2023年6月30日金曜日


 今日は六月三十日の水無月の夏越の祓いで、茅の輪くぐりをしに白笹稲荷神社の行った。これはその時の茅の輪。

 西洋の近代思想は、社会的文化的なさまざまの習慣による序列を全部取り除いて自然状態を仮定した時、人は「万人の万人に対する闘争」に陥るという、そこから出発した。
 実際多くの前近代的社会では、「万人の万人に対する闘争」は抑えられている。そこには様々な序列があり階級があり宗教的戒律があり、生存権の優先順位は定められている。こうした優先順位を徹底させることで何百年に渡る平和をもたらしたのが、江戸時代の日本と李朝時代の朝鮮(チョソン)だった。
 ヨーロッパは様々な文化的衝突によって、秩序は破られやすかった。ローマの侵略、ゲルマン人の移動、バイキングの台頭、東西ローマの対立、百年戦争、十字軍、様々な形で異文化と衝突する中で、ついに生存権の優先順位の安定した鎖国的平和主義の時代を迎えることはなかった。
 多産多死の世界の中で生存権の優先順位を定めても、一向に安定することのなかった世界で、トマス・ホッブスをはじめとして、西洋の知能は人間が本来生存競争に明け暮れる存在であり、どんな秩序も一皮むけば露骨な「万人の万人に対する闘争」に陥ることを見て取った。
 西洋の民主主義はそこから始まった。最初は「万人の万人に対する闘争」を収めるのは強力な独裁国家だと考えた。この考え方も消えたわけでなく、マルクスのプロレタリア独裁の考え方に残っている。
 近代民主主義も、基本的にはこの「万人の万人に対する闘争」を直接的な喧嘩ではなく、民主的手続きによって作られた法律に基づいて、ルールのある闘争を行うというものだった。
 立法は選挙で勝つための戦いであるとともに、デモやストライキなどの合法的に認められた闘争によって作られ、同時に裁判という法廷闘争でも勝ち取られる。
 基本にあるのは誰もが権利を主張し合い、合法的な喧嘩をすることによって成り立つ。これを世界に広めようというわけだ。
 そういうわけで西洋人からすれば、電車の優先席のような些細な問題でも、優先されるべき人がいないなら座る権利を主張し、優先されるべき人も座りたければその権利を主張して争うというのが優先席の正しいルールになる。
 ティムラズ・レジャバ駐日大使やろうとしているのは、そういう西洋式のルールを電車の優先席に適用しろということだ。
 ただ、日本人にとっては優先席は若者と老人が権利を主張し合って闘争する場とは認識していない。老人が来た時に何も気にせず無条件に座れるように、若者は遠慮して開けておくというのがルールとして定着している。電車は権利闘争の場ではない。「万人の万人に対する闘争」の場ではない。
 日本人は古い長幼の序の優先順位を完全に否定するのではなく、「万人の万人に対する闘争」を和らげて、古くからの和の思想と西洋民主主義を統合しようと試みている。我々は電車の座席で、いちいち権利を主張して若者をどかせなくてはならないような社会を望んではいない。
 ティムラズ・レジャバ駐日大使は親日家として知られているが、心の中はやはり西洋人だから、それはしょうがないと思うが、その尻馬に乗ってる日本の人権派の連中、あんたらは糞だ。

 それでは大坂独吟集から、第三百韻。
 三昌独吟百韻「かしらは猿」の巻(宗因編『大阪独吟集』より)

発句

   西山のかいあるかげに
   猿さけぶ独狂言尾もない事を
 かしらは猿足手は人よ壬生念仏  三昌

 猿の声は三声の涙といわれ、杜甫の「秋興其二で、

 虁府孤城落日斜 毎依北斗望京華
 聽猿實下三聲涙 奉使虚隨八月槎
 畫省香爐違伏枕 山樓粉蝶隱悲笳
 請看石上藤蘿月 已映洲前蘆荻花

が当時はよく知られていた。昔は長江より南に広く生息していたといわれるテナガザルのロングコールで、人間の耳には哀愁を帯びた調べに聞こえる。
 猿の声を叫ぶと表現したのは、杜牧で、

 月白煙青水暗流 孤猿銜恨叫中秋
 三聲欲斷疑腸斷 饒是少年須白頭

の詩がある。猿の声が腸を断つというのもこの詩に由来するのだろう。
 前書きの「かいあるかげに」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注にあるように、

   誹諧歌:法皇にし河におはしましたりける日、
   さる山のかひにさけふといふことを題にてよませたまうける
 わびひしらにましらな鳴きそ足引きの
     山のかひあるけふにやはあらぬ
             凡河内躬恒(古今集)

の歌によるもので、「法皇にし河に」を西山宗因の「西山」に変えて、西山のかひある影に猿叫ぶ、とする。「かひ」は山の谷の意味がある。
 この山に叫ぶ猿の興を借りて、連歌ではなく俳諧の狂句ということで、狂言から壬生念仏の壬生狂言を引き出し、猿の面を被ってるけど手足は人の壬生念仏とする。実際に猿の面を被る出し物もある。
 長点だが、コメントはない。


   かしらは猿足手は人よ壬生念仏
 扨火をともす花の最中

 壬生念仏の壬生狂言は花の季節に行われる。元禄七年の「むめがかに」の巻十八句目にも、

   町衆のつらりと酔て花の陰
 門で押るる壬生の念仏     芭蕉

の句がある。良い席は京の町の金持ちが押さえて、庶民は門の所で押し合いへし合いしている。
 点あり。

第三

   扨火をともす花の最中
 春の日や名残のうらに暮ぬらん

 江戸時代は寒冷期で桜の花は旧暦三月の終わりに咲いて、花が散ると春が暮れる。
 「名残のうら」は連歌の名残の懐紙の裏と掛けて、百韻の最後の八句になり、その七句目が花の定座になる。
 春の終わりの名残を惜しむのと、連歌の名残の裏に掛けて、行春を悲しむ。
 長点だがコメントはない。

四句目

   春の日や名残のうらに暮ぬらん
 さらばといひてかへる波風

 名残と言えば別れだが、ここでは前句の「うら」を浦に取り成して、暮れて行く春の日が「さらば」と言っているようだと擬人化して波風も帰って行くとする。
 点なし。

五句目

   さらばといひてかへる波風
 なま魚の塩路はるかにいらぬ事

 前句の「波風」を比喩としての「波風を立てる」として、生魚を馬で運ぶ人が要らぬ事を行っては波風を立てては、そのまま喧嘩して荷物もほっぽり出して帰ってしまったか。
 点なし。

六句目

   なま魚の塩路はるかにいらぬ事
 へうたん一つ山のはの月

 生魚の刺身があれば下手に料理なんかする必要はない。山の端の月を見ながら生魚を肴に瓢箪の酒を飲む。
 点なし。

七句目

   へうたん一つ山のはの月
 肩さきや裾野に結ぶ露分て

 肩さきに瓢箪、山の端の月に、裾野の露を分けて、と付く。

八句目

   肩さきや裾野に結ぶ露分て
 矢つぼ慥になく鹿の声

 矢壺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「矢壺」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 矢を射る時に狙い定めるところ。矢どころ。的。
  ※平家(13C前)四「目さす共しらぬやみではあり、〈略〉矢つぼをいづくともさだめがたし」

とある。肩口の所に狙いを付けて矢を放つ狩人とする。
 裾野の鹿は、

 夏衣裾野の草を吹く風に
     思ひもかけず鹿や鳴くらむ
             藤原顕季(金葉集)

などの歌に詠まれている。
 点あり。

2023年6月28日水曜日

 今日は箱根登山鉄道の紫陽花を見に行った。
 強羅まで行ったので箱根強羅公園へ行った。裏には早雲山が見え、正面には明星ヶ岳の大文字が見えた。薔薇がまだ咲いてた。
 紫陽花は大平台のスイッチバックの辺りが特に奇麗だった。

 それでは「松にばかり」の巻の続き、挙句まで。

名残裏
九十三句目

   むかしにかへる妻をよぶ秋
 身入ていろはにほへと書くどき

 身入は「しんいれ」とルビがあり、「書」は「かき」とルビがある。「掻き口説く」を「いろはにほへと書き」と掛けている。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、前句を還暦で一切に戻って「いろはにほへと」からやり直すとしている。
 昔別れた妻ともとれるし、若い頃に戻って改めて口説くとも取れる。
 点なし。

九十四句目

   身入ていろはにほへと書くどき
 恋の重荷のしるしや有らん

 恋の重荷は謡曲のタイトルで『恋重荷』。山科の荘司という卑しい男が女御に惚れて、

 「いやいや早や色に出でてあるぞとよ。さる間の事を忝くも女御聞こしめし及ばれ、急ぎこの荷を持ちて御庭を百度千度廻るならば、その間に御姿を拝ませ給ふべきとの御事なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2754). Yamatouta e books. Kindle 版.)

と、会いたかったらこの荷物を背負えと言われる。恋の奴(やつこ)になる覚悟と言えば、恋の奴隷ということか。「亡き世なりとも憂からじ」と言ってるうちに本当に死んでしまった。
 最初は化けで出るがすぐに悟って、

 「これまでぞ姫小松の、葉守の神となりて千代の影を・護らんや千代の影をも護らん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2760). Yamatouta e books. Kindle 版.)

ということで目出度く終わる。振った相手に復讐をするのではなく、本当に好きなら死んでもなお愛しい人を守る、という今でもありがちな話だ。 
 前句の「いろはにほへと」と掻き口説くのを恋の重荷を背負うようなものとする。
 点なし。

九十五句目

   恋の重荷のしるしや有らん
 さらぬのみか尻にしかるる百貫目

 女に尻に敷かれるというのは今でも使われるよくある表現だが、その重さが百貫目(約375kg)で、なるほどこれが恋の重荷か、とする。ただ、この時代に「百貫でぶ」という言葉があったかどうかは知らない。
 点あり。

九十六句目

   さらぬのみか尻にしかるる百貫目
 欲には人のよくまよふ也

 「欲にはよくまよふ」というのは駄洒落だが、性欲が止められずに後で責任取らされて、その女房にも尻に敷かれっぱなしと、よくあることだ。
 点なし。

九十七句目

   欲には人のよくまよふ也
 六道の辻切をする夕まぐれ

 「六道の辻」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「六道の辻」の意味・読み・例文・類語」に、

 「[一] 六道へ通じる道の分かれる所。六道のちまた。
  ※虎明本狂言・朝比奈(室町末‐近世初)「六道の辻へ罷出、ぎんみして、よきざい人を、ぢごくへおとさばやと存候」
  [二] 京都市東山区の六道珍皇寺の門前あたりをいう。ここから冥途に道が通じているといわれた。
  ※光悦本謡曲・熊野(1505頃)「愛宕の寺も打過ぎぬ、六道の辻とかや、実おそろしや此道は、冥途に通ふなる物を」

とある。
 京の六道の辻でよく辻斬りがあったのか、斬られた方はともかく、下手人は間違いなく地獄道へ落ちそうだが。
 点なし。

九十八句目

   六道の辻切をする夕まぐれ
 なふかなしやとてなく鳥辺山

 六道の辻の傍に葬送の地だった鳥辺野があった。六道で斬られたらそのまま鳥辺野行きか。悲しいもんだ。
 長点で「付心やすくて有感か」とある。「六道の辻」に「鳥辺野」はありきたりな発想の付けだが、「夕まぐれ」に「なふかなしや」と情が良く乗っている。

九十九句目

   なふかなしやとてなく鳥辺山
 咲花を引むしるてふずぼろ坊

 「ずぼろ坊」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「ずぼろ坊」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 丸坊主に剃った頭。また、そのような頭の人。ずぼろぼ。ずぼろぼん。ずぼろぼうず。ずんぼろぼうず。ずんべらぼん。
  ※俳諧・毛吹草(1638)一「児(ちご)桜花とみしもやすぼろばう」
  ② 大入道。大男。
  ※松翁道話(1814‐46)二「過去よりも未来へ通るづぼろぼう雨ふらば降れ風吹かば吹け」

とある。無縁仏にどこの坊主か知らないが花をむしって供えてくれる。場所柄、今でいう被差別民かもしれない。
 長点で「かなしみの心かはりてめづらしく候」とある。
 死に対する直接の悲しみではなく、死者も悲しければ坊主も悲しく、全体にじわっとくる感じで、今で言えば「エモい」というところか。

挙句

   咲花を引むしるてふずぼろ坊
 気ままにそだつ少年の春

 前句の坊主を小坊主として、花を引きむしったりしながら自由奔放に育って行く、というところで一巻は目出度く終わる。
 点あり。

 点のあったのは五十九句で、そのうち長点が二十八句。第一百韻にも勝るとも劣らぬ点数と言えよう。

 

2023年6月27日火曜日

 日本や韓国のような儒教文化圏が何で鎖国によって長期に渡る平和を維持できたのか。
 このことは戦争がその土地の生産力を越えて人口が増えることで起こるという原則に、わずかな例外を作り出していた。
 儒教の特徴である長幼の序は、幼い頃の年齢が一つ上であることがフィジカル面に大きな強みとなるため、わりかし自然に受け入れられるという利点がある。これは大人になっても、一年二年ではそれほどではないが、年齢の差は経験の差となってやはり年長者が優位に立つ。
 実際にはこれに加えて、男女のフィジカルな能力の差もまた男尊女卑の根拠となるわけだが、それも含めて比較的自然な形で人権、特に生存権の優先順位をつけることができたというのが大きい。
 これに比べると西洋が同性愛者を排除したことは、フィジカル面や生経験の優位性とは無関係で、数の論理にすぎなかった。
 年少者より年長者が優位に立つという単純な原理は社会をまとめるのに都合がよく、それがフィジカルな優位に基づく限り、争いもまた起こりにくくなる。
 つまり長子相続によって、長男に優先的に生存権を与え、次男三男は生産手段が与えられずに放りだすということで、容易に人口調整ができたことが、日本や韓国の平和にとって大きかったのではないかと思う。
 韓国の方の事情はよく知らないが、日本において、中世までは次男三男はお寺に送られることが多く、お寺に入れば結婚することもなく子孫を残すこともない。そのため効果的に子孫の数を減らすことができた。女性に関しては正妻だけでなく事実上側室も認められ一夫多妻だったため、一人当たり生む子供の数は一夫一婦制の夫婦よりは少なかった。
 一夫一婦制の夫婦よりも一夫多妻の方が女性が一人当たり生む子供の数が減るのは世界的に普遍的な傾向だ。
 ただ、中世の特に武家はしばしば兄弟同士で争い、それが下克上を生むようになり、そのため保元・平治の乱以降、関が原合戦に至るまでは乱世となった。徳川幕府の時代になって、儒教を国教化することで、厳密な長幼の序のシステムが作られ、次男三男はお寺だけでなく、都市での商工業に労働力を供給することとなった。
 商工業の活性化と技術革新が農村へ還元され、新田開発や農機具の向上など生産性の向上につながる好循環を生み出した。
 ただもちろん、捨子はかなりの数いて、俳諧のネタにされる程度にそれほど珍しいことではなかったと思われる。また、女性の余剰人口は遊郭を発展させた。
 都市に出て行った男性の結婚の難しさは、遊郭の発展によって補完され、都市人口を抑制していたと思われる。
 近代の人権思想からすると、こうした人口の抑制は「非人道的」と思えるかもしれないが、逆に近代の平等思想は人口の調整を困難にして、むしろ人口爆発から侵略戦争を常態化させ、地球規模での植民地争奪戦となり、二つの世界大戦にまで行き着いたことを思うと、人権思想は条件が整わないまま見切り発車した思想と言って良い。
 人権思想は生産力の向上と人口の抑制があって初めて機能するもので、生産力が低かったり人口爆発が起こってたりすれば、結局飢餓か侵略かの選択になる。
 もちろん飢餓を選択することは可能だ。二十世紀の社会主義の実験はまさにその結果となった。
 今でも生産性や人口問題を無視した理想論は必ず飢餓を引き起こす。飢餓が生じれば、自分の食い扶持を確保するために他人を密告したり誣告したりして、飢餓だけでなく粛清で多くの人が死ぬことになる。
 今の世界では、基本的に技術の転移を進めて地球全体の生産性の向上を図り、同時に近代化によって少子化が起こり人口が抑制されることで、まず経済を先にして、衣食足りて人権を知る状態を作って行くのがベストだと思う。
 ただ、過去に別の仕方で平和を実現した例があることは記憶に留めたい。

 それでは「松にばかり」の巻の続き。

名残表

七十九句目

   かすむ塩垢離身もふくれつつ
 吉日と舟乗初るちからこぶ

 前句の塩垢離を船乗りの乗初(のりぞめ)の清めとする。
 乗初はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「乗初・乗始」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 新調した乗物に初めて乗ること。また、新年に初めて乗物に乗ること。はつのり。《季・新年》
  ※殿暦‐嘉承元年(848)正月九日「今日依二吉日一新車乗始」

とある。新年の初乗りなら春になる。
 長点で「又ちからこぶ玄々也」とある。正月の寒い時期に裸になってというのが「ちからこぶ」から伝わってくる。

八十句目

   吉日と舟乗初るちからこぶ
 喧嘩におよぶ尼崎うら

 尼崎は瀬戸内海を通る廻船など、大阪に入れない大きな船の発着場で賑わっていた。
 出入りする船も多ければ、どっちの舟が先だの、舟と舟がこすっただの喧嘩も珍しくはなかったのだろう。
 点なし。

八十一句目

   喧嘩におよぶ尼崎うら
 焼亡の煙をかづく壁隣

 火事と喧嘩は江戸の華とは言うが、江戸じゃなくても大きな街じゃ普通だったのだろう。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『雲林院』の、

 「松陰に煙をかづく尼が崎、煙をかづく尼が崎、暮れて見えたる漁火のあたりを問へば難波津に、咲くやこの花冬ごもり、今は現に都路の、遠かりし程は桜にまぎれある、雲の林に着きにけり雲の林に着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1708). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。昔は藻塩焼く煙だったのだろう。海士の焼く藻塩の煙を被った海士ならぬ尼が崎、という洒落で、一種の地名の序詞のように用いている。
 延宝の頃ともなるとは塩田製塩に取って代わられて藻塩焼く煙は昔のこととなっていて、煙をかづくといっても火事の煙をかづくことになる。
 長点で「かづくの妙の一字に候」と謡曲の出典の使い方の巧みを褒めている。

八十二句目

   焼亡の煙をかづく壁隣
 何のかのとてしれぬ境目

 壁隣りの壁が焼けてしまえば、どこに境界線があったかわからなくなる。あとでもめそうだ。
 点なし。

八十三句目

   何のかのとてしれぬ境目
 たうとさや同じやう成仏ぼさつ

 仏像にもいろんな種類があるが、今でも一部のマニアを別にすれば、種類の区別など分らない。昔の人も同じだったのだろう。芭蕉の元禄四年の句にも、

 大津絵の筆のはじめは何仏  芭蕉

の句がある。
 まあどの仏像が違うからと言って御利益がないわけではない。御利益があるなら同じことだ。
 点あり。

八十四句目

   たうとさや同じやう成仏ぼさつ
 十方はみな浄土すご六

 十方は東西南北に、東南、西南、西北、東北の四維と上下を加えた方角で、十方浄土というと仏はあらゆるところにいるということをいうが、ここではそこらかしこで浄土双六をやっている、となる。
 浄土双六はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浄土双六」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 絵双六の一種。室町時代に起こり、江戸時代に流行した仏法双六。良い目を振って上がりになると極楽浄土があり、悪い目を振ると最後には地獄に落ち永沈(ようちん)となる。賽(さい)は「南無分身諸仏」の六字を記したものを用い、南閻浮州(なんえんぶしゅう)を振り出しに極楽・地獄の道程が絵に書かれている。じょうどすぐろく。《季・新年》
  ※実隆公記‐文明一一年(1479)九月一五日「浄土双六於二御前一打之」

とある。
 長点だがコメントはない。

八十五句目

   十方はみな浄土すご六
 お日待の光明遍照あらた也

 日待(ひまち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「日待」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 人々が集まり前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。普通、正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない。後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる。影待。《季・新年》
  ※実隆公記‐文明一七年(1485)一〇月一五日「今夜有二囲棊之御会一、終夜不レ眠、世俗称二日待之事一也云云」

とある。
 光明遍照はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「光明遍照」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 仏語。阿彌陀如来の光が遍(あまね)く十方を照らし、念仏の衆生をその光の中におさめとって捨てないと説く、「観無量寿経」の光明四句の文「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」の、最初の一句。〔往生要集(984‐985)〕
  ※平家(13C前)九「其後西にむかひ、高声に十念となへ、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨とのたまひもはてねば」

とある。
 前句の浄土双六を日待ちの娯楽として待っていた日の出は光明遍照新たなり、とする。
 点あり。

八十六句目

   お日待の光明遍照あらた也
 おこりまじなふよし水のみね

 よし水は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に「京都東山の大谷」とある。ただ、次の句に東山が出てくるので吉野の吉水にして、次の句で東山の大谷に取り成したのかもしれない。
 大谷の吉水だと吉水上人(法然)のことになる。
 おこりはマラリアのことでそれに霊験があるよし水の光明遍照あらた也、となる。
 点なし。

八十七句目

   おこりまじなふよし水のみね
 東山に位有人のあがり膳

 マラリアから源氏物語の若紫巻の霊験ある修行僧を尋ねて行ったことの本説付けとする。源氏物語では北山だが、付け句の場合は多少変える。
 点なし。

八十八句目

   東山に位有人のあがり膳
 蒔絵に見ゆる半切の数

 半切(はんぎり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「半切」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 半分に切ったもの。
  ※島津家文書‐慶長三年(1598)正月晦日・豊臣氏奉行衆連署副状「半弓之用心に、半切之楯数多可レ有二用意一旨、被二仰遣一候」
  ② 能装束の袴の一つ。形は大口袴に似て裾短とし、金襴、緞子(どんす)などにはなやかな織模様のあるもの。荒神・鬼畜などの役に用いる。はんぎれ。〔易林本節用集(1597)〕
  ③ 歌舞伎衣装の一つ。広袖で丈(たけ)が短く、地質に錦または箔(はく)を摺り込んだもので、主に荒事役に用いる。はんぎれ。
  ※歌舞伎・男伊達初買曾我(1753)「五郎時致、半切、小手、臑当」
  ④ (半桶・盤切) 盥(たらい)の形をした、底の浅い桶(おけ)。はんぎりのおけ。はんぎれ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑤ =つりごし(釣輿)」

とある。この場合は④で、位ある人の上り膳だから半桶でも蒔絵が、とやや大袈裟だ。
 点なし。

八十九句目

   蒔絵に見ゆる半切の数
 能衣装松の村立はしがかり

 半切を②の意味に取り成す。能役者の出てくる口の所に能衣装が掛けられていて、松の村立ちの蒔絵のようだ。
 点なし。

九十句目

   能衣装松の村立はしがかり
 未明にはじまる此宮うつし

 前句を能衣装が掛かっていて、松の村立があって、橋掛かりがあってという景色として、遷宮の情景とする。
 点なし。

九十一句目

   未明にはじまる此宮うつし
 月くらく三井寺さして落たまふ

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、謡曲『頼政』の、

 「地( サシ) 抑も治承の夏の頃、よしなき御謀叛を勧め申し、名も高倉の宮の内、雲居のよそに有明の月の都を忍び出でて、
  シテ     憂き時しもに近江路や、
  地      三井寺さして落ち給ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.880). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面を引いている。前句の「宮うつし」を高倉の宮の移って来たことと取り成す。
 長点で「作例も不存、此はじめて承驚入候」とある。長点といえども、どこかで聞いたようなものも多かったということか。長く連歌俳諧の点者をやってて、このパターンは初めてだったようだ。

九十二句目

   月くらく三井寺さして落たまふ
 むかしにかへる妻をよぶ秋

 これは謡曲『三井寺』の、

 「これはさざ波や三井の古寺鐘はあれど、昔に帰る声は聞こえず。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1981). Yamatouta e books. Kindle 版. )

で、これはありがちなパターンだったのだろう。一応娘を探すところを妻を探すに変えている。
 点なし。

2023年6月25日日曜日

 プリゴジンは結局クーデターを起こすぞと言って脅しておいて、ワグネルの撤収を認めさせるのが狙いだったのかな。
 思えば明智光秀も本能寺を焼き討ちせずに取り囲むだけにして、信長と直接交渉で領地の没収や備前備中攻めのことなどで取引していたら、また違った歴史があったのかもしれない。

 それではツイッターの奥の細道。

五月八日

今日は旧暦5月7日で、元禄2年は5月8日。奥の細道。

昨日の夜から雨が降ってきて、今朝もまだ雨が残ってたが、だんだんと晴れてきて、何とか午前中に出発することが出来た。この辺りは本当に道が悪い。
大手門に通じる道を逆に行くと奥州街道に出る、この交差点を芭蕉が辻というらしい。

仙台を出て北東へ行くほぼ真っ直ぐな道を行くと、岩切という所に冠川という川があって冠川土橋を渡った。東光寺があって、その先の岩切新田の裏に十符の菅菰が垣根のように植えられていた。

夫木抄の詠み人知らずの歌に、

みちのくの十符の菅菰七符には
   君を寝させて三符に我が寝む

の歌があった。今も栽培されてるのが嬉しい。

十符の菅を見た後土橋に戻り、それから東へしばらく行って、多賀城跡の壺の碑を見た。
西行法師が、

みちのくの奥ゆかしくぞおもほゆる
   壺の碑そとの浜風

と詠んだ壺の碑が最近になって土の中から出てきたということだ。

これを見ることが出来たのは奇跡としか思えない。はるばる長い旅をしてきた甲斐もあった。
所々判別できないところもあるが、天平寶字六年の銘、とにかく有り難い。

壺の碑を見た後、また土橋に戻り、元の街道で塩竈に出た。
まだ日も高く、湯漬け飯を食ってから周辺の名所を見て回った。
まずは南の方へ行き、末の松山に行った。
古今集読人不知の、

君をおきてあだし心をわがもたば
  末の松山波もこえなむ

また、清原元輔の、

契りきなかたみに袖をしぼりつつ
  末の松山波越さじとは

絶対ないことの喩えだった末の松山も、恋に絶対はない。悲しいことだ。後には恨みだけが残り、やがて命は尽きて、何百年もの歳月を経て行く。

興井は末の松山の南の麓にあった。
岩があってそれを囲むように池があり、今は井戸になっているが、かつては沖の石だったという。

わが袖は汐干に見えぬ沖の石の
   人こそしらね乾くまもなし

の二条院讃岐の頃の面影もない。

野田の玉川は塩竈に戻る途中の小川で、西行法師が、

踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて
   人も通わぬおもわくの橋

と詠んでいる。
東に見える小高い岡が浮島だという。
塩竈に戻り、地名の由来の塩竈を見た。幅五尺はあるかという大きな釜が四つあって、今では使われていない。

日も暮れてきたので塩竈明神は明日にして、その裏にある本地の法蓮寺門前の宿坊に泊まることにした。お寺だけあって、銭湯があった。
明日はいよいよ松島だ。

五月九日

今日は旧暦5月8日で、元禄2年は5月9日。奥の細道。

今日は雲一つない良い天気で、絶好の松島日和だ。
明るくなってから塩竈明神に参拝した。曾良はここの明神様のことをいろいろ詮索してた。神様にもいろいろあってややこしそうだ

塩竈明神の参拝を終えてから船で千賀ノ浦へ出ると、すぐ左に籬島という小さな島があった。古今集読人不知の、

わが背子をみやこにやりて塩竈の
   まがきの島の松ぞ恋しき

の歌に詠まれた所だ。

そのまま行くとやはり左側に幾つか島が連なって、その先端が都島というらしい。
伊勢物語の、

おきのゐて身を焼くよりも悲しきは
   都島への別れなりけり

はここなのか。興井は昨日行ったが。

右側の方にも遠く島が連なり、全体が広い入江になっている。
船は小さな島を伝うように真っ直ぐ進むと、やがて左に曲がり、正面に瑞巌寺が見えてきた。左に雄島、右に福浦島を見ながら、昼には松島の港に着いた。

午後からは瑞巌寺へ行き、そのあと雄島へ行った。橋があって地続きになっていて雲居禅師の座禅堂や石碑があった。
松島に戻ると八幡神社と海に突き出た瑞巌寺の五大堂へ行った。久之助の宿に泊まる。

宿で素堂のくれた詩を読んだ。

夏初松島自清幽 雲外杜鵑声未同
夏の初めの松島は自ずと清く奥深く、
雲の上のホトトギスの声はまだ揃わない。

曾良も横にいて、今日はホトトギスが鳴いてたなと、何か考えてるようだ。

2023年6月24日土曜日

  ワグネルの反乱はまあ、これまでもいろいろ対立してたようだし、前線に送られたまま使い捨てされそうだったしな。明智光秀みたいなもんか。敵はウクライナに非ず、敵はクレムリンにあり。
 その前にも自由ロシア軍の反乱があったけど、組織的ではなく散発的な反乱だと、結局ウクライナに負けた時にロシアはバラバラになる。

 今日は「松にばかり」の巻はお休みで、ツイッターの奥の細道の方でも

五月三日

今日は旧暦5月2日で、元禄2年は5月3日。奥の細道。

今日は白石に泊まる。城はよく目立つが山は雲がかかって全然見えない。
夫木抄や名所名寄に、

みちのくの阿武隈川のあなたにぞ
   人忘れずの山はさかしき
       読人知らず

の歌があるが、忘れずの山って確かこの辺だったと思った。

大木戸というところの先の貝田宿の先に越河番所があった。ここが今の福島領と仙台領の境になる。
斎川を越えると細い山間の道に入り、馬牛沼と馬牛山がある。その先でまた斎川を渡るが、その少し手前に鎧摺の岩や次信忠信両妻の御影堂があった。

この二人の妻は母を元気づけるために男装して甲冑を着て、息子が帰ってきたかのように振る舞ったのだとか。
今の世では花見で酔っ払って羽織着て刀さす女はいるが、平和な時代だ。

昨日の雨は今朝まで降っていた。午前中に一度止んだんで、馬で出発して桑折宿へ向かった。そのあとまた小雨が降り出した。
桑折宿を過ぎて貝田宿へゆく途中の国見峠という所が伊達の大木戸だという。特に何かがあるというわけでもないようだ。

五月四日

今日は旧暦5月3日で、元禄5年は5月4日。元禄2年の3月が小の月だったために起きたこの1日の誤差は、奥の細道の旅の終わりまで続くようだ。

夜のうちに降ってた雨は朝のうちに止んだので出発した。
この辺りは道が悪く、雨が降るとぬかり道になる。
今日も白石城は見えるが山は見えない。

時折り雲の切れ間から日が射したと思ったらまた降り出したり、安定しない天気だ。道の状態も良くない。
仙台道の槻木宿の辺りで阿武隈川の脇に出る。その次の岩沼宿の左側に竹駒明神があり、武隈の松があった。

旅立つ前に挙白から貰った句に、

武隈の松見せ申せ遅桜 挙白

の句があった。さすがに今は咲いてない。
あの磐城平藩の殿様の句にも、

武隈の松も二木や二度の春 風虎

というのがあったな。
最初の予定の3月20日に旅立って、途中の五月雨の長逗留がなければ、桜が二度見れたんだろうな。

3月の終わりに旅立って、4月も終わり今は5月だもんな。

桜より松は二木を三月越シ 芭蕉

岩沼宿を出て、また小雨の降る中を増田宿に向かった。途中に左へ一里行った所の蓑輪笠島に道祖神の社と実方中将の塚があるという。
実方中将が陸奥に赴任した時に、道祖神の社を無視して通り過ぎたために、落馬して亡くなったと伝えられている。

後にここを西行法師が通り、

朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて
   枯野の薄形見にぞ見る

と詠んだという。
行ってみたかったけど、どうやら曾良がその分岐点を見落として気づいたら増田駅だったという。
道祖神に招かれての旅なのに道祖神を通り過ぎたりして、ばちが当たらなければいいが。

曾良「増田宿は古代東山道の名取駅のあった所で、ここから西へ出羽路が分岐していて、実方中将も西行法師もそこを通ったと思われる。
ただ、今は古代の出羽路は跡形もなく、街道から外れた辺鄙な場所になってしまった。

岩沼宿と増田宿の間は田んぼになっていて、五月雨でかなり増水していて、どこに道があるのかもよくわからなかった。道がわかったとしても通れる状態だったかどうかも怪しかった。残念だった。」

増田宿を出て中田宿も過ぎた所に名取川があった。
古今集読人知らずの、

名取川瀬々の埋もれ木あらはれば
   いかにせむとか逢ひ見そめけむ

の歌で有名だが、埋れ木が現れるどころか濁流だった。まあ、橋があるので、渡るには問題はなかった。

今日も何とか日が沈む前に仙台に着いた。
若林川を渡って左にお城を見ながら国分町に宿を取った。
街は端午の節句で、軒という軒に菖蒲が葺いてあって窓には明かりが灯り、それが五月雨の暗がりに浮かび上がって綺麗だった。

五月五日

今日は旧暦5月4日で、元禄2年は5月5日。仙台。

今日もはっきりしない天気だが、それはともかくとして、三千風と連絡が取れないという事態が発生して、今日はすることもなく、休養日になりそうだ。
曾良はずっと出かけている。

結局曾良がいろいろ駆け回ってくれて、泉屋甚兵衛の紹介で、絵師の北野屋加衞門が仙台の名所を案内してくれることになった。
三千風の消息は結局わからなかった。噂では放浪の旅に出ているという。

かつては西鶴と張り合って一日百韻三十巻の三千句興行をして三千風と呼ばれるようになった。自分も天神様の境内で速吟興行を試みたが、素堂と二人で二百句がやっとだった。
その後西鶴は二万三千五百句興行を行ったという。人間技とは思えない。

天和の頃には三千風が松島眺望集を編纂した時に、愚句、

武蔵野の月の若ばへや松島種 芭蕉

の句を載せてもらった。
武蔵野図は薄の中に地面から月が生えたみたいに描き、松島図も水辺線に島が生えたみたく描く、その類似をネタにした、松島の種が武蔵野にこぼれて月が生えてきたって句だった。

五月六日

今日は旧暦5月5日で、元禄2年は5月6日。仙台。

今日は天気も良く、亀岡八幡宮に行った。
川を渡り、大手門の前を右に行き、武家屋敷の並ぶ奥に亀岡八幡宮の長い石段があった。最近ここに遷したという立派な神社だった。
帰りににわか雨に降られて、茶室を借りて雨宿りした。

五月七日

今日は旧暦5月6日で、元禄2年は5月7日。仙台。

今日も天気が良く、加衞門に仙台の名所を案内してもらう予定だ。
昨日行った仙台城のある青葉山は本当に青葉の山で、天守閣はなく、麓に屋敷が立ち並んでた。
歌枕の青葉山は季吟先生は近江の音羽山のことだと言ってたが、陸奥説や若狭説もあるという。

今日はまず東照宮に行った。言わずと知れた徳川東照宮大権現様を祀った神社で、日光ほどではないが煌びやかだった。
その南東の方が、源俊頼の、

とりつなげ玉田横野のはなれ駒
   つつじのけたにあせみ花咲く

の歌で知られた玉田横野だという。

その先につつじが岡天満宮があった。
さらに南東の方へ行くと、木の下薬師堂があり、昔の国分尼寺の跡だという。
帰る頃にはまた空が曇ってきた。

加衞門も一緒に宿に戻ると、甚兵衛もやって来た。明日仙台を発つことになったので、2人にそれぞれ発句を揮毫してやった。
甚兵衛には実方中将の塚や道祖神の社を逃したことを詠んだ、

笠島やいづこ五月のぬかり道 芭蕉

加衞門には文字摺石の昔を偲ぶ、

早乙女にしかた望んしのぶ摺 芭蕉

の句を短い文章に添えて書いてやった。
お礼とはなむけに干し飯と草鞋を貰った。
干し飯は夏場の食欲のない時に冷たい水で戻して食うと美味いし、草鞋は蛇除けの青い鼻緒が付いていた。

2023年6月23日金曜日

 マイナンバーカードに対する批判はある意味では、このシステムをより完全なものへとするうえで必要なことだし、もっと頑張れって言ってると受け止めた方が良い。
 最初から完全なシステムなんてないし、弱点を洗い出しては改良してゆく作業は必要で、左翼やマスゴミのマイナカード叩きも、その改良のための貴重な提言としてゆくべきだろう。
 まあ、最初の社会主義の労働運動はラッダイト運動に始まると言われている。こういう運動も、結局機械の欠点を洗い出して改良するのに役に立っていったんではないかと思う。
 正反合が弁証法的発展なら、アンチ機械、アンチロボット、アンチAIがあって、それを乗り越えた所に本当の発展があるのかもしれない。
 国民総背番号制にしても、国家が国民の情報を密かに管理し、弱みを握っては言うこと聞かせたりといった悪用ができるのも確かだ。だからこそ国民に割り振る背番号は秘密裏に振るのではなく、きちんと本人に連絡し、カードという形で国民の側から利便性の向上という形で同意を得て、その運用も透明性がなくてはならない。
 ある意味、国民総背番号制に反対する人達がいたからこそ、マイナンバー制度は今の形になったとも言える。
 そういうわけでパヨチンに感謝を。

 それでは「松にばかり」の巻の続き。

三裏
六十五句目

   のびたる髭を吹風の音
 みめよしはおどろかれぬる松浦人

 有名な、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
            藤原敏行(古今集)

の歌による付けで、『太平記』の一宮御息所というみむよき女を、「見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒き」松浦人の松浦五郎が部屋に押し入って略奪してレイプしようという物語に持って行く。まあ『太平記』の方は龍神の怒りを買って船が沈んで因果応報というお約束の展開になる。
 点なし。

六十六句目

   みめよしはおどろかれぬる松浦人
 たがしのびてかはらむ佐与姫

 前句の松浦人を松浦五郎から松浦小夜姫に転じる。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「松浦佐用姫」の意味・わかりやすい解説」に、

 「伝説上の人物。古くは『万葉集』にみえる。大伴佐提比古(おおとものさてひこ/さでひこ)が異国へ使者として旅立つとき、妻の松浦佐用比売(さよひめ)が別れを悲しみ、高い山の上で領巾(ひれ)(首から肩に掛けて左右に垂らす白い布)を振って別れを惜しんだので、その山を「領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)」とよぶと伝える。大伴狭手彦(さてひこ/さでひこ)が朝廷の命で任那(みまな)に派遣されたことは『日本書紀』の宣化(せんか)天皇2年(537)条にみえるが、佐用姫の伝えはない。肥前(ひぜん)地方で発達した伝説で、奈良時代の『肥前国風土記(ふどき)』にも、松浦(まつら)郡の「褶振(ひれふり)の峯(みね)」の伝えとしてみえるが、大伴狭手彦連(むらじ)と弟日姫子(おとひひめこ)の物語になっている。夫に別れたのち、弟日姫子のもとに、夫に似た男が通ってくる。男の着物の裾(すそ)に麻糸をつけておき、それをたどると、峯の頂の沼の蛇であった。弟日姫子は沼に入って死に、その墓がいまもある、とある。昔話の「蛇婿入り」のおだまき型の話になっている。
 松浦佐用姫は中世の文学でも人気のあった人物で、説経浄瑠璃(じょうるり)の「松浦長者」などの語物のなかでは、松浦長者の娘さよ姫は、大蛇の生贄(いけにえ)に捧(ささ)げられる女として登場する。『肥前国風土記』の伝説などからの転化であろう。東北地方の奥浄瑠璃では「竹生(ちくぶ)島の本地」となって語り広められ、岩手県などでは佐用姫を大蛇の人身御供(ひとみごくう)にする物語が伝説になっている。
 領巾振(ひれふり)山は佐賀県唐津(からつ)市の鏡山のこととされ、その周辺には佐用姫にちなむ伝説が残っている。別れのとき佐用姫が袖(そで)を掛けたという袖掛松(別名、佐用姫松)が山頂にあるほか、松浦川上流には佐用姫岩(別名、松浦岩)という大きな岩が川の中にあり、姫は領巾振山からここに飛び降りたといい、その岩には足跡というくぼみがある。唐津市呼子(よぶこ)町の呼子の浦の古名を呼名(よぶな)の浦というのは、姫がここで夫の名を呼んだのに由来すると伝える。同市加部(かべ)島にある田島神社の末社の佐与姫神社は姫を祭神とし、祠(ほこら)には姫が泣きあかしたという望夫(ぼうふ)石がある。また、伊万里市山代(やましろ)町立岩(たちいわ)は、姫の死骸(しがい)が丸木船に乗って漂着した所といい、姫を祀(まつ)る佐代姫神社がある。神社と浦ノ崎駅の中間の田の畦(あぜ)には、姫を葬ったという塚もあった。神社には、帰国した大伴狭手彦が神饌(しんせん)を盛って供えたという高麗(こうらい)焼の壺(つぼ)が、宝物として伝わっている。なお、肥前地方をはじめ、九州北部では道祖神(「塞神(さえのかみ)」)をサヨの神(かん)といい、松浦佐用姫を葬って祀った神であると伝える。[小島瓔禮]」

とある。蛇が忍んできて孕む。
 長点で「左手彦留守の間しれまじく候」とある。夫の大伴佐提比古(おおとものさてひこ)留守の間のことはわからないということで、本当は蛇ではなく普通に夜這いだった可能性もあるということか。

六十七句目

   たがしのびてかはらむ佐与姫
 恋衣おもきが上に打かけて

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、

 さらぬだに重きが上の小夜衣
     我が妻ならぬ妻なかさねそ
             寂然(新古今集)

の歌を引いている。これを逃げ歌にして、誰かが自分の妻でない佐与姫の上に恋衣を打ちかけて孕ませてしまった、とする。
 点あり。

六十八句目

   恋衣おもきが上に打かけて
 待宵のかねはらふ町役

 町役(ちょうやく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「町役」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 町内の住民としての義理やつきあい。町内に一戸をかまえる者に対して課せられた。近世、江戸や大坂などでは、町内見回り、冠婚葬祭などに一軒から必ずひとりは出なければならないなどの義務があった。まちやく。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浮世草子・西鶴織留(1694)五「いやといはれぬ祝言振舞、町役(ちゃうヤク)の野おくりには出ぬ事成難し」
  ② 特に、大坂で、各町の費用をその町人に負担させるもの。一軒一役の役割のほか、間口割、坪割、顔割(町人の頭数による)などの方法で徴収された。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「恋衣おもきが上に打かけて 待宵のかねはらふ町役〈素玄〉」
  ③ 「ちょうやくにん(町役人)」の略。
  ※雑俳・笠付類題集(1834)「耳にたつ町役持ば犬の声」

とある。
 恋に思い悩んでるのも大変なのに、町役の金も払わなくてはいけない。「待つ宵の鐘」から「金払う」を導き出す。
 長点で「恋よりも公役及難義候か」とある。

六十九句目

   待宵のかねはらふ町役
 家主はわかぬ別れの牢人に

 「わかぬ別れ」は「飽かぬ別れ」と同じでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「飽ぬ別れ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「いやになったわけではないのに別れること。不本意な別れ。なごり尽きない別れ。
  ※後撰(951‐953頃)恋一・五六八「今ぞ知るあかぬ別の暁は君をこひちにぬるる物とは〈作者不明〉」

 間借りしてた牢人とのわかぬ別れ、要するに家賃を踏み倒して逃げられた、ということ。家主が代りに町役を払う。
 点なし。

七十句目

   家主はわかぬ別れの牢人に
 委細の事はたがひに江戸から

 家主は単にその家の主(あるじ)という意味もある。牢人の主人が妻子を置いて出て行ってしまい、その書置きに「詳しいことは江戸に着いたら」とある。
 点あり。

七十一句目

   委細の事はたがひに江戸から
 道づれと箱根の切手見合て

 切手はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「切手」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① ある定まった目的・用途をもつ物や銭を、その関係から切り放し、別の性格をもつ「切物」とする権利を付与する証文。中世の切符、為替(かわし)、割符(さいふ)、年貢などの貢租  の預状(あずかりじょう)などをいう。
  ※上杉家文書‐(永正五年)(1508)一一月二三日・倉俣実経外五名連署奉書「古志郡内御料所土貢事、御屋形様被レ直二御位一候之間、如二切手一復二前々一、急度御進納尤候」
  ② 江戸時代の通行(往来)手形。関所手形(居住地の名主、五人組の証明によって発行されるもの)、手判の類。割符(さいふ)。
  ※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)三月一八日「道中の御切手、爰元に無レ之候」
 ※浮世草子・世間娘容気(1717)六「御関所あって、御切手(キッテ)なくては」
  ③ ある場所にはいることを認めて発行する券。入場券。
  ※雑俳・田みの笠(1700)「おづおづと切手を出す芝居口」
  ※新聞雑誌‐三一号・明治五年(1872)二月「文部省、博物館に於て博覧会を催さる。〈略〉切手を以て拝観することを許さる」
  ④ 営業などの許可証。
  ※人情本・恩愛二葉草(1834)三「昔拙弾(かじ)った三味線が役に立ったも悲しい事、仁太夫さまの切手を貰うて、漸う繋ぐ細い命」
  ⑤ 商品に対する前払いの証券。これをもって商品の引き換えができる。商品券。商品切手。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※多情多恨(1896)〈尾崎紅葉〉後「ビスケットの鑵や、呉服の切手まで貰ってある」
  ⑥ 江戸吉原大門の通行証。遊女が外出する時、抱え主の発行するこれを番所に見せた。
  ※雑俳・柳多留‐二三(1789)「切(きッ)手を見せて田楽を喰いに行き」
  ⑦ 金銭預かりの証文。借用手形。金銭切手。
  ※当代記(1615頃か)四「只切手にて黄金を借引す」
  ⑧ 江戸時代、諸大名家の蔵屋敷が米商人に発行した米穀の空売手形。蔵預かりを保証して発行する。米切手、大豆切手などがある。一種の倉庫証券。明治四年(一八七一)にその発行が禁止された。」

など、いろいろなものに用いられる。この場合は②の箱根の関の通行手形のこと。
 男に関して審査は簡単だが、女の場合はきっちりと調べられる。この場合も同行の女の手形に何か不備があったのか関所で止められてしまい、詳しいことは江戸に戻ってからまた、ということになる。
 点あり。

七十二句目

   道づれと箱根の切手見合て
 やぶれつづらを明て悔しき

 関を越えるってんで葛籠を開けて切手(手形)と取り出そうっていと、何とまあその葛籠とややが破れてて‥‥。
 点なし。

七十三句目

   やぶれつづらを明て悔しき
 あるるとやにくき鼠を取にがし

 旅体から家にいる時の体として、葛籠から食い物を出して食おうとすると葛籠が鼠に破られていて、結局その鼠にも逃げられてしまい‥‥。
 点あり。

七十四句目

   あるるとやにくき鼠を取にがし
 へる油火も消る秋風

 油を鼠に舐められて油が足りなくなった所へ、秋風が吹いて火も消えてしまう。
 点なし。

七十五句目

   へる油火も消る秋風
 ひら岡へくる姥玉のよるの月

 枚岡(ひらおか)の姥ヶ火の伝説による付け。ウィキペディアに、

 「『諸国里人談』によれば、雨の夜、河内の枚岡(現・大阪府東大阪市)に、大きさ約一尺(約30センチメートル)の火の玉として現れたとされる。かつてある老女が平岡神社から灯油を盗み、その祟りで怪火となったのだという。
 河内に住むある者が夜道を歩いていたところ、どこからともなく飛んできた姥ヶ火が顔に当たったので、よく見たところ、鶏のような鳥の形をしていた。やがて姥ヶ火が飛び去ると、その姿は鳥の形から元の火の玉に戻っていたという。このことから妖怪漫画家・水木しげるは、この姥ヶ火の正体は鳥だった可能性を示唆している。
 この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。それによれば、姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。」

とある。「姥」と枕詞の「うばたま」を掛けている。
 点なし。

七十六句目

   ひら岡へくる姥玉のよるの月
 宮司が衣うちかへしけり

 枚岡は枚岡神社があり、姥玉を枕詞とすることで姥ヶ火の本説を逃れられる。

 いとせめて恋しき時はむば玉の
     よるの衣を返してぞきる
             小野小町(古今集)

の歌の縁で枚岡神社の宮司が月の夜に衣を打ち返して着る、とする。
 点なし。

七十七句目

   宮司が衣うちかへしけり
 神木の花見虱やうつるらん

 花見虱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「花見虱」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 春、暖かくなった花見頃に繁殖し、衣服の襟や袖などにまではい出してくる虱。花虱。《季・春》
  ※俳諧・誹諧初学抄(1641)「末春 花みじらみ」

とある。宮司に神木、虱に衣打ち返すと付けて、神木の花見をしていた宮司が花見虱を移されて衣をひっくり返す。
 点あり。

七十八句目

   神木の花見虱やうつるらん
 かすむ塩垢離身もふくれつつ

 塩垢離はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「潮垢離・塩垢離」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 海水をあびて身を浄めること。海水でみそぎをすること。
  ※後鳥羽院熊野御幸記‐建仁元年(1201)一〇月一一日「於二此宿所一塩垢離かく。眺二望海一。非二甚雨一者可レ有レ興所也」

とある。
 虱を移されて塩垢離をして体を清めてはみるが、体のリンパ腺の腫れは引かない。
 長点で「『身もふくるる』よく出申候」とある。

2023年6月22日木曜日

 それでは「松にばかり」の巻の続き。

三表
五十一句目

   くま手鳶口ならびに鎗梅
 雪とけて流木取がち国ざかひ

 流木はこの場合は「ながしぎ」の方だろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「流木」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙
  ① 漂い流れる木。ながれぎ。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「雪とけて流木取がち国ざかひ 角田がはらの浪のわれふね〈素玄〉」 〔水経注‐溱水〕
  ② 山から伐り出し、川に浮かべて下流へ流し下す材木。ながし木。
  ③ 流罪に処せられた人間をたとえていう語。流人(るにん)。
  ※連理秘抄(1349)「可二分別一事〈略〉浮木 葦田 流木 書レ絵草木此等類非二植物一。他准レ之」

とある。山から切り出した材木は川に流して運ぶが、国境を越えた所で掠め取る奴がいたか。鳶口で材木を引っかけて自分の方に引き寄せる。
 鎗梅で春なので雪解けの川とする。
 点なし。

五十二句目

   雪とけて流木取がち国ざかひ
 角田がはらの浪のわれぶね

 流れて来た材木だと思ったら割れた船の残骸だった。
 隅田川は長いこと武蔵と下総の境だったが、江戸時代になって当時の利根川(今の江戸川)に境界が移った。
 これがいつのことかははっきりしないのかウィキペディアには「近世初期(1683年(天和3年)また一説によれば寛永年間(1624年-1645年))に」とあるが、「正保国絵図」には今の江戸川が境になっているので、この巻の作られた延宝の頃には既に江戸川が境界になっていて、当然ながら深川芭蕉庵も武蔵国だった。
 ただ、歴史的には隅田川と江戸川の間の地域はかつて太日川の沢山の中州のある広大な河川敷があって、隅田川もその支流の一つとして扱われていたから、太日川が洪水などによって流れを変える度に国境線が動いてた可能性はある。
 点なし。

五十三句目

   角田がはらの浪のわれぶね
 いくたりか浅草橋にこもかぶり

 「こもかぶり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「薦被・菰冠」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙
  ① こもで包んだ酒樽(さかだる)。主に四斗(約七二リットル)入りの大きな酒樽をいう。
  ※雑俳・もみぢ笠(1702)「はんじゃうな庭にいたみの菰かぶり」
  ※朝野新聞‐明治二六年(1893)一月一七日「総勢凡そ三千余名、菰被り二十余樽の鏡を打抜き」
  ② (こもを被っていたところから) 乞食。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「一犬ほゆる佐野の夕月〈正友〉 こもかふり露打はらふかけもなし〈一朝〉」
  ③ 死刑囚。また、非業の死をとげて、亡骸(なきがら)にこもをかぶせられる者。
  ※評判記・もえくゐ(1677)「せぎゃうのにはのたけやらひ、ゆひたてらるる、こもかぶりにもならばなれと」
  ④ 越後国(新潟県)の新潟・沼垂、羽前国(山形県)の酒田、渡島国(北海道)の湯殿沢などの地方で、売春婦をいう。
  ※西蝦夷日記(1863‐64)二「湯殿沢(松前)の薦被(コモカフ)りは人目を忍ぶ意より取」

とある。この場合は②で、隅田川に神田川が合流する浅草橋の下の廃船に乞食が棲み着いている、とする。本当に乞食がいたかどうかは知らない。関西人の言うことだし、俳諧はまあうわさ話ということで。「いくたりか浅草橋にこもかぶり、知らんけど」といった所か。
 点あり。

五十四句目

   いくたりか浅草橋にこもかぶり
 おたすけたまはれなむくわんぜ音

 浅草というと浅草観音。観音様助け給え。
 点なし。

五十五句目

   おたすけたまはれなむくわんぜ音
 諷ずき引取息の下までも

 謡曲『盛久』の、

 「南無や大慈大悲の観世音さしも草、さしも畏き誓ひの末、一称一念なほ頼みあり。ましてや多年値遇の御結縁空しからんや。あら御名残惜しや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3072). Yamatouta e books. Kindle 版. )

だろうか。いまわの際でも普通に念仏を唱えるのではなく謡曲の一節を唱えている。
 長点で「臨終正念南無観世太夫もおどろくべし」とある。観世流家元の観世太夫もびっくり。

五十六句目

   諷ずき引取息の下までも
 箸はすたらぬなら茶なるらん

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注には、

 「食欲旺盛な諷好きの病人が死ぬまぎわまで願ったのは、奈良座ならぬ奈良茶であった。」

とある。この奈良座がよくわからなかったが、大和四座のことか。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大和四座」の意味・わかりやすい解説」に、

 「大和地方に存在した4つの猿楽座をいう。すなわち,坂戸座,円満井 (えまい) 座,外山 (とび) 座,結崎 (ゆうざき) 座であって,のちにそれぞれ金剛,金春,宝生,観世となる。鎌倉時代末期~室町時代初期に,南都の春日神社,興福寺に奉仕する奉仕者集団 (職業的猿楽師) として,興福寺の修二月会や春日神社の薪 (たきぎ) 猿楽などを演能。いちばん古いのは円満井座で竹田の座ともいわれた。また結崎座からは,観阿弥,世阿弥の父子が現れ,足利義満をパトロンとして,田楽,延年の能などを取入れ,猿楽の能を大成したことはあまりにも有名である。以後,幕府の式楽として繁栄した。」

とある。
 能(当時は猿楽と言った)が好きな人なら奈良は能の聖地で、いまわの際でも奈良茶粥を求める。
 点滴などない時代には、食が喉を通らなくなった時点で大体臨終となる。茶粥が食いたいという時点で、まだ生きられそうだ。
 奈良茶は奈良茶飯とも奈良茶粥ともいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「奈良茶飯」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 薄く入れた煎茶でたいた塩味の飯に濃く入れた茶をかけて食べるもの。また、いり大豆や小豆(あずき)・栗・くわいなどを入れてたいたものもある。もと、奈良の東大寺・興福寺などで作ったものという。ならちゃがゆ。ならちゃがい。ならちゃ。〔本朝食鑑(1697)〕
  ② 茶飯に豆腐汁・煮豆などをそえて出した一膳飯。江戸では、明暦の大火後、浅草の浅草寺門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋の祖となった。〔物類称呼(1775)〕」

とある。この場合は①で、延宝六年江戸の「のまれけり」の巻三十一句目にも、

   日待にきたか山郭公
 やすき夜も寝ぬに目覚めすならちやずき 春澄

の句がある。延宝九年の芭蕉の句にも、

 侘テすめ月侘斎がなら茶歌  芭蕉

の句がある。
 長点で「『奈良』用に立一字千金也」とある。「用に立」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「用に立つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「役に立つ。使いみちがある。有用である。用だつ。役だつ。
  ※平家(13C前)九「ましてさ様にうちとけさせ給ては、なんの用にかたたせ給ふべき」

とある。謡曲に奈良を付けるのは、他にもいろいろ応用が利きそうだ。

五十七句目

   箸はすたらぬなら茶なるらん
 小豆ささげ粟嶋殿の初尾にて

 粟嶋殿は加太の淡島神社で、和歌山の淡路島の方に突き出た所にある。
 ささげは大角豆と書き、小豆に似た赤い豆。初尾は初穂と同じ。その年の最初の収穫を神社に奉納する。
 小豆ささげは前句の奈良茶粥の具によく用いられるので、その初穂で淡島の神様も奈良茶を食べるのだろうか、とする。
 点なし。

五十八句目

   小豆ささげ粟嶋殿の初尾にて
 かぶり太鼓も秋のかたみに

 かぶり太鼓はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「頭太鼓」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「かぶり」は「頭振り」の意か) 太鼓の両側に糸をつけ、先端に大豆をつけて、柄を振って鳴らす太鼓。でんでん太鼓。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「小豆ささげ粟嶋殿の初尾にて かぶり太鼓も秋のかたみに〈素玄〉」

とある。淡島神社に縁のあるものだったか。
 点なし。

五十九句目

   かぶり太鼓も秋のかたみに
 いたいけを抱て恨の露なみだ

 いたいけな子供とでんでん太鼓を残して妻か夫が亡くなってしまったか。妻を亡くしたと見て、男の途方に暮れる顔を思い浮かべた方が良いのかもしれない。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は子供の亡骸を抱くとしている。悲しい句でありながらも、どうとでも取れる所はマイナスであろう。
 点なし。

六十句目

   いたいけを抱て恨の露なみだ
 鎌田が酔るさかづきの影

 鎌田は鎌田正清で、コトバンクの「朝日日本歴史人物事典 「鎌田正清」の解説」に、

 「没年:永暦1.1.3(1160.2.11)
  生年:保安4(1123)
  平安後期の武士。遠江国(静岡県)出身か。鎌田通清の子。源義朝の家人で,乳母子。保元の乱(1156)では,京の白河殿で源為朝と戦い,その頬を射るなど活躍。乱に勝利した義朝が父為義の首を討つべき勅命を受けて苦慮すると,知恵を授け,七条朱雀で為義の首をはねた。平治の乱(1159)で一時藤原信頼が政権を掌握すると,兵衛尉に任じられ政家と改名した。平清盛に敗れ義朝と共に東国へ落ち,尾張国に住む舅長田忠致を頼ったが,裏切られ,義朝と共に殺された。
(高橋秀樹)」

とある。幸若舞では鎌田正清は酔った所を殺され、そのあと妻子も殺される。
 点あり。

六十一句目

   鎌田が酔るさかづきの影
 上留りの扨も其後さゆのみて

 鎌田の最後の所を語り終える浄瑠璃の座頭は、そこで一息ついて白湯を飲む。まあ、迫真の語りで喉が渇いたか。
 点あり。

六十二句目

   上留りの扨も其後さゆのみて
 やくしの反化がなをす痳病

 浄瑠璃の内容として、白湯を飲んだ後薬師の変化が淋病を治すとする。
 点なし。

六十三句目

   やくしの反化がなをす痳病
 土の籠出れば虎のいきほひに

 鎌倉の薬師谷にある東光寺の土牢は大塔宮護良親王が幽閉されたことで知られている。
 ここでは特にその故事と関係なく、薬師如来の変化のおかげで病気が治って、虎の勢いで土牢から出て行く。
 「虎の勢い」は「騎虎の勢い」のことだろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「騎虎の勢い」の意味・読み・例文・類語」に、

 「(「隋書‐独孤皇后紀」から) 虎に乗った者が、途中でおりることができないように、物事の勢いがさかんになって、行きがかり上、中止したり、あとへ引けなくなったりすることのたとえにいう。
  ※太平策(1719‐22)「世界はかたづりになりて、騎虎の勢になるゆへ、仕とげずして叶はぬなり」
  ※白く塗りたる墓(1970)〈高橋和巳〉九「騎虎の勢いで三崎は窓際の高木局長の方に寄っていった」

とある。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によれば、淋病が治って小便が勢いよく出るのと掛けているという。確かに小便は途中で止められない。
 点なし。

六十四句目

   土の籠出れば虎のいきほひに
 のびたる髭を吹風の音

 長く土牢に閉じ込められてたから、髭ぼうぼうの姿になっている。
 「虎嘯けば風生ず」の諺があり、虎の勢いに風の音が付く。

 髭風ヲ吹いて暮秋嘆ズルハ誰ガ子ゾ 芭蕉

はこれより少し後の天和二年の発句になる。
 点なし。

2023年6月19日月曜日

  マリファナとか不倫とか、誰が怒ってるのか実態が感じられない。テレビや週刊誌が騒いで、あたかもそれが世論であるかのように装ってるとしか思えない。ツイッターも2ちゃんも盛り上がってない。
 そういやツイッターデモって最近は夜明けの一番ツイートの少ない時間帯くらいしか見ない。ツイッターデモや夜明けのホトトギス。

 今日は「松にばかり」の巻はお休みで、ツイッターの奥の細道の方でも。

四月二十八日

天気は曇りで、そろそろここを出て仙台の三千風の所へ向かおうかと言ってた時だった。矢内彦三郎が来て、どうやら石川道の水も引いて、今は泥の除去をやってるから、明日には通れるようになって石川滝が見れるとのこと。

十念寺と諏訪明神に行ったが、どちらもすぐ近くだった。
黒羽の浄法寺図書から手紙が来て、それに句が添えてあった。そういえば桃青桃の一字を分けて桃雪という俳号をあげたっけ。
あの時は雨ばかりだったが、出発の時は晴れたっけな。

雨晴て栗の花咲跡見哉 桃雪

乍単「跡見(あとみ)は見送るということで良いのかな。栗は西方浄土の木で死の暗示があるし、悲しい別れということで、飛び立ってった蝉はどこの草に落ちるんだろう、ってしておこうか。

  雨晴て栗の花咲跡見哉
いづれの草に啼おつる蝉 乍単

芭蕉「死のイメージを外して、普通に景色に転じなくてはな。賤民が家の外の草の上で月を見ながら夕飯を食う。何か鹿島へ行った時にそんなの見たな。」

  いづれの草に啼おつる蝉
夕食喰賤が外面に月出て 芭蕉

曾良「賤が女の干してた布を日が暮れたので片付けて夕飯にする。衣干すは夏だから、季語を秋にしなくては。秋来にけりで布たぐる。」

  夕食喰賤が外面に月出て
秋来にけりと布たぐる也 曾良

四月二十九日

今日は久しぶりにいい天気になった。石川道も通れるということで、東南へやや戻る形になるが乍単の用意した馬で石川滝に向かった。
阿武隈川を越えて少し北へ川を下ると、その巨大な滝の下に出た。高さはそれほどでもないが幅がとにかく広い

石川滝からそのまま川沿いを下って行くと小作田という所に馬次があった。仙台道と並行する街道があるようだ。
乗り換えはせずにそのまま乍単の用意してくれた馬で守山宿まで行った。

曾良がいろいろ調べたいものがあるのか、あちこち手配していたようだ。
大元明王のお堂があって、その裏に善法寺というお寺があった。雪村の歌仙絵に俳諧の祖の宗鑑が賛を書いたものとか、探幽の大元明王僧など、珍しいものには違いない。歌枕でないのが残念だ。
ここで昼食を頂いた。

守山からは問屋善兵衛の用意してくれた馬で郡山に向かった。阿武隈川を船で渡り、日出山宿で仙台道に出て、何とか日の沈む前に郡山に着いた。曾良が宿が汚いって文句言ってるけど、田舎の方じゃ普通。蚤や虱はこういう所で貰っちゃうんだよな。

五月一日

今日も良い天気で、日の出とともに仙台道を北に向かった。
一里半先の日和田宿の少し先の右側に安積山があった。奈良の若草山のように草で覆われている。
昔はこの辺りに沢山の沼があったというが、今は田んぼになっている。

かつみ草も、その沼に生えていたんだろうか。

みちのくの安積の沼の花かつみ
   かつみる人にこひやわたらむ

と、古今集の読人不知の歌で名高いかつみ草のことは、誰に聞いてもわからない。
端午の節句に菖蒲の代わりに葺いたというが。

仙台道から左へ行った方に山の井があった。

安積山影さへ見ゆる山の井の
   浅き心を吾が思はなくに

の歌は夫木抄や歌枕名寄で有名だが、草に埋もれて荒れ果てていて、水があるかどうかもよくわからない。
曾良は本物かどうか疑ってた。

二本松宿は亀谷で仙台道は左に曲がって坂を登って行くが、真っ直ぐ行くと阿武隈川沿いの田んぼの方に降りて行く道になり、そこを一里ほど行くと渡し船があった。
その対岸の麦畑の中に黒塚の岩屋があった。隣の杉の木の下に鬼婆を埋めたという。

謡曲黒塚でよく知られた話で、祐慶という那智東光坊の阿闍梨が安達ヶ原で宿を借りると、そこに婆さんが夜中に火を焚いていて、閨を除くと白骨が沢山出て人食い鬼だったという話だったか。五大明王を召喚して退治する話だった。

黒塚を見た後渡し船で戻って、来たのとは別の道で二本柳宿に出て、そこから馬で八丁目宿へ向かった。二本柳だったと思う。二本松とごっちゃになりそうだが。
福島宿の少し手前の郷野目村に曾良が何か用があって、神尾何某という人を訪ねて行った。

そのあとかろうじて日の残るうちに福島宿に着いた。その神尾さんの紹介なのか、清潔な宿だ。
明日は佐藤庄司の宮跡へ向かう。

五月二日

今日は旧暦5月1日で、元禄2年は5月2日。奥の細道。

4日続きの青天で梅雨も中休み。
宿を出て仙台道を行くと五十辺という所に川があって、ここを渡らずに右に行くと阿武隈川の岡部の渡しがある。源融の、

陸奥の信夫文字摺り誰ゆゑに
   乱れ染めにし我ならなくに

の歌で有名な文字摺石はこの先。

小さな谷のような所で、檜の丸太で柵がしてあって、石は逆さになって半分土に埋まり、ススキが生い茂っていた。
杉の木が植えられていて道祖神もあり、近くに観音堂もあったから、全く放置されてたわけではないけど、保存状態はひどいもんだ。

信夫文字摺の技術はとうに絶えて、その石も往来の邪魔ということで谷底に落とされたという。
虎が清水と呼ばれる小さな湧水の溜まる所があって、源融の歌にまつわる言い伝えがあるらしく、曾良が興味深そうにしていた。

文字摺石から北の方へ行くと阿武隈川を越える月の輪の渡しがあって、そこを渡ると仙台道の瀬上宿に出た。この頃から空が曇ってきた。
途中の田んぼでも田植えを見た。あの早乙女の田植えする手つき、昔はあんな風に文字摺染めをやってたのかな。

瀬上宿から今度は街道の左の方に行くと鯖野という所に瑠璃光山醫王寺があった。佐藤庄司の旧跡で、義経や弁慶の遺品を見せてもらった。佐藤庄司の二人の息子やその妻の石塔もあった。北の方の川の向こうに山があって、そこに丸山城があったという。

謡曲接待の悲しい物語を思い出し、今の太平の世の有り難みをあらためて思い知った。義経弁慶も今は端午の節句の紙幟の図柄で、子供たちもその悲劇を知ってか知らずか。
接待のラストのあの怨恨の連鎖を断つ場面、大事なことだと。

醫王寺をあとにして仙台道に戻ると、川を渡った。夕暮れで雨が降り出したと思ったら夕立のように土砂降りになった。
うらぶれた宿に駆け込むと温泉があった。
飯坂という所らしいが、何度聞いても「ええづか」に聞こえる。

2023年6月18日日曜日

  内閣府の「経済財政運営と改革の基本方針2023」は前年も言ってた「人への投資」という考え方をさらに一歩踏み込んでいる。

 「岸田政権では『新しい資本主義』を掲げ、従来『コスト』と認識されてきた賃金や設備・研究開発投資などを『未来への投資』と再認識し、人への投資や国内投資を促進する政策を展開している。」

 これが岸田さんの発案なのか、ブレーンがいるのか、官僚が考えたことなのかは定かではない。ただ、コストと未来への投資を対比させるというのは面白い。
 つまり従来の「労働者」のような労働力を時間当たりいくらで売って生活するという、いわば労働力という名の人身売買からの脱却という点では画期的だし、日本型の終身雇用の雇用形態を生かせる一つのモデルになるかもしれないからだ。
 つまり、企業は完成された労働力を買うのではない。人材を育てる義務を負うということだ。まあ、育てた人材をトレードするというのはありかもしれない。野球選手のやっていることだから。
 野球で言えば、選手を二軍のファームで鍛えて一軍の戦力へと育て上げるというのは、ずっとやって来たことだ。
 西洋的な感覚だと、選手はクラブで育ったとしても、自分の技能を売り込んでプロ契約を勝ち取るという考え方になり、西洋の労働者もキャリアを重ねて自分を高めて、それをより良い雇用主に売り込むというのが基本になる。
 これに対して日本型のシステムは、企業が将来の人材の卵を見つけて来ては、自分の会社で教育なり研修なりを行い、戦力に育て上げて活用する。つまり人材の価値は現在の労働力としての価値ではなく、未来の労働力としての価値から決定される。労働者の労働力としての価値を現在からではなく未来から決定しようというわけだ。
 労働者は労働力を切り売りして、いわば体を売って生活するその場限りの関係ではなく、労働者は先行投資という形でまず負債を背負い、それを返すために働き続けるというこの考え方は、実は戦後の日本の終身雇用の裏に隠されてきた考え方で、何ら新しいものではない。ただ、それが明確に概念化されたというのが一番面白い所だ。
 このやり方の弱点は、最初の負債がどこで返済されるのかが明白でないため、結局最初の負債のまま死ぬまで会社に拘束される、いわば債務奴隷に陥る危険があることだ。「社畜」とはこうした債務奴隷の別名に他ならない。
 古い体質の会社は概ね辞めたくても辞めさせてもらえない。いろいろ恩を着せることを言われて引き留められて、ずるずると定年後も低賃金で再雇用され、死ぬまで使い潰される。
 これは俺もよくわかっている。会社を辞める時は喧嘩するつもりでいかなくてはいけない。だがまあ、喧嘩すれば辞められるということでもある。それが表向きの「円満退社」の実態だ。
 日本の終身雇用制は、こうした雇用時の投資に対して返済をする、「恩返しをする」という意識で成り立ってた。そのため生涯一つの会社に拘束されるのが普通のことだった。
 経済が右肩上がりの時代は、会社の方も終身雇用と年功序列賃金体系はそれほど負担にならなかった。それが低成長とデフレの時代になると維持できなくなり、いわゆる「リストラ」の時代が来た。また、こうした投資型の雇用ではない、労働力として売買するいわゆる「非正規」や「派遣」労働者が膨れ上がることになった。
 「新しい資本主義」はこうした単純に労働力を売り買いする西洋型の雇用形態に積極的に移行させて、人材流動性を高め、労働者一人一人に自らの積極的なスキルアップを要求する形に変えるというのも一つの考え方だったし、俺自身もその方向を普通に考えていた。
 だからこそ、その逆に労働力の売買ではない「投資」という形態にまだ何か可能性があるのかどうか、ということになる。
 基本的に雇用側に「投資はしても拘束はしない」ということがルール化されなくてはならないと思う。
 例えば株式に投資しても、投資した会社に意見することは可能だが、資金が回収できなくてもそれは投資リスクとして資本家側が受け入れなくてはならない。つまり投資は自由だが、回収できるかどうかは投資家の人を見る目と株主の権利としての意見にかかっている。投資の失敗は資本家側の自己責任ということを徹底できなければ、昔からある終身雇用と何ら変わらないということだ。
 人材投資に置いてリスクは会社側が全面的に背負うことがルール化されれば、この考え方にまだ可能性があるかもしれない。
 終身雇用を止めるのであれば、回収できそうにない人材投資を切り捨てる自由が会社側に生じる。それと引き換えに生涯会社に拘束するという終身雇用形態を捨てる。
 逆に投資される側は教育だけ受けて成果を出す前に転職する権利がある。それを引き留めるには会社は高賃金で新たな投資をして引き留めることもできる。そこは駆け引きになる。
 極端なことを言えば、労働者一人一人が株式会社化して、賃金ではなく労働者の株を買うという形を取り、労働者は常に株価を上げる努力をし、会社は安く買って育てて高く売ることで利益が出るようにする、という考え方もあるかもしれない。
 人件費がコストではなく投資だという考え方の最終形態は、労働者の株式化かもしれない。

 それでは「松にばかり」の巻の続き。

二裏
三十七句目

   下十五日かよひ路の露
 秋の海浅瀬は西に有と申

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『藤戸』の、

 「さても去年三月二十五日の夜に入つて、浦の男を一人かたらひ、この海を馬にて渡すべき所やあると尋ねしに、かの者申すやう、さん候河瀬の様なる所の候。月頭には東にあり、月の末には西にあると申す。即ち八幡大菩薩の御告と思ひ、家の子若党にも深く隠し、かの者と唯二人夜に紛れ忍び出で、この海の浅みを見置きて帰りしが、盛綱心に思ふやう、いやいや下郎は筋なき者にて、又もや人に語らんと思ひ、不便には存じしかども、取つて引き寄せ二刀刺し、そのまま海に沈めて帰りしが、さては汝が子にてありけるよな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2720). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面を引いている。
 月の末(下十五日)は西に浅瀬があると教えてくれた漁師を、敵方に同じ情報を与えるかもしれないということで殺害する。ひどい話だ。前句の「露」が生きていて、場面はオリジナルが春だったのを秋に変える。
 長点で「新しき通路にて候」とある。謡曲の言葉を借りながら、昔の源平合戦の故事を仄めかす程度にして前句の恋の情を残すというところに新しさがあったか。

三十八句目

   秋の海浅瀬は西に有と申
 上荷とるらし彼岸の舟

 西に浅瀬があるので大きな船は着けられないから、小船に荷物を積んで荷揚げする。
 ただ、西と彼岸の縁は西方浄土に渡ることを意味して、釈教の句としての二重の意味を持つことになる。
 点あり。

三十九句目

   上荷とるらし彼岸の舟
 薪買百味飲食ととのへて

 百味飲食はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「百味の飲食」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =ひゃくみ(百味)①
  ※霊異記(810‐824)中「大櫃に百味飲食を具へ納め」 〔無量寿経‐上〕
  ② 特に、人の死後四九日の間、仏壇にささげるさまざまの供物。

  「(百味)①」は、

  ① さまざまの美味、珍味。多くの料理。また、そのような食物を仏前に供えること。百味の飲食(おんじき)。
  ※懐風藻(751)侍宴〈刀利康嗣〉「八音寥亮奏、百味馨香陳」
  ※霊異記(810‐824)中「偉(たたは)しく百味を備(まう)けて、門の左右に祭り、疫神に賂ひて饗す」 〔曹植‐求自試表〕」

とある。
 仏前に供える様々なご馳走が運び込まれる。
 点あり。

四十句目

   薪買百味飲食ととのへて
 あたごの坊の納所ともみゆ

 「あたごの坊」は京の愛宕五坊のことで、この頃には既に日輪寺と伝法寺のニ坊は失われてたという。
 納所は納所坊主(なっしょぼうず)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「納所」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① (━する) 年貢などを納める所。また、年貢などを納めること。それをつかさどる役人をもいう。
  ※京都大学所蔵東大寺文書‐天喜三年(1055)一一月一日・東大寺牒「牒、以当年御封米内、民部録菅野奉方預納所、欲被下符之状」
  ② 寺院で施物・金銭・年貢などの出納事務を執る所。また、その役職やその事務を執る役僧。納所職。
  ※金沢文庫古文書‐応安三年(1370)加賀国軽海郷年貢済物結解帳(七・五五七三)「行照房方へ御志分に毎年可遣之由、納所方より承候之間、致沙汰候了」
  ③ 「なっしょぼうず(納所坊主)」の略。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「薪買百味飲食ととのへて あたごの坊の納所ともみゆ〈素玄〉」

とあり、

 「〘名〙 寺の会計や雑務を扱う下級の僧。納所ぼん。なっしょ。
  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第二七「今や引らん豆の粉の音 身の行衛納所坊主の塗坊主」

とある。
 百味飲食を整えるのは納所坊主の仕事だったか。

四十一句目

   あたごの坊の納所ともみゆ
 しこためしかねや鳥井に成ぬらん

 しっかりと溜めたお金を寄進して愛宕神社の鳥居を立てる。
 長点で「落堕ならで鳥居建立きどくに候」とある。俳諧だとついつい破戒僧ネタに走りがちだが、奇特なお坊さんとして神祇に持って行く点を評価する。

四十二句目

   しこためしかねや鳥井に成ぬらん
 家蔵其外たつる天びん

 鳥居を立てる費用は天秤にかければ家や蔵を立ててもさらに余るくらいの金額だ。
 点あり。

四十三句目

   家蔵其外たつる天びん
 どのかうのかたり付たる仲人口

 男の素行などあまり良い縁談ではないが、男の家の財産のことをあれこれ語って、強引に縁組する仲人。
 点あり。

四十四句目

   どのかうのかたり付たる仲人口
 よいとしをして紅粉やおしろい

 仲人をする婆さんはいい歳してやけに若作りしている。あるあるだったか。
 点あり。

四十五句目

   よいとしをして紅粉やおしろい
 この異見耳にあたるもしらね共

 前句を女への忠告とする。「こういっちゃなんだが、化粧濃いぞ」ということ。喧嘩売ってる感じもするが。
 長点で「心いきさてもさても」とある。

四十六句目

   この異見耳にあたるもしらね共
 君をながすの御沙汰冷じ

 忠告の内容を「君を流罪にするとは冷酷だ」というふうに変えて恋を離れる。
 鹿ケ谷の陰謀の場面で、清盛が後白河法皇を幽閉しようとするのを息子の重盛が咎める場面とする。
 点なし。

四十七句目

   君をながすの御沙汰冷じ
 京はただひそひそとして秋淋し

 君が流罪となって京都は静かになる。承久の乱の後の京都か。幕府の横暴に沈黙する。
 点なし。

四十八句目

   京はただひそひそとして秋淋し
 七つさがれば門をさす月

 七つは申の刻で、それが終わり酉の刻になるころには月が出て、寺院は門を閉ざす。「さす」は鎖すと月の光の「射す」に掛けている。
 点なし。

四十九句目

   七つさがれば門をさす月
 花の火もあだにちらすな城の内

 「花の火」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「花の火」の意味・読み・例文・類語」に、

 「咲いた花を火に見立てた表現。
  ※聞書集(12C後)「花のひをさくらの枝にたきつけてけぶりになれるあさがすみかな」

とある。
 花の火は花火ではなく、桜の花を火に見立てたもので、火の粉が外に飛べば城下は大変なことになるからというので城門を閉ざすのはわかるが、散った桜を火の粉に見立てて門を閉ざすのはいかにも大袈裟だが。
 長点で「用心時花の火までに心を付たる珍重」とある。

五十句目

   花の火もあだにちらすな城の内
 くま手鳶口ならびに鎗梅

 花の火のための火消し道具だから熊手や鳶口に加えて槍梅を用いる。
 槍梅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「槍梅」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 ウメの一品種。花は白く、やや淡紅色を帯びる。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)下「名所誹諧発句しなじな〈略〉やり梅のながえやつづくみこし岡」

とある。
 点あり。

2023年6月17日土曜日

  それでは「松にばかり」の巻の続き。

二表
二十三句目

   頭巾の山やまたこひの山
 梟の羽かはしたる中なれや

 頭巾を被った姿はしばしばフクロウやミミズクに喩えられる。後の句ではあるが、

 月華の梟と申道心者     支考(梟日記)
 木兎の頭巾はやすし紙子きれ 朱拙「けふの昔」
    けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮   其角(いつを昔)

の句がある。
 「羽かはしたる中」は連理比翼の比翼の方であろう。左右翼を共有し、雌雄一体となって飛ぶ想像上の鳥と言われている。「在天願作比翼鳥 在地願為連理」という白楽天『長恨歌』にあることから、玄宗と楊貴妃のようになるというので却って縁起が悪いとも言われる。
 長点で「めづらしき羽にて候」とある。

二十四句目

   梟の羽かはしたる中なれや
 手水鉢にも廻る清水

 「羽かはしたる」から「音羽山」の連想だとすれば、かなり苦しい展開だ。「したる」を滴るとして手水、清水として、四手にして強引に展開した感じもする。
 まあ清水寺は恋占いの石もあり、ここで恨みの助も上臈を見染め、恋の名所ではある。
 点なし。
二十五句目

   手水鉢にも廻る清水
 炉釜にや音羽の滝をしかくらん

 梟の羽が打越にあっての音羽はやや輪廻気味だが、あくまで地名ということで微妙な所だ。
 「しかく」は weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「し-か・く 【仕掛く・仕懸く】
  他動詞カ行下二段活用
  活用{け/け/く/くる/くれ/けよ}
  ①(行為を、他に)及ぼす。仕掛ける。
  出典枕草子 殿などのおはしまさで後
  「さるがうしかくるに」
  [訳] おどけたしぐさを仕掛けると。
  ②水などを掛ける。ひっかける。
  出典宇津保物語 蔵開上
  「父君に尿(しと)多(ふさ)にしかけつ」
  [訳] 父君に尿をたくさんひっかけた。
  ③(装置・工夫などを)細工する。仕掛ける。
  出典日本永代蔵 浮世・西鶴
  「中に火鉢をしかけ」
  [訳] 中に火鉢を仕掛け。
  ④操作する。ごまかす。▽「しかけ
  ⑤」の行為をする。
  出典日本永代蔵 浮世・西鶴
  「油も、壱升弐匁(いつしようにもんめ)の折から、弐匁三分(にもんめさんぶ)にしかけられ」
  [訳] 油の値も一升二匁のときなのに二匁三分にごまかされ。」

とある。ここでは炉釜のお茶のために音羽の滝の水をこっそり汲んでくるというニュアンスか。
 点ありだが「『羽』の字ちかきさし合ながら」とある。梟の羽に「音羽」は微妙だがここでは流す。

二十六句目

   炉釜にや音羽の滝をしかくらん
 初雪の影くろき筋なし

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、

   比叡の山なる音羽の滝を見てよめる
 落ちたぎつ滝の水上年積り
     老いにけらしな黒きすぢなし
             壬生忠岑(古今集)

の歌を引いている。滝の水が真白なように、自分も年老いてすっかり白髪になって黒い毛が残ってないという歌だが、その音羽の滝の水にも喩えられるだろうか、初雪にはなるほど黒い筋はない、とする。
 長点で「明白也」とある。なるほど雪に黒い筋がないのは明白だ、というところか。

二十七句目

   初雪の影くろき筋なし
 山眉の小袖がさねの朝風に

 山眉はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「山眉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 山の端のほのかなさまを眉墨に、また、美しい眉を山の稜線に見立てていう語。
  ※藻塩草(1513頃)一六「山まゆ かすみのまゆ」

とあり、山繭だとコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「山繭織」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 山繭糸を混ぜて織った織物。山繭。
  ※人情本・恋の若竹(1833‐39)下「開いて出すは濃いお納戸の細かい山繭織(ヤママユオリ)一反、包み紙には、御袷地と書き附けたり」

とある。
 この二つを掛けて、初雪の山の稜線には黒い筋はなく、風が寒いから山繭織りの小袖重ねを着る、とする。
 点あり。

二十八句目

   山眉の小袖がさねの朝風に
 味噌酒過す陸奥のたび

 味噌酒は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、「酒で溶いてあたためた味噌汁」とある。
 どういうものなのかあまりイメージできないが、寒い陸奥の旅には暖まるものなのだろう。
 点あり。

二十九句目

   味噌酒過す陸奥のたび
 薄鍋を亡者は泣々見送て

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『善知鳥』の、

 「これをしるしにと、涙を添へて旅衣、涙を添へて旅衣、立ち別れ行くその跡は、雲や煙の立山の、木の芽も萌ゆる遥遥と客僧は奥へ下れば、亡者は泣く泣く見送りて行く方知らずなりにけり行く方知らずなりにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.2664-2665). Yamatouta e books. Kindle 版.)

を引いている。立山禅定の僧が地獄を覗いた時の陸奥外の浜の猟師の姿になる。
 前句の味噌酒から薄鍋への移りで、善知鳥(うとう)という千鳥科の鳥を鍋にして食って罪で地獄に落ちたか。
 薄鍋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「薄鍋」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 薄手の鍋。また、これを使っての小鍋仕立ての料理。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「味噌酒過す陸奥のたび 薄鍋を亡者は泣泣見送て〈素玄〉」
  ※浮世草子・傾城歌三味線(1732)一「川端に氈しかせ、薄鍋かけて」

とある。
 長点で「さては彼猟師も一つ成候哉」とある。外の浜の猟師と同一人物とみなす。

三十句目

   薄鍋を亡者は泣々見送て
 地ごくのさたも悪銭かする

 前句が地獄の亡者のネタなので、そのまま地獄を付けながら、「地獄の沙汰も金次第」の諺で逃げる。諺そのまんまではなく、ただ金に任せて地獄を逃れようとするのではなく、悪銭を掠めてという所がせこい。即地獄行。
 点なし。

三十一句目

   地ごくのさたも悪銭かする
 博奕打子は三界のくびかせよ

 「子は三界のくびかせ」はコトバンクの「ことわざを知る辞典 「子は三界の首枷」の解説」に、

 「親にとって子どもは、いくつになっても、また、どこへ行っても首にかけた枷のように一生苦労する厄介な存在である。

  [使用例] 子は三界の首くび械かせといえど、まこと放蕩のらを子に持つ親ばかり不幸なるは無し[樋口一葉*大つごもり|1894]

  [解説] 古くは、「親子は三界の首枷」といいました。親にとって、子どもがいつまでも気にかかる存在であることを、枷が「三界」に生を変えても首にまとわりついて離れないさまにたとえています。「三界」は過去、現在、未来のこと、もしくは欲界、色界、無色界のことをいいますが、どこへ行ってもといった意味でも用いられました。「首枷」は罪人の首にかける刑具で、罪人を束縛するもの。」

とある。子煩悩は成仏の妨げになり、前世現世来世と輪廻を繰り返す。
 ただ、実際にはそんな宗教的な意味ではなく、子供を育てるためには働いて稼がなくてはいけないし、人生の様々な制約になるという現世的な意味で用いられることも多かったのだろう。「かせ所帯」という言葉もある。
 ましてその子が博打打なんぞになるとなおさら一生の不幸だ。
 古くは「親子は三界の首枷」と言ったとなると、今の「親ガチャ」という発想も昔からあるものだったのだろう。駄目な親も十分首枷になる。
 点あり。

三十二句目

   博奕打子は三界のくびかせよ
 こころはやみに夜もろくにねず

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注にある通り、

 人のおやの心はやみにあらねども
     子を思ふ道にまどひぬるかな
            藤原兼輔(後撰集)

を本歌にしたもので、「やみにあらねど」ではなく「闇」だと言っておいて「夜の闇」でしたと落ちにする。
 点なし。

三十三句目

   こころはやみに夜もろくにねず
 俄めくら夢かうつつかうつの山

 「俄めくら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「俄盲」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 生まれつきではなく、病気や怪我などのために視力を失い、突然目が見えなくなること。俄盲目。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「俄めくら夢かうつつかうつの山 時宜にて人にあはぬ也けり〈素玄〉」

とある。

 ひと夜寝し茅のまろ屋の跡もなし
     夢かうつつか宇津の山越え
            兼好法師(兼好法師集)

の歌もある。在原業平の蔦の細道の興で、都を追われて東国に配流になる哀れさを詠んだ歌であろう。急に眼が見えなくなる時も都を追放された時のような放心状態になる。
 点あり。

三十四句目

   俄めくら夢かうつつかうつの山
 時宜にて人にあはぬ也けり

 蔦の細道の伊勢物語オリジナルの方の、

 駿河なる宇津の山辺のうゝにも
     夢にも人に逢はぬなりけり
            在原業平

を本歌にして時宜で人に会わないと転じる。
 点あり。

三十五句目

   時宜にて人にあはぬ也けり
 夕ぐれの月のさはりの女かも

 「月のさはり」は月経のこと。そういう時宜だけに人に会わない。
 点なし。

三十六句目

   夕ぐれの月のさはりの女かも
 下十五日かよひ路の露

 夕暮の月の頃の月経なので、宵闇になる十六夜以降の月の夜には通えるようになる。
 点なし。

2023年6月16日金曜日

  それでは「松にばかり」の巻の続き。

初裏
九句目

   わたしの舟を出さふ出すまひ
 都鳥とへばしれたる似せなまり

 『伊勢物語』の有名な都鳥の場面で、

 「渡守、はや舟にのれ、日くれぬと言ひければ、舟に乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なくしもあらず、さる折に、白き鳥の、嘴と脚と赤き、川のほとりにあそびけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見知らず、渡守に、これは何鳥と問ひければ、これなむ都鳥と言ひけるを聞きてよめる。

 名にしおはばいざ言問はむ都鳥
     わが思ふ人はありやなしやと」

というくだりで、京にはいないはずの今でいうユリカモメが都鳥だと言っているのに掛けて、どこかの渡し舟で都から来たとか言ってる人も結構似せみやこびとだったりする。今でも世界で似せ日本人が結構いるとかいうが、多分都人を装った方が待遇が良かったのだろう。
 京都人だから金持ってると思って船頭が船を出そうかというと、どうも口ぶりが怪しい。船を出すのをやめる。
 長点で「京の似せ侍、よく見立られ候」とある。

十句目

   都鳥とへばしれたる似せなまり
 歌の師匠をとるやむなぐら

 和歌の師匠を取るからきちんと和歌を習おうというのかと思ったら、胸ぐらをつかんできた。粗暴で居丈高でこんなのが和歌などものになるはずもない。
 長点で「弟子坂東ものにや」とある。坂東武者のイメージだったのだろう。あくまでイメージだが薩摩隼人がホグワーツに入学するようなものか。ちなみに薩摩のチェストの掛け声は英語のchest(胸)から来たとも言う。

十一句目

   歌の師匠をとるやむなぐら
 目に見えぬ鬼もやはらで打たふし

 古今集仮名序には「めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ」とあるが、歌で感動させるのではなく胸ぐら掴んで柔術でやっつける。まだ武器を用いない辺りが風雅なところか。
 長点で「鬼泣躰相見え候」とある。鬼泣躰は定家の和歌十体の鬼拉躰に掛けている。鬼拉躰はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「拉鬼体」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 藤原定家がたてた和歌の十体の一つ。強いしらべの歌。のち、能楽の風体にも用いられた語。拉鬼様。→十体(じってい)②(ハ)。
  ※毎月抄(1219)「かやうに申せばとて必ず拉鬼躰が歌のすぐれたる躰にてあるには候まじ」

とある。

十二句目

   目に見えぬ鬼もやはらで打たふし
 年越の夜はただ一寐入

 前句を節分の鬼やらいとする。豆まきではなく柔術で退治して無事に年を越す。あるいは年末の借金取りを撃退した比喩か。
 点あり。

十三句目

   年越の夜はただ一寐入
 するすると往生申鉢たたき

 京の年末の風物の鉢たたきも年越しを以てして仕事は終わり、これで死後の極楽往生も確実と安心して年を越す。
 「するする」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「するする」の意味・読み・例文・類語」に、

 「[1] 〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
  ① 人や動物などが、速やかに滞りなく移り動くさまを表わす語。
  ※古今著聞集(1254)二〇「枝をよこたへて、そばよりするするとよりて、くびのねをつよく打たりければ」
  ※源平盛衰記(14C前)三七「小長刀を取り、十文字に持て開き、するすると歩みより」
  ② 棒状、帯状のものが勢いよく伸びるさまを表わす語。
  ※宇治拾遺(1221頃)三「三ところに植てけり。例よりもするすると生たちて、いみじく大になりたり」
  ③ 物事が滞りなく行なわれるさま、なめらかに進行するさま、支障なく速やかに行なわれるさまを表わす語。すらすら。
  ※風姿花伝(1400‐02頃)六「直に舞ひ謡ひ、振りをもするするとなだらかにすべし」
  ※異端者の悲しみ(1917)〈谷崎潤一郎〉一「不思議や次第に円盤がするするするする廻転し始めて」

とある。
 長点で「うらやましく候」とある。

十四句目

   するすると往生申鉢たたき
 うづめば土と成しへうたん

 鉢たたきとは言っても実際には瓢箪を打ち鳴らしている。
 鉢叩きは死ぬと愛用の瓢箪も一緒に土に埋めるということか。知らんけど。瓢箪も土に返る。
 長点で「何もかもひよひよらへうたんに成候」とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は狂言『節分の小歌』の「此方へちやつきりひよ。ひよひよらひよ、瓢箪つるいて面白や」のフレーズを引いている。
 「ひよひよらひよ」は日常でも使われたフレーズなのか、「ひよひよらひよになる」を掛詞にして「ひよひよらへうたんになる」としている。

十五句目

   うづめば土と成しへうたん
 貧しきが住こし跡を田畠に

 困窮して先祖代々の屋敷も解体して田畑に変えて細々と暮らす。家を田畑に埋めれば土となって、そこで瓢箪を栽培する。
 点なし。

十六句目

   貧しきが住こし跡を田畠に
 いつくたままぞよはる虫の音

 「いつくたまま」は「いつ食ったまんま」。前句を住人がいなくなって田畠は荒れ放題で、虫も食う物がなくて困ってる、とする。
 長点で「貧家の旧跡、虫までめいわく尤に候」とある。

十七句目

   いつくたままぞよはる虫の音
 露霜の置ばさび付鼻毛ぬき

 虫の音は霜で弱るもので、

 虫の音もほのかになりぬ花薄
     秋のすゑはに霜やおくらむ
            源実朝(続古今集)

などの歌に詠まれている。
 露霜が降りれば花薄は枯れ、鼻毛抜きは錆びる。
 点あり。

十八句目

   露霜の置ばさび付鼻毛ぬき
 座敷の壁に月の鏡を

 霜に鏡は李白の、

   秋浦歌   李白
 白髪三千丈 縁愁似箇長
 不知明鏡裏 何処得秋霜
 (白髪頭が三千丈、悩んでいたらまた延長。
  鏡は誰だかわからない、どこで得たのかその秋霜。)

の縁になる。この場合の鏡に映る霜は白髪のことだが、それが月の鏡というのが意味がよくわからない。
 壁に穴が開いて月の鏡が顔を出して、鼻毛抜きも錆びているという廃墟の情景か。
 点なし。

十九句目

   座敷の壁に月の鏡を
 肴舞鍾馗の聖霊あらはれて

 肴舞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「肴舞」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 酒宴の席で肴として舞う踊り。酒の席に興を添える舞い。
  ※禅鳳雑談(1513頃)「ただ、さかな舞は何(いか)にも何(いか)にもかかはらず、さきへやり候て、しまひを、ふしのごとくひゃうしにのせ候てよく候」
  ② 病気の平癒を祝っておどる舞い。床上げの祝の舞い。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「座敷の壁に月の鏡を 肴舞鏱馗の精霊あらはれて〈素玄〉」

とある。この句が用例になっている。
 鍾馗様は疫病除けの神様で、ウィキペディアに、

 「ある時、唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり床に伏せた。
 玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。
 夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。」

とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『皇帝』を引いていて、謡曲では楊貴妃の病気を治す話になっていて、そこでは、

 「ワキヅレ 勅諚尤も然るべしと、月卿雲客一同に、明王鏡を取り出だし、御枕近き御几帳に、立て添へてこそ置きたりけれ。 
  地    かくて暮れ行く雲の脚、かくて暮れ行く雲の脚、漂ふ風も、凄しく、身の毛もよだつ折節に、不思議や鏡のそのうちに、鬼神の姿ぞ映りける。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3466). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と鍾馗が鏡の中で病魔を退治する。
 鍾馗が病魔を退散させて肴舞となり、座敷の壁にはその時の鏡がある。
 長点だがコメントはない。

二十句目

   肴舞鍾馗の聖霊あらはれて
 ぞつとするほどきれな小扈従

 前句の肴舞と美しいお小姓の舞とする。謡曲の鍾馗の聖霊の舞を舞うということか。
 点なし。

二十一句目

   ぞつとするほどきれな小扈従
 もみうらのだての薄着を吹あらし

 「もみうら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「紅裏」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 もみを衣服の裏とすること。また、その裏地。
  ※俳諧・玉海集(1656)四「絹ならで皆もみうらのかみこかな〈梅盛〉」

とあり、もみは「精選版 日本国語大辞典 「紅・紅絹」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (紅花を揉んで染めるところから) べに色で無地に染めた絹布。和服の袖裏や胴裏などに使う。ほんもみ。
  ※俳諧・犬子集(1633)一「春風のもみ紅梅はうら見哉〈親重〉」
  ※夜明け前(1932‐35)〈島崎藤村〉第二部「眼のさめるやうな京染の紅絹(モミ)の色は」

とある。
 嵐に薄物の衣が裏返って赤い裏地がちらちらするのは、今日のパンチラのようにそそられるものだったのだろう。
 後の『去来抄』に、

 時雨るるや紅粉(もみ)の小袖を吹かへし 去来

の句に対し、「正秀曰、いとに寄のたぐひ、去来一生の句くずなり。」とあるのも、談林時代から使い古されたネタだったということがあったか。
 点あり。

二十二句目

   もみうらのだての薄着を吹あらし
 頭巾の山やまたこひの山

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は『柳亭筆記』に浮世狂いの和歌とのばらの被る赤裏頭巾を挙げている。遊郭通いの男は頭巾で顔を隠したりしたが、その裏地にもみを使って洒落ていたか。
 点あり。

2023年6月15日木曜日

 人間に限らず、他の動物でも繁殖に費やすコストと自分の生を全うすることとの間にみんな矛盾を抱えているのかもしれない。
 出産はしばしば命の危険を伴い、子育てには多くの時間を取られ、子供の居場所を確保し、食料を運び、外敵と戦い、多くのコストを支払う。
 自分の幸福を最優先させるなら、繁殖などしない方が良いのだろう。ただ、生命が存続するには繁殖が不可欠だが、果たして動物の個体がその必要を意識しているのだろうかという疑問はある。
 おそらくそれを意識できないから、自動的に発情して子供を作らせてしまう遺伝子を持つ者の子孫のみが残ったのだろう。
 自分では制御できないどうしようもない衝動から、多くの動物は望むと望まざるとにかかわらず繁殖行動を取り、そのために命を落として行く。
 人間はどうだろうか。近代になってその制御が可能になった瞬間、快楽だけを頂いて子供を作らないというずるをするようになった。それもまた少子化の一つの要因なのかもしれない。
 ただ、それでもずるした者の遺伝子は残らない。むしろうっかり子供を作っちゃう人の遺伝子のみが残って行く。

 それでは『大坂独吟集』から次の俳諧。
 素玄独吟百韻「松にばかり」の巻(宗因編『大坂独吟集』より)

初表
発句

 松にばかり嵐や花の片贔屓 幾音

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注にあるように、この発句は『太平記』第七、四十四、千剣破城軍事の吉野で連歌をする、

 「長崎四郎左衛門尉此有様を見て、「此城を力責にする事は、人の討るゝ計にて、其功成難し。唯取巻て食責にせよ。」と下知して、軍を被止ければ、徒然に皆堪兼て、花の下の連歌し共を呼下し、一万句の連歌をぞ始たりける。其初日の発句をば長崎九郎左衛門師宗、さき懸てかつ色みせよ山桜としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉嵐や花のかたきなるらんとぞ付たりける。誠に両句ともに、詞の縁巧にして句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌也。

の場面によるもので、「嵐や花のかたきなるらん」の脇を換骨奪胎して「嵐や花の片贔屓(かたびいき)」として、松にばかり嵐が吹いて花には吹いてない、とする。

   さき懸てかつ色みせよ山桜
 嵐や花のかたきなるらん

の句は、「先駆けて勝つ」という戦勝祈願の発句で、それに嵐が敵と応じる。
 これに対して素玄の句は嵐は松の方に吹いて花には吹かないとする。実際に嵐が松にだけ吹くことがあるのかと思うと不自然な句なので、これも何か寓意があったと思われる。
 あるいは松は松江重頼で、貞徳、貞室、貫風、親重などと激しい論戦を繰り広げたことを暗に示し、それと花(梅翁)とを対比してたのかもしれない。
 長点があり「かづらき金剛山のむかし思やられ候」とある。葛城金剛は楠木正成の本拠地だった。


   松にばかり嵐や花の片贔屓
 仰のごとくなびく藤がえ

 松に絡みつく藤は、

 みなぞこの色さへ深き松が枝に
     ちとせをかねてさける藤波
             よみ人しらず(後撰集)
 夏にこそ咲きかかりけれ藤の花
     松にとのみも思ひけるかな
             源重之(拾遺集)

など、古くから歌に詠まれ、目出度いものとされている。
 源重之の歌の方は松に絡みつく藤を松に寄り添う女に見立てた感じもすし、主君に寄り添う臣下とも取れる。藤原が臣下の姓でであることを思えば、臣下と見る方が良いのかもしれない。
 「なびく」という言葉も多くの臣下や民が朝廷になびくという意味で用いられることも多い。
 ここでも発句を、松が自ら嵐を引き受けて藤の花を庇護するというふうに取り成したと見ていいのだろう。
 点あり。

第三

   仰のごとくなびく藤がえ
 小うなづき二つ三つめに春暮て

 前句の靡く藤が枝が小さく二つ三つ頷くうちに春は暮れて行く、とする。
 「小うなづき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「小頷」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「こ」は接頭語) ちょっと首を傾けること。軽くうなずくこと。
  ※虎明本狂言・鈍太郎(室町末‐近世初)「互に、こうなづきをして」

とある。
 長点で「『三つめ』あたひ千金の所也」とある。春の暮は三月で句も第三で三が重なるとも取れるが、三回頷くというのが当時の仕草として何か意味を持っていたのかもしれない。

四句目

  小うなづき二つ三つめに春暮て
 ねぶるあいだもみじかよの月

 春が暮れて夏になると短夜になる。夜が短ければ寝ている時間も短い。四句目らしく本当にさっと流した感じで、特にひねりはなさそうだ。
 点なし。

五句目

   ねぶるあいだもみじかよの月
 酒すこしきいて味はふ郭公

 酒が回るという意味の「効いて」とホトトギスの声を聞いてと掛けて、「味はふ」も酒とホトトギス両方を受ける。
 ホトトギスは夜明けを待って聞くもので、眠ってしまっては聞けないから、酒を飲みながら眠る間も惜しんでホトトギスを聞く、とする。
 長点で「聞やうにおいて此うへあるまじく候」とある。

六句目

   酒すこしきいて味はふ郭公
 宿はづれにてはらすむら雨

 ホトトギスは村雨に詠む。

 はるとてや山郭公鳴かざらむ
     青葉の木々の村雨の宿
             伏見院(玉葉集)

などの歌に詠まれている。
 ここでは旅体にして、昨日の酒が残っているのか、あるいは別れの杯を交わしてか、宿場のはずれで村雨も晴れて郭公の声がする。
 点なし。

七句目

   宿はづれにてはらすむら雨
 旅の空日はまだ残るつかひ銭

 「残る」は「日」と「銭」両方を受ける。五句目の作り方に似ているが、素玄の得意パターンか。日も銭もまだ残っていて、雨宿りをしながら村雨が止んだら宿場に向かう。
 点あり。

八句目

   旅の空日はまだ残るつかひ銭
 わたしの舟を出さふ出すまひ

 日がまだ残ってる頃、渡し船の船頭は船を出そうか出すまいか迷う。旅体が三句続く。
 点なし。

2023年6月14日水曜日

 今日は開成あじさいまつりを見に行った。8日の時と同様歩いて行った。
 コロナ明けで去年に比べて平日なのに店も人も多く、賑わっていた。

 ロシアの侵略を平和的に防ぐことができるかと考えた時、たとえばウクライナが戦闘を止めて世界中の平和主義者が代りにデモ行進をしながらロシアの制圧地域に入る場合、どれぐらいの人数が必要で、どれぐらいの犠牲が出るのかだ。
 数百万人規模でこれを行った場合、ロシア軍は数百万の虐殺をする度胸があるかどうかは試せる。さすがにそれをやるとなると核兵器の使用に匹敵する。ただロシアがそれを躊躇しなかった場合は、NATOや米軍の介入のための国際世論形成には役に立っても、平和的解決からは遠のくことになる。結局無駄に多くの人が死んだだけで終わる。
 また、虐殺だけでなく拘束して人質に取る戦術も有り得る。さすがに数百万人もの人を収容することができるかどうかという問題はあるが、虐殺と拘束の両面作戦なら可能だ。
 数千万人規模で、元のウクライナの人口を上回る数が占領地域に侵入すれば、今のロシア軍の兵力で対処できなくなる可能性はある。ただ、どうやってそれだけの人間を移動させるか、食料はどうするのかなど、いろんな問題は残る。
 結局軍事解決の方が安上がりで、人的消耗も減らせると考えた方が良いのかもしれない。

 それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道の続き。

四月二十五日

今日は旧暦4月24日で、元禄2年は4月25日。須賀川。

今日は乍単の家の忌日で、炊事の火を別々にする。
昨日は遅くまで興行したから、一日ゆっくり休むことにしよう。

蚕する姿に残る古代哉 曾良

白河の関の東山道の道筋はまだ残っていて、感慨深かった。
みちのくは養蚕の盛んなところで、ここでは男も機を織るという。
養蚕は仲哀天皇の御代より行われていて、その昔の姿を見るかのようで興味深い。
22日の挙句にも養蚕を出してみた。


四月二十六日

今日は旧暦4月25日で、元禄2年は4月26日。須賀川。

今朝は小雨が降っていたが、大したことないと思って石川滝を見に行った。石川の郡を経て磐城にも抜けられる道があって、石川道というらしい。そこを二里ほど行ったところだという。

残念ながら、最近降り続けた雨で川が増水して、川を渡ることができずに途中で引き返すことになった。

さみだれは滝降りうづむみかさ哉 芭蕉


四月二十七日

今日は旧暦4月26日で、元禄2年は4月27日。須賀川。

昨日の雨は止んで今日は曇り。石川滝はまたの機会にして、今日は芹沢の滝を見に行く予定。
白河藩士の何云という人から、何で白河をスルーしたんだって手紙が来た。知らんよ。

関守の宿をくいなにとはふもの 芭蕉

一昨日乍単の家の田植えで朝から酒やご馳走を用意してるのを見て、地元の珍しい物もあって食ってみたかったけど、午後から可伸の家で興行があって、そこで飯も出るというので我慢した。少しくらい包んで貰えば良かった。

旅衣早苗に包食乞ん 曾良

今日は旧暦4月26日で、元禄2年は4月27日。須賀川。

芹沢の滝は西に少し行った所で、小高い丘から落ちる小さな滝だった。やはり噂に聞く石川滝を見に行ってみたい。このまま雨が止んでくれれば通れるようになるかな。
帰ってきてから乍単と曾良と三人で三つ物を二つ作った。
曾良の発句、

旅衣早苗に包食乞ん 曾良

芭蕉「飯を乞うのは板書坊主のことか?乞食坊主に鼓を打たせるのか?よくわからない。」

  旅衣早苗に包食乞ん
いたかの鼓あやめ折すな 芭蕉

乍単「菖蒲折らすなは綾目織らすなとも読める。貧しい板書らしく、からむしの衣織らせようか。あやめに掛けるなら青苧(あおそ)だべ。」

  いたかの鼓あやめ折すな
夏引の手引の青苧くりかけて 乍単

発句、

茨(ふき)やうを又習けりかつみ草 乍単

曾良「こちらでは端午の節句にカツミを葺くのか。昔の話?カツミがどういう草か知らない?まあ、とりあえず古代の情景で受けておこう。」

  茨やうを又習けりかつみ草
市の子どもの着たる細布 曾良

芭蕉「ならば、その市場に休む旅人にしよう。」

  市の子どもの着たる細布
日面に笠をならぶる涼して 芭蕉


2023年6月13日火曜日

 「もはや戦後ではない」なんて言われたのはずいぶん昔のことだが、民主党政権が終わって第二次安倍内閣が誕生したのは、やはり戦後思想の終わりという一つの転換点だったんだろう。
 ロシアや中国の脅威の中で戦争放棄というものを多くの人がそれで本当にいいのかと思い始めた。
 東西の冷戦時代でも日本が侵略をうける脅威というのはほとんど感じられなかった。日本は安保に守られていつまでも平和でいられると思ってたし、安保を破棄して非武装中立をというのも、東西のバランスが取れてた時にはかなりの人が支持した。
 第二の冷戦と言われた時代は元の冷戦時代に比べると明らかに中露が劣勢だった。グローバル市場の時代が確定的になりながら、それを中途半端に取り入れながら、既に社会主義の理念も何もなく、追いつきたくても追いつけない焦りが爆発してしまった形になっている。
 第二の冷戦は最初から均衡などなかった。不均衡がいつか爆発するのを待ってた状態で、ロシアが結局爆発してしまった。
 一方、日本国内でも右翼は大きく変容して、もはや侵略戦争だとかいう連中もいなくなり、明治の韓国併合が大きな失策だったことを認めるようになっていた。日本の軍拡が純粋に防衛のためのものだということを疑う人の数はかなり減っていた。
 そういう中で、左翼は戦後思想に固執し続けた。
 特に日本共産党は民族自決主義と戦争放棄が明らかに矛盾していることに気付きながら、戦後思想が大衆の支持を得るのに不可欠だと信じ続けてきた。最近の共産党内で起きてる反乱は、この矛盾を放置した結果だと思う。
 あの人たちの駄目なのは、自分たちが劣勢になっても自分たちのやり方を反省することなく、あくまで政府の弾圧のせいだと言って、党内の結束強化に向かってしまうことだ。

 それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道の四月二十二日の興行が表六句だったので、今日はその続きを。

芭蕉「農村はみんな互いに助け合い、ゆいという組織を作って、屋根を葺くのもそうだし、念仏講をしたりもする。特に上総念仏は鉦に合わせてみんな揃って詠唱する。」

  雇にやねふく村ぞ秋なる
賤の女が上総念仏に茶を汲みて 芭蕉

乍単「賤の女はお寺に付随する葬儀関係の人かな。念仏講には同座せずに、外は筵を敷いて、最近流行りの唐茶を飲んで涼んで、これはこれで気楽かもしれない。」

  賤の女が上総念仏に茶を汲みて
世のたのしやとすずむ敷もの 乍単

曾良「ここは賤民とは切り離して、普通の人の夕涼みとして、涼しいと眠くなるものですな。蝉の声も夢うつつで聞いて、どんな夢を見てるのやら。」

  世のたのしやとすずむ敷もの
有時は蝉にも夢の入ぬらん 曾良

芭蕉「蝉が夢を見てるというふうに取り成せるかな。蝉の夢といえばやはり恋かな。小枝の向こうの雌と結ばれることを夢見て鳴いてるのかな。」

  有時は蝉にも夢の入ぬらん
樟の小枝に恋をへだてて 芭蕉

乍単「ここは蝉から人への取り成しだべ。クスノキを挟んだ家同士で惚れ合って結ばれた夫婦がいたけど、諍いがあって嫁が隣の実家に帰った。」

  樟の小枝に恋をへだてて
恨みては嫁が畑の名もにくし 乍単

曾良「ならば、姑が嫁を恨むというふうに変えてみましょう。姑は白髪頭で、山に霜が降りたみたく真っ白で、そう、嫁の畑のある場所は霜降山。」

  恨みては嫁が畑の名もにくし
霜降山や白髪おもかげ 曾良

芭蕉「白髪を老いた武将にして、関を越えて遠くへ出陣するのでお別れの宴をする。」

  霜降山や白髪おもかげ
酒盛りは軍を送る関に来て 芭蕉

乍単「関を越えて行く兵を酒盛りで送り出すなんて、もう帰ってこないという旗が立ってるようなもんだべ。春があれば秋があり、生あれば死がある。僧が諭すように歌を詠む。」

  酒盛りは軍を送る関に来て
秋をしる身とものよみし僧 乍単

曾良「粗末な庵で隠棲してる僧としましょうか。鹿の声で秋を知るのでは普通なので、こういうのはいかがですか。」

  秋をしる身とものよみし僧
更ル夜の壁突破る鹿の角 曾良

芭蕉「鹿の乱入。なかなか面白いけど、次の展開が難しいな。山奥から離れ小島にして、花前なので月も出しておこう。流刑となった後鳥羽院を慰める御伽衆とかそんな感じで。」

  更ル夜の壁突破る鹿の角
嶋の御伽の泣ふせる月 芭蕉

乍単「島のお通夜の御伽で、折からの花の季節。そんな所だべ。」

  嶋の御伽の泣ふせる月
色々の祈を花にこもりゐて 乍単

曾良「喪に服して花の下の塚に小屋を建てて遺骨を守る。」

  色々の祈を花にこもりゐて
かなしき骨をつなぐ糸遊 曾良

芭蕉「骨を継ぐを骨折治療に取り成せってことかな。骨折して新しい年を迎える。骨折で足を引く、足ひき‥。」

  かなしき骨をつなぐ糸遊
山鳥の尾におくとしやむかふらん 芭蕉

乍単「枕言葉は無視して年を迎えるで付ければいいんだ。だったら七草の芹の根を掘る。」

  山鳥の尾におくとしやむかふらん
芹堀ばかり清水冷たき 乍単

曾良「芹といえば冬に鴨と一緒に芹焼きですな。薪を運ぶついでに芹と鴨を乗せて。」

  芹堀ばかり清水冷たき
薪引車一筋の跡有て 曾良

芭蕉「雪が降ると日頃威勢の良い武士達の集団も、おとなしく宿に籠っていて、外を通るのは薪を乗せた車だけ。薪といえば京の大原小野の里に掛けて。」

  薪引車一筋の跡有て
をのをの武士の冬籠る宿 芭蕉

乍単「粗忽な武士は事務的な漢文は書けても恋文は書けない。冬は遊郭にも行かず家に籠ってるだけだったりする。」

  をのをの武士の冬籠る宿
筆取らぬ物ゆへ恋の世にあはず 乍単

曾良「空蝉にしましょうか。源氏の誘いを断り続けて、夫と共に地方赴任でほっとしてたが、帰ってくるなり源氏の君の列と鉢合わせしてまた口説かれる。そんなんで浮名が立っても迷惑ですな。」

  筆取らぬ物ゆへ恋の世にあはず
宮の召されてうき名はづかし 曾良

芭蕉「ここは周防内侍の、

春の夜の夢ばかりなる手枕に
   かひなくたたむ名こそおしけれ

を本歌に逃げておこう。

乍単「前句を独寝にして、七夕だというのに虚しいってしておこう。」

  手枕にほそき肱をさし入て
何やら事のたらぬ七夕 乍単

曾良「秋だからここで月を出した方が良いですね。七夕の月は半月だし、新居でまだがらんとした部屋に半月は物足りない。」

  何やら事のたらぬ七夕
住かへる宿の柱の月を見よ 曾良

芭蕉「六条御息所が葵上に生霊を飛ばした時に、祈祷で焚いた芥子の香りが取れないというのがあったな。ここでは髪が赤らんだと少し変えて、密教の御修法を受けに居場所を変える。」

  住かへる宿の柱の月を見よ
薄あからむ六条が髪 芭蕉

乍単「前句を特に六条御息所のこととせずに、年取って髪が脱色したとして、仏前に供える樒を切る人とする。」

  薄あからむ六条が髪
切樒枝うるささに撰残し 乍単

曾良「藤原顕仲の、

しぐれつつ日数ふれども愛宕山
   しきみがはらの色はかはらじ

でしたかな。切残した樒に時雨を付けてツグミの声をあしらっておきましょう。」

  切樒枝うるささに撰残し
太山つぐみの声ぞ時雨るる 曾良

芭蕉「冬の寒い時期の時雨の季節だと、さすがに温泉に来る人も少ない。」

  太山つぐみの声ぞ時雨るる
さびしさや湯守も寒くなるままに 芭蕉

乍単「温泉といえば那須湯本。殺生石の所から湧き出る温泉は最高だべ。人の少ない冬にでも行ってみたいな。」

  さびしさや湯守も寒くなるままに
殺生石の下はしる水 乍単

曾良「殺生石から芦野の遊行柳までの道はこの前歩いたばかりですよ。都の花もはるばる離れたこの地にも、西行さんのように遊行僧も温泉に惹かれて馬に乗ってやってきたんでしょうね。」

  殺生石の下はしる水
花遠き馬に遊行を導きて 曾良

芭蕉「時宗の僧は芸達者で風流が好きだから、花見の酒に飲み過ぎたりしそうだな。酔いを醒ますために馬に乗せて春風に当てる。同時に現世の迷いも醒めて悟りに至るという意味も込めて。」

  花遠き馬に遊行を導きて
酒のまよひのさむる春風 芭蕉

乍単「四十にして不惑というが、酒はいくつになっても迷うものだ。六十ともなれば耳従うで酒も断って生まれ変われるかも。」

  酒のまよひのさむる春風
六十の後こそ人の正月なれ 乍単

曾良「還暦祝いは目出度いもので、田舎の養蚕農家で取れた絹もやがて絢爛豪華な晴れ着となって積み上げられることになる。」

  六十の後こそ人の正月なれ
蚕飼する屋に小袖かさなる 曾良

2023年6月12日月曜日

 最近はDS(ディープステート)という言葉が左翼の側からも出てくるようになってきている。それと元々左翼の言葉だったグローバリズムという言葉を右翼が「グローバリスト」という形で使いだしている。
 ロシアが敗色濃厚で、そうなると中国の影響力も低下し、いわゆる第二の冷戦と言われた時代が終わる可能性が出て来た。グローバル市場経済に反発するアンチな連中が右左の垣根を越えて再編されようとしてるのかもしれない。
 彼らが一致できるのは反SDGsではないかと思うが、左翼が一転して反LGBTに回る可能性もなくはない。昔の社会主義者はLGBTを資本主義の頽廃した文化と捉えていて、社会主義になるとLGBTはいなくなると考えていた。だから可能性はある。
 グローバル市場経済の基本は科学と経済は共通言語だというところにある。それに反しない限り文化の多様性は担保される。だからそれに対するアンチは必然的に反科学、反経済になる。

 それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道の続き。

四月二十日

今日は旧暦4月19日で、元禄2年は4月20日。奥の細道。

今朝は霧がかかって何も見えなかったが、朝の内に晴れて来た。湯本を出て奥州街道の芦野宿に向かう。
再び那須の篠原で見通しのきかない道を行き、奥州街道の越堀宿と芦野宿の中間あたりに出て、そこからは奥州街道になった。

芦野宿を過ぎるて少し行ったところに松本市兵衛の茶屋があって、主人の案内のままに左の方に曲がると鏡山の八幡様の参道で、大きな門があって、その先左に遊行柳があった。

田一枚植て立去る柳かな 芭蕉

ここに西行ゆかりの柳があると以前からここの旗本の蘆野民部に言われてた。

道の辺に清水流るる柳陰
   しばしとてこそ立ち止まりつれ

の歌の「しばし」を俳諧らしく、田一枚植え終わるまでとしてみた。

紹巴の息子の玄仍の庵というのもこの近くにあった。芦野は宗祇法師も白河の旅の時にここに立ち寄って地元の連衆と百韻を巻き、猪苗代兼載もここに滞在してたという、連歌の聖地でもある。

芦野宿からさらに北へ向い、このまま奥州街道で白河の関を越えるんだと思ってたら、曾良が昔の関はここじゃないと言い出す。
寄居という所からも行けるらしいが、取り合えず普通に今の白河の関を越えようと真っすぐ行った。
今は関所があるわけではなく、関の明神と呼ばれる二つの神社が下総側と磐城側にあった。

結局やはり昔の関が見たいと曾良が聞かないんで、白坂という所で馬を降りてその先で右に曲がり、草深い道を行くことになった。
なるほど確かに旗宿という所に出て、古い街道が通っていた。曾良曰く、これが古代の東山道だという。
その日は雲行が悪く、取り合えず旗宿に泊った。夕方から雨が降り始めた。


四月二十一日

今日は旧暦4月20日で、元禄2年は4月21日。奥の細道。

昨日の雨が止まず、朝から霧雨だった。明るくなってから宿を出て白河とは反対の方に東山道を行くと、ここにも住吉・玉嶋の二つの明神様があった。ここが昔の関のあった所だという。

早苗にもわがいろ黒き日数哉 芭蕉

能因法師もここを通ったのか、

都をば霞とともに立ちしかど
   秋風ぞ吹く白河の関

の歌を思い出した。
一説には能因法師が実は白河へは行ってなく、体を日に焼いて旅をしたように見せたって言われてるが、自分は日焼けして本当に関を越える。

西か東か先早苗にも風の音 芭蕉

まあ、曾良に西東に連れまわされたからな。

このあと関山満願寺を参拝し白河に出た。曾良が中町左五左衛門に用があるということで立ち寄り、大野半治という白河藩士に会いに行ったが、金の話だろうか、よくわからない。
この夜は矢吹宿に泊った。


四月二十二日

今日は旧暦4月21日で、元禄2年は4月22日。須賀川。

今日は須賀川に着いて、早速乍単の家で興行となった。

芭蕉「あちこち田植えをしてて、村人総出で笛や太鼓に田植え唄が聞こえてきて、聞き慣れない旋律、言葉、どれも新鮮な物ばかりだった。」

風流の初めや奥の田植歌 芭蕉

乍単「風流、つまり俳諧興行を田植え唄の興で始めようということだべ。したがら田植のご馳走にイチゴを用意した。」

  風流の初めや奥の田植歌
覆盆子を折て我まうけ草 乍単

曾良「我が設け草‥自分で自分のために用意したとも取れますね。旅体で野宿の寝床を作ったとしましょうか。漱石枕流ではなく普通に枕石漱流ということにしまして。」

   覆盆子を折て我まうけ草
水せきて昼寝の石やなをすらん 曾良

芭蕉「らん、と来たら疑問を反語に取り成すのが基本。水を堰き止めて昼寝するなんてとんでもない、カジカ漁をするに決まってる。」

  水せきて昼寝の石やなをすらん
籮に鰍の声生かす也 芭蕉

乍単「んだんだ。そこに河原の柳の葉が落ちて、笹蟹のようにカジカも成仏すんべ。葉が散れば月も見える。」

  籮に鰍の声生かす也
一葉して月に益なき川柳 乍単

曾良「夏の柳は旅人が涼むもので、西行柳も一昨日見たばかりです。秋になると涼む人もいなくなって、そこに収穫作業のための仮小屋が村人総出で建てられるとしましょう。」

  一葉して月に益なき川柳
雇にやねふく村ぞ秋なる 曾良


四月二十三日

今日は旧暦4月22日で、元禄2年は4月23日。須賀川。

昨日の「風流の」の歌仙のあと、そのまま乍単の家に泊まった。
今日は夕方になって可伸という人の庵に行った。帰り道に可伸庵の近所の善徳院、岩瀬寺、八幡宮を見て帰った。
翌日の興行を約束した。発句を用意しないと。


四月二十四日

今日は旧暦4月23日で、元禄2年は4月24日。須賀川。

今日は乍単こと相楽伊左衛門の所の田植えがあって、朝から慌ただしい。
酒やご馳走を用意しては運び、笛や太鼓に田植え唄、田植えフェスが始まった。
辛い仕事だからこそ楽しくやる。昔からの知恵だ。
蓑笠来た男達、早乙女、見てて飽きない。

午後から可伸の庵で切り蕎麦を頂いてから興行した。
昨日も匂いが気になってたが、やはり栗の花が咲いてた。緑色で見た目は目立たないけど、匂いはすごい。

かくれ家や目だたぬ花を軒の栗 芭蕉

可伸「栗という字は西の栗と書いて、西方浄土に縁がある。その隠れ家に芭蕉さんのような光り輝く人が来て、蛍が泊まって行くようだべした。」

  かくれ家や目だたぬ花を軒の栗
まれに蛍のとまる露草 可伸

乍単「前句を普通に蛍のいる景色にして、みちのくの名所でも付けておこうか。浅香山の山の井は切り崩されてしまったが、蛍はまだそこにいる。」

  まれに蛍のとまる露草
切崩す山の井の名は有ふれて 乍単

曾良「田んぼになってしまったってことですな。石を渡しただけの橋なんてありそうですな。」

  切崩す山の井の名は有ふれて
畔づたひする石の棚橋

等雲「んだ。その橋を月の出る頃に柴背負った人が渡るべ。」

  畔づたひする石の棚橋
把ねたる真柴に月の暮かかり 等雲

須竿「その柴を背負った人は、いかにも秋の悲しさを知り尽くしたみたいに、長いこと小さな家に一人で住んでる。」

  把ねたる真柴に月の暮かかり
秋しり顔の矮屋はなれず 須竿

2023年6月11日日曜日

 昨日の夜は蛍を見に行った。
 今日は一日雨。梅雨らしい天気だった。
「菖把に」の巻「武さし野を」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道の続き。

四月十二日

今日は旧暦4月11日で、元禄2年は4月12日。黒羽。

10日は結局雨は止んだけど、その日は民部や図書の親戚の家を回って、昨日帰ってきた。
昨日の雨は今日は止んで、図書の案内でようやく犬追物と玉藻の塚を見ることができた。


四月十三日

今日は旧暦4月12日で、元禄2年は4月13日。黒羽。

この前の興行に参加してた翅輪がやって来て、八幡様にお参りに行った。
那須与一が的をいる時に先ず南無八幡大菩薩と祈った、その八幡様だという。


四月十四日

今日は旧暦4月13日で、元禄2年は4月14日。黒羽。

今日はまた雨。
図書が重箱に料理を詰めて持ってきてくれたのは有り難いが、それを食いながら一日居座り、一日無駄話をしながら過ごした。こういうのって深川にいるのとあんまり変わんないよな。

まあ、俳諧のネタにできそうな話も時折聞けるから、取材だと思って聞けばいいのかな。

鮎の子の何を行衛にのぼり船 素堂

長く滞在している間に素堂から手紙が来た。
旅立つ時に詠んだ鮎の子の句の返事だろうか。


四月十五日

今日は旧暦4月14日で、元禄2年は4月15日。黒羽。

今日は雨が止んだ。昼過ぎに鹿助が呼びに来て浄法寺図書の家に行った。まあ、昨日から予定してたことだけどね。
曾良は何か調子が悪いと言って、来なかった。
まあ、明日はここを出て湯本へ向かうから、ゆっくり休んでてくれ。


四月十六日

今日は旧暦4月15日で、元禄2年は4月16日。黒羽を発つ。

黒羽に長逗留することとなったが、今日はここを離れて湯本に向かう。
午前中に図書やその取り巻きたちとともに余瀬の民部の家に戻った。曾良の具合は大丈夫そうだ。
出発は何のかんので昼過ぎになった。

図書が馬を用意してくれて、弾蔵という者も案内役に付けてくれた。
野間という所で奥州街道に出た。鍋掛宿の少し手前で、ここまで二里程度だった。
ここで馬を返して、あとは背の高い笹の茂る見通しの悪い道を歩くことになる。

野間からしばらく奥州街道を行き、鍋掛宿を過ぎて越堀宿を左に曲がると高久を経て湯本にへ行く道がある。
途中から雨が降り出して、道は十分踏み固められてなくてぬかるんでくる。
何とか高久までたどり着いたので、事前に図書より渡されてた

紹介状を持って角左衛門の宿に泊まることとなった。


四月十七日

今日は旧暦4月16日で、元禄2年は4月17日。高久。

落ちくるやたかくの宿の時鳥 芭蕉

昨日の雨は今日もやまない。大きな街道は多少の雨でも大丈夫だが、こういう街道から外れた人通りの少ない道は、雨が降ると道がぐちゃぐちゃになって馬も通れない。
古歌では、

鳴けや鳴け高田の山の時鳥
   この五月雨に声な惜しみそ
       よみ人知らず

の歌のように五月雨のホトトギスを詠む。実際雨の夜明けにもよくその声を聞く。

曾良「まだ五月じゃないですし、『短夜の雨』としておきましょうか。
曾禰好忠の、

時鳥うひたつ山を里知らば
   木の間は行きて聞くべきものを

の歌を本歌にして」

  落くるやたかくの宿の時鳥
木の間をのぞく短夜の雨 曾良


四月十八日

今日は旧暦4月17日で、元禄2年は4月18日。高久を出る。

今朝の明け方、地震があった。特に被害はなかった。
雨は明るくなった頃に止んできたが、まだ道がぬかるんでるので、昼まで待って湯本へ出発した。宿の角左衛門が馬を用意してくれた。

野を横に馬牽むけよほとゝぎす 芭蕉

少し行くと空も晴れてきた。その頃だったか、馬を引いてた馬子が発句の短冊が欲しいと言い出した。
古池の句ですっかり有名になったから、こんな田舎の馬子にまで自分の名が知られるようになったのかと、ちょっと嬉しいというか照れるというか、何か気恥ずかしい

まあ、いつも揮毫する時にはそれなりの謝礼は頂くのが普通だけど、金持ってそうに見えないしな。
まあ、仕方ない。馬をちょっと横道に入れてホトトギスの聞こえる所に連れてってくれ、ホトトギスの声が聞こえたら、そのお駄賃に短冊を書いてあげよう。
まあ、山の中だし普通にホトトギス鳴くと思うが。

松子という所で馬を降り、馬子も馬を連れて帰って行った。
そこから湯本まではさん里ほどで、明るいうちに湯本の五左衛門の宿に着いた。ここも図書の紹介による宿だった。
余瀬からついてきていて案内役は角左衛門、高久の宿の主人も角左衛門、

湯本の宿の主人は五左衛門で、日光でお世話になったのも五左衛門。似た名前が多くて困る。
まあ、4年前に七郎兵衛が三人一度にやってきたこともあったがな。


四月十九日

今日は旧暦4月18日で、元禄2年は4月19日。奥の細道の旅。

今日は朝から良い天気だった。朝方曾良がどこかへ出かけてた。
朝飯の後、ずっとここまで案内してくれた方の角左衛門が余瀬へと帰って行った。
昼頃、宿の主人の五左衛門の案内で温泉大明神に詣でた。

湯をむすぶ誓も同じ石清水 芭蕉

那須与一が屋島で扇の的を射る時、南無八幡大菩薩と二荒山神社と温泉大明神に祈りを捧げて見事に的中させたため、湯泉大明神の相殿に石清水八幡宮を移して、一度に両方の神に祈れるようにしたという。石清水の冷泉と那須の温泉が一つになったわけだ。

石の香や夏草赤く露あつし 芭蕉

そのあと妖狐玉藻の怨念が石になったという殺生石を見に行った。
辺りは大小たくさんの石が転がり、その中の大きなのがそれだという。湯気が立ち硫黄の匂いがして、これが鳥をも殺すという玉藻の怨念の正体か。
謡曲みたいに石が二つに割れることはなかった。

句の方は見たまんまの句になった。
そのあと温泉の出るところを六ヶ所回った。熱いのやぬるいの、色々だった。

2023年6月10日土曜日

 水着撮影会に日本共産党がクレームを入れて中止に追い込んだというのは、社会主義の問題だけでなく、人権思想が何なのか、考えるきっかえになればいいと思う。
 問題は二つある。

 一つは「性の商品化」という言葉で、一体何を言おうとしているか。
 もう一つは女性が女性であることをアピールする権利はないのか。

 この二つが問題だ。
 前者は労働価値説の問題で、性的魅力は労働によるものではない。
 交換価値は労働価値説によれば労働者が最低限の生活を営むためのその労働時間を基準にして、同時間当たりの生産物の価値を等しいとするものだ。
 交換価値を持つ物は生活に必要な食糧、住居、その他生活必需品に限定され、その生産物の価値はそれを作るのに要する労働時間に等しいというのが労働価値説の基本的な考え方になる。
 食料品の価値はお百姓さんが一年間働いた労働時間によって決定され、鋤や鍬の価値はそれを作るのに要する鍬鍛冶や柄を作る材木屋の労働時間に等しいことになる。
 これに対し芸術品の価値は必ずしも労働時間に関係なく、いくつかの作品は何百億円もの値を付けることになる。スポーツ選手の価値も練習時間や試合時間に関係なく、基本的には試合での活躍によって決定される。
 労働価値に対して原理主義的に解釈するなら、芸術作品はその芸術家の上手い下手に関わらず、そのための修行や制作にかかる時間以上の価値を持ってはいけないことになる、スポーツ選手の価値は練習時間と試合時間によって決定されることになる。
 もちろんそれ以前に芸術やスポーツが生活必需品かどうかということが問題になる。実際に二十世紀の多くの共産圏の国で芸術は禁止され弾圧された。スポーツは国家の宣伝として必要とみなされた場合のみステートアマというのが存在し、そこそこの収入を得ていた。ただ西側のスター選手に比べればほんのささやかなものだった。
 ならばグラビアアイドルの価値はというと、その価値はやはり美容やシェイプアップや撮影の時間に還元されるのだろうか。おそらくそれ以前に、そもそもグラビア写真が生活必需品なのかという問題になる。
 「性の商品化」という言葉は、そもそも性的魅力は「商品」ではない、ということが前提されている。それは生活必需品ではない。ゆえに商品として交換の対象にしてはならない、というのが社会主義の基本になる。
 それに加えて、なぜか男性の性的魅力は問題にならず、女性に関してのみ性的魅力を商品とすることを女性の人権侵害として捉える。
 これは人間は本来男であり、女性は男性によって作られ押し付けられた役割にすぎない、という人権思想が根底にある。まあ、西洋の言語では男を表す言葉が同時に人間を意味している。
 このことから、男女が完全に平等に扱われるようになったなら、だれも女らしい女にはならず、男も女も男のようになるはずだ、ということになる。女らしさは男によって強要されたものだから、グラビアアイドルが女性的な魅力をアピールするのは男による強制であり、彼女らの本意ではない。彼らは強要されいやいや女性を演じさせられ、その心は常に深く傷ついている、というわけだ。
 だから、グラビアアイドルの仕事を奪うことは、女性を本来の女性の在り方に戻す正義だというわけだ。
 このことはしばしばLGBTにも拡大される。つまり本当に正しいLGBTは男らしくふるまうハードゲイのみであり、それ以外の性癖には無関心になる。
 女性の場合は男装をしたり男っぽくふるまったり女性的な服装を拒否する女性たちのみが高く評価される。
 だから、女性アイドルが女性的な水着を着て撮影会する時にはウキキーとなるが、男性アイドルが水着撮影をしても何も言わないし、多分ゲイが水着撮影してもOKだろう。女性が男性水着を着れば拍手喝さいを浴びる。
 巨乳に対するしばしば行われるバッシングも、本来大きな乳房は人間としてあってはならない、大きな乳房は男性によって強要されたものであり、女性が解放されるには自ら乳房を切落す必要がある、なんてのが根底にある。
 まあ、こういったことを書いても人権派の人達は、「あたりまえのことじゃないか」と思うことだろう。
 ある意味この問題が本当に深刻なのは、これが極端な男性中心主義であることに本人たちが気付いてないことだ。
 ただ、希望があるのは、こうした人たちは結局一握りで、何よりも女性の支持を得ていないということだ。
 日本共産党が水着撮影会を中止に追い込んだ時、多くの女性が賛同してNO水着の行動を起こしたり、ネット上でも水着撮影会を許すなとい声が盛り上がることを期待したのだったらご苦労さん。今頃「日本は民度が低いなーー」ってぼやいてるな。「だからこそ日本共産党がもっと声を上げねばならない」てとこかな。

 それでは「去年といはん」の巻の続き。挙句まで。

名残裏

九十三句目

   けぬきはなさぬ袖の秋風
 人はただはたち前後か花薄

 昔は大体十五で元服し、二十歳前後が男盛りになる。女は十五で嫁に行く。
 この場合の花薄は月代の手入れではなく白髪抜きのことか。後の芭蕉の句に、

 白髪ぬく枕の下やきりぎりす  芭蕉

の句がある。
 すっかり白髪頭になって、別の意味で毛抜きが離せなくなり、若かりし頃を思ってあの頃は良かったなと思う。述懐の句と言って良い。
 長点で「冬がれたる身にもうらやましく候」と宗因も毛がふさふさしてた頃を思う。

九十四句目

   人はただはたち前後か花薄
 いたづらぐるひのらのらの露

 二十歳前後は男盛りとはいえ、夜は遊郭に入り浸って、昼はのんべんだらりと無駄に過ごす。「のらのら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「のらのら」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
  ① 動作がにぶいさまを表わす語。のろのろ。
  ※浄瑠璃・傾城吉岡染(1710頃)中「此人立へのらのらと命しらずと云物」
  ② なすこともなく漫然と時間を過ごすさまを表わす語。のらくら。
  ※浄瑠璃・源氏冷泉節(1710頃)下「女房共はのらのらと、どこにのらをかはいてゐる」

とある。
 花薄に露は、

 ほのかにも風はふかなむ花薄
     むすぼほれつつ露にぬるとも
             斎宮女御(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 点なし。

九十五句目

   いたづらぐるひのらのらの露
 夜這には庭もまがきものり越て

 「のら」に「庭もまがきも」は、

 里はあれて人はふりにし宿なれや
     庭もまがきも秋ののらなる
             僧正遍照(古今集)

の縁になる。
 前句の「いたづらぐるひ」を都会の遊郭ではなく田舎の夜這いに転じる。庭も籬も乗り越えて野良の露まみれになる。
 長点だがコメントはない。まあ、分かり易い句で説明の必要もあるまい。

九十六句目

   夜這には庭もまがきものり越て
 かけがねもはや更る閨の戸

 籬を乗り越えたまでは良かったが、扉には鍵が掛かっていて残念。
 点なし。

九十七句目

   かけがねもはや更る閨の戸
 をとがいを水鶏やたたきやまざらん

 「をとがひ」は下あごの突き出た部分を言うが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「頤」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 下あご。あご。⇔腭(あぎ)。
  ※霊異記(810‐824)下「彼の禅師の(オトカヒ)の右の方に大きなる黶(ふすべ)有り〈真福寺本訓釈  ヲトカヒ〉」
  ② (機能上関係が深いところから転じて) 「くち(口)」をいう。
  ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)六「ムウ、ハハハハ、おとがひ明いた任(まか)せに。こなたに知行は貰わぬ」
  ③ (形動) さかんにしゃべること。広言、悪口などをはくこと。また、そのさま。おしゃべり。
  ※浄瑠璃・心中天の網島(1720)上「返報する、覚へておれと、へらず口にて逃出す。立寄る人々どっと笑ひ、踏まれてもあのおとがひ」

と口だとか喋るという意味もある。
 この場合は「水鶏は頤を叩いて止まざらんや」であろう。水鶏の泣き声は戸を叩く音に似ているというので、水鶏がいつまでもなくように開けろ開けろと戸を叩き続けているという意味であろう。
 ここでは夜這いではなく、通ってきたけどもう逢いたくないと戸の鍵を固く閉ざされてしまって、いくら戸を叩いても開けてくれない、という意味になる。
 長点で「おかほどたたく共あき有まじく候」とある。

九十八句目

   をとがいを水鶏やたたきやまざらん
 さてもさしでた洲崎島さき

 洲崎は何か有名な地名なのかと思ったが、江戸の洲崎はまだこの頃はないので、実在の地名なのかどうかはよくわからない。前句の「をとがい」を顎の方の頤として、突き出たものということで洲崎島崎とつないだのであろう。
 島崎はコトバンクの「デジタル大辞泉 「島崎」の意味・読み・例文・類語」に、

 「島の海に突き出た所。また、築山などの池に突き出た所。
  「やい太郎冠者、あの―に見ゆる木は何ぢゃ」〈虎寛狂・萩大名〉」

とある。
 「さしでた」は今も「差し出がましい」という言葉に残っていて、水鶏の戸を叩くような口ぶりが差し出がましく、顎をとんがらかしているようでそれを洲崎島崎に喩える。
 点なし。

九十九句目

   さてもさしでた洲崎島さき
 きく王や舟に其比花の春

 「きく王」は菊王丸でコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊王丸」の解説」に、

 「1168-1185 平安時代後期の武士。
  仁安(にんあん)3年生まれ。平清盛の甥(おい)平教経(のりつね)につかえる。元暦(げんりゃく)2年2月19日屋島の戦いで,教経の射たおした佐藤継信(つぐのぶ)の首をきろうとしたところ,継信の弟忠信に射殺された。18歳。」

とある。
 謡曲『八島』には、

 「鉢附の板より、引きちぎて、左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官、お馬を汀にうち寄せ給へば、佐藤継信能登殿の矢先にかかつて馬より下に・どうと落つれば、船には菊王も討たれければ、ともにあはれと思しけるか船は沖へ陸は陣に、相引きに引く汐のあとは鬨の声絶えて、磯の波松風ばかりの音寂しくぞなりにける。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.774-775). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 季節は春で、

 「落花枝に帰らず、破鏡二度照らさず。然れどもなほ妄執の瞋恚とて、鬼神魂魄の境界に帰り、われとこの身を苦しめて、修羅の巷に寄り来る波の、浅からざりし、業因かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.776). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。句は「きく王は舟に其比花の春(を散らす)や」の倒置になる。
 前句を八島の景色として菊王は花の春にその命を散らしたとする。
 長点で「其日の形勢此句にあり」とある。合戦の日の情景が浮かんでくるようだ、ということか。

挙句

   きく王や舟に其比花の春
 異国もなびく御代のどか也

 前句の「きく王」を「聞く王」と取り成す。あえて平仮名で表記する時は取り成しがあることが多い。
 聞くところによると異国の王も我が御代になびくと言うではないか。花の春はのどか也と目出度く一巻は終わる。
 点なし。

 「愚墨五十四句
     長廿九
      西幽子判」

 点のあったのは五十四句で、そのうち長点がニ十句。この『大阪独吟集』の中では平均的な点数で、この集の十の百韻はそれほど突出して点の多いものも泣ければ、極端に少ないものもない。
 墨の数は四十八から六十二の間、長点の数は十九から二十九の間に収まっている。

  即興かうもあらふか
 こていうしにからすきかけて、もつてひらく
 作においては、かへすがへすも申ばかりはなか
 りけり

 こう言っては殊に牛に唐鋤かけて以て開く作ににおいては、返す返す言うようなこともない。まあ丑年の歳旦の百韻でこの集の巻頭を飾るのに、申し分のない出来だった、といったところか。

2023年6月9日金曜日

  性の商品化という言葉を誰が言い出したか知らないが、性は売春を含めて最も古い商品と言って良い。
 地球に定員があり、男も女も農地などの家督を相続できない場合、男は兵隊になり女は遊女になるというのは自然な流れだった。
 生産手段を持たない以上、交換によって生活するしかない。一番最初の商品はまず自分の体だった。
 男は体力を売り、女は性を売る。性の商品化は交換経済の起源と言っても良い。
 つまり、性の商品化がいけないというのは、生産手段を持たないものは死ぬしかないということだ。
 社会主義が生産手段の私有化を禁止した時、その生産手段の恩恵にあずかれるのは誰なのか。それは共同体(コミューン)に属する者だけだ。そのコミューンが何らかの排除のシステムを持つなら、すべての人間は生殺与奪権をコミューンに握られていることになる。
 排除なき共同体というのが一つの理想だったが、それは完全な人口の管理を前提とする。生産能力に見合っただけそれに伴う拡大再生産を「資本主義」として排除するなら、これがどんなディストピアかわかるだろう。世界は常に最低限の生産による最低限の人口に抑えられなければならない。
 人口がコントロールできなければ、余剰人口を何らかの理由を付けて排除しなくてはならない。飢餓と粛清の地獄だけが待っている。
 我々がこの社会主義の飢餓と粛清を逃れるべきなら、まず最初に解放されなくてはならないのは、男も女もまず自らの肉体を売る権利だ。そこから交換経済が始まり、今に至る文明の階段がある。
 交換価値が労働者の労働価値を越えてより大きな付加価値を得ることができるのも、すべてそこから始まった。性は商品化されなくてはならない。

 それでは「去年といはん」の巻の続き。

名残表

七十九句目

   若菜つみつつ今朝は増水
 かせ所帯我衣手にたすきがけ

 「かせ所帯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「悴所帯」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 貧乏所帯。貧乏暮らし。貧しい生活。かせせたい。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「童子が好む秋なすの皮〈在色〉 花娵(はなよめ)を中につかんでかせ所帯〈雪柴〉」
  ※浄瑠璃・双生隅田川(1720)三「あるかなきかのかせ所帯(ショタイ)、妻は手づまの賃仕事(しごと)」

 貧乏人の子沢山という言葉があり、子供の多さが手枷足枷になって貧しさから抜けられないという意味合いもあるのだろう。
 前句の「若菜つみ」から、

 君がため春の野に出でて若菜つむ
     我が衣手に雪はふりつつ
            光孝天皇(古今集)

を本歌として、貧しい家でも七草の雑炊を作るとする。
 点なし。

八十句目

   かせ所帯我衣手にたすきがけ
 妻子にまよふ闇の鵜づかひ

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、

 人の親の心は闇にあらねども
     子を思ふ道にまどひぬるかな
            藤原兼輔(後撰集)

の歌を引いている。
 親が子を思うのは自然なことではあるが、今の世でもモンスターペアレンツ(通称モンペ)がいるように、子供のこととなると人は血相を変えて理不尽なことをするものだ。
 昔は仏道の迷いになるとされ、中世の『西行物語』ではこれが出家の妨げだと娘を蹴っ飛ばす場面があったりするが、それもまた極端だ。
 鵜匠の仕事は殺生の罪を犯すということで、謡曲『鵜飼』でも、

 「鵜船に燈す篝火の、後の闇路を、いかにせん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3497). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 殺生の罪とは言え、鵜匠も妻子を養ってゆくためには鵜飼の仕事を続けなくてはならない。
 点あり。

八十一句目

   妻子にまよふ闇の鵜づかひ
 滝つせやいとどかはいの涙川

 「かはい」は川合と可愛を掛けたものか。「かはゆし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「形容詞ク活用
  活用{(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ}
  ①恥ずかしい。気まり悪い。
  出典右京大夫集 
  「いたく思ふままのことかはゆくおぼえて」
 [訳] あまりに自分の思っているままのことでは恥ずかしく思われて。
  ②見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。
  出典徒然草 一七五
  「年老い袈裟(けさ)掛けたる法師の、…よろめきたる、いとかはゆし」
  [訳] 年をとり、袈裟を掛けた法師が、…よろめいているのは、たいそう見るにしのびない。
  ③かわいらしい。愛らしい。いとしい。◆「かほ(顔)は(映)ゆし」の変化した語。
  語の歴史室町時代から③の意味でも用いられるようになり、形は「かはいい」に変わり、現代語「かわいい」につながる。」

とある。今の「可愛い」に近い意味でも用いられた。
 「妻子にもよふ」に「可愛の涙川」、「闇の鵜づかひ」に「滝つせの川合」が付く。
 点なし。

八十二句目

   滝つせやいとどかはいの涙川
 岩ねの床にだいたかしめたか

 「だいたかしめたか」は分りにくいが、今日的には「抱きしめる」というべきところを、この頃は別々に言ったか。
 「しめる」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「締・絞・閉・搾」の意味・読み・例文・類語」に、

 「④ 男女が手足をからみ合わせる。強く抱きあう。情交する。
  ※仮名草子・恨の介(1609‐17頃)上「まだ夜は夜中、しめて御寝(およ)れよの」

という意味がある。
 滝つ瀬の岩の上でまぐわったということか。
 点あり。

八十三句目

   岩ねの床にだいたかしめたか
 奥山に扨も狸のはらつづみ

 岩の上でそんなうまいことがと思ったら、やっぱり狸に化かされていた。
 前句の「しめた」が鼓の紐を締めるの縁になる。
 点なし。

八十四句目

   奥山に扨も狸のはらつづみ
 東西東西さるさけぶ声

 「東西東西(とざいとうざい)」というと相撲の時の口上。
 奥山で狸が相撲を取って猿が行司になる。
 点なし。

八十五句目

   東西東西さるさけぶ声
 入みだれ軍はその日七つ時

 七つは申の刻で、不定時法で季節のずれはあるが午後四時ごろ。前句の「さるさけぶ」を申の刻に叫ぶと取り成す。
 戦を始めるにはやや遅い時刻ではあるが、和田合戦は申の刻に始まっている。
 点あり。

八十六句目

   入みだれ軍はその日七つ時
 飯焼すててかまくらの里

 七つ時は朝未明の時刻にもなる。
 先ほどの和田合戦だが、ウィキペディアには、

 「申の刻(16時)、義盛ら和田一族は決起し、150騎を三手に分けて大倉御所の南門、義時邸、広元邸を襲撃した。義時邸は残っていた兵が防戦し、広元邸には客が残って酒宴を続けていたが、和田勢がその門前を通り過ぎていった。政所の前で合戦となり、波多野忠綱や幕府側へ寝返った義村が来援して和田勢を防戦している。」

とあり、その翌日は、

 「夜が明け始めた翌3日(24日)寅の刻(4時)、由比ヶ浜に集結していた和田勢の元に横山時兼らが率いる横山党の3000余騎が参着、和田勢は勢いを盛り返した。時兼と義盛はもともとはこの日を戦初めと決めていたので、時兼はこの日になって到着したのだった。」

とある。
 鎌倉での早朝の戦闘に、飯を炊いたまま食う間もなく出陣する。
 点なし。

八十七句目

   飯焼すててかまくらの里
 鮨桶を由井の汀に急ぎけり

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、謡曲『盛久』の、

 「シテ 鐘も聞こふる東雲に、
  ワキ 牢より牢の輿に乗せ、
  シテ 由比の汀に、
  ワキ 急ぎけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3077). Yamatouta e books. Kindle 版)

という、盛久が由比ガ浜に処刑のために運ばれてくる場面を引いている。
 ここでは、言葉だけ謡曲から取って、意味は飯を捨ててしまったため、急遽馴れ寿司の桶を運んでこさせる、というだけの句になる。
 点あり。

八十八句目

   鮨桶を由井の汀に急ぎけり
 ゆめぢをいづる使者にや有らん

 ここで再び謡曲『盛久』の先ほどの一節の続きの、

 「夢路を出づる曙や、夢路を出づる曙や後の世の門出なるらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3078). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と続ける。
 この使者に盛久の処刑は中止され、命拾いすることになる。
 単に言葉だけの使用から物語の本説へと展開する。
 これは長点で「御盃すしを肴にこそ」とある。謡曲『盛久』はこのあと、目出度く宴会の場面になり、

 「シテ せん方もなき盛久が、
  地  命は千秋万歳の春を祝ふぞと、御盃を下さるれば、
  シテ 種は千代ぞと菊の酒、
  地  花をうけたる、気色かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3082). Yamatouta e books. Kindle 版. )

となり、鮨はその時の肴か、ということになる。

八十九句目

   ゆめぢをいづる使者にや有らん
 口上のおもむき聞ば寝言にて

 口上は今は芝居の口上の意味だが、元々は多義だった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「口上・口状」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙
  ① 口頭で述べること。口頭で伝えること。また、その内容。また、型にはまった挨拶のことばをいう。
  ※続日本紀‐天平勝宝元年(749)二月壬戌「式部更問二口状一、比二挍勝否一、然後選任」
  ※承久軍物語(1240頃か)二「口上に申さるるやう、義時昔より君の御ために忠あって私なし」
  ② ものいい。口のききかた。口ぶり。弁舌。
  ※無名抄(1211頃)「あしたにするをばあさりと名つけ、夕にするをばいさりといへり。これ東のあまの口状なり」
  ※虎寛本狂言・八句連歌(室町末‐近世初)「久敷う逢ぬ内に、口上が上った」
  ③ 歌舞伎その他の興行物で、出演者または劇場の代表者が、観客に対して述べる挨拶(あいさつ)。また、それをいう人。初舞台、襲名披露、名題昇進、追善などで行なわれる。また、題名、出演者などの紹介をすることや、それをする人をさしていうこともある。
  ※評判記・役者評判蚰蜒(1674)ゑびすや座惣論「榊武兵衛が、たて板に水をながすやうなる口上のいさぎよき」
  ④ 注意事項や疑問点を書き込んで、文書や書籍にはりつけた紙。押紙(おうし・おしがみ)。付箋(ふせん)。〔物類称呼(1775)〕
  ⑤ =こうじょうちゃばん(口上茶番)
  ※人情本・春色雪の梅(1838‐42頃か)二「そいつア面白くねえでもねえが、口上茶番(コウジャウ)か立茶番(たち)か」

 この場合は①の、使者の口頭での伝達で、それが意味不明というかとんでもないことを口走ってるので、寝言を言うなということになる。寝言だけに夢路からやって来た使者かってことになる。
 点なし。

九十句目

   口上のおもむき聞ば寝言にて
 ねつきはいまださめぬとばかり

 「ねつき」は寝付きと熱気を掛けたか。
 前句を③の芝居の挨拶と取り成し、観客の熱気の醒めないうちにまたとんでもないことを言い出す。寝言みたいだから寝付いたばかりで目が覚めてないみたいな、とする。
 点なし。

九十一句目

   ねつきはいまださめぬとばかり
 夕月や額のまはり照すらん

 月代(さかやき)と月を掛けた古典的なネタで、前句の「ねつき」はこの場合熱気で夕涼みの句にしたのであろう。ただ、句としては秋の句になる。
 点なし。

九十二句目

   夕月や額のまはり照すらん
 けぬきはなさぬ袖の秋風

 月代はすぐに毛が生えてくるので、その都度毛を抜かなくてはならない。永久脱毛などない昔の人は痛くて大変だった。
 「額のまはり(月代)」に「けぬき」が付き、「夕月」に「秋風」が付く。

 かたしきの袖の秋風小夜ふけて
     なほ出でかての山の端の月
            藤原知家(続拾遺集)

の歌もある。
 点なし。