それでは「松にばかり」の巻の続き。
三表
五十一句目
くま手鳶口ならびに鎗梅
雪とけて流木取がち国ざかひ
流木はこの場合は「ながしぎ」の方だろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「流木」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙
① 漂い流れる木。ながれぎ。
※俳諧・大坂独吟集(1675)上「雪とけて流木取がち国ざかひ 角田がはらの浪のわれふね〈素玄〉」 〔水経注‐溱水〕
② 山から伐り出し、川に浮かべて下流へ流し下す材木。ながし木。
③ 流罪に処せられた人間をたとえていう語。流人(るにん)。
※連理秘抄(1349)「可二分別一事〈略〉浮木 葦田 流木 書レ絵草木此等類非二植物一。他准レ之」
とある。山から切り出した材木は川に流して運ぶが、国境を越えた所で掠め取る奴がいたか。鳶口で材木を引っかけて自分の方に引き寄せる。
鎗梅で春なので雪解けの川とする。
点なし。
五十二句目
雪とけて流木取がち国ざかひ
角田がはらの浪のわれぶね
流れて来た材木だと思ったら割れた船の残骸だった。
隅田川は長いこと武蔵と下総の境だったが、江戸時代になって当時の利根川(今の江戸川)に境界が移った。
これがいつのことかははっきりしないのかウィキペディアには「近世初期(1683年(天和3年)また一説によれば寛永年間(1624年-1645年))に」とあるが、「正保国絵図」には今の江戸川が境になっているので、この巻の作られた延宝の頃には既に江戸川が境界になっていて、当然ながら深川芭蕉庵も武蔵国だった。
ただ、歴史的には隅田川と江戸川の間の地域はかつて太日川の沢山の中州のある広大な河川敷があって、隅田川もその支流の一つとして扱われていたから、太日川が洪水などによって流れを変える度に国境線が動いてた可能性はある。
点なし。
五十三句目
角田がはらの浪のわれぶね
いくたりか浅草橋にこもかぶり
「こもかぶり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「薦被・菰冠」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙
① こもで包んだ酒樽(さかだる)。主に四斗(約七二リットル)入りの大きな酒樽をいう。
※雑俳・もみぢ笠(1702)「はんじゃうな庭にいたみの菰かぶり」
※朝野新聞‐明治二六年(1893)一月一七日「総勢凡そ三千余名、菰被り二十余樽の鏡を打抜き」
② (こもを被っていたところから) 乞食。
※俳諧・談林十百韻(1675)上「一犬ほゆる佐野の夕月〈正友〉 こもかふり露打はらふかけもなし〈一朝〉」
③ 死刑囚。また、非業の死をとげて、亡骸(なきがら)にこもをかぶせられる者。
※評判記・もえくゐ(1677)「せぎゃうのにはのたけやらひ、ゆひたてらるる、こもかぶりにもならばなれと」
④ 越後国(新潟県)の新潟・沼垂、羽前国(山形県)の酒田、渡島国(北海道)の湯殿沢などの地方で、売春婦をいう。
※西蝦夷日記(1863‐64)二「湯殿沢(松前)の薦被(コモカフ)りは人目を忍ぶ意より取」
とある。この場合は②で、隅田川に神田川が合流する浅草橋の下の廃船に乞食が棲み着いている、とする。本当に乞食がいたかどうかは知らない。関西人の言うことだし、俳諧はまあうわさ話ということで。「いくたりか浅草橋にこもかぶり、知らんけど」といった所か。
点あり。
五十四句目
いくたりか浅草橋にこもかぶり
おたすけたまはれなむくわんぜ音
浅草というと浅草観音。観音様助け給え。
点なし。
五十五句目
おたすけたまはれなむくわんぜ音
諷ずき引取息の下までも
謡曲『盛久』の、
「南無や大慈大悲の観世音さしも草、さしも畏き誓ひの末、一称一念なほ頼みあり。ましてや多年値遇の御結縁空しからんや。あら御名残惜しや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.3072). Yamatouta e books. Kindle 版. )
だろうか。いまわの際でも普通に念仏を唱えるのではなく謡曲の一節を唱えている。
長点で「臨終正念南無観世太夫もおどろくべし」とある。観世流家元の観世太夫もびっくり。
五十六句目
諷ずき引取息の下までも
箸はすたらぬなら茶なるらん
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注には、
「食欲旺盛な諷好きの病人が死ぬまぎわまで願ったのは、奈良座ならぬ奈良茶であった。」
とある。この奈良座がよくわからなかったが、大和四座のことか。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大和四座」の意味・わかりやすい解説」に、
「大和地方に存在した4つの猿楽座をいう。すなわち,坂戸座,円満井 (えまい) 座,外山 (とび) 座,結崎 (ゆうざき) 座であって,のちにそれぞれ金剛,金春,宝生,観世となる。鎌倉時代末期~室町時代初期に,南都の春日神社,興福寺に奉仕する奉仕者集団 (職業的猿楽師) として,興福寺の修二月会や春日神社の薪 (たきぎ) 猿楽などを演能。いちばん古いのは円満井座で竹田の座ともいわれた。また結崎座からは,観阿弥,世阿弥の父子が現れ,足利義満をパトロンとして,田楽,延年の能などを取入れ,猿楽の能を大成したことはあまりにも有名である。以後,幕府の式楽として繁栄した。」
とある。
能(当時は猿楽と言った)が好きな人なら奈良は能の聖地で、いまわの際でも奈良茶粥を求める。
点滴などない時代には、食が喉を通らなくなった時点で大体臨終となる。茶粥が食いたいという時点で、まだ生きられそうだ。
奈良茶は奈良茶飯とも奈良茶粥ともいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「奈良茶飯」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 薄く入れた煎茶でたいた塩味の飯に濃く入れた茶をかけて食べるもの。また、いり大豆や小豆(あずき)・栗・くわいなどを入れてたいたものもある。もと、奈良の東大寺・興福寺などで作ったものという。ならちゃがゆ。ならちゃがい。ならちゃ。〔本朝食鑑(1697)〕
② 茶飯に豆腐汁・煮豆などをそえて出した一膳飯。江戸では、明暦の大火後、浅草の浅草寺門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋の祖となった。〔物類称呼(1775)〕」
とある。この場合は①で、延宝六年江戸の「のまれけり」の巻三十一句目にも、
日待にきたか山郭公
やすき夜も寝ぬに目覚めすならちやずき 春澄
の句がある。延宝九年の芭蕉の句にも、
侘テすめ月侘斎がなら茶歌 芭蕉
の句がある。
長点で「『奈良』用に立一字千金也」とある。「用に立」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「用に立つ」の意味・読み・例文・類語」に、
「役に立つ。使いみちがある。有用である。用だつ。役だつ。
※平家(13C前)九「ましてさ様にうちとけさせ給ては、なんの用にかたたせ給ふべき」
とある。謡曲に奈良を付けるのは、他にもいろいろ応用が利きそうだ。
五十七句目
箸はすたらぬなら茶なるらん
小豆ささげ粟嶋殿の初尾にて
粟嶋殿は加太の淡島神社で、和歌山の淡路島の方に突き出た所にある。
ささげは大角豆と書き、小豆に似た赤い豆。初尾は初穂と同じ。その年の最初の収穫を神社に奉納する。
小豆ささげは前句の奈良茶粥の具によく用いられるので、その初穂で淡島の神様も奈良茶を食べるのだろうか、とする。
点なし。
五十八句目
小豆ささげ粟嶋殿の初尾にて
かぶり太鼓も秋のかたみに
かぶり太鼓はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「頭太鼓」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (「かぶり」は「頭振り」の意か) 太鼓の両側に糸をつけ、先端に大豆をつけて、柄を振って鳴らす太鼓。でんでん太鼓。
※俳諧・大坂独吟集(1675)上「小豆ささげ粟嶋殿の初尾にて かぶり太鼓も秋のかたみに〈素玄〉」
とある。淡島神社に縁のあるものだったか。
点なし。
五十九句目
かぶり太鼓も秋のかたみに
いたいけを抱て恨の露なみだ
いたいけな子供とでんでん太鼓を残して妻か夫が亡くなってしまったか。妻を亡くしたと見て、男の途方に暮れる顔を思い浮かべた方が良いのかもしれない。
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は子供の亡骸を抱くとしている。悲しい句でありながらも、どうとでも取れる所はマイナスであろう。
点なし。
六十句目
いたいけを抱て恨の露なみだ
鎌田が酔るさかづきの影
鎌田は鎌田正清で、コトバンクの「朝日日本歴史人物事典 「鎌田正清」の解説」に、
「没年:永暦1.1.3(1160.2.11)
生年:保安4(1123)
平安後期の武士。遠江国(静岡県)出身か。鎌田通清の子。源義朝の家人で,乳母子。保元の乱(1156)では,京の白河殿で源為朝と戦い,その頬を射るなど活躍。乱に勝利した義朝が父為義の首を討つべき勅命を受けて苦慮すると,知恵を授け,七条朱雀で為義の首をはねた。平治の乱(1159)で一時藤原信頼が政権を掌握すると,兵衛尉に任じられ政家と改名した。平清盛に敗れ義朝と共に東国へ落ち,尾張国に住む舅長田忠致を頼ったが,裏切られ,義朝と共に殺された。
(高橋秀樹)」
とある。幸若舞では鎌田正清は酔った所を殺され、そのあと妻子も殺される。
点あり。
六十一句目
鎌田が酔るさかづきの影
上留りの扨も其後さゆのみて
鎌田の最後の所を語り終える浄瑠璃の座頭は、そこで一息ついて白湯を飲む。まあ、迫真の語りで喉が渇いたか。
点あり。
六十二句目
上留りの扨も其後さゆのみて
やくしの反化がなをす痳病
浄瑠璃の内容として、白湯を飲んだ後薬師の変化が淋病を治すとする。
点なし。
六十三句目
やくしの反化がなをす痳病
土の籠出れば虎のいきほひに
鎌倉の薬師谷にある東光寺の土牢は大塔宮護良親王が幽閉されたことで知られている。
ここでは特にその故事と関係なく、薬師如来の変化のおかげで病気が治って、虎の勢いで土牢から出て行く。
「虎の勢い」は「騎虎の勢い」のことだろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「騎虎の勢い」の意味・読み・例文・類語」に、
「(「隋書‐独孤皇后紀」から) 虎に乗った者が、途中でおりることができないように、物事の勢いがさかんになって、行きがかり上、中止したり、あとへ引けなくなったりすることのたとえにいう。
※太平策(1719‐22)「世界はかたづりになりて、騎虎の勢になるゆへ、仕とげずして叶はぬなり」
※白く塗りたる墓(1970)〈高橋和巳〉九「騎虎の勢いで三崎は窓際の高木局長の方に寄っていった」
とある。
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によれば、淋病が治って小便が勢いよく出るのと掛けているという。確かに小便は途中で止められない。
点なし。
六十四句目
土の籠出れば虎のいきほひに
のびたる髭を吹風の音
長く土牢に閉じ込められてたから、髭ぼうぼうの姿になっている。
「虎嘯けば風生ず」の諺があり、虎の勢いに風の音が付く。
髭風ヲ吹いて暮秋嘆ズルハ誰ガ子ゾ 芭蕉
はこれより少し後の天和二年の発句になる。
点なし。
0 件のコメント:
コメントを投稿