2019年2月28日木曜日

 金さんはトランプを甘く見ていたようだね。多分トランプの方は核放棄に応じれば、朝鮮戦争の終結、在韓米軍の撤収から市場開放、高度成長へのロケットスタートまである程度のシナリオを描いていただろうに、残念だ。
 日本は戦争に負けたとき平和憲法を受け入れ、防衛を全部アメリカに投げて、経済だけに専念してあの高度成長を成し遂げた。今の北朝鮮に必要なのもそれだと思う。
 日本は黒船が来た時も速やかに開国を決断したし、敗戦の時も速やかに連合国の要求を受け入れた。それが今の日本の繁栄を作ってきた。過去に囚われない切り替えの早さが日本の美徳だ。お隣さんにはそれが欠けているように思える。
 日本人は過去を忘れたのではない。過去を別の文脈に取り成すのが上手いだけだ。だからほとんど一夜にして急転換しているように見えても、過去を捨ててないからそれほどの混乱はない。
 こうした国民性は過去に連歌や俳諧によって鍛えられたからかもしれない。
 それでは「此梅に」の巻の続き。挙句まで。

 九十五句目。

   天狗だふしや人のたふれや
 ねのよはき杉の大木大問屋      桃青

 天狗倒しのように倒れたのは大問屋だった。巨大な杉の大木も根が弱ければ倒れるように、大問屋も借金経営で自転車操業を繰り返してたのか。
 芭蕉はシュールネタも好きだがこういう経済ネタもこの頃から好きだったようだ。経済ネタは晩年の軽みの風にも受け継がれている。
 九十六句目。

   ねのよはき杉の大木大問屋
 跡をひかへて糸荷より来る      信章

 ここでは大問屋はまだ倒産してなく、次々と糸荷廻船で輸入の生糸が運ばれてくる。
 「糸荷廻船」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「近世,大坂または堺の船で,外国から長崎に輸入された糸荷(生糸)などを上方に運ぶことを幕府から許された特権的な船。」

とある。
 九十七句目。

   跡をひかへて糸荷より来る
 秤にて日本の知恵やかけぬらん    桃青

 「日本の知恵で秤にてかけぬらん」の倒置。「秤にかける」は損と徳とを天秤にかけるいう意味がある。次々に輸入生糸が入ってくるのは、それが儲かるからだ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「日本の知恵をはかれとの宣旨」という謡曲『白楽天』の一節を引用している。延宝の頃はまだ都市での共通語が十分確立されてなかったのか、雅語ではない言葉を使用する時には謡曲の言葉を引いてくることが多い。
 九十八句目。

   秤にて日本の知恵やかけぬらん
 霰の玉をつらぬかれけり       信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「蟻通明神の故事による。」とある。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「大阪府泉佐野市長滝にある神社。旧郷社。正称は蟻通神社。祭神は大名持命(おおなもちのみこと)。唐の国から日本人の才を試そうと、幾重にも曲がった玉に緒を通すようにとの難題が出された時、老人の指図に従い、蟻に糸を結びつけて通し、解決した。以後、それまであった棄老(きろう)の習慣をやめ、この老人を神としてまつったと「枕草子」にある。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「『霰の玉』に算盤をふまえる」とあるように、ここでは七曲の玉ではなく、算盤で日本人の知恵を測る。
 九十九句目。

   霰の玉をつらぬかれけり
 花にわりご麓の里は十団子      桃青

 「わりご」は「破子」と書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「破籠とも書く。食物を入れて携行する容器。ヒノキの白木の薄板を折り,円形,四角,扇形などにつくり,中に仕切をつけ蓋をする。平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した。」

とある。
 「花より団子」というくらいで、花見に弁当は付き物。
 「麓の里」は東海道の丸子宿から宇津の谷に入るところの集落で、「十団子(とおだご)」は中世から売られていた名物の団子。ウィキペディアには「江戸時代の紀行文や川柳からは、小さな団子を糸で貫き数珠球のようにしたものと知れる。」とある。

 十団子も小粒になりぬ秋の風     許六

の句は、これよりかなり後の元禄五年になる。
 挙句。

   花にわりご麓の里は十団子
 日坂こゆれば峰のさわらび      信章

 日坂宿は東海道を下るときは小夜の中山の出口になる。十団子で有名な宇津の谷から岡部、藤枝、島田を経て、大井川を渡り、金谷、菊川ときて小夜の中山になる。
 「さわらび」といえば、

 石走る垂水のうえのさわらびの
     萌え出づる春になりにけるかも
                 志貴皇子

の歌がある。
 ただ、ここでは日坂宿の名物の蕨餅のことか。
 ウィキペディアの「わらびもち」の所には、

 「東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。」

とある。

2019年2月27日水曜日

 米朝首脳会談が始まった。マスコミの予測は悲観的で、あたかも米中最終戦争に導こうとしているみたいだが、言霊ということもあるし、どこまでも楽観主義者でいたい。
 願わくば、朝鮮戦争の終結宣言が為され、米朝平和不可侵条約や在韓米軍の撤収から市場の開放、そして北朝鮮が高度成長へ向けてロケットスタートと、とんとん拍子に行ってほしいな。これってネトウヨの妄想かな?でもみんながそう思えば‥‥。
 とにかく、あの国がなくならないなら、目一杯良い国になってもらうほかない。
 それでは世間話はこれくらいにして「此梅に」の巻の続き。

 八十九句目。

   わけ入部屋は小野の細みち
 忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん    桃青

 美女に誘われて部屋に行ったらいつの間にか眠ってしまい、気付いたら野原の真ん中の細道に横たわっていた。よくある話だ。
 九十句目。

   忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん
 あぶらにあげしねづなきの声     信章

 「鼠鳴き(ねずなき)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「ねずみの鳴き声をまねて口を鳴らすこと。人を呼んだり子供をあやしたり、遊女が客を呼び入れたりするときにする。「ねずみなき」とも。」

とある。
 遊女でなく狐だったとなれば、鼠鳴きの声も油で揚げてあったか。
 九十一句目。

   あぶらにあげしねづなきの声
 唐人も夕の月にうかれ出て      桃青

 「唐人」は中国人だけでなく外国人一般をさす言葉として用いられ、西洋人も含まれていた。
 油で揚げた「てんぷら」は江戸時代に急速に普及していったが、西洋(南蛮)が起源ということも意識されていた。
 「唐人」なら月見でてんぷらを食うかもしれない、というあくまで空想と思われる。
 九十二句目。

   唐人も夕の月にうかれ出て
 古文真宝気のつまる秋        信章

 『古文真宝』はウィキペディアに「漢代から宋代までの古詩や文辞を収めた書物。宋末か元初の時期に成立したとされる。」とある。
 同じくウィキペディアによれば、

 「日本には室町時代のはじめごろに伝来した。五山文学で著名な学僧たちの間に広まり、木版で刊行された(五山版)。
 江戸時代には数多くの刊本が出されて広く読まれ、注釈書も多く著された。井原西鶴や松尾芭蕉も『古文真宝』に言及しており、簡便な教養書として広く読まれていたことが窺える。」

とある。ただ、芭蕉がどこで『古文真宝』に言及していたか思いだせるものがなく、勉強不足で申し訳ない。
 ここでの唐人は中国人で、月見の座に中国の人がいて難しい漢詩を持ち出されても、日本の一般庶民としては気が詰まる。
 さて、「此梅に」の巻もそろそろ終わりで名残の裏に入る。
 九十三句目。

   古文真宝気のつまる秋
 酒の露たはけ起て白雲飛ぶ      桃青

 「秋風起兮白雲飛」は漢の武帝の「秋風辞」。これをパロディにして、酒に酔ってバカやって気の詰まる秋の白雲も吹っ飛んだとする。
 九十四句目。

   酒の露たはけ起て白雲飛ぶ
 天狗だふしや人のたふれや      信章

 「天狗倒し」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「深山で、突然すさまじい原因不明の大音響が起こり、行ってみるとなんの形跡もないこと。また、原因不明で、突然すさまじい音がして倒れそうもない大きな建物が倒壊すること。」

とある。
 天狗の魔法だろうか。いや、実は酔っ払いが暴れただけだった。去年の渋谷のハロウィンでも軽トラックが倒された。

2019年2月26日火曜日

 今まで読んだ俳諧の巻はまだそれほど多くないが、一応貞門時代の「野は雪に」の巻から、最後の「白菊の」の巻まで見てきた。
 ただ、その中でもこの「此梅に」の巻は異質な感じがする。
 まず、物だけで付けていくせいか、言葉の調子はいいけど、意味がわかりにくい句が多い。
 おそらく大矢数とまではいかないものの、蕉門のどの俳諧にもないほど早いペースで詠まれたからだと思う。
 『江戸両吟集』のこの巻と「梅の風」の二つの巻はおそらく同じ日に立て続けに詠まれたのではないかと思う。それとひょっとしたら天満宮でのライブだったのかもしれない。
 芭蕉(当時の桃青)は宗因流に心酔し、宗因のように詠みたいという思いがそれだけ強かったのだろう。
 ただ、速吟だけにかえって発想の違いがはっきり出てしまう。芭蕉もじっくりと吟ずれば、人間の深い情を詠むこともできたのだろうけど、咄嗟に出てくるのはむしろシュールなまでの奇抜な言葉の連想だった。
 この実験的な速吟を終えて、芭蕉は宗因と自分との才能の違いに気付いたのかもしれない。これ以降『俳諧次韻』まで、談林の主流が人情句に走りがちだったのに対し、乾いたシュールギャグをより先鋭的に展開してゆくことになる。
 宗因のようにと思って巻いた二百句だったが、詠み終えてみると宗因はどこへいっちゃったのか。この間亡くなった橋本治氏の言葉を借りるなら、芭蕉も「水分に乏しかった」のかもしれない。

 八十三句目。

   落させられし宮のうち疵
 階の九つ目より八目より       桃青

 前句の「宮」を宮様として「落させられし‥うち疵」を階段から突き落とされたとした。何があったのかわからないが、深く考えないで、ただ転げた姿を笑えばいいのだろう。
 八十四句目。

   階の九つ目より八目より
 湯立の釜に置合あり         信章

 「湯立(ゆだて)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「熱湯によって神意を占ったり,清めをしたりする神事。〈ゆたち〉とも。神社などの庭で大釜に湯をわかし,巫女(みこ)や禰宜(ねぎ)がササの葉で湯をまきちらし,自身や参詣者の頭上にふりかける。この場合,巫女や禰宜が神がかりになり,託宣をすることもある。湯立神事に伴う神楽(かぐら)を湯立神楽という。」

とある。
 「置合(おきあはせ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 適当にとりあわせること。また、その対象。配合。とりあわせ。
※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「置物には業平のかかれし御成敗式目、中将姫の庭訓往来など也。置合せには、馬の角、牛の玉、いし亀の毛にて結(ゆひ)たる筆」
 ② 客などと同席して相手をしたり食事を相伴したりすること。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。
 湯立の釜の取り合わせといったら神楽だろうか。拝殿の階段の九つ目か八つ目のところから神楽を舞う人が現れるということか、よくわからない。
 八十五句目。

   湯立の釜に置合あり
 既に神にじりあがらせ給ひけり    桃青

 湯立ての釜を茶の湯を沸かす釜として、神様をにじり口から中に招き入れた。
 八十六句目。

   既に神にじりあがらせ給ひけり
 白髭殿は御年よられて        信章

 「白髭殿」は白髭神社の際神、比良神(白鬚明神)か。名前からして白髭の老人を思わせる。白髭神社は後に猿田彦命を際神とするようになり、今日に至っている。
 八十七句目。

   白髭殿は御年よられて
 つくづくと向にたてる鏡山      桃青

 白髭神社は琵琶湖西岸の近江高島にある。鏡山はそこから琵琶湖を隔てた南側の近江八幡の方にある。古今集に、

 鏡山いざ立ち寄りて見てゆかん
     年経ぬる身は老いやしぬると
                 大伴黒主

の歌があり、それを踏まえて、老いた白髭明神も鏡山を見ているとする。
 八十八句目。

   つくづくと向にたてる鏡山
 わけ入部屋は小野の細みち      信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、中世の御伽草子『小町草子』の一節、

 「折ふし小野の細道かき分て草のとぼそをうちならし、いにしへの小野小町はこれにわたらせ給ふかと」

を引用している。

2019年2月25日月曜日

 昨日は河津まで河津桜を見に行った。満開の桜に露店が並び、縁日のような賑わいだった。やはり花には脳内快楽物質を分泌させる何かがあるのだろう。そこにいるだけでハイになれる。
 そういえば、偉大なる日本人ドナルド・キーンさんがお亡くなりになった。
 まあ、結局日本で生まれ育った人がいくらこの日本の古典が素晴らしいと言ってもね、「それは日本だけの孤立した論理で世界には通用しない」と言われちゃうからね。だから西洋で生まれ育った人に論評してもらう必要があるんだよ。彼が日本の古典研究の「第一人者」だと言うのはそういうことだ。
 西洋人が評価して初めて日本人も日本の古典を評価できるようになる。明治以降、今に至っても日本はそういう国だ。だから連歌や俳諧も早く誰か西洋人が評価してくれないかな。
 キーンさんの後継者はやっぱロバキャンさんかな?よろしく頼んま。
 それでは「此梅に」の巻の続き。日本だけの孤立した論理でお送りします。

 七十七句目。

   浪に芦垣つかまつつたり
 時は花入江の雁の中帰り       信章

 花の定座なのでまず「時は花」とし、「浪に芦垣」なので「入江」を付ける。そこに景物として雁を登場させるが、単に「帰る雁」ではベタなので「帰る」に掛けて「宙返り」とする。
 実際に雁が宙返りをするのかどうかはよくわからない。
 七十八句目。

   時は花入江の雁の中帰り
 やはら一流松に藤まき        信章

 雁が宙返りしたかと思ったら、宙返りしていたのは自分だった。
 「やはら」といえば柔らの道だが、今の柔道は明治の頃に嘉納治五郎によって確立されたもので、それ以前は「やわら」と呼ばれることが多かったようだ。
 ウィキペディアの「柔術」のところには、

 「戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力業ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。ただしこれらの流派でも読みはやわらであることも多い。また、この時期に伝承に、柳生新陰流の影響を受けて小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「当時流行の居合抜柔術の名人藤巻嘉信をふまえる。」とある。ネットで藤巻嘉信を調べると居合抜きの大道芸人だったようだ。藤巻嘉真という別の大道芸人もいたようだから、「藤巻」を名乗る大道芸人は当時たくさんいたのか。そうなると、この場合の柔術も武道としての柔術というよりは大道芸だったのかもしれない。派手な宙返りをする柔術の芸もあったのだろう。
 和歌では藤は松に絡むものとされている。

 夏にこそ咲きかかりけれ藤の花
     松にとのみも思ひけるかな
               源重之(拾遺和歌集)

 名残表。
 七十九句目。

   やはら一流松に藤まき
 いでさらば魔法に春をとめて見よ   桃青

 「魔」は「魔羅」、サンスクリット語のMāraから来たという。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、「 江戸時代、多く、天狗をさしていう。」とあるから、前句の柔らの達人を天狗としたか。
 藤は春の終わりから初夏にかけての花で、天狗に本当に魔法が使えるなら春を止めて見よとする。
 八十句目。

   いでさらば魔法に春をとめて見よ
 七リンひびく入相のかね       信章

 七輪は七厘とも書く。珪藻土でできた小型軽量のコンロ。正徳二年(一七一二年)の『和漢三才図会』には、「薬を煎り、酒を暖め、炭の価僅か一分に至らず、因って七輪と称す。」とあるという。
 七輪は魔法薬を作るのにも使われたか。遅日といえども春の日はやがて暮れてゆき、入相の鐘が鳴る。沈む日を止めることは果してできるのか。
 八十一句目。

   七リンひびく入相のかね
 薬鍋三井の古寺汲あげて       桃青

 滋賀の三井寺の鐘には、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したという伝説がある。(三井寺のホームページより)
 前句の入相の鐘は琵琶湖より汲み上げた鐘で、その金を薬鍋の中に入れて七輪にかければ七輪から鐘の音が響く。シュールネタ。
 八十二句目。

   薬鍋三井の古寺汲あげて
 落させられし宮のうち疵       信章

 三井寺のホームページによれば、

 「その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。」

とある。
 前句をそのまんまの意味で古寺を汲み上げてとし、その古寺を落としたとする。

2019年2月23日土曜日

 トランスジェンダーの性別のことが世間ではいろいろ問題になっているようだが、これは持論だが、女として生まれて男になる場合は性転換手術も必要とせず自己申告で自由に認めてもいいが、男として生まれたものが女になる場合は最低限でも男性としての機能を失っていることを前提とすべきだと思う。これは差別ではなく男女の非対称性によるものだ。
 女はまず妊娠し出産することが可能だという点で男と決定的に異なる。女性がレイプされれば妊娠や出産の負担が生じ、医療水準の低かった時代では出産はしばしば死に結びついた。
 また長い進化の中で男はばら撒く性、女は選ぶ性へと特化している。もちろん個人差はあるが、一般的に男は手当たり次第にいろんな女に手を出したがり、女は言い寄る男達を厳しく選別する傾向にある。そのため、レイプという性的選択権の剥奪は女性には致命的だが男性はそれほどダメージを受けない。いわゆる逆レイプで男が蒙る不利益は、もっぱら浮気を疑われることだ。
 トランスジェンダーでもこの非対称性が問題なのは、人間は環境によって変わることがあるからだ。ノンケの男でも軍隊や刑務所のような男ばかりの所にいると一時的にホモになることがあるように、心は女とは言っても女性刑務所のような女ばかりの所にいれば女に手を出さないとも限らない。そのとき男性としての機能が残っていたらどうなるかということだ。
 女性の側に立っても、ち○ぼをぶらぶらさせた自称女性が女風呂に入ってきたら、やはり恐怖を感じるだろう。
 まあ、それはともかくとして「此梅に」の巻の続き。
 七十一句目。

   松ふく風や風呂屋ものなる
 君ここにもみの二布の下紅葉     信章

 「二布(ふたの)」はコトバンクの「世界大百科事典内の二布の言及」に、

 「江戸時代の女性が混浴時に用いた膝上の長さの木綿製の湯巻は,横布二幅使いのため二布(ふたの)とも呼ばれ,女房言葉で湯文字(ゆもじ)ともいった。庶民の間では肌着と湯巻の厳密な区別はなかったと考えられる。」

とある。特に若い女性は赤い二布を身につけていた。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「風にちらつくもみの二布を下紅葉といった。」とある。後の、

 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし   去来

の句を思わせる。
 松と下紅葉の付け合いは、『拾遺和歌集』に、

 下紅葉するをば知らで松の木の
     上の緑を頼みけるかな
               よみ人しらず

の歌によるものか。
 七十二句目。

   君ここにもみの二布の下紅葉
 契りし秋は産妻なりけり       桃青

 「産妻(うぶめ)」は「産女」とも書く。ウィキペディアには、

 「産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する。
 死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある。」

とある。「もみの二布」はこの場合は血染めの腰巻か。
 七十三句目。

   契りし秋は産妻なりけり
 月すごく草履のはなを中絶て     信章

 「すごし」は冷ややかな、恐ろしげなという意味。本来はネガティブな言葉だが、それを逆に良い意味に転換する例は、古代の「いみじ」、現代の「やばい」などしばしばある。
 「月の神秘 暦の秘密」というサイトに、

 「昔、亡くなった人を埋葬する時、墓地の土を踏んだ草履には死霊がつくと考えられ、その場で草履を脱ぎ捨てる習慣がありました。その時、死霊が草履を履いて追ってくるのを恐れ、履けないように鼻緒を切って捨てたのです。」

とあり、他のブログでも似たような話があったので、昔からそういう習慣があったのかもしれない。
 本来なら目出度いはずの名月も、母子共に亡くなり、それを埋葬した後の月であれば寒々として恐ろしげだ。今にも土の中から産女が出てきて追いかけてきそうだ。
 七十四句目。

   月すごく草履のはなを中絶て
 河内の国へかよふ飛石        桃青

 「河内の国へかよふ」は『伊勢物語』第二十三段の「河内の国、高安の郡に、いきかよふ所出できにけり」を連想させる。
 「筒井つの」の歌で誓った幼馴染の相手がいるのに、あえて河内の国まで通う男は、ドラクエ5的にはビアンカからフローラに乗り換えようかという所か。
 この句は一見そんな物語とあまり関係なさそうに、飛び石を飛んだ拍子に鼻緒が切れたとする。鼻緒が切れるのが縁起悪いのは、先に述べた墓地から帰るときに鼻緒を切るのと関係があるのだろう。鼻緒が切れて、結局河内の国の女はあきらめるという所につながる。この男はビアンカ派だったようだ。
 七十五句目。

   河内の国へかよふ飛石
 四畳半くづやの里も浦ちかく     信章

 「葛屋(くずや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 茅葺や藁葺の屋根。草葺の屋根。また、その家。茅屋や藁屋。くずやぶき。
 ※為尹千首(1415)春「絶てすむ心よいかにかやが軒かかる葛屋のよはの春さめ」

とある。
 「飛石」は茶室の入口にも用いられる。「四畳半くづや」は藁葺き屋根の質素な茶室を思わせる。「浦ちかく」というのは堺のことか。大坂夏の陣で焼けた堺は復興の途中だった。
 七十六句目。

   四畳半くづやの里も浦ちかく
 浪に芦垣つかまつつたり       桃青

 海辺の四畳半茅葺屋根の粗末な家に住む隠遁者を哀れんでか、波除に芦の垣根をしてあげた。

2019年2月22日金曜日

 いつのまにかあちこちで河津桜が満開になっている。仕事で通り過ぎるだけでなく、じっくり見に行きたいな。
 それでは「此梅に」の巻の続き。

 三裏に入る。
 六十五句目。

   多くは傷寒萩の上風
 一葉づつ柳の髪やはげぬらん     信章

 コトバンクの「脱毛症」のところの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、症候性脱毛症として、

 「腸チフスや肺炎などの熱性伝染病、結核、らい、梅毒などの慢性感染症、エリテマトーデス、皮膚筋炎、強皮症、糖尿病、内分泌疾患などの全身病、放射線照射、局所の外傷、熱傷、真菌や細菌感染症、腫瘍(しゅよう)などのほか、抗腫瘍薬などの薬物による脱毛も含まれる。」

とある。「傷寒」で禿げることもある。
 六十六句目。

   一葉づつ柳の髪やはげぬらん
 これも虚空にはいしげじげじ     桃青

 前句を脱毛の比喩ではなく柳の散る情景として、きっと空にゲジゲジがいるのだろうと展開する。昔は「ゲジゲジに舐められると禿げる」という俗説があった。
 六十七句目。

   これも虚空にはいしげじげじ
 判官の身はうき雲のさだめなき    信章

 昔はゲジゲジのことを「梶原」と言ったという。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 ① 梶原景時の故事から、意地悪な人、いやみな人をいう。
 ※雑俳・柳多留‐二(1767)「梶原と火鉢の灰へ書て見せ」
 ② 「げじ(蚰蜒)」の異名。
 ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「長崎よりものぼるまたう人 耳のあか取梶はらではやるらし〈重安〉」
 ※雑俳・削かけ(1713)「そりゃそりゃそりゃ・びしゃもんさまかかぢはらか」
 [補注](二)①は梶原景時が義経を讒言した故事によるが、(二)②には諸説があり、①と同様の理由とも、梶原氏の矢筈紋の見立によるともいう。また、「和漢三才図会‐五四」によれば梶原景時が、讒言を将軍の耳に入れ害をなしたため、人々がゲジゲジにたとえてきらったのでこう呼ぶようになったともいい、「譬喩尽‐二」の「梶原を蚰(げじげじ)といふことは名乗なり景時々々(ゲジゲジ)」などからともいわれる。

とある。「下知下知」から来たという説もある。
 判官(源義経)の身が定めなきというのは、「梶原景時の讒言」によるもので、ウィキペディアには、

 「『吾妻鏡』にある合戦の報告で景時は「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」(大意)と述べており、義経と景時に対立があったことは確かである。
 この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるが、『吾妻鏡』は「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」とこれに付記している。」

とある。
 六十八句目。

   判官の身はうき雲のさだめなき
 時雨ふり置むかし浄瑠璃       桃青

 浄瑠璃は去年の九月五日の俳話で、『俳諧問答』で許六が「浄瑠璃の情より俳諧を作り」といっていたところで、

 「浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
 貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。」

と書いたが、この両吟百韻の頃にはまだ竹本義太夫や近松門左衛門は台頭してきていない。ただ、浄瑠璃会に新風を望む機運はあっただろう。
 それに対して昔の浄瑠璃といえば「浄瑠璃姫十二段草紙」で、これは浄瑠璃御前(浄瑠璃姫)と牛若丸(義経)の物語だった。
 六十九句目。

   時雨ふり置むかし浄瑠璃
 おもくれたらうさいかたばち山端に  信章

 「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
 「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

とある。
 「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

とある。
 こういう時代遅れのものと一緒に浄瑠璃を並べたが、許六も案外こういう古臭い浄瑠璃のイメージをそのまま引きずっていて、義太夫や近松を知らなかったのかもしれない。
 七十句目。

   おもくれたらうさいかたばち山端に
 松ふく風や風呂屋ものなる      桃青

 今年の一月十日の俳話で『俳諧問答』に引用された、

 物の時宜も所によりてかハりけり
   難波のあしを伊勢風呂でえた   常矩

の句のところで、「江戸の湯屋とちがい、上方の風呂屋では湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。」と書いたが、この「風呂屋もの(風呂屋者)」は湯女の別名だった。江戸にも多少はいたのか、それとも上方から伝え聞いたものか定かでない。
 古びた弄斎・片撥などの小唄に遊女ではなく湯女を出すのが今風か。
 このあたりの展開の仕方は、秋の暮れ→荻の上風→一葉→虚空→浮雲→時雨→山端→松ふく風といった古典のわりとありきたりな連想で句を繋いで、そこに飢饉→傷寒→はげ→ゲジゲジ→判官→浄瑠璃→弄斎・片撥→湯女と当世流行のネタを展開している。
 単純な展開の仕方なので、短時間にたくさんの句を詠むには適したやり方だったのだろう。多分矢数俳諧でもこうした付け方が多用されたのではなかったかと思う。
 この方法で今風の連句を作るなら、こんな感じか。

 内戦に瓦礫ばかりの秋の暮れ
   飢餓の子供に萩の上風
 一葉づつ柳の舟の海を越え
   虚空たなびくリベラルの旗
 あの国はブレクジットの浮雲に
   時雨てゆくはエレキの調べ
 泥臭い演歌シャンソン山の端に
   松吹く風はキャバクラ嬢か

2019年2月21日木曜日

 ようやく今朝、スーパー有明ムーンを見た。
 昨日の五十三句目の所だが、コウモリの耳は洞窟の暗がりでそんなに目立つものではないから、コウモリの飛ぶ姿が三角形に見えるとしたほうがいいのかもしれない。
 それでは「此梅に」の巻の続き。

 五十七句目。

   台所より下女のよびごゑ
 通路の二階はすこし遠けれど     信章

 「通路」は「かよひぢ」で「つうろ」ではない。台所の下女が二階にいる男を呼ぶ。まあ、たいした通い路ではないが、面倒といえば面倒だ。
 下男・下女はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代、一定の年限を決めて主家に住み込み奉公する者のこと。この時代の奉公形式ではもっとも一般的であり、当初この奉公人を下人(げにん)とよんだが、江戸時代後期になると、この呼び名は廃れ、下男・下女とよばれた。徳川幕府は、人身の永代売買は禁止したが、年季を限定しての人身売買形式は問題としなかった。奉公先に対しては保証人をたてて、年決め契約で雇われるのが普通である。男は薪(まき)割り、走り使いなどの雑用に従事し、女は飯炊き、水仕事などの下働きをした。」

とある。中世の下人とは違う。下人はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「平安時代中期から明治頃まで用いられた隷属民の呼び名。平安,鎌倉時代は荘園の武士や名主 (みょうしゅ) に属して家事,耕作,軍事に使役され,相続,売買の対象とされた。室町時代から次第に一戸を構え,自立的経営を行い,隷属から脱却するものも現れてきた。江戸時代は譜代の奉公人のみならず年季奉公人のことをも下人と呼んだが,やがて下男,下女の名称がこれに代るようになった。」

とある。
 中世の下人であれ江戸時代の下男・下女であれ、主人はその恋愛に関心はなく、ある意味でほったらかしだった。子供が出来れば、それはその家の財産になるというだけのことだった。かえって武家の若い男女より自由だったかもしれない。
 五十八句目。

   通路の二階はすこし遠けれど
 かしこは揚屋高砂の松        桃青

 「揚屋」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「遊郭で太夫など比較的上級の遊女を置屋 (遊女をかかえ,養っている家) から招いて遊興させる店のこと。置屋と揚屋が区別されるようになったのは江戸時代初頭。江戸では宝暦年間 (18世紀なかば) にすたれた。」

とある。
 高級な遊女ともなると会えるようになるまでのハードルも高い。二階に上がらせてもらえる日は少しどころか果てしなく遠かったりする。ただ、上がることができれば高砂の松も待っているかも。
 高砂の松は普通は夫婦和合の象徴だが、遊郭なら夫婦ではないが和合はある。絵を描く時には二本の松は男女の絡みをイメージして描くものとされている。
 五十九句目。

   かしこは揚屋高砂の松
 とりなりを長柄の橋もつくる也    信章

 「長柄の橋もつくる」は古今集の、

  難波なる長柄の橋もつくるなり
     今はわが身を何にたとへむ
                伊勢

から来ている。難波の長柄の橋も永らえるように作るというが、今の自分に永らえるような喩えは何もない。
 「とりなり」は動作態度のことだがルックスの意味もある。美女は長柄の橋も作り、揚屋は目出度く末永く高砂の松になる。
 六十句目。

   とりなりを長柄の橋もつくる也
 能因法師若衆のとき         桃青

 やはり出ました。芭蕉さんの衆道ネタ。
 藤原清輔の『袋草紙』に、能因法師のエピソードとして、 藤原節信(ふじわらのときのぶ)に能因が長柄の橋を作ったときに出た鉋屑を見せるとたいそう喜ばれ、能因に井手の蛙の干物を見せてくれたという。
 能因がこの鉋屑を手に入れたのはまだ元服前で若衆だった頃ではなかったかと空想を廻らし、あたかも能因法師に修道時代があったかのように言う。まあ、俳諧は上手に嘘をつくことだと言うが。
 実際の能因法師は橘永愷(たちばなのながやす)で、ウィキペディアによれば「初め文章生に補されて肥後進士と号したが、長和2年(1013年)、出家した。」とある。二十五歳にしてようやく出家したので若衆の時代はなかった。
 六十一句目。

   能因法師若衆のとき
 照つけて色の黒さや侘つらん     信章

 能因法師といえば、十三世紀に成立した『古今著聞集』に、

 「能因法師は、いたれるすきものにてありければ、 『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、『みちのくにのかたへ修行のついでによみたり』とぞ披露し侍りける。」(引用はウィキペディアから)

とある。この頃の本説付けはほとんどそのまんまで、後のように少し変えるというわけではなかった。
 六十二句目。

   照つけて色の黒さや侘つらん
 わたもちのみいら眼前の月      桃青

 「わた」は腸(はらわた)のこと。干からびきっていない臓器の健在なミイラは見た目はゾンビに近いかもしれない。
 ただ、日本の物の怪や妖怪は心を持っているもので、月を見ては我が身の色の黒さに悩む。
 六十三句目。

   わたもちのみいら眼前の月
 飢饉年よはりはてぬる秋の暮     信章

 「わたもちのみいら」はここでは比喩で、飢饉でやせ細った人のことに転じる。
 六十四句目。

   飢饉年よはりはてぬる秋の暮
 多くは傷寒萩の上風         桃青

 「傷寒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「漢方で、体外の環境変化により経絡がおかされた状態。腸チフスの類をさす。」

とある。同じく「世界大百科事典内の傷寒の言及」には、

 「中国の医書に,〈傷寒(しようかん)〉または〈温疫(うんえき)〉と総称される急性の熱性伝染病には腸チフスも含まれていたと思われ,また日本で飢饉のときに必ず流行する疫癘(えきれい)とか時疫(じえき)と呼ばれた流行病には腸チフスがあったと思われる。江戸時代には飢饉のたびに大量の死者を算したが,餓死と疫死と分けて記録されることが多く,ときには疫死者のほうが上回ることがあった。」

とある。飢饉で死ぬ人の「多くは傷寒」で、餓死する人よりも多かったりもした。

2019年2月20日水曜日

 今日は暖かかった。夕方から雨になりスーパームーンは見えない。
 では「此梅に」の巻の続き。三の懐紙に入る。

 三表。
 五十一句目。

   此山一つ隠居料にと
 富士の嶽いただく雪をそりこぼし   信章

 「そりこぼす」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に「髪の毛をそり落とす」とあり、「大辞林 第三版の解説」には「『そりこぼつ』に同じ。」とある。富士山も隠居するので隠居料として白髪のような雪をそり落す。
 富士山の擬人化だが、この趣向は、後の『奥の細道』の、

 剃捨て黒髪山に衣更         曾良

に通じるものがある。
 五十二句目。

   富士の嶽いただく雪をそりこぼし
 人穴ふかきはや桶の底        桃青

 「人穴」はウィキペディアに「人穴(ひとあな)は静岡県富士宮市にある富士山の噴火でできた溶岩洞穴である。」とある。
 「はや桶」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「粗末な棺桶。死者のあったとき、間に合わせに作るところからいう。」とある。
 昔の葬式では、死者は仏道に入るものとして髪を剃って納棺した。富士山も雪を剃りこぼして、富士宮の人穴を仮桶とする。
 五十三句目。

   人穴ふかきはや桶の底
 蝙蝠やみ角の紙の散まよふ      信章

 「蝙蝠のみ角の紙の散まよふや」の倒置。コウモリの耳が尖っていて三角形に見えるのを、死者の額の三角形の天冠に見立て、たくさん飛び交うコウモリの姿に、天冠が散り乱れているようだとする。
 五十四句目。

   蝙蝠やみ角の紙の散まよふ
 山椒つぶや胡椒なるらん       桃青

 コトバンクの「世界大百科事典内のサンショウ(山椒)の言及」に、

 「江戸時代にはコウモリがサンショウや酢を好むものとされた。《本朝食鑑》《和漢三才図会》などもサンショウを好むといっており,江戸の子どもたちは夏の夕方,〈こうもりこうもり山椒くりょ,柳の下で酢をのましょ〉と歌ってコウモリを呼んだ。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「胡椒は三角形の小さな紙袋に入れる」とある。江戸前期にはうどんにかけて食べたという。江戸後期には今のように唐辛子をかけるようになった。
 コウモリは散り乱れる袋を見て、山椒なのかとおもったら胡椒だった。
 五十五句目。

   山椒つぶや胡椒なるらん
 小枕やころころぶしは引たふしは   信章

 「小枕」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 木枕の上にくくりつけて使う、もみ殻やそば殻を入れた細長い円筒形の袋。
 2 女性が日本髪を結うとき、まげを高くし、髻(もとどり)を締めやすいようにかもじの中に根として入れるもの。紙や木で作る。
 3 日蓮宗で、祖師日蓮の御命講に供える丸く細長い餅(もち)。小枕餅。」

とある。この場合は2か。
 「ころころぶしは引たふしは」は謎めいた言葉だが、ころころ転んだり引き倒されたり、ということか。
 髷を結う時に小枕を転がしたり引き倒したりして、それが山椒や胡椒の粒のようだということか。よくわからない。
 五十六句目。

   小枕やころころぶしは引たふしは
 台所より下女のよびごゑ       桃青

 小枕を転がして髪を結っていると、台所から下女の呼び声がする。これが恋呼び出しになる。

2019年2月19日火曜日

 このごろ「ネトウヨ」という言葉がやたら拡大解釈されていて、あたかも日本にはネトウヨがうじゃうじゃいるかのような印象操作が為されている。
 本来ネトウヨはそんなに数は多くない。多く見積もっても一パーセントに満たない。ただ、一人でたくさんのアカウントを作って一斉攻撃を仕掛け、いかにも大勢の人間が殺到して炎上しているかのように見せかけるのが奴らの手口だった。そこから「ゴキブリは一匹いたら百匹いると思え、ネトウヨは百件書き込みがあったら一人だと思え」という諺もできたくらいだ。
 筆者のネトウヨのイメージだと、たとえば在日は朝鮮戦争の頃の不法移民だからみんな強制送還しろだとか、そもそも慰安婦なんてものは存在せず自発的な売春婦がいただけだだとか主張している連中で、もちろんどちらも事実に反する。在日の多くは太平洋戦争が始まる前から日本にいた人たちの子孫だし、慰安婦の多くは債務奴隷などの事情により売春を強いられていたし、騙されたり誘拐されたりした人たちもいた。
 今となってはあまりネットとは関係なく、韓国と中国と朝日新聞が嫌いなのはネトウヨだとか、安倍の支持者はネトウヨだとか、ますます分けのわからないことになって、それはウヨかもしれないがネトではない。
 最終的には左翼でない者はみんなネトウヨで、そうなると何と日本人の九割はネトウヨだということになる。それだともちろん鈴呂屋こやんとて例外ではない。
 それでは無駄話はこれくらいにして「此梅に」の巻の続き。

 四十五句目。

   鎧は毛ぎれむしは音をいれ
 ことあらばやせたれどあの花薄    桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「源左衛門の痩馬を出すべきを花薄に転じた」とある。
 源左衛門は謡曲『鉢木』に登場する佐野の源左衛門で、

シテ「運の尽くる所か。最明寺殿さへ修行に御出で候ふ上は候。やうにおちぶれては候 へども。御覧候へこれに物の具一領長刀一えだ。あれに馬をも一匹つないで持ちて候。これは只今にてもあれ鎌倉に御大事あらば。ちぎれたりとも此具足取つて投げかけ。錆びたりとも長刀を持ち。痩せたりともあの馬に乗り。一番に馳せ参じ着到に附き。さて合戦始まらば。
地 「敵大勢ありとても。敵大勢ありとても。一番に割つて入り思ふ敵と寄合ひ打合ひて死なん此身の。此侭ならば徒らに。飢に疲れて死なん命。何ぼう無念の事さうぞ。(「宝生流謡曲名寄せのページ」による)

というように、いわゆる「いざ鎌倉」の元になった話だ。
 「ことあらばやせたれど」だけで源左衛門の痩せ馬を連想させ、虫の音の縁で花薄を出す。ススキも外来の牧草が入ってくる以前は馬の飼料とし

て用いられていたようだ。
 四十六句目。

   ことあらばやせたれどあの花薄
 ももとせの餓鬼も人数の月      信章

 前句の「やせたれど」を餓鬼のこととした。「餓鬼」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「仏教で説く六道の一つの餓鬼道に住むもの。あるいは人間とともに住む餓鬼もいるといわれる。常に飢えと渇きに苦しみ悩まされ,餓鬼の腹は出て皮と筋と骨ばかりで,長い間食物について聞くことも見ることもなく,たとえ見たとしても食べることはできない。また食べようとして口のところにもってくると炎となってしまうこともあるといわれる。さらに子供の貶称に用いることもある。」

とある。子供の貶称というのは「悪ガキ」だとか「ガキ大将」「ガキの使い」だとか今でも用いられている。
 「餓鬼も人数(にんじゅ)」というのは、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「つまらない者でも、いれば、多少の効果があることのたとえ。また、取るに足りない者も多く集まれば、あなどりがたいことのたとえ。」

とある。「人数」はここでは字数の関係か「にんじゅう」とよむ。
 まあ、枯れ木も山の賑わいというところか。花薄のようにひょろひょろと痩せた百歳の餓鬼も名月の賑わいか。
 四十七句目。

   ももとせの餓鬼も人数の月
 大無尽世尊を親に取たてて      桃青

 「無尽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口ごとに抽籤または入札によって金品を給付するもの。→頼母子講(たのもしこう)」

とあり、「頼母子講」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」

とある。
 ここではお釈迦様(世尊)が大勢の餓鬼から金を集めて頼母子講をやっていると、芭蕉お得意のシュールな空想で展開する。
 四十八句目。

   大無尽世尊を親に取たてて
 公儀の掟はのがれ給はず       信章

 無尽の変形で「取退無尽」という博打まがいのものがあり、しばしば禁制が出されたというが、だいたいは江戸中期以降のことで延宝の時代にそういう禁制があったかどうかはよくわからない。
 この場合はお釈迦様が集金に来るのだから、払わずにごまかして当選金だけ貰おうなんてことはできないと見ておいた方がいいか。
 四十九句目。

   公儀の掟はのがれ給はず
 土も木も三間ばりに野づら石     桃青

 「三間ばり」は三間梁規制といって、寺田建築事務所のホームページによると、

 「江戸時代には「三間梁規制」といって上屋の梁間は三間(約19.5尺)に制限されていた。寛永20年(1643年)「武家住宅法令」が定められ、明暦3年(1657年)に大名屋敷だけでなく町民屋敷へと規制は拡大されている。」

だという。
 「野づら石」は自然石のことで、三間梁の掟は人間の家屋だけでなく、土や木や石にも適用される‥なんてことは実際にはないけど。
 五十句目。

   土も木も三間ばりに野づら石
 此山一つ隠居料にと         桃青

 さて、三の懐紙に入る前ニまた順序を入れ替えるため、桃青が二句続けて詠む。
 三間梁を隠居用の屋敷とし、山の土や木や野面石をすべて売り払った。

2019年2月17日日曜日

 今日は九段の千代田区役所で行われた「千代田ねこ祭り」を見に行った。祭りといっても役所のフロアの中だけの小さなイベントで、保護猫の譲渡会、猫グッズの販売、音楽ライブなどがメインだ。
 むぎ(猫)というミュージシャンのライブは面白かった。何でも、公式ホームページによると、

 「1997年7月東京生まれ。2002年沖縄に移り住み、2009年1月に永眠。5年間の天国暮らしの後、2014年3月にカイヌシのゆうさくちゃんによる手作りの新しい身体を手に入れ、再びこの世に舞い戻った。」

という。
 久しぶりに神保町を散歩したし、楽しい一日だった。やっぱり平和はいいもんだ。鈴呂屋は平和に賛成します。
 それでは「此梅に」の巻の続き。二裏に入る。

 三十七句目。
   ゑんまの町々引わたす霧
 煩悩の本綱中づな末の露       桃青

 「本綱(もとづな)」は馬や荷車を引く時の綱の手元の部分。「中綱」とはあまり言わないがここは調子を合わせるための造語であろう。本綱、中綱と来て、下綱と来るように見せながら「末の露」と一応秋の季語を放り込む。
 前句の「引きわたす」を市中引き回しのこととして、「末の露」は獄門曝し首を暗示させる。煩悩の果てはこうなるという戒めか。
 こういう調子のいい言葉の配列も、この頃の俳諧がゆっくりとしたテンポで吟じられたのではなく、いわゆる軽口で唄われたからではないかと思う。軽口だからこそ矢数俳諧も可能だった。
 三十八句目。

   煩悩の本綱中づな末の露
 人足あれば山姥もあり        信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、謡曲『山姥』の一節が引用されている。注ではかなり省略されているが、

 「邪正一如と見る時は。色即是空そのままに 
  仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり、
  仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり    
  柳は緑  花は紅の色々」(「宝生流謡曲名寄せのページ」による)

という地謡の一節だ。
 この「衆生」のところを「人足」に変えている。前句の三つの綱を煩悩の「三結」とする。
 三結はウィキペディアによれば、五下分結のうちの「有身見(うしんけん) - 我執、戒禁取見(かいごんじゅけん) - 誤った戒律・禁制への執着、疑(ぎ) - 疑い」をいう。この三結を絶てば人足も山姥も一体の、この世界のあるがままの柳は緑花は紅の世界になる。
 三十九句目。

   人足あれば山姥もあり
 谷の戸をたたき起して触流し     桃青

 山姥は閉ざされた山の中に住んでいるが、谷の入口に住む住民をたたき起こして人足を集めるように御触れを出す。一体何が起きたのかよくわからないが‥
 四十句目。

   谷の戸をたたき起して触流し
 諸鳥の小頭うぐひすのこゑ      信章

 たたき起こしたのは鶯だったという落ち。鶯は春告鳥ともいい、山に住む鳥たちに春を告げるためだった。
 四十一句目。

   諸鳥の小頭うぐひすのこゑ
 花をふんですずめは千の徒歩の衆   桃青

 鶯が出たところで花の定座を繰り上げる。
 鶯の小頭に雀を徒歩の衆とする。
 四十二句目。

   花をふんですずめは千の徒歩の衆
 上野下屋の竹のはるかぜ       信章

 「下屋」は「下谷」と同じ。上野山の下にある。上野寛永寺の門前だが下谷広小路はこの頃はまだなく、上野山の花を眺め竹に雀が囀る長閑な所だったのだろう。江戸後期には歓楽街になる。
 四十三句目。

   上野下屋の竹のはるかぜ
 鍔目貫朝の霜にくちはてて      桃青

 「鍔目貫」は「鍔」と「目貫」で、「鍔」は「刀剣の柄(つか)と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防御するもの。」(コトバンク「デジタル大辞泉の解説」)、「目貫」は「目釘のこと。のち、柄(つか)の外にあらわれた目釘の鋲頭(びょうがしら)と座が装飾化されてその部分をさすようになり、さらに目釘と分離した飾り金物として柄の目立つ部分にすえられるようになった。」(コトバンク「デジタル大辞泉の解説」)。
 刀が朽ち果てて竹光になったということか。
 四十四句目。

   鍔目貫朝の霜にくちはてて
 鎧は毛ぎれむしは音をいれ      信章

 「毛切れ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「鎧(よろい)の威(おどし)の糸がすり切れること。
 「―のしたる鎧(よろひ)着せ」〈幸若・屋島軍〉」

とある。
 「音(ね)を入れる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「鳥、特に鶯(うぐいす)が鳴くべき季節が終わって鳴かなくなる。鳴きやむ。〔俳諧・増山の井(1663)〕」

とある。
 刀も朽ちて鎧の糸が切れて、虫も鳴かなくなる。枯野に横たわる死んだ武者の姿か。
 芭蕉がのちに『奥の細道』の旅で詠む、

 むざんやな甲の下のきりぎりす    芭蕉

の句を髣髴させる。
 参考までに、キリギリスはコオロギ、コオロギはカマドウマ、カマドウマはコオロギ。

2019年2月16日土曜日

 日本では「言霊(ことだま)」とか言う人がいて、口にしたことは本当にそうなるという。
 良いことはどんどん口にすれば良いが、悪いことはみだりに口にすべきではないという戒めだ。
 非科学的だと言う人もいるが、こと戦争に関しては正しいのではないかと思う。
 「戦争になる」と繰り返し言われていると、人間の心理として、必ず「ならばやられる前にやれ」ということになる。
 回避できるならそれが一番良いのだが、回避できないとなると勝つしかない。その論理が世界的な軍拡の連鎖を引き起こしてゆく。
 実際に「安倍が戦争を起こそうとしている」だとか「このまま極右が台頭すれば第三次世界大戦が起こる」だとかいう声を随分と聞いたが、韓国政府は露骨に反日路線を取るようになったし、中国やロシアは核軍拡を続け、アメリカもそれに対抗せざるを得なくなった。事態はどんどん悪い方向に向かっている。
 だから平和を願うすべての人に言いたい。「戦争が起こる」と連呼して不安や恐怖を煽るのはもうやめにしよう。「世界は平和になるんだ」「すでに世界の多くは平和だし、今ある戦争だってもうすぐ終わるんだ」「戦争はもはや時代遅れだ」とポジティブに平和を訴えて欲しい。
 「戦争反対」ではなく「平和賛成」「平和最高」を声を大にして叫ぼうではないか。
 平和と言えばやはり俳諧。俳諧は江戸の平和の象徴とも言える。そこから学ぶものも多いだろう。というわけで「此梅に」の巻の続き。

 二十九句目。

   末の松山茎漬の水
 千賀の浦しほがま居て場の隅     桃青

 千賀の浦は現在の塩釜港だという。『古今和歌六帖』に、

 陸奥の千賀の塩釜近ながら
     遥けくのみも思ほゆるかな
                伊勢

の歌がある。ただ、ここでは塩釜は文字通り塩を入れた釜で、「場(には)」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、台所の土間のことだという。
 土間の上に釜を据えて塩を入れ茎漬けを作るという句に、「末の松山」「千賀の浦」がただ調子を整える言葉として付け加えられた感じになる。そこに特に意味はない。こういうのもこの頃の特有の付け方といっていいだろう。
 三十句目。

   千賀の浦しほがま居て場の隅
 雪隠さびて見えわたるかな      信章

 「雪隠(せっちん)」は最近あまり聞かなくなったがトイレのこと。前句の「場(には)」を外の庭として、そこに「うらさびた」トイレの建物がある。千賀の浦、塩釜だけにうらさびている。
 「うらさぶ」は「心荒ぶ」と書くが、昔から「浦」に掛けて用いられ、古今集にも、

 君まさで煙絶えにし塩竃の
     うらさびしくも見えわたるかな
                  紀貫之

の歌がある。この歌の換骨奪胎とも言える。
 三十一句目。

   雪隠さびて見えわたるかな
 たまさかにこととふ物はげたの音   桃青

 「こととふ」は声をかけることをいう。たまに物音がするとといっても下駄の音だけだ。トイレに下駄は付き物。
 三十二句目。

   たまさかにこととふ物はげたの音
 なを山ふかく入し水風呂       信章

 当時の風呂はサウナが主流で、水風呂(水を沸かした風呂)は山奥の湯治場などにある。
 三十三句目。

   なを山ふかく入し水風呂
 よしやよしこぬか袋の濁る世に    桃青

 「よしやよし」は「いいのだろうか、いいのだ」で、赤塚不二男の「これでいいのだ」にも近いかもしれない。『和泉式部日記』に、

 よしやよし今は恨みじ磯に出でて
     漕ぎはなれ行く海人の小舟を

の歌の用例がある。
 「ぬか袋」はウィキペディアに「顔や体の汚れを取り、肌を洗うための洗浄剤」とある。米ぬかを木綿の袋に詰めたもの。
 洗浄剤さえ濁るこの世の中を捨てて山奥の水風呂を求めるというと、何となく世捨て人の風情がある。人生の洗濯というところか。
 三十四句目。

   よしやよしこぬか袋の濁る世に
 千里をかける馬子はあれども     信章

 「千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず」(韓愈『雑説』)のもじりか。こんな濁りきった世だから街道に千里の馬を引く馬子はいても、千里の馬であることを見抜ける伯楽はいない。まあ、平和だといえば平和なので、それでいいではないか。
 今の泰平の世の中では軍で活躍するような千里の馬は必要ないし、本来なら名将になる素質のある者が市井に埋もれていてもそれも良しとしよう。
 なかなか面白い句だが、ただ、こぬか袋関係ない。これがこの頃の付け方だ。
 三十五句目。

   千里をかける馬子はあれども
 西の月見ぬ六道の札の辻       桃青

 「六道」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「仏教用語。生存中の行為の善悪の結果として,衆生がおもむく6種類の世界の状態をいう。すなわち,地獄,餓鬼,畜生,阿修羅,人間,天をいう。 (→輪廻 , 六地蔵 )」

とある。
 西の月は西方浄土を表わし、解脱することなく輪廻を繰り返す六道の辻では西の月を見ることはない。
 「札の辻」は宿場の入口などにある高札場のある辻。東京の三田のあたりに札の辻の交差点があるが、かつてはここが東海道の江戸の入り口だったという。
 こういう辻には六道を表わす六地蔵が立っていることもあったか。その脇を千里を行くかのような馬子に引かれ、荷を背負った馬が通り過ぎて行く。
 三十六句目。

   西の月見ぬ六道の札の辻
 ゑんまの町々引わたす霧       信章

 「閻魔の庁」だとコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」にある通り、「閻魔王がいる庁舎」の意味になる。ここでは閻魔の町々で閻魔様のいる所も賑やかになったものだ。

2019年2月15日金曜日

 今日も朝から曇っていて寒かった。ただ、所々梅が咲いてるのを見ると春なんだなと思う。寒いけど梅が応援してくれる。‥‥これだと寒梅の句になるから仕損じか。
 それでは「此梅に」の巻の続き。

 二表。
 二十三句目。

   霞にもろき天竺のきぬ
 今朝の雪貧女一文が糊をとく     桃青

 二の懐紙に入るところで、これまで信章が五七五の長句、桃青が七七の短句を詠んでいたのをここで入れ替える。
 糊は米を煮て溶いたもので、布に張りをもたせるのに用いる。安政三年(一八五六)の『諸国板行帖』に「糊一杯一文」とある(『江戸物価辞典』小野武雄著)。芭蕉の時代からそんなに変わってなかったのか。
 今朝の雪は貧しい女の解いた洗濯糊のようなもので、一時的に絹のような雪で地上を覆うが、春の霞の前には脆く消え去る。
 二十四句目。

   今朝の雪貧女一文が糊をとく
 風進退を削る竹べら         信章

 雪を舞い散らす風は糊を塗る時に使う竹べらのようだが、竹べらは糊に較べて高価なのか、貧女の進退(しんだい)を削る。「進退」はここでは「身代」のこと。
 二十五句目。

   風進退を削る竹べら
 臍の緒を吉原がよひきれはてて    桃青

 句は「吉原がよひに臍の緒をきれはてて」の倒置。「臍の緒」はこの場合比喩で金蔓のことだろうか。金蔓がなくては身代を削るしかない。
 穿った見方をするなら、親の金で遊んでたどら息子が、親がなくなりその遺産を食い潰すということか。
 二十六句目。

   臍の緒を吉原がよひきれはてて
 かみなりの太鼓うらめしの中     信章

 昔は雷様に臍を取られると言われ、雷が鳴ると手で臍を隠したものだ。
 吉原というと太鼓持ち(幇間)がいて、場を盛り上げてくれるのだが、それに乗せられてついついお金をつぎ込んでしまう。あの太鼓持ちが雷様のように臍の緒を切ってしまったことよ。
 二十七句目。

   かみなりの太鼓うらめしの中
 地にあらば石臼などとちかひてし   桃青

 これは『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、白楽天の『長恨歌』の一節、

 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝
 (天に在りては願はくば比翼の鳥と作り、地に在りては願はくば連理の枝と為らん)

を引いているように、この句のパロディーのようだ。

 在天願作雷太鼓 在地願為石碾臼

というところか。太鼓は雷様に寄り添い、碾き臼は上臼と下臼を重ねて摺り合わす。
 しかし、さすが芭蕉さん。どこからこういう発想が。
 二十八句目。

   地にあらば石臼などとちかひてし
 末の松山茎漬の水          信章

 「茎漬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「ダイコンやカブなどを茎や葉といっしょに塩漬けにしたもの。くき。 [季] 冬。」

とある。これは和歌山の茎漬けで、三重の茎漬けはヤツガシラの茎を塩と赤紫蘇で漬ける。茎を塩漬けにして臼に入れて重石を乗せると、茎の水分が出てくる。これは古今集の、

 君をおきてあだし心をわがもたば
     末の松山波もこえなむ
             よみ人知らず


あだし心がないから末の松山を波を越えることはありません、と誓う歌だを引いてきて、同じように茎漬けの水も臼から溢れません、とした。
 末の松山は宮城県多賀城市の小高い丘で、貞観地震の大津波も東日本大震災の大津波もここを越えることはなかった。

2019年2月14日木曜日

 ここの所曇りがちだったが、今日は半月が見えた。相変わらず寒い日が続く。
 三寒四温というのは本来中国東北部で冬の気候を表わすのに使われていたらしい。日本ではどこか「三百六十五歩のマーチ」(星野哲郎作詞)の「三歩進んで二歩下がる」のような乗りで使われている。
 暖かい日寒い日を繰り返しながらも少しづつ春は来ている。三日寒い日があっても四日暖かい日が来るというよりはむしろ、三度下がって四度上がるの方が日本の春の気候に近いかもしれない。
 それでは「此梅に」の巻の続き。

 十五句目。

   森の下風木の葉六ぱう
 真葛原ふまれてはふて逃にけり    信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「木葉武者などのごとく臆病な六方者(侠客)としてつけた」とある。
 「木葉武者」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 取るに足りない武士。雑兵(ぞうひょう)。すぐに追い散らされてしまうような端武者(はむしゃ)。弱兵。こっぱむしゃ。
※俳諧・詞林金玉集(1679)一四「木葉武者の鎧とをしか霜の剣〈勝重〉」

とある。
 「六方者」もコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「万治(まんじ)・寛文(かんぶん)年間(1658~73)を中心に江戸市中を横行した男伊達(だて)。六法者とも書く。大撫付髪(おおなでつけがみ)、惣髪(そうはつ)、茶筅髪(ちゃせんがみ)に、ビロード襟の着物などを着て、丈も膝(ひざ)のところぐらいまでにし、褄(つま)を跳ね返らせ、無反(むそり)の長刀を閂(かんぬき)に差し、大手を振って歩いた。このかっこうから六方者という名称がおこったといわれる。御法(ごほう)(五法)を破る無法者(六法者)の意味ともいう。また旗本奴の六法組の者とも、旗本奴の六団体の総称ともいうが、いずれも明確ではない。ことばもなまぬるいことを嫌って六方詞(ことば)という特殊語を使い、博奕(ばくち)、喧嘩(けんか)、辻斬(つじぎ)りなど傍若無人にふるまった。[稲垣史生]」とある。歌舞伎の六方がここから来たというのは俗説だと、前に引用した

「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にはあった。
 まあ、いつの世にもこういうチンピラはいたのだろう。ただ、今の日本はヤクザの衰退からか、ヤンキーはいてもこういうその筋の者はあまり見なくなった。むしろ普通の格好している危ない奴(DQN)が増えているように思える。
 江戸も寛文年間にはこういう連中が闊歩していたが、延宝から元禄に掛けて世の中が安定してくるといつの間にいなくなっていったか。
 元禄五年の「洗足に」の巻の頃にはせいぜい単羽織を着て粋がってる連中がいて、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

というところだったか。
 逃げる六方を「木葉武者」だから「真葛原ふまれて」と古典の言葉を換骨奪胎して表現するのが延宝の談林調だ。「軽み」のストレートな表現に至るには十五年かかった。
 十六句目。

   真葛原ふまれてはふて逃にけり
 むし鳴までにむごうなびかぬ     桃青

 「なびかぬ」で恋に転じる。踏まれて這って逃げたのは夜這いの男か。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「虫の音をあげる程まで、むごう踏まれても靡かぬの意」とある。これは弱音を吐くという意味の「音をあげる」に掛けて言っているのか。
 十七句目。

   むし鳴までにむごうなびかぬ
 恋の秋爰にたとへの有ぞとよ     信章

 今でも春に出会って夏に燃えて秋に別れて冬は独りぼっちとと、恋は四季に喩えられる。
 ただ、この時代にそういう慣用的な比喩があったかどうかはわからない。単に秋の恋は喩えて言えばつれない人に虫の音をあげるようなもの、ということか。
 十八句目。

   恋の秋爰にたとへの有ぞとよ
 吉祥天女もこれほどの月       桃青

 吉祥天女は昔はふくよかな姿で描かれていた。いわゆる平安美人だ。月に喩えればやはり満月か。
 十九句目。

   吉祥天女もこれほどの月
 あつらへの瓔珞かかる山かづら    信章

 瓔珞(ようらく)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「サンスクリット語のムクターハーラ muktāhāraまたはケーユーラ keyūraの訳語。インドで身分の高い男女が珠玉や貴金属を編んで,首,胸,腕などにつけた装身具。仏教では寺院内外の飾りや仏像の首,胸,衣服の飾りに用いる。」

とある。
 「山かづら」はweblio辞書の「隠語大辞典」に、

 「暁方、山の端にかかる白雲をいふ。其角、明星や桜さだめぬ山かづら。」

とある。其角の句は山の端ににかかる白雲と桜の区別がつかないという古典的な花の雲の句だ。貞享五年の蕉風確立期の復古調の句。
 月を吉祥天女に喩えるなら、瓔珞は山の端の白雲というわけだ。
 二十句目。

   あつらへの瓔珞かかる山かづら
 松のあらしの響く耳たぶ       桃青

 「山かづら」は山蔓という植物の意味もある。ヒカゲノカズラのことだという。シダ同様装飾に用いられる。古今集の「神遊びのうた」には、

 まきもくのあなしの山の山人と
     ひともみるがに山かずらせよ

の歌もある。
 瓔珞に喩えられても「山かづら」はゴージャスな煌びやかさには程遠い。神事の装飾であれば、松の嵐の蕭々とした悲しげな風が耳たぶを撫でる。瓔珞だけに耳たぶに。
 二十一句目。

   松のあらしの響く耳たぶ
 大黒の袋は花にほころびて      信章

 大黒様の耳は言うまでもなく福耳。
 花がほころんだので大黒様の七宝の入った袋も開く。ありがたいことだ。前句の「松のあらし」の情を捨てて目出度く付けている。六句目同様、この頃はこういう詠み方で良かったのであろう。
 二十二句目。

   大黒の袋は花にほころびて
 霞にもろき天竺のきぬ        桃青

 大黒天は本来ヒンドゥー教のシヴァ神だった。日本に来て大国主命と習合し、大分姿は変わってしまったが。
 前句の袋のほころびを文字通り布のほころびとし、インドの絹は霞に弱いとした。

2019年2月13日水曜日

 さて、「此梅に」の巻の続き。
 談林の俳諧はスピード重視の所もあり、言葉の縁からの連想で展開してゆくことが多く、内容的にはそれほど急展開せずに緩やかに進んでゆく。ただ、芭蕉らしさを言うなら、そこに人情の機微を言うのではなく、突飛な空想へと流れてゆく傾向が見られることだ。
 それでは初裏に入る。
 九句目。

   つまだてて行あし引の山
 五寸程手の届かざる歌の道      信章

 「あし引き」と言えば枕詞で和歌の道。足を引きずっていれば思うように進めないから、歌の道にあと五寸届かない。
 十句目。

   五寸程手の届かざる歌の道
 ひとかいあまりすみよしの松     桃青

 五寸程手の届かないのを、松の大木を抱きかかえた時に手が届かないこととした。「かい」は「かかえ」のこと。
 これはまあ、歌の道がいかに遠いものであるかを松の大木に喩えたと見ても良いだろう。
 大阪の住吉大社は玉津島明神・柿本人麻呂とともに和歌三神と呼ばれている。住吉の相生の松は古今集の仮名序に、「高砂住の江の松もあひ生ひのやうにおぼえ」とある。
 「良し」は古代には「えし」といった。これにより「すみのえ」は後に「すみよし」に、「ひえ」は後に「ひよし」に変化した。
 十一句目。

   ひとかいあまりすみよしの松
 淡路島仕形ばなしの余所にみて    信章

 「仕形咄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 ① 手ぶり、身ぶりして語る話。
 ※雲形本狂言・空腕(室町末‐近世初)「いかな仕方咄(シカタバナシ)なればとて、某(それがし)の首を討おとす真似をするといふ事が有物か」
 ② 江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。
 ※雑俳・住吉おどり(1696)「手を出して・しかた咄をせぬあを屋」

とある。
 前句の「ひとかいあまり」を仕方話の所作として、すみよしの松はいいから、それより対岸の淡路島が気になる、とした。
 十二句目。

   淡路島仕形ばなしの余所にみて
 とも呼鳥の笑ひごゑなる       桃青

 「とも呼鳥」は友千鳥のこと。「友千鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「群れ集まっている千鳥。むらちどり。むれちどり。
 源氏(1001‐14頃)須磨「ともちどりもろ声になくあか月はひとりねさめのとこもたのもし」

とある。
 仕形ばなしで一生懸命笑わせようとしても、人は余所目に見て通り過ぎて行くばかりで、笑うのは千鳥ばかりとはいかにも寒い。
 淡路島の千鳥といえば、百人一首でもお馴染みの、

 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に
     幾夜寝覚めぬ須磨の関守
               源兼昌

の歌がある。
 十三句目。

   とも呼鳥の笑ひごゑなる
 青鷺の又白さぎの権之丞       信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、「江戸時代の鷺流狂言師、鷺権之丞」とある。コトバンクの「世界大百科事典内の鷺権之丞の言及」には、

 「狂言の流派の一つ。江戸時代は観世座付で,幕府などに召し抱えられたが,明治時代に廃絶した。室町初期の路阿弥(ろあみ)を流祖とし,その芸系が兎太夫や日吉満五郎,その甥の宇治源右衛門らを経て,9世鷺三之丞まで伝えられてきたと伝承するが確かでなく,観世座付の狂言方として知られた者たちを家系に加えたにすぎないらしい。日吉満五郎は大蔵流・和泉流でも芸を伝授したとされており,両流と同じ芸系にあることになる。三之丞の甥鷺仁右衛門宗玄(にえもんそうげん)が1614年(慶長19)に徳川家康の命で観世座付となり,流儀として確立した。」

とある。その後も鷺権之丞の名は代々襲名されてゆくことになり、鷺権之丞は何人もいる。
 友千鳥を笑わせているのは鷺の権之丞にちがいないが、青鷺の権之丞なのか白鷺の権之丞なのかよくわからない。
 十四句目。

   青鷺の又白さぎの権之丞
 森の下風木の葉六ぱう        桃青

 「六方」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「歌舞伎(かぶき)演出用語。六法とも書く。手足と体を十分に振り、誇張的な動作で歩く演技。勇武と寛闊(かんかつ)な気分を表すもので、荒事(あらごと)演出では重要な技法の一つになっている。語源については諸説あるが、発生的には古来の芸能の歩く芸の伝統を引くもので、祭祀(さいし)に「六方の儀」と称する鎮(しず)めの儀式があったことから、両手を天地と東西南北(前後左右)の六方に動かすことの意にとるのが妥当のようだ。ほかに、江戸初期の侠客(きょうかく)グループ六方組から出たというのは俗説だが、当時の「かぶき者」たちが丹前風呂(たんぜんぶろ)へ通うときの動作を模したものは、丹前六方とよばれ、現在でも『鞘当(さやあて)』などにみられる。荒事系の技法では、手足の極端な動きによって強さを強調しながら花道を引っ込む「飛(とび)六方」が代表的なもので、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の和藤内(わとうない)、『車引(くるまびき)』の梅王丸、『勧進(かんじん)帳』の弁慶などが有名。その変形として片手六方、狐(きつね)六方、泳ぎ六方などがある。人形浄瑠璃(じょうるり)や民俗芸能にも「六方」と称する足の動きの技法が伝えられている。」

とある。
 六方は狂言ではなく歌舞伎の所作だが、歌舞伎で演じられる芝居やその台本のことを「歌舞伎狂言」とも言ったから、混同されてたのかもしれない。
 「森の下風木の葉」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、謡曲・千手の「森の下風木の葉の露」によるとある。
 青鷺か白鷺の権之丞の芝居では風に舞う木の葉も六方を舞う。

2019年2月11日月曜日

 今日は庄野潤三の「山の上の家」に行った。
 とはいっても近代文学に疎い私としてはこの人がどういう人なのかもわからず、ただくっついて行っただけだが。
 ただ、ここは自宅から歩ける距離にあり、寒い中を歩いていった。長沢浄水場の隣にあり、年に二回公開されるという。
 玄関の前のスダジイの木だろうか、梯子がかかっていて、そのうえに太い丸太が横に渡してあり、そこに乗れるようになっていた。これを見て「ひょっとして幻住庵?」と思った。これに藁座布団があれば「猿の腰掛」だ。場所も山の上で眺めも良さそうだし。
 さて、「此梅に」の巻の続き。
 第三。

   ましてや蛙人間の作
 春雨のかるうしやれたる世中に    信章

 春雨は春の霧雨とも言われるようにザアザア降るのではなく軽く降る。
 人間の世界も軽い方が洒落ている。洒落者は軽薄に見られがちだが、物事に拘泥せずに、臨機応変に機転を利かせて生きることは決して悪いことではない。昔も今もファッションやトレンドは軽いのを良しとする。
 日本の場合、軽いものを良しとする価値観は、仏教によるものなのかもしれない。執着を捨てることを我々の文化は良しとする。過去もさらっと水に流すのが良い。
 春雨のように軽い洒落た世の中であれば、まして蛙(俳諧)はより軽く洒落ている。後の芭蕉の「軽み」を待つまでもなく、俳諧は本来軽いのを良しとする。
 四句目。

   春雨のかるうしやれたる世中に
 酢味噌まじりの野辺の下萌      桃青

 春の野辺の下萌といえば若菜。これを酢味噌で食べるのは洒落ている。さすが伊賀藤堂藩の元料理人だ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注は、『夫木和歌抄』の、

 昔見し妹が垣根はあれにけり
     つばなまじりのすみれのみして

の歌を引いている。
 五句目。

   酢味噌まじりの野辺の下萌
 摺鉢を若紫のすりごろも       桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は『伊勢物語』の、

 春日野の若紫の摺り衣
     しのぶの乱れかぎり知られず
               在原業平

の歌を引いている。
 若菜を酢味噌に混ぜて摺り鉢で摺り潰し、ペーストを作っているのだろうか。
 鉢を染める色が昔の原始的な摺り染めの衣のような荒っぽい模様を描いている。
 延宝八年の、

 柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな    桃青

の趣向にも通じるものがある。風で吹き集められた木の葉は抹茶を立てるときのようだ。
 六句目。

   摺鉢を若紫のすりごろも
 むかし働のおとこありけり      信章

 前句が『伊勢物語』の趣向だから、「むかしおとこありけり」を付ける。前句の意味にはそれほどこだわっていない。こういう付け方もたくさんの句を素早く詠むには必要なテクニックだ。
 ただし、「働(はたらき)」の男として換骨奪胎する。「働」は今で言う「下働き」のことか。
 七句目。

   むかし働のおとこありけり
 皹のひらけそめたる空の月      信章

 原文は月偏に氐の字になっている。フォントが見つからないので「皹(あかがり)」とした。あかぎれのこと。
 働く男はあかぎれくらいできる。あかぎれが開いて痛いところだが、それを夜があいて白んでゆく空の月に掛けて、強引に月の定座にもって行く。
 八句目。

   皹のひらけそめたる空の月
 つまだてて行あし引の山       芭蕉

 あかがり(あかぎれ)を足にできたあかがりとし、あかがりが痛くてつま先立ちで足を引き摺るようによろよろ歩く様とする。それを枕詞の「あしひき」に掛ける。

2019年2月10日日曜日

 昨日の雪はたいしたことなかった。今年はやはり暖かいのか。
 さて、『俳諧問答』の方は一休みして、また俳諧を読んでいこうかと思う。
 旧暦の方でも春が来たので、延宝四年の桃青(芭蕉)・信章(素堂)の両吟百韻「此梅に」の巻を読んでみようかと思う。
 延宝三年の秋に江戸にやってきた宗因と一座したこの二人は、すっかり宗因流の談林俳諧に感化され、この百韻を巻くことに至った。そのときの空気を何とか読み取ってみたいと思う。
 信章はコトバンクの「世界大百科事典内の山口信章の言及」に、

 「江戸前期の俳人。姓は山口,名は信章。甲斐国北巨摩郡教来石字山口の郷士の家に生まれた。少年時代父に従って甲府に移り,さらに20歳のころ江戸に出て林家について漢学を修めた。その後しばらく京へも遊学したらしい。俳諧は季吟門と伝えたが,最初の入集は加友撰《伊勢踊》(1668)で,〈江戸山口氏信章〉として5句。1675年(延宝3)5月,江戸下向中の宗因を歓迎する俳席に桃青(芭蕉)とともに出座,以後,翌年には両人で《江戸両吟集》を発行するなど親交を深め,芭蕉らの新風を支持した。」

とある。
 「此梅に」の巻もこの『江戸両吟集』に収録され、この年の三月に刊行されている。
 信章は寛永十九(一六四二)年の生まれで、寛永二十一年生まれの芭蕉より歳が二つ上になる。
 コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、「延宝7 (1679) 年 38歳で致仕,上野不忍池のほとりに隠棲」とある。芭蕉の深川隠棲の一年前のことだ。
 天和期には素堂の俳号を名乗り、元禄二年刊の『阿羅野』で、

 目には青葉山ほととぎす初鰹     素堂

の句を発表し、今日でも日本中誰もが知る句の作者となった。
 芭蕉と素堂との交流は終生続き、元禄五年の夏には俳諧と漢詩による両吟「破風口に」の巻を巻いているのは、以前にもこの鈴呂屋俳話で紹介した。
 この百韻には「奉納貳百韻」とあり、『江戸両吟集』に収録されている

もう一つの、

 梅の風俳諧國にさかむなり      信章

 を発句とする百韻とともに、梅に縁のある天神様に奉納したものとされている。
 天神様というと江戸の三大天神というのがある。湯島天満宮、亀戸天神社、谷保天満宮のことだが、どこに奉納されたのかはわからない。谷保は遠すぎるので、湯島か亀戸のどちらかであろう。
 中世の連歌は寺社で興行されることが多かった。この時代の連歌は密室で行われるのではなく、寺社への奉納という形で公開で行われていたのだろう。そして出来上がった連歌はしばらく寺社に掲示されたりして、一般庶民の多くもその作品を鑑賞し、それが身分を越えた連歌の大流行を生み出し、庶民の識字率を高めるのにも貢献したと思われる。
 江戸時代初期の俳諧興行も、多分のその名残を留めていたと思われる。たとえば西鶴の矢数俳諧は、本当に即興で一日何千もの句を詠んだことを証明するには、衆人の見ることろで行われる必要があっただろう。
 宗因が江戸に来て、桃青・信章が参加した延宝三年の興行も本所の大徳院で行われている。
 それを考えると、この両吟もどちらかの天満宮で興行された可能性は大きい。当時の句のスピードを考えるなら、一日で百韻二巻も十分ありえたであろう。
 正月の梅の咲く季節に、この興行は桃青の発句でもって始まる。

 此梅に牛も初音と鳴つべし      桃青

 天満宮といえば梅は付き物だが、牛も神使とされている。ウィキペディアには、

 「菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。」

とある。ただ、撫で牛はこの時代にあったかどうか定かでない。
 宗因は梅翁とも呼ばれていて、去年江戸にやってきた梅翁に負けずに、自分たちもここで初音と洒落てみようか、という句だ。「牛」は神使でもあるが、鈍重なというイメージもあり、ここに「遅ればせながら」という意味を込めたと思われる。
 これに信章が脇を付ける。

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作         信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、謡曲『白楽天』の「されども歌を詠むことは人間のみに限るべからず。‥‥‥花に鳴く鶯水に住める蛙まで、唐土はしらず日本には歌よみ候ぞ」が引用されている。「花に鳴く鶯水に住める蛙」は古今集の仮名序による。
 蛙はそこから歌詠みの象徴でもあり、俳諧師もまたそれを引き継いでいる。
 牛も初音と鳴くのだから、まして俳諧師もここで句を詠まなくては無風流の極みだというところだ。

2019年2月8日金曜日

 アリアナ・グランデさんを悲しませてしまった「文化の盗用(cultural appropriation)」という言葉は、日本ではほとんど聞くことがない。一部の人権問題に深入りしている人くらいが知っている言葉ではないかと思う。
 おそらく本来は少数民族の文化が支配的な民族によって捻じ曲げられることを防ぐためにできた概念ではなかったかと思う。
 アメリカではよく使われ、しばしば悪用されている言葉なのかもしれない。ただ、普通の日本人の発想からはこの言葉は出てこない。
 七つの指輪のことを七輪と書いたことについては、日本人はそれを「外人あるある」の一つとして笑い飛ばすことを知っている。笑ってはいても悪意はない。外人の着ているTシャツの変な日本語を話題にするのと同じ感覚だ。
 少なくとも日本に生まれ育った日本人は、「文化の盗用」だなんてこれっぽっちも考えてない。むしろ外人が日本に興味を持ち、それを真似てくれるのをいつでも喜んで、日本の文化も国際的になったと誇りに思っている。
 だから侍や忍者や初音ミクのコスプレをする事を恐れないでほしい。叩くくとしたら、それは別の人たちだ。
 もちろん連歌や俳諧などの日本の伝統文化も、細かい所など気にせずにどんどん真似てほしい。それでバッシングする人がいたら、それも別の人たちだ。
 文化の多様性は世界中の人々の財産であり、特定の人たちだけの特権ではない。多様性は一つの文化が行き詰った時のための保険でもあり、誰もが使えるからこそ意味がある。
 今回のバッシングを見ても西洋人権思想のポリコレ棒の弊害は見えている。それを乗り越えるには日本の文化を積極的に盗用することをお勧めする。
 長くなったが、それでは『俳諧問答』の続き。

 「路通ごときのもの成共、急度俳諧を正敷あらため、血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル志也。
 路通一生涯の行跡の事ハ、予少も心にかけず。予が仁義の師となさば、似せる嘲りもあるべし。
 俳諧ニおいてハ、門前にたたずむ乞食成共、一芸のすぐれたる所を見出さば、何ぞ憚る所あらんや。千里を遠しせず、行て師とし尊トバむ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100~101)

 路通の句に血脈がないというのは何をもって言っているのか。根拠は示されてないし、示すことはできないだろう。自分を基準にすれば、自分と異なる才能は自分の血脈ではない。それだけのことだ。
 許六が路通を嫌っているのは嫉妬ではないかと思う。藩の家老まで務めた我が身が芭蕉になかなか会うことすら出来なかったのに、乞食坊主の分際で古くから芭蕉にぺったりくっついている。それだけでも憎むのに十分だ。
 それに加えて、いわゆる乞食坊主に対する差別の感情も否定できないだろう。乞食坊主が乞食坊主らしく生きていればまだ怒りも込み上げないが、それが芭蕉の高弟のような顔しているから余計憎いに違いない。
 ただ、その本音はあくまで隠し、「血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル」何ていっているが、血脈の匂いを出しても全力でそれを否定する理屈をこしらえるに違いない。
 「行跡の事ハ、予少も心にかけず」と言うが、本当だろうか。

 「路通・洒堂ごときの者、一生の行跡嘸々乱随ならん。是少も予が障に成事ニ非ズ。
 此路通といふ者を見るに、俳諧も乱随也。一ツとしてとる所なし。
 しかれ共、先生ハ急度路通・洒堂のごときの者をにらミ、法を正敷し給ふ事、尤至極也。
 先生法をミだり給ふ時ハ、末々の門人猶ミだりに成て法を失ひ侍るべし。
 湖南の門人、洒堂を本のごとくに用ひ給ふ事、翁存命ニおいてハ、湖南の衆かくハちなみ給ふ事成まじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.101)

 「随」は従うことをいう。「乱随」となると、乱れたままにしておくこと、勝手気ままにふるまうことをいう。自由は誰もが求めるものだが、家老職の窮屈な生活を強いられてきた許六には、嫉妬の対象以外ではなかったのだろう。
 路通・洒堂に限らず、其角・惟然など、許六はこういう自由に生きている人間が癪に触ってしょうがなかったのだろう。
 洒堂は之道との確執があり、芭蕉の最後の大阪行きの時、二人を仲直りさせようとしたが不調に終った。洒堂も相当に一癖も二癖もある人物だったのだろう。ただ、芭蕉はその才能を認めていた。
 「医者の袷」の句は許六にとっては単なるネタ以上に揶揄する気持ちがあったのかもしれない。
 路通の場合、許六だけでなく他の門人とも確執があったが、これは単に素行の問題だけでなく出自の問題があった可能性がある。つまり被差別民だったのではなかったか。以前筆者も冗談で路通サンカ説があれば面白いとか言ったが、路通の嫌われ方や信用のなさは差別と関係があると考えた方が説明しやすい。
 「斎部」という失われた「姓」で呼ばれていたあたりも、その関係なのかもしれない。古代から続く斎部氏の末裔というところに、特殊な家柄という意識を持っていたのだろう。
 何で『奥の細道』の同行者が急遽曾良に変わったかについても、芭蕉や其角は気にしてなくても、やはり気にする門人が多かったのだろう。

2019年2月7日木曜日

 今日は夕暮れの空に三日月が見えた。正月も三日。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 さて、許六の血脈論の限界は大体見えてきたと思う。
 それは一方で血脈が人間として自然に備わっているものであるとともに、一方では師匠から継承されるものという二重の意味を持っているところにある。
 後者には自分が師匠である芭蕉に選ばれた限られた血脈の継承者であるというエリート意識以外に何もない。
 自分には血脈が備わっているが、他の人はなぜ血脈を失っているか、その答えとして「不易流行に迷い」ということが繰り返し提起されている。
 不易流行がすべての悪の権化であり、不易流行から遁れれば魔法のように名句が次々と生まれるかというと、もちろんそんなことはない。ならば許六自身はどうなのかということになる。
 仮に血脈が奪われることがあるとすれば、それは人間の持つ本来の性をゆがめるような暴力装置が存在する時に限られるだろう。
 いつの時代でもどこの国でも、すべて自由に表現することが許されているわけではない。そこには常に権力によって禁止されている表現が存在し、それを正当化するための様々な理論というかイデオロギーが存在している。そしてこうした理論はしばしば権威と見なされ、表現全体に圧力を掛けている。
 不易流行説にはそんな権威は存在しないし、もちろんそれに従わなかったからといって暴力装置が作動することもない。それは一つの仮説にすぎず、芭蕉が終生行ってきた試行錯誤の一つの過程にすぎない。
 人間の真実は未だ言葉にならず、すべての理論はその近似値を目指して試行錯誤を繰り返しているにすぎない。
 理論はあくまで理論であり、それにあまりに杓子定規に拘泥すれば、確かに創作を不自由な折に閉じ込めることになる。ただ、当時の不易流行説がそれほどの大きな力を持っていたかどうかは疑問だ。

 「横にこけ、竪ニひづミたり共、血脈さへあらバ、是上手の句也。
 近年の句ハ、よし共あしし共、一向にかたづき侍らぬゆへに、秀逸見度とハいふ事也。
 前ニいふ所のあやうき場所をしらず、あくまでいひ損ぜぬ心より出来る句共なれバ、よし共又あしし共かたつかず。
 此論ハ雑俳の事にあらず、芭門骨切の弟子共の上也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 理屈に囚われていては良い句を作れないというのはもっともな話で、それに異論はない。
 失敗を恐れ、冒険をしないなら、当然ながら進歩もない。
 ただ、ならば後に惟然が超軽みの冒険に打って出た時、許六は何をしていたかということにもなる。

 「一向に初心のともがらにハ、おもひ切ていひ出す所あれバ、天然まぐれあたりにいひ出す事も千に一ツもあり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 血脈が誰にでも自然に備わっていて、それを自然に言い出すなら、それは「まぐれ」ではあるまい。「まぐれ」というのは血脈を継承しなくてはいけないものだと思っているからだ。
 実際、素人の句がそんなに面白くないのは、素人ほど常識に囚われて、こうでなくてはいけない、こうでなくてはプロに笑われると思うからだ。それは素人であることの自信のなさだ。

 「血脈正しからざる人達チ人々、不易を心懸ヶ侍るゆへに、あやうき場所の句、闇に夜の明たるごときの句、曽てなし。俳諧根本の滑稽少し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 この場合の「不易」も、常識に縛られて無難な句を詠もうとし、冒険を恐れるという意味であろう。
 近代俳句も昭和の頃までは様々な冒険が試みられたが、今はその焼き直しすら見当たらない。五七五で季語が入っていればという所でとりあえず納得しているような句が多い。昔のような無季題や自由率すらも影を潜めている。
 サラリーマン川柳なんかを見ても、日本にあれだけのお笑い芸人がいて、日々様々な刺激的な笑いを供給しているというのに、その影響を何ら受けることなく何であんな退屈な親父ギャクばかりを繰り返しているのかは永遠の謎だ。どこか川柳はこういうものという常識があるのだろう。

2019年2月6日水曜日

 昨日は旧正月で、あけおめ。俳諧のほうも春になる。
 それでは『俳諧問答』。一歩一歩少しづつ。

 「翁ノ笈の小文に書れらるる句、それハ一生一代の秀逸の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 芭蕉が目に留めた秀句を書き付けたという「笈の小文」は未だその存在が確認されていない。今日『笈の小文』と呼ばれている紀行文のことではない。
 ただ、『去来抄』「先師評」の「岩鼻や」の句のところに、

 「去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿半にて遷化ましましけり。此時予申しけるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺ふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝過分の事をいへりと也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,18~19)

とあり、少なくとも去来・許六と複数の人がその存在を証言している。

 「只人の口ニ申觸るる程の句さへ、此ごろハなし。
 これハしるもしらぬも、不易不易といへる故に、あやうき場所をわすれたりと察ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 俳諧の衰退はもちろんそんな単純なものではない。
 一つには江戸庶民の娯楽の多様化ということもあっただろう。
 それとともに、かつて寺社などで盛大に興行された百韻の時代から、もっぱら個人宅に引き籠っての歌仙興行に変わっていったことも、俳諧を多くの不特定多数の人の参加の出来ない閉鎖的なものにし、世間の価値観と遊離する原因になったのではないかと思われる。
 そういう中で「不易」という言葉は世間から遊離した独特な価値観を表すのに便利な言葉になっていったのかもしれない。近代俳句も俳句をやってる人にしかわからない独自な価値観に凝り固まって既に久しい。
 ある意味で江戸中期になって俳諧を世間の価値観に引き戻したのは、柄井川柳の川柳点だったのかもしれない。
 許六も確かに談林の影響を受けた時代が長かっただけに、世俗的なネタをたくさん持っていて、それが「十団子」の句や、

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六
 人先に医者の袷や衣がへ     同

といった句を生んだといえよう。芭蕉が求めたのはそこでもあった。

 「一年の秀逸、一月の秀逸あるべき事也。是ハ血脈の慥ニ相続の上の事を、予ハ秀逸と云也。
 俳諧の眼共、又ハほそミ共、影共いふ也。少づつハいひかハりもあるべけれ共、畢竟ハ血脈第一の上也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 「眼」は眼目のことか。眼目は今日の俳句でもよく使われる。「影」はよくわからない。「眼」にしても「影」にしても用例を探す必要がある。
 「ほそみ」は『去来抄』にあり、「さび」「しほり」とともによく知られている。
 血脈はこれらの根底にあるという。ただ、それは風雅の誠のような普遍的なものでありながら、同時に相続されるという両面を持つ。

 「言葉のかざりニて、ほそミ・しほりなどいふて、益なき事を付がる事を、先書にハしるし侍る也。元来血脈のなき句の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99~100)

 「先書」は、

 「近年湖南・京師の門弟、不易流行の二ッにまよひ、さび・しほりにくらまされて、真のはいかいをとりうつしなひたるといはんか。たまたま同門にたいして句を論ずるに、ことばのつづき、さびを付けざればよしのといはず。一句のふり、しほりめかぬはかつて句とせず。これ船をきざみ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)するの類ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35~36)

のことであろう。

2019年2月4日月曜日

 今日は立春でその名のとおり暖かかった。明日からまた寒くなるというが、三寒四温の時期に入ったようだ。
 明日は旧正月で、一日だけだが年内立春ということになる。去年と今年が同時に存在する場所、古(いにしえ)と今が同居する場所、それが古今和歌集のコンセプトだったし、この鈴呂屋俳話も古と今の出会う場所であれたらいいなと思う。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「万葉の風、後ニ用ひずといへ共、血脈ハ万葉より継たる故に、古今集といふ物ハ出生したり。
 風ハ枝葉也。是古今の変有てかハる事慥也。
 段々血脈の動ぜざる所を相続したるに寄て、今日の翁の血脈を継で、各や我々にハ教へ給へり。
 風ハ此已後いくばくの変もあらん。予が論ハ全ク血脈の所を申也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 万葉の風は、この半世紀ぐらい後になると国学が起こり、復古万葉調が生じてくる。この流れは近代にも受け継がれてゆく。ただ、古今集の時代から芭蕉の時代に至るまで用いられなかった。
 古今集は万葉集と風は異なるが、風は「枝葉」であり、血脈は継承されている。万葉調、古今調は「風」であるが故に、不易流行説からすれば、血脈を不易、それぞれの風を流行と見る事もできよう。
 そこから芭蕉に至るまで、王朝の和歌から連歌へ、連歌から俳諧への流れもまた、風や形式は変わっても血脈は継承されている。それは伝統であるとともに、人間の普遍的な根本から生じる歌であれば、血脈は自ずと継承される。
 それは今日のジャパンクールに至るまで、血脈は途絶えていない。ただ、西洋的な理性から発せられる近代俳句は、果してこの血脈の上にあるのかどうかという問題はある。人間の根源的な欲望、感情、衝動などの混沌としたところから発せられるのではなく、むしろそれらをコントロールする所の理性から発せられる文学は、むしろそれを抑制ところに成り立っている側面がある。それが今日の世界的に広まる大衆文化と純粋芸術の境目になっている。
 西洋流の批評家は大衆文学を純粋芸術に高めたいようだが、そこで批評がが評価したものは必ずしも大衆的に浸透せず、大衆に大人気なものに批評家がそっぽを向くという現象が起こる。西洋流の芸術は血脈によるのではなく、血脈をコントロールする理性に発する。

 「近年血脈相続の句見えず。故ニ秀逸なしといへる也。
 先生の論ハ、一代の秀逸の事をいへり。和歌など猶以、一代の秀逸多クハなしときき侍る。
 しかれ共一代の秀逸といふにも其人によるべし。
 たとへバ予が為に秀逸ニあらずとて捨たる句、又予より遥におとりたる人の句にゆづれバ、其人の為にハ一代の秀逸ニ成るに似たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 人間が作る句であれば、基本的には血脈を備えているわけだが、それでも血脈相続がないというのはどういうことか。それは西洋の芸術が血脈より出るのではなく、それをコントロールする理性の伝統に立脚するように、芸術はその時代、その民族の文化によって様々な社会的制約を受ける。
 いわば、純粋に人々の感動に訴えるものではなく、理論や道徳や権力によってある種のものは禁止されたり、不当に価値を貶められたりする。
 この価値体系によって、同じ血脈から生まれているにもかかわらず、国や時代によって独特な「風」が生じているのではないかと思う。芸術に対して権力側の価値観が強く反映されればされるほど、血脈は失われる。自由な創作が続けられる時は作品は本来の血脈に戻る。
 「近年血脈相続の句見えず」というのであれば、俳諧が庶民の自由な判断でその価値が評価されず、選者の権威がものをいう状態になっているということが考えられる。ある意味蕉門があまりに巨大になりすぎたため、選者が権威になってしまい、庶民の嗜好が反映されにくくなったのかもしれない。
 「先生の論ハ、一代の秀逸の事をいへり」というのは、基本的に芭蕉が説いたのは自分の生きている時代の俳諧のことで、季吟のような古典の研究者ではなかったということだ。
 「和歌など猶以、一代の秀逸多クハなしときき侍る」というのは、一つには古今の時代といい新古今の時代といい、現存する作品が絶対的に少ないということもある。
 「秀逸といふにも其人によるべし」というのは、同じ血脈とはいえ人間の遺伝子は多様であり、さらには生まれや育ち、職業立場の違いなど社会的な多様性も加わり、脳の回路の形成や眼や耳の見え方聞こえ方の違いなど様々な要因で、同じ芸術作品でも人それぞれみんな感じ方が違う。誰でも自分にとっての秀逸があり、他人の秀逸も必ずしも自分にとって価値を持つとは限らない。趣味の多様性は江戸時代の大衆の間にすでに形成されていた。
 芭蕉が当時の俳諧の頂点に立ったとはいえ、貞門ファンも大阪談林のファンも根強く存在していた。また俳諧より歌舞伎や浄瑠璃だという人たちもいた。

2019年2月3日日曜日

 今日は寄(やどりき)の蝋梅を見てから曽我の梅林に行った。蝋梅は満開で、梅は三分咲きと言ったところか。
 ただ梅は木によって遅速があるため、満開の木もあれば咲いてない木もあり、三分咲きの木、五分咲きの木など様々で、全体として見れば三分かなくらいのところだ。

 二もとの梅に遅速を愛す哉      蕪村

の句もあるが、三万五千本という梅林になっても梅の遅速を見ることができる。
 今日もまた春をフライングゲットした所で『俳諧問答』も機嫌よく行ってみよう。

 「人間生じて後目鼻なくば、人間の用ニハたたず。目鼻拵置て、人間を又作るべしや。
 五臓・五体兼備に寄て、人間成就し出生する也。
 句において、少もかはる事あるましじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 「人間生じて後目鼻なくば」というのは、別に目鼻を病気や事故で失う可能性のことを言っているのではない。それは本来あるべきものが偶然失われているというだけのことで、目鼻のない新種の人類が誕生しているのではない。
 たとえ五体不満足であっても、その遺伝子は五体不満足の子を生むことはない。それは乙武さんが証明している。
 LGBTにしてもべつに男でも女でもない別の性があるのではない。男として生まれ、あるいは女として生まれながら、脳の発達過程で偶発的にさまざまな性的志向が生まれるにすぎない。ゲイのカップルだからといってそこからゲイが生まれてくるわけではない。
 あらかじめ遺伝子の構造が全く異なっているなら、「人間の用ニハたたず」ということになる。サルに人間の目鼻を移植しても人間にはならない。
 ここで許六は不易流行もそのようなもので、元となる血脈が備わらないなら、不易も流行もなく、そこにあとから不易と流行を移植しても意味がないと考える。
 ただ、この喩え自身、不易流行説を説明するのに妥当ではない。
 芭蕉に血脈論があったとしても、血脈から不易・流行の二つの体に分かれるのではない。むしろ不易を深めていった結果として血脈に至るだけで、古典の不易に対して新作の流行を対比するやり方から、古典の底に血脈を見ることができる一方、古典といえども過去の流行にすぎないという所で、古典であろうが新作であろうが、時代を超えた不易を発見することが重要というところに至ったと思われる。
 古典の中にも流行を見、流行の中にも不易を見ることから、古典流行の底に真の不易を見出し、すべてを流行と見定めたのではなかったかと思う。
 同じ人間の遺伝子を持っていても、様々な人種、民族が生まれ、その中でも様々な個性を持つ人間がいて、結局一人として同じ人間はいない。
 それと同じで、古代から現代に至る様々な文学芸術があり、世界を見ればまたそこにさまざまな文学芸術がある。それぞれの文学芸術は流行にすぎないとしても、その根底は結局一つ、同じ人間の遺伝子から発している。
 それなら去来が不易の体、流行の体の句を作ったとしても、去来が人間である以上生まれながらに血脈を供えているのだから、何ら問題はないはずだ。一体何が問題なのだろうか。
 許六は結局血脈を二重の意味で用いてダブルスタンダードにしている。
 一方で血脈は人類普遍のものでありながら、一方では師匠から弟子へと継承される一種の家元の継承と見ている。
 句作一般を論じる時は前者で血脈を用い、自分と去来との違いを言うときには後者の意味で用いている。

 「先書ニ云ク、不易・流行を貴トせず共いへり。又何ゾいやしとせざらんや。
 不易・流行とわかれざる以前に、妙句あるまじき事ニあらずといひたるハ、血脈の正シキ所をさしていふ也。以前といふハ血脈の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 芭蕉が不易流行を言わなくなったからといっても、それは不易流行を賤しいと思ったからではないのは言うまでもない。
 「不易・流行とわかれざる以前」というのは、不易流行説が立てられ、不易体と流行体が意識して区別されるようになる以前という意味なら正しい。しかし明確に意識されてなくても、似たような発想は昔もあったかもしれない。
 それは正岡子規が写生説を説く以前に写生はなかったかというと、意識されてなかったというだけで写生的な句は存在する。それと同じだ。
 ただ、ひとたび写生説が立てられると、以前には存在しなかった写生説の価値観によって古典の句の良し悪しが判断されるばかりか、写生でなかった句までが強引に写生と解釈されてしまうことになる。これは法の遡及のようなものだ。
 万葉集や蕉門の俳諧を写生説で読解し価値判断をするのは、写生説が事後法であり遡及法であるという点で問題がある。
 不易流行説をそのような遡及法として過去の作品に用いるなら、確かにそれは正しくない。ただ、去来は決してそのようなことを行ってない。許六の作った藁人形だ。
 「血脈の正シキ所」は不易と言ってもいい。

2019年2月1日金曜日

 ネットを見ていたら、

 着ぶくれて慰安婦像の銅の髪 東国原英夫

の句があった。このテレビ番組は一度チラッと見た程度でよくわからないが、あいかわらず近代俳句はイミフな句が多い。
 まず切れ字がなくて句が切れてないし、「着膨れて」の言葉がこれでは生きていない。

 着膨れの慰安婦像や銅の髪

ならば、手を打て「出来たり」というところだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「血脈備ハつて出生すれバ、目鼻ハ自然ニ出来たり。是不易・流行とわかれて、男と成、女と成るがごとし。
 故ニ先書ニ論じたる、不易・流行を前にをきて句を案ずる事あるまじとハ、如此也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97)

 「血脈」をあくまで人間として本来自然に備わっている「性理」あるいは「誠」だとするなら、この主張は分かる。
 ただ、問題はそこに「継承」という概念を持ち込んで、限られた選ばれた人間だけがそれをできるということになると、それは違うだろう。
 今日の科学から見るなら、血脈は最初の生命の誕生から人類までの進化の過程で獲得したさまざまな欲望、衝動、感情、理性の総体であり、そこに明確な統一性はない。それは進化の過程でそのつど継ぎ足されたものであり、神によってあらかじめ設計されてたわけではないからだ。
 それは混沌としていながらそれでいて緩やかなまとまりを持っている。それは「道」の概念にも通じる。
 一人の人間の個体の中でも緩やかなまとまりしかないものは、大きな社会集団となっても同様、混沌の中に道がある。世界は多様なものの緩やかなまとまりであり、それ以上でも以下でもない。完全なカオスというのもなければ、整然たる統一もない。
 それは誰でも持っているが、誰も完全ではない。
 血脈をこのようなものと考えるなら、それは誰もが生まれながらに継承していて、特定の血筋の者だけが特権を持つわけではない。
 日本の様々な古典芸能に世襲や擬制の世襲が見られ、いわゆる家元が存在し、代々その家のものが権威を持ったりするが、俳諧はそのような家元制が形成されなかった。
 貞門でも貞徳亡きあと、誰かが二代目貞徳を襲名することはなかった。談林でも同じだし蕉門でも同じだ。そこが能や歌舞伎とは違う所だ。
 芭蕉以降となると嵐雪の血脈を継承する三世雪中庵蓼太や、巴人、蕪村、几董の夜半亭三代のようなものが存在する。もちろんそこには実際の血のつながりはなく弟子が擬制として継承している。
 こうした習慣は近代に入ると「俳統」と呼ばれるようになり、誰の弟子であるか、どこの結社に所属しているかが重要になる。ちなみに鈴呂屋こやんは誰の弟子になったこともなく、結社に所属したこともないので俳統は「なし」ということになる。
 俳諧は高度な芸や技術を要するものではなく、幼い頃から教育する必要もない。また、そういう教育を施したからといって面白い句が生まれるわけでもない。そういう意味では俳諧の誠は古代ギリシャでプラトンが論じた「徳」と同様、子孫に継承させることはできない。
 もちろん素質というか筋の良し悪しというのはある程度あるだろう。ただ、それはその人個人のもので、他人に継承させることは出来ない。
 風雅の誠をもって句を作るなら、その句は様々な姿をとっても元は一つであり、不易体、流行体というのがあるのであれば、そういう句もできる。それは別に間違ってはいないだろう。

 「是血脈相続の人にてなきしるしに、枝葉の不易・流行にからまされて、元来出生の血脈を失ひたる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97~98)

 枝葉の不易と流行に惑わされる人は血脈がないのではない。ただ見失っているにすぎない。だから、厳密に言えば「相続の人にてなきしるし」ではない。先祖代々人間として生を授かっている以上、血脈は相続しているのだが、一時的にそれを忘れているだけだ。
 ただし、これは不易体、流行体とわざわざ分けて句を読む方法をいうだけで、どんな句にも不易の面もあれば流行の面もある。それをあとから分類してこれは不易の句、これは流行の句というにすぎない。以前に述べたとおりだ。