2022年2月17日木曜日

 今日は散歩で有馬梅林公園に行った。紅白の梅数本が奇麗に咲いていた。他の木も蕾が大きく膨らんで、もう少しすると咲きそろいそうだ。散歩の途中でもあちこちで梅の咲いているのを見た。
 あとまあ、コロナ後の世界が実は存在しないという可能性、一応頭の隅に置いておかないとね。
 仮に核戦争で人類絶滅という事態が起きるなら、何でそんなことになったのか考えるのも今の内だ。ダイイングメッセージとして他の星の人たちに残してやんないとね。
 筆者が総括するに、これは「純粋理性の暴走」に尽きると思う。基本的には西洋文明の責任だと思う。(この場合の「純粋理性」は肉体を持たない抽象的な理性という意味で、カント的な「実践理性」に対しての言葉ではない。実践理性も含めて、西洋形而上学の霊肉二元論に基づく「理性」の概念を意味する。)
 すべての人に平等な生存権をというのは、土地と生産力が無限であることを前提にしか成立しなかった。地球の定員が限られているなら、誰かが排除されなくてはならなかった。
 近代以前の人類は、それぞれの文化圏でそのルールを模索してきた。だが、近代の理性はそれを一切「野蛮」と切り捨てた。
 その結果、理想と現実のギャップの構造が生まれた。すべての人間が平等に幸せになるには地球は狭すぎた。だから、「人権」の名における排除の構造を作らざるを得なかった。つまり、人権の及ばない「野蛮人」を作り出さざるを得なかった。
 レイシズムは人権思想と対を成すもので、光と闇のようなものだった。そこには何の欲望も憎しみもない。だから、一切の妥協や取引が存在しない。つまり引き下がるということができない。
 かつてのレイシズムは肌の色や民族や宗教によるものだったが、今の人権思想はそういったものに関係なく、人権派の主張に従うか否かで野蛮人を判定している。そして彼らは容赦なく「不可能な可能性」に服従することを要求する。
 生物学的基礎を持たない純粋理性による人権思想は最初から矛盾していた。この矛盾した思想が世界を席巻した時、世界は常に人類滅亡の恐怖にさらされていた。
 フランス革命、名誉革命、アメリカ独立、人権思想が勝利を収めた瞬間は、同時に彼らの侵略の開始の合図だった。すべての「国民」が平等に繁栄を享受するには、国土は狭すぎて生産力が不足している。飢餓か侵略かという選択を迫られれば、侵略を選ばざるを得なかった。
 かくして地球規模での植民地争奪戦が始まり、それが第一次、第二次の二つの悲惨な戦争を生み出した。
 第三次世界大戦はこの二つの大戦の主要なプレーヤーがたぐいまれな繁栄を手にしたのに対し、出遅れたロシア・中国の二つの国に北朝鮮やイスラム圏の独裁国家が連動することによって起きた。そして、多くの民主主義国家で反米を標榜する社会主義者たちが、これらの国々を支持した。
 中国がウイグル人虐殺をためらわなかったのは、アメリカがネイティブ・アメリカンを追い出して今の繁栄を築いたのだから、俺たちがウイグル人を追い出して何が悪い、というものだった。
 ロシアのウクライナ侵略は、旧ソ連時代の共産圏に対してロシアが指導力を持つのが当然だという考え方によるものだった。これはアメリカが日米同盟やNATOを通じて軍事的に連携しているのに対抗するものだった。だからウクライナのNATO加盟阻止は絶対に譲れない一線だった。
 反米思想を支えていたのは、かつての植民地争奪戦に対して後発の不条理を感じる者たちと、二十世紀の社会主義革命の失敗を「アメリカに潰された」と信じる人たちだった。
 彼らが人権の旗のもとに、世界中のすべての人類が平等の繁栄を要求したとしても、それは人権思想が誕生した時のあの矛盾を再び呼び起こすだけだった。
 出遅れた国のすべての国民が平等に繁栄を享受するには、地球は狭すぎて生産力が不足している。飢餓か侵略かという選択を迫られれば、侵略を選ばざるを得なかった。
 全員が船に乗ることができないなら、こんな船なんてぶっ壊してしまえ。これは冗談で済む話ではなかった。一人の人間の人権が地球より重いとすれば、これは当然の帰結だ。地球を壊すということを選択するしかない。
 かくして、人類はコロナ明けの希望を余所に第三次世界大戦の泥沼に入り込み、最後は核戦争で人類は滅びましたとさ。おしまい。
 宇宙の人たちはこれを良き教訓とすることを望む。

 それでは「酒の衛士」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目。

   砧の皷笛おほせ鳥
 桂こぐ更科丸の最中哉

 「桂こぐ」は桂楫であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「桂楫」の解説」に、

 「かつら‐かじ ‥かぢ【桂楫】
  〘名〙 (「かじ」は櫂(かい)の意) 月の世界にあるという桂の木で作った船の櫂。
  ※万葉(8C後)一〇・二二二三「天(あめ)の海に月の船浮(う)け桂梶(かつらかぢ)かけて漕ぐ見ゆ月人壮子(つきひとをとこ)」
  けい‐しゅう ‥シフ【桂楫】
  〘名〙 桂(かつら)の木で作った櫂(かい)。転じて、美しい櫂。
  ※和漢朗詠(1018頃)雑「蘭橈桂檝、舷を東海の東に鼓く〈大江朝綱〉」 〔丁仙芝‐渡揚子江詩〕」

とある。
 更科丸はよくわからない。更科の里を行く舟の名前という感じはするが。最中は「最中(もなか)の月」で中秋の名月のこと。二の懐紙の月の句になる。
 前句の砧の皷で、山奥の里として、更科の里を下る船を付ける。月の縁で「桂」「最中」と結ぶ。
 二十六句目。

   桂こぐ更科丸の最中哉
 吉原山にとくさ刈其

 木賊(とくさ)は更科というよりは木曽の方だが、まあ同じ信州ということでいいか。

 木賊刈る園原山の木の間より
     磨かれ出づる秋の夜の月
             源仲正(夫木抄)

の歌を本歌とするが、ここでは吉原山にする。どこにあるのかは知らない。
 二十七句目。

   吉原山にとくさ刈其
 麻衣独リ賤屋の浮名歌

 吉原の縁で浮名と恋に展開する。

 木賊刈る木曾の麻衣袖濡れて
     磨かぬ露も玉と置きぬる
             寂蓮法師(新勅撰集)

が本歌になる。隠棲の涙を浮名の涙にする。

 恨みわびほさぬ袖だにあるものを
     恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
             相模(後拾遺集)

の心になる。
 二十八句目。

   麻衣独リ賤屋の浮名歌
 綿摘娘垣間見にけり

 麻衣の男が綿摘む娘に恋をする。麻と綿では身分違いということか。
 二十九句目。

   綿摘娘垣間見にけり
 豆腐売ル声を時雨につたへ来て

 綿花の収穫は時雨の頃で、『続猿蓑』の「いさみたつ(嵐)」の巻十四句目に、

   草の葉にくぼみの水の澄ちぎり
 生駒気づかふ綿とりの雨    沾圃

の句があるが、ここでは秋になっている。
 時雨も和歌では晩秋に紅葉とともに詠むので、綿摘みも両方に跨っていたか。
 前句の垣間見を豆腐売りとする。綿の大敵である時雨を伝えに来た。
 三十句目。

   豆腐売ル声を時雨につたへ来て
 釣にうかるる鴨千鳥川

 鴨の群がる川は魚もたくさんいる。釣りに夢中になっていると時雨に朝の豆腐売りの声がする。
 二裏、三十一句目。

   釣にうかるる鴨千鳥川
 蜊むく蠣の小家のあまた数

 海辺の釣り場には、アサリやカキを食べさせる小さな店がたくさんあったのか。人口の多い江戸の隅田川河口には、そういう所もあったのかもしれない。深川丼は今でも有名だが。
 「蜊(あさり)むく」は浅利の実を殻から剥がすこと。
 三十二句目。

   蜊むく蠣の小家のあまた数
 下機音の波を織ルけに

 下機(したはた)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「下機」の解説」に、

 「〘名〙 (「しもばた」とも) 主に木綿、麻布を織るのに用いる機(はた)。機の丈は低く、機に向かって腰を落とし、両脚をなげだして織るもの。いざりばた。
  ※俳諧・玉海集(1656)付句「しもはたを織ぬる人のすそみえて〈貞利〉」

とある。
 元禄五年の「水鳥よ」の巻十九句目に、

   春はかはらぬ三輪の人宿
 陽炎の庭に機へる株打て    兀峰

の句があり、この場合は古代の機台のない、まず杭を打ってそこに縦糸を止める棒を固定し、そこからもう一本の棒で経糸を水平に伸ばし、間に綜絃で糸を一つ置きに二種類に分けて上下させ、そこに杼(ひ)で横糸を通して行く機織りを紹介したが、下機はそれを簡単な機台に据えたようなものだったと思われる。
 アサリやカキを売る店の辺りの海は内海で穏やかで、その音は下機の音のように波を織り上げている。
 「けに」は連体形に付いているから、「けにや」の略か。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「…ためで(あろう)か。
  出典竹取物語 竜の頸の玉
  「千度(ちたび)ばかり申し給(たま)ふけにやあらむ」
  [訳] 千度ほども申し上げなさったためであろうか。◆「けにや」の下の「あらむ」などが省略されることもある。
  なりたち 名詞「け」+断定の助動詞「なり」の連用形+疑問の係助詞「や」

とある。
 三十三句目。

   下機音の波を織ルけに
 白雲の都をかどはされ出て

 「かどはす」は誘拐する。七夕の織女であろう。
 三十四句目。

   白雲の都をかどはされ出て
 うき身ヲ鳴か郭公殿

 ホトトギスはウィキペディアに、

 「長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

とある。帝位を譲ったのではなく、実は謀反が起きて強制的に連れ去られたか。
 三十五句目。

   うき身ヲ鳴か郭公殿
 花と苅ル麦より奥のよし野山

 前句にホトトギスが出たので、刈る麦を付けるが、このままだと夏の句になるので、夏になれば麦を刈るであろう、として花の吉野山とする。これで春への季移りになる。
 ホトトギスは晩春にも詠む。
 挙句。

   花と苅ル麦より奥のよし野山
 西行うこ木翠添らむ

 花の吉野山と言えば西行隠棲の地で、

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜のとがにはありける

と詠んだ西行桜に五加木(うこぎ)の緑を添えて、一巻は目出度く終わる。

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