2018年12月31日月曜日

 今年一年もこれで終り。
 いろいろ紆余曲折はあっても、人類はこの地球に繁栄を続け、文明も後戻りすることはなかった。
 今まで来なかった新しい年はなかったし、来年になったらまた毎日毎日世界で何かが起こり、本の新しいページをめくるようにわくわくしながら、次に何が起こるのか見てみたい。
 俳諧的に言うなら、次にどんな句が付いて、今日までの世界が思いもかけない意味に取り成されるのか、楽しみだなーーー。
 では良いお年を。

2018年12月30日日曜日

 いわゆる西高東低の冬型の気圧配置というのか、晴れているが北風が冷たい。日本海側では大雪で帰省する人も大変だ。

  箱根こす人も有るらし今朝の雪   芭蕉

の句も思い浮かぶ。
 鯨の句は付け句の方も調べているが、なかなか見つからない。
 取りあえず二句見つけた。

 納戸の神を斎し祭ル
 煤掃之礼用於鯨之脯     其角

の句は延宝九年の『次韻』の句。
 なんどのしんをものいみしまつる
 すすはきのれいにくじらのほじしをもちふ
と読むらしい。(『校本芭蕉全集 第三巻』による)
 「脯(ほしし)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、「干した鳥獣などの肉。」とだけある。
 「納戸の神」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「寝室や物置に使う納戸にまつる神。西日本に多いが、関東や東北にも点在する。女の神で作神様と考えられているものが多い。納戸神。」

とある。「納戸神」だと、「デジタル大辞泉の解説」に、

 「納戸にまつられる神。恵比須(えびす)や大黒(だいこく)などが多くまつられたが、隠れキリシタンは聖画像をまつった。」

とあり、「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「納戸にまつられる神。納戸はヘヤ,オク,ネマなどと呼ばれ,夫婦の寝室,産室,衣類や米びつなどの収納所として使われ,家屋の中で最も閉鎖的で暗く,他人の侵犯できない私的な空間である。また納戸は女の空間でもあり,食生活をつかさどるシャモジとともに,衣料の管理保管の場所である納戸の鍵も主婦権のシンボルとされていた。納戸神をまつる風習は,兵庫県宍粟郡,鳥取県東伯郡,岡山県真庭・久米・苫田・勝田郡,島根県の隠岐島一帯,長崎県五島などに濃く分布し,家の神の古い形を示すものとされている。」

とある。
 煤掃きは年末の大掃除で「煤払い」と同じだが、その時に鯨の干物を供える風習が本当にあったかどうかは定かでない。何分次韻調だけに、奇抜な空想を楽しんだだけかもしれないからだ。炭俵調だったなら、当時はこういうのがあったんだなという所だろうが。
 ただ、明和天命期の大晦日の鯨汁に何か通じるものはあるのかもしれない。
 もう一句は芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の途中、『冬の日』の名古屋での風吟の直後で、

   尾張の国あつたにまかりける比、人々師走の
   海みんとて船さしけるに
 海くれて鴨の声ほのかにしろし   芭蕉

の発句に付けた脇で、

   海くれて鴨の声ほのかにしろし
 串に鯨をあぶる盃         桐葉

 海辺での野営を思わせる句に、豪快に鯨のバーベキューで一杯というわけだ。
 熱田の海岸では鯨も食べていたのかもしれない。ただ、この句から日常の食事の感じはしない。
 鯨は日本の文化だとはいうが、日本の文化に占める鯨の割合は微々たる物だ。それは鯨を詠んだ句を探すのに苦労するところからもわかる。
 ただ、日本には一部の高等動物だけを「知性がある」という理由で特別視する思想はない。生類は大体一律に大切にすべきものだとされている。「鯨が可哀相だというなら牛は可哀相ではないのか」という日本人は多いのもそのためだ。これは人工的に再生産可能なものとそうでないものを混同しているので、牛をロブスターとかに置き換えた方が良いのかもしれない。まあ、最近西洋ではロブスターどころか過激なビーガンがすべての生類を食べるのをやめさせようとしているが。
 まあ、近代捕鯨はとっくに時代遅れだし禁止しても良いと思う。ただ、世界各地の伝統的な沿岸捕鯨に関しては残しても良いのではないかと思う。

2018年12月28日金曜日

 鯨は本来太平洋岸の漁師などがたまたま取れたものを食べる程度のものだった。
 鯨に限らず海産物の文化というのは鮮度との戦いがあり、鮮度の問題を克服した時、初めて広い地域に広がることができたといって良い。
 『万葉集』に出てくる「いさなとり」という言葉が本当に鯨取りのことだったのか、枕詞としてしか用いられてないのでよくわからない。文字は確かに「鯨魚」となっているが。
 芭蕉の元禄五年の句、

 水無月や鯛はあれども塩鯨   芭蕉(葛の松原)

は鯨が食べられていたことを記す数少ない証言かもしれない。元禄ともなると塩漬けにして保存性を増した鯨の脂身があらわれる。
 水無月の鯛にも勝ると詠んでいるが、旧暦六月ともなると鯛もやや旬を過ぎているし、夏場は食あたりが怖いということも含めていっているのだろう。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によると、この句は支考が江戸の芭蕉庵を訪ね、『葛の松原』の編纂のことを相談し、そのタイトルまで考えてもらったときのもので、

 ほととぎす鳴くや五尺の菖草  芭蕉
 鎌倉を生きて出でけん初鰹   同

などとともに詠んだという。
 あとは芭蕉の死後になるが、

 一ノ籍弥猛ごころや鯨舟    李毛(伊達衣)
 今の世の手柄ものなり鯨つき  吉女(一幅半)
 冬がれの山を見かけて初くじら 芙雀(花の雲)

といった句が見られる。
 元禄十二年ころだろうか、鯨突き(捕鯨)を「今の世の手柄」を呼ぶように、捕鯨のことが都市でも話題となり、その雄大な姿に思いを馳せるようになったのは。
 一世紀後の蕪村の時代になると、大晦日に鯨汁を食べるのがはやったようだ。これは「575筆まか勢」というサイトから拾ったもの。

 いかめしや鯨五寸に年忘れ   樗良
 おのおのの喰過がほや鯨汁   几董
 十六夜や鯨来初めし熊野浦   蕪村
 鯨売り市に刀を皷(なら)しけり 蕪村
 一番は迯げて跡なし鯨突    太祗
 夕日さす波の鯨や片しぐれ   巴人
 暁や鯨の吼ゆる霜の海     暁台
 汐曇り鯨の妻のなく夜かな   蓼太

 まあ、とにかく鯨の句は数としては決して多くはない。
 鯨が日本人の食卓に本格的に普及するのは、むしろ戦後の高度成長期のことで、そんなに古いことではない。
 この頃は戦後の欧米並みの高蛋白な食事を目指した政府の主導で、安価な鯨肉が奨励され、学校給食にも取り入れられた結果だったと思う。
 筆者が子供の頃読んだ学習雑誌には、日本が銛の改良によって世界一の捕鯨大国になったことが誇らしげに書いてあった。当時の世界の捕鯨は鯨油を取るためのもので、肉は余っていて安く手に入ったのであろう。給食で食べた鯨の竜田揚げはパサパサしていて、美味しかったという記憶はない。
 その後大人になって、一度だけ鯨料理屋へ行って、尾の身の刺身も食べてみた。確かに旨いけど、値段を考えると一度食えば良いと思った。
 日本が捕鯨を再開していても、今更鯨油の需要があるわけでもなく、食用としても、一部で好んで食べる人がいるだけで、そんなには盛り上がらないのではないかと思う。多分心配するほど大量に獲ることはないだろう。

2018年12月27日木曜日

 さて「霜月や」の巻もあと四句。一気に行ってみよう、
 と、その前に三十二句目だが、「鐘はなをうつ」をついつい「鐘は猶うつ」と読んでしまったが、これは掛詞になっていて「鐘、花を打つ」という両方の意味がある。
 「猶」は「なほ」だが、「なを」と「なほ」の句別はこの頃は曖昧になっていて、両方の意味に取った方がいい。「鐘花を打つ」だけの意味だったら「鐘に花散る」でも十分だったはずだ。鐘の音が方々からいくつも聞こえてきて、そのつど花がはらはらと散ってゆくと取った方がいい。
 あえて「はなをうつ」と仮名で表記しているのもそのためだろう。
 「狂句こがらし」の巻の脇、

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花   野水

の「とばしる」が「とは知る」に掛かるのと同じに考えていい。
 三十三句目。

   伏見木幡の鐘はなをうつ
 いろふかき男猫ひとつを捨かねて 杜国

 伏見は遊郭のあったところで、遊女達が猫を飼っていたのか。盛りがついてうるさいから捨ててこいなんて言われても、捨てられるものではない。
 あるいは駄目な男と分かっていてもついつい腐れ縁になるという、比喩も含んでいるのか。
 三十四句目。

   いろふかき男猫ひとつを捨かねて
 春のしらすの雪はきをよぶ    重五

 自分では捨てられないので白州の庭の雪掻きをする人を呼んできて猫を追い払ってもらう。「白州」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、「庭先・玄関前などの、白い砂の敷いてある所。」とある。
 前句が「猫の恋」で春なので、「春の」という季語を放り込む。
 三十五句目。

   春のしらすの雪はきをよぶ
 水干を秀句の聖わかやかに    野水

 「水干」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「1 のりを使わないで、水張りにして干した布。
 2 1で作った狩衣(かりぎぬ)の一種。盤領(まるえり)の懸け合わせを組紐(くみひも)で結び留めるのを特色とし、袖付けなどの縫い合わせ目がほころびないように組紐で結んで菊綴(きくとじ)とし、裾を袴(はかま)の内に着込める。古くは下級官人の公服であったが、のちには絹織物で製して公家(くげ)や上級武家の私服となり、また少年の式服として用いられた。」

とある。
 ウィキペディアには、

 「室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。」

とあり、水干は正式な服装ではなく部屋着のようなくだけた場での服装だったのだろう。
 「秀句」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 ①  すぐれた句。秀逸な詩歌。
 ②  和歌・文章・物言いなどにおける巧みな言いかけ。掛け詞・縁語な

ど。すく。 「 -も、自然に何となく読みいだせるはさてもありぬべし/毎月抄」
 ③  軽口(かるくち)・地口(じぐち)・洒落(しやれ)など。すく。 「 -よくいへる女あり/浮世草子・一代男 1」

とある。
 ①は元の意味であるとともに今の意味といってもいい。要するに「秀逸な詩歌」というのがどういうものであるかはその時代の価値観に左右さるもので、連歌や俳諧(特に貞門)で秀逸というのは基本的に②だった。それが江戸時代に大衆化したときに③の意味になったと思われる。
 近代では「傑作」という言葉が、一方では優れた芸術作品を表すのに用いられるが、一方ではギャグ漫画や笑い話の面白いネタに対しても「そいつは傑作だ」というふうに用いられる。それに似ている。
 「聖(ひじり)」今日で「神」と称されるのと同様、その道の名人のことをいう。芭蕉は「俳聖」と呼ばれ、同時代の本因坊道策は「棋聖」と呼ばれた。この種の称号はピンからキリまであり、いつも面白い話をしてくれる人程度でも「秀句の聖」と呼ばれることもあったと思われる。
 「わかやか」は若々しいということ。水干姿の若々しい秀句の聖というのは、実は雪掃きの少年のもう一つの姿なのではないかと思う。
 挙句。

   水干を秀句の聖わかやかに
 山茶花匂ふ笠のこがらし     羽笠

 「狂句こがらし」の巻の脇、

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花   野水

を思い起こし、『冬の日』五歌仙の最後を締めくくる。

2018年12月26日水曜日

 今年も残す所あとわずか。
 去年・一昨年はいろいろ世の中が思わぬ方に動いたが、今年はその反動の年だったか。特に韓国はどこに行くのだろうか。
 まあ、徴用工やレーダーの照射のことは何も言いたくないね。言えば金正恩が喜ぶだけだから。
 資本主義は必然的に侵略戦争を生むというレーニン帝国主義論によるなら、日本の過去の侵略戦争への反省は、資本主義を放棄するまで終ることはない。北も日本の左翼も基本的にそれを狙っている。でもその巻添えで韓国まで資本主義を放棄しなくてはならなくなったりして。まあ、せっかく漢江の奇跡で手に入れた豊かさを簡単に手放すことはないとは思うが。

 では、そんなところで「霜月や」の巻の続き。
 二十九句目。

   露をくきつね風やかなしき
 釣柿に屋根ふかれたる片庇    羽笠

 前句の風に「屋根ふかれたる」と付く。貞門風の古風な付け方だ。
 「片庇」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  片流れの屋根。
  ②  粗末なさしかけの屋根。」

とある。
 三十句目。

   釣柿に屋根ふかれたる片庇
 豆腐つくりて母の喪に入     野水

 喪中なので肉や魚を絶ち、豆腐を作って食べる。
 二裏に入る。三十一句目。

   豆腐つくりて母の喪に入
 元政の草の袂も破ぬべし     芭蕉

 元政は日政の通称で、ウィキペディアには、

 「日政(にっせい、通称:元政上人(げんせいしょうにん)元和9年2月23日(1623年3月23日)- 寛文8年2月18日(1668年3月30日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した。俗名は石井元政(もとまさ)。幼名は源八郎、俊平。号は妙子・泰堂・空子・幻子・不可思議など。」

とある。
 さらにウィキペディアには、

 「1667年(寛文7年)に母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり一月あまり留まるがその翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰る。日燈に後事を託して寂す。享年46。遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。」

とある。句はこの本説と言えよう。
 三十二句目。

   元政の草の袂も破ぬべし
 伏見木幡の鐘はなをうつ     荷兮

 元政の開いた深草瑞光寺は伏見にある。木幡は隣の宇治市になる。今でもその鐘は鳴り響いている。

2018年12月24日月曜日

 今日は世間ではクリスマス。まあクリスチャンじゃないから、はぴほりー、でいいのかな。
 今日は足柄へ行って、洒水の滝を見た。洒は洒堂のシャ。酒ではない。
 そして昨日作っておいたご馳走、タン&頬肉シチューも食べた。

 それでは「霜月や」の巻の続き。
 二十五句目。

   萱屋まばらに炭団つく臼
 芥子あまの小坊交りに打むれて 荷兮

 「芥子あま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 頭髪を芥子坊主にした女児。
※俳諧・冬の日(1685)『萱屋まばらに炭団つく臼〈羽笠〉 芥子あまの小坊交りに打むれて〈荷兮〉』」

 「芥子坊主」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「頭髪をまん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。けしぼん。芥子坊。おけし。けし。」

とある。芥子の実に似ているところからそう呼ばれる。
 芥子坊主は当時の子供の一般的な髪型で、

 鞍壺に小坊主乗るや大根引   芭蕉

は元禄六年の句。今でも子供のことを「坊主」と呼ぶのもその名残なのかもしれない。
 「芥子尼」が髪型を指すだけの言葉なら、舞台をお寺に限定する必要はない。「萱屋まばら」の農村に子供達が遊んでいる情景となる。男勝りの女の子が男子に混じって元気に遊ぶ姿はほほえましい。
 二十六句目。

   芥子あまの小坊交りに打むれて
 おるるはすのみたてる蓮の実  芭蕉

 蓮の実は食べられるので、子供が取って食べる格好のおやつだったという。食べごろの蓮の実だけが折られている。
 「食べた」と言わずに折れた蓮の実とそうでない蓮の実があるという所で匂わす所がミソ。単なる景色に出来るから次の句の展開が楽になる。
 二十七句目。

   おるるはすのみたてる蓮の実
 しづかさに飯台のぞく月の前  重五

 「蓮の実」で秋に転じたところで、すかさず定座を繰り上げて月を出す。基本といっていい。
 「飯台」は食事のためのテーブルで、古くはお寺など大勢で食事をする場所で用いられ、一般には一人用の膳で食事をしていた。
 江戸後期になると外食が発達して、店などに飯台が置かれるようになり、近代に入ると西洋式のテーブルに習って家庭に飯台が普及した。特に丸い「ちゃぶ台」は昭和の家庭で広く用いられ、ノスタルジーを誘うものとなっている。
 この場合は蓮の縁もあってお寺の情景か。あまりに静かなので飯台を覗いてみるが、おそらく空っぽだったのだろう。月に浮かれてみんな遊びに行ってしまったか。
 元禄七年の「空豆の花」の巻に、

   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉

の句がある。
 二十八句目。

   しづかさに飯台のぞく月の前
 露をくきつね風やかなしき    杜国

 飯台を覗き込んでいるのは狐だった。

2018年12月23日日曜日

 政治の話をタブーとする人もいるようだが、別に俳諧研究者が政治を語っても良いと思う。アイドルだって芸人だって作家だって漫画家だって一緒だ。気軽に政治を話せる社会が良いと思う。
 ただ、それをあまり作品に持ち込まれてしまうと、結局笑う人と怒る人との分断を産み、作品そのものが広く大衆にいきわたらなくなる。それは作家の自己責任だと思う。
 沖縄の基地問題というのは、基本的には戦後の東西冷戦構造下で、あそこが中国・北朝鮮・ソ連・北ベトナムを見据えた前線基地になってしまったからだ。
 だから、沖縄の基地をなくすには簡単に言えば、冷戦を終らせれば良いということになる。
 ソ連が崩壊し、ロシアになってからはアメリカとロシアの対立はかなり和らいだ。ベトナムも緩やかな体制になり今は危険はない。後は中国の海洋進出と北朝鮮問題が片付けば、あそこに米軍がいる必要もなくなるし、基地問題は自ずと解決することになる。アメリカだってコストが馬鹿にならないから、早く引き上げたい所だろう。
 基本的には中国と北朝鮮に民主化と経済開放を求めてゆくことが大事で、それ以外の基地問題の解決策は、結局はその場しのぎのものにすぎない。基地をどこかに移転したとしても、結局移転先で同じ問題が繰り返されるだけだ。
 世界が平和になれば基地問題は解決する。子供でも分かることだ。そのために何をしなくてはならないか、敵を見誤らないことだ。

 それでは「霜月や」の巻の続き。
 二の懐紙に入る。十九句目。

   篭輿ゆるす木瓜の山あい
 骨を見て坐に泪ぐみうちかへり 芭蕉

 「坐」は「そぞろ」で「漫」という字を書くことも多い。
 いわゆる「野ざらし」だろうか。行き倒れになった旅人の骨が落ちていて、思わず駕籠から降りて涙ぐむ。
 二十句目。

   骨を見て坐に泪ぐみうちかへり
 乞食の蓑をもらふしののめ   荷兮

 昔は人が死ぬと河原にうち捨てて葬った。そこで永の別れとばかり大声で泣く。韓国の「アイゴー」のように、かつての日本人は大声で泣いた。
 河原にはそうした遺体を処理する被差別民が住んでいて、「河原乞食」とも呼ばれていた。処理してもらう代金にと新しい蓑を与えたのであろう。
 しののめというと、

 あづまののけぶりの立てる所みて
     かへり見すれば月かたぶきぬ
              柿本人麻呂(玉葉集)

の歌も思い浮かぶ。「けぶり」おそらく火葬のものであろう。西に渡る月に無常が感じられる。この歌を「ひむかしの野にかげろひのたつ見へて」と訓じるのは、賀茂真淵以降のこと。
 二十一句目。

   乞食の蓑をもらふしののめ
 泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て 杜国

 哀傷の句が二句続いた所で、ここでガラッと気分を変えたいところだ。
 洪水の後だろうか。泥の上で思いがけず大きな鯉を拾ったが、どうやって持って帰ろうかと思っていると、親切な河原乞食の人が「これで包んでいけや」と蓑を貸してくれた。
 二十二句目。

   泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て
 御幸に進む水のみくすり    重五

 鯉は龍の子ともいわれる吉祥で、御幸の献上品にふさわしいものの、何分生ものだから天子様に何かあっては一大事と、水飲み薬も添えて差し出す。
 二十三句目。

   御幸に進む水のみくすり
 ことにてる年の小角豆の花もろし 野水

 「小角豆」はササゲと読む。ウィキペディアには「日本では、平安時代に『大角豆』として記録が残されている」ともいう。赤飯にも用いられる。薄紫の豆の花を咲かせる。
 ただ、今年は特に旱魃がひどく、丈夫なササゲも元気なく花ももろく散ってしまう。
 そんな状況を視察に来たのだろうか。天子様に奉げるようなものもなく、水飲み薬を献上する。ササゲは「奉げる」に掛かる。
 二十四句目。

   ことにてる年の小角豆の花もろし
 萱屋まばらに炭団つく臼    羽笠

 「炭団(たどん)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「木炭の粉末を主原料とする固形燃料の一つ。木炭粉にのこ屑炭,コークス,無煙炭などの粉末を混合し,布海苔,角叉,デンプンなどを粘結剤として球形に固めて乾燥させてつくる。一定温度を一定時間保つことができるのが特徴で,火鉢,こたつの燃料として愛用され,またとろ火で長時間煮炊きするのに重用された。」

とある。昔は墨の粉を集めて自分の家でそれを臼で搗いて作って、火燵や火鉢に使っていたようだ。

2018年12月22日土曜日

 今日は一日小雨が降った。夕方には止み、雲間にほぼ満月に近い月が見えた。
 話は変わるが、昔から職人の世界で、「仕事は習うのではなく見て盗め」というのは、決して意地悪で言っているのではない。
 仕事を教えるというと、職場の師弟の上下関係では先輩の言うことは絶対で、あれもこれも教わってしまうと、先輩の良いところだけでなく、悪い所も真似てしまう。これでは進歩がない。
 「盗め」というのは自分の技術向上に必要な良い物だけを選んで真似しろということで、これだと先輩の良い所だけ受け継ぎ、悪い物を捨てることが出来る。
 職人の世界では、自分の息子をあえて他の職人の所で修行させたりする。こうしてそれぞれの良い所だけを受け継ぎ、悪い所を捨ててゆくことで、職人の技術は進歩してゆくことになる。
 ただ学問の世界の師弟関係は微妙で、それはやはり教条(ドグマ)を受け継ぐという側面が強くなる。職人は結果がすべてだが、学問は「保存」優先になりやすい。
 蕉門の師弟関係も、おおむね庶民の出の人は職人のような師弟関係をイメージし、武家出身の人は学者の師弟関係に近い捉え方をしていたのではないかと思う。それが、其角、路通、惟然のラインと去来、許六のラインを隔てていたのかもしれない。

 長くなったが、それでは「霜月や」の巻の続きを少々。
 十五句目。

   麻かりといふ哥の集あむ
 江を近く独楽庵と世を捨て   重五

 歌集の主を出家して「独楽庵」を名乗る人物とする。「江を近く」は隅田川のほとりの深川に住む芭蕉庵にも通う。
 「独楽」は独り楽しむの意味だが、日本では玩具のコマにこの字を当てる。
 十六句目。

   江を近く独楽庵と世を捨て
 我月出よ身はおぼろなる    杜国

 我が月というと、

 月みればちぢにものこそ悲しけれ
    わが身一つの秋にはあらねど
              大江千里(古今集)

の心か。月はみんなが見ているし、月に悲しくなるのも自分ひとりではないが、それでも自分だけがことさら悲しいように思える。まあ、自分の月は自分自身で直接感じられるのに対し、他人の月は推測にすぎないから当然といえば当然だが。
 春の朧月の霞むさまは、さながら世間から忘れ去れて影の薄くなる自分のようでもある。
 十七句目。

   我月出よ身はおぼろなる
 たび衣笛に落花を打払     羽笠

 花の定座で、花の散る中を笛を吹く旅人を登場させる。身が朧なのは、もしかして敦盛の亡霊?
 十八句目。

   たび衣笛に落花を打払
 篭輿ゆるす木瓜の山あい    野水

 「篭輿(ろうごし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 〘名〙 囚人を護送するために用いる輿。
※金刀比羅本保元(1220頃か)下「さしもきびしく打付たる籠輿(ロウゴシ)の」

とある。「ろうよ」と読むと、

 〘名〙 竹でこしらえた粗末なこし。かごこし。
※北条五代記(1641)二「両人の若君をいけとり奉りろうよにのせ申」

という意味になる。
 山間の道で木瓜の枝が道を塞ぎ、その花を笛で振り払いながら歩く旅衣の人物は囚人で、険しい道だから駕籠から降りて歩くことを許される。

2018年12月20日木曜日

 「霜月や」の巻の続き。
 十一句目。

   茶に糸遊をそむる風の香
 雉追に烏帽子の女五三十    野水

 前句をお茶会の場面として女の集まりへと展開したのだろう。お茶会といっても茶道のようなあらたまった席ではなく、要するに茶飲み話をする会だろう。男ならすぐに酒盛りということになるが、お茶だから女という連想になる。
 「雉追(きじおい)」はよくわからないが「鳥追い」の一種だろうか。「鳥追い」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 「①  田畑に害を与える鳥獣を追い払うこと。また、そのしかけ。かかしなど。
 ②  田畑の害鳥を追おうとする小正月の行事。子供たちが鳥追い歌をうたって家々を回ったり、田畑の中に仮小屋を作り、鳥追い歌をうたいながら正月のお飾りを焼いたりする。鳥追い祭。」

とある。②に近いもので特に正月に関係のない行事を想定したものではないかと思う。
 女の烏帽子は白拍子と思われる。
 「五三十」は『連歌俳諧集』の注に「初め五人位とみたら三十人もいたとの意か」「あるいは五、六十の誤記かとも考えられる」とあるが、いくらなんでもそれじゃ多すぎるだろう。
 こどもが十を数える時に関東では「だるまさんがころんだ」(関西では「ぼうさんがへをこいた」)というが、それをずるして早く数える時に「みなと」と使った。三七十のこと。五三十もそのようなもので、ここに五人、あそこに三人、それにまだいるから全部で十人、というくらいの意味ではないかと思う。
 十二句目。

   雉追に烏帽子の女五三十
 庭に木曾作るこひの薄絹    羽笠

 「木曾作る」は謎だが、前句の女が白拍子だとしたら、檜舞台のことか。薄絹を着て恋の舞を舞う。
 十三句目。

   庭に木曾作るこひの薄絹
 なつふかき山橘にさくら見ん  荷兮

 夏に咲かない桜は似せ物の桜、桜のように華やかなものを見に行こう、ということか。夏に咲くのは女性の薄絹の花。
 十四句目。

   なつふかき山橘にさくら見ん
 麻かりといふ哥の集あむ    芭蕉

 歌集のタイトルとしては「〇〇集」のようなものが多く、大体は漢語で「あさかり」のような大和言葉のタイトルはあまりないように思える。
 ただ芭蕉の晩年の話になるが『去来抄』には「去来曰、浪化集(らふくゎしふ)の時上下を有磯海(ありそうみ)・砥波山(となみやま)と号す。先師曰、みな和歌の名所なれば紛し、浪化集と呼べし。」とある。雅語のタイトルは和歌のイメージがあったのかもしれない。
 夏の山にわざわざ桜を求めて分け入る風狂者からの、歌集とかも編纂していそうだということで、後で言う位付けに近いかもしれない。「麻かり」は「浅かり」と掛けて、謙遜の意味を込めているのだろうか。
 なお、寛政五年(一七九三)、芭蕉の百回忌に暁台の門人の士朗が『麻刈集』を編纂している。

2018年12月19日水曜日

 「霜月や」の巻。とにかくゆっくり進めて行こうと思う。
 初裏。
 七句目。

   酌とる童蘭切にいで
 秋のころ旅の御連歌いとかりに 芭蕉

 「御連歌」は宮中で行われる連歌や将軍の主催するものなど、かなり格式の高いものを連想させるが、「旅の」となるとそれがミスマッチな感じがする。
 「いとかりに」というのも「かりそめに」というところをわざと拙い言い回しをしたみたいで、これは本物の貴人(あてびと)ではなく、単に貴人を気取っている人の連歌会なのかもしれない。
 八句目。

   秋のころ旅の御連歌いとかりに
 漸々はれて富士みゆる寺    荷兮

 字体が紛らわしく、「漸々(ようよう)」と読む説と「漸(ようや)く」と読む説とある。意味はそれほど変わらない。
 前句の貴人の連歌会の会場を富士の見える寺とした。連歌会はお寺で行われることが多かった。
 九句目。

   漸々はれて富士みゆる寺
 寂として椿の花の落る音    杜国

 山茶花は一枚一枚ひらひらと散るが椿はぼとっと落ちる。その音が聞こえるくらい静かな寺という意味。

 散る花の音聞く程の深山かな  心敬

の連歌発句に似ているが、椿の方が本当に音が聞こえそうだ。
 十句目。

   寂として椿の花の落る音
 茶に糸遊をそむる風の香    重五

 「糸遊(いとゆう)」は結構厄介な題材で、陽炎(かげろう)のことだというが、今日知られている陽炎はかなり高温のときに発生するもので、春に見たことがない。野焼きなどの時なら分かる。

 曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』の「糸遊」の所には、

 「野馬塵埃也。生物以息吹者也。稀逸註云、野馬糸遊也。水気也。○杜詩、落花糸遊白日静。○かげろふ・糸遊一物にて、糸遊は異名也。」

とある。
 また、「陽炎」のところには、

 「陽炎・糸遊、同物二名也。春気、地より昇るを陽炎或はかげろふもゆるともいひ、空にちらつき、又降るをいとゆふといふなり。」

とある。 いくつかの現象が「糸遊・陽炎」という言葉で一緒くたにされ

ている可能性もあり、
 古典に登場する時は、いくつかの現象が「糸遊・陽炎」という言葉で一緒くたにされている可能性もある。
 「落花糸遊白日静」の句は『杜律集解』巻六にあるらしいが、前句の「寂として」「花の落る」に「糸遊」を付けているところから、この句が意識されていた可能性はある。
 茶の湯気が糸遊を染めているかのような風の香がするというのが句の意味。

2018年12月18日火曜日

 「霜月や」の巻の続き。
 第三。

   冬の朝日のあはれなりけり
 樫檜山家の体を木の葉降    重五

 「山家(さんか)」は「やまが」ともいう。山の中にある家や山里のことをいう。
 山地を廻る漂白民のことを「サンカ」ということもあるが、ウィキペディアによると「江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の文書にあらわれるのが最初である」というから、この時代にサンカがいたかどうかは不明。「明治期には全国で約20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されているが、実際にはサンカの人口が正確に調べられたことはなく、以上の数値は推計に過ぎない。」とウィキペディアにある。
 樫と檜は常緑樹で樫や檜に囲まれた山中の家は隠士の住まいなのかもしれない。

 樫の木の花にかまはぬ姿かな  芭蕉

はこのあと芭蕉が三井秋風の別亭に行ったときに詠むことになる。
 季節に関係なく過ごしているようでも、どこからともなく風に乗って落ち葉が舞い、朝の景色に彩を添え、山家らしい風情になる。
 「降」は「ふり」と読む説と「ふる」と読む説がある。『連歌俳諧集』は「ふり」とし、『校本芭蕉全集 第三巻』は「ふる」とする。「ふる」の方が良いと思う。「木の葉降り冬の朝日のあはれなりけり」と続けると
「あはれ」の原因を説明しているようで理が強くなる。「木の葉降る冬の朝日」と受けた方が良いように思える。
 四句目。

   樫檜山家の体を木の葉降
 ひきずるうしの塩こぼれつつ  杜国

 「ひきずる」については、『校本芭蕉全集 第三巻』は「牛の口をとる。牛が重荷を負って坂を登る体」とし、『連歌俳諧集』では「人が牛の口をとって引きずるようにしているさまと解するが、元来、牛は追うものであるゆえ、従いがたい」とする。
 牛は背中に荷物を乗せる場合が多く、荷物を引きずって運ぶというのは考えられない。車を引くなら分かるが、塩の入った袋や俵を引きずったら破れてこぼれるに決まっているから、そんなことはありそうにない。それに牛を思った方向に歩かせようとすれば、口を取って引っ張るのが普通だと思う。
 前句の「山家」を山村のこととし、山間の道の風景を付ける。長い山道では俵の隙間から少しずつ塩がこぼれてゆく。
 五句目。

   ひきずるうしの塩こぼれつつ
 音もなき具足に月のうすうすと 羽笠

 「具足」はウィキペディアによれば、

 「日本の甲冑や鎧・兜の別称。頭胴手足各部を守る装備が「具足(十分に備わっている)」との言葉から。」

だという。
 夜中に具足を着た連中がこっそりと塩を運ぶというのは、「敵に塩を送る」ということか。
 六句目。

   音もなき具足に月のうすうすと
 酌とる童蘭切にいで      埜水

 「埜水」は野水に同じ。
 「蘭」は古代中国で言う「蘭草」つまりフジバカマのことか。乾燥させると良い香りがするという。
 前句の「音もなき」を酔いつぶれて寝静まった兵のこととし、その間に酌をしていた童は香にする蘭を切りに行く。
 いくさの場を離れるために、あえて蘭を出して、次の展開を図ったといえよう。

2018年12月17日月曜日

 今日は午前中は雨で午後からは晴れた。
 「ボヘミアン・ラプソディ」の影響もあってか、この頃70年代の懐かしいロックを聴いている。アップル・ミュージックやユーチューブでも探せば懐かしい初期の日本のロックが聞ける。ただ昔の記憶と違って、「あれっ、こんな曲だったかな」というものもあり、やはり記憶は時間が経つと変容するものだ。

 さて、今年も残す所わずかだが、もう一巻くらいは読めそうだ。
 今回選んだのは荷兮編の『冬の日』から、「霜月や」の巻。『冬の日』といえば芭蕉七部集の最初の集で、蕉風確立期の初期を代表するものとなっている。
 その最初の歌仙は「狂句こがらし」の巻で、「鈴呂屋書庫」の「蕉門俳諧集」にもある解説はかなり前に書いたもので、多分十年くらい前だろう。
 「霜月や」の巻はこの『冬の日』の五番目の歌仙で、

   田家眺望
 霜月や鸛(かう)の彳々(つくつく)ならびゐて 荷兮

を発句とする。貞享元年霜月の興行。
 この巻はもちろん『校本芭蕉全集 第三巻』の註もあるし、『連歌俳諧

集』(日本古典文学全集32、1974、小学館)にも収録されている。
 さて、前書きに「田家眺望」とあり、おそらく興行された場所から田んぼが見えたのであろう。広い濃尾平野の広大な水田には、ところどころにコウノトリの姿が見えたのだろう。
 コウノトリは冬鳥で、かつては日本の水田や河川の至る所に群れを成して飛来したというが、明治の頃に乱獲され、絶滅寸前になったという。芭蕉の頃だと田んぼにコウノトリがあちらこちらにたたずんでいる情景は、田舎のありふれた景色だったのだろう。
 もちろんこの句は興行開始の挨拶という意味で、列席した連衆をコウノトリに喩える意味もある。『連歌俳諧集』の註によると、『越人注』に「冬ノ日出来候時十月より十一月迄の間、連中寄合たる下心」とあるという。
 近代の評だと実景か比喩かの二者択一みたいになりかねないが、実景を詠みながら、そこに寓意を込めるのは昔の発句では普通のことで、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」で読んだ方が良い。先日「大切の柳」の所でも述べた。
 発句の「て」留めに関しては、芭蕉の、

 辛崎の松は花より朧にて   芭蕉

の句に先行するもので、式目に発句を「て」で止めてはいけないという規則はないので、長い字余りと同様、式目をかいくぐる面白さというのが当時の流行だったのだろう。まだ去来の言う「基(もとゐ)」が重視されてなかった頃の風だ。
 脇は芭蕉が付ける。

   霜月や鸛の彳々ならびゐて
 冬の朝日のあはれなりけり   芭蕉

 軽く朝日を添えて流すが、そこにももちろんこの興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。上句下句合わせて、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて冬の朝日のあはれなりけり

と和歌のように綺麗につながっている。

2018年12月16日日曜日

 男と女で能力的な差があるかどうかというと、一般論というか平均という意味ではあると思う。ただ、その差は個人差に較べれば微々たるものなので、入学や就職のような個々の能力を判定しなくてはならないときには、あくまで個人差で判定すべきであろう。
 これは男と女の身長の差に喩えればわかりやすい。平均すれば確かに男の方が背が高いが、実際には2メートルを越える女性もいれば140センチに満たない男性もいる。
 身体能力にしても、確かにほとんどの競技では女性より男性のほうが成績が良いが、ただ、女子の世界記録を超えられる男性は、各種目でたとえ数百人くらいいたとしても、全男性から較べればほとんど問題にならない程度の数だ。
 知的能力についても、男子は理数系に強く女子は文系に優れているだとかいうが、私なんぞも学校の数学では落ちこぼれだったし、個人差が大きすぎて何ともいえない。「話を聞かない男、地図が読めない女」なんて本が以前ベストセラーになったが、話を聞かない女も地図が読めない男もたくさんいる。
 まあとにかく性差はあっても、実際にはそれよりも個人差の方がはるかに大きいということはしっかりと認識しておいた方が良いだろう。
 これは人種や民族の差についてもいえることで、大事なのはその人個人の能力をいかに正当に評価するかだと思う。
 ただ、性的非対称性に関してはまた別の問題がある。女性が就職や進学で差別されるのは、たいてい出産と子育てによる休業の問題で、これはそれを補完する社会的なシステムが必要だろう。
 日本の場合女性の社会進出を拒んでるのは長時間労働の問題が大きく、男性でも過酷な職場に女性を参加させたくないという男心があるのではないかと思う。障害者の雇用を拒んでるのも結局その問題なのではないかと思う。働き方改革(働かせ方改革)なしに女性や障害者の雇用問題は解決しない。
 江戸時代の俳諧でも確かに性による障壁はたくさんあったと思う。女性の俳諧興行への参加は実際極めて稀だった。
 発句では有名になる女流俳人はいても、興行の座に上がるにはかなりハードルが高かったのではないかと思う。
 「校本芭蕉全集」の三巻から五巻を見ても、芭蕉と同座した女性は智月、羽紅、その女の三人がいるが、智月と羽紅は「梅若菜」の巻でともに一句のみ、その女は「白菊の」の巻で脇を含めて五句詠んでいる。
 この二つの巻はどちらも「鈴呂屋書庫」の「蕉門俳諧集」の方にアップしてある。ここには芭蕉同座ではないが、惟然撰『二葉集』で智月発句の「そんならば」の巻も紹介している。
 ちなみに「梅若菜」の巻の智月の句は、十四句目の、

   萩の札すすきの札によみなして
 雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲   智月

 羽紅の句は挙句の、

   花に又ことしのつれも定らず
 雛の袂を染るはるかぜ        羽紅

 名前を伏せられたなら、男が詠んだか女が詠んだかわかる人はいないと思う。
 元来風流というのは暴力を否定し言葉で心を和らげるためのもので、どちらかというと女性的な感性が求められる。

 鶯に手もと休めむながしもと     智月
 うぐひすやはたきの音もつひやめる  豊玉

の句はよく似ているが、豊玉はあの新撰組の鬼の副長、土方歳三のことだというから笑える。
 俳諧はジェンダー的に女性に不利なジャンルではなかったと思う。それだけに、興行の席でその姿を見られなかったのは残念でならない。

2018年12月14日金曜日

 阿弥陀如来の光背(後光)に放射光と呼ばれる旭日旗のような放射状の光がデザインされていることで気になったのだが、これは日本独自のものなのだろうか。
 試しに「불상」でぐぐってみると、いろいろな韓国の仏像の画像を見ることができる。それを見る限りではやはり日本独自なのかなと思った。「아미타 여래」で検索しても同じような結果だった。
 強いて似ているものといえば、頭光ではなく身光の方に、放射状のデザインがなくもないが、直線ではなく波打った線で描かれ、三色で色分けされてたりする。旭日旗とは似ても似つかない。放射光の光背は日本独自のものなのだろう。
 江戸時代の浮世絵とかみても、普通の絵に放射状のデザインが登場することはなく、宗教をテーマにしたもののみこの図案が見られる。
 たまたま手元にあった1999年の渋谷区松涛美術館の「特別展 浮世絵師たちの神仏」の図録だと、放射状のデザインをたくさんみる事ができる。ただし紅白ではなく、白か黄色の光として描かれている。
 仏教系以外では「天の岩戸図絵馬」が目に付く。天岩戸が開き、天照大神が姿を現したときの表現に、仏教の光背を転用し、それがやがて朝日の図案になったのかもしれない。
 幕末に流行した鹿島神宮関係の「要石鹿島大尽」の左端に放射状の光を放つ太陽が描かれ、これなどは旭日旗にかなり近い。
 阿弥陀如来→天岩戸→朝日→旭日旗、という順序であの図案が確立されたのかもしれない。
 阿弥陀仏といえば惟然の風羅念仏。

 古池や蛙飛び込む水の音
     南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
 まづたのむ椎の木の有夏木立
     降るは霰か檜笠
     南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2018年12月12日水曜日

 昨日の続き。
 蕉門の笑いがいわゆる今日でいう「あるあるネタ」を中心としたものとして一つの完成を見ても、そこに初期衝動の問題が残った。
 実際、あるあるねたはおおくのひとが「あるある」と思えば、それで終わるというわけでもない。日常のありがちな出来事は、ともすると「だから何なんだ」で終わってしまいがちになる。
 2006年ドイツ・ワールドカップの直後にレギュラーという芸人コンビの「あるある探検隊」のネタに「シュートチャンスにパスをする」というのがあったが、これを聞いた多くの人はすぐにワールドカップのあの一場面を思い浮かべたのではなかったかと思う。柳沢が空っぽのゴールのまん前でボールを横に蹴って、キーパーの股を抜いたボールはそのままポストの外側へ転がっていった。ミスキックなのか、それともあの場面でまさかの壁パスだったのか、議論を呼んだ。
 こういう場面は確かに日本代表の試合にありがちで、シュートが失敗した時の責任を取りたくないから、ついつい決定機でもパスを選択する。
 あるあるネタが笑いにつながるのは、それが単にありがちだというだけでなく、そのいつものパターンに不満や何らかの感情を持っているからでもある。
 そうなると、「あるあるネタ」にも風刺の要素はある。ただ、あからさまに「あんたが悪い」といった非難をせず、「多いんだよなー、こういうことって」で済ますにすぎない。嘲笑だとか勝ち誇った笑いとかではなく、ただ共通認識を確認しあう、「何だ同じこと考えているのか」という笑いに留める。
 俳諧の笑いも基本的に庶民が生活してゆく上で経験する様々な不条理の中で、鬱屈した不満のはけ口の役目を果たさなくてはならない。その初期衝動があって俳諧の笑いは成立する。
 芭蕉の軽みがある程度浸透した段階で、芭蕉もただ「あるある」を言うだけで様式化してはいけないということに気付いていたのだろう。
 流行の現象を不易の心で表現するだけでは足りない。伝統的な趣向にうわべだけ目新しい題材を取り入れるというのではなく、そこに生活から来る様々なわだかまりを反映できなくてはならない。

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

の句も、量を減らすことで実質的に値上げするというのは、今でもよくある事だ。そこで読者はただ「あるある」というだけでなく、値上げへの不満を投影させては共感する。しかし許六はそのことに気付いていたのだろうか。許六は結局この句を超えられなかった。

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

の句の成功にも、武家という暴力装置に対する複雑な感情が庶民にくすぶっていたからだと思う。元武士である去来も多少は狙っている所はあっただろう。

 古池や蛙飛びこむ水の音    芭蕉

の句にしても、古池が当時の「あるある」だったということ自体が、相次ぐ改易や新興商人の台頭で没落する旧家など、少なからず社会問題に絡んでいたと思われる。
 芭蕉が最終的に至った「不易」というのは去来の理解していたような「基」や「本意本情」ではなく、朱子学の倫理の根幹となる「誠」に留まるものではなく、人間としての自然な感情、生活の中で様々な形で生じる初期衝動だったのかもしれない。それが「あるある」という流行の形を得て、不易にして流行の句が成立すると考えていたのかもしれない。
 花を見て単純に綺麗だと思うのも初期衝動だし、暴力で虐げられて惨めに思うのも初期衝動に含まれる。そういう自然な感情の発露があって表現は成立する。ただ、それを生のまま露骨に表現するのではなく、『詩経』大序にあるように「礼に止む」が必要だった。社会に無用な対立や暴力を引き起こさないような、むしろ人々がそれに共感し、共通の言葉とし、共通認識を生じるような表現を求めていた。
 だから、「あるあるネタ」とはいっても社会風刺とは全く無関係というわけではない。むしろそれを日常的な「あるある」の中に上手く潜ませ、分断を招かないようにしながら共通認識を形成してゆく。それは今日のお笑い芸にも引き継がれる日本人の知恵となっていったのではないかと思う。
 『去来抄』「同門評」の「大切の柳」も、その観点から読み解けるのではないかと思う。

 腫物(はれもの)に柳のさハるしなへ哉   芭蕉
 浪化集にさハる柳と出。是ハ予が誤り伝ふる也。重て史邦が小文庫に柳のさハると改め出す。支考曰、さハる柳也。いかで改め侍るや。去来曰、さハる柳とハいかに。考曰、柳のしなへハ腫物にさハる如しと比喩也。来曰、しからず、柳の直にさハりたる也。さハる柳といへバ両様に聞きこえ侍る故、重て予が誤りをただす。考曰、吾子の説ハ行過たり。たださハる柳と聞べし。丈草曰、詞のつづきハしらず、趣向ハ考がいへる如くならん。来曰、流石の両士爰を聞給ハざる口をし。比喩にしてハ誰々も謂ハん。直にさハるとハいかでか及バん。格位も又各別也なりト論ず。許六曰、先師の短尺にさハる柳と有。其上柳のさハるとハ首切(くびきれ)也。来曰、首切の事ハ予が聞処に異也。今論に不及。先師之文のふみに、柳のさハると慥(たしか)也。六曰、先師あとより直し給ふ句おほし。真跡證となしがたしと也。三子皆さハる柳の説也。後賢相判じ給へ。来曰、いかなるゆへや有けん。此句ハ汝にわたし置。必ず人にさたすべからずと江府より書贈り給ふ。其後大切の柳一本去来に渡し置きけりとハ、支考にも語り給ふ。其比浪化集・続猿集の両集にものぞかれけるに、浪化集撰の半(なかば)、先師遷化有しかバ、此句のむなしく残らん事を恨て、その集にハまいらせける。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,29~30)

 これは簡単に言えば

 腫物に柳のさハるしなへ哉  芭蕉
 腫物にさハる柳のしなへ哉  芭蕉

のどっちが本当の芭蕉の句かという議論だ。
 「腫物にさハる柳の」なら慣用句で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」では、

 「機嫌を損じないように気遣い、恐る恐る接するさま。『まるで腫れ物に触るような扱い』」

となる。
 ただ、ここでは「触るような」ではなく「触る」と触ってしまっているわけで、意味はむしろ逆にわざわざ機嫌を損ねるようなことをしながら、上手く誤魔化されているようなニュアンスになる。
 本来は愛でるべき柳の枝のしなやかさも、実際に腫れ物に触ったらやはり痛いし、うざい。
 ただ、これが本物の柳と本物の腫れ物だったら、春のうららの一場面として流すことができる。しかし比喩の意味が露骨に出てしまうとそうもいかない。
 しなやかな柳の枝でも腫れ物に触れば痛い。それをあからさまに言わず春のありがちな実景の裏に隠すというのが、芭蕉が本当に去来に伝えたかった、本物の不易流行ではなかったかと思う。

2018年12月11日火曜日

 今年もまたたくさん俳諧を読んだ。少しはレベルが上がったかな。去年の最後のも入れれば以下のとおり。

 十二月十七日から十二月三十一日まで「詩あきんど」の巻
 一月十五日から二月十二日まで「日の春を」の巻
 三月二日から三月九日まで「水仙は」の巻
 三月十九日から四月二日まで「うたてやな」の巻
 四月八日から五月三日まで「宗祇独吟何人百韻」
 五月四日から五月二十四日まで「花で候」の巻
 七月九日から七月二十日まで「破風口に」の巻
 八月一日から八月九日まで「秋ちかき」の巻
 八月十九日から八月二十二日まで「文月や」の巻
 九月二十三日から九月三十日まで「一泊り」の巻
 十月二日から十月十日まで「牛部屋に」の巻
 十一月十四日から十二月八日まで「野は雪に」の巻

 日本の風流の良い所は、一方的な自己表現ではなく、常に他人と共有できる言葉を作ってゆくという所にある。
 日本のお笑いに風刺が足りないと言う人もいるが、風刺はともすると他人を嘲笑する、いわば勝ち誇った笑いになりやすくなる。これは勝者と敗者の分断を産み、笑える人と笑えない人に分かれてしまう。政治ネタも結局は賛同できる人は笑うが、できない人は怒るという分断を生み出す。
 あるあるネタはその点共感を基本とした笑いで、最もレベルの高い笑いなのではないかと思う。芭蕉はそこに行きつき、その先はなかったのだろう。それが結局俳諧の完成と保存の時代への移行となったか。

2018年12月9日日曜日

 日本の朝鮮半島の併合は、ロシアの南下政策によって早かれ遅かれ朝鮮(チョソン)がロシアの植民地になる、そうなると日本にとって大きな脅威となるというのが直接の動機だったとされている。
 吉田松陰やその意思を引き継いだ長州藩士中心の明治維新を経る事で、西洋列強の脅威は過剰なまでに煽られていて、その不安な心理がそうさせたのだと思う。今から見れば必要のないことだった。
 結局1945年、ロシア(当時のソ連)が南下してきた時に、日本はそれを防ぐことができず、朝鮮半島は南北分断される結果となった。
 そして、南北分断のもう一つの原因も日本にあった。それは日本共産党の影響力だった。
 日本共産党は唯一軍国主義と戦った政党ということで戦後急速に力をつけたし、彼等は同じ抑圧されたものとして在日を取り込もうとしていた。その思想への共鳴が北朝鮮への過剰な期待を産み、多くの在日が北へ渡った。
 これに輪を掛けて、戦後の日本のいわゆる進歩的文化人が敗戦を日本の文化伝統全般の敗戦と受け止め、日本を否定し、西洋を中心とした「一つの世界」の形成に参加することを使命とした。この時の極端な日本の文化歴史に対する自虐的な思考が、北朝鮮を楽園とする思想と結びつき、これが南北問題の解決の足を引っ張り続けた。今でも日本のマスコミは基本的に北朝鮮びいきで、韓国主導の南北統一に反対している。
 更には本来は北の独裁から守るために共に戦わなくてはいけない日本が、あたかも今にも朝鮮半島に攻めてくるかのようなデマを広め、混乱に拍車を掛けている。北も積極的にこのデマを利用している。
 日本は今も朝鮮半島に迷惑をかけ続けている。それは認めざるを得ないだろう。
 フランスもいろいろあるようだが、日本では情報が少なすぎる。最初のデモの時には日本のマスコミは何も報道せず、二回目の時、一部が報じたものをようやく2チャンネルで知った。三回目の時、ようやくマスコミも重い腰を上げ、テレビでもほんの少し流すようになり、今回のデモの前夜になってようやく大きく報道されるようになった。

 さて「野は雪に」の巻は終ったので、同時代の『続山の井』(北村湖春編、寛文七年刊。)の宗房の三句を紹介しておこう。
 芭蕉の付け句がこうして残っているということは、まだ伊賀にいた頃の芭蕉(宗房)の参加した俳諧興行が「野は雪に」の巻だけでなかった証しにもなる。撰ばれたものだけで全部が残ってないのは残念だ。

   かたに着物かかる物かはうき難所
 今をたうげとあつき日の岡  宗房

 前句は街道の難所を越える時に着物が枝に引っかかったりしたか、あるいは泥濘で泥が跳ねるか何かで着物を肩に掛けて通ったという句だったのであろう。
 これを芭蕉は暑さのせいで一枚着物を脱いで肩に掛けたとする。この着想は後の貞享五年、『笈の小文』の、

   衣更
 一つぬひで後に負ひぬ衣がへ 芭蕉

に生かされている。

   後生ねがひとみ侍がた
 しゃかの鑓あみだやすりのつば刀 宗房

 「あみだやすり」はweblio辞書の「刀剣用語解説集」に、

 「鐔の表面に施された装飾的鑢模様の一種。鐔の中心から放射状に細い線を刻み込んだ様子が、阿弥陀如来の背にみられる後光を思わせるところからの呼称。古い時代では信家に例を見るが、線の長さや幅がそろわず荒さが感じられ、古雅な雰囲気を感じさせるものが多い。後光の線刻をきれいにそろえて放射線を描いたものを日足鑢として区別することもあるが、基本的には同形態の模様である。」

とある。
 「釈迦の鑓」は特にお釈迦様がそういう槍を持っていたと言うのではないようだ。『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、謡曲『柏崎』に「釈迦は遣り弥陀は導く一筋に」という一節があり、その縁で阿弥陀を導く枕詞のように「しゃかのやり」を頭に敷いたと思われる。
 前句の「後生ねがひ」を「後生だから(一生のお願い)」という意味に取り成し、阿弥陀やすりの鍔の刀が欲しいとする。
 余談だが旭日旗の放射状のデザインは、阿弥陀如来の後光にルーツがあるのかもしれない。だったら韓国人は阿弥陀如来を告発せねばならないかも。

   賤が寝ざまの寒さつらしな
 おだ巻のへそくりがねで酒をかはん 宗房

 「しづのおだまき」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「倭文を織るのに用いる苧環。「繰り返し」「いやし」などの序詞に用いる。
 『いにしへの―繰り返し昔を今になすよしもがな』〈伊勢・三二〉」

とある。
 前句の「賤(しづ)」からの縁で「おだ巻」を出す。
 「苧環(おだまき)」はウィキペディアによれば、

 「苧環(おだまき)は、糸を巻いて玉状または環状にしたもの。布を織るのに使う中間材料である。「おだまき」は「おみ」「へそ」ともいう(「麻績」「麻続」「綜麻」)。次の糸を使う工程で、糸が解きやすいようになかが中空になっている。」

だという。
 同じくウィキペディアに、

 「「へそくり」は、苧環(綜麻)を作って貯めておいた駕籠のなかに秘かに蓄財するから、という説があるが、「へそ」をよりたくさん作って貯めた余剰の蓄財から、または、蓄財を内緒で腹の「臍(へそ)」の上にしまっておくから、など諸説ある。」

ともある。
 「おだ巻の」を臍に掛かる枕詞のように用いて、賤がへそくりで酒を買わんと付ける。
 いずれも貞門的な技法を駆使しながらも、王朝趣味の絵空事にならず、リアルな「あるある」を描いている所が芭蕉らしい。

2018年12月8日土曜日

 「野は雪に」の巻もこれが最後。挙句の果てまで一気に。
 名残の裏に入る。
 九十三句目。

   律のしらべもやむる庵室
 秋はなを清き水石もて遊び 一笑

 名残の裏なので、ここはおとなしく季節の句で繋いでゆく。
 庵室といっても粗末な草庵ではなく立派な寺院で、庭には水を流し、形の良い庭石を並べ、そこで管弦の宴を行う。「もて遊び」は「以て遊び」か。
 九十四句目。

   秋はなを清き水石もて遊び
 残る暑はたまられもせず 蝉吟

 庭にいくら綺麗な水は、残暑の厳しい折にはありがたいものだ。
 前に発句ではだいたい夏は涼しさを詠むのもので、暑さを盛んに詠むようになったのは猿蓑以降というようなことを書いたが、付け句は挨拶ではないので、貞門の時代にもこういう句があったのか。もちろん蝉吟もこの時代ではかなり革新的な人で、芭蕉に大いに影響を与えたと思われる。
 九十五句目。

   残る暑はたまられもせず
 是非ともにあの松影へ御出あれ 一以

 暑いなら松の影で涼めとのこと。「是非ともに」「御出あれ」と口語っぽく結んではいるものの、一種の咎めてにはといえよう。
 九十六句目。

   是非ともにあの松影へ御出あれ
 堪忍ならぬ詞からかひ  正好

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「前句を喧嘩を挑んだ言葉として、『詞からかひ』を出した。」

とある。まあ町外れの一本松の下での決闘なんて、昭和の番長ものの漫画でも定番だが。
 「からかひ」は今日ではweblio辞書の「三省堂大辞林」にある、

 「①  冗談を言ったりいたずらをしたりして、相手を困らせたり、怒らせたりして楽しむ。揶揄(やゆ)する。 「大人を-・うものではない」
 ②  抵抗する。争う。 「心に心を-・ひて/平家 10」

の特に①の意味で用いられることが多い。「いじる」というのと似たよ

うな意味だ。
 ただ、昔はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「負けまいと張り合う。争う。言い争う。」

とあるような意味だったようだ。
 九十七句目。

   堪忍ならぬ詞からかひ
 おされては又押かえす人込に 宗房

 前句の「からかひ」の声を荒げて言い争う様を街の喧騒に取り成す。リアルな方の芭蕉がよく出ている。
 九十八句目。

   おされては又押かえす人込に
 けふ斗こそ廻る道場   一以

 道場は今日では武道を行う場所のことを言うが、本来の意味はウィキペディアの「道場 (曖昧さ回避)」にあるように、

 「サンスクリットのBodhimandalaを漢訳した 仏教用語で菩提樹下の釈迦が悟りを開いた場所、成道した場所のことである。また、仏を供養する場所をも道場と呼ぶ。中国では、隋の煬帝が寺院の名を道場と改めさせている。また、慈悲道場や水陸道場のような法会の意味でも用いられている。日本では、在家で本尊を安置しているものを道場と称する場合もある。また、禅修行の場や、浄土真宗、時宗の寺院の名称としても用いられている。」

だった。
 縁日か秘仏の公開か、とにかく今日ばかりはということでお寺は人がごった返している。
 九十九句目。

   けふ斗こそ廻る道場
 花咲の翁さびしをとむらひて 正好

 「翁さぶ」はweblio辞書の「三省堂大辞林」に、

 「老人らしくなる。老人らしく振る舞う。 『 - ・び人な咎(とが)めそ/伊勢 114』」

とある。この伊勢物語の歌は、

 翁さび人なとがめそ狩衣
     けふばかりとぞ田鶴も鳴くなる

で、下句の頭「けふばかり」となっている。
 前句の頭が「けふばかり」なので、その上句に「翁さび」を持ってくることで『伊勢物語』の歌と同じような上句下句の繋がり方になる。一種の歌てにはといえよう。歌てにはの場合は形だけで、本歌付けのような歌の内容を借りてくるわけではない。
 「花咲」は花が咲くということだが、松永貞徳の隠居した花咲亭に掛けている。花の咲く花咲亭の翁さびた貞徳さんの弔いのために「けふ斗こそ廻る道場」という意味になる。
 挙句。

   花咲の翁さびしをとむらひて
 経よむ鳥の声も妙也  一笑

 「経よむ鳥」は「経読み鳥」に同じ。「経読み鳥」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《鳴き声が「法華経(ほけきょう)」と聞こえるところから》ウグイスの別名。経読む鳥。《季 春》」

とある。貞徳翁の弔いのために鶯が「法華経」と経を読む。これにて追善の百韻は終る。
 この巻でやはり目立つのは芭蕉の主人でもあり俳諧の師匠でもあった蝉吟の多彩な技と運座を仕切る展開の小気味よさ。それに後の談林風にも通じる進取の気性だ。
 芭蕉はそこから多くのものを吸収し、やがて自らの風を確立していくことになった。

2018年12月7日金曜日

 今日から霜月。
 あっという間に時が過ぎて行く。
 新暦では今年もあとわずか。

 では「野は雪に」の巻の続き。
 八十七句目。

   机ばなれのしたる文章
 媒をやどの明暮頼みおき  一以

 書が上手いと恋文の代筆とかをさせられる。媒は「なかだち」。
 八十八句目。

   媒をやどの明暮頼みおき
 ちやごとにあらで深きすきもの 正好

 「ちやごと」は茶事で茶道のこと。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「茶道の数奇者ではなく別のすきもの(好色漢)であるとの意。」

とある。
 八十九句目。

   ちやごとにあらで深きすきもの
 うさ積る雪の肌を忘れ兼  蝉吟

 「茶事」にはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、「寄り集まって茶を飲むこと。茶菓を供して話し興じること。」という意味もある。要するに茶飲み話だ。まあ、そういう茶飯事ではないということか。
 「積もる雪の深き」と掛けてにはになる。
 九十句目。

   うさ積る雪の肌を忘れ兼
 氷る涙のつめたさよ扨   宗房

 前句の浮かれた恋心を悲恋に変える。「扨」は「さて」。
 九十一句目。

   氷る涙のつめたさよ扨
 訪はぬおも思月夜のいたう更 正好

 せっかくの月夜なのに愛しいあの男は尋ねて来てくれない。王朝風の恋で連歌っぽいが「訪わぬをも」に「おもひ」と続けるところに俳諧がある。
 九十二句目。

   訪はぬおも思月夜のいたう更
 律のしらべもやむる庵室  一以

 王朝風なので雅楽の律の調べとする。庵室だから

2018年12月5日水曜日

 昔はマイノリティというのは資本主義から疎外(仲間はずれに)された人たちということで、資本主義をぶっ潰すための革命の主体として、資本主義から隔離して保護すべきものとするような風潮があった。
 今は違う。仲間はずれにされてたのなら、仲間に入れてやれば良い。マイノリティーの経済的自立を助け、企業や投資への参加を推進し、マイノリティー市場を作り出すことで経済の発展や生産性の向上に役立てることができる。それは結局社会全体の豊かさにつながる。
 野党の「性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する法律案」はどちらに向うものなのか、しっかり見てゆく必要がある。ざっと見た感じではこの法案は「LGBT=労働者」という視点に偏りすぎているように思える。
 また、LGBTについての社会の認知を深めるには学者が一方的に教条を押し付けるような研修制度ではなく、むしろエンターテイメントとしてのLGBTあるあるを広める方がいいのではないかと思う。同様に障害者あるあるや在日あるあるなど、楽しめる内容でお互いの立場が分かるようなことができれば良いと思う。

 では「野は雪に」の巻の続き。
 八十三句目。

   討死せよと給う腹巻
 防矢を軍みだれの折からに 正好

 「坊矢(ふせきや)」はweblio古語辞典によると、

 「敵の襲来を防ぎとめるために矢を射ること。また、その矢。◆後に「ふせぎや」とも。」

とある。
 これは退却する時の殿(しんがり)のことであろう。殿(しんがり)はウィキペディアに、

 「本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。」

とあるように、この大役を命ずる時に「討死せよと給う腹巻」ということになる。
 八十四句目。

   防矢を軍みだれの折からに
 いとも静な舞の手くだり  蝉吟

 本来風流とは言えないいくさネタが二句続いたので、ここでガラッと場面を変える必要がある。このあたりの運座の呼吸は見事だ。芭蕉も蝉吟の運座から多くのことを学んだだろうし、良い師匠にめぐり合えたということがこの百韻からも伝わってくる。
 これは謡曲「吉野静」の本説で、「宝生流謡曲名寄せのページ」というサイトの「吉野静」の「あらすじ」にこうある。

 「梶原景時の讒言によって兄頼朝の勘気を蒙ってしまった源義経は、大和国吉野山に暫く身を隠していましたが、吉野山の衆徒の心変わりから山を落ち延びることになりました。一人防ぎ矢を仰せつかった佐藤忠信は、山中で偶然に静御前とめぐり会い、二人で吉野山の衆徒を欺いて義経を落ち延びさせようと相談をします。 忠信は都道者(みやこどうしゃ)の姿に化して大講堂での衆徒の詮議の様子を窺い、衆徒の中へ分け入って頼朝・義経の和解の噂や義経の武勇などを語って義経追撃の鉾先を鈍らせます。 そこに静が忠信との打合せ通り舞装束で現れ、法楽の舞を舞い、なお義経の忠心や武勇を語ります。衆徒は、義経の武勇を恐れるとともに静の舞のあまりの面白さに時を移し、ついに一人として義経を追う者はなく、義経は無事に落ち延びることができたのでした。」

 この頃の本説付けはほとんど原作そのまんまで、少し変えるということをしていない。
 「いとも静な」はもちろん静御前と掛けている。
 八十五句目。

   いとも静な舞の手くだり
 見かけより気はおとなしき小児にて 宗房

 さて、ここでは静御前のことは忘れて、小児(こちご)を登場させる。稚児ネタはやはりこの頃から芭蕉の得意パターンだったか。
 goo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」には小稚児は、

 小さい子供。
 「年十五、六ばかりなる―の、髪唐輪 (からわ) に上げたるが」〈太平記・二〉

とある。満年齢だと十四、十五の少年ということか。
 普段はいかにもやんちゃな男の子でも、舞となると人が変わったように凛々しく舞う。そのギャップ萌えというべきか。
 「おとなし」は「大人し」で大人びてるという意味。
 八十六句目。

   見かけより気はおとなしき小児にて
 机ばなれのしたる文章   一笑

 「机ばなれ」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「机とは学習机をさし、書や文章などの完成して一人前になること。」

とある。
 前句の「大人(おとな)し」を舞ではなく書の才能とした。

2018年12月4日火曜日

 今日は十二月とは思えない暖かさだった。風は強いが木枯しではなく春風のようだった。
 温まって蒸発した海水が夜になって冷やされるせいか、夜から朝に掛けて雨が降ることが多い。今も雨が降りだした。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 七十七句目。

   こよと云やりきる浣絹
 一門に逢や病後の花心   一以

 病み上がりで一門の前に顔を見せるということで、洗ったばかりの着物を着る。
 「花心」は正花だが、いわゆる「にせものの花」、比喩としての花になる。
 連歌の式目「応安新式」では花は一座三句者で、その他ににせものの花を一句詠めることになっている。各懐紙に花の定座の習慣が定着しても、おおむねにせものの花一句のルールに従う場合が多い。花の句が同じような句にばかりならないよう変化をつける意味もある。
 七十八句目。

   一門に逢や病後の花心
 かなたこなたの節の振舞  一笑

 この場合の「節(せち)」は正月のこと。前句の花が桜でないので正月でもいい。
 「かなたこなた」ということで、一門はたくさんあり、あちらこちらで一門が集まっている。
 名残の懐紙に入る。
 七十九句目。

   かなたこなたの節の振舞
 とし玉をいたう又々申うけ 蝉吟

 お年玉は今では子供が貰うものになっているが、昔は大人同士の贈答の習慣で、主人や師匠の元に年始参りに土産を持ってゆき、お年玉を貰って帰るものだったようだ。ウィキペディアには、

 「年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。」

とある。
 この句の場合「申し請け」だからお年玉用の大量の扇の発注でも請けたのであろう。それゆえ「かなたこなた」につながる。
 八十句目。

   とし玉をいたう又々申うけ
 師弟のむつみ長く久しき  宗房

 「申しうけ」は単に受け取るという意味もある。weblio辞書の「三省堂大辞林」には、

 ①願い出て引き受ける。受け取る。 「送料は実費を-・けます」 「 - ・けたまへるかひありてあそばしたりな/大鏡 師尹」
 ②お願いする。願い出る。 「義経が-・くる旨にまかせて,頼朝をそむくべきよし庁の御下文をなされ/平家 12」
 ③招待する。 「近日一族衆を-・けて,振舞はうと存ずる/狂言・拾ひ大黒 三百番集本」

とある。
 これは遣り句といって良いだろう。話題を変えたいところだ。
 八十一句目。

   師弟のむつみ長く久しき
 盃はかたじけなしといただきて 一笑

 これは打越の「申し受け」に「いただきて」で、お年玉を酒に変えただけで輪廻気味の句だ。せっかくの芭蕉の遣り句が生きていない。
 八十二句目。

   盃はかたじけなしといただきて
 討死せよと給う腹巻    一以

 これも「いただきて」にまた「給う」で贈答の場面を引きずっている。しかも「討死」は穏やかでない。
 「腹巻」はここでは今日のような防寒用のものではなく武具の腹巻を言う。ウィキペディアには、

 「腹巻は鎌倉時代後期頃に、簡易な鎧である腹当から進化して生じたと考えられている。徒歩戦に適した軽便な構造のため、元々は主として下級の徒歩武士により用いられ、兜や袖などは付属せず、腹巻本体のみで使用される軽武装であった。しかし、南北朝時代頃から徒歩戦が増加するなど戦法が変化すると、その動きやすさから次第に騎乗の上級武士も着用するようになった。その際に、兜や袖・杏葉などを具備して重装化し、同時に威毛の色を増やすなどして上級武士が使うに相応しい華美なものとなった。 南北朝・室町期には胴丸と共に鎧の主流となるが、安土桃山期には当世具足の登場により衰退する。江戸時代になると、装飾用として復古調の腹巻も作られた。」

とある。
 この場合の酒をふるまわれて良い気持ちになっているとそこが罠で、一緒に戦ってくれと腹巻を下賜される。
 芭蕉の死後に許六が去来に、

 「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。‥‥(略)‥‥願はくは高弟、予とともにこころざしを合せて、蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。」

と言っていたのを思い出す。さすがに去来はこの腹巻を断ったが。

2018年12月3日月曜日

 「野は雪に」の巻の続き。
 六十九句目。

   何の風情もなめし斗ぞ
 お宿より所替るが御慰   蝉吟

 「お宿(やど)」は、『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「平生のお住まい」とある。
 「御慰(おなぐさみ)」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」によると、

 「その場に興を添えること。人を楽しませること。座興。 「うまくできましたら-」 「是はやり損ふ事もまゝあるが、首尾よく行くと-になる/吾輩は猫である 漱石」 〔失敗するかもしれないことをにおわせて、皮肉やからかいの気持ちで使うことも多い〕」

とのこと。
 この場合も皮肉の意味で用いている。外泊して何か珍しいものでも出るかと思ったら、どこにでもある菜飯で御慰み。
 七十句目。

   お宿より所替るが御慰
 野山の月にいざとさそえる 一以

 これは皮肉ではなく一興という意味。
 七十一句目。

   野山の月にいざとさそえる
 秋草も薪も暮れてかり仕舞 正好

 秋草はここではススキだろう。茅を刈ったり薪を取ったり野山の仕事も忙しいが、日が暮れれば終了。「かり仕舞」は「仮仕舞」と「刈り仕舞」の両方に掛かる。
 さあ仕事も終わったし、野山は今度は月の出番だよ、というところか。
 七十二句目。

   秋草も薪も暮れてかり仕舞
 肌寒さうに年をおひぬる  一以

 前句を貧しい老人の句とした。「老いる」と掛けているが、「薪」に「おふ(負ふ)」は受けてには。
 七十三句目。

   肌寒さうに年をおひぬる
 川風に遅しと淀の船をめき 一笑

 「をめき」は喚(わめ)きと同じ。船を大声で呼ぶことをいう。風で押し戻されてしまうのか、船がなかなか来なくて、ついつい大声になる。そうでなくとも年を取ると耳が遠いもんだから声が大きくなるものだ。
 七十四句目。

   川風に遅しと淀の船をめき
 久しぶりにて訪妹が許   蝉吟

 大声で船を呼ぶのを女の許(もと)を訪ねるためとする。ついつい気が急いて船が遅く感じられる。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に引用されている、

  思ひかね妹がりゆけば冬の夜の
     河風さむみ千鳥なくなり
               紀貫之(「拾遺集」)

の歌は證歌といっていいだろう。
 七十五句目。

   久しぶりにて訪妹が許
 奉公の隙も余所目の隙とみつ 宗房

 当時は芭蕉も蝉吟のところの奉公人だったが、今みたいな休暇はほとんどなくても仕事の合い間合い間に暇ができたりすることはあっただろう。そういう時には俳諧を楽しんだりもしたか。
 もっともたいていの奉公人は、そんな渋い趣味を楽しむよりは、女の許にせっせと通っていたのではないかと思う。「余所目」は「よそ見」の意味もある。妹というのは浮気の相手か。
 突飛な空想も芭蕉ならではのものだが、こういう妙にリアルなあるあるネタを持ち出すのも芭蕉の持ち味で、豊かな想像力とリアルな感覚の同居が芭蕉の作品に幅を持たせているといっても良いだろう。
 七十六句目。

   奉公の隙も余所目の隙とみつ
 こよと云やりきる浣絹   正好

 「浣絹」は「あらひきぬ」。絹は洗うと縮むので板の上に伸ばした乾かしたり、伸子張りという竹の棒を何本も弓のようにして伸ばしたり、大変だったようだ。

2018年12月2日日曜日

 今日は一日雲って冬らしい寒い一日になった。
 平地も紅葉が見頃になっている。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 六十一句目。

   誰に尋むことのはの道
 まだしらぬ名所おば見に行しやな 一笑

 「行きしやな」は「行っちゃったな」という感じか。師匠は旅に出ちゃったんで誰に和歌のことを尋ねれば良いのか。
 六十二句目。

   まだしらぬ名所おば見に行しやな
 都にますや海辺の月    一以

 海辺(かいへん)の月は松島の月まず心にかかりてというところか。と、それは随分後の芭蕉さんだ。月そのものはどこで見てもそんなに変わるものではないが、周りの景色なら確かに違う。
 六十三句目。

   都にますや海辺の月
 罪無くば露もいとはじ僧住居 正好

 前句の主を都を追われ海辺に隠居する大宮人とする。この場合海辺は須磨・明石の浜辺か。
 自分に罪はないのだから、辺鄙な海辺での僧住居(すまい)も一時のもので、いつか帰れるかもしれない。耐えてみせようというところか。
 「すまい」は月の澄むに掛かるが、須磨にも掛かっているのかもしれない。
 露は粗末な家の草の茂れるに露にまみれるという意味と、「露ほども」という意味との両方を含んでいる。
 六十四句目。

   罪無くば露もいとはじ僧住居
 する殺生もやむはうら盆  蝉吟

 前句の罪の無いお坊さんに対し、罪深き漁師もお盆は殺生をやめるという相対付け(迎え付け)になる。このあたりの蝉吟の技術も確かだ。夭折したのが惜しまれる。
 三の懐紙の裏に入る。
 六十五句目。

   する殺生もやむはうら盆
 竹弓も今は卒塔婆に引替て 宗房

 竹弓を使う猟師の墓参りとする。「弓」に「引」の縁語に一工夫ある。
 六十六句目。

   竹弓も今は卒塔婆に引替て
 甲の名ある鉢やひくらし  正好

 前句の「竹弓」に「ひく」で受けてにはになる。竹弓は卒塔婆に、兜は鉢に、かつて武士だった者の托鉢姿とする。
 六十七句目。

   甲の名ある鉢やひくらし
 焼物にいれて出せる香のもの 一以

 「香のもの」は今日でも「お新香(しんこ)」というように、漬物のこと。托鉢僧にお新香を恵む。
 鉢は確かに焼物だが、料理の焼物にも掛けている。香の物だけでなく焼物も一緒に鉢に入れたか。
 六十八句目。

   焼物にいれて出せる香のもの
 何の風情もなめし斗ぞ   宗房

 「なめし」は「ない」と「菜飯」に掛かる。菜飯は菜っ葉を炊き込んだご飯のこと。
 菜飯というと、芭蕉の終焉の頃の、

 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節

の句も思い出される。ご馳走ではなく看病の時にも作るような普通の食事だったか。
 菜飯にお新香だけでは、確かに何の風情も無いか。

2018年12月1日土曜日

 二度と戦争をしないためにはどうすれば良いか。
 戦争体験を記憶することは必ずしも戦争の抑止力にはならない。むしろ過去の恨みの感情を煽り、人々を復讐心に駆り立てることになれば、却って逆効果になる。
 戦争をなくすにはすべての国が互いに依存し合い、多数派を形成し、少数派に回る国をなくすことだ。孤立した独裁国家をまず何とかしてグローバル資本主義の中に組み込む必要がある。以上、世間話は終り。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 五十五句目。

   涙でくらす旅の留守中
 独り居を思へと文に長くどき 正好

 「口説く」というと、今ではセックスの誘いだが、Weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」によれば、

 「①繰り返して言う。くどくどと言う。恨みがましく言う。
  ②(神仏に)繰り返して祈願する。
  ③(異性を自分の意に従わせようとして)しつこく言い寄る。◇近世以降の用法。」

だという。近世の俳諧では一応恋の言葉になる。ただ、この句の場合ニュアンス的には恨み言を長々と語るという古い意味で用いられている。
 独りで旅の留守を預る辛さを切々と訴え、あまり恋の感じはしない。
 「口説く」と「くどくど」は何か関係あるのかと思ったが、「くどくどし」は「くだくだし」から来た言葉で、砕いて細かくするところから、細かいことを言うことを「くだくだし」と言ったようだ。それが後付で「口説く」の意味につられて「くどくどし」になったのかもしれない。
 五十六句目。

   独り居を思へと文に長くどき
 そちとそちとは縁はむすばじ 一笑

 これは②の意味に取り成したか。神様だって余りくどくどと訴えられてもううざいので、臍を曲げてしまった。
 五十七句目。

   そちとそちとは縁はむすばじ
 だてなりしふり分髪は延ぬるや 蝉吟

 「振り分け髪」はWeblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」によれば、

 「童男童女の髪型の一つ。頭頂から髪を左右に振り分けて垂らし、肩の辺りで切りそろえる。八歳ごろまでの髪型。「振り分け」とも。」

だという。
 振り分け髪は髪の毛を左右に分けるため両側に垂れた髪の毛は離れ離れになり、結ばれることがない。これはそういう洒落で、『伊勢物語』とは直接関係ない。ただ、

 くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ
     君ならずしてたれかあぐべき

の歌は、「振り分け髪」という雅語の證歌にはなる。
 五十八句目。

   だてなりしふり分髪は延ぬるや
 俤にたつかのうしろつき  宗房

 これは幽霊だろうか。こういう突飛な空想が芭蕉らしい。
 五十九句目。

   俤にたつかのうしろつき
 したへども老かがみしは身まかりて 一以

 「振り分け髪」は童女だったが、ここでは老婆の幽霊とする。
 六十句目。

   したへども老かがみしは身まかりて
 誰に尋むことのはの道   正好

 老いた師匠も今は身罷って、誰に和歌の指導をしてもらえば良いものか。
 ほんの一瞬、これが貞徳追善の興行だということを思い出させてくれる。