2023年1月30日月曜日

 今日は映画を見に行った。例によってタイトルを伏せて。
 ストーリーからちょっと外れるが、日本人に治水信仰があるのではないかと思ってしまった。
 治水はもちろん文明の起源であり、特に中国では天子、先王の仕事とされ、建国神話に関わっている。
 灌漑農業の開始が、水路を支配するものに生殺与奪権を与えてしまい、絶対的な中央集権に繋がる。それが大河の流域に巨大な国家を生むことになった。
 日本の文化もまた長江文明の影響を大きく受け、規模は小さいながらも河川流域に灌漑農業を行ったが、中国のような巨大な中央集権国家を生むことがなかった。
 大和朝廷によって統一されても「諸国」は明治に至るまで残った。
 日本人にとって灌漑はいわゆる東方的独裁を生むのではなく、同じ河川を共有する共同体意識を生んだのだろう。治水はその地域を結束させるものではあっても、中央集権体制は比較的緩やかで優しいものだった。それが水路を作るということが地域を結束させ平和をもたらすというイメージに繋がっているのではないか。
 ただ、場所によっては灌漑水路はやはり生殺与奪権を水路の管理者にゆだねることになるのを警戒する所もあるのかもしれないし、水を止めるということで戦略的に決定的に優位に立たれる可能性もある。今のロシアのパイプラインと一緒で、水路の建設は地政学的な脅威になりかねない。
 水路の建設は本当に平和をもたらすのだろうか。むしろ水源をもつ国を地政学的に圧倒的に優位にしないだろうか。新たな戦争の火種にならないだろうか。ついつい余計な心配をしてしまう。
 多分アフガニスタンの中村さんも、日本人的な治水信仰で善意でやったことなんだろうけど、それが脅威になる人たちもいたのかもしれない。そんなことをついつい考えてしまった。

2023年1月29日日曜日

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。

百三十一番
   左  茶摘  柏木萬年子
 侘人のたのしみをつつむ茶園哉
   右勝 花   山口 信章
 夕かな月を咲分はなのくも
 左理はありとも其理卑し。月を咲分る花の雲新らし。右勝たり。

 侘茶は千宗旦によって徹底したものになった。ウィキペディアには、

 「1600年(慶長5年)頃、少庵が隠居したのに伴い、家督を継いだ。祖父の利休が豊臣秀吉により自刃に追い込まれたことから政治との関わりを避け、生涯仕官しなかった。茶風は祖父利休のわび茶をさらに徹底させ、ために乞食修行を行っているように清貧であるという意味から、「乞食宗旦」と呼ばれたという。」

とある。
 実際に侘茶といっても本当に乞食がお茶を嗜むわけではないが、乞食宗旦からの発想で乞食の楽しみを包む茶園とする。
 ここでいう侘人が今でいう理想化された侘人ではなく、文字通り乞食という意味で解されてたという所がこの時代の感覚だった。
 芭蕉の句でも何でもかんでも侘人、乞食の美学として受け取ろうとする人が結構いるが、江戸時代の人はもっと現実的だった。
 まあ、路通や惟然が本当に乞食みたいだからと嫌ってた許六は行き過ぎだとしても。
 信章の咲分はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「咲分」の解説」に、

 「〘名〙 一株の中にさまざまな色の花が咲くこと。同一の株の草木に異なった色の花が咲くこと。また、その草や木。
  ※御湯殿上日記‐天正八年(1580)九月二九日「ゑちせんこかめ千世つくりたるとて、うすむらさきときとのさきわけのきくの枝まいる」

とあるが、この場合は雲が左右に分かれて月が見えるのを、夕べには花の雲から月が昇るから、花の雲が左右に分れたという意味で用いられている。
 発想が面白く信章の勝ち。

百五十九番
   左持 扇給  濱田 春良
 儀式もや給ふ扇のをりめ高
   右  時鳥  山口 信章
 返せもどせ見残す夢を郭公
 左孟夏旬の儀式のをりめ高なるさまおもひやられてさもあるべし。
 右見のこす夢ををしむによせてかへせもどせといへる郭公の句いひしりてをもしろしよき持とぞ定め侍らん。

 春義の句の
 折目高はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「折目高」の解説」に、

 「① 衣服などの折りたたんださかいめの線がはっきりと高く現われているさま。
  ※史記抄(1477)一四「衣のたわうてをりめたかにもなう、しないやうたなりぞ」
  ② 態度や服装などが礼儀正しくきちんとしているさま。折目正しいさま。きちんとしていて堅苦しいさま。
  ※俳諧・口真似草(1656)「折め高にしみゆる人かも あたらしき装束やけふ北まつり〈以専〉」

 判詞の孟夏旬はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「孟夏の旬」の解説」に、

 「平安時代、陰暦四月一日に行なわれた旬政。天皇が紫宸殿に臨んで政務を行ない、群臣とともに酒宴を開いた。孟夏の宴。《季・夏》 〔公事根源(1422頃)四月〕」

とある。これは喩えで孟夏旬のような夏の儀式で、暑い中でも折り目正しくということで、賜った扇子が折目がきちんとついている(当たり前)というネタと思われる。
 信章の句はホトトギスの声に夢から覚まされて、夢を返せ戻せという句。

 ほととぎす夢かうつつかあさつゆの
     おきて別れし暁のこゑ
             よみ人しらず(古今集)

のような後朝の時鳥の連想であろう。
 どちらも捨てがたいということで良持とする。

百八十七番
   左持 郭公  神野 忠知
 ねをせぬや唐へ投金郭公
   右  初鰹  山口 信章
 初鰹またじとおもへば蓼の露
 左唐へなげかねめづらかなるにや。
 右またじとおもへばむらさめのそらとよめる心をうつして又めづらしよき持なるべし。

 投金はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「投金・抛銀」の解説」に、

 「① 近世初期の朱印船貿易で、博多・長崎・堺などの豪商が、船舶および積荷を担保として、ポルトガル人・中国人・日本人の貿易業者に貿易資金を貸付投資したこと。
  ※浮世草子・本朝二十不孝(1686)三「昔唐へ抛金(ナゲガネ)して、仕合次第分限となって」
  ② 遊蕩(ゆうとう)に使う前渡金。前金。手付金。
  ※浮世草子・好色盛衰記(1688)二「裸金にて弐千両。これは何になる小判と申。揚屋へなけがねと仰せられしに」

とある。唐へということだと①の意味で、今の言葉だと投資ということか。
 投資して大金になって帰ってくるのを今か今か待つ気分とホトトギスの声を待つ気分とをダブらせている。
 判詞の引用は、

 いかにせむこぬ夜あまたの時鳥
     またしと思へばむらさめのそら
             藤原家隆(新古今集)

の歌で、ホトトギスなんてもう待つまいと思ったらホトトギスにを聞くのにおあつらえの村雨が降るというもので、それを初鰹なんて食うもんかと思ってたら、蓼味噌が手に入ったとする。
 この時代の初鰹は生姜醤油ではなく蓼味噌で食べるものだったのだろう。醤油は中京圏には溜まり醤油があり、関西では薄口醤油が作られ始めたが、江戸ではまだあまり普及してなかった。
 刺身は酢で鱠にし、蕎麦は垂れ味噌で食べる時代だった。
 どちらも面白いということで、良持。

二百十五番
   左勝 瓜   池田 宗旦
 錫乃鉢や光とともに白齒桑
   右  蛍   山口 信章
 戦けりほたる瀬田より参合
 左右皆さるかふをいへる中に兼平は修羅江口はかつら句体も其ほどにしたがふにや。左は心とどむべく、右は見所なき心ちし侍り。

 「さるかふ」は猿楽のことか。今でいう能だが、能という言葉は本来もっと広い意味で歌舞全般を指していた。今でいう能楽に相当する言葉は猿楽だが、「さるかふ」はそのウ音便化したものか。
 謡曲『兼平』は修羅物で木曽義仲の粟津での最後を瀬田の矢橋の渡し守が語る物語。

 地 「弓馬の家にすむ月の、わづかに残る兵の、七騎となりて木曾殿は、この近江路に下り給ふ。
 シテ「兼平瀬田より参りあひて、地また三百余騎になりぬ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.923). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と七騎となった木曽義仲に兼平の瀬田の軍勢三百騎がわらわらと現れる場面を、瀬田川の名物の蛍がわらわら現れる、とする。
 これに対し、謡曲『江口』は鬘物で西行法師と遊女江口の歌のやり取りを題材としている。

 地 「思へば仮の宿に、心とむなと人をだに諌めしわれなり。これまでなりや帰るとて、即ち普賢菩薩と現はれ舟は白象となりつつ、光とともに白妙の白雲にうち乗りて、西の空に 行き給ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.1098-1099).Yamatouta e books. Kindle 版. )

の江口の霊の消えて行く場面の「光とともに白妙の白雲に」から、錫の鉢に盛られて白真桑(銀真桑ともいう)が運ばれてゆく様子とする。
 「左は心とどむべく、右は見所なき心ちし侍り。」は好みの問題という気もするが、ここは信章の負け。

2023年1月28日土曜日

 今日は西伊豆の土肥桜を見に行った。
 道を間違えて修善寺の方に行ってしまい、そのまま戸田峠を越えたら、峠道に昨日の雪が残っていた。
 下り坂に入ると眺めがよく、駿河湾はもとより富士山や南アルプスが見えた。雪残る道はるばるととひ桜。
 土肥では土肥金山の前で土肥桜まつりをやっていた。土肥神社や萬福寺の桜はほぼ満開だった。寒緋桜が入っているのか、色が濃く下向きに咲いているが、白い色の土肥桜もあり、そちらは大島桜に近かった。土肥桜白は沖縄の血の薄き。
 帰りに北条の里に寄った。


2023年1月27日金曜日

 今日も寒い日で、午後はみぞれ交じりの雨になった。
 芭蕉の勝敗を見たので、次は素堂(信章)の勝敗を見てみようと思う。

十九番
   左持  元日  望月 千春
 蓬莱や山の栢あるけふのはる
   右   試筆  山口 信章
 鉾ありけり大日本の筆はじめ
 左山のかひあるけふにや。はのいひそこなひさもこそけふの春さらさらといひのべて本歌の詞をかみくだく所もあらぬは何の味もなき栢よし野などには嵐山のかやもちとしふく候。さとちかくならではこれなき物にて候。右五もし手鉾たしと申事に候。筆鉾は常の事なれどもつき出し様に骨法有べきなり。日本は鉾のしたたりなれば少弁説もかなど覚へて僻耳には持と聞なし候。

 「山のかひある」と判にあるのは、

 わびしらにましらな鳴きそあしひきの
     山のかひある今日にやはあらぬ
              凡河内躬恒(古今集)

であろう。今日は御幸の目出度い日なのだから、そんなに悲しそうに猿よ鳴くなよという歌で、そのかひ(峡)を蓬莱飾りの柏に変えて今日の春と歳旦にしている。
 確かにオリジナルの猿の声のかけらもなく、ただ言葉の続きだけを取った形になっている。
 信章の句は文字通りの書初めではなさそうだ。「手鉾たし」はよくわからないが、何となくシモネタの匂いがする。まあ今の言葉でも「掻き初め」というのがあるが。
 「日本は鉾のしたたりなれば」も伊弉諾伊弉冉の国「生み」の場面だから、鉾は男根の象徴ともいえる。ましてセキレイに腰の振り方を学んだなんて言う。「少弁説」は小便説か。
 任口の判は饒舌で、喋る時もこんな調子なのかと思われるが、シモネタは気に入らなかったようだ。引き分け。

四十七番
   左持  蔵開  廣野 元好
 とく明る白壁うれし蔵ひらき
   右   霞   山口 信章
 見るやこころ三十三天八重霞
 左うれしき所を覚へず。右三十三天喜見城の春霞あふげば頭の骨もいたきほどに候へ共五もじ猶あるべきかと覚へ候へば持とこそ申さめ。

 蔵開きはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蔵開」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 吉日を選んで、その年はじめて蔵を開くこと。また、その行事。近世大名が米倉を開く儀式をしたのにはじまる。宮中でも行なわれ、商家では多く一月一一日に行ない、鏡餠で雑煮を作って祝う。《季・新年》
  ※多聞院日記‐天正一四年(1586)正月五日「蔵開買初如レ例沙二汰之一」
  ※浮世草子・好色五人女(1686)五「吉日をあらため蔵ひらきせしに」
  [2] 宇津保物語の巻名。琴の天才である仲忠が、三条京極の旧宅で、蔵を開いて真名で書いた祖父俊蔭の集と、仮名で書いた父式部大輔の集とを入手し、これを帝に講じて奇代の帯を賜わったことや東宮をめぐる女性達の動きを中心に描く。」

とある。目出度い行事で嬉しいのは分るが、俳諧である以上具体的に何かネタになる理由が欲しいという所か。
 信章の三十三天喜見城はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「喜見城」の解説」に、

 「[1] (Sudarśana の訳語) 仏語。帝釈天(たいしゃくてん)の居城。須彌山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊楽する。善見城。喜見。喜見宮。喜見城宮。
  ※三界義(11C初か)「更加二帝釈所住喜見城一成二三十三天一也」
  [2] 〘名〙
  ① ((一)から転じて) この上もなく楽しい場所。花街をいう場合が多い。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)一「目前の喜見城(キケンジャウ)とは、よし原嶋原新町」
  ※是は是は(1889)〈幸田露伴〉一「人間の極楽喜見城(キケンジャウ)かと思ふて居た鹿鳴館より」
  ② 蜃気楼(しんきろう)の異称。《季・春》」

とある。「見るやこころ」の上五にもう一工夫欲しいという所か。引き分け。

七十五番

   左勝  上巳  小西 似春
 くりの手や巴にめぐるすずり水
   右   帰鴈  山口 信章
 ちるを見ぬ鴈やかへつて花おもひ
 左くりの手葉茂か張清が百貫は仕べく候。巴にめぐるは雖遺塵絶書巴字而思魏文而以翫風流の硯水が蓋志所之謹而献褒美。右鴈かへつて花おもひ散を見は鴈が涙も降春雨といふせくおもひ帰候歟。散る花を見届てこそ真に思ふと云物ならめ。散を見捨て帰は寿永の秋を見届ざる熊野が心中宗盛なんぼう無念たるべき歟。仍左勝たるべし。

 判の「雖遺塵絶書巴字而思魏文而以翫風流」は『和漢朗詠集』の菅原道真「花時天似酔序」で、

 春之暮月。月之三朝。天酔于花。桃李盛也。
 我后一日之沢。万機之余。曲水雖遥。遺塵雖絶。
 書巴字而知地勢。思魏文以翫風流。
 蓋志之所之。謹上小序。
 (春の暮月、月の三朝、天花に酔へるは、桃李盛りなればなり。
 我が后一日の沢、万機の余、曲水遥かなりといへども、遺塵絶えたりといへども、
 巴字を書きて地勢を知り、魏文を思ひて以つて風流を翫ぶ。
 蓋し志の之(ゆ)く所、謹みで小序を上る。)

 曲水の宴の序で、曲水の宴は上巳の日に行われる。「くりの手」は繰りの手で、すらすらと繰り出される書ということか。巴字はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「巴字」の解説」に、

 「① (「巴」の字の篆書(てんしょ)体の形から) ともえの形。物がぐるぐる回るさまにいう語。
  ※和漢朗詠(1018頃)上「水は巴の字を成す初の三日(さんじつ) 源は周年より起って後幾ばくの霜ぞ〈藤原篤茂〉」
  ② (水が①の形にめぐり流れるところから) 曲水、また、曲水の宴をいう語。はのじの水。
  ※広本拾玉集(1346)四「思ひ出でてねをのみぞなく行く水にかきし巴の字の末もとほらで」

とある。
 曲水の宴に筆を執って流れる水のように書き連ねるといったところだろうか。出典にもたれかかった句ではある。
 これに対し信章の句は花が散るのが悲しくて見ずに帰って行く雁を「花おもひ」という。これが帰る鴈の本意本情に反するということだろう。
 散る花は見届けるのが花思いであり、それを見ずに帰る鴈は残念。それが古歌の本意本情になる。

 見れどあかぬ花のさかりに帰る雁
     猶ふるさとのはるやこひしき
            よみ人しらず(拾遺集)

のように、花よりも故郷を思う気持ちが強いからだ、とする。
 寿永の秋は寿永二年七月の平家の都落ちのことで平宗盛に引き連れられて大宰府へ向かう。その前の春に宗盛は花見に遊女の熊野(ゆや)を呼ぶというのが謡曲『熊野』の物語で、熊野は母の危篤を聞いて帰郷したいのを堪えて清水の花見に同行するが、観音様が哀れに思って雨を降らせて帰郷を果たすという物語だ。
 熊野サイドから言うと宗盛の横暴ということになるが、任口は宗盛サイドから、熊野の無風流を非難する調子になっている。
 まあ、忠と孝どちらを優先させるべきかという古典的なテーマではあるが、日本では中国韓国では孝を優先させるのが普通だが、日本では忠を優先させる。親が死んでも仕事を続けるのを美徳とする日本に対して、韓国では何代も前の先祖の法要で会社を休む。
 信章の「花おもひ」は人情ではあるが、任口には理解されなかったようだ。信章の負け。

百三番
   左  桜草  鹽川 如白
 花壇みよ春の中にはさくら草
   右勝 上巳  山口 素堂
 海苔若和布汐干のけふぞ草のはら
 見分右勝たるべし。

 随分と簡単な判だ。見分はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「検分・見分」の解説」に、

 「① (━する) 立ち会って検査すること。状況を査察すること。みとどけること。取り調べること。
  ※三道(1423)「古名をば聞き及び、当代をば見分して」
  ※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)五「一家残らずめしよせられ御見分(ケンブン)あそばされしに」
  ② (見分) 見たところ。みかけ。みてくれ。外見。外観。外聞。
  ※浮世草子・本朝二十不孝(1686)二「見分(ケンブン)よりない物は金銀なり」
  ③ (見分) 仏語。認識する主観の心。客観としての相分の対。法相宗では四分の一とする。
  ※法相二巻抄(1242か)上「見分と申候は、能く此相分を知る用也」

とある。②の意味で、一目瞭然というニュアンスか。
 如白の句は、木には桜が咲いているが、花壇を見ればサクラソウが咲いている、というそれだけで、確かに何のひねりもない。
 信章の句の上巳は大潮の日に近く、またこの日は禊を行うため、禊を兼て海に出る潮干狩りの日でもあった。桃青(芭蕉)の句にも、

 竜宮もけふの鹽路や土用干し  桃青

の句がこのあと百十番に出てくる。
 潮が引いた後の海苔や海藻が潮の引いた浜に残っていて草原みたいだ、という句は桃青の突飛な「竜宮の土用干し」より直接的で分かり易い。土用干しは夏のもので季節が合わないし。
 桃青の句なら持だったかもしれないが、信章の句の海藻が潮干で草原になるという分かり易い面白さを取って、信章の勝ち。

2023年1月26日木曜日

  今日も良く晴れて寒かった。

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。

五百二番
   左  十夜法事 武野 保俊
 両の手をあはせて十夜の念仏哉
   右勝  霜   松尾 桃青
 霜を着て風を敷寝の捨子哉
 左両の手をあはせて十夜とはゆびの数などよりおもひよれるにや。聊いひたらぬところあるに似たり。
 右のすて子あはれにかなし。かちとすべし。

 念仏を唱える時には合掌するから両の手を合わせるもので、その指の数が十本だから十夜念仏というのは、余計なことだしそんなに面白い洒落でもない。過ぎたるは及ばざるがごとしという所か。
 桃青の句の捨子は文句なしに悲しい。「霜を着て風を敷寝」は比喩ではあり、実際の捨子は何かしら布にくるんで飯詰に入れられているものだが、この比喩が効果的に哀れを催すので桃青の勝ち。

五百三十番
   左   鱈   浅香 研思
 鹽物やいづれのとしの雪のうを
   右勝  雪   松尾 桃青
 富士の雪廬生が夢をつかせたり
 左いづれの年の雪の魚といへる後天山不弁と作れる朗詠の詞ながらしをくちにけんたらの魚賞翫うすくや侍らん
 右かんたんに銀の山をつかせたる事ある心にや心たくみに風情面白し勝とすべし。

 「いづれのとしの雪」の出典を、『和漢朗詠集』三統理平の、

 天山不弁何年雪 合浦応迷旧日珠
 (天山に弁(わきま)へず何(いづ)れの年の雪ぞ
 合浦にはまさに迷ひぬべし旧日の珠に)

だとしている。

 月見れば思ひぞあへぬ山たかみ
     いづれの年の雪にかあるらむ
            藤原重家(新古今集)

の和歌にも取り入れられている。万年雪を指す。
 塩漬けの鱈を見て、いずれの年の雪の魚、と鱈という漢字を分解して、保存の利く塩鱈を万年雪に喩えている。
 鱈の保存食は棒鱈と干鱈があり、棒鱈は蝦夷や出羽などの極寒の中でかちんかちんになるまで干すもので、干鱈は普通の干物をいう。
 干鱈は延宝の頃の、「あら何共なや」の巻十四句目の

   物際よことはりしらぬ我涙
 干鱈四五枚是式恋を       信章

 また貞享二年の発句、

 躑躅生けてその陰に干鱈割く女  芭蕉

があり、普通に裂いて食べることができるが、棒鱈は元禄五年冬の「けふばかり」の巻二十一句目に、

   當摩(たへま)の丞を酒に酔はする
 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

の句があるが、時間をかけて戻して食う。
 ただ、干鱈を賞翫するのに万年雪を持ち出すのはやや大袈裟か。
 桃青の句の「廬生が夢をつかせたり」は邯鄲夢の故事による。「つかせたり」は「築(つ)かせたり」で謡曲『邯鄲』に、

 シテ「東に三十余丈に、
 地  銀の山を築かせては、黄金の日輪を出だされたり。 
 シテ「西に三十余丈に、
 地  黄金の山を築かせては、銀の月光を出だされたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2416). Yamatouta e books. Kindle 版.)

から来ている。
 雪の真っ白な富士山を見ていると、邯鄲の夢に築かせた銀の山、黄金の山のようだ、と富士の雪を賞翫している。こちらの喩えの方が当を得ている。桃青の勝ち。

五百五十八番
   左勝  寒垢離 黒川 行休
 寒垢離のあひぬる水や鼻の瀧
   右   炭   松尾 桃青
 白炭や彼うら島が老のはこ
 左かんこりの水ひたひにみなぎりおつるを鼻の瀧といへる見るやうにおかし。
 右うらしまの子が箱をあけて一時に白頭と成し事を白炭になぞらへしにや。聊いひかなへぬに似たる所あれば左為勝。

 寒垢離はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寒垢離」の解説」に、

 「① 寒中に冷水を浴び心身を清めて、神仏に祈願すること。また、山法師、修験者(しゅげんじゃ)などが寒中に白装束で町を歩き、六根清浄(ろっこんしょうじょう)を唱えながら、家々の戸口に用意した水桶の水を浴びて回る修行。寒行。《季・冬》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕
  ※談義本・銭湯新話(1754)一「寒垢離(カンゴリ)の願人が水浴るやうに」

とある。荒行で本来は厳粛なものだが、水を被ると鼻水がそれに混ざって、鼻の下に滝ができる。
 桃青の句の白炭は黒く焼いた炭に灰をかけて表面を白したもの。日焼けした漁師の浦島太郎に白髭が生えた姿がそれに似ているというものだ。
 桃青の「犬の欠尿」同様、「鼻の瀧」のようなネタはこの時代には受けが良かったようだ。古俳諧はシモネタが多かったが、古俳諧で育った判者の世代には受けが良かったのだろう。いずれも判者は季吟。
 品の良い桃青のギャグは次世代のもので、旧世代の感覚では桃青の負け。

五百八十六番
   左   厄払  松村 吟松
 厄としや借銭そへてにしのうみ
   右勝  歳暮
 成にけり成に気りまでとしのくれ
 左は厄難もおひ物もさらりとはらへる心をふくめ右はとしの終になるこころを成にけりなりにけりまでといひなせるともに感情の所ながら句は詞つかひ一入なるべき物なるに右の重詞新しく珍重に候なり。可為勝。

 厄年も借金も歳が変われば流れて、西方浄土へ成仏する。多分これはさすがに言い古された題材だったのだろう。
 桃青の句は、正月になれば春になりにけり、今年でうん歳になりにけり、その時までは年の暮、という意味だろう。
 二つ重ねることで、色々なことがという意味になって、これに限らず、厄年も無事終わりになりにけり、借金も何とかなりにけり、という意味を加えることもできる。この万能さが季吟にとっては新しいと感じられたのだろう。桃青の勝ち。

2023年1月25日水曜日

 天気は良いけど記録的な寒波到来で寒い。
 関西の方は大変だったようだが、こちらは風は強かっただけで雪は降らなかった。

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。

三百六十二番
   左勝  施餓鬼 濱田 春良
 手向草や花によるべの水せがき
   右   月   松尾 桃青
 今宵の月磨出せ人見出雲守
 手向けの花よるべの水詞つづきやすらか聞へてよく叶候歟
 月を見かく人見出来鏡屋に有名を尤ながらかかる小家のいとなみほり句めきたり。七文字も口にたまり候歟。左勝。

 手向け草はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手向草」の解説」に、

 「〘名〙 (「たむけくさ」とも)
  ① (「くさ」は種、料の意) 手向けにする品物。神や死者などに供える品。幣帛(へいはく)。ぬさ。
  ※万葉(8C後)一・三四「白浪の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ」
  ② 植物「さくら(桜)」の異名。《季・春》
  ※蔵玉集(室町)「他夢化草。桜。雲は猶立田の山の手向草夢の昔のあとの夕ぐれ」
  ③ 植物「まつ(松)」の異名。〔梵燈庵主袖下集(1384か)〕
  ④ 植物「すみれ(菫)」の異名。
  ※莫伝抄(室町前)「手向草 すみれぞ野にあるべし 花さかばこれを宮居に手向草一夜のうちに二葉とぞなる」
  ⑤ 松の古木の幹や枝に生える地衣植物。松の苔。
  ※道ゆきぶり(1371か)「はま風になびきなれたる枝に手向草うちしげりつつ」
  [補注]②③④のように、ある草木の異名に特定するのは、「莫伝抄」「蔵玉集」といった異名歌集に見える説で、それ以前に広く行なわれていた形跡は認められない。室町期の連歌師の知識と推定されるが、その根拠や当時における流布の程度は明かでない。」

とある。補注にあるとおり、この場合は①の意味で、特に何の草ということではなく施餓鬼の死者に供える花で良いと思う。
 「手向草の花によるべの水せがきや。」の倒置で、言葉の続きが滑らかでわかりやすい。
 桃青の句の人見出雲守は鏡造りの名人と思われる。京都国立博物館の館蔵品データベースに天下一人見出雲守藤原秀次の銘のある鶴丸紋南天鏡があり、十七世紀のものとされている。それかもしれないし、天下一人見出雲守は他にもいたのかもしれないが、当時は鏡の名工として知られていたのだろう。
 月はしばしば鏡に喩えられるから、名工に磨いでもらえということだが、刀鍛冶ならいざ知らず、鏡の名工といってもそんなに誰もが知る存在ではなかったのか、それに六七六のリズムも重たい感じで桃青の負け。

四百二十番
   左勝  鹿夢  神野 忠知
 かかしにも月もれとてややぶれ笠
   右   重陽  松尾 桃青
 盃の下行菊や朽木ぼん
 案山子にも月もれ破笠句の仕立あはれにさもこそ盃の下ゆく菊朽木盆の中迄酌なかしたる体にや。今少事たらず覚申左勝。

 忠知の句は、案山子が破れた笠を被っていて、その破れ目からちょうど月が見える。月を見るためにわざと笠を一部破って風流な案山子もいるものだ、というものだ。
 これに対して、桃青の句は重陽の杯の底に沈んでいる菊が、朽木盆によくある十六菊紋の模様みたいだというもの。
 重陽の菊酒は菊の花を漬け込んだ酒で、酒の中に菊が入っているから、盃に注げば盃の底に沈む。
 朽木盆は近江国の朽木という所で作られた黒塗りに朱漆の漆器で、十六菊紋のものが多い。
 破れ笠の案山子の哀れに対して、朽木盆の菊は着眼点は面白くても哀れな情は伴わない。桃青の負け。

四百四十八番
   左持  菌   池田 宗旦
 ぬれつつにしゐたけをとる雨の中
   右   紅葉  松尾 桃青
 枝もろし緋唐紙やぶる秋の風
 雨中のしゐたけ古歌をかすりたる迄候やあまりかろし。
 枝もろしとは葉の事候や緋唐紙を破が如し秋風の吹ちらすを申なし興少し。持。

 雨の中にシイタケを取るというのは、

 君がため春の野に出でて若菜つむ
     我が衣手に雪はふりつつ
              光孝天皇(古今集)

のをシイタケで俳諧らしく卑俗に落としたものか。
 ただ、雪を雨にとなると、本歌をすり上げるのではなく下げてしまっているので、それだけ情が軽くなる。
 桃青の句は風にそよぐ紅葉の葉を破れた緋の唐紙に喩えたものだが、葉がもろいならまだしも、「枝もろし」はちょっと違うし、芭蕉の葉の破れるならわかるが、紅葉の葉は破れたような形はしていても実際には破れていない。その意味で「興少し」なのだろう。
 両方とも疵有りということで引き分け。

四百七十四番
   左   豕餅祝 望月 千之
 いはふ子ども千世もとゐのこもちゐ哉
   右勝  時雨  松尾 桃青
 行雲や犬の欠尿むらしぐれ
 左かの千世もといのる人の子のためとよみしことのはをとれるばかりにて詞のつづきもよろしからず。心もいひたらず侍にや。
 右世話にすがりてめづらかにきこゆ。かちとし侍べし。

 望月千之は望月千春の従弟だという。
 「千代もと祈る」に掛けて「千代もといのこ(猪子)」とつなげ、区全体の詞の続き具合は悪くないが、玄猪に千代を祈るのは誰もがする普通の事なので、特に珍しさはない。
 桃青の句はさっと降ってすぐに止む時雨を犬の小便に喩えたもの。シモネタだがなかなかない発想(珍らか)ということで桃青の勝ち。

2023年1月24日火曜日

 今日は寄ロウバイまつりを見に行った。二回目。
 電気代が大幅に値上げするみたいなので、屋根に太陽光パネルを付けられないかと思った。
 ただ、古い家だと屋根のスレートにアスベストが使われている可能性があるだとか、いろいろ難しいことがあるようだ。
 日本の家屋に太陽光パネルが普及しない原因の一つに、このアスベスト問題があるのではないか。
 いくら国や自治体が太陽光パネルを推奨しても、アスベストスレートの葺き替えを全面補助するなどの対策をしないと、いつまでたっても屋根上の太陽光パネル設置が進まず、無駄に山を崩してゆくことになる。
 アスベストスレート問題は古い空家がなかなか解体されない原因にもなっているのではないかと思う。

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。

二百五十番
   左持  土用干 広野 元好
 土用干小袖有間や蘭の花
   右   蚊帳  松尾 桃青
 近江蚊屋汗やさざ波夜の床
 左は芝蘭の室に入はかうばしき事をしる事家語に見ゆ小袖の掛香などの匂へるさまさもあるべし。
 右あふみ蚊屋といひて汗やさざなみといへる又めづらかに優美なり。よき持とぞ申べき。

 元好の「蘭の花」に、判者の季吟は『孔子家語』巻第四の「與善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化矣」を引いている。芝蘭の部屋にしばらくいるとそれが当たり前になるように、善人と交わると当たり前のように善人になるという意味の言葉だ。環境の大切さということか。
 土用干の小袖が香を焚き込んでいい匂いがするというところに、その寓意が読み取れる。
 桃青の句は近江の蚊帳であれば汗臭さもさざ波のようだというもので、環境よりも一人一人の気の持ちようを重視する。
 近江八幡は蚊帳の産地で、貝原益軒の『東路記』に、

 「八幡は町広き事、大津程なる所にて、富る商人多く、諸の売物、京都より多く来り、万潤沢にして繁昌なる所なり。町の北に八幡山有。秀吉公の養子、秀次の居城也。秀次を近江中納言と称せしも、爰に居城有し故也。
 此町にて、蚊帳を多くおり、染て売る。京、大坂、江戸、諸方へも、ここよりつかはす。」

とある。それに志賀の枕詞の「さざなみ」を掛けて、近江の蚊帳と思えば汗もさざ波、となる。
 環境が大事か心がけが大事か、どちらとも言えないということで、この勝負は引き分け。
 「よき持」は両方とも勝ちにしたいというくらいのニュアンスで、百十番や百六十六番のような、両方とも難ありの引き分けとは区別される。

二百七十八番
   左持  夕顔  小西 似春
 干瓢や夕顔つつむ上むしろ
   右   蝉   松尾 桃青
 梢よりあだに落けり蝉のから

 左かんへう売ものの莚に包みしたためしをかの夕がほの巻のことにすぐれたる哀におもひよそへしはさる事ながら聊傍題に似たり。
 右の句も蝉の題にからをいはん事同傍題にや。可為持。

 傍題は今ではサブタイトルの意味で用いられるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「傍題」の解説」には、

 「① 和歌・連歌・俳句で、病(やまい)として嫌う一種の体。ある題で主として詠むべき事物をさしおいて、題に添えた事物を中心として詠むこと。また、両者を同一の位置において詠むもの。
  ※仁安二年八月太皇太后宮亮経盛歌合(1167)「そもそも傍題はよまぬことなりとや申す人もあれど」
  ② 歌などで、数多く詠む中に同じ事のあること。
  ※近来風体(1387)「歌の傍題と申す事は、〈略〉又歌かずをよむに同事のあるをも傍題と申すなり」
  ③ (①から転じて) 本題をはずれること。目的がずれること。
  ※滑稽本・八笑人(1820‐49)四「すこし傍題(ハウダイ)にはなるが」
  ④ 書物・論文などの副表題。副題。サブタイトル。
  ※敗北の文学(1929)〈宮本顕治〉三「この作品には、『ある精神的風景画』と云ふ傍題がそへられてある」

とあり、ここでは①の意味になる。
 似春の句は「干瓢の夕顔つつむ上むしろや」で、干瓢にする夕顔の実を上莚で包んでゆくという干瓢売の様子に、『源氏物語』の亡くなった夕顔のむくろの哀れを込めたものであろう。
 ただ、夕顔の実の句であって、「夕顔」というタイトルから連想させる夕顔の花の句ではない。
 桃青の句は梢から無駄に落ちて行く蝉の儚い命と思いきや、蝉の殻で落ちにしている。これも蝉の句ではなく蝉の抜け殻の句だ。
ということで両方とも傍題ということで引き分けになる。

三百六番
   左   施餓鬼 鹽川 如白
 後世事や人間第一の水せがき
   右勝  立秋  松尾 桃青
 秋来にけり耳をたづねて枕の風
 後世の事人間第一勿論興少し。
 秋風枕をおどろかす体耳を尋る詞つかひおかし。右勝。

 如白の句の水施餓鬼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水施餓鬼」の解説」に、

 「〘名〙 水辺で行なう仏事。経木を水に流し、亡霊の成仏を祈るもの。特に難産で死んだ女性の霊を成仏させるため、小川のほとりに竹や板塔婆を立て、それに布を張って道行く人に水をかけてもらうもの。布の色があせるまで亡霊はうかばれないとする。流灌頂(ながれかんじょう)。
  ※俳諧・山の井(1648)秋「されば水せがきして、火の車のたけきもうちけす心ばへ」

とある。
 それにこの場合の「人間第一」だが、今日の意味ではないだろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「人間」の解説」に、

 「[1] 〘名〙
  ① 仏語。六道の一つ。人の住む界域。人間界。人界。人間道。→じんかん。
  ※観智院本三宝絵(984)下「人間はくさくけがらはし。まさによき香をたくべし」 〔法華経‐法師品〕
  ② 人界に住むもの。ひと。人類。
  ※今昔(1120頃か)五「天人は目不瞬かず、人間は目瞬く」
  ③ 人倫の道を堅持する生真面目な人。堅物。
  ※雑俳・続折句袋(1780)「人間で一生仕廻ふ不器量さ」
  ④ 見どころのある人。人物。人柄。」

 生まれ変わっても六道の内の人間道に生れるのが一番という意味で、餓鬼道や地獄道に落ちたくはない、という意味であろう。
 まあ、誰しもそう思うことだから「勿論」だけど、それ以上の余情はない。
 桃青の句は、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞ驚かれぬる
            藤原敏行(古今集)

の歌によるものだが、風の音に秋が来たのを感じるという所に、秋風が耳を訪ねてくる来ると表現する所の面白さがある。
 枕もとでささやかれて起こされる様からの連想か。桃青の勝ち。

三百三十四番
   左   踊   柏木萬年子
 宇治の里にかかりけるかな伊勢踊
   右勝  荻   松尾 桃青
 唐きびや軒端の荻のとりちがへ
 山田より内宮へかけをどりにやさのみ興なし。
 唐きび軒端の荻其陰高き事をよせ合られたり。物語の詞実おかし。右勝。

 萬年子の句の伊勢踊りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伊勢踊」の解説」に、

 「〘名〙 近世初頭に、御託宣によるとして伊勢神宮の神霊を諸国に送る神送りの踊り。慶長一九年(一六一四)から翌元和元年にかけて大流行した。近世中期、伊勢音頭が流行してからは、それに合わせて踊る踊りを称するようになった。
  ※会津塔寺八幡宮長帳‐元和七年(1621)「村々郷々にて御宮作立、其上たんす、もち、御酒、お作上よりのおしゑ之歌うたい申、御伊勢おとり有り」

とある。伊勢踊りを踊りながら伊勢まで来て、ついに伊勢の宇治橋を渡り内宮に入る。それだけ?と言われればそれまでの句だ。
 桃青の句は『源氏物語』で空蝉の寝室に忍び込んで間違えて軒端の荻と交わったことを思い起こさせながらも、内容的にはただ荻を吹く悲しげな音がすると思ったら荻ではなく唐きびだった、というもの。
 唐きびはこの時代はコウリャンのことだった。トウモロコシのことになるのはもう少し後の時代になる。そのため判にも「其陰高き事」となる。コウリャンは三メートルに達するが、荻も二メートルを越える。ともに背が高い。
 草の間違えを源氏物語になぞらえる所に面白さがあるということで桃青の勝ち。

2023年1月23日月曜日

 昨日は旧正月。昨日から俳諧は春になる。
 大寒波が来ると言ってるけど、今年は梅の咲くのが早いから、案外その先は暖かいのかな。去年は梅が咲くのが遅かった。
 まあ、コロナもどうやら五類引き下げになり、大コロナ時代も終わりということで、あとはロシアが早く負けて楽になってくれればいいね。
 Twitterで早々と今年一年の漢字なんてやってたけど、「決」がいいね。コロナにもロシアにも早く決着をつけて、マルクスの亡霊や原理主義の迷妄にも決着をつけて、世界平和を取り戻したいものだ。
 鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。

百三十八番
   左   桜海苔 加藤 治尚
 遠干潟あまの枝折や桜海苔
   右勝  花   松尾 桃青
 先しるや義竹が竹にはなの雪
 左のあまの枝折心ゆかず候歟。干潟にみだれ桜のり枝折とみるまに汐みちなば舟さす棹のさしていづくとかあるべきや。右義竹か竹に花の雪とは一よ切にも花ちりたると吹曲の篠や覧。よだれまじりのはなの雫さもこそあらめ。海士のしほりよりはまさるべく候。

 桜海苔は紅藻類で、コトバンクのデジタル大辞泉にはオキツノリとあり、精選版 日本国語大辞典には米海苔(ムカデノリ)とあって、一定していない。おそらく紅藻類で食用とされるものを指していたのであろう。トサカノリやムカデノリは今日でも食用とされている。
 治尚の句は干潟に桜海苔が落ちていたら、それは海女がこっちへ来てと残していった枝折だ、というもの。まあ、海藻はしばしば女性の陰毛の譬えとして用いられるもので、そうなると干潟も比喩ということになる。
 まあ判にあるように、そこに船の「棹」を刺してと完全にシモネタだ。
 桃青の句の義竹は宜竹(ぎちく)という尺八や一節切を作った名工で、一節切は遊郭で小唄などの伴奏でも用いられていた。それに「花の雪」なら普通に風流だが、上五の「先しるや」が「汁」で「はな(鼻)」と縁語になっていて、花水まみれの一節切という落ちになる。この落ちはなくてもよかったか。
 判も「よだれまじりのはなの雫さもこそあらめ。海士のしほりよりはまさるべく候。」となる。シモネタ対決を何とか制した桃青さん。

百六十六番
   左持  新茶  延沢破扇子
 古茶壷や昔忘れぬ入日記
   右   時鳥  松尾 桃青
 またぬのに菜売に来たか時鳥
 左右茶つぼたとひ入日記とありとも右茶のななるべければ新茶といふ題に落題なるべし。
 右菜うりにきたりといへる郭公の折にもあらずすべて心得がたし。左右みな難あれば可為持。

 入日記はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「入日記」の解説」に、

 「① 荷送りする商品に添えて入れる内容明細書。商品の在中目録。入帳(にゅうちょう)。
  ※親元日記‐寛正六年(1465)五月五日「仍長唐櫃一請取之随入日記如此一通同整之」
  ② 金銭の収支、物品の出入りなどを日ごとに記しておく帳簿。いりにっき。
  ※俳諧・玉海集(1656)四「年の内の梅の暦やいれ日記〈頼永〉」

とある。
 古い茶壷に仕入れ値を忘れないように明細書を入れて残しているという句だが、題が「新茶」というのは確かにおかしい。
 桃青の句は、ホトトギスは待っていてもなかなか来ないのに、菜売は待ってないのに明け方になるとやってくるというものだが、ホトトギスは夏のもので菜売は冬のものだから季節が合わない。
 よって「左右みな難あれば可為持」。
 なお、百五十番から夏の句になり、判者も季吟に替わる。

百九十四番
   左勝  時鳥     露沾
 一夢や千万人のほととぎす
   右   端午  松尾 桃青
 あすは粽難波の枯葉夢なれや
 左は杜牧之が阿房宮賦の詞より一こゑや千万人の心とふくめて一唱万嘆の所あり。
 右は西上人のかにはの春を俤にしてあすのかれはを想像たるもえ思ひよるまじき句体ながら猶左のたけたかきには及まじくや。

 露沾は磐城平藩の殿様内藤風虎の次男で、芭蕉とはこの後も長い付き合いになり、『笈の小文』では旅のスポンサーの紹介として、

 「時は冬よしのをこめん旅のつと
 此の句は露沾(ろせん)公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初(はじめ)として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪(とぶら)ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧(かて)を集るに力を入れず、紙布(かみこ)・綿小(わたこ)などいふもの、帽子(まうす)・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛(ゆくへ)を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」

と一文を記している。
 まあ主催者の息子ということで勝負は見えている感じもする。
 露沾の句は、杜牧の『阿房宮賦』の、

 「鼎鐺玉石,金塊珠礫,棄擲邐迤,秦人視之,亦不甚惜。嗟乎!一人之心,千萬人之心也。」

を踏まえたもので、秦の始皇帝が建てたという阿房宮は三百里(中国の里は一里約四百メートルなので約百二十キロ)に渡る巨大な宮殿で、そこに諸国から巻き上げてきた膨大な数の宝は、見向きもされないままガラクタのように積み上げられていた。
 秦の始皇帝のこの贅沢を千万人が真似するということだが、ここではホトトギスの一声は千万人が感銘するという意味に用いる。
 一方、桃青の句は、

 津の国の難波の春は夢なれや
     葦の枯葉に風わたるなり
             西行法師

の歌を踏まえたもので、粽は笹を使うものが多いが芦の葉で包んだ葦粽というのものあった。
 難波の春の芦の若葉も刈り取って干されて、やがては粽を包むのに用いられる。
 西行法師の歌を本歌に取りながら、芦の葉の哀れさを更にそれが粽になる哀れさへ一段摺り上げて作る芭蕉の得意のパターンではあるが、相手が悪かった。「猶左のたけたかきには及まじくや」と、確かに露沾の句はストレートで力強くはある。

二百二十二番
   左   祇園会 望月 千春
 山山をかきて出たり祇園会
   右勝  五月雨 松尾 桃青
 五月雨や龍灯あぐる番太郎
 左の山々の文字発句度々に出て不珍やあらん。
 右五月雨の海をなしたる風情俳諧体によくいへり。可為勝。

 祇園御霊会は京の祇園社(八坂神社)の祭りで、山鉾巡業で知られている。
 次から次へとやってくる山鉾を「山々をかきて出たり」とするが、このネタは京の季吟にとっては特に新しいものではなく、町の人が皆冗談に言うありきたりなものだったのだろう。
 桃青の句の番太郎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「番太」の解説」に、

 「① 江戸時代、町村で治安を守り、警察機構の末端を担当した非人身分の番人。平常は、番人小屋(番屋)に詰め、町村内の犯罪の予防、摘発やその他の警察事務を担当し、番人給が支給されていた。番非人。番太郎。番子。
  ※俳諧・当世男(1676)秋「藁一束うつや番太が唐衣〈見石〉」
  ② 特に、江戸市中に設けられた木戸の隣の番小屋に住み、木戸の番をしたもの。町の雇人で、昼は草鞋(わらじ)、膏薬、駄菓子などを売り内職をしていた、平民身分のもの。番太郎。番子。
 ※雑俳・柳多留‐二二(1788)「番太がところで一トどら御用うち」

とある。非人身分のものが警察官のような仕事につくのは江戸時代では普通のことだった。交番のお巡りさんの前身のようなものかもしれない。龍灯を灯して回るのも番太郎の仕事だったのだろう。
 龍灯はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「龍灯」の解説」に、

 「① 深夜、海上に点々と見られる怪火。龍神が神仏にささげる灯火といい伝え、各地の神社に伝説があるが、特に九州の有明海や八代海で、盆の前後や大晦日(おおみそか)に見られるものが有名。蜃気楼現象で、漁火の光の異常屈折現象といわれる。不知火(しらぬい)。《季・秋》
  ※三国伝記(1407‐46頃か)六「龍燈は浪をき来て海上に浮んで熖々たり」
  ② 神社に奉納する灯火。神社でともす灯火。神灯。
  ※歌謡・淋敷座之慰(1676)地蔵の道行「齢久しき白髭の、宮居もあれに立給ふ。りうとうの光りまし、御殿を照させ給ひける」

とあり、本来は②の灯籠を灯して回るもので愛宕灯籠のことと思われるが、判辞の「五月雨の海をなしたる風情」は五月雨の中の愛宕灯籠を、さながら海の龍神の灯す龍灯のようだとして勝ちとする。

2023年1月22日日曜日

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。今日は秦野市俳句協会の句会の日だったのでちょっと少なめに。

八十二番
   左   猫妻恋 長坂 守常
 妻恋やねしみをあけて猫の皮
   右勝  同   松尾 桃青
 猫のつまへつゐの崩れよりかよひけり
 左猫は傾城の後身と申はふ違所なし。三線の皮と成てむかしは三筋町今は三やの夕人待ねしみ撥にてもまねくは知音と云物やらん。右のへついの崩れより通らば在原ののらにや。よひよひことにうちもねうねうとこそ啼らめ。いづれもおとらぬ唐猫なれども妻恋の物語につきて右をかちとす。

 守常の句の「ねしみ」は享保の頃の『今様職人尽百人一首』の琴三味線師の歌に、

 かざりよく渡せる弦のおく琴は
     したてて見ればよきねじみなり

の用例がある。
 「ねじみ」は今のところ謎だが、津軽三味線では「音締め」と「音澄み」があって、音締めはギターでいうハーモニクス、音澄みはカッティングのことらしい。「あけて」が「上げて」なら単に音色のことなのかもしれない。
 守常の句は、妻恋に鳴いてた猫が今は吉原の三味線になって客を招いている、という意味であろう。任口の評は音色に掛けて「知音(友)」を招くと洒落ている。
 桃青の句は『伊勢物語』第五段の、

 「むかし男ありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、わらはべの踏みあけたる築地ついひぢのくづれより通ひけり。」

という築地の崩れた所から男が通ってきて、結局バレちゃう話を踏まえている。
 猫も恋の季節になるとどこからともなく通ってくるが、猫はよく竃で暖を取ったりするから、灰だらけになっていて、さては竃の崩れていて入れる隙間から入って来たに違いない、とする。
 それを任口は「在原の野良にや」として、「妻恋の物語につきて右をかちとす」と出典となる物語が良く生かされているとして、桃青の勝ちとする。

百十番
   左持  出替  前川 由平
 出がはりの水しは井筒の女かな
   右   上巳  松尾 桃青
 竜宮もけふの鹽路や土用干し
 左右同じほどか勝負までもなし

 「水し」は「水仕(みづし)」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水仕」の解説」に、

 「〘名〙 (「御厨子」を「水仕」と解したところから) 台所で、煮炊き、水汲み、食器洗いなどをすること。水仕事をすること。また、それをする下女。水仕女。
  ※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)一〇「さて百人のながれのひめがありけるが、そのしものみづしはの、十六人してつかまつる」
  ※人情本・花筐(1841)五「先非を悔ひ歎き、たとへ炊業(ミヅシ)の業をしても」」

とある。雇われて炊事している女は、確かに井戸の側にいつもいそうだ。
 桃青の句も「上巳」という題だが、唐突に竜宮の塩路が出てくるかよくわからないし、土用干しは夏で季節が違う。
 多分上巳に供える海産物が竜宮の塩路みたいで、その頃が新月に近い大潮だから、水も引いて竜宮が土用干しされているみたいだ、ということなのだろう。
 どちらとも意味が取りにくい句で、それで引き分けになった感じもする。判定がどこか投げやりだ。

2023年1月21日土曜日

  さて、それでは予告通り、磐城平藩の殿様、内藤風虎の企画した『六百番俳諧発句合』(延宝五年)を見ていくことにしよう。テキストは『俳諧句合集』(明治三十二年刊、博文館)を用い、ネット上の檀上正孝さんの「『六百番俳諧発句合』の研究─内藤家所蔵「稿本」の紹介をかねた若干の考察─」も参考にしてゆく。
 判者は任口、季吟、維舟の三名で、任口は芭蕉の『野ざらし紀行』の旅でも訪ねて行った伏見西岸寺の住職で、季吟と共に伊賀にいた頃からの交流があったのではないかと思われる。
 季吟は言わずと知れた芭蕉の師匠とも言うべき人だ。談林の平俗に流されず、古典の心を重視した姿勢は季吟から学んだものであろう。
 維舟は松江重頼の別号で御年七十五歳の重鎮だ。
 『六百番俳諧発句合』は六十人の参加者が左右三十人づつに分かれて、それぞれ二十番勝負を行うもので、桃青は右だから左の作者三十人の内二十人と当たることになる。
 句合は本来は順位をつけるものではないが、仮にサッカーの勝ち点に倣って点数を付けて行くとするとこうなる。勝=3、良持=2、持=1、負=0で計算してみた。
 言水VS久明は勝負保留になっているが、これも持として計算する。

風虎 56  虎竹 36  野双 32  正立 39  紫塵 29  吟松 26
行林 31  研思 18  保俊 30  千之 27  幽山 33  宗旦 34
忠知 30  春良 28  万年子23  如白 21  似春 34  元好 27
千春 33  露沾 52  破扇子32  治尚 23  由平 34  守常 23 春澄 39  露幽 23  松寸 30  正藤 27  久友 23  言水 21

曲言 30  林元 24  三昌 20  衆下 26  紀子 15  方格 18
久明 20  塵言 32  正成 17  朝徹子31  好元 18  酔鶯 23
繁常 16  重安 21  一欠 27  友也 24  木子 25  意朔 33
信章 22  幽明 21  以仙 22  従古 21  如流 13  勝政 18
泰徳 24  桃青 33  由可 23  初知 22  有安 23  聞也 16

 順位はこのようになる。

1.風虎 56
2.露沾 52
3.正立 39
3.春澄 39
5.虎竹 36
6.宗旦 34
6.似春 34
6.由平 34
9.幽山 33
9.千春 33
9.意朔 33
9.桃青 33
13野双 32
13破扇子32
13塵言 32
16行林 31
16朝徹子31
18保俊 30
18忠知 30
18松寸 30
18曲言 30
22紫塵 29
23春良 28
24千之 27
24元好 27
24正藤 27
24一欠 27
28吟松 26
28衆下 26
30木子 25
31林元 24
31友也 24
31泰徳 24
34万年子23
34治尚 23
34守常 23
34露幽 23
34久友 23
34酔鶯 23
34由可 23
34有安 23
42信章 22
42以仙 22
42初知 22
45如白 21
45重安 21
45幽明 21
45従古 21
45言水 21
50三昌 20
50久明 20
52研思 18
52方格 18
52好元 18
52勝政 18
56正成 17
57繁常 16
57聞也 16
59紀子 15
60如流 13

 こうやって見ると主催者の風虎・露沾の親子は別格として、桃青(芭蕉)の9位は堂々たる成績といえるだろう。信章(素堂)は42位。言水は45位だった。
 六百番全部読むのはなかなか大変なので、まずは桃青の登場する所を見てゆくことにする。

二十六番
   左持  元日  矢吹 路幽
 万歳のこゑのうちにや君がはる
   右   門松  松尾 桃青
 門松やおもへば一夜三十年
 左の内にや右の一夜同じさまにうたれきこころばへは持とす。

 芭蕉が三十になったのは寛文十三年のことで、句合の為に二十句提出する際には、全部が描きおろしではなく、旧作も混ざっていたのだろう。
 正月になれば一つ年を取るので、大晦日から元旦にかけて一夜明ければ三十歳になっているとすれば普通のことだが、「一夜三十年」というと一瞬一夜にして三十年が経過したみたいな印象を与える。えっと思わせて、ちょっと考えて「何だ三十になったってだけか」となる考え落ちと言って良いだろう。
 路幽の句は角付け芸人の万歳がやって来て、その声に春が来たのを感じるというものだが、これも「万歳」と最初に切り出すことで一万歳とまではいかなくても長寿を連想させ、ちょっと考えて、「そっちの万歳か」と落ちになる。
 ありきたりな歳旦の趣向に一工夫という点ではこの二句は似ていて甲乙つけがたい、という任口さんの判断であろう。

五十四番
   左勝  水掛祝 青木 春澄
 きのふこそ寒こりみしか水あみせ
   右   霞   松尾 桃青
 大比叡やしの字を引て一かすみ
 左きのふこそ寒垢離行者の床も新まくらの夜床明るわびしき水あみせも慚愧懺悔六恨清浄殊に清め所あるべく候。右のしの字文字は直して心横へ引たるにや愚なる者悟りかたし人皆発明せずは黒闇地獄に堕在々々寒垢離こそ清からめ。

 春澄は翌延宝六年秋、松島から京へ帰る途中に江戸に立ち寄って、「のまれけり」の巻、「青葉より」の巻、「塩にしても」の巻の三吟を似春とともに巻いている。
 延宝九年刊信徳編の『俳諧七百五十韻』に参加し、その時の、

 鳫にきけいなおほせ鳥といへるあり 春澄

の句に応じるように、『俳諧次韻』に、

 春澄にとへ稲負鳥といへるあり  其角

を発句とする百韻が収められている。
 その春澄の句は、昨日寒中に冷水を浴びて身を清める寒垢離をしている人を見たから、俺も水浴びしよう、という句。
 これに対し芭蕉の句は仮名草子『一休ばなし』のネタで、大文字で長々と書けと言われて一文字「し」を書いたという話から、比叡山は霞も「し」の字にたなびくとする。
 ただ、「し」の字は縦に線を引くものだが、霞は横にたなびくので無理がある。「心横へ引たるにや愚なる者悟りかたし」と読むほうも意味がすぐに分からない。桃青の負け。

2023年1月20日金曜日

 今日は二宮の吾妻山公園に行った。平日だけどとにかく人が多かった。
 菜の花は盛りでウサギが一羽と猫のチャミちゃんがいた。
 そのあと知足寺の曽我兄弟の墓へ行った。


 今日『俳諧句合集』(明治三十二年刊、博文館)が届いたので、明日から『六百番俳諧発句合』を読んでみようと思う。
 Twitterでは「磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合を企画したとき‥‥」とか書いていたけど、実際芭蕉の句がどういう勝負で、勝ったのか負けたのか、どういう判定だったのか見てみたくなった。

2023年1月17日火曜日

 今日は寄(やどりき)の蝋梅を見に行った。
 蝋梅は五分咲くらいだったが、木によってはほぼ満開のものもあった。
 曇っていて途中少しの間霙がふった。

 蝋梅の雫に溶ける霙かな

 鹿のシチューを食べた。

 

 経晢草稿をここまで読めば、マルクスがどこでしくじったか明らかだろう。
 交換価値が需要と供給の関係で決まることを知ってたにも関わらず、それで経済学を新たに作り直そうとせず、古典経済学の権威に引きずられてしまった時点ですでにアウトだった。
 しかも古典経済学の労働価値説は一つの作業仮説だったにも関わらず、それを一つの哲学にしてしまう愚を犯した。
 労働価値説はいかなる労働をも等価にすることで、互いに足を引っ張り合い、人々を貧困に縛り付けるものだったにも関わらず、それを人間の本来あるべき姿としてしまったことで、マルクス主義はその意図に反して労働者に飢餓と粛正をもたらす哲学となり、資本論は史上最悪のトンデモ本となった。

2023年1月16日月曜日

 経哲草稿の続き。

 「労働の生産物の全体は、なりたちからしても概念的に考えても労働者に属すべきものだ、と国民経済学者は言う。が、同時に、現実には生産物のごくわずかの、必要最小限の部分しか労働者のものになっていない、とも言う。」

 これま「国富論」を見て来た時にいった通り、労働価値説は労働者の必要最小限の物資の価値と労働時間が等しいという前提に立っているから当然のことだ。
 なぜそうなるかについては、交換価値が農民がぎりぎり食っていける生活物資に合わせて商工業者や芸能などの商品やサービスの交換レートが決まるからだ。つまりこれらの人々すべてが平均的に暮らせるように相互抑制することによって、労働者の取り分が必要最小限の物資と等価になるように定まっているからだ。
 これは資本主義の発達する前からそうであり、また資本主義によって工業生産性が上がったにもかかわらずその水準が維持されていることを意味する。

 「人間としてではなく労働者として生存するのに必要な部分しか、いいかえれば、人類を生み育てるのではなく、労働者という奴隷階級を生み育てるのに必要な部分しか、かれに属さない、と言う。」

 前にも言ったが、小作と農奴との境界は契約の有無であり、契約によって働くか強制によって働くかの違いだと言った。
 いずれにせよ、他に生存手段がないのであれば、この違いはそれほど重要ではない。基本的には生存と引き換えに服従するだけのことだ。
 この生存の取引は、原始贈与社会の段階から、生存に必要な最低ラインに抑制されていた。冷たい社会では出る杭は打たれる式の相互抑制によって最低ラインに保たれ、熱い社会では灌漑農法によって農地を管理する支配者階級が誕生することで、それとの契約かあるいは隷属によって最低ラインが敷かれることになる。
 基本的には人間は社会なしでは生きられないため、自らの生存を社会と取引しなくてはならない。そこに立ちふさがるのは常に出る杭は打たれる式の平均化であり、それが人を最低限の生活に縛り付けている。
 それは契約であれ隷属であれ同じことだ。契約の場合は契約解除された場合、両義的な意味でのフリーになる。つまり自由であり同時にクビだ。それで生活の当てがあればいいが、なければ餓死だ。
 奴隷の場合も同じく、奴隷解放は事実上のクビだ。自由人として生きてゆける当てがあればいいが、なければ餓死だ。
 自由は契約の解除であり、日本でも野球の選手の場合は「自由契約」という言葉を用いる。それは生存の取引の解除だ。人は生存を担保にして自分の自由を捨てて社会の一員になる。だから人生に何か希望が持てるとしたら、それは自由になることではなく、契約を有利に更新することだ。
 生存の首根っこを社会に握られ、生殺与奪権を与えている限り、基本的に資本主義だろうが社会主義だろうがそこに自由なんてものはない。
 だからこそ社会主義がこの問題を解決できたのかどうかは問われなくてはならない。資本家が国家の指導体制に取って代わっただけでは、労働者の生活は変わらないどころか、むしろ効率の悪い経営によって悲惨なことになるだけだ。
 マルクスのここでの問題提起が間違っていたとは思わない。ただ、本当の意味での解決策を見出せたかどうかが問題だと言ってもいい。当時の古典経済学やヘーゲル哲学で答えが出せたのか。それはまだとても科学的と言えるようなものではなく、結局ユートピア社会主義のページ数を増やしただけではなかったか。

 「国民経済学者は、すべてが労働によって買われ、資本は蓄積された労働以外のなにものでもない、と言うが、同時に、労働者はすべてを買うことができるどころか、自分自身と自分の人間性を売らねばならない、と言う。」

 これも当然だ。すべてを買うということはすべてが売られているということだ。自分自身と自分の人間性を売ることで、自分自身の生存そのものを買っているのだ。

 「なまけものの地主の手にする地代が、大抵は農業生産物の三分の一に達し、勤勉な資本家の利潤が金利の二倍にもなるというのに、労働者が受け取る余剰分は、せいぜいのところ、四人の子どものうち二人は飢えて死ぬしかない、という程度なのだ。」

 この「四人の子どものうち二人」がどこから導き出された数字かは分らないが言い得て妙だ。つまり四人の子どものうち二人死ぬことで人口は一定に維持される。
 四人の子どもが四人育ったのでは人口爆発が起こる。それを今日では最初から出産する子供の数を二人以下にするということで解決していると言って良い。
 労働者がそうであるなら、事情は農村でも同じだろう。四人の子どもがいれば一人は嫡男で、一人は他の嫡男の所に嫁に行く。後の二人はというと、男は都会で労働者を目指し、女は娼婦になるのかもしれない。労働者を目指す男は労働者の息子と激しい競争にさらされることになる。

 「国民経済学者によれば、唯一、労働によってこそ人間は自然生産物の価値を高めることができるし、労働こそが活動する人間の財産なのだが、同じ国民経済学の言うところでは、たんに特権をあたえられたというだけの無為の神々である地主と資本家が、至る所で労働者の上に立ち、労働者に掟を押しつけてくるのだ。」

 これは地代と資本益を領主と経営者の給与と混同している。だが、この混同こそが後の「資本論」の最大の失敗に繋がるものだ。
 領主は領主が食ってゆくための取り分とは別に領土を守るためのストックを必要とする。領土は絶えず侵略の恐怖にさらされるし、飢饉がきて農民がみんな餓死したら自分も餓死することになるから、それへの備えもしなくてはならない。また、領主の上にはさらに国王がいて、あるいはその上に更に皇帝がいる場合もある。そうした者の庇護を受けるためにも、それなりの交際費を支出しなくてはならない。
 つまり資本益の中から自分の生活のための取り分を取ったら、あとはいざという時に備えて内部留保する必要が生じる。
 確かにその生活のための取り分は、農民や労働者とは比べ物にならないほど贅沢だったかもしれない。その多くは前述の交際費に消えることになる。
 領主も資本家も自らの経営能力を絶えずアピールする必要がある。そのために自分たちがいかに人の羨望を集める力があるかを競わなくてはならない。
 無能と判断されれば、領主は所領を巻き上げられ、資本家はお得意様を他の資本家に奪われることになる。彼らは何もせずに無為の神々でいるのではない。神々にふさわしい消費を要求されていると言った方が良い。
 特に近代の資本主義では、資本益は常に市場調査や商品開発や技術革新に投資しなくてはならず、その上で業務拡大や新規事業に更なる投資をしなくてはならない。そしてそれを引いた余りの中から経営者の賃金と株主への配当が支払われることになる。
 剰余利益がすべて資本家の懐に入っているわけではない。ましてその剰余利益をすべて労働者に還元してしまったら、資本家は事業を維持することすらできない。前近代の貧しさへ逆行してゆくだけだ。

 「国民経済学者によると、労働こそが物の唯一・不動の価格であるのに、労働の価格ほど偶然に左右され、大きな変動にさらされるものはない。」

 これで分ったと思うが、マルクスは労働価値説を富を分析するための便宜的な尺度ではなく、形而上学的な命題として捉えていた、その証拠といっていいだろう。
 労働の価格が労働者の最低限必要な生活物資の価格であることで、労働価値説が成立する。大きな変動にさらされるとしたら、それは労働者がそれ以上の配分を受けるようになった時だ。つまり、資本主義の発達によって労働者への給与が上がり、農村との格差ができた時、同じ労働者でも大きな差が生じることになる。いわゆる能力給が導入されれば、そこには出る杭は打たれる式の相互抑制が効かなくなる。だがそれは労働者の地位が上がったからで喜んだ方がいい。
 これに対して社会主義は逆に労働者の賃金を農村の平均に縛り付けるしかなくなる。「我々がお百姓さんより多く貰ったんでは失礼だ」ということになる。

 「分業は労働の生産力を高め、社会の富と品位を高めるものなのに、その分業が労働者を貶めて機会にしている。」

 そんなことはない。労働者は最初から機械だ。
 ただすべての工程をこなす機械から、一つのことを専門に行う機械になったにすぎない。
 すべての行程をこなすことに人間としての喜びがあるかどうかは、ただその人の人生観によると言って良い。
 昔の画家はまず絵の具を作る所から始まり、自分の納得のゆく絵具を自分で開発してから絵の制作に入っていた。
 その過程を専門の絵具職人に代わってもらった時、画家はただ絵を描くだけの機械になり下がったのだろうか。
 あるいは漫画家が一つのプロダクションを作って、漫画家は作品のネーム作りに専念し、原稿の制作をアシスタントがするようになったとき、漫画家はネーム製造機になったのだろうか。
 労働者は分業で機械になったのではない。自営業から雇用労働者になった時点で既に機械になっている。
 ならば社会主義になれば画家や漫画家は機械ではなくなるのだろうか。逆だろう。国家に命じられた物しか描けない作画機械になり下がるだけだ。

 「国民経済学者によると、労働者の利害はけっして社会の利害と対立しないのに、社会は常に労働者の利害と対立している。」

 これも一つ言うなら、対立してるのは「社会」だろうか。労働者と資本家が対立しているというならわかるが、何で社会と対立するのだろうか。資本家=社会なのだろうか。
 敵が資本家であれば、労働者が豊かになるには資本家と対峙して、雇用契約を改善してゆけば済むことになる。つまり後のマルクス主義者の言う「組合主義」であり、資本主義の枠内での「修正主義」ということになる。
 これに対してマルクス主義者は社会そのものを転覆させなくては駄目だと考える。
 革命至上主義は今の日本共産党もそうだ。すべての社会問題は個々の解決の道を探るのではなく、初めに革命ありきであり、すべての不満を革命のただ一点へと誘導する。逆に言えば革命なしに勝手に解決することを許さない。
 その違いが既にこの一文に現れている。

2023年1月15日日曜日

  昨日からどんより曇っていて雨が降ったりやんだりしている。気温も朝の冷え込みがなく、春めいてきている。

 労働価値説は基本的には一定時間働いている限り定数であり、生産性に影響されることがない。
 今のマルクス主義者が生産性という言葉を忌み嫌うのも、それを考えれば納得できる。
 生産性がどれだけ低下しようと、それによって労働の価値が下がることはない。だから同じように報酬が与えられるべきだということになる。
 生産性が低下すれば実際には確実に物が不足するわけだが、それは誰かが搾取しているからで、そいつを見つけ出して粛正しろということになる。
 また、この価値は通貨供給に左右されることもない。物が不足して物価が上がれば、その分通貨供給を増やせば良いということになる。
 国家は物が買えるようになるまで無制限に通貨供給を増やすことができる、というわけだ。もっとも、通貨が増えたから物が増えるわけではないが。
 逆に人口の増加はそれだけ総労働時間が増えることになるから、人口は増えれば増えるほど国家は潤うという理屈になる。少子化は国を貧しくする、国家の失政だ、と糾弾することになる。
 ここまで言えば、労働価値説のどこが問題かがわかるだろう。
 つまり労働時間は生産を保証しないということだ。生産物がなければ人は生きられないのに、労働時間はそれを保証しない。飢餓と粛清へまっしぐらだ。
 なら人の豊かさは何で決まるかというと、それは生産性だ。
 短時間の労働で効率よく生きてゆくのに必要な物資が手に入れば、それは裕福だと言って良いだろう。

 余談だが、今日のように労働市場がグローバル化すれば、たとえ国内が少子化で労働者が不足したとしても、まだ人口増加が続いてる国からいくらでも労働力の供給を受けられる。
 これが先進諸国の給与が伸び悩んでいる最大の原因だ。
 欧米は大量の移民を入れているから、数字の上では移民の給料が上がるので、給与水準が上がっているように見える。それはこれまで安くこき使ってた移民が元からいる国民のレベルに近づいただけで、元からいる国民が豊かになったわけではない。日本も実質的にはかなりの数の外国人労働者を受け入れている。
 もう一つは外国人労働者を現地で雇用するというもので、工場ごと海外に移転させるやり方だ。工場が移転すれば国内の雇用がその分減るから、国内労働力の過剰につながる。
 つまり、先進国がいくら少子化しても、世界全体の人口が増え続けている限り、その効果は限定的ということだ。人口増加地域の労働者が大量に流入するかそれを雇用するために工場が出て行くことが繰り返される限り、我々はまだ多産多死の時代を生きていることになる。基本的にこの問題の解決は地球全体の少子化によって地球全体の人口増加圧力がなくなるまで無理ということになる。

 ロシア自体はそれほど人口増加の圧力にさらされていないし、中国の人口も頭打ちになっているから、ウクライナ侵略は人口増加による古典的な戦争ではないし、中国の少数民族弾圧や香港・台湾の問題も人口増加によるものではない。
 ただ、人口増加の国々にわだかまる反西洋文明の動き、特にイスラム原理主義が顕著だが、こうした人たちの支持を得られ、国連を制することができるということが、暴挙への歯止めをなくしていると思われる。
 それに加えて、先進諸国のマルクス主義者の残党の支持も得られれば、西側諸国のウクライナや台湾への支援の大きな足かせになる。それだけでなく、西洋のキリスト教原理主義もイスラム原理主義と同様、かつての社会主義に取って代わろうとしている。プーチンもロシア正教会の支持を受けている。こうした人たちが侵略戦争を支持してくれるという戦略的な読みがある。
 明確な必然性がないから、ロシアや中国の国内世論が侵略戦争に熱狂しているわけではない。ただ独裁政治であるが故に反乱には至らないという、もう一つの戦略的な読みがある。実際には必然性がないという油断が虚を突かれる結果となった。戦争は必然性がなくても独裁者の意志があれば起こせる。
 基本的には全世界が十分な生産性向上を成し遂げ、少子化で人口増加圧から解放されるまで、資本主義への不満はくすぶり続け、それがマルクス主義やイスラム原理主義、キリスト原理主義と結びついて、生産性を無視した文明破壊で問題が解決できるかのような幻想を与え続けることになる。
 ウクライナ戦争はプーチン一人が起こしている戦争ではない。世界には何億人ものプーチンがいる。そのプーチンの条件はこうだ。

1,世界は一つになるべきだと思っている。
2,民主主義は衆愚政治であり、優秀な指導者による哲人独裁が必要だと思っている。
3,貧しくても幸せならいいと思っている。

 1は世界を一つにするための、いわば「世界征服」のための侵略戦争を容認する。また、グローバル経済が世界を一つにしているのをアメリカ世界侵略と認識していて、それに対抗するための侵略戦争は「良い侵略戦争」だという認識を生み出す。
 2は当然ながら独裁を肯定し、独裁者の判断一つで侵略戦争を起こせると考えている。
 3は経済を破壊しても構わないという思想を生み出す。人々が貧しくなり飢餓に陥ろうとも、1と2を貫く。
 こうした人たちは必ず侵略と独裁と飢餓を正当化する。
 この三つを唱える人は警戒するだけでなく断罪する必要がある。それは平和と民主主義を守るための戦いであり、世界が戦乱と飢餓で破滅するのを防ぐための戦いだ。
 ただ、その一方で我々は未だ多産多死のマルサス的状況から抜けられない人たちへの援助を惜しんではならない。
 彼らにいきなり先進国と同様の人権意識を押し付けるのではなく、まず経済成長を助けて、「衣食足りて人権を知る」を体験させなくてはならない。

2023年1月14日土曜日

 今日は近所の河原のどんど焼きを見に行った。
 道祖神の祭りで、秦野には道祖神塔がたくさんあって、道祖神塔の所に正月飾りが積んであったりした。
 竹竿の先に三色の団子を下げて火に炙って食べる。今年は見るだけだったが、来年はやってみよう。

 それでは経哲草稿の続き。
 この頃ちょっと風流から離れているけど、もう少ししたら戻ろうと思う。

 「こうして資本家のあいだの競争が激しくなり、資本の集中度が高まり、大資本家が小資本家を滅ぼし、以前資本家だったものの一部が労働者の階級に転落する。ために労働の供給が高まり、またしても賃金が引き下げられるとともに、労働者は少数の大資本家にますます依存することになる。」

 経哲草稿のマルクスは労働者がどこからきたのかという問題を完全に忘れているように思える。
 資本家同士の競争に敗れた者が労働者に転落するにしても、それが労働市場に影響を与えるほどのものなのか。
 労働者は農村から絶えず供給されていたはずだ。家督を継げない次男三男以下は、かつては日本なら乞食坊主、西洋ではよくわからないが、当然早かれ遅かれ野垂れ死ぬ運命だっただろう。
 それが資本主義によって雇用が生まれ、かろうじて生きながらえる手段を持つに至った。その両面があったはずだ。
 驚くべきなのは、その時点で既にブルジョワと同等の権利を要求していることではなかったか。
 貧困は人口増加によって自然に生じている。有限な大地で全ての人は生きられないから、そこで命に序列を付けていた。
 マルクス主義者が人口論を真っ向から否定するのは、それが最大の弱点だからに他ならない。
 そして人口学の視点を欠いた革命理論は飢餓と粛清の大地に逆戻りさせた。
 フランスの人権宣言は確かに理想だった。それは後に爆発的な経済成長と少子化で現実となったが、当時のそれは何をもたらしたかというと、ナポレオンの侵略戦争だった。
 この当時ではフランス人権宣言は遥か未来の希望に過ぎなかったはずだ。何かマルクスの文章を読んでいると、それを文字通りのものと捉えて現実を全く度外視した、それこそ「空想的社会主義」ではなかったかと思う。
 それは人の良心に訴えるには心地良いが、実行に移したらとんでもないことになるなる、そういう類のものだった。
 マルクスが科学的社会主義を目指したことで、こうした当時のトンデモ本とは違うと言いたかったのだろう。ただ、それをやるにはまだ当時の科学は未熟で、結局は古典経済学とヘーゲル哲学を頼るしかなかった。それが経哲草稿だったのではなかったか。
 その一つが、せっかく市場原理が需要と供給の関係で生じることを見出しておきながら、資本論を書くときには古典経済学の重力に沈んでいったのではなかったか。

2023年1月13日金曜日

 マルクスの『経済学・哲学草稿』(略して「経哲草稿」と呼ばれる)の「一、賃金」の冒頭はこのように始まる。テキストは光文社古典新訳文庫の電子版を使用。

 「賃金は、資本家と労働者の敵対する闘争によって決まってくる。」

 近代経済学なら「資本家の側の労働需要と労働力の供給の関係によって決まってくる」とするところだろう。
 微妙な違いだが、決定的に異なるのは、資本家と労働者との間の流動性がなく、完全に相容れることのない階級として認識されていることと、労働力の供給に人口学の視点を入れる余地がない所であろう。

 「資本家の勝利は動かない。資本家が労働者なしで生きのびられる期間は、労働者が資本家なしで生きのびられる期間より長いからだ。」

 これは初期資本主義の段階では資本家が原始的蓄積として一定の蓄えを持っていることが前提される。
 資本家が自己資本がなく完全に借金によって投資をしていて、なおかつ労働者の側に多少なりとも蓄えがある現代の労働者ならこの限りではない。
 また、資本主義の初期の段階で資本家の勝利は人口学的にも説明できる。つまり多産多死社会では常に労働力は供給過剰になるからだ。
 農村からは田畑を相続できない二男三男以下が皆労働力となって絶えず都市の工業地帯へ供給される。
 前近代社会ではこうした人たちは宗教によって救済された。とは言っても全員というわけにはいかない。宗教団体が寄付を集めてそれで行き場のない人たちの生活の面倒を見るにしても、自ずと限界がある。
 基本的には貴族や武家の子弟を優先させ、その下に無数の乞食坊主がいることになる。
 下層の宗教者は托鉢や角付け芸などで生計を立てたとしても、全員を救うだけの余裕はなく、多くは「野ざらし」になる。それが前近代社会だった。
 少しづつ商工業が発展して来れば、ある程度の人間がそこで雇用されるようになる。ただ、増え続ける人口に労働需要は追いつかないから、やはり多くは「野ざらし」ということになる。
 戦争というのもある程度は余剰人口の整理に役に立ったかもしれない。あるいは偶発的に流行する疫病も余剰人口を一気に消し去ったかもしれない。ただそれは一時的なものにすぎない。人口増加の圧力はこうした悲劇をも超えて人口を増やし続ける。
 基本的に下層階級の食いつめ者がどんなに悲惨な運命をたどろうが、下層階級の人口は増え続ける。だから人口が増えているからと言って差別や虐待が存在しなかったことの証拠にはならない。
 全体の経済が多少なりとも成長していれば、土地あたりの生存可能な人口、つまり定員が増えるため、人口は増加する。
 資本家が労働者なしに生きのびられる期間は原始的蓄積の多い少ないに依存する。
 これに対し労働者が資本家なしに生き延びられる期間は、どれだけ人脈を持っていて他人の世話になりながら生きられるかにかかっている。そのため労働者は常に恩義によって互いに縛り付け合い、互いに抑制し合ってぎりぎりの生活に縛り付けている。
 少しでも金が入ったら気前よく仲間に奢り、金がなくなったらその時の恩を返してもらおうとすることで、互いに最低限の生活を維持するとともに、そこから抜け出すことを許さない。
 そして飢える時はこうした相互依存の集団ごと飢えてゆくことになるが、大抵はその前に互いに気が立ってきて、喧嘩などで負けたら排除され、野垂れ死ぬ方が多いだろう。
 もちろん人口増加の圧力は資本家とて例外ではない。貧乏人の子沢山とは言うが、資本家だってそこそこ子沢山だった場合、必ず家督争いが生じる。あるいは日本ならお寺に、西洋なら修道院に放り込まれる。そこで居場所があればいいが、なければ労働者に転落する。こうして資本家の人口増加圧もまた労働者が引き受けることになる。

 「労働者にとっては、資本と土地所有と労働が切り離されていることが致命的なのだ。」

 土地所有に関しては、日本でも西洋でもかつては自由に売買できるものではなかった。
 土地は天下の物であり、その配分は王や領主の権限だった。日本の江戸時代でも庶民が売買できるのは間口などの借地権だった。
 王や領主の配分する所領としての土地所有と、町人の土地所有は同じものではなかった。
 資本家が元領主であれば、領内の土地を自由に使うことができただろう。これに対し町人から成りあがるには広い間口を確保する必要があった。間口の権利は商人同士で売買される。芭蕉の時代の江戸鍛治屋橋は、

 実や月間口千金の通り町  芭蕉

だった。
 日本の場合だが、最初は振り売りから初めて、若干大きな屋台を担ぎ(江戸時代の屋台は車輪がなくて担ぐものだった)、そこである程度の蓄積ができればいつかは小さな間口を買ってという道もあったかもしれない。
 ただ、蓄積というのが容易でないのは、結局下層階級は相互依存で失業に保険を掛けているため、なまじ稼ぐと、失業した仲間に配分しなくてはならない。そこを突き抜けるほど稼がないとチャンスはないと言って良いだろう。
 ヨーロッパの土地取引について詳しいことは分らないから、領主でないブルジョワがどのように土地を所有してたのかはその方面の専門家に任せることにする。

 「賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないこととに置かれる。通常の賃金は、アダム・スミスによれば、ただの人間として生きていくこと、つまり、家畜なみの生存に見合う最低線に抑えられている。」

 ここで労働価値説を思い出せばいい。労働価値説は労働者の平均的な生活がベースになり、様々な産業で労働者や商人が同じレベルの生活になるように相互抑制されることによって成立する。ただ、相互抑制は相対的に突出したものを「出る杭を打つ」ことによって維持されるもので、全体のレベルが向上することもあれば低下することもあるが、それにもかかわらず平均レベルがベースになる。
 今日のような豊かな社会の平均的労働者の生活は十九世紀の労働者の生活と雲泥の差があったとしても、労働価値説においては等価になる。
 多産多死の絶えず余剰人口が流入して慢性的に労働力の供給過剰に陥っている社会では、当然のことながら「家畜なみ」になる。そこが労働価値説のベースになる。

 「人間への需要が人間の生産をきびしく規制するのは、あらゆる商品の場合と変わらない。供給が需要を大きく上まわれば、労働者の一部は乞食や餓死へと追い込まれる。労働者が生存できるかどうかは、あらゆる商品が存在できるかどうかと同じ条件下にある。」

 ここでマルクスは労働相場も商品相場も需要と供給の関係で捉えていたことがわかる。

 「労働者は一個の商品となっているので、自分を売りつけることができれば運がいいといえる。そして、労働者の生活を左右する需要は、金持や資本家の気まぐれに左右される。」

 この「気まぐれ」はどうかと思う。実際は労働相場とそれによる生産物の商品相場とを秤にかけて、利益が出る範囲で投資するもので、「気まぐれ」でやっていたんでは資本家も破産すると思う。

2023年1月11日水曜日

 不平等に対して人間は羨望と嫉妬という相矛盾する感情を抱く。
 冷たい社会は嫉妬が勝利することで羨望のない社会を作り上げるが、熱い社会は羨望を解放して嫉妬の抑制を要求する。
 労働価値説は万人が等しく同じ生活レベルになるように調整されるという前提の理論だが、資本益はここから抜け出し突出することによって得られる。果たしてそれは搾取だったのだろうか。
 灌漑農業はそれを主導し管理する新たな階級を生み出し、王侯貴族を誕生させる。
 だがそれによって一般人は貧しくなったのだろうか。
 灌漑農業は王侯貴族を裕福にしただけで今までなかった貧困を生み出したのだろうか。
 ここで思い出さなくてはならない。労働価値説は労働者の平均的な生活水準を基本とした相対的な指標だったことを。
 灌漑農業が生み出したのは相対的貧困であって、絶対的な貧困ではなかった。
 そして近代資本主義もまた同様であると。
 労働価値説は労働者の生活を均等化に向かわせる嫉妬の原理であり、互いに羨望の湧かないれことを基礎として「等価」と見做しているにすぎない。
 これに対して資本益は絶対的な豊かさを基礎とする。
 近代全体を通じて労働による利益を資本益が上回るとしたら、それはいかに相対的に労働者が貧しくなっているように見えても、社会全体が豊かになっていることの証明ではないのか。ピケティの「利益率(r)> 成長率(g)」はそう読み取れるのではないのか。
 資本の価値は労働時間にも労働者一人当たり必要な生活物資にも拘束されない。資本の価値は生産性をどれほど高めるかによって決定される。
 生産性を高めれば生活に必要な物資が増える(つまりより贅沢な社会になる)か労働時間を減らすかになる。
 だが、労働価値説に基づく限り、前者はいかに物が増えてもその価値は一定であるため、物資の価値が相対的に下落することになる。後者だと減少した労働時間とともにやはり生産物の価値は下落することになる。
 現実の価値は労働時間によって決定されてはいない。労働価値説は生活水準を相互に抑制して平等に保とうとする中にしか存在できない。
 嫉妬による相互抑制から羨望を解放した社会では、結局のところ羨望が新たな価値になる。そこに古典経済学から便宜的に退けられていた希少価値や精神的価値が経済の重要な要素になって行く。
 これは歴史的には新しいかもしれない。大衆の生活がエレクトリゼーションとモータリゼーションによって大きく変わり始めたのは、アメリカでも1920年代、日本では戦後のことだった。
 ただ、その萌芽は産業革命の頃には既に始まっていた。いわゆるブルジョワの間でそれは既に始まり、労働者は羨望と嫉妬のはざまに立たされ、結局西ヨーロッパとアメリカでは革命は起こらなかった。それは羨望が嫉妬に打ち勝ったと言って良い。革命は羨望の対象が手の届くところになかった社会で起きた。

2023年1月10日火曜日

 仁藤夢乃さんのウィキペディアを読んだだけの印象だが、不幸な生い立ちでもメイド喫茶の仕事して頑張っていたところを変な宗教団体に捕まって、手駒として活動しているうちにメイド喫茶時代の記憶まで改変させられてしまったのかな。
 キリスト教は欧米では右翼だが、日本では共産主義とコラボしている。闇が深い。

 非暴力による戦争抑制システムは、結局国際世論そのものが分断されている状況では不可能というのがわかった。
 それがウクライナ戦争で得た最大の教訓かもしれない。
 非暴力で戦争を抑止することはできない。なぜなら戦争は非暴力な人達の分断の反映にすぎないからだ。
 戦争をなくすには分断そのものを解消しなくてはいけないが、これほど難しいことはない。どんな小さなことでも必ずアンチはいるもんだ。


 灌漑農業は最初の資本主義とも言える。
 それは一定の河川の流域を占領することによって可能になり、そこの支配者がそれまでいた農民を小作化して、それを指揮することで成立する。そこに相互の取引があるか、完全な強制かで小作か農奴かが分かれる所でもある。
 この場合元本(資本)は占領地であり、農地を実際に耕作する人に配分することが投資となり、その収益からマージンを税として取ることになる。
 そしてこの時に支配者が税として受け取る農産物は灌漑農業の開発、指揮、監督といった労働に対する報酬ではない。それはアダム・スミスの「国富論」の、

 「元本に対する利潤は、監督と指揮という特殊な労働の賃金に対する異なった名称でしかない、と思われるかもしれない。だが、両者はまったく別物であって、まったく異なった原理によって規制されるのであり、したがって利潤は、監督と指揮という想像上の労働の多さ、困難さや創意といったものにはまったく比例しない。元本に対する利潤は、全体として使用された元本の価値によって規制されるから、この元本の量に比例して、大きかったり小さかったりするのである。」

と同じことになる。
 実際ある程度の規模になれば、開発、指揮、監督もまた別に雇うことになるし、領土を他から奪われないための兵士を雇用するする必要も出てくるだろう。
 こうして領土という元本を持つものは王となり、その配下に領主を従え、同時に軍隊をも指揮することになる。後の資本主義と違うのは、資本が金ではなく土地だということで、同一地域に複数の資本家は存在せず、ライバルは隣接する国ということになる。
 一地域に一人の資本家はまさに天に二日なしだ。
 そして資本益は国家の利益であり、王の報酬は労働の報酬とは無関係だし、中間の管理者となる諸侯貴族もまたその国家の利益の分配を所領という形で受け取るので、労働の報酬ではない。
 ただ王侯貴族は全人口からするとほんの一握りであるため、アダム・スミスが諸国民の富を分析する際の労働価値説の僅かな例外ということになる。
この類似は「国富論」にも、

 「どんな国の土地も、一旦それが私有財産になると、他の人々と同様に、たちどころに地主は種を蒔きもしなかった所で収穫することを好み、土地の自然の生産物に対してさえ地代を要求する。森の木、野の草、さらに大地の自然の果実といったものは、土地が共有であった時には、労働者にとって収穫の手間しかかからなかったのに、彼にとってさえ土地生産物に課せられた追加の価格をもちはじめる。」

と記されている。
 地代はここでは労働価値説の外に資本益と同様の意味を持つことになる。
 そしてアダム・スミスはこのようにまとめる。

 「価格を構成するさまざまな部分全体の真実価値は、それぞれの部分が購買、つまり支配できる労働量を基準にして計られる、ということが注意されなければならない。労働は、労働に分解する価格の構成部分の価値を計るだけでなく、地代に分解する構成部分、さらには利潤に分解する構成部分の価値も計るのである。」

2023年1月6日金曜日

 贈与経済においては交換は全人格の取引であり、自分がその集団で生きるのと引き換えに、その集団にしたがうことだった。それは生存の取引と言って良い。
 交換経済になっても基本的にその人の人生は生存の取引によって保障される。ただその集団が食料を生産する村落から交換によって生計を立てる集団に取って代わられるだけだ。
 ただ、交換によって生計を立てる時、もはや職業集団には拘束されても村落には所属しなくて済む。このことによって村落に物やサービスを提供するにしても、その村落に骨をうずめ得る必要はなく、与えた物やサービスに対してのみ対価を得ることになる。ここに初めて交換価値が誕生することになる。
 さて、この契約は労働時間と何らかの関係を持っているだろうか。何によってその価値は定められるのだろうか。
 例えば他所の村の情報の価値は情報収集のための労働と何らかの関係があるだろうか。
 呪術によって病気を治す際、その儀式の時間によって報酬が定められるのだろうか。
 遠くから運んできた黒曜石の矢じりの価値はその製造と運搬の時間によって決まるのだろうか。
 傭兵として戦争に参加した時、その戦闘時間で報酬を貰うのだろうか。
 そうでないとすれば、何がその価格を決めているのだろうか。
 ただ、報酬は売り手が生存できるよりも高いものではなくてはならない。少なくともそれを要求しなくては生きてゆくことができない。
 かといって村落の方でも売りての生存を越えて余りあるようなものを支払う気もしないだろう。その意味では売り手の生活に必要な物資の価値と村落共同体の平均とが等しくなるかもしれない。
 呪術師がたとえ一人の村人の命を救ったにしても、無限にその報酬を手にすることはあるまい。「命の恩人なんだぞ」と言ってみても、贈与の均衡によって成り立つ村落共同体はこうした恩着せがましい態度を死ぬほど嫌うものだ。
 手にするのは、一人の人間の命を救ったんだから、今度は俺たちがあんたの命を救ってやる、ということで今を生きるのに必要最低限なものを差し出せば済むことであろう。
 つまり生産物やサービスの価値は、村落共同体と同水準の生活物資の価値とほぼ等しいと見るなら、確かに村人一人の労働と呪術師の労働は等しいという労働価値説が成り立つかもしれない。
 ならば、職人や商人の供給した道具類が、例えば高性能の弓矢によって仕留める獲物の数が増えたとすれば、多くの物を支払うだろうか。おそらくそうはならない。村の人たちが食ってゆくのにそんなにたくさんの獲物は要らないし、乱獲が獲物の減少を招くことも経験的に知っている。
 つまり良い道具の供給は村人の労働時間を減らすだけで、多くの富をもたらすことはない。ただ、それによって今まで淘汰されるべき人達が飢餓から救われて、人口が増加した際には、生産性の低い部族は生産性の高い部族に制圧されることになる。
 ただ、それでも最終的には全体の生産性がその道具に応じて上がるというだけで、全体の生活水準と職人や商人の生活水準の均衡が保たれる。
 実際には生産性が高まっていても、交換される物の量は増えても、なぜか交換価値は同じように均衡を保っている。絶対的には豊かになっても、相対的には変わらない。ここに交換価値のトリックがある。
 今日でも絶対的貧困と相対的貧困は区別されている。しばしば今の日本で問題になる貧困は、飢餓と隣り合わせの前近代の貧困とは根本的に異なる。それは今の豊かな社会に比べて取り残されている貧困であり、みんなが千円のランチを注文しているのに自分だけ食えないだとか、パソコンを習いたいのにキーボードが買えないといった貧困にすぎない。
 近代社会では豊かになると必ず先に豊かになる人と取り残される人との貧富の差が生じる。この差は例えばマラソンのようなもので、距離が長くなればなるほどトップとビリの差は開いて行く。つまり社会が豊かになればなるほど貧富の差は大きくなり、相対的な貧困が生じる。
 これは技術革新のスピードの速さに関係がある。つまり新技術がもたらす豊かさが最終的な均衡をもたらす前に、さらに新しい技術が生まれる。だから、社会主義者は技術の進歩を止めようとする。しかも彼らはせっかちで、均衡がもたらわれる前に革命によって極度の中央集権体制を作り上げて、強制的に富みの分配を行おうと企てた。これでは今ある技術すらも失われ、飢餓と粛清の嵐を生む。
 土地あたりの生産性向上のもっとも画期的な事件は農耕と牧畜の誕生だった。
 それまでの狩猟採集の生活は、基本的に野生動植物の数に依存するもので、野生動植物がと旧生態系に拘束されて一定以上増えない以上、土地あたりの生産量は限られていた。弓矢が進歩して狩りの効率が上がったとしても、楽に獲物が獲れるようになっただけで、養える人数は限定される。だからただいち早く新しい技術を取り入れた部族が、そうでない部族に取って代わるだけのことで、総人口を増やすことはできなかった。
 農耕と牧畜は限られた土地で自然に存在する以上の収穫を上げる。これによって養える人口も飛躍的に増えることになる。この増加分でもって農具を作る専門の職人を養うことができる。
 そして、それが灌漑農法になった時、さらに土地あたりの生産高は飛躍的に向上する。これによって感慨に必要な道具をや職人、専門家を養うことが可能になる。こうして村落共同体に属さない人たちの数が次第に膨れ上がってくると、最終的に彼らによって村落が占領され支配されるという状態が生じる。ここに小国家が誕生することになる。
 ここで支配者階級と一般の村民との明確な不平等が生まれることになる。
 何もなかった狩猟のフィールドに線を引いても私物化することはできなかったが、灌漑によって作られた人工的な農地なら私物化も可能だった。
 灌漑は特殊な技術と知識が必要で、一般の農民がそれを持ってないなら、もはや彼らを追払うことはできない。追払えば元の焼畑の生産性に逆戻りして、今の膨れ上がった人口を養えなくなり、飢餓と粛清ということになる。近代社会でも革命を起こして技術者や専門家を追放すれば同じことになる。
 さて、こういう状態になった時、交換価値は変化する。支配者階級は農民の生殺与奪権を握ることになる。つまり自分たちがいなければお前らは飢餓に陥ることになると脅すことができる。そこで支配者階級に必要な物資と一般人に必要な物質は一致する必要がなくなる。
 ただ、支配者階級はごく少数であり、そのため支配者階級を例外とするなら、一人の生活に必要な物資の価値が商人の売る物資の価値と等しくなり、労働価値説が成立することになる。これはアダム・スミスの時代にも有効だった。
 ただ、これは階級の存在及び地域格差などを度外視している。交換価値はその地域の生活水準によって変動するものであり、全世界に均質な交換価値が存在しているわけではない。
 豊かな地域では豊かな生活をする労働者の消費する生活物資の価値が基準になり、貧しい地域では貧しい労働者の消費する生活物資の価値が基準になる。労働価値は絶対的な尺度ではなく、あくまで相対的な尺度にすぎない。だからこそ支配者階級の生活レベルを無視できる。
 結局は生産性が上がっても労働価値は相対的なため、その豊かさを反映することができない。
 労働価値は生産物の絶対的価値ではなく、あくまでもその社会の平均によって決まるため、いくら社会が豊かになっても労働価値が増えることはない。これが労働価値説の一番重大な罠(トリック)だ。
 生産性の向上が自然発生的にあらゆるところに等しく起きるなら、最終的に全員が豊かでなおかつ平等な社会が実現できる、という幻想をもたらす。これが科学的社会主義のトリックではないかと思う。
 だが実際は生産性を向上させる様々な発明は勝手に起こるものではないし、どこでも起こるものでもない。起きたとしても狩猟採集の時代の打製石器から磨製石器に移行したような、極めて緩慢なペースでしか起こらない。

2023年1月5日木曜日

 最初に交換によって生計を立てる人のことは、さすがに人類学のフィールドワークには引っかからない。既に呪術師として生活している人は観察することができるが。だから、最初の呪術師はどうしたって想像の域を出ない。
 たとえば今日でも自分の書いた絵や小説や詩、自分の作った音楽、自分たちの劇団などで「飯を食う」ということがいかに大変なことかはよくわかると思う。
 なら最初の呪術師や芸能を思いついた人が、それだけで生計を立てるということがいかに困難なことかは想像に難くない。
 今日の喩えで言うなら、普通にサラリーマンをやっていて売れるようになったらやめる、というのが普通なように、最初の呪術師は普通に村の中にいて、ただ特殊なパラメータを持つ人と考えるのが良いだろう。
 ただ、特殊であるが故に村の中での生存権の優先順位が低く、何かのはずみで追い出される率は高くなる。
 追い出されたら他の村に行って、何とかそこの一員になろうとする。それを繰り返しているうちに、いつの間にか一つの村に長く居付くこともなく、転々と旅をして暮らす呪術師が出来上がることになる。
 たとえば村の中で弓矢を作るのがうますぎて、それを鼻に掛けて自慢して追放になった者がいたとしよう。仕方なく他の村に住みつこうとするがうまく行かず、転々とする。そこでようやく旅の弓職人が誕生することになる。
 芸能にしても同じだろう。狩りの名手でもそれを自慢する奴はやはり追い出されかねない。
 村人の多くは村の中のすべての仕事を一通りこなして、ローテーションでもって誰も突出しないように気遣いながら生活しているが、片寄った特異なパラメータ、ゲーム用語でいうなら何か一つに「極振り」したような人間にとっては、完全平等社会はどうしようもなく住みにくい。
 弓矢の腕に特化した人間は、あるいは隣の村との戦争で役に立つというので呼ばれることもあるかもしれない。こうした助っ人をしながら幾つの村を転々としていれば、それが最初の武士なのかもしれない。
 ただ、初期の段階では独立した集団を構成するのではなく、ただ村を転々としているだけの流れ者で、村にいる時はその村の一員としてその村の平等原理に従って謙虚に生きることを強いられることになる。
 この場合の取引は極めて単純であり、村の一員になるために村の掟に従って贈与経済の一員になるというだけのことで、ここではまだ商取引といえるようなものはなく、交換価値は生じない。

 職人の場合、ある場所に留まらないと良い仕事ができないことがある。例えば黒曜石を使った矢じりは黒曜石が採れるところにいなくてはならないが、それを売り歩くには広範囲を旅しなくてはならない。
 あるいは土器もまた土の良し悪しが関係する。良い土器を生産するには良い土のある所に住み、それをまた広範囲に売り歩くには旅をする必要がある。
 こうした職業は日本の縄文時代には既に成立していたと思われる。そして、こうして開かれた販売ルートはその後の様々な種類の職人・芸能と呼ばれる人たちに引き継がれ、やがては小国家さらには朝廷を立てるだけの大きな勢力になって行ったのだろう。
 これは奇跡とも言える。
 村では既に矢じりや土器は生産されていて、特に専門の作り手もいなかった。それでいてその村の人たちが食って行く分はかろうじて確保できていた。もちろん、土器がないからと言ってその日の食事に困ることもなかった。ならば、なぜあえて「外注」を選択したのだろうか。
 交易には付加価値があったからではないか。
 どの村でも人口増加の圧力が働いているなら、常に隣の村との戦争状態にある。それが互いに滅ぼすようなものではなく、時折儀礼的な戦争で何人かの若者が「間引かれる」程度のものであっても、少しでも自分の村の犠牲を減らすには周辺の村の情報が欲しい。
 あちこちの村を渡り歩く職人・芸能の人達は、同時に近隣の村の情報をもたらしてくれる。原始時代だけだなく、中世の連歌師も同じような役割を果たしていた。
 完全平等社会と言ってもそれは血縁に支えられた集団であり、どこの馬の骨とも知れぬ人間が集まってできた「地球人(アーシアン)」の集まりではない。
 となると、隣の別の血縁の人達とは、一方では婚姻によって緊密な姻戚関係を結びながらも、狩場を廻ってのライバルにもなる。ここで完全平等原理は機能しなくなり、かならず自らの血縁優先を優先する。こうして必然的に血縁によって結ばれた部族社会へと発展してゆくことになる。
 部族社会であれば、自分の部族に有利になる情報は価値があるため、呪術師(職人・芸能などの未分化な集団)に高く値を付けるようになる。元から地の利が良くて高い生産力を持つ集団が、こうした技術や芸能に競って高い値を付けてゆけば、それが買えない部族は弱体化し、戦争に敗れて消滅してゆく。
 ここで初めて、技術を買うことで生産性を伸ばし、それを更なる技術の購入資金にするという循環が生まれる。原始的な拡大再生産が誕生するわけだ。
 冷たい社会はこの原始的拡大再生産への移行が抑えられた社会であり、抑えきらなくなった地域は熱い社会へと移行してゆくことになる。その差は人口増加圧によるものであることは想像がつく。人口増加圧の強い豊かな地域では、血縁はやがて部族化し、部族対立の激化から多少の不平等を容認してでも技術革新と生産性の向上を目指さざるを得なくなる。
 完全な共産主義を夢見るなら、この時点にまで歴史を逆戻りさせることになるだろう。
 これまですべての生産が村の内部で完結してきた社会で、外注を選択するいくつかの集団が現れれば、職人・芸能などを含む呪術師集団は、特定の村落に属することなく、独立した集団として成立し、交換によって生計を立てる最初の人間となる。
 最初のその誕生は奇跡とも言える確率だったかもしれない。ただ、一度それが起きてしまうと逆戻りはできなかった。外注の技術によって得られた生産性の向上を再び元に戻すことは、そのまま膨れ上がった集団を元に戻すことになるからだ。
 生産性を元の低い状態に戻せば養える人口も減る。つまり飢餓と粛清という二十世紀で起きたのと同じことが、小規模ながらも起こることになる。それが嫌ならこのまま突き進んで、周辺の他の部族を圧倒するしかなかった。

 こうして世界のあちこちに新技術に基づく生産性の革命が起き、やがて国家が誕生するに至る。特に重要な新技術は農耕と牧畜だった。

2023年1月4日水曜日

 さあ、年も改まったということで、ことしは去年の続きからまず始めてみよう。
 去年は交換価値というのが、十八世紀、十九世紀の時点での資料の豊富さと人口の大半が食うだけでやっとの生活をしていることから、かなり便宜的に用いられた仮説だというのがわかった。
 いわゆるマルクス主義はその労働価値説を仮説としてではなく形而上学的な命題として原理主義化してしまったため、結局すべての人民を食うだけのやっとの生活に縛り付け、言い方を変えれば飢餓と隣り合わせの社会を理想の社会としてしまった。そこまでは見て来た。
 ただ、近代経済学はこうした労働価値説に代案を出すことはなかった。そこで価値の起源は人間の最低限の労働によって得られる飢餓と隣り合わせの状態によって決定され、それ以上を求めることが搾取だという主張を解体するまでの力はなかった。
 結果、今日でもなお資本主義経済の豊かさを否定する独裁国家が、明らかに経済的メリットのない侵略戦争を起こしているし、また起こそうとしている。二十世紀の多くの社会主義国家が陥った飢餓と粛清の地獄を反省することなしに、同じことを繰り返そうとしている。
 本当の経済的価値とは何なのか、単なる労働時間によってけって着されるものでもなく、一人の労働者のぎりぎりの生活を保障するだけの経済的価値を基準として、それ以上を求めることを断罪するような思想を葬り去らねばならない。
 地味な仕事ではあるが、改めて「価値とは何か」を考えてみようと思う。

 さて、完全平等社会、いわゆる「冷たい社会」がいかにして崩壊していったかと考えた時、18世紀の人の発想は近代社会を基準にして、単純に財産のあるなしが不平等を作ったと考えた。
 ルソーの『不平等起源論』はその典型で、マルクス主義もまた私有財産が不平等を生み出したと考えた。
 しかし、冷たい社会の中で誰かがいきなりフィールドにロープを張って、ここは俺の土地だと宣言したらどういうことになるか。想像すればわかることだが、当然袋叩きにあうだろう。そうやって不平等の芽を摘み続けることで、こうした社会は維持されてきたのである。
 不平等の起源はもっと単純なところにあった。それは筆者が繰り返し述べてきたことで、有限な大地の無限の生命は生存できない。土地にはその生産力に応じた定員がある。そして、その定員を超えて人口が増え続ければ、命を選別しなければならなくなる。不平等はここから生まれる。
 元々完全平等社会と言っても、そこに暮らす人間は量産型のロボットではない。一人一人顔形が違い、持って生まれた能力や経験によって培われた能力は一人一人皆違う。性癖もまた偶発的に形成された脳回路によって一人ひとり違うし、それらを全てひっくりめて、一人一人それぞれの個性(キャラ)を持っている。
 われわれはそれぞれ想像と推測で相手を理解し、値踏みをする。時に結婚相手を選ぶ時は、この値踏みが露骨に表に現れることになる。
 比喩でいうなら、われわれは皆隠し持ったパラメータを持っていて、それぞれのユニークスキルを持っている。
 こうしたものはゲームの世界ではお馴染みだし、ゲーム世界を模した「異世界」の小説でもお馴染みのものだ。なろう系のラノベでお馴染みのこうした世界に、それほど違和感なく読者が没頭できるのは、これが現実世界のかなり単純化された一つのモデルだからだ。
 ゲームは実際には複雑で不確定な要因の多い現実のバトルを思い切って単純化して描いている。ただ、それがあまりに現実とかけ離れていれば、プレイしていても感情移入できずにすぐに飽きてしまう。その意味では成功したゲームの設定は、現実の単純化されたモデルとみなすことができる。
 もちろん現実にはパラメータの数字を覗くことはできない。ただ相手がどういう人間か見極めようとした時には、幾つかの異なる能力の度合いを総合的に評価するのは普通のことだ。顔はまあまあで、背は低く小太りで、性格は概ねよく陽キャで面倒見が良いが、ちょっと嫉妬深いところがあり、怒らせれば怖い、みたいなことを考えながら合格点を判断するものだ。
 完全平等社会でも、こうした暗黙のパラメータは意識されているし、狩りの名手は誰で弓矢作りの名手は誰で、揉め事が起きた時にうまく収めてくれるのは誰かということは常に意識している。だからこうした役割をシャッフルして、誰かが際立つのを防いでいる。
 ならこの平等はどうすれば崩れるかというと、簡単に言えば、人口が増えすぎて定員オーバーになって、誰かを間引かなくてはならなく待った時だ。そこでなんらかの暗黙の優先順位がつけられていたことが露呈することになる。
 人口調節の仕方は幾つもある。
 一つは生贄を捧げるやり方で、生贄の選び方にもいろいろ考えられる。何らかの法則で決める場合もあれば、祭りの狂騒の中で勢いで決めることもある。法則で決める場合は身体的欠損などで判断されるが、そうそう都合よくいつも欠損者が現れるとは限らない。となると大体は勢いということになる。
 例えば日頃から素行の悪い者だとか、美少女すぎて村の男たちの争いの種になりそうな女だとか、色々理由があっても、基本的には村全体の総合的な貢献度で判断させるのではないかと思う。今まで平等だと思ってた幻想は、その時一気に砕かれることになる。
 人口調節のもう一つの方法は、過酷な成人儀式(イニシエーション)を課すことだ。バンジージャンプなども起源としてはそこにある。つまり運悪くロープが切れたり伸びたりすれば淘汰される。また、過酷な試練は概ね体力や知力に優れた者を残すことになる。
 戦争というのもシンプルな方法で、淘汰されるべき人間を自分の村から選ばずに、隣の村から選ぶという方法だ。ただ、当然ながら報復に会うから、結果的には自分の村の戦闘能力の低い者が淘汰されることになる。
 表向きは平等社会でも、常に村の中でそれぞれの隠しパラメータが推定され、人口調節の時にそれが露呈してゆくことになる。
 ただ、この時点ではまだこの個々のパラメータが交換価値を生むことはない。