2023年1月10日火曜日

 仁藤夢乃さんのウィキペディアを読んだだけの印象だが、不幸な生い立ちでもメイド喫茶の仕事して頑張っていたところを変な宗教団体に捕まって、手駒として活動しているうちにメイド喫茶時代の記憶まで改変させられてしまったのかな。
 キリスト教は欧米では右翼だが、日本では共産主義とコラボしている。闇が深い。

 非暴力による戦争抑制システムは、結局国際世論そのものが分断されている状況では不可能というのがわかった。
 それがウクライナ戦争で得た最大の教訓かもしれない。
 非暴力で戦争を抑止することはできない。なぜなら戦争は非暴力な人達の分断の反映にすぎないからだ。
 戦争をなくすには分断そのものを解消しなくてはいけないが、これほど難しいことはない。どんな小さなことでも必ずアンチはいるもんだ。


 灌漑農業は最初の資本主義とも言える。
 それは一定の河川の流域を占領することによって可能になり、そこの支配者がそれまでいた農民を小作化して、それを指揮することで成立する。そこに相互の取引があるか、完全な強制かで小作か農奴かが分かれる所でもある。
 この場合元本(資本)は占領地であり、農地を実際に耕作する人に配分することが投資となり、その収益からマージンを税として取ることになる。
 そしてこの時に支配者が税として受け取る農産物は灌漑農業の開発、指揮、監督といった労働に対する報酬ではない。それはアダム・スミスの「国富論」の、

 「元本に対する利潤は、監督と指揮という特殊な労働の賃金に対する異なった名称でしかない、と思われるかもしれない。だが、両者はまったく別物であって、まったく異なった原理によって規制されるのであり、したがって利潤は、監督と指揮という想像上の労働の多さ、困難さや創意といったものにはまったく比例しない。元本に対する利潤は、全体として使用された元本の価値によって規制されるから、この元本の量に比例して、大きかったり小さかったりするのである。」

と同じことになる。
 実際ある程度の規模になれば、開発、指揮、監督もまた別に雇うことになるし、領土を他から奪われないための兵士を雇用するする必要も出てくるだろう。
 こうして領土という元本を持つものは王となり、その配下に領主を従え、同時に軍隊をも指揮することになる。後の資本主義と違うのは、資本が金ではなく土地だということで、同一地域に複数の資本家は存在せず、ライバルは隣接する国ということになる。
 一地域に一人の資本家はまさに天に二日なしだ。
 そして資本益は国家の利益であり、王の報酬は労働の報酬とは無関係だし、中間の管理者となる諸侯貴族もまたその国家の利益の分配を所領という形で受け取るので、労働の報酬ではない。
 ただ王侯貴族は全人口からするとほんの一握りであるため、アダム・スミスが諸国民の富を分析する際の労働価値説の僅かな例外ということになる。
この類似は「国富論」にも、

 「どんな国の土地も、一旦それが私有財産になると、他の人々と同様に、たちどころに地主は種を蒔きもしなかった所で収穫することを好み、土地の自然の生産物に対してさえ地代を要求する。森の木、野の草、さらに大地の自然の果実といったものは、土地が共有であった時には、労働者にとって収穫の手間しかかからなかったのに、彼にとってさえ土地生産物に課せられた追加の価格をもちはじめる。」

と記されている。
 地代はここでは労働価値説の外に資本益と同様の意味を持つことになる。
 そしてアダム・スミスはこのようにまとめる。

 「価格を構成するさまざまな部分全体の真実価値は、それぞれの部分が購買、つまり支配できる労働量を基準にして計られる、ということが注意されなければならない。労働は、労働に分解する価格の構成部分の価値を計るだけでなく、地代に分解する構成部分、さらには利潤に分解する構成部分の価値も計るのである。」

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