2019年4月25日木曜日

 天気予報では午前中に止むといってた雨がなかなか止まなかった。
 それでは「八九間」の巻の続き。
 二十五句目。

   槻の角の果ぬ貫穴
 濱出しの俵を牛にはこぶ也     里

 さて、前回回答を保留した問題の句に来た。残念ながら「俵を牛に」が「牛に俵を」になっただけで、ほとんど推敲課程もなくできた句のようだ。「牛に」は今の日本語だと「牛の方に」という意味になるが、当時の「に」の用法だと「牛で」の意味で用いられる。

   海くれて鴨の声ほのかに白し
 串に鯨をあぶる杯       桐葉

の「串に」も、今日なら「串で」とするところだ。「鯨を串にさして」だとわかりやすい。「牛に俵を」も「俵を牛にのせて」という意味だ。
 こういう難解な付けの場合、大胆な取り成しを疑ってみるのも一つの手だ。
 たとえばこの句を「槻の角(かど)の果ぬ貫穴(ぬけあな)」と読めば、欅の木が目印のあの角を曲がると行き止まりにならない抜け道がある、という意味にならないだろうか。だとすると、浜出しのために年貢を積んだたくさんの牛や馬がごった返し渋滞する中を、抜け道して横入りしてくる牛もいる、という意味になる。
 まだ他の可能性もあるかもしれないが、今回は一応この解釈で治定としておく。
 二十六句目。

   濱出しの俵を牛にはこぶ也
 名しまぬ嫁に
 よめには物をかくす内證      見

 『続猿蓑五歌仙評釈』では、浜出しの俵を年貢ではなく、「大切な備蓄米すら売りに出さねばならない」とし、それを嫁いで来たばかりの嫁には隠しておくという意味に解釈する。
 この回答に釈然としないのは単純な理由で、それって結局騙しているんじゃないか、ということだ。「来て間もない嫁を一家で気づかう」なんてのは明らかに嘘だ。裕福な家だと思わせて嫁に来させて、実は借金がありましたでは、それこそ結婚詐欺だ。
 ここは単純に、年貢をどれだけ払っているか、まだ知らなくていい、というくらいの意味にしておいたほうがいい。穿った見方をすれば、年貢を過少申告しているのを、事情を知らない嫁が本当のことをべらべら喋ったりしても困ると、そのほうが俳諧らしいと思う。
 前の句の「俵を牛に」→「牛に俵を」といい、今回の「名じまぬ嫁に」「よめには物を」→「なれぬ嫁には」の改作は、四三のリズムを嫌い三四のリズムに変えたのではないかと思う。和歌では末尾を四三で止めるのを嫌う。連歌・俳諧でも基本的には七七の句の下のほうは三四がベストで、二五、五二はありだが四三は嫌う。
 二十七句目。

   よめには物をかくす内證
 月待に傍輩衆の打そろひ      蕉

 これはどこの世界でも男が寄り集まれば、大体女がらみで秘密を共有しようとするものだ。
 二十八句目。

   月待に傍輩衆の打そろひ
 畠の菊の
 まがきの菊の名乗さまざま     里

 『続猿蓑五歌仙評釈』は陶淵明の「菊を采る東籬の下」を持ち出して隠士の集まりの句とするが、それは真に心の打ち解けた友であって「傍輩衆」ではないと思う。
 籬はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 竹や柴などで目を粗く編んだ垣根。ませ。ませがき。
  2 遊郭で、遊女屋の入り口の土間と店の上がり口との間の格子戸。
  3 「籬節(まがきぶし)」の略。」

とある。ここでは2の意味としておきたい。
 二十九句目。

   まがきの菊の名乗さまざま
 うそ火たき中にもさとき四十から
 むれて来て栗も榎もむくの声    沾

 初案は『続猿蓑五歌仙評釈』にある通り、「前句の『名乗さまざま』を受け、それぞれに鳴き集う鳥の名(鷽ウソ・鶲ヒタキ・四十雀シジュウカラ)を挙げての句作」と見ていい。前句の「菊」を本物の菊とした。
 これはこれで良さそうなものだが、貞門の古風な感じを嫌ったのだろう。椋鳥の大群に席巻されて、菊も栗も榎もないとした。人間の群集心理を風刺したか。
 三十句目。

   むれて来て栗も榎もむくの声
 小僧を供に衣かひとる
 番僧走るのりものの伴       蕉

 「小僧」は年少の僧の意味。後に商家の丁稚もそう呼ぶようになった。お坊さんが小僧を連れて衣類を買いに行ったら、小僧たちがはしゃいで騒がしくてしょうがない、というところか。
 最初は芭蕉さんもこれで良く出来たと思って丸印を付け、少し考えて三角にし、結局は不採用にしたか。
 理由はおそらく展開の不十分ということだと思う。椋鳥の群れの騒がしさをそのまま取るのではなく、別の展開を考えた時、あくまで椋鳥の声を伴奏とし、番僧に伴走させる方に落ち着いた。
 二裏。
 三十一句目。

   番僧走るのりものの伴
 そぐやうに長刀坂の冬の風     見

 これは一発治定。「出来たり」とばかりに丸印を二つ記す。

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