2018年12月24日月曜日

 今日は世間ではクリスマス。まあクリスチャンじゃないから、はぴほりー、でいいのかな。
 今日は足柄へ行って、洒水の滝を見た。洒は洒堂のシャ。酒ではない。
 そして昨日作っておいたご馳走、タン&頬肉シチューも食べた。

 それでは「霜月や」の巻の続き。
 二十五句目。

   萱屋まばらに炭団つく臼
 芥子あまの小坊交りに打むれて 荷兮

 「芥子あま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 頭髪を芥子坊主にした女児。
※俳諧・冬の日(1685)『萱屋まばらに炭団つく臼〈羽笠〉 芥子あまの小坊交りに打むれて〈荷兮〉』」

 「芥子坊主」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「頭髪をまん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。けしぼん。芥子坊。おけし。けし。」

とある。芥子の実に似ているところからそう呼ばれる。
 芥子坊主は当時の子供の一般的な髪型で、

 鞍壺に小坊主乗るや大根引   芭蕉

は元禄六年の句。今でも子供のことを「坊主」と呼ぶのもその名残なのかもしれない。
 「芥子尼」が髪型を指すだけの言葉なら、舞台をお寺に限定する必要はない。「萱屋まばら」の農村に子供達が遊んでいる情景となる。男勝りの女の子が男子に混じって元気に遊ぶ姿はほほえましい。
 二十六句目。

   芥子あまの小坊交りに打むれて
 おるるはすのみたてる蓮の実  芭蕉

 蓮の実は食べられるので、子供が取って食べる格好のおやつだったという。食べごろの蓮の実だけが折られている。
 「食べた」と言わずに折れた蓮の実とそうでない蓮の実があるという所で匂わす所がミソ。単なる景色に出来るから次の句の展開が楽になる。
 二十七句目。

   おるるはすのみたてる蓮の実
 しづかさに飯台のぞく月の前  重五

 「蓮の実」で秋に転じたところで、すかさず定座を繰り上げて月を出す。基本といっていい。
 「飯台」は食事のためのテーブルで、古くはお寺など大勢で食事をする場所で用いられ、一般には一人用の膳で食事をしていた。
 江戸後期になると外食が発達して、店などに飯台が置かれるようになり、近代に入ると西洋式のテーブルに習って家庭に飯台が普及した。特に丸い「ちゃぶ台」は昭和の家庭で広く用いられ、ノスタルジーを誘うものとなっている。
 この場合は蓮の縁もあってお寺の情景か。あまりに静かなので飯台を覗いてみるが、おそらく空っぽだったのだろう。月に浮かれてみんな遊びに行ってしまったか。
 元禄七年の「空豆の花」の巻に、

   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉

の句がある。
 二十八句目。

   しづかさに飯台のぞく月の前
 露をくきつね風やかなしき    杜国

 飯台を覗き込んでいるのは狐だった。

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