鯨は本来太平洋岸の漁師などがたまたま取れたものを食べる程度のものだった。
鯨に限らず海産物の文化というのは鮮度との戦いがあり、鮮度の問題を克服した時、初めて広い地域に広がることができたといって良い。
『万葉集』に出てくる「いさなとり」という言葉が本当に鯨取りのことだったのか、枕詞としてしか用いられてないのでよくわからない。文字は確かに「鯨魚」となっているが。
芭蕉の元禄五年の句、
水無月や鯛はあれども塩鯨 芭蕉(葛の松原)
は鯨が食べられていたことを記す数少ない証言かもしれない。元禄ともなると塩漬けにして保存性を増した鯨の脂身があらわれる。
水無月の鯛にも勝ると詠んでいるが、旧暦六月ともなると鯛もやや旬を過ぎているし、夏場は食あたりが怖いということも含めていっているのだろう。
『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によると、この句は支考が江戸の芭蕉庵を訪ね、『葛の松原』の編纂のことを相談し、そのタイトルまで考えてもらったときのもので、
ほととぎす鳴くや五尺の菖草 芭蕉
鎌倉を生きて出でけん初鰹 同
などとともに詠んだという。
あとは芭蕉の死後になるが、
一ノ籍弥猛ごころや鯨舟 李毛(伊達衣)
今の世の手柄ものなり鯨つき 吉女(一幅半)
冬がれの山を見かけて初くじら 芙雀(花の雲)
といった句が見られる。
元禄十二年ころだろうか、鯨突き(捕鯨)を「今の世の手柄」を呼ぶように、捕鯨のことが都市でも話題となり、その雄大な姿に思いを馳せるようになったのは。
一世紀後の蕪村の時代になると、大晦日に鯨汁を食べるのがはやったようだ。これは「575筆まか勢」というサイトから拾ったもの。
いかめしや鯨五寸に年忘れ 樗良
おのおのの喰過がほや鯨汁 几董
十六夜や鯨来初めし熊野浦 蕪村
鯨売り市に刀を皷(なら)しけり 蕪村
一番は迯げて跡なし鯨突 太祗
夕日さす波の鯨や片しぐれ 巴人
暁や鯨の吼ゆる霜の海 暁台
汐曇り鯨の妻のなく夜かな 蓼太
まあ、とにかく鯨の句は数としては決して多くはない。
鯨が日本人の食卓に本格的に普及するのは、むしろ戦後の高度成長期のことで、そんなに古いことではない。
この頃は戦後の欧米並みの高蛋白な食事を目指した政府の主導で、安価な鯨肉が奨励され、学校給食にも取り入れられた結果だったと思う。
筆者が子供の頃読んだ学習雑誌には、日本が銛の改良によって世界一の捕鯨大国になったことが誇らしげに書いてあった。当時の世界の捕鯨は鯨油を取るためのもので、肉は余っていて安く手に入ったのであろう。給食で食べた鯨の竜田揚げはパサパサしていて、美味しかったという記憶はない。
その後大人になって、一度だけ鯨料理屋へ行って、尾の身の刺身も食べてみた。確かに旨いけど、値段を考えると一度食えば良いと思った。
日本が捕鯨を再開していても、今更鯨油の需要があるわけでもなく、食用としても、一部で好んで食べる人がいるだけで、そんなには盛り上がらないのではないかと思う。多分心配するほど大量に獲ることはないだろう。
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