マリファナとか不倫とか、誰が怒ってるのか実態が感じられない。テレビや週刊誌が騒いで、あたかもそれが世論であるかのように装ってるとしか思えない。ツイッターも2ちゃんも盛り上がってない。
そういやツイッターデモって最近は夜明けの一番ツイートの少ない時間帯くらいしか見ない。ツイッターデモや夜明けのホトトギス。
今日は「松にばかり」の巻はお休みで、ツイッターの奥の細道の方でも。
四月二十八日
天気は曇りで、そろそろここを出て仙台の三千風の所へ向かおうかと言ってた時だった。矢内彦三郎が来て、どうやら石川道の水も引いて、今は泥の除去をやってるから、明日には通れるようになって石川滝が見れるとのこと。
十念寺と諏訪明神に行ったが、どちらもすぐ近くだった。
黒羽の浄法寺図書から手紙が来て、それに句が添えてあった。そういえば桃青桃の一字を分けて桃雪という俳号をあげたっけ。
あの時は雨ばかりだったが、出発の時は晴れたっけな。
雨晴て栗の花咲跡見哉 桃雪
乍単「跡見(あとみ)は見送るということで良いのかな。栗は西方浄土の木で死の暗示があるし、悲しい別れということで、飛び立ってった蝉はどこの草に落ちるんだろう、ってしておこうか。
雨晴て栗の花咲跡見哉
いづれの草に啼おつる蝉 乍単
芭蕉「死のイメージを外して、普通に景色に転じなくてはな。賤民が家の外の草の上で月を見ながら夕飯を食う。何か鹿島へ行った時にそんなの見たな。」
いづれの草に啼おつる蝉
夕食喰賤が外面に月出て 芭蕉
曾良「賤が女の干してた布を日が暮れたので片付けて夕飯にする。衣干すは夏だから、季語を秋にしなくては。秋来にけりで布たぐる。」
夕食喰賤が外面に月出て
秋来にけりと布たぐる也 曾良
四月二十九日
今日は久しぶりにいい天気になった。石川道も通れるということで、東南へやや戻る形になるが乍単の用意した馬で石川滝に向かった。
阿武隈川を越えて少し北へ川を下ると、その巨大な滝の下に出た。高さはそれほどでもないが幅がとにかく広い
石川滝からそのまま川沿いを下って行くと小作田という所に馬次があった。仙台道と並行する街道があるようだ。
乗り換えはせずにそのまま乍単の用意してくれた馬で守山宿まで行った。
曾良がいろいろ調べたいものがあるのか、あちこち手配していたようだ。
大元明王のお堂があって、その裏に善法寺というお寺があった。雪村の歌仙絵に俳諧の祖の宗鑑が賛を書いたものとか、探幽の大元明王僧など、珍しいものには違いない。歌枕でないのが残念だ。
ここで昼食を頂いた。
守山からは問屋善兵衛の用意してくれた馬で郡山に向かった。阿武隈川を船で渡り、日出山宿で仙台道に出て、何とか日の沈む前に郡山に着いた。曾良が宿が汚いって文句言ってるけど、田舎の方じゃ普通。蚤や虱はこういう所で貰っちゃうんだよな。
五月一日
今日も良い天気で、日の出とともに仙台道を北に向かった。
一里半先の日和田宿の少し先の右側に安積山があった。奈良の若草山のように草で覆われている。
昔はこの辺りに沢山の沼があったというが、今は田んぼになっている。
かつみ草も、その沼に生えていたんだろうか。
みちのくの安積の沼の花かつみ
かつみる人にこひやわたらむ
と、古今集の読人不知の歌で名高いかつみ草のことは、誰に聞いてもわからない。
端午の節句に菖蒲の代わりに葺いたというが。
仙台道から左へ行った方に山の井があった。
安積山影さへ見ゆる山の井の
浅き心を吾が思はなくに
の歌は夫木抄や歌枕名寄で有名だが、草に埋もれて荒れ果てていて、水があるかどうかもよくわからない。
曾良は本物かどうか疑ってた。
二本松宿は亀谷で仙台道は左に曲がって坂を登って行くが、真っ直ぐ行くと阿武隈川沿いの田んぼの方に降りて行く道になり、そこを一里ほど行くと渡し船があった。
その対岸の麦畑の中に黒塚の岩屋があった。隣の杉の木の下に鬼婆を埋めたという。
謡曲黒塚でよく知られた話で、祐慶という那智東光坊の阿闍梨が安達ヶ原で宿を借りると、そこに婆さんが夜中に火を焚いていて、閨を除くと白骨が沢山出て人食い鬼だったという話だったか。五大明王を召喚して退治する話だった。
黒塚を見た後渡し船で戻って、来たのとは別の道で二本柳宿に出て、そこから馬で八丁目宿へ向かった。二本柳だったと思う。二本松とごっちゃになりそうだが。
福島宿の少し手前の郷野目村に曾良が何か用があって、神尾何某という人を訪ねて行った。
そのあとかろうじて日の残るうちに福島宿に着いた。その神尾さんの紹介なのか、清潔な宿だ。
明日は佐藤庄司の宮跡へ向かう。
五月二日
今日は旧暦5月1日で、元禄2年は5月2日。奥の細道。
4日続きの青天で梅雨も中休み。
宿を出て仙台道を行くと五十辺という所に川があって、ここを渡らずに右に行くと阿武隈川の岡部の渡しがある。源融の、
陸奥の信夫文字摺り誰ゆゑに
乱れ染めにし我ならなくに
の歌で有名な文字摺石はこの先。
小さな谷のような所で、檜の丸太で柵がしてあって、石は逆さになって半分土に埋まり、ススキが生い茂っていた。
杉の木が植えられていて道祖神もあり、近くに観音堂もあったから、全く放置されてたわけではないけど、保存状態はひどいもんだ。
信夫文字摺の技術はとうに絶えて、その石も往来の邪魔ということで谷底に落とされたという。
虎が清水と呼ばれる小さな湧水の溜まる所があって、源融の歌にまつわる言い伝えがあるらしく、曾良が興味深そうにしていた。
文字摺石から北の方へ行くと阿武隈川を越える月の輪の渡しがあって、そこを渡ると仙台道の瀬上宿に出た。この頃から空が曇ってきた。
途中の田んぼでも田植えを見た。あの早乙女の田植えする手つき、昔はあんな風に文字摺染めをやってたのかな。
瀬上宿から今度は街道の左の方に行くと鯖野という所に瑠璃光山醫王寺があった。佐藤庄司の旧跡で、義経や弁慶の遺品を見せてもらった。佐藤庄司の二人の息子やその妻の石塔もあった。北の方の川の向こうに山があって、そこに丸山城があったという。
謡曲接待の悲しい物語を思い出し、今の太平の世の有り難みをあらためて思い知った。義経弁慶も今は端午の節句の紙幟の図柄で、子供たちもその悲劇を知ってか知らずか。
接待のラストのあの怨恨の連鎖を断つ場面、大事なことだと。
醫王寺をあとにして仙台道に戻ると、川を渡った。夕暮れで雨が降り出したと思ったら夕立のように土砂降りになった。
うらぶれた宿に駆け込むと温泉があった。
飯坂という所らしいが、何度聞いても「ええづか」に聞こえる。
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