろう。なかなか思うような幅に織れなくて、牽牛は延々と待たされている。

 七十句目。

   胸あはぬ越の縮をおりかねて
 おもひあらはに菅の刈さし  枳風

 菅(スゲ)は笠や蓑を作るのに用いられる。「刈さし」は刈ろうとしてやめる。女は逢うことのできない恋に縮みを折りかね、男は菅を刈ろうにも手につかづ、思いをあらわにする。相対付け。

2018年2月4日日曜日

 今日は松田町の寄(やどりき)ロウバイ園へ蝋梅を見に行った。朝は曇っていて、わずかだが雨が降った。蝋梅は見頃でいい香りがした。
 立春だが相変わらず寒い。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 六十三句目。

   にくき男の鼾すむ月
 苫の雨袂七里をぬらす覧     李下

 「苫」は古語辞典によれば「スゲ・カヤなどの草を編んだ薦(こも)。小屋の屋根・周囲や船の上部などを覆うのに使う。」とある。
 「苫」に「ぬらす」とくれば、百人一首でもおなじみの、

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
     わが衣手は露にぬれつつ
               天智天皇

の歌が思い浮かぶ。「苫は雨」本当の雨ではなく苫から漏れ落ちる露のことで、涙を象徴する。
 にくき男が月のある夜に鼾をかいて寝ていても、我が袖は袂七里を濡らすかのようだと、白髪三千丈的な大げさな表現をする。七里を旅する男の句で、「にくき男」はこの場合恋敵か。

 六十四句目。

   苫の雨袂七里をぬらす覧
 生駒河内の冬の川づら    揚水

 生駒山の西側は河内の国、そこを流れる川というと恩智川だろうか。恩智川は小さな川だが、生駒山のほうからたくさんの水が流れ込むため、しばしば氾濫を起こした。
 この句は生駒の袂にある河内の冬の川は、雨が降ると七里に渡って氾濫を起こす、という意味か。

 三裏、六十五句目。

   生駒河内の冬の川づら
 水車米つく音はあらしにて  其角

 このあたりは米屋が多かったのだろうか。川の水で水車を廻し一斉に精米作業を行う。その音はまるで嵐のようだ、と。

 六十六句目。

   水車米つく音はあらしにて
 梅はさかりの院々を閉    千春

 「院」はこの場合僧の住居を兼ねた小寺院のことか。水車の音がうるさくて、せっかく梅の咲いた寺院も閉じて静かな所に行ってしまった、ということか。

2018年2月3日土曜日

 一昨日から昨日にかけての雪はたいしたことなくてすんだ。
 今日は節分で、一応豆まきをして恵方巻を食べた。世間では恵方巻の大暴落が伝えられている。確かにあれは最近になって大阪の海苔業界とセブンイレブンの陰謀で作られた行事だが、それを言えば初詣は電鉄会社の陰謀だし、ハローウィンのお菓子配りもアメリカの製菓会社の陰謀だし、行事なんてのは最初はたいした意味のなかったものが、後付でいろいろと理由が付けられてできてくようなところはある。
 トカラ列島の宝島に油が流れ着いているという。一ヶ月近くも前の(一月六日の)タンカー事故が今になって何だかとんでもないことになっているような。

 それでは「日の春を」の巻の続き。
 五十九句目。

   親と碁をうつ昼のつれづれ
 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風

 「奈良」とあるが「楢」であろう。「楢の広葉」は古歌に用例がある。

 朝戸あけて見るぞさびしき片岡の
     楢のひろ葉にふれる白雪
              源経信(千載集)

 ただ、ここでは餅に巻く楢の葉のことで、柏餅を楢柏で代用することもあったようだ。「木花-World」というサイトには、「奈良県内にはカシワは少なく、ナラガシワで柏餅を作るそうです。」とある。
 カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、子孫繁栄を表わすといわれていて、前句の「親と碁をうつ」という親子仲睦ましい雰囲気を受けている。
 柏餅はもとは葉を食器代わりに用いていた時代に、強飯や餅を木の葉の上に乗せたところからきたと思われる。Mengryというサイトによれば、

 「江戸時代に俳人として有名だった齋藤徳元がまとめた書物「拝諧初学抄」において、1641年のものには5月の季語として「柏餅」が記載されていませんでした。
 ところが、1661年から1673年にかけて成立した「酒餅論(しゅべいろん)」では、5月の季語として柏餅が紹介されていたからです。
 そのため、柏餅が端午の節句の食物として定着したのは、1641年以降だと考えられます。」

だそうで、これだと芭蕉の時代には既に端午の節句の桜餅が定着していたことになる。あるいは「柏餅」という季語を避けるために「楢の葉」としたのかもしれない。
 齋藤徳元については2017年11月21日の日記でもちょこっと触れている。貞門の俳人で、あの斎藤道三の曾孫で、織田信長、織田秀信に仕え、徳川の世になって江戸の市井の人となり和歌の教師をやっていた。

 六十句目。

   餅作る奈良の広葉を打合セ
 贅に買るる秋の心は     芭蕉

 「贅(にへ)」は古語辞典によれば「古く、新穀を神などに供え、感謝の意をあらわした行事」とあり、「新穀(にひ)」と同根だという。それが拡張されて朝廷への捧げものや贈り物にもなっていった。
 前句の「餅作る」を端午の節句の柏餅ではなく神に供える新穀とし、「奈良」を楢ではなく文字通りに奈良の都とする。「広葉を打合セ」を捨てて、奈良で餅を作り新穀として献上するために買われてゆくのを「秋の心」だなあ、と結ぶ。

 六十一句目。

   贅に買るる秋の心は
 鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ  朱絃

 秋の心といえば鹿の声。わかりやすい。

 六十二句目。

   鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ
 にくき男の鼾すむ月     不卜

 鹿の妻問う声の切なさをアンタにも聞いてもらいたいものだ。鼾かいて寝やがって、と恋に転じる。「月」は放り込み。