2021年9月30日木曜日

 朝は晴れていたが昼頃から曇り、これから台風が来るのだろうか。
 それでは「我もらじ」の巻の続き、挙句まで。

 十三句目。

   行燈はりてかへる浪人
 着物を碪にうてと一つ脱     嵐雪

 「着物」はここでは「きるもの」。
 牢人は腐っても武士で、女房に居丈高に砧打てと命じるが、着物が一着しかない。
 十四句目。

   着物を碪にうてと一つ脱
 明日は髪そる宵の月影      越人

 最後の着物に碪を打って、質屋に持っていくのだろう。目出度く天下不滅の無一文となり、出家を遂げる。
 十五句目。

   明日は髪そる宵の月影
 しら露の群て泣ゐる女客     越人

 露はしばしば涙の比喩となる。月夜に涙をぼろぼろこぼして泣く女客も、明日は出家する。最後の憂き世の月となる。
 十六句目。

   しら露の群て泣ゐる女客
 つれなの医者の後姿や      嵐雪

 女客の連れは御臨終です。
 十七句目。

   つれなの医者の後姿や
 ちる花の日はくるれども長咄   越人

 花は散り日も暮れ、花見は終りだというのに医者は誰かと長々と話し込んでいる。連れない人だ。
 十八句目。

   ちる花の日はくるれども長咄
 よぶこ鳥とは何をいふらん    越人

 呼子鳥は土芳の『三冊子』に、

 「呼子鳥の事、師のいはく、季吟老人に對面の時、御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。貞德の心いかにとたづねられしに、老人のいはく、貞徳も古今傳授の人とは見へず、全句をせざる事也といへるよし、師のはなしあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)」

とある。つまり誰もわからなかったということだ。
 前句の長話は呼子鳥についてあーだこーだと薀蓄を傾けていたか。
 呼子鳥、稲負鳥、百千鳥は古今伝授の三鳥と呼ばれ、古今伝授を受けた人しか知らないと言われていた。呼子鳥は今日ではツツドリ説が有力。稲負鳥(いなおうせどり)は鶺鴒説が有力、百千鳥は鶯説と不特定多数説がある。
 この句は半歌仙としては挙句になるが、あまり挙句らしくない。『芭蕉七部集』の中村注に、

 「この両吟は歌仙であったらしいが、芭蕉の意にかなわないところがあったので一折(半歌仙)だけ掲げ、後半を削除したという。(越人著『猪の早太』。享保十四年稿)」

とある。
 『猪の早太』は『不猫蛇』に続いて支考をディスった書で、『阿羅野』の風を生涯引きずってしまった越人からすれば、芭蕉の若い頃の風を軽視するのが耐えられなかったのだろう。
 支考の風は「軽み」以降の風を芭蕉に倣い、晩年の芭蕉にも不易流行からの脱却という点では大きな影響を与えたと思われるが、芭蕉がそれを明確に体系化しなかった所に死が訪れてしまい、支考の『俳諧十論』やその他の俳論書が晩年の芭蕉の意志に即したものだったかどうか、多くの門人も疑問視していた。
 猪(ゐ)の早太(はやた)の鵺退治のように、ここに支考という魔王討伐に名乗りを上げたというわけだ。
 『続猿蓑』の編纂に支考が係わっていたという所で、越人は、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

を発句とする一巻に対し、

 「猿蓑にもれしいひやう松露ならでもいか程かしかた有べきに、冬季にしたる不都合さ、一向初心の発句なるに、沾圃にもせよ貴房にもせよ、翁の添削あるならば此まま集には入がたしと直さるべき事鏡影たり。万一其座の時宜にしたがひいひ捨の句はありとても、入集の沙汰におよぶべからず。されば翁の叮嚀なる門人の名まで後代に残ることを惜み、先にあら野撰集の時、嵐雪越人両吟の歌仙後の一折翁の心に応ぜざるところありと削捨て、ただ一折をあらはし給へり。是にても得度せられ、貴房の偽作を恥給へ。」

と述べている。
 『続猿蓑』の編纂に芭蕉の最後の旅で伊賀に行ったときに、支考も係わったのは確かだろう。ただ、まだ若い支考にどの程度の影響力があったのかどうかはわからない。
 「猿蓑に」の巻はこの時の伊賀で巻かれたもので、『続猿蓑』がこの時伊賀に残されたまま遺稿となり、後に支考のあずかり知らぬところで刊行されたならば、単に未完の草稿が出版されただけでなかったかと思う。
 支考は『梟日記』の椎田の所で、

 「夜更て朱拙・怒風など名のりて戸をたゝき來る。此人々は黒崎のかたにありて、きゝおひ來れるにぞありける。朱拙のぬし續さるみのを懐にしきたる。さりや此集は先師命終の名殘なりしが、さる事の侍て武洛の間をたゞよひありきて、今こゝに見る事のめづらしうも、かなしうもおもはれて、泪のさと浮たるが、人にかたるべき事にあらずかし。」

と記している。
 とはいえ、芭蕉が実質的に編纂に係わったとされる『阿羅野』『ひさご』『猿蓑』などは、かなり芭蕉による手直しがなされていたことは想像できる。

2021年9月29日水曜日

 今日も朝から晴れ。早淵川でカワセミを見た。
 日本の新しい首相も決まったようだ。菅さんと同じ調整役タイプだが、無派閥の菅さんと比べると宏池会で足もとはしっかりしている。最大派閥の細田派が味方に付いているうちはまずまずだろう。
 女性首相の誕生は先送りになったが、コロナが収まり中国の脅威が最大の課題になって来れば、次の首相の可能性は十分ある。高市さんはマス護美の印象操作で極右みたいに言われているが、かつて新進党に所属していたリベラルで、まあマス護美的には愛国=極右だからな。今回の総裁選でもマス護美に媚びた発言をせず、ぶれない姿勢が高評価を受けた。
 河野さんは左に寄り過ぎ。世論調査だと左翼票が入って高評価になるが、選挙になると左翼は左翼に投票して、自民党には投票しない。岸田さんを選んだのは正しい判断だろう。
 コロナの方だが、ワクチンの方は一回でも接種した人が69.6%、実効再生産数は0.6でしばらくは大丈夫そうだ。

 さて、それでは引き続き『阿羅野』の秋の俳諧で、嵐雪・越人両吟半歌仙、「我もらじ」の巻を読んで行くことにしよう。『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)による。
 発句は、

 我もらじ新酒は人の醒やすき   嵐雪

 この頃の新酒は、寒造りの酒の早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える際に生じる「あらばしり」だったと思われる。
 江戸後期の曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』にはこうある。

 「新酒[本朝食鑑]新酒は、凡(およそ)、新択(しんえり)の新米一斗を用てこれを醸し、須加利(酒を濾布嚢也)に填(つつ)みて舟に入、其酒の水、半滴(なかばしたた)る、復(また)、布嚢に入て圧(おす)ときは、酒おのづから滴り出づ。酒滴り尽て後、汁を取、滓(かす)を去。これを新酒といふ。」

 このあらばしりの頃に新しい緑の杉玉を吊るし、新酒ができたのを知らせるようになるのはもう少し後で、一茶の時代になる。
 あらばしりがあっさりした味でアルコール度数も低いため、嵐雪のような大酒飲みには向かなかったということなのだろう。これには同じ大酒飲みの越人も同意する所だろう。
 脇。

   我もらじ新酒は人の醒やすき
 秋うそ寒しいつも湯嫌      越人

 秋も深まりすっかり寒くなっているが、新酒は飲みたくないし、だからと言ってさ湯も嫌いだ。あるいは熱燗の新酒はさ湯のようなものだということか。
 なら、何を飲むかというと、アルコール度数の高い古酒であろう。
 第三。

   秋うそ寒しいつも湯嫌
 月の宿書を引ちらす中にねて   越人

 前句の「湯嫌」を風呂嫌いとして、風呂に入る間も惜しんで本を読みふける人とする。
 四句目。

   月の宿書を引ちらす中にねて
 外面薬の草わけに行       嵐雪

 外面(そとも)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「背面・外面」の解説」に、

 「〘名〙 (「そ(背)つおも(面)」の変化した語)
  ① 山の、日の当たる方から見て背後に当たる方向。山の北側。また、北の方角。⇔影面(かげとも)。
  ※書紀(720)成務五年九月(北野本南北朝期訓)「山陽(やまのみなみ)を影面(かけとも)と曰(い)ひ山の陰(きた)を背面(ソトモ)と曰(い)ふ」
  ② 背中の方向。後ろの方向。また、家のうら手。転じて、事物のそとがわ。家のそと。
  ※書陵部本恵慶集(985‐987頃)「わがかどのそともにたてるならの葉のしげみにすずむ夏はきにけり」

とある。前句を医者として、夜は本を読み、昼は薬草取りに行く。
 五句目。

   外面薬の草わけに行
 はねあひて牧にまじらぬ里の馬  嵐雪

 馬が跳ねて放牧場へ行くのを拒むので、放牧を断念して草を取りに行く。
 六句目。

   はねあひて牧にまじらぬ里の馬
 川越くれば城下のみち      越人

 「城下」はここでは「しろした」と読む。城下町ではなく山城の麓の方という意味で、里で持て余している暴れ馬を乗りこなした武将がいたのだろう。
 初裏、七句目。

   川越くれば城下のみち
 疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき 越人

 疱瘡(ほうそう)のあばただらけの顔なので嫁に行けず、鉄漿をぬらないので歯は真っ白だ。
 常盤御前の娘に天女姫がいて、美女だったが不幸にして疱瘡で死んだという天女姫伝説が広島の疱瘡神社にあるが、いつ頃どのように成立したのかは定かでない。この伝説が当時知られていたとしたら、そのイメージだったのかもしれない。
 八句目。

   疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき
 唱哥はしらず声ほそりやる    嵐雪

 唱哥はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「唱歌」の解説」に、

 「日本音楽の用語。「声歌」「証歌」とも書く。「そうが」ともいう。 (1) 舞楽中で歌のうたわれる部分。『輪台』『青海波』で行われた。 (2) 楽器の旋律や奏法を口で唱えること,およびその歌。一種のソルミゼーション (各音に名称を与えること) 。笛や篳篥 (ひちりき) の唱歌を記すことによってかな譜が成立。笙や弦楽器の文字奏法譜も声に出して唱えられ,能管,尺八類などにも応用。近世の箏や三味線で,その旋律を擬音的に唱える場合も一種の唱歌であるが,三味線の場合特に口三味線という。 (3) 器楽曲の旋律に詞章をあてはめて歌うこと,およびその歌詞。特に『順次往生講式』で雅楽曲にあてはめたものを「極楽声歌」という。 (4) 歌詞のことを,「歌しょうが」ともいい,特に箏,三味線の音楽でいう。」

とある。楽器の演奏に関連した歌で、謡いや小唄ではなく古い時代の旋律を歌ったようだ。やはり古い時代の天女姫のイメージなのかもしれない。
 九句目。

   唱哥はしらず声ほそりやる
 なみだみるはなればなれのうき雲に 嵐雪

 うき雲はこの場合は、

 春の夜の夢の浮橋とだえして
     峰にわかるる横雲の空
               藤原定家(新古今集)

の「わかるる横雲」のことであろう。巫山之女の故事の、一夜の情交のあと「朝には雲となり、暮れには雨となります」と言って別れたのを、巫山の峰に雲が離れていってしまう情景に作り替えたものだった。前句を巫山之女との別れに場面とする。
 十句目。

   なみだみるはなればなれのうき雲に
 後ぞひよべといふがはりなき   越人

 「後(のち)ぞひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「後添」の解説」に、

 「〘名〙 妻と死別または離別した男が、そのあとで連れ添った妻。二度目の妻。後妻。うわなり。のちぞえ。のちづれ。のちよび。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「なみだみるはなればなれのうき雲に〈嵐雪〉 後ぞひよべといふがはりなき〈越人〉」

とある。前句の泪の別れの後、すぐに後妻を呼べと言うのは一体何様なのか。「はりなき」は「わりなき」で、まあ無茶苦茶だ。
 十一句目。

   後ぞひよべといふがはりなき
 今朝よりも油あげする玉だすき  越人

 「玉だすき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「玉襷」の解説」に、

 「① 「たすき(襷)」の美称。
  ※万葉(8C後)三・三六六「海神(わたつみ)の 手に巻かしたる 珠手次(たまだすき) かけて偲(しの)ひつ 大和島根を」
  ② 仕事の邪魔にならないように、袖(そで)をたくし上げて後ろで結ぶこと。また、たくしあげる紐。
  ※平家(13C前)三「狩衣に玉だすきあげ、小柴垣壌(こぼ)ち大床(おほゆか)の束柱割りなどして、水汲み入れ」
  ③ たすきが交差し絡み合うように、事が掛け違いわずらわしいさまのたとえ。
  ※古今(905‐914)雑体・一〇三七「ことならば思はずとやは言ひはてぬなぞ世中のたまたすきなる」

とある。女房に逃げられて今朝からは自分で油揚げを作る。
 当時は夫が駄目だと妻の実家が呼び戻すことが多く、離婚率も高かった。
 十二句目。

   今朝よりも油あげする玉だすき
 行燈はりてかへる浪人      嵐雪

 牢人というと「傘張」のイメージがあるが、行燈張牢人もいたようだ。

2021年9月28日火曜日

 今日は朝から晴れて、下弦の月が見えた。富士山の上の方に雪が見えた。今年二度目の初冠雪。
 昨日の続きだが、マルクスも労働者が資本家の支配を受けているうちに資本家のやり方を学習し、労働者が高い生産性を持つ方法を理解した時に革命が起きると考えていた。それはすでに現実のものになっている。
 労働者が資本主義の高い生産性を持つ方法を学ぶことで、誰もが資本家に成れるようになる。平社員から社長に出世する者、脱サラして会社を興す者、ひそかに株を買って儲ける者、そうした人たちによって次第に資本家と労働者は固定された階級ではなく流動的なものになる。
 資本主義の高い生産性を維持しつつ、次第に階級も消滅し、市場はグローバルになって国家の役割を奪ってゆく。これがマルクスの予言した世界だったのではなかったか。
 ところが二十世紀の社会主義者は資本主義から何も学ぼうとせず、労働者の本来持っていた成長する能力を奪い続けてきた。資本主義から何も学ばず、資本主義以前の生産性の低い状態に戻してしまえば、飢餓に陥るしかない。
 資本主義の持つ矛盾は資本主義で解決できる。マルクスは「人間は解決可能な問題しか提起しない」と言ったではないか。資本家にできることは労働者にもできる。
 多様性社会という言葉も軽々しく口にする人がいるが、誰も傷つかない社会なんてのは存在しない。多様性を受け入れるというのはそれなりの痛みを伴うもので、多様性社会は傷を分かち合える社会に他ならない。

 それでは「落着に」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目。

   米つく音は師走なりけり
 夕鴉宿の長さに腹のたつ     其角

 夕鴉が鳴きながら塒に飛んで行く頃、やっとのことで宿場に辿り着いた旅人が、事前に手紙を出して置いた宿屋に向かうが、意外に宿場町が大きくて探すのに骨が折れる。辺りからは精米の米搗く音がする。師走の夕暮れの宿は寒い。
 二十六句目。

   夕鴉宿の長さに腹のたつ
 いくつの笠を荷なふ強力     越人

 大きな宿だから大名行列が到着したのだろう。みんなの笠をまとめて保管するのだろう。走り回る強力はたまったもんではない。
 二十七句目。

   いくつの笠を荷なふ強力
 穴いちに塵うちはらひ草枕    越人

 「穴いち」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「穴一」の解説」に、

 「〘名〙 子供の遊びの一種。直径一〇センチメートルくらいの穴を掘り、その前一メートルほどの所に一線を引き、そこに立ってムクロジ、ゼゼガイ、小石、木の実などを投げる。穴に入った方が勝ちとなるが、一つでも入らないのがあったら、他のムクロジ、ゼゼガイなどをぶつけて、当てたほうが勝ちとなる。銭、穴一銭を用いるようになって、大人のばくちに近くなった。後には、地面に一メートル程の間を置いて二線を引き、一線上にゼゼガイなどをいくつか置いて他の一線の外からゼゼガイなど一つを投げて当たったほうを勝ちとする遊びをいうようになった(随筆・守貞漫稿(1837‐53))。あなうち。
  ※俳諧・天満千句(1676)二「高札書て入捨にして〈利方〉 穴一の一文勝負なりとても〈直成〉」

とある。ちょっとボッチャに似ている。この種のゲームはどこの国にもあるのだろう。
 こういうゲームは子供だけでなく、大人もちょっとした何かを賭けたりして遊んでいたのではないかと思う。強力が小さな小屋で寝る場所を賭けて、負けたら草枕だったか。
 二十八句目。

   穴いちに塵うちはらひ草枕
 ひいなかざりて伊勢の八朔    其角

 ウィキペディアに「後の雛」という項目があって、そこに、

 「後の雛(のちのひな)は、8月1日また9月9日に飾られる雛人形、またそれを飾る江戸時代の慣わしである。」

とあり、

 「江戸時代、おそらく貞享、元禄年間に始まるのであろうという。正徳年間のことについて、「滑稽雑談」に、「今また九月九日に賞す児女多し、俳諧これを名付けて後の雛とす」、「入子枕」に、「二季のひゝなまつり、今も京難波には後の雛あるよしなれど、三月の如くなべてもてあつかふにはあらずとなむ、播州室などには八朔に雛を立るとぞ」とある。」
 「戦国時代の1566(永禄9)年1月、室山城主の家に黒田官兵衛の妹ともいわれる姫が嫁いできた夜、対立関係にあった龍野城主・赤松政秀に急襲され、花嫁も奮戦したが討ち死にした。地区では鎮魂のため、3月3日のひなまつりを旧暦8月1日の八朔まで延ばしたとされる。」

とある。
 伊勢の八朔の「後の雛」も有名になったか、宿がいっぱいで、穴一に負けた者が野宿する。
 二十九句目。

   ひいなかざりて伊勢の八朔
 満月に不断桜を眺めばや     其角

 普段桜はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「不断桜」の解説」に、

 「〘名〙 サトザクラの園芸品種。花は白く一重で径三センチメートルぐらい。春秋に長い柄のある花を開き、冬も成葉が残り、花が咲く。三重県鈴鹿市の伊勢白子観音に古くからある。天然記念物。《季・春》
  ※俳諧・曠野(1689)員外「満月に不断桜を詠めばや〈其角〉 念者法師は秋のあきかぜ〈越人〉」

とある。
 前句の伊勢の八朔から、伊勢白子観音の不断桜なら名月の桜を見られるか、見てみたい、とする。満月と桜がなかなかそろわないというのは、この時代の俳諧の一つのテーマでもある。
 三十句目。

   満月に不断桜を眺めばや
 念者法師は秋のあきかぜ     越人

 念者法師はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「念者法師」の解説」に、

 「〘名〙 男色で、稚児(ちご)を愛する兄分の法師。念者ぼん。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「満月に不断桜を詠めばや〈其角〉 念者法師は秋のあきかぜ〈越人〉」

とある。
 越人の認識だと法師はみんな念者で、念者法師は同語反復になる。秋の秋風、頭痛が痛いというようなもの。マルチン・ハイデッガーはLebensphilosophie(生の哲学)を同語反復だと言った。
 二裏、三十一句目。

   念者法師は秋のあきかぜ
 夕まぐれまだうらめしき帋子夜着 越人

 念者法師も恋が原因かどうかはわからないが、寺を追われて旅に出る。秋風の中、火も暮れようとしていて、帋子夜着で夜寒をしのぐ今の境遇が恨めしい。
 後の元禄十一年刊艶士編の『水くらげ』に、

 むかしせし恋の重荷や紙子夜着  其角

の句がある。元のアイデアは越人のこの句ではないかと思う。
 三十二句目。

   夕まぐれまだうらめしき帋子夜着
 弓すすびたる突あげのまど    其角

 「すすびる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「煤びる」の解説」に、

 「① 煤でよごれる。すすける。また、古くなって色あせる。すすぶる。すすぼる。
  ※仮名草子・竹斎(1621‐23)下「羽織はいかにもすすびたる紫紬の襟を差し」
  ② 古くさくなる。古びる。
  ※読本・雨月物語(1776)仏法僧「某が短句(たんく)公(きみ)にも御耳すすびましまさん」

とある。「弓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「弓」の解説」に、

 「⑧ 突き上げ窓の支えの竹。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「夕まぐれまたうらめしき紙子夜着〈越人〉 弓すすびたる突あげのまど〈其角〉」

とある。この句が用例になっている。
 突き上げ窓は明り取りの窓で、茶室の屋根やお城などにも用いられる。
 元禄七年秋の「升買て」の巻八句目の、

   溝川につけをく筌を引てみる
 火のとぼつたる亭のつきあげ   芭蕉

の「つきあげ」は草庵茶室の突き上げ窓になる。
 其角の句だと「弓すすびたる」とあるから、使われなくなって長く放置された草庵茶室に寝泊まりしたということか。
 三十三句目。

   弓すすびたる突あげのまど
 道ばたに乞食の鎮守垣ゆひて   其角

 鎮守はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鎮守」の解説」に、

 「① (━する) 辺境に軍隊を派遣駐屯させ、原地民の反乱などからその地をまもること。特に、奈良・平安時代、鎮守府にあって蝦夷を鎮衛すること。鎮戍(ちんじゅ)。鎮衛。
  ※続日本紀‐天平九年(737)四月戊午「麻呂等帥二所レ余三百五人一鎮二多賀柵一〈略〉国大掾正七位下日下部宿禰大麻呂鎮二牡鹿柵一。自余諸柵依レ旧鎮守」 〔曹丕‐以陳群為鎮軍司馬懿為撫軍将詔〕
  ② 「ちんじゅふ(鎮守府)①」の略。
  ※続日本紀‐天平元年(729)八月癸亥「又陸奥鎮守兵及三関兵士、簡二定三等一」
  ③ 一国・王城・寺院・村落など一定の地域で、地霊をしずめ、その地を守護する神。また、その神社。鎮主。鎮守の神。鎮守神。
  ※本朝世紀‐天慶二年(939)正月一九日「官符三通。皆給二出羽国一。〈略〉一通鎮守正二位勲三等大物忌明神山燃〈有二御占一〉事恠」

とある。今は文部省唱歌の「村祭」の影響からか、ほとんど「村の鎮守様」のイメージで用いられている。近代の国家神道の元に、地域の神社が統廃合されたときに、郷社や村社の呼び名として残ったのではないかと思う。
 道端に乞食が結う垣根は青柴垣であろう。社殿がなくても、瑞垣で囲われた区域は神域になる。昔の神社は御神体が剝き出しで、社殿のないものも多かった。
 前句の古びた突き上げ窓を開けると、道端で乞食が柴垣を作っている。
 三十四句目。

   道ばたに乞食の鎮守垣ゆひて
 ものききわかぬ馬士の䦰とり   越人

 䦰は「くじ」と読む。籤(くじ)のこと。「䦰とり」はくじ引きのこと。
 鎮守から神社、おみくじという連想であろう。棒のたくさん入った箱を振って、穴から一本を取り出し物で、棒には番号が書いてあるだけだから、知らないと何が何だかわからない。
 三十五句目。

   ものききわかぬ馬士の䦰とり
 花の香にあさつき膾みどり也   越人

 「あさつき膾」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浅葱膾」の解説」に、

 「〘名〙 アサツキとアサリのむきみとをゆでて、酢みそであえたもの。春の食べ物で、雛祭(ひなまつり)の膳に供える。《季・春》
  ※評判記・嶋原集(1655)梅之部「あさつきなますが好物にて」
  ※狂文・四方のあか(1787か)下「式正の本膳にあさつき鱠はまぐりもおかし」

とある。公園の整備されてなかった時代の花見は神社仏閣で行われることが多かった。花の下で浅葱膾を食べる人もいれば、横で籤を引く馬士もいる。
 まあ、浅葱の多い浅葱膾で、アサリを拾い出すのはくじ引きに近いかもしれない。
 「みどり」というのは「花は紅柳は緑」という禅語に掛けていると思われる。「柳緑花紅真面目」という蘇東坡の詩の一節が元になっているという。
 挙句。

   花の香にあさつき膾みどり也
 むしろ敷べき喚続の春      越人

 喚続(よびつぎ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「呼接・呼継」の解説」に、

 「〘名〙 =よせつぎ(寄接)〔現代術語辞典(1931)〕」

とあり、「精選版 日本国語大辞典「寄接・寄継」の解説には、

 「〘名〙 接木(つぎき)法の一つ。台木とする立木に生えたままの接穂を寄せ合わせて物に包んでおき、癒合した後に接穂を切断するもの。呼接(よびつぎ)。
  ※俳諧・犬子集(1633)二「式亭にて庭に椿のよせつぎの侍るを題にて よせつぎの枝やれんりの玉椿〈徳元〉」

とある。染井吉野は種で増えないので呼接(よびつぎ)で増やすが、こういう方法は古くから桜を増やすのに用いられていた。
 前句の桜を呼接(よびつぎ)にした桜とし、越人もまた先輩の其角せんの教えを受けることができて、喚続の春ということで一巻は目出度く終わる。

2021年9月27日月曜日

 今日も朝から曇り、荏田劔神社の少し先の方を歩いてきた。早淵川には鵜や青鷺がいた。カルガモはいつもいる。
 日本のヒーローが極力犠牲を出さずに敵を倒すというのは、『鬼滅の刃』でも受け継がれている。敵を倒すことよりもみんなを守ったということを勝利条件としている。
 たとえばスターウォーズ・エピソード9の惑星パサーナの場面などは、アメリカ人は四十二年に一度のお祭りが滅茶苦茶にされていく場面に歓喜の声を上げるんだろうな。そういう所がアメリカ人って嫌われるんだよ。日本のアニメだったら「祭り回」へ持って行くところだろう。
 あそこはファースト・オーダーの襲撃から、まず祭りを守らなくてはいけなかったのではないか。アキ=アキの人々と協力してファースト・オーダーを追払い、平和の戻った祭にレイの年甲斐もなくはしゃぐ姿とか見たかったな。
 多様性というのは異なる価値観を理解することで、価値観が異なれば衝突するのは当然だという前提で考えなくてはならない。相手がいかに高圧的で一方的であろうと、それを一度受け止め、理解したうえで従うか従わないかを決めなくてはならない。『鬼滅の刃』の柱会議はそれを教えてくれる。
 例えて言えばアントニオ・猪木のプロレスのようなものだ、相手の技をずっと受け続け、それに耐え抜いたうえで、最後に延髄切りで勝つ。サッカーで言えば、ディフェンシーブに構えながら敵の攻撃を凌いで、ワンチャンスのカウンターを決めて勝つ。
 敵が何を考えているのか、どのような手を使って来るのか、わからないのに闇雲に抵抗してもそれは無謀というものだ。まずは敵の攻撃を凌ぎながら相手の手の内を探り、見切ったところで反撃に出る。孫子も「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言っている。
 パワハラ上司がいたとしても、それに即座に口答えしたり反論したりするのは賢いやり方ではない。まずはじっと我慢しながら相手の考え方を探り、それが理解できた時点で理不尽と感じたら反撃すればいいし、もっともだと思うなら従えばいい。理解できたときに、その人は間違いなく人間として成長できる。自分の考え方だけでなく、他人の考え方も理解することで、人間としての広がりが生まれる。多様性を認め合う文化はまずそこから始まる。
 これは国家だとか民族とかでも言えるのではないかと思う。日本は太平洋戦争に負けて、米軍がやってきてオキュパイド・ジャパンになった時、山に籠って最後まで抵抗するという選択肢もあっただろうし、アメリカ人相手に自爆テロを繰り返す道もあっただろう。日本はそれをやらずに耐え抜いた。そしてアメリカから学ぶべきものを学び取ったことが、その後の繁栄につながった。
 明治維新の時も攘夷を早々と放棄して、西洋を学ぶ道を選んだ。
 耐えることを知っているのが日本人の強さだと思う。だから、シージンピンも心した方が良い。たとえ日本を占領できたとしても、必ず耐え抜いて見せる。そして三十年後には日本人が中国を支配している。

 それでは「落着に」の巻の続き。

 十三句目。

   やけどなをして見しつらきかな
 酒熟き耳につきたるささめごと  其角

 「ささめごと」は囁きごとのこと。前句の「やけど」を比喩で、恋の火傷(身を焦がす)とする。
 惚れていれば心地よい「ささめごと」も、熱が冷めてしまえば酒臭いだけで不快なものだ。思わず「酒臭い息吹きかけんじゃねーよ」と言いたくなる。
 十四句目。

   酒熟き耳につきたるささめごと
 魚をもつらぬ月の江の舟     越人

 月見の舟ですっかり酔っぱらって出来上がっちゃったのだろう。耳元で繰り言されるのは嫌なものだ。月見の舟も普段は漁に用いてるのだろう。今夜は魚は釣らない。
 十五句目。

   魚をもつらぬ月の江の舟
 そめいろの富士は浅黄に秋の暮  越人

 浅黄(あさぎ)は浅い黄色だが、同音で浅葱(あさぎ)というと薄い藍色になる。
 其角の住む江戸から見ると夕暮れの富士はシルエットになって浅葱の方だが。越人の住む名古屋側からだと夕日が当たって浅黄になる。どっちだろうか。
 「そめいろ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蘇迷盧」の解説」に、

 「(Sumeru の音訳) 仏教の世界説で、世界の中心にそびえ立つという高山。そめいろの山。須彌山(しゅみせん)。
  ※秘蔵記(835頃か)「即蘇迷盧山也。蘇者妙也、迷盧者高也、故曰二妙高山一也」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「そめいろの富士は浅黄に秋のくれ〈越人〉」 〔釈氏要覧‐中〕
  [補注]「染色」の意にかけて用いることが多い。」

とある。補注の通り、ここでも「染色」と掛けている。
 十六句目。

   そめいろの富士は浅黄に秋の暮
 花とさしたる草の一瓶      其角

 この場合の「花」は比喩で、花に見立てた草を花瓶に生けたということ。草は花薄(はなすすき)であろう。
 花薄では正花にはならないが、草を正花に見立てるということで、ぎりぎりで「にせものの花」にする。
 十七句目。

   花とさしたる草の一瓶
 饅頭をうれしさ袖に包みける   其角

 この時代の「を」は「に」だと思って読んだ方が良い場合がある。
 饅頭を貰って袖に入れると、嬉しさを袖に包んでいるかのようだ。前句の草を生けても花(桜)の花瓶だ、という心に繋がりを感じる。
 十八句目。

   饅頭をうれしさ袖に包みける
 うき世につけて死ぬ人は損    越人

 饅頭一つでも人は幸せになれる。死ぬのは損。死んで花実の咲くものか。
 二表、十九句目。

   うき世につけて死ぬ人は損
 西王母東方朔も目には見ず    越人

 西王母東方朔はともに謡曲『東方朔』に登場する。不老不死の桃の実を皇帝に捧げる。

 「抑も是は、仙郷に入つて年を経る、東方朔とは我事なり。ここに崑崙山の仙人西王母といへる者、三千年に一たび花咲き実なる桃を持つ。かの桃実を度度食せしその故に、齢すでに九千歳に及べり。その桃実を君に捧げ申さんとの契約あり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.10075-10086). Yamatouta e books. Kindle 版. )

というお目出度い話だが、残念ながら西王母も東方朔も伝説上の仙人で誰も見たものはない。永遠の命を求めず、生きている間を精いっぱい楽しもう。
 二十句目。

   西王母東方朔も目には見ず
 よしや鸚鵡の舌のみじかき    其角

 まあ要するに不老不死なんて話は嘘だということで、ましてそれを信じさせようと広める人の舌は短すぎて、そんなもんに誰も騙されませんよ、ということ。
 実際には鸚鵡に舌はない。あくまで比喩。
 二十一句目。

   よしや鸚鵡の舌のみじかき
 あぢきなや戸にはさまるる衣の妻 其角

 日本には野生の鸚鵡はいないので(最近は野生化したインコがいるが)、鸚鵡は「籠の鳥」のイメージで良いと思う。
 着物の端が戸に挟まって身動きできないうえ、助けを呼んでいるのに誰も聞いてくれない。
 二十二句目。

   あぢきなや戸にはさまるる衣の妻
 恋の親とも逢ふ夜たのまん    越人

 こっそり夜這いに来たが、着物の端が戸に挟まって身動きが取れなくなった。親でもいいから出てきてくれ。
 二十三句目。

   恋の親とも逢ふ夜たのまん
 ややおもひ寐もしぬられずうち臥て 越人

 「やや」は「やや子」のことであろう。赤ちゃんのこと。
 赤ちゃんのことで悩んで夜も眠れなくなったら、夫の親とも相談したい。
 二十四句目。

   ややおもひ寐もしぬられずうち臥て
 米つく音は師走なりけり     其角

 「米搗く」は精米作業で、臼で搗く。夜中に米搗く音で赤ちゃんが目を覚ます。

2021年9月26日日曜日

 今日も朝から曇りで、きょうは荏田劔神社へ行った。
 昨日はテレビで『鬼滅の刃』無限列車編を見た。機関車はハチロクのデフのないタイプで、青梅鉄道公園のハチロクがモデルらしい。客車はシングルルーフでベンチレーターがないので、あれっと思った。屋根の上での戦闘を意識したオリジナルらしい。

 それではまだ秋も続くので、秋の俳諧、『阿羅野』の其角・越人両吟、「落着に」の巻を読んでみようと思う。これだと一応『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注釈がある。
 まずは発句。

   翁に伴なはれて来る人のめづらしきに
 落着に荷兮の文や天津雁     其角

 落着(おちつき)は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「落着・落付」の解説」に、

 「① 移り動いていたものがとどまること。また、その場所。たどりつく所。行く先。
  ※玉塵抄(1563)二九「下の句をのせぬほどにをちつきしれぬぞ」
  ② 正式の来訪者に最初に出す食事。婚礼のとき、嫁が婚家についてまず食べる軽い食事や吸い物。→落着雑煮(おちつきぞうに)。
  ③ 宿屋、会場などに行き着いてまず飲食すること。また、その飲食物。転じて、茶を飲む時にそえる菓子類。茶うけ。
  ※新撰六帖(1244頃)二「東路やむまやむまやのおちつきに人もすすめぬ君がわりなき〈藤原光俊〉」
  ④ 住居や職などがきまって生活が安定すること。
  ※浮世草子・傾城色三味線(1701)鄙「まさかの時は見捨じとの詞をたのみに落着(オチツキ)慥と安堵して」
  ⑤ 事件などが治まること。物事の解決。落着(らくちゃく)。「社会がおちつきをとりもどす」
  ⑥ 心配、疑問などが消えて心が安まること。また、態度やことばなどがどっしりしていること。物事に動じないように見える様子。
  ※俳諧・発句題叢(1820‐23)秋「落着の見えて餌拾ふ小鳥哉〈鶯笠〉」
  ⑦ 判断や議論などが最後にある点にゆきつくこと。
  ※女工哀史(1925)〈細井和喜蔵〉一六「容易にその説の落ち着きを見ないのであるが」
  ⑧ ゆれ動いたりしていたものがしずまること。特に、相場が激しく変動した後に安定すること。〔新時代用語辞典(1930)〕
  ⑨ 物事のおさまりぐあい。物のすわりぐあい。安定。
  ※浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉三「何処(どこ)か仮衣(かりぎ)をしたやうに、恰当(そぐ)はぬ所が有って、落着(オチツキ)が悪かったらう」
  ⑩ 表現、色合いなど調和がとれて穏やかな様子。「おちつきのある色」

とある。①が元の意味で、後のはその拡張だろう。ここでは元の意味で、たどり着いたところで荷兮の文や、ということで良いのではないかと思う。
 句は「天津雁の落着に荷兮の文や」の倒置で、ここでの客人の越人を天津雁に喩える。
 これに対して越人の脇は、

   落着に荷兮の文や天津雁
 三夜さの月見雲なかりけり    越人

 姨捨山の旅を思い出し、三夜に渡って雲もなく月見ができた、ラッキーな天津雁です、といったところか。
 ところで、芭蕉の『更科紀行』に、

 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人

の句がある。どっちの句が先かという問題にもなる。
 発句が先だということになると、越人は既に詠んだ句を使い回したということになる。さすがにそれはないだろう。となると、この脇の句を芭蕉が見て、発句にしたらと提案したものの、『阿羅野』にこの歌仙が載ったことから公開することもなく、最終的に遺稿となった『更科紀行』に記されているのが発見された、と見た方が良いだろう。
 『更科紀行』が公刊されたのは岩波文庫の『芭蕉紀行文集付嵯峨日記』(中村俊定校注、一九七一)によると岱水編『きその谿』(宝永元年序)だという。真蹟草稿に比べて本文に多少の異同があり、巻末の句数も少ないという。
 真蹟草稿には越人の句は姨捨山の所ではなく、

 あの中に蒔絵書きたし宿の月   芭蕉
 桟やいのちをからむつたかづら  同
 桟やまづおもひいづ駒むかへ   同
 霧晴れて桟はめもふさがれず   越人
 さらしなや三よさの月見雲もなし 同

の順に記されている。『きその谿』の方はまだ見ていない。
 その後の定本となっている宝永六年(一七〇九年)刊乙州編『笈之小文』所収の『更科紀行』では姨捨山と題して、

 俤や姨ひとりなく月の友     芭蕉
 いざよひもまださらしなの郡哉  同
 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人

という並びになっている。真蹟草稿だと「三よさ」は名月までの三夜ということになり、定本だと姨捨山の十五夜、まだ更科の十六夜(いざよい)と来て、その次の十七日も含めて「三よさ」ということになる。これは句の演出上の問題で、越人の句をより効果的に見せようという配慮と思われる。元々この句の「三よさ」がいつのことだったかとは関係ない。
 なお、元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』に「更科姨捨月之辨」という俳文があり、そこには「俤や」の句と「いざよひも」の句のみで、越人の句はない。
 第三。

   三夜さの月見雲なかりけり
 菊萩の庭に畳を引づりて     越人

 旅体から庭の情景に転じる。月を見るためにわざわざ庭に畳を引きずり出すところに取り囃しがある。
 四句目。

   菊萩の庭に畳を引づりて
 飲てわするる茶は水になる    其角

 菊萩に見とれて飲み忘れた茶は、いつの間にか冷めて水のようになっている。
 抹茶ではなくこの頃広まった隠元禅師の唐茶(煮出し茶)であろう。
 五句目。

   飲てわするる茶は水になる
 誰か来て裾にかけたる夏衣    其角

 茶を飲んでいるうちに寝てしまったのだろう。茶は冷めていて、裾には夏衣が掛けてある。
 六句目。

   誰か来て裾にかけたる夏衣
 歯ぎしりにさへあかつきのかね  越人

 酔っ払って寝てしまったのだろう。夏衣を掛けてくれたのは良いが、隣で歯ぎしりする奴は許せない。そうこうしているうちに暁の鐘が鳴って、助かったという気分になる。
 初裏、七句目。

   歯ぎしりにさへあかつきのかね
 恨みたる泪まぶたにとどまりて  越人

 逢っても傷つけあうばかりで、男はさっさと寝て歯ぎしりしていて、眠れずに涙流す夜だったが、暁の鐘を聞いて別れを決意すると涙もまぶたに留まり、流れ落ちることもなくなった。
 八句目。

   恨みたる泪まぶたにとどまりて
 静御前に舞をすすむる      其角

 静御前は頼朝と政子に勧められて鶴岡八幡宮で舞を舞う。義経との仲を引き裂かれた恨みに涙がこぼれそうになるが、それをぐっとこらえて舞い続ける。
 九句目。

   静御前に舞をすすむる
 空蝉の離魂の煩のおそろしさ   其角

 「離魂(かげ)の煩(なやみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「影の煩」の解説」に、

 「熱病の一種。高熱を発した病人の姿が二つに見え、どちらが本体でどちらが影かわからなくなるという。影の病。影。かげやまい。離魂病。
  ※俳諧・西鶴大句数(1677)四「思ひは月の影のわづらひ 此野辺にいかなる風の手つだひて」

とある。辞書では「煩」は「わづらひ」となっている。
 ここでは特に病気が原因でなくてドッペルゲンガーが現れることをいう。言わずと知れた謡曲『二人静』の舞を指す。「空蝉の」は離魂の枕詞。
 十句目。

   空蝉の離魂の煩のおそろしさ
 あとなかりける金二万両     越人

 金二万両を失ったショックで、魂が抜け、離魂の煩になる。
 十一句目。

   あとなかりける金二万両
 いとをしき子を他人とも名付けたり 越人

 金二万両の借金を息子に残したくないので、他人だということにする。
 十二句目。

   いとをしき子を他人とも名付けたり
 やけどなをして見しつらきかな  其角

 火傷の跡の残った女の子は見ていて辛い。別人のように見える。

2021年9月25日土曜日

 今日は朝の散歩で有馬神明神社へ行った。帰り着く頃に小雨が降りだした。
 日本共産党の志位さんから、

 1、資本主義という矛盾に満ちた社会が人類の到達した最後の社会か?
 2、マルクスは21世紀では古くなってしまったか?

という質問を受けたので、答えて進ぜよう。
 (ツイッターで「共産主義はどうも」という、不特定多数の方に向けて発信された質問だということを一応。)

 1、資本主義の矛盾は資本主義に内在するものである限り、資本主義で解決可能です。資本主義は人類の到達した最後の社会と言っていいと思います。
 2、マルクスは古くなっていません。古くなったのはレーニンの帝国主義論です。今の世界はまさにマルクスの予言通りと言って良いと思います。

 以上。
 あと、元禄六年冬の「後風」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 『虚栗』の月の句はまだ残っていた。

 四ッ手舟はぜ買よらん月見川   藤匂

 「四ッ手舟」は四手網で魚を取る船であろう。隅田川でもこの「四ッ手舟」が浮かんでいて、ハゼを取ってたのだろう。それを隅田川で月見をしたついでに買って帰りたい、というものだ。
 同じ『虚栗』の「我や来ぬ」の巻五句目に、

   冶郎打かたふける夕露
 坐月にはぜつる舟の遠恨み    嵐雪

の句も、こちらはハゼ釣りだが、ハゼを取る漁師がいたのだろう。「土-船諷棹」の巻の脇も、

   土-船諷棹月はすめ身ハ濁レとや
 浮生ははぜを放す盞       其角

とある。庶民の間でのハゼ釣りも広がりだした頃だった。
 『虚栗』にはハゼの発句も何句かある。

 栗のから藻の中のハゼかぞへつべし 卜尺

 卜尺は芭蕉の日本橋にいた頃お世話になった小沢さんで、漢字を半分に切ると「卜尺」になる。
 栗の殻は栗のいがで、いがの中に栗の実が並んでいる姿と、藻の中にハゼが並んでいる姿を重ね合した句だ。
 八月十五日の十五夜は芋名月と呼ばれ、九月十三日の十三夜は栗名月と呼ばれている。

 焼栗や居蔡月の雨        幻吁

の句は先の一連の名月の句とは別の所にあり、十三夜の句になる。居蔡は「蔡(カメ)ヲ居(オサムル)」と読む。
 さて、ハゼの句だが、次は、

 傘合羽はぜつり時雨顔なるや   皷角

 ハゼ釣りに行くときには笠を被り合羽を着て、まるで時雨が降って来たみたいだ。

 釣人帰ルあらしをはぜの命哉   露章

 嵐で釣り人が帰るとハゼは命拾いをする。釣り人の方は今日は殺生をしなかった、坊主だ、と言うのだろう。

 はぜの地をいかにおしまん仏の日 露宿

 「仏の日」はこの場合身内の命日とかであろう。殺生を忌むため釣りに行けない。

 こがれきや澪木の枝折はぜ小舟  蒼席

 「澪木(みほぎ)」は澪標(みをつくし)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「澪標」の解説」に、

 「① (後世は「みおづくし」とも。「澪の串」の意) 通行する船に水脈や水深を知らせるために目印として立てる杭。水深の浅い河口港に設けるもの。古来、難波のみおつくしが有名。また、和歌では「身を尽くし」にかけて用いることが多い。みおぎ。みおぐい。みおぼうぎ。みおじるし。みおのしるし。みおぐし。
  ※万葉(8C後)一四・三四二九「遠江(とほつあふみ)いなさ細江の水乎都久思(みヲツクシ)あれを頼めてあさましものを」

とある。
 隅田川にも船の水路を示すための澪標が立ってたのだろう。釣り船もそれを目印にしてハゼのよく釣れる場所を探す。
 澪標は恋の歌によく詠まれ、

 侘びぬれば今はたおなじ難波なる
     身をつくしてもあはんとそ思ふ
              元良親王(後撰集)

は百人一首でも知られている。ここでは上五の「こがれきや」が「漕ぐ」「焦がれる」に掛けて用いられている。
 さて、最後に『虚栗』ではなく、天和二年刊千春編の『武蔵曲』から一句、

 盞ヲ漕ゲ芋を餌にして月サ釣ン  暁雲

 やはり天和調の句で、月に酒(杯)、月に芋(芋名月)そして月に釣りと盛りだくさんな一句だ。これでハゼが釣れれば言うことないが、餌は芋ではないだろう。

2021年9月24日金曜日

 今日も晴れていた。朝の散歩の時は朝の月が見えていた。
 一回以上のワクチン接種者が67.8%になった。日本は今のところワクチン接種の出来ない十二歳未満の人が約千二百万人いる。そのため九十パーセントを越えることはない。六十五歳以上の接種率がようやく九十パーセントを越えたが、半ワクが十パーセントくらいいるとしても、八十パーセントくらいまではいくのではないか。
 アニメの『鬼滅の刃』の続編が始まるというので、テレビではこれまでのアニメが放送され、もうすぐ映画版の方も放映される。
 改めて見直してみると、やはりキャラ設定が本当に細かく良く作られてるなと思う。既存のアニメキャラを踏襲せずに、オリジナルキャラとしてよく作られている。
 一人一人の過去の生い立ちが設定されていて、隊員同士の衝突や斬り合いもその違いから理解できるようになっている。
 単純にどっちが善でどっちが悪だというのではなく、あくまで一人一人の人間としての多様性を理解する必要を教えてくれる。鬼にも鬼の過去があり、鬼の立場に立つことも教えてくれる。
 また、善逸と伊之助は俳諧担当で、絶妙なところでシリアス破壊をしてくれる。これも日本のアニメならではのものだろう。
 あと、「我や来ぬ」の巻「土-船諷棹」の巻と、元禄六年冬の「芹焼や」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 『虚栗』の月の句で、まだ見落としたものがある。

 月ひとり家-婦が情のちぎり哉   杉風

 これは月が一つしかないようにということで、貞節を表す句であろう。

   舟中吟
 月見女舟や木の間を棹ぬらん   杉風

 「棹ぬらん」はルビがなくわかりにくいが、「こぎぬらん」か。
 木の間の舟は、

 明けわたる雄島の松の木の間より
     雲にはなるるあまのつり舟
              藤原家隆(風雅集)

の歌がある。松島の連想を誘うものだったのかもしれない。
 江戸で船で月見をするとなると隅田川だろう。男だけでなく女も月見を楽しみ、その姿は松島を漕ぐ舟に喩えられるということか。これも「罪無くして配所の月を見る」の趣向に含まれるのかもしれない。

 誰ヵ家の思-婦ぞ月に諷ふて粉引は 雪叢

 これは田舎の婦人で、月夜に粉を挽いている。「月を語レ越路の小者木曾の舟 其角」の句同様の、大宮人でも流人でもなく月を語れという流れを受けている。
 月に夫を思う心は、李白の「子夜呉歌」の砧を粉引きに変えたと考えればいい。砧の不易に「粉引き」は俳諧になる。

 やき米を臼ツク里の桂かな    翠紅

 「やき米」はウィキペディアに、

 「焼米とは、新米を籾(もみ)のまま煎(い)ってつき、殻を取り去ったもの。米の食べ方・保存法の一つ。 そのままスナック菓子として食べても良いし、汁物に浮かべて粥にして食べるという雑多な利用法があった。米粒状・粉状と形態も様々である。」

とある。収穫して精米せずにすぐに食べられる。「臼ツク」は殻を取り去る作業であろう。
 桂は「月の桂」で月を表す。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「月の桂」の解説」に、

 「古代中国の伝説で、月の中にはえているという高さが五〇〇丈(約一五〇〇メートル)の桂の木。月の中の桂。月桂(げっけい)。転じて、月、月の光などをいう。《季・秋》
  ※是貞親王歌合(893)「久方のつきのかつらも秋はなほ紅葉すればや照りまさるらむ」 〔酉陽雑俎‐巻一・天咫〕
  [語誌](1)日本においては早く「懐風藻」に「金漢星楡冷、銀河月桂秋」〔山田三方「七夕」〕、「玉俎風蘋薦。金罍月桂浮」〔藤原万里「仲秋釈奠」〕などとあり、前者は「月の中にあるという桂の木」、後者は「月影(光)」の意である。
  (2)「万葉集」にも「目には見て手には取らえぬ月内之楓(つきのうちのかつら)のごとき妹をいかにせむ」(六三二)などの用例が見られ、好んで取入れられたことがうかがわれる。
  (3)挙例の「是貞親王歌合」について「毘沙門堂本古今集註」では、「久方の月の桂と云者、左伝の註に曰、月は月天子の宮也。此宮の庭に有二七本桂木一、此の木春夏は葉繁して、月光薄く、秋冬は紅増故に月光まさると云也」と解説する。」

とある。
 これも宮廷や流人や「罪なき流人」の月の風雅が田舎の名もなき人々に拡大された例といえよう。

 芋付て衰鞭月もやせつらん    云笑

 衰鞭(すいべん)は鞭の衰えだが里芋の葉茎を喩えてものか。
 お月見には里芋を供えたので芋は掘り起こされ、十五夜過ぎれば月も次第に痩せて行く。やはり田舎の月というテーマになる。

 三ヶ月や朝㒵の夕べつぼむらん  芭蕉

 この句は一連の月の句の頭に置かれている。朝に丸く咲く朝顔もやがて萎れて行き、その凋んで細くなった頃、三日月が現れる。
 その三ヶ月もやがて満月になるように、朝顔は翌日別の花をつける。共に満ち欠けを繰り返すもの、というところで、月と朝顔を取り合わせている。

 昼の月ぬるさ尋ん三輪の森    東順

 三輪の森は奈良の三輪山、大神神社の森であろう。
 「ぬるさ」は「ぬるし」の名詞化で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「温」の解説」に、

 「① ひどく熱くはなく、少し温かいさま。なま温かい。
  ※万葉(8C後)一六・三八七五「出づる水 奴流久(ヌルク)は出でず」
  ※歌舞伎・成田山分身不動(1703)一「大団扇提げ来り、さんざんに焚き立つる。中より、ぬるいわぬるいわと云へば肝を消し」
  ② 速度が遅いさま。ゆるやかだ。のろい。まだるい。
  ※書紀(720)神代上(兼方本訓)「上瀬(かみつせ)は是れ太(はなは)だ疾し。下瀬(しもつせ)は是太だ弱(ヌルシ)」
  ※源氏(1001‐14頃)若菜下「風ぬるくこそありけれとて、御扇おき給ひて」
  ③ 機敏でないさま。きびきびしていない。間が抜けている。おっとりしている。
  ※源氏(1001‐14頃)若菜下「心の、いとぬるきぞくやしきや」
  ※浄瑠璃・小野道風青柳硯(1754)四「ヱヱ温(ヌル)い頬付(つらつき)」
  ④ ひかえめであるさま。不熱心だ。冷淡だ。
  ※源氏(1001‐14頃)若菜上「世のおぼえの程よりは、うちうちの御心ざしぬるきやうにはありけれ」
  ※こんてむつすむん地(1610)二「人ぬるくなりはじむるときは、わづかのしんらうをもおそれ」
  ⑤ 物足りないさま。軟弱だ。頼りない。
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「さる人、念仏まうしはいかうぬるいといわれた」
  ※浮世草子・西鶴織留(1694)三「殊更楊弓、官女の業なり。いかにしても大男の慰み事にはぬるし」

とある。昼の月は確かに⑤の感じがする。昼の月の「ぬるさ」に三輪の樒閼伽水のぬるさを掛けて三輪の森で結んだか。三輪の樒閼伽水は謡曲『三輪』に登場する。

 月に親く天帝の壻に成たしな   才丸

 『竹取物語』のかぐや姫の話は言わずと知れたもので、かぐや姫を嫁にできないなら、一緒に月について行って天帝の婿養子になりたい、というものだ。
 正岡子規は『飯待つ間』の「句合の月」の中で、

 「判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐というのだから、先ず空想を斥けて、なるべく写実にやろうと考えた。」

と書いている。後者は、

 岩鼻やここにもひとり月の客   去来

の句だというのはすぐに分かったが、前者の「かぐや姫とつれだって月宮に昇る」はこの才丸の句だったか。

 さらしなの月は四角にもなかりけり 友吉

 更科の姨捨山の月は後に芭蕉も見に行くことになるが、特別な月だからと言って月が四角くなるわけではない。どこで見ても月はいいものだ、というわけだ。
 ところで、姨捨山の田毎の月は田に水が張ってある状態、つまり秋ではなく晩秋から初夏の田植前の月で、田毎に丸い月が映るということは光学的にありえない。そのため、月で明るくなった空が、千枚田のすべてに映る、その様をいうのだという。それだと、四角い田んぼの光る様は四角い月と言えるかもしれない。
 芭蕉は中秋の名月の時に行ったから、田毎の月は見ていない。その代わり芭蕉には、

 わが宿は四角な影を窓の月    芭蕉

という貞亨元年の句がある。これは窓から差し込む月の光が、部屋を四角く明るく照らしている、という意味。

2021年9月23日木曜日

 きのうの十六夜もよく見えた。今日も晴れているが暑い。いきなり残暑が来た。
 そういえば昨日の夜は風呂場にカマドウマ(いとど)が現れた。
 今日は十七夜、立待ち月。まだ昇らない。
 今の時代、人間の共感能力が衰えているかというと、決してそんなことはない。大体人間の本性なんてのはそんな変わらないものだ。
 では変わったのは何かと言うと、圧倒的な情報過多だ。情報が多くなっても、共感能力は今まで通りだ。世界中のたくさんの人々の不幸な情報があり、日々の沢山の事件の報道がある。でも人間の共感能力は昔の小さな村で暮らしてた頃から変化していない。そこで広く浅い共感が広まることになる。
 小さな村での出来事なら、当事者のこともよく知っているし、事件にどういう背景があって、村の人たちの誰がどのように反応し、誰がどのように言い立てていて、何がややこしくしているかまで、事細かに推測する余裕がある。
 これが世界中のこととなると、とてもそういう細やかな処理はできず、大雑把な観念だけで処理する。それぞれの短絡的な善悪だの、正義だの、主義主張だのの押し売りになって、収拾がつかなくなる。
 情報過多の時代で大事なのは、いかに情報をカットするかだ。どんな事件にもすべて反応するなんてのは人間の能力を超えている。たとえ冷たいと言われても、知らないものは知らない、無視するものは無視する、それが大事だ。
 あと、元禄六年夏の「其富士や」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 その元禄六年夏の「其富士や」の巻の二十句目に、

   鵜の眠る出崎の春の静さよ
 罪なくて見む知らぬひの果    素堂

の句があったが、この「罪なくて見む」は「罪無くして配所の月を見る」という言葉から来ていて、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「(「古事談‐一」などによると、源中納言顕基(あきもと)がいったといわれることば) 罪を得て遠くわびしい土地に流されるのではなくて、罪のない身でそうした閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをするということ。わびしさの中にも風流な趣(おもむき)のあること。物のあわれに対する一つの理想を表明したことばであるが、無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれるとの意に誤って用いられている場合もある。
  ※平家(13C前)三「もとよりつみなくして配所の月をみむといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとどあへて事共し給はず」

とある。
 天和三年刊其角編の『虚栗』にも、

 何配所ここも罪なき閨の月    玄斊

の句がある。斊は斉の異字体で読みは「げんせい」であろう。
 月見は宮中などの宴として広まり、元は月そのものを鑑賞するというよりも月が明るいので、みんなで夜を楽しもうというものだった。
 月の明るさよりも月そのものに関心を剥けるようになったのは、配流の先で宮中の月見の宴を思い出して、悲嘆をくれるという所から、配流でなくても『源氏物語』のように政争の難を避けて須磨に隠棲して月を見る、という所へ展開されていった。
 都を離れて、月を静かに見るというのが一つの風流として確立されていったのは、この流れをさらに一歩進める所にあった。
 源顕基はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「源顕基」の解説」に、

 「1000-1047 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
長保2年生まれ。源俊賢(としかた)の長男。藤原頼通(よりみち)の養子。後一条天皇にあつく遇され,従三位,権(ごんの)中納言にすすむ。天皇の死により,長元9年(1036)二君につかえずとして出家。風流貴公子とつたえられ,説話がおおい。永承2年9月3日死去。48歳。法名は円照。」

とある。紫式部の一回り下の世代になる。
 同じ『虚栗』に、

   謫居
 象潟の月や流人のたすけ舟    琢菴

の句がある。これは実際には流人ではないけど、流人の立場にたってという題詠だが、こういう趣向もやはり「罪なくして配所の月を見る」ということにもなるのだろう。
 遠い陸奥の象潟の月に思いを馳せて、あの月は流人も慰められるのだろうな、と詠む。

 月に飢て旅人古郷の尋ヲ腹    皷角

の句は流人の気持ちになるのではなく、純粋に風流のこころから月に飢えて月を求めて旅をする心を詠む。「腹」には「アヂハフ」とルビがふってある。

 月を語レ越路の小者木曾の舟   其角

 越路の小者は

 影さえててらすこし地の山人は
     月にや秋をわすれはつらん
              藤原定家(拾遺愚草)

であろうか。木曽の月は、

 木賊刈る園原山の木の間より
     磨かれ出づる秋の夜の月
              源仲正(夫木抄)

の歌がある。いずれも大宮人でも流人でもなく月を語れということに、俳諧の月の趣向は広がることになる。

 たらひ迄日比の月ノ寐衣哉    四友

 「日比のたらひ迄月ノ寐衣哉」の倒置になる。
 寐衣は「ネマキ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寝巻・寝間着」の解説」に、

 「〘名〙 夜、寝るときに着る衣服。寝衣(しんい)。〔運歩色葉(1548)〕
  ※咄本・私可多咄(1671)一「ふだんのねまきはうらおもてなしに、両めんよしと也」

とある。夜着とはまた違うものだったようだ。元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目に、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

の句があり、この次の句を去来が付けかねていた時、芭蕉が「能上臈の旅なるべし」とアドバイスし、

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

ができたことが『去来抄』に記されている。上臈のイメージがあったのかもしれない。「めづらしや」の巻二十二句目にも、

   此雪に先あたれとや釜揚て
 寝まきながらのけはひ美し    芭蕉

の句がある。
 盥で夜に洗濯していると、盥に月が写り、日頃の盥に月の寝巻があるかのようだという句になる。

 牛吼て山路が鼾月高し      柳興

 これは牧童であろう。牛は声を上げ、牧童は山路で高鼾をかいている。「山路」は「サンロ」とルビがある。

 富士の月戎には見せじ遠眼鏡   疎言

 戎は「エゾ」とルビがある。当時シャクシャインの乱など多少噂くらいはあったかもしれないが、それほど日本人の関心を引くものでもなく、ここでいうエゾも古典に登場するエゾのイメージを出なかったのではないかと思う。
 遠いところに住んでいるから、遠眼鏡(望遠鏡)があれば富士が見えるのではないか、というネタになる。一応富士山が見える北限と言われているのは福島県の阿武隈高地にある花塚山(918メートル)だという。
 「えぞには見せじ」のフレーズは、

 胡沙吹かばくもりもぞするみちのくの
     えぞには見せじ秋の夜の月
              西行法師(夫木抄)

から来ている。胡沙はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「こさ」の解説」に、

 「〘名〙 (husa 「息吹」が、古く取り入れられたもの) 蝦夷(えぞ)の人が息をはくこと。また、それによって生じるという深い霧。蝦夷は口から気を吹いて霧を生ずる術を持ち、危険を感じるとそれで身を隠すと信じられたことから出たことば。
  ※夫木(1310頃)一三「こさ吹かば曇りもぞする道のくれ人には見せじ秋のよの月〈西行〉」
  [補注]挙例の「夫木抄」の歌は、「北岡本夫木抄」では、「こさふかばくもりもやせん道のくのえぞには見せじ秋のよの月」となっており、作者についても異説が多い。」

とある。その一方で「精選版 日本国語大辞典「胡沙」の解説」には、

 「〘名〙 中国、塞外(さいがい)の胡国(ここく)の砂漠。また、その砂塵。
  ※真愚稿(1422頃か)月下奏琵琶「胡沙草緑明妃塚。猶有二孤魂一帰二漢家一」 〔王維‐送劉司直赴安西詩〕

とある。これだと黄砂のことではないかと思われる。地球の気候は常に変化しているから、古い時代には陸奥や北海道特有の現象だったのかもしれない。
 こさというと、

 芋くへば尻にこさふく今宵哉   三峯

の句があるが、これはシモネタ。
 芋と言えば、

 芋を抱て酒に身なげんけふの淵  桐橋

はなかなか豪快な酒飲みの句だ。

 故寺月なし狼宿をおくりける   北鯤

 山奥の廃寺には月に狼の声がする。これも天和期ならではの趣向だ。近代的な感じがする。

2021年9月22日水曜日

 今日は朝から曇り。昼間小雨が降ったが夕方は晴れた。
 真っ暗になってからいざよいの月が出た。月の出る所に雲があったのか、赤く光って「月白」ではなかった。
 暇だから、何で社会主義者が資本主義を倒せないか教えてやろうか。
 資本主義というのは厳密に言えば「主義」ではない。要するに思想もなければ理想もないし「義」もない。ただ、経済の効率を追求する試行錯誤の繰り返しであり、むしろ科学に近い。
 だから、社会主義者が現在の資本主義よりも効率の良い経済のアイデアを思い付いたとしても、資本主義は革命を待たずに即座にそれを実行する。地球環境や格差の問題が資本主義にとって危険だと気づいた時点で、必ず資本主義はそれを回避するように動く。そこには守るべき「思想」がないからだ。
 以上の理由で資本主義に勝とうと考えることは無謀だ。日本共産党もいい加減にもう気付いているんじゃないかな。ただ、彼らが変われないのは「過去の恨み」だ。戦前の弾圧、戦後のレッド・パージのなかで生き抜いてきた人たちが、その恨みでもって今の党を結束させている。
 だから、暴力革命の可能性を綱領にあえて記さないことで存続させているのは、彼らにとってはレッド・パージに屈しなかった証なんで、暴力革命の放棄を綱領に盛り込むことは、日本共産党のこれまでの戦いを終わらせることになる。
 今になって思うのは、資本主義こそが本当の永久革命なのではないかということだ。変えるべきものは革命を待たずに今変えるべきだ。

 それでは「土-船諷棹」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目。

   羇行のなみだ下-官哥よむ
 げに杜子美湯-治山-中一夜ノ雨  楓興

 杜子美は杜甫のこと。子美は字。杜甫は安禄山の乱で成都に逃れた。「茅屋為秋風所破歌」という草堂が雨漏りすることを詠んだ詩があり、これが天和二年刊千春編の『武蔵曲』所収の、

   茅舎ノ感
 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   芭蕉

の句にもつながっている。
 杜甫が成都の温泉でのんびりと休もうと思ったら、あの詩に詠まれた一夜の雨になってしまった、とするところに俳諧がある。
 成都に温泉があるかどうかは知らないが、時折洪水のニュースは聞く。
 二十六句目。

   げに杜子美湯-治山-中一夜ノ雨
 肴なき爐に三線ヲ煮ル      其角

 山中の侘しげな宿に酒の魚もなく、三味線の胴の皮を煮るということか。
 今は三線というと沖縄や奄美の楽器を指すが、元は同じ楽器で、江戸時代は三味線も三線と言っていた。延宝六年の「さぞな都」の巻の八十九句目にも、

   我等が為の守武菩提
 音楽の小弓三線あいの山     信徳

の句があり、貞享元年の「はつ雪の」の巻二十二句目にも、

   篠ふか梢は柿の蔕さびし
 三線からん不破のせき人     重五

の句がある。
 二十七句目。

   肴なき爐に三線ヲ煮ル
 朽坊に化物がたり申すなり    柳興

 「化物がたり」は怪談のことで、わざわざ幽霊の出そうな朽ちた坊に集まって、百物語などをしていたのだろう。前句をその怪談の一節としたか。
 二十八句目。

   朽坊に化物がたり申すなり
 夫をためす獨リ野の月      長吁

 お化け屋敷なんかできゃっと抱き付いて反応を見るのは昔も一緒だったのだろう。案外女の方が冷静で男の反応を見ている。ここで女を置いて逃げて行くような男だとちょっと困る。
 二十九句目。

   夫をためす獨リ野の月
 穂に出て業平かくす薄-陰     其角

 謡曲『井筒』であろう。

 「地名ばかりは、在原寺の跡旧りて、在原寺の跡旧りて、松も老いたる塚の草、これこそそれよ亡き跡の、一村薄の穂に出づるはいつの名残なるらん。草茫茫として露深深と古塚の、まことなるかな古の、跡なつかしき気色かな跡なつかしき気色かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.21931-21940). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 紀の有常の女(むすめ)が業平が河内高安の郡の娘の所に通うのを知って、その心を試そうとして、

 風吹けば沖つしら浪たつた山
     よはにや君がひとりこゆらむ

と詠んだことを思い起こす。
 三十句目

   穂に出て業平かくす薄-陰
 夕べを契る蜻蛉の木偶      楓興

 蜻蛉は「かげろう」、木偶は「でく」と読む。ともにルビがある。
 木像となった業平にトンボが契る。
 二裏、三十一句目。

   夕べを契る蜻蛉の木偶
 進めする錦木供養立から     長吁

 どう読めばいいのか。「すすめする、にしきぎくやう、たてるから」だろうか。
 前句の木像に錦木を立てて供養するということか。
 三十二句目。

   進めする錦木供養立から
 地蔵に粧ふ霜の白粉       柳興

 「粧ふ」は「けはふ」。お地蔵さんが霜のおしろいで化粧しているかのようだ。前句の錦木供養をお地蔵さんに捧げる。
 三十三句目。

   地蔵に粧ふ霜の白粉
 三七日は乱壊の相を啼ク烏    其角

 三七日(みなぬか)は死後二十一日目。乱壊(らんゑ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「爛壊」の解説」に、

 「〘名〙 肉がただれくずれること。らんかい。
  ※今昔(1120頃か)一「其の身、乱壊して、太虫、目・口・鼻より出入る」 〔謝恵連‐祭古冢文〕」

とある。死後二十一日たった死体が腐っているとカラスが鳴いている。お地蔵さんの所に埋められたのだろう。
 三十四句目。

   三七日は乱壊の相を啼ク烏
 食腥く出る野のはら       楓興

 「腥く」は「なまぐさく」とルビがある。「食」は「めし」であろう。
 カラスの声に飯も生臭く感じられ、カラスの鳴く野原を出る。
 三十五句目。

   食腥く出る野のはら
 旧悪の都は花の色苦し      柳興

 旧悪はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「旧悪」の解説」に、

 「① 以前に行なった悪事。きゅうお。「旧悪が露顕する」
  ※続日本紀‐天平宝字八年(764)一〇月己卯「朕念黎庶洗二滌旧悪一、遷二善新美一」 〔論語‐公冶長〕
  ② 江戸時代、逆罪の者そのほか特定の重罪を除き、いったん罪を犯しても、その後再犯がなく、ほかの犯罪にかかわり合いがなければ、犯罪後一二か月経過すれば、これに対する刑罰権が消滅したこと。また、この制度を適用する犯罪。〔禁令考‐別巻・棠蔭秘鑑・亨・一八・延享元年(1744)〕」

とある。①は今の「前科」に近い。②は執行猶予みたいなものか。
 まあ、前科者の身の上で、都の花盛りを喜ぶこともできない。
 挙句。

   旧悪の都は花の色苦し
 毛虫は峰のねぐら争う      長吁

 桜が葉桜になれば、毛虫が湧いて出て来る。峰の山桜も毛虫の生存競争の場所となる。
 人間の世界もそれと同じで、過酷な生存競争の中で、いつしか前科者になってしまった我が身を思い、とかくこの世は棲みにくい、嫌な渡世だと嘆いて一巻は終わる。

2021年9月21日火曜日

 今日は旧暦八月十五日。中秋の名月。昔の人はこの明るい月の夜を無駄にしまいと遊んで過ごした。
 昼は晴れていたが、夕方になって羊雲の大群が空を覆ってゆく。でもつい今しがた、細い雲に分断されながらも、月が登るのが見えた。
 最近「親ガチャ」という言葉を聞くが、映画「タイタニック」の「人生は贈り物だって分かったんだ。だからそれを無駄にするようなことはしないさ。」という名言を思い出した。
 人生は日々是毎日がガチャなんだと思う。次にどんなガチャを引くかは誰も知ることはできない。だから毎日を大切に。

 それでは「土-船諷棹」の巻の続き。

 十三句目。

   うきを盛の酒-中-花の時
 発句彫ル櫻は枝を痛むらん    其角

 桜の気に発句を掘りつけるとは、本人は風流気取りでも、桜を痛めるなんてのは無風流の極み。まあ酔っ払って羽目を外してのことなのだろう。
 其角と言うと、屏風に「此所小便無用」なんてしょうもない揮毫をした書家に、「花の下」と付け加えて発句の形にして救ったというエピソードがある。
 十四句目。

   発句彫ル櫻は枝を痛むらん
 かへり見霞む落城の月      楓興

 桜に彫った発句は敗軍の将の辞世の句だったか。
 十五句目。

   かへり見霞む落城の月
 笠軽く鞋に壹分をはきしめて   長吁

 落城の際、金一分くすねて逃げてきた足軽であろう。
 十六句目。

   笠軽く鞋に壹分をはきしめて
 関もる所佐渡の中山       柳興

 前句の金一分に佐渡の金山の連想で、東海道の名所「小夜の中山」を「佐渡の中山」とする。命なりけり(生きていてよかった)佐渡の中山。
 十七句目。

   関もる所佐渡の中山
 柴荷ふ妙の僕となりにけり    楓興

 「僕」は「ヤツコ」とルビがある。
 大友黒主であろう。黒主は『古今集』仮名序で「おほとものくろぬしは、そのさま、いやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」と評されたが、謡曲『志賀』では、

 「不思議やなこれなる山賤を見れば、重かるべき薪になほ花の枝を折り添へ、休む所も花の蔭なり。これは心ありて休むか。ただ薪の重さに休み候か。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.2708-2712). Yamatouta e books. Kindle 版. )

というように、逢坂の関を舞台にして薪を負い花の陰に休む姿が描かれる。
 江戸時代らしく「山賤」を「やっこ」に変える。
 十八句目。

   柴荷ふ妙の僕となりにけり
 老母ヲ牛にのせて吟ふ      其角

 本来なら牛に柴を乗せて運ぶところを、老母を牛に乗せ、柴は水から背負う。「吟」は「サマヨ」とルビがふってある。
 孝行話のようだが、出典があるのかどうかはよくわからない。
 二表、十九句目。

   老母ヲ牛にのせて吟ふ
 うき雲の聟をたづねて問嵐    柳興

 聟は老母と一緒に行雲流水に旅に出てしまった。残された妻はどこへ行ったのか嵐に問う。
 二十句目。

   うき雲の聟をたづねて問嵐
 乞食の筋をいのる野社      長吁

 浮雲の聟は乞食坊主になっているのではないかと、その方面をあたって廻り、野の社に祈る。
 二十一句目。

   乞食の筋をいのる野社
 水へだつ傾-里は垣のひとへにて  其角

 傾-里は河原乞食の住む部落のことか。川の向こう側に一重の垣がある。前句の野社を部落の神社とする。
 二十二句目。

   水へだつ傾-里は垣のひとへにて
 心を伽羅に染ぬゆふがほ     楓興

 傾-里を傾城の類語として、下級遊女の里としたか。心の中では伽羅の香を薫き込んでいる。『源氏物語』の市井の夕顔の俤を添える。
 二十三句目。

   心を伽羅に染ぬゆふがほ
 つれづれの蛍を髭にすだくらん  長吁

 夕顔は巻き髭で草木や棹に絡みつく。心を伽羅に染めた夕顔はたまたまやって来る蛍を巻き髭で捕らえようとしているのだろうか。それじゃ食虫植物になってしまうが。
 二十四句目。

   つれづれの蛍を髭にすだくらん
 羇行のなみだ下-官哥よむ     柳興

 羇行は羇旅と同じでいいのだろう。前句を女性関係で左遷になったとしての旅立ちであろう。下官が餞別の歌を詠む。

2021年9月20日月曜日

 今日は朝から雲一つないいい天気で、今日も散歩に出た。雪のない富士山がはっきりと見えた。長沢諏訪社へ行ったら明治十四年の江戸狛犬があった。
 夜も晴れてほぼ満月。

 それでは次は同じ『虚栗』から「土-船諷棹(つちふねさををうたふ)」の巻を読んでいこうと思う。
 これも『普及版俳書大系3 蕉門俳諧前集上巻』(一九二八、春秋社)からで、注釈無し、ノーヒントで読んでみることにする。
 発句は、

 土-船諷棹月はすめ身ハ濁レとや  楓興

という、いかにも天和調という感じの破調の句だ。
 「土-船」は漢文調に「とせん」とでも読んだ方が良いのか。普通に「つちぶね」で良いのか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「土船・土舟」の解説」に、

 「① 土を運送する船の総称。江戸時代の大坂には極印をうけた古土船・新土船・在土船の三種が合計六六艘あり、山土を積んで大坂市中の銅細工や鍋・釜の鋳物師などへ売った。船の長さ三二・五尺(約九・八五メートル)、幅五・七尺(約一・七三メートル)、一人乗りの小型の川船。土取り船。
  ※俳諧・虚栗(1683)下「土船諷レ棹を月はすめ身は濁れとや〈楓興〉 浮生ははぜを放す盞〈其角〉」
  ② 土で作った船。日本の昔話「かちかち山」に出てくる船。どろ船。
  ※滑稽本・古朽木(1780)五「かちかち山の因縁を顕し、水桶の内の苦みは土舟の報を見せたり」

とあり、ここでは「つちぶね」になっている。
 諷棹は返り点と送り仮名がふってあって「棹(さを)ヲ諷(うた)フ」になる。上五が五文字字余りで十七五になる。長さとしては、

 艪の声波ヲ打って腸凍る夜や涙  芭蕉

と同じ長さになる。
 工事に用いる土砂を運ぶ船の棹の音が唄っているかのようで、月は澄め、我身は濁れと唄っているかのようだ。
 まあ、土船は土砂で汚れることで世間の役に立っているのだから、汚れは我が引き受けよう、月は澄んでくれ、となる。
 脇。

   土-船諷棹月はすめ身ハ濁レとや
 浮生ははぜを放す盞       其角

 浮生(ふせい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浮生・浮世」の解説」に、

 「〘名〙 はかない人生。定まりない人の世。はかないこの世。ふしょう。
  ※菅家文草(900頃)三・宿舟中「客中重旅客、生分竟浮生」 〔阮籍‐大人先生伝〕」

とある。
 はかない人生の後生のことを思うと、殺生をやめ、釣ったハゼも放して酒を飲もう、と澄む月を真如の月として応じる。
 第三。

   浮生ははぜを放す盞
 興そげて西瓜に着スル烏-角巾   柳興

 烏-角巾は隠者が着用する黒いスカーフだと、ネット上の中国の辞書にある。(古代葛制黑色有折角的头巾,常为隐士所戴)。
 中国の隠士を気取って烏角巾を被っていたが、飽きたので西瓜を包むのに使っている、ということか。前句を隠士の心としての付けになる。
 四句目。

   興そげて西瓜に着スル烏-角巾
 萩すり團風みだるらん      長吁

 團にルビはないが「うちわ」であろう。萩の花で摺染(すりぞめ)にした団扇は、何となく日本の隠士気取りが使いそうだということだろう。
 五句目。

   萩すり團風みだるらん
 蓬生のうづらは蚊帳の中に鳴   其角

 蓬生(よもぎう)は蓬の茂る荒れ果てた家だが、『源氏物語』の蓬生巻だと明石から帰った源氏の君が訪れた末摘花の家を指す。

 「かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる。 葎は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞ、めざましき。」

というような状態なら、鶉がいてもおかしくはない。
 ただ、蚊帳の中というから、本当に鶉が蚊帳の中に入って来たのではなく、鶉衣、つまり継ぎ接ぎだらけのぼろを着て泣いている女がいて、萩摺団扇の風も乱れる、と付くと見た方が良い。
 六句目。

   蓬生のうづらは蚊帳の中に鳴
 鼬のたたく門ほそめ也      楓興

 蚊帳に鳥の鶉がいる、という寓話のような世界にして、鼬が門を叩く。
 初裏、七句目。

   鼬のたたく門ほそめ也
 ぬす人を矢に待嵐窓ヲ射る    長吁

 鼬のたたく門をかつて富貴を極めた者の屋敷の廃墟とし、昔だったら盗人が来たら矢を射かけようと待ち構えていた窓も、いまは鼬が門を叩き、嵐の風が吹き抜けて行く。
 八句目。

   ぬす人を矢に待嵐窓ヲ射る
 下女が鏡にしらぬ俤       柳興

 盗人に矢を射ようと窓の所で待っていると、下女の鏡に見知らぬ俤が映る。敵は鏡の向こうからやって来る怪異だった。
 九句目。

   下女が鏡にしらぬ俤
 泪とも直衣のつまを切ル襡    楓興

 襡は「フクサ」とルビがふってある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「袱紗・服紗・帛紗」の解説」に、

 「① 糊(のり)を引いてない絹。やわらかい絹。略儀の衣服などに用いた。また、単に、絹。ふくさぎぬ。
  ※枕(10C終)二八二「狩衣は、香染の薄き。白き。ふくさ。赤色。松の葉色」
  ② 絹や縮緬(ちりめん)などで作り、紋様を染めつけたり縫いつけたりし、裏地に無地の絹布を用いた正方形の絹の布。贈物を覆い、または、その上に掛けて用いる。掛袱紗。袱紗物。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)七「太夫なぐさみに金を拾はせて、御目に懸ると服紗(フクサ)をあけて一歩山をうつして有しを」
  ③ 茶道で、茶器をぬぐったり、茶碗を受けたり、茶入・香合などを拝見したりする際、下に敷いたりする正方形の絹の布。茶袱紗、使い袱紗、出袱紗、小袱紗などがある。袱紗物。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)上「紫のふくさに茶わんのせ」
  ④ 本式でないものをいう語。
  ※洒落本・粋町甲閨(1779か)「『どうだ仙台浄瑠璃は』『ありゃアふくさサ』」

とある。この場合は②であろう。
 直衣(のうし)は王朝時代の貴族の普段着。
 前句を死んだ男の俤とし、涙ながらに遺品の直衣を切って袱紗にする。遺骨を包むのに用いるのか。
 十句目

   泪とも直衣のつまを切ル襡
 むかし雨夜の文枕とく      其角

 文枕(ふみまくら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「文枕」の解説」に、

 「① 文がらを芯に入れて作った枕。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)跋「月にはきかしても余所には漏ぬむかしの文枕とかいやり捨られし中に」
  ② 夢に見ようとして枕の下に恋文などを入れておくこと。また、そのふみ。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「あはでうかりし文枕して〈卜尺〉 むば玉の夢は在所の伝となり〈雪柴〉」
  ③ 枕元において見る草子類。」

とある。
 『源氏物語』帚木巻の雨夜の品定めに入る前に、文を沢山見つけて勝手に読もうとする場面がある。ここでは①の枕を分解して、出てきた文を勝手に読んだ過去を思い出し、涙ながらに直衣を袱紗にする、と付ける。
 十一句目

   むかし雨夜の文枕とく
 名をかへて縁が丫鬟長シク    柳興

 「縁」には「ユカリ」、「丫鬟長」には「カブロオトナ」とルビがふってある。ちなみに「丫鬟(あくわん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「丫鬟」の解説」に、

 「〘名〙 (「丫」はあげまきの意)
  ① あげまきに結んだ髪。〔李商隠‐柳枝詩序〕
  ② 転じて、頭をあげまきにした幼女。また、年少の侍女、腰元、婢。
  ※通俗酔菩提全伝(1759)一「孩児を丫鬟(アクハン)(〈注〉コシモト)に抱(いだかせ)て」

とある。ここでは遊郭の禿(かむろ、かぶろ)とする。
 遊女の位が上がって名前を変えた、その披露の場面か。その縁者(妹か娘か)の禿もおとなしく従う。
 十二句目

   名をかへて縁が丫鬟長シク
 うきを盛の酒-中-花の時     長吁

 「酒中花(しゅちゅうくわ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「酒中花」の解説」に、

 「〘名〙 酒席に興を添えるため、山吹の茎のずいなどで花鳥などを作り、おしちぢめておき、酒などの中に浮かべるとふくれて開くようにしたもの。《季・夏》
  ※俳諧・桜川(1674)冬「酒中花は風をちらして冬もなし〈顕成〉」

とある。
 「うきを盛(もる)」は「酒に浮かべて盛る」と「憂き」を掛ける。
 前句の「名をかへて」を何らかの悪い方の意味での改名とする。

2021年9月19日日曜日

 今日は朝はまだ雨が残っていたが、すぐに台風一過のいい天気になり、雲を見ながらの散歩になった。
 帯状雲が細く小さくなってゆき、切れ切れになった羊雲とも巻雲ともつかぬ乱れた細い綿屑のような雲が現れて奇麗だった。
 夕方には八月の十三夜の月が登った。このまま名月まで晴れていてくれればいいんだが。
 それにしてもオーストラリアの潜水艦問題、こんなことで中国に付け入られることにならなければいいが。日本も原潜があった方が良いのかな。綺麗ごとばかり言っている総裁候補は消えてほしいが、どのみち首相になったとしても一年で消えると思う。日本に女性の首相が誕生する日も近いかもしれない。アメリカの女性大統領とどっちが先か。
 あと、「篠の露」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「我や来ぬ」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目。

   はだへは酒に凋む水仙
 簑を焼てみぞれくむ君哀しれ   其角

 「簑を焼て」は「身を焼て」との掛詞であろう。また、前句の「酒」に「くむ」が受けてにはになる。
 わずかな雨露を防ぐ場所で簑を焼いて暖を取り、霙でのどを潤すのは、過酷な荒行に励む僧であろうか。そこまでして思いを断とうと恋に身を焼いているのは悲しいことだ。肌の色も衰えている。
 二十六句目。

   簑を焼てみぞれくむ君哀しれ
 身は孤舟女房定めぬ       嵐雪

 前句の修行僧は生涯孤独で、女房と取ることはなかった。
 二十七句目。

   身は孤舟女房定めぬ
 萱金かくしうへけん背に     其角

 萱は「ワスレ」、背は「キタノネヤ」とルビがふってある。
 女房に裏切られたか。離縁した後、北の閨は空き部屋になり、そこに萱草(わすれぐさ)が植えておこう。そして、もう二度と恋なんてしないんだ。
 「金」の文字はよくわからない。
 二十八句目。

   萱金かくしうへけん背に
 松虫またず住あれの宮      嵐雪

 この場合の宮は王朝時代の皇族の住処で、北の方(妻)だけが取り残され、屋敷が荒れ果てている様とする。もはや誰を待つでもなく松虫だけが鳴く。
 二十九句目。

   松虫またず住あれの宮
 露は袖衣桁に蔦のかかる迄    其角

 「衣桁」は「いかう」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「衣桁」の解説」に、

 「〘名〙 衣服をかけておく台。鳥居のような形の、ついたて式のものと、真中から二枚に折れる折り畳み式とがある。衣架(いか)。御衣(みぞ)かけ。ころもざお。いこ。〔文明本節用集(室町中)〕
 ※評判記・色道大鏡(1678)三「次の間には絵莚(ゑむしろ)をしき、衣桁(イカウ)にゆかた、下帯をかけて相まつ」

とある。
 これは『伊勢物語』四段の、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身一つはもとの身にして
              在原業平

であろう。
 荒れ果てた家を見て袖に露(涙)し、その袖を掛けるべき衣桁には蔦が絡まっている。
 三十句目。

   露は袖衣桁に蔦のかかる迄
 慕-姫月にふらんとすらん     嵐雪

 かぐや姫であろう。前句の「袖」を「ふらん」で受け、月に帰った姫君に向かって、空き家となったかつての住まいで袖を振る。
 二裏、三十一句目。

   慕-姫月にふらんとすらん
 若衆と私あかしのほととぎす   嵐雪

 「私」は「サゝメ」とルビがふってある。内緒話を意味する「ささめごと」は「私語」という文字を当てるから、ここでは密かに夜を明かす、という意味であろう。
 前句を慕う姫をふってしまおう、という意味にして、若衆と密かに逢引し、明け方の時鳥の声を聴く、とする。
 三十二句目。

   若衆と私あかしのほととぎす
 つれなき枕蚊帳越ヲ切ル     其角

 朝まで語り明かしたものの、蚊帳の中に入ってきてくれず、枕を拒み続けたので、蚊帳越しに別れを告げる(切る)。

 三十三句目。

   つれなき枕蚊帳越ヲ切ル
 紅の脚布哲姿むごかりし     嵐雪

 脚布は「きゃふ」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「脚布」の解説」に、

 「① 腰に巻く布。きゃっぷ。
  ※庭訓往来(1394‐1428頃)「手巾。布衫。鉢盂巾。脚布。筋匙」
  ② とくに、女性の腰巻。ゆもじ。ゆぐ。したおび。きゃっぷ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浮世草子・好色一代男(1682)二「掉竹(さほたけ)のわたし、とびざやの布(キャフ)、糠ぶくろ懸て有しはくせものなり」

とある。
 哲には「ミシロキ」とルビがあり、「身白き」であろう。
 女性が赤い腰巻一つで白い肌をさらすのは裸と同じで、恥ずかしい姿だった。
 そんな恥ずかしい姿の女性を蚊帳にも入れようとしないのはむごたらしい。
 三十四句目。

   紅の脚布哲姿むごかりし
 五十の内侍恥しらぬかも     嵐雪

 前句を五十になる内侍が迫ってきたとする。『源氏物語』の典侍(ないしのすけ)の俤か。
 三十五句目。

   五十の内侍恥しらぬかも
 花の宴に御密夫の聞えあり    其角

 密夫には「マヲトコ」とルビがある。花の宴の時に間男してたという噂がある。真偽のほどは定かでない。
 挙句。

   花の宴に御密夫の聞えあり
 やぶ入ル空の雨を懶ク      其角

 「懶ク」は「ものうく」。
 前句を薮入りで帰省した時の噂話とする。人の噂もともかくとして、自分の恋で今は手一杯。帰省しても物憂い日を過ごす。
 前句だけでなく一巻全部が藪入りの時の噂話だということで締めくくった、とも取れる。

2021年9月18日土曜日

 今日は台風の通過で朝から土砂降りの雨。散歩も今日は無し。
 自民党の総裁選も宴たけなわだが、一人を除き基本的にマスコミに媚びる姿勢が目立つ。相変わらず選挙に大きな影響力があると信じているから、マスコミ受けすることを言えば次の衆議院選挙で勝てる、選挙に勝ちたい議員が自分を支持しているという腹なのだろう。
 マスコミ受けする人間は同時にマスコミにめっぽう弱い。首相になってもマスコミからあれこれ追及されるとすぐ辞めてしまうものだ。今までそうして毎年のように首相が変わってきた。第二次安倍政権が唯一の例外だった。
 あと、元禄六年夏の「風流の(誠)」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「我や来ぬ」の巻の続き。

 十三句目。

   敵にほれて籠のかひま見
 いはで思ふ陸の怒と聞えしは   嵐雪

 「陸」は「ミチ」、「怒」は「イカル」とルビがある。
 「いはで思ふ」は、

 おもへどもいはでの山に年を経て
     朽ちや果てなん谷の埋もれ木
              藤原顕輔(千載和歌集)

だろうか。そうなると「陸(みち)」は陸奥(みちのく)に掛けて用いられ、恋に破れて陸奥に朽ち果てたと思っていたけど、実はその相手はかたき討ちの相手でもあったと、前句を敵を追う旅に転じたことになる。
 十四句目。

   いはで思ふ陸の怒と聞えしは
 色このむ京に初萩の奏      其角

 陸奥の旅に出たと思っていたが、京へ帰ってきていて初萩の歌を奏でていた。
 「奏(そう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奏」の解説」に、

 「そう【奏】
  〘名〙
  ① 天皇に申し上げること。また、その公文書。太政官から申し上げて勅裁を仰ぐには、事の大小により、論奏式・奏事式・便奏式の三種があり、その書式は公式令に規定されていた。また、のちには個人から奉るものもあった。
  ※令義解(718)公式「奉レ勑依レ奏。若更有二勑語一須レ付者、各随レ状付云々」
  ※落窪(10C後)四「早うさるべき様にそうを奉らせよ」 〔蔡邕‐独断〕
  ② 音楽をかなでること。」

とある。
 能因法師の『古今著聞集』の実は旅に出てなかったという噂での付けか。
 十五句目。

   色このむ京に初萩の奏
 野分とふ朝な朝なの文くばり   嵐雪

 京の王朝時代の色好みであろう。野分見舞いを口実に、片っ端から女に文を遣わす。

   野分のしたりけるに、
   いかがなどおとづれたりける人の、
   その後また音もせざりければつかはしける
 荒かりし風ののちより絶えするは
     蜘蛛手にすがく絲にやあるらん
              相模(古今集)

のように、その後音沙汰なかったりする。
 十六句目。

   野分とふ朝な朝なの文くばり
 家々の月見あねに琴借ル     其角

 朝に手紙が来て、夕べの月見に通って来るかと、あわてて琴を借りに行く。
 十七句目。

   家々の月見あねに琴借ル
 ねたしとて花によせ来る小袖武者 嵐雪

 花見の席で女の気を引きたいきらびやかな小袖を着た武士が、他の者に負けじと姉の琴を借りてくる。
 十八句目。

   ねたしとて花によせ来る小袖武者
 美-山ン笑ひ茶簱の風流      其角

 茶簱(ちゃき)は茶旗(ちゃばた)のことであろう。茶席の外に掲げる。
 花の季節で「山笑う」と展開するが、恋の言葉が入らないので、強引に「美-山ン笑ひ」と美人の笑いに凝らしたか。
 二表、十九句目。

   美-山ン笑ひ茶簱の風流
 鸚鵡能帰りをほむる辻霞     其角

 鸚鵡というと謡曲『鸚鵡小町』か。百歳になる老いた小町を気遣った陽成院が

 雲の上は在りし昔に変はらねど
     見し玉簾の内やゆかしき

という歌を行家にもたせ、小町の所に使いに出すと、小町が、

 雲の上は在りし昔に変はらねど
     見し玉簾の内ぞゆかしき

と答える話で、最後に行家が帰って行く場面を「辻霞」が暗示させる。
 二十句目。

   鸚鵡能帰りをほむる辻霞
 叶はぬ恋をいのる清水      嵐雪

 この場合の「清水」は「きよみず」で清水寺のことであろう。叶わぬ恋が叶うように、清水寺で祈りを捧げる。
 清水から帰ると鸚鵡が帰りを褒める。
 二十一句目。

   叶はぬ恋をいのる清水
 山城の吉彌むすびに松もこそ   其角

 「吉彌むすび」は「きちやむすび」でコトバンクの「世界大百科事典内の上村吉弥の言及」に、

 「…しかし,寛永(1624‐44)ころから,遊女たちはすでに5寸ほどの広幅の帯を用いていたようである。寛永~延宝(1624‐81)のころから,この広幅の帯は一般にも流行し始め,とくに当時人気のあった歌舞伎役者の上村吉弥(1660‐80年ころ京で活躍した女形)が舞台に広幅帯を結んで出たことがきっかけとなって,広幅,尺長(しやくなが)の帯が広く用いられるようになったといわれている。結び方も,この吉弥のそれをまねて,帯の両端に鉛の鎮(しず)を入れ,結びあまりがだらりと垂れるようにしたのを〈吉弥結び〉といい,非常な流行をみたと伝えられている。…」

とある。
 清水寺で叶わぬ恋を祈る女は、当世京で流行していた広幅帯を吉弥結びにしていた。
 松を「待つ」に掛けるのはお約束。
 二十二句目。

   山城の吉彌むすびに松もこそ
 菱川やうの吾妻俤        嵐雪

 菱川は菱川師宣で浮世絵の祖とも呼ばれている。江戸後期の一般的に言われる浮世絵はのような、一枚の独立した作品ではなく、草紙本などの挿絵画家で、やがて挿絵と本文とどっちがメインだかわからないくらい、絵の方が評価されていった。
 木版だけでなく肉筆の風俗画も描いていて、「見返り美人図」はその代表作だ。
 こうした菱川師宣の美人画を「吾妻俤」と言ったというが、世間で既にそう呼ばれていたなら、この句の手柄はあるまい。「菱川やうの吾妻俤」が嵐雪がそう呼んだところから広まったのなら、手柄と言えよう。
 二十三句目。

   菱川やうの吾妻俤
 狂哥堂古き枕をおかれける    其角

 狂歌堂はよくわからないが、『卜養狂歌集』の半井卜養か。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「半井卜養」の解説」に、

 「没年:延宝6.12.26(1679.2.7)
  生年:慶長12(1607)
 江戸時代の狂歌作者,俳人。本姓は和気氏。医者の傍ら文事を好んだ。若くして俳諧,狂歌に遊び,京都で松永貞徳らと一座した。27歳のころには,すでに堺俳壇の第一人者であった。寛永13(1636)年前後より,しばしば江戸に住して,斎藤徳元,石田未得らと交わり,江戸俳壇の草分けとなり,貞門の五俳哲のひとりに称された。慶安1(1648)年に姫路城主松平忠次の家医となる。寛永17年仮名草子『和薬物語』を著す。承応2(1653)年将軍に見参を許され,鉄砲洲に居宅を賜った。このころより狂歌活動が盛んになり,朽木稙綱,酒井忠能ら諸大名と贈答を行った。その狂歌は『卜養狂歌集』にみられるように措辞,格調よりも即興性に妙がある。(園田豊)」

とある。まあ、其角の世代からすれば貞門的な古臭い狂歌だったのだろう。
 せっかくの菱川師宣の挿絵も、本文が狂哥堂では、というところか。
 二十四句目。

   狂哥堂古き枕をおかれける
 はだへは酒に凋む水仙      嵐雪

 古い枕を置く老いた女の肌は、酒にやつれて、まるで凋んだ水仙のようだ。

2021年9月17日金曜日

 今日は生田緑地のちょっと手前のとんもり谷戸まで行った。天気は曇り。この時期は野菜の無人販売がやってない。
 あと、元禄六年春の「蒟蒻に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 俳諧の方はちょっと気分を変えて、其角撰『虚栗』から、「我や来ぬ」の巻を読んでみようと思う。季節的には七夕で、一月前に戻るが。
 宗因独吟に「花で候」の巻という恋百韻があったが、これは嵐雪・其角両吟による恋歌仙になる。
 『普及版俳書大系3 蕉門俳諧前集上巻』(一九二八、春秋社)を元にする。注釈がないのでノーヒントで読むことになる。
 発句は、

   梶の葉に
    小うたかくとて
 我や来ぬひと夜よし原天川    嵐雪

 前書きの「梶の葉」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「梶の葉」の解説」に、

 「① カジノキの葉。古く、七夕祭のとき、七枚の梶の葉に詩歌などを書いて供え、芸能の向上や恋の思いが遂げられることなどを祈る風習があった。梶の七葉。《季・秋》
  ※後拾遺(1086)秋上・二四二「天の河とわたる舟のかぢのはに思ふことをも書きつくるかな〈上総乳母〉」

とある。
 ここでは梶の葉に詩歌ではなく小唄を書き付けると前書きして、実際には発句を記す。
 小唄は江戸時代を通じて様々なものが流行していたが、本格的な謡(うたい)に対して、軽く口ずさめるような歌を一般的に皆「こうた」と呼んでいたのであろう。俳諧の発句も節をつけて吟じたり唄ったりすれば、小唄の一種だったのではなかったかと思う。
 一般的に日本の小唄は節は同じで、定型の歌詞を即興で自由に作って歌うようなものが多かったのだろう。江戸末期から近代にかけて流行した都都逸も、七・七・七・五の歌詞を自由に創作して唄っていた。
 「我や来ぬ」は「きぬ」でやって来たということ。俺が吉原に来れば、その夜の遊女はみんな織姫のように待ちわびている。まあ、あくまで小唄だから、真に受けないように。
 脇。

   我や来ぬひと夜よし原天川
 名とりの衣のおもて見よ葛    其角

 「名とり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「名取」の解説」に、

 「① その名が多くの人に知られること。評判が高いこと。有名であること。名高いこと。また、その人。なうて。名代(なだい)。
  ※虎明本狂言・神鳴(室町末‐近世初)「まかりくだって、上手の名どりをいたさうずると存」
  ② 音曲・舞踊などを習う人が、師匠・家元から、芸名を許されること。また、その人。
  ※人情本・春色辰巳園(1833‐35)四「何所の宅か知らねども、杵や何某(なにがし)が名取(ナトリ)の妙音、彼の古き唱哥、紅葉狩」

とあり、時代的にどっちかという所だが、ここは①の方で、発句を詠んだ嵐雪を「いよっ、名取」とよいしょするものと見た方が良いだろう。
 葛の葉は秋風に吹かれて裏を見せるのを「恨み」に掛けて用いるのを本意とする。ここでは「おもて」、つまりその伊達な衣を見ろ、ということになる。
 第三。

   名とりの衣のおもて見よ葛
 顔しらぬ契は草のしのぶにて   其角

 「顔しらぬ契」は夜這いのことであろう。暗くて顔もよくわからない。
 当然男はこっそり通ってくるから、草の上を人目を忍ぶようにやって来る。それをシダの仲間の「しのぶ草」に掛ける。
 前句に付くと、顔はわからないが、衣の表はよく見ろ、となる。
 四句目。

   顔しらぬ契は草のしのぶにて
 冶郎打かたふける夕露      嵐雪

 「冶郎」は「やらう」で、ここは遊冶郎(いうやらう)のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「遊冶郎」の解説」に、

 「〘名〙 酒色におぼれ道楽にふける男。放蕩者。遊び人。道楽者。
  ※文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉三「又去年の謹直生は今年の遊冶郎に変じて其謹直の跡をも見ずと雖ども」 〔李白‐采蓮曲〕」

とある。
 遊冶郎が「打かたぶける」といえば盃に決まっている。夕露は酒のことで、前句の草に露が付く。
 五句目。

   冶郎打かたふける夕露
 坐月にはぜつる舟の遠恨み    嵐雪

 「坐」は「ソゞロ」とルビがある。ハゼ釣りは後に江戸っ子の間で大ブームになるが、この頃はまだその走りの頃で、ここでは漁師の舟であろう。月夜には月見舟になって酒を飲みながら、隅田川から吉原の方を眺めながめて恨み言を言う。
 同じ『虚栗』に、

 はぜつるや水村山郭酒旗風    嵐雪

の句がある。

   江南春望   杜牧
 千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中

 千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
 水辺の村山村の壁酒の旗に風
 南朝には四百八十の寺
 沢山の楼台をけぶらせる雨

の詩句をそのままサンプリングしている。
 六句目。

   坐月にはぜつる舟の遠恨み
 河そひ泪檜木つむ聲       其角

 檜には「クレ」とルビがふってある。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「榑木」の解説」に、

 「丸太を四つ割にして心材を取り去った扇形の材。古くは長さ1丈2尺(363センチメートル)、幅6寸(18.2センチメートル)、厚さ4寸(12センチメートル)を定尺として壁の心材に使用されたが、近世に入ってからは、屋根板材として全国で用いられるようになった。素材と規格は採出山によって同一ではないが、主として搬出不便な中部地方、とくに信濃(しなの)伊那(いな)地方で年貢のかわりに生産されるようになってからは、しだいに短くなり、樹種もサワラが多くなった。[浅井潤子]」

とある。
 「そひ泪」は男女の寄り添って泣く泪のことであろう。「川沿い」と掛詞になり、涙にくれるから「クレ木」を導き出す。吉原の側からハゼ釣る舟を見ながら、ここを渡って逃げ出したいと舟を遠恨みする。
 初裏、七句目。

   河そひ泪檜木つむ聲
 寐を独リ乞食うき巣をゆられけん 嵐雪

 河原には乞食が一人住んでいて、そこに駆け落ちの男女の涙声を聴くと、心も揺り動かされる。
 八句目。

   寐を独リ乞食うき巣をゆられけん
 しきみ一把を恋の捨草      其角

 樒(しきみ)は仏花で葬儀に用いられる。延宝九年刊『俳諧次韻』の「春澄にとへ」の巻九十一句目に、

   寺〻の納豆の声。あした冴ュ
 よすがなき樒花売の老を泣ㇰ   揚水

の句がある。古くは、

 しきみつむ山ぢの露にぬれにけり
     暁おきの墨染の袖
              小侍従(新古今集)

の歌もある。前句を恋人を失い出家した乞食坊主として亡き人を弔う。
 九句目。

   しきみ一把を恋の捨草
 人待や人うれふるや赤椿     嵐雪

 赤椿は藪椿ともいう。卑賤な薮にも目立つ花のような女は樒を抱えて、人を待っているのか、人を憂いているのか。男に惚れられるというのも、男次第では嬉しくもあれば苦しくもある。
 十句目。

   人待や人うれふるや赤椿
 蝶女うかれて虵口さめけり    其角

 これはよくわからない。蝶女は遊女のことか。虵口は蛇の口だが、欲深く何でも丸呑みする、というイメージがある。
 そわそわしている田舎臭さの抜けない遊女に、いかにも軽い先輩はどんな男が来るのかすっかり浮き立って、狡猾な先輩は興味なさそうにしている。
 十一句目。

   蝶女うかれて虵口さめけり
 こちこちと閨啄鳥の匂よけに   嵐雪

 「啄鳥」は「ツツキドリ」、「匂」は「ニホ」とルビがふってある。「匂よけに」は「匂良げに」か。
 前句を女は浮かれていたが男は冷めたとして、その原因を閨をつつくキツツキのような音とともに、何か良い匂いがしたからとする。
 あるいは「閨啄鳥」は人の閨を邪魔して回る奴とか、そういう意味があったか。
 十二句目。

   こちこちと閨啄鳥の匂よけに
 敵にほれて籠のかひま見     其角

 前句を通ってきた恋敵とする。女は今しがた到着した駕籠を垣間見る。ひょっとしてNTR?

2021年9月16日木曜日

 今日は朝から晴れた。ご近所散歩の方は一万歩を越えた。夕方には昨日より少し膨らんだ月が見える。
 日本共産党はあれがデマだというなら、速やかに党の綱領の中に「暴力革命は未来永劫これを行わない。」と明記すべきだと思う。曖昧さが残る限り、同じことを何度も蒸し返されることになる。
 「デマだ」と言うだけだと、暴力革命が綱領に記されているというのがデマだというだけで、綱領には記されてないが暴力革命を肯定しているという疑惑を残すことになる。選挙前にこの疑惑を晴らすべく、あらゆる形で暴力革命を放棄していることを宣伝してもいいのではないかと思う。今のままだと圧力をかけたという悪いイメージが広がることになる。
 いずれにせよ、「暴力革命は未来永劫これを行わない。」とたったそれだけのことを言うだけで、問題はすべて片付く。なぜそれをしないのかが不思議だ。
 あと、「いざよひは」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「重々と」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目

   都鳥まで見る江戸の舟
 三つ輪ぐむ老の姿も志賀之助   桃青

 「三つ輪ぐむ」は広辞苑無料検索に「⇒みずはぐむ(瑞歯)」とある。「みずはぐむ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「瑞歯ぐむ」の解説」に、

 「〘自マ四〙 (「みずわく(ぐ)む」「みつわく(ぐ)む」とも) (老人に「瑞歯②」がはえる意か) きわめて年をとる。はなはだしく年老いる。
  ※大和(947‐957頃)一二六「むばたまのわが黒髪はしらかはのみつはくむまでなりにけるかな」
  [補注]語義については、「瑞歯(みづは)ぐむ」のほか、歯が上下三本だけ抜け残る「三歯組む」とする説、足腰の三重に折れかがまる形容「三輪(みつわ)組む」とする説、関節のがたがたになる形容「支離(みつわくむ)」とする説、また、「大和物語」の檜垣嫗の歌が「水は汲む」の意だけであったのが老人のさまをいうと誤解されて、さまざまの語源説が付会されたとする説などがあり、表記についても「みつはくむ」「みつわくむ」のふたつが入りまじっている。」

とある。
 志賀之助はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「明石志賀之助」の解説」に、

 「架空の初代横綱。江戸中期に刊行された『関東遊侠(ゆうきょう)伝』に出てくる寛永(かんえい)年間(1624~1644)の力士で、実在性を裏づける史料はない。のちに行司の伝書に記され、身長251センチメートルの巨人、宇都宮出身とされる。1895年(明治28)、第12代横綱陣幕(じんまく)久五郎が歴代横綱の系譜を作成し、明石を初代に据え、横綱力士碑を富岡八幡(はちまん)宮(東京都江東区)に建立した。講談でも江戸勧進(かんじん)相撲の開祖とうたい、ついに昭和になって黙認された。[池田雅雄]」

とある。実在かどうかについて、ウィキペディアには、

 「明石によって最初に行われたとされる相撲に関する出来事や慣習も、全て後代の伝承や講談によるもので信憑性がかなり低く、さらには信頼できる資料では明石の実在すら確認されたことが無い。ただし、明石志賀之助のものとされる手形が遺されているほか、「上山三家見聞日記」にて1661年(寛文元年)に山形藩主の前で相撲を取った記録が記されていることなどから、実在説も根強い。」

とある。「上山三家見聞日記」は二〇一六年の産経新聞の記事によるもので、この記事では、

 「松尾芭蕉の弟子、宝井其角(きかく)の「志賀之助男盛りの春立て」という句や、元禄12(1699)年の還暦引退相撲などから、寛永年間ではなく、寛文年間に横綱になったと推測している。「この時代、還暦まで取った力士もいるが、寛永説では現役が約70年になり、やはり寛文が正しいだろう」

とある。桃青のこの句が本物なら、志賀之助の実在を証明するものになるのだが。
 其角の句は元禄十年刊其角編の『末若葉』に、

   行露公あたみへたゝせ給ふに餞の句奉るへき
   よし承りて観遊の御駕籠にみそなはし侍る
 脇息にあの花折れと山路かな   其角
   あたみより御湯のよしにて
 吟味仕つめた馬士は鶯      行露
 志賀之介男盛の春立て       角

とある。
 餞別として贈った「脇息に」の発句に、行露が熱海で脇を付けて贈ってきたので、それに第三を付けた句だったようだ。『続五元集』には、元禄九年の所に脇と第三だけがある。
 脇息は脇に置いてもたれかかるための台で、発句は、熱海へ行ったら脇息にそこに咲いている桜の花を折って飾って、ゆっくり休むといい、というような意味だろう。花を折って自分の脇息に持ってこいという意味にも取れる。
 それに対して行露は、其角さんのためにどの枝を折ろうかとさんざん吟味し詰めた馬士(自分は其角さんの馬士のようなもの、という意味か)の役は、鶯に任せます、ということか。まあ、ゆっくり休んでます、という意味になる。
 第三は発句の心を去って、鶯の鳴く季候に馬士を相撲取り志賀之介のお付の者として展開する。ただ、志賀之介を乗せる馬って、重くて大変だろうな。そりゃ馬は選ばなくてはならない。
 前に、延宝七年秋の「見渡せば」の巻四十八句目の、

   腰の骨いたくもあるる里の月
 又なげられし丸山の色      似春

を読んだとき、丸山仁太夫という寛文から延宝の頃に活躍した力士がいたが、ここでは前句が里相撲で、また投げられて腰の骨を痛めてるのだから、似せ物の自称丸山何某であろうと解釈した。
 俳諧はドキュメントではなく、あくまで噂話のネタにすぎないから、其角の第三も単に有名な相撲取りの代名詞として志賀之介の名を出しただけではないかと思う。
 半ば伝説と化した志賀之介がいる一方で、志賀之介を名乗る偽物もたくさんいたのではないかと思う。昔は今みたいに相撲が全国中継されてたわけではないから、だれがどんな相撲を取っているかなんて、ほとんどの人は噂でしか知らなかったと思う。
 二十六句目。

   三つ輪ぐむ老の姿も志賀之助
 またけまたけと戸を叩く風呂   立圃

 年寄りだから風呂桶が跨げないので、「跨がせろ」と人を呼んでいるということか。
 二十七句目。

   またけまたけと戸を叩く風呂
 布袋とは弥勒𦬇の化身也     桃青

 𦬇は「ぼさつ」と読む。布袋はウィキペディアに、

 「「景徳傳燈録」によると布袋は死の間際に

 彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)
 時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)
   —布袋和尚、景徳傳燈録

という名文を残した。このことから、実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったという。」

 「中世以降、中国では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗大本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿に四天王や韋駄天と共に安置されている布袋形の金色の弥勒仏像を見ることができる。この像は、中国において「布袋和尚[4](Bùdài héshàng)」の呼称では、理解されづらく、一般には「弥勒(Mílè)」と呼ばれている。それを受け、西欧人にマイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる。」

とある。
 布袋さんも太っているから風呂桶の縁をまたぐのが大変だが、それだと打越の志賀之助と被る所がある。
 二十八句目。

   布袋とは弥勒𦬇の化身也
 鯉のうろこは三十六員      立圃

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「三十六鱗」の解説」に、

 「さんじゅうろく‐りん サンジフ‥【三十六鱗】
  〘名〙 魚「こい(鯉)」の異名。
  ※滑稽本・八笑(1820‐49)四「六々三十六鱗(ロクリン)の、丈ある鯉の味噌煮(こくしほ)は美味(うまき)を知らする可笑(をかしみ)に」 〔夢渓筆談‐書画〕」

とある。鯉のことを三十六鱗と言っていた。それを歌仙の三十六韻に掛けている。
 中国の開運グッズを見ると布袋と鯉が組み合わされてるのを見るが、中国ではそうなのか。まあ、どちらも目出度いことには変わりないが。
 二十九句目。

   鯉のうろこは三十六員
 仙人に成る事もがな秋の月    桃青

 鯉は龍になると言われている。鯉が龍になれるなら、人も仙人になれるか。
 三十句目。

   仙人に成る事もがな秋の月
 その原々はみな木賊苅      立圃

 木曾の園原は謡曲『木賊』の舞台でもある。ただ、仙人に木賊、何の関係があるのか。
 延宝七年秋の「見渡せば」の巻十三句目に、

   みがかれ出るお広間の月
 木賊苅山はうしろに長袴     桃青

の句があり、延宝六年の桃青・杉風両吟「色付や」の巻の四十三句目にも、

   木賊にかかる真砂地の露
 その原やここに築せて庭の月   杉風

の句がある。形だけ真似た感じがする。
 二裏、三十一句目。

   その原々はみな木賊苅
 むらさきのみのりてみする朝ぼらけ 立圃

 「むらさき」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に「紫葛のこと、紫葛は山葡萄」とある。園原では山葡萄が実っていてもおかしくはない。その場也その季也、と支考なら言う所だろう。
 三十二句目。

   むらさきのみのりてみする朝ぼらけ
 此川ごえはうき人に逢ふ     桃青

 これは七夕の俤であろう。
 三十三句目。

   此川ごえはうき人に逢ふ
 みちのくの千引の石もこころあれ 立圃

 「千引(ちびき)の石」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「千引の岩」の解説」に、

 「千人で引かなければ動かせないような重い岩石。ちびき。ちびきいわ。
  ※古事記(712)上「最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。爾に千引石(ちびきのいは)を其の黄泉比良坂に引き塞へて」
  ※万葉(8C後)四・七四三「吾が恋は千引乃石(ちびきノいは)を七(なな)ばかり首に繋(か)けむも神のまにまに」
  [補注](1)「十巻本和名抄‐一」「観智院本名義抄」などにもチビキノイシの形で見え、従来のチビキノイハの訓も再検討する必要がある。
  (2)「引」を長さの単位とみなし、直径「千引」の大きな岩とする説もある。」

とある。これとは別に多賀城に千引石の伝承があるらしい。ネット上の野崎準さんの「千引石と登天石―忘れられつつある石の伝承について―」に、

 「『室町時代物語大成』第九に 「つぼの碑」 という絵巻物になった物語が掲載されている」とあり、その坂上田村麻呂が記したという石を他国に動かそうとしているうちにやがて石の精が宿り、それが両親に死別された女のところにあらわれ、千人で引いても動かない石を坂を車が下るように簡単に動かせるようにしてやると、今でいうチートのような能力を授けた。女は石を動かし、その功績で所領を賜り、国司の妻として幸せに暮らしたとさ、目出度しめでたしとなる。
 句の方は特にこの物語とも関係なく、憂き人を動かない(振り向いてくれない)石のような人としての付けになる。
 三十四句目。

   みちのくの千引の石もこころあれ
 かく捨し世を誰ひろふ恋     桃青

 隠者が岩窟などの住むのは珍しいことではない。だが、ここでも「千引の石」を動かない頑なな心として、この僧は恋を拾ったりしない、とする。
 三十五句目。

   かく捨し世を誰ひろふ恋
 花も名になるてふ加藤壱歩殿   立圃

 加藤壱歩は人名のようだが、実在したのか架空の名前なのかはよくわからない。やはり堅物の名として、花も名になるように、恋も男の勲章だという所か。
 挙句。

   花も名になるてふ加藤壱歩殿
 能はじめより高砂の松       執筆

 謡曲『高砂』は脇能物で、五番立ての最初に演じられる。前句の加藤壱歩殿を能役者としたか。
 最初に立圃のことで、中村注によると能役者服部栄九郎(宝生家十世の家元)二世立圃というのがいて、それだと芭蕉晩年の両吟と思われるという話をした。
 これまで読んで、この一巻は延宝の頃の風でもなければ晩年の風でもないというのは、分かっていただけたと思う。この一巻は芭蕉の時代の付け筋もなければ、当時の生活実感に根差したリアルな笑いの世界がまったくない。
 ただ昭和の頃の研究者にはこの識別は困難だったと思われる。連句の研究はまだ糸口に着いたばかりだ。
 まあ、こう言っちゃなんだが、未だに写生説に縛られて、単に景色を付けただけの遣り句が名句だと思ってたり、隠者高士が出て来ると良い句だと思ってたり、そのレベルの人が多いのではないかと思う。

2021年9月15日水曜日

 今日は明け方頃まで雨が降っていたが、6時には止んだんで、散歩に出た。
 北は最近またロケットマン復活で、あんまりかまってもらえなかったからな。アメリカはアフガニスタンよりもはるかに長い戦争がまだ終わってない。
 夕方も晴れていて、久しぶりに月を見た。半月よりも少し膨らんでた。

 それでは「重々と」の巻の続き。

 十三句目。

   雨はらはらと郭公聞
 かりそめに尻をまくるも川渡リ  立圃

 「かりそめ」は少しの間という意味。今は「形だけ」の意味で使うことが多いが。
 川渡りで膝から上の水量があったのだろう。雨で若干増水していたか。
 十四句目。

   かりそめに尻をまくるも川渡リ
 煩ふてさへ西行は哥       桃青

 西行の川渡りというと、『西行物語』の武士の乗る船に便乗したが、人数が多いというので「あの法師下りよ、下りよ」と言われたが渡し舟ではよくあることとたかをくくっていたが、鞭で打たれて血まみれになって下船させられたという話が浮かんでくる。本当かどうかは知らないが。
 仕方がなく尻をまくって渡ったということか。渡れるなら最初から歩いてそうだが。
 十五句目。

   煩ふてさへ西行は哥
 秋までは畑に作るしろ茄子    立圃

 白茄子はウィキペディアによると宮崎安貞の元禄十年刊の『農業全書』にも「紫、白、青の三色あり、又丸きあり長きあり」の記述があるという。西行も草庵隠棲の時は茄子を栽培していたか。
 十六句目。

   秋までは畑に作るしろ茄子
 花火とぼして星祭也       桃青

 元禄の頃はまだ両国川開きの花火はなかった。ウィキペディアによると、万治二年(一六五九)には両国橋が完成したときに、鍵屋弥兵衛が葦のくだの中に火薬を練って入れた玩具花火を売り出し、大型の打ち上げ花火への道を開いたとも言われている。ただ、後に名物になる両国川開きの花火は享保十八年(一七三三)からだとされている。
 ただ、お盆に花火を打ち上げる句は元禄十二年刊等躬編の『伊達衣』に、

   盆前後
 落る時川さへ匂ふ花火哉     岩翁
 名を呼で買ん去年の花火売    亀翁

の句がある。鍵屋は万治の頃からあったので、「鍵屋」の掛け声はあったのかもしれない。
 両国の花火の句も元禄十二年刊凉菟編の『皮籠摺』に、

   両国橋
 人声を風の吹とる花火かな    凉菟

の句がある。花火が上がると、橋を渡る人が一瞬静かになる。
 他にも、

 扇的花火たてたる扈従かな    其角
 橋杭の股に見得たる花火哉    沾洲

の句が収録されている。的を立てるのはロケット花火のようなものがあったからか。
 其角の『五元集』に、

   舟興
 壱両が花火間もなき光哉     其角

の句があるから、鍵屋の花火は金のかかる遊びだったのだろう。
 ただこれらの発句に対して、ここでの桃青の付け句はお盆に花火を灯すだけで、これと言った取り囃しがないのが淋しい。
 十七句目。

   花火とぼして星祭也
 傾城と夜着の中から袖の月    立圃

 夜着は衣偏の黄という字を用いている。
 遊女と一夜を過ごして、お盆の夜の月を見る。この場合は線香花火か。延宝八年刊自悦編の『洛陽集』に、

 奥方や花火線香せめて秋     梅水軒

の句がある。今日のような線香花火かどうかはわからない。
 十八句目。

   傾城と夜着の中から袖の月
 狐の歩行く足音も屋根      立圃

 傾城から遊女に化けた狐がいるという連想か。
 二表、十九句目。

   狐の歩行く足音も屋根
 魚籃寺と言へば其名も醒き    桃青

 醒きは「腥(なまぐさ)き」の間違いだと『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注にある。
 魚籃寺は今の港区三田にある。ウィキペディアには、

 「元和3年(1617年)頃に豊前国中津にある円応寺に称誉が建立した塔頭である魚籃院を前身とする。 寺の創建は承応元年(1652年)称誉が現在の地に観音堂を建て、本尊をここに移したことに始まる。」

とあり、

 「本尊が「魚籃観世音菩薩」(空海作と口碑に残る頭髪を唐様の髷に結った乙女の姿をした観音像)であることから。 それは中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたものである。」

とある。狐との縁は特にわからない。
 二十句目。

   魚籃寺と言へば其名も醒き
 附木売まで濡る白雨       立圃

 「濡」はさんずいに雪の字になっているが、『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に従い濡の間違いとする。
 附木はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「付木」の解説」に、

 「② 杉や檜(ひのき)などの薄い木片の一端に硫黄を塗りつけたもの。火を移し点じる時に用いる。ゆおうぎ。
  ※言継卿記‐天文二年(1533)一二月二九日「つけ木六束如例年」
  ※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)六「ひばちの火をつけ木にうつし」

とある。
 附木売は何か魚籃寺に関係あるのか、よくわからない。
 二十一句目。

   附木売まで濡る白雨
 お袋の部屋に植たるわすれ草   桃青

 わすれ草は萱草のことで夏にオレンジの百合に似た花をつける。年取った母もやや物忘れがひどくなったということを、植えてある忘れ草に重ね合わせたか。
 「お袋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御袋」の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語) 母親を敬っていう語。また、母親を親しんで呼ぶ語。現在では、他人に対してへりくだって自分の母をいう場合が多い。⇔おやじ。
  ※康富記‐享徳四年(1455)正月九日「今日室町御姫君御誕生也、御袋大舘兵庫頭妹也」
  ※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉鉄道国有「拙父(おやぢ)と阿母(オフクロ)と竊々(こそこそ)相談して」
  [語誌](1)本来、母親の敬称で、高貴な対象にも使用したが、徐々に待遇価値が下がり、近世後期江戸語では、中流以下による自他の母親の称となった。
  (2)「随・皇都午睡‐三」に「廿より卅二三才迄を中年増と云。夫より上を年増と唱へ極年をお袋とも婆々アとも云」とあるように、特に老女や老母を指すこともあった。
  (3)現在では、謙称として、他人に対してへりくだって自分の母を言うことが多い。→おやじ」

とあり、今日のニュアンスとはやや違う。『炭俵』の「むめがかにの巻」の続十二句目に、

   預けたるみそとりにやる向河岸
 ひたといひ出すお袋の事     芭蕉

の句がある。
 二十二句目。

   お袋の部屋に植たるわすれ草
 沙石を読で聞す不可思議     立圃

 沙石集はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「沙石集」の解説」に、

 「鎌倉時代の仏教説話集。「させきしゅう」とも読む。無住一円著。 10巻。弘安2 (1279) 年起筆,同6年脱稿。その後もたびたび加筆訂正を行なったので,広略種々の伝本がある。著者は臨済宗東福寺派の高僧で,耳に近い説話によって教理を説き,人々を仏道におもむかせることを目的とした。広い知識によって経典,漢籍あるいは先行の説話集などを縦横に引用するが多年尾張国木賀崎の長母寺にあって民衆を教化した著者は,直接に見聞した同時代の話や,民間に伝わった話を取上げ,文章も俗語を多用して平易。なかでも数多くの笑話風の話は狂言や咄本 (はなしぼん) の材料とされ,落語の源流となった。物語を狂言綺語とみる中世仏教者の立場にあるが,懐古趣味によって編集された以前の説話集に比べて,時勢に対する積極的な態度は高く評価される。」

とある。
 母から読み聞かされた沙石集のことを思い出す。わすれ草は植えたけど、あの時の不可思議な物語を忘れてはいない。
 二十三句目。

   沙石を読で聞す不可思議
 精進もけふは延さす煤はらひ   桃青

 煤払いの日がいつも命日と重なってしまうが、煤払いは延期しない。
 二十四句目。

   精進もけふは延さす煤はらひ
 都鳥まで見る江戸の舟      立圃

 都鳥はユリカモメのことで、隅田川の辺りには今でもたくさんいる。隅田川は寛永以前は武蔵と下総の境界でもあった。
 年の暮れの隅田川はたくさんの舟が行き交う。

2021年9月14日火曜日

 今日は曇っていて蒸し暑い。今日も散歩に出た。彼岸花や鶏頭も咲いていた。柿の実が赤くなり始めている。8,600歩で昨日より距離が伸びた。
 ラジオでトラックの路上駐車の問題を取り上げていた。時間指定のせいだとか、いろいろ議論がある。
 根本的なことを言えば、トラックを止める場所が路上以外にない、というのが原因だ。荒野の真っただ中ではないんだということだ。勝手にトラックを止めていい場所なんてどこにもない。多少トラック用の駐車場を作っても絶対的に数が足りない。
 トラックの業務は基本的に会社が自宅の駐車場を出て集荷に行き、それを指定された場所に納品して、それで終わりだ。ここですぐに帰社になることはあまりないが、基本的には仕事は集荷→納品の繰り返しだ。
 最初の会社か自宅の駐車場は、これが確保されてなければトラックの所有ができないので、ここで路上駐車の問題が生じることはないし、あるとすれば違法な手段で車を所有していることになる。(車庫飛ばしというのは結構よくある。)
 駐車場所が問題になるのは、集荷と納品の場面に限られる。集荷場所に駐車スペースがない。あるいは狭くて複数のトラックが入ることができない。同様に納品場所に駐車スペースがない。あるいは狭くて複数のトラックが入ることができない。この場合路上駐車は必然だ。この問題が解決されない限り、路上駐車の問題は無くならない。
 集荷の場合、大きな流通センターを作って、そこに広い駐車スペースを確保できればある程度解決できる。
 納品の場合は前述の流通センターへの、いわゆるセンター納品をしても、そこからまた個々の現場や店舗に運び込まなくてはならないから、根本的な解決にはならない。
 納品場所に一度に複数のトラックが着いたら、その周辺に止めて順番を待つしかない。それを避けるために事前の電話連絡を義務付けて、呼ばれたら現場に入るようにしている所も多いが、近所に並ばれて苦情が来るのが防げるだけで、トラックドライバーはただ別の場所に止めて待つだけのことだ。
 エリアを決めて待機を禁止している現場もあるが、これも押し入れにゴミを詰め込んで片づけたと言っているようなものだ。Aという現場の一キロ以内の待機を禁止しても、その一キロ圏外にトラックが溜まってしまうだけだし、その圏外にBという現場があれば、そこへ来たトラックがA現場の前で待機するようになって、待機場所交換をするだけだから、現状は何も変わらない。
 店舗配送の場合は、センター納品を基本として、店舗に納品する積荷をひとまとめにして最小限の数のトラックで納品するというのが一応の答えになる。つまり納品各社のトラックがそれぞれ自分の会社の商品を運ぶのではなく、他社の商品と混載することでトラックの台数を減らし、一本化できれば、店舗前に複数のトラックが殺到する事態を避けられる。コンビニや大手チェーン店では既にやっている。
 建築現場の場合、納品方法が多様なので、混載は難しい。さすがに生コンと鉄骨を混載するわけにはいかない。ただ、雑貨などの手卸できるようなものは、混載するシステムが作れるのではないかと思う。
 路上駐車に対する社会に目は、これからますます厳しくなるし、さらに将来の自動運転化を目指すなら、効率的な混載システムはビジネスチャンスになる。
 ただそれに必要な規制緩和を行い法改正をするということになると、いろいろ問題も生じてくるだろう。無駄に多くのトラックが動いているから、そのおこぼれで食っていけるという業者もいるだろうし。

 これまで主に『校本芭蕉全集 連句篇』を元に俳諧を読んできたが、残すは元禄六年のみになった。その元禄六年の秋の俳諧も読み終え、残る秋の俳諧がなくなってしまった。
 そこで次は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の「存疑之部」の「重々と」の巻を読んでみようと思う。
 この巻は桃青と立圃の両吟になているが、この立圃が野々口立圃のことだとしたらありえない組み合わせだ。野々口立圃は雛屋立圃とも呼ばれているが、寛文九年没で、対面したとしても芭蕉がまだ伊賀にいた頃の話になってしまう。
 ただ、中村注によると能役者服部栄九郎(宝生家十世の家元)二世立圃というのがいて、それだと芭蕉晩年の両吟と思われるという。
 後世の偽作だとした場合、不易の句はわりかし真似しやすく、流行の句は難しいというのは大体わかるだろう。今から百年前に何が流行したかなんて言われても、なかなかわかるものではない。
 また、芭蕉のが得意とした衆道ネタ、経済ネタ、被差別民ネタ、ちょっと道徳めいた句とかはわりかし真似される傾向にあるだろう。
 蕉風の場合は新味を命とするから、その時代ならではのあるあるネタが多くなる。それがほとんどないとなると、疑った方が良い。
 まずは発句だが、

 重々と名月の夜や茶臼山     芭蕉

の句で、この句は『校本芭蕉全集 第五巻』中村注によると、元禄十四年の序のある『射水川』収録の、

 名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉

の句があるという。この句は『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫)にも年次不詳の所にある。またその注には、

 「底本序文中に『一とせ洛の法師をすかして古翁の吟詠二章を得たり云々』とあって九五八と並記。」

とある。その九五八は、

 うとまるる身は梶原か厄仏    芭蕉

の句になっている。その『射水川』は十丈という人の編で、早稲田大学の「古典籍総合データベース」に上巻がアップされている。序文の中にこの二句が並べられていて、本文は元禄九年の紀行になっている。伊勢では凉菟・支考、京では去来・風国、木曽塚では正秀・丈草などの名前が見られる。
 「名月の」の句が芭蕉の句なのはほぼ間違いはないだろう。洛の法師が誰かはわからないが、おそらくは上方で詠まれた句で、そうなると茶臼山もその方面の山と見ていいのだろう。
 元禄七年の名月は伊賀で過ごし、

 名月に麓の霧や田のくもり    芭蕉
 名月の花かと見えて棉畠     同
 今宵誰よし野の月も十六里    同

の句を詠んでいる。支考が『笈日記』に「名月の佳章は三句侍りけるに」とあるから、この時はこの三句だけだったと思われる。
 元禄六年の名月は深川で閉関していて、八月十六日に、

 いざよひはとりわけ闇のはじめ哉 芭蕉

を発句とする歌仙興行が行われた。この年でもないだろう。
 元禄五年の名月も江戸にいて、

 名月や篠吹く雨の晴れを待て   濁子

を発句とする半歌仙興行が行われた。この年でもないだろう。
 元禄四年の名月は木曽塚で月見の会が行われた。この時のことは支考の『笈日記』に、

  「三夜の月
   是もむかしの秋なりけるが今年は月の本ずゑ
   を見侍らんとて待宵は楚江亭にあそび
   十五夜は木そ塚にあつまる。いざよひは船を
   浮てさゞ浪やかた田にかへるとよめるその浦の
   月をなん見侍りける。路通がまつ宵に月
   をさだむる文あり支考が名月の泛湖の賦
   あり阿叟は十六夜の辨をかきて竹内氏の
   所にとゞむ。此三夜を月の本末と名づけて
   成秀楚江が二亭に侍り。文しげゝれば爰に
   しるさず。
   十四夜
 うかるなよ跡に月まつ宵の興   路通
 まつ宵はまだいそがしき月見哉  支考
   十五夜
 米くるゝ友を今宵の月の客    翁
 五器たらで夜食の内の月見哉   支考
   十六夜 三句
 やすやすと出ていざよふ月の雲  翁
 十六夜や海老煎る程の宵の闇
   その夜浮見堂に
        吟行して
 鎖あけて月さし入よ浮み堂」(笈日記)

とある。
 膳所には茶臼山古墳があり、十五日の木曽塚の月見の会で詠まれた可能性は十分にある。この時集まったメンバーは『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、路通・正秀・楚江・智月・道休・究音・成昌・丈草・支考。珍碩(洒堂)だったという。
 元禄三年の名月も木曽塚で月見の会があり、元禄九年刊風国編の『初蝉』には、

 名月や兒たち並ぶ堂の縁     芭蕉
   とありけれど此句意にみたずとて
 名月や海にむかへば七小町    同
   と吟じて是もなほ改めんとて
 名月や座にうつくしき顔もなし  同
   といふに其夜の句はさだまりぬ

とある。
 最後の「うつくしき顔もなし」の句は尚白との両吟歌仙が巻かれている。この年の可能性もある。
 元禄四年だとすると、

 名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉

の形ではなかったかと思う。

 重々と名月の夜や茶臼山     芭蕉

だと、

 やすやすと出ていざよふ月の雲  芭蕉

の句との被りが気になる。
 元禄三年だとすると、「重々と」の形の句を作って未発表だったものを、翌年に「やすやすと」の句に使い回し、その後改作した形を誰かに托した可能性もある。
 いずれにせよ、発句が芭蕉の句であるのは間違いあるまい。茶臼山の麓に来れば、琵琶湖の向こうから大きな月が重々しく登る。
 脇は、

   重々と名月の夜や茶臼山
 肌寒しとてかり着初る      立圃

 「かり着」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「借着」の解説」に、

 「① 他人の着物を借りて着用すること。また、その着物。
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「いづくともしらぬ敗僧、禅僧の衣をかりぎして」
  ② (比喩的に) 実際とはちがった態度などをよそおうこと。
  ※彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉風呂の後「何時迄経っても、特更(ことさら)に借着(カリギ)をして陽気がらうとする自覚が退(の)かないので」

とある。寒いから上に羽織るものを借りたということか、あるいは拙い俳諧がお寒い限りで、今日は芭蕉さんの指導で借り物の句を詠みますということか。
 第三。

   肌寒しとてかり着初る
 秋の葉のその匂ひより麝香草   立圃

 麝香層(じゃかうさう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「麝香草」の解説」に、

 「① シソ科の多年草。北海道・本州・四国の山地の樹陰に生える。高さ六〇~九〇センチメートル。全体に芳香がある。葉は対生し、短柄があり、葉身は長さ一〇~二〇センチメートルの長楕円形、先はとがり基部は耳形で縁に粗い鋸歯がある。初秋、上部の葉腋に淡紅紫色か白色で長さ三~四センチメートルの筒状唇形花を数個ずつつける。《季・秋》 〔和漢三才図会(1712)〕
  ② 植物「いぶきじゃこうそう(伊吹麝香草)」の異名。
  ③ 植物「うまのすずくさ(馬鈴草)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。
 「かり着」に「匂ひ」の付けだと思われる。ただ、衣裳の匂いではなくあくまで草の匂いなので、その季節を付けている感じもする。
 四句目

   秋の葉のその匂ひより麝香草
 ほうろく買にたれ頼ばや     桃青

 「ほうろく」は焙烙のことで、コトバンクの「世界大百科事典 第2版「ほうろく(焙烙)」の解説」に、

 「浅い皿形の厚手の土器。関西でいう〈ほうらく〉が正しい読みで,〈ほうろく〉はそのなまり。炮烙とも書く。火のあたりがやわらかいので,豆,ゴマ,茶などをいるのに適する。そのため,物炒り(ものいり)を物入りにかけて,出費の続くことを〈焙烙の行列〉というしゃれがある。ほうろく焼きは江戸時代から行われていた料理で,《料理談合集》(1822)には〈ほうろくへしほをもり,魚は何にてもしほの上へならへ,又,ほうろくをふたにして,上下に火を置てやく〉と見えるが,現在ではふつうオーブンで焼き,ポンスしょうゆで食べている。」

とある。
 「焙烙の行列」に掛けたとすれば、出費がかさむから誰か金を持ってる奴に頼まなくてはならない、という意味になる。前句のとの付け筋は不明。
 五句目

   ほうろく買にたれ頼ばや
 かくばかり足の入たる高瀬舟   立圃

 これは「足」をお金を意味する「お足」に掛けて、高瀬舟を使って仕入れに行くのはお金がかかる、という意味になる。
 六句目

   かくばかり足の入たる高瀬舟
 けふも一日蝉のなく椎      桃青

 前句の「足の入たる」を単に船に足を踏み入れるとして、その日和を付ける。椎の木に蝉の鳴く暑い一日で、船は涼しげに感じられる。
 初裏、七句目。

   けふも一日蝉のなく椎
 宿ありと五里程出る家童子    立圃

 暑い日だから通常の旅人なら八里行く所を五里で宿を取る。
 「家童子」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家童子」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (「いえとうじ(家刀自)」の変化した語) =いえとじ(家刀自)〔塵袋(1264‐88頃)〕
  [2] 狂言。鷺(さぎ)流。好きな女の所に出かけようとする男と、だまされまいとする妻のやり取り。」

とある。家刀自はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家刀自」の解説」に、

 「〘名〙 (「とじ」は婦人の尊称) 主婦を尊んでいう語。いえのとじ。いえとじめ。いえとうじ。いえどうじ。内儀。〔高田里結知識碑‐神亀三年(726)二月二九日〕
  ※霊異記(810‐824)中「家室(いへトジ)、家長(いへぎみ)に告げて曰はく〈国会図書館本訓釈 家室 二合家刀自〉」

とある。
 五里しか行かなかったのは女だったからという落ちなのか。
 八句目。

   宿ありと五里程出る家童子
 老はみなみな十念をまつ     桃青

 十念はこの場合は死のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十念を授く」の解説」に、

 「僧が南無阿彌陀仏の六字の名号を一〇遍唱えて信者に阿彌陀仏との縁を結ばせる。浄土宗では、葬式のとき、引導のあと、導師が六字の名号を一〇度唱えることをいう。
  ※謡曲・敦盛(1430頃)「易(やす)きこと十念をば授け申すべし、それについてもおことは誰そ」

とある。
 これもあまり前句と関係なく、人はみんな死んでゆくものだと付けているようだ。
 九句目。

   老はみなみな十念をまつ
 水仙のさかりを見する神無月   立圃

 神無月になるのは前句を「十夜念仏」のこととしたからか。ただ、水仙の盛りは師走ではないかと思うが。
 十句目。

   水仙のさかりを見する神無月
 松毬まだ常盤なりけり      桃青

 松毬は糸偏に毛の文字が用いられているが、『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注により松毬のこととする。字数からすると五文字だから「まつふぐり」になるのか。冬でも松は常盤だが、そこを「松ふぐり」つまり「きんたま」を出すことで落ちにする。
 「松ふぐり」の語は延宝の頃の「色付や」の巻三十八句目に、

   見わたせば雲ははがれて雪の峯
 松のふぐりに下帯もなし     桃青

の用例がある。
 十一句目。

   松毬まだ常盤なりけり
 登られぬ大内山の后がね     立圃

 「后がね」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「后がね」の解説」に、

 「〘名〙 (「がね」は接尾語) 将来皇后に予定されている方。后の候補者。きさいがね。
  ※宇津保(970‐999頃)国譲上「今日明日、女御后がねなどの、対に住み給はんには」
  ※源氏(1001‐14頃)常夏「太政(おほき)おとどの、きさきかねのひめ君ならはし給ふなる教へは」

とある。
 大内山はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「大内山」の解説」に、

 「[1]
  [一] 京都市右京区にある仁和寺(にんなじ)の北の山。宇多天皇の離宮があった。御室山。
  [二] 箏曲。生田流。純箏物。高野茂作曲。高崎正風作歌。明治二七年(一八九四)、明治天皇の銀婚式を祝って作られた。のち、松坂春栄が替手(かえで)形式に改作。
  [2] 〘名〙 (一)(一)から転じて、上皇の御所をいうようになり、さらに宮中をさすようになった。皇居。禁中。
  ※源氏(1001‐14頃)末摘花「もろともにおほうち山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月」」

とある。
 常盤の松から大内山(皇居)に展開したか。
 十二句目。

   登られぬ大内山の后がね
 雨はらはらと郭公聞       桃青

 五月雨の時鳥は古歌に多く詠まれている。こういう不易の句は一見芭蕉らしいが、実は芭蕉の嫌う所のものだ。これまでの発句以外の十一句は、芭蕉の生きた時代ならではの、その時代のネタというのがほとんど見られない。
 付け筋も、芭蕉は貞門時代から軽みの時代までいろいろ変遷はあったけど、それは過去を否定するものではなく、むしろ蓄積し、されに上を行こうという歩みだったが、その芭蕉らしい付け筋も見られない。
 諸兄はどう思われるだろうか。

2021年9月13日月曜日

 だいぶコロナも収まってきたところだし、二回目接種の副反応も収まったという所で、久しぶりに散歩を再開した。しばらく歩いてなかったので今日は軽く5600歩。金木犀、萩、葛、露草などが咲いていた。薄の穂も出始めていた。
 雪のない富士山が見えた。初冠雪の後溶けてしまったのだろう。

 それでは「いざよひは」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   道祖のやしろ月を見かくす
 我恋は千束の茅を積み重ね    芭蕉

 楽屋落ちネタでいじられてしまった芭蕉さんだが、そこは冷静に恋の句に転じる。
 旅人に恋して、その旅人は亡くなってしまったのだろう。茅を積み重ねて屋根を作って道祖神の社を作る。
 二十六句目。

   我恋は千束の茅を積み重ね
 雁も大事にとどけ行文      凉葉

 空飛ぶ雁の列を文字に見立て、思いよ届け。

 秋の夜に雁かも鳴きて渡るなり
     わが思ふ人のことづてやせし
              紀貫之(後撰集)

の歌もある。
 二十七句目。

   雁も大事にとどけ行文
 眉作るすがた似よかし水鏡    濁子

 昔の日本人は眉を剃るか抜くかして書いていた。普通は金属製の手鏡を用いるが、前句が雁なので、水鏡とする。
 二十八句目。

   眉作るすがた似よかし水鏡
 大原の紺屋里に久しき      芭蕉

 京都大原の大原女は木炭や薪を売っていたが、紺屋もいたのか。大原女は紺の筒袖を着ているが、それを染めている紺屋の姿は見たこともない。
 二十九句目。

   大原の紺屋里に久しき
 数多く繋げば牛も富貴也     凉葉

 大原の炭焼きや薪取りには牛が使われてたのだろう。大原の里は貧しそうだが牛はたくさんいる。
 三十句目。

   数多く繋げば牛も富貴也
 冬のみなとにこのしろを釣    濁子

 コノシロはウィキペディアに、

 「東北地方南部以南の西太平洋、オリガ湾(英語版)以南の日本海南部、黄海、東シナ海、南シナ海北部に広く分布し、内湾や河口の汽水域に群れで生息する。大規模な回遊は行わず、一生を通して生息域を大きく変えることはない。」

とある。港で釣れる魚で脂ののった冬が旬となる。
 港には荷を運ぶ牛もたくさん繋がれていて、牛引きや人足たちがコノシロを釣っている。
 二裏、三十一句目。

   冬のみなとにこのしろを釣
 初時雨六里の松を伝ひ来て    芭蕉

 「六里の松」は天橋立のことか。冬に初時雨、みなとに六里の松を付ける。四手付け。
 三十二句目。

   初時雨六里の松を伝ひ来て
 老がわらぢのいつ脱たやら    凉葉

 前句を旅体として、草鞋の脱げた老いた旅人を登場させる。
 三十三句目。

   老がわらぢのいつ脱たやら
 朝すきを水鶏の起す寝覚也    濁子

 水鶏の声は戸を叩く音に似ているというので、古来和歌に詠まれている。
 「朝すき」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、

 「朝すきが朝数寄(朝の茶事)ならば夏の朝催すもので、午前六時から八時ごろまでに席に入るとされている。」

とある。
 この場合はもっと早く水鶏の声に起こされてしまったのだろう。茶事が始まっていると勘違いして、いつ草鞋を脱いだっけ、となる。
 三十四句目。

   朝すきを水鶏の起す寝覚也
 筍あらす猪の道         芭蕉

 朝の茶事のために早起きして、数寄者にふさわしく竹林の道を行く。その竹林の道を俳諧らしく「筍あらす猪の道」とする。
 三十五句目。

   筍あらす猪の道
 雪ならば雪車に乗るべき花の山  凉葉

 花が散って雪が積もったかのようだ。これが本当の雪なら雪車(そり)に乗って行く所だ。
 挙句。

   雪ならば雪車に乗るべき花の山
 はる風さらす谷の細布      濁子

 普通の天日晒しだが、花が雪のようだから雪晒しに見立てたのであろう、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雪晒」の解説」に、

 「〘名〙 布などを雪中にさらすこと。雪が日光を反射する際に発生するオゾンを利用して苧麻(ちょま)糸や苧麻織物を漂白すること。今日では越後の小千谷地方のものが知られている。
  ※御伽草子・強盗鬼神(室町時代短篇集所収)(江戸初)「越中のうしくびぬの、ゑちごの雪ざらし、かねきん、伊勢もめん」

とある。

2021年9月12日日曜日

 TBSの「ひるおび!」という番組で八代英輝弁護士が、「共産党は『暴力的な革命』というのを、党の要綱として廃止してませんから。」と言ったことで共産党から猛抗議をうけたという。確かにこれは共産党にとって死活になる。
 公務員試験を受けた人ならわかると思うが、その条件に日本国憲法の体制を暴力的に転覆する集団に属してない、というのがあったと思う。暴力革命を認めてしまえば、日本の官僚や公立学校の教職員の中にいる共産党員がすべて身分を失うことにもなりかねない。
 「党の要綱」というのは正確に言えば「日本共産党綱領」のことであろう。これは日本共産党のホームページで公開されているから、誰でもすぐに読むことができる。
 そこには暴力革命について触れた文言は一切存在しない。暴力革命を否定しているという根拠になるのは以下の文言であろう。

 「四、 民主主義革命と民主連合政府
 (一二)現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。」

 問題はこの「民主主義革命」が暴力的かどうかということだ。(一四)のところにある、

 「日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である。
 日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。」

ということを指すとするなら、選挙での勝利が前提となる。ただ、これが「民主主義革命」だとは明記していない。
 ここでいう統一戦線は、

 「統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。」

とあり、日本共産党が単独で選挙で勝利しなくても、共産党を含む野党の連立政権が誕生した場合はこの統一戦線政府・民主連合政府が成立したとみなされる。

 「このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続く前進のなかで、民主勢力の統一と国民的なたたかいを基礎に、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。」

とあるように、ここまで行って初めて「民主主義革命」が達成されると見るべきであろう。これは統一戦線に参加しない者の事実上の政治からの排除であり、実質的な一党独裁と見ていい。これが現行の日本国憲法の体制の中で成立するとは思われない。

 まず基本的なことからいえば、日本共産党は戦前からの古い時代のマルクス・レーニン主義の系譜に位置する政党で、そのため柱となっているのは帝国主義論と民族自決論だ。 この民族自決論については、最近の左翼の間ではすっかり忘れ去られているが、これは戦後左翼が日本共産党に反発して、トロツキーの永久革命を信奉し、一つの世界を作る方向に傾倒していったからだ。このいわゆる新左翼と呼ばれる人たちは、今の日本のマス護美や人権団体など至る所に巣食っている。
 日本共産党が民族自決の立場に立つ限り、中国のウイグル問題やチベット問題のみならず、尖閣諸島の問題にも抗議するのは当然のことだし、北方領土の問題でロシアに抗議するのも当然のことだ。
 帝国主義論の方は、「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革」という表現にはっきりと表れている。これは現在の体制が米帝の支配下にあって、本来の民主主義体制ではないという認識によるものだ。
 今の政府は日本国憲法に基づき、民主的な手続きによって選ばれたものであるが、それが米帝支配で民主主義ではないというのは、一体どういうことなのか。

 また、「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく」と断っている通り、これは「現在」の話であり、将来の話ではない。
 つまり日本共産党が勝利をおさめ、政権を取った後、どのような変革が行われるかについて、今まで通りの選挙が行われるという保証は何もない。そこはきっちりと押さえておく必要がある。
 まず考えられるのは米帝時代に戻そうとする政党を非民主的政党とみなして非合法化する、つまり自由民主党やその他の保守系政党の非合法化だ。そして、一度非合法化すれば警察権力による弾圧が可能になる。
 また暴力革命については党や統一戦線が直接関与することがないというだけであり、つまり組織としては行わなくても、血の気の多い衆が勝手にやったということなら不可能ではない。「暴力革命に類することは一切否定する」という種の文言はどこにもないからだ。
 現行の日本国憲法が明治憲法の改正手続きによるものではなく、八月革命による成果だという憲法学の立場に立つなら、「民主主義革命」が起きたなら、現行憲法も日本国憲法第九十六条によらずに改正することは可能になる。むしろ、統一戦線政府・民主連合政府が現行憲法を破棄し、新憲法を制定した時が「民主主義革命」と見ても良いのではないかと思う。
 ここから社会主義革命への次の段階が始まるわけだが、日本共産党は二十世紀の社会主義国家の統制経済を否定している。ならどういう経済になるのかというと、そのビジョンは何も描かれていない。

 かつての西洋列強の植民地化政策によってゆがめられた世界は、戦前の日本の軍国主義だけでなく、日本の左翼にも影を落としている。
 反西洋・日本の独立、という点ではややねじれた形だが両者は共通していた。ただ西洋列強のかつての脅威を「資本主義の脅威」として捉え、それに対する日本の独立を「社会主義の実現」として捉えていたところが違う。
 資本主義の脅威については、戦後の資本主義そのものの変化に対応していない。未だに資本家は隙あらば世界を植民地化し、労働者を貧困のどん底に陥れることを望んでいるという前提を引きずっている。資本主義は必然的に侵略戦争を引き起こすというレーニンの帝国主義論の亡霊に囚われている。
 社会主義の実現に関しては、二十世紀社会主義の計画経済の失敗を繰り返さないような新しいビジョンを持てないままでいる。
 今の左翼はこの二つの弱点を隠すための、その場限りの感情論を繰り返しているように思える。
 「資本主義の脅威」はしばしば陰謀論に陥ってデマ情報をまき散らし、日本の独立が敗戦を理由にないがしろにされ、一つの世界を廻って勝ち馬に乗ることばかり考えている。冷戦構造崩壊以来、左翼は劣化し、混乱し続けている。
 左翼がこの混乱から抜け出すには、まずは帝国主義論が過去のものとなったことを認め、戦後資本主義の変化を評価しなおさなくてはならない。そして、かつての社会主義の理想が今後の持続可能資本主義の中で実現される可能性を求めなくてはならない。これは元は極左だった筆者が至りついた結論でもある。
 多分日本共産党も早かれ遅かれそこにたどり着くことになるのではないかと思う。

 それでは「いざよひは」の巻の続き。

 十三句目。

   ばけ物曲輪掃のこす城
 梅の枝下しかねたる暮の月    岱水

 名月を隠すように梅の枝がある。切るべきか切らぬべきか、というのは古典的なネタで、宗鑑の、

   切りたくもあり切りたくもなし
 さやかなる月をかくせる花の枝

以来のものだ。
 結局切らずに残した梅の枝は、化け物が曲輪を残したようなものだ、と付く。
 宗鑑の句は、

   切りたくもあり切りたくもなし
 ぬすびとを捕へて見ればわが子なり

の方が有名だが。
 十四句目。

   梅の枝下しかねたる暮の月
 姨まち請る後のやぶ入      馬莧

 姨が待っているお盆の薮入り。正月十五日は単に「藪入り」で、七月十五日の秋の薮入りを「後の薮入り」という。
 姨(おば)に月というと姨捨山の連想が働く。ここでは捨てられずに残っている姨ということで、前句の「梅の枝下しかねたる」に付く。
 健康な姨なら問題はないが、姨捨山の姨も今でいうアルツハイマーのような障害を持った老婆で、今でも介護は深刻な問題だ。
 十五句目。

   姨まち請る後のやぶ入
 ひとり住ふるき砧をしらげけり  濁子

 「しらげる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「精」の解説」に、

 「しら・げる【精】
  〘他ガ下一〙 しら・ぐ 〘他ガ下二〙
  ① 玄米をつき、糠(ぬか)を除いて白くする。精米する。また、植物のあくなどを抜いて白くする。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
  ※宇津保(970‐999頃)吹上上「臼一つに、女ども八人立てり。米しらけたり」
  ※拾遺(1005‐07頃か)夏・九一「神まつる卯月にさける卯花はしろくもきねがしらけたる哉〈凡河内躬恒〉」
  ② 磨きをかけて仕上げる。きたえていっそうよくする。精製する。
  ※玉塵抄(1563)二八「公主の高祖の子秦王にもしらげた兵一万人をあたえて」
  ※俳諧・毛吹草追加(1647)中「霜柱しらげ立るやかんな月〈夕翁〉」

とある。元は①の意味だったものが比喩として②の意味に拡張されたのであろう。
 ここでは②の意味で、藪入りで実家に帰ると姨が一人住まいで、砧で衣に磨きをかけて仕上げてくれる。
 十六句目。

   ひとり住ふるき砧をしらげけり
 うらみ果てや琴箱のから     芭蕉

 砧は李白の「子夜呉歌」以来、夫を兵隊に取られた女の恨みを連想させるものだで、それが恋の恨み全般に拡張されて用いられる。
 「琴箱」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「琴箱」の解説」に、

 「〘名〙 琴を入れておく箱。また、琴の胴。
  ※俳諧・蕉翁句集(1699‐1709頃)「琴箱や古物店の背戸の菊」

とある。用例にある古物店(ふるものだな)の句は同じ元禄六年秋の句で、

   大門通り過ぐるに
 琴箱や古物店の背戸の菊     芭蕉

という前書きがある。ここでは琴を入れておく箱の意味であろう。「琴箱のから」は箱だけということで、本体がどうなったかよくわからない。
 十七句目。

   うらみ果てや琴箱のから
 都より十日も遅き花ざかり    曾良

 前句を都を離れた隠士とする。琴箱を琴の胴体という意味にするなら、陶淵明の弦のない琴を抱いていた故事につながる。
 十八句目。

   都より十日も遅き花ざかり
 爪をたてたる独活の茹物     岱水

 山奥の田舎として茹でた山独活を爪で小さくほぐす。
 二表、十九句目。

   爪をたてたる独活の茹物
 年礼を御師の下人に言葉して   馬莧

 年始の挨拶の言葉をお伊勢参りの案内をする御師の下人にする。前句はその御師の生活感を表すものであろう。独活に伊勢白という品種があるが、独活に伊勢の連想があったか。
 二十句目。

   年礼を御師の下人に言葉して
 烏帽子かぶれば兀も隠るる    芭蕉

 御師は改まった席では烏帽子を被っていたか。烏帽子は髷の上に引っ掛けるものだが、兀(はげ)だとすぐに落っこちそうだが。
 二十一句目。

   烏帽子かぶれば兀も隠るる
 持つけぬ御太刀を右にかしこまり 濁子

 「持つけぬ御太刀」で皇族の軍としたか。ひょっとして後鳥羽院?
 二十二句目。

   持つけぬ御太刀を右にかしこまり
 よれば跳たる馬のふり髪     

 刀も持ち慣れなければ馬にも嫌われている。今どき平和に慣れた将軍・大名の御子息ということか。
 二十三句目。

   よれば跳たる馬のふり髪
 夏川やはや宵の瀬を踏ちがへ   凉葉

 馬が跳ねた原因を、川を渡る時に夕暮れで薄暗くて踏む場所を誤ったからだとした。
 二十四句目。

   夏川やはや宵の瀬を踏ちがへ
 道祖のやしろ月を見かくす    濁子

 夕暮れで瀬を踏み違え、道に迷い、道祖神の社も月を見ていて見落とす。そこで一句、

 笠嶋はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

 この句は『猿蓑』に、

   奥刕名取の郡に入て、中将実方の塚はいづ
   くにやと尋侍れば、道より一里半ばかり左
   リの方、笠嶋といふ處に有とをしゆ。ふり
   つゞきたる五月雨いとわりなく打過るに
 笠嶋やいづこ五月のぬかり道   芭蕉

の形で発表されていた。『奥の細道』には、

 「「鐙摺(あぶみずり)・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、『是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云ひ、道祖神の社、かた見の薄今にあり』と教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、簑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
 笠嶋はいづこさ月のぬかり道」

とある。

2021年9月11日土曜日

 副反応の熱は今日は下がった。
 911事件というと思い浮かぶのが翌年五月に発売されたTHE BACK HORNの「世界樹の下で」という曲で、世界樹にワールドトレードセンターを重ね合わせて、「若き兵士が‥‥」のフレーズにアフガニスタンのことを重ね合わせて聞いていた。
 イスラム原理主義のテロも中国の問題も日本の戦前の軍国主義も、根っこのところではつながっているんだと思う。それは西洋文明の侵略によってそれ以外の独自な文明の正常な発展が妨げられた、すべてはそこから始まっているのではないかと思う。
 ただ、西洋の近代化も西洋の伝統文化との戦いがなかったわけではないことは知っている。近代化はあらゆる文明を越えて可能であるにもかかわらず、近代化を急進的に勧めようとする連中が、安易に近代化=西洋化としてしまうところにひずみが生まれてしまう。それは結局のところ「利権」の問題だ。
 最終的には各民族がそれぞれ自分たちの伝統文化と近代化との妥協点を見つけ出す所にしか解決はない。それはそれぞれの民族の内部の力であって、外圧はゆがんだ結果しかもたらさない。
 西洋は軍事力による支配を速やかに止めるべきだし、同時に非西洋圏の人達は西洋を恨まないでほしい。恨みは自らの文化の発展の道を塞ぐ。日本人は黒船も原爆も恨んではいない。それを発展のエネルギーに変えてきた。
 報復の連鎖を断つというのは、日本では謡曲『摂待』以来のテーマだった。
 あと、鈴呂屋書庫に元禄五年冬の「木枯しに」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは名月にはちょっと早いけど、元禄六年八月十六日、江戸での歌仙興行を見て行こうと思う。発句は、

 いざよひはとり分闇のはじめ哉  芭蕉

 前に読んだ、

 十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子

の興行に先行するものだ。
 十六夜の月は日没に対して若干月の出が遅れる所から、短時間ながら日も月もない闇の時間が生じる。十七夜、十八夜となるにつれ、この闇の時間が長くなってゆく。今日はこの闇の始まる日だ、というわけだ。
 脇。

   いざよひはとり分闇のはじめ哉
 鵜船の垢をかゆる渋鮎      濁子

 「渋鮎」は「さびあゆ」と読む。錆鮎はコトバンクの「世界大百科事典内のさびアユの言及」に、

 「…産卵間近のアユは,体が黒ずみ腹部は赤く色づき雄では体表に〈追星(おいぼし)〉と呼ばれる白い小さな突起が生じ,手でさわるとざらざらした感じになる。このような状態を〈さびる〉といい,さびアユと呼ぶ。年魚の名のとおり,産卵が終わるとアユは死亡するが,水温の低いところに生息したものや餌が十分とれず成熟しなかった一部は越年することもあり,〈越年アユ〉または〈古瀬(ふるせ)〉などと呼ばれる。…」

とある。
 夏の鵜舟も鮎を取るものだが、季節は変わり今は錆鮎の季節になっている。鵜飼が闇の中で篝火を焚いて行われるが、それが殺生の罪の後生の闇を思わせ、

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉

の句を思わせる。
 その殺生の罪の垢を錆鮎漁が引き継いでゆく。前句の「闇のはじめ」に応じた付けだ。
 第三。

   鵜船の垢をかゆる渋鮎
 近道に鶏頭畠をふみ付て     岱水

 前句の罪の垢を近道しようとして鶏頭を踏んだ罪として、鵜舟、渋鮎と罪つながりで付ける。
 鶏頭は食用にもされていて、

 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花 嵐雪

の句もある。食用なら畠で作られていてもおかしくない。
 四句目。

   近道に鶏頭畠をふみ付て
 肩のそろひし米の持次      依々

 「持次(もちつぎ)」はよくわからないが、運んできた米を途中で交代して運ぶ人のことか。前句の鶏頭を踏んだ犯人とする。
 五句目。

   肩のそろひし米の持次
 見かへせば屋根に日の照る村しぐれ 濁子

 米の持ち次が降る変えると、時雨も上がって屋根に日が照るのが見える。
 六句目。

   見かへせば屋根に日の照る村しぐれ
 青菜煮る香の田舎めきけり    芭蕉

 時雨の頃は青菜の季節で、時雨も上がる頃に青菜煮る煙の臭いがし出すと、田舎に来たなという実感がわく。
 陶淵明の園田の居は

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓

と、犬や鶏の声に田舎を感じさせるが、それを卑俗なものに言い換えるのが芭蕉だ。
 初裏、七句目。

   青菜煮る香の田舎めきけり
 寄リつきのなき女房の㒵重き   岱水

 「寄りつき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寄付」の解説」に、

 「① よりつくこと。そばへ寄ること。
  ※評判記・満散利久佐(1656)野関「なべての人、うちとけがたく、心をかれて、人のよりつきすくなし」
  ② 頼りとするところ。よるべ。〔詞葉新雅(1792)〕
  ※俳諧・袖草紙所引鄙懐紙(1811)元祿六年歌仙「青菜煮る香の田舎めきけり〈芭蕉〉 寄りつきのなき女房の㒵重き〈岱水〉」
  ③ はいってすぐの部屋。玄関脇にある一室。袴付け。
  ※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)二「先よりつきに矢の根を琢き立、其次に鑓の間あれば」
  ④ 舞台などの正面。観客に向かった側。
  ※雑俳・太箸集(1835‐39)四「神楽堂よりつき丈は戸樋がある」
  ⑤ 茶庭などに設ける簡略な休息所。
  ※落語・素人茶道(1893)〈三代目春風亭柳枝〉「兎も角も御寄付(おヨリツキ)から拝見を為(し)て、御庭を拝見為て」
  ⑥ 取引市場で、前場または後場の最初の取引。また、その値段。寄り。⇔大引け。
  ※洒落本・北華通情(1794)「朝の寄(ヨリ)つき合図の拍子木は」
  ⑦ 「よりつきねだん(寄付値段)」の略。
  ※雑俳・冠付五百題(1857)「追々繁昌・寄付(ヨリツキ)がヱヱ低いので」

とある。②にこの句が用例として挙げられている。
 田舎に帰っても頼るあてのない女房はつらいものだ。
 八句目。

   寄リつきのなき女房の㒵重き
 夜すがら濡らす山伏の髪     芭蕉

 身寄りをなくして一人ぼっちになった女房が山伏に顔を押し付けて毎晩の様に泣くが、その㒵が重いという所に俳諧がある。
 九句目。

   夜すがら濡らす山伏の髪
 若皇子にはじめて草鞋奉リ    濁子

 たかが草鞋一足とは言え、皇子様から下賜されたもの。感激の涙を流す。
 十句目。

   若皇子にはじめて草鞋奉リ
 渡しの舟で草の名を聞      依々

 草履の下賜は渡し舟で草の名を教えてたことへのお礼だった。一字の師という言葉があるが、草の名一つでも師で、その恩に報いる。
 十一句目。

   渡しの舟で草の名を聞
 鷭の巣に赤き頭の重リて     芭蕉

 バン(鷭)は全身が黒っぽくて額から嘴の付け根辺りまでが赤い。川や池の草の生える中に巣を作る。「赤き頭の重リて」は子バンがたくさん生まれたのであろう。
 十二句目。

   鷭の巣に赤き頭の重リて
 ばけ物曲輪掃のこす城      濁子

 「曲輪(くるわ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「曲輪」の解説」に、

 「城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い。江戸時代になって「郭」の字もあてるようになった。構造の形態や位置などによって,二ノ曲輪,三ノ曲輪,内曲輪,外曲輪,横曲輪,引張曲輪,帯曲輪などの名称がある。また,「廓 (郭) 」と書いて,遊里,遊郭をもさすようになった。」

とある。
 芦を刈ったあとの取残されたバンの巣を例えて言ったものであろう。