ネットで注文していた『捨女句集』(捨女を読む会編著、二〇一六、和泉書院)が届いた。
「捨女句集」は捨女自身が書き残した自筆の稿本で、いつごろ書かれたかは定かでない。一六七四年(延宝二年)に夫と死別し、仏門に入って以降は俳諧から離れていたとすると、俳諧の方での活動は延宝の初めまでで、句集はそのあとに過去の作品をまとめようとしたものかもしれない。
丹波新聞のサイトによると、伊賀在住時代の宗房(後の芭蕉)が二十八句入集の鮮烈なデビューを飾った季吟撰の『続山の井』に、捨女は三十八句入集していたという。捨女が最も活躍したのはおそらくこの頃だったのだろう。だとしたら、捨女が談林の流行期には既に俳諧から離れていたわけだから、談林や蕉門の俳諧師との交流がなかったとしても何ら不思議はない。「捨女句集」の句はいずれも典型的な貞門の句で、談林や蕉門の影響は見られない。
季吟編の『続連珠』(延宝四年刊)に初出する、
花をやるさくらや夢のうき世者 捨女
があるいは最後の作だったのかもしれない。
「花をやるさくら」というのは「正花を演じる桜」というような意味か。そのさくらは「夢のうき世者や」であり、末尾の「や」を倒置にして前に持ってきて「花をやるさくらや夢のうき世者」となる。「うき」は夢に浮かれているものと「憂き」との両面の意味を持つ。つまり浮かれてはいるが、散る定めを思うと憂きものでもあるというわけだ。そこには「この世は夢」という夫に先立たれての出家の暗示を読み取ることができる。
この句集には、一番有名な「二の字二の字」の句が入ってないことと、この句の初出が『続俳家奇人談』であることから、数え六歳の時にこの句を詠んだというのは伝説に属するようだ。まあ、疑えば疑えるが、だからといってはっきり否定できる証拠があるわけでもない。
捨女の「女」は女性俳諧師に添えられる文字で、同様な例で加賀の千代女がいる。この場合の「加賀」は苗字ではなく、加賀の人という意味。当時は今のような本名の概念があったわけではないが、俳諧師としてではなく普通に呼ぶときは「おすてさん」だったのだろう。今日では田捨女と呼ぶことが多いが、これは明治以降の苗字+名前(俳号)の表記法によるもの。
捨女の出身地の柏原(かいばら)と京都は、篠山(ささやま)街道で繋がっていたから、京都へ出るのにさほどは苦労しなかったのだろう。この街道は古代の山陰道を継承するもので、確かに道筋はかなり直線的だ。
さて、その句集の句を少し見ていこう。
こぞのしわすことしのびてや若えびす 捨女
「師走」と「皺」を掛けて、去年の師走の皺も今年はのびて皺がなくなり、若恵比寿になる、という句だ。
この句は、
年は人にとらせていつも若夷 宗房(後の芭蕉)
の句と比較すると良いかもしれない。
若夷はweblio辞書の「三省堂大辞林」によれば、「恵比須神の像を刷った札。近世,元日の早朝に売り歩いた。門に貼ったり歳徳棚(としとくだな)にまつって一年の福を祈った。」という。
昔の数え年では正月になると一歳年を取る。誰だって年はとりたくないから、いつまでも若くいられるようにという願いを込めて若夷を飾ったのだろう。 捨女の句の皺が伸びて欲しいというのはいかにも女性的な願いだ。これに対し芭蕉は、自分は年を取ったが若夷だけはいつも若いままで「人に年をとらせてずるい」と、シュールな発想のなかにも自分は現実に年を取っているという現実を直視した部分とが同居している。突飛なことを言いながらもしっかり現実を見ている、これが終生芭蕉のキャラクターとなってゆく。
猫の日はもう過ぎたが、猫の句が出てきたので、
ざれあいてつな引きするや猫のまね 捨女
これは「猫のまねてざれあいてつな引きするや」の倒置であろう。猫が二匹縄にじゃれている様が小正月の前の十四日の綱引みたいだ、という意味ではないかと思う。じゃれあって綱引?何だろう?とおもわせて「猫のまね」で落ちをつけている。
妻こうやねうねうとなく猫の声 捨女
猫は寝るから猫だという説は良く知られているが、語源的には「ねうねう」と鳴くから猫だという説が有力だ。この「ねうねう」という泣き声を「寝う寝う」に掛けて妻を誘う声にしている。昭和末期に「にゃんにゃん」が性行為を表す隠語として用いられたのをちょっと思い出す。
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