2022年2月28日月曜日

 どうやら想像以上にウクライナ軍の士気が高く、ロシア軍が難航している。これは大きな希望だ。プーちんがいくらイキってもウクライナ一つ落とせないというのなら、ロシアの威信は失墜し、国民の怒りは爆発するし、中国側も「使えねーな」ってなる。
 ロシアが弱体化したらシーもネルチンスク条約の領土を返せとか言いそうだな。その時は日本も北方領土奪還のチャンスだ。
 ただ、ロシアが崩壊して西側に落ちるとなるとシーとしては面白くない。パラリンピック終了まで時間を稼げれば、中国参戦も考えらる。
 あともう一つ考えたくない想定だが、ロシアの起死回生の一撃があるかもしれない。それは、いったんロシア軍を引き揚げ、ロシア系住民に退去を命令し、勝利に湧き立つキエフを核攻撃するというシナリオだ。NATO加盟国の主要都市を核攻撃したなら、バイデンもかなり躊躇しながらも、最終的にモスクワを火の海にするかもしれない。だが、今のアメリカだとキエフならスルーする可能性が高い。
 NATOや米軍が手を出さないのは、ロシアはせいぜいウクライナ止まりだという想定によるものではないかと思う。ウクライナの先を狙っているなら、手を出さなくても早かれ遅かれ第三次世界大戦になる。そこをどう判断するかだな。
 維新の会はせっかく乗ってたのに、親ロシア発言はまずかったな。橋下さんは時々付く所を間違える。俺もウクライナへ行って戦うぞーとかやってくれたら人気出たのに。
 まあ、今や世界の命運がウクライナ軍に掛かっているといってもいい。ウクライナに足を向けては寝れない。

 それでは俳諧の方に戻り、『阿羅野』の初春の発句の続きを見てみよう。旧暦の一月(初春)もあとわずか。

   当座題

   さし木
 つきたかと兒のぬき見るさし木哉 舟泉

 挿し木が根付いたかどうか、抜いて確かめたんじゃ、いつまでたっても根付かない。
 でも似たようなことって、ついついやってしまうものだ。稚児が勉強していると、何度も「勉強してるか?」といって顔出して、かえって勉強の邪魔になるし、それがうざくてやる気をなくす。教訓とすべし。

   接木
 つまの下かくしかねたる継穂かな 傘下

 継穂(つぎほ)は台になる木に継ぐ若芽の方を言う。
 「つま」があえて平仮名標記なのは、「妻(つま)」と「端(つま)」を掛けているからだろう。
 端(つま)は家屋の軒のことで、屋根の形状で切妻(きりつま)というのがある。その屋根の端の下に隠すことのできない接ぎ木がある、というのだが、何で隠しているのかよくわからない。妻が隠している、というと密かに育てているという意味になる。
 そうなると、この「継穂」は隠し子の連想をさそうことになる。

   椿
 暁の釣瓶にあがるつばきかな   荷兮

 椿は花びらが一つ一つ散らずに、花ごとぼとっと落ちる。朝一番に釣瓶に汲んだ井戸の水に、それが浮かんでいる。

   同
 薮深く蝶気のつかぬつばき哉   卜枝

 椿は厚葉樹(あつばき)とも呼ばれるように、分厚い葉っぱの茂る中に咲く。そのため、椿の木は薮に埋もれやすく、よく見ないと咲いている花を見落とす。
 それを蝶だって気付かないのではないか、と俳諧にする。

   春雨
 はる雨はいせの望一がこより哉  湍水

 望一(もいち)はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「望一」の解説」に、

 「1586‐1643(天正14‐寛永20)
  江戸前期の俳人で,伊勢俳壇の指導者。〈もういち〉ともいい,望都,茂都とも記す。姓は杉木。伊勢山田の人,また一志の人とも。伊勢神宮の師職家中でも文芸愛好者の多い杉木一族に生まれ,盲人で勾当(こうとう)の官位を得た。作風は平凡だが,その《伊勢俳諧大発句帳》が《犬子(えのこ)集》の基盤をなすなど俳諧史的意義は軽視できない。作品は《望一千句》(1649),《望一後千句》(1667)など。〈花に来ぬ人笑ふらし春の山〉(《毛吹草》)。」

とある。
 こよりは「こより文字」のことであろう。紙を細く撚った糸のようなものを紙の上に張り付けて、盲人でも読めるような立体文字にする。
 ただ、紙に紙を張ってあるだけなので、晴眼の人には何が書いてあるのかよくわからない。
 霧のように細かい春雨はこより文字のようなもの。

   同
 春の雨弟どもを呼でこよ     鼠弾

 これは「花の弟」であろう。梅を花の兄というが、春の雨はそれに次いで咲く様々な花を連れて来る。
 なお、「花の弟」と言った場合に、一年の終わりに咲く花という意味で菊を意味することもある。正確には花の末子というべきだろう。

   白尾鷹
 はやぶさの尻つまげたる白尾哉  野水

 白尾鷹は「精選版 日本国語大辞典「白尾の鷹」の解説」に、

 「鵠・鶴などの白い羽を用いて継尾(つぎお)をした鷹。《季・春》
  ※新撰菟玖波集(1495)雑「身をわするるや恋のことはり つみそともしらす白尾の鷹すへて〈西園寺実遠〉」

とある。
 鷹狩はイヌワシ、オオタカ、ハイタカなどともに、ハヤブサも用いる。他の鷹に比べて尾が短いために、白尾が裾をつまんで足がのぞいているみたいに見える。

 「当座題」はここまでで、ここから先は「初春」の続きになる。

 蛛の井に春雨かかる雫かな    奇生

 蛛(くも)の井(ゐ)は蜘蛛の囲で蜘蛛の巣のこと。
 春雨は目に見えなくくらい細い雨だが、蜘蛛の巣に掛ると雫になって、その姿が見える。

 立臼に若草見たる明屋哉     亀助

 作者の所に「十一歳」とある。『去来抄』「修行教」には「蕉門の発句は、一字不通の田夫、又は十歳以下の小児も、時によりては好句あり、却而他門の巧者といへる人は覚束なし。」とあるが、一応十歳は越えている。
 立臼は地上に設置した臼で、餅などを搗くのに使う。空家になって庭に放置されたままになっていて、それが若草に埋まっている。立臼は大きなもので、木製だとすぐに腐って使い物にならなくなるから、誰も持って行こうとしなかったのだろう。
 立臼は背の低い太った女の比喩としても用いられるから、本物の臼の方もそう背の高いものでなく、そのために草に埋もれて行く。
 荒れ果てた庭は『伊勢物語』の「月やあらぬ」の情を引き起こし、寂び色があるが、狙ってない所がいい。

 すごすごと親子摘けりつくつくし 舟泉

 「すごすご」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「すごすご」の解説」に、

 「① 気おちして元気のないさま、また、ひとりわびしく、しょんぼりとしているさまを表わす語。
  ※金刀比羅本保元(1220頃か)中「維行力及ばずして只一騎すごすごとぞひかへたる」
  ※仮名草子・可笑記(1642)二「其方はいつ来て見るにも、ただひとりすごすごとして、友なひあそぶ人もなし」
  ※苦の世界(1918‐21)〈宇野浩二〉五「両国からすごすごと乞食のやうに電車のすみに乗って」
  ② 特に、移動する状態で、元気なくその場を離れるさまを表わす語。
  ※車屋本謡曲・放下僧(1464頃)「放下の姿に身をやつして、さもすごすごと立ち出づる」
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「追立てられ、すごすごと帰りけるが」

とある。
 今日の子どものレジャーのような土筆摘みではなく、貧しい親子の生活のための土筆摘みであろう。ミレーの「落穂ひろい」のような哀愁が漂っている。

 すごすごと摘やつまずや土筆   其角

 「土筆」だけで「つくつくし」と読む。土筆を摘みに行かされた子供だろうか。あまりやる気はなさそうだ。土筆をあまりたくさん摘んでしまっても、次は袴取りが待っている。

 すごすごと案山子のけけり土筆  蕉笠

 「すごすごと」は摘む姿ではなく、案山子をのける姿になる。収穫期が終わったのに残っている案山子は、確かに邪魔なだけだ。

 土橋やよこにはへたるつくつくし 塩車

 土橋は木橋の上に土を盛った物。土橋の横の方にも土筆が生えていて、こんな所にも、という生命の逞しさを感じさせる。

 川舟や手をのべてつむ土筆    冬文

 水辺の土手の土筆は、川を行く小舟から手を伸ばして摘む人がいる。

 つくつくし頭巾にたまるひとつより 青江

 たまたま土筆を見つけて一本摘んだものの、容れ物がなく、頭巾を脱いでそこに入れてゆくと、いつの間に頭巾がいっぱいになる。
 春で暖かくて頭巾も要らないくらいだ、という意味もある。
 土筆を生活の一部としない、ただ春の珍しさに摘んでいくだけの隠者であろう。

2022年2月27日日曜日

 ロシアはオリンピックの終了に合わせて動き出したが、中国が動かないのはまだパラリンピックをやらなくてはならないからだろう。パラリンピックの終了と同時に中国も動き出す可能性がある。
 ロシアと中国の連携はオリンピック外交で確認済みだと思うし、何らかの密約があると思っていい。ジャンプ団体の銀メダルとワリエワさんの出場はその時のプレゼントだろう。
 トランプさんがプーチンは天才だと言ったのはよくわかる。筆者も思わず「敵ながら天晴」と言ってしまったからね。あの人の良い所は、とにかく何考えているかが分かりやすいところだ。だから背後の組織がなくても人間力で大統領になれたんだね。バイデンさんはわかりにくいというよりか、何も考えてないんじゃないかという気がする。
 若い頃一通り勉強して、何か分かった気になると、そこで思考を停止してしまう。そんな大人にはなりたくない。
 思うに、最初に人類が誕生した時には、どんなに強い奴でも大勢でかかればやっつけることができるというのを発見し、それで完全な「出る杭は打たれる」状態が生じて、レビ=ストロースの言う「冷たい社会」が生じた。
 完全な「出る杭は打たれる」状態では、誰も優位に立つことができない。これをマルクス主義者は原始共産制の理想社会とした。
 ところが、文明が発達すると、高度にして高価な武器が次々と発明され、この均衡は装備の差で覆された。つまり、最高の装備を持つ者は、容易に大量殺戮を行うことができる。そのため、最高の装備を持つ強者はもはや民衆の力では倒せない。
 それを覆して、独裁のない世の中を作ろうとするのがどんなに難しいことか。少なくとも発想をがらりと変える必要がある。
 救いがあるとすれば、核兵器は一人では作れないし、一人では管理も操作もできない。つまりある程度かなりの人数がないと、この破壊的な攻撃力のある武器は扱えない。ここに必ず弱点があるはずだ。
 とにかく、これまでにない発想が求められる。ロシアの脅威は迫っている。繰り返すが南泉斬猫のような一匹の猫の命がかかっているのではない。地球上の七十億人の命がかかっている。

 宗祇・宗長の『宗祇終焉記』の旅では直江津から草津に行くのに「信濃路にかかり、千曲川の石踏みわたり」とあるところから、長野を経由し、碓氷峠を越えて草津に入ったと思われる。
 これに対し々『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)に収録されている『北国紀行』の尭恵は直江津から柏崎へ行き、三国峠を越えて草津に入るルートを辿っている。
 時は文明十八年(一四八六年)の八月の末で、

 「明れば越後の府中に赴きて旅情を慰むる事数日になりぬ。八月の末には又旅立、柏崎といへる所まで夕越え侍るに、村雨打そそきぬ。

 梢もる露は聞けども柏崎
     下葉に遠き秋のむら雨

 かくて重れる山、連なれる道を過ぎ行程、曠絶無人ともいふべし。越後・信濃・上野の境、三国の峠といへるを越けるに、諏訪の伏拝みあり。

 諏訪の海に幣を散らさば三国山
     よその紅葉も神や惜まむ」(北国紀行)

 三国峠は今は国道17号線が通っている。十七号線は柏崎の方へは行かないが、小千谷でこの道筋に合流し、魚沼、湯沢を経て三国峠に出たのだろう。
 「曠絶無人」は『妙法蓮華経』に「譬如五百由旬、険難悪道、曠絶無人、怖畏之處。(譬えば五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて人なき怖畏の處あらん。)とある。(ネット上の椿正美さんの「『妙法蓮華経』の譬喩表現に関する一考察」より)
 整備された街道ではなく、人通りも少ない険しい山道だった。
 今日の旧三国峠には御阪三社神社がある。上州の赤城神社、越後の弥彦神社、信州の諏訪神社の三社を祀っているというが、かつっては諏訪神社のみだったか。

 「重陽の日、上州白井といふ所に移りぬ。則藤戸部定昌、旅思の哀憐を施さる。十三夜に一続侍しに、寄月神祇、

 越ぬべき千年の坂の東なる
     道守る神月やめづらん」(北国紀行)

 上州白井は今の渋川氏白井で、享徳の乱の時に白井城が築城されたと推定されている。利根川と吾妻川の合流する辺りで、三国峠からだと沼田へ出て、そこから南へというルートであろう。重陽は九月九日。

 「これより桟路を伝ひて草津の温泉に二七日侍て、詞も続かぬ愚作などし、鎮守明神に奉納し、又山中を経て伊香保の出湯に移りぬ。雲を踏むかと覚ゆる所より、浅間の嶽の雪いただき、白く積り初て、それより下は霞の薄く匂へるごとし。

 なかばより匂へる上の初雪を
     浅間の嶽の麓にて見る」(北国紀行)

 渋川の白井城から草津というと、中之条、長野原経由か。鎮守明神は今の白根明神であろう。
 伊香保は渋川の近くだから、ここからそのまま戻っても行けるが、あえて山中を通っている。「雲を踏むかと覚ゆる所」だから、高山の稜線をたどる道であろう。
 白根明神に詣でたなら、草津白根山から今の白根硫黄鉱山跡に降りるルートか。そこから長野原に戻り、渋川の方から伊香保温泉へ行く。

 「一七日伊香保に侍りしに、出湯の上なる千嶽の道をはるばるとよぢ登りて、大なる原あり。其一方に聳たる高峰あり。ぬの嶽といふ。麓に流水あり。是を伊香保の沼といへり。いかにしてと侍る往躅を尋ねて分登るに、「から衣かくる伊香保の沼水を今日は玉ぬくあやめをぞ引く」と侍し京極黄門の風姿まことに妙なり。枯たるあやめの根、霜を帯たるに、まじれる杜若の茎などまで、昔むつましく覚えて、

 種しあらば伊香保の沼の杜若
     かけし衣のゆかりともなれ」(北国紀行)

 伊香保温泉から今度は榛名山に登る。「ぬの嶽」は今の榛名富士のことと思われるが、こういう古い呼び方があったのかどうかはよくわからない。榛名山にはいくつものピークがある。外輪山の掃部(かもん)ヶ岳が最高峰になる。
 ウィキペディアには、

 「山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士溶岩ドーム(標高1,390.3 m)がある。495年頃(早川2009)と約30年後に大きな噴火をしたと見られている。中央のカルデラと榛名富士を最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ 標高1,449 m)、天目山(1,303 m)、尖った峰の相馬山(1,411 m)、二ッ岳(1,344 m)、典型的な溶岩円頂丘の烏帽子岳(1,363 m)、鬢櫛山(1,350 m)などが囲み、更に外側にも水沢山(浅間山 1,194 m)、鷹ノ巣山(956 m)、三ッ峰山(1,315 m)、杏が岳(1,292 m)、古賀良山(982 m)、五万石(1,060 m)など数多くの側火山があり、非常に多くの峰をもつ複雑な山容を見せている。」

とある。
 「麓に流水あり」は沼尾川のことであろう。榛名湖から流れていて、「伊香保の沼」はその榛名湖のこととされている。
 尭恵のこの辺りの旅は、むしろ登山を楽しんでいるといった風がある。当時の旅としてはやや例外的なものだったのではないかと思う。
 このあと尭恵は上野国府の長野の陣所に行く。上野国府は今の前橋というよりは新前橋に近い。利根川の西岸になる。
 その後は、佐野の舟橋へ行く。渡ったのではなく西岸を通り過ぎたのであろう。妙義山や荒船山が見えたことを記している辺りも、山好きだったことが窺われる。
 その次は深谷の庁鼻和城跡へ行く。この辺りは後の中山道、今の国道十七号線に近い道筋といっていいだろう。
 「其夜は弥陀と云所に明して」の弥陀は鴻巣市蓑田だという。次の「鳩が井の里」が鳩ケ谷だとすれば、後の中山道よりはやや東へ寄っている。おそらく千住の方を通って、今の鳥越神社のある台東区の鳥越に辿り着いたのだろう。鳥越は古代東海道の通り道で、武蔵国府(府中市)へ行く道と延喜式東海道の分岐点だったと思われる。
 鳥越にしばらく滞在している間には、湯島天神にも参拝している。
 この後、急に鎌倉山へと飛ぶので、その間のルートはわからない。尭恵の興味はもっぱら山だったようだ。

2022年2月26日土曜日

 山内図書館の前の河津桜はまだ二分咲き。
 途中に野菜を売りに来ている人がいて、ビーツが百円なので即買い。ボルシチはウクライナ料理だということで、ボルシチを食べてウクライナを応援しよう。
 グローバルな時代というのは、第一次大戦後に一度あったという。そして二度目が冷戦崩壊後、中国やロシアで開放政策が続いた時代。どちらの時代も独裁者によって終結し、大戦へと導かれて行った。それでも三度目はいつか必ず来るし、来させなくてはいけない。
 この二回の失敗は、いずれも独裁者の暴力に無力だったということだ。その失敗を踏まえて三度目の正直を勝ち取るためには、何らかの形で市場が独裁者を無力化できる手段を考えなくてはならない。
 さすがにグローバル市場が独自に軍隊を持つというのは無理だろう。その軍隊も独裁国家に勝てるほど強くなくては意味がない。どこの国の軍隊も市場に従わざるを得ないような状況を作り出す、という方向で考えた方がいいのか。
 戦争には金がかかる。その資金調達、武器の開発や購入、その辺りで市場が介入できるようなシステムを作れば良いのか。
 今のグーグルアースの技術なら、民間で世界中の軍隊の動きを捉えて、その情報を投資家に提供するサービスなんてのもできるかもしれない。戦争のリスクの高まった国から、すぐに資本を引き揚げることができる。
 とにかく、祈るだけでは戦争はなくならない。憲法や国際条約も破る奴がいたらそれで終わりだ。武器を持たない民衆の力なんてのも脆いものだ。もっと具体的に、戦争ができなくなるシステムを作り上げなくてはならない。鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。最終回。

 『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』のテキストは、このあと、三条西実隆からの返信を掲載している。

 「三条西殿于時大納言、宗祇老人、古今・伊勢物語御伝授ありしかば、異他(ことのほか)思し召す上、いづれも残所侍らざりけるなるべし。都への望も今一度、彼御床敷のみなりしかば、沈入られし箱など遺物として上せまいらせ侍し。其御返事、臘月末に下着す。仍此奥に写とどむる者也。」(宗祇終焉記)

 ここまでは三条西実隆から返信があったことの前置きになる。
 三条西実隆は宗祇から古今集伝授と伊勢物語伝授を受けている。大納言の地位にある公家だが、地下の宗祇には少なからず恩を受けていた人だった。
 宗祇がいつかはまた京へという望みを持っていたことで、沈香の入った箱などの宗祇の異物を三条西実隆に送ったことで、そのお礼も兼ねた返事が十二月末に駿河の僧形の所に届いた。
 以下はその時の書簡になる。

 「去月五日、与五郎来候。大底物語候共候、殊更委細芳札、且散朦々畢。当年は必彼上洛被入候処、如此帰泉之条、老体雖存内事候、さり共今一度向顔も候べきやうに月日の過行候をも上の空にのみ数へ来候つるに、粗風聞候しかども、隔境之事候間、虚説にても候へかしなど念願候つるに、巨細(こさい)の芳書共に弥(いよいよ)催愁涙候。近日、宗碩上洛。其きはの事共演説候にも寂滅已楽の理、心易候。只数年隋逐折節の高恩共、就内外難忘候て、時々刻々砕丹心計候。併任賢察候。先々手箱送給候。封を開候にも、昔にかはらぬ判形など、くさぐさの名香共候。誠永き世の形見と覚え候ながら、

 玉しゐを返す道なき箱根山
     残る形見の煙だに憂し

と、覚候ままにて候。又金三両送給候。是又過分至極に候。

 我身こそ千々の金を報ひても
     思ふに余る人の恵みを

 ありがたく候。自他於今者在世の名残にも相構而無等閑弥可申通心中候。
 久病気散々式候。仍凍筆殊無正体不及巨細候。万端期後伝也。
           恐々敬白
   十二月七日         聴雪
     柴屋参る」(宗祇終焉記)

 水本与五郎から大体の話は聞いた。「巨細(こさい)の芳書」は『宗祇終焉記』を指し、涙ながらに読みました(催愁涙候)と感想を述べる。
 水本与五郎に続いて、最近宗碩も京に登って来て、臨終の時の様子を更に詳しく聞いた。
 宗祇にはいろいろ恩を受けていて、その上遺品の沈香も頂いて、これを「永き世の形見」としたいということで和歌を詠む。

  玉しゐを返す道なき箱根山
     残る形見の煙だに憂し
              三条西実隆

 箱根山から旅立った魂をもう戻すことはできない。この形見の香が煙になってしまうのは悲しいことだ。

 また香典として金三両を送る。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「両」の解説」には、

 「1) 量目の単位。令の規定では,1両を 16分の1斤=24銖 (約 16g) としている。 (2) 薬種の量目の単位。1両は4匁。 (3) 室町時代の金銀の量目の単位。金1両=4匁5分,銀1両=4匁3分。 (4) 江戸時代の金貨の単位。1両=4分=16朱。 (5) 中国の旧式銀貨の単位。」

とある。この(3)によると一両は四匁三分で、ウィキペディアには、

 「中国と韓国での単位名は「銭」であり、日本でも近代以前は銭と呼んでいたが、古くからの用例もあり大内家壁書の文明16年(1484年)の条項に「匁」の名が現れた。大内家壁書には、「金銀両目御定法之事」の項目に「こがねしろがねの両目の事は、京都の大法として、いづれも、一両四文半銭にて、弐両九文目たる処に、こがねをば、一両五匁にうりかう事、そのいはれなし。」と記されている。五匁銀。文字銀と同品位で量目は5匁(約18.7 g)あった。
 上記は文明16年(1484年)に室町幕府により金一両が公定された当時の文書であり、この金一両4.5匁は京目と称した。鎌倉時代後期頃より金一両は4.5匁、銀一両は4.3匁とする慣行が生まれ、銀1両=4.3匁とする秤量銀貨の単位が用いられるようになったが、江戸時代まで分銅の表記は「戔」であった。」

とある。
 江戸時代の貨幣価値についてはネット上でもいろいろ詳しいことが書かれていて、戦国末期も大体同じだっただろうという推定はなされているが、この時代のことはよくわからない。御教授願いたい。

 我身こそ千々の金を報ひても
     思ふに余る人の恵みを
              三条西実隆

 こんな三両ばかりの金(こがね)では足りないくらい故人からは恩を受けています。
 十二月七日付の書簡で、聴雪は三条西実隆の法名だという。
 これで『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』のテキストも終わる。
 最後に、筆者がまだ連歌のこともよくわからない頃、この『宗祇終焉記』を読んだ時に付けた愚句で、シリアス破壊ということにしておきたい。

   ながむる月にたちぞうかるる
 言の葉に結べる露のはてもなく  こやん

2022年2月25日金曜日

 だいぶ暖かくなった。この先もっと暖かくなるようで、ようやく河津桜も一気に平句かな。
 コロナワクチンの三回目接種も17.3%、六十五歳以上だと44.3%で順調に進んでいる。
 NATOも米軍もウクライナには介入しないことを宣言して、初戦はロシアの完全勝利に終わった。火事になっても消しに行かないで、焼け出された人にテントを与えて労働力として利用する。これが西洋の人権だ。国が一つ失われるたびにこのことを繰り返している。
 難民の受け入れはどんなに善意でやっているにしても、対処療法にしかならない。難民が発生する元を絶たなければ、これからも難民は増え続ける。ロシアのみならず、世界中の独裁国家の侵略が続けば、その都度難民が発生し、同時に難民を受け入れることのできる地域そのものが縮小してゆく。最後に待っているのは共倒れだ。
 忘れてはいけない。地球は無限の広さがあるわけではない。生産力だって限られている。地球は小舟にすぎない。
 元来それぞれの人間の人権と人権とは真っ向から衝突するものであり、これまでの民主主義体制は、それをルールある競争と多数決という仕方で解決してきた。今の人権派は独裁者の独断で解決する社会を作ろうとしている。
 これに対抗するには、まず組織を作るな。組織を作れば組織内で独裁体制が生まれる。これではミイラ取りがミイラになる。何物にも服従するな。まずはそこからだ。
 あとネトウヨが誤解しているところだが、左翼は憲法第九条を崇拝してなんかいないし、その効果を信じてなんていない。ただ、今の親米政権を弱体化させるために、護憲派のふりをしているだけだ。護憲はあくまで方便だ。
 彼らの言う「民主主義革命」が起きたなら、現行憲法の改正手続きに寄らずに革命憲法を作ることができる。それは現行憲法が明治憲法の改正手続きによるものではなく、八月革命による明治憲法と断絶した革命憲法だとするのと同じ論理だ。
 その時には間違いなく米軍の脅威に対抗するために、どういう名称かは知らないが必ず軍隊を作る。その軍隊は同時に反革命勢力にも向けられる。
 何だか時代があまりに急に動き出したんで、考えがうまくまとまらないが、それでも思考停止は防がなくてはならない。猫一匹の命がかかっているのではない。世界中の多くの命がかかっている。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「此比、兼載は白河の関近きあたり、岩城とやらんいふ所に草庵を結びて、程も遥かなれば、風にのつてに聞きて、せめて終焉の地をだに尋ね見侍らんとや、相模の国、湯本まで来(きた)りて、文にそへて書き送られ長歌、此奥に書加ふるなるべし。」(宗祇終焉記)

 上野白浜子著の『猪苗代兼載伝』(二〇〇七、歴史春秋社)の年表によると、兼載は文亀元年(一五〇一年)秋に、

 「兼載都を落ちて遠く会津へと旅立つ。妻子共々彼を見送った。この年は奥州白河に越年した。」

とある。
 その翌年文亀二年(一五〇二年)には、

 「正月白河にて、対松軒張行を催し、二月会津に入る。
 領主芦名盛高に父子の争いを進言したが却ってその忌諱にふれ、黒川自在院に籠り俳諧百韻を詠みこれを諷した。
 四月上旬、会津を去り岩城に向う。」

とある。(「俳諧百韻」は以前読んだので、鈴呂屋書庫にもアップしている。)ただ、金子金次郎著『連歌師兼載伝考』(一九七七、桜風社)には、「ともあれ岩城に草庵を構えていたことは、宗祇終焉記に明らかであり」とある。あとは「兼載天神縁起」にある、「嘗結草庵干磐城西寺之側而居焉」の記述で、城西寺の側だという。今の常磐線と磐越東線の分かれるあたりにある。大舘城跡の東側にあるが、実質城内といっていいような場所だったか。
 江戸時代には磐城平藩の内藤家の人達が芭蕉のパトロンになっていたが、磐城の風流の下地は兼載によるものだったか。
 兼載はこの後永正二年(一五〇五)から芦野に住み、永正五年(一五〇八年)に古河に移る。宗長の『東路の津登』の旅はその翌年で、佐野に立ち寄った時に古河にいる兼載の病気を見舞う手紙を出している。
 その兼載が箱根湯本まで来て手紙を送っている。『東路の津登』の時の宗長もそうだが、何でそこまで来ながら逢いに来なかったんだろうか。
 なお、磐城から箱根湯本というと、元禄六年の「朝顔や」の巻二十六句目の、

   うき事の佐渡十番を書立て
 名古曽越行兼載の弟子     芭蕉

の句のことも思い起こされる。もっとも勿来の関の場所は諸説あって、今のいわき市と北茨城の間にある「勿来の関」は、磐城平藩の内藤のお殿様が、陸奥の歌枕をことごとく藩内に見立てて誘致したということもあり、かなり怪しい。
 さて、その長歌だが、

 「末の露 もとの雫の ことはりは おほかたの世の ためしにて 近き別れの 悲しびは 身に限るかと 思ほゆる 馴れし初めの 年月は 三十あまりに なりにけん そのいにしへの 心ざし 大原山に 焼く炭の 煙にそひて 昇るとも 惜しまれぬべき 命かは 同じ東の 旅ながら 境遥かに 隔つれば 便りの風も ありありと 黄楊の枕の 夜の夢 驚きあへず 思ひ立 野山をしのぎ 露消えし 跡をだにとて 尋ねつつ 事とふ山は 松風の 答ばかりぞ 甲斐なかりける

   反歌
 遅るると嘆くもはかな幾世しも
     嵐の跡の露の憂き身を」(宗祇終焉記)

 冒頭の「末の露 もとの雫」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末の露本の雫」の解説」に、

 「(草木の葉末の露と根元の雫。遅速はあっても結局は消えてしまうものであるところから) 人の寿命に長短はあっても死ぬことに変わりはないということ。人命のはかないことのたとえ。
  ※古今六帖(976‐987頃)一「すゑの露もとのしづくやよの中のをくれさきだつためしなるらん」

とある。例文の歌は、新古今集にも収録されている。

 末の露もとの雫や世の中の
     後れ先立つためしなるらむ
             僧正遍昭(新古今集)

で、新古今集の仮名序にも、「しかのみならず、高き屋に遠きを望みて民の時を知り、末の露本の雫によそへて人の世を悟り」とある。
 遅速はあってもいつかは消える、その「ことはりは おほかたの世の ためしにて」と、このあたりはこの長歌の枕となる。この導入部で「近き別れの 悲しびは 身に限るかと 思ほゆる」と宗祇の死という本題に入る。
 「馴れし初めの 年月は 三十あまりに なりにけん」は亡き宗祇とは三十年の付き合いだった、ということで、兼載と宗祇との出会いは、はっきりとした記録はないが、宗祇が関東に下向した頃、兼載が心敬に師事していて、その頃だとされている。『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)は応仁二年(一四六八年)頃としている。三十四年前になる。
 なお、『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注は、その二年後の文明二年(一四七〇年)正月の「河越千句」に登場する興俊が後の兼載だとしている。
 
 「そのいにしへの 心ざし 大原山に 焼く炭の 煙にそひて 昇るとも」の大原山は京の大原の里で昔から炭焼きが有名で、大原女が京にエネルギーを供給していた。

 こりつめて真木の炭やくけをぬるみ
     大原山の雪のむらぎえ
             和泉式部(後拾遺集)
 嘆きのみ大原山の炭竃に
     思ひたえせぬ身をいかにせむ
             よみ人しらず(新後拾遺集)

などの歌に詠まれている。
 『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』の注は、「心ざし大原山」のつながりから、

 心ざし大原山の炭ならば
     思ひをそへておこすばかりぞ
             よみ人しらず(後拾遺集)

の歌を引いている。ともに連歌への思いを起こし、煙の寄り添うように、ともに同じ道に励んできたという含みを取ってもいいだろう。
 その一方で空へ消えて行く煙は哀傷歌ではしばしば死者の火葬の煙にも重ね合される。ともに大原の煙をともにしながらも、同時に火葬の煙を導き出す枕として大原山の炭焼きの煙を用いて、「昇るとも 惜しまれぬべき 命かは」と繋がる。このあたりの移りの面白さは、連歌師ならではのものかもしれない。
 「同じ東の 旅ながら 境遥かに 隔つれば」は宗祇も自分の同じように東国を旅をしているが、宗祇の東国下向の時以降、なかなか会うこともなかったということで、「便りの風も ありありと」と風の噂に聞くのみだった。
 明応九年(一五〇〇年)の七月十七日に宗祇は京を離れて越後に向かったが、その年の十月、兼載は後土御門天皇崩御を知り、京に上ったという。ここでも行き違いになっている。大原山を引き合いに出したのは、この時の大葬のイメージがあったからか。
 その風の噂で宗祇の死を知り、「黄楊の枕の 夜の夢」の黄楊の枕はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「黄楊の枕」の解説」に、

 「ツゲの材で作った枕。つげまくら。
  ※古今六帖(976‐987頃)五「ひとりぬるこころはいまもわすれずとつけの枕は君にしらせよ」

とあり、和歌では「告げ」と掛けて用いられる。夜の夢に続くと、夢でもお告げがあったという意味になる。
 「驚きあへず 思ひ立 野山をしのぎ 露消えし 跡をだにとて 尋ねつつ」と宗祇の死に驚いて弔いに駆けつけようと思い立ち、野山を旅し、露のように儚く消えていったその跡だけでも尋ねようと、磐城から箱根湯本までやって来る。
 そして、宗祇終焉の地に立ち、「事とふ山は 松風の 答ばかりぞ 甲斐なかりける」と箱根の山を尋ねても既にその跡はなく、松風のシュウシュウという悲しげな音ばかりが答えるばかりだった。
 そして反歌。

 遅るると嘆くもはかな幾世しも
     嵐の跡の露の憂き身を
             兼載

 「遅るる」は死に遅れるで、宗祇が先に死んでしまい自分が残されたという意味で、それを嘆いてもむなしく、「幾世しも」はどれほどの年月をの意味で、長いこと会えなくて、このまま永遠に会えないことの嘆きと、「行く由も」「生く由も」に掛けて用いられる。逢えなかった過去の嘆きだけでなく、これからもどうして良いのかという嘆きとが重なり合う。
 この死別は心の中の嵐のようなものであり、実際に台風などの嵐の多い季節でもあった。その嵐の後、我が身は嵐の後の露のように、いつ散ってもおかしくない儚い身の上だと結ぶ。
 長歌反歌とも見事なもので、宗長も感銘してこの歌を『宗祇終焉記』の巻末に据えることを厭う理由もなかった。

 「此一巻は、水本与五郎上洛之時、自然斎知音の今京都にていかにと問はるる返しのために書写者也。一咲々。」(宗祇終焉記)

 水本与五郎は宗碩とともに国府(こう)に登場した宗祇の従者だが、おそらく越後の旅からずっと付き添っていたのだろう。このあと宗長は駿河に留まるが、水本与五郎が京へ上り、都にいる宗祇の知人に宗祇の最期を伝えるために、この『宗祇終焉記』を書き写して送ったのであろう。
 自然斎は宗祇の号で、「知音(ちいん)」は知人と同じ。韓国語だと「知人」も「ちいん(지인)」と読むが、何か関係があるのか。
 最後の「一咲々」は一笑々で、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』の注に、

 「書簡の結びの言葉。「一笑に付してください」といった類。中世によく使われた」

とある。
 この自然斎知音は三条西実隆のことであろう。この部分はその三条西実隆へ書簡として付け足されたもので、『宗祇終焉記』は兼載の長歌と反歌をもってして完結している。

2022年2月24日木曜日

 そりゃま、当然来るよな。また、どっかの馬鹿が「まさかこんなことになるなんて誰も思わなかった」なんて言うのかな。
 ここまでアメリカが頼りにならないとなると、日米同盟も見直した方がいいかもな。台湾の時も見捨てられるんじゃないの?
 今すぐにでも維新や国民民主と協議して、憲法改正して再軍備した方がいいんじゃない?
 やっぱ日本にも「人権」あってもいいんじゃん。勝てるかどうかでなく、面倒だから後回しにしてくれるだけでも時間が稼げる。
 薔薇は羊に食べられてしまうのに、それでも棘を持っているのは、食べる時の優先順位を下げるだけでも効果あるからだ。これが星の王子様の疑問への答。
 ウクライナのメタルを聞いてたのは、もう十年前になるのか。ロシアのОпричьとベラルーシのPiarevaracienとウクライナのЧурのスプリットアルバムがあったなと思って探したら、まだちゃんとあった。
 実はこのCDのタイトルのТриединствоが意味深で、これは三位一体という意味だが、ロシアでは、大ロシア(いわゆるロシア)、白ロシア(ベラルーシ)、小ロシア(ウクライナ)が一つであるという意味を持っている。
 これが、それぞれ国は違っても同じロシア人じゃないか、という意味で用いられていたなら問題もなかったのだろう。それが政治的な意味で「一つのロシア」になってしまうと全く違う意味になる。ちょうど香港や台湾の問題で「一つの中国」が意味するのと同じものになる。
 だから、今度の戦争で同じロシア人じゃないかと思うなら、台湾でそれが言えるかどうか考えてみると良いかもしれない。まあ、ロシア側のプロパガンダに騙されないように。
 「小ロシア」という単語はウィキペディアの項目にもなっている。その歴史がざっと書いてある。
 ロシアの語源となった「ルーシ」は元はキエフ大公国に由来するもので、角谷英則さんの『ヴァイキング時代』(二〇〇六、京都大学学術出版会)には ルーシはヴァイキング時代のスカンディナヴィア人とフィン・ウゴル人、スラブ人の融合によるもので、その比率についてはいろいろ議論があるようだ。

 「ヤンソンは、チメリョヴォの墓域にあらわれている発展の各段階では、異なる物質文化をあらわす諸要素が別々の集団をあらわすのではなく、異なる出自をもちはするが、自分たちを一つの共同体として、さらにおそらくは「一つの民族集団としての意識をもったひとびとの共同体」をあらわしているという。
 カルメルによっても同様の見方が提起されている。かれによれば、ロシアの遺跡・遺物には、たしかにヴァイキング時代のスカンディナヴィアの文化的特徴がは明確にのこされているが、それはもはやスカンディナヴィアでみられる文化的なパターンにそった、まとまったアイデンティティの表現として理解することができないほど、変化してしまっているか、それがおかれた文脈を異にしている。この変化、それも相当急速におこった融合そのものが古代ロシアにおけるもっとも重要な発展であり、その結果として形成されたのが「ルーシ」というあらたなアイデンティティ(およびキエフ・ルーシという国家)であった可能性が考えられるのである。」(『ヴァイキング時代』p.111~112)

 ウクライナはロシア発祥の地だったというわけだ。それが「小ロシア」じゃ面白くないよな。ウクライナでヴァイキングメタルも歴史を考えれば自然なことだ。彼らはヴァイキングの子孫でもある。
 初期の国家が成立するときに、複数の民族が一つのアイデンティティを形成するのは珍しいことではない。日本も縄文人と弥生人がいた所に様々な渡来人が入って来て、大和朝廷時代に「日本人」が形成されたようなもんだし、中国も黄河の漢民族と長江の秦人、楚人、呉人、越人などが融合して中国人の意識が形成され、韓国も伽耶、倭人、新羅人、高句麗人、扶余人などの融合によって韓民族が形成されている。イギリスもケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、デーン人、ノルマン人などが合わさってイギリス人が形成された。
 キエフは北欧とビザンチウムを結ぶ交易ルートの要衝で、ヴァイキングがそこを行き来していたことは、フィンランドのTurisasの「The Varangian Way」というアルバムのコンセプトにもなっている。さあ、日本もホルムゴー、その向こー。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「此月の晦日は月忌の初めなれば、草庵にして素純など来り会はれて、あひとぶらはれし次(ついで)、連歌あり。発句、

 虫の音に夕露落つる草葉かな

 この発句を案じ侍し暁、夢中に宗祇に対談せしに、「朝露分くと申発句を使うまつりて、又夕露はいかが」と尋侍しかば、吟じて、幾度(いくたび)も苦しからざる由ありしも哀れにぞ覚侍る。」(宗祇終焉記)

 七月晦日没なので、毎月晦日が月命日になる。この年の八月は小の月なので、八月二十九日(新暦十月十日)が月命日になる。
 宗長の庵に素純などが集まり、連歌会を行う。
 その発句、

 虫の音に夕露落つる草葉かな  宗長

の句は、桃園定輪寺で「消えし夜の朝露分くる山路哉」と詠んでいて、「朝露分くる」「夕露落つる」が似ているのが気になったのだろう。
 すると夢に宗祇が現れて、「何度でも問題はない」という答えだったので、この句で良しとした。
 「浅露分くる」は旅体で、「夕露落つる」は涙の暗示だから、意味はまったく異なる。「草葉」は「草葉の陰」というように、これも死の暗示になる。草葉の陰に御隠れになった宗祇さんに虫の音が悲しく、夕べには涙を落とします、という追悼の句になる。

 「同じ日の一続の中に、寄道述懐(しゅつくわい)と云題にて、

 たらちねの跡いかさまに分けもみん
     遅れて遠き道の芝草
             素純」(宗祇終焉記)

 「一続」は前にも出てきたが、今回は「寄道述懐」という題で詠む。
 述懐(しゅっかい)は連歌では恋と並ぶくらい多くの頻度で詠まれる主要なテーマで、過去を振り返って、満たされぬ思いや苦しみを吐露することを本意とする。
 例えば『水無瀬三吟』ではこういう感じだ。
 二十一句目、

   夢に恨むる荻の上風
 見しはみな故郷人の跡もなし  宗長

の句は前句の恋からの展開で、「恨む」を恋の恨みから、故郷が戦乱に荒れ果てて、家族や仲間を失った恨みにする。荒れた故郷はただ荻の上風だけが悲しく吹いている。
 次の二十二句目は、

   見しはみな故郷人の跡もなし
 老いの行方よ何にかからむ   宗祇

と、故郷の人達と死に別れて、これから先の老後をどうすればいいのか、という不安へと展開する。これも述懐の体になる。
 続く二十三句目は、

   老いの行方よ何にかからむ
 色もなき言の葉にだにあはれ知れ 肖柏

と、咎めてにはになるが、和歌など下手で拙い言い回ししかできないが、それでもこの悲しみをわかってほしい、と訴える。これも述懐になる。

 たらちねの跡いかさまに分けもみん
     遅れて遠き道の芝草
             素純

 この和歌もまた、亡き母の跡をどうやって追いかけることができるだろうか、生き残っている私にとっては遥か彼方の旅路だ、というもので、喪失の辛さを「道」の遠さに喩えて訴える「寄道述懐」になっている。

 「東(とうの)野州に古今集伝授聞書并切紙等残所なく、此度今はの折に、素純口伝附属ありし事なるべし。同じ比、素純の方より、初雁を聞きて宗祇の事を思ひ出でてなど言ひ送られし、

 ながらへてありし越路の空ならば
     つてとや君も初雁の声

 返し、

 三年経て越路の空の初狩は
     なき世にしもぞつてと覚ゆる」(宗祇終焉記)

 東野州は東常縁のことで、ウィキペディアに「官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。」とある。
 宗祇に古今伝授を行ったことは前にも述べた。素純(東胤氏)の父親になる。
 古今集伝授聞書并切紙は宗祇が東常縁から古今伝授を受けた時の内容を記したものや切紙伝授で、切紙伝授はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切紙伝授」の解説」に、

 「〘名〙 室町時代以後、歌道、神道その他の諸道で、口伝(くでん)による誤りをなくすために、切紙に書いて弟子に伝授したこと。」

とある。
 こうした遺品は東常縁の息子である素純に受け渡された。
 その素純が、初雁の音を聞いて、一首詠む。

 ながらへてありし越路の空ならば
     つてとや君も初雁の声
             素純

 この初狩の声はきっと、まだ存命中に越後の空からよこした便りなのでしょう。遅れて今届きました。
 これに対し、宗長は答える。
 
 三年経て越路の空の初狩は
     なき世にしもぞつてと覚ゆる
             宗長

 宗祇のいた三年の間越後の空にいた雁ならば、亡くなってからでも便りを届けなければと思うことでしょう。

2022年2月23日水曜日

 そういえば一頃よくウクライナのフォークメタルとか聞いてたな。ウクライナだけでなく、ロシヤもベラルーシも。音楽には国境なんてなかったし、多分ミュージシャン同士は今でもそうなんだろうな。Тінь Сонця、ЧУР、Haspyd。パントゥーラの音とか入ってるものあったな。
 パンドゥーラといえば香月美夜さんの『本好きの下剋上』のアニメでは、フェシュピールの名前で異世界の楽器として登場してたな。
 ロシアのウクライナ侵略はコロナの混乱の一つの帰結だし、その意味ではコロナ以上に世界を変える可能性がある。ただ、コロナの時はまだ良い方に変わる可能性があったが、今回は悪い方にしか変わらない。
 アメリカの無力さが暴露されれば、中国や北朝鮮やイスラム圏の反米国家も動き出す。これはアメリカが世界の警察をやめるのとはまったく意味が違う。
 トランプ時代にアメリカが世界の警察をやめるというのは、アメリカが主に中東などの軍を撤収するもので、自由主義諸国の利益を守ることは当然ながらアメリカの国益につながるものだから、アメリカの同盟国である限りは問題なかった。
 ただここでロシアに破れれば、アメリカは自由主義諸国の利益を守れないばかりか、自分の国の利益も守れないということを暴露してしまうことになる。これは多くのフロンティア諸国に与える影響が大きい。
 ある程度の経済発展は、これまでも開発独裁による成功例があり、独裁体制でもそこそこの経済成長は可能だから、フロンティア諸国のアメリカ離れが起こるのは避けられない。既にかなり中国に侵食されている。
 そうなると、国連での勢力バランスが今以上に大きく中露に偏り、事実上中露に制圧される形になる。常任理事国ではフランスが寝返らなければ優位を保てるが、そこが一番危ない。
 グローバル市場が衰退しブロック経済に陥れば、経済圏の拡大を狙って絶えず侵略戦争が起こる状態になる。
 そうなると自由主義諸国でも軍事に多額の予算を割かなくてはならず、財政は悪化する。独裁体制に移行する国も出て来るだろう。
 世界経済は全体に停滞し、AIとロボットが働いてベーシックインカムで暮らすなんてことも、夢の彼方に遠のく。
 経済が停滞しても少産少死社会である限り、極度な貧困や飢餓は回避される。だが、それだけに命がけの暴力闘争を起こすにはリスクが大きく、民主化が困難になる。中国やロシアを見ればわかる。血と引き換えに自由を勝ち取る時代は終わっている。
 こうした中で、日本はピンチであると同時にチャンスでもある。日本はコロナでの混乱も少なく、社会主義者が勢力を伸ばすこともなかった。衰退する欧米文化と心中するつもりはない。
 日本が独自の文化を忘れないなら、たとえ中国に併合されたとしても、いずれは内側から中国を乗っ取ることになる。その時には日本の時代が来る。
 まあ、その前に米軍とNATOが速やかにウクライナ奪還作戦を行い、成功させるなら何の心配はないけどね。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「足柄山はさらでだに越え憂き山なり。輿にかき入て、ただある人のやうにこしらへ、跡先につきて、駿河の境、桃園といふ所の山林に会下(ゑげ)あり。定輪寺といふ。この寺の入相のほどに落着きぬ。」(宗祇終焉記)

 足柄山は足柄峠の周辺だけでなく、箱根はもとより十国峠までの広い地域を指していた。
 国府津から宗祇を乗せてきた輿は、そのまま遺体を運ぶものとなり、急峻な箱根の山を越えていった。箱根越えのルートはよくわからない。鎌倉時代には湯坂を通る尾根道の鎌倉古道が用いられていたというが、この時代は既に畑宿を通る近世のルートがあったともいう。
 箱根峠から先も、かつては江戸時代のルートよりも北寄りの鎌倉古道を通っていたが、この時代はよくわからない。この頃はまだ山中城はなかったが、山中城が箱根越えのルートを監視するように立てられたとするなら、既に近世東海道と同じルートが主流だったのかもしれない。
 箱根峠を越えると、その反対側は伊豆国になり、国府のある三島に出る。それより先の黄瀬川が伊豆国と駿河国の境になる。
 桃園はその黄瀬川を北へ上って行った所にある。今のJR裾野駅のある辺りの黄瀬川の対岸が桃園で、そこには今でも定輪寺があり、宗祇の墓がある。
 湯本から一日がかりで箱根を越えて、日の沈む頃にこの寺までたどり着く。八月一日のことになる。

 「ここにて一日ばかりは何かと調えへて、八月三日のまだ曙に、門前の少し引き入りたる所、水流れて清し、杉あり、梅桜あり、ここにとり納めて、松を印になど、常にありしを思出て、一本を植へ、卵塔を立、荒垣をして、七日がほど籠居て、同じ国の国府(こう)に出侍し。」(宗祇終焉記)

 八月二日はいろいろ準備するものもあり、翌八月三日に埋葬し、初七日をここに籠って過ごす。そのあと駿河の国府(こう)、江戸時代は府中宿があった今の静岡駅の方へと向かう。
 宗祇の埋葬は定輪寺の裏の山林で行われた。「水流れて清し、杉あり、梅桜あり」という清浄の地で、、ここに松の木を一本植えて、卵塔を建て、荒垣で囲った。
 卵塔は無縫塔とも呼ばれ、ウィキペディアには、

 「無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。」

とある。
 残念ながら、宗祇の埋葬地は東名高速道路の建設によって失われ、宗祇の墓は境内に移動させられたという。

 「道の程、誰も彼も物悲しく、ありし山路の憂かりしも、泣きみ笑ひみ語らひて、清見が関に十一日に着きぬ。夜もすがら礒の月を見て、

 もろともに今夜清見が礒ならば
     と思ふに月も袖濡らすらん」(宗祇終焉記)

 この頃はまだ薩埵峠がなく、富士川を渡って由比から興津へ抜けるルートは海岸沿いで、高波が来ると通行できなくなることから、清見が関には「波の関守」がいると言われていた。
 その清見が関で十一日の月を見ての宗長の一首になる。一緒に越えるはずだった清見が関も、今はいない。この磯から見える奇麗な月も、悲しくて涙が出て来る。

 「かくて国府に至りぬ。我草庵にして、宗碩・水本「あはれ、これまでせめて」などうち嘆くほかの事なし。十五夜には当国の守護にして一座あり。」

 国府(こう)は今の静岡。後に徳川家康が駿府城を建てるが、それ以前はここに今川館があった。宗長もかつては今川義忠に仕えていたが、この時は息子の今川氏親の時代だった。東胤氏を迎えに出したのも、この氏親だったのだろう。
 前にも述べたが、宗長が丸子(まりこ)に柴屋軒を構えるのは永正元年(一五〇四年)で、これより二年後のことになる。この時の「我草庵」は今川館からそう遠くない所にあったのだろう。
 伊香保で宗祇・宗碩・宗坡の三吟があったので、宗碩もこの旅にずっと同行してたようだ。
 水本は『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注に、

 「水本与五郎は、宗祇の従者で、この後、「終焉記」を携えて上洛し、諸方の連絡にあたっている。」

とある。
 十五夜の名月には守護の今川氏親の主宰する連歌会が行われた。

 「かねて宗祇あらましごとの次に、「名月の比、駿河の国にや至り侍らん。発句などあらばいかにつかうまつらん」と苦しがられしかば、去年の秋の今夜(こよひ)、越後にしてありし会に発句二あり。一残(ひとつのこ)り侍る由、あひ伴ふ人言へば、「さらばこれをしもこそつかうまつらめ」など侍りけるを、語り出づれば、それを発句にて、

 曇るなよ誰が名は立たじ秋の月 宗祇
   空飛ぶ雁の数しるき声   氏親
 小萩原朝露寒み風過て     宗長」(宗祇終焉記)

 宗祇が越後で、これから駿河の方に向かうということで、氏親との間に連歌会の約束があったのだろう。旅の途中で、駿河の国に着くのが名月の頃なら、その時の発句はどうしようかと心配していた。
 その時従者の一人が、去年の越後の連歌会で発句を二つ作っておいたその一つが残っていると進言していたので、それを採用する。
 発句を事前に作っておいて、それを連歌会の前に当座の亭主に伝え、脇をあらかじめ用意させるというのは、連歌会では一般に行われていた。当日の天候の変化などを踏まえて、予備の句を用意しておくこともあった。これはおそらく当日曇った時に備えて作った句だろう。

 曇るなよ誰が名は立たじ秋の月 宗祇

 曇らないでくれ、秋の月だからといってもバレて困るような恋なんて、この年では無理なんだから、といったところか。
 折からの追悼の連歌会になってしまい、この句は、悲しみの涙で曇らないでくれ、という意味に変わり、「誰が名は立たじ」も恋の情から死者の名を立ててくれという意味に取り成される。
 氏親の脇は、

   曇るなよ誰が名は立たじ秋の月
 空飛ぶ雁の数しるき声     氏親

で、空を沢山の雁が悲しい声を上げて飛んでいます、と付ける。月夜に雁は付け合いで、空飛ぶ沢山の雁を残された自分たちに見立てて、みんな悲しんで泣いています、と弔意で応じる。
 第三。

   空飛ぶ雁の数しるき声
 小萩原朝露寒み風過て     宗長

 ここは弔意を離れて、前句の雁に小萩原の朝露を添えて、夜明けの景色へと展開する。

 「同じ夜侍し一続の中に、寄月恋旧人を云題にて、

 ともに見ん月の今夜を残しおきて
     故(ふる)人となる秋をしぞ思ふ
             氏親

 宗祇を心待ち給しも、その甲斐なきといふ心にや。」(宗祇終焉記)

 連歌会の前に和歌をみんなで詠んだのであろう。
 一続は『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注によれば続歌(つぎうた)のことだという。ジャパンナレッジの「日本国語大辞典」には、

 「(1)短冊を三つ折りにして、題を隠したまま各自短冊を分け取って、その場で歌を詠むこと。中世以降に流行し、三十首、五十首、百首から千首に及ぶことがある。また、それを披講する歌会をもいう。多く探題(さぐりだい)形式で詠まれた。
  *右記〔1192〕「次当座続歌探題等哥。数多不〓可〓詠〓之」
  *吾妻鏡‐建長三年〔1251〕二月二四日「於〓前右馬権頭第〓、当座三百六十首有〓継歌〓」
  *尺素往来〔1439〜64〕「天神講七座并詩歌続(ツキ)歌一千首。和漢連句十百韵」
  *御湯殿上日記‐文明九年〔1477〕一一月二二日「みなせの御ゑいへ、みやうかうの御つきうた五十しゆ」

とある。その続歌の題の一つに「寄月恋旧人」という題で、恋の情を添えて故人を偲ぶというのがあった。その時の今川氏親の詠んだ和歌は、

 ともに見ん月の今夜を残しおきて
     故人となる秋をしぞ思ふ
             氏親

で、宗祇とともに見るはずだった月を、今一人で見る。そのままの心だ。

 「又、ありし山路の朝露を思ひ出でて、

 消えし夜の朝露分くる山路哉  宗長

と云上句をつかうまつりしに、下句、

 名残過ぎ憂き宿の秋風     宗碩

 これを宵居のたびたびに百句につかねて、せめて慰む灯火のもとにて、かれこれ去年今年の物語し侍るを、記し付侍るものならし。」(宗祇終焉記)

 この時の興行とは別に、宗祇の棺とともに箱根湯本を発った時のことを思い起こして、

 消えし夜の朝露分くる山路哉  宗長

という発句を何となく詠んでみたのだろう。これに宗碩が脇を付ける。

   消えし夜の朝露分くる山路哉
 名残過ぎ憂き宿の秋風     宗碩

 これを毎晩少しずつ句を付けて行って、最終的に百韻にする。亡き宗祇を偲んでのことだった。

2022年2月22日火曜日

 ドネツク、ルガンスクの国家承認とか、会談までの停戦を盾にとって、これで会談の日時をずるずると引き延ばせば、両地域の国家独立は既成事実化できる。まあ、敵ながら天晴だ。
 いわゆる外堀を埋めるというもので、この両地域を軍事拠点としで確保したロシアにとって、キエフの大門はもう目の前だ。プーちんは徳川家康だね。
 結局第三次世界大戦を避けるために、西側諸国もウクライナを見捨てるという判断をするのかな。口で非難するだけなら「でっ?」で終わりだ。経済制裁が無力なことは、既に北朝鮮やイランで証明されている。ならば市民のデモはって、その無力は香港でもミャンマーでも証明されている。
 ロシアがやりたい放題できるその背景は、結局、核兵器禁止条約で事実上西側の核を使用不能にできたことではないかと思う。ロシア、中国、北朝鮮、イランなどの反米国家の核はいつでも使用できる。この軍事バランスの崩壊が今回の大戦を招いたと言ってもいい。まあ、パヨチンの勝利だ。核廃絶、戦争反対、それが西側世界を無力化させた。
 ウクライナがロシアの一部になったとしても、そこで終わりなんて保証は何もない。あとは西側諸国がロシアと中国に蹂躙されれば、その後押しでパヨクが政権を取る算段なのだろけど、無理だとは思うよ。ロシア人と中国人が支配するだけだ。ディストピアはすぐそこだ。これが西洋理性の輝かしい勝利だ。
 キエフの大門といえばELPの「展覧会の絵」。昔適当に訳詞をつくったことがあったが。たしか、

 俺たちゃ門からやってきた
 時の流れに乗って、時の流れに乗って
 俺たちゃ門からやってきた
 燃え盛る炎のような俺たちの人生

 そこから得られるものはたくさんの人生

 人生には始まりも終わりもない
 死、即、生

 ニーチェの永劫回帰の歌かなと思っていたが。

 戦況を一応振り返ってみよう。
 まずオリンピック中にロシアが合同演習を理由にベラルーシに軍を集結させた。
 NATOが動かないなら、既に紛争中のウクライナ東部のロシア軍と、クリミアのロシア軍とで三方向からキエフに迫れる状況を作り出した。
 ただ、これはあまりにあからさまな挑発で、NATOの動きを見たと言っていいだろう。そして、両軍はオリンピックの終了をまず待つことになった。
 オリンピックの終了時点で、一つの選択肢として、NATOが間髪入れずにベラルーシに集結した軍をミサイル攻撃するというのがあったと思う。ここを叩けばロシアが軍の再集結している隙に地上軍を送り込んで、一気にNATOがウクライナに入って東部州を制圧するという可能性もあっただろう。
 そうなると、ロシアは後手に回り、できることといえばヨーロッパのNATOの拠点をミサイル攻撃するくらいになる。こうなると、ロシアのミサイルの性能とアメリカのミサイル防衛技術の勝負になるが、ヨーロッパに多少なりとも被害は出ただろう。ただ、それは民主主義への殉教で済ませられるレベルだったかもしれない。
 もちろん核攻撃は論外で、それだと確実にロシアは焦土になる。
 当然ながらロシアはそれを読んでいた。そのため、一部軍隊を移動させ、撤退したかのように見せかけた。これはNATOからすれば、衛星でその動きが手に取るようにわかっているのでほとんど効果がない。ただ欧米のネット工作と併用すれば、ヨーロッパ人の戦意をそぐことは可能だ。
 ロシアはかなり前から欧米に対して様々なネット工作を行ってきた。コロナの混乱やアメリカのBLMなども巧妙に西側の世論の分断を煽り立ててきた。政府への不信感があるなら、それを利用すれば最初のNATOからの先制攻撃はない。そう読んだのではないかと思う。
 これでフランスのマクロンが首脳会談を提案してきた。この時点でNATOは動きを止めざるを得なかった。その隙にウクライナ東部州の独立を宣言し、ロシアは軍を送り込んだ。
 NATOの先制攻撃がなくなり、ウクライナ東部州を制した時点で、ロシアは初戦を制した。それだけでなく、NATOは反撃をせず、ほとんど効果のない経済封鎖で一気にトーンダウンした。これではウクライナ政府がNATOに裏切られたと怒るのも無理はない。ウクライナは既に見捨てられたと言っていいだろう。戦線はポーランド国境に移る。
 この戦争が最終的にロシアの勝利に終わったとすれば、マクロンの一手が敗着だと言っていいだろう。

 あと、下田のBTS神社に韓国人激怒というから、てっきり後ろの貝殻が旭日旗に見えるというのかと思った。まあ、はっきりいって、なんちゃって神社だけどね。
 日本の神道には教義も戒律もないから、いくらでも勝手に神社って名乗れるんだよね。自分ちに神棚作って、勝手に明神様にしても別に罰が当たるわけでもない。昔は屋敷神みたいのもあったしね。その辺のゆるさが、時々わけのわからない神社を生む。
 東海道を歩いた時に箱根でも変な神社を見たしね。特に多額の金を請求する神社には絶対金を払ってはいけない。間違いなく金目当てだ。金が集まらなければ自ずと潰れる。
 今日は2がたくさん並ぶということでスーパー猫の日だというが、鈴呂屋は毎日猫の日ですので。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「廿七日、八日、この両日ここに休息して、廿九日に駿河国へと出立侍るに、其日の午刻ばかりの道の空にて、寸白(すんぱく)と云虫おこりあひて、いかにともやる方なく、薬を用うれど露験(しるし)もなければ、いかがはせむ。」(宗祇終焉記)

 『再昌草』には「廿七日に彼所をたちて」とあったが、おそらくこちらの方が正しい。権現山城から一日で箱根湯本になんてことは有り得ないからだ。
 六月の初めに上戸陣に到着し、そこで「廿日余り」過したあと川越でも「十日余り」とあったので、二十七日は七月の二十七日になる。
 道筋を推定するなら、近世東海道の道筋が既に出来ていたとすれば、そのまま保土ヶ谷、藤沢を経て小田原に向かったと考えられる。
 藤沢の今の遊行寺(当時の藤沢道場)から先の道は、これより少し後になるが、宗長の『東路の津登』の旅で通ったと思われる。
 宗長はこの『宗祇終焉記』の旅で越後へ向かう時には、時間がかかっている上、最短コースを通っていない。それは十国峠を越えて初島を見たことと、鎌倉に寄っていることで明らかだ。最短なら箱根峠から湯本へ出て、鎌倉に寄らずに藤沢道場から鎌倉街道上道に入った方が早い。
 三島─小田原─藤沢の道筋があった以上、藤沢─神奈川─品川への道が当時存在していたと考えた方がいいだろう。宗祇の病状を判断するなら、この最短ルートを通ったと考えていいと思う。
 仮にこの道がなかったとしたら、保土ヶ谷宿で鎌倉街道下道に合流し、そこから一度朝比奈切通しを通って鎌倉に入り、化粧坂切通しを出て鎌倉街道上道で今の遊行寺に出て、そこから小田原方面へ向かうことになる。これはかなりの遠回りだ。
 旧東海道(近世東海道)で保土ヶ谷を出ると、権太坂の登りになり、そこに武相国境モニュメントというのがある。権太坂を登り、品濃坂の下りに入るその峠が昔の武蔵国と相模国の国境だった。
 この小さな山越えのアップダウンも病人には辛いものだったのだろう。宗祇は寸白(すんぱく)を起こす。条虫(じょうちゅう)などの寄生虫によって生じる下腹部の激しい痛みだが、この場合は別の原因で生じた同様の痛みだったかもしれない。
 宗祇が何の病気だったかは、今の診察を受けたわけでないのではっきりとはわからない。ただ既に癌などを引き起こしていたなら、その痛みだった可能性もある。だとしたら、当時の薬が効果を示さないのも無理もない。

 「国府津と云所に旅宿を求めて、一夜を明し侍しに、駿河の迎への馬、人、輿なども見え、素純馬を馳て来向はれしかば、力を得て、明くれば箱根山の麓、湯本といふ所に着きしに、道の程より少し快げにて、湯漬など食ひ、物語うちし、まどろまれぬ。」(宗祇終焉記)

 国府津は今の東海道線の国府津の辺りで間違いはないだろう。小田原の少し手前になる。
 名前に「国府」とあるが、相模国の国府がどこにあったかについては諸説あってわからない。
 他の国の国府が中世になっても守護のいる所ということで機能し続けたのに対し、相模は鎌倉があったため、国府が早い時期に顧みられなくなったのかもしれない。
 相模国国府の位置についてはウィキペディアには高座郡国府説(海老名付近)、大住郡国府説(平塚四之宮)、餘綾郡国府説(大磯)の三つの説が載っている。いずれにせよ国府津からは離れている。
 ここまでくる間に、何らかの形で駿河の国に連絡を入れていたのであろう。国府津に到着すると、翌日に迎えの人たちが馬や輿を用意してやってきた。馬に跨るだけの体力もなければ、輿に乗せて運ぶしかない。いつでも迎えに行けるように小田原辺りで待機していたか。
 七月二十七日に権現山城を出てその日に国府津に着いたとするならば、五十キロ近い道のりを強行軍で通過したことになるが、まずそれはないだろう。途中で寸白を起こしているし、その辺りで一泊して、二十八日に国府津に着いたと考えた方がいい。
 七月二十八日に国府津に着き、翌二十九日に出迎えの人たちが到着する。そして三十日に箱根湯本に行く。
 素純は東胤氏(とうのたねうじ)で、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「東胤氏」の解説」に、

 「?-1530 室町-戦国時代の武将,歌人。
 東常縁(つねより)の子。はじめ足利政知(まさとも)に,のち今川氏につかえる。父の弟子宗祇(そうぎ)から古今伝授をうけ,文亀2年には病中の宗祇から「古今和歌集」の奥秘を返伝される。今川氏親(うじちか)に協力し,「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集した。享禄(きょうろく)3年6月5日死去。法名は素純。著作に「かりねのすさみ」など。」

とある。
 こうして大勢の人の援護を受けて、輿に乗って、三十日朝、箱根湯本に向かう。距離的には十キロくらいか、それ程長い道のりではない。
 湯漬(ゆづけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「湯漬」の解説」に、

 「〘名〙 飯を湯につけて食べること。また、その食事。蒸した強飯(こわめし)を熱い湯の中につけ、また、飯に湯を注いだ。食べるときに湯を捨てることもある。夏は「水漬」といって、水につけることがあった。
  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「侍従のまかづるにぞあなる。ゆづけのまうけさせよ」
  ※夢酔独言(1843)「酔もだんだん廻るから、もはや湯づけを食うがよひとて」

とある。戦国時代まではまだ甑で蒸す強飯(こわいい)が主流だったという。お湯をかけることで食べやすくしていた。味のついた汁を用いると、北条氏政のエピソードで有名な汁かけ飯になる。
 お湯の量を多めにすればそのまま病人食にもできたのだろう。宗祇はそれを食べ、物語(世間話)をして、やがてうとうとと眠る。

 「おのおの心をのどめて、明日は此山を越すべき用意せさせて打休みしに、夜中過るほどいたく苦しげなれば、押し動かし侍れば、「ただ今の夢に定家卿に会ひたてまつりし」と言ひて、「玉の緒よ絶えなば絶えね」といふ歌を吟ぜられしを、聞く人、「是は式子内親王の御歌にこそ」と思へるに、又此たびの千句の中にありし前句にや、「ながむる月にたちぞうかるる」といふ句を沈吟して、「我は付がたし、皆々付侍れ」などたはぶれに言ひつつ、灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ于時八十二歳、文亀二夷則晦日。」(宗祇終焉記)

 明日は箱根峠を越えて三島へ向かう段取りだったのだろう。しかしその夜遅く、様態が急変する。「まどろまれぬ」とあるから、就寝ではなくうたた寝で、まだ日付は変わっていなかったのだろう。
 激しい痛みに襲われていたようだ。揺り動かして起こすと、夢で定家の卿に合ったといい、「玉の緒よ絶えなば絶えね」を吟じたという。
 これは、

 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば
     忍ぶることの弱りもぞする
             式子内親王(新古今集)

の歌で、今日でも百人一首でおなじみの歌だ。
 式子内親王は藤原定家が密かに恋心を抱いていたと言われていて、謡曲『定家』にも、

 「式子内親王、初めは加茂の斎の宮にそなはり給ひ、程なく下り居させ給ひしに、定家の卿忍び忍びの御契り浅からず。その後式子内親王、程なく空しくなり給ひしに、定家の執心葛となつて、この御墓に這ひ纏ひて、互ひの苦しみ離れやらず。ともに邪婬の妄執を、御経を読み弔ひ給はば、猶猶語り参らせさふらはん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.27374-27389). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。これが定家葛(テイカカズラ)の名の由来となっている。
 宗祇が見た夢がどういう夢なのかはわからないが、定家の夢でこの歌を想起するのはそんなに不自然なことではない。ただ、私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ、というこのフレーズは何とも不吉だ。
 あるいは表向きは八十過ぎまで生きたから、これ以上生きても苦しいだけだと言ってはいるものの、心の奥には激しい生への執着があって、それが式子内親王の苦しい恋心と重なったのかもしれない。
 それに続いて、この前の千句興行に「ながむる月にたちぞうかるる」という句を誰かが詠んでいて、この前句に自分は付けられないから、みんなそれぞれ付けてくれ、という。
 これも何かのメッセージだったのか。
 人は皆かなわぬ思いを抱き、苦しい人生を生きている。こんな苦しいなら、いっそ死んでしまえばなどと、何度も思いながらも、それでも生にしがみついて、今も生きている。
 「ながむる月にたちぞうかるる」という前句は打越の句にどう付いていたのかはわからないが、何か見果てぬ思いを月に重ねながら浮かれているような、そういうイメージなのだろう。
 枕元にいる人たちに、前句付けを振ったのだろうか。「ながむる月にたちぞうかるる」─それは人生とはそういうものではないか、と言っているかのようだ。それにみんなはどんな句を付けるのかい?そう問いかけているようでもある。
 宗祇は答えを聞く間もなく、そのまま息を引き取ったのだろう。「灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ」と、安らかな大往生だったことだけが救いだ。
 夷則は旧暦七月の異名で、「于時八十二歳、文亀二夷則晦日」は享年八十二歳、文亀二年七月三十日没、ということになる。新暦だと一五〇二年九月十一日没、ということになる。
 (ウィキペディアに九月一日とあるのはユリウス暦で、今のグレゴリオ暦が採用されたのは一五八二年だったということから、ユリウス暦に換算して九月一日になっている。)

 「誰人心地するもなく、心惑ひども思ひやるべし。かく草の枕の露を名残も、ただ旅を好める故ならし。唐の遊子とやらんも旅にして一生を暮し果てつとかや。これを道祖神となん。

 旅の世に又旅寝して草枕
     夢のうちにも夢をみる哉

 慈鎮和尚(くわしやう)の御詠、心あらば今夜(こよひ)ぞ思ひ得つべかりける。」(宗祇終焉記)

 「心地するもなく」は放心状態で、何をしていいかわからず、ということであろう。
 旅の途中で亡くなったということで、これも旅を好んでいた結果だという。そこで、これを道祖神と呼ぶ。
 道祖神はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「道祖神」の解説」に、

 「サエノカミ、ドーロクジンなどといったり、塞大神(さえのおおかみ)、衢神(ちまたのかみ)、岐神(くなどのかみ)、道神(みちのかみ)などと記されたりもする。猿田彦命(さるたひこのみこと)や伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)などにも付会していることがある。境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、縁結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において道祖神、塞神(さえのかみ)、道陸神(どうろくじん)などを別々の神として祀(まつ)っている所もあり、地域性が濃い。峠、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある。神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。中部地方を中心にして男女二体の神像を刻んだものがあり、これは、山梨県を中心にした丸石、伊豆地方の単体丸彫りの像とともに、道祖神碑の代表的なものである。また、藁(わら)でつくった巨大な人形や、木でつくった人形を神体とする所もある。これらは地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人は峠や村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている。[倉石忠彦]」

とある。中国の影響があったかどうかについては定かでない。「道祖」という漢語を当てていることから、中国と結びつける人もいたのだろう。
 「唐の遊子とやらんも旅にして」という一節は、特に道祖神の起源とは関係なく、単に中国でも旅を好み旅に死んだ人がいた、というだけのことで引き合いに出されただけかもしれない。
 宗長は宗祇のこうした旅に死ぬ生き方に、

   旅の歌とてよみ侍ける
 旅の世に又旅寢して草枕
     夢のうちにも夢を見るかな
             法印慈円(千載集)

の歌を捧げる。
 人生は夢だというのに、その夢の中で人は夢を見ている。それと同じで人生そのものが旅にすぎないというのに、その旅の中で旅をしている。
 これは宗祇の最後の問いに対する宗長の答えなのかもしれない。

   ながむる月にたちぞうかるる
 旅の世に又旅寢して草枕

 なお、慈鎮和尚(じちんかしょう)は死語に与えられる諡号で、和歌では慈円と呼ばれる。
 なお、和尚はウィキペディアに、

 和上(わじょう) 律宗・浄土真宗など(儀式指導者に対してのみ)
 和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など
 和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など
 和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など

とある。慈円は天台の僧なので「かしょう」になる。

2022年2月21日月曜日

 今日もまだ寒いけど良い天気で、有馬梅林公園から大棚中川杉山神社の方へ行き、中川八幡山公園を通って帰った。いつもよりは少し距離のある散歩となった。
 梅はあちこちで咲いていたが、有馬梅林公園の梅が咲きそろうのはもう少し先かな。中川八幡山公園には河津桜があったが、やはりまだぽつりぽつりと咲き初めている状態だった。
 バイデンさんとプーチンさんの会談、何か落としどころがあるのかな。こういうときトランプさんだったら、何か面白い取引でも思いつきそうだけど、CIAも失敗したと思ってるかな。ただでさえ民主党は思想で突っ走りそうだし。
 今の人権はマイノリティーのためのもので、マジョリティーに人権はないという考え方が支配的だが、人権の原点は違っていたと思う。
 本来はスポーツと同様、同じルールの下で公正な競争を行う権利だったんではなかったかと思う。
 生存競争というものが、たとえ少産少死でかなり緩くなってイージーモード社会になったとはいえ、完全になくすことができないのであれば、「同じルールの下で公正な競争を行う権利」は基本的人権の定義といっていいのではないかと思う。
 ただ、世界中にはその民族伝統宗教の違いから、様々なルールがある。国際ルールはそれらの個別文化のルールで決めることはできない。基本的には科学と経済に基づくもののみが可能になる。
 また、ハンディというのはスポーツにおいても認められているもので、それも身体的生物学的特性に於いて定められなくてはならない。ただ、ハンディは競争を公正にするための手段であり、優先権ではない。それを間違えないことだ。
 今の人権思想は富の再配分と同じ発想で、巨大な権力がマジョリティーの権利を剥奪してマイノリティーに分配するというモデルを作り上げている。基本的に社会主義独裁国家の発想で、その根はプラトンの哲人政治にある。
 そういえばプラトンは、哲学者にオリンピックの優勝者と同様の歓待を要求してたっけ。プラトンもレスリングの選手だったというが、実力はどの程度だったか。競争で勝てない奴が独裁者になりたがる。競争のない社会は完全な独裁体制だ。
 なお、プロレスで言うツープラトンはレスリング選手時代のプラトンが二人がかりで攻撃したところから来ている、という説もあるが、知らんけど。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「文月の初めには武蔵国入間川のわたり、上戸と云処は今山の内の陣所なり。ここに廿日余りがほど休らふ事ありて、数寄の人多く、千句の連歌なども侍し。」(宗祇終焉記)

 「文月」は他本に「六月」とあり、その後の日程をみると「六月」が正しいと思われる。
 上戸は今の東武東上線霞ケ関駅の北側で、今の常楽寺の辺りには、かつて山内上杉家の上杉顕定の上戸陣があった。ウィキペディアに、

 「戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた(上戸陣)。」

とある。時はまさに、「ここに八九年のこのかた、山の内、扇の谷(やつ)、牟楯のこと出で来て、凡そ八ヶ国、二方に別れて」と冒頭にあったように、長享の乱のさなかだった。
 鎌倉街道上道からは多少それることになるので、宗祇宗長ら一行はこの上杉顕定に招待されたのであろう。連歌千句興行が行われている。

 「三芳野の里、川越に移りて十日余りありて、同じき国江戸といふ館にして、すでに今はのやうにありしも、又とり延べて、連歌にもあひ、気力も出でくるやうにて、鎌倉近き所にして、廿四日より千句の連歌あり。廿六日に果てぬ。」(宗祇終焉記)

 三芳野(みよしの)は武蔵の国の地名で、川越と所沢の間に三芳町があるくらいだから、かなり広い地域を表していたのだろう。古代東山道武蔵路の東側に当るが、鎌倉街道上道のルートはそれより西で、かなり外れることになる。
 『伊勢物語』第十段にも、

 みよし野のたのむの雁もひたぶるに
     君が方にぞ寄ると鳴くなる

 わが方に寄ると鳴くなるみよし野の
     たのむの雁をいつか忘れむ

という歌を交わす場面がある。
 川越には三芳野神社があり、ウィキペディアには、

 「三芳野神社(みよしのじんじゃ)は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。」

とある。川越城に関してはウィキペディアに、

 「鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
 武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。」

とある。
 先の上戸陣はこれに対抗して作られたものだった。宗祇宗長ら一行は川向こうの敵陣に向かったことになる。こういうあたりから、連歌師が敵対する大名の間を取り持つ外交的な役割も果たしていたのではないか、とも言われている。
 ただ、それは睨み合っている間だけで、本当に軍が始まると、ほうほうのていで逃げ出すことになる。宗長の『東路の津登』にはそのことが書かれている。
 まあ、武将は両方とも良いお得意さんだというだけで、軍を止める力など求める由もなかったのだろう。
 宗祇宗長ら一行はここで十日滞在した後、同じ太田道灌築城の江戸城に行くことになる。おそらくこの二つの城を繋いだのが川越街道の始まりだったのだろう。川越が小江戸と言われるのも、この時代にまで遡れるのかもしれない。
 この道中で宗祇の病状はかなり悪化し、「今(いま)はのやうに」というくらいだから命も危ない状態になったのだろう。「いまは」は本来別れの挨拶で、「今はしばし別れむ」という意味で、今の言葉だと「じゃあ」と言って別れるような感覚だったのだろう。「さよなら」も「左様なら」から来た言葉だから似ている。
 ただ、別れの言葉は永遠の別れを表すのにも転用されるため、最初は軽い意味で用いられていた言葉も、使われているうちに重い意味になってきてしまい、別の軽い言葉に取って代われるようになる。英語もFarewellからgood byになりsee youへと変わってきている。
 江戸城に着いてから、病状も持ち直し、連歌興行も行われる。大阪に着いた時の芭蕉を思わせる。病気を押して、かなり無理をしていたのだろう。
 この後鎌倉近き所へと向かう。
 「鎌倉近き所」は金子金治郎著『旅の詩人 宗祇と箱根』によると、横浜市神奈川区の権現山城だという。京浜急行神奈川駅の近くにある。江戸と鎌倉の中間付近で、あまり鎌倉に近いという感じはしない。
 権現山城は鎌倉街道下道からは外れた所にある。下道を通って、途中から分岐したか。ひょっとしたらこの権現山城への道として、近世の東海道の道筋が付けられたのかもしれない。近世東海道の神奈川宿もこの辺りになる。
 同書によると、三条西実隆の歌日記『再昌草』の文亀二年九月十六日条に、「此国の守護代うへ田とかやが館にて、廿四日より千句の連歌ありて、廿六日にはて侍しかば、廿七日に彼所をたちて、湯もとの湯に入て」と記されているという。
 相模国守護代の上田正忠の後継者の上田政盛だという。ウィキペディアに、

 「上田政盛(うえだまさもり)は、戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。相模国守護代・上田正忠(政忠)の後継者と推定されている。ただし、黒田基樹は、「政盛」の実名は軍記物に現れるのみでかつ近世初期までに成立したものに見られないことからこれを採用できないとしている。」

とある。確かに『再昌草』にも上田とあるだけで名前がない。となると、誰なんだということになる。
 そのウィキペディアには、

 「長享元年(1487年)からの長享の乱で活躍し、対立する山内上杉家領であった神奈川湊を支配下に置くが、永正2年(1505年)に主家が山内上杉家に降伏したためにこれを奪われる。これを恨んだ政盛は永正7年(1510年)6月、当時相模西部を制圧していた伊勢宗瑞の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城(現在の神奈川県横浜市神奈川区)で挙兵した。」

とある。扇谷上杉方に着いていたのなら、ここも川越、江戸と太田道灌の元で興行を行ったその延長になるのか。

 「一座に十句、十二句など句数も此ごろよりはあり。面白き句もあまたぞ侍し。此千句の中に、

 今日のみと住む世こそ遠けれ

と云句に、

 八十(やそぢ)までいつか頼みし暮ならん
   年の渡りは行く人もなし
 老の波幾返りせば果てならん

 思へば、今際(いまは)のとぢめの句にもやと、今ぞ思ひ合せ侍る。」(宗祇終焉記)

 千句興行は連衆の人数もそれなりのものだったのだろう。百韻一巻に十句、十二句はそんなに多い感じはしないが、体調を考えるとかなり頑張ったのだろう。
 その中の句に、

   今日のみと住む世こそ遠けれ
 八十までいつか頼みし暮ならん 宗祇

 述懐の句で、今日を限りに世を捨てて出家しようと思ったあの時から、もうかなり長いこと経ってしまったという前句に、いつかはと期待しながらついに八十二までなってしまった、と付ける。
 八十は宗祇の年齢の八十二なのもあるが、釈迦入滅の年齢という特別な年齢でもある。明応八年(一四九九年)三月の宗祇独吟何人百韻の四十三句目に、

   きけども法に遠き我が身よ
 齢のみ仏にちかくはや成りて  宗祇

の句がある。

   年の渡りは行く人もなし
 老の波幾返りせば果てならん  宗祇

 「年の渡り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年の渡り」の解説」に、

 「① 一年が経過すること。一年の間。
  ※万葉(8C後)一〇・二〇七八「玉葛絶えぬものからさ寝らくは年之度(としのわたり)にただ一夜のみ」
  ② (牽牛・織女が)一年に一度、天の川を渡ること。《季・秋》
  ※源氏(1001‐14頃)松風「としのわたりにはたちまさりぬべかめるを」
[補注]①の「万葉」例は、②の意にも掛けて用いる。」

とある。前句は七夕の句だったか。それを①の意味に取り成して、今年もまた一年が経過して、自分一人の他に行く人も無い孤独な生活を送っているとし、よる年波をこれから何度繰り替えすれば終わるのだろうか、と付ける。
 年取るのは孤独なもので、いつまで生きなくてはいけないのか、という老いの嘆きの句になる。
 宗長が「思へば、今際(いまは)のとぢめの句にもや」と思う、この「とぢめ」は臨終の意味。
 この頃は辞世というと和歌を詠むもので、

 老の波幾返りせば果てならん
     年の渡りは行く人もなし

とすると、なるほど辞世の歌のようにも聞こえる。「行く人もなし」が自分ももう次の年へと渡ることはない、これまでだ、と言っているとも取れる。

2022年2月20日日曜日

 今日は朝から雨で、昼には止んだが一日どんよりと曇っていた。まだ寒い日が続く。
 オリンピックも終わった。パラリンピックは配信してくれるのかな。その前に戦争が始まってなければいいが。
 人権というのは結局のところ、生存競争の一プレーヤーとして、公正なルールの下に自立的に戦う権利なんではないかと思う。その意味では、ゲーム用語の「人権」の用法も意外に当を得ているのではないかと思う。
 このまま第三次世界大戦が起きても、残念ながら日本には人権がない。笑って死ぬのを待つだけだ。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。今回は温泉回、と言っても爺さんだけど。

 「此暮より又患ふ事さえかへりて、風さへ加はり、日数経ぬ。如月の末つかた、おこたりぬれど、都のあらましは打置て、「上野の国草津といふ湯に入て、駿河国にまかり帰らんの由思ひ立ぬ」と言へば、宗祇老人「我も此国にして限(かぎり)を待はべれば、命だにあやにくにつれなければ、ただの人々の哀れびも、さのみはいと恥かしく、又都に帰り上らんも物憂し。」(宗祇終焉記)

 年末から宗長の体調が再び悪化し、それに風邪も加わり、正月過ぎても直江津に閉じ込められたまま日々を過ごす。
 二月の末になってようやく体調が回復すると、京へ上るのをやめて草津温泉行き、そこから元来た道を戻って駿河に帰ろうと思い立ち、宗祇を温泉に誘う。
 宗祇もそれに賛同する。越後で死ぬことになると思っていたら、思いのほか「つれなく(その気配もない)」ということで、上杉家の人たちにいつまでも世話になるのも気が引けるが、だからと言って都に帰るのものも、あっちもいろいろごたごたしていて面倒くさい。
 宗祇が越後に旅発った直後、七月二十八日に京都大火があって種玉庵が焼失したことも知っていたのだろう。

 「美濃国に知る人ありて、残る齢の陰隠し所にもと、たびたびふりはへたる文あり。あはれ伴ひ侍れかし」と、「富士をもいま一度(たび)見侍らん」などありしかば、打捨て国に帰らんも罪得がましく、否びがたくて、信濃路にかかり、千曲川の石踏みわたり、菅の荒野をしのぎて、廿六日といふに草津といふ所に着きぬ。」(宗祇終焉記)

 美濃はかつて宗祇が東常縁から古今伝授を受けた土地で、そこに知り合いがいたのであろう。度々手紙を交わしていて、自分もそこへ行き、その途中でもう一度富士山を見たい。ということで、宗長の駿河に帰る道に同行して、そこから美濃へ向かうことにする。
 宗祇がこれまで最後に富士山を見たのはかつての東国下向からの帰りで、三島で最初の古今伝授を受け、そこから美濃で古今伝授を終了するまでの間に見て以来のものだったのだろう。文明四年(一四七二年)以来三十年ぶりになる。
 そう言われれば、一人で駿河に帰るわけにもいかないので、ここで宗長は駿河へ、宗祇は美濃へ、ともに旅をすることになる。
 まあ、今で言えばこれがフラグという所か。
 信濃路は北国街道とも呼ばれているもので、直江津から野尻湖の脇を通って行く、今の国道十八号線に踏襲された道であろう。そのあといまの長野市の善光寺を通って、千曲川を渡り、千曲川の東岸を遡って、上田の辺りで東山道に合流する。越後に来る時も、おそらくこの道を通ったと思われる。
 二十六日に草津に着いたとあるが、二月の末に病が治ったとあったから、三月のことか。どのルートで入ったかはよくわからない。

 「同じき国に伊香保といふ名所の湯あり。中風のために良しなど聞きて、宗祇はそなたに赴きて、二方に成ぬ。此湯にて煩(わづらひ)そめ、湯に下(を)るる事もなくて、五月の短夜をしも明かし侘びぬるにや、

 いかにせんゆふづけ鳥のしだり尾の
     声うらむ夜の老の旅寝を」(宗祇終焉記)

 伊香保も今でも有名な温泉地で、草津から渋川の方へ行った、榛名産の中腹にある。二つの温泉で一月以上ゆっくりと休養する所だったが、山奥の旅が御老体にはきつかったのか、今度は宗祇の方の体調が悪くなり、五月になる頃には温泉に入ることもなくなった。
 そこで宗長が一首。

 いかにせんゆふづけ鳥のしだり尾の
     声うらむ夜の老の旅寝を
             宗長法師

 「ゆふづけ鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木綿付鳥」の解説」に、

 「〘名〙 (後世「ゆうづけどり」「ゆうつげどり」とも。古代、世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく) 木綿をつけた鶏。また、鶏の異称。木綿付の鳥。
  ※古今(905‐914)恋一・五三六「相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ〈よみ人しらず〉」
  [補注]「俊頼髄脳」では「ゆふつけどりとは鶏の名なり。鶏に木綿をつけて山に放つまつりのあるなり」と説明されていたが、「奥義抄」が、それを疫病流行の際に朝廷が四方の関で行う四境祭の儀式であると説き、「袖中抄」「顕昭古今集注」もこれを継承した。」

とある。その四境祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四角四堺祭」の解説」に、

 「〘連語〙 陰陽道で、疫神の災厄を払うため、家の四隅と国の四堺とで行なった祭祀。また、朝廷で六月と一二月の晦日(みそか)に行なった鎮火祭と道饗(みちあえ)の祭をいう。四角四境の祭。四角四境鬼気の祭。四角祭。
  ※朝野群載‐一五・長治二年(1105)二月二八日・陰陽寮四角四堺祭使歴名「四角四堺祭使等歴名 陰陽寮 進下供二奉宮城四角巽方鬼気御祭一 勅使已下歴名上事」

とある。
 「ゆふづけ鳥のしだり尾」は病魔を払うためのまじないとして、鶏に付けられたものなのだろう。
 「しだり尾」というと、

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝む
             柿本人麻呂(拾遺集)

の歌がある。
 「しだり尾」が「ながながし夜」を導き出すように、下句の「声うらむ夜の老の旅寝を」はそれによって導き出され、ここでは病気のことが心配で寝るに眠れなかった、という意味になる。
 なお、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)の注には、「宗長は草津に、宗祇は伊香保に別れて滞在した。宗祇には宗碩・宗坡が同行。四月二十五日、伊香保において宗祇・宗碩・宗坡の三吟がある(宮内庁書陵部本也)。」とある。
 宗碩・宗坡はいつから同行しているか定かでない。ただ、この二人が宗祇について行ったとなると、宗長の方は誰が同行していたのだろうか、ということになる。
 本文に記されてはいないが、宗祇の高齢と当時の治安の悪さを考えると、実際はそれなりの人数で移動していたのだろう。
 宗祇の『白河紀行』や宗長の『東路の津登』を見ると、館に泊まった時は、そこの武士が護衛となった送って行ったりというのもあったようだ。

2022年2月19日土曜日

 去年の二月二十日の写真に、山内図書館前の満開の河津桜の写真があった。梅の花も遅いし、今年は花が咲くのが遅い。日差しは暖かくて体感温度は高くても、実際は気温の上がらない寒い日が続いている。
 ドネツクで既に戦闘が始まっているのか、それとも単なる偽装なのか。日本では情報が少ないし、ロシア側に偏っている。政治家もこういう報道を真に受けるから、外交判断を鈍らすもとになる。
 まあ、どのみち第三次世界大戦になっても、憲法で守られた日本の自衛隊に人権(参戦する資格)はないけどね。
 「戦争反対」というスローガンは自分の国には作用するが相手国には作用しない。それゆえ平和をもたらさないばかりか、かえって戦争を招くことになる。「核廃絶」も同じだ。相手国の核を増強させるだけだ。それゆえ鈴呂屋は言い続けます。「平和に賛成します」と。
 第二次大戦後の哲学者たちが必死になって哲学を終わらせようとしたのに、哲学の亡霊は今も世界を彷徨っている。亡霊は戦うべき相手ではない。供養して成仏させよう。「鬼神を敬して之を遠ざく(敬鬼神而遠之)」と昔の人も言っていた。
 あと鈴呂屋書庫に「生船や」の巻「酒の衛士」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「宗祇見参に入て、年月隔たりぬる事などうち語らひ、都へのあらましし侍る折しも、鄙の長路の積りにや、身に患ふ事ありて、日数になりぬ。やうやう神無月廿日あまりにをこたりて、さらばなど思ひ立ちぬるほどに、雪風烈しくなれば、長浜の浪もおぼつかなく、「有乳(あらち)の山もいとどしからん」と言ふ人ありて、かたのやまの旅宿を定め、春をのみ待事にして明かし暮らすに、大雪降りて、日ごろ積りぬ。」(宗祇終焉記)

 直江津で宗祇と会うことができて、明応八年の春以来、お互いにいろいろあったことを話したのだろう。宗長は都へ帰る予定などを立てようとしたが、長旅の疲れで体調を崩していて、無駄に何日も過ぎて行った。
 宗長の病気の方は十月二十日過ぎた頃に良くなり、それでは都へと思い立った頃には、雪が激しく吹雪く状態だった。
 長浜は今の谷浜海岸だという。直江津の西にあり、長浜という地名が残っている。
 有乳(あらち)山は福井県敦賀市の南部の山で、

 有乳山雪ふりつもる高嶺より
     さえてもいづる夜半の月かげ
             源雅光(金葉集)
 有乳山裾野の浅茅枯れしより
     嶺には雪のふらぬ日もなし
             宗尊親王(新後撰集)

など、歌にも詠まれている。
 直江津でこの雪だと、有乳山はとても越えられないと言う人がいたので、春になるのを待つことになる。
 古代の駅路は敦賀市粟野から高島氏マキノの方へ抜けていたので、その間の黒河峠(くろことうげ)の辺りだと思う。
 文亀元年の十月二十日は新暦一五〇一年の十二月十日になる。この年は雪の降り始めるのが早かったのだろう。そのまま直江津は雪に埋もれて行くことになる。

 「此国の人だに、「かかる雪には会はず」と侘びあへるに、まして耐へがたくて、ある人のもとに、

 思ひやれ年月馴るる人もまだ
     会はずと憂ふ雪の宿りを」(宗祇終焉記)

 地元の人もこんな雪は見たこともないというくらい、記録的な大雪の年だったようだ。そこで宗長が歌を詠んで「ある人」に送る。
 「思ひやれ」は「想像してごらん」というような意味か。当事者ではなく、都にいる人か、あるいは読者全般に呼び掛けた感じがする。

 「かくて、師走の十日、巳刻ばかりに、地震(なゐ)大(おほき)にして、まことに地にふり返すにやと覚ゆる事、日に幾度といふ数を知らず。五日六日うち続きぬ。人民多く失せ、家々転び倒れにしかば、旅宿だにさだかならぬに、又思はぬ宿りを求めて、年も暮れぬ。」(宗祇終焉記)

 文亀元年十二月十日、新暦の一五〇二年一月二十八日、文亀越後地震が起き。ただ、当時の記録はほとんどなく、この『宗祇終焉記』が貴重な資料となっている。
 ネット上の「防災情報新聞」の記述も、

 「巳の刻(午前10時頃)、越後国(新潟県)南西部にマグニチュード6.5~7の強い揺れが襲った。
 当時、連歌の第一人者とうたわれた宗祇は、越後守護・上杉房能を訪ね国府(現・上越市)に滞在していたがこの地震に遭い「地震おほき(多き)にして、まことに地をふりかへす(ひっくり返す)にやとおぼゆる(覚ゆる)事、日にいくたび(幾たび)といふ(いう)かず(数)をしらず、五日六日うちつゞきぬ。人民おほくうせ(多く失せ)、家家ころびたふれ(倒れ)にしかば、旅宿だにさだか(定か)ならぬに、またおもはぬ(思わぬ)宿りをもとめ(求め)つゝ年も暮れぬ。」であったという。(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧」、池田正一郎著「日本災変通志」、金子金治郎著「宗祇旅の記私注・宗祇終焉記・一 越後に宗祗を問ふ」)」

とあるのみで、これ以上の情報はない。
 この他にはネット上に石橋克彦さんの「文亀元年十二月十日(1502.1.18)の越後南西地震で姫川流域・真那板山の大崩壊が起きたか?」というPDFファイルがある。
 ここには、

 「標記の地震に関して信頼できる同時代史料は『宗祇終焉記(そうぎしゅうえんき)』と『塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう)』だけである。
 それ以外に『会津旧事座雑考』、『新宮雑葉記(しんぐうぞうようき)』、『続本朝通鑑(ぞくほんちょうつうがん)』、『異本塔寺長帳』が掲げられているが、江戸時代の編纂史料であるし、有意な地震記事を含んでいない。」

とある。
 この論文によると、京都でこの地震が記録されてないことから、マグネチュード七近い地殻内地震ではなく、直江津周辺の直下型地震ではないかと推定している。それゆえ姫川流域・真那板山の大崩壊はこの地震によるものではない、としている。
 折からの大雪と重なったので、地震だけでなく、雪の重みも合わさって多くの家屋が倒壊したと考えられる。

 「元日には宗祇、夢想の発句にて連歌あり。

 年や今朝あけの忌垣(いがき)の一夜松

 この一座の次(ついで)に、

 この春を八十(やそぢ)に添へて十とせてふ
     道のためしや又も始めん

と賀し侍し。返し、

 いにしへのためしに遠き八十だに
     過ぐるはつらき老のうらみを

 おなじき九日、旅宿にして、一折つかうまつりしに、発句、

 青柳も年にまさ木のかづら哉」(宗祇終焉記)

 年が明けて文亀二年の元日(一五〇二年二月十八日)、宗祇の歳旦の発句がある。

 年や今朝あけの忌垣の一夜松  宗祇

 忌垣(いがき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「斎垣・忌垣」の解説」に、

 「〘名〙 (「いかき」とも。「い」は「斎み清めた神聖な」の意の接頭語) 神社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣。みだりに越えてならないとされた。みずがき。
  ※万葉(8C後)一一・二六六三「ちはやぶる神の伊垣(イかき)も越えぬべし今はわが名の惜しけくもなし」
  ※古今(905‐914)秋下・二六二「ちはやぶる神のいがきにはふ葛も秋にはあへずうつろひにけり〈紀貫之〉」

 この言葉は越えてはいけないという所で恋の比喩にも用いられる。『伊勢物語』第七十一段に、

 「むかし男伊勢の斎宮に、内の御使にてまゐりければ、かの宮にすきごといひける女、私事にて、

 ちはやぶる神のいがきも越えぬべし
     大宮人の見まくほしさに

 男、

 恋しくは来ても見よかしちはやぶる
     神のいさなむ道ならなくに」

とある。
 宗祇の発句は恋の俤はないが、初詣の習慣のない時代の忌垣は、越えてはいけない正月が来た、という意味合いが込められていたのではないかと思う。
 それは表向きには直江津に足止めされている自分が忌垣の中にいるみたいだという意味だが、前年の暮に震災があって、それに大雪も未だ終わらず、まだ正月を祝える状態でないのに正月が来てしまった、という思いがあったのであろう。
 一夜松はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一夜松」の解説」に、

 「① 伝説上の松。また、その伝承。菅原道真の没後、京都の北野神社に一夜で数千本の松が生えたとか、高僧の手植えの松が一夜で古木になったとかいうさまざまの伝承がある。
  ※俳諧・毛吹草(1638)五「洛中の門や北野の一夜松〈重頼〉」
  ② おおみそかに門松を立てること。これを忌む俗信が広く分布している。
  ※風俗画報‐一二号(1890)人事門「一夜松(ヤマツ)といふは縁喜あししとて大晦日には立てず」

とある。貞享五年(一六八八年)刊の貝原好古の『日本歳時記』では、晦日の所に「門松をたて」とあるから、一夜飾りを嫌うのは近代のことであろう。ここでは一夜にして北野天満宮に千本の松が生えた伝承を思い起こし、例文の重頼の句と同様の趣向で、こんな辛い中でもみんな松飾りをして、さながら千本松のようだ、という意味ではないかと思う。
 忌むべき出来事の後に新しい年が来て、さながら千本松のような奇跡を見る思いだったのだろう。東日本大震災の奇跡の一本松を思わせる。
 この発句で興行をしたついでに宗長が和歌を詠む。

 この春を八十に添へて十とせてふ
     道のためしや又も始めん
             宗長法師

 この正月をもって宗祇が数え八十二になったということで、この調子で九十まで生きる旅路の始まりになる、とその長寿を祝う。
 これに対し宗祇は、

 いにしへのためしに遠き八十だに
     過ぐるはつらき老のうらみを
             宗祇法師

 「いにしへのためし」は『旅の詩人 宗祇と箱根』(金子金治郎著)によれば、藤原俊成が九十の長寿を迎えた先例だという。永久二年(一一一四年)に生まれ、 元久元年(一二〇四年)に没した。
 八十まで生きてきたけど年を取るのは辛いことなので、そんな長くは生きたくない、というような返事だった。
 九日に一折(二十二句)の興行があり、その時の発句、

 青柳も年にまさ木のかづら哉  宗祇

の句があった。「まさ木のかづら」は、

 み山には霰降るらし外山なる
     まさきの葛色づきにけり
             よみ人しらず(古今集)

の歌がある。
 「まさ木」を「年にまさる」と掛けて、青柳も新しい年を迎えれば、去年の真拆(まさき)の葛(かづら)の色にも勝る、と新年を喜ぶ句とする。
 裏には、青柳とは言っても老木の我身は真拆の葛のようなものだという、含みがあったのかもしれない。真拆の葛は定家葛(テイカカズラ)のことだという。どちらも枝垂れる。

2022年2月18日金曜日

 今日散歩していたら、山内図書館の前の河津桜が少し咲いていた。春は確実に来ている。
 ステルスオミクロンと呼ばれたBA.2が日本にも入ってきているという。一月にヨーロッパで広がったオミ株のバリエーションで、ヨーロッパではすでにピークアウトしていて規制解除も始まっているから、そんなに心配することもない。
 ヨーロッパで主流のSGTF検査では検出されにくいためにこの名前があるが、日本のPCR検査では検出されるという。これまでも入ってきていて、通常のオミ株として処理されてきた可能性もある。
 あと、民族間の単純な嫌悪や対立、過去の怨恨などは有史以前から繰り返されてきたことだが、レイシズムは西洋人の発明だという認識で合っているかな。
 民族間のわだかまりは感情レベルのものだから、状況によって大きく左右される。そのため、多民族の集まる貿易都市などでは、昔から民族を越えた友情も存在してきた。
 また、たまたまやってきた異境の旅人を歓待する習慣もどこの民族にもあった。
 レイシズムはこうした感情とは無関係に、疑似科学によって理性に働きかける仕方で拡大した。それは人類の平等と侵略戦争を両立させるための口実だった。
 そのため、親しき友人だったユダヤ人を、感情を押し殺して、汝為すべしの定言命令に従ってナチスに渡すという矛盾したことをやっていた。
 レイシズムは人間の自然の感情ではない。あくまでも偽造された理性の産物だ。こういうものは戦うのではなく、忘れることでその存在を消し去ることができる。
 性差別やLGBTの問題でも基本は一緒だ。本来は誰しも持つ感情で、それを一つの思想として意識したら負けだ。「意識高い系」などという言葉があるのはそういう理由によるものだ。意識することで対立は逆に深まる。その対立のエネルギーを奴らは欲しがっている。
 あらゆる差別の問題は理性の議題に乗せるよりも、個別の生存の取引の繰り返しで、妥協点を勝ち取ることを優先させた方がいい。人権団体も個々の問題解決のサポートに徹するべきだ。言葉刈りもサピア=ウォーフ仮説の亡霊で科学的根拠はない。
 同性愛になまじっか「性同一性障害」なんて病名を思わせるような表現をするから、それで勘違いして病院へ行けだとか、治療しろなんていう連中が出て来る。
 逆に敵はいかに意識させるかに腐心して、組織的なネットの炎上などを繰り返す。無視しろ。
 第三次世界大戦を防ぐには、まず身近なところから対立を忘れさせることを考えろ。ガンジーは無抵抗非服従を説いたが、ポリコレに対しては無反論非服従が一番いい。

 それではこの辺で宗長の『宗祇終焉記』でも読んでみようかと思う。まあ、これも歳旦から始まるし、季節的におかしくはない。
 テキストは『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)による。

 「宗祇老人、年比の草庵も物憂きにや、都の外のあらましせし年の春の初めの発句、
 身や今年都をよその春霞」(宗祇終焉記)

 宗祇は応永二十八年(一四二一年)の生まれで、

 身や今年都をよその春霞    宗祇

の句は明応八年(一四九九年)の歳旦になる。
 我身は今年、都以外の所で春の霞を見ることになる、という旅立ちの句になっている。「都の外のあらまし」の「あらまし」は、元は「こうあったら良い」という意味で、願望や計画を意味する。
 金子金治郎著『旅の詩人 宗祇と箱根』(かなしんブックス、一九九三)によれば、明応八年正月四日種玉庵での百韻興行の発句になっていて、『実方公記』の明応八年正月六日の条にも見られるという。宗祇の数えで七十九歳の時になる。昔の人は誕生日が分からないので、正確な満年齢はわからない。
 「年比(としごろ)の草庵」はこの発句による百韻興行が行われた種玉庵のことで、金子治金次郎著『宗祇の生活と作品』(一九八三、桜楓社)によれば、文明五年(一四七三年から一四七四年)秋・冬に京に居を定めてから、文明七年(一四七五年から一四七六年)十二月に『種玉篇次抄』を著しているので、その間に作られたという。(当時は旧暦なので、冬の場合は新暦正月を過ぎて翌年になっていることもあるので、一四七三年から一四七四年という書き方になる。)
 応仁の乱(一四六七年)の起こる前年に宗祇は東国に下り、『吾妻問答』『白河紀行』などを書き表し、文明三年に東常縁(とうのつねより)から三島で古今伝授を受け、文明五年に美濃で古今伝授を終了し、その後京へ戻り種玉庵を開き、それから二十三年余り京を中心に活動する。
 ただ、ずっと京にいたわけではなく、その間に何度も旅をしていて、文明十二年(一四八〇年)には九州へ行ったとこのことを『筑紫道記(つくしみちのき)』に記している。

 「その秋の暮、越路の空に赴き、このたびは帰る山の名をだに思はずして、越後の国に知る便りそ求め、二年(とせ)ばかり送られぬと聞きて、文亀初めの年六月の末、駿河の国より一歩をすすめ、足柄山を越え、富士の嶺を北に見て、伊豆の海、沖の小島に寄る波、小余綾(こゆるぎ)の磯を伝ひ、鎌倉を一見せしに、右大将のそのかみ、又九代の栄へもただ目の前の心地して、鶴が岡の渚の松、雪の下の甍はげに岩清水にもたちまさるらんとぞ覚侍る。山々のたたずまゐ、谷(やつ)々の隈々、いはば筆の海も底見えつべし。」(宗祇終焉記)

 明応八年正月四日の種玉庵での興行には宗長も参加していた。
 ただ、鶴崎裕雄著『戦国を征く連歌師宗長』二〇〇〇、角川叢書によるなら、その後三月二十四日に三条実隆を訪ねて以降、消息がはっきりせず、駿河に帰ったものと思われる。この頃はまだ丸子の柴屋軒はなかった。柴屋軒は永正元年(一五〇四年)以降になる。
 宗長は駿河国の出身で最初は今川義忠に仕え、寛正八年(一四六五年)に出家するがその後も義忠に仕えていたようだ(『戦国を征く連歌師宗長』による)。ここで関東下向した時の宗祇と出会い、師事することになる。
 そういうわけで、宗長は応永八年の春以降の二年余りに渡って宗祇との接触はなく、宗祇の正確な足取りを知っていたわけではない。それが、「その秋の暮、越路の空に赴き、このたびは帰る山の名をだに思はずして、越後の国に知る便りそ求め、二年(とせ)ばかり送られぬと聞きて」という文章になっている。
 実際に宗祇が越後へ旅立ったのは明応八年の秋ではなく、翌明応九年(一五〇〇年)の七月十七日だったという。明応九年の秋になる。
 「帰る山の名」は、敦賀と越前の間の歌枕で、

 我をのみ思ひつるかの浦ならは
     かへるの山はまとはさらまし
             よみ人しらず(後撰集)

 こえかねていまぞこし路をかへる山
     雪ふる時の名にこそ有りけれ
             源頼政(千載集)

などの歌がある。宗祇の越後下向は二年ほどの滞在が予定されていて、すぐには帰らない、と宗長は認識していた。なお宗祇はそれまでも頻繁に越後に足を運んでいて、これが七度目だという。
 宗長はその翌年の「文亀初めの年六月の末」に、越後へ向かう。
 「文亀初め」は文亀元年で、明応十年(一五〇一年)は二月二十九日に改元して文亀元年となる。宗祇の発句から二年たっている。
 駿河を出た宗長は、「足柄山を越え、富士の嶺を北に見て、伊豆の海、沖の小島に寄る波、小余綾(こゆるぎ)の磯を伝ひ、」という行程で、まず鎌倉へ向かう。 「足柄山を越え、富士の嶺を北に見て」は順序が逆になる。駿河国を富士の嶺を北に見ながら旅をして、足柄山を越える。この頃は足柄峠越えよりも箱根越えが主流になっていて、ここでいう足柄山も箱根のことと思われる。
 「伊豆の海、沖の小島」は初島のことで、

 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
     沖の小島に波の寄る見ゆ
             源実朝(金槐和歌集)

の歌で知られている。
 ただ、初島が見えるのは箱根山の南の十国峠を経て伊豆山へ抜ける道で、箱根峠から湯本へ抜ける道ではない。
 小余綾(こゆるぎ)の磯は今の大磯で、

 こよろぎの磯たちならし磯菜摘む
     めざし濡らすな沖にをれ波
             よみ人しらず(古今集、相模歌)

の歌で知られている。
 そのあと宗長は鎌倉へ向かう。
 「右大将のそのかみ、又九代の栄へ」は右大将源頼朝と、それを含む鎌倉幕府の九代の将軍を言う。といっても頼朝、頼家、実朝の三代の後は藤原九条家に移り、六代以降は親王が将軍となっている。
 その昔の鎌倉の繁栄を目の前に見るような心地で、「鶴が岡の渚の松、雪の下の甍」などを見物する。
 渚の松はそういう名前の特定の木があったのかどうかは定かでない。由比ガ浜は材木座海岸があるので、その辺りにはかつては松原があっただろうし、若宮大路もかつては松並木だったという。
 雪の下は鶴岡八幡宮の辺りの地名で、鶴岡八幡宮の甍であろう。京の石清水八幡宮にも勝るというのも、鶴岡八幡宮を同じ八幡宮ということで比較しているから、渚の松も若宮大路の松だったかもしれない。
 「山々のたたずまゐ、谷(やつ)々の隈々、いはば筆の海も底見えつべし。」と讃えているのも、鶴岡八幡宮の周辺の景色であろう。

 「ここに八九年のこのかた、山の内、扇の谷(やつ)、牟楯(むじゅん)のこと出で来て、凡そ八ヶ国、二方に別れて、道行人もたやすからずとは聞えしかど、此方彼方知るつてありて、武蔵野をも分過ぎ、上野(かうづけ)を経て、長月朔日比に越後の国府に至りぬ。」(宗祇終焉記)

 昔の鎌倉幕府九代を偲びつつ、現実に目を向ける。
 八九年とあるのは長享の乱のことで、ウィキペディアに、

 「長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。」

とある。
 ここ八九年、山内上杉と扇谷上杉との対立から、関八州が二分されている。「牟楯(むじゅん)」は矛盾のことで、ここでは楯と矛で争う状態をいう。
 関東が敵味方に分断されている状態だから、これから越後に向かうにも通る道を選ばなくては、余計な争いに巻き込まれることになる。
 これまでの連歌興行などで親しくしていた武将などの伝手を頼りながら、武蔵から上州を経て九月一日にようやく越後へ無事に辿り着くことになる。二か月以上かかったことになる。
 ルートは特に回り道しなかったならば、鎌倉街道上道で高崎へ出る道であろう。『曽我物語』に、

 「化粧坂をうち越え、柄沢・飯田をも過ぎ給ひ、武蔵国関戸の宿に着かせ給ふ。」

とある道で、そこから先は入間川を渡り児玉を経て高崎に至る。
 そこから越後国府のある今の上越市直江津へ向かう。ルートはおそらく碓氷峠を越えて上田、長野を経由したのではないかと思う。直江津には上杉氏の居城である至徳寺館があった。
 越後上杉氏は上杉房能(うえすぎふさよし)の時代だった。

2022年2月17日木曜日

 今日は散歩で有馬梅林公園に行った。紅白の梅数本が奇麗に咲いていた。他の木も蕾が大きく膨らんで、もう少しすると咲きそろいそうだ。散歩の途中でもあちこちで梅の咲いているのを見た。
 あとまあ、コロナ後の世界が実は存在しないという可能性、一応頭の隅に置いておかないとね。
 仮に核戦争で人類絶滅という事態が起きるなら、何でそんなことになったのか考えるのも今の内だ。ダイイングメッセージとして他の星の人たちに残してやんないとね。
 筆者が総括するに、これは「純粋理性の暴走」に尽きると思う。基本的には西洋文明の責任だと思う。(この場合の「純粋理性」は肉体を持たない抽象的な理性という意味で、カント的な「実践理性」に対しての言葉ではない。実践理性も含めて、西洋形而上学の霊肉二元論に基づく「理性」の概念を意味する。)
 すべての人に平等な生存権をというのは、土地と生産力が無限であることを前提にしか成立しなかった。地球の定員が限られているなら、誰かが排除されなくてはならなかった。
 近代以前の人類は、それぞれの文化圏でそのルールを模索してきた。だが、近代の理性はそれを一切「野蛮」と切り捨てた。
 その結果、理想と現実のギャップの構造が生まれた。すべての人間が平等に幸せになるには地球は狭すぎた。だから、「人権」の名における排除の構造を作らざるを得なかった。つまり、人権の及ばない「野蛮人」を作り出さざるを得なかった。
 レイシズムは人権思想と対を成すもので、光と闇のようなものだった。そこには何の欲望も憎しみもない。だから、一切の妥協や取引が存在しない。つまり引き下がるということができない。
 かつてのレイシズムは肌の色や民族や宗教によるものだったが、今の人権思想はそういったものに関係なく、人権派の主張に従うか否かで野蛮人を判定している。そして彼らは容赦なく「不可能な可能性」に服従することを要求する。
 生物学的基礎を持たない純粋理性による人権思想は最初から矛盾していた。この矛盾した思想が世界を席巻した時、世界は常に人類滅亡の恐怖にさらされていた。
 フランス革命、名誉革命、アメリカ独立、人権思想が勝利を収めた瞬間は、同時に彼らの侵略の開始の合図だった。すべての「国民」が平等に繁栄を享受するには、国土は狭すぎて生産力が不足している。飢餓か侵略かという選択を迫られれば、侵略を選ばざるを得なかった。
 かくして地球規模での植民地争奪戦が始まり、それが第一次、第二次の二つの悲惨な戦争を生み出した。
 第三次世界大戦はこの二つの大戦の主要なプレーヤーがたぐいまれな繁栄を手にしたのに対し、出遅れたロシア・中国の二つの国に北朝鮮やイスラム圏の独裁国家が連動することによって起きた。そして、多くの民主主義国家で反米を標榜する社会主義者たちが、これらの国々を支持した。
 中国がウイグル人虐殺をためらわなかったのは、アメリカがネイティブ・アメリカンを追い出して今の繁栄を築いたのだから、俺たちがウイグル人を追い出して何が悪い、というものだった。
 ロシアのウクライナ侵略は、旧ソ連時代の共産圏に対してロシアが指導力を持つのが当然だという考え方によるものだった。これはアメリカが日米同盟やNATOを通じて軍事的に連携しているのに対抗するものだった。だからウクライナのNATO加盟阻止は絶対に譲れない一線だった。
 反米思想を支えていたのは、かつての植民地争奪戦に対して後発の不条理を感じる者たちと、二十世紀の社会主義革命の失敗を「アメリカに潰された」と信じる人たちだった。
 彼らが人権の旗のもとに、世界中のすべての人類が平等の繁栄を要求したとしても、それは人権思想が誕生した時のあの矛盾を再び呼び起こすだけだった。
 出遅れた国のすべての国民が平等に繁栄を享受するには、地球は狭すぎて生産力が不足している。飢餓か侵略かという選択を迫られれば、侵略を選ばざるを得なかった。
 全員が船に乗ることができないなら、こんな船なんてぶっ壊してしまえ。これは冗談で済む話ではなかった。一人の人間の人権が地球より重いとすれば、これは当然の帰結だ。地球を壊すということを選択するしかない。
 かくして、人類はコロナ明けの希望を余所に第三次世界大戦の泥沼に入り込み、最後は核戦争で人類は滅びましたとさ。おしまい。
 宇宙の人たちはこれを良き教訓とすることを望む。

 それでは「酒の衛士」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目。

   砧の皷笛おほせ鳥
 桂こぐ更科丸の最中哉

 「桂こぐ」は桂楫であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「桂楫」の解説」に、

 「かつら‐かじ ‥かぢ【桂楫】
  〘名〙 (「かじ」は櫂(かい)の意) 月の世界にあるという桂の木で作った船の櫂。
  ※万葉(8C後)一〇・二二二三「天(あめ)の海に月の船浮(う)け桂梶(かつらかぢ)かけて漕ぐ見ゆ月人壮子(つきひとをとこ)」
  けい‐しゅう ‥シフ【桂楫】
  〘名〙 桂(かつら)の木で作った櫂(かい)。転じて、美しい櫂。
  ※和漢朗詠(1018頃)雑「蘭橈桂檝、舷を東海の東に鼓く〈大江朝綱〉」 〔丁仙芝‐渡揚子江詩〕」

とある。
 更科丸はよくわからない。更科の里を行く舟の名前という感じはするが。最中は「最中(もなか)の月」で中秋の名月のこと。二の懐紙の月の句になる。
 前句の砧の皷で、山奥の里として、更科の里を下る船を付ける。月の縁で「桂」「最中」と結ぶ。
 二十六句目。

   桂こぐ更科丸の最中哉
 吉原山にとくさ刈其

 木賊(とくさ)は更科というよりは木曽の方だが、まあ同じ信州ということでいいか。

 木賊刈る園原山の木の間より
     磨かれ出づる秋の夜の月
             源仲正(夫木抄)

の歌を本歌とするが、ここでは吉原山にする。どこにあるのかは知らない。
 二十七句目。

   吉原山にとくさ刈其
 麻衣独リ賤屋の浮名歌

 吉原の縁で浮名と恋に展開する。

 木賊刈る木曾の麻衣袖濡れて
     磨かぬ露も玉と置きぬる
             寂蓮法師(新勅撰集)

が本歌になる。隠棲の涙を浮名の涙にする。

 恨みわびほさぬ袖だにあるものを
     恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
             相模(後拾遺集)

の心になる。
 二十八句目。

   麻衣独リ賤屋の浮名歌
 綿摘娘垣間見にけり

 麻衣の男が綿摘む娘に恋をする。麻と綿では身分違いということか。
 二十九句目。

   綿摘娘垣間見にけり
 豆腐売ル声を時雨につたへ来て

 綿花の収穫は時雨の頃で、『続猿蓑』の「いさみたつ(嵐)」の巻十四句目に、

   草の葉にくぼみの水の澄ちぎり
 生駒気づかふ綿とりの雨    沾圃

の句があるが、ここでは秋になっている。
 時雨も和歌では晩秋に紅葉とともに詠むので、綿摘みも両方に跨っていたか。
 前句の垣間見を豆腐売りとする。綿の大敵である時雨を伝えに来た。
 三十句目。

   豆腐売ル声を時雨につたへ来て
 釣にうかるる鴨千鳥川

 鴨の群がる川は魚もたくさんいる。釣りに夢中になっていると時雨に朝の豆腐売りの声がする。
 二裏、三十一句目。

   釣にうかるる鴨千鳥川
 蜊むく蠣の小家のあまた数

 海辺の釣り場には、アサリやカキを食べさせる小さな店がたくさんあったのか。人口の多い江戸の隅田川河口には、そういう所もあったのかもしれない。深川丼は今でも有名だが。
 「蜊(あさり)むく」は浅利の実を殻から剥がすこと。
 三十二句目。

   蜊むく蠣の小家のあまた数
 下機音の波を織ルけに

 下機(したはた)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「下機」の解説」に、

 「〘名〙 (「しもばた」とも) 主に木綿、麻布を織るのに用いる機(はた)。機の丈は低く、機に向かって腰を落とし、両脚をなげだして織るもの。いざりばた。
  ※俳諧・玉海集(1656)付句「しもはたを織ぬる人のすそみえて〈貞利〉」

とある。
 元禄五年の「水鳥よ」の巻十九句目に、

   春はかはらぬ三輪の人宿
 陽炎の庭に機へる株打て    兀峰

の句があり、この場合は古代の機台のない、まず杭を打ってそこに縦糸を止める棒を固定し、そこからもう一本の棒で経糸を水平に伸ばし、間に綜絃で糸を一つ置きに二種類に分けて上下させ、そこに杼(ひ)で横糸を通して行く機織りを紹介したが、下機はそれを簡単な機台に据えたようなものだったと思われる。
 アサリやカキを売る店の辺りの海は内海で穏やかで、その音は下機の音のように波を織り上げている。
 「けに」は連体形に付いているから、「けにや」の略か。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「…ためで(あろう)か。
  出典竹取物語 竜の頸の玉
  「千度(ちたび)ばかり申し給(たま)ふけにやあらむ」
  [訳] 千度ほども申し上げなさったためであろうか。◆「けにや」の下の「あらむ」などが省略されることもある。
  なりたち 名詞「け」+断定の助動詞「なり」の連用形+疑問の係助詞「や」

とある。
 三十三句目。

   下機音の波を織ルけに
 白雲の都をかどはされ出て

 「かどはす」は誘拐する。七夕の織女であろう。
 三十四句目。

   白雲の都をかどはされ出て
 うき身ヲ鳴か郭公殿

 ホトトギスはウィキペディアに、

 「長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

とある。帝位を譲ったのではなく、実は謀反が起きて強制的に連れ去られたか。
 三十五句目。

   うき身ヲ鳴か郭公殿
 花と苅ル麦より奥のよし野山

 前句にホトトギスが出たので、刈る麦を付けるが、このままだと夏の句になるので、夏になれば麦を刈るであろう、として花の吉野山とする。これで春への季移りになる。
 ホトトギスは晩春にも詠む。
 挙句。

   花と苅ル麦より奥のよし野山
 西行うこ木翠添らむ

 花の吉野山と言えば西行隠棲の地で、

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜のとがにはありける

と詠んだ西行桜に五加木(うこぎ)の緑を添えて、一巻は目出度く終わる。

2022年2月16日水曜日

 昨日のオリンピックのネット観戦はまず午前中はスノーボード女子ビッグエア決勝で、みんなよくやった。男子ビッグエア決勝は大塚さんナイスチャレンジだね。インタビューで「おさえたりとかして、なにか四位で終わったりとか絶対やだし」と言ってたのは笑った。でも、やっぱ凄かったのはスー・イエミン。
 スノーボードビッグエアの会場の後に見えた巨大な煙突のようなものは、海外だと原発の冷却塔に見えるらしい。日本の原発にはあの形の冷却塔はないんじゃないかと思う。福島の映像見ても、建屋があるだけで、冷却塔がない。事故後に処理水を溜めるタンクは建ったが。
 北京のは製鉄所の冷却塔だというが、これも日本の製鉄所にはないんじゃないかと思う。
 熱を持った冷却水がそのまま川に流れるのを防ぐための施設だという。製鉄所も原発も、日本では海辺にあるため、冷却水は熱を持ったまま海に流されているからだという。
 三回目ワクチン接種の方は二月十五日公表で二月十四日比1,133,827回。一日百万回を突破した。実効再生産数も1を切っている。
 あとまあ、あまりコロナが明けたらなんて言っていると、核戦争で人類滅亡のフラグだなんてなりそうだから、しばらく言わないようにしようかな。
 それと、次の更新は十七日の夕方になります。

 それでは「酒の衛士」の巻の続き。

 十三句目。

   風詠一首鹿の角にゆふ
 萩の染飯蕣のつとに狩昏て

 「つと」は「日大衣」を縦に並べたような文字で記され、「ツト」とルビがある。苞(つと)のことだと思う。
 「染飯(そめいひ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「染飯」の解説」に、

 「〘名〙 くちなしで黄色に染めた強飯(こわめし)。江戸時代、旧東海道藤枝・島田間の小駅、瀬戸(静岡県藤枝市瀬戸)の名物であった。せとのそめいい。」

とある。萩の染飯なるものがあったのかどうかはわからない。
 「つと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苞・苞苴」の解説」に、

 「① わらなどを束ねて、その中に魚・果実などの食品を包んだもの。わらづと。あらまき。
  ※万葉(8C後)一六・三八六八「沖行くや赤ら小船に裹(つと)遣らばけだし人見て開き見むかも」
  ② 他の場所に携えてゆき、また、旅先や出先などから携えて帰り、人に贈ったりなどするみやげもの。
  ※万葉(8C後)二〇・四四七一「消(け)残りの雪にあへ照るあしひきの山橘を都刀(ツト)に摘み来な」
  ③ 旅行に携えてゆく、食糧などを入れた包み物。あらかじめ準備して持ってゆくもの。
  ※一言芳談(1297‐1350頃)下「なむあみだ仏なむあみだ仏と申て候は、決定往生のつととおぼえて候なり」

とある。
 前句の鹿の角を狩りの成果とし、鹿を倒し、その角に和歌一首と萩の染飯を朝顔の蔓で包んだ苞を添える。
 十四句目。

   萩の染飯蕣のつとに狩昏て
 人-油の哀れ烟る野の露

 「人-油の哀れ」は火葬であろう。人油は人の油で、地獄で鬼に搾り取られる。前句の狩で殺生の罪から地獄に落ちる。萩の染飯を蕣のつとににして、霊前に供える。
 植物油は圧搾絞りだが、動物油は釜茹でにする。人油も地獄で釜茹でにされて搾り取られるのだろう。
 十五句目。

   人-油の哀れ烟る野の露
 月は瀬々紙漉川に影ヲかる

 紙漉川は伊勢の鳥羽にあるが、別に歌枕でもないので、単に紙を漉く川のことか。紙漉きに使えるような水の澄んだ川ということだろう。
 澄んだ川に映る澄んだ月は、合戦の跡などのこの世の地獄に落ちた人を照らしている。真如の月といっていい。
 十六句目。

   月は瀬々紙漉川に影ヲかる
 盥に乗ル子浅游せよ

 游には「をよぎ」とルビがある。浅い所で泳ぐ、ということ。
 紙漉きのための水汲みをさせられている子供が、隙を見ては盥に乗って遊んでいる。仕事に追われる子供を不憫に思い、世の普通の子供がするみたいに泳いで遊んだらどうか、と呟く。
 十七句目。

   盥に乗ル子浅游せよ
 鯨切ル汀は蜑の呼声や

 鯨が捕らえられて岸に上げられると、その解体作業は村中総出で行わなくてはならない。 子供の手も借りたいから、盥で遊んでいる子供に泳いですぐに来るように言う。
 十八句目。

   鯨切ル汀は蜑の呼声や
 太布衣の朽まさりけり行袂

 太布(たふ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太布」の解説」に、

 「〘名〙 布の一種。シナノキ、コウゾ、カジノキなどの樹皮の繊維をつむいで織った布。手ざわりがあらくごつごつした布。《季・夏》
  ※類従本賀茂女集(993‐998頃)「雪にあはぬ鳥は、雪をよきたふと思へり」

とある。粗妙(あらたへ)とも呼ばれる。

 荒栲の藤江の浦に鱸釣る
     蜑とか見らむ旅行くわれを
              柿本人麻呂(夫木抄)

を本歌としたもので、藤江は明石にある。明石の流刑のイメージは在原行平よりもかなり前からあったのだろう。
 辛い流刑に粗末な太布も朽ちて行き、蜑と間違えられたか、鯨切る作業が行われていると、早く来いと呼ばれる。
 二表、十九句目。

   太布衣の朽まさりけり行袂
 床机振リ祭俤のあぢきなく

 床机は「しょうぎ」、祭俤は「まつりをもかげ」とルビかある。
 「しょうぎ振り」というのは振り将棋のことか。おそらく博奕などで、すぐに勝負の着くやり方だったのだろう。
 前句を博徒として、祭の喧騒を余所に身ぐるみはがされ、みすぼらしい姿で出て行く。中世だったら烏帽子だけ被ったすっぽんぽんの姿になったのだろうけど、そこは江戸時代、大丈夫です、ちゃんと着てますよ。
 二十句目。

   床机振リ祭俤のあぢきなく
 伽羅吹く翠簾の命凉しき

 翠簾は「みす」とルビがある。
 王朝時代というと碁が盛んだったが、将棋もあるにはあったようだ。ウィキペディアに、

 「将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、南北朝時代に著された『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。
 考古資料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点[29]で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。」

とある。
 ただ、ここは腰掛の「床几」の方だろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「床几」の解説」に、

 「腰掛の一種。
 (1)宮廷調度では古く床子(しょうじ)といって、四脚付きの机のような形をし、上面は簀子(すのこ)(桟を張ったもの)からなり、高麗端(こうらいはし)、菅円座(すげえんざ)を敷く。大小によって大床几・小床几といい、塗装の有無によって漆床几、白木床几とよばれた。奈良時代の遺例として正倉院に2基あり、長さ233センチメートル、幅120センチメートル、高さ40センチメートルで、これは『東大寺献物帳』によって、胡粉(ごふん)を塗り、簀子の台上に黒地錦(にしき)端の畳を敷き、褐色地の錦の敷きぶとんと袷(あわせ)の掛けぶとんで2枚をあわせた大きさであることがわかり、寝台とみなされる。
 (2)武家の間では、野外の軍陣で帷幕(いばく)のうちの主将の腰掛として用いるが、これは折り畳みのできる胡床(あぐら)の類である。[郷家忠臣]」

とある。
 句の方は賀茂の祭りを見物するときに用いたのであろう。暑さで早々に引き上げて、部屋で伽羅焚いて、御簾の内で涼む。
 二十一句目。

   伽羅吹く翠簾の命凉しき
 御廊下に蛍の禿小夜過て

 禿は字数からすると「かむろ」だろう。「はげ」ではあるまい。元は女児のおかっぱ頭のことだったが、江戸時代では遊女の見習いの少女を意味する。
 場面を遊郭に転じて、太夫の涼みとする。
 二十二句目

   御廊下に蛍の禿小夜過て
 首とりひしぐ西瓜怪物

 怪物は「ばけもの」とルビがある。
 禿が西瓜を落としたんだろう。赤い汁や実が飛び散って、まるで化物の首を落としたみたいだ。
 二十三句目。

   首とりひしぐ西瓜怪物
 唐秬の赤熊ヲ分る角薄

 唐秬(たうきび)はコウリャンのこと。赤熊(しゃぐま)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「赤熊・赭熊」の解説」に、

 「① 赤く染めた白熊(はぐま)(=ウシ科の動物ヤクの尾の毛)。払子(ほっす)、かぶりもの、かつらを作り、旗、槍、兜(かぶと)の装飾に用いる。〔文明本節用集(室町中)〕
   ※歌舞伎・昔噺額面戯(額抜け)(1879)「跡より猩々(しょうじょう)短き赭熊(シャグマ)の鬘、青海波の単衣、兵児帯にて駒下駄はき」
 ② (転じて) 赤い毛髪をいう。赤毛。また、赤ちゃけた髪。
  ※浄瑠璃・薩摩歌(1711頃)中「頭はしゃぐま、猫背中、鳩胸に顔は猿、まちっとで鵺(ぬえ)になる」
  ③ (もと①に似た赤毛を用いたところから) 縮れ毛で作った入れ毛。おもに、日本髪などを結うときにふくらませる部分に入れる。
 ※俳諧・洛陽集(1680)下「杉立(すぎたち)や赤熊(シャグマ)懸たる下紅葉〈我鴎〉」
  ④ 「しゃぐままげ(赤熊髷)」の略。」

とある。
 コウリャンの穂は褐色で染物にも用いられる。それを赤熊に見立てて、その間からススキが角ぐむ(尖った芽を出す)。
 ススキの芽の緑の上にコウリャンが赤く実っている様が、遠くから見ると割れた西瓜のように見える。
 二十四句目。

   唐秬の赤熊ヲ分る角薄
 砧の皷笛おほせ鳥

 いなおほせ鳥というのは古今三鳥の一つされる謎の鳥で、延宝九年『俳諧次韻』に、

 春澄にとへ稲負鳥といへるあり  其角

の句がある。ここではそれをもじって笛おほせ鳥とする。笛のような声を出すのだろう。
 砧の音を鼓(つづみ)として、それを伴奏に鳥が笛を吹く。唐黍の収穫の頃の秋の情景とする。

2022年2月15日火曜日

 昨日のオリンピックのネット観戦は、まずスノーボード女子ビッグエア予選、午後は男子ビッグエア予選を見た。とにかくすごい、メダルレベルではエイティーンハンドレッドが標準なのか。
 夜はスキージャンプ男子団体決勝を見た。まあ、お疲れ様です。そろそろ夕方の更新に戻ろうかな。
 ワリエワは参加は認めるが表彰式はしないというのが妥協点なのかな。あとでこそっと渡せばいいということか。日本のメダルも巻き添え食っているが。後日郵送されてくるのかな。
 今まで仕事であまりオリンピックって見れなかったけど、去年の東京、今年の北京とまあまあ楽しめた。どちらかというとオリンピックは子供の頃の記憶が大きいね。コロナが明けたらもっと楽しくなるかな。
 スポーツでも音楽でも、大勢の人が心を一つにする瞬間って、コロナが明けたらまた戻ってくると良いね。陰険に足を引っ張りあい、罵り合いが繰り返された日々が終わるなら、きっと世界はまた素晴らしいものになるよ。

 さて、次も同じ『武蔵曲』から。編者千春の独吟歌仙を。
 発句には長い漢文の前書きが付いている。

   武城之春在乎寛永寺之花
   来看者突逢推合不啻雷轟
   湯沸也顔付否而目遣怪合
   點不行者烏論衝乎其間而
   剪巾着取鼻帋嚢物勃込長鞘
   引掛破笠者盖浮世士也歟
   不下尻掲不設敷物群居于
   堂陰打敲珍露利以撼滑歌
   信亦無餘念也夫美而艶者
   如何名主之妻耶圍裙幄藉
   猩緋與七八腰本歡笑諧々
   焉窺之者莫不目迷心慌矣
   乃賦    蘇鉄林 千春
 酒の衛士花木隠レや女守

 前書きの部分を書き下し文にすると、

 武城の春は寛永寺の花に在り。
 来たり看る者の突き逢ひ推し合ひ、ただ雷轟湯沸のみにあらずなり。
 顔付いなやに目遣ひ怪しく、合點行かざる者の烏論衝(うろつ)いて、その間に巾着を剪り、鼻帋嚢を取る。
 長鞘を勃込(ぼっこ)み破笠を引っ掛けたる者は、けだし浮世士なるか。
 尻掲(しりからげ)を下ろさず、敷物を設けず、堂の陰に群れゐて、珍露利(ちろり)を打ち敲き、以て滑歌(なめりうた)を撼(かん)するまことに餘念無きなり。
 かの美にして艶なる者はいかなる名主の妻ぞや。
 裙幄を圍み、猩緋を藉き、七八の腰本と歡笑諧々たり。
 これを窺ふは目迷ひ心慌といふことなし。
 乃ち賦し、

となる。
 浮世士は浮世を享楽的に生きる遊び人のことか。
 珍露利(ちろり)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「ちろり」の解説」に、

 「酒を燗(かん)するための容器で、酒器の一種。注(つ)ぎ口、取っ手のついた筒形で、下方がやや細くなっている。銀、銅、黄銅、錫(すず)などの金属でつくられているが、一般には錫製が多い。容量は0.18リットル(一合)内外入るものが普通である。酒をちろりに入れて、湯で燗をする。ちろりの語源は不明だが、中国に、ちろりに似た酒器があるところから、中国から渡来したと考えられている。江戸時代によく使用されたが、現在も小料理屋などで用いているところもある。[河野友美]」

とある。
 滑歌(なめりうた)は「ぬめりうた」ともいい、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「滑歌」の解説」に、

 「① 江戸時代、明暦・万治(一六五五‐六一)のころ、遊里を中心に流行した小歌。「ぬめり」とは、当時、のらりくらりと遊蕩する意の流行語で、遊客などに口ずさまれたもの。ぬめりぶし。ぬめりこうた。
  ※狂歌・吾吟我集(1649)序「今ぬめり哥天下にはやること、四つ時・九つの真昼になん有ける」
  ② 歌舞伎の下座音楽の一つ。主に傾城の出端に三味線、太鼓、すりがねなどを用いて歌いはやすもの。
  ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)口明「ぬめり哥にて、大橋、傾城にて出る」

とある。
 裙幄の裙は裳裾で幄はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「幄」の解説」に、

 「〘名〙 四方に柱をたて、棟(むね)、檐(のき)を渡して作った屋形にかぶせ、四方を囲う幕。また、その小屋。神事、または、朝廷の儀式などのおりに、参列の人を入れるため、臨時に庭に設ける仮屋。あげばり。幄の屋。幄舎。幄屋。」

とあり、今日でいうイベント用のテントのようなものだが、ここでは裙幄(くんあく)で幄(あく)の意味か。
 猩緋は猩々緋(しゃうじゃうひ)でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「猩猩緋」の解説」に、

 「〘名〙 あざやかな深紅色。また、その色に染めた舶来の毛織物。陣羽織などに用いられた。
  ※羅葡日辞書(1595)「Coccinus〈略〉アカキ xǒjǒfino(シャウジャウヒノ) イロニ ソメタル モノ」
  ※豊薩軍記(1749)一「並に綾羅・錦繍・伽羅・猩々皮の二十間つづき以下、種々の珍宝を相渡す」

とある。
 江戸の春は上野寛永寺にあり、押し合いへし合いの雑踏だけでなく、スリを始め、浮世士、錫の徳利を叩いて滑歌を歌う一群もいれば、名主の妻なのかテントを立てて深紅の毛織物を敷いている人たちもいる。
 この花見の人達に捧ぐ、ということで、この発句になる。

 酒の衛士花木隠レや女守

 名主の妻の花見は、仕える男の従者が桜の木の陰で酒を飲みながら、女を守っている。本当に何かあっても、へべれけで役に立ちそうにないが、それも平和ということか。花見のあるあるだったのだろう。
 脇。

   酒の衛士花木隠レや女守
 柳にほれて硯うる兒

 前句を衛士の恋の情として、花ではなく柳に惚れる稚児を付ける。衛士は花に惚れ、稚児は柳に惚れる。相対付けの脇になる。脇五法の一つで、紹巴の『連歌教訓』には、

 「脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也」

とある。
 第三。

   柳にほれて硯うる兒
 肱笠の袖に初音や盗むらん

 肱笠(ひぢがさ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「肘笠」の解説」に、

 「① 頭の上にかざして雨をしのぐ肘や袖。ひじかけがさ。袖笠。
  ※謡曲・蘆刈(1430頃)「難波女の被く袖笠肘笠の」
  ② 笠の一種か。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)三「田の中には早乙女どもおりたち、田蓑・ひぢがさきて、思ふことなげに田歌をうたひ」
  ③ 「ひじかさあめ(肘笠雨)」の略。」

とある。
 柳を雨に見立てて、柳の枝を肱で払う仕草を「肱笠」とする。稚児の初音を盗もうとしているのか。
 四句目。

   肱笠の袖に初音や盗むらん
 小夜小夜嵐寐忘レの宿

 「小夜嵐」は「小夜時雨」に準じた造語か。小夜を二つ並べて調子を整える。夜のちょっとした嵐で眠るのも忘れる。前句の「初音や盗むらん」を嵐に喩えたもので、恋の句が続く。
 五句目。

   小夜小夜嵐寐忘レの宿
 頭巾ふかく月のあやなき闇ヲ着ル

 「あやなし」はつまらないということで、嵐の雲に隠れて月もなく、行灯も消せば真っ暗闇。寝るに寝れなくて頭巾を深くかぶって、月を待つ。
 月がないので通ってくる人もいないと取れば、ここまで恋が続くことになる。恋は最大五句までOK。
 六句目。

   頭巾ふかく月のあやなき闇ヲ着ル
 松-烟ひとり茶粥すすつて

 松烟は松明の煙。松明のくすぶる中で茶をすすりながら、頭巾を深くかぶって闇の中で月を待つ。
 初裏、七句目。

   松烟ひとり茶粥すすつて
 乾-鮭に足生ありく雨夕

 「生」には「はえ」とルビがある。鮭の干物に足が生えて歩く、ということだが、食物の腐りやすいことを「足が速い」というから、それと掛けているのだろう。
 八句目。

   乾-鮭に足生ありく雨夕
 天-井既雷-鼠轟く

 天井裏を駆け回る鼠の足音が雷のように轟くのだが、それを雷-鼠と呼ぶと、何か妖怪っぽい。乾鮭に足があったり、雷-鼠が現れたり、すべては妖怪のせい。
 九句目。

   天-井既雷-鼠轟く
 店護左リ大黒右夷

 雷-鼠は大黒様の眷属で、よくセットにして並べられる恵比須様とともに店を守っている。
 十句目。

   店護左リ大黒右夷
 常盤の夫婦有けらしける

 大黒と恵比須は実は夫婦?高砂の爺様と婆様ならわかるが。
 十一句目。

   常盤の夫婦有けらしける
 世ヲ世トセズ琴によく琵琶にたくみ也

 「世を世とせず」は世の常識を打ち破るような前代未聞の破天荒なということか。永遠の命があれば、琴も琵琶もその域に達するだろう。
 十二句目。

   世ヲ世トセズ琴によく琵琶にたくみ也
 風詠一首鹿の角にゆふ

 和歌などは花の枝に添えたりするが、鹿の角に結び付けて手紙にするとは「世を世とせず」の風流か。

2022年2月14日月曜日

 昨日は朝からどんより曇っていて、昼頃から雨になった。夜から雪に変わって大雪になると思ったら、今朝起きた時も雨だった。
 昨日はネットで男子大回転を見ると、北京は吹雪だった。人工雪しかないのかと思ったら、天然雪もあるじゃん。
 視界が利かないし、雪はどんどん深くなってくるから後に滑るほど不利ではないか。コースアウトや転倒も多かった。フリースタイル女子スロープスタイルは始まらないし、配信がなくなってしまった。
 結局大回転も途中で中断になった。四時に再開した時には、だいぶ視界は良くなっていた。人工雪にはいろいろ批判があったが、天然雪は天然雪でまた困ったものだ。
 ピンドゥンドゥンって達磨さんだから、当然おっさん声だと思ってたけど、中国人には別のものに見えるのかな。
 三谷脚本の大河ドラマは大体ありがちなヒーロー史観を否定していて気持ちがいい。頼朝は御輿に乗ってるだけの情けない人物に描かれていて、でも日本のリーダーは逆にそれでなければいけないという所もある。ヒーロー史観のドラマのような熱血漢は、たちまちヒットラーだと叩かれ、あれこれ弱点をほじくり出されて潰されるからね。
 逆に清盛はそのタイプだったんだろうな。
 頼朝は北条、三浦、和田といったところに御輿に載せられて担がれていたし、その理由も人望というよりは血筋だったのだろう。
 ドラマでは後白河法皇の生き霊がしばしば登場するが、こうした御輿システムが天皇制そのものであることを描きたかったのでは。
 それでは「生船や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   曇ル日の嵐鰹見て参レ
 隙役者つれづれ独り閑と     藤匂子

 「隙」は「ひま」、「閑」は「つれづれ」とルビがある。
 売れない役者というのはいつの時代にもいたのだろう。今は大抵居酒屋などでバイトしているが、当時は魚屋のバイトをしていたか。魚屋が肴屋を兼ねていたとしたら、今とあまり変わらない。
 二十六句目。

   隙役者つれづれ独り閑と
 旧友やつこ零落ス半バ      千春

 「やつこ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奴」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (「やつこ」の変化したもの。近世以後用いられた)
  ① 人に使役される身分の賤しい者。奴僕。下僕。家来。また、比喩的に、物事のとりことなってそれにふりまわされる人をいう。
  ※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)一「御辺はいつのまに畜生の奴(ヤッコ)とはなったるぞ」
  ② 人をののしったり軽くみたりしていう語。自分を卑下しても用いる。
  ※洒落本・南客先生文集(1779‐80)「『あっちの客ア誰だ』『エエもうすかねへやっこさ』」
  ③ 江戸時代、武家の奴僕。日常の雑用のほか、行列の供先に立って、槍や挟箱などを持って振り歩く。髪を撥鬢(ばちびん)に結び、鎌髭(かまひげ)をはやし、冬でも袷(あわせ)一枚という独特な風俗をし、奴詞(やっこことば)ということばを用い、義侠的な言行を誇った。中間(ちゅうげん)。
  ※咄本・百物語(1659)下「山もとのやっこ、山椒を買けるに」
  ④ 江戸時代の侠客、男だて。旗本奴、町奴と呼ばれ、武士や町人が、徒党を組み、派手な風俗をして侠気を売り物にした。
  ※咄本・百物語(1659)下「あづまのやっこを見侍しが、をとに聞しに十ばいせり」
 ‥‥以下略‥‥」

とある。
 歌舞伎役者には④の意味のやっこ崩れが多かったのだろう。いっしょにかぶいてブイブイ言わせていたマブダチも、今は売れない役者に身を落としている。歌舞伎役者は非人の身分だった。
 今のヤンキーも昔の「やっこ」の系譜を背負っているのかもしれない。
 二十七句目。

   旧友やつこ零落ス半バ
 滴クも否と禁酒窟に袖ぬらしけり 其角

 否は「いや」、「禁酒窟」は「のまぬいはや」とルビがある。
 やっこは大体大酒飲んで暴れていたのだろう。岩屋は僧が修行するのに用いるものだが、そこに押し込められているということか。

 草の庵何露けしとおもひけむ
     もらぬいはやも袖はぬれけり
              行尊(金葉集)

の換骨奪胎か。酒の滴の漏らぬ岩屋にも袖は濡れる。
 二十八句目。

   滴クも否と禁酒窟に袖ぬらしけり
 袈裟に切さく賤の捨網      藤匂子

 前句を禁欲的な修行僧とする。海士の捨てた網を切り裂いて袈裟の代わりとする。
 二十九句目。

   袈裟に切さく賤の捨網
 尺八の名に水馴竿月ヲ吹ク    千春

 水馴竿(みなれざを)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水馴棹」の解説」に、

 「〘名〙 水になれた棹。水になじんで使いなれた棹。
  ※拾遺(1005‐07頃か)恋一・六三九「大井川くだす筏のみなれさほ見なれぬ人も恋しかりけり〈よみ人しらず〉」

とある。拾遺集の和歌に出典があるので雅語になる。
 前句の「賤の捨網」の海士の縁で「水馴竿」を出す。
 風狂の乞食僧として、月夜に水馴竿と命名した尺八を吹く。あるいは虚無僧か。
 三十句目。

   尺八の名に水馴竿月ヲ吹ク
 舞ハ芭蕉まひ薄舞        其角

 芭蕉は謡曲『芭蕉』の芭蕉の精(女)の舞いか。

 「月も妙なる庭の面」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.24084-24085). Yamatouta e books. Kindle 版. )

でその精が登場し、

 「返す袂も芭蕉の扇の風茫茫と物凄き古寺の、庭の浅茅生女郎花刈萓、面影うつろふ露の間に、山颪松の風、吹き払ひ吹き払ひ、花も千草もちりぢりに、花も千草もちりぢりになれば、芭蕉は破れて残りけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.24178-24186). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と去って行く。「浅茅生女郎花刈萓」とあればススキがあってもおかしくない。
 二裏、三十一句目。

   舞ハ芭蕉まひ薄舞
 山路分ク菊に羽織を打着セて   藤匂子

 芭蕉の精だと思ったのは山路の菊に羽織を着せて作った偽物だった。ただ、この頃はまだ「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の句はなかった。
 三十二句目。

   山路分ク菊に羽織を打着セて
 首とつて偖霜を悲しむ      其角

 「偖」は「さて」と読む。
 合戦の野で敵将の首を取ったが、残った遺体には羽織を着せて菊の花を添えて弔う。
 三十三句目。

   首とつて偖霜を悲しむ
 当御台心から身を凩や      千春

 当御台は「当(まさ)に御台」か。前句の「偖」に応じる。御台はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御台」の解説」に、

 「① 天皇や貴人を敬って、その食物をのせる台をいう語。食卓。
  ※宇津保(970‐999頃)藤原の君「宮御だいたてて物まゐる」
  ② 天皇や貴人の食物をいう。おもの。
  ※落窪(10C後)一「御だい、あはせいと清げにて、粥まゐりたり」
  ③ 「みだいどころ(御台所)」の略。
  ※あさぢが露(13C後)「二所なから御だいそそのかしなどし給へば」

とある。この場合は③の御台所か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御台所」の解説」に、

 「〘名〙 「みだいばんどころ(御台盤所)」の略。
  ※吾妻鏡‐治承四年(1180)八月二八日「以二土肥彌太郎遠平一為二御使一、被レ進二御台所御方一」
  [語誌]
  (1)挙例の「吾妻鏡」に見える「御台所」は、征夷大将軍源頼朝の妻、北条政子をさす。頼朝亡きあとは「尼御台所」と称された。同じ将軍の実朝、頼経、頼嗣の妻も「御台所」と呼ばれた。
  (2)中世以降には国司の妻をいう例もあり、近世では、将軍の妻をさす一方で、奥州五十四郡の主、義綱公に身請けされる高尾をさしたり(「浄・伽羅先代萩‐一」)、屋敷の奥様といった単なる敬称にも使われ、敬意が次第に低くなる。
  (3)この語の省略形「御台(御内)(みだい)」は節用集類に多く見え、「太平記‐九」では治部大輔足利高氏の妻をさしており、近代では二葉亭四迷「浮雲‐二」に妻を「尼御台(あまみだい)」という例が見られる。

 前句の首を源平合戦や曽我兄弟の仇討で打ち取られた首とすれば、(1)の北条政子ということになる。特に誰というのでもなく、戦乱の時代の将軍の妻ならありそうなことで、この頃の俳諧は「太平記」ネタも多い。
 三十四句目。

   当御台心から身を凩や
 地獄現在鐘し覚ずは       藤匂子

 地獄現在はこの世の地獄のこと。将軍の妻もこの世の地獄の中にいて、鐘の音にもそれを悟ることがない。
 三十五句目。

   地獄現在鐘し覚ずは
 花鉾ヲ振て甲を盃に諷ふ     其角

 合戦のさなかの花見であろう。矛を振って舞い、兜を盃にして謡ふ。地獄のさなかだというのにそれを忘れているようだ。合戦の中で合戦を忘れた、というところか。
 挙句。

   花鉾ヲ振て甲を盃に諷ふ
 歯朶矢にすくむ羽子板の楯    千春

 歯朶矢は歯朶を付けた正月の初狩に用いる矢のことか。『冬の日』の「つつみかねて」の巻第三に、

   こほりふみ行水のいなづま
 歯朶の葉を初狩人の矢に負て   野水

の句がある。
 前句の花鉾を、花のように飾り立てた儀式用の鉾として正月に転じ、歯朶の矢に羽子板の楯とし、打越の地獄を去って、正月の目出度さに転じて一巻は終わる。

2022年2月13日日曜日

 暖かくなった。
 昨日のオリンピックは夕方のアイスホッケー女子準々決勝からだが、さすがに決勝トーナメントになると厳しいね。攻撃の型が作れなかったな。
 スキージャンプ男子ラージヒル決勝も、銀メダルはよくやった。
 オミ株の方はそろそろピークアウトが見えてきたかもしれない。検査陽性者数が実数と大幅に異なったとしても、実数が減っていれば検査陽性者数に反映される。支持率や視聴率が少ないサンプルでも実数を反映できるのと同じだ。
 そういえば演習を名目に兵を集結させるというの、鳥羽徹さんの「天才王子の赤字国家再生術〜そうだ、売国しよう〜」でもあったな、アニメでちょうどその場面をやっていた。
 二十一世紀の大コロナ時代ももうすぐ終わる。混乱に乗じて革命をなんてもうやめて、ロシアや中国も経済で勝負しようぜ。
  それでは「生船や」の巻の続き。

 十三句目。

   東路や。知恵習にやる
 武蔵野も悋やならん汚草     藤匂子

 悋には「しはく」とルビがある。「しわいこと」のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「吝嗇」の解説」に、

 「〘名〙 (形動) 物惜しみをすること。しわいこと。また、そのさま。けち。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※仮名草子・智恵鑑(1660)一「吝嗇(リンショク)といへるはつかふべき事にも財をおしみ、たくはへつまん事のみを願ひて、しはき事なり」 〔魏志‐曹洪伝〕」

とある。
 武蔵野の道は衣が草に汚れるのが普通なので、衣装代をケチってはいけない。これも知恵だ。
 十四句目。

   武蔵野も悋やならん汚草
 命ひとつを千々の白露      千春

 軍に向かう武将であろう。この命一つも惜しみやしない。「いざ鎌倉」の心か。
 十五句目。

   命ひとつを千々の白露
 お手かけと扈従と秋の月いづれ  其角

 扈従(胡椒)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「扈従」の解説」に、

 「〘名〙 (「扈」はつきそう意、「しょう」は「従」の漢音) 貴人につき従うこと。また、その人。こじゅう。こそう。
  ※経国集(827)一〇「五言。扈二従聖徳宮寺一一首」 〔司馬相如‐上林賦〕」

とある。「お手かけ」は妾(めかけ)のこと。
 前句を哀傷(無常)の句として、妾と従者が「秋の月はどこへ行ってしまったか」と悲嘆にくれる。正妻でないところが俳諧になる。
 十六句目。

   お手かけと扈従と秋の月いづれ
 恋すがら酒宴躍終日       藤匂子

 「終日」には「ひねもす」とルビがある。下七は「おどるひねもす」か。
 前句を妾と従者の不倫の宴とする。妾はこの時代は合法だが、それが従者とできていた。
 「恋すがら」は「夜もすがら」に準じた造語であろう。夜もすがら恋に踊る酒宴。もちろん「躍」はそのままの意味ではあるまい。
 十七句目。

   恋すがら酒宴躍終日
 散儘スあらし。花清の根太落て  千春

 根太は字数からして「ねぶと」ではなく「ねだ」であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「根太」の解説」に、

 「① 床板(ゆかいた)を支える横木。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② ①の上に張る板。根太板。
  ※浄瑠璃・博多小女郎波枕(1718)中「貸家といふは名ばかり、破れ家を手前普請、ねだも追付張る筈で、板も買置く」
  ③ 根底。基本。基礎。
  ※浄瑠璃・安倍宗任松浦簦(1737)三「密に呼んで談合柱工のねだを外さして、頼義公へ注進し景正殿に吹込んで、入込して首討した」

とある。
 「花清」は花の「精」のことか。花の精は謡曲『西行桜』で白髪の老人の姿で登場する。
 前句を酒宴で盛り上がって、夜通し花の精の舞いを舞っていたら床が抜けたということにする。最後は、

 「夢は 覚めにけり。嵐も雪も散りしくや、花を踏んでは・同じく惜しむ少年の、春の夜は 明けにけりや翁さびて跡もなし翁さびて跡もなし。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.35997-35999). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と、跡形もなく花は散り尽くす。
 十八句目。

   散儘スあらし。花清の根太落て
 青陽の工国を鋸ギル       其角

 青陽は「みどり」とルビがある。「工」は「たくみ」、「鋸ギル」は「のこぎり」の動詞化。
 青陽は春の日差しのことで、謝尚の『大道曲』に「青陽二三月」とある。春の季語になる。
 前句の「散尽くす」に、桜が散る頃木の芽が一斉に芽吹いて緑に変わってゆく様を付けて、「根太落ちて」に「鋸ぎる」が付く。
 二表、十九句目。

   青陽の工国を鋸ギル
 富士山を買てとられし片霞    藤匂子

 前句の「国を鋸ギル」から、富士山が買われて鋸で切られて持ち去られた、とする。縦に切ったのか、富士山の半分は霞になっている。
 ニ十句目。

   富士山を買てとられし片霞
 江海西に数寄殿ヲ設ク      千春

 「江海」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「江海」の解説」に、

 「① 川と海。入江と海。
  ※懐風藻(751)初秋於長王宅宴新羅客〈調古麻呂〉「江海波潮静。披レ霧豈難レ期」
  ※太平記(14C後)二二「生涯山野江海(カウカイ)猟漁を業として」 〔書経‐禹貢〕
  ② 俗世間から離れた場所。
  ※狂雲集(15C後)大灯国師三転語、朝結眉夕交肩、我何似生云々「野老難蔵簑笠誉、誰人江海一風流」 〔荘子‐刻意〕
  ③ 量が莫大なことをたとえていう語。
  ※読本・雨月物語(1776)貧福論「泰山もやがて喫(く)ひつくすべし。江海(ゴウカイ)もつひに飲みほすべし」 〔説苑‐善説〕」

とある。
 富士山を買い取るというのを、数寄者が富士山の見える江湖の景色のいい所を買い取るとする。
 二十一句目。

   江海西に数寄殿ヲ設ク
 上代の傾城玉を真砂にて     其角

 元祖傾城(文字通り国を傾けた)の楊貴妃であろう。驪山の華清宮なら、庭に敷く真砂に水晶を使っていたとしてもおかしくない。
 二十二句目。

   上代の傾城玉を真砂にて
 親仁のいへらく恋忘レ松     藤匂子

 「いへらく」は「言うには」という意味。前句をオヤジの上代の薀蓄とする。玉の真砂の庭には恋忘れ松があるという。出典があるのかないのかはよくわからない。
 二十三句目。

   親仁のいへらく恋忘レ松
 朝起を塒の鳥のうき程に     千春

 外との接触を許されない女は籠の鳥に喩えられるが、ここでは塒の鳥。恋を忘れよとオヤジが言う。
 二十四句目。

   朝起を塒の鳥のうき程に
 曇ル日の嵐鰹見て参レ      其角

 嵐の吹く曇った日にの朝は物憂く、こんな日に漁港で上がる鰹の買い付けに行かされる。

2022年2月12日土曜日

 昨日のオリンピックはまずスノーボード男子ハーフパイプ決勝で、これはもう言うこと無しだね。
 こういう競技の良い所は、転倒したっていいじゃないか、思い切って飛べ、という所ではないかと思う。
 ノーミスを良しとするのではない。とにかく突き抜けたようにかっこよく飛んで、結果的にミスがなかったというのを良しとする。それがないと得点が伸びない。二回目と三回目の差はそこだったと思う。
 なんかジャンプとショートトラックの二つの不正を隠すためか、些細なジャッジを大袈裟に騒ぎ立てている人たちがいるが。多分高梨沙羅さんを叩いてる人たちって、去年池江璃花子さんを叩いていた人たちと同じ人たちなんではないかと思う。
 こうした人たちはきっとロシアのフィギュアに関しては寛大なんだろうな。スポーツで不正は当たり前→札幌オリンピックを阻止しよう、これだと思う。
 「終末のハーレム<無修正Ver.>」の方だが、六十年代のフェミニストなら「男が極端な貞操観念で女を縛り付けている」という批判をしてたかもな。
 あの頃はまだマルクス主義の原始乱婚制仮説が生きていたから、女性解放と性の解放が連動していたが、いまはクリスチャニズムに取って代わられてしまったか、一夫一婦の貞節の男性への厳格な適応を求める方向に向かい、中絶の問題でもトーンダウンしている。
 生物学的には人間は男女の性差から類推して、一夫二.五妻だという。テナガザルのような一夫一婦でもなく、ゴリラのような一夫多妻でもない中途半端なもので、チンパンジーのような多雄群のほうが説明できる。
 多雄群は複数の雄と複数の雌で群れを作ることをいうが、いわゆる乱婚ではない。むしろ一夫一婦と一夫多妻が流動的になるように、より大きな集団で調整している状態と言っていいだろう。人間の社会も基本的にこのタイプになる。
 一夫二.五妻というこの微妙なバランスだと、普通にカップリングすれば60パーセントの男があぶれることになる。そのため多数決で一夫多妻は否決される。死亡率の高い多産多死社会では成立するが(その60パーセントは戦死するか、寺で衆道に耽る)、少産少死の民主主義社会では不可能と言っていいだろう。
 とはいえ、女性の性的選択権はすべての男を満遍なく選んでくれるわけではない。その結果、多くのセックスレス夫婦を生むことになる。もっとも、これによって少産少死が維持されている側面もあるのかもしれないが。
 人権思想が生物学的基礎を持つべきなら、一夫二.五妻を受け入れたフェミニズムが必要なのかもしれない。
 話は変わるが、「美しき」の巻の六句目のところの前句が間違ってました。正しくは、

   秋草のとてもなき程咲みだれ
 弓ひきたくる勝相撲とて   舟泉

で、「花野の相撲は、芭蕉の『奥の細道』の旅の山中三吟第三に、

   花野みだるる山のまがりめ
 月よしと角力に袴踏ぬぎて    芭蕉

の句がある。」となります。
 まあ、転倒したっていいじゃないか、人間だもの。
 それと、鈴呂屋書庫に「遠浅や」の巻「美しき」の巻をアップしたのでよろしく。

 それではまた春の俳諧に戻り、『武蔵曲』(天和二年刊、千春撰)の天和調の俳諧を読んでみようと思う。
 藤匂子、千春、其角の三吟で、藤匂子は『元禄の鬼才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)に、

 「彼の名は『武蔵曲』ではすべて藤匂子(とういんし)と記されているが、『みなしぐり』では藤匂とも記されているから、「子」は敬称であろう。俳書においては身分の高い武士に「子」という敬称を付けるのが一般的であり、彼も高禄の武士であったとみて間違いなかろう。其角は大名と旗本(その世子を含む)の場合、「公」という敬称を用いているから、「子」の敬称で呼ばれている藤匂は、どこかの藩の高禄の藩士であった可能性が高い。残念ながら彼の素性はまったく分からないが、彼はこの時期其角のパトロンのような存在であったと考えて間違いないと思う。」

とある。
 それでは発句。

   三吟歌仙俳諧
 生船や桜雪散ル魚氷室      藤匂子

 生船は「いけふね」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生船・生槽」の解説」に、

 「〘名〙 (「いけ」は生かす意の「いける」から。「いけぶね」とも)
  ① 魚類を生かしたままでたくわえておく水槽。また、その設備をもった生魚運搬船をいう。いけすぶね。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「魚嶋時に限らず、生船(イケフネ)の鯛を何国(いづく)迄も無事に着(つけ)やう有」
  ② 金魚、緋鯉(ひごい)などを飼養する水槽。
  ※浮世草子・西鶴置土産(1693)二「金魚、銀魚を売ものあり。庭には生舟(イケフネ)七八十もならべて、溜水清く」
  ③ 豆腐を入れておく水槽。
  ※歌舞伎・船打込橋間白浪(鋳掛松)(1866)三幕「こりゃあ豆腐屋のいけ槽(ブネ)に干してあったのを持って来たのだ」

とある。水槽を摘んだ船のことだが、氷で冷蔵して運ぶ生船も存在してたのか。当時としてはかなり贅沢なものだっただろう。
 魚を冷やす氷が雪のようで、それを桜に喩えて春の発句とする。
 脇。

   生船や桜雪散ル魚氷室
 金涌の郡豊浦の春        千春

 「金涌」は「かねわき」で「金は湧き物」の略か。「鴨がネギ背負って」を「かもねぎ」というように。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「金は湧き物」の解説」に、

 「金銭は思いがけなく手にはいることもあるから、くよくよすることもない。金銀は湧き物。宝は湧き物。
  ※俳諧・飛梅千句(1679)賦何三字中畧俳諧「異見なくとも養子はかやしゃれ〈西長〉 それほどのかねはわき物山は水〈西鶴〉」

とある。
 豊浦は豊浦藩のことか。あるいは単に豊かな浦ということで作った地名か。豊浦藩の方は、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「豊浦藩」の解説」に、

 「長州藩(萩(はぎ)藩)支藩の一つ。長府(ちょうふ)藩、府中藩ともいう。長門(ながと)国(山口県)西端、豊浦郡の大部分を藩域とする。居館は長府(下関(しものせき)市長府)に置かれた。1600年(慶長5)毛利輝元(もうりてるもと)は防長移封にあたり、従兄弟(いとこ)で養子とした毛利秀元(ひでもと)に、豊浦郡3万6200石の地を分与したのがその起源である。‥‥略‥‥豊浦藩の石高は幕府朱印状によらないので公称高はないが、1610年(慶長15)検地で5万8000余石、1625年(寛永2)検地で8万3000余石、1854年(安政1)ごろの幕末期には12万7000余石に達した。」

とある。日本海側にある。
 同じ山口県に仲哀天皇の豊浦宮が下関にあった。いずれにせよ、ここでは長州の豊浦を指すのかどうかはよくわからない。単に、氷温冷蔵の舟で魚を運んで豊かになった浦がある、という意味に取っておいた方がいいかもしれない。
 「郡」は「こほり」と読むなら前句の「氷室」に係り、金の湧いてくる氷という二重の意味になる。
 第三。

   金涌の郡豊浦の春
 新芝居宣してうつしけん     其角

 「新芝居」は「はつしばゐ」で正月の芝居。
 「宣して」は「みことのりして」とルビがある。天皇による法令ほどの拘束力を持たない発言を意味するが、ここでは神の言葉をうかがう占いのことかもしれない。
 「うつす」は移すで、芝居小屋が移動してゆくことか。その土地土地で興行を行うときは、そこの神様にお祈りしたのであろう。
 芝居もまた、当たれば巨万の富を手にできる「金涌」だ。
 四句目。

   新芝居宣してうつしけん
 検-非-使の族喧-嘩預ル      藤匂子

 検非違使(けんびし)が喧嘩を仲裁する。族は「ぞく」とも「やから」とも取れる。一族、血縁のことで、検非違使の族が喧嘩を預かる。
 五句目。

   検-非-使の族喧-嘩預ル
 何者か軽口申たる月に      千春

 軽口はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「軽口」の解説」に、

 「① (形動) 口が軽く、軽率に何でもしゃべってしまうこと。また、そのさま。おしゃべり。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Carucuchina(カルクチナ) ヒト」
  ② (形動) 語調が軽快で、滑稽めいて面白みのあること。また、そうしたことばや話。
  ※評判記・吉原讚嘲記時之大鞁(1667か)ときのたいこ「竹こまのかる口たたけど」
  ③ 秀句、地口、口合(くちあい)の類。軽妙なしゃれ。軽口咄(かるくちばなし)。
  ※咄本・百物語(1659)上「入口のがくにあげし語、おどけたるかる口なりければ、書とめかへりし」
  ④ 役者の声色や身振りをまね、滑稽な話をして人々を笑わせること。また、それを業とする大道芸人。豆蔵。かるくちものまね。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕
  ⑤ 淡泊な味。口あたりのよい味。
  ※咄本・口拍子(1773)かの子餠「買て味わふて見た処が、しごく軽口(カルクチ)さ」

とある。談林俳諧もまた軽口俳諧と言われた。
 月見の宴で軽口を叩いて喧嘩が起きた、とする。
 六句目。

   何者か軽口申たる月に
 芋ぬす人の夕くれしを      其角

 字数からすると「夕(ゆふべ)くれしを」であろう。
 中秋の名月は芋名月とも呼ばれ、月に芋は付け合いになる。
 誰かが軽口に、この芋を持ってっていいよ、と言ったのだろう。くれたのだと思ったら盗人にされた。「もってけ泥棒」なんて言葉もあるが。
 初裏、七句目。

   芋ぬす人の夕くれしを
 鑓疵の茄子に残る暴風哉     藤匂子

 暴風は「のわき」とルビがある。台風の風で茄子が枝か棹にぶつかり鑓疵のようになる。
 八句目。

   鑓疵の茄子に残る暴風哉
 日怒雨からすらむ        千春

 「日怒」は「かがやくいかり」とルビがある。
 暴風で茄子に傷がついたことに怒った太陽が、こんどは日照りを起こす。
 九句目。

   日怒雨からすらむ
 夏犬の身をもゆるげに舌垂レて  其角

 犬は暑いとハアハア息をして体温を調整するが、その時に舌を出したりする。前句の日照りに犬も苦しそうだ。
 十句目。

   夏犬の身をもゆるげに舌垂レて
 此娘うかうかとやつるる     藤匂子

 「うかうか」は「うかと」から来た言葉で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「うかと」の解説に、

 「〘副〙 しっかりした考えがないさま。気づかないさま。不注意に。うかうか。うっかりと。ぼんやりと。
  ※応永本論語抄(1420)微子「子路辞なうしてうかと立て居たり」
  ※古活字本荘子抄(1620頃)六「精神がうかとして物を忘るる方あり」

とある。
 犬の暑さに衰えている様に、恋にやつれた女の姿を重ねる。
 十一句目。

   此娘うかうかとやつるる
 夜ルと夜ル関もる伯父を恨みけり 千春

 「関もる」は比喩で、古歌に出て来る須磨の関守みたいに、伯父があの人が来ないように見張っている。
 十二句目。

   夜ルと夜ル関もる伯父を恨みけり
 東路や。知恵習にやる      其角

 習は「ならはし」とルビがある。注釈のような文体で、前句の関は東路の関で、伯父への恨みは知恵(迷いを断つ力)でもって慣れるべきと解説する。

2022年2月11日金曜日

 今日は建国記念日。もっとも神武天皇の時代にどういう暦が使われていたかは定かでない。一説には原始的な太陽暦があったともいう。『日本書紀』が編纂された時代には中国の暦があったから、それに擬えて「辛酉年春正月庚辰朔」の建国とした。
 明治に入ってウィキペディアによるなら、明治五年(一八七二年)には旧正月の一月二十九日に神武即位祝いの式典が行われ、明治六年(一八七三年)七月の太政官布告第258号によって新暦の二月十一日に固定されたという。
 ただ、いつも使っている「こよみのページ」の新暦と旧暦の変換によると、旧正月が一月二十九日になるのは一八七三年になる。これは明治五年の十一月に決定され、六年の神武即位祝い式典が一月二十九日に行われたという意味だろう。
 辛酉年春正月庚辰朔を新暦二月二十一日にするという根拠は、今一つはっきりしないが、これが太陽暦(グレゴリオ暦)の採用に伴う変更であるのは明らかであろう。これによって原則的に旧暦による行事は禁止された。
 建国記念日は二度変更されたといっていい。一度は旧暦への変更、二度目はグレゴリオ暦への変更。まあ、この辺の事情は複雑なので、一番簡単な説明は「明治憲法発布で近代国家としての日本がスタートした日」ではないかと思う。
 昨日は雪の予報もあったが、朝はまだ雨だった。昼前から雪に変わって午後には積り始めたが、夜になって雨に変わって大方融けた。雪つむ上の夜の雨。
 オリンピックのネット観戦はスノーボード女子ハーフパイプ決勝からで、相変わらず転倒の多い試合だったが、せなさんが銅メダルで、るきさんも最後は倒れず走り切って五位に入れて、まずは良かった。
 フィギュアスケート男子フリーはテレビで見た。世代交代を感じさせる結果だった。
 そのままテレビでスノーボード男子スノーボードクロスタイムトライアルを見た。順位決定戦で選手の頭にカメラを付けた時、何か悪い予感がした。とっさにドライブレコーダーの事故画像を連想し、これはフラグと思ったらその通りになった。
 
 それでは『阿羅野』の「初春」の続き。

 うぐひすの鳴そこなへる嵐かな  若風

 これは、

 山里は嵐にかをる窓の梅
     霞にむせぶ谷のうぐひす
              藤原有家(玉葉集)

が本歌か。霞にむせぶのではなく、嵐に鳴きそこなうというところが俳諧になる。

 鶯の鳴や餌ひろふ片手にも    去来

 飼われた鶯であろう。鶯の鳴き声を競わせる鶯合(うぐひすあはせ)というのが行われていたこともあって、鶯を飼う人は多かった。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鶯合」の解説」に、

 「〘名〙 手飼いの鶯を持ち寄り、その声の優劣を競う遊戯。中世、物合わせの一種として流行し、近世以降も広く行なわれた。なきあわせ。うぐいす会(かい)。《季・春》
  ※教言卿記‐応永一六年(1409)四月一四日「今朝は伯亭にて鶯合〈左大弁相公等〉」

とある。

 あけぼのや鶯とまるはね釣瓶   一桐

 はね釣瓶はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「撥釣瓶」の解説」に、

 〘名〙 支点でささえられた横木の一方に重し、他の一方に釣瓶を取りつけて、重しの助けによってはね上げ、水をくむもの。桔槹(けっこう)。〔色葉字類抄(1177‐81)〕」

とある。柱の上横木を載せて天秤のようにするものだが、木を柱替りにすることもある。
 高さのあるもので、これに鶯がとまれば羽根釣瓶だ。

 鶯にちいさき薮も捨られし    一笑

 この一笑は尾張津島の一笑で、貞徳翁十三回忌追善俳諧に参加した伊賀の一笑、「塚も動け」の句で知られる加賀の一笑と、一笑はたくさんいる。
 薮は木の無秩序に茂った状態で、あまり見栄えのいいものではなく、荒れた感じがする。それでも鶯が来るなら刈り払うわけにもいかない。

 うぐひすの声に脱たる頭巾哉   市柳

 鶯の声を聞いて、暖かくなったと頭巾を脱ぐ。

 鶯になじみもなきや新屋敷    夢々

 鶯も新しい屋敷がたったらとまどうだろうな、という気づかいの句。
 この頃はまだ急激に人口が増えて鶯の住処が奪われるということがなかったから、のんびりとしたものだった。

 うぐひすに水汲こぼすあした哉  梅舌

 鶯の声に驚いて汲んでた水をこぼす。

 さとかすむ夕をまつの盛かな   野水

 アカマツの多い山里は、夕暮れになるとその枝ぶりがシルエットになる。それを「松の盛り」として、その時間を「待つ」と掛けている。

 行々て程のかはらぬ霞哉     塵交

 霞は広い範囲に薄くかかるので、旅をしていてどこまで行っても山は同じように霞んでいる。そこが霧と違う所だ。
 「行々て」は『文選』の古詩の「行行重行行(ゆきゆきてかさねてゆきゆく)」から来た漢文的な言い回しで、行軍や旅などに用いる。

 行人の蓑をはなれぬ霞かな    塵交

 簑を着て行く人も旅人で、霞も延々と一緒についてくるかのようだ。

 かれ芝やまだかげろふの一二寸  芭蕉

 陽炎は石などの日の光りで暖まりやすい所に詠まれるもので、枯芝の野のかすかな陽炎に春の訪れを詠む。

 今さらに雪降らめやもかげろふの
     燃ゆる春日となりにしものを
              よみ人しらず(新古今集)
 かすみゆく日かげは空にかげろふの
     もゆる野原の春のあはゆき
              藤原雅経(続後撰集)

の歌もある。
 『笈の小文』では、

   初春
 春立ちてまだ九日の野山哉
 枯芝やややかげらふの一二寸

とあり。「まだ」が「やや」になっている。「春立ちてまだ」の句との重複を避けたのかもしれない。

 かげろふや馬の眼のとろとろと  傘下

 陽炎がゆらゆら揺れるように、野の馬の眼もとろとろしている。

 水仙の見る間を春に得たりけり  路通

 水仙は冬の季語だが、それを見ているうちに春が来たという意味なので、春の句となる。
 元禄二年の正月、江戸での興行の発句で、元は「水仙は」の形だった。脇が、

   水仙は見るまを春に得たりけり
 窓のほそめに開く歳旦      李沓

とあり、脇は発句の季節と違えないので、元は歳旦の句だった。

 蝶鳥も待るけしきやものの枝   荷兮

 蝶は晩春のものなので、それをまだ待っている状態も既に春が来たかのようだ。鳥は鶯などであろう。