2022年2月22日火曜日

 ドネツク、ルガンスクの国家承認とか、会談までの停戦を盾にとって、これで会談の日時をずるずると引き延ばせば、両地域の国家独立は既成事実化できる。まあ、敵ながら天晴だ。
 いわゆる外堀を埋めるというもので、この両地域を軍事拠点としで確保したロシアにとって、キエフの大門はもう目の前だ。プーちんは徳川家康だね。
 結局第三次世界大戦を避けるために、西側諸国もウクライナを見捨てるという判断をするのかな。口で非難するだけなら「でっ?」で終わりだ。経済制裁が無力なことは、既に北朝鮮やイランで証明されている。ならば市民のデモはって、その無力は香港でもミャンマーでも証明されている。
 ロシアがやりたい放題できるその背景は、結局、核兵器禁止条約で事実上西側の核を使用不能にできたことではないかと思う。ロシア、中国、北朝鮮、イランなどの反米国家の核はいつでも使用できる。この軍事バランスの崩壊が今回の大戦を招いたと言ってもいい。まあ、パヨチンの勝利だ。核廃絶、戦争反対、それが西側世界を無力化させた。
 ウクライナがロシアの一部になったとしても、そこで終わりなんて保証は何もない。あとは西側諸国がロシアと中国に蹂躙されれば、その後押しでパヨクが政権を取る算段なのだろけど、無理だとは思うよ。ロシア人と中国人が支配するだけだ。ディストピアはすぐそこだ。これが西洋理性の輝かしい勝利だ。
 キエフの大門といえばELPの「展覧会の絵」。昔適当に訳詞をつくったことがあったが。たしか、

 俺たちゃ門からやってきた
 時の流れに乗って、時の流れに乗って
 俺たちゃ門からやってきた
 燃え盛る炎のような俺たちの人生

 そこから得られるものはたくさんの人生

 人生には始まりも終わりもない
 死、即、生

 ニーチェの永劫回帰の歌かなと思っていたが。

 戦況を一応振り返ってみよう。
 まずオリンピック中にロシアが合同演習を理由にベラルーシに軍を集結させた。
 NATOが動かないなら、既に紛争中のウクライナ東部のロシア軍と、クリミアのロシア軍とで三方向からキエフに迫れる状況を作り出した。
 ただ、これはあまりにあからさまな挑発で、NATOの動きを見たと言っていいだろう。そして、両軍はオリンピックの終了をまず待つことになった。
 オリンピックの終了時点で、一つの選択肢として、NATOが間髪入れずにベラルーシに集結した軍をミサイル攻撃するというのがあったと思う。ここを叩けばロシアが軍の再集結している隙に地上軍を送り込んで、一気にNATOがウクライナに入って東部州を制圧するという可能性もあっただろう。
 そうなると、ロシアは後手に回り、できることといえばヨーロッパのNATOの拠点をミサイル攻撃するくらいになる。こうなると、ロシアのミサイルの性能とアメリカのミサイル防衛技術の勝負になるが、ヨーロッパに多少なりとも被害は出ただろう。ただ、それは民主主義への殉教で済ませられるレベルだったかもしれない。
 もちろん核攻撃は論外で、それだと確実にロシアは焦土になる。
 当然ながらロシアはそれを読んでいた。そのため、一部軍隊を移動させ、撤退したかのように見せかけた。これはNATOからすれば、衛星でその動きが手に取るようにわかっているのでほとんど効果がない。ただ欧米のネット工作と併用すれば、ヨーロッパ人の戦意をそぐことは可能だ。
 ロシアはかなり前から欧米に対して様々なネット工作を行ってきた。コロナの混乱やアメリカのBLMなども巧妙に西側の世論の分断を煽り立ててきた。政府への不信感があるなら、それを利用すれば最初のNATOからの先制攻撃はない。そう読んだのではないかと思う。
 これでフランスのマクロンが首脳会談を提案してきた。この時点でNATOは動きを止めざるを得なかった。その隙にウクライナ東部州の独立を宣言し、ロシアは軍を送り込んだ。
 NATOの先制攻撃がなくなり、ウクライナ東部州を制した時点で、ロシアは初戦を制した。それだけでなく、NATOは反撃をせず、ほとんど効果のない経済封鎖で一気にトーンダウンした。これではウクライナ政府がNATOに裏切られたと怒るのも無理はない。ウクライナは既に見捨てられたと言っていいだろう。戦線はポーランド国境に移る。
 この戦争が最終的にロシアの勝利に終わったとすれば、マクロンの一手が敗着だと言っていいだろう。

 あと、下田のBTS神社に韓国人激怒というから、てっきり後ろの貝殻が旭日旗に見えるというのかと思った。まあ、はっきりいって、なんちゃって神社だけどね。
 日本の神道には教義も戒律もないから、いくらでも勝手に神社って名乗れるんだよね。自分ちに神棚作って、勝手に明神様にしても別に罰が当たるわけでもない。昔は屋敷神みたいのもあったしね。その辺のゆるさが、時々わけのわからない神社を生む。
 東海道を歩いた時に箱根でも変な神社を見たしね。特に多額の金を請求する神社には絶対金を払ってはいけない。間違いなく金目当てだ。金が集まらなければ自ずと潰れる。
 今日は2がたくさん並ぶということでスーパー猫の日だというが、鈴呂屋は毎日猫の日ですので。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「廿七日、八日、この両日ここに休息して、廿九日に駿河国へと出立侍るに、其日の午刻ばかりの道の空にて、寸白(すんぱく)と云虫おこりあひて、いかにともやる方なく、薬を用うれど露験(しるし)もなければ、いかがはせむ。」(宗祇終焉記)

 『再昌草』には「廿七日に彼所をたちて」とあったが、おそらくこちらの方が正しい。権現山城から一日で箱根湯本になんてことは有り得ないからだ。
 六月の初めに上戸陣に到着し、そこで「廿日余り」過したあと川越でも「十日余り」とあったので、二十七日は七月の二十七日になる。
 道筋を推定するなら、近世東海道の道筋が既に出来ていたとすれば、そのまま保土ヶ谷、藤沢を経て小田原に向かったと考えられる。
 藤沢の今の遊行寺(当時の藤沢道場)から先の道は、これより少し後になるが、宗長の『東路の津登』の旅で通ったと思われる。
 宗長はこの『宗祇終焉記』の旅で越後へ向かう時には、時間がかかっている上、最短コースを通っていない。それは十国峠を越えて初島を見たことと、鎌倉に寄っていることで明らかだ。最短なら箱根峠から湯本へ出て、鎌倉に寄らずに藤沢道場から鎌倉街道上道に入った方が早い。
 三島─小田原─藤沢の道筋があった以上、藤沢─神奈川─品川への道が当時存在していたと考えた方がいいだろう。宗祇の病状を判断するなら、この最短ルートを通ったと考えていいと思う。
 仮にこの道がなかったとしたら、保土ヶ谷宿で鎌倉街道下道に合流し、そこから一度朝比奈切通しを通って鎌倉に入り、化粧坂切通しを出て鎌倉街道上道で今の遊行寺に出て、そこから小田原方面へ向かうことになる。これはかなりの遠回りだ。
 旧東海道(近世東海道)で保土ヶ谷を出ると、権太坂の登りになり、そこに武相国境モニュメントというのがある。権太坂を登り、品濃坂の下りに入るその峠が昔の武蔵国と相模国の国境だった。
 この小さな山越えのアップダウンも病人には辛いものだったのだろう。宗祇は寸白(すんぱく)を起こす。条虫(じょうちゅう)などの寄生虫によって生じる下腹部の激しい痛みだが、この場合は別の原因で生じた同様の痛みだったかもしれない。
 宗祇が何の病気だったかは、今の診察を受けたわけでないのではっきりとはわからない。ただ既に癌などを引き起こしていたなら、その痛みだった可能性もある。だとしたら、当時の薬が効果を示さないのも無理もない。

 「国府津と云所に旅宿を求めて、一夜を明し侍しに、駿河の迎への馬、人、輿なども見え、素純馬を馳て来向はれしかば、力を得て、明くれば箱根山の麓、湯本といふ所に着きしに、道の程より少し快げにて、湯漬など食ひ、物語うちし、まどろまれぬ。」(宗祇終焉記)

 国府津は今の東海道線の国府津の辺りで間違いはないだろう。小田原の少し手前になる。
 名前に「国府」とあるが、相模国の国府がどこにあったかについては諸説あってわからない。
 他の国の国府が中世になっても守護のいる所ということで機能し続けたのに対し、相模は鎌倉があったため、国府が早い時期に顧みられなくなったのかもしれない。
 相模国国府の位置についてはウィキペディアには高座郡国府説(海老名付近)、大住郡国府説(平塚四之宮)、餘綾郡国府説(大磯)の三つの説が載っている。いずれにせよ国府津からは離れている。
 ここまでくる間に、何らかの形で駿河の国に連絡を入れていたのであろう。国府津に到着すると、翌日に迎えの人たちが馬や輿を用意してやってきた。馬に跨るだけの体力もなければ、輿に乗せて運ぶしかない。いつでも迎えに行けるように小田原辺りで待機していたか。
 七月二十七日に権現山城を出てその日に国府津に着いたとするならば、五十キロ近い道のりを強行軍で通過したことになるが、まずそれはないだろう。途中で寸白を起こしているし、その辺りで一泊して、二十八日に国府津に着いたと考えた方がいい。
 七月二十八日に国府津に着き、翌二十九日に出迎えの人たちが到着する。そして三十日に箱根湯本に行く。
 素純は東胤氏(とうのたねうじ)で、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「東胤氏」の解説」に、

 「?-1530 室町-戦国時代の武将,歌人。
 東常縁(つねより)の子。はじめ足利政知(まさとも)に,のち今川氏につかえる。父の弟子宗祇(そうぎ)から古今伝授をうけ,文亀2年には病中の宗祇から「古今和歌集」の奥秘を返伝される。今川氏親(うじちか)に協力し,「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集した。享禄(きょうろく)3年6月5日死去。法名は素純。著作に「かりねのすさみ」など。」

とある。
 こうして大勢の人の援護を受けて、輿に乗って、三十日朝、箱根湯本に向かう。距離的には十キロくらいか、それ程長い道のりではない。
 湯漬(ゆづけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「湯漬」の解説」に、

 「〘名〙 飯を湯につけて食べること。また、その食事。蒸した強飯(こわめし)を熱い湯の中につけ、また、飯に湯を注いだ。食べるときに湯を捨てることもある。夏は「水漬」といって、水につけることがあった。
  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「侍従のまかづるにぞあなる。ゆづけのまうけさせよ」
  ※夢酔独言(1843)「酔もだんだん廻るから、もはや湯づけを食うがよひとて」

とある。戦国時代まではまだ甑で蒸す強飯(こわいい)が主流だったという。お湯をかけることで食べやすくしていた。味のついた汁を用いると、北条氏政のエピソードで有名な汁かけ飯になる。
 お湯の量を多めにすればそのまま病人食にもできたのだろう。宗祇はそれを食べ、物語(世間話)をして、やがてうとうとと眠る。

 「おのおの心をのどめて、明日は此山を越すべき用意せさせて打休みしに、夜中過るほどいたく苦しげなれば、押し動かし侍れば、「ただ今の夢に定家卿に会ひたてまつりし」と言ひて、「玉の緒よ絶えなば絶えね」といふ歌を吟ぜられしを、聞く人、「是は式子内親王の御歌にこそ」と思へるに、又此たびの千句の中にありし前句にや、「ながむる月にたちぞうかるる」といふ句を沈吟して、「我は付がたし、皆々付侍れ」などたはぶれに言ひつつ、灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ于時八十二歳、文亀二夷則晦日。」(宗祇終焉記)

 明日は箱根峠を越えて三島へ向かう段取りだったのだろう。しかしその夜遅く、様態が急変する。「まどろまれぬ」とあるから、就寝ではなくうたた寝で、まだ日付は変わっていなかったのだろう。
 激しい痛みに襲われていたようだ。揺り動かして起こすと、夢で定家の卿に合ったといい、「玉の緒よ絶えなば絶えね」を吟じたという。
 これは、

 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば
     忍ぶることの弱りもぞする
             式子内親王(新古今集)

の歌で、今日でも百人一首でおなじみの歌だ。
 式子内親王は藤原定家が密かに恋心を抱いていたと言われていて、謡曲『定家』にも、

 「式子内親王、初めは加茂の斎の宮にそなはり給ひ、程なく下り居させ給ひしに、定家の卿忍び忍びの御契り浅からず。その後式子内親王、程なく空しくなり給ひしに、定家の執心葛となつて、この御墓に這ひ纏ひて、互ひの苦しみ離れやらず。ともに邪婬の妄執を、御経を読み弔ひ給はば、猶猶語り参らせさふらはん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.27374-27389). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。これが定家葛(テイカカズラ)の名の由来となっている。
 宗祇が見た夢がどういう夢なのかはわからないが、定家の夢でこの歌を想起するのはそんなに不自然なことではない。ただ、私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ、というこのフレーズは何とも不吉だ。
 あるいは表向きは八十過ぎまで生きたから、これ以上生きても苦しいだけだと言ってはいるものの、心の奥には激しい生への執着があって、それが式子内親王の苦しい恋心と重なったのかもしれない。
 それに続いて、この前の千句興行に「ながむる月にたちぞうかるる」という句を誰かが詠んでいて、この前句に自分は付けられないから、みんなそれぞれ付けてくれ、という。
 これも何かのメッセージだったのか。
 人は皆かなわぬ思いを抱き、苦しい人生を生きている。こんな苦しいなら、いっそ死んでしまえばなどと、何度も思いながらも、それでも生にしがみついて、今も生きている。
 「ながむる月にたちぞうかるる」という前句は打越の句にどう付いていたのかはわからないが、何か見果てぬ思いを月に重ねながら浮かれているような、そういうイメージなのだろう。
 枕元にいる人たちに、前句付けを振ったのだろうか。「ながむる月にたちぞうかるる」─それは人生とはそういうものではないか、と言っているかのようだ。それにみんなはどんな句を付けるのかい?そう問いかけているようでもある。
 宗祇は答えを聞く間もなく、そのまま息を引き取ったのだろう。「灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ」と、安らかな大往生だったことだけが救いだ。
 夷則は旧暦七月の異名で、「于時八十二歳、文亀二夷則晦日」は享年八十二歳、文亀二年七月三十日没、ということになる。新暦だと一五〇二年九月十一日没、ということになる。
 (ウィキペディアに九月一日とあるのはユリウス暦で、今のグレゴリオ暦が採用されたのは一五八二年だったということから、ユリウス暦に換算して九月一日になっている。)

 「誰人心地するもなく、心惑ひども思ひやるべし。かく草の枕の露を名残も、ただ旅を好める故ならし。唐の遊子とやらんも旅にして一生を暮し果てつとかや。これを道祖神となん。

 旅の世に又旅寝して草枕
     夢のうちにも夢をみる哉

 慈鎮和尚(くわしやう)の御詠、心あらば今夜(こよひ)ぞ思ひ得つべかりける。」(宗祇終焉記)

 「心地するもなく」は放心状態で、何をしていいかわからず、ということであろう。
 旅の途中で亡くなったということで、これも旅を好んでいた結果だという。そこで、これを道祖神と呼ぶ。
 道祖神はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「道祖神」の解説」に、

 「サエノカミ、ドーロクジンなどといったり、塞大神(さえのおおかみ)、衢神(ちまたのかみ)、岐神(くなどのかみ)、道神(みちのかみ)などと記されたりもする。猿田彦命(さるたひこのみこと)や伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)などにも付会していることがある。境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、縁結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において道祖神、塞神(さえのかみ)、道陸神(どうろくじん)などを別々の神として祀(まつ)っている所もあり、地域性が濃い。峠、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある。神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。中部地方を中心にして男女二体の神像を刻んだものがあり、これは、山梨県を中心にした丸石、伊豆地方の単体丸彫りの像とともに、道祖神碑の代表的なものである。また、藁(わら)でつくった巨大な人形や、木でつくった人形を神体とする所もある。これらは地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人は峠や村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている。[倉石忠彦]」

とある。中国の影響があったかどうかについては定かでない。「道祖」という漢語を当てていることから、中国と結びつける人もいたのだろう。
 「唐の遊子とやらんも旅にして」という一節は、特に道祖神の起源とは関係なく、単に中国でも旅を好み旅に死んだ人がいた、というだけのことで引き合いに出されただけかもしれない。
 宗長は宗祇のこうした旅に死ぬ生き方に、

   旅の歌とてよみ侍ける
 旅の世に又旅寢して草枕
     夢のうちにも夢を見るかな
             法印慈円(千載集)

の歌を捧げる。
 人生は夢だというのに、その夢の中で人は夢を見ている。それと同じで人生そのものが旅にすぎないというのに、その旅の中で旅をしている。
 これは宗祇の最後の問いに対する宗長の答えなのかもしれない。

   ながむる月にたちぞうかるる
 旅の世に又旅寢して草枕

 なお、慈鎮和尚(じちんかしょう)は死語に与えられる諡号で、和歌では慈円と呼ばれる。
 なお、和尚はウィキペディアに、

 和上(わじょう) 律宗・浄土真宗など(儀式指導者に対してのみ)
 和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など
 和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など
 和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など

とある。慈円は天台の僧なので「かしょう」になる。

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