ようやく今朝、スーパー有明ムーンを見た。
昨日の五十三句目の所だが、コウモリの耳は洞窟の暗がりでそんなに目立つものではないから、コウモリの飛ぶ姿が三角形に見えるとしたほうがいいのかもしれない。
それでは「此梅に」の巻の続き。
五十七句目。
台所より下女のよびごゑ
通路の二階はすこし遠けれど 信章
「通路」は「かよひぢ」で「つうろ」ではない。台所の下女が二階にいる男を呼ぶ。まあ、たいした通い路ではないが、面倒といえば面倒だ。
下男・下女はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「江戸時代、一定の年限を決めて主家に住み込み奉公する者のこと。この時代の奉公形式ではもっとも一般的であり、当初この奉公人を下人(げにん)とよんだが、江戸時代後期になると、この呼び名は廃れ、下男・下女とよばれた。徳川幕府は、人身の永代売買は禁止したが、年季を限定しての人身売買形式は問題としなかった。奉公先に対しては保証人をたてて、年決め契約で雇われるのが普通である。男は薪(まき)割り、走り使いなどの雑用に従事し、女は飯炊き、水仕事などの下働きをした。」
とある。中世の下人とは違う。下人はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「平安時代中期から明治頃まで用いられた隷属民の呼び名。平安,鎌倉時代は荘園の武士や名主 (みょうしゅ) に属して家事,耕作,軍事に使役され,相続,売買の対象とされた。室町時代から次第に一戸を構え,自立的経営を行い,隷属から脱却するものも現れてきた。江戸時代は譜代の奉公人のみならず年季奉公人のことをも下人と呼んだが,やがて下男,下女の名称がこれに代るようになった。」
とある。
中世の下人であれ江戸時代の下男・下女であれ、主人はその恋愛に関心はなく、ある意味でほったらかしだった。子供が出来れば、それはその家の財産になるというだけのことだった。かえって武家の若い男女より自由だったかもしれない。
五十八句目。
通路の二階はすこし遠けれど
かしこは揚屋高砂の松 桃青
「揚屋」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「遊郭で太夫など比較的上級の遊女を置屋 (遊女をかかえ,養っている家) から招いて遊興させる店のこと。置屋と揚屋が区別されるようになったのは江戸時代初頭。江戸では宝暦年間 (18世紀なかば) にすたれた。」
とある。
高級な遊女ともなると会えるようになるまでのハードルも高い。二階に上がらせてもらえる日は少しどころか果てしなく遠かったりする。ただ、上がることができれば高砂の松も待っているかも。
高砂の松は普通は夫婦和合の象徴だが、遊郭なら夫婦ではないが和合はある。絵を描く時には二本の松は男女の絡みをイメージして描くものとされている。
五十九句目。
かしこは揚屋高砂の松
とりなりを長柄の橋もつくる也 信章
「長柄の橋もつくる」は古今集の、
難波なる長柄の橋もつくるなり
今はわが身を何にたとへむ
伊勢
から来ている。難波の長柄の橋も永らえるように作るというが、今の自分に永らえるような喩えは何もない。
「とりなり」は動作態度のことだがルックスの意味もある。美女は長柄の橋も作り、揚屋は目出度く末永く高砂の松になる。
六十句目。
とりなりを長柄の橋もつくる也
能因法師若衆のとき 桃青
やはり出ました。芭蕉さんの衆道ネタ。
藤原清輔の『袋草紙』に、能因法師のエピソードとして、 藤原節信(ふじわらのときのぶ)に能因が長柄の橋を作ったときに出た鉋屑を見せるとたいそう喜ばれ、能因に井手の蛙の干物を見せてくれたという。
能因がこの鉋屑を手に入れたのはまだ元服前で若衆だった頃ではなかったかと空想を廻らし、あたかも能因法師に修道時代があったかのように言う。まあ、俳諧は上手に嘘をつくことだと言うが。
実際の能因法師は橘永愷(たちばなのながやす)で、ウィキペディアによれば「初め文章生に補されて肥後進士と号したが、長和2年(1013年)、出家した。」とある。二十五歳にしてようやく出家したので若衆の時代はなかった。
六十一句目。
能因法師若衆のとき
照つけて色の黒さや侘つらん 信章
能因法師といえば、十三世紀に成立した『古今著聞集』に、
「能因法師は、いたれるすきものにてありければ、 『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、『みちのくにのかたへ修行のついでによみたり』とぞ披露し侍りける。」(引用はウィキペディアから)
とある。この頃の本説付けはほとんどそのまんまで、後のように少し変えるというわけではなかった。
六十二句目。
照つけて色の黒さや侘つらん
わたもちのみいら眼前の月 桃青
「わた」は腸(はらわた)のこと。干からびきっていない臓器の健在なミイラは見た目はゾンビに近いかもしれない。
ただ、日本の物の怪や妖怪は心を持っているもので、月を見ては我が身の色の黒さに悩む。
六十三句目。
わたもちのみいら眼前の月
飢饉年よはりはてぬる秋の暮 信章
「わたもちのみいら」はここでは比喩で、飢饉でやせ細った人のことに転じる。
六十四句目。
飢饉年よはりはてぬる秋の暮
多くは傷寒萩の上風 桃青
「傷寒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「漢方で、体外の環境変化により経絡がおかされた状態。腸チフスの類をさす。」
とある。同じく「世界大百科事典内の傷寒の言及」には、
「中国の医書に,〈傷寒(しようかん)〉または〈温疫(うんえき)〉と総称される急性の熱性伝染病には腸チフスも含まれていたと思われ,また日本で飢饉のときに必ず流行する疫癘(えきれい)とか時疫(じえき)と呼ばれた流行病には腸チフスがあったと思われる。江戸時代には飢饉のたびに大量の死者を算したが,餓死と疫死と分けて記録されることが多く,ときには疫死者のほうが上回ることがあった。」
とある。飢饉で死ぬ人の「多くは傷寒」で、餓死する人よりも多かったりもした。
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