2021年9月14日火曜日

 今日は曇っていて蒸し暑い。今日も散歩に出た。彼岸花や鶏頭も咲いていた。柿の実が赤くなり始めている。8,600歩で昨日より距離が伸びた。
 ラジオでトラックの路上駐車の問題を取り上げていた。時間指定のせいだとか、いろいろ議論がある。
 根本的なことを言えば、トラックを止める場所が路上以外にない、というのが原因だ。荒野の真っただ中ではないんだということだ。勝手にトラックを止めていい場所なんてどこにもない。多少トラック用の駐車場を作っても絶対的に数が足りない。
 トラックの業務は基本的に会社が自宅の駐車場を出て集荷に行き、それを指定された場所に納品して、それで終わりだ。ここですぐに帰社になることはあまりないが、基本的には仕事は集荷→納品の繰り返しだ。
 最初の会社か自宅の駐車場は、これが確保されてなければトラックの所有ができないので、ここで路上駐車の問題が生じることはないし、あるとすれば違法な手段で車を所有していることになる。(車庫飛ばしというのは結構よくある。)
 駐車場所が問題になるのは、集荷と納品の場面に限られる。集荷場所に駐車スペースがない。あるいは狭くて複数のトラックが入ることができない。同様に納品場所に駐車スペースがない。あるいは狭くて複数のトラックが入ることができない。この場合路上駐車は必然だ。この問題が解決されない限り、路上駐車の問題は無くならない。
 集荷の場合、大きな流通センターを作って、そこに広い駐車スペースを確保できればある程度解決できる。
 納品の場合は前述の流通センターへの、いわゆるセンター納品をしても、そこからまた個々の現場や店舗に運び込まなくてはならないから、根本的な解決にはならない。
 納品場所に一度に複数のトラックが着いたら、その周辺に止めて順番を待つしかない。それを避けるために事前の電話連絡を義務付けて、呼ばれたら現場に入るようにしている所も多いが、近所に並ばれて苦情が来るのが防げるだけで、トラックドライバーはただ別の場所に止めて待つだけのことだ。
 エリアを決めて待機を禁止している現場もあるが、これも押し入れにゴミを詰め込んで片づけたと言っているようなものだ。Aという現場の一キロ以内の待機を禁止しても、その一キロ圏外にトラックが溜まってしまうだけだし、その圏外にBという現場があれば、そこへ来たトラックがA現場の前で待機するようになって、待機場所交換をするだけだから、現状は何も変わらない。
 店舗配送の場合は、センター納品を基本として、店舗に納品する積荷をひとまとめにして最小限の数のトラックで納品するというのが一応の答えになる。つまり納品各社のトラックがそれぞれ自分の会社の商品を運ぶのではなく、他社の商品と混載することでトラックの台数を減らし、一本化できれば、店舗前に複数のトラックが殺到する事態を避けられる。コンビニや大手チェーン店では既にやっている。
 建築現場の場合、納品方法が多様なので、混載は難しい。さすがに生コンと鉄骨を混載するわけにはいかない。ただ、雑貨などの手卸できるようなものは、混載するシステムが作れるのではないかと思う。
 路上駐車に対する社会に目は、これからますます厳しくなるし、さらに将来の自動運転化を目指すなら、効率的な混載システムはビジネスチャンスになる。
 ただそれに必要な規制緩和を行い法改正をするということになると、いろいろ問題も生じてくるだろう。無駄に多くのトラックが動いているから、そのおこぼれで食っていけるという業者もいるだろうし。

 これまで主に『校本芭蕉全集 連句篇』を元に俳諧を読んできたが、残すは元禄六年のみになった。その元禄六年の秋の俳諧も読み終え、残る秋の俳諧がなくなってしまった。
 そこで次は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の「存疑之部」の「重々と」の巻を読んでみようと思う。
 この巻は桃青と立圃の両吟になているが、この立圃が野々口立圃のことだとしたらありえない組み合わせだ。野々口立圃は雛屋立圃とも呼ばれているが、寛文九年没で、対面したとしても芭蕉がまだ伊賀にいた頃の話になってしまう。
 ただ、中村注によると能役者服部栄九郎(宝生家十世の家元)二世立圃というのがいて、それだと芭蕉晩年の両吟と思われるという。
 後世の偽作だとした場合、不易の句はわりかし真似しやすく、流行の句は難しいというのは大体わかるだろう。今から百年前に何が流行したかなんて言われても、なかなかわかるものではない。
 また、芭蕉のが得意とした衆道ネタ、経済ネタ、被差別民ネタ、ちょっと道徳めいた句とかはわりかし真似される傾向にあるだろう。
 蕉風の場合は新味を命とするから、その時代ならではのあるあるネタが多くなる。それがほとんどないとなると、疑った方が良い。
 まずは発句だが、

 重々と名月の夜や茶臼山     芭蕉

の句で、この句は『校本芭蕉全集 第五巻』中村注によると、元禄十四年の序のある『射水川』収録の、

 名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉

の句があるという。この句は『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫)にも年次不詳の所にある。またその注には、

 「底本序文中に『一とせ洛の法師をすかして古翁の吟詠二章を得たり云々』とあって九五八と並記。」

とある。その九五八は、

 うとまるる身は梶原か厄仏    芭蕉

の句になっている。その『射水川』は十丈という人の編で、早稲田大学の「古典籍総合データベース」に上巻がアップされている。序文の中にこの二句が並べられていて、本文は元禄九年の紀行になっている。伊勢では凉菟・支考、京では去来・風国、木曽塚では正秀・丈草などの名前が見られる。
 「名月の」の句が芭蕉の句なのはほぼ間違いはないだろう。洛の法師が誰かはわからないが、おそらくは上方で詠まれた句で、そうなると茶臼山もその方面の山と見ていいのだろう。
 元禄七年の名月は伊賀で過ごし、

 名月に麓の霧や田のくもり    芭蕉
 名月の花かと見えて棉畠     同
 今宵誰よし野の月も十六里    同

の句を詠んでいる。支考が『笈日記』に「名月の佳章は三句侍りけるに」とあるから、この時はこの三句だけだったと思われる。
 元禄六年の名月は深川で閉関していて、八月十六日に、

 いざよひはとりわけ闇のはじめ哉 芭蕉

を発句とする歌仙興行が行われた。この年でもないだろう。
 元禄五年の名月も江戸にいて、

 名月や篠吹く雨の晴れを待て   濁子

を発句とする半歌仙興行が行われた。この年でもないだろう。
 元禄四年の名月は木曽塚で月見の会が行われた。この時のことは支考の『笈日記』に、

  「三夜の月
   是もむかしの秋なりけるが今年は月の本ずゑ
   を見侍らんとて待宵は楚江亭にあそび
   十五夜は木そ塚にあつまる。いざよひは船を
   浮てさゞ浪やかた田にかへるとよめるその浦の
   月をなん見侍りける。路通がまつ宵に月
   をさだむる文あり支考が名月の泛湖の賦
   あり阿叟は十六夜の辨をかきて竹内氏の
   所にとゞむ。此三夜を月の本末と名づけて
   成秀楚江が二亭に侍り。文しげゝれば爰に
   しるさず。
   十四夜
 うかるなよ跡に月まつ宵の興   路通
 まつ宵はまだいそがしき月見哉  支考
   十五夜
 米くるゝ友を今宵の月の客    翁
 五器たらで夜食の内の月見哉   支考
   十六夜 三句
 やすやすと出ていざよふ月の雲  翁
 十六夜や海老煎る程の宵の闇
   その夜浮見堂に
        吟行して
 鎖あけて月さし入よ浮み堂」(笈日記)

とある。
 膳所には茶臼山古墳があり、十五日の木曽塚の月見の会で詠まれた可能性は十分にある。この時集まったメンバーは『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、路通・正秀・楚江・智月・道休・究音・成昌・丈草・支考。珍碩(洒堂)だったという。
 元禄三年の名月も木曽塚で月見の会があり、元禄九年刊風国編の『初蝉』には、

 名月や兒たち並ぶ堂の縁     芭蕉
   とありけれど此句意にみたずとて
 名月や海にむかへば七小町    同
   と吟じて是もなほ改めんとて
 名月や座にうつくしき顔もなし  同
   といふに其夜の句はさだまりぬ

とある。
 最後の「うつくしき顔もなし」の句は尚白との両吟歌仙が巻かれている。この年の可能性もある。
 元禄四年だとすると、

 名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉

の形ではなかったかと思う。

 重々と名月の夜や茶臼山     芭蕉

だと、

 やすやすと出ていざよふ月の雲  芭蕉

の句との被りが気になる。
 元禄三年だとすると、「重々と」の形の句を作って未発表だったものを、翌年に「やすやすと」の句に使い回し、その後改作した形を誰かに托した可能性もある。
 いずれにせよ、発句が芭蕉の句であるのは間違いあるまい。茶臼山の麓に来れば、琵琶湖の向こうから大きな月が重々しく登る。
 脇は、

   重々と名月の夜や茶臼山
 肌寒しとてかり着初る      立圃

 「かり着」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「借着」の解説」に、

 「① 他人の着物を借りて着用すること。また、その着物。
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「いづくともしらぬ敗僧、禅僧の衣をかりぎして」
  ② (比喩的に) 実際とはちがった態度などをよそおうこと。
  ※彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉風呂の後「何時迄経っても、特更(ことさら)に借着(カリギ)をして陽気がらうとする自覚が退(の)かないので」

とある。寒いから上に羽織るものを借りたということか、あるいは拙い俳諧がお寒い限りで、今日は芭蕉さんの指導で借り物の句を詠みますということか。
 第三。

   肌寒しとてかり着初る
 秋の葉のその匂ひより麝香草   立圃

 麝香層(じゃかうさう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「麝香草」の解説」に、

 「① シソ科の多年草。北海道・本州・四国の山地の樹陰に生える。高さ六〇~九〇センチメートル。全体に芳香がある。葉は対生し、短柄があり、葉身は長さ一〇~二〇センチメートルの長楕円形、先はとがり基部は耳形で縁に粗い鋸歯がある。初秋、上部の葉腋に淡紅紫色か白色で長さ三~四センチメートルの筒状唇形花を数個ずつつける。《季・秋》 〔和漢三才図会(1712)〕
  ② 植物「いぶきじゃこうそう(伊吹麝香草)」の異名。
  ③ 植物「うまのすずくさ(馬鈴草)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。
 「かり着」に「匂ひ」の付けだと思われる。ただ、衣裳の匂いではなくあくまで草の匂いなので、その季節を付けている感じもする。
 四句目

   秋の葉のその匂ひより麝香草
 ほうろく買にたれ頼ばや     桃青

 「ほうろく」は焙烙のことで、コトバンクの「世界大百科事典 第2版「ほうろく(焙烙)」の解説」に、

 「浅い皿形の厚手の土器。関西でいう〈ほうらく〉が正しい読みで,〈ほうろく〉はそのなまり。炮烙とも書く。火のあたりがやわらかいので,豆,ゴマ,茶などをいるのに適する。そのため,物炒り(ものいり)を物入りにかけて,出費の続くことを〈焙烙の行列〉というしゃれがある。ほうろく焼きは江戸時代から行われていた料理で,《料理談合集》(1822)には〈ほうろくへしほをもり,魚は何にてもしほの上へならへ,又,ほうろくをふたにして,上下に火を置てやく〉と見えるが,現在ではふつうオーブンで焼き,ポンスしょうゆで食べている。」

とある。
 「焙烙の行列」に掛けたとすれば、出費がかさむから誰か金を持ってる奴に頼まなくてはならない、という意味になる。前句のとの付け筋は不明。
 五句目

   ほうろく買にたれ頼ばや
 かくばかり足の入たる高瀬舟   立圃

 これは「足」をお金を意味する「お足」に掛けて、高瀬舟を使って仕入れに行くのはお金がかかる、という意味になる。
 六句目

   かくばかり足の入たる高瀬舟
 けふも一日蝉のなく椎      桃青

 前句の「足の入たる」を単に船に足を踏み入れるとして、その日和を付ける。椎の木に蝉の鳴く暑い一日で、船は涼しげに感じられる。
 初裏、七句目。

   けふも一日蝉のなく椎
 宿ありと五里程出る家童子    立圃

 暑い日だから通常の旅人なら八里行く所を五里で宿を取る。
 「家童子」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家童子」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (「いえとうじ(家刀自)」の変化した語) =いえとじ(家刀自)〔塵袋(1264‐88頃)〕
  [2] 狂言。鷺(さぎ)流。好きな女の所に出かけようとする男と、だまされまいとする妻のやり取り。」

とある。家刀自はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家刀自」の解説」に、

 「〘名〙 (「とじ」は婦人の尊称) 主婦を尊んでいう語。いえのとじ。いえとじめ。いえとうじ。いえどうじ。内儀。〔高田里結知識碑‐神亀三年(726)二月二九日〕
  ※霊異記(810‐824)中「家室(いへトジ)、家長(いへぎみ)に告げて曰はく〈国会図書館本訓釈 家室 二合家刀自〉」

とある。
 五里しか行かなかったのは女だったからという落ちなのか。
 八句目。

   宿ありと五里程出る家童子
 老はみなみな十念をまつ     桃青

 十念はこの場合は死のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十念を授く」の解説」に、

 「僧が南無阿彌陀仏の六字の名号を一〇遍唱えて信者に阿彌陀仏との縁を結ばせる。浄土宗では、葬式のとき、引導のあと、導師が六字の名号を一〇度唱えることをいう。
  ※謡曲・敦盛(1430頃)「易(やす)きこと十念をば授け申すべし、それについてもおことは誰そ」

とある。
 これもあまり前句と関係なく、人はみんな死んでゆくものだと付けているようだ。
 九句目。

   老はみなみな十念をまつ
 水仙のさかりを見する神無月   立圃

 神無月になるのは前句を「十夜念仏」のこととしたからか。ただ、水仙の盛りは師走ではないかと思うが。
 十句目。

   水仙のさかりを見する神無月
 松毬まだ常盤なりけり      桃青

 松毬は糸偏に毛の文字が用いられているが、『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注により松毬のこととする。字数からすると五文字だから「まつふぐり」になるのか。冬でも松は常盤だが、そこを「松ふぐり」つまり「きんたま」を出すことで落ちにする。
 「松ふぐり」の語は延宝の頃の「色付や」の巻三十八句目に、

   見わたせば雲ははがれて雪の峯
 松のふぐりに下帯もなし     桃青

の用例がある。
 十一句目。

   松毬まだ常盤なりけり
 登られぬ大内山の后がね     立圃

 「后がね」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「后がね」の解説」に、

 「〘名〙 (「がね」は接尾語) 将来皇后に予定されている方。后の候補者。きさいがね。
  ※宇津保(970‐999頃)国譲上「今日明日、女御后がねなどの、対に住み給はんには」
  ※源氏(1001‐14頃)常夏「太政(おほき)おとどの、きさきかねのひめ君ならはし給ふなる教へは」

とある。
 大内山はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「大内山」の解説」に、

 「[1]
  [一] 京都市右京区にある仁和寺(にんなじ)の北の山。宇多天皇の離宮があった。御室山。
  [二] 箏曲。生田流。純箏物。高野茂作曲。高崎正風作歌。明治二七年(一八九四)、明治天皇の銀婚式を祝って作られた。のち、松坂春栄が替手(かえで)形式に改作。
  [2] 〘名〙 (一)(一)から転じて、上皇の御所をいうようになり、さらに宮中をさすようになった。皇居。禁中。
  ※源氏(1001‐14頃)末摘花「もろともにおほうち山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月」」

とある。
 常盤の松から大内山(皇居)に展開したか。
 十二句目。

   登られぬ大内山の后がね
 雨はらはらと郭公聞       桃青

 五月雨の時鳥は古歌に多く詠まれている。こういう不易の句は一見芭蕉らしいが、実は芭蕉の嫌う所のものだ。これまでの発句以外の十一句は、芭蕉の生きた時代ならではの、その時代のネタというのがほとんど見られない。
 付け筋も、芭蕉は貞門時代から軽みの時代までいろいろ変遷はあったけど、それは過去を否定するものではなく、むしろ蓄積し、されに上を行こうという歩みだったが、その芭蕉らしい付け筋も見られない。
 諸兄はどう思われるだろうか。

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