2023年6月24日土曜日

  ワグネルの反乱はまあ、これまでもいろいろ対立してたようだし、前線に送られたまま使い捨てされそうだったしな。明智光秀みたいなもんか。敵はウクライナに非ず、敵はクレムリンにあり。
 その前にも自由ロシア軍の反乱があったけど、組織的ではなく散発的な反乱だと、結局ウクライナに負けた時にロシアはバラバラになる。

 今日は「松にばかり」の巻はお休みで、ツイッターの奥の細道の方でも

五月三日

今日は旧暦5月2日で、元禄2年は5月3日。奥の細道。

今日は白石に泊まる。城はよく目立つが山は雲がかかって全然見えない。
夫木抄や名所名寄に、

みちのくの阿武隈川のあなたにぞ
   人忘れずの山はさかしき
       読人知らず

の歌があるが、忘れずの山って確かこの辺だったと思った。

大木戸というところの先の貝田宿の先に越河番所があった。ここが今の福島領と仙台領の境になる。
斎川を越えると細い山間の道に入り、馬牛沼と馬牛山がある。その先でまた斎川を渡るが、その少し手前に鎧摺の岩や次信忠信両妻の御影堂があった。

この二人の妻は母を元気づけるために男装して甲冑を着て、息子が帰ってきたかのように振る舞ったのだとか。
今の世では花見で酔っ払って羽織着て刀さす女はいるが、平和な時代だ。

昨日の雨は今朝まで降っていた。午前中に一度止んだんで、馬で出発して桑折宿へ向かった。そのあとまた小雨が降り出した。
桑折宿を過ぎて貝田宿へゆく途中の国見峠という所が伊達の大木戸だという。特に何かがあるというわけでもないようだ。

五月四日

今日は旧暦5月3日で、元禄5年は5月4日。元禄2年の3月が小の月だったために起きたこの1日の誤差は、奥の細道の旅の終わりまで続くようだ。

夜のうちに降ってた雨は朝のうちに止んだので出発した。
この辺りは道が悪く、雨が降るとぬかり道になる。
今日も白石城は見えるが山は見えない。

時折り雲の切れ間から日が射したと思ったらまた降り出したり、安定しない天気だ。道の状態も良くない。
仙台道の槻木宿の辺りで阿武隈川の脇に出る。その次の岩沼宿の左側に竹駒明神があり、武隈の松があった。

旅立つ前に挙白から貰った句に、

武隈の松見せ申せ遅桜 挙白

の句があった。さすがに今は咲いてない。
あの磐城平藩の殿様の句にも、

武隈の松も二木や二度の春 風虎

というのがあったな。
最初の予定の3月20日に旅立って、途中の五月雨の長逗留がなければ、桜が二度見れたんだろうな。

3月の終わりに旅立って、4月も終わり今は5月だもんな。

桜より松は二木を三月越シ 芭蕉

岩沼宿を出て、また小雨の降る中を増田宿に向かった。途中に左へ一里行った所の蓑輪笠島に道祖神の社と実方中将の塚があるという。
実方中将が陸奥に赴任した時に、道祖神の社を無視して通り過ぎたために、落馬して亡くなったと伝えられている。

後にここを西行法師が通り、

朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて
   枯野の薄形見にぞ見る

と詠んだという。
行ってみたかったけど、どうやら曾良がその分岐点を見落として気づいたら増田駅だったという。
道祖神に招かれての旅なのに道祖神を通り過ぎたりして、ばちが当たらなければいいが。

曾良「増田宿は古代東山道の名取駅のあった所で、ここから西へ出羽路が分岐していて、実方中将も西行法師もそこを通ったと思われる。
ただ、今は古代の出羽路は跡形もなく、街道から外れた辺鄙な場所になってしまった。

岩沼宿と増田宿の間は田んぼになっていて、五月雨でかなり増水していて、どこに道があるのかもよくわからなかった。道がわかったとしても通れる状態だったかどうかも怪しかった。残念だった。」

増田宿を出て中田宿も過ぎた所に名取川があった。
古今集読人知らずの、

名取川瀬々の埋もれ木あらはれば
   いかにせむとか逢ひ見そめけむ

の歌で有名だが、埋れ木が現れるどころか濁流だった。まあ、橋があるので、渡るには問題はなかった。

今日も何とか日が沈む前に仙台に着いた。
若林川を渡って左にお城を見ながら国分町に宿を取った。
街は端午の節句で、軒という軒に菖蒲が葺いてあって窓には明かりが灯り、それが五月雨の暗がりに浮かび上がって綺麗だった。

五月五日

今日は旧暦5月4日で、元禄2年は5月5日。仙台。

今日もはっきりしない天気だが、それはともかくとして、三千風と連絡が取れないという事態が発生して、今日はすることもなく、休養日になりそうだ。
曾良はずっと出かけている。

結局曾良がいろいろ駆け回ってくれて、泉屋甚兵衛の紹介で、絵師の北野屋加衞門が仙台の名所を案内してくれることになった。
三千風の消息は結局わからなかった。噂では放浪の旅に出ているという。

かつては西鶴と張り合って一日百韻三十巻の三千句興行をして三千風と呼ばれるようになった。自分も天神様の境内で速吟興行を試みたが、素堂と二人で二百句がやっとだった。
その後西鶴は二万三千五百句興行を行ったという。人間技とは思えない。

天和の頃には三千風が松島眺望集を編纂した時に、愚句、

武蔵野の月の若ばへや松島種 芭蕉

の句を載せてもらった。
武蔵野図は薄の中に地面から月が生えたみたいに描き、松島図も水辺線に島が生えたみたく描く、その類似をネタにした、松島の種が武蔵野にこぼれて月が生えてきたって句だった。

五月六日

今日は旧暦5月5日で、元禄2年は5月6日。仙台。

今日は天気も良く、亀岡八幡宮に行った。
川を渡り、大手門の前を右に行き、武家屋敷の並ぶ奥に亀岡八幡宮の長い石段があった。最近ここに遷したという立派な神社だった。
帰りににわか雨に降られて、茶室を借りて雨宿りした。

五月七日

今日は旧暦5月6日で、元禄2年は5月7日。仙台。

今日も天気が良く、加衞門に仙台の名所を案内してもらう予定だ。
昨日行った仙台城のある青葉山は本当に青葉の山で、天守閣はなく、麓に屋敷が立ち並んでた。
歌枕の青葉山は季吟先生は近江の音羽山のことだと言ってたが、陸奥説や若狭説もあるという。

今日はまず東照宮に行った。言わずと知れた徳川東照宮大権現様を祀った神社で、日光ほどではないが煌びやかだった。
その南東の方が、源俊頼の、

とりつなげ玉田横野のはなれ駒
   つつじのけたにあせみ花咲く

の歌で知られた玉田横野だという。

その先につつじが岡天満宮があった。
さらに南東の方へ行くと、木の下薬師堂があり、昔の国分尼寺の跡だという。
帰る頃にはまた空が曇ってきた。

加衞門も一緒に宿に戻ると、甚兵衛もやって来た。明日仙台を発つことになったので、2人にそれぞれ発句を揮毫してやった。
甚兵衛には実方中将の塚や道祖神の社を逃したことを詠んだ、

笠島やいづこ五月のぬかり道 芭蕉

加衞門には文字摺石の昔を偲ぶ、

早乙女にしかた望んしのぶ摺 芭蕉

の句を短い文章に添えて書いてやった。
お礼とはなむけに干し飯と草鞋を貰った。
干し飯は夏場の食欲のない時に冷たい水で戻して食うと美味いし、草鞋は蛇除けの青い鼻緒が付いていた。

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