昨日は河津まで河津桜を見に行った。満開の桜に露店が並び、縁日のような賑わいだった。やはり花には脳内快楽物質を分泌させる何かがあるのだろう。そこにいるだけでハイになれる。
そういえば、偉大なる日本人ドナルド・キーンさんがお亡くなりになった。
まあ、結局日本で生まれ育った人がいくらこの日本の古典が素晴らしいと言ってもね、「それは日本だけの孤立した論理で世界には通用しない」と言われちゃうからね。だから西洋で生まれ育った人に論評してもらう必要があるんだよ。彼が日本の古典研究の「第一人者」だと言うのはそういうことだ。
西洋人が評価して初めて日本人も日本の古典を評価できるようになる。明治以降、今に至っても日本はそういう国だ。だから連歌や俳諧も早く誰か西洋人が評価してくれないかな。
キーンさんの後継者はやっぱロバキャンさんかな?よろしく頼んま。
それでは「此梅に」の巻の続き。日本だけの孤立した論理でお送りします。
七十七句目。
浪に芦垣つかまつつたり
時は花入江の雁の中帰り 信章
花の定座なのでまず「時は花」とし、「浪に芦垣」なので「入江」を付ける。そこに景物として雁を登場させるが、単に「帰る雁」ではベタなので「帰る」に掛けて「宙返り」とする。
実際に雁が宙返りをするのかどうかはよくわからない。
七十八句目。
時は花入江の雁の中帰り
やはら一流松に藤まき 信章
雁が宙返りしたかと思ったら、宙返りしていたのは自分だった。
「やはら」といえば柔らの道だが、今の柔道は明治の頃に嘉納治五郎によって確立されたもので、それ以前は「やわら」と呼ばれることが多かったようだ。
ウィキペディアの「柔術」のところには、
「戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力業ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。ただしこれらの流派でも読みはやわらであることも多い。また、この時期に伝承に、柳生新陰流の影響を受けて小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。」
とある。
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「当時流行の居合抜柔術の名人藤巻嘉信をふまえる。」とある。ネットで藤巻嘉信を調べると居合抜きの大道芸人だったようだ。藤巻嘉真という別の大道芸人もいたようだから、「藤巻」を名乗る大道芸人は当時たくさんいたのか。そうなると、この場合の柔術も武道としての柔術というよりは大道芸だったのかもしれない。派手な宙返りをする柔術の芸もあったのだろう。
和歌では藤は松に絡むものとされている。
夏にこそ咲きかかりけれ藤の花
松にとのみも思ひけるかな
源重之(拾遺和歌集)
名残表。
七十九句目。
やはら一流松に藤まき
いでさらば魔法に春をとめて見よ 桃青
「魔」は「魔羅」、サンスクリット語のMāraから来たという。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、「 江戸時代、多く、天狗をさしていう。」とあるから、前句の柔らの達人を天狗としたか。
藤は春の終わりから初夏にかけての花で、天狗に本当に魔法が使えるなら春を止めて見よとする。
八十句目。
いでさらば魔法に春をとめて見よ
七リンひびく入相のかね 信章
七輪は七厘とも書く。珪藻土でできた小型軽量のコンロ。正徳二年(一七一二年)の『和漢三才図会』には、「薬を煎り、酒を暖め、炭の価僅か一分に至らず、因って七輪と称す。」とあるという。
七輪は魔法薬を作るのにも使われたか。遅日といえども春の日はやがて暮れてゆき、入相の鐘が鳴る。沈む日を止めることは果してできるのか。
八十一句目。
七リンひびく入相のかね
薬鍋三井の古寺汲あげて 桃青
滋賀の三井寺の鐘には、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したという伝説がある。(三井寺のホームページより)
前句の入相の鐘は琵琶湖より汲み上げた鐘で、その金を薬鍋の中に入れて七輪にかければ七輪から鐘の音が響く。シュールネタ。
八十二句目。
薬鍋三井の古寺汲あげて
落させられし宮のうち疵 信章
三井寺のホームページによれば、
「その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。」
とある。
前句をそのまんまの意味で古寺を汲み上げてとし、その古寺を落としたとする。
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