2021年9月23日木曜日

 きのうの十六夜もよく見えた。今日も晴れているが暑い。いきなり残暑が来た。
 そういえば昨日の夜は風呂場にカマドウマ(いとど)が現れた。
 今日は十七夜、立待ち月。まだ昇らない。
 今の時代、人間の共感能力が衰えているかというと、決してそんなことはない。大体人間の本性なんてのはそんな変わらないものだ。
 では変わったのは何かと言うと、圧倒的な情報過多だ。情報が多くなっても、共感能力は今まで通りだ。世界中のたくさんの人々の不幸な情報があり、日々の沢山の事件の報道がある。でも人間の共感能力は昔の小さな村で暮らしてた頃から変化していない。そこで広く浅い共感が広まることになる。
 小さな村での出来事なら、当事者のこともよく知っているし、事件にどういう背景があって、村の人たちの誰がどのように反応し、誰がどのように言い立てていて、何がややこしくしているかまで、事細かに推測する余裕がある。
 これが世界中のこととなると、とてもそういう細やかな処理はできず、大雑把な観念だけで処理する。それぞれの短絡的な善悪だの、正義だの、主義主張だのの押し売りになって、収拾がつかなくなる。
 情報過多の時代で大事なのは、いかに情報をカットするかだ。どんな事件にもすべて反応するなんてのは人間の能力を超えている。たとえ冷たいと言われても、知らないものは知らない、無視するものは無視する、それが大事だ。
 あと、元禄六年夏の「其富士や」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 その元禄六年夏の「其富士や」の巻の二十句目に、

   鵜の眠る出崎の春の静さよ
 罪なくて見む知らぬひの果    素堂

の句があったが、この「罪なくて見む」は「罪無くして配所の月を見る」という言葉から来ていて、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「(「古事談‐一」などによると、源中納言顕基(あきもと)がいったといわれることば) 罪を得て遠くわびしい土地に流されるのではなくて、罪のない身でそうした閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをするということ。わびしさの中にも風流な趣(おもむき)のあること。物のあわれに対する一つの理想を表明したことばであるが、無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれるとの意に誤って用いられている場合もある。
  ※平家(13C前)三「もとよりつみなくして配所の月をみむといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとどあへて事共し給はず」

とある。
 天和三年刊其角編の『虚栗』にも、

 何配所ここも罪なき閨の月    玄斊

の句がある。斊は斉の異字体で読みは「げんせい」であろう。
 月見は宮中などの宴として広まり、元は月そのものを鑑賞するというよりも月が明るいので、みんなで夜を楽しもうというものだった。
 月の明るさよりも月そのものに関心を剥けるようになったのは、配流の先で宮中の月見の宴を思い出して、悲嘆をくれるという所から、配流でなくても『源氏物語』のように政争の難を避けて須磨に隠棲して月を見る、という所へ展開されていった。
 都を離れて、月を静かに見るというのが一つの風流として確立されていったのは、この流れをさらに一歩進める所にあった。
 源顕基はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「源顕基」の解説」に、

 「1000-1047 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
長保2年生まれ。源俊賢(としかた)の長男。藤原頼通(よりみち)の養子。後一条天皇にあつく遇され,従三位,権(ごんの)中納言にすすむ。天皇の死により,長元9年(1036)二君につかえずとして出家。風流貴公子とつたえられ,説話がおおい。永承2年9月3日死去。48歳。法名は円照。」

とある。紫式部の一回り下の世代になる。
 同じ『虚栗』に、

   謫居
 象潟の月や流人のたすけ舟    琢菴

の句がある。これは実際には流人ではないけど、流人の立場にたってという題詠だが、こういう趣向もやはり「罪なくして配所の月を見る」ということにもなるのだろう。
 遠い陸奥の象潟の月に思いを馳せて、あの月は流人も慰められるのだろうな、と詠む。

 月に飢て旅人古郷の尋ヲ腹    皷角

の句は流人の気持ちになるのではなく、純粋に風流のこころから月に飢えて月を求めて旅をする心を詠む。「腹」には「アヂハフ」とルビがふってある。

 月を語レ越路の小者木曾の舟   其角

 越路の小者は

 影さえててらすこし地の山人は
     月にや秋をわすれはつらん
              藤原定家(拾遺愚草)

であろうか。木曽の月は、

 木賊刈る園原山の木の間より
     磨かれ出づる秋の夜の月
              源仲正(夫木抄)

の歌がある。いずれも大宮人でも流人でもなく月を語れということに、俳諧の月の趣向は広がることになる。

 たらひ迄日比の月ノ寐衣哉    四友

 「日比のたらひ迄月ノ寐衣哉」の倒置になる。
 寐衣は「ネマキ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寝巻・寝間着」の解説」に、

 「〘名〙 夜、寝るときに着る衣服。寝衣(しんい)。〔運歩色葉(1548)〕
  ※咄本・私可多咄(1671)一「ふだんのねまきはうらおもてなしに、両めんよしと也」

とある。夜着とはまた違うものだったようだ。元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目に、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

の句があり、この次の句を去来が付けかねていた時、芭蕉が「能上臈の旅なるべし」とアドバイスし、

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

ができたことが『去来抄』に記されている。上臈のイメージがあったのかもしれない。「めづらしや」の巻二十二句目にも、

   此雪に先あたれとや釜揚て
 寝まきながらのけはひ美し    芭蕉

の句がある。
 盥で夜に洗濯していると、盥に月が写り、日頃の盥に月の寝巻があるかのようだという句になる。

 牛吼て山路が鼾月高し      柳興

 これは牧童であろう。牛は声を上げ、牧童は山路で高鼾をかいている。「山路」は「サンロ」とルビがある。

 富士の月戎には見せじ遠眼鏡   疎言

 戎は「エゾ」とルビがある。当時シャクシャインの乱など多少噂くらいはあったかもしれないが、それほど日本人の関心を引くものでもなく、ここでいうエゾも古典に登場するエゾのイメージを出なかったのではないかと思う。
 遠いところに住んでいるから、遠眼鏡(望遠鏡)があれば富士が見えるのではないか、というネタになる。一応富士山が見える北限と言われているのは福島県の阿武隈高地にある花塚山(918メートル)だという。
 「えぞには見せじ」のフレーズは、

 胡沙吹かばくもりもぞするみちのくの
     えぞには見せじ秋の夜の月
              西行法師(夫木抄)

から来ている。胡沙はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「こさ」の解説」に、

 「〘名〙 (husa 「息吹」が、古く取り入れられたもの) 蝦夷(えぞ)の人が息をはくこと。また、それによって生じるという深い霧。蝦夷は口から気を吹いて霧を生ずる術を持ち、危険を感じるとそれで身を隠すと信じられたことから出たことば。
  ※夫木(1310頃)一三「こさ吹かば曇りもぞする道のくれ人には見せじ秋のよの月〈西行〉」
  [補注]挙例の「夫木抄」の歌は、「北岡本夫木抄」では、「こさふかばくもりもやせん道のくのえぞには見せじ秋のよの月」となっており、作者についても異説が多い。」

とある。その一方で「精選版 日本国語大辞典「胡沙」の解説」には、

 「〘名〙 中国、塞外(さいがい)の胡国(ここく)の砂漠。また、その砂塵。
  ※真愚稿(1422頃か)月下奏琵琶「胡沙草緑明妃塚。猶有二孤魂一帰二漢家一」 〔王維‐送劉司直赴安西詩〕

とある。これだと黄砂のことではないかと思われる。地球の気候は常に変化しているから、古い時代には陸奥や北海道特有の現象だったのかもしれない。
 こさというと、

 芋くへば尻にこさふく今宵哉   三峯

の句があるが、これはシモネタ。
 芋と言えば、

 芋を抱て酒に身なげんけふの淵  桐橋

はなかなか豪快な酒飲みの句だ。

 故寺月なし狼宿をおくりける   北鯤

 山奥の廃寺には月に狼の声がする。これも天和期ならではの趣向だ。近代的な感じがする。

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