2018年10月30日火曜日

 渋谷のハローウィンのお祭り騒ぎも、別に喧嘩で人が死んだわけでもなく、店が襲撃されたわけでもない。ただ泥酔した一部の人間が分けも分からずとんでもない事をしでかしたというところが日本なのだろう。泥酔しても身ぐるみ剝がれる危険はない。日本に酔っ払いが多いのはそういうことだ。
 昔は伝統の祭りの場でこういうことが起きていたが、伝統の祭りのほうはいつしか子供と老人だけになってしまった。寂しい限りだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「又先師の一体につきて感賞し給ふ事をしらず。蕉門の俳諧かくのごとしと、自悟自迷ひて、終に全体を見ず。
 却て同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす。
 此、角を取て牛なりと云ン。牛なる事ハ牛なれども、牛の全体を見ず。他日牛尾・牛足を見て、此牛にあらずと争ハんも又むべならずや。
 如此の辟見を以て人に示さんに、豈害なからんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)

 牛の角の喩えは「群盲象を評す」に似ている。違うのは一部しか見てないのは惟然だけで、他の人はあたかも全体を知っているかのように評していることだ。
 だが結局、去来も『奥の細道』の旅を終えた頃の不易流行で蕉門を論じているし、許六はそれより後の『炭俵』の頃の軽みでもって蕉門を論じている。多かれ少なかれ芭蕉の門人達は「群盲象を評す」だったのではなかったか。
 「同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす」というあたりは、惟然は芭蕉から特に「軽み」について集中的に教えられていたのではないかと思う。それが後の超軽みに行き着く元となっていたのだろう。
 談林の時代は語句においても趣向においても證歌を引いてこなくてはいけなかった。
 ただ、一句一句一々證歌を引いて検証していたのでは、興行も時間がかかってしょうがない。だから、よく用いられる語句の組み合わせはその作業を省略するようになり、そこから付け合い(付き物)による物付けが多くなったのであろう。
 芭蕉はこうした證歌による検証よりも、実質的な古典の情を重視することで蕉風を確立した。
 ただ、古典に出典を持つ付け筋は、古典の情に縛られ、展開が重くなりがちだった。談林の頃は百韻興行が普通だったが、蕉風確立期には歌仙を巻くにも一日でなかなか終らなくなった。
 そこで、『奥の細道』の旅を終えた頃から、直接古典の情によらなくても、何となく雰囲気でそれっぽいもので良しとすることで風体を軽くした。不易流行説もその文脈で、不易の情を流行の言葉で表現するのが俳諧だという所で説かれることとなった。その不易の情は必ずしも古典によらなくても、朱子学で言うところの「誠」であれば良くなった。
 この不易の誠をはずさなければ、もはや出典関係なく、日常のあるあるネタで十分という所で「軽み」の風が展開されることになった。
 ところが惟然はこのあるあるネタを得意としているわけではなかった。いわゆる話を面白句作るというのが不得手だったのだろう。惟然の句はともすると笑いから離れてしまっている。特に発句はそうだった。
 あるあるとは別の形で笑いを発見するのは、結局元禄十五年の超軽みの風を待たなくてはならなかった。
 芭蕉もおそらく惟然の地味だが何か人と違う「軽み」の理解に、未知の可能性を感じていたのだろう。だから逆に、去来のような不易を基と本意本情に狭めて解釈する古いスタイル(いわゆる猿蓑調)を教えなかったのだろう。これは多分許六や支考にも教えてなかったのではないかと思う。それがこの『俳諧問答』でも対立点になっていたのではないかと思う。
 それがおそらく去来には我慢ならなかったのではないかと思う。

 「予推察を以て坊ヲ俳評す、極めて過当也。然ども坊が一言を以て證とす。
 坊語予曰、頃日師に泥近して、略俳旨を得たり。秀作あたハずといへども、句の善悪ミづから定て人評をまたず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67~68)

 芭蕉としては先輩達の古い風を真似しないようにということだったか。先輩の評は無視していいと言っていたのだろう。

 「又会(たまたま)風国曰、句ハ出るままなるをよしとす。此を斧正するハ、却てひくみに落ト。
 皆先師の当詞と俳談に迷へり。坊ハ迷へりといひつべし。
 又自あざむき、人をたぶらかすものにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68)

 風国も京都の医者で芭蕉の晩年の弟子の一人。
 『去来抄』同門評には、

 「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国
 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾(かつ)てさびしからず。仍(よつ)て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若(もし)情有らバ如何(かくのごとく)にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝(まさら)ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)

とある。
 風国が出るままに詠んだ句を去来が斧正しているが、勿論去来自身が認めているように「句勝(まさら)ず」。
 まあ、実際には秋の夕暮れのお寺の鐘もその時の気分によって聞こえ方が違うもので、寂しく聞こえるときもあればそうでないときもあるだろう。
 ただ、「晩鐘のさびしからぬも寺の秋」とした時、聞いた人は「何で?」と思うのは確かだろう。普通は寂しいものを寂しくないと言うなら、何か理由があるはずだと思うのは自然だ。その理由が記されていないし行間からも汲み取れないとなると、よくわからない句になり、首をひねってしまう。
 その理由が何らかの形で伝わり、共感を呼び、他人とその情を共有できるなら、たとえ「晩鐘のさびしからぬ」と詠もうとも、その句は成功といえよう。
 芭蕉はひょっとしたら古典の本意本情に囚われずに、今まで誰も詠まなかった新しいものでありながら風雅の誠を踏み外さないものを求めていたのかもしれない。
 ただ、それはあまりに高度なものであったため、惟然も風国もなかなか佳句を残すには至らなかった。
 だがそれを古典の本意本情に戻し、秋の夕暮れの寂しさも鐘の音に元気付けられたと展開したのでは、新味は生まれない。使い古されたパターンに戻ってゆくだけになる。
 去来ならそうする。芭蕉はそれとは違った道を新しい弟子達に進んでほしかったのだろう。
 この句のもう一つの解決法として、「寂し」を「憂し」に対比させ、

 晩鐘も憂きにとまらず寺の秋

という手もあったかもしれない。

2018年10月29日月曜日

 ここで貞享五年六月十九日興行の惟然の句を見てみよう。

   肝のつぶるる月の大きさ
 苅萱に道つけ人の通るほど    惟然

 月が大きく見えるのは登ったばかりの月で、地平近くある月から一面の薄が原に登る月を思い浮かべたのであろう。武蔵野の月として画題にもなっている。
 茅の原に茅を刈って道を作る人を思い描く。月に茅は月に薄と同様で物付けといえよう。

   秋の風橋杭つくる手斧屑
 はかまをかけて薄からする    惟然

 茅を刈る、薄を刈る、と趣向がかぶって、遠輪廻と言えなくもない。

   琴ならひ居る梅の静さ
 朝霞生捕れたるものおもひ    惟然

 梅に朝霞はわかるが、「生捕れたるものおもひ」が何のことなのかわかりにくい。さらわれてきた姫君か、売られてきた遊女か。

   牛のくびする松うごきけり
 覆なき仏に鳥のとまりたる    惟然

 牛を繋いだ松は動き、野の仏像には鳥がとまるとこれは向え付け。
 物付けに向え付けと、蕉風確立期の風の付け句を行っている。惟然も最初から惟然風だったわけではないようだ。

2018年10月28日日曜日

 今日は箱根に行った。明星ヶ岳に登り、強羅でクラフトビールを飲んだ。楽しい一日だった。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「又曰、凡惟然坊が俳諧たる、かれ迷ふ処おほし。
 もと惟然坊蕉門に入事久し。然ども先師に泥近する事まれ也。是ゆへに去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。
 然ども先師遷化の前、京師・湖南・伊賀難波等に随身して遊吟す。先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66)

 芭蕉と惟然の出会いは、『風羅念仏にさすらう』(沢木美子、一九九九、翰林書房)によれば、貞享五年(一六八八)六月だという。
 『笈の小文』の旅を終えて京に滞在し、去来の落柿舎を尋ねたりした後、芭蕉は岐阜に行き、「十八楼ノ記」などを記す。
 ふたたび大津に行き六月八日に岐阜に戻る。そして六月十九日の岐阜でも十五吟五十韻興行に、当時素牛を名乗っていた惟然が名を連ねることになる。
 『笈日記』にはこの頃詠まれたと思われる、

   茄子絵
 見せばやな茄子をちぎる軒の畑    惟然
   その葉をかさねおらむ夕顔    芭蕉
 是は惟然みのに有し時の事なるべし

の付け合いが記されている。
 これは『笈の小文』の、

 よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠    芭蕉
 よし野にてわれも見せうぞ檜の木笠  万菊丸

に較べると、なんとも地味なやりとりだ。
 その後、芭蕉と惟然との関係がどうなっていたかはよくわからない。
 「去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。」と去来が言うように、元禄七年甲戌の年までの惟然の俳諧はほとんど知られてないし、未だによくわからない。
 ただ、元禄二年、『奥の細道』の旅で芭蕉が大垣に来た時、芭蕉は、

   関の住、素牛何がし、大垣の旅店
   を訪はれ侍りしに、かの「藤代御
   坂」と言ひけん花は宗祇の昔に匂
   ひて
 藤の実は俳諧にせん花の跡      芭蕉

の句を詠んでいる。
 そして元禄四年、京に登った惟然は再び芭蕉に接近することになる。
 七月中旬ごろに興行された、

 蠅ならぶはや初秋の日数かな     去来

を発句とする興行に、路通、丈草とともに参加している。「牛部屋に」の巻とほぼ同じ頃だ。この五吟も、去来ー芭蕉ー路通ー丈草ー惟然の順番で固定されている。
 ただ、ここでも惟然は継続的に芭蕉について回ることはしなかったようだ。
 次に芭蕉の俳諧興行に惟然が登場するのは、元禄七年、芭蕉が再び京にやってきた時の「柳小折」の巻だった。このあと、惟然は『藤の実』を編纂し、芭蕉の没する時まで長く行動を共にすることになる。
 この頃は去来と一緒にいることも多く、「先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」と芭蕉の強いプッシュがあったことを記している。
 芭蕉は惟然の一見平凡でそっけない句に、何か新しいものを見出していたのかもしれない。支考とともにその将来に大きな期待を寄せていたと思われる。

 「故にかれが口質の得たる処につゐて、先此をすすむ。
 一ツの好句有時ハ、坊ハ作者也、二三子の評あたらず、何ぞ人々の尻まひして有らんやと、感賞尤甚し。
 坊も又、自心気すすんで俳諧日比に十倍す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66~67)

 世に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、去来がさんざん三十棒で叩かれたのに対し、惟然は褒めて伸ばす作戦に出たようだ。これでは去来としては面白くなかろう。

 「又先師の俳談に、或ハ俳諧ハ吟呻の間のたのしみ也、此を紙に写時ハ反古に同じ。
 或ハ当時の俳諧ハ工夫を日比に積んで、句にのぞミてただ気先を以て出すべし。
 或ハ俳諧ハ無分別なるに高みあり。
 如此の語、皆故ありての雑談なり。坊迷ひを此にとるか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)

 『去来抄』「修行教」に、「今の俳諧は、日比ひごろに工夫を附つきて、席に臨のぞみては気先きさきを以もつて吐はくべし。」とあり、これは俳席での心得で、即興が大事な興行の席では、日頃練習のときに悩むだけ悩んで工夫し、本番ではそれを忘れて無心になれ、ということで、今日のスポーツにも通じるものだと思う。
 「無分別なるに高みあり」というのは、高度な技術は『荘子』の「包丁解牛」のように、それを意識せずとも使いこなせるようにならなくてはいけないという意味だろう。
 「吟呻の間のたのしみ」も興行を盛り上げることが大事で、書物にするために俳諧をするのではないという基本だ。
 去来は興行の時に悩みすぎる傾向にあったのだろう。だからリラックスして本番に臨むことを説いたのだが、多分惟然は本番では最初からそんなに考えない、自然体で臨むタイプだったのだろう。
 自分とは違う惟然の才能を、去来は師の言葉を間違って受け止めた「迷い」と思っていたようだ。
 芭蕉が惟然の句に何を見出したのかはよくわからない。ただ、芭蕉は出典をはずしたりして古典の影響から抜け出そうとしていたから、惟然の自然体の句に何かそれを切り開く可能性を感じていたのかもしれない。
 ひょっとしたら芭蕉がもう少し長生きしていたら、芭蕉は子規の時代の写生を先取りしたかもしれない。ただそれだと、ただ実際にそうだったからというだけの理由ですべての趣向が等価になってしまう危険もあり、近代の写生句が陥ったような、人々の記憶に留まることもなく膨大な量の句が作られては消えて行く状態が生じてしまう。(近代にまでならなくても、幕末や明治初期には既にそのような凡句が量産されていた。)芭蕉ならその問題をどう解決するのか、残念ながらそれを見ることはできなかった。

2018年10月27日土曜日

 たとえば登山だって遭難すればたくさんの人に迷惑をかけるし、登山計画に無理があったのではないかとか、装備が不十分だったのではないかと、素人の口からでも非難の言葉が出てくるものだ。
 ジャーナリストだってスクープを取って帰ってきたなら英雄だが、拉致されて人に迷惑をかけただけなら何を言われてもしょうがないと思う。
 まあ、命があってよかったなと、それでいいんではないかと思う。
 それに本当にジャーナリスト魂があるなら、そんな非難にもめげずにいつかリベンジを果たしてくれると思うよ。
 満塁のチャンスで打てなかったバッターや、決定的なチャンスでシュートをしなかったストライカーと同じだと思う。非難するファンに罪は無い。
 では『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、北狄・西戎のゑびす、時を得て吹を窺ミ、次第ニミだりが集をつくらんこと、尤悲しぶに堪たり。高弟此誹りを防ぎ給へる手だてありや。
 廿三、去来曰、先にいふがごとく、予なんぞ世人のあざけりをうけん。
 又あざけりをうけずといふとも、道のため師のため、此をなげかざるにハあらず。然ども、此をとどめんに術なかるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.64)

 これも前の文と同様、他流のすることは自分の責任ではないし、止めることはできない。だから嘲りを受けるいわれはない。

 「来書曰、惟然坊といふ者、一派の俳諧を広むるにハ益ありといへども、返て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ吐出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。
 廿四、去来曰、雅兄惟然坊が評、符節を合セたるがごとし。その内、一生真の俳諧一句なしといはんハ、過たりとせんか。又大賊といひがたからんか。賊の字たる、阿兄の憤りの甚しきならん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.64~65)

 この頃の惟然は確かにまだそれほど目だった存在ではなかったし、今日知られているのは皆元禄十五年以降の超軽みの句がほとんどだ。
 まだ迷いが多く、自分の作風を確立できていない並の作者だったとは思うが、なぜそれほどまで嫌われるかと思うと、多分路通と同様、乞食坊主だったからだろう。
 去来が言うように、確かに許六のそれは言いすぎだ。
 元禄七年の『藤の実』の惟然の発句は、確かに目立たないがそんなに悪い句とは思えない。

 水仙や朝寝をしたる乞食小屋    惟然
 蓴菜や一鎌入るる浪の隙      同
 張残す窓に鳴入るいとど哉     同
 枯葦や朝日に氷る鮠の顔      同

 今で言う写生に近い見たものをそのまま詠んだ感じだが、確かに何を言いたいのか何を伝えたいのかよくわからないところがある。
 芭蕉の、

 海士の屋は小海老にまじるいとど哉 芭蕉

句は、そのまま詠んだようでもあるあるネタになっている。だが、張り残す窓のいとどはそれほど「ある」と言えるネタだったか。
 俳諧らしい笑いの要素を欠いているという点では、「真の俳諧一句なし」だったのかもしれない。

2018年10月25日木曜日

 今日も赤い大きな月が昇るのを見た。十七夜の月。
 安田純平の断片的なコメントが報道されているが、印象としては三年四ヶ月の間独房に隔絶されて、外の情報はおろか人に接することもほとんどなかったのではないかと思えてきた。なら完全に空白の三年四ヶ月で、コメントできるようなこともほとんどないだろう。
 マスコミもしつこくコメントを求めるようなことはやめて、そっとしといてあげたほうがいい。こういうときこそ報道しない自由を行使した方がいい。
 開放のいきさつについても、下手にばらすと次の救出活動に支障をきたす恐れがあるから、あまり詮索しない方がいいのかもしれない。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、集作りて善悪の沙汰に及ぶハ、当時撰集の手柄也。頃日の集ハ、あて字・てにをハの相違・かなづかひのあやまり、かぞふるにいとまなし。しらぬ他門より論ぜば、高弟去来公のあやまりと沙汰し侍らんもむべならんか。
 廿二、去来曰、此何といふことぞ。今諸方の撰集、その拙きもの、予が罪を得ん事、近年俳書のおこるや、我此をしらず。ただ浪化集のみ、故有て此を助成す。
 もし浪化集に誤処おほくバ、此予が罪のがれがたし。其他ハあづからず。又蕉門の高客、国々処々にまづしからず。世人なんぞ罪を予一人にせめんや。
 我京師に在といへども、惣て諸生の事にあづからず。ただ嵯峨の為有・野明、長崎の魯町・卯七・牡年のみ、故ありて予此を教訓ス。その余ハ予があづからざる所也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.63~64)

 江戸時代の初期に急速に出版産業が盛んになったことは世界でも稀有なことだろう。
 しかもそれが金属活字ではなく木版印刷で、出版の内容もまた多岐に及び、俳書もまた出版ラッシュだった。
 木版印刷は多種多様な書籍を少量印刷するのに適していて、そのことが出版文化を広めるのに役だったのではないかと思う。
 限られたアイテムを大量生産しても、それを必要とする人には安価な本が手に入るかもしれないが、必要としない多くの大衆は置いてきぼりになり、無消費者になってしまう。
 手工業の段階で最初から多様で細分化された市場が形成され、無消費者層が少なかったことが、日本の強みだったのではないかと思う。
 消費文化が未発達な所で工場だけ建てて大量生産しても、買う人がいないところでは経済は発展しない。日本は工業化以前に消費文化が出来上がっていた。だから明治以降の工業化もスムーズに進んだ。そして工業化されながらもそれまでの職人文化が共存したことが、工業製品の品質を高めるのにも役だったのではないかと思う。
 木版印刷の場合、まず能筆の人の書いた原稿を裏返して版木を彫っていくわけだから、誤字脱字は版木職人ではなく最初の原稿の方にあったと思われる。
 実際には芭蕉自筆の原稿でも誤字脱字は存在していて、まあ人間である以上、完全な清書原稿を書くことは能筆家であっても難しかったのではないかと思う。
 俳諧の裾野が広がれば広がるほど、誤字だけでなく文字表記の習慣の地域差のようなものもあったのではないかと思う。
 蕉門の俳書に誤字があったからといって、そんな誰も去来さん一人が悪いなんて思わなかっただろうし、許六の難も筆がすべっただけではないかと思う。

2018年10月24日水曜日

 今日も十六夜の月が丸い。
 安田純平さんがようやく開放されたと言うことで、それもまた明るいニュースだ。
 まあ冒険家ではないから帰ってきただけで英雄というわけには行かないだろうけど、多分書きたいことは山ほどあると思うし、ジャーナリストとしての真価が問われるのはこれからなんだろうな。
 推測だが「私の名前はウマルです。韓国人です。」というのは、日本政府でなくても人質解放交渉に応じる、という合図だったのではないか。多分何らかの理由があってカタールが名乗り出たのだろう。これで日本はカタールに足を向けて寝れなくなったな。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「尤憎べきの甚敷もの也。かれが心操をかへり見るに、翁います時ハ、先師をうりて己が浮世の便とし、先師没し給ひてハ、又先師をうりて、初心の輩を、今ハ先師にまされとあざむき道びかんが為なるべし。
 其難ずる処、誠に笑べきのミ。我是がために、その辟耳を切て、邪口をさかんと欲す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 まあ、風評で勝手な邪推をしては随分物騒なことも言っているが、後のフォローも忘れずということで、こう続く。

 「然れども翁います時、或翁の句をそしるもの有。我此に争ハんとす。
 先師曰、必あらそふ事なかれ。我自我が句を以て、いまだつくさずとおもふものおほし。却て五・三句を揚てそしらんハ、我名人に似たりと、大笑し給ふ。
 此事をおもへバ、又憤りののしらんに不及。かれも此も共に先師をうるもの也。阿兄此をいとひ給ふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62~63)

 まあ、同門で批評を戦わしながら切磋琢磨しというのは必要なことなので、先師の句とて例外とすべきではない。
 芸術にたった一つの答なんてものはない。多様であってこそ芸術だ。皆己の信じる道を行くのみというところか。
 芸術が一体何の役に立つのかというと、結局は石頭にならないために必要なのだと思う。
 日々変化する様々な状況に柔軟に対処する能力を養うには、それだけ普段から頭の中にいろいろなイマジネーションをストックしておく必要がある。
 おそらくこうしたイマジネーションのストックを作ることに快楽報酬が得られるよう、人類は進化してきたのだろう。
 「俳諧は新味をもって命とす」というのは、人々は常に新しいイマジネーションに貪欲だからだ。既にストックしているイマジネーションは二つも三つも要らない。今まで誰も思いつかなかったものだからこそ価値がある。
 結局芸術は理屈ではなく、既存の理屈を打ち破るブレイクスルーでなければならないのである。「理屈は理屈にして文学に非ず」と正岡子規も言っている。

2018年10月23日火曜日

 台湾の列車事故は福知山線脱線事故を思い出した人も多いだろう。恐ろしいことだ。
 それでは『俳諧問答』の続きを。

 「又頃日、尾陽の荷兮一書を作る。書中処々先師の句をあざけると聞けり。我いまだ此書を見ず。
 かの荷兮や、先師世にます内、ひたすら信迎す。一とせゆへありて、野水・凡兆と共に先師に遠ざかる。
 先師その恨をすてて、遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。彼亦此をあがめ貴む事、旧日のごとし。
 翁遷化の時、東武の其角・嵐雪・桃隣等、於東山て追悼の会をなす。かれ蕉翁の門人の数に加りて着坐す。今書を作りて翁をあざける。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 荷兮のこの書というのは元禄十年刊の『橋守』らしいが、先ず去来自身がこの本を読んでなくて、風聞で判断している所が問題だろう。
 実際この『橋守』で本当に芭蕉の句を嘲る表現があったかどうかは、筆者自身も読んでないので何とも言えない。ネット上では『橋守』のテキストは見つけられなかった。
 何でもこの『橋守』は長いこと完本が見つからず、戦後になってようやく発見されたという。(木村三四吾『俳書の変遷: 西鶴と芭蕉』グーグルブックによる。)
 岩波書店の日本古典文学大系66『連歌論集俳論集』の附録の月報46にある「去来の立場」(宮本三郎)に断片的に引用されているものによれば、『橋守』巻三に、「発句の哉とまりにあらざる体」として、

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉
 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

が並べられていて、他にも「俳諧にあらざる体」として、

 雲雀より上に休らふ峠かな     芭蕉
 郭公またぬ心の折もあり      荷兮

を挙げているという。
 他にも、

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉
 凩に二日の月の吹き散るか     荷兮

に対し、「右の二句、或人の曰三所の難あるよりなり」とあり、「艶なるはたはれやすし」として、

 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉

の句を挙げているという。
 また、「留りよろしからざる体」として、

 霜月や鶴のつくつく並びゐて    荷兮

の句を挙げているという。
 これを見る限りだと、芭蕉の句と自分の句を両方並べて、等しく難があることを指摘しているだけで、芭蕉の句をことさら貶めているようには見えない。

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉
 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

 この二句の「かな」の用い方は、確かに「似たるなり」「そよぎけり」

でも良いように思える。
 切れ字の「かな」は今日の関西弁の「がな」に近いもので、YAHOO!JAPAN知恵袋のベストアンサーによれば、関西弁の「がな」は

 「~ではないか」という意味ですが、発言の中に「~やろ、絶対にそうや、そうに決まってる。」という気持ちが入っているのです。

と説明されている。
 切れ字の「かな」も完全な断定ではなく、どこか違うかもしれないがやはりそうだというニュアンスが込められている。

 木のもとに汁も膾も桜かな   芭蕉

の句にしても、「汁や膾は桜だ」という断定ではなく、汁や膾も桜みたいだ、桜のようだ、という不完全な断定で留めている。

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉

の句の場合、「似たる」という言葉が入り、既に「竹斎なり」という断定ではないことが示されているので、ここは「似たるなり」としてもよかった所だ。まあ、細かい所ではあるが、そこが気になるのが荷兮さんなのだろう。

 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

の句にしても、「残らず」という強い表現に対して「かな」と柔らかく受けているのが気にならなくもない。「風にそよぎけり」でも良かったかなというところだったのだろう。

 雲雀より上に休らふ峠かな     芭蕉

の句は「空に休らふ」の形で知られている。いずれにしても、

 郭公またぬ心の折もあり      荷兮

の句も同様だが、いわゆる「俳言」がないという点で、連歌発句だと言ってもいいのかもしれない。

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉
 凩に二日の月の吹き散るか     荷兮

 この二句については他人の難があるというだけで、特にどこが悪いということは記されていない。
 おそらくは「にて」留めが本来の発句の体ではないということと、「吹き散るか」は「吹き散るかな」の略だが、おそらく同じように発句としてはいかがなものかという声があったのだろう。

 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉

の「艶なるはたはれやすし」は「ゆかし(惹きつけられる、魅力がある)」という言い回しのことを言っているのだろう。魅力のあるものにはついつい戯れてみたくなる、という一つの解釈を示したもので、難じたものではないと思う。

 霜月や鶴のつくつく並びゐて    荷兮

の句は「辛崎の」の句と同様、「て」留めが発句の体でないということだろう。句としては荷兮の句のほうが先に作られている。
 このように、荷兮の論は真面目な議論で、ことさら芭蕉をなじるようなものではなかったように思える。宮本三郎も、

 「荷兮が一派の指導のために種々の作風や表現を示したもので、この書が芭蕉に対して積極的に悪意を抱いて成されたものかどうかは必ずしも一概に言えない。」

と記している。
 多分、去来が荷兮に物を言いたかったのはこの書のことではなく、それ以前から荷兮が『冬の日』から『阿羅野』までのいわゆる蕉風確立期の風に固執して、『猿蓑』調以降の風に馴染まず、元禄六年に『曠野後集』を出版し、貞門・談林の時代を懐かしんだりしたその頃からの確執があったのであろう。
 今の様々な芸術のジャンルで活躍する人でも、生涯作風を変え続ける人は稀で、たいていはひとたび成功を収めると生涯その作風を引きずっている。
 昔からのファンは昔ながらの作品を求めているし、無理に新しいことに挑戦したりすれば、昔のファンは離れてゆくかもしれないし、だからといって新しいファンがつくという保証はない。だから、変わらずに同じスタイルを貫いて、ファンとともに年取ってゆく人のほうが多い。
 芭蕉の時代でも本当に芭蕉だけが例外で、多くの門人はひとたび成功を収めると、大体はその頃の風を生涯維持する傾向にある。
 去来や許六だって、芭蕉があと十年長生きして、惟然や播磨の連衆と新風を巻き起こしていたら、多分離反していただろう。

 「遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。」

というのは元禄七年五月二十二日から二十五日までの名古屋滞在のことで、二十四日には、

 世は旅に代かく小田の行戻り  芭蕉

を発句とした十吟歌仙興行が行われている。

   世は旅に代かく小田の行戻り
 水鶏の道にわたすこば板    荷兮

と脇を勤めている。
 こうして東海道を行き来していると、同じ所を行ったり来たりしている代かきみたいだ(自分の俳諧もそんなものかもしれない)と、やや自嘲気味の発句に対し、私なんぞは水鶏(芭蕉さん)の道のこば板のような者ですと付ける。

2018年10月22日月曜日

 今日も十四夜の月が綺麗だ。
 それではようやく『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、翁滅後、門弟の中に挟る俳諧の賊あり。茶の湯・酒盛の一座に加ハリ、流浪漂白のとき、一夜の頭陀を休め給ふはたごやなど(に)いでて、門弟の数につらならんとするあぶれ者共、ミだりに集作る。
 一流の繁昌にハよろしといへども、却て一派の恥辱・他門のあざけり、旁(かたがた)かた腹いたく侍らんか。高弟眉をしかめ、唇を閉給ふと見えたり。
 廿一、去来曰、阿兄の言誠になげくべき物也。然ども蕉門の高客、今世にある者すくなからず。彼何ぞ我正道をさまたぐるに至ン。
 蕉門の流をくむといふとも、世に白眼の者あらば、正に其たがひ有事をしらん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61)

 芭蕉亡き後、本当に世間の俳諧への興味が薄れているなら、門弟の数につらならんとするあぶれ者共もそんなたいした数ではなかろう。たくさんいるなら、俳諧がまだまだ繁昌しているしるしで、それは喜ぶべきことだ。
 ただ、裾野がいくら広くても頂点がないなら、先はおぼつかない。だから本当に嘆かなくてはいけないのは、蕉門の高弟の方であろう。
 去来も最初は一応、芭蕉の高弟の多くはまだ健在だし、間違ったことをやる奴は世間もわかっていて、白眼視するだろうとたしなめてはみるものの、離反する高弟も多く、話はそこで終らない。

 「近年書林に歳旦を持来りて、我ハ蕉翁の門人也、三物帖に蕉翁の門下と一ツに並書すべしといふ輩多し。
 湖南正秀一日告予曰、今歳旦之三ツもの、先師の門人の分、此を別禄す。
 其内、先師在世の間、いまだ名を聞ざる者おほし。以て憎べき事也。此後書林に正し、先師直示の門人のしらざる者ハ、此をはぶかん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61~62)

 正月に発句・脇・第三からなる三つ物を作り、それを歳旦帳として出版するのは習いだった。
 コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「俳諧の宗匠家では,正月の慣習として側近の連衆(れんじゆ)と歳旦の〈三つ物〉をよみ,これに知友・門下の歳旦,歳暮(年始,年末の意)の発句(ほつく)を〈引付(ひきつけ)〉として添え,刷物にして配った。その刷物の数丁に及ぶものをいう。また,各宗匠の刷物を版元で合綴した〈三つ物揃〉をもいう。人々はこれを〈三つ物所〉の店頭,または街頭の〈三つ物売〉から買い求め,各宗匠の勢力の消長と作句の傾向や技量を評判しあった。」

とある。
 歳旦帖はその門の顔であり、そこに名を連ねれば多くの人がその人を門人として認めるわけだから、何とかそこにもぐりこませようとあの手この手の人もいそうだ。
 そうやって結構去来の知らない名前が並んでたりしたのだろう。ただ、芭蕉も旅のあちこちでいろいろな人と関わっているから、一概に似せ物とも言えまい。

 「去来曰、吾子の言勿論なり。然ども其内、或ハ先師の門人に再伝のものあらん。
 又先師ハ慈悲あまねき心操にて、或ハ重て我翁の門人と名乗らんといふもの、其貴賎・親疎トをわかたず、此をゆるし給ふものおほし。却而世に名をしられたる他門の連衆などの此を乞にハ、ゆるし給ハざるもあり。
 如此の輩、我蕉翁の流なりといへるも、又さもあるべし。
 今此をあらためのぞかんハ、却て隠便の事にあらず。ただ其儘ならんにハしがじと、云々。
 今乱に集作りて、我翁をけがすに似たりといへども、尤此をいとふにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 芭蕉は貴賎・親疎を問わず弟子にしてきたし、そういう連中を排除すべきではないし、たとえみだりに集を作って芭蕉翁を汚すように見えても、厭うべきではない、とこれは当然と言えよう。蕉門の裾野の広さは蕉門の実力の証だからだ。

2018年10月21日日曜日

 今日は朝から雲一つない天気で、どこへも出かけないのも勿体ないので、飯能の天覧山と多峯主山(とうのすやま)に登ってきた。アニメ「ヤマノススメ」の聖地でもある。
 多峯主山は標高271メートルだが360度の眺望があり、秩父の山々、大岳山、富士山、丹沢山、大山、反対側には筑波山も見えた。スカイツリーや東京の高層ビル群も言うまでもない。
 帰り道の甲州街道は十三夜の月に向って走った。
 十三夜のお月見の習慣は宇多天皇の頃からあるらしい。芭蕉は貞享五年、姥捨山の旅から帰って、芭蕉庵で十三夜を迎えた時に、「今宵は、宇多の帝のはじめて詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。」と記している。

 木曽の痩せもまだなほらぬに後の月 芭蕉

 このあたりの話もぐぐれば出てくるので、そちらに譲ることにしよう。
 まあ、大宮人も月見の宴が一回だけというのは寂しかったのだろう。前にも書いたが、昔の名月というのは「明月」とも言うように、月の明るさが大事で、せっかくの月明かりだから無駄にせずに夜通し遊ぼう、というものだった。
 日本にはバレンタインデーの一ヵ月後の三月十四日にホワイトデーという日がある。これはバレンタインのプレゼントの返礼のためのものだが、ひょっとしたら十三夜にもそういう意味があったのかもしれない。
 十三夜という半端な日になったのは、季節がら十五夜よりもやや冷えまさる季節だけに、宴席も夜が更けて寒くなる前に終わりにしたかったため、月の出を待たずに早く始めたかったのかもしれない。
 まあ、これはあくまで今思いついた推測ということで、まだ「諸説あり」の一つにもなっていない。
 雲一つない空の十三夜の月に、いつかこの世界を曇らす不穏な動きもどこか吹き飛んで欲しい所だ。西側の政治家が建前綺麗事を言っているうちに、東の独裁国家がやりたい放題やっている。何でこんな世界になってしまったのか。

2018年10月20日土曜日

 今日も夕方から雨になった。いまひとつすっきりしない日が続く。
 明日は十三夜だが、晴れるかな。
 それでは『俳諧問答』の続きをちょこっと。

 「来書曰、アア諸門弟の中に秀逸の句なき事を悲しぶのミ。
 廿、去来曰、共に悲しむのミ。又秀逸有といふとも、きく人なからん事を悲しむのみ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)

 秀逸がないのを悲しむのはわかる。そのあとのは一体何が言いたいのだろうか。
 芭蕉亡き後、蕉門の俳諧に対する世間の関心が急速に薄れているということか。しかし、それは秀逸がなければ当然だろう。
 秀逸があるのに世間が見向きもしないとすれば、蕉門内部での評価と世間の評価の間にギャップがあるということで、これだと蕉門の俳諧が世間と隔絶された閉鎖的なカルト的なものになっているということだろう。
 しかし、芭蕉なき後の秀逸な句があるとすれば、一体どれのことをいうのだろうか。まさか「応々と」や「紅粉の小袖」ではないだろうね。
 近代の場合だと文学に限らず芸術一般において、西洋的な価値観で制作する人と日本の伝統的な社会に属する一般大衆の価値観との間に相変わらず大きな乖離がある。
 カンヌのパルムドールを取った是枝監督の『万引き家族』にしても、西洋で評価されるものが必ずしも日本では当たらないというのは、今に始まったことではない。スタジオジブリの『レッドタートル ある島の物語』もそうだった。

2018年10月18日木曜日

 ようやく夜晴れて、半月が見えた。明日はまた雨か。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 おそらく想像するに、元禄二年の冬、『奥の細道』の旅を終えた芭蕉が京都を訪れたとき、不易流行の話が出た時、去来は不易風と流行風の二つの風を新風としてこれから始めると理解したのではなかったかと思う。それは次韻風、虚栗風、蕉風確立期の風があったようなもので、その延長と考えていたのではないかと思う。
 それはさらに あるいは翌元禄三年、『猿蓑』の撰のときに、

 病鴈のよさむに落て旅ね哉かな    芭蕉
 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

の二句を示され、どちらか一句を選べと言われた時に、こういうふうに不易風と流行風を分けて詠むんだと確信したのではなかったかと思う。
 そこで「病鴈の」はいわゆる正風であり、「あまのやハ」は一時流行の風というふうに認識した。
 だから、許六に不易風と流行風を分けて詠むことを和歌十体に喩えて難じられたとき、不易と流行は体ではなく風だと反論することになった。
 もちろん不易と流行を分けて詠むこと自体は完全には否定し切れなかった。
 芭蕉が不易流行を説く前にも秀逸はあったという許六のアイロニーに対しても、去来は貞門には貞門の秀逸が、談林には談林の秀逸があった、というふうに理解していた。
 そして許六が不易流行を意識せずに句を作り、それが秀逸なら、それは許六さんの新風ではないか、と切り返すことになる。
 ただ、貞門風も談林風も風も、まだただ不易と流行の名前がなかっただけで後から見ればそれに類するものがあった。
 これを以ってして芭蕉が不易流行を説く以前にも不易と流行はあり、この二つの風は俳諧が始まった時からあったとするが、これだと不易と流行は芭蕉の新風とは言えなくなり、矛盾が生じてしまう。
 結局、後の『去来抄』の頃には不易と流行は「体」だということに修正することになる。芭蕉は普遍的に存在していた不易と流行の体に名前を与えた、ということになる。
 さて、そう考えると、次の文章はわかりやすくなる。

 「来書曰、曾(かつ)て流行・不易を貴しとせず。
 十八、去来曰、此論阿兄の見のごとくんバ勿論也。
 然ども阿兄静に此を考へたまへ。
 阿兄の今日先師に学び給ふ処者、古今の風を分ず此を学びたまふや。又先師の今日の風を学び給ふや。
 もし今日の風を学給ハバ、此流行を貴び給ふにあらずして何んぞや。
 昔日ハ先師の昔日の流行を学び貴ミ、今日ハ今日の流行を学び貴む。其流行に随ざるは先師の風におくる。おくるる者ハ其むねをゑず。故に流行を貴む。
 阿兄今此を貴まずといへども、心裏おぼえずして此を貴む人なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.59~60)

 不易風と流行風という二つの風が今日の風であるなら、今日の風を貴んで句を詠む以上、二つの風を貴んでいることになる。理の当然というわけだ。

 「来書曰、よき句をするを以て、上手とも名人とも申まじきや。
 十九、去来曰、阿兄の言しかり。宗鑑・守武このかた宗因にいたるまで、皆一時のよき句有ゆへ、時の人呼て名人とす。その名人の称、今にうせず。
 先師も此人々を貴み給ふ。此レよき句する人を名人といふ処也。
 しかれども此人々の風、先師今日とり給ハず。その句ハ一時によしといへども、風変じて古風すたる時ハ、共にすたる。このゆへに一時の流行にをしうつらん事をねがふのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)

 不易風と流行風がともに一時流行の風ならば、不易風といえどもやがては廃れてゆくことになる。それでは不易じゃないじゃないか、ということになる。また不易風を起す前の秀逸は不易ではなかったということになる。
 「不易」を風と呼ぶ限り、この矛盾は付いて回る。「不易」は時代を超えた普遍的な価値であり、一時的な「風」を越えた根源的なものでなくてはならない。去来はその認識に至らなかった。基と本意本情の形式的な不易を越えられなかった。

2018年10月17日水曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「翁在世のとき、予終に流行・不易を分て案じたる事なし。句出て師に呈ス。よしハよし、あしきハあしきときはまる。よしと申さるる句、曾て二ッの品を心にかけずといへるとも、不易・流行おのづからあらハるるなり。滅後の今日に至て猶しか也。
 十七、去来曰、此弁湖南の人の二ッを分て句案する答にあり。重て此を弁ぜず。又その先師のよしと申さる句、不易・流行自備るハ勿論なり。もし二ッの内、一ッあらずんバ、先師よしとの給はじ。
 又二ッの風にもるると云共、阿兄古今未発の風を詠じ出し給ひて、しかもその風よろしくバ、作者の手柄なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58)

 これは十四と重複すると言う。
 不易も流行も、出来上がった句を評する時には便利だが、不易と流行を意識すれば好句ができるというものではない。その失敗は去来のいくつかの句を見ればいいだろう。ただ、それは不易の考え方が浅かったせいで、二つに分ける考え方そのものが悪いということではない。
 不易が備わらないというのは、その人だけの特殊な句ということか。いわば共感が得られない句ということだろう。近代俳句にはこういうのが多い。文学はあくまで個の表現だという考えから、却って多くの人の共感する句を通俗的な句として嫌う。個の特殊性が表現されているのを良しとする。
 流行のない句というのは、要するに古臭い句ということか。ただ、復古調が流行することもあるし、今でもレトロ・ファッションというのがあるから、古びた句が悪いということでもない。ただ、それは古いものに新しい解釈が加わった時で、単なる古い物の焼き直しなら見るべきものもない。
 不易も流行もどちらもない句となると、なかなか想像しがたい。
 『去来抄』では不易も流行も「体」として認識されているが、この頃の去来は「風」として認識していた。これは多分、過去の流行の風を不易、今の流行の風を流行というふうに、時系列で「風」として捉えていたのではないかと思う。
 この解釈なら、不易でも流行でもない句は過去にも現在にもない句ということになるから、それは「未発の風」つまり新風であるため、「作者の手柄」となる。
 ただ、これだと芭蕉が次々と生み出した新風は、不易でも流行でもなかったということになってしまう。要するに不易も流行も「風」だというところに無理がある。

 「古今未発の風にもあらず、今日の流行風又不易の風にもあらずバ、必して過去の風なり。過去の風ハ、先師の今日の風に非ず。先師の風にあらざるものハ、阿兄此をねがひ給ハじ。
 むべなる哉。先師のよしと申さるる句、自二ッのうち一風有事。其あしと申さるるハ、定て過去の風もあらん、拙き句もあらん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58~59)

 こうなってくるとますます何を言っているのかわからなくなる。
 ここでいう「過去の風」はおそらく貞門や談林の風という意味で、蕉風には不易風と流行風があって、その中でも蕉風の古を模した風を不易風と呼び、蕉風の流行の風と区別しているのか。
 許六が言うのは、句を詠む時に一々不易の句にしようかとか流行の句にしようかとか意識する必要はなく、良い句には句にはおのずと不易の側面・流行の側面が備わる、ということで、不易も流行もない句なんてのは最初から問題にしていない。
 不易も流行も、別に先師の専売特許ではないし、貞門にも談林にも不易はあるし、流行もかつてあった。大阪談林はこの時期でもまだ流行していた。
 古臭い句だから不易も流行もないということではない。それは昔流行った句にすぎない。ここにも去来がいかに「不易」を狭く解釈しているかがわかる。
 去来は蕉風に不易風と流行風があると考えていて、蕉風にあらずんば不易も流行もないというふうに考えていたのではないか。
 そして、不易風でも流行風でもなくでも、貞門や談林にはそれぞれの風があり秀逸があり、許六さんがこれから未発の新風を起すなら、それは不易風でも流行風でもないが秀逸、ということか。
 不易が今だけで過去にも未来にもないなら、それを「不易」と呼ぶことはできないだろう。やはりこの論理も破綻している。

2018年10月15日月曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「不易・流行ハ別の物にあらず。ただ風の名也。其変ずる所あるを一時と云、変ぜざるもの有を不易とわかつのみ。しかれども、古人此を云俳師なし。先師始て古来の俳諧をその二ッ有を見て、此を分て門人にしめし給ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 『去来抄』「修行教」には、「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一つの物数寄なき句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とある。
 また流行に関しても、「去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也。形容衣裳器物に至る迄まで、時々のはやりあるがごとし。 譬ば『むすやうに夏のこしきの暑哉』此句体久しく流行す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62~63)

とある。不易流行が風であるか体であるかは本来問題ではない。風にも不易流行があり、体にも不易流行がある。
 不易流行は凡そ万物に見られる現象で、それゆえ不易は俳諧に限られず、芭蕉の言うように「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」(笈の小文)であり、風雅の誠は朱子学の性理の誠であり、人間の本性としての普遍的な概念だったはずだ。
 去来はその不易を「基」や「本意本情」として論じることで形式的なものに狭めてしまっていた。そこが、

 応々といへどたたくや雪のかど   去来
 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし  去来

といった句の限界になっていたと思われる。
 許六の「血脈」、其角の「俳諧の神」には、そうした形式を超えた意味を持っていた。
 ただ許六の論もまた、去来の弱点が不易の体と流行の体に分けていることにあるのではなく、不易の理解の仕方が不十分だった所にあったことに気づいてなかった。そこからこの噛み合わない論争になったのではないかと思う。

 ×不易・流行ハ別の物にあらず。ただ風の名也。
 ○不易・流行ハ別の物にあらず。それは風にもなれば体にもなる。

で良かったのだと思う。『去来抄』の方が後に書かれているとすれば、去来もその点は修正できたのであろう。
 不易流行はもちろん芭蕉が『奥の細道』の旅の後に初めて言い始めたことで、『去来抄』「修行教」にも、

 「去来曰、不易流行は万事にわたる也。しかれども俳諧の先達是をいふ人なし。‥‥略‥‥先師はじめて俳諧の本体を見付、不易の句を立、又風は時々変ある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64~65)

とある。

 「名は先師にはじまるといへども、実ハ句と一時に生ずるもの也。先師なんぞ自作為して門人をあざむき給ハんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57~58)

 だから別に先師が不易流行を説く前に秀逸がなかったなんで誰も思ってはいないって。ただ、不易流行を別に意識しなくても、自ずと不易の句や流行の句をみんな作っている、とそこが大事なんで、そんな向きになることではない。

 「然ども古人いへる言あり、詞に達せずして心にうるものハあらじ。阿兄此論の語意、いまだ詞に達せず。おそらくハ烏を以て鵜を弁ずるならん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58)

 なまじ言葉にしてしまうと、今度は言葉が独り歩きして振り回される危険もある。不易と流行を分けて句を作ることは間違いではないが、不易の理解が不十分だと、ただ古臭い句を不易の句と呼ぶことになりかねない。許六の意図はそこにあったのだと思う。
 近代でも主観の句だとか客観の句だとか言うことがあるが、句を作るときに別にそんなものを意識する必要はない。意識すると言葉に振り回されて、却ってつまらない句になるものだ。
 理論は後から分析するのには役立つが、理論で名句が生まれるなら誰も苦労はしない。むしろ凝り固まった理論をブレイクスルーする時に、傑作というのは生まれるのではないかと思う。

2018年10月14日日曜日

 今日は吉祥寺に行った。ねこ祭りというイベントがあったが、参加しているのが小さな店が多く見つけにくかった。
 動物園ではツシマヤマネコを見た。アニメの「アンゴルモア元寇合戦記」に毎回隠しキャラのように登場していたが、実物を見た。寝ていた。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、元来たくみ拵たる不易・流行なれバ、不易・流行いまださだまらざる世界ハ、俳諧秀逸あるまじくや侍らん。
 十六、去来曰、論高して、語意愚耳に落ず。
 推て以ておもふに、二ッの品いまだ分れざる以前にハ秀逸ハ有まじきやと、難じ給ふと見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.56~57)

 許六は皮肉で、不易流行が秀句を生むために不可欠な説だというなら、芭蕉が不易流行を説く前は秀逸がなかったのか、そんなことはない、というわけだが、去来はまともに受け取らずに、天然なのか意図的なのかわからないが曲解して返答する。
 芭蕉が不易流行を説いたのが『奥の細道』の旅の後なら、古池の句は不易流行説を立てる前の句で、もちろんこれが秀逸でないはずはない。秀逸な句はそれ以前にもあるし、不易流行は後から立てた理論で、理論先行しで理論通りに作れば秀逸になるなんてことはない。
 どんな理論でも理論が秀逸を生むことはない。もっともAIが高度に発展すればディープラーニングシステムが人間の思いもよらぬ理論を思いついて、秀逸をコンピュータが作る時代が来るかもしれない。ただ、今の時点では理論は秀逸を後から説明するだけで、理論は秀逸を生まない。
 だから許六の指摘は当たり前のことを言っているだけで、同じように血脈の論以前には秀逸はなかったのか、虚実の論以前には秀逸はなかったのかということになる。あるにきまっている。

 「先不易・流行さだまらず先といふ理なるべし。凡俳諧ハ和歌の一体たり。上下を分て此をいふもの、和泉式部の句有といへり。実・不実をしらず。平忠盛・源頼朝の句ハ書にのせたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 和泉式部の句というのは『金葉和歌集』巻十の、

   「和泉式部が賀茂に参りけるに、藁うづに足を食は
   れて紙を巻きたりけるを見て、神主忠頼
 ちはやぶるかみをば足に巻くものか
                 和泉式部
 これをぞ下の社とは言ふ」

のことと思われる。これを後の連歌の表記法に直すと、

   ちはやぶるかみをば足に巻くものか
 これをぞ下の社とは言ふ     和泉式部

となる。「実・不実をしらず。」というのは去来が『金葉和歌集』を読んでなくて、誰かから伝え聞いたものだったからであろう。
 平忠盛の句は『平家物語』の、

 いもが子ははふほどにこそなりにけれ

 という忠盛の句に、白川院が

 ただもりとりてやしなひにせよ

と返したものをいうと思われる。
 源頼朝の句は『吾妻鏡』にある。

 はしもとの君にはなにかわたすべき

という頼朝の句に、

 ただそまかはのくれてすぎばや

と梶原景時が付ける。忠盛・頼朝の句は書籍で裏を取っていたのであろう。何となく去来の読書の傾向が知れる。

 「式部・忠盛・頼朝、又おのおのその代の風たるべし。よし神代よりはじまるにせよ、已ニ句ある時ハ風有、句なきときハ風もあらハれず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 まあ、実際はこのような散発的な連歌に「風」と言えるほどのものがあったかどうかはよくわからない。個人の作風でも、ある程度まとまった作品があれば、大体の傾向をその人の作風と呼ぶことができるが、単体では風と言えるのかどうかわからない。
 このあたり、去来は「風」をあくまで観念的に考えていたように思える。

 「此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし。豈秀逸なきのみならんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 「已ニ句ある時ハ風有」の場合はその時代の風か、もしくはその作者の風があるという意味で、「句なきときハ風もあらハれず」というのは作品がないのに作風があるわけないという自明のことをいっているにすぎない。
 ならば俳諧がなかった時代は、当然俳諧の風もなかったといくことになる。だが、「不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし」は論理が飛躍している。「風」という言葉の意味を、その時代の風・その作者の風ではなく、不易の風・流行の風に変えてしまっている。

 ×此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし。
 ○此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ風を論ずべき俳諧なかるべし。

であろう。もちろん作品が存在しないのだから秀逸が存在するはずもない。
 問題になっているのは、芭蕉が不易流行を説く前に秀逸があったかどうかで、俳諧そのものが存在しなかった時代のことを言っているのではない。
 これが去来一流の詭弁なのか、それとも案外許六の皮肉がわかってなかったのか、とにかくこの議論は噛み合ってない。まあ、世の中に確かに皮肉の通じない人間というのはいるが、去来もその類だったか。

2018年10月13日土曜日

 李舜臣将軍の旗というのは、おそらくほとんどの日本人は初めて見るものだと思う。
 今の日本では朝鮮出兵と呼ばれているが、元は文禄・慶長の役と呼ばれていた。文禄の役は壬辰倭乱、慶長の役は丁酉倭乱のことをいう。
 このとき日本は、戦国時代の同じ民族内での権力争いにすぎない国内の合戦の感覚で攻め込んで、先陣争いなどをやって補給を考えずに攻め込みすぎてしまったから、結局は補給を立たれて飢餓に陥ることになった。
 それに加えて、李舜臣将軍の亀甲船の活躍で制海権も奪われ、敗北に終った。
 この補給を無視した無理な行軍という過ちは、1937年の南京侵攻でも繰り返された。歴史に学ぼうとしなかった過ちだ。
 この二つの日本の侵略戦争は、ともに「一つの世界」という幻想に囚われた世界征服の野望によるものだという点で共通している。
 織田信長は『史記』や『三国志』に憧れ、自分もまた中華皇帝になることを夢見た。そのときは天皇を自分の下に置くつもりだったようで、明智光秀はそれに反発して天皇を守ったという説もある。秀吉の朝鮮出兵はそれを引き継いだものだったが、秀吉は自ら天皇の上に立つなどということは考えなかった。
 近代の侵略戦争も、欧米列強が世界を植民地化してゆく動きを見て、単に日本を西洋の植民地化から守るという範囲を超えて、むしろそこに漢籍にあるような中華皇帝をめぐる戦いを投影して、自らその地球レベルの天下統一の戦いに参戦しようとした。
 (古代の三韓征伐はまったく違った動機で、おそらく「日本人」というものがまだ確立されてなくて日本列島と朝鮮半島の諸民族の抗争の最終的なものだったのだと思う。)
 それはそうと、壬辰倭乱というと、sad legendの「Imjin War」は名曲だと思う。

 さて『俳諧問答』の続き。
 「又ノ十五、又曰、和歌もいづれの風を読んとおもふ事あるべし。後鳥羽院の勅言も、いまの世に生れてうたをいにしへによむものハ西行也と、つたえ聞たり。
 又古今の序ニ、小町ハそとをり姫も流なりと。此等ハまつたく風をこひて読給ふなり。
 西行・小町といふとも、まなバずしてかくのごとくハあらじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)

 「後鳥羽院の勅言」に関しては、岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎注によると、後鳥羽院ではなく順徳天皇の『八雲御抄』に、

 「定家の云『歌のみちはあとなきごとくなりしを、西行と申ものがとくよみなして、今にその風ある也。』と云り。西行は誠に此道の権者なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)

とあるという。
 小野小町の「古今集仮名序」の評には、

 「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。」

とある。
 ただ、この二つの例は、複数の体を分けて詠むということではない。
 むしろ過去の作風を継承しているというだけで、元の風を模倣しているということではない。
 もちろん、過去の作品を研究してその影響を受けた可能性もあるが、たいていは評者が単に似ているなと感じたことを、何某の歌に近いというような感覚のものだと思う。
 風としては、西行はやはり新古今調だし、小野小町も古今調だ。過去の風を受け継いではいても、その時代の風で詠んでいる。少なくとも江戸後期の国学者やアララギ派の歌人が復古万葉調で詠むのとは分けが違う。

 「もし天性の風流、学ばずして此に至り給ふや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)

 多分、学ばずして此に至ったのであろう。後から評者の方がこれは何某の流だと勝手に呼んでいるだけだと思う。天才というのはそういうもので、努力の人の去来には理解できないかもしれないが。

 「体ハ、大形いづれの体よまんと、はじめよりおもふ物に非ず。歌合・賀・初会等のうたハ、おのおの正風体をよまんと、はじめよりこころざし給ふと伝え聞たり。
 六百番に顕昭ハ、ただ一ふしよまんとし給ふ故に、負多しといへり。又はれのうたよまんにハ、正風体をよむべしといへるも、うたいぜんにおもふなるべし。尤此ハ体の事にして、風にあづからず。阿兄の難ハ、二ッを分ざるの難也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55~56)

 去来は風と体に勝手な解釈を加えているだけで、肝心な部分に答えてはいない。
 つまり不易体の句、流行体の句と分けて詠むことが正当かどうかという問題だ。
 芭蕉自身が、

 名月に麓の霧や田のくもり  芭蕉
 名月の花かと見えて棉畠   同

の二句を詠み、『続猿蓑』に、

 「ことしは伊賀の山中にして、名月の夜この二句をなし出して、いづれか是、いづれか非ならんと侍しに、此間わかつべからず。月をまつ高根の雲ははれにけりこゝろあるべき初時雨かなと、圓位ほうしのたどりされし麓は、霧横り水ながれて、平田(しょうしょう)と曇りたるは、老杜が唯雲水のみなり、といへるにもかなへるなるべし。
 その次の棉ばたけは、言葉麁にして心はなやかなり。いはヾ今のこのむ所の一筋に便あらん。月のかつらのみやはなるひかりを花とちらす斗に、とおもひやりたれば、花に清香あり月に陰ありて、是も詩哥の間をもれず。しからば前は寂寞をむねとし、後は風興をもつぱらにす、吾こゝろ何ぞ是非をはかる事をなさむ。たヾ後の人なをあるべし。」

という支考評を添えることを望んだか、OKしたとすれば、芭蕉自身、不易と流行を分けて詠んだことになる。
 あるいは『猿蓑』の撰のときに、

 病鴈のよさむに落て旅ね哉かな    芭蕉
 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

の二句を提示したときにも、不易と流行の二つの体を意識していた可能性はある。
 そうなると、不易と流行を分けて詠むことが元々そんなに悪いことだったのか、という許六の難そのものが当たってないのではないかということにもなる。
 去来は先師のこういう例を引いて、不易と流行を分けて詠むのの何が悪いという方向で反論した方が良かったのではないかと思う。
 去来の方が許六の難に押されて一歩引いてしまったから、苦しい言い訳になってしまったのではないかと思う。

 「又々ノ十五、去来又曰、不易は和歌の正風体と大概似たるべし。然ども和歌の事にうとし。強て此を謂がたし。正風体ハひとり風体の二字を用ゆる事、故あるべし。正風体の和歌ハ、古今にわたりて、又おのれ一風ある物か。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.56)

 「正風体」という言葉が唐突に登場しているが、当時の和歌ではこの言葉を用いていたのか、正風体は風であるとともに体であるのだから、「阿兄の難ハ、二ッを分ざるの難也。」とあるのだから矛盾してしまう。
 コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 正しい風体。特に歌学で、伝統的な作風による品格の高い歌体。しょうふうたい。
 2 近世の俳諧で、正しい俳風・風体。主として蕉風についていう。しょうふうたい。」

とあるが、むしろ「正風体」は芭蕉の不易流行説に基づいた不易であるが故に風を超越した体というような意味で定着していった可能性もある。「正風」は「蕉風」に掛けて用いられる。
 許六もこの後正徳二年に『正風彦根体』を編纂し公刊している。

2018年10月11日木曜日

 キリスト教の場合、『聖書』の「ヨハネの福音書」の冒頭に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあるように、昔から言葉を超越的な存在と考える思想があった。
 言葉は人間が何を伝えようとするかとは無関係に、言葉自身が一定の意味を持っていて、それがあたかも超越的な真理であるかのように考えられてきた。
 そして、人間は肉体の衣を着た「言葉」であり、人が言語を用いて思考するのではなく、人は言語そのものであり言語が唯一思考するかのように見なされてきた。
 そういう宗教の立場からすると、確かに連句の取り成しなどとんでもない、言語をゆがめ、人格を否定し、神をも恐れぬものかもしれない。
 ただ、それはあくまで一つの宗教の立場であって、我国の神道にはそのような形而上学は存在しない。世界は多様な考え方で成り立ち、思想も宗教も自由でなければならないのは言うまでもないことなので、連句の取り成しは正当である。

 さて、そろそろ『俳諧問答』に戻るとしよう。

 「来書曰、歌に十体あり。定家・西行、初より十体を読んとし給ふ事を聞ず。よみ終て後、十体の姿ハあらハる。時に判者の眼有て、一々体を分ツ。何体の歌読んといへる歌道、片腹いたく侍らんか。
 十五、去来曰、此語阿兄のさす処異也。体と風ハたがひ有。まづ流行ハ風なり。十体ハ体也。体ハ古今にをしわたりて、用捨なし。風ハ時に用捨有。万葉風・古今の風・新古今の風のごとし。又国風あり、一人の風あり。流行ハ時の風なり。故に一時流行といふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54)

 和歌十体(わかじってい)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「和歌の様式分類。現存の歌論書では『和歌体十種』(『忠岑(ただみね)十体』ともいう。『道済十体』はその抄出)と藤原定家『毎月抄(まいげつしょう)』とに十体論があり、後者の例歌を示すものとして『定家十体』(偽作説がある)がある。『和歌体十種』(壬生忠岑撰(みぶのただみねせん)を疑う説が有力)は、「古歌体、神妙体、直体、余情体、写思体、高情体、器量体、比興体、華艶体、両方体」を「高情体」を中心としてあげ、各五首の例歌を示す。『毎月抄』は、「幽玄様、事可然様、麗様、有心(うしん)体、長高様、見様、面白様、有一節様、濃様、鬼拉体」を「有心体」を中心としてあげる。定家作と偽る『愚見抄』は八体、『愚秘抄』は十八体、『三五記』は二十体を『毎月抄』の十体以外に示している。[藤平春男]」

とある。
 同じ去来門の中で、「我が旗下のものにのぞまれ、二ッを分て案ずる事もあらん。又吟友の会、遊興に乗じ、流行の句をして見せん、不易の句をして聞せんといふ事あり」というのであれば、同じ時代の去来門の風の中で不易体と流行体に分けて詠んでいたことになり、これは言い訳できないだろう。
 貞門、談林、天和調、猿蓑調などは「風」と呼べるかもしれないが、流行調という風はない。同様に不易という風もない。
 「国風あり、一人の風あり」の国風は『詩経』にあるが、一人の風はいわゆるその作者の作風というものだ。
 流行が風だというのは、流行するものが風なのであって、流行そのものが不易に対して一つの風になるというものではない。不易と流行を分けた時点でそれは体というべきだろう。

 「又不易ハ、古今によろしくて用捨なし。此を体といはんも又ちかし。然ども、体ハ己一体ありて、風なし。風と時々の風による。不易ハよろづの体をそなへて、一己の風あり。故に風を時々によらず。時々の風によらざるが故に、又古今にかなへり。かるがゆへに千歳不易なり。風といはずんバ有べからず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54~55)

 不易は流行によってそのつど変わってゆく風ではないから体に近い。ただ問題は「体ハ己一体ありて、風なし」だ。これは何を根拠にこう断定しているのか。
 忠岑十体と定家十体はそれぞれ体があるが、時代が変わればその内容も変わる。これは風ではないか。忠岑風の十体と定家風の十体があるのではないか。
 その後の論もいたずらに言葉をもてあそぶだけで明晰な論理は見られない。
 要するに、今の去来調(去来風)では不易体と流行体に分けて考えている。それを流行は風であって体にあらず、不易は体であって風にあらずという言葉自体の定義を持ち出して煙に巻いているだけだ。去来調は風であって体にあらず、不易体と流行体は体であって風にあらず、が正しい。

2018年10月10日水曜日

 バンクシーのことが話題になっているので、一応多少はググって調べてみた。
 前にヒップホップのサンプリングは一種の取り成しだと思っていたが、バンクシーはそれを絵画に応用したのではないかと思った。
 単に壁に描きたい絵を描くのではなく、壁自身にある模様や付属物を巧に取り成してそこに笑いを生み出すという点では、俳諧にも通じるものがある。
 話題になったあの作品も、単なる絵画をあえて切り刻むことで、「シュレッダーで刻まれた絵画」という別の作品にしたのではないかと思う。この洒落がわかる人なら落札額以上の価値を見出すわけだ。

   少女が放すハート風船
 その額は実は破砕機気をつけろ

てな感じか。
 額に入れて売り買いして投機の対象とすることが芸術を殺すという風刺なのだろう。
 それでは「牛部屋に」の巻の続き。挙句まで。
 二裏、三十一句目。

   藪くぐられぬ忍路の月
 匂ひ水したるくなりて初あらし 史邦

 「匂ひ水」はここでは単に汚れて濁った臭い水のことだろう。「したるく」は湿っぽくということ。「初嵐」は初秋の頃に吹く強い風で、台風の影響によるものだろう。
 台風は「野分」という言葉でも表されるが、普通に「嵐」という言葉で済まされるときもある。台風とそうでない嵐との区別は、組織的な気象観測がなされる前はよくわからなかったのだろう。
 台風が近づき、川の水も濁ってあたり一体がじめじめしてくると、月が出たものの女のもとに忍んでは行かれない。
 三十二句目。

   匂ひ水したるくなりて初あらし
 亦も鼬鼡のこねら逐出す    丈草

 「鼬鼡」はイタチ、「こねら」は子鼠等。イタチはネズミの天敵なので、実りの季節に農作物を守ってくれる。
 そういえばアニメの『ガンバの冒険』のラスボスも、ノロイという巨大なイタチだったか。
 三十三句目。

   亦も鼬鼡のこねら逐出す
 手に持し物見うしなふいそがしさ 去来

 「いたちごっこ」という言葉が思い浮かぶが、ウィキペディアには「江戸時代後期に流行った子供の遊び」とある。
 子供の遊びから「いたちごっこ」という言葉が生まれたのか、それともイタチが何度もネズミを追い回すのを見て、子供の遊びよりも前に「いたちごっこ」という言葉があったのか、その辺は定かでない。
 手に持っていたものをふっとどこかに置いて、そのまま忘れてしまい、後で探し回るのはよくあること。特に歳取るとそういうことが増えてくる。何度も同じ事を繰り返していると、それこそイタチが何度もネズミを追い回しているようだ。
 三十四句目。

   手に持し物見うしなふいそがしさ
 油あげせぬ庵はやせたり    野童

 油揚げはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「豆腐を薄く切って油で揚げた食品。江戸時代初期に江戸の町でつくられるようになった。」

とある。
 ただ、その豆腐にしても都市部だけで田舎の方では、「一泊り」の巻の

十七句目に、

   賤が垣ねになやむおもかげ
 豆腐ひく音さへきかぬ里の花   白之

とあるように、まだ普及していなかった。
 油揚げを作るための油は明暦の頃には既に擣押木による菜種油の増産が始まっていたようで、庶民でも入手できた。
 そうなると、油揚げを作れるかどうかは豆腐の入手の方にかかっていたのか。
 油揚げは100グラムあたり386カロリーで、豆腐の55カロリーに較べるとかなりの高カロリーになる。それにたんぱく質もたっぷりだから、油揚げを食べている庵の住人は太っていて、ない庵の住人が痩せていたとしても不思議はない。まして忙しい庵ならなおさらだ。
 三十五句目。

   油あげせぬ庵はやせたり
 鶯の花には寝じと高ぶりて   正秀

 『源氏物語』「若菜上」に、

 いかなれば花に木づたふ鴬の
     桜をわきてねぐらとはせぬ

の歌がある。光源氏の桜以外のいろいろな花に浮気する高ぶった心を歌ったもので、それを踏まえつつ、僧もあれこれ美食にふけって油揚げを食べないでいると、カロリーが不足して痩せるとする。
 挙句。

   鶯の花には寝じと高ぶりて
 柳は風の扶てぞふく      執筆

 まあまあそんな高ぶるのはよしなさい。世の中柳に風が一番ですよと締めくくる。一種の咎めてにはだ。
 吹く風に逆らわない生き方は老子の影響によるものだろう。今でも田村耕太郎の『頭に来てもアホとは戦うな!』という本がベストセラーになっているが、日本人には染み付いた性質だ。
 ただ、本当に戦わないでいると世の中アホがのさばってしょうがないから、時には突っ張ってみることも必要だ。

2018年10月9日火曜日

 今日から長月。暑いと思っていても既に晩秋。
 それでは「牛部屋に」の巻の続き。

 二十五句目。

   橘さけばむかし泣かるる
 草むらに寝所かゆる行脚僧   丈草

 橘が咲けば悲しくなるから、野宿する場所を変える。
 二十六句目。

   草むらに寝所かゆる行脚僧
 明石の城の太鼓うち出す    去来

 明石城は小笠原忠真の築城で、宮本武蔵もここにいたという。ただ、その後改易が相次いで城主が点々と入れ替わり、天和二年に越前家の松平直明が入城し、ようやく落ち着いたという。(ウィキペディア、「明石城」参照)
 明石市教育委員会のサイトによれば、今日の明石神社には明石城太鼓があり、「明石城築城以来太鼓門に置かれ、時刻を知らせていたものです。」とある。
 明石の太鼓の時を告げるのを聞いて、草むらに寝所を定める。
 二十七句目。

   明石の城の太鼓うち出す
 大かたはおなじやうなる船じるし 野童

 明石は廻船の寄港地で、北前船が大坂と蝦夷との間を通っていた。
 コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」の「船印」のところには、

 「また近世期膨大な数に上った商船や廻船(かいせん)では、船主の家紋や名前を1、2字使用した模様などが、帆や船尾に掲げる旗に描かれた。」とある。北前船の場合は縦に黒い線を入れたものが多く、それが「大かたはおなじやうなる船じるし」だったのか。
 今日では船首と船尾にその国の旗を掲揚することで、どこの国の船かを識別する。今話題の旭日旗も、本来は日本の軍艦である事を示す国際法に基づく軍艦旗で、一九五四年に自衛隊が発足した時に「自衛隊旗」として復活した。ただ、紅白の放射状のデザインはお目出度いということで、漁船の大漁旗やあけぼのの缶詰、朝日新聞、アサヒビールなど企業のマークにも広く用いられている。
 ただ、二〇一二年頃から韓国で「戦犯旗」と呼ばれるようになって、反日キャンペーンに利用されている。
 二十八句目。

   大かたはおなじやうなる船じるし
 ちからに似せぬ礫かゐなき   正秀

 これは印地(石合戦)に転じたか。印地はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「 川原などで、二手に分かれて小石を投げ合い勝負を争う遊び。鎌倉時代に盛んで、多くの死傷者が出て禁止されたこともあったが、江戸末期には5月5日の男の子の遊びとなった。石合戦。印地打ち。《季 夏》「おもふ人にあたれ―のそら礫/嵐雪」

とある。
 石合戦といってもガチに戦えば死者も出かねないので、平和な江戸時代ではたいていは手加減して行われていたのだろう。
 旗を立てて合戦ぽくしてはいても、結局は同じような旗を立てた日ごろの仲間同士。
 印地は夏の季語だが、ここでは印地の文字はない。

 思う人にあたれ印地のそら礫  嵐雪

の句も気になるが、これはどこからともなく石が飛んできて、思う人に当たり、「いでっ」と言ってこっちを振り向かないかな、というものか。
 二十九句目。

   ちからに似せぬ礫かゐなき
 ゆるされて女の中の音頭取   芭蕉

 「音頭(おんど)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「民謡などで全体の進行をリードする者,またはその者が独唱する口説 (くどき) 節の名称。建築や踊りなどで,歌や掛声でこれを指揮する者を音頭取りという。江戸時代後期に口説節が流行すると,盆踊りに取入れられ,1人が独唱し,踊り手が囃子詞を斉唱するために,その歌も音頭の名で呼ばれた。もっぱら地名をつけて,河内音頭,江州音頭,伊勢音頭などと呼ぶ。明治以後に作られた新民謡でも,口説でなくともこの名をつけて呼ばれることが多い。」

とある。
 今日の盆踊りなどで演奏される音頭はもっぱら明治以降の新民謡で、東京音頭は昭和初期。その前身となるような河内音頭でも江戸後期だから、芭蕉の時代の盆踊りがどういうものかはよくわからない。
 盆踊りは普通に行われて秋の季語だったので、音頭という音楽はなくても導入部を仕切る音頭取りはいて、それも秋の季語になったということだろう。
 女の中に男が一人というのは、なんとも間が悪く、笛吹けども躍らず、いわゆる「なしの礫」ということか。
 三十句目。

   ゆるされて女の中の音頭取
 藪くぐられぬ忍路の月     路通

 盆は旧暦七月十五日、満月なので明るくて、こっそり女のもとに通うのには向かない。でも許されて音頭取りになれば堂々と逢いに行ける。

2018年10月8日月曜日

 今日は横浜オクトーバーフェストに行ってきた。
 それでは「牛部屋に」の巻の続き。

 十七句目。

   瘤につられて浮世さり行
 散時はならねばちらぬ花の色  史邦

 花は散る時が来れば散るが、散る時でなければ雨が降ろうが風が強かろうが散らない。散るとしたらそれは寿命だ。
 前句の「浮世を去る」を死ぬこととしたか。ならば「瘤」は腫瘍のことか。寿命がなかったとあきらめるしかない。
 十八句目。

   散時はならねばちらぬ花の色
 畠をふまるる春ぞくるしき   丈草

 前句の悲しげな雰囲気をがらりと変え、花を見に来た人が酔っ払って畠を踏んでゆくマナーの悪さを嘆く。
 二表、十九句目。

   畠をふまるる春ぞくるしき
 人心常陸の国は寒かへり    去来

 前句の「畠をふむ」を麦踏とする。寒の戻る中での麦踏は苦しい。「寒かへり」は「さえかへり」と読む。
 二十句目。

   人心常陸の国は寒かへり
 産月までもかろきおもかげ   野童

 常陸国の鹿島神宮は神功皇后が後の応神天皇を出産した際に帯を奉納したとされている。
 二十一句目。

   産月までもかろきおもかげ
 うき事を辻井に語る隙もなし  正秀

 本当はお産が心配なのだけど、井戸端会議ではついつい強がってしまう。
 二十二句目。

   うき事を辻井に語る隙もなし
 粕買客のかへる衣々(きぬぎぬ) 芭蕉

 元禄六年冬の「ゑびす講」の巻の十五句目に、

   馬に出ぬ日は内で恋する
 絈(かせ)買の七つさがりを音づれて 利牛

とある。『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)に、

 「絈は『かせ』と訓ます俗字にして、糸未だ染めざるものなれば、糸に従ひ白に従へるなるべし。かせは本は糸を絡ふの具にして、両端撞木をなし、恰も工字の縦長なるが如き形したるものなり。紡錘もて抽きたる糸のたまりて円錐形になりたるを玉といふ。玉を其緒より『かせぎ』即ち略して『かせ』といふものに絡ひ、二十線を一トひびろといひ、五十ひびろを一トかせといふ。一トかせづつにしたるを絈糸といふ。ここに絈といへるは即ち其『かせ糸』なり。絈或は纑のかた通用す。絈糸を家々に就きて買集めて織屋の手に渡すものを絈買とは云ふなり。」(竹内千代子編『「炭俵」連句古註集』、一九九五、和泉書院より。)

とある。
 前句の「うき事」を恋に取り成し、粕買客との不倫とする。
 二十三句目。

   粕買客のかへる衣々
 硝子(びいどろ)に減リ際見ゆる薬酒 路通

 ビイドロは当時珍しく、長崎でわずかに作られた物か、そうでなければ西洋か中国から持ち込まれた酒瓶くらいだった。醤油の輸出に大量のケンデル瓶が使われるのは、多分もう少し後のことであろう。路通は筑紫を旅しているが、どこかでビイドロを目にすることがあったのか。
 それに対して江戸時代には様々な薬酒が造られていたようだ。粕買が明け方に返るときにこっそりと薬酒を飲んだのか、だがガラス瓶に入ってたため減っているのがばれてしまう。
 二十四句目。

   硝子に減リ際見ゆる薬酒
 橘さけばむかし泣かるる    史邦

 これは『伊勢物語』六十段の本説で、宇佐の使いとして豊前へいった男がかつての妻がそこの役人の妻となっていることを知り、その妻を呼び出して酌をさせ、その時肴となっていた橘を取り、

 さつき待つ花たちばなの香をかげば
     むかしの人の袖の香ぞする

と詠んだという。
 この歌は「古今集」に詠み人知らずとして収録されている。
 減っている酒に橘がこの物語を思い起こさせる。

2018年10月7日日曜日

 多少暑いけど中秋の終りの穏やかな一日。今日は「牛部屋に」の巻は一休みして、教育勅語の解釈の可能性について語っちゃったりしようかな。

 「教育勅語」の復活のことはこれまでもしばしば話題になった。ただ、教育勅語の内容について、実際にはそれほど議論されているわけではない。議論自体をタブーとする風潮があったからだ。
 右翼からすれば天皇の言葉を議論するのは畏れ多いし、左翼からすれば議論すること自体が軍国主義の復活につながるというわけだ。
 その教育勅語というのは、そんなに長い文章ではない。ウィキペディアから引用しよう。

   教育ニ関スル勅語

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖󠄁先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
 斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

 これを不敬を承知で現代語にしてみた。

 「朕は考えたんだ。神武天皇やその後継者によってこの日本という国が始まってからというもの、広い範囲にわたって徳を確立することに熱心だったんだなって。
 我が臣下である日本国民は、忠と孝を大事にして有史以来憶兆の人々が心を一つにして、代々美風を作り上げてきた。これが我が国体の美しい花々であり、教育もまさにここに基づいて行われなければならない。
 あなたがた臣下である民は親孝行をし、兄弟仲良くし、夫婦は相争うことなく、仲間を信じ、身を慎み、広く人を愛し、学問に励み、手に職を身につけることで己の能力を啓発し、徳を身に付け、すすんで世のため人のためになることを広め、政治に参加し、憲法を尊重し、法律を遵守し、ひとたび差し迫った事態が生じれば忠義に基づき勇気を奮い起こし、身を公に捧げ、天地開闢以来永遠に変わることない天の営みが続くよう左右から手助けをしなさい。
 そうすれば朕の良く忠誠を誓う臣民だけでなく、これによって先祖から受け継がれた美風をも称えることにもなるんだ。
 この道はまさに我らが神武天皇やその後継者によって残された遺訓であるとともに、子孫である臣民も一緒になって守っていかなければいけないことで、昔も今も間違いのないことだ。これを日本国内のみならず海外にも広め、捻じ曲げることがあってはいけない。
 朕もあなたがた臣民と一緒に両の手で大切に胸に抱えて、みんなでこの徳を一つにすることを心から願ってるよ。

 明治二十三年十月三十日
 ここに名前記し捺印する。」

 先ず問題になるのが「臣民」の概念だが、これは文字通りの意味では天皇家の家臣であることを意味する。ただ、天皇が直接国家を統治した時代ははるかに昔のことで、鎌倉の武家政権の誕生以来、建武の新政の僅かな期間を除けば形骸化し、ただ武家政権に官位を与えることで支配の正当性を保証するだけのものになっていた。
 ここでいう「臣民」の概念は江戸後期の国学者たちによって形成された一君万民思想によるもので、天皇家は形式的な日本の支配者であり、政治は万民の公議によって行うという、民主主義の先駆をなす思想だった。
 このことは慶応三年の「王政復古の大号令」の「諸事 神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至當之公議竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊」に現れている。
 臣民であるということは、実力で王となる道を放棄することなので、独裁政治の禁止の側面を持つのだが、戦前の軍部は天皇を拘束し傀儡とすることで抜け道とした。
 今の時代にあえて「臣民」の概念を生かすとすれば、権利の平等と独裁の禁止以外にない。
 もちろんプロレタリア独裁は基本的に日本の国体にはそぐわない。そこが左翼の反発する一つの理由と思われる。

 次に「夫婦相和」だが、ここには異性夫婦か同性夫婦かが明示されていないので、同性婚が認められたとしても矛盾はない。ただ、「國憲ヲ重ジ」ともあるので、憲法24条の改正は必要と思われる。
 「國憲ヲ重ジ」は憲法改正を否定するものではない。憲法が不磨の大典だというのは、「大日本帝国憲法発布ノ勅語」の「現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」に基づくものだが、その大日本帝国憲法第73条に「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」というに憲法改正の規定がある以上、改憲は「國憲ヲ重ジ」に矛盾しない。

 左翼が一番問題にするのはおそらく、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分であろう。
 震災などの天災はよほど日本沈没のような大規模な天変地異でない限り、国家の危急存亡とまではいかないから、基本的には「緩急」は戦争と解釈していい。もっとも、複数の原発が次々とメルトダウンするような事態が生じれば「緩急」と言えるかもしれない。
 ただ、戦後は戦争そのものが国際的に「平和に対する罪」となったため、日本が自ら侵略戦争を起こすことはあってはならないし、そこに「緩急」の大義はない。
 緩急の事態があるとすれば、日本が他国から侵略されるか、内戦が起こるかのどちらかであろう。
 おそらく日本が他国に侵略され、支配されれば、右翼左翼関係なくレジスタンス運動が起こるのではないかと思う。左翼が恐れるのは革命が内戦の様相になった時のことであろう。

 「天壌無窮ノ皇運」は天地の窮まりなき運行のことで、太陽が東から上り西へと沈み四季が循環するようなことをいう。何らかの教義を意味するものではない。というのも、明治以降、国家神道の統一の教義を作ろうと試みられたことはあったが、結局実現しなかったからだ。
 我国の神の道はあくまで神ながら言挙げせぬもので、天地はただ語らぬ経を読むものに他ならない。強いて言えばそれ以外の思想宗教は私的なもので、臣民として従うべき教義ではないということだ。これも社会主義とは矛盾する。
 むしろこの一文は、たとえ国家の危急存亡の事態でも、特定の思想や宗教に偏ることなく、いかなる独裁的な権力をも認めず、ただ己の誠の心を持って対処すべしという意味に解釈できると思う。

 「億兆心ヲ一ニシテ」「其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ」の表現も臣民の心を一つにするという意味で、世界を一つにするという意味はない。地球規模での天下統一事業に参加するという意味にしてはならない。
 「一つの世界」を放棄し民族の多様性を認め、侵略戦争の大義はもはや存在しないというその点にさえ注意を払って解釈するなら、教育勅語にはまだ十分可能性はある。

 いかなる私的な思想や宗教にも偏らず、あくまで人間としての自然の道を貫く日本の伝統は十分世界に誇れるものであり、平和的な手段であるかぎり世界に広めてゆく価値がある。たとえば漫画やアニメなどで日本の文化を伝えるような、広義の風流の道に基づくものなら、それは誇るべきものであろう。
 教義なき天地の道を象徴するのが天皇であり、皇道は天地自然の道に等しい。あくまでその象徴の下に日本人は天地の道の臣下として平等であり、政治はあくまで民主的な公議を以って行い、いかなる独裁をも認めないというその美風を非暴力を以って世界に広めるという解釈なら、今日でも教育勅語に意味を持たせることは可能だ。ただもちろん、新しい教育理念を作るならそれでもいい。

2018年10月6日土曜日

 「牛部屋に」の巻の続き。
 十一句目。

   溝汲むかざの隣いぶせき
 なま乾(ひ)なる裏打紙をすかし見る 丈草

 「裏打ち」はウィキペディアには、

 「裏打ち(うらうち)とは、水彩画・水墨画・書など掛軸や額装において、裏側にさらに紙や布などを張り、水分と乾燥による起伏をなくしたり丈夫にすること。
 書を掛軸にする場合などで行われる工程のひとつ。本紙(書画が書かれた紙)より大きめの湿らせた和紙に本紙を重ね、霧吹きや刷毛でシワを取り除き、別の裏打ち用の和紙にのりを塗り裏返した本紙に重ねて貼り付け、最初の和紙を取り除く一連の作業を指す。」

とある。
 生乾きの紙は向こう側が透けて見えるので、隣の溝汲む風景も見えるということか。わかりにくい付けだ。
 十二句目。

   なま乾なる裏打紙をすかし見る
 いつも露もつ萩の下露      去来

 露が重なっているのが気になる。「下枝」「下陰」とするテキストもあるという。
 ただ、「萩の下露」は決まり文句で、

 秋はなほ夕まぐれこそただならね
     荻の上風萩の下露
            藤原義孝

の歌に由来する。別に一句に同じ字を二回使ってはいけないという規則はない。芭蕉にも、

    堤より田の青やぎていさぎよき
 加茂のやしろは能き社なり   芭蕉

と「やしろ」を二回使っている例がある。
 紙が生乾きなのを秋で露の季節だからという展開なのだろうか。これもわかりにくい。
 十三句目。

   いつも露もつ萩の下露
 秋立て又一しきり茄子汁    野童

 これは萩の下露の季節ということで、立秋と秋茄子を付ける。
 十四句目。

   秋立て又一しきり茄子汁
 薄縁叩く僧堂の月       正秀

 「薄縁」は「一泊り」の巻の脇にも登場した。

   一泊り見かはる萩の枕かな
 むしの侘音を薄縁の下     蘭夕

 コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「藺草(いぐさ)で織った筵(むしろ)に布の縁をつけた敷物。」とある。
 前句の「茄子汁」を僧堂の精進料理とする。月が出たので薄縁の上で寝ている人たちを叩いて起こしたのか。
 十五句目。

   薄縁叩く僧堂の月
 分別の外を書かるる筆のわれ  芭蕉

 「分別」がないということは恋を連想させる。
 これよりあとの元禄七年の「牛流す」の巻に、

    朝の月起々たばこ五六ぷく
 分別なしに恋をしかかる    去来

の句がある。僧堂の僧が分別もなく恋文を書いたりするが、僧だけに相手は稚児さんか。
 「筆のわれ」は墨がかすれて線が一本でなくなることを言う。
 十六句目。

   分別の外を書かるる筆のわれ
 瘤につられて浮世さり行    路通

 前句のお寺の情景を離れ、息子と一緒に出家する母を登場させる。男の分別のない恋に愛想つかして、縁切り寺に駆け込んだか。この辺の人情は路通らしい。

2018年10月4日木曜日

 「牛部屋に」の巻の続き。
 四句目。

   酒しぼる雫ながらに月暮て
 扇四五本書なぐりけり      丈草

 酒宴であろう。揮毫を求められた先生もすっかりへべれけになって、扇になんだか分からないようなものを書きなぐっている。
 浦上玉堂が思い浮かぶが、それは一世紀後のこと。元禄の頃にもこういう人っていたんだろう。
 五句目。

   扇四五本書なぐりけり
 呉竹に置なをしたる涼床     去来

 呉竹は淡竹(はちく)ともいう。
 前句の扇四五本書く人物を隠士の位として、呉竹越しの風がよく当たるように涼み床を置きなおすとする。
 六句目。

   呉竹に置なをしたる涼床
 蓮の巻葉のとけかかる比     野童

 野童は去来の弟子。
 蓮の巻き葉は蓮の新芽で、まだ葉が広がる前の状態を言う。「とけかかる」はそれがやがて開くことをいう。
 初裏、七句目。

   蓮の巻葉のとけかかる比
 笈摺もまだ新しくかけつれて   正秀

 「笈摺」は「おいずり」とも「おいずる」とも読む。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「巡礼などが笈を負うとき、衣服の背が擦れるのを防ぐために着る単(ひとえ)の袖なし。おいずる。」

とある。
 蓮からお寺、お遍路さんの連想だが、直接言わずに「笈摺」で匂わす。
 八句目。

   笈摺もまだ新しくかけつれて
 遊行の輿をおがむ尊さ      芭蕉

 遊行は遊行上人のこととも取れるが、特に誰と言うことでもなく単に諸国を行脚して回る高僧のことを言っているだけなのかもしれない。
 いずれにせよ、まだ発心したばかりの笈摺もまだ新しいお遍路さんが、駆けつけては拝みに来る。
 九句目。

   遊行の輿をおがむ尊さ
 休み日も瘧ぶるひの顔よはく   路通

 「瘧(おこり)」はマラリアのこと。周期的に熱が出るが、熱が出てない日でも顔はやつれて弱々しい。
 『源氏物語』では光源氏がこの病にかかり、

 「きた山になん、なにがしでらといふ所に、かしこきおおなひびと侍(はべ)る。こぞの夏もよにおこりて、人人まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひ、あまた侍(はべ)りき。」
 (北山のなんとか寺という所に霊力のある修行僧がいて、去年の夏も大流行して、多くの人が祈祷しても良くならなかったのがすぐに治ったという例がたくさんある。)

と聞いて、あの若紫に出会うことになる。
 十句目。

   休み日も瘧ぶるひの顔よはく
 溝汲むかざの隣いぶせき     史邦

 ただでさえマラリアで弱っている所に、隣からはどぶ掃除のいやな匂いの風が吹いてくる。響き付け。

2018年10月2日火曜日

 今年も日本人のノーベル賞受賞者が出て、イグノーベル賞とダブル受賞になった。ノーベル賞が連歌ならイグノーベル賞はノーベル賞の俳諧というところか。
 本庶さんのT細胞の表面にあるPD-1というたんぱく質の発見が癌免疫療法を実現したというのも凄いが、いろいろな種類のT細胞が擬人化されたキャラになって活躍するアニメ(「はたらく細胞」)が人気を集めるこの国は凄いのではないかと思う。第七話では癌細胞と戦ってたし、本庶さんの功績もアニメにならないかな。
 研究予算は少なくても底辺の広さ、特にオタク層のレベルの高さがこの国の科学を支えているのだと思う。
 オタクは現代の隠士ではないかと思う。会社や役所や大学では発揮できない才能が、日本にはまだまだ眠っている。日本が本当に危機に陥った時は、彼等が山を降りてきてきっと救ってくれるのだろう。

 さて、ここで路通の俳諧をもう一つ読んでみたい。
 「一泊り」の巻の二年後の元禄四年秋、一度は、

 草枕まことの花見してもこよ   芭蕉

と路通を破門した芭蕉も、翌年には許されたのか京都や膳所の連衆とともに興行を行っている。
 その中の一つ、

 牛部屋に蚊の声よはし秋の風   芭蕉

の句を発句とする歌仙を読んでみようかと思う。単にこれが一番路通の出番が多いからだ。
 順番は芭蕉→路通→史邦→丈草→去来→野童→正秀の固定で、路通は常に芭蕉の句に付けることになる。これも嫌われ者の路通への気遣いなのかもしれない。特にうるさそうな去来が来席しているし。多分座席も路通を自分の隣に置き、対角線に去来が座るようにしたのではないかと思う。
 季節はまだ初秋で、匂いのぷんぷん籠るような牛小屋にもさわやかな秋風が吹いて、蚊の声も弱ってきていると、なにやら象徴的な意味があるのかないのか、という句だ。別に路通が蚊だとか去来が蚊だとかそういうことではなくて、いろいろ困難な問題も解決してこの牛小屋にも秋が来たという意味だと思う。
 史邦編の『芭蕉庵小文庫』(元禄九年刊)には、この形で掲載されているが、土芳編の『蕉翁句集』(宝永六年刊)では、

 牛部屋に蚊の声暗き残暑哉    芭蕉

の形に改められている。
 そこで路通の脇。

   牛部屋に蚊の声よはし秋の風
 下樋の上に葡萄かさなる     路通

 下樋(したひ)は牛小屋に水を引く溝だと思われる。葡萄は自生する山葡萄で、溝の上に垂れ下がり鈴生りになっている。
 江戸中期になると甲州で葡萄の栽培が盛んになり、今日のようなぶどう棚が作られるようになる。

 勝沼や馬子も葡萄を食ひながら

は芭蕉に仮託されて伝わっているが、「勝沼ふたみ会&jibun de wine project&勝沼文化研究所」のサイトによれば、江戸時代中期の俳人、松木珪琳の句だという。
 第三。

   下樋の上に葡萄かさなる
 酒しぼる雫ながらに月暮て    史邦

 古代には山葡萄で葡萄酒を作ったともいうが、この時代には作られてたかどうかはよくわからない。早稲の米を布袋で発酵させると、そこから雫が垂れてきて、いわゆる「あらばしり」が取れる。

2018年10月1日月曜日

 「生きづらさ」って一体なんだろうと考えた時、結局それは「生存競争」なんだろうなと思う。
 昔も今もそうだし、洋の東西を問わず、貧しくても裕福でも生きづらさは必ずついて回る。

 世の中はとてもかくても同じこと
     宮もわら屋もはてしなければ
                蝉丸

 宮廷で暮らしていても藁屋でくらしていても、そこにあるのは過酷な生存競争。たとえ皇子に生まれようとも、皇位争いで命を落とすことすらあるし、だからといって田舎の藁屋が平和かというと、そこでもどろどろとした人間関係が絶えることがない。
 なら人間やめればいいかというと、

 世の中よ道こそなけれ思ひ入る
     山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
             皇太后宮大夫俊成

 鹿もまた妻を争って争いが絶えない。人間やってくのも大変だが鹿だってやはり大変だ。
 そもそも論を言うなら、有限な地球で無限の生命の繁栄は不可能なのだから、誰かが排除されなければならない。
 ただ、生存競争を考える時間違ってはいけないのは、人は生きるために争っているのではないし、子孫を残すために争っているのでもないということだ。
 この「ために」というのはラマルキズムであって、ダーウィニズムではない。人はたまたまご先祖様が子孫を残すことに役だった遺伝子を受け継いで生まれてくるだけだ。
 そこには様々な感情や欲望や衝動が含まれ、別に生き残ろうだとか子孫を残そうだとか思わなくても、自然とそういう行動を取ってしまうだけだ。
 だから別に傷つけるつもりはなくても、互いに傷つけあってしまう。それが「生きづらさ」だと思う。
 生存競争の基本は排除だ。有限な地球で無限の生命が繁栄できない以上、生命も有限になるように調整しなくてはいけない。そのために闇雲にライバルを排除しようという欲求が生じる。
 理由は何でもいい。自分より弱い奴は排除しやすいし、自分より強ければ、それはそれで自分が排除される危険があるから、やられるまえにやっておきたい。だから人間は弱いものいじめもすれば、強いものに強烈な嫉妬心を抱いたりもする。
 馬鹿だからっていじめられたりもすれば、頭が良すぎるからっていじめられることもある。マイノリティーはいじめられるが、マイノリティーの集団の中に少数のマジョリティーが紛れ込めばそいつもいじめられる。要するに理由は何でもいいのである。
 救いがあるのは、われわれは争うために生まれてきたんじゃないということだ。たまたま生まれてきて、いやおうなしに生存競争に巻き込まれているだけだ。
 だから別にガチに勝ちに行かなくても、そこそこの所で余裕もって生きることもできる。この生存競争から目覚めた意識、それが風雅の誠ではないかと思う。
 戦ってばかりでは疲れてしまう。そこそこ勝利を手にしたら、あとは笑おうよ。生存競争をなくすことはできなくても、それくらいならできる。
 「生きづらさ」は確かに政治では完全な解決できないかもしれない。実際、誰も傷つかない社会なんて無理だし、そんなことをしようとすれば、恋も友情も禁じられたディストピアになりかねない。
 ただあまりマジに生きるのをやめてそこそこ遊ぶようにすれば、それだけ生きづらさを和らげることはできる。それを支援するくらいなら政治でもできる。
 前に書いたことをちょっとまとめると‥。
 均質な人間に向けて均質な商品を作っているだけでは市場は成長しない。
 多様の人間に向けて多様な商品を作ってゆくことで市場は発展してゆく。
 それゆえLGBTはミクロでは行政サービスの非効率を生み出すことはあっても、マクロ的には生産性を高める。LGBTへの新たなサービスは市場の拡大に繋がるからだ。
 LGBTがそれぞれ独自のファッションやライフスタイルを生み出して行けば、彼等もそれだけ生きやすくなるし、異性愛者もそれに乗っかれば遊びの幅が増え、社会全体が楽しくなると思う。テレビだってオネエがいないテレビは退屈だ。
 障害者にしても、十分な職が与えられ経済力をつければ、新たな消費を生み出す。たとえばお洒落な高級車椅子や高級義足なんかがあってもいいのではないか。
 雇用を促進するだけでなく、政府はベンチャービジネス育成の一環として、LGBTや障害者の起業を支援すべきである。LGBTが自ら起業してLGBTのための商品を開発し、それが成功すれば、自ずとそこに新たな雇用も生まれる。障害者の場合も同じだ。
 そしてそれで社会全体が楽しくなるなら一石二鳥と言う以外にない。
 必要なのは排除ではない。一緒になって遊ぶことだ。
 ただ、民族の問題は文化の維持の問題が関わるので、LGBTや障害者と同列に論じることは難しい。
 文化の維持には一定の規模の集団が確保されなくてはならないので、ごちゃ混ぜにするよりはある程度の棲み分けを残す必要がある。
 民族的マイノリティーの問題は一つの世界に組み込むことではなく、むしろ独立を支援し、多様な世界を作ることで解決すべきだ。
 世界にたくさんの文化があったほうが見てても楽しいし、多様性は一つの文化が行き詰った時の保険にもなる。
 それぞれに独自の消費文化があることで市場規模の拡大にも繋がるし、また消費文化の違いが外資に対して一定の障壁となる事で独占を防ぐことができる。