2019年4月29日月曜日

 連休二日目。今日は三軒茶屋(西太子堂)のCat's Meow Booksに行った。『怪談おくのほそ道』(伊藤龍平訳・解説、二〇一六、国書刊行会)という本があった。安永六年(一七七七年)成立の『芭蕉翁行脚怪談袋』の現代語訳と解説で、内容は芭蕉やその門人達の名前を借りた登場人物が出てくる怪談集で、狐や狸や狒々や竜の出てくる話だ。
 その中の一つに「第九話 其角、猫の恋の句のこと」が収録されているので、この本屋に置かれていたのだろう。
 内容は芭蕉が延宝期に諸国行脚していたり、行ったことのない備前や四国九州に行っていたりするあたり、すぐに虚構だとわかるようになっている。今でいえば『文豪ストレイドッグス』のようなもので、あくまでフィクションとして、余計な突込みを入れずに楽しんだ方がいい。
 まあ、蕪村の時代の人々にとって、蕉門の俳諧師がどのようなキャラにされていたかを知る上では貴重な資料だ。

2019年4月28日日曜日

 今日は旧暦三月二十四日で、ようやく良い天気になった。春ももう終わりが近い。
 そんな中、小石川植物園へ行った。ここは隠れたツツジの名所と言っても良い。日本庭園の綺麗に刈り込まれたツツジも良いし、自然のままに枝を伸ばしたツツジも良い。
 あと、ハンカチノキという珍しい花が咲いていた。

 平成が終った後、令和はどういう時代になるのか。
 基本的には覇権主義の時代、「一つの世界」の時代は戻ってこないと思うし、そう願いたい。
 トランプ大統領がたとえ次の選挙で落選して民主党政権になったとしても、ふたたびアメリカが世界の警察に返り咲くのはもう難しいと思う。
 元はといえば日本の真珠湾攻撃で第二次大戦に参戦せざるを得なくなった時から、アメリカの運命は狂ってしまった。戦後そのまま東西冷戦の西側のリーダーに祭り上げられ、冷戦崩壊で世界の警察になってしまったが、昔のモンロー主義の頃に戻りたいのではないかと思う。
 中国の一帯一路もこれまでのような強引なやり方は無理で、グローバル経済の枠組みの中に納まってゆくと思う。中国が世界の強国の一角を占めるのは間違いないが、市場の信頼を失えば経済は行き詰まる。そこで妥協を余儀なくされることになる。
 EUも東西冷戦に対する第三の極という意義は既に失われている。これからも離脱や独立の動きは収まらないだろう。
 韓国と北朝鮮は、何とか世界の風向きが変わってくれることを願うかもしれないが、韓国の社会主義独裁体制化は経済の後退という大きな代償を払うことになるし、北朝鮮も現体制にこだわり続ければ永久に発展の道は閉ざされる。
 そして日本の場合、野党の動きとは関係なく安部政権はどのみち終るし、それに政権が変わってもほとんど何も変わらないのがこの国の特徴でもある。誰が首相になっても野党はやれ独裁者だの侵略戦争を起こすと言って騒ぐだろうし、国会ではスキャンダルの追及に専念することだろう。
 世界は緩やかに「極」を失い、多元化に向う。ただ、どんなに世界が多極的になっても科学と経済だけは共通言語だ。
 文化的にはグローバルスタンダードは次第に意味を失ってゆく。ファッションも流行も各国で独自の流れが平行して作られてゆくようになる。その中で、互いにネットを通じて他の文化の刺激を受けながら、より細分化されたロングテール市場を発展させてゆくと思う。
 その細分化の中で、障害者やLGBTやその他の様々なマイノリティーが居場所を見つけてゆけばいいと思う。

 多元主義の時代の中で、多神教の風土で育った日本の大衆文化がますます発展し、世界に影響を与えていければなと思う。

2019年4月26日金曜日

 今日も一日雨が降った。いわゆる春の霧雨だ。やや肌寒かった。
 それでは「八九間」の巻の続き。これで最終回。

 三十二句目。

   そぐやうに長刀坂の冬の風
 まぶたの星のこぼれかかれる    沾

 これも無修正で治定。発想が面白い。
 三十三句目。

   まぶたの星のこぼれかかれる
 引立てむりに舞するたをやかさ   里

 『続猿蓑五歌仙評釈』は「たをやかさ」を恋としているが、「たをやかさ」は立圃著延宝六年刊の『増補はなひ草』の「恋の詞」には入っていない。後の時代の曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』にもないから、この句を恋とする必要はない。
 「長刀坂」の句から俄然活気付いたように、テンポ良く展開されている。その「長刀坂」の句を呼び起こしたその前句の二十九句目の芭蕉自身による改作が功を奏したといえよう。
 三十四句目。

   引立てむりに舞するたをやかさ
 そつと火入に落す薫        見

 「薫物」は『増補はなひ草』の「恋の詞」の中に入っているが、末尾に「何れも句作ニよるべし」とあるように、本来は句の内容で判断すべきことで、恋の言葉が使われているからといって機械的に恋の句になるわけではない。
 三十五句目。

   そつと火入に落す薫
 花ははや残らず春の只暮て
       ぬ          蕉

 「残らず」とすると、「春の只暮て花ははや残らず」の倒置になる。
 「残らぬ」だと「花やはや残らぬ」と「残らぬ春の只暮れて」を合わせて、「残らぬ」を花と春の両方に掛けて用いることになる。和歌的な用法だ。
 挙句。

   花ははや残らぬ春の只暮て
 河瀬の水をのぼる
 河瀬の上のぼる水のかげろふ    里

 字余りになるので、書き間違いであろう。『続猿蓑五歌仙評釈』は「河」を抜いて「瀬の上のぼる水のかげろふ」としている。最終的には『続猿蓑』の「瀬がしら」という言葉を見出すことになる。

2019年4月25日木曜日

 天気予報では午前中に止むといってた雨がなかなか止まなかった。
 それでは「八九間」の巻の続き。
 二十五句目。

   槻の角の果ぬ貫穴
 濱出しの俵を牛にはこぶ也     里

 さて、前回回答を保留した問題の句に来た。残念ながら「俵を牛に」が「牛に俵を」になっただけで、ほとんど推敲課程もなくできた句のようだ。「牛に」は今の日本語だと「牛の方に」という意味になるが、当時の「に」の用法だと「牛で」の意味で用いられる。

   海くれて鴨の声ほのかに白し
 串に鯨をあぶる杯       桐葉

の「串に」も、今日なら「串で」とするところだ。「鯨を串にさして」だとわかりやすい。「牛に俵を」も「俵を牛にのせて」という意味だ。
 こういう難解な付けの場合、大胆な取り成しを疑ってみるのも一つの手だ。
 たとえばこの句を「槻の角(かど)の果ぬ貫穴(ぬけあな)」と読めば、欅の木が目印のあの角を曲がると行き止まりにならない抜け道がある、という意味にならないだろうか。だとすると、浜出しのために年貢を積んだたくさんの牛や馬がごった返し渋滞する中を、抜け道して横入りしてくる牛もいる、という意味になる。
 まだ他の可能性もあるかもしれないが、今回は一応この解釈で治定としておく。
 二十六句目。

   濱出しの俵を牛にはこぶ也
 名しまぬ嫁に
 よめには物をかくす内證      見

 『続猿蓑五歌仙評釈』では、浜出しの俵を年貢ではなく、「大切な備蓄米すら売りに出さねばならない」とし、それを嫁いで来たばかりの嫁には隠しておくという意味に解釈する。
 この回答に釈然としないのは単純な理由で、それって結局騙しているんじゃないか、ということだ。「来て間もない嫁を一家で気づかう」なんてのは明らかに嘘だ。裕福な家だと思わせて嫁に来させて、実は借金がありましたでは、それこそ結婚詐欺だ。
 ここは単純に、年貢をどれだけ払っているか、まだ知らなくていい、というくらいの意味にしておいたほうがいい。穿った見方をすれば、年貢を過少申告しているのを、事情を知らない嫁が本当のことをべらべら喋ったりしても困ると、そのほうが俳諧らしいと思う。
 前の句の「俵を牛に」→「牛に俵を」といい、今回の「名じまぬ嫁に」「よめには物を」→「なれぬ嫁には」の改作は、四三のリズムを嫌い三四のリズムに変えたのではないかと思う。和歌では末尾を四三で止めるのを嫌う。連歌・俳諧でも基本的には七七の句の下のほうは三四がベストで、二五、五二はありだが四三は嫌う。
 二十七句目。

   よめには物をかくす内證
 月待に傍輩衆の打そろひ      蕉

 これはどこの世界でも男が寄り集まれば、大体女がらみで秘密を共有しようとするものだ。
 二十八句目。

   月待に傍輩衆の打そろひ
 畠の菊の
 まがきの菊の名乗さまざま     里

 『続猿蓑五歌仙評釈』は陶淵明の「菊を采る東籬の下」を持ち出して隠士の集まりの句とするが、それは真に心の打ち解けた友であって「傍輩衆」ではないと思う。
 籬はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 竹や柴などで目を粗く編んだ垣根。ませ。ませがき。
  2 遊郭で、遊女屋の入り口の土間と店の上がり口との間の格子戸。
  3 「籬節(まがきぶし)」の略。」

とある。ここでは2の意味としておきたい。
 二十九句目。

   まがきの菊の名乗さまざま
 うそ火たき中にもさとき四十から
 むれて来て栗も榎もむくの声    沾

 初案は『続猿蓑五歌仙評釈』にある通り、「前句の『名乗さまざま』を受け、それぞれに鳴き集う鳥の名(鷽ウソ・鶲ヒタキ・四十雀シジュウカラ)を挙げての句作」と見ていい。前句の「菊」を本物の菊とした。
 これはこれで良さそうなものだが、貞門の古風な感じを嫌ったのだろう。椋鳥の大群に席巻されて、菊も栗も榎もないとした。人間の群集心理を風刺したか。
 三十句目。

   むれて来て栗も榎もむくの声
 小僧を供に衣かひとる
 番僧走るのりものの伴       蕉

 「小僧」は年少の僧の意味。後に商家の丁稚もそう呼ぶようになった。お坊さんが小僧を連れて衣類を買いに行ったら、小僧たちがはしゃいで騒がしくてしょうがない、というところか。
 最初は芭蕉さんもこれで良く出来たと思って丸印を付け、少し考えて三角にし、結局は不採用にしたか。
 理由はおそらく展開の不十分ということだと思う。椋鳥の群れの騒がしさをそのまま取るのではなく、別の展開を考えた時、あくまで椋鳥の声を伴奏とし、番僧に伴走させる方に落ち着いた。
 二裏。
 三十一句目。

   番僧走るのりものの伴
 そぐやうに長刀坂の冬の風     見

 これは一発治定。「出来たり」とばかりに丸印を二つ記す。

2019年4月24日水曜日

 随分前のことだがオートマチック車の暴走事故が相次いで、問題になったことがあった。今回事故を起こした車種もいろいろなことが言われているが、結局は全部ドライバーのせいにされて、うやむやになって終わるんだろうな。日本の基幹産業の、その主力の車だし。
 それでは「八九間」の巻の続き。

 十五句目。

   あたま打なと門の書付
 いづくへか後は沙汰なき甥坊主   見

 これも一発治定。「あたま打つな」の取り成しも面白いし、やはり身内とはいえ体罰はいけない。そりゃ家出もするわな。馬莧さん、お見事。
 前句とこの句に丸印がついているのは「合点」ということか。芭蕉の主観で付けたものではなく、当座で受けたという意味だろう。
 十六句目。

   いづくへか後は沙汰なき甥坊主
 やつと聞だす京の道づれ      沾

 これも一発治定。加点はないが、上手く展開している。
 十七句目。

   やつと聞だす京の道づれ
 有明に花のさかりのたてあひて
    をくるる花の        里

 これはしまった。『続猿蓑』のところで芭蕉さんの句と言ってしまったが、里圃さんの句だった。
 原案は有明の月と満開の花とが張り合うというもので、満月と桜の時期がなかなか一致しないことを思えば、ちょっと盛りすぎた感じになる。
 朝の景色であまり盛ってしまうと、前句の明方の宿でやっと京の道づれのことを聞きだしたエピソードが霞んでしまう。「おくるる花」くらいがちょうどいい。明るくなってようやく見えてくる花の「遅る」は「送る」にも掛かり旅人を見送る。
 十八句目。

   有明にをくるる花のたてあひて
 みごとにそろふ籾のはへ口     見

 これも添削なし。場面転換のやり句としては、これ以上はないだろう。
 二表。
 十九句目。

   みごとにそろふ籾のはへ口
 春無尽先落札が作太夫       蕉

 やはりこの経済ネタは芭蕉さんだったか。
 二十句目。

   春無尽先落札が作太夫
 伊勢のみちにてべつたりと逢
    下向に           里

 これは細かいことだが、十六句目の「道づれ」から三句しか隔ててないということだろう。
 二十一句目。

   伊勢の下向にべつたりと逢
 長持にあげに江戸へ此仲間
 長持の小揚の仲間そハそハと    沾

 「あげに江戸へ」は字足らずなので、『続猿蓑五歌仙評釈』では「こあげに江戸へ」の間違いだという。
 初案では「に」が重なって意味が取りづらい。長持ちを運んで江戸へ向う小揚と伊勢に下向する小揚の仲間がばったりと出会う、ということか。
 「江戸」を捨てることで句がすっきりして意味がわかりやすくなるし、場所が特定されないから、その分想像が広がる。なんでもたくさんの意味を詰め込めば良いというものではない。
 二十二句目。

   長持の小揚の仲間そハそハと
 雲焼はれて青空になる
 くわらりと雲の青空になる     蕉

 芭蕉さんもここでは作り直している。
 明方の天気の回復をイメージして、最初は朝焼けの雲のはれて青空になるとしたが、朝焼けを消して単に雲が晴れたとするが、やはり朝焼けのイメージが欲しかったのだろう。『続猿蓑』では「青雲」という言葉を見出

す。
 二十三句目。

   くわらりと雲の青空になる
 禅寺に一日あそぶ砂の上      見

 前句の青空を煩悩の雲の晴れるとして禅寺へ展開する。この展開には芭蕉さんも何も言うことはない。
 二十四句目。

   禅寺に一日あそぶ砂の上
 槻の角の堅き貫穴
     果ぬ           沾

 近代俳句だと、難解な句も読者の想像力不足ということで片付けられる。だから、こういう場合はひたすら想像力をたくましくして、禅寺で一日遊ぶその横では普請が行われて、大工さんが一生懸命欅の角材に貫穴をあけている情景が目に浮かぶようだ、ということになる。『続猿蓑五歌仙評釈』はそういう読み方をしている。
 ただ、それでは俳諧らしい面白みが何もないので、一種の禅問答ということにしてみた。
 時代は下るが仙厓義梵が蛙の絵を描いて「座禅して人が仏になるならば」という讃を添えている。座るだけで仏になれるなら、蛙などとっくに仏になっている、ということか。禅寺に一日遊んでも堅い欅の角材に貫穴を開けることはできない。
 『校本芭蕉全集 第五巻』の注は「遊ぶ人に対して勤労の人を対させた付」と迎え付け(相対付け)としている。
 だがここには、

    つぎ小袖薫うりの古風也
 非蔵人なるひとのきく畠   芭蕉

の「薫うり」に「非蔵人」、

    僧ややさむく寺にかへるか
 さる引の猿と世を経る秋の月   芭蕉

の「僧」と「猿引」、

   月の色氷ものこる小鮒売
 築地のどかに典薬の駕      洒堂

の「小鮎売」に「典薬」のような明確な対立する言葉がない。

2019年4月23日火曜日

 富士山は東半分が真っ白で西半分は雪が融けている。前に見たときもそうだった。
 西から来た雨雲が富士山にぶつかるとそこで雨を降らし、富士山を越えると雨雲でなくなってしまうせいなのか。

 それでは「八九間」の巻の続き。
 作者名は『続猿蓑』のバージョンでは規則正しく、芭蕉・沾圃・馬莧・里圃と続けたら、そのあと1と2、3と4を入れ替えて沾圃・芭蕉・里圃・馬莧となり、それを繰り返す。出勝ちではなく最初から順番を決めて詠んでゆく四吟の形を取っている。
 これに対し『真蹟添削草稿』は、まず芭蕉・馬莧・沾圃の三句があって、そのあとは里圃・沾圃・芭蕉・馬莧と続き、そのあと1と2、3と4を入れ替えて沾圃・里圃・馬莧・芭蕉となり、それを繰り返す。そして最後に里圃が挙句を詠んで全員九句づつになる。変則的だが、一応出勝ちではなく、あらかじめ順番が決めてあったと思われる。
 あるいは最初は発句・脇・第三の三つ物として作って、後に里圃を加えて四吟にしたのかもしれない。そのあと『続猿蓑』に載せる完成稿を作ったとき、この変則的な四吟を通常の四吟に直そうとしたため、作者名がずれてしまったのだろう。
 そのとき実際に誰がどの句を詠んだかはほとんど問題にしなかったとしか思えない。芭蕉の場合、発句、六句目、十四句目、二十二句目、三十句目の五句のみが一致する。まあ、実質的に全部芭蕉の作品ということなのか。
 ひょっとしたら芭蕉が残した『真蹟添削草稿』を元に、芭蕉の死後支考が直した可能性もあるが、だとすると、「仕着せの布小」を「このみの羽織」に直したり、「猿の五器」の句のわかりにくさを嫌って渋柿の句に変えたのも支考だということになる。
 理圃は四句目・十二句目・二十句目・二十八句目・挙句の五句、沾圃は五句目・十三句目・二十一句目・二十九句目の四句が一致するが、馬莧は一句も一致しない。どうやら馬莧が犠牲になったようだ。
 『真蹟添削草稿』の作者名が真の作者名なら、発句・四句目・五句目・六句目・十二句目・十三句目・十四句目・二十句目・二十一句目・二十二句目・二十八句目・二十九句目・三十句目・三十六句目の十四句が『続猿蓑』でも真の作者が表示されていることになる。
 そう考えると、七句目のところで「治定された『渋柿の』の句は別の発想から生まれた新しい句で、作者名が違うのもそのためだろう。」と書いたが、実際は作者名の違いに特に意味はなく、後から機械的に置き換えていっただけのようだ。
 九句目。

   みしらぬ孫が祖父の跡とり
 脇指はなくて刀のさびくさり
 脇指に仕かへてほしき此かたな   里

 初案では脇差はなく、錆びて腐った本差があったということか。だとすると没落した武家の跡取りということになる。
 ウィキペディアの「本差」のところには、「浪人などの一本差しは主に本差だけであり、これに副兵装として万力鎖を持っていたとしても脇差には該当しない。」とある。祖父は一本差しの浪人だったということか。
 改案だと、脇差に作り直して欲しい刀を相続したということで、武家の持つ大小の刀ではなく、町人の持つ刀だということになる。『続猿蓑』の「脇指に替てほしがる旅刀」だと、どういう刀だったかはっきりとする。
 十句目。

   脇指に仕かへてほしき此かたな
 煤を掃へば衣桁崩るる
   ぬぐへば           見

 衣桁(いかう)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「室内で衣類などを掛けておく道具。木を鳥居のような形に組んで、台の上に立てたもの。衝立(ついたて)式のものと、2枚に折れる屏風(びょうぶ)式のものとがある。衣架(いか)。御衣(みぞ)懸け。衣紋掛け。」

 煤を掃おうとして衣桁を倒してしまうというのは、よくあることだったのだろう。
 前句の刀を脇差に作り直したいというのを、相続のためではなく、年末の決済の金を作るためとして、年末のあるあるを付けたわけだが、『続猿蓑』だとこのあるあるネタを捨てて、単なる年末の風景とする。
 十一句目。

   煤をぬぐへば衣桁崩るる
 約束の小鳥一さげ売に来て     蕉

 曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』の「秋之部」の「鶫(つぐみ)」のところには「京師、除夜毎にこれを炙り食ふを祝例とす。」とある。
 これは手直しなしに一発で決まったようだ。
 十二句目。

   約束の小鳥一さげ売に来て
 十里ほどある旅の出かかり
   ばかりの余所へ        里

 これも細かい語句の訂正だが、すでに九句目が「旅刀」になっていたとしたら、「旅」の字の重複を避けたことになる。となると『続猿蓑』の手直しとこの草稿の手直しはそれほど時期を隔てたなかったか。だとすると支考手直しの可能性は消える。
 十三句目。

   十里ばかりの余所へ出かかり
 す通りの藪の経を嬉しがり
 笹のはにこみち埋りておもしろき  沾

 「す通り」の案だと何が嬉しいのかよくわからない。そこを具体的にわかりやすく「笹のはにこみち埋りて」とする。
 十四句目。

   笹のはにこみち埋りておもしろき
 あたま打なと門の書付       蕉

 これは一発治定。さすが芭蕉さん。

2019年4月22日月曜日

 昨日は渋沢の千村に八重桜を見に行った。
 そこから八国見山に登り、真新しい霊園を横切って七滝の方へ行こうとしたが、道が見つからずに結局そのまま新松田に出て帰った。
 それでは「八九間」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   ぜんまひかれて肌寒うなる
 手を摺て猿の五器かる草庵
           旅の宿    見

 句も作者も最終稿とはまったくちがう。
 「五器」は「五具足」に同じ。「五具足」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「仏前に供える、華瓶(けびょう)一対、ろうそく立て一対、香炉一基の五つの仏具。五器。」

とある。
 これとは別に「御器」だと、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「ごうき(合器)」の音変化》
 1 ふたつきの食器。特に、わんのこと。
 「―なくてかはらけにてあるぞ見慣らはぬ心地する」〈讃岐典侍日記・下〉
 2 修行僧などが食物を乞うために持つ椀。」

とある。
 また、呉器茶碗のことも五器という。
 「猿の五器かる」はそのまま読むと猿が所有する五器を拝借するということになる。それも「手を摺て」だから猿に頭を下げてお願いするような場面になる。だが、なぜ猿が五器を持っていて人間がそれにお願いして借りなくてはならないのか、そこのところがよくわからない。
 猿が所有する五器を借りるのではなく、猿が五器を借りる、つまり持ってゆくという意味だと、今度は猿が手を摺ったりするだろうか、ということになる。
 それにいずれにしても季語がない。ここは秋でなくてはいけないはずだ。それも、「月」「肌寒」と来たわけだから、ここは放り込みで「庵の秋」でも「宿の秋」でもいいはずだ。
 となると、「猿の五器」がたとえば何かの秋の植物の異名であるのか、そういう可能性も出てくる。その場合は「猿の五器刈る」であろう。それだとしても「手を摺る」がわからない。
 いずれにせよこの句は謎で、これが最終的に治定されなかったのは幸いだ。
 治定された「渋柿の」の句は別の発想から生まれた新しい句で、作者名が違うのもそのためだろう。
 八句目。

   手を摺て猿の五器かる旅の宿
 みしらぬ孫が祖父の跡とる
          跡とり     沾

 前句が謎だからこの句も前句にどう付いているのか分かりにくい。
 祖父の跡取りと称するものが不意に現れて、手を摺ってお願いして遺産を持って行ったか。
 ここも作者名が変えられている。

2019年4月20日土曜日

 昨晩は曇っていたが、今朝は晴れて真ん丸の有明が見えた。
 それでは「八九間」の巻の続き。

 さて、最初に言ったとおり、この歌仙には『真蹟添削草稿』というものが存在する。『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)の注にはこうある。

 「この芭蕉真蹟『八九間雨柳』歌仙一巻は、もと三重県四日市市鈴木廉平氏の曽祖父、小草亭李東(士朗門)が、文化七年長月庵若翁と井上士朗の斡旋によって、伊賀の俳人士得なる人から譲り受けたものという。
 李東はこれを記念して文化八年草稿のまま模刻し板行した。
 さらに鈴木芦竹氏は李東の追善のため、大正十三年に藤井紫影博士の序文を得てこれの復刻をしたが、復刻の見にくいのをおそれて玻璃版一枚を掲げた。」

 さらに、『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)には、「草稿と版本の中間形態を示す資料(大正十一年五月『子爵渡辺家御蔵品入札』目録所収)を紹介している。
 これによって知られるのは、『続猿蓑』がかなり本来の興行のものから手直しされているということで、しかも句の作者の名前まで変わっていて、実質的に芭蕉の作品になっているということだ。
 それまでにも『ひさご』の「木のもとに」の巻のように別の連衆によって作り直したことはあったが、句をそのままに作者名が変わるというのはなかった。
 同じ『続猿蓑』の、「いさみ立鷹引すゆる嵐かな 里圃」を発句とする歌仙も、『続深川』所収のバージョンだと発句は「いさみたつ鷹引居る霰哉 芭蕉」になっていて、内容もまったく違っている。
 これは芭蕉が『続猿蓑』に向けて、より完璧な作品を志したことと、表向きの撰者の沾圃の顔を立てるためだったと思われる。
 『続猿蓑』は元禄六年冬の、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉     沾圃

の発句に始まるもので、この句は巻頭を飾る事はなかったが、翌年芭蕉・支考・惟然の三人で歌仙を完成させている。
 「いさみ立」の初案の歌仙もこの頃と思われる。「八九間」の初案はその翌年、元禄七年の春に巻かれている。
 芭蕉としてはこの内容に不満だったのだろう。
 発句の、

 八九間空で雨降柳かな       芭蕉

の句は変わってない。ただ、脇は、

   八九間空で雨降柳かな
 春のからすの田を□たる声     沾(見)
       畠ほる声

 作者名は沾とした上でその上に「見」と書かれている。馬莧のことか。
 最初は「田を□たる声」だったのを「畠ほる声」に直したというのは分かる。ただ、なぜ沾を見に直したのかはわからない。
 この読み取れない□の部分は『続猿蓑五歌仙評釈』では「『わ』で問題なく」としている。「田をわたる声」だったことになる。カラスが鳴きながら飛んでゆく場面から、畑で餌を啄ばみながら鳴く声になる。これは柳の木の下が実際には雨が降ってないということを分かりやすくするための改作であろう。
 第三は、

   春のからすの畠ほる声
 立年の初荷に馬を拵て
 初荷とる馬子も仕着せの布小きて  見(沾)

となっている。
 「立年の初荷」は意味的に重複している。初荷は正月のものだから「立年」とことわらなくてもいい。
 前句を「畠ほる声」に治定したあと、その長閑な雰囲気に初荷の馬を付けたと思われる。
 改案では馬子の姿をより詳しくし、「仕着せの布小」を着ているとした。
 「仕着せ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「四季施,為着とも書く。江戸時代,幕府が諸役人,例えば同朋,右筆,賄調役,数寄屋坊主などへ時候に応じて衣服を与えたこと,もしくは与えた衣服をいう。一部が代金で与えられる場合もあった。また商家や農家でも奉公人に仕着が与えられた。江戸時代の商家では,丁稚(でつち),小僧は12,13歳で雇い入れられたが,その後約10年間,元服して手代となるまでは給金は与えられず,仕着と食事および若干のこづかいが与えられるだけであった。」

とある。今日で言えば会社から支給される制服のようなものだろう。無理矢理着させられているという意味の「お仕着せ」もここから来たと思われる。
 「布小」は「布子」でコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「木綿の綿入れ。古くは麻布の袷(あわせ)や綿入れをいった。《季 冬》」

とある。防寒服だ。
 おそらく「初荷とる馬子も仕着せの布小きて」の方が実際にはありがちだったのだろう。ただ、あまりリアルすぎても花がないので、やや理想を込めて、最終的には「初荷とる馬子もこのみの羽織きて」に直して治定したのだろう。
 正月くらい好きな着物を着てみたいし、それを許すような粋な親方がいてほしい、という願望が込められている。あえて「あるある」ではなく提案にした。
 四句目。

   初荷とる馬子も仕着せの布小きて
 庭とりちらす
 内はどさつく晩のふるまひ     里

 「仕着せの布小」なら防寒着だから、外で震えながら正月のご馳走に預ったのだろう。多分この方がリアルだったに違いない。
 ただ、ここでもこの方が粋だという提案を込めて、狭い店の中でご馳走がふるまわれると変えている。
 五句目。

   内はどさつく晩のふるまひ
 宵月の日和定る柿の色
 きのふから日和かたまる月のいろ  沾

 とりちらかった庭での宴は、天気がよくなって急遽月見の宴が催されたからだとする。庭なので柿の色を添える。
 ただ「内はどさつく」だと柿の実も外の月も見えない。そこで「きのふから」とし、日和が定まったのだから外には月が照っていることだろう、とする。
 六句目。

   きのふから日和かたまる月のいろ
 薄の穂からまづ
 ぜんまひかれて肌寒うなる     蕉

 月に薄は付け合いだが、あまりにベタなので何か外のものはないかと思案して、最終的にゼンマイの紅葉の美しさを見出したと思われる。

2019年4月18日木曜日

 今日は十四夜でほぼ満月。
 「八九間」の巻も今日で挙句。

 二裏。
 三十一句目。

   伴僧はしる駕のわき
 削やうに長刀坂の冬の風      里圃

 長刀坂は京都の広沢池の北側にあり、今日も北嵯峨長刀坂町の名前で残っている。削(そ)ぐような冬の風といえば北山颪だ。
 伴僧からお寺の多い京都の風景とした。
 十六句目の「京の道づれ」は甥坊主が京へ上るときに道づれにしていた一般人のことだから遠輪廻にはならない。
 三十二句目。

   削やうに長刀坂の冬の風
 まぶたに星のこぼれかかれる    馬莧

 まさに目から星の出るような寒さだ。医学的には「眼内閃光」と言うらしい。
 「眼内閃光」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「目を閉じて眼球を圧迫したときなどに見える閃光。網膜の物理的刺激によって生じる内視現象の一。」

とある。
 三十三句目。

   まぶたに星のこぼれかかれる
 引立てむりに舞するたをやかさ   芭蕉

 これは静御前の舞い。悲しみに目を閉じれば無数の星が浮かぶ。
 それとははっきり言わないが、義経と静御前の悲しみが伝わってくる。
 三十四句目。

   引立てむりに舞するたをやかさ
 そつと火入におとす薫       沾圃

 「火入」にはいくつかの意味があるが、ここでは「タバコを吸うための炭火などを入れておく小さな器。」(コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の①」であろう。
 前句の「引立(ひきたて)て」をひっ捕らえての意味ではなく、贔屓しての意味に取り成し、お座敷の一場面とする。
 火入れに薫物(たきもの)を入れて香らすとは、なかなか粋なことをするものだ。
 三十五句目。

   そつと火入におとす薫
 花ははや残らぬ春のただくれて   馬莧

 桜の花もすっかり散ってしまい、春の日はただ長閑に暮れてゆく。薫物の香りだけが少しばかり花やいだ気分にさせてくれる。
 あるいは昔の恋人のことでも思って、その思い出に浸っているのだろうか。
 挙句。

   花ははや残らぬ春のただくれて
 瀬がしらのぼるかげろふの水    里圃

 「瀬がしら」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「緩やかな流れから、瀬になりかかって波が立ちはじめる所。⇔瀬尻。」

とある。
 この場合の陽炎は水陽炎であろう。太陽の光が波に反射してゆらゆらゆれて見えるものを「かげろふ」と呼ぶこともあった。

2019年4月17日水曜日

 暖かくなった。木の芽時で街も山も至る所、まばゆい緑であふれ出す頃だ。月のほうも弥生の満月が近い。
 弥生は張衡「南都賦」に「暮春之禊,元巳之辰。方軌齊軫,祓于陽瀕。」とあるところから「禊月」というらしい。曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』にある。二月は令月、三月は禊月。
 それでは「八九間」の巻の続き。

 二十五句目。

   槻の角のはてぬ貫穴
 濱出しの牛に俵をはこぶ也     芭蕉

 「濱出し」は年貢米を船で積み出すことで、米俵を運ぶ牛や馬で混雑したという。一句の意味は明瞭だが、前句との関係が不明。
 二十六句目。

   濱出しの牛に俵をはこぶ也
 なれぬ嫁にはかくす内證      沾圃

 「内證」はweblioの「学研全訳古語辞典」には、

 「①心の中に仏教の真理を悟ること。また、その悟った真理。
 出典徒然草 一五七
 「外相(げさう)もし背かざれば、ないしょう必ず熟す」
 [訳] 外部に現れた姿が正しい法に反しなければ、内心の悟りは必ずでき上がってくる。◇仏教語。
 ②内密。秘密。内輪(うちわ)の事情。
 出典好色一代女 浮世・西鶴
 「ないしょうの事ども、何によらず外(ほか)へ漏らさじ」
 [訳] 内輪の事情は何によらず、他人には漏らすまい。
 ③暮らし向き。家計。ふところぐあい。
 出典博多小女郎 浄瑠・近松
 「身請けするほど、ないしょうがあたたかで」
 [訳] 身請けするほど、ふところぐあいが豊かで。
 ④主婦がいる奥の間(ま)。また、主婦。

とある。②の意味だと「かくす」と「内證」が重複するので、③の意味と思われる。
 年貢をどれくらい納めているか隠しているという意味か。この二句はよくわからない。まったく違う意味があるのかもしれない。
 二十七句目。

   なれぬ嫁にはかくす内證
 月待に傍輩衆のうちそろひ     馬莧

 「月待(つきまち)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「十五夜,十九夜,二十三夜などの月齢の夜,講員が寄り合って飲食をともにし月の出を待つ行事。二十三夜待が盛んで三夜供養ともいう。集落全員の講や女性のみの講もあり,村の四つ辻に二十三夜塔が建てられた。日の出を待つ日待と並ぶ物忌(ものいみ)行事。」

とある。「傍輩」は今でいえば「同僚」のような意味で、同じ主人に使えている仲間。まあ、男達が寄り集まると大体女の話で盛り上がり、いろいろと女房には言えないことをやってたりするものだ。
 二十八句目。

   月待に傍輩衆のうちそろひ
 籬の菊の名乗さまざま       里圃

 「籬の菊」は比喩で遊女のこと。「月」が出たところで秋の季語が必要なので、この言葉を選んだか。
 二十九句目。

   籬の菊の名乗さまざま
 むれて来て栗も榎もむくの声    沾圃

 前句を本物の菊として、椋鳥が名乗りを上げるとした。
 三十句目。

   むれて来て栗も榎もむくの声
 伴僧はしる駕のわき        芭蕉

 椋鳥が群れる栗や榎を大きなお寺の境内の情景とし、偉いお坊さんが駕籠で行く隣で走っているお伴の僧という、身分の上下をコミカルに描いてみせる。
 ただ、芭蕉さん自身も旅のときには自分は馬に乗って曾良を歩かせたりしなかったか。蝶夢筆の『芭蕉翁絵詞伝』の那須野の場面はそういう風に描かれている。これが事実かどうかは知らないが、まあ世の中というのはそういうものだ。

2019年4月16日火曜日

 ノートルダムは炎上するし、阿蘇山は噴火するし、いろいろなことが起きるものだ。花の散る頃、無常を感じる。
 そういえば「花のノートルダム」は正花になるのかなあ。
 それはともかくとして、「八九間」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   見事にそろふ籾のはへ口
 春無尽まづ落札が作太夫      馬莧

 「無尽」は無尽講のこと。延宝四年の「此梅に」の巻に、

   ももとせの餓鬼も人数の月
 大無尽世尊を親に取たてて      桃青

という句があった。その時のと重複するが、「無尽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口ごとに抽籤または入札によって金品を給付するもの。→頼母子講(たのもしこう)」

とあり、「頼母子講」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に



 「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」

とある。
 作太夫(さくだいふ)はよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の注には、「律儀で百姓熱心な人の仮名」とあるが、それは前句からの想像であろう。
 「大夫」をウィキペディアで引くと、

 「やがて時代が下ると大夫は五位の通称となり、さらに転じて身分のある者への呼びかけ、または人名の一部として用いられるようになった。五位というのは貴族の位の中では最下の位であったが、地方の大名や侍、また庶民にとってはこれに叙せられるのは名誉なことであった。そこでたとえ朝廷より叙せられなくとも一種の名誉的な称号として、大夫(太夫)を称するようになったのである。以下その例をあげる。ただし「太夫」と表記し「たゆう」と読む例が多い。
 神道
 伊勢神宮の神職である権禰宜が五位に叙せられていたことから、神職のことをいう。のちに神職でも下位の者である御師を太夫と呼ぶようになった。
 武家での通称
 江戸時代、大名の家老職に当る者を指して太夫と呼ぶことがあった。
 芸能
 神職を大夫と呼ぶことから転じて、里神楽や太神楽の長を太夫と称した(里神楽・太神楽については神楽の項参照)。
 能楽
 猿楽座(座)や流派の長(観世太夫など)を指し、古くは「シテ」の尊称として使用された時代もあったが、現在は使用されていない[1]。
 浄瑠璃
 江戸時代以降、音曲を語る者、またはその名の一部に用いる(竹本義太夫など。女性には用いない)[1]。
 歌舞伎
 江戸時代の歌舞伎の一座で座元のこと。座元の息子や跡継ぎを「若太夫」とも称した。立女形への尊称[1]。
 遊廓
 江戸時代、江戸吉原や京島原大坂新町における官許の遊女で最高位にある者への呼び名。「松の位」とも呼ばれ、その名の一部にも用いられた(夕霧太夫、吉野太夫、高尾太夫など)。遊女をなぜ太夫と呼ぶのかについては諸説あるが、江戸時代初めのころ、能を演じた遊女が能楽の太夫に倣って称した(または称された)のが起りともいわれる。宝暦4年(1754年)に廃止され、江戸・吉原では以後名称は花魁(おいらん)に変わったが、京・島原、大坂・新町では「太夫」の名称が残り、嶋原では今も数名の太夫が存在する。
 「太夫 (遊女)」も参照
 幇間
 敬称(「太夫衆」など)。
 門付
 萬歳・猿まわし(猿も含む)等の門付芸人に対する呼び方。」

と様々な大夫(太夫)が列挙されているが、百姓の太夫も存在したのかどうか定かでない。
 太夫=神職の連想で、前句を御田植祭の苗とした可能性もある。
 二十句目。

   春無尽まづ落札が作太夫
 伊勢の下向にべつたりと逢     里圃

 太夫=神職なら、伊勢は付け合いのようなものといえよう。「べつたり」は今日の「ばったり」だという。
 伊勢へ行ったらその無尽講を入札した太夫にばったりと逢ったとする。何かご馳走してもらったかな。
 二十一句目。

   伊勢の下向にべつたりと逢
 長持に小挙の仲間そはそはと    沾圃

 「小挙(こあげ)」は「小揚(こあげ)」と同じか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 船積みの荷物を陸揚げすること。また、その人。小揚取。小揚人足。
 ※咄本・私可多咄(1671)一「馬おひは、いつもこあげにゆくといふほどに、子あぐる事がじゃうずであらふ」
 ② 荷物を運搬する人夫やその荷物。また、特に駕籠かきなどの人夫をもいう。小揚軽子。小揚取。
 ※評判記・色道大鏡(1678)二「大臣附のこあげ、かけめぐりて簍(かご)を用意し」
 ③ 徳川幕府がその直領地からの年貢米や買上米を蔵へ収納する時、陸揚げをしたり、あるいは米を量り、俵配りなどをしたりすること。また、それに従事した人夫。〔物類称呼(1775)〕
 ④ 江戸時代、道中の渡し場で、きまった渡し賃以外にとった料金。
 ※民間省要(1721)中「わざと人を肩に負〈略〉過分の小揚げを目あてにするもあり」
 ⑤ 小形の油揚(あぶらあげ)。
 ※浮世草子・諸道聴耳世間猿(1766)二「小揚(こアゲ)買うも悪銭(びた)ひらなか」

とある。
 伊勢へ向う船か行列かはわからないが、長持ちは貴人の婚礼か何かを連想させる。それで小挙もそわそわしているのだろう。
 あるいは古代の伊勢斎宮の赴任をイメージしたか。
 二十二句目。

   長持に小挙の仲間そはそはと
 くはらりと空の晴る青雲      芭蕉

 青雲というとお線香を連想してしまうが、ここでは「あをぐも」と読む。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「青みを帯びた灰色の雲」とある。明方や夕方に見られる。
 前句を船着場の光景とし、空が晴れたので荷積みを開始する。快晴ではなく、嵐の雲が去って、薄暗い空に雲が青く輝いている情景をいう。
 二十三句目。

   くはらりと空の晴る青雲
 禅寺に一日あそぶ砂の上      里圃

 禅寺に遊ぶといえばまずは座禅、そしてお坊さんの法話を聞いたりし、あとは精進料理を食べたりすることか。そうやって心の雲もからりと晴れ、青雲の志を新たにする。
 二十四句目。

   禅寺に一日あそぶ砂の上
 槻の角のはてぬ貫穴        馬莧

 槻(けやき)の角材は硬くてなかなか穴があけられない。この句自体が禅問答といった感じだ。
 寓意としては頭が固ければ悟りも得がたいという所か。

2019年4月15日月曜日

 「八九間」の巻の続き。
 十一句目。

   煤をしまへばはや餅の段
 約束の小鳥一さげ売にきて     馬莧

 焼き鳥は今では鶏肉だが、かつては野鳥も焼いて食べていた。雀の焼き鳥はかなり最近まで残っていたし、今でも食べられる所はあるのかもしれない。筆者もまた十五年くらい前に会社の宴会で誰かが買ってきたのを食べたことがある。ツグミもかなり最近まで食べられていたと思う。
 江戸時代だと、その他にも鶉、雉、雲雀、鴫、山鳥、など、様々な鳥が食用にされ、塩鳥にして保存されたりしていた。料理も焼き鳥、煎り鳥、膾、汁など様々に利用されていた。
 正月には将軍家では鶴の御吸物がふるまわれていたが、もっと格下の所では小鳥が用いられていたようだ。
 十二句目。

   約束の小鳥一さげ売にきて
 十里ばかりの余所へ出かかり    里圃

 「て」留めの際は前付けになることがある。この場合も「十里ばかりの余所へ出かかり、約束の小鳥一さげ売にきて」の倒置となる。
 十里は通常の一日の旅の行程で、十里ばかりの余所へということは、その日はもう帰らないということだ。
 小鳥を注文してたのを忘れて、つい泊りがけの外出をしようとしていた。ありそうなことだ。
 十三句目。

   十里ばかりの余所へ出かかり
 笹の葉に小路埋ておもしろき    沾圃

 十里の道を田舎の山越えの道とした。笹は熊笹か箱根笹か。
 十四句目。

   笹の葉に小路埋ておもしろき
 あたまうつなと門の書つき     芭蕉

 前句の笹に埋もれた道を草庵の入口とした。
 「あたまうつな」、つまり今でいう「頭上注意」、小さな門だと必ず書いてありそうだ。
 十五句目。

   あたまうつなと門の書つき
 いづくへか後は沙汰なき甥坊主   里圃

 前句の「あたまうつな」を「ぶたないで」の意味に取り成し、そう書き付けて結局逃げた甥坊主を登場させた。
 十六句目。

   いづくへか後は沙汰なき甥坊主
 やつと聞出す京の道づれ      馬莧

 甥坊主のを探してあちこち聞き込みを行ったところ、やっと道づれと一緒に京へ登ったことが判明した。
 十七句目。

   やつと聞出す京の道づれ
 有明におくるる花のたてあひて   芭蕉

 初裏に月が出たないと思ったが、結局芭蕉さんが月と花を両方詠むことになる。
 「たてあひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「たて‐あ・う ‥あふ【立合】
 〘自ハ四〙 はりあう。たてつく。抵抗する。
 ※平家(13C前)六「おもひもまうけずあはてふためきけるを、たて

あふものをば射伏せ、きり伏せ」

とある。有明の月の西に傾き、ようやくあたりも明るくなり姿を現した桜の花が、あたかも月と張り合っているかのようだ。
 前句を宿場を発つときの場面として、花月の景を付ける。
 十八句目。

   有明におくるる花のたてあひて
 見事にそろふ籾のはへ口      沾圃

 桜の季節は苗代作りの頃でもある。

2019年4月14日日曜日

 今日は不忍池、旧岩崎邸庭園、湯島天神、神田明神、湯島聖堂のあたりを散歩した。このあたりは狭い範囲に名所が固まっている。
 ソメイヨシノは半分以上散って葉桜になり、入れ替わるように八重桜が咲いていた。不忍池のほとりの大きな柳はあながち八九間も誇張ではないかと思わせる。
 旧岩崎邸は補修工事で半分以上が足場に覆われてた。そうでないところは綺麗になっていた。
 それでは「八九間」の巻も続き。
 五句目。

   内はどさつく晩のふるまひ
 きのふから日和かたまる月の色   沾圃

 どさつく理由を、急に天気が回復して、見送られてたお月見の宴を急遽やることになったからだとした。
 六句目。

   きのふから日和かたまる月の色
 狗脊かれて肌寒うなる       芭蕉

 「狗脊」は「ぜんまい」と読む。春の山菜で蕨と並び称される。「狗脊」を「くせき」と読むと漢方薬の原料となる別の植物になる。
 ぜんまいは秋に紅葉する。紅葉というと楓や蔦のイメージがあるが、ぜんまいの紅葉も知る人ぞ知るといったところか。特に湿地に群生するヤマドリゼンマイの紅葉は美しい。
 初裏に入る。
 七句目。

   狗脊かれて肌寒うなる
 渋柿もことしは風に吹れたり    里圃

 柿が落ちるというと落柿舎を連想する。
 以前落柿舎のことを書いたときに、「不受精、強樹勢、ヘタムシ、カメムシ、落葉病など、柿の落下にはいろいろ原因がある」と書き、落柿舎の場合はカメムシが怪しいとしたが、当時の人は嵐山の風で落ちたとしてきた。
 寒さでゼンマイの枯れるのも早く、嵐が来て柿も落ちてしまったと響きで付ける。
 八句目。

   渋柿もことしは風に吹れたり
 孫が跡とる祖父の借銭       馬莧

 今なら相続放棄という手もあるが、昔はそうも行かなかったのだろう。祖父の残した借金は孫が返さなくてはならない。
 渋柿は干せば干し柿になり、現金収入になっていたのだろう。それが風で落ちてしまうと、また返済が滞ってしまう。
 九句目。

   孫が跡とる祖父の借銭
 脇指に替てほしがる旅刀      芭蕉

 「旅刀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、庶民が旅行中に護身用として帯用した刀。普通の刀よりやや短く、柄と鞘とに袋をかけたものが多い。旅差(たびざし)。道中差。
 ※俳諧・犬子集(1633)一「ぬらすなよ春雨ざやの旅刀」

とある。
 「脇指」は「脇差(わきざし)」で庶民も帯刀することが許されていた。
 「替てほしがる」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、「仕立替えするの意」とある。装飾性のない実用本位の旅刀よりは綺麗な脇差にしつらえた方が、仕立替え費用を差し引いても高く売れたか。
 今でいえば部屋を改装したほうが高く売れるというようなことか。
 十句目。

   脇指に替てほしがる旅刀
 煤をしまへばはや餅の段      沾圃

 刀を高く売りたいのを借金のためではなく年末の決済のためとした。それを煤払いが終わって次は餅搗きと年末の情景だけで匂わす。

2019年4月13日土曜日

 人間も他の生き物もすべて、長い進化の過程で偶発的に次々と新しいものが付け加えられ、いわば増築を繰り返した建物のようなものだ。人類もその意味では「残念な生き物」の一つなのかもしれない。
 だから、言ってることややってることが矛盾するのは普通のことだ。それが人間らしさでもある。
 思想というのはそれを強引に一つの考え方、一つの行動に押し込め、強要するもので、だから思想を嫌うというのも人間の自然な感情だ。何ら恥ずべきことではない。
 そうした理屈にならない声を高らかに歌い上げ、人間らしさを解放する。それがすべての芸能、すべての風流の役割でもある。
 許六はもとより、芭蕉も去来も支考も土芳も越人も、別にそんな首尾一貫した思想あったわけではなく、だからこそ彼らは風流の徒だったわけだ。そういうわけで『俳諧問答』の理論の不十分さも、それが俳諧だという所でいいのではないかと思う。
 大事なのは過去の理論に忠実であることではなく、そこから各自それぞれ何かを汲み取り、自分自身の中で深めてゆくことだ。職人技の継承というのはそういうものだ。教わるのではない、盗み取るものだ。『俳諧問答』もそのように読まれるべきであろう。
 さて、今月もこの辺で『俳諧問答』の方は一休みして、また俳諧を読んで行こうと思う。
 今回は、柳も花が咲き美しい緑の糸を垂れるこの季節なので、『続猿蓑』に収録された「八九間」の巻を選んでみた。元禄七年春、江戸での興行。
 参考文献は『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)、『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)。
 この歌仙には、もう一つのバージョンがある。真蹟添削草稿でこれは後で見てゆくことにする。
 まず発句だが、

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

 これは以前にも書いたように柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではなく、木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でない主観的なものを治定するので「かな」で結ぶことになる。
 一間は約1.82メートル。八間は十四メートル半になる。
 「八九間」という言葉は陶淵明の「帰田園居」三首の其一に、

 方宅十餘畝 草屋八九間
 楡柳蔭後簷 桃李羅堂前

とある所から来ているという説もある。ただ、中国には「間」という単位はない。この場合は部屋数を言う。「十餘畝」は岩波文庫の『中国名詩選』(松枝茂夫編、一九八四)の注に「およそ五アール強」とある。
 まあ、有名な詩だから芭蕉も当然知っていたとは思うが、語呂がいいから拝借した程度で意味上のつながりはない。そこが「軽み」というものだ。
 脇は沾圃が付ける。

   八九間空で雨降る柳かな
 春のからすの畠ほる声       沾圃

 実際には雨が降ってないので、カラスが畠を掘る長閑な田舎の景で応じる。
 沾圃はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。
 寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。」

とある。露沾と立圃を合わせたような名前だ。

 猿蓑にもれたる霜の松露哉     沾圃

の句を詠み、これをもとに『続猿蓑』が編纂され、沾圃はその撰者に抜擢された。たださすがに選者は荷が重く、実質的には芭蕉が存命中は芭蕉の、没後は支考の協力のもとに行われたようだ。
 第三。

   春のからすの畠ほる声
 初荷とる馬子もこのみの羽織きて  馬莧

 「羽織」は礼装だが、ウィキペディアには、

 「ちょっとした外出着や社交着として(紋付でない羽織)、着物の上にはおったり、着物とお揃いの羽織(いわゆる「お対」)を着用したりする。」

とあり、紋付でない羽織はそれほど格式があったわけではないようだ。馬子でも着ることがあったか。
 ただ、「馬子にも衣装」とはいうものの、何か板につかない感じで、そのおかしさを狙ったか。田舎のカラスもカーと鳴く。
 馬莧は『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)の注に、「鷺流の狂言師、名貞綱、権之丞と称す」とある。
 四句目。

   初荷とる馬子もこのみの羽織きて
 内はどさつく晩のふるまひ     里圃

 前句の馬子の羽織を晩に行われる宴会のためとした。馬子のことだから狭い会場に詰め込まれてあまり優雅とは言えない。
 『校本芭蕉全集 第五巻』の注には里圃も「能楽関係の人」とある。

2019年4月11日木曜日

 さて、そろそろ『俳諧問答』に戻そう。

 「一、加賀北枝集に云ク、序ニ翁三年忌に木曽塚へ上りて、追善の句書入たり。
 笠提て塚を廻るや村しぐれ
と云句也。此一句にて、大方奥まで決定せり。
 句にかくれたる事なし。湖南の衆もとりたるか、集の序文ニハ書入たり。
 中の七字のやの切字、うたがひ也。遥々加州より師の追善ニ上りて、何のうたがひあるいや。
 惣別自句・他句といふ事をしらぬ程の作者也。此句ハ北枝が句ニハあらず。『塚をめぐるや』といへば他句也。自句ニハ非ズ。加賀の友などの句にて、北枝の事をおもひやりたる句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.130~131)

 句は「村しぐれに笠提て塚を廻るや」の倒置。折からの時雨も止み笠を手に持って芭蕉を祀った木曽塚を訪れたのだろう。
 他人から見れば「訪れたのだろう」でいいが、本人が行ったのなら「尋ねた」というところで、「廻るや」と疑ってしまうと他人の推測になってしまう。
 後に去来は『去来抄』でこう反論している。

 「笠提て墓をめぐるや初しぐれ    北枝
 先師の墓に詣ての句也。許六曰、是ハ脇よりいふ句なり。自ラ何の疑有てやとハいはん。去来曰、やハ治定嘆息のや也。常に人を訪にハ、笠を提さげて門戸に社入レ。是ハおもひのほかに墓をめぐる事哉やといへる也。凡ほ句ハ一句を以て聞べし。笠提て門に這入やといはば疑なき外人の句也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.31)

 ここでは「塚」が「墓」になっている。内容的には大きな違いはない。
 去来はこの句の「や」を「治定嘆息のや」と言っている。
 ただ、後世でいう「詠嘆」と違うのは、「治定」というところに、不確定な所を決定するという含みを持っている。つまり「かな」と同じような用法になる。
 前回「疑いのや」に二種類あって、主観的で空想的な内容を「かのようだ」というニュアンスで受ける「や」と、もう一つ古池の句のような「だろうか」というちょっとぼやかした治定で用いる「や」があった。去来は後者を「治定嘆息のや」と言ったのかもしれない。
 「治定嘆息のや」であれば、「かな」との交替も可能だ。
 たとえば、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

は、

 木のもとや汁も膾も散る桜

としてもそれほど意味は変わらない。

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

も、

 古池に蛙飛び込む水音哉

ともできなくはない。
 去来も「是ハおもひのほかに墓をめぐる事哉や」と「哉」に「や」を加えている。
 ただ、北枝が芭蕉の追悼に木曽塚を訪れたのなら「おもひのほか」ではなかったはずだ。
 むしろここは「折から初しぐれ日に塚を廻ることができるとは」と取った方がいいかもしれない。
 「初しぐれ」といえば、「猿に小蓑を」の句がすぐに思い起こされる。その初しぐれの日に塚を廻ることのできためぐり合わせに、単に事実として「塚をめぐれり」ではない感動があったとしたら、「や」で治定する理由もあったといえよう。

 「やと切字を入るれバ、発句に成と斗おもふ程の作者、撰者する事あハれ也。とりて追善ニしたる湖南の作者達、同じめくらのあつまり也。
 其追善に手向る人ハ、俳諧名人の師匠也。北枝ごときの者ニ手向侍らバ、霊魂の□□事もあるべし。師ハ此追善、とり申さるる事にハあるまじ。又自句をやるとて、丈草の庵と云句もききあき侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.131)

 まあ、今ならネットで「桟や」の句を持ち出されてブーメランになりそうだ。
 丈草の「庵と云句」は、『初蝉』の、

 死ンだとも留守ともしれず庵の花  丈草

の句だろうか。同じ『初蝉』に、

   芭蕉翁塚にまうでて
 陽炎や塚より外に住ばかり     丈草

の句もある。
 死んだとも留守とも知れずひっそりと庵に暮らす自分、まだ塚には入っていないが陽炎のような自分、これがまあ丈草らしい自句だが。

2019年4月10日水曜日

 ここまで貞門時代の芭蕉(宗房)の句と貞門の捨女の「や」の使い方を見てきた。
 捨女の方は明らかに主観的な比喩や空想を「や」で表わすものが多かったが、芭蕉の場合はそれほどはっきりしない漠然とした疑いの「や」を使っていた。
 芭蕉の代表的な句でも、

 夏草や兵どもが夢の跡     芭蕉
 閑かさや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉

のような句は、「夢の跡」が実在しない主観的内容だし、「しみ入る」も実際に染みているのではなく染入るかのようだという主観的な表現なので、「疑いのや」は必然的といえよう。
 これに対し、

 古池や蛙飛びこむ水の音    芭蕉

の場合は主観的な内容がないので、単に水の音がしただろうか、というぼかした言い方として「や」を用いているにすぎない。
 確かに田んぼの畦道を歩いているとじゃぼじゃぼと蛙の飛び込む音が聞こえたりするが、音ははっきりと聞こえても蛙の姿はちらと見た程度の場合が多い。
 また、この句の場合は決して「古池」に出あった感動を詠んでいるのではないから、「や」は古池に対する詠嘆ではない。あくまで「古池に蛙飛び込む水の音のするや」であり、「蛙飛びこむ水の音」を「や」で受けている。 
 切れ字の「や」は疑いとはいっても疑問文の末尾のような「?」の意味で使われることはまずない。「だろうか」というちょっとぼやかした治定と言った方がいい。
 この両方の用法を「疑いのや」と呼ぶとして、気になるのは許六自身がこの「疑いのや」を正しく使っていたかどうかだ。それを今日は岩波文庫の『蕉門名家句選(下)』(堀切実編注、一九八九)で辿ってみようと思う。

   しがらき
 しがらきや僧とつれだつごまめ売  許六

 句に特に主観的な内容はない。「しがらきや」とあるが、信楽に来たということに感動した句ではないので、詠嘆の「や」とは言えないだろう。 殺生を忌むお坊さんと殺生を生業とするごまめ売りが一緒に旅をしている光景は、別に信楽でなくても田舎の細道ではいかにもありそうなことだ。その意味では「信楽あたりだろうか」程度の意味で軽く疑っているといっていいだろう。

 人先に医師の袷や衣更       許六

 これは例の「底をぬいた」句だが、これは「人先に医師の袷は衣更だろうか」という、本当の衣替えではないという意味では「や」と疑うのはもっともだ。
 本当の衣更ではないが衣更の句だという所で底を抜いている。医師は世俗のことに無頓着で、暑くなったら卯月を待たずに勝手に袷を着たりしていたのだろう。

 鶯や軒につみたる灰俵       許六

 「灰俵」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 灰を詰めた俵。
 ※玉塵抄(1563)六「その日大雨大風して灰俵(タワラ)七俵入たことあるぞ」

とある。例文は土嚢のように水害を防ぐのに用いたか。堀切実の注には「灰は肥料に用いる」とある。
 冬の間の暖房で出た灰を春の農作業の開始に向けて俵に詰めて軒下に積んであったのであろう。
 ただ、この場合は鶯ががメインなので、この「や」は詠嘆ではないかと思う。

 寒菊の隣もありや生大根      許六

 「生大根(いけだいこん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 畑から引き抜いたままの大根を地中に深くうずめて、翌年の春まで貯蔵し、食用とするもの。いけだいこ。《季・冬》
 ※俳諧・笈日記(1695)中「寒菊の隣もありやいけ大根〈許六〉」

とある。
 この場合は「隣」が主観的な表現なので「や」は「疑いのや」になる。

 出替や哀すすむる奉加帳      許六

 「出替(でがわり)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「奉公人が契約期間を終えて入れ替わること。多年季・一年季・半年季などがあり、地域ごとに期日を定めた例が多い。」

とある。
 「奉加帳」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「寺社の造営,修理などのために財物を寄進するに際し,寄進する財物の目録や寄進者の住所,氏名を記入する帳面。寄進帳,勧進帳ともいう。転じて一般の寄付の場合の帳面をもいう。」

とある。
 出替りで村に帰ると待っているのは寄付の催促だったりする。せっかく稼いできたのにと、哀れさを誘う。許六はこういう句を作るのは上手い。
 「哀すすむる」が主観的なので「疑いのや」となる。

 新藁の屋ねの雫や初しぐれ     許六

 初しぐれの頃は新藁の頃でもある。「屋根の雫に初しぐれや」の倒置で、葺いたばかりの屋根にさっそく初しぐれか」という句になる。

 御命講や顱のあをき新比丘尼    許六

 「御命講」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「一〇月一三日、日蓮忌に行なわれる法会(ほうえ)。弘法大師の御影供(みえいく)とまちがえられるのをさけていう「大御影供(おみえいく)」の変化したものといわれる。おめこう。おめこ。御影供(おめいく)。御会式(おえしき)。《季・秋(もとは冬)》」

とある。
 「顱」は「あたま」と読む。別に法会でなくても出家したばかりの僧は剃り跡が青い。この場合は「御命講」がメインなので詠嘆の「や」と言ってもいい。

 明方や城をとりまく鴨の声     許六

 「城を取り巻く」という所に城が包囲されて四面楚歌の連想を誘おうという意図か。そのあたりに空想が入るため、これは「疑いのや」で間違いない。
 こうやって見て行くと、許六さん自身が大分当時の詠嘆の「や」のような使い方をしているし、あまり徹底しているとは思えない。
 順番を飛ばすが、

   木曾路
 桟やあぶなげもなし蝉の声     許六

 この句は「や」と疑っておいて「なし」と言い切っている。切れ字を二つ使っている。

 桟のあぶなげもなし蝉の声
 桟やあぶなげもなき蝉の声

のどちらかではないかと思う。許六さん自身の説明が聞きたい。

2019年4月9日火曜日

 気温のあまり上がらぬ日が続いたので、ソメイヨシノの花も思いのほか長持ちしている。明日も寒くなるらしい。
 おとといの佐原柳を思い出して、

 柳哉面々さばきの民主主義

 あの日は選挙の投票日でもあった。誰か一人が捌くのではなく、みんながそれぞれ捌くことのできる世の中は貴重だ。いつまでも独裁国家に飲み込まれることなく続いて欲しい。
 鈴呂屋は平和に賛成します。それでは俳話の方に。

 切れ字の「や」の古い用法は「疑いのや」とはいっても主観的な内容を「‥‥だろうか」と結ぶようなニュアンスで、はっきりとこれは謎だと言っているわけではない。
 たとえば目の前で花が散っていれば「花ぞ散りける」だが、今日の雨で花は散っちゃったかなという時は「花や散りける今日の雨」になる。
 「疑いのや」と「詠嘆のや」の違いは、「花は散っちゃったかな」というのと「花は散っちゃったなあ」くらいの違いしかない。
 昨日は『芭蕉俳句集』を見てみたが、今日は『捨女句集』(捨女を読む会編、二〇一六、和泉書院)を最初から見て「や」のある句を拾ってみようと思う。

   元日
 万歳のかめにささばや花の春    捨女

 万年生きるといわれる亀に花を生ける甕とを掛けた句で、そこに「花」を生けてみたいなという句。
 「花の春」は正月のことだが、花で切って「花を万歳のかめにささばやの春」とも読める。
 「ささば」は未然形でまだ挿してない。挿してみたらどうだろうかということで「や」が用いられる。

 家々の千とせやあまたかどの松   捨女

 「千とせ」が眼前の事実ではなく「千とせだったらいいな」という気持ちを表わすだけなので、「千とせ」は疑いの「や」になる。
 「かどの松は家々のあまたの千歳や」の倒置。

 とらのとしくるさお姫やおと御ぜん 捨女

 「おと御ぜん」は「乙御前(おとごぜ)」ともいう。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

「おとごぜ【乙御前】
 ①  すえ娘。妹娘。 「主ぬしぞ恋しかりける、-ぞ恋しかりける/狂言・枕物狂」
 ②  顔の醜い女の称。おたふく。おかめ。 「 -をみ付て、きもをつぶして/狂言・賽の目」
 ③  狂言の女面の一種。顔の醜い若い女の面。「釣針」「仏師」「六地蔵」などに用いられる。おかめ。おたふく。おと。」

とある。
 「とらのとしにくるさお姫はおと御ぜんや」の倒置。なぜ「とらのとし」だと「おと御ぜん」になるのかというと、おそらく寛文二年に没した狂言師、大蔵虎明(おおくらとらあきら)からの連想だろう。
 実際には佐保姫がおかめになったりするとは思えないので、あくまで空想ということで「疑いのや」になる。

 東よりこえくる春や二所の関    捨女

 初日は東の方からやってくる。ここでは東は東(あづま)の国の連想で、東(あづま)から春が来るのなら、きっと二所の関(白河の関)を越えてくるのだろうとこれも空想なので「疑いのや」になる。
 「東より二所の関をこえくる春や」の倒置。
 中世以降の白河の関には住吉明神と玉津島明神の二つの神社があり、二所の関と呼ばれていた。
 古代の白河の関については諸説あるが、芭蕉と曾良が訪れた旗宿が有力とされている。

 こぞのしわことしのびてや若ゑびす 捨女

 若恵比寿は紙に刷った恵比寿像で、紙だから古くなればしわもよってくる。ただ、毎年新しい若恵比寿を買うので、新品のうちはしわがない。
 それを「こぞのしわことしのびてや」と推測する。これも空想なので「疑いのや」になる。

 もろこしも和国となるや春のかぜ  捨女

 これも中国が日本になるわけではないので「疑いのや」になる。句の意味は春風に唐土も和(なごやか)な国になるのだろうかで、信長や秀吉のようなことを言うのではない。

 かざりおくたなや釣どのわかゑびす 捨女

 若恵比寿は歳徳棚 (としとくだな) に供える。鯛を釣った恵比寿様の姿をみればその歳徳棚 も釣殿のようだと空想する。ゆえにここも「疑いのや」。

 雑煮にや千代のかずかく花かつを  捨女

 「花かつをは雑煮にも千代のかずかくや」の倒置。これもたくさんの花鰹が揺れているのを見ると千代の数を数えているようだという空想なので「疑いのや」になる。
 「花かつを」は貞徳の『俳諧御傘』に「正花を持也。春にあらず、生類にあらず、うへものに嫌べからず」とある。

 若菜つむも夜明けやうばふ紫野   捨女

 「夜明けやうばふ」は「夜明けをうばふや」の倒置。若菜を積んでいたらいつの間にか夜が明けていたのを「夜明けを奪う」と表現したもの。本当に奪うわけではないので「疑いのや」になる。
 捨女の句は宗房(芭蕉)の句に比べて、明らかな空想の句が多く「や」の用法がわかりやすい。
 許六も最初は季吟に俳諧を学んだので、切れ字の「や」はこういう風に使うというのが身に染み付いていたのだろう。だから去来の周辺で「や」を詠嘆に用いた時、違和感を感じたのは確かなのだろう。

2019年4月8日月曜日

 昨日は香取神宮と水郷佐原を見た。佐原の小野川沿いの古い町並みに柳がちょうど見頃だった。この時期の柳はよく見るとちゃんと緑の花が咲いている。

 さて、この辺で実際に「や」という切れ字がどのように使われていたか、一句一句検証してみようと思う。
 こうした場合、自説に都合の良い句だけを抜書きするのは簡単なので、できる限り句を選ばずに紹介したい。その一つの方法として、まず岩波文庫の『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇)の最初の句から、「や」という切れ字の入った句を拾ってゆくことにする。

   廿九日立春ナレバ
 春やこし年や行けん小晦日  宗房(千宜理記)

 この句は「春は来しや、年は行きけんや、小晦日」の倒置になる。
 この「や」を詠嘆として読んだ場合、「春やこし」は「春が来た」という意味で問題ないが、「年や行けん」の「けん」が推量の「けむ」の撥(は)ねた形なので、推量に詠嘆はおかしい。ゆえに「春やこし」も「春が来たのだろうか」と疑いの「や」にしておいた方がいい。
 この句は年内立春がテーマなので、『古今集』の、

   ふるとしに春たちける日よめる
 年のうちに春は来にけりひととせを
     去年とやいはむ今年とやいはむ
                  在原元方

の歌が本歌になっていると考えた方がいい。
 この歌の「去年とやいはむ今年とやいはむ」の言い回しは、中世以降だと「去年とやいはん今年とやいはん」と撥ねるようになる。
 この歌の「や」が「疑いのや」なのは間違いない。
 それならば宗房(芭蕉)の句はというと、やはり年内立春なので、二十四節季では春は来て年は行ったのだが、十二ヶ月で見ればまだ春は来てないし年は行ってない。その微妙な時期を「や」という疑いで表わしたと見た方がいいだろう。
 春は来たのだろうか、年は行ったのだろうか、というはっきりしない言い回しで何かと思わせて、「小晦日」と結ぶことで、なるほど年内立春だということになる。

 姥桜さくや老後の思ひ出  宗房(佐夜中山集)

 「姥桜」は花だけが最初に咲いて後から葉が出て来る桜のことで、ソメイヨシノを初めとして江戸彼岸、枝垂桜、寒緋桜、河津桜、おかめ桜、春めき桜など、今の桜の主流は姥桜だが、かつては花と葉が一緒に出るヤマザクラが主流だったので、それに対して「姥桜」という言い方があった。
 「思ひ出(いで)」は過去の「思い出」に限るものではなく、むしろ何かを思わせてくれるもの、思い出させてくれるもの、思い起こさせてくれるものを広く表わしていた。
 この句は姥桜が咲くと老後のことがふと気がかりになるというような意味で、「老後の思ひ出」が客観的事実ではなく主観的な内容なので、姥桜が老後を思い起こさせるために咲いているかのようだ、というニュアンスで疑いの「や」が用いられている。
 「姥桜は老後の思ひ出に咲くや」の倒置と考えればいい。

 年は人にとらせていつも若夷  宗房(千宜理記)
 年や人にとらせていつも若ゑびす 同(詞林金玉集)

 「は」と「や」の交替の一例。
 若夷はいつも若々しいが、それは人に年を取らせているからではないか、とこれも主観的な推測であるため、この場合の「や」も疑いの「や」になる。

 時雨をやもどかしがりて松の雪 宗房(続山井)
 時雨をばもどきて雪や松の色   同(詞林金玉集)

 「もどかし」はじれったいという意味。時雨じゃ物足りないのか松に雪が積もっているといういみだから、この場合の「や」も疑いの「や」といえる。
 「時雨をばもどかしがりて松の雪や」の倒置で、「続山井」の方は、「ば」のところに「や」を持ってくる。
 「詞林金玉集」の方は、「雪や」を前に持ってくる。「もどかしがりて雪や松」では字数が合わないので「もどかし」の元の動詞形「もどく」に戻し、最後が松だけでは収まりが悪いので「松の色」とする。

 花の顔に晴うてしてや朧月   宗房(続山井)

 「晴(はれ)うて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 晴れの場所に出て気おくれすること。その場の空気にのまれてあがってしまうこと。場うて。
 ※俳諧・毛吹草(1638)六「月に星猶晴(ハレ)うての今夜かな〈重頼〉」

とある。」

 花が余りにも見事に咲き誇っているので、月は気後れしてしまったか、朧月になる、という句で、これも「晴れうてして」は推測なので疑いの「や」で受ける。

 あち東風や面々さばき柳髪   宗房(続山井)

 「面々さばき」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「各自が思うままにさばくこと。めいめいさばき。
 「構ふな、こちも構はぬ構はぬ、―」〈浄・浦島年代記」

とある。意のままに、自由にふるまうという意味。制約のない自由のことを江戸時代の人はしばしば「かまわぬ」という言葉で表現した。
 「柳髪はあちこちで面々さばきや」の倒置。「面々さばき」が喩えなので、やはり「や」は疑いの「や」となる。
 柳の髪(枝)は春風のことを東風(こち)というように、あちこちで東風に吹かれて、思いのままに自由にふるまう。
 一見単なる駄洒落のように見えて、実はフリーダムの理想を説く隠れた名句かもしれない。

 花に明ぬなげきや我が歌袋    宗房(続山井)
 花にあかぬ嘆やこちのうたぶくろ 宗房(如意真宝)

 『続山の井』では「我が」だったのを、更に一ひねりして東風(こち)と掛けた「こち」という一人称に変えたのが『如意真宝』のバージョンだ。
 「我が歌袋が開かぬのは花に飽かぬ嘆きなのか」と疑う意味で「嘆きや」となる。

   初瀬にて人々花みけるに
 うかれける人や初瀬の山桜    宗房(続山井)

 芭蕉の時代はまだ飛鳥山のような官製の公園がなく、寺社で花見をしていた。寺社を詣でるというのが口実になっていたのかもしれない。だが、やることはやはり酒を飲んでのどんちゃん騒ぎだ。しばしば禁制も出たというが、そんなのお構いなし、まさに「かまわぬ」だ。
 奈良の初瀬の長谷寺もそんな場所だったか。人々はそこで花に浮かれていた。
 句はもちろん、

 憂かりける人を初瀬の山おろしよ
     はげしかれとは祈らぬものを
                 源俊頼朝臣

の換骨奪胎の句。
 「うかりける人を初瀬の山桜や」の倒置。山颪ならぬ山桜や、というところで、これも疑いの「や」。関西弁だと「やがな」に近いか。

 糸桜こやかへるさの足もつれ   宗房(続山井)

 「糸桜、こはかへるさの足もつれや」の倒置。帰ろうとすると足をもつれさせて引きとめているのかと、やはり疑いの「や」になる。

 風吹ば尾ぼそうなるや犬桜    宗房(続山井)
 吹風は尾細くなるや犬さくら    同(一葉集)

 犬桜はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「バラ科の落葉高木。山野に自生。樹皮は暗灰色でつやがあり、春、白い小花を密につけるが、見劣りするのでこの名がある。実は黄赤色から黒紫色に変わる。《季 春》」

とある。
 犬桜は犬の尻尾のようにふさふさとした花房を付けるが、風で散れば細いただの枝のようになる。それを犬桜だけに尾が細くなったのかとする。こうやって現代語で説明する時に「か」という言葉を使いたくなる時は、大体疑いの「や」になる。
 まあ、大体これくらい列挙すれば、「や」という切れ字の古い時代の用法やニュアンスがわかるのではないかと思う。

2019年4月6日土曜日

 『俳諧問答』の続き。てにはの論は退屈かもしれないが、言葉の時代による変化を知らずに今の文法で昔のものを読んだのでは、本来の意味を読み誤ることになる。
 大事なのは許六の言が今日に通用するかどうかではなく、それより前の時代に通用していたかどうかだ。

 「一、同じ集に、
 かたはらもいたむ簀の戸や冬の月   風国
 簀の戸、ききなれず。簀戸とハいふ也。詞たらぬゆへに、てにはを入て連続させたると見えたり。是こまり也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.128)

 「簀戸(すど)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど)。
  2 ヨシの茎で編んだすだれを障子の枠にはめこんだ戸。葭戸(よしど)。《季 夏》
  3 土蔵の網戸。
  4 「簀戸門(すどもん)」の略。」

とある。ちなみに「簀の戸」という項目はない。許六の言うとおり、字数合せで「の」の字を入れたものと思われる。
 蕪村も牡丹を「ぼうたん」と読ませて字数を調整したが、近代俳句ではそれに習って多用されたため、俳句の世界では「ぼうたん」は有りになっている。
 「簀の戸」も結局真似て使う人が多くなれば、それはそれで有りということになっていたのだろう。
 人が歩けばそこに道ができるように、みんなが使えばそこに言葉ができる。

 「一、同じ集に、
 命二ツ中に活たる桜哉      翁
 是、『命二ツの』と文字あまり也。
 予芭蕉庵にて借用の草枕ニ、慥にのの字を入たり。のの字入て見れば、夜の明るがごとし。しらざる時ハ是非なし。しかし風国が文章に、のざらしの集などいへる事あれバ、見ざるともいひがたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.128~129)

 この句は『野ざらし紀行』の水口で詠んだ句で、

 命二つの中に生たる桜哉     芭蕉

の形で今日では知られている。
 許六も「の」が入ることを芭蕉庵で確認している。
 風国はこの翌年の元禄十一年に『泊船集』を編纂し、そこに「芭蕉翁道乃紀」というタイトルで、今で言う『野ざらし紀行』を紹介している。芭蕉のこの文章には本来タイトルはなく、『甲子吟行』だとか『野ざらし紀行』だとかは後から付けられたタイトルだった。
 この『泊船集』の方はネットで早稲田大学図書館のものを見ることができるが、「二ツ」となっている。ツの右側の斜めの線が長く引き伸ばされているが、別に「ノ」と連綿しているわけではなさそうだ。
 あるいは風国が見た写本は「ツ」と「ノ」が連綿していてわかりにくかったのかもしれない。
 芭蕉自筆の天理本は確認してないが、岩波文庫の『芭蕉紀行文集』の中村俊定校注の天理本には「いのちふたつの」となっている。同じく芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』には「二」の文字の下に「能」に由来する変体仮名の「の」の字が書かれている。
 ネット上にある濱森太郎「孤屋本『野ざらし紀行』再論(下)」には、

 「許六は恐らく、芭蕉の指導を受けた江戸在勤中(元禄五・六年)、『紀行』を借覧する機会を得ていたものと思われる。その時、画才の豊かな許六が借覧するにふさわしい本分は『濁子清書画巻』(または同系の一本)ではあるまいか。」

とある。
 許六はこの『俳諧問答』の後、『泊船集』の「芭蕉翁道乃紀」を読み、自分の知っているのと違うと思ってそれを手直ししたのが孤屋本の『野ざらし紀行』(元禄十一年六月の奥書)たっだのではないかと、濱森太郎氏は推定している。
 いずれにせよ、芭蕉の真蹟が二つとも「の」が入っているのだから、「の」が入っている形が芭蕉の本来意図した形と見て間違いはないだろう。

 「一、同じ集ニ、
 爰もはや馴て幾日ぞのミしらミ    惟然
 扨々大切成ル切字を大分入て、手間を入られたれ共、弥きこえ兼侍る也。『はや』の『や』も、七ツのやの中にて、切る也。『いく日ぞ』の字、三ツ入たり。ぞの字曾てきこえず。のの字たるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.129)

 これはどうだろうか。「はや」は「早い」の「や」で切れ字とは思えない。「も+は+や」という三つの助詞の重なったものだと思ったのだろうか。
 ただ、「いくつ」だとか「いずこ」だとか「いかに」だとかいう疑問の言葉には、本来雅語では「ぞ」で結ぶことはなかったのかもしれない。芭蕉の句にも思い浮かぶものがないから、疑問を強調するために「ぞ」を添えるのは口語の用法だったのかもしれない。「誰(た)ぞ」とは言うからそれが拡張されたのか。

 「一、此外合点そがたきてにはあれ共、ながく成るゆへ、其分にさし置く。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.129)

 ここで一応の区切りになると思ったら、その後も北枝の句でまたてにはの論になる。まあ、このあたりは少し省略する。

2019年4月5日金曜日

 これまでの所をまとめると、まず古代の八代集に由来する中世和歌・連歌の共通の言葉だった「雅語」を貞門はそのまま継承し、談林の流行期は中世の謡曲の言葉が盛んに使われた。
 貞門でも寛文の頃の宗房時代の「野は雪に」の巻では、蝉吟は積極的に謡曲調の句を詠んでいた。
 天和の頃には漢文調も試みられたが、その後蕉風確立期には雅語を基調とした、去来のいう「基(もとい)」に戻ってゆく。
 ただ、この頃でも芭蕉は盛んに新しい俗語の使用を試み、やがて「軽み」の風に至った時、俳諧独自の言葉がほぼ確立されることになる。
 こうした言葉は、俳諧が全国津々浦々に広がり、下層の人々の間にも広がりを見せることで、江戸の新たな共通語を形成したと思われる。
 戦前の学説だと、中世までは日本中同一の言語を話していながら、江戸の幕藩体制によって人の移動の自由が制限され、各地の方言が形成されたとされていたが、これはありえない話だ。
 むしろ五街道が整備され、多くの商人が日本中を駆け巡り、廻船による物資の流通も盛んになり、武家も参勤交代で定期的に江戸での滞在が義務付けられたことによって、国内での人の移動は飛躍的に増え、江戸・上方の言語は共通語として全国に広まっていったと思われる。
 こうした中で、俳諧は俗語を開放し、俳諧の言葉もまた全国の共通語として広まっていったと思われる。
 切れ字の「や」は芭蕉の時代までは雅語に基づいた疑問・反語の係助詞として用いられていたが、芭蕉の死後になると口語として使用されていた、今日の関西弁で用いられるような「や」がじわじわと俳諧にも浸入し、やがて詠嘆の「や」として定着していった。
 許六の『俳諧問答』はその過渡期に書かれたもので、この新しい「野」の用法は去来周辺から広まったことがうかがわれる。
 ひとたび詠嘆の「や」が定着してしまうと、許六の切れ字論の「疑ひのや」がいつのまにか「何を言っているんだ」ということになり、許六があたかも文法に無知だったかのように言われるとしたら残念だ。
 言葉は時代によって変わる。むしろ『俳諧問答』は元禄期に起こった言葉の変化を知る上での貴重な資料と言えよう。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、同じ集ニ
 稲妻のかきまぜて行くやミ夜哉  先生の句也
 やミ夜の事、耳にたち侍る。月夜・月の夜等ハ、いひふるしたる詞也。やミ夜とハ、都鄙きかぬ通俗也。
 ケ様の事、本歌ありてハ作者の手柄なし。新ミにいひ出すを手柄なれバ、定て證歌ハあるまじ。
 やミと斗ハ、歌にもよみ、通俗の言葉にもいひならハせ共、夜の字入時ハ、てにハなくてハいはず。おぼつかなし。承度事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.127~128)

 要するに、「闇夜(やみよ)」という言葉は聞いたことがないというわけだ。
 今日では「闇夜の烏」だとか、「闇夜に咲く花」だとかいうが、許六の時代でそれほど用いられない言葉だったか。
 ただ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 やみの夜。月の出ていないまっくらな夜。暗夜(あんや)。闇の夜(よ)。
 ※万葉(8C後)九・一八〇四「闇夜(やみよ)なす 思ひ迷(まと)はひ 射ゆ鹿(しし)の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて」

とあるから、万葉の時代からあった言葉だったのか。もっとも、万葉は漢字で書かれていて訓のつけ方も時代によって変わる。「ひむがしののにかぎろひのたつみへて」は賀茂真淵以降で、それ以前は「あづまのにけぶりのたてるところみて」だった例もある。
 『去来抄』には、

 「電(いなづま)のかきまぜて行闇よかな   去来
 丈草・支考共曰、下の五文字過すぎたり。田づらとか何とぞ有たし。去来曰、物を置をくべからず。ただ闇夜也。両子曰、尤(もっともの)句にして拙しと論ズ。其後草に語りて曰、退ておもふに両士は電の句と見らるる也。ただ電後闇夜(でんごあんや)の句也。故に行とハ申侍る。草曰、さバかりハ心つかず。いかが侍らん。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.35~36)

とあり、別に「闇夜」が聞いたことがないなんてことは言っていない。京都と彦根では差があったのか。
 ここでの議論は、稲妻は闇夜に光るもので、当たり前のことを言ってるだけではないかというもので、「田づら」とか何か景物が欲しいということだった。

2019年4月4日木曜日

 今日旧暦二月二十九日で、令月も今日で終わり。
 都心の桜の花もあれから散り止っている。週末はまだ楽しめそうだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、菊の香ニ云ク、
 秋来ぬと桔梗刈かや売にけり     風国
 此ク、『秋来ぬと』五文字をかば、下のとまりにてハあしく、とまらず。
 歌仙ノ内
 秋来ぬとめにハさやかに見えね共
   風の音にぞおどろかれぬる   作者おぼえず
 六百番歌合
 秋来ぬと風のけしきハみゆれ共
   猶涼しさハをとせざりけり   経家卿
 此二首の歌にてしれたり。
 『秋来ぬと』いふハ、下ニてにはをまハらする為における五文字なり。此句、下ニ『けり』と治定せり。五文字不用の句也。
 心かくれたる所なけれバ、人々よろしからぬ句と斗見なして、気をとどぬる人なし。
 『売にけり』といふとまりハ、下へつづかず。五文字へもどる心なくてハ、『秋来ぬと』ハをくべからず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.124~125)

 「秋来ぬと」は許六によれば、下に「秋来ぬ」の内容を受ける言葉で、その内容によって秋来ぬとしなけらばならない。
 例とした挙げた和歌でいえば、「めにハさやかに見えね共風の音にぞおどろかれぬる」ので秋が来たなあとなり、「風のけしきハみゆれ共猶涼しさハをとせざりけり」なので、まだ秋が来てまもないなあとなる。
 これでいうと、

 秋来ぬと桔梗刈かや売にけり     風国

の句は、桔梗刈かやを売りに来たからあきがきたんだなあ、ということになる。
 これは「と」という助詞に、自分がそう思うというよりも人はそう思うという無人称を読み取るからではないかと思う。
 秋来ぬと人はいうけれど、眼にはさやかに見えない。秋来ぬと人がいうとおり、風のけしきはみえる。こういう続き方からすれば、秋来ぬと人はいうが、桔梗刈かや売りにけり、では確かにおかしい。

 「此句、
 秋来ぬと桔梗刈かやをぞ売にける
とあらバ、一句もとまり、五文字の『秋来ぬ』相続すべし。
 撰者かやうのてにハしり給はずして、撰集扨々おぼつかなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.125~126)

 「桔梗刈かやをぞ売にける」は「桔梗刈かやを売にけるぞ」の倒置。秋が来たと人は言うが、そういえば桔梗刈かやを売りに来ているなとなれば、句は丸く収まる。
 思うに風国は「秋来たり、桔梗刈かや売りにけり」と言いたかったのではないかと思う。ただ、これだと切れ字が二つ入ってしまうので、上五に「と」を入れて回避しようとしたのではないかと思う。

 「一、同
 秋風や誰にかミつく栗のいが  豊後 幽泉
 此五文字のや、うたがひ也。又『誰にかミつく』と二ツうたがひあり。
 『秋風や』とかける程に、秋風の事あるべしとおもふ時、曾て秋風の事なし。下ハ栗のいがの事にて果たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.126)

 この「や」は詠嘆の「や」と言っていいだろう。「秋風に」でも「秋風は」でも「秋風を」でも「秋風の」でも意味が通らない。噛み付く栗のイガに対して秋風は直接的な関係がなく、近代俳句でいう二物衝突といってもいい。ある意味近代的な句だ。

 「秋の風誰にかミつく栗のいが
 とあらバ、秋風にゑめるいがハ、『誰にかみつく』ときこえべし。
 『秋風や』の字ニて、跡に風の詮なし。曾てきこえず。二ツに成也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.126)

 「ゑめる」は「笑める」か。秋風ににっと口を開く栗のイガが、一体誰に噛み付くというのか、という反語になる。ただ、これは作者の意図とは逆だろう。多分、口をあけて中の栗が見えている状態を歯を剝き出しにしているとしたのではないかと思う。それだと秋風と栗のイガは特に必然性もなく並列されているだけで、「二ツに成也」つまり二物衝突の句となる。

 行あきや手をひろげたる栗のいが  芭蕉

の句があるが、これに影響されたか。
 芭蕉のこの句は「行あきに栗のいがの手をひろげたるや」の倒置で、秋も終わり頃になると実を握っていた栗のイガが力尽きて実をこぼす様を詠んでいる。「行く秋」と「手を広げたる」の間には十分な必然性がある。

 「晋子が句ニ
 初雪や内に居さうな人は誰
といふ句、『初雪や』とうたがひて、跡の詞全体雪の噂さ也。此句、『秋風や』といひて、跡ハ栗の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.126~127)

 晋子(其角)の句は「初雪や」のあとにその雪の話題が続くが、幽泉の句は「秋風や」のあと秋風と関係なく栗の話になる。

 「切字二ツ入て一句きこえる発句ハいくつもあれ共、成程一句連続してきこえ侍る句ならでハ、二ツ三ツハ入がたし。二字切・三句切ハ此格也。此句、
 初雪に内に居さうな人ハたれ
といはむけれ共、にの字重畳せる故に、『初雪や』とをきて、やの字ハ畢竟捨やの心也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.127)

 其角の句は「初雪に内に居そうな人は誰」の「に」の重複を嫌うもので、「誰」の内に含まれている疑いに意味を、倒置にするという、隠れた「や」を前に持ってきたわけだ。
 今の言葉だと「誰(だれ)や」というが、この場合の「や」は「誰?や?」と二重に疑ってはいない。この「や」は詠嘆の「や」(あるいは関西弁の「や」)だ。芭蕉の時代だと「誰ぞ」とするのが普通だ。「誰(た)ぞや」とは言う。

 「かやうの句の真似をして、俗俳共、てには自由にをくといへ共、てにハといふ物、一字も動かしがたし。
 おそろしや誰にかみつく栗のいが
とあらバ、如何にも「や」として、誰共いはれむか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.127)

 幽泉は其角の真似をしたのではなく、おそらく口語としては既に用いられていた詠嘆の「や」(関西弁の「や」)を取り入れたのだろう。てにハという物、時代によって動くものだ。
 「おそろしや」の案は「おそろしや」の内容をその後に続けるから意味が通る。

2019年4月3日水曜日

 日本の古典を出典として元号を選ぶことの難しさが、今回は露呈してしまったのではないかと思う。というのも、日本の文章は漢文の影響を受けすぎているため、日本のを出典としても、その出典に更に中国の出典があるのは珍しくないからだ。
 元来ネイティブでない日本人が文法も単語もまったく違う中国の文章を綴るのは簡単ではなく、何かしら中国の文章を手本にしながら、少し変えてというのは普通に行われていたと思われるからだ。
 『万葉集』のみならず、芭蕉の文章でも中国に出典を辿れるものは多い。
 たとえば、『野ざらし紀行』の小夜の中山の所の文章、

 「二十日余のつきかすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚く。」

は、

   早行     杜牧
 垂鞭信馬行  数里未鶏鳴
 林下帯残夢  葉飛時忽驚
 霜凝孤鶴迥  月暁遠山横
 僮僕休辞険  時平路復平

に基づいている。
 有名な『奥の細道』の冒頭も李白の『春夜宴桃李園序』の

 夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客。
 而浮生若夢、為歓幾何。

に出典を求めることができる。
 近代になると、近代文学の文士達は西洋文学を学び、一生懸命真似したし、戦後の日本のロックミュージシャンは英米の六句の歌詞を一生懸命真似した。RCサクセションの「たとえばこんなラヴ・ソング」はwingsのSilly Love Songsの翻案のようなものだ。こうして日本の文化は様々なものを取り込んで発展してきた。
 日本のオリジナルの元号がというなら、いっそのこと飛蛙だとか猿蓑だとかにすればいいのでは。
 それでは『俳諧問答』の続き。今日は少し。

 「一、第一初蝉といふ題号ハ、『淋しさや岩にしみ込む蝉の声』の句より出たると、惟然坊が書たる事、うたがひあるまじ。
 然る所ニ此句、蝉といふ題号のしかも奥に入たり。是如何成賞翫ぞや。
 題号とする程の妙句を雑句と同じやうに書入る事、題号ニせし賞翫曾てなし。
 うき世の北などいへる集ニ、口へ出す珍しからずと、新ミニ奥ニ書入たりや。是以の外の不賞翫たるべし。
 此集へ出さぬハ、一重賞翫もあるべし。序ニ書たる上ハくるしかるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.124)

 淋しさや岩にしみ込む蝉の声    芭蕉

の句は、芭蕉が元禄二年の『奥の細道』の旅の途中、立石寺で詠んだ、

    立石寺
 山寺や石にしみつく蝉の声     芭蕉

の句を直したもので、最終的には『奥の細道』の、

 閑さや岩にしみ入蝉の声      芭蕉

に落ち着くのだが、これが発表されるのは元禄十五年でこの『俳諧問答』の五年後になる。この時点では元禄九年刊の風国編の『初蝉』で「淋しさや」の句を知ることになる。
 なお、この前年、壺中・芦角編の『芭蕉翁追悼こがらし』には、

 淋しさの岩にしみ込せみの声    芭蕉

の形で既に発表されている。
 ただ、ならばなぜ「淋しさや」の句を巻頭に掲げなかったのかと許六は言うわけだが、別にいいじゃないかといいたいところだが、そういうのが気になるのが許六さんなのだろう。
 『猿蓑』のイメージが強すぎるのだろうけど、一句がきっかけになって、それを巻頭に集を作ろうとなるのは極めて稀なことで、『初蝉』の場合は、句も初出ではないし、ただ、題を決める時に参考にした程度だから、わざわざ巻頭に持ってくる必要もないだろう。
 実際の所、「淋しさや」の句が巻頭に掲げられてしまっていたら、元禄十五年に『奥の細道』が刊行されたとき、この句は何だったんだということになりかねなかった。
 当時「閑かさや」の最終形を知っていたのはまだ限られていた。野坡本を持つ野坡、曾良本を持つ曾良、清書をした素龍、素龍本を保有していた芭蕉の兄半左衛門、それを受け継いだ去来くらいだったか。風国は去来と交流があったから、ひょっとしたら何らかの形で最終形が存在することを知ってたのかもしれない。
 『奥の細道』の公刊に向けて周到な準備がなされていた時期なら、あえて目立たない形で『こがらし』既出の句を載せたのかもしれない。『初蝉』のタイトルも、蝉の字が入っているだけで、「初」は芭蕉の句にはない。「淋蝉」だったなら巻頭に置いても良かったかもしれない。

2019年4月2日火曜日

 今日は気温も低く、朝は車の窓ガラスが霜で氷っていた。風も強く、時折雨もぱらついた。都内では既に桜吹雪になっていた。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、下巻ニ
 とられずバ名もなかるらん紅葉鮒  ナラ 玄梅
 此句、扨々かた腹いたき句也。かやうのてにはを見て、歌よみ、又ハ連歌師など嘲る事也。
 『名もなかるらん』と云事、大き成相違也。『名もなかるべし』といふ事をいひあやまりて、『なかるらん』とはねたる也。つたなき作者・撰者の胸中符合せし事、不便の至り也。
 我黨ハかやうのてにはを説教てにはといふ也。
 『上下万民おしなべてかんぜんもの社なかりけれ』といへるに、少もかハらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.122~123)

 日本語は今日でも仮定に対しては断定で受ける。「なせばなる」を「なせばなるでしょう」と言ったら何か間延びして変だ。人を脅迫する時にも、「金を持ってこなきゃ人質を殺す。」ならまぎれもなく日本人だが、「金を持ってこなかったならば、人質を殺すでしょう」と言ったら犯人は外国人だ。英語ならwillを使うところなのかもしれないが。
 その意味では、この句は確かに、

 とられずバ名もなかるべし紅葉鮒

の方が自然だ。「雉も鳴かずばうたれまい」という諺もある。「まい」は「まじ」で、『岩波古語辞典』には「この語は『べし』の否定の『べからず』の意味を持ち」とある。
 現代語でも「獲られなかったなら紅葉鮒なんて名前はなかったな」と言うところだろう。ただ、「なかっただろうに」という言い回しは確かにある。
 この句に関しては、『去来抄』「同門評」にその反論がある。

 「取れずバ名もなかるらん紅葉鮒   玄梅
 許六曰、是を説教はねと云。かんぜん者ハなかりけりト也なり。又曰、或人路上にて人に逢て、上へや行ゆくべし、下へや行べしと路ヲ問るが如し。てにをはあハず。
 去来曰、上へや行べしと謂ハ、上ハ疑ひ下は決し語路不通。疑ひて決するといふてにはにもあらず。
 此句このくハ上に疑ひ有りて下をはねたり。
 又らんはらしにかよふ。はねたる事くるしからじ。六曰、穴勝にはねたるをいハず。惣体てにをはあしきトなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.36)

 「上へや行ゆくべし、下へや行べし」は普通なら「上へや行かん、下へや行かん」なのだろう。「や‥らん」という係り結びは中世の連歌でも多用されている。もとは「や‥らむ」だったのが、習慣的にはねる(撥音にする)ようになったのだろう。
 これに対し、「上下万民おしなべてかんぜんもの社(こそ)なかりけれ」の場合は「感ぜぬ」の「ぬ」が音便化したものだ。「む」も「ぬ」も撥音便になれば「ん」なので、どっちか紛らわしい時がある。
 論理的に言えば、事実に反するか未来の事に仮定があった場合、その帰結はまだ実現してないのだから、断定よりも推量の方がいいのだろう。他所の国の言語ではそうなる方が普通なのかもしれない。
 これは日本語の癖でもあり、今でも翻訳口調の文章は仮定を推量で受けたりして違和感を覚えることがある。そういうことは昔もあったのだろう。

 「一、下巻ニ
 蛸壺を駒が林の火桶哉      沼足
 これ眼ある人のすべき事ニもあらず。又撰者の入べき句ニもあらず。
 忝もさるミのニ、『蛸壺やはかなき夢を夏の月』と師の名句いひをき給へる事、一天下しらぬ人なし。是おのづから制の詞也。
 下ハ如何やうにいひかえても、「蛸壺」、此句の眼也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123)

 「制の詞」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「歌学で、聞きづらいとか、耳馴れないとか、特定の個人が創始した表現であるなどの理由から、和歌を詠むに当たって用いてはならないと禁止したことば。藤原為家の「詠歌一体」で説いているが、同様の考えはそれ以前の歌合判詞や歌論書に見出され、俳諧にもある。禁制の歌詞。禁のことば。制詞。
 ※正徹物語(1448‐50頃)上「制のこと葉といひて『うつるもくもる』『我のみ知りて』などいひ出したる一句名哥を」」

とある。
 ただ、「蛸壺」が制の言葉だというのが果して芭蕉の意図するところだったのかどうかはわからない。許六自身の思い入れによるものではないかと思う。
 要は「蛸壺」を用いても芭蕉の句とは違う新味が出せればいいのであって、そうでなければ別に「制の詞」を持ち出さなくても単純に「等類」ということになる。

 蛸壺を駒が林の火桶哉      沼足

 この句の「駒が林」は今の神戸市長田区にある地名で、蛸壺漁の盛んなこの地では蛸壺を火桶(火鉢)にも使っているという句だから、芭蕉の句とはまったく違う。等類とは言えない。

 「玄梅が集ニ、惟然が句、
 閑なる秋とや蛸も壺の中
とあり。是猶師の句の下手成物也。
 予が撰集の時も、此句書ておくれり。大きにいやしミ、我黨ハ小便壺へかい捨て侍る也。
 此外いくらも侍れ共、論ずるにいとまなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123)

 岩波文庫の注には玄梅の集は『鳥のみち』とある。
 惟然の句は、確かによくわからない。蛸が蛸壺に入ったら捕らえられて食われてしまうわけで、だからこそ芭蕉も「はかなき夢を」と詠んでいるが、ここではそういう悲劇性が感じられない。
 おそらく自分を蛸に喩えて、壺(自らの草庵)の中に籠って静かな秋を過ごそうという意味の句だったのだろう。まあ、引き籠ってばかりいると、後が大変ということはあるが。
 ただ、これが「小便壺へかい捨て」る程の句かどうか。芭蕉への思い入れが強すぎてこういう発言をするのだろう。

 「切字二ツ入ても、習ひに叶へる句もあり。師の句ニも、二ツ入給ふ事稀にてすくなし。今の代の俳諧師、扨々つたなき事也。
 埋木といふ物、版木に出てあり。てには・切字の事、くハしく記ス。見せたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123~124)

 芭蕉の句に切れ字の二つ入った句はほとんどないといっていい。

 明月や座にうつくしき貌もなし   芭蕉

の句は、死後に発表されているため、元は「明月の」だった可能性もある。

 松風や軒をめぐって秋暮ぬ     芭蕉(笈日記)

の句も、死後発表されたもので、

 松の風軒をめぐって秋暮ぬ     同(翁草)
 松風の軒をめつって秋暮ぬ     同(泊船集)

の切れ字一つバージョンもあるので何ともいえない。
 『野ざらし紀行』の、

 梅白し昨日や鶴を盗まれし     芭蕉

は「し」が二つと「や」が入っている。これは数少ない例か。同じ頃、

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉

という切れ字のない句を詠んでいる。

 蘭の香やてふの翅にたき物す    芭蕉

も「や」とあって、「薫物す」と終止言で終っている。
 また、許六がてにはや切れ字を論じる際に参考にいていたのが季吟の『俳諧埋木』だということも明かされている。
 芭蕉もまた伊賀にいた頃は季吟の門だったから、その辺の根底は同じなのだろう。

2019年4月1日月曜日

 あたらしい元号が令和に決まった。常用されてない音となると結構難しいが、よく見つけたと思う。
 『万葉集』梅花歌三十二首の序の「初春令月、氣淑風和」から取ったというが、この語句自体が『文選』の張衡「歸田賦」の「仲春令月、時和氣清」に影響されたものだと言われている。
 「令月」は季吟撰の『増続山井四季之詞』にも「二月きさらぎ」の所に、「梅見月(蔵玉)、小草生月は仲春、夾鐘、如月、令月、陽中」とある。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にも、「如月、令月 [纂要]二月為仲春、又曰如月、又曰令月、日在営室」とある。
 張衡の賦の「仲春令月」が出典になっているのか。
 「令」はもともと神のお告げのことで、そこから君主のお告げということで命令の意味にもなれば、清らかなという意味にもなる。
 今朝は東の空に細い月が見えたが、旧暦の二月二十六日。ぎりぎりで令月だ。仲春なので梅ではなく桜の季節になる。
 まあ、満開の桜の下で誰もが分け隔てなく和めるような、そんな時代が続けばいいなと思う。
 それでは『俳諧問答』の続きを、今日は少なめで。

 「一、下巻ニ
 明月や泣顔見たしかくや姫  撰者 風国
 『見たし』の『し』の字、切れざるとおもへると見えたり。これ未来のしにて、切るる也。
 『明月や』と切、『見たし』と切て、二ツ切字入たり。
 『明月や』とうたがひ、『見たし』とねがハれける事、五文字うたがひ曾て益なし。『明月に泣顔見たし』といひくだせバ、よくきこえ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.121~122)

 これも「座にうつくしき」の句と同様、古い助詞的な「疑いのや」の用法なら、

 明月に泣顔見たしかくや姫

の方がいい。「明月にかくや姫の泣顔見たし」の倒置になる。「明月や」とすると、「明月にかくや姫の泣顔見たしや」の倒置となるが、「見たしや」と疑う理由がない。ただ、この頃は詠嘆の「や」の影響が出てきていたのだろう。

 「其上此句作例あり。
 猶ミたし花に明行神の顔    翁の句也
 かづらきの麓にて吟じ給ふ。『花に明行』のかるミと、又明月にかくや姫の顔と云おもみ、吟味なきと見えたり。口おしき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.122)

 芭蕉の句は「花に明行神の顔を猶ミたし」の倒置でわかりやすい。
 明月に月へ帰らなくてはと泣くかぐや姫も、今で言えば「べた」ということか。