台湾の列車事故は福知山線脱線事故を思い出した人も多いだろう。恐ろしいことだ。
それでは『俳諧問答』の続きを。
「又頃日、尾陽の荷兮一書を作る。書中処々先師の句をあざけると聞けり。我いまだ此書を見ず。
かの荷兮や、先師世にます内、ひたすら信迎す。一とせゆへありて、野水・凡兆と共に先師に遠ざかる。
先師その恨をすてて、遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。彼亦此をあがめ貴む事、旧日のごとし。
翁遷化の時、東武の其角・嵐雪・桃隣等、於東山て追悼の会をなす。かれ蕉翁の門人の数に加りて着坐す。今書を作りて翁をあざける。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)
荷兮のこの書というのは元禄十年刊の『橋守』らしいが、先ず去来自身がこの本を読んでなくて、風聞で判断している所が問題だろう。
実際この『橋守』で本当に芭蕉の句を嘲る表現があったかどうかは、筆者自身も読んでないので何とも言えない。ネット上では『橋守』のテキストは見つけられなかった。
何でもこの『橋守』は長いこと完本が見つからず、戦後になってようやく発見されたという。(木村三四吾『俳書の変遷: 西鶴と芭蕉』グーグルブックによる。)
岩波書店の日本古典文学大系66『連歌論集俳論集』の附録の月報46にある「去来の立場」(宮本三郎)に断片的に引用されているものによれば、『橋守』巻三に、「発句の哉とまりにあらざる体」として、
狂句凩の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮
が並べられていて、他にも「俳諧にあらざる体」として、
雲雀より上に休らふ峠かな 芭蕉
郭公またぬ心の折もあり 荷兮
を挙げているという。
他にも、
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
凩に二日の月の吹き散るか 荷兮
に対し、「右の二句、或人の曰三所の難あるよりなり」とあり、「艶なるはたはれやすし」として、
山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
の句を挙げているという。
また、「留りよろしからざる体」として、
霜月や鶴のつくつく並びゐて 荷兮
の句を挙げているという。
これを見る限りだと、芭蕉の句と自分の句を両方並べて、等しく難があることを指摘しているだけで、芭蕉の句をことさら貶めているようには見えない。
狂句凩の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮
この二句の「かな」の用い方は、確かに「似たるなり」「そよぎけり」
でも良いように思える。
切れ字の「かな」は今日の関西弁の「がな」に近いもので、YAHOO!JAPAN知恵袋のベストアンサーによれば、関西弁の「がな」は
「~ではないか」という意味ですが、発言の中に「~やろ、絶対にそうや、そうに決まってる。」という気持ちが入っているのです。
と説明されている。
切れ字の「かな」も完全な断定ではなく、どこか違うかもしれないがやはりそうだというニュアンスが込められている。
木のもとに汁も膾も桜かな 芭蕉
の句にしても、「汁や膾は桜だ」という断定ではなく、汁や膾も桜みたいだ、桜のようだ、という不完全な断定で留めている。
狂句凩の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
の句の場合、「似たる」という言葉が入り、既に「竹斎なり」という断定ではないことが示されているので、ここは「似たるなり」としてもよかった所だ。まあ、細かい所ではあるが、そこが気になるのが荷兮さんなのだろう。
蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮
の句にしても、「残らず」という強い表現に対して「かな」と柔らかく受けているのが気にならなくもない。「風にそよぎけり」でも良かったかなというところだったのだろう。
雲雀より上に休らふ峠かな 芭蕉
の句は「空に休らふ」の形で知られている。いずれにしても、
郭公またぬ心の折もあり 荷兮
の句も同様だが、いわゆる「俳言」がないという点で、連歌発句だと言ってもいいのかもしれない。
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
凩に二日の月の吹き散るか 荷兮
この二句については他人の難があるというだけで、特にどこが悪いということは記されていない。
おそらくは「にて」留めが本来の発句の体ではないということと、「吹き散るか」は「吹き散るかな」の略だが、おそらく同じように発句としてはいかがなものかという声があったのだろう。
山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
の「艶なるはたはれやすし」は「ゆかし(惹きつけられる、魅力がある)」という言い回しのことを言っているのだろう。魅力のあるものにはついつい戯れてみたくなる、という一つの解釈を示したもので、難じたものではないと思う。
霜月や鶴のつくつく並びゐて 荷兮
の句は「辛崎の」の句と同様、「て」留めが発句の体でないということだろう。句としては荷兮の句のほうが先に作られている。
このように、荷兮の論は真面目な議論で、ことさら芭蕉をなじるようなものではなかったように思える。宮本三郎も、
「荷兮が一派の指導のために種々の作風や表現を示したもので、この書が芭蕉に対して積極的に悪意を抱いて成されたものかどうかは必ずしも一概に言えない。」
と記している。
多分、去来が荷兮に物を言いたかったのはこの書のことではなく、それ以前から荷兮が『冬の日』から『阿羅野』までのいわゆる蕉風確立期の風に固執して、『猿蓑』調以降の風に馴染まず、元禄六年に『曠野後集』を出版し、貞門・談林の時代を懐かしんだりしたその頃からの確執があったのであろう。
今の様々な芸術のジャンルで活躍する人でも、生涯作風を変え続ける人は稀で、たいていはひとたび成功を収めると生涯その作風を引きずっている。
昔からのファンは昔ながらの作品を求めているし、無理に新しいことに挑戦したりすれば、昔のファンは離れてゆくかもしれないし、だからといって新しいファンがつくという保証はない。だから、変わらずに同じスタイルを貫いて、ファンとともに年取ってゆく人のほうが多い。
芭蕉の時代でも本当に芭蕉だけが例外で、多くの門人はひとたび成功を収めると、大体はその頃の風を生涯維持する傾向にある。
去来や許六だって、芭蕉があと十年長生きして、惟然や播磨の連衆と新風を巻き起こしていたら、多分離反していただろう。
「遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。」
というのは元禄七年五月二十二日から二十五日までの名古屋滞在のことで、二十四日には、
世は旅に代かく小田の行戻り 芭蕉
を発句とした十吟歌仙興行が行われている。
世は旅に代かく小田の行戻り
水鶏の道にわたすこば板 荷兮
と脇を勤めている。
こうして東海道を行き来していると、同じ所を行ったり来たりしている代かきみたいだ(自分の俳諧もそんなものかもしれない)と、やや自嘲気味の発句に対し、私なんぞは水鶏(芭蕉さん)の道のこば板のような者ですと付ける。
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