2023年6月7日水曜日

  ツイッターの方はどうやらシャドウバンされたようだ。表示回数が一桁しか行かなくなった。
 「マイナンバーカード 本人ではない口座登録 約13万件」というニュースは、エラーだとか人為ミスの問題ではなく、要は子供名義のマイナンバーカードを親の口座に紐づけしていたということで、慣習上それが通っていたという問題。
 まあ、昔からある、子供がもらったお年玉を全部親が持って行くというのと似たようなものだ。
 日本は主婦制だから、主婦のカードを夫名義の口座に登録している例もあったのかもしれない。詳しい頃はよくわからない。どっちにしても日本の場合、夫名義の口座であっても事実上家族の口座で、実際に引き出して家計に運用するのは主婦の仕事になっている。
 財産が個人の物ではなく家の物だという、習慣によるものだ。

 それでは「去年といはん」の巻の続き。

三表

五十一句目

   春風誘ふ滝の糸くづ
 山姫やのこれる雪の綿仕事

 前句の糸屑から綿を付けて、春風に「残れる雪の綿」として、前句の滝の糸屑を、山姫が綿仕事(綿打ち)をしたからだとする。
 雪が溶けて滝の糸屑になるのはわからないでもないが、苦しい展開か。
 点なし。

五十二句目

   山姫やのこれる雪の綿仕事
 立田のおくは手習どころ

 前句の春の山姫を佐保姫のこととして、違え付けで龍田姫は手習いをしていると付ける。
 点なし。

五十三句目

   立田のおくは手習どころ
 歌よみや紅葉葉分て入ぬらん

 古今集に、

 秋はきぬ紅葉は宿にふりしきぬ
     道ふみわけてとふ人はなし
             よみ人しらず
 ふみ分けてさらにやとはむ紅葉葉の
     ふりかくしてし道とみなから
             よみ人しらず

などの歌があり、前句の立田から紅葉を付けて、歌詠みは紅葉の名所の龍田山の奥に好んで入って行く。手習い所があるからだろうか、とする。
 点なし。

五十四句目

   歌よみや紅葉葉分て入ぬらん
 猿丸太夫きく鹿の声

 奥山に紅葉踏み分けといえば、

 おく山に紅棄ふみわけなく鹿の
     こゑきく時そ秋は悲しき
             よみ人しらず

の歌が有名で、百人一首では猿丸太夫の歌とされている。
 「紅葉葉分て」で誰もが思いつきそうな展開ではある。
 点なし。

五十五句目

   猿丸太夫きく鹿の声
 判官のまなこさやかに月更て

 幸若舞の「富樫」に、

 「むこう歯そって猿眼こびんの髪の縮んで色の白きをば、鎌倉殿の御舎弟に源九郎義経の御首とこうして遥かの上に懸けられたり。」

とあり、九郎判官義経は猿眼(さるまなこ)だったとされている。猿眼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「猿眼」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 猿の目のように、大きいくぼんだ目。きょろきょろと動くまるい目。また、猿のように赤い目。さるぼおまなこ。さるめ。
  ※長門本平家(13C前)八「たけ七尺ばかりなる男の〈略〉猿眼の赤髭なるが」

とある。
 判官の猿眼に月も更けて頃、鹿の音が聞こえてきたので、猿つながりで判官が猿丸太夫になったか、とする。
 義経も大夫判官(たいふほうがん)だったから、猿丸ならぬ猿まなこ判官か。
 長点があり「『太夫』よく付候」とある。

五十六句目

   判官のまなこさやかに月更て
 すすめ申せば寝酒何杯

 謡曲『船弁慶』は義経が梶原景時の讒言を受けて、落ち延びるために静御前と別れる場面を能にしたもので、

 「まだ夜深くも雲居の月、出づるも惜しき都の名残」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3587). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と夜も更けて月が出る。ここで静御前と別れの酒を酌み交わす場面とする。

 「げにげにこれは御門出の、行末千代 と菊の盃、静にこそは勧めけれ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3592). Yamatouta e books. Kindle 版)

という場面だが、静御前に酒を進めながらも自分の方は既に何杯も飲んでへべれけになっている。
 宴会なんかで酔った奴に限って、「何、俺の酒が飲めねえか」とか言って人に酒を進めてくるもんだ。
 これも長点で「静が杓おもひやられ候」とある。

五十七句目

   すすめ申せば寝酒何杯
 小夜衣おもき咳気の枕もと

 前句の寝酒を風邪ひいた時の寝酒とする。
 点なし。

五十八句目

   小夜衣おもき咳気の枕もと
 鍾馗のせいかゆめかうつつか

 鍾馗と瘴気を掛けているのだろう。瘴気はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「瘴気」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 熱病を起こさせる山川の悪気や毒気。瘴氛(しょうふん)。〔倭語類解(17C後‐18C初)〕
  ※即興詩人(1901)〈森鴎外訳〉大沢、地中海、忙しき旅人「牧者どものおのが小屋のめぐりなる野を焼きて、瘴気を払ふなるべし」 〔後漢書‐南蛮伝〕」

とある。
 ただ、病魔退散の神でもある鍾馗様と藿香正気散を掛けたとも取れる。藿香正気散はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「藿香正気散」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「藿香」はかおりぐさ) 粉薬の名。疲労回復に、あるいは頭痛止めに用いたものと思われる。
  ※言継卿記‐天文一七年(1548)正月二七日「小女阿茶々所労之由申候間、藿香正気散一包与之」

とある。
 瘴気だと、うなされていると鍾馗様が現れてありがたや、だが、正気散だと薬が効いてきたかという意味になって、どっちの意味なのかという所がある。ゆえに点なしか。

五十九句目

   鍾馗のせいかゆめかうつつか
 節句までありてなければかみのぼり

 前句の鍾馗様を端午の節句の紙幟の絵とする。
 「ゆめかうつつか」から「ありてなければ」の移りは、

 世中は夢かうつつかうつつとも
     夢ともしらず有りてなければ
             よみ人しらず(古今集)

の歌による。
 長点で「誠によく書物に候」とあり、鍾馗様の紙幟はあるあるだったようだ。

六十句目

   節句までありてなければかみのぼり
 菖蒲かる野の末のはつけ木

 「はつけ木」は磔木(はつけぎ)で磔柱のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「磔柱」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 罪人の手足をしばりつけて磔の刑に用いる柱。十字架。磔木。たくちゅう。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「はり付柱まつ風の音〈正友〉 江戸はづれ磯に波立むら烏〈松意〉」
  ② =はりつけ(磔)②
  ※歌舞伎・隅田川続俤(法界坊)(1784)口明「何ぢゃい、磔柱め」

とある。
 節句に菖蒲は付け合いで、磔になって紙幟のようにあるか無しかの命だ、と展開する。
 点なし。

六十一句目

   菖蒲かる野の末のはつけ木
 池波のよるよる来るやおちひねり

 「おちひねり」はかもじ屋のことだと『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注にある。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「かもじ屋」の意味・わかりやすい解説」に、

 「かもじを製造・販売する店。「かもじ」(髢)や「かつら」(鬘)は16世紀の室町後期には、京都の郊外に「鬘捻(かずらひねり)」とか「おちやない」という女性の落ち毛を集めてかつらやかもじをつくる女性の職人がいた。17世紀の江戸初期には京都にかつら師・かつら屋という専門店ができた。18世紀の江戸中期にはかつら屋からかもじ屋が分化した。1779年(安永8)春に京都で『当世かもじ雛形(ひながた)』が出版されたが、かもじの需要が高まってきたからである。そのほかの都市にもかもじ屋ができてきた。材料の髪は落ち毛だけでなく、需要によって頭頂の髪の毛を切って売る女性もみられるようになった。女髪結いの梳子(すきこ)・梳手も髪の毛を集めておいた。近代では、洋髪が流行してくると、それにあうヘアピースが使われるようになり、和風のかもじは少なくなってきた。
[遠藤元男]」

とあり、落ちた毛を集めてかつらを作るのを「おちひねり」と言ったのであろう。
 処刑される人の髪の毛を集めに、よなよなおちひねりが来てたのだろう。
 菖蒲に池波は縁で、和歌では、

 白浪のよるよる岸に立ちよりて
     ねも見しものをすみよしの松
            よみ人しらず(後撰集)

のように、浪の寄ると夜夜とを掛けて用いる。
 長点があり、コメントはない。

六十二句目

   池波のよるよる来るやおちひねり
 ときはの里にばけもののさた

 常盤の里はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「常磐・常盤」の意味・読み・例文・類語」に、

 「[一] (左大臣源常(みなもとのときわ)の山荘があったところから) 京都市右京区中部の地名。双ケ岡(ならびがおか)の南西方にあたる。常盤の里。」

とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によると、かつら屋が多かったという。
 前句をおちひねりの所に何かが夜夜来るやと取り成して、常盤の里に化け物が夜な夜な出るとする。
 点あり。

六十三句目

   ときはの里にばけもののさた
 後からぞんぞとしたる松の風

 「ぞんぞ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「ぞんぞ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘副〙 (「と」を伴うことが多い) 寒気を感じたり、恐ろしさでふるえあがったりするさまを表わす語。ぞくぞく。ぞっと。
  ※病論俗解集(1639)「洒々(しゃしゃ)そぞろさむし。水をかかるやうにぞんそとするものなり」

とある。
 化け物が出ると噂を聞いて、ただの松風の音にもぞくっとする。
 点なし。

六十四句目

   後からぞんぞとしたる松の風
 芭蕉はやぶれて肌着一枚

 芭蕉葉は、

 いかがするやがて枯れゆく芭蕉葉に
     こころして吹く秋風もなし
           藤原為家(夫木抄)

の歌にもあるように、薄物の秋風に破れやすきを本意とする。
 ここでは謡曲『竹雪』の、

 「名のらずはいかがそれとも夕暮の、面影変る、月若かな。あはれやげにわれ添ひたりし時 は、さこそもてなしかしづきしに梓弓、やがていつしかひきかへて、身に着る衣はただ鶉の、所所もつづかねば、なにとも更に木綿四手の肩にもかかるべくもなし。花こそ綻びたるをば愛すれ、芭蕉葉こそ破れたるは風情なれ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.2886-2887). Yamatouta e books. Kindle 版. )

のようにぼろぼろの鶉衣の比喩とする。上着は破れ果てて肌着一枚が残るというところに当時のリアルな俳味がある。
 点あり。

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