2021年12月30日木曜日

 それでは明日の大晦日から鈴呂屋俳話の方も正月休みということで、今年は『阿羅野』の歳暮八句でもって終わろうと思う。

 餅つきや内にもおらず酒くらひ  李下

 江戸時代の餅搗きもいろいろで、田舎ではその家々で一族集まったりしただろうし、街中では専門の餅搗き屋が搗いたりもしていたし、自分ちで搗く人もいた。
 まあ、人が集まる所での餅搗きは、いつの間にか酒宴になったりしていたのだろう。

 吾書てよめぬもの有り年の暮   尚白

 暮になって一年の間に書いたものとかを整理しようにも、自分で何を書いたかわからないようなものが出て来る。俳諧師だったらネタ帳のようなものもあったか。

 もち花の後はすすけてちりぬべし 野水

 「もち花」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「餅花」の解説」に、

 「小正月の物作りの一種。米の粉を丸めただんごや餅で作物の豊熟した形を模し,柳,エノキ,栗,ミズキなどの枝にさしたもので,その年の農作物の豊作を祈って作られる。もともとは粥柱や粥杖(かゆづえ)などに由来し,削掛けの技術の衰えとともにホダレ(穂垂),繭玉,稲の花などに分化発展したものといわれている。餅花の大きな枝にはいっしょに農具や小判,宝船などをかたどっただんごやミカンがつけられることもあり,石臼や米俵を台にして神棚をまつる部屋に立てられる。」

とある。
 花というだけあって、時期が終われば散るのが定め。歳旦ではなく歳暮の句だから、これは去年の新年を振り返っての句であろう。もち花同様に新年の誓いもいつの間にかどこか行ってしまった、という寓意もあるのか。

 はる近く榾つみかゆる菜畑哉   亀洞

 榾はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「榾・榾柮」の解説」に、

 「① 炉や竈(かまど)でたくたきぎ。木の切端や枝、枯木など。《季・冬》
  ※永久百首(1116)冬「こりつみしほたなかりせば冬深き片山里にいかですままし〈源忠房〉」
  ② 大きな材木。また、地面に倒れて朽ちた木。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とあり、この場合は①の方であろう。
 和歌にも、

 里人の榾きる冬のふしくぬぎ
     おほかはのへのあれまくもうし
              藤原信実(夫木抄)

の歌に詠まれている。
 冬に伐ってきて畑に積んであった榾を、春も近づくとそこを耕すので、榾を移動させる。

 煤はらひ梅にさけたる瓢かな   一髪

 煤払いも大勢でやる一年の締めくくりのお祭りのようなもので、昔の人は嫌な仕事を今でいうフェスにして楽しんでいた。
 そうなると酒飲みはやはり一杯やりたいもので、庭の梅に木に瓢(ふくべ)を掛けておく。

   木曽の月みてくる人のみやげにと
   て、杼の実ひとつおくらる、年の
   暮迄うしなはず、かざりにやせむ
   とて
 としのくれ杼の実一つころころと 荷兮

 芭蕉の貞享五年秋の『更科紀行』の旅のお土産の杼(とち)の実で、芭蕉も、

 木曾のとち浮世の人のみやげ哉  芭蕉

の句を詠んでいる。元禄二年春の「水仙は」の巻二十六句目にも、

   語つつ萩さく秋の悲しさを
 陀袋さがす木曾の橡の実     路通

の句がある。
 ただ、この旅のあと、芭蕉は越人を連れて江戸に行くので、そのあと越人が名古屋に帰った時に受け取ったのであろう。受け取った頃には既にその年も暮れようとしていた。
 荷兮としては、どう扱っていいのか困惑して、とりあえず句にしたという所か。

 門松をうりて蛤一荷ひ      内習

 蛤は夫婦和合の縁起のいいものとして、正月の吸物に用いられていた。百姓は山から松を取ってきて売り、その金で蛤を買って帰る。
 その一方で蛤を売って、松を買って帰る人もいるわけだ。そうやって経済というのは成り立つ。

 田作に鼠追ふよの寒さ哉     亀洞

 田作りはウィキペディアに、

 「田作りという名称は、イワシが豊漁で、余ったものを田に埋めて処理した時に米が豊作となったのが始まり。
 田畑の高級肥料としてイワシが使われていた事から豊作を願って食べられた。」

とある。カタクチイワシを幼魚を干したものを醤油、みりんなどで煮る。「ごまめ」ともいう。
 カタクチイワシの幼魚の干物は煮干しとか入りことか言われるもので、だしを取るのに用いられるが、イワシ自体が大漁に獲れて肥料にするくらいのものだから、それほど高価ではなく、鼠がちょろちょろしているような侘し気な年の暮れにも、田作りはふさわしいものだったのだろう。
 これより後の句だが、

 田作りの口で鳴きけり猫の恋   許六

の句がある。猫がいれば鼠を追っ払ってくれそうだが、その分猫が田作りを食うことになる。
 というわけで、良いお年を。

2021年12月29日水曜日

 去年のこの日の東京のコロナ新規感染者数は694人。今日は76人。じわじわと増えていて、来年の三桁は間違いない。
 ただ、ワクチン接種が終わっていて、もうすぐ重症化を防ぐ飲み薬も承認されるだろう。特に感染が急拡大したら急ぐに違いない。デルタ株からオミクロン株に置き換わるなら重症化率がさらに下がる。
 来年の一番の見所は、フェーズが変わっているにもかかわらず、今年の初めの感覚のままの人達がどう動くかだ。
 多分この人達は去年は新型コロナの危険性の認識の遅れた人たちではないかと思う。すべてにおいてワンテンポ遅れの人達はどんな局面でも必ずいる。愛をもって見守ろう。
 あと、「から風や」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 今年も残すところ僅か。今日は発句で、『阿羅野』の雪二十句を読んでみようと思う。

   大津にて
 雪の日や船頭どのの顔の色    其角

 相変わらず其角の句はわかりにくい。
 大津で船頭と言えば、大津石場から草津矢橋を繋ぐ矢橋の渡しであろう。
 東海道で琵琶湖を越えるには矢橋の渡しを舟で行くか、それより南の瀬田の唐橋を渡るかに分かれていた。

 もののふの矢橋の船は速かれど
     急がば廻れ瀬田の長橋
              宗長法師

の歌があるように、船は天候に左右されるので瀬田の唐橋を渡った方が確実だった。
 その意味では、雪の日はみんな瀬田の唐橋の方へ迂回したのだろう。船頭殿の暇そうな顔が浮かんでくる。あるいは昼間から酒飲んで顔が赤かったか。

 いざゆかむ雪見にころぶ所まで  芭蕉

 雪見はしたいが、雪道は危なくて転んで怪我をすることもある。それでも転ぶところまでは行ってみたい。
 この句は後に

 いざさらば雪見にころぶ所まで  芭蕉

に改作されている。これだと、旅立ちの離別の句になる。雪だろうと転ぶところまでどこまでも旅を続けるんだ、という決意が込められていて、単に転ぶだけでなく、たとえ死んでもという思いが込められている。
 元禄四年の十一月、芭蕉が上方から江戸に行ったとき、

 ともかくもならでや雪の枯尾花  芭蕉

の句を詠んでいる。転ばずに済んだようだ。

 竹の雪落て夜るなく雀かな    塵交

 雀というと竹薮が雀のお宿と言われている。管理された竹林ではなく、笹が密集して生えているところなど、隠れられるところがあるというのが雀にとって大事で、最近は薮が減少しているため、雀の数も減っている。
 その竹薮に潜んでいた雀も、夜に雪が落ちてくると慌てて飛び回り、夜でもちゅんちゅんちゅんちゅんと鳴く声が聞こえる。

 かさなるや雪のある山只の山   加生

 加生は『猿蓑』などでは「凡兆」の名で知られている。ただ、加生と呼ばれることの方が多かったようだ。
 「雪のある山のかさなるや、只の山(なれど)」であろう。
 雪で真っ白になった山が幾重にも重なっていると、どれもみんな美しく、只の山でもみんな名山に見える。

 車道雪なき冬のあしたかな    小春

 荷車、大八車などの早朝から行き交う道は、そこだけ除雪されている。
 「雪なき」がいわゆるマイナー・イメージになって、道以外はどこも真っ白というのが含蓄されている。
 荷車というと西鶴の『男色大鏡』「この道にいろはにほへと」に、「都は地車(ぢぐるま)のひびき、天秤の音さへ物のかしましきに」とあるから、ステアリングのない四輪車もかなり使われていたのかもしれない。曲がる時には梃子を使って片側を持ち上げて曲がる。

 はつ雪を見てから顔を洗けり   越人

 冬の朝の洗顔は冷たいだろうと思うのだが、多分火にかけてぬるま湯にしてから顔を洗うので、「はつ雪を見てから」になるのだろう。その間に雪景色を心行くまで眺める。

 はつ雪に戸明ぬ留守の庵かな   是幸

 雪が降れば、風流人ならみんな雪見をするために戸を開ける。戸が閉まっている庵があったなら、それは留守なんだろう。

 ものかげのふらぬも雪の一つ哉  松芳

 まあ、一面の雪景色とは言っても、物陰には雪のない所もある。これもマイナー・イメージの句と言っていいのか。

 くらき夜に物陰見たり雪の隅   二水

 前句とセットになったような句で、これ一句だとわかりにくいから、あえて松芳の句を並べたのであろう。
 雪が降ると外は白く光って見えるが、暗い所があれば、それは物陰で雪のない所だ。

 雪降て馬屋にはいる雀かな    鳧仙

 雪が降ると雀も馬屋で雨宿りならぬ雪宿りをする。雀にも宗祇の「世にふるも」の心があるのか。

 夜の雪おとさぬやうに枝折らん  除風

 枝に雪が積もると、夜中にそれが落ちて音を立って睡眠の妨げになる。雪が落ちないようにあらかじめ枝を折っておきたい。
 「らん」と結んでいるように、本当に折ったというわけでない。せっかくの良い枝ぶりの庭の木は、「折りたくもあり、折りたくもなし」であろう。

 ゆきの日や川筋ばかりほそぼそと 鷺汀

 野や畑に一面雪が積もっても、川のある所だけ一筋雪がない。墨絵を書く時の発想か。

 初雪やおしにぎる手の奇麗也   傘下

 初雪が降ったので、それを手に取ってそっと押し握る。汚れなき綺麗な雪がそこにある。

 雪の江の大舟よりは小舟かな   芳川

 画題の瀟湘八景には「江天暮雪」というのがあるが、絵に描くなら大きな船ではなく、小舟が風情がある。

 雪の朝から鮭わくる声高し    冬文

 雪の港であろう。から鮭は蝦夷から北前船で若狭に一度上がり、そのあと陸路で琵琶湖の北に運ばれ、そこから船で大津に陸揚げされる。
 寒さに負けない活気ある港の風景とする。

 雪の暮猶さやけしや鷹の声    桂夕

 雪の光で夕暮れでもまだ明るい。そんな中を鷹の声がする。

 ちらちらや泡雪かかる酒強飯   荷兮

 酒強飯(さかこはひ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「酒強飯」の解説」に、

 「〘名〙 (「こわい」は「こわいい」の変化した語) 酒を造るために、甑(こしき)で蒸した精白米。冬期、米を水に漬けておいてから蒸す。
  ※俳諧・曠野(1689)一「ちらちらや淡雪かかる酒強飯〈荷兮〉」

とある。酒を仕込むために蒸した強飯をいう。
 冬は酒の仕込みの季節でもある。

 はつ雪や先草履にて隣まで    路通

 初雪で雪見にといっても、芭蕉さんのように転ぶ所まで行くのではなく、まずは隣まで。草鞋を履く程のこともなく、草履で出かける。

 はかられじ雪の見所有り所    野水

 雪が降るとどこも景色が良いので、特別な名所でなくても見所がある。

 舟かけていくかふれども海の雪  芳川

 海の雪は琵琶湖の雪であろう。湖の上には雪は積らないので、何日降っても景色は変わらない。
 だからと言ってつまらないというものではなく、何日降っても変らず風情がある。
 雪の徳は特別な名所を必要としないし、特別な時間もないというところで、どこに居ても雪が降れば見る所はある。それがこの雪十句の出した結論と言えよう。

2021年12月28日火曜日

 晴れた寒い日が続く。今日は早咲きの紅梅が咲いているのを見た。
 ハイデガーは現存在の非本来性の生き方をDas Manと呼んだが、ゲーム的に言えばNPCだね。決められたプログラムに従って行動する生き方。特定の宗教や思想を学習し、それに忠実に生きようとする人はNPCみたいなものではないか。
 この考え方は「真理の本質は自由である」ということが基礎にあるから、その自由を放棄して機械的に動こうとする人は「非本来的」ということになる。
 ただ、日本の社会は一つの教義や理念で動いているのではなく、重層的な習慣の体系で動いていて、そこに人情の働く余地があるから、非本来的であってもNPCのようにはならない。 和辻はそれをわかっていたから、あえて本来性と非本来性を転倒させたのだろう。ハイデッガーのいう本来性は日本だと、「離俗」のイメージを与えてしまうが、「市隠」という仕方で市井にあっても本来的に生きることはそう難しくない。

 去年もこの日に今まで読んだ俳諧・連歌の一覧を乗せたから、今日は今年一年の一覧を乗せておこうと思う。日付のないのは直接「鈴呂屋書庫」にアップした分。

 一月十一日から一月十四日まで「笠寺や」の巻
  「磨なをす」の巻
 「稲葉山」の巻
 一月十五日から一月十六日まで「旅人と(雪の笠)」の巻
 「ためつけて」の巻
 一月十七日から一月二十日まで「箱根越す」の巻
 一月二十一日から一月二十二日まで「たび寐よし」の巻
 一月二十三日から一月二十六日まで「冬景や」の巻
 「時は秋」の巻
 「花に遊ぶ」の巻
 「久かたや」の巻
 「花咲て」の巻
 「蜻蛉の」の巻
 一月二十七日から二月三日まで「あら何共なや」の巻
 二月四日から二月七日まで「わすれ草」の巻
 「何とはなしに」の巻
 「つくづくと」の巻
 二月八日から二月十一日まで「塩にしても」の巻
 「ほととぎす」の巻
 「牡丹蘂深く」の巻
 「凉さの」の巻
 「師の桜」の巻
 「はつ雪の」の巻
 「つつみかねて」の巻
 「炭売の」の巻
 「梅の風」の巻
 三月四日から三月七日まで「衣装して」の巻
 三月八日から三月十日まで「かげろふの」の巻
 「時節嘸」の巻
 「さぞな都」の巻
 「物の名も」の巻
 「色付や」の巻
 「のまれけり」の巻
 三月二十九日から三月三十一日まで「春めくや」の巻
 「青葉より」の巻
 四月三日から四月五日まで「なら坂や」の巻
 四月六日から四月八日まで「蛙のみ」の巻
 「須磨ぞ秋」の巻
 「見渡せば」の巻
 「春澄にとへ」の巻
 「世に有て」の巻
 「錦どる」の巻
 「花にうき世」の巻
 四月二十五日から四月二十七日まで「いろいろの」の巻
 四月二十八日から四月三十日まで「疇道や」の巻
 「飽やことし」の巻
 五月一日から五月三日まで「亀の甲」の巻
 「故艸」の巻
 「夏馬の遅行」の巻
 五月四日から五月六日まで「何の木の」の巻
 五月七日から五月八日まで「紙衣の」の巻
 「皷子花の」の巻
 「蓮池の」の巻
 「初秋は」の巻
 五月九日から五月十一日まで「麦をわすれ」の巻
 「粟稗に」の巻
 「しら菊に」の巻
 「月出ば」の巻
 「其かたち」の巻
 「雪の夜は」の巻
 「雪ごとに」の巻
 「すずしさを」の巻
 「おきふしの」の巻
 「御尋に」の巻
 「星今宵」の巻
 「野あらしに」の巻
 「いざ子ども」の巻
 「とりどりの」の巻
 「霜に今」の巻
 六月二十八日から六月三十日まで「三味線に」の巻
 「暁や」の巻
 「鶯の」の巻
 「日を負て」の巻
 「種芋や」の巻
 七月十三日から七月十六日まで「夕㒵や」の巻
 「秋立て」の巻
 「白髪ぬく」の巻
 「ひき起す」の巻
 七月十七日から七月二十日まで「夏の夜や」の巻
 「蠅ならぶ」の巻
 「御明の」の巻
 「うるはしき」の巻
 「もらぬほど」の巻
 七月二十一日から七月二十三日まで「ひらひらと」の巻
 「其にほひ」の巻
 八月十日から八月十二日まで「朝顔や」の巻
 八月十三日から八月十五日まで「初茸や」の巻
 「此里は」の巻
 「鶯や」の巻
 八月十六日から八月十八日まで「帷子は」の巻
 「両の手に」の巻
 「苅かぶや」の巻
 八月十九日から八月二十日まで「残る蚊や」の巻
 八月二十二日「松茸や(都)」の巻
 八月二十三日から八月二十五日まで「つぶつぶと」の巻
 「口切に」の巻
 「月代を」の巻
 八月二十六日から八月二十八日まで「松茸や(知)」の巻
 九月一日から九月三日まで「升買て」の巻
 九月五日から九月七日まで「秋もはや」の巻
 「水鳥よ」の巻
 「打よりて」の巻
 「木枯しに」の巻
 九月十一日から九月十三日まで「いざよひは」の巻
 九月十四日から九月十六日まで「重々と」の巻
 「蒟蒻に」の巻
 九月十七日から九月十九日まで「我や来ぬ」の巻
 「風流の(誠)」の巻
 「篠の露」の巻
 九月二十日から九月二十二日まで「土-船諷棹」の巻
 「其富士や」の巻
 「芹焼や」の巻
 「後風」の巻
 九月二十六日から九月二十八日まで「落着に」の巻
 「いさみたつ(霰)」の巻
 九月二十九日から九月三十日まで「我もらじ」の巻
 「いさみたつ(嵐)」の巻
 「寒菊や」の巻
 「雪や散る」の巻
 「生ながら」の巻
 十月八日から十月十一日まで「八人や」の巻
 「新麦は」の巻
 「世は旅に」の巻
 「田螺とられて」の巻
 「月と泣」の巻
 十月十七日から十月十九日まで「狂句こがらし」の巻のやり直し
 「水鶏啼と」の巻
 「霜冴て」の巻
 十一月二十六日から十二月二日まで「なきがらを」の巻
 十二月五日から十二月八日まで「白川百韻」
 十二月十六日から十二月十八日まで「初雪や」の巻
 十二月十九日から十二月二十一日まで「一里の」の巻
 十二月二十五日から十二月二十七日まで「から風や」の巻

2021年12月27日月曜日

 そういえば鈴呂屋書庫の古典文学関係のところに、

 「忘れてしまったのかい
 俺たちは突然この世に現れ 去って行かねばならない旅人じゃないか」

と書いていたが、今もこの生きている意識がどこから来たのかはわからない。前世があったとしてもその記憶がない。ということは皆前世の記憶がないというだけで、実はみんな異世界転生者なのではないか。
 多分人が異世界転生というテーマに惹かれるのも、この人生がそもそも突然この世界に投げ込まれたところから始まっているからではないのか。
 カミュは『シジフォスの神話』の中で、

 「たとえ理由づけがまちがっていようと、とにかく説明できる世界は、親しみやすい世界だ。だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分をエトランジェ(異邦人)と感じる。」

と言っている。このエトランジェは今なら転生者と訳しても良いのではないか。
 生まれてから慣れ親しんで習慣化している世界が、ある時不条理に満ちた、自分を寄せ付けない、異質なものに思えた時、人は異世界転生者のようなものではないか。
 ならば、カフカの『変身』は「転生したら毒虫だった件」と訳しても良いのではないか。『城』は完全に異世界に迷い込んだ測量士Kの物語だ。
 突然放り込まれた世界で自分の居場所を見つけてゆく物語は、奇妙な空想ではなく、いつでも我々の現実だ。
 人は生まれてきた時に、王子様に生まれる人もいれば田舎の片隅の農家に生まれる人もいる。それを選ぶことはできない。それはよくわからない神様か運営が決めるようなものだ。人生は最初の瞬間からガチャだ。
 スキルについても稀にチート級の「天才」に生まれることもあるが、ほとんどの人間はモブとして生まれる。
 そういうわけで異世界転生ものを読めば読むほど、気分は高校生の時にカミュやカフカに出会ったあの頃に戻って行く。
 江戸時代の人だったら「旅人」と呼び、戦後の人だったら「異邦人」と呼ぶ。それが今「転生者」になっただけで、きっと人間というのは変わらない。それが不易なんだろうな。

 それでは「から風や」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目。

   芦穂の中をのぼる新三
 ひとしきりしづめて渡る鴛の声  路通

 オシドリはウィキペディアに、

 「日本では北海道や本州中部以北で繁殖し、冬季になると本州以南(主に西日本)へ南下し越冬する。オシドリは一般的に漂鳥であるが、冬鳥のように冬期に国外から渡って来ることもある。」

とある。渡ってきたオシドリを芦穂の新参とする。
 オシドリは今はここでは秋として扱われている。
 二十六句目。

   ひとしきりしづめて渡る鴛の声
 身肉を分し子に縁をくむ     路通

 身肉はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「身肉」の解説」に、

 「み‐しし【身肉】
  〘名〙 からだ。身。
  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)一七「鹿を つまこひにさこそやつれん身ししかな〈雲〉」

とある。オシドリが鴛鴦夫婦と呼ばれるように、仲のいい夫婦の象徴として用いられる。子供にも良縁を組む。
 二十七句目。

   身肉を分し子に縁をくむ
 人しれや白髪天窓に神いじり   知足

 「白髪天窓」は「しらがあたま」と読む。
 「神いじり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「神弄」の解説」に、

 「〘名〙 誠の信心からではなく、みえや形式だけで神参りすることをとがめていう語。神いびり。神せせり。神なぶり。
  ※歌舞伎・阿国御前化粧鏡(1809)序幕「小さん坊、無性やたらに、お百度お百度と、神いぢりも大概にするがよい」

とある。
 咎めてにはの句だが、前句の実の子の縁組に、人はすぐ歳を取るから早く結婚して親を助けよということと、形だけの神への誓いをするな、ということか。
 二十八句目。

   人しれや白髪天窓に神いじり
 夢見たやうな情わすれぬ     知足

 咎めてにはの後は、咎める言葉に同意するように付けるのが普通だ。
 白髪頭になっても若い頃の情を失ってはいない。人がすぐに歳を取ることと、神に誓ったことをおろそかにしていないということを守った、というふうに展開する。
 二十九句目。

   夢見たやうな情わすれぬ
 四條より結句糺のゆふ涼     路通

 結句は漢詩の最後の句で、連歌や俳諧の挙句と同じように、その結果、挙句の果て、の意味で用いられる。
 四条河原の夕涼みは有名で、多くの人でにぎわった。そのまま夢見心地に賀茂川を歩きいつの間にか下賀茂神社の糺の夕涼みになってしまった。糺も夕涼みの名所だった。
 三十句目。

   四條より結句糺のゆふ涼
 もんどりうつて郭公啼      路通

 「もんどりうつ」は宙返りすること。
 糺の森のホトトギスは謡曲『賀茂』に、

 「御手洗の、声も涼しき夏陰や、声も涼しき夏陰や、糺の森の梢より、初音ふり行く時鳥」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.5437-5440). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。ホトトギスの名所だった。
 ただホトトギスを出しても普通だからということで、「もんどりうって」と取り囃す。ホトトギスが宙返りするのではなかろう。
 謡曲『賀茂』のそのあとに、

 「水に浸して涼みとる、涼みとる裳裾を湿す折からに、山河草木動揺して、まのあたりなる別雷(わけいかづち)の、神体来現、し給へり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.5564-5569). Yamatouta e books. Kindle 版. 。
 謡曲『賀茂』のそのあと、)

となる。雷様(わけいかづちの神)がもんどりうって落ちてきて、ホトトギスを聞く。
 二裏、三十一句目。

   もんどりうつて郭公啼
 あの雲をひよつと落ちたる地雷  知足

 ここでは普通に雷が落ちたのにびっくりして、人がもんどりうって倒れ、ホトトギスを聞く。
 三十二句目。

   あの雲をひよつと落ちたる地雷
 おさまつてよむ理趣経の頭    知足

 理趣経はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「理趣経」の解説」に、

 「大乗仏教の最初期の経典。仏の真実の境地に至る道(理趣)を示せる経を意味する。具名(ぐみょう)を『般若(はんにゃ)理趣経』という。また不空(ふくう)訳では、『大楽金剛(だいらくこんごう)不空真実三摩耶(さんまや)経』が具名で、「般若波羅蜜多(はらみった)理趣品(ぼん)」が異名であるとされ、その逆に解釈することもある。後期の『般若経』の一つで、『大般若経』の547巻の「理趣品」の発展形態である。密教経典の一つとしてみれば、第六全の『金剛頂経』の一部(大楽最上経)とも解釈できる。要するに本経は、大乗仏教の極地である「般若=空」の思想が発展の極地に達し、いまや、空より不空、不空真実の境地を示すに至ったと理解すべきものである。空は理念上の境地でなく、実践のすべてを自由無礙(むげ)たらしめる無執着の境地を意味するに至った。ここを示すため、いまやこの経典を示す説法の場は「他化自在天王宮」の中となり、説法の主は薄伽梵毘盧遮那如来(ばがぼんびるしゃなにょらい)となり、すべて従来の現実のインドの舞台を離れて、完全に秘密の仏国土に移っている。徹底した現実肯定の「不空」「大楽」の世界観の背後には、強い自己調伏(ちょうぶく)(降伏(ごうぶく))の道が示されている。本経は、密教の極意を示すものとして真言宗では常に読踊(どくじゅ)される。[金岡秀友]」

とある。
 雷で電光石火悟りを開くというのはあるが、何か閃いて急に理趣経を読んだか。
 三十三句目。

   おさまつてよむ理趣経の頭
 天井は生てはたらく古法眼    路通

 古法眼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「古法眼」の解説」に、

 「〘名〙 父子ともに法眼に補せられた時、その区別をするために父をさしていう称。特に狩野元信をいう。
  ※俳諧・信徳十百韻(1675)「机の朱筆月ぞ照そふ 古法眼したふながれの末の秋」

とある。
 この場合の天井は最高位ということか。法印にはなれなくても、生きているうちに息子が法眼になり古法眼と呼ばれる、ここが天井となる。
 三十四句目。

   天井は生てはたらく古法眼
 翠簾のうちから猫の穿鑿     路通

 翠簾(すいれん)は青い簾。前句の古法眼を天井裏の鼠と間違えたか、猫が狙っているとする。
 三十五句目。

   翠簾のうちから猫の穿鑿
 花盛ぎつしとつまる大芝居    知足

 芝居小屋は超満員で、猫までが中を覗いている。
 挙句。

   花盛ぎつしとつまる大芝居
 旅をせば日の永頂上       執筆

 芝居といえば旅芸人で、花の下での公演は大盛況で、春の長い日の太陽も頂点にある。

2021年12月26日日曜日

 日本の経済が長いこと低迷しているのは確かだが、大事なのは「揶揄」することではない。どうすればそこから抜け出せるかを、考えることだ。
 左翼が作り出すツイッターのトレンドに付和雷同するのではなく、一人一人が自分の体験から考えて行かなくてはならない。
 今の世界には知的リーダーと呼べるものは一人もいない。いるのは有象無象の痴的リーダーだけだ。ピケティは未だに何の解決策も見つけられない。マルガブはただのそこら辺のパヨと一緒だ。トゥンベリは一転突破で視野が狭い。バンクシーは無駄に絵の上手いただの落書き。
 七十年代の終わりにアナーキーというパンクバンドが唄っていたが、「信じられるのは、自分だけなんだよ」って今も状況は一緒だ。ヒーローが現れて何とかしてくれるなんて、そんなことは現実の世界では起こりゃしない。
 来年を良い年にしたかったら、まずアンタが頑張れ。揶揄で世界は良くならない。もっと悪くなるだけだ。

 それでは「から風や」の巻の続き。

 十三句目。

   あくたもくたのせまる物前
 何所となうとりひろげたる中屋敷 知足

 中屋敷はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「中屋敷」の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、上屋敷の控え、または非常の際の避難所としての屋敷。江戸での諸大名の上屋敷には奥方が、中屋敷・下屋敷には多く部屋方(妾)が居住した。〔梅津政景日記‐寛永八年(1631)六月二二日〕」

とある。
 中屋敷で何かあったのか、役に立たない連中が集まってきて取っ散らかっている。
 十四句目。

   何所となうとりひろげたる中屋敷
 土をつくねて獣を焼       路通

 「つくねる」は捏ねるということ。ひき肉を捏ねると「つくね」になる。
 前句を陶芸にはまった人のいる中屋敷とする。十二支など神使となるような動物の像であろう。
 十五句目。

   土をつくねて獣を焼
 冬の月坊主は耳の根がさむい   路通

 「耳の根」は耳のつけ根のこと。鬢の毛がないので耳が寒い。夜を徹して陶芸に励む坊主とする。
 十六句目。

   冬の月坊主は耳の根がさむい
 京への駕籠のをらぬ栗栖野    知足

 栗栖野はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「栗栖野」の解説」に、

 「[一] 京都市北区鷹峰、西賀茂の付近にあった地名。古く皇室の狩猟場だった。御栗栖野(みくるすの)。
  [二] 京都市山科区南部の地名。稲荷山の東すそにあたる。」

とある。[一]だと京の一部なので[二]の方であろう。栗栖野を通るのは奈良街道で、冬になると暖かい奈良の方に移動するということか。
 十七句目。

   京への駕籠のをらぬ栗栖野
 見た事は咄にもなる華の宿    路通

 春の吉野へ行く通り道とする。
 十八句目。

   見た事は咄にもなる華の宿
 夏をこなたに布施紅の咲     路通

 布施紅は牡丹の一種。牡丹は夏の季語だが、宿で見た夏を待たずに咲く布施紅の花は、旅人の土産話になる。
 二表、十九句目。

   夏をこなたに布施紅の咲
 陽炎の金原つづき土肥て     知足

 「金原」は不明。土の肥えた野原なのだろう。布施紅も咲いている。
 ニ十句目。

   陽炎の金原つづき土肥て
 口をたたけば日はしたになる   知足

 肥えた土壌の畑をのんびり耕していて、無駄口を叩いている間に一日が終わる。
 二十一句目。

   口をたたけば日はしたになる
 大やうな御寺の世話も引請る   路通

 お寺の和尚さんものんびりした性格で、そこで仕事を請け負っても、おしゃべりしているうちに日が暮れる。
 二十二句目。

   大やうな御寺の世話も引請る
 福々したる在のとし並      路通

 在は在家のことか。年とっても福々していてお寺の世話を引き受ける。
 二十三句目。

   福々したる在のとし並
 後の月見てから後の十七夜    知足

 「後(のち)の月」は長月の十三夜。金があるのか、十三夜でとどまらずに十七夜まで楽しむ。
 二十四句目。

   後の月見てから後の十七夜
 芦穂の中をのぼる新三      知足

 「新三」は不明。遅れて跡から来たので、月を新参者としたか。

2021年12月25日土曜日

 日本の終身雇用制度が日本特有の様々な問題の元になっていることは、これまでもいろいろと指摘されてきたが、未だに改善されないのは労使双方にそれを守ろうという圧力があるからだ。
 雇う方は会社であれ役所であれ、一生一つの組織に縛り付けることで生殺与奪権を握れるし、無理な要求も解雇された後の再就職が難しければ通し易くなる。
 働いている方も、有休もとれない、サービス残業青天井などの不満はあっても、とりあえず我慢していれば一生安泰というのがあって、むしろそれを奪われるのを恐れている。
 生涯に渡る運命共同体を作ることで、職場は村社会と化して、仕事の効率も上がらないから賃金も上がらない。
 日本の官僚の問題は、省庁をいくら再編したって解決されない。どのように再編しようと、そこにいる人間は一緒だからだ。
 経団連と癒着した政府自民党も、労働組合の票の欲しい左翼政党も、終身雇用制には手を付けたがらない。国際競争力にまで目の行く一部の経営者の意識には、終身雇用制に何とか風穴を開けたいという欲求はあるのだろう。
 リーマンショックで多くの非正規雇用が生じた時が、終身雇用制を壊して行く一つのチャンスだったが、左翼連中は一致して非正規雇用を解消して、全員が終身雇用されることを要求した。
 前にも述べたが、日本の政治の貧困も終身雇用制に原因がある。人材の流動性がほとんどない所で政治家を志す人間は、終身雇用からはみ出たアウトローにすぎない。つまり優秀な人材が企業や官庁に囲い込まれてしまい、政治の世界で力を発揮することができない。官僚から政治家になる人はいるが、官僚の利害の代表するだけなら意味がない。
 人材が流動的でなく、有能な人間が組織に生涯拘束され、飼殺されている。だから日本には有能な人間はたくさんいる。ただ、組織ではそれが生かされないため、オタクになるしかない。
 終身雇用が続く限り、日本の企業の生産性が大きく伸びることはない。生産性が伸びなければ賃金も上がらない。賃金が上がらないから購入能力がないので、慢性的なデフレから抜け出せない。国がいくら金をばら撒いても、終身雇用による長時間低賃金労働の地獄から抜け出せないなら、金は消費に回らない。
 あれだけ華やかな財政出動の金がどこに消えたかと言えば、おそらく海外の投資家だ。株価が上がったのだから、日本人が株を買っていれば、十分その恩恵が受けられた。日本人の投資への参加を妨害しているのは誰だったか。
 根本的な問題は、どこまでも終身雇用を守ろうとする労使両方の勢力にある。終身雇用のまま日本が社会主義化したら、もっと悲惨なことになるのは目に見えている。
 せっかくの「新しい資本主義」も、終身雇用制に風穴を開けるだけの勇気があるかどうか、そこが問われている。

 それでは引き続き冬の俳諧を。
 継は知足編の『千鳥掛』から、知足・路通両吟歌仙の「から風や」の巻を見て行こうと思う。
 発句は、

 から風や吹ほど吹て霜白し    知足

 意味はそのまんまの意味で、空っ風が連日吹いて、今日も真っ白に霜が降りる寒い日ですね、という季候の挨拶になる。名古屋近辺は伊吹颪と呼ばれる空っ風が吹く。
 脇は、

   から風や吹ほど吹て霜白し
 すくんだやうな冬の簑鷺     路通

 簑鷺は蓑毛の生えた鷺という意味だろう。首の下の所から長くのびる羽を蓑毛(蓑羽)という。
 寒そうに首をすくめているサギは、どこか簑を着た人間のように見える。
 発句の季候に水辺の景を付ける。
 第三。

   すくんだやうな冬の簑鷺
 生魚のすくなひ折は客の来て   路通

 生魚は「いきうを」か。干物に対しての鮮魚であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生魚」の解説」にはいろいろな読み方が載っている。

 「いけ‐うお ‥うを【生魚】
 〘名〙 (「いけ」は生かしておく意の「いける」から) 食用のために生簀(いけす)などで飼ってある魚。いきうお。
  ※摂津名所図会(1796‐98)八「兵庫生洲〈略〉諸魚を多く放生(はなちいけ)て常に貯ふ、これを兵庫の生魚(イケウヲ)と云ふ」
  せい‐ぎょ【生魚】
  〘名〙
  ① 生きている魚。
  ※名語記(1275)六「生魚等にもゆひたりといへる詞ある歟」 〔荀子‐礼論〕
  ② 新鮮な魚。なまざかな。鮮魚。
  ※春日社記録‐中臣祐賢記・弘安三年(1280)五月一九日「凡当庄神人致二生魚売買之業一」
  なま‐うお ‥うを【生魚】
  〘名〙 なまの魚。煮たり焼いたりなどしていない魚。なまいお。なまざかな。
  ※源平盛衰記(14C前)一〇「僧形として、生魚(ナマウヲ)を手に把たる心うさよ」
いき‐うお ‥うを【生魚】
  〘名〙
  ① 生きている魚。
  ※俳諧・西鶴大句数(1677)二「生魚を我手にかけてまな板に 四五人つかへと役にたたすしや」
  ② =いけうお(生魚)
  なま‐いお ‥いを【生魚】
  〘名〙 =なまうお(生魚)
  ※御伽草子・二十四孝(室町末)「なまいをの鱠(なます)をほしく思へり」
  いき‐ざかな【生魚】
  〘名〙 =いきうお(生魚)」

 お客さんが来ても新鮮な魚でもてなすことができないくらい困窮していて、部屋で簑鷺のように首をすくめて、僅かな火に暖を取っている。
 四句目。

   生魚のすくなひ折は客の来て
 小ぐらい月を無機嫌でみる    知足

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「不機嫌」の解説」に、

 「〘名〙 (形動) (「ぶきげん」とも。その場合「無機嫌」とも表記) 機嫌の悪いこと。また、そのさま。
  ※玉塵抄(1563)三八「帝のぶきげんにいらをむたぞ」

とあるから、この場合の無機嫌は「ぶきげん」であろう。
 月も薄雲がかかって暗く、それに鮮魚もなければ客も不機嫌になる。
 五句目。

   小ぐらい月を無機嫌でみる
 新綿を蒲団にいるる下リ前    知足

 「下り前」はよくわからない。布団を目下の人に下げる前に、綿を入れ直すということか。
 六句目。

   新綿を蒲団にいるる下リ前
 碪をもつと遠う聞たき      路通

 布団の綿を自分の家で入れるような家だから、砧もいつも自分の家で打つのがすぐそばで聞こえる。遠くから聞えて来る砧なら漢詩や和歌の風情もあるが。
 初裏、七句目。

   碪をもつと遠う聞たき
 色艶もつけぬ浮世の楽をする   路通

 貧しければ貧しいなりに、質素な生活をすれば楽ができる。前句の砧を遠くで聞きたいというのを、旅への思いとする。
 八句目。

   色艶もつけぬ浮世の楽をする
 山の中でもはやる念仏      知足

 前句を山の中での僧の隠棲とする。念仏を広めている。
 九句目。

   山の中でもはやる念仏
 しら雲の下に芳し花樗      知足

 樗(あうち)はセンダンの古名。
 念仏の有難さにセンダンの薫りを添える。
 十句目。

   しら雲の下に芳し花樗
 きめよき顔に薄化粧する     路通

 「きめ」は「きめ細かい」という時の「きめ」で、「きめよき」は肌がすべすべして状態の良いことを言う。地肌が良ければ厚化粧する必要もない。
 前句の「芳し花樗」を美女の比喩とする。
 十一句目。

   きめよき顔に薄化粧する
 哀さをためて書たる文の来る   路通

 「哀さをためて」は悲しみを募らせという意味だろう。
 美人は美人でいろいろな止むこともある。
 十二句目。

   哀さをためて書たる文の来る
 あくたもくたのせまる物前    知足

 「あくたもくた」は役に立たないもののこと。「物前」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「物前・武前」の解説」に、

 「① いくさのはじまる直前。
  ※上杉年譜‐四九・元和四年(1618)七月一三日・上杉景勝条書「於二武前(モノマヘ)一御用相達候様、不断稽古肝要之事」
  ※三河物語(1626頃)一「小軍が大軍にかさを被レ懸、其に寎(おどろき)て武ば、物前(ものマヱ)にてせいがぬくる者成」
  ② 正月・盆・節供などの前。物日の前。節季の前。行事の準備や掛買の支払・決算などの時期に当たる。
  ※俳諧・独吟一日千句(1675)第二「三分一とてとるこがね川 物前や水のごとくにすますらん」
  ※滑稽本・麻疹戯言(1803)麻疹与海鹿之弁「節前(モノマヘ)の心機(やりくり)も、なく子と病に勝れねど」
  ③ 江戸時代、遊郭の紋日の前。
  ※評判記・色道大鏡(1678)二「物前(モノマヘ)ちかくなりて口舌する事なかれ」

とある。恋の句の文脈なら③の意味であろう。
 紋日の前になるとろくでもない男たちが群がってきて、何とか本命に来てもらいたいと文を書く。

2021年12月24日金曜日

 はぴほりー。
 何か毎日がホリデーになってしまって、あまり実感ないけど、やはり一年働いて、年末の疲れ切ったところで忙しさのピークが来て、そんなところでクリスマスというのに慣れてしまっていたから、何か変な感じだ。でも、来年は働いているかも。
 今日働いてた人はお疲れ様。渋滞も今日がピークだったと思う。
 あと、こやん源氏の澪標巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「飽やことし」の巻の続き。挙句まで。

 二十五句目。

   ねみだれかもじ虵と成夢
 笛による骸骨何をその情     其角

 情は「ココロ」とルビがふってある。
 古語の「こころ」は今の日本語よりも意味が広く、情の字を当てる場合もあれば意の字を当てることもある。今日でいう「意味」も「こころ」に含まれるから、「心付け」という場合も意味が通るように付けるという意味になる。
 古い「こころ」の用法は謎掛の時に「その心は?」という時に残っている。
 謎掛の場合も「それってどういう意味?」という聞き返しで、デジタル大辞泉の例題にある、「浦島太郎の玉手箱と掛けて、大みそかと解く」だと玉出箱と大晦日にどういう関係があるんだ?と聞き返す時に「こころは?」と用いる。答えは「あけると年をとる」となる。
 其角の句も笛に骸骨が寄ってくる、どうしてだ?という謎掛で、下句がその答えになる。
 「夜口笛を吹くと蛇が来る」という諺がある。「よる」は寄ると夜に掛っている。寝乱れたかもじが顔に掛るのが夢でアレンジされて蛇の夢を見るなら、寝ている本体の方は夢では蛇に焼かれて骸骨になっている。そういう意味になる。
 其角といえば、

 夢となりし骸骨踊る荻の声    其角

の発句が延宝の頃の『田舎之句合』にある。
 二十六句目。

   笛による骸骨何をその情
 風そよ夕べ切籠灯の記      李下

 切篭灯(きりことう)は切子灯籠のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「盆灯籠の一種で、灯袋(ひぶくろ)が立方体の各角を切り落とした形の吊(つ)り灯籠。灯袋の枠に白紙を張り、底の四辺から透(すかし)模様や六字名号(ろくじみょうごう)(南無阿弥陀仏)などを入れた幅広の幡(はた)を下げたもの。灯袋の四方の角にボタンやレンゲの造花をつけ、細長い白紙を数枚ずつ下げることもある。点灯には、中に油皿を置いて種油を注ぎ、灯心を立てた。お盆に灯籠を点ずることは『明月記(めいげつき)』(鎌倉時代初期)などにあり、『円光(えんこう)大師絵伝』には切子灯籠と同形のものがみえている。江戸時代には『和漢三才図会』(1713)に切子灯籠があり、庶民の間でも一般化していたことがわかるが、その後しだいに盆提灯に変わっていった。ただし現在でも、各地の寺院や天竜川流域などの盆踊り、念仏踊りには切子灯籠が用いられ、香川県にはこれをつくる人がいる。[小川直之]」

とある。
 前句の骸骨をお盆の夜の切篭灯に導かれて帰ってきたご先祖様とする。生前笛を好んだ人だったのだろう。最後に「記」とつけることで、実はそういう物語があった、ということにする。
 二十七句目。

   風そよ夕べ切籠灯の記
 酔はらふ冷茶は秋のむかしにて  其角

 酔い覚ましに冷茶を飲んで思い出すのは、昔秋の夜の風そよぐ夕べに記した「切篭灯の記」のことだ。
 冷茶は今のような冷した茶ではなく、さめて冷たくなったお茶のことであろう。冷蔵庫はなかったし、氷も高価だった。
 二十八句目。

   酔はらふ冷茶は秋のむかしにて
 こぬ夜の格子鴫を憐レム     李下

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 暁の鴫の羽根掻きももはがき
     君が来ぬ夜は吾ぞ数かく
              よみ人しらず(古今集)

の歌を引いている。
 ともに酒を酌み交わし朝には冷茶を飲んで酔いを醒ましたのは昔のことで、今は格子の向こうで羽根掻きをしている鴫に、一人残された自分と同じだとしみじみと思う。
 二十九句目。

   こぬ夜の格子鴫を憐レム
 名月の前は泪にくもりつつ    其角

 名月の夜が近いというのにあの人が来ないものだから、月は澄んでも涙で曇るばかりだ。前句の鴫への共感に付く。
 三十句目。

   名月の前は泪にくもりつつ
 金-橙-徑に粕がみを思ふ     李下

 金-橙-徑は『校本芭蕉全集 第三巻』の補注に蘇軾の「和文与可洋州園池三十首金橙徑」とある。「中國哲學書電子化計劃」から引用する。

   和文與可洋川園池三十首·金橙徑 蘇軾
 金橙縱複裏人知 不見鱸魚價自低
 須是松江煙雨裏 小船燒薤搗香齏

 金の橙の欲しいままに重なる裏を人は知る。
 鱸魚は見ることなく価格も自ずと低い。
 松江にこれを求めても雨にけぶる中。
 小船はラッキョウを焼き、搗いて砕く香りがする。

 「金橙縱複裏人知」は维基文库では「金橙縱復里人知」になっている。
 参考までに。

   洋州三十景·金橙徑 鮮於侁
 遠分稂下美 移植使君園
 何人為修貢 佳味上雕盤

 橙は日本ではダイダイと読むが、金橙も柑橘類なのだろう。鱸魚は日本ではスズキだが、漢詩に出て来る松江鱸魚はヤマノカミのことだという。魚はスダチやカボスをかけて食べるが、あくまで主役は魚で、柑橘ばかりがあっても肝心の魚がいないなら興も醒める。
 今の世もこれと同じで、引き立て役のおべっか使いばかり沢山いて、君主がいないということか。
 粕もまた魚を漬けてこそ価値があるということで、君子の器でなく、あくまで臣下の器だということを嘆いて月も涙で曇る。
 二裏、三十一句目。

   金-橙-徑に粕がみを思ふ
 葉生姜を世捨ぬやつにたとへけん 李下

 葉生姜も甘酢漬けにして魚に添える薬味になるので、世を捨てることもなく偉い奴にへばりついてる、ということか。
 三十二句目。

   葉生姜を世捨ぬやつにたとへけん
 摺鉢かぶる艸-堂の霜       其角

 葉生姜は世を捨ててなくて魚と仲良くしているが、生姜は世を捨てた人の鉢で摺り下ろされて、草堂の霜になる。
 三十三句目。

   摺鉢かぶる艸-堂の霜
 寸ン法師切レの衣のみじかきに  芭蕉

 ここで芭蕉さんが登場する。あるいは執筆をやりながら二人を見守っていたか。
 寸法師は御伽草子の一寸法師か。短い布(きれ)の衣に擂鉢を被る。あいかわらず突飛な発想をする。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には、擂鉢などを被ると背が伸びないという俗信があるという。
 三十四句目。

   寸ン法師切レの衣のみじかきに
 昔を力ム卒塔婆大小       李下

 前句の寸法師を普通に背の低い法師とし、昔は武将だったといっては大小の卒塔婆を大小の刀のように腰に差す。
 「力ム」はコトバンクの「デジタル大辞泉「力む」の解説」に、

 「1 からだに力を入れる。息をつめて力をこめる。いきむ。「バーベルを持ち上げようと—・む」
  2 力のあるようなふりをする。強がってみせる。「腕まくりをして—・んでみせる」
  3 うまくやろうと気負う。「—・まないでテストに臨む」

とある。2の意味であろう。
 三十五句目。

   昔を力ム卒塔婆大小
 俤の多門を見せよ花の雲     其角

 多門(たもん)は「コトバンクの精選版 日本国語大辞典「多門・多聞」の解説」に、

 「① 城の石垣の上に築いた長屋造りの建物。城壁のはたらきをもたせ、倉庫などに用いた。永祿一〇年(一五六七)、松永久秀が大和国(奈良県)佐保山に築いた多聞城ではじめてつくられたという。多聞櫓。
  ※信長公記(1598)七「辰剋御蔵開き候訖。彼名香長六尺の長持に納、これあり。則多門へ持参致し」
  ② 本宅の周囲に建築した長屋。
  ※大和事始(1683)一「今世宅外の長屋を多門(タモン)と云」
  ③ 江戸城中の御殿女中がつかった下婢。長局が狭いので、御切戸御門内、多門②のところへこれらの女達を置き、用事のあるときに「多門、多門」と呼んだところからの名という。御端(おはした)。
  ※雑俳・柳多留‐二八(1799)「張形は早松の味と多門しゃれ」」

とある。
 前句を既に卒塔婆になった昔の武将とし、雲のように花の咲く石垣の上の荒城に昔の城の姿を見せてくれよ、と思う。近代の唱歌「荒城の月」にも受け継がれている趣向だ。
 挙句。

   俤の多門を見せよ花の雲
 凡夫三百人の春風        其角

 今花見をしているの三百人の一般庶民だ。それはそれで平和で盛り上がっててお目出度い、ということで一巻は目出度く終わる。

2021年12月23日木曜日

 オミクロン株は病院で治療が必要になる人の割合が推定値で30%から70%くらい少ないというのが、BBCの報道にあった。これは大方予想されてたことだろう。
 あとはもう一つの懸念で、率は少なくても感染者数が多ければ医療機関を圧迫するというものだ。夏の第五波の1.5倍の感染者が出れば日本も危ない。一日四万人を越えたらアウトかもしれない。
 ただ、最初の南アフリカがすでにピークアウトしているようだし、危機感が高まればどこの国でも自発的に行動を抑制するだろうから、それほど心配することはない。反ワクや差別ガーのデマに惑わされないことが大事だ。
 日本は他所の国に比べて危機感の沸点が低いから安心していい。
 あと、「初雪や」の巻「一里の」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「飽やことし」の巻の続き。
 十三句目。

   士峯の雲を望む加賀殿
 杣めして國に千曳の鏡刻     李下

 杣を召すのだから、このばあいは杣木を伐り出す人のことであろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「杣」の解説」に、

 「林木の茂る山、木材採取の山の意から転じて、伐木作業、さらには伐採、造材に働く「杣人(そまびと)」の名称ともなった。古代文献にみえる「杣」はおもに寺社・宮殿の用材伐採地で(玉滝杣、田上杣、甲賀杣など)、のちにそれらは伐採従事の農民を含めた一種の荘園(しょうえん)ともなっていった。しかし中世以後は杣人(木こり)の意に多く用いられて造材職人の主体とみられ、運材夫(日用(ひよう))、造材夫(木挽(こびき))に対し、伐採職人をおもにさすようになる。この三者の分業はすでに近世初期には一般化していた。大山林の伐採にあたる「杣夫(そまふ)」は、杣頭(そまがしら)(庄屋(しょうや))に統率された作業組をつくり、帳付(副頭)、小杣(欠損木の補修)、炊夫(かしき)などの特殊働きを含めて厳しい規律の仕組みをつくりあげ、山中に久しく独自の集団生活を営んできた。各自独自の「木印(きじるし)」を設定して、伐木の識別に資し、伐採作業は個別ながらも、集団の厳しい規律に従って作業にあたった。また杣人同士には種々特異な仲間規律もあって、農民とは別趣の労働生活を山中に展開してきた。それゆえ杣人にはまた特殊な山の神信仰もあり、特異の禁忌伝承もあった。しかし、今日そのおもかげはほとんど消失した。[竹内利美]」

 ウィキペディアの「奥山廻り」の項を見ると、

 「奥山廻り(おくやままわり)とは加賀藩が立山と白山の奥山での国境警備と、杉、欅、檜など重要な樹木7種(七木)の保全の為に組織した見分役である。これは十村分役の一つである山廻り役への加役または兼役として命じられたもので、独立した役名ではなく職名であり奥山廻り御用とも呼ばれる。」

とある。さらに、

 「奥山廻りの実施は登山期の6月から8月に、通常は上奥山と下奥山で隔年に行われた。この実施者としては御用番から奥山廻り御用を申し渡された横目が派遣する横目足軽を選び、この横目足軽2名と御算用場から通達を受けた郡奉行から、奥山廻りあるいは奥山廻り加役として山廻り足軽数名とその年の山廻り役2名から4名があてられ、これに杣人足が10名程度加えられた。もちろん人数は随時変えられていて最初期には全体で数名程度だったものが、盗伐事件が続発するようになると杣人足が30人にもなり総勢40名にもなることがあった。」

とあり、杣人が召された。
 「刻」には「ワリ」とルビがある。鏡刻(かがみわり)は鏡開きのこと。
 前句の士峯の雲を鏡餅に見立て、加賀藩の鏡割(鏡開き)は富士山にかかるあの巨大な雲の餅を杣工千人で引っ張って行われる、とした。
 富士山に掛る笠雲は鏡餅に見えなくもない。
 十四句目。

   杣めして國に千曳の鏡刻
 名にたつかざし黒木串柿     其角

  串柿は串に刺して干した柿で、正月の鏡餅に飾る。今はあまりやらなくなったが、昔ながらに飾り付ける家もある。
 前句の鏡割に、杣だから黒木の櫛に柿を刺すとした。黒木は炭にする前の乾燥させた木をいう。
 十五句目。

   名にたつかざし黒木串柿
 髭あらの花みる男内ゆかし    李下

 髭を生やした荒くれ男だが、花見の時には黒木と串柿の簪をしてお洒落をしている。
 髭というと奴さんのイメージがあるが中間(ちゅうげん)には多かったのだろうか。
 髭は牢人の無精髭のイメージもあったし盗賊のイメージもあったのは西鶴の『西鶴諸国ばなし』の「蚤の籠抜け」にも見られる。こここでは紺屋に押し入った夜盗が「皆、髭男の大小を指してまゐった」とされ、津河隼人という牢人が誤認逮捕されるが、これも牢人=髭というのが、言わずもがなだったのだろう。
 芭蕉さんも絵に描く時には無精髭が描かれたりする。旅人には多かったのだろう。
 『源氏物語』の髭黒が一応の出典であろう。ただ、物語には即してないので本説とは言い難い。天和の頃の現代設定として読んでいいだろう。
 十六句目。

   髭あらの花みる男内ゆかし
 春ン-宵 君とはりあひのなさ   其角

 「ン」は小さな文字で表記されている。「はる」ではなく「しゅん」と読むという意味。
 まあ、突っ張ったちょい悪の所に惹かれたのに、花見の席で急にしおらしくされると拍子抜けになる。
 十七句目。

   春ン-宵 君とはりあひのなさ
 月に鳴ク生憎のうかれ上戸や   李下

 生憎は(アナニク)とルビがある。五七五ではなく五八四になっている。
 酒を飲むと性格が変わる人はよくいる。陽キャになるのはいいが、あまり軽々しいのも、というところか。
 「鳴ク」は泣くというよりも、この場合は歌い出すという意味か。
 十八句目。

   月に鳴ク生憎のうかれ上戸や
 薄も白くたぶさ刈る鎌      其角

 「たぶさ」は髻(もとどり)で、これを切ったら出家ということか。
 前句のうかれ上戸を遊行上戸として、月に鳴いては旅の虫がうずき出す。ススキのように白髪になった髪をばっさり切って、急に旅に出てしまう。
 二表、十九句目。

   薄も白くたぶさ刈る鎌
 朝顔は道哥の種をうへたらん   李下

 道歌は道徳や教訓を詠んだ和歌のことで、ウィキペディアには例として、

 我が恩を仇にて返す人あらば
     又その上に慈悲を施せ
              伝真阿上人
 濃茶には湯加減あつく服は尚ほ
     泡なきやうにかたまりもなく
              利休道歌

を引いている。
 朝顔は朝咲いて昼には凋むあたりが、如何にも人生の短さを語るのにちょうどいい。
 朝顔を見て出家を思い立った人は、そのうち道歌を詠むようになるんだろうな。
 ニ十句目。

   朝顔は道哥の種をうへたらん
 院の後家のあるかなき宿     李下

 「院」には「オリヰ」とルビがふってある。
 「おりゐのみかど」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、「下り居の帝」、「退位した天皇。太上(だいじよう)天皇。」とある。ただ、それは元の意味で、「おりゐ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 下に降りていること。車、馬などから降りていること。また、腰を降ろしていること。
  ※光悦本謡曲・熊野(1505頃)「車宿り、馬とどめ、爰より花車、おりゐの衣はりまがた」
  ② 天皇、斎院などがその地位を譲ること。退位。→おりいの帝(みかど)。〔名語記(1275)〕
  ③ (宮仕えの女房の)里下がり。
  ※俳諧・落日庵句集(1780頃か)「風声の下り居の君や遅桜」

とある。
 前句の「朝顔」から『源氏物語』朝顔巻の女五宮の宿をイメージしたか。本説の場合出典と少し変えるから、「院の後家」でもいい。
 二十一句目。

   院の後家のあるかなき宿
 都近き島原小野をおもひ出る   其角

 島原は今の下京区で西本願寺に近いが、かつては京の市街地のはずれだった。小野は山科にあるが、ここでは島原のあたりの一般名詞としての小野であろう。
 前句を引退した遊女として、島原を懐かしく思う。
 二十二句目。

   都近き島原小野をおもひ出る
 仕組をくだす八重のとぢ文    李下

 とぢ文は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「封じ文」とある。八重というからには正確に八枚ということではなくても、何枚もの紙に書いた長い文という意味だろう。
 島原の遊女に向けて長い手紙を書く男がいたのだろう。仮名草子の『恨之介』は家老木村常陸の忘れ形見の雪の前に長い手紙を書いているが、そんなイメージか。
 当時の遊郭は王朝時代の疑似恋愛を楽しむ所で、いきなり金払ってやらせてもらうような近代の売春窟とは違っていた。むしろ今の感覚なら出会い系に近いかもしれない。遊女に気に入られないと会ってもくれないから、恋文にもいろいろと仕組みを凝らす。
 二十三句目。

   仕組をくだす八重のとぢ文
 墨染に女房ふたりを頼む哉    其角

 墨染の衣の僧に長い秘密の手紙を書いて、二人の女房をどうするか相談する。正室と側室のある身での出家で、後のことが気がかりなのだろう。
 二十四句目。

   墨染に女房ふたりを頼む哉
 ねみだれかもじ虵と成夢     李下

 お坊さんで妻帯はまだしも、側室までとは。そりゃ嫉妬もするし、夢には安珍・清姫伝説のように、嫉妬に燃える蛇の姿になった女が現れる。

2021年12月22日水曜日

 今日は当時で、カボチャの煮物に柚子湯と定番通りに過ごした。
 香港の選挙は他人事ではなく、日本も民主主義革命が起きた場合、党の推薦がなければ立候補できなくなる可能性がある。それが親米政党の非合法化と同時に行われれば、今の香港と何ら変わらなくなる。
 移民の受け売れにどこの国も慎重になるのは当然で、無制限というわけにはいかない。移民が一時的な滞在者なら、多くの人が賛成するに違いない。ただ入れたら最後永久に居座るとなると、二の足を踏む。彼らやその子孫が同化を拒否するなら、千年にも二千年にも渡って民族問題を抱え込むことになる。
 新しい資本主義は、国家が資本主義に制限を加えるものであってはならない。持続可能性の観点から、何らかの制約を課すにしても、必要最低限にとどめる必要がある。
 資本主義に制限を掛ければ分配する元のパイが減ってしまうので、全体が貧しくなる。それで貧しい方へ平等化されると思わない方が良い。貧困は生存競争を過酷にするだけで、今以上に弱者に厳しい社会になる。
 分配する元のパイをより大きくし、それでいて貧困を解消しようというのなら、まず投資をする者としない者との分断を解消すべきであろう。ベーシックインカムを投資クーポンという形で配布するのも一つの手ではないかと思う。すぐに金が必要な人は買ってすぐに売ればいいだけの話だ。
 余裕がないうちは即売りを繰り返すことで生活できる。余裕ができればそれを投資に回すことができる。投資に失敗しても、元の即売りの生活に戻るだけで、セーフティーネットの機能も果たせる。
 もちろん投資と投機ははっきり区別されなくてはならない。クーポンでのFXや仮想通貨などの直接購入はできないようにすべきだ。
 「本朝二十不孝」の巻二を読んだ。「我と身を焦がす釜が淵」は石川五右衛門の話だった。いろいろ面白い名前のサブキャラが登場する。「猫のまねの闇右衛門」って、やはり猫のような恰好をしてるのかな。夜目が利くんだろうな。

 さて、次は何にしようかと思うと、新暦では年の暮れということで、今年の五月鈴呂屋書庫にアップした『虚栗』の「飽やことし」の巻を若干読みなおしてみた。
 発句の前書きを見落としていた。
 発句は、

   一年三百六十日
     開口笑無三日
 飽やことし心と臼の轟と     李下

 前書きは一年は三百六十日もあるのに、口をあけて笑うことは三日もあればいいという意味で、この三日はおそらく正月と年二回の薮入りであろう。
 正月三日休んだら、あとは退屈な日常が延々と続く。俳諧師の日常ではなく、農閑期のある農民の日常でもない。江戸の町の下層労働者を思いやった句であろう。
 都市でもある程度豊かな階層は、芝居を見たり遊郭に行ったりという余裕もある。俳諧の読者層もその辺だ。
 臼の轟は大きな精米所で一日中粉塵にまみれながら唐臼を踏み続ける人達であろう。唐臼はシーソーのような構造で、一方を足で踏むことで杵を上下させる。これが何台もずらっと並び、それぞれに大きな音を立てる。
 ただ、「臼の轟」は江戸の現実であるとともに、出典があって、古典とのつながりを持っている。それは『源氏物語』夕顔巻だ。源氏の君が下町の夕顔の家で一夜を明かした時の描写に、

 「ごほごほとなる神よりもおどろおどろしく、ふみとどろかすからうすのおともまくらがみとおぼゆ。
 あな、みみかしがましと、これにぞおぼさるるなにのひびききともききいれ給はず、いとあやしうめざましきおとなひとのみ聞き給ふ。」
 (轟々と鳴る雷よりもおどろおどろしく踏み轟かす精米の唐臼の音も、枕元から響いてくるようです。
 「わあっ、これは耳が痛くなりそうだ」
と源氏の君には何の音か知るよしもなく、ただよくわからない不快な物音にしか聞こえないようでした。)

 江戸の日常をストレートに描写するのではなく、何らかの出典に沿いながら表現する辺りは、まだ談林調の抜けきらない『虚栗』の時代でもある。
 そして、源氏のイメージを引いている以上、この臼の轟が何の音かもわからないお貴族様の句と受け取られないためにも、「一年三百六十日、開口笑無三日」という疑似漢詩の前書きを必要とした。
 脇。

   飽やことし心と臼の轟と
 世ハ白波に大根こぐ舟      其角

 これも大都市江戸に大根を供給する船であろう。根だけでなく葉も貴重な菜っ葉で、日本の冬には欠かせない食材だ。船の行く運河の波だけでなく、そこに満載された大根もあたかも白波のようだ。
 白波に船は、

 高瀬舟さをもとりあへず明くる夜に
     さきたつ月のあとの白波
              藤原良経(秋篠月清集)

の歌が證歌になる。意味は違うが「あく」と「よ」も含まれている。
 前に読んだ時は『校本芭蕉全集 第三巻』の注によって、

 世の中を何にたとへむ朝ぼらけ
     漕ぎ行く舟の跡のしら波
              沙弥満誓(拾遺集)

の歌の情で、この世界というのはただ時の流れの中に生まれてはすぐに消えて行く白波のような儚いもの、という意味とした。
 悟った感じで言うのではなく、発句の情に和して、一年働きずくめで空しく過ぎて行ったと読んだ方が良いだろう。
 第三。

   世は白波に大根こぐ舟
 月雪を芋のあみ戸や枯つらん   其角

 「芋のあみ戸」は干し芋茎(ずいき)を干している情景で、その脇を大根を乗せた船が通り過ぎる。
 月も雪もこの干し芋茎を通して眺めるのだろうか、今は大根を乗せた船が通り過ぎて行く、となる。
 四句目。

   月雪を芋のあみ戸や枯つらん
 かうろぎハ書ヲよみ明ス声    李下

 芋の網戸を芋畑のこととして、その向こうではコオロギが書を読み明かしている。
 前句の「月雪」を月の明り雪の明りで書を読むという、「蛍雪の功」のイメージにすることで、コオロギが単に鳴くのではなく「書を読む」というイメージが生まれる。
 五句目。

   かうろぎは書ヲよみ明ス聲
 百ヲふる狐と秋を慰めし     李下

 勉学に励むコオロギには百歳を越える古狐の師匠がいる。
 百年生きた古狐と儚い命のコオロギがともに秋の淋しさに慰め合う。百年短い命のコオロギを見送り続けた古狐にとっても、秋は淋しかろう。
 六句目。

   百ヲふる狐と秋を慰めし
 傾-婦を蘭の肆にうる       其角

 肆は「イチグラ」とルビがふってある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「肆」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「いちくら」。市座(いちくら)の意。座(くら)は財物を置く所) 古代に、市場で売買や交換のために、商品を並べて置いた所。市の蔵。のちに、商いの店。〔新訳華厳経音義私記(794)〕
  ※平家(13C前)七「今日は肆(いちぐら)の辺に水をうしなふ枯魚の如し」

とある。
 古狐が傾城の美女に化けるのはよくあることで、「蘭の市座」は古い時代の日本とも中国ともつかぬ架空の場所であろう。そこで傾婦を得て秋を慰めたが、これが古狐だった。
 初裏、七句目。

   傾-婦を蘭の肆にうる
 敵ある泪の色をいはす草     李下

 「いはす草」はよくわからない。「言はず」に掛けた蓮のことか。
 前句の傾婦には恋敵がいるが、その苦しみの泪のわけは言わない。
 八句目。

   敵ある泪の色をいはす草
 然れば天下一番の㒵       其角

 泪のことを言わないのは、相手が天下一番の顔で、競争の激しいのはわかっているからだ。
 九句目。

   然れば天下一番の㒵
 文盲な金持ハ金ヲ以テ鳴ル    李下

 学の有る金持ちは金だけでなく他の者でも名声を得るが、学のない金持ちは金だけしか取り柄がない。でも顔が良ければまた別だ。
 遊郭へ行くにも金だけでは駄目ということだ。
 十句目。

   文盲な金持は金ヲ以テ鳴ル
 にわとり豚はつち養ふ      其角

 豚は「ゐのこ」、「はつち」は「ばつち」は末子のことだと『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある。bとmの交替。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の補注に、

 「一句は古文真宝後集・柳子厚『種樹郭槖駝伝』中の『而(ナンジ)ガ幼孩ヲ字(ヤシナ)ヘ、而ガ雞豚ヲ遂ゲヨ』をふまえた付け。」

とある。
 日本でもブタは一部で汚物の処理には用いてたようだが、汚い物ということで食用にはされなかった。
 十一句目。

   にわとり豚はつち養ふ
 其池を忍はずといふかび屋敷   李下

 上野の不忍の池のことだろう。かつては林羅山(道春)の屋敷があり、延宝六年の「さぞな都」の巻四十一句目に、

   ここに道春是もこれとて
 前は池東叡山の大屋舗      信徳

の句がある。
 ここでいう「かび屋敷」は上屋敷のことか。昔の日本語ではbとmとの交替が多いので「かみ」は「かび」にもなりえた。実際には「かびやしき」と発音することはなかったにせよ、わざと似た音というので上屋敷を黴屋敷にした可能性はある。不忍の池の近辺は大名の上屋敷が多かった。
 十二句目。

   其池を忍はずといふかび屋敷
 士峯の雲を望む加賀殿      其角

 加賀藩の上屋敷は今の東京大学本郷キャンパスになっているという。不忍池から近い。高台なので富士も見えただろう。

2021年12月21日火曜日

 前澤さんも地球に帰ってきて、それにシンクロするかのように「月とライカと吸血姫」のアニメも終わった。そういえば子供の頃読んだ本に、二十一世紀には月の人口が一万人以上なんて書いてあったな。
 六十年代には二十年後に地球の人口が八十億人になって、食糧危機がやってくるなんて言われていた。あの頃は本気で余った人口を宇宙に送り込もうと考えてなんだろうな。そうでなければ月にそんな大都市を作る意味が分からない。
 前澤さんの次はやはりホリエモンだ。ロシアのロケットではなく、自力で宇宙に行くのかな。成功すればもっと凄いが。宇宙でユーグレナを食べるのかな。
 思うにスターウォーズの世界って、農業生産性の向上よりも宇宙進出のほうに極ぶりしちゃったような世界なのかな。
 小学館の「井原西鶴集②」の『本朝二十不孝』の方に入ったが、「大節季にない袖の雨」で娘が親孝行のために遊女になる場面は、もちろんこれは物語だが、当時としてはある程度「さもあらん」という所があったのだろうか。大概は親に騙されて売られるというパターンだっただろうけど。
 まあ、このまま家に居ても早かれ遅かれ山犬に食われるだけなら、自ら遊郭に入ることで命拾いしたと言えるかもしれない。幼心にも、このまま親に殺されるか遊郭に入るかの究極の選択を迫られる、そんな貧しさがあったことにも想像をめぐらした上で、遊郭が何だったのかを論じてほしい。
 「跡の剥げたる嫁入長持」も、物語として話をかなり盛っているとはいえ、当時の離婚率の高さの一端を覗かせている。

 それでは「一里の」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   秤にかかる人々の興
 此年になりて灸の跡もなき    一井

 灸は「やいと」と読む。年とっても元気なら楽しいことが沢山ある。元気かどうかで老後の明暗の分かれるのを、「秤にかかる」とする。
 二十六句目。

   此年になりて灸の跡もなき
 まくらもせずについ寐入月    鼠弾

 前句を気ままに一人暮らししている老人とし、月見をしながらもそのまま酔って寝てしまうと付ける。後の位付けに通じる付け方だ。
 二十七句目。

   まくらもせずについ寐入月
 暮過て障子の陰のうそ寒き    胡及

 前句を昼寝として、気が付いたら日も暮れて月が出ている。
 二十八句目。

   暮過て障子の陰のうそ寒き
 こきたるやうにしぼむ萩のは   長虹

 「こきたる」は垂れ下がるという意味。前句の季候に萩の様子を付ける。
 二十九句目。

   こきたるやうにしぼむ萩のは
 御有様入道の宮のはかなげに   鼠弾

 「入道の宮」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「入道の宮」の解説」に、

 「出家入道した親王・内親王または女院。
  ※源氏(1001‐14頃)須磨「入道の宮よりも、物の聞えや、又、いかがとりなさむと」

とある。例文は藤壺の宮のことだが、『源氏物語』には女三宮も入道の宮になる。
 特に誰というほどの内容でもなく、出家した皇族の女性はかつての栄華の面影もなく、総じて儚げで、凋む萩の葉に喩えられる。
 三十句目。

   御有様入道の宮のはかなげに
 衣引かぶる人の足音       一井

 入道の宮となっても、ひそかに通ってくる男はいる。『芭蕉七部集』の中村注は『狭衣物語』の女二宮の所に通う狭衣とする。
 二裏、三十一句目。

   衣引かぶる人の足音
 毒なりと瓜一きれも喰ぬ也    長虹

 前句を迫り来る暗殺者とし、狙われている要人の様とする。
 三十二句目。

   毒なりと瓜一きれも喰ぬ也
 片雲たちて過る白雨       胡及

 ウリ科の野菜は苦味成分のククルビタシン類が含まれていて、食べ過ぎると腹痛や下痢の原因になるという。一度当たって懲りた人には瓜を食わないという人もいたのかもしれない。
 僅かな雲も瞬く間に入道雲になり白雨(夕立)が通り過ぎる間、片雲の旅人は雨宿りをするが、瓜は遠慮する。夕立は急な下痢のイメージにも重なる。
 三十三句目。

   片雲たちて過る白雨
 板へぎて踏所なき庭の内     一井

 夕立をもたらす積乱雲は、竜巻をもたらすこともある。屋根板が吹っ飛んで庭に散らばる。
 三十四句目。

   板へぎて踏所なき庭の内
 はねのぬけたる黒き唐丸     鼠弾

 唐丸はウィキペディアに、

 「唐丸(とうまる、Tomaru)とは、ニワトリの品種の一つである。東天紅・声良とともに日本3大長鳴鶏の一つとして知られる。
 1939年に日本国の天然記念物に指定された名称は蜀鶏であるが、一般的に唐丸が用いられる。」
 「原産地は新潟県であるが江戸時代初期にオランダもしくは中国から日本にもたらされた大型の鶏に越後地方の地鶏や軍鶏、小国などの長鳴鶏を交配し本品種が作出されたと考えられている。
 元の大型のものを大唐丸、長鳴性を有するものを鳴唐丸と称していたこともあったが、今は大唐丸は絶滅している。
 鳴き声には音量と張りがあり、10-15秒鳴き、18秒鳴き続ける個体もみられる。
 羽色は白色・黒色。姿が黒柏に似るが謡羽(尾)が体に対し40°の角度を有する。」

 立派な唐丸も羽が抜ければみすぼらしく、前句の屋根板の飛んだ家に羽の抜けた唐丸と、これは響き付けと言ってもいい。
 二十六句目といい、芭蕉は鼠弾の句から匂い付けのヒントを貰ったのかもしれない。
 三十五句目。

   はねのぬけたる黒き唐丸
 ぬくぬくと日足のしれぬ花曇   長虹

 長閑な春の花曇りだと時間の感覚がなくなる。前句を鶏の換羽としたか。
 挙句。

   ぬくぬくと日足のしれぬ花曇
 見わたすほどはみなつつじ也   胡及

 ツツジの園芸種は元禄の頃に広まったと言われている。競うように庭をツツジで埋め尽くす人もいたのだろう。そんな流行の最先端の庭を付けて、一巻は目出度く終わる。

2021年12月20日月曜日

 今日も晴れた寒い一日だった。もちろん平和な一日。
 今日はラノベではなく『世界を救うmRNAワクチンの開発者』カタリン・カリコ、【試し読み】 (ポプラ新書)を読んだ。無料だったからだ。只だけあって短い本だが。
 mRNAワクチンを開発するような凄い人でも、最初にmRNAでたんぱく質を作れるというアイデアを思いついた時にはみんなから馬鹿にされたという。
 まあ、当然だろう。みんなが凄い凄いと言って賛成するようなものなら、とっくに誰かがやっているからね。だから、筆者が今やっていることに賛同する人が一人もいないけど、全然気にしていない。
 ただ、みんなから無視されたからといって、後に凄いことになるかという保証は何もない。まあ、好きだからやるだけだ。
 アメリカの研究環境がそんなに恵まれているわけではないことは、いろいろなところで書かれているし、大抵は苦労した末に運よく成功を勝ち取っているわけで、誰も未来が見えるわけではないから、どの研究が大きな成功をもたらすかなんて、どこの国の人だってわからないだけのことだ。
 ただ、日本がアメリカのようになれないのは、底辺の研究者の水準が低いからではなく、成功した時の報酬がほとんどないからだ。
 底辺に金をばら撒いても日本の科学力は発展しない。お役目御苦労でおざなりの論文を書いてるだけの連中が喜ぶだけで、そういう奴らは結託して圧力団体を作って、国から予算を分捕る事しか考えない。

 それでは「一里の」の巻の続き。

 十三句目。

   寒ゆく夜半の越の雪鋤
 なに事かよばりあひてはうち笑ひ 鼠弾

 辛い雪かきでも、ぼやいてみたところで天気はどうにもならないからね。冗談を言い合いながら楽しくやりましょう。
 十四句目。

   なに事かよばりあひてはうち笑ひ
 蛤とりはみな女中也       一井

 桑名の焼き蛤も、獲ってくるのは女中の仕事だったか。おしゃべりが絶えない。
 十五句目。

   蛤とりはみな女中也
 浦風に脛吹まくる月凉し     長虹

 蛤というとやっぱアレを連想するか。わかるよ。浦風に月涼しと奇麗にまとめるしかないね。
 十六句目。

   浦風に脛吹まくる月凉し
 みるもかしこき紀伊の御魂屋   胡及

 御魂屋は『芭蕉七部集』の中村注に、

 「紀州名草郡濱中村長保寺紀州家ノ御魂屋アリ(標注)。天台宗にて寺領二百石紀伊家の御菩提寺也(通旨)」

とある。紀州の長保寺はウィキペディアに、

 「寛文6年(1666年)、当地を訪れた紀州藩主徳川頼宣は、山に囲まれた要害の地にある長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めた。寛文12年(1672年)には2代藩主徳川光貞によって500石を寄進されている。境内東斜面には約1万坪にも及ぶ広大な藩主廟所があり、頼宣以降の歴代藩主が眠っている。ただし、5代吉宗(後の8代将軍)と13代慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)の墓はそれぞれ東京の寛永寺と増上寺にある。宗派は、当初天台宗であったと思われるが、後に法相宗、さらに真言宗に改宗し、紀州徳川家の菩提寺となってから天台宗に復した。」

とあり、御魂屋については、

 「御霊屋(和歌山県指定有形文化財) - 寛文7年(1667年)建立。藩主徳川頼宣が熊野巡視の帰途、長保寺に立寄って紀州徳川家の菩提寺と定めた。紀州徳川家の菩提寺と定めたことに伴い、頼宣が建立したと伝えられる仏殿は、頼宣の没後に位牌堂に充てられた。この位牌堂が御霊屋である。桁行7間、梁間8間、寄棟造、本瓦葺で、南東に玄関が付く。西側の2室に厨子を置き、歴代藩主および正室・側室等の位牌が祀られている。」

とある。
 前句の「浦風」に「月凉し」から紀州徳川家の菩提寺を付ける。
 十七句目。

   みるもかしこき紀伊の御魂屋
 若者のさし矢射ておる花の陰   一井

 「さし矢」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「差矢」の解説」に、

 「① 矢の一種。矢数をする矢。量産の数矢(かずや)で、炙篦(あぶりの)にして、鴨の第二羽で矧(は)ぎ、根を木でつくる。他の矢よりも軽い。もっぱら矢数の稽古に用いる。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「みるもかしこき紀伊の御魂屋〈胡及〉 若者のさし矢射ておる花の陰〈一井〉」
  ② 近距離間での射法で、直線的に、矢数を射ること。また、その矢。
  ※平家(13C前)一一「或はとを矢に射る舟もあり、或はさし矢にゐる船もあり」

とある。
 御三家は京都三十三間堂の通し矢で弓矢の腕を競っていた。ウィキペディアによると、

 「貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となった。これが現在までの最高記録である。」

とあり、タイムリーな話題だったようだ。和佐範遠は寛文三年(一六六三年)の生まれで、二十三歳の若さでこの記録を達成した。
 十八句目。

   若者のさし矢射ておる花の陰
 蒜くらふ香に遠ざかりけり    鼠弾

 蒜には「にら」とルビがあるが、内容からいってニンニクであろう。ニンニクは夏の季語なので、式目をかいくぐるためにあえて「にら」とルビを振って、春の句にしたか。まあ、ニンニクも韮も匂いの元は同じ硫化アリルだというが。
 若者がスタミナをつけるためにニンニクを食って矢の練習をしていたか。矢が勢いよく飛んで行くのは、ニンニクの匂いから逃れようとするからだ、とする。
 徳川家康の好物だったともいう。
 二表、十九句目。

   蒜くらふ香に遠ざかりけり
 はるのくれありきありきも睡るらん 胡及

 前句の「遠ざかりけり」から旅体に転じる。歩いていても眠くなるような陽気で、我慢して歩き続けると、本当に歩きながら眠ってしまいそうだ。
 馬に乗ると居眠りするというのは「あるある」だが。
 ニ十句目。

   はるのくれありきありきも睡るらん
 帋子の綿の裾に落つつ      長虹

 紙子は風を通さないからそれだけで防寒着になるので、わざわざそれに綿を入れることはないと思うのだが。「紙子の」で切って「綿の裾」に落ちるではないかと思う。
 暖かいから脱いだ紙子を手で持っていたのだろう。居眠りして物を取り落すことはよくある。
 二十一句目。

   帋子の綿の裾に落つつ
 はなしする内もさいさい手を洗  鼠弾

 前句は「紙子の裾に綿の落ちつつ」の倒置とも読める。「さいさい」は何度もということ。
 綿打ちの作業でもしていたのであろう。綿が手に着くので何度も手を洗う。
 二十二句目。

   はなしする内もさいさい手を洗
 座敷ほどある蚊屋を釣けり    一井

 蚊屋は通常は寝室のサイズだが、大きなサイズの蚊屋は何らかの作業のための蚊屋であろう。
 二十三句目。

   座敷ほどある蚊屋を釣けり
 木ばさみにあかるうなりし松の枝 長虹

 松の枝を剪定してすっきりとした様を、蚊帳から見える風景として付ける。
 二十四句目。

   木ばさみにあかるうなりし松の枝
 秤にかかる人々の興       胡及

 松の枝が剪定されたことに気付く人と気付かない人がいて、その人の風流への関心が測られる。

2021年12月19日日曜日

 今日は満月。寒月やー、凍月やー。
 近代社会に生まれ、そこの教育を受けてしまうと、前近代の人の感覚がなかなか想像がつかなくなるが、古典はそれを想像する数少ない手段でもある。
 西鶴の「西鶴諸国ばなし」を小学館の「井原西鶴集②」で読み始めたが、巻三の「蚤の籠抜け」もそんな話の一つだ。
 冤罪がテーマの話だが、盗賊に押し入られて、今なら切りつけて追払ったが、同じ日に別の所に盗賊が入りそこの亭主が斬られた。
 今なら血が落ちていればDNA鑑定でもして、誰の血かは特定できただろう。誰とも特定できない血で犯人扱いされれば、今なら長々と裁判が始まり、何十年でも冤罪を訴え続ける所だろう。
 無実の証明が困難であれば、嘘でも罪を認めて減刑を求めるというのは、今日でもよくあることだ。
 特に交通事故など、被害者の救済を優先するために、嘘の自白で減刑というのはかなり基本パターンになっている。それをしないとまたマスコミでネットで滅茶苦茶叩かれたりして、家族や親類までも仕事をやめざるを得なかったりして大変なことになる。
 こういう感覚は、基本的に日本には科学的な捜査があり、それは信頼できるものだから、冤罪を訴える人に対して疑いを持つということが普通になっている。
 今ですらそうだから「証拠もなければ是非なく籠者してありける」は理解できる。血が落ちてたのが証拠だと言われれば、それを覆す証拠を得ることは難しい。
 こうなったとき、昔の人の方が諦めが早かったのだろう。たとえ無実が立証されたところで、誤認逮捕に対する補償があるわけでもない。あるのはただ釈放と名誉の回復だけだ。
 このあとタイトルにある「蚤の籠抜け」の芸をやる不思議な囚人と一緒になり、話は急展開するのだが、ここで思うのは、死刑がなかったら果して真実を話しただろうか、ということだ。
 真犯人の自白は善意であり、感謝すべきもの。この感覚はやはり当時の人のものなのだろう。冤罪は基本的に運命であり逆らえない。それが基調になければ、この物語は近代人の首をひねるものになってしまうだろう。それはタイトルにある通り「蚤の籠抜け」に喩えられるものだった。
 同じく前近代人の言葉、ゴルギアスの「何も存在しない、存在したとしても知ることができない、知ったとしても伝えることができない」は江戸時代の日本でも同じだった。
 我々もその感覚を持つなら、世の疑惑報道も別の見方ができることだろう。そうでなくても、反証の困難が理由で真実だと信じられていることはたくさんあると思う。わからないものはわからないと認めることも大事だ。昔の人はその柔軟さを持っていた。
 そういうわけで、芭蕉についても俳諧についても定説が真実とは限らないが、それを覆すのは困難ということで、筆者はただ自分にできることだけをやっていきたいと思う。

 それでは引き続き『阿羅野』の「一里の」の巻を読んで行こうと思う。
 発句は、

 一里の炭売はいつ冬籠り     一井

で一井は貞享四年十二月九日名古屋の一井亭で

 たび寐よし宿は師走の夕月夜   芭蕉

を発句とする半歌仙興行を行っている。
 また、他のメンバーの鼠弾、胡及、長虹も貞享五年七月二十日、名古屋長虹亭での、

 粟稗にとぼしくもあらず草の庵  芭蕉

を発句とする歌仙興行に参加していて、一井を含めて四人がこの興行に同座している。
 一井の発句の方は、みんなが冬籠りをしている時に、炭売だけは忙しく働いて、みんなが暖を取るための炭を供給している、という句だ。
 みんなが休んでいる時も、誰かが働いている。それを気遣う「細み」の句と言っていいだろう。
 脇。

   一里の炭売はいつ冬籠り
 かけひの先の瓶氷る朝      鼠弾

 瓶は「かめ」であろう。筧で引いてきた水を溜めておくための瓶も、朝には氷が張っている。冬が来たのを感じさせるよくある日常の風景で、発句の冬籠りを受ける。
 第三。

   かけひの先の瓶氷る朝
 さきくさや正木を引に誘ふらん  胡及

 「さきくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「三枝」の解説」に、

 「① 一本の木、または草の茎から三つの枝が出ていること。また、その木や草。古く、どの植物をさしたかは未詳。山百合(やまゆり)、三椏(みつまた)、福寿草、沈丁花など、諸説がある。さいぐさ。
  ※古事記(712)下「御歯は三枝(さきくさ)の如き押歯に坐しき」
  ② 植物「ひのき(檜)」の異名。〔竹園抄(13C後)〕
  ③ 植物「おけら(朮)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。和歌では「幸(さき)く」に掛けて用いられる。
 「正木」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「柾・正木」の解説」に、

 「① ニシキギ科の常緑低木。北海道から九州までの各地の海岸に近いところに生え、また観賞用に植栽される。高さ約三メートル。葉は柄をもち対生し、葉身は長さ約五センチメートル、やや肉厚で光沢があり、倒卵形か楕円形。縁に鈍鋸歯(きょし)がある。六~七月、葉腋から花柄が伸び緑白色の小さな四弁花が咲く。果実は扁球形、熟すと三~四裂して黄赤色の種子を露出する。園芸品種には葉に黄色や白の斑入りのものが多い。〔温故知新書(1484)〕
  ② 「まさきのかずら(柾葛)」の略。
  ※後撰(951‐953頃)雑一・一〇八一「照る月をまさ木のつなによりかけてあかず別るる人をつながん〈源融〉」

とある。②は神事に用いられるため、「さきくさ」のま幸くあれと柾の葛引きに誘われているようだ、という意味になる。

 神無月時雨降るらし佐保山の
     正木のかづら色まさりゆく
              よみ人しらず(新古今集)

の歌もあるように、季節としては冬だったのだろう。
 四句目。

   さきくさや正木を引に誘ふらん
 肩ぎぬはづれ酒によふ人     長虹

 「肩ぎぬ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「肩衣」の解説」に、

 「① 袖なしの胴衣(どうぎ)。胴肩衣。袖無し。手無し。
  ※万葉(8C後)五・八九二「布可多衣(ぬのカタぎぬ) ありのことごと 着襲(きそ)へども」
  ② 束帯の半臂(はんぴ)に似た上着。素襖(すおう)の略装として用い、軍陣には甲冑(かっちゅう)の上に着ける。
  ※鎌倉殿中以下年中行事(1454か)一二月朔日「公方様御発向事〈略〉金襴の御肩衣」
  ③ 江戸時代の武士の公服の一部。袴と合わせて用い、上下同地同色の場合は裃(かみしも)といい、相違するときは継裃(つぎがみしも)と呼び、上を肩衣といって区別する。」

とある。この場合は③であろう。儀式のために正装した武士も神事の酒に酔って肩衣がずれる。
 五句目。

   肩ぎぬはづれ酒によふ人
 夕月の入ぎは早き塘ぎは     鼠弾

 日が暮れるのが早く、船に乗りそこなったのだろう。今なら飲み過ぎて終電を逃すようなものか。
 六句目。

   夕月の入ぎは早き塘ぎは
 たはらに鯽をつかみこむ秋    一井

 鯽は「ふな」とルビがふってある。「いか」と読むこともあるらしい。
 鮒鮨の仕込みに使うフナだろうか。忙しそうに、塩漬けのフナを俵に詰め込む。
 初裏、七句目。

   たはらに鯽をつかみこむ秋
 里深く踊教に二三日       長虹

 踊りは初秋の盆踊りで、鮒鮨の仕込みの季節でもある。ただ、意外に踊れる人が少なくて、教え歩く人がいたようだ。
 元禄七年五月の「新麦は」の巻六句目にも、

   方々へ医者を引づる暮の月
 踊の左法たれもおぼえず     芭蕉

という句がある。
 八句目。

   里深く踊教に二三日
 宮司が妻にほれられて憂     胡及

 宮司の妻に気に入られるのは良いが、再三にわたって踊りを教えてくれと呼びだされるのは面倒。
 九句目。

   宮司が妻にほれられて憂
 問はれても涙に物の云にくき   一井

 惚れられても憂きというところから、その理由としてやたらに泣きつかれると付ける。
 十句目。

   問はれても涙に物の云にくき
 葛籠とどきて切ほどく文     鼠弾

 葛籠は衣裳を保管する箱で、それに文を添えて送られてくる。何の葛籠なのか問うても、泣いているばかりで答えてくれない。訃報に添えられた遺品だったか。
 十一句目。

   葛籠とどきて切ほどく文
 うとうとと寐起ながらに湯をわかす 胡及

 朝早く起こされて荷物を受け取る。前句を飛脚の小葛籠とする。
 十二句目。

   うとうとと寐起ながらに湯をわかす
 寒ゆく夜半の越の雪鋤      長虹

 「寒ゆく」は「さえゆく」。雪鋤は雪下ろしに用いる木製の鋤。
 雪国では大雪になると、夜中でも起きては雪下ろしをしなくてはならない。

2021年12月18日土曜日

 今年も残す所あと二週間となった。
 ツツジの花が咲いているのは今更驚かなくなった。水仙は冬の季語だからわかるが、木瓜も咲いている。
 夜は霜月十五夜の月が昇った。満月は明日だという。
 日本が平和なのは、一人一人がまず自分の周りを平和に保とうとしているから。
 なら、なぜ今の時点でコロナを抑えているのか、それは一人一人がまず自分がコロナに感染しないように行動しているから。
 他人にあれこれ命令するのではなく、まず自分の出来ることをやる。そうすれば必ずいい結果につながると思う。

 それでは「初雪や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   しかじか物もいはぬつれなき
 はつかしといやがる馬にかきのせて 落梧

 「はづかしといやがる」は遠慮してということか。それでも無理に馬に乗せたので、物も言わない。これも状況がよくわからない。何か古事があるのか。
 二十六句目。

   はつかしといやがる馬にかきのせて
 かかる府中を飴ねぶり行     野水

 いい歳した大人が馬に乗って、市中を飴舐めながら行くのは恥ずかしい。
 二十七句目。

   かかる府中を飴ねぶり行
 雨やみて雲のちぎるる面白や   落梧

 飴と雨の縁での付けなのだろう。雨もたいしたこととないと舐めてかかる心とを掛けたか。
 二十八句目。

   雨やみて雲のちぎるる面白や
 柳ちるかと例の莚道       野水

 莚道(えんだう)はコトバンクの「デジタル大辞泉「筵道」の解説」に、

 「天皇や貴人が徒歩で進む道筋や、神事に祭神が遷御するときの道に敷く筵むしろ。筵の上に白い絹を敷く場合もある。えどう。」

とある。また、ウィキペディアには、

 「天皇や貴人が歩く道筋や神事で祭神が遷御する通り道に敷く筵の道のことで、筵の上に白い絹を敷く場合もある。「えんどう」または「えどう」と言う。平安時代に宮中で舞が演じられる際に庭に敷かれる筵の道も筵道と呼ぶ。春日大社の式年造替で仮殿の「移殿(うつしどの)」から本殿まで祭神が通る道に敷かれるものは「清薦(きよごも)」と呼ばれ、明治以降は同大社の旧神領の農家が稲わらで作ってきた。これは神職が正遷宮前に精進潔斎のために泊まる斎館にも敷かれる。出雲大社の涼殿祭(すずみどのさい)では筵道に真菰が敷かれる。」

とある。ここでは神祇の句としていいのか。
 遷宮の儀式にちょうど良く雨も止み、折から柳も散って美しくもお目出度い。
 二十九句目。

   柳ちるかと例の莚道
 軒ながく月こそさはれ五十間   野水

 五十間は約九十メートル。「例の莚道」を吉原の五十間道の見立てとしたか。
 ウィキペディアの「見返り柳」の項に、

 「隅田川の堤防である日本堤から、吉原遊廓(新吉原)へ下る坂を「衣紋坂(えもんさか)」という。衣紋坂から「く」の字に曲がりくねった「五十間道(ごじゅっけんみち)」が吉原の入口の大門まで続くが、この道の入口の左手にあるのが、見返り柳である。
 宝暦7年の吉原細見『なみきのまつ』の序文では「出口の柳」と書かれており、後に「見返り柳」と呼ばれるようになったと考えられている。」

とある。
 不首尾で帰る男の情とする。
 三十句目。

   軒ながく月こそさはれ五十間
 寂しき秋を女夫居りけり     落梧

 前句の五十間を普通の町屋の並ぶ風景として、そこに住む夫婦を付ける。「月こそさはれ」に「寂しき秋」と応じる。
 前句の「五十間」を恋の句として、あえて「女夫」を出して、恋を二句続ける。
 二裏、三十一句目。

   寂しき秋を女夫居りけり
 占を上手にめさるうらやまし   野水

 「めさる」と敬語が使われていることから、単なる占い師ではあるまい。前句を『源氏物語』の冷泉帝と秋好中宮として、澪標巻の、

 「宿曜に、御子三人。帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべしと、勘へ申したりし」
 (星占いにも、「子供は三人。御門、后かならず両方生れて来るでしょう。三人の内の最悪でも太政大臣という最高位に着くでしょう」という予言が出てまして)

の占いを付けたか。この占い通りに、源氏の栄華は確固たるものになった。
 三十二句目。

   占を上手にめさるうらやまし
 黍もてはやすいにしへの酒    野水

 黍の酒は、

 古(いにしへ)の人の食(き)こせる吉備の酒
     病めばすべなし貫簀賜(ぬきすたば)らむ
              丹生女王(「万葉集」巻四、五五四)

か。
 占いで政治を行うということで時代を上古として、吉備の酒がもてはやされていたとするが、そこは俳諧で、雑穀の黍の酒とする。
 三十三句目。

   黍もてはやすいにしへの酒
 朝ごとの干魚備るみづ垣に    落梧

 黍の酒をお神酒としてお供えする神社には、毎朝魚の干物を一緒にお供えする。
 三十四句目。

   朝ごとの干魚備るみづ垣に
 誰より花を先へ見てとる     落梧

 「誰より先へ花を見てとる」の倒置。毎朝神社にお供えする人は、境内に咲く花を誰よりも先に見ることになる。
 三十五句目。

   誰より花を先へ見てとる
 春雨のくらがり峠こえすまし   野水

 くらがり峠は奈良と大阪の間にある峠。「こえすまし」の「すまし」は今日「なりすまし」に名残をとどめる言い回しで、うまいこと越える、ということ。
 雨で薄暗い峠と「くらがり峠」を掛けて、暗がりに紛れて、誰かに見つからないように何とか越えたという意味だろう。
 『伊勢物語』二十三段「筒井筒」の河内の国高安の郡に通うために龍田山を越える男のイメージを借りて、奈良をうまいこと抜け出して浪花の花を見に行くとする。
 挙句。

   春雨のくらがり峠こえすまし
 ねぶりころべと雲雀鳴也     落梧

 前句をくらがり峠を馬で越える人として、峠を越えると雨も止んで長閑に雲雀が囀るので、まるでそれが居眠りして落馬せよと言っているかのようだ。

 雲雀より空にやすら峠哉     芭蕉

を踏まえてのものであろう。

2021年12月17日金曜日

 今朝は雨が降っていたが午後には晴れた。今日も平和な一日だ。
 「平和のために戦え」なんて矛盾を犯さないためにも、一人一人が毎日平和であることが一番だ。世界中の人が自分の身の廻りを平和にできれば、世界は自ずと平和になる。それだけのことが実は一番難しかったりする。
 人はまず生きてゆくために、自分の居場所を確保するために、生存の取引を繰り返す。決して平等なんかではない。不満が蓄積され、いつかブチ切れる。放火する奴、銃を乱射する奴、車で突っ込んでくる奴。そして組織を作って戦う奴。
 そうやって勝手に自滅してゆく奴。
 それでも大事なのはまず自分だ。自分の平和を維持できなくて、誰を平和にできる。まして世界なんて。前の社長もよく言っていた「自分のケツの蠅も追えないようじゃ」って。
 苦しくても、貧しくても、自分のための生存の取引を繰り返す。結局それしかないんじゃないかな。まずはそれからだ。余裕があったら人のことも考えよう。
 自分の生きて行く権利を他人にゆだねたら、結局そいつに生殺与奪権を握られる。それも気をつけよう。

 あと「連歌師の紀行文(梵灯庵道の記、白河紀行、東路の津都)」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「初雪や」の巻の続き。

 十三句目。

   こそぐり起す相住の僧
 峯の松あぢなあたりを見出たり  野水

 峯の松の良い景色の場所を見つけたので、一緒に住んでいる僧を起こす。
 十四句目。

   峯の松あぢなあたりを見出たり
 旅するうちの心奇麗さ      落梧

 旅をすると心の中の俗世の塵も払われて、峯の松の景色にも心を止めたりする。
 十五句目。

   旅するうちの心奇麗さ
 煮た玉子なまのたまごも一文に  野水

 煮た玉子は今日の煮卵ではなく、ゆで卵であろう。玉子は茹でても生でもだいたい同じ値段で売っている。
 十六句目。

   煮た玉子なまのたまごも一文に
 下戸は皆いく月のおぼろげ    落梧

 玉子は酒飲みよりも下戸に好まれたのか。
 十七句目。

   下戸は皆いく月のおぼろげ
 耳や歯やようても花の数ならず  野水

 朧月の花見は暗くて花はよく見えない。酒飲みは音楽や料理のことばかり気にして花を見ず、下戸がわざわざ花を見に行く。
 十八句目。

   耳や歯やようても花の数ならず
 具足めさせにけふの初午     落梧

 二月の最初の午の日は稲荷神社の初午祭で初午詣でに行く。馬の祭りでもあるので馬を馬具足で飾り立てる。
 前句の「耳や歯や」はここでは馬の耳や歯で、それが立派でも具足の華やかさには勝てない。
 二表、十九句目。

   具足めさせにけふの初午
 いつやらも鶯聞ぬ此おくに    落梧

 毎年初午詣でに来ているので、毎年同じところで鶯を聞く。
 ニ十句目。

   いつやらも鶯聞ぬ此おくに
 山伏住て人しかるなり      野水

 鶯の声に釣られて奥の方に入って行くと、人の家に勝手に入るなと山伏に叱られる。
 二十一句目。

   山伏住て人しかるなり
 くはらくはらとくさびぬけたる米車 落梧

 米車は米搗き車のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「米搗車」の解説」に、

 「〘名〙 玩具の一つ。小さい板の両側に車をつけ、その車の回転につれ板の上の杵(きね)が米をつくようなかっこうに動くしかけのもの。」

とある。
 厳つい山伏にも子供がいて、米搗き車で遊んでいるが、壊してしまったのか叱られている。
 二十二句目。

   くはらくはらとくさびぬけたる米車
 挑灯過て跡闇きくれ       野水

 「闇き」は「くらき」であろう。
 夕暮れで家に帰る子供なのか、それとも逢魔が刻に現れる物の怪だろうか。
 二十三句目。

   挑灯過て跡闇きくれ
 何事を泣けむ髪を振おほひ    落梧

 提燈を持った人は訃報を告げに来たか。
 二十四句目。

   何事を泣けむ髪を振おほひ
 しかじか物もいはぬつれなき   野水

 何か誤解があったのか、女に泣かれてしまい口もきいてくれない。
 『芭蕉七部集』の中村注には『大和物語』百三十三段の古事によるとあるが、そこには、

 「おなじ帝、月のおもしろき夜、みそかに御息所たちの御曹司ども見歩かせたまひけり。御ともに公忠さぶらひけり。
 それに、ある御曹司より、こき袿ひとかさね着たる女の、いときよげなる、いで来て、いみしう泣きけり。公忠を近く召して、見せたまひければ、髪を振りおほひていみじう泣く。などてかく泣くぞと言へど、いらへもせず。帝もいみじうあやしがりたまひけり。公忠、

 思ふらむこゝろのうちは知らねども
     泣くを見るこそ悲しかりけれ

と詠めりければ、いとになくめでたまひけり。」

とあるだけで、やはり何で泣いていたかわからない。百三十四段がその答えなのか。

2021年12月16日木曜日

 今日も晴れたが遠くの山は霞み、やがて見えなくなった。夕方には奇麗に月が出ている。
 中国やロシアが脅威とは言っても、どちらも人口的には増加の圧力にさらされているわけではない。経済も成長している。その意味では侵略の必然性はない。少なくとも民衆の間に戦争への機運が盛り上がっているとか、そういうことではなく、あくまで独裁体制の問題だ。
 要するに分不相応な望みを抱いているということ。それでも戦争は起こりうるが、中国やロシアの国民の罪ではない。
 基本的には反米思想を吹き込み、アメリカの脅威を煽れば、日本でもそうだが十五パーセント程度の人はそれを信じ込む。これに厳しい情報統制をおこなうとともに、軍隊でいつでもお前らをミンチにできるんだぞと脅しをかけていれば、この十五パーセント程度の人でも十分国を動かせるというわけだ。
 幸いなことに日本の左翼は軍隊を持ってないし、情報統制をする力もない。ツイッターデモなどガン無視すれば済むことだ。
 戦争に限らず闘争を好む人って、どこの国にも一定数はいるのかもしれない。大事なのはそいつらに政権を取らせないことだ。

 それでは旅も終わり俳諧の方に戻ることにしよう。
 冬の俳諧というと『阿羅野』の「初雪や」の巻がまだ読んでなかった。野水・落梧の両吟歌仙で、時期は元禄元年の冬か。芭蕉が江戸で越人と「雁がねも」の巻を巻いたのとそう遠くない頃と思われる。貞享五年は九月三十日に元禄元年に改元されているから、この年の冬は元禄になる。
 発句は、

 初雪やことしのびたる桐の木に  野水

で、梧は青桐(碧梧)のことだから落梧の俳諧の腕の成長と掛けているとも取れる。
 ただ、桐はシソ目キリ科で梧はアオイ目アオイ科だから、今日の分類学では全くの別物ということになる。
 桐は短期間で急速に成長するから、田んぼなども放置しておくと瞬く間に桐の木が生えてくる。福島の立ち入り制限区域で見られる光景だ。
 生えてきたと思ったら、その年のうちに二、三メートルの木になって、その枝に初雪が積もる。
 脇。

   初雪やことしのびたる桐の木に
 日のみじかきと冬の朝起     落梧

 特に寓意はなく、季候を添える。
 朝起きても日も中々登らない中、外は真っ白な雪景色なっている。
 あっという間に伸びた桐の木に、知らないうちに真っ白になった庭の景色で応じる。
 第三。

   日のみじかきと冬の朝起
 山川や鵜の喰ものをさがすらん  落梧

 冬になると鵜飼の鵜も人間が餌を調達してやらなくてはならない。朝早く起きて捕りに行く。
 四句目。

   山川や鵜の喰ものをさがすらん
 賤を遠から見るべかりけり    野水

 山の奥深く、遠くの川辺に賤の姿を見るが、鵜の餌を探しているのだろうか。
 動物と関わる職業は総じて賤だった。
 五句目。

   賤を遠から見るべかりけり
 おもふさま押合月に草臥つ    野水

 月夜の相撲だろうか。貴賤交って相撲を取るが、やはり賤民の方が元気が良くて、草臥れることを知らない。
 六句目。

   おもふさま押合月に草臥つ
 あらことごとし長櫃の萩     落梧

 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注には、

 「陸奥守橘為仲が任果てて帰京する時、宮城野の萩を長櫃に入れて上り、貴賤群衆こぞってこれを見物したという(無名抄)故事による。」

とある。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「橘為仲」の解説」にも、

 「晩年に陸奥守として赴任の際,能因の歌に敬意を表し衣装を改めて白河の関を通り,上京の折には宮城野の萩を長櫃12合に入れて運んだと伝えられるなど,風雅に執した人物として知られた。」

とある。
 二条大路に多くの見物人が集まったという。前句の「押合(おしあふ)」を受ける。
 初裏、七句目。

   あらことごとし長櫃の萩
 川越の歩にさされ行秋の雨    野水

 前句を萩の咲く河原を長櫃を運ぶ人の様に転じる。「さされ行(ゆく)」は長櫃に竿をさして運ぶ様をいう。
 八句目。

   川越の歩にさされ行秋の雨
 ねぶと痛がる顔のきたなき    落梧

 前句の「さされ行」をススキや茅などに刺されてとし、「癤(ねぶと)痛がる」とする。
 癤はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「癤」の解説」に、

 「疔(ちょう)ともいい、俗におでき、ねぶと、かたねなどとよばれる。毛孔から化膿(かのう)菌の黄色ブドウ球菌が感染して、毛包、脂腺(しせん)に化膿性炎症をおこしたもので、毛孔を中心として赤い地腫(じば)れを生じ、痛みが激しい。化膿が進むと中央が軟化し、破れて黄白色の膿栓を排出し、急速に痛みや腫れが引いて治る。発熱、悪寒、リンパ管炎、リンパ節炎を伴うことがある。顔に生じた癤は面疔とよばれ、口唇や瞼(まぶた)にできると腫れがひどくなり、口や目があけられなくなる。また静脈炎や髄膜炎を続発することがあったが、抗生物質療法により今日ではほとんどみられなくなった。癤が次々に多発するものを癤腫症(せつしゅしょう)という。糖尿病のときや癤の不完全な治療の場合に多い。癤の治療には安静がたいせつで、圧迫したりひっかいたりすると症状を悪化させる。抗生物質軟膏(なんこう)をはり、水道水で冷湿布するのがよい。切開は十分に化膿してから行うが、現在では早期に抗生物質を内服すると化膿が進まずに治ることが多い。[野波英一郎]」

とある。
 九句目。

   ねぶと痛がる顔のきたなき
 わがせこをわりなくかくす縁の下 野水

 「せこ」は背子で夫か男の恋人を指す恋の言葉で、根太で顔が醜いから人に見られないように縁の下に隠す。
 十句目。

   わがせこをわりなくかくす縁の下
 すががき習ふ比のうきこひ    落梧

 すががき(清掻)は和琴の基礎的な奏法で、幼く未熟な女性が通ってくる男を隠している。
 十一句目。

   すががき習ふ比のうきこひ
 更る夜の湯はむづかしと水飲て  野水

 この場合の「むづかし」は面倒という意味で、夜更けにお湯を沸かすのは面倒だと水を飲む。慣れてない遊女の様としたか。
 十二句目。

   更る夜の湯はむづかしと水飲て
 こそぐり起す相住の僧      落梧

 恋の意味はなく、普通の男同士の気安さとする。

2021年12月15日水曜日

 今日は免許証の更新に行ってきた。二俣川まで行ったので、隣の希望ヶ丘でたぬきケーキを買った。今日も平和な一日だ。

 それでは「東路の津登」の続き。今日は最終回。

 「ここより宇都宮へ行おりふしも雨風いでてぬれぬれ日暮に着ぬ。明るあしたの晴間にぞ当宮めぐり侍る。まことかうがうしき神だち也。廿一年づつにつくりあらためらるとかやいづくもいづくもあたらしく見えたり。」(「東路の津登」太田本)

 宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)であろう。下野国一之宮で日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)とは別のものとされている。遷宮が行われていたから「うつのみや」と呼ばれたという説もある。前回の遷宮は明応九年(一四九八年)に宇都宮成綱によって行われている。宇都宮成綱は壬生氏の主君でもある。
 ところでこの宇都宮成綱だが、ウィキペディアによると、

 「文亀3年(1503年)、積極的に勢力を拡大する成綱は下野国塩原の地を巡って会津の長沼氏との間に頻繁に争いを起こすようになる。また、同時期に蘆名氏の蘆名盛高も宇都宮領である下野国箒根を狙い北関東に侵攻しようとする動きを見せていた。」

とあり、宗長のやってきた時には、

 「永正6年(1509年)、蘆名盛高が長沼政義を先頭に関谷片角原に出陣してくる。それに対して成綱は紀清両党、一門である塩谷氏やその家臣である大館氏、山本氏、塩原綱宗などを率いて、和田山片足坂の三郎淵で対陣した。平貞能の末裔である田野城主の関谷氏が突然宇都宮勢から蘆名勢に寝返り、宇都宮勢の動きを蘆名勢に密告しようとしたが、成綱はこれに気づき、攻撃する。その結果、蘆名勢は総崩れとなり、成綱ら宇都宮勢の大勝となる(片角原の戦い)。これによって、塩原領は永正7年(1510年)、宇都宮成綱の物となり、弟の塩谷孝綱に与えた。」

とあるが、その合戦の真っ最中だった。

 「此宮より白川の関の間わづかに二日路の程といふ。され共、那須と鉾楯すること出来て合戦度々に及べりとなむ。一向に人の行かひもなければ、那須の原いとどたかがやのみ成となむ。ひたちのさかひをめぐれば、日数十五日ばかりに行かへりなんといふ。
 日比雨もいとどかしらさし出べくもあらず降そひて、きぬ川・中河などといふ大河洪水のよしきこえしかば、爰にいつとなく滞留も益なし、さらばたち帰るべきにさだむ。あまりに無下にも遺恨にもおぼえて、

 かつこえて行方にもと聞し名の
     なこそやこなた白川の関」(「東路の津登」太田本)

 冒頭に「白川の関のあらまし、霞と共に思ひつつなん」とあったのも結局実現できなかった。
 宇都宮から白河へは古代には東山道が通っていた、今のさくら市と那須烏山市の境界の直線道で、将軍桜がある。今の国道293号線へ通じ、那須那珂川町小川の方へ出て、真っすぐ北へ黒羽を経て伊王野へ行く道があった。
 宗祇の『白河紀行』はこの道ではなく、日光から玉入・矢板・大田原を経て黒羽へ出る、後の芭蕉が『奥の細道』で通るのと同じようなルートを通っている。この頃は宇都宮から矢板へ出る道があったのかもしれない。
 ただ、宗祇が通った時も既に人の背より高い笹が茂り、視界の利かない道だった。このルートが使えたなら大田原で一泊して、翌日には白河まで行けただろう。
 ここで「たかがや」というのも、背の高い萱や篠の茂る視界の利かない道だったのだろう。
 「ひたちのさかひをめぐれば」というのは、一度常陸太田まで行き、そこから今の国道349号線のルートを行き、矢祭町の先は国道118号線に沿って行く道であろう。これも古代東海道の延長線上にある古いルートだった。相当な遠回りになるので、往復十五日も誇張ではあるまい。

 「折しもこがの江春庵所労の人につきて同日にこの所へのことにて、長阿脈などこころみらる。余命おほからぬ身なれば、名医に面拝且快然の思ひなきにあらずや。」(「東路の津登」太田本)

 長阿というのは宗長の僧としての名前だろうか。当時の連歌師には「阿」の付く人が多いが、時宗と関連していた。宗長も藤沢の遊行寺に立寄っている。
 江春庵というと古河で兼載も診てもらっていて、「江春庵とて関東の名医その方にて養性あり」と前にも書いてあった。たまたま宇都宮に来ていて宗長も診てもらった。
 兼載が前年に芦野の庵を引き払ったのも、文亀三年(一五〇三年)からの合戦の影響があったのかもしれない。

 「十三日に壬生の館に帰来る道の雨風、蓑も笠もたまらず、大雨一夜車軸のごとし。十四日午刻ばかりに晴たり。
 十五日は名月とて発句催あり。今宵の発句古来趣向ことつきぬらむ、いかがとおぼゆれどしゐてのことなれば、

 月今宵ちりばかりだに雲もなし

 今夜の青天の心成べし。」(「東路の津登」太田本)

 十三日には大雨が降った。また別の台風が来たのだろうか。「車軸の如く」というのはそれだけ太いということで、今となってはあまりピンとこない言い回しだが、これは地面に飛び跳ねる王冠状の雫を車輪に喩え、車軸が降って来たみたいだというところから来たらしい。
 十四日の午後には晴れて十五日の名月は塵一つない澄み切った空になった。順調に白河へ行っていれば白河の関で見る月だった。

 月今宵ちりばかりだに雲もなし  宗長

 句の意味もそのまんまと言っていいだろう。それに心に塵がないというのを掛けている。

 「十六日に、大平といふ所に般若寺とて山寺あり。佐野への道にて一宿す。翌日に連歌あり。

 鹿の音や染ば紅葉の峯の松

 松・杉の山深き興ばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)

 大平の般若寺は今の大平山神社で、壬生と佐野の間にある。神仏分離前は慈覚大師が開いた連祥院般若寺だった。
 ここでの連歌会の発句、

 鹿の音や染ば紅葉の峯の松    宗長

 山なので当時は鹿の声も普通に聞こえてきたのだろう。鹿の悲しげな声に常緑の峰の松も紅葉するのではないか、という句だ。

 「十八日にさのへとて、つなしげもここよりかたみに別おしみて出ぬ。又などいひ袖をひかえて、

 六十年あまりおなじの二の行末は
     君がためにぞ身をもいのらむ

 綱重と長阿同年とあるに、おもひよそへて心をのべ侍るばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)

 宗長は文安五年(一四四八年)の生まれ、壬生綱重も文安五年(一四四八年)の生まれで共に数えで六十二歳、タメになる。
 この次いつ会えるかもわからないが、とりあえず「又」と言って別れて行く。

 六十年あまりおなじの二の行末は
     君がためにぞ身をもいのらむ
              宗長法師

 壬生綱重は永正十三年(一五一六年)、宗長はかなり長生きして天文元年(一五三二年)、この世を去っている。
 別れを以て終わらせるところは、『奥の細道』の蛤の二見の別れにも受け継がれているのかもしれない。

2021年12月14日火曜日

 昨日はあれから八時に家を出て、足柄峠へふたご座流星群を見に行った。関東平野はどこも明るいので、静岡側に出ないと星もあまり見えない。峠から見ても東の空が月もないのに明るい。
 昨日は寒かったけど天気は良くて十日の月が出ていた。月明りで足柄城址も明るく照らされていた。東は都会の明りで西は月明りだったが、大きな流れ星が時折流れて行った。
 夜中を過ぎると月も傾き、富士山に沈むのが見えた。それとともに足もとも暗くなり、空にも薄暗い流れ星が見えるようになった。ただ、この頃から若干の雲が出てきた。午前二時頃までに三十個近い流れ星が見えた。
 四時ごろに家に帰ったが、この頃はまだ晴れていたのに、ちょっと眠って八時に起きると雨が降っていた。横浜の初雪の観測があったらしいが、ほんのわずかの間だったのか見ていない。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「むろの八嶋見てそれより日光山をのをのうちつれて、鹿沼といふ所へ綱房父筑後守綱重の館へたちより一宿す。亭主念比のいたはり、いろいろのことのはをよび侍らん。
 そのあした、亭主日光へあひともなはんとて出たちのいそぎなどのあひだに、

 わかえつつ黒髪山ぞ秋の霜

 所望はなかりしかど、あまりの心ざしどもの切なる謝しがたきばかり。」(「東路の津登」太田本)

 壬生から鹿沼を通って日光に行くコースは、後の芭蕉の『奥の細道』のコースとも重なる。
 壬生の亭主、中務少輔綱房の父、筑後守綱重の館が鹿沼にあり、そこで一泊する。そしてその案内で日光へと向かう。その時の句は特に連歌会だとかのために所望されたのではない。こういう発句だけを独立に詠むことも時折あった。

 わかえつつ黒髪山ぞ秋の霜    宗長

 「わかえつつ」は若返りながらという意味で、『古今集』巻十九、一〇〇三の壬生忠岑「古歌にくはへてたてまつれる長歌」に用例がある。
 この私も若返って黒髪山になるとしようか、既に髪には秋の霜が下りているが、となる。宗長は文安五年(一四四八年)の生まれで、六十一になる。四十で初老という江戸時代の庶民の寿命からすると、この頃の連歌師は長寿だった。

 「此所くろかみのふもとなれば也。座禅院は此息とかや。うまご・ひこ、類ひろくさかへたる人なれば、それを賀し侍るばかり也。
 鹿沼より日光山迄は五十里の道、此比の雨に人馬の行かひとをるべくもあらざりしや、かぬまより道をつくらせ、てらの坂本迄は遥々のことなり。
 さかもとの人家数もわかず作りつづけて、京かまくらの市町のごとし。山々よりつづらおりなる岩を伝へてよぢのぼれば、寺のさま哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原の峯幾重ともなし。
 左右の谷より大成川ながれ出たり。落あふ所の岩の崎より橋あり。ながさ四十丈也。中をそらして柱も立ず見へたり。山すげの橋と昔はいひわたりたるとなむ。此山に小菅生ると万葉集にあり。ゆへ有名と見えたり。
」(「東路の津登」太田本)

 筑後守綱重は壬生綱重でウィキペディアの「壬生綱房」の項には、

 「文明11年(1479年)、下野宇都宮氏の家老・壬生綱重の嫡男として誕生。主君・宇都宮成綱から偏諱を受けている。
 父・綱重が鹿沼城を任せられると、綱房は壬生城主となった。永正6年(1509年)に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。」

とある。また、

 「綱房は日光山を掌握しようと、二男・座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄期の頃に日光山御神領惣政所となり、日光山の統治者となった。」

とあるが、「座禅院は此息とかや」とあることから、先代の綱重の息子も座禅院別当代だったのか。
 座禅院は後の輪王寺のことで、室町時代に日光山を管理し、十五代に渡る権別当がいた。そのうち六人の墓が日光に現存しているという。輪王寺の名前は明暦元年(一六五五年)以降だという。
 鹿沼より日光山迄は五十里の道とあるが、江戸時代以降の里(約四キロ)だとするといくらなんでも遠すぎる。ウィキペディアには、

 「律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町(≒545m)から6町(≒655m)の間であった。なお本節では、明治に定められた「1町 = 1200⁄11m ≒ 109m」の比をさかのぼって使う。
 ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、半時(約1時間)歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになるが、目的地までの里数だけで所要時間がわかるという利点がある。しかし、やはりこれでは混乱を招くということで、豊臣秀吉が36町里(≒3927m)に基づく一里塚を導入し、1604年に徳川家康が子の秀忠に命じて全国に敷設させた(ただし実際には、独自の間隔で敷設されていた各地の里が完全に置き換えられることはなかった)。
 ‥‥略‥‥
 このように、もっぱら6町の里と36町の里が併存し、「小道(こみち)」「大道(おおみち)」や「大里」「小里」などと区別した。また、小道は東国で使われたため「坂東道」「東道」「田舎道」など、大道は「西国道」「上道」などとも呼ばれた。東国で小道が使われていた名残は、七里ヶ浜(神奈川県)や九十九里浜(千葉県)のような地名に残っている。陸奥国では江戸時代後期まで小道が使われていたが、すでに古風と思われていた。」

とある。
 ここでいう五十里が小道だとすれば655m×50で32キロ750メートル、これが妥当な距離だろう。
 「京かまくらの市町のごとし」という坂本は、今の東武日光駅のある辺りであろう。
 「山々よりつづらおりなる岩を伝へてよぢのぼれば、寺のさま哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原の峯幾重ともなし。」は座禅院(輪王寺)への道であろう。松杉は文明八年(一四七六年)日光山第四十四世別当になった昌源が植えたと言われている。
 「左右の谷より大成川ながれ出たり。落あふ所の岩の崎より橋あり。ながさ四十丈也。中をそらして柱も立ず見へたり。山すげの橋と昔はいひわたりたるとなむ。此山に小菅生ると万葉集にあり。ゆへ有名と見えたり。」
とあるのは大谷川と稲荷川の合流する辺りだろう。長さ四十丈(約百二十メートル)の橋というのが本当なら、今の神橋の四倍はある。旧甲州街道の猿橋に見られるような刎橋(はねばし)だったと思われる。
 今の神橋は刎橋と桁橋を組み合わせた構造を取っているという。古代中世の日光の橋は「山菅の橋」とも「山菅の蛇橋」とも呼ばれた。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「神橋」の解説」には、

 「日光開山の祖、勝道上人(しょうどうしょうにん)が大谷川の急流を渡れないでいたとき、対岸に現れた深沙(じんじゃ)大王の手にした2匹のヘビが橋をつくり、山菅(やますげ)がその上に生えて渡河するを得たという。のち、ここに架けた橋は山菅橋あるいは山菅の蛇橋(じゃばし)などとよばれ、現在は神橋とよばれる。寛永(かんえい)年間(1624~1644)の修復の際、現在の形に改造された。」

とある。
 「此山に小菅生ると万葉集にあり」という万葉集の歌はよくわからない。小菅は和歌では「岩小菅」あるいは「岩元小菅」「玉小菅」として三室の山、奥山、山里、山城、長谷の山、足柄、箱根などに詠まれている。

 「その日の入逢のほどに鏡泉房につきぬ。やがて明る日は座禅院にして連歌あり。

 世は秋もときはかきはの深山かな

 当山常住不退地僧侶繁栄陰々堅固なることを述侍るばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)

 鏡泉房は他本に「宿坊鏡泉房」とあり宿坊の名前だったようだ。翌日は座禅院で連歌会が興行される。発句は、

 世は秋もときはかきはの深山かな 宗長

 「ときはかきは」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「常磐堅磐」の解説」に、

 「〘名〙 (形動) 永久に変わらないこと。また、そのさま。
  ※書紀(720)神代下(鴨脚本訓)「生めらん児、寿(みいのち)は永くして、如磐石(トキハカキハのあまひ)に常存(またか)らまし」
  [補注]「日葡辞書」では、建物が密集しているさまの意としている。」

とある。
 普通に読めば世は秋だが、ここにいる人たちはいつも若々しいという御世辞か、「若々しくあれ」という祝言だが、「日葡辞書」の意味でこんな山奥なのに都のように家が建て込んで、という裏の意味を込めたのかもしれない。
 「繁栄陰々堅固なること」というから、常盤のように繁栄するとともに、これだけの大きな街になっているという意味を込めたとしてもおかしくはない。

 「夜に入てはてぬ。執筆は児の十七・八にやおぼゆるにぞ。一座終日の興もあさからず侍し。宮増源三などいふさるがくのまじはりあひて、夜更るまで盃もあまた度に成て、うたひ舞して心ゆきおもしろきさま、誰か千代もとおもはざりけん。
 翌日には本道同権現拝して、滝尾といふ別所あり。滝本に不動堂有。回廊あり。ひだりみなぎり落たる川あり。松風二十余丈に大石をしけり。なべて寺中の石をたたみてなめらかなり。是より谷を見おろせば、院々僧屋をよそ五百房にもあまりぬらんかし。
 中善寺とて四十里上に湖ありとかや。此寺より宇都宮へ六十里なれば、よこくらといふ人の所はんぶん道にして、綱重又同道して連歌有。

 遠く見し立枝や宿の薄紅葉

 もずの鳴櫨のたち枝のうす紅葉
     誰我やどのものと見るらむ

 ふと思ひ出侍るばかりなるべし。」(「東路の津登」太田本)

 連歌興行は夜に終わった。主筆(執筆)は十七八の若者が務めた。前にも乙丸が務めてた時があったから、若い者が担当することが多かったのかもしれない。
 宮増源三は宮増を名乗る能楽師集団の一人と思われる。ウィキペディアには、

 「宮増(みやます)は、能「調伏曽我」「小袖曽我」「鞍馬天狗」「烏帽子折」「大江山」などの作者として、各種作者付に名前が見られる人物。計36番もの能の作者とされながら、その正体はほとんど明らかでなく、「謎の作者」と言われている。
 その作風は先行する観阿弥、また後の観世小次郎信光などに通じるもので、面白味を重視した演劇性の強い作品が多い。
 永享頃から室町後期にかけ、宮増姓を名乗る「宮増グループ」と呼ぶべき大和猿楽系の能役者群が活動しており、近年の研究では能作者「宮増」はその棟梁を務めた人物、あるいはグループに属した能作者たちの総称であるとも考えられている。」

とある。江戸時代でも能楽は「さるがく」と呼ばれることがあった。「誰か千代もとおもはざりけん」は宗長の発句の「ときはかきは」の祝言を受けている。
 翌日、まず「本道同権現拝して」とあるのは座禅院の本堂の権現で、そのあと「滝尾といふ別所」へ向かう。座禅院(輪王寺)の北に今も滝尾神社があり、白糸の滝がある。傾斜した岩の上を流れ落ちる滝で、真下に落ちる滝ではない。「みなぎり落たる川」というのは正確な描写と言える。かつては不動堂や回廊のある立派な寺院だったのだろう。
 見晴らしのいい場所があったのだろう。見おろすと坂本に立ち並ぶ宿坊が見え、その数五百と言われるほどだった。
 「中善寺とて四十里上に湖ありとかや」は実際に行ったわけではなく、ここで聞いた話だろう。この頃の一里は655mなので約二十六キロになる。直線距離ではなく、うねうねと曲がりくねった山道を行く道のりであろう。
 宇都宮へ六十里というのも約四十キロになる。その半ばに横倉という人の住む所があったのだろう。そこまで綱重に送ってってもらい、そこで連歌興行たあった。発句は、

 遠く見し立枝や宿の薄紅葉    宗長

 山から離れた開けた土地だったのだろう。見えるがままに詠んだという感じがする。
 薄紅葉は庭の櫨(はぜ)の木だったのだろう。

 もずの鳴櫨のたち枝のうす紅葉
     誰我やどのものと見るらむ
              宗長法師

という和歌も残して行く。

2021年12月13日月曜日

 今年一年を表す漢字は「金」ということで、まあ二〇一二年、二〇一六年と続いて、大体オリンピックの年は「金」というのが定着したかな。
 コロナが収まってしまうと、オリンピックの時のあの罵詈雑言はどこへ行ったかという感じで、今はすっかり静かになっている。
 終わってみれば日本は何もない平和な一年で、オリパラ選手と大谷選手の活躍の目立っただけの年だったんだな。
 前澤さんも宇宙に行き、アニメの「月とライカと吸血姫」のレフも無事に宇宙へ行った。地球はガガーリンの頃と変わらず丸くて青いようだ。
 すべての人類を乗せているこの船は、物理的に大きくなったわけではない。大きさは変わっていない。ただ生産性が向上したから定員が増えただけだ。
 この狭い地球でみんなが争わずに生きていくには、生産性を更に向上させるか、子供の数を減らすかしかない。他の解決策はない。分不相応な望みを抱くなら、再び人類は虐殺を繰り返すことになる。
 更なる経済成長を推し進め、労働力の不足はロボットとAIで補う。今はそれしかない。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「佐野といふ所へうつり行。此所は万葉集にさの田の稲と読り。ふな橋此あたりや。爰に五日ばかりあり。小児の連歌するあり。宿の主じ山上筑前守興行。

 今朝よりや葉さへうつらふ萩の花

 ただ下葉うつらふとや侍らむ。佐野小太郎の亭にして、

 朝露はさりげなき夜の野分かな」(「東路の津登」太田本)

 「さの田の稲」は、

 上つ毛の佐野田の苗のむら苗に
     事は定めつ今はいかにせも(万葉集巻十四、三四一八)

の歌のことか。
 佐野の船橋は、

 上つ毛の佐野の舟橋取り離し
     親はさくれど我は離るがへ(万葉集巻十四、三四二〇)

の歌に詠まれていて、謡曲『船橋』のもなっている。今は高崎市の上佐野町にあったとされている。
 「小児の連歌するあり」は彰考館本には「小児乙丸連歌器量なるあり」とある。子供でも連歌の上手な人がいたようだ。「音丸」としている本もある。
 山上筑前守の所に五日滞在し、連歌興行の発句に、

 今朝よりや葉さへうつらふ萩の花 宗長

の句を詠んでいる。「うつらふ」は葉が色づくことであろう。萩の葉も黄色くなる。花も哀れだが、下葉が色づくのも哀れと、「ただ下葉うつらふ」とそこに目を付けた句だとしている。
 佐野小太郎の亭で、

 朝露はさりげなき夜の野分かな  宗長

の句を詠む。足利で吹いていた風はやはり野分の風だったようだ。
 「さりげなし」は今日の意味と同じだが、ここでは「去りげなし」と掛けて、なかなか去って行かない野分という意味でも用いている。

 「その夜野分してあした成べし。同越前守見参有てはいばいしかりしこと共なり。
 兼載此所より坂東路五十里ばかり隔りて、古河といふ所に所労の事あり。江春庵とて関東の名医その方にて養性あり。文などして申つかはし侍り。中風にて手ふるひ身もあからずとぞ。
 是より壬生といふ所へ横手刑部少輔成世相伴なはれて連歌あり。小児執筆する也。

 木末のみ村だつ霧のあしたかな

 此あしたの眺望ばかり也。」(「東路の津登」太田本)

 「はいばいし」は他本では「はへばへし」になっているが、意味はよくわからない。「延(はへ)る」から来た言葉か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「延」の解説」に、

 「〘他ア下一(ハ下一)〙 は・ふ 〘他ハ下二〙 (「はう」に対応する他動詞形)
  ① 糸・紐(ひも)・綱や、布・袖などを長く引きのばす。のばしひろげる。長くはわせる。
  ※万葉(8C後)五・八九四「墨縄を 播倍(ハヘ)たる如く」
  ② 転じて、心情、ことばなどを相手に届くようにする。心をよせる。ことばをかける。
  ※古事記(712)中・歌謡「蓴(ぬなは)繰り 波閇(ハヘ)けく知らに 我が心しぞ いや愚(をこ)にして 今ぞ悔しき」
  ③ 数を順次ふやす。
  ※浄瑠璃・吉野忠信(1697頃)三「数へて見ればこはいかに十といひつつ四つはへて」
  [補注]室町時代頃からヤ行にも活用した。→はゆ(延)」

とある。②だとすると互いにしみじみと語り合った、という意味であろう。
 兼載が古河で療養していると聞いて、文を人に托す。『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)によれば、前年の永正五年(一五〇八年)に芦野の庵を引き払って古河に移り、永正六年には病中夏日百句や「閑草」を著作したという。翌年永正七年六月六日にこの世を去る。
 足利から佐野を経て壬生に至る道は、概ね古代東山道に沿っている。今の壬生市街地の南西、東武線野州大塚駅の近くに室の八島として知られている大神神社がある。その南に下野国庁跡がある。古代東山道はこの辺りを通っていたのだろう。東には天平の丘公園がある。
 佐野から横手刑部少輔成世と乙丸(音丸)が同行し連歌会が興行される。乙丸が主筆を務める。発句は、

 木末のみ村だつ霧のあしたかな  宗長

 朝霧が地面を覆う中、木のてっぺんの方だけが霧の上に覗いて見える。それがあちこちに見える、この辺の平野の情景であろう。畠の中に杉林や雑木林が点在していたのだろう。その中には大神神社の森もあったか。

 「むろの八嶋ちかきほどなれば、亭主中務少輔綱房、これかれ伴ひて見にまかりたり。まことにうち見るよりさびしく哀に、折しも秋なり。いはんかたなくて、

 朝霧やむろの八しまの夕煙

 夕のけぶり今朝のあさ霧にやと覚へ侍るばかり也。猶哀にたえずして、

 あづまぢのむろの八しまの秋の色
     それともわかぬ夕けぶりかな

 人々にもあまたありしとなり。」(「東路の津登」太田本)

 壬生に来たなら、当然室の八島を尋ねないわけにはいかないだろう。そこで一句、

 朝霧やむろの八しまの夕煙    宗長

 室の八島といえば、

 風吹けば室の八島のゆふけぶり
     心の空に立ちにけるかな
              藤原顕方(千載集)
 暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ
     室の八島も都ならねば
              藤原定家(新勅撰集)

など、夕暮れの煙が詠まれている。
 おそらくもっと古い時代には、この辺りは低湿地帯で、大きな池やそこに浮かぶ島が独特な景観を織り成していて、そこでは温泉が湧き出ていたのか、それとも温度差のある水が流れ込んでいたのか、とにかく八つの島がいつも煙で包まれていたのだろう。
 時代が下ると伝承だけが残り、実際には煙はなく、「心の空に」だとか「衛士のたく火をそれと見よ」になったのだろう。
 宗長もその幻の煙を思い、朝霧を煙に見立てての吟になる。

 あづまぢのむろの八しまの秋の色
     それともわかぬ夕けぶりかな
              宗長法師

 この和歌の方も「それともわかぬ」と幻の夕煙を思うことになる。
 歌枕での詠は古歌に敬意を表し、「煙なんかないじゃないか」みたいな詠み方はしない。ただ、「心の中に煙が見えますよ」とするのが礼儀というものであろう。
 後に芭蕉も、

 糸遊に結びつきたる煙哉     芭蕉

と陽炎をいにしえの煙に見立てて詠んでいる。

2021年12月12日日曜日

 北京オリンピックの方は、日本は政治的ボイコットではなく、オリンピック関係者の派遣ということで妥協するようだ。まあ、名目的にはボイコットにしたくないという所なんだろう。どうせなら北京の開催権を剥奪して札幌開催とか頑張ってほしかったが。
 ふと思ったんだが、古典経済学の「投下労働価値説」というのは農業労働と工業労働を何で一緒くたに論じているのだろうか。
 投下労働価値説というのは、おそらく西洋初期近代特有のロビンソンクルーソー設定なんだと思う。一人の人間が生きてゆくための生産は一人の人間の労働で完結するという前提なんだと思う。あるいは、ルソーの自然人のように、自分が生きるのに必要なものは誰もが自分でまかなえるという前提に立っている。
 大人であればだれもが自給自足ができる、というのはアメリカの開拓者精神にもあったのだろう。それを基礎として、労働とそれによって生産された物の価値が定数として措定され、一人の人間の労働は、一人の人間が平均的に生産する食料と簡単な道具類の価値と等しい、となる。
 そして時間は有限であり万人にとって等しく与えられているというところで、何を生産しようとも、その価値は労働時間に等しいということになる。
 問題はこの「何を生産しようとも」だ。
 人口の九十九パーセントが農民であるなら、確かにこれで問題はない。ただ、少数でも工業労働や商業労働が存在すれば、彼らの生活は農民の生み出す食料の余剰を消費しなくてはならない。
 つまり一人の農民の生産と、一人の職人の生産が同じ価値なら、それを交換することができるが、交換してもそこには一人分の食料しかない。九十九人の農民と一人の職人なら九十九人分の食料があり、それほど問題はないが、商工業が発達して農民の比率が下がれば当然ながら食糧が不足する。一人の農民の生産する農業生産の生産性が向上されているという条件がなければ、相対的に商工業者の労働の価値は下がってしまうのではないか。
 多産多死社会では一般的に農民の余剰生産で養える以上の人口が都市に集まってしまう。そのため都市は食い詰め者の吹き溜まりになり、至る所にスラムが形成され、貧困と不衛生と暴力で多くの人が死んでゆくことになる。そこで誕生した資本主義は、最初から労働者の貧困を背負う宿命があったのではなかったか。
 その意味で古典経済学の投下労働価値説は、都市の食い詰め者にも百姓と同等に生きて行く権利があるという、基本的人権の主張だったのではなかったか。
 投下労働価値説はあまりに理想的であったがゆえに、現実の経済を説明する際に様々な矛盾が生じてしまい、結局限界革命が起きることとなったと考えればいいのか。
 あと、岩波の日本古典文学大系の『假名草子集』の「伊曾保物語」を途中まで読んだ。イソップ童話って有名なもの以外は全く知らなかったので、あらためてこういう話だったのかという感じだ。寓話というよりもイソップとシャントの頓智話と言った方が良いのか。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「又二日ばかり終日閑談、忘れがたきことのみ成べし。
 岩松の道場にして所望に、

 花にくまもとあらの萩の月の庭」(「東路の津登」太田本)

 岩松は今の群馬県太田市岩松町であろう。道場は藤沢にもあり、そこでは遊行寺のことだった。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「道場」の解説」に、

 「④ 浄土真宗や時宗で、念仏の集まりを行なう場。簡略なものから、寺院までをいった。
  ※改邪鈔(1337頃)「道場と号して簷(のき)をならべ墻をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事」

とあるから、道場と呼ばれるものはあちこちにあったのだろう。岩松町には岩松山青蓮寺という時宗の寺がある。
 「もとあら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「本荒」の解説」に、

 「〘名〙 木がまばらにはえていること。一説に、根元の方に花も葉もなく荒れていること。また一説に、去年の古枝に花が咲くこと。
  ※曾丹集(11C初か)「我やどのもとあらの桜咲かねども心をつけて見ればたのもし」

とある。

 花にくまもとあらの萩の月の庭  宗長

 萩の花に隈(くま)があるということで何だろうと思わせて、萩の根元の方が花や葉がないので、月が照らしてもそこが暗く見える、ということにする。

 「祖光とてもとより知音の隠者あり。一宿す。一折の望ありしかど、白川よりの帰路とて発句ばかり、

 風の見よ葉にしたがへる萩の露

 小庵のさまなるべし。」(「東路の津登」太田本)

 同じ岩松に祖光という隠遁者の庵があり、そこに一泊する。連歌一折を所望されたが、白川の帰りにということで発句だけ残す。

 風の見よ葉にしたがへる萩の露  宗長

の句だが、他の本では「風も見よ」となっていて、こっちの方が正しいのだろう。
 萩の葉に降りた露が風に吹かれて移動してゆく様を「葉にしたがへる」と表現する。
 そのあとに「小庵のさまなるべし」というのは比喩の意味も含めて、露を小庵に喩え、こういう不穏なご時世ですから、風のままに小庵に籠って隠棲するのが賢明でしょう、という意味を込めている。

 「静喜より若殿原そへられて、下野国あしがらへをくらるる。
 学校に立寄侍れば、孔子・子路肖像をかけられたり。爰かしこのひと間ふた間の所々をしめて、諸国の学校かうべをかたぶけて、日ぐらし硯にむかへるさまかしこくかつ哀にも見え侍り。鑁阿寺一見して、千住院といふ房にて茶などのつゐでに、今夜は爰にとしゐてありしに、此院主もと草津にて見し人也。かたがたいなびがたくて三日ばかり有て連歌あり。

 ふけ嵐散やはつくす柳かな

 てにはいかがおぼえ侍り。」(「東路の津登」太田本)

 若殿原はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「若殿原」の解説」に、

 「〘名〙 若い侍たち。若い人たち。
  ※平家(13C前)七「わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし」

とある。
 新田の静喜から若侍を護衛兼案内役に付けてもらい、足利へ向かう。「あしがら」は「あしかが」の間違いであろう。今でも間違えやすい。
 足利といえば足利学校で、ここに立寄る。ウィキペディアには、

 「室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。」

とある。その内容は、

 「上杉憲実は1447年(文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた。この中で足利学校で教えるべき学問は三註[6]・四書・六経[7]・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。」

と言うように儒教が中心だった。
 鑁阿寺(ばんなじ)はウィキペディアに、

 「鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。」

とある。元は足利氏の館で、館内に大日如来を奉納した持仏堂を建てたのが始まりだという。足利学校の裏側に隣接している。
 ここに三日ほど滞在し、連歌会も行われた。

 ふけ嵐散やはつくす柳かな    宗長

 折から台風が近づいていたのか。「散やはつくす」は「散りつくすやは」の倒置。「やは」は切れ字の「や」と意味的には同じに考えていいが、「は」という助詞で後ろに繋がるので切れ字にはならない。地理尽くしてしまうかもしれない、散り尽くすもまた良い、柳かなと繋がる。
 「てにはいかがおぼえ侍り」とあるように、苦心したてにはの使い方だったのだろう。
 散る柳は、

 下葉散る柳のこすゑうちなびき
     秋風たかし初雁のこゑ
              宗尊親王(玉葉集)

などの歌に詠まれている。

 「日をへだてずして東光院威徳院興行に、

 風はわかし松に吹音萩の声
 杉の葉に月も木高き軒端哉」(「東路の津登」太田本)

 東光院威徳院は鑁阿寺内にあった。かつては今よりはるかに広い面積があったのだろう。十二の院があったという。

 風はわかし松に吹音萩の声    宗長
 杉の葉に月も木高き軒端哉    同

 「風はわかし」はこの場合は若者のように荒々しいということか。
 足利でも強い風が吹いていた。その風はまだ止まずに、この日も松や萩を音を立てて吹き付けていた。
 もう一つの句は、境内の背の高い杉の木の遥か上の方の月が、この連歌会の行われている部屋の軒端から見える、というその場の景を詠んだものであろう。

2021年12月11日土曜日

 この辺も葉がかなり落ちて冬景色になってきた。
 寒さのせいもあるのだろう。コロナの新規感染者は実効再生産数が1を少し越えるようになってじわじわと増えてきているが、これから年末にかけて爆発的に増えさえしなければ、正月休みでまた乗り切れるだろう。
 今年もラジオに月刊ムーの編集長が来て来年の予言をしていた。今年ももうそんな時期になってしまったか。
 去年の予言は大外れで、オリンピックはやったしバイデンさんはまだ生きている。来年も同じくバイデンさん死去、それと台湾有事だという。まあ、はずれてほしいけどね。
 台湾有事というのはソチの後にロシアがウクライナに侵攻したから、北京の後にもというもので、ありそうだから恐い。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「同十五日、氏宗息政定と彼是を初たちならびて、むさし野の萩薄の中を行過て、日ぐらし二日に分はてて、長尾孫太郎の館鉢形といふ所に着ぬ。政定に馬上ながら口ずさびに、

 むさし野の露のかぎりは分も見つ
     秋のかぜをばしら川のせき」(「東路の津登」太田本)

 三田氏宗の息子の三田政定がここに登場する。
 鉢形城は寄居の荒川沿いにある。「むさし野の萩薄の中を行過て」とあるから、山の中を通る鎌倉街道山の道ではなく、鎌倉街道上道の方を使ったのであろう。入間の辺りで合流したか。
 鉢形城はウィキペディアに、

 「1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年(文明8年)、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。これが鉢形城の始まりである。」

とある。
 ただ、そのあと、

 「1478年(文明10年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。」

とあり、

 「以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。」

とあり、上杉顕定は永正七年(一五一〇年)の没だから、永正六年(一五〇九年)の時点では上杉顕定の城で長尾孫六左衛門忠景が顕定に仕えていた。長尾孫太郎もその一族のものであろう。伊地知本、西高辻本、祐徳本には長尾孫太郎顕方とある。

 「此比は、越後の鉾楯により、むさしのさぶらひ進発のことあり。いづこもいづこもさはがしかりしかば、爰に一夜ありて、翌日に日たけて、杉山といふ人案内にて、長井左衛門宿所へとて送らる。夜に入てをちつきぬ。
 門をさし橋を引て夜更ぬとて入ざりけり。あたりにだにといへどもやどさず。力及ばずして跡へ立かへり、よしあしの中の道一筋を、たどりたどりをくれる人のしりたるといふ宿を尋て、夜中過に人も馬もつかれはてて、はふはふつきぬ。
 此あるじ成人情あるにてぞ、心をのべて其夜はあかし侍し。このあした利根川の舟わたりをして、上野国新田庄に礼部尚純隠遁ありて今は静喜といふ。彼閑居より罷よるべきよしあれば四・五日ありて連歌二度あり。

 霧分し袖に見ゆべき野山かな」(「東路の津登」太田本)

 「越後の鉾楯」は永正の乱のことで、ウィキペディアに、

 「永正の乱(えいしょうのらん)とは、戦国時代初期の永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。」

とある。このうちの越後の内乱については、ウィキペディアに、

 「永正3年(1506年)9月、越後守護代長尾能景が越中で戦死し、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった長尾為景が、永正4年(1507年)8月、上杉定実を擁立して越後守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で丸山信澄らと共に自害に追い込んだ。
 これを討たんとした顕定は永正6年(1509年)、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。しかし翌永正7年(1510年)には寺泊から再び越後へ上陸。為景方が反攻に転じると坂戸城主長尾房長は上杉軍を坂戸城には入れず六万騎城に収容させた。為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却したが、援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり、長森原の戦いで顕定を戦死させた。この戦いで、顕定に従軍していた長尾定明や高山憲重らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退した。
 その後為景は宇佐美房忠・色部昌長・本庄時長・竹俣清綱ら敵対勢力を破り、越中神保氏討伐へと繋がる。」

とある。
 宗祇の尋ねた永正六年(一五〇九年)はまさに「これを討たんとした顕定」が「報復の大軍を起こす」ところだった。「むさしのさぶらひ進発のことあり」はこのことと思われる。
 軍の準備で城中が騒然となっている中、とりあえずその日は一泊して、翌日杉山という者に案内されて長井左衛門宿所へ行く。
 その後の描写はその時のことだろう。鉢形城は門を閉じ橋を外して入れないようにして、仕方なく引き返し、芦の中の一本道を辿って、案内してくれた三田政定の知り合いの家を訪ねて、夜中過ぎに人と馬を出してもらって、とりあえずその夜を明かすことができた。この家の者が杉山だったのだろう。
 翌日、利根川を渡り新田の庄の礼部尚純の所へ行く。隠遁して静喜を名乗っていて、ここで連歌会が行われた。上野国新田は今の太田市・伊勢崎市・みどり市の辺りだという。太田市新田文化会館などに名前が残っている。新田文化会館の北西に東山道公園があり、古代東山道がここを通っていた。
 この時の興行の発句、

 露分し袖に見ゆべき野山かな   宗長

 寄居城のごたごたで、草原の露に濡れつつやっとたどり着いた長閑な野山だった。

 「かれより度々の便につきて、白川の関のあらましも出来て思ひ立ぬる心を述侍る成べし。又静喜の発句に、

 朝霧をしらでまたぬる小萩哉

 萩の発句にはいかばかりの風情みみなれ侍らず。源氏物語にや、かかる朝霧をしらではぬる物にもかなとあり。萩にとりなされぬるその工案あさからず。」(「東路の津登」太田本)

 静喜に白河の関へ行く計画があることを言う。
 また、

 朝霧をしらでまたぬる小萩哉   静喜

の発句があって、その意味が分からず尋ねると、源氏物語だという。この部分、他の本には「若紫の巻」とある。
 少納言の乳母の所へ行って若紫の姫君に会った後、帰りに六条御息所の家の前を通り、

 あさぼらけきりたつそらのまよひにも
     行きすぎがたきいもがかどかな

と御供の者に大きな声で読み上げさせると、下っ端の女房が出てきて、

 たちとまりきりのまがきのすぎうくは
     くさのとざしにさはりしもせじ

という返事が返ってきた、この場面であろう。
 これから自分をさらってゆく君がこんなことをやっているとは、よもや小萩(若紫)は知るよしもない、ということか。

2021年12月10日金曜日

 今日は大倉集古館へ「篁牛人展」を見に行った。
 独特なデフォルメと渇筆を多用する技法で異彩を放つというだけでなく、古典の画題を大胆に解釈することで伝統絵画を引き継いでいるという点で、もっと高く評価されても良い人だった。
 ピカソのキュービズムの影響があったというが、それでいて西洋の模倣はしていない。視点を固定しない絵というのは、伝統絵画も同じだ。だから、キュービズムはここではしっかりと伝統絵画の世界に溶け込んでいる。
 人物は細い線で白画に近いものにぼかしを入れ、木は龍の如くあるいは雲の如く、岩は折帯皴が基本で、女性はふくよかに描かれる。
 「寒山拾得」には梟が描かれている。「南泉斬猫」は猫を描かず、猫を繋いでいたと思われるリードのみを描いている。さすがに猫まで描いたらスプラッターだ。「雪山淫婆」は逞しい体に幼女のような陰裂が描かれていて、雪の処女か。「訶梨諦母」はこれはメタルだね。
 他にもいい絵がたくさんあって、飽きさせない展覧会だった。
 この後は久国神社、赤坂氷川神社、六本木天祖神社、櫻田神社と狛犬廻りをした。赤坂氷川神社の延宝三年といわれている、芭蕉が江戸に出てきた頃の狛犬を見た。文政や弘化の狛犬もある。
 狛犬廻りの途中、アークヒルズ、ミッドタウン、六本木ヒルズを通った。この素晴らしい街で運転手ながらも仕事ができて、いつも近くに居られたのは奇跡のようなものだろう。
 結局渋谷まで歩いて、富士そばのかつ丼を食って帰った。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「箱根山をしのぎて、相模国をだ原の館に一日滞留して、藤沢の道場に又一日やすらふことありて、発句、

 朝霧のいづここゆるぎ磯の浪

 この磯ちかき眺望なるべし。」(「東路の津登」太田本)

 当時の東海道は、既に足柄ルートよりも箱根ルートが主流になっていた。宗祇も箱根で死んだ。
 標高差を考えるなら、足柄越えの方がはるかに楽だが、箱根越えの方が最短ルートだということで、こちらが選ばれたのだろう。
 伊地知本、西高辻本、祐徳本には「浮島が原を経て」という記述があるが、浮島が原は沼津の手前なので位置的におかしい。
 沼津と田子の浦の間の「原」という宿があった辺りはかつては巨大な干潟があり、それが中世以降の寒冷化で海水の水位が下がって草原になったのであろう。古代東海道は海と干潟を隔てる砂州の上を通っていた。浜名湖の弁天島辺りの風景を想像すればいいかもしれない。
 上代はおそらく田子の浦から興津までは海路を利用していたのだろう。だから赤人の歌も「田子の浦ゆ打出てみれば」となっている。
 箱根を越えれば小田原で、ウィキペディアによれば平安末期には小早川遠平の居館があり、応永二十三年(一四一六年)に駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪ったという。
 そして、ウィキペディアにはこうある。

 「明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。ただし、年代については明応4年(1495年)、以後に大森氏が依然として城主であったことを示すとされる古文書も存在しており、実際に盛時が小田原城に奪ったのはもう少し後(遅くても文亀元年(1501年))と考えられている。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられている。以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。」

 宗長のこの「東路の津登」の旅は永正六年(一五〇九年)なので、小田原館はまだ北条氏が入ってなかったか、微妙な時期だ。
 とにかくこの小田原館で一泊し、藤沢へ向かった。「藤沢の道場」はコトバンクの「世界大百科事典内の藤沢道場の言及」に、

 「…25年(正中2),遊行上人位を安国に譲り,藤沢の地に寺を建ててここに住む。これが清浄光寺のおこりであり,当初は清浄光院あるいは藤沢道場と称した。これ以後,遊行上人は引退すると清浄光寺に住むことが慣例となり,これを藤沢上人と呼んだ。…」

とある。清浄光寺は遊行寺とも呼ばれていて、箱根駅伝でもお馴染みだ。今でも国道一号線が通っているように、中世以降の東海道はそこを通っていた。
 さて、その遊行寺での一句。

 朝霧のいづここゆるぎ磯の浪   宗長

 途中通った大磯のこゆるぎの磯を思い出しての句になる。

 玉だれのこがめやいづらこよろぎの
     磯の浪わけ沖にいでにけり
              藤原敏行(古今集)

の歌にも詠まれている。『源氏物語』帚木巻にも、

 「あるじもさかなもとむと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめ給ひて」(主人紀伊の守も肴を求めて、こゆるぎの大いそぎで歩き回り、源氏の君はすっかりくつろいで辺りを眺め)

という一節がある。
 小田原を出る時に朝霧がかかって、歌に名高いこゆるき磯はいずこ、となる。

 「八月二日、むさしの国かつぬまといふ所にいたりぬ。上田弾正左衛門氏宗といふ人有。此所の領主也。兼て白川の道々のこと申かはし侍しかば、ここに十四五日ありて連歌ややに及べり。

 霧は今朝分入八重の外山かな

 此山家は、うしろは甲斐国、北はちちぶと云山につづきて、まことの深山とは是をやいふべからん。」(「東路の津登」太田本)

 「武蔵国勝沼は今の青梅で、東青梅駅の北の方に勝沼城址がある。上田弾正左衛門氏宗は三田弾正左衛門氏宗の間違いで、ウィキペディアにも、三田氏宗の項に、三田 氏宗(みた うじむね、生没年不詳)は武蔵国の国人。勝沼城主。子に三田政定がいる。
 三田氏は武蔵国杣保(現在の青梅市周辺)に根を張った国人で平将門の後裔と称していた。
 室町時代には関東管領山内上杉氏と主従関係にあったようで、氏宗は上杉顕定の元で活動している。 長享の乱の際には長尾能景が扇谷上杉氏方から奪い取った椚田城(初沢城)の城主になっている。
 連歌師宗長の「東路の津登」(あづまじのつと)には宗長が永正6年(1509年)8月に勝沼城の氏宗の元を訪れ数日間滞在した事が見える。氏宗は子の政定と共に宗長を手厚くもてなし、宗長滞在中に度々連歌の会を催している事から和歌の嗜みもあったと思われる。」

とある。
 なお、西高辻本には「早川左京大夫行信」となっている。
 遊行寺からここまでのルートはよくわからない。鎌倉街道の上道を使ったか。
 さて、ここでも連歌興行があった。発句は、

 霧は今朝分入八重の外山かな   宗長

で、八重の外山は奥多摩の山々になる。
 ここから多摩川を遡り、大菩薩峠を越えれば甲州の塩山へ抜けられる。途中の軍畑(いくさばた)の辺りから鎌倉街道山の道で北へ向かえば、秩父の方へ抜けられる。

 「おなじ所に山寺あり。前はむさし野なり。

 露を吹野風か花に朝ぐもり

 むさし野の此ごろのさま成べし。」(「東路の津登」太田本)

 山寺は西高辻本、祐徳本には杉本坊とある。
 大悲山塩船観音寺と思われる。勝沼城址の北東にある。

 露を吹野風か花に朝ぐもり    宗長

 花はこの場合草の花で、秋の花野になる。萩、薄、女郎花、藤袴などの咲き乱れる野原に露が降りて、それを秋風が吹き飛ばして行く。

2021年12月9日木曜日

 三日の日記で訂正を一つ。土浦の国府ではなく、常陸の国府はその先に石岡でした。ここから筑波山に登って反対側から降りるというのが、桃隣のルートだった。

 「白河紀行」の次ということで、宗長の「東路の津登」を読んでみようと思ったが、手元にある重松裕巳編『宗長作品集』(一九八三、古典文庫)には五つの事なるテキストが掲載されている。
 宗長の研究者ではないので細かいことはよくわからないが、五つもあると、どれを読んでいいのか流石に迷う。太田本、彰考館本、伊地知本、西高辻本、祐徳本の五つで、長さも違う。
 まあ、とにかく難しいことを考えずに、一番短い「太田本」を基本として読んで行こうかと思う。
 一つには書き出しで、「白河のせきのあらまし」から始まるのが太田本、彰考館本、伊地知本の三つで、あとの二つは「我久しくするがの国に」で始まる。これは紀行文の著述意図の全く違う二つの原本があったのではないかと思う。
 つまり、普通の日記として意図されて書かれた「我久しく」と、白河への旅に焦点を絞った「白河の」の文章があったのではないかと思う。多分日記の方が元にあって、その後に白河に絞った文章が後になって作られたのだろう。
 今回は「梵灯庵道の記」、「白河紀行」に続くものとして読む分には、白河に焦点を絞りたいという、こちらの勝手な意図で読むので、一番短い太田本にする。詳しい諸本の系譜は専門の研究者に任せる、ということにしておきたい。

 「白川の関のあらまし、霞と共に思ひつつなん幾春をか過けむ。此秋をだにとて、永正六年文月十六日とさだめて思ひ立ぬ。その日は草庵りんか成人、一折と有しかばいなびがたくて、

 風に見よ今かへりこむくず葉かな

わかれ路に生ふる葛の葉のといふ古歌を思ひ出侍るばかり也。此ほどは丸子といふ山家に有し也。」(「東路の津登」太田本)

 「りんか成人」は彰考館本に「隣家なる人」とある。この方が読みやすい。
 この隣家が誰なのかというと、西高辻本には「田辺和泉守」とあり、祐徳本には「斎藤加賀守安本」とある。よくわからない。
 「わかれ路に」の古歌は、

 ふるさとを別れ路に生ふる葛の葉の
     秋はふけどもかえる世もなし
              後鳥羽院(後鳥羽院遠島百首)

で、『増鏡』にも記されている。
 宗長の駿河国丸子の柴屋軒で、隣家の人から連歌一折(二十二句)巻いた時の発句として、

 風に見よ今かへりこむくず葉かな 宗長

の句が詠まれる。
 これから白河の方へ旅に出ようと思うが、別れ路に生うる葛の葉の秋風に吹かれる季節ではあるが、後鳥羽院のように島流しになるわけではなく、すぐに帰ってくるから、と出発する。

 「十九日に駿河のかうより出立て、興津の館に立より侍り。亭主左衛門の宿所この比新造して、態などいふおりふしなれば興行に、

 月の秋の宿とやみがく玉椿

 あたらしき家を賀し侍也。」(「東路の津登」太田本)

 「かう」は国府(こう)で、駿府のこと。今の静岡駅のある辺り。「興津の館」は興津館(おきつやかた)で今の興津駅の北西の宗徳院という寺に興津館跡がある。コトバンクの「世界大百科事典内の興津氏の言及」に、

 「東は興津川・薩埵(さつた)峠,西は清見寺山が駿河湾に迫る東海道の難所,清見寺山下には清見関が設けられ,坂東への備えとした。鎌倉時代以降は入江氏支流の興津氏が宿の長者として支配,室町時代以降今川氏の被官となった興津氏はこの地に居館を構え,戦国期には薩埵山に警護関を置いた。」

とある。
 「亭主左衛門の宿所」は彰考館本には「亭主左衛門尉宿所」とある。左衛門尉は官職名で、代々左衛門尉を名乗っていたか。
 「態」は彰考館本には「わざども」、伊地知本には「態も」とある。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「態と」の解説」に、

 「① こうしようという、ある意図や意識をもって事を行なうさまを表わす語。現在では、そうしなくてもいいのにしいてするさまにいう場合が多い。わざわざ。意識的に。わざっと。
  ※後撰(951‐953頃)恋二・六一三・詞書「わざとにはあらで、時々物いひふれ侍ける女の」
  ※平家(13C前)四「其日を最後とやおもはれけん、わざと甲(かぶと)は着給はず」
  ② 状態がきわだつさま、格別に目立つさまを表わす語。とりわけ。特に。
  ※蜻蛉(974頃)中「心地いとあしうおぼえて、わざといと苦しければ」
  ※更級日記(1059頃)「わざとめでたき草子ども、硯の箱の蓋に入れておこせたり」
  ③ 正式であるさまを表わす語。本格的に。
  ※落窪(10C後)二「わざとの妻(め)にもあらざなり」
  ④ 事新しく行なうさまを表わす語。あらためて。
  ※枕(10C終)八「わざと消息し、よびいづべきことにはあらぬや」
  ※宇治拾遺(1221頃)九「この度は、おほやけの御使なり。すみやかにのぼり給て、またわざと下り給て、習ひ給へ」
  ⑤ ほんの形ばかりであるさまを表わす語。ほんのちょっと。少しばかり。わざっと。
  ※俳諧・野集(1650)五「樽は唯わざとばかりの祝言に よひあかつきにくるしみぞ有」
  ※浮世草子・世間御旗本容気(1754)四「生鯛一折、酒一樽、態(ワザ)と祝ひて軽少ながら進上」

とあるが、ここでは「態」は「わざと」と読み、④の意味か。
 ここでも連歌興業が行われ、発句を詠む。

 月の秋の宿とやみがく玉椿    宗長

 文月十九日でまだ初秋だが、秋にここに泊まるということで「月の秋の宿」とする。句は「月の秋の宿と玉椿をみがくや」の倒置で、玉椿は椿を美化して言う場合もあれば、白玉椿、柾、ねずみもち、香椿の別名でもある。葉の艶が良いということで玉と呼ばれ、「みがく」とする。なお、連歌では椿は無季。

 「おなじ国沼津といふ所にて、長福庵とて是も新造のために一折興行。

 松に見ん年にまさごの秋の庵

 伊豆の三嶋にて、ある人宿所の法楽に所望せしに、

 時わかぬ秋や幾秋軒の松」(「東路の津登」太田本)

 沼津までは駿河国で、隣の三島は伊豆国になる。伊豆国府はかつて三島大社の所にあったという。伊豆国国分寺も三島広小路駅の近くにある。
 その沼津長福庵の新造のための一折興行の発句。

 松に見ん年にまさごの秋の庵   宗長

 「松に見ん年」は「松に年を見ん」で、常緑の松は長寿の象徴でもあり、今真砂の上に立つ松のように、この新しい庵も歳を取るまで安楽の地であるように、という願いを込めた句であろう。
 三島の発句は法楽のために仏前に捧げる句で、これを発句として法楽連歌が興行されたのかどうかはわからない。

 時わかぬ秋や幾秋軒の松     宗長

 句は複雑な倒置で、「幾秋の時や分かぬ軒の松」が「時やわかぬ幾秋の軒の松」となり、「時わかぬ秋や幾秋」となったものだろう。軒の松は幾秋を経てかもわからない程、長い年月を経ている。

2021年12月8日水曜日

 今日は雨で寒い一日だった。
 IOCは勘違いしているね。政治的ボイコットが政治介入なのではなく、オリンピックを政治外交に利用すること自体が政治介入だ。正常な状態に戻すだけのことだ。
 今日は真珠湾奇襲作戦から八十年。こんな日にまたロシアの方の不穏な動きが伝わってくる。バイデンさんは経済制裁で対抗するというが、経済制裁の無力は北朝鮮でもイランでも証明されている。全世界が一致団結できるなら効果はあるかもしれないが、世界が東西に分断されている現在では、一方を封じても一方が残るだけでほとんど効果がない。
 元から中国とロシアは孤立資本主義路線を取っている。独自のブロック経済を加速させるだけで、経済制裁は全く無力と言っていい。
 ロシアや中国はアメリカの核が飾り物だと思っているのだろう。どうせ使えやしない核なんて怖くないとばかりに、これからもやりたい放題やってくる。今の世界の核抑止力は間違いなく低下している。だからといって民衆の力も市場の力も戦争を止められないとなれば、何が戦争を止めるというのだろうか。
 コロナの恐怖で人心が動揺している中で、怪しげな情報が流れ、特に欧米社会が分断され混乱している。やるならコロナが収まりきらぬ前だと思う。
 オミクロン株が強毒なのか弱毒なのかでこれからの情勢は大きく変わってくる。弱毒で一気にコロナ時代が終わるのに期待するしかないのか。
 コロナは偶発的な事故だったのかもしれないが、結果的に後付けで生化学兵器として機能している。コロナが長引くことで、その混乱に乗じた戦争というもっと大きな危機が迫ってきている。みんな、その時は地べたを這い泥水すすってでも生き延びよう。
 あと、nuriéのベースの小鳥遊やひろさんが新東名で渋滞の最後尾に止まっていた所、トラックに追突され、亡くなったというニュースを見た。他のメンバーも怪我をしたという。「人として人で在る様に」「命に値札を貼られ生きる。」など、プレイリストに入れて聞いていたので、まさか知ってるバンドが巻き込まれていたとは。

 それでは「白川百韻」の続き。挙句まで。

 名残表、七十九句目。

   秋の村には風ぞさえぬる
 ふくるまま砧のをとの近き夜に    穆翁

 秋風の吹く夜も更けて行く頃、村からは砧打つ音が聞こえてくる。

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
                藤原雅経(新古今集)

を本歌とした付け。
 八十句目。

   ふくるまま砧のをとの近き夜に
 よそのおもひも聞くからぞうき    牧林

 砧の音の悲しさは、

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

の詩の心によるものだが、それを悲しく聞くのは衣を打っている張本人ではない。余所の人の思いに感じ入るから悲しい。
 八十一句目。

   よそのおもひも聞くからぞうき
 鳥べ野のけぶりに人の名を問ひて   宗祇

 京の鳥野辺は葬儀の行われた土地で、そこで火葬にしている人に、亡くなった人の名前を問えば、他人事ながら悲しく思えてくる。哀傷に転じる。
 八十二句目。

   鳥べ野のけぶりに人の名を問ひて
 消えなん事を歎く身のうへ      牧林

 煙が空に消えて行くように、他人の葬式であっても、自分もいつかこうして空に消えてゆくんだなと嘆く。
 八十三句目。

   消えなん事を歎く身のうへ
 望みある道に心やのこらまし     尹盛

 「望みある道」は仏道のこと。いつかは死んで行く無常を歎くなら、仏道に望みをかけてみようか。釈教に転じる。
 八十四句目。

   望みある道に心やのこらまし
 伝へん法の数なおしみそ       宗祇

 弟子への説法の伝授に悔いを残さぬよう、惜しむ所なくすべて伝えよ、とする。
 八十五句目。

   伝へん法の数なおしみそ
 松島は舟さすあまをしるべにて    穆翁

 見仏上人の故事による本説であろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「見仏」の解説」に、

 「生年:生没年不詳
 鎌倉初期の僧。奥州松島の雄島に住み,法華経の教義を人びとに授けた。法華浄土への往生を説いて,死後の不安を解消させた。死者の声を伝達することもあったらしい。空を飛ぶ超能力で知られる。「月まつしまの聖」「空の聖」の別称がある。北条政子は仏舎利2粒を見仏に寄進して,源頼朝の供養を依頼した。その書状(写)が瑞巌寺に現存する。平安末期の見仏は,かれの先代に当たる。この人も雄島に住み,法華経を読み,奇跡を現した。鳥羽院から姫松千本,本尊,器物を下賜されたという。(入間田宣夫)」

とある。
 八十六句目。

   松島は舟さすあまをしるべにて
 波に笘屋のやどりをぞかる      尹盛

 松島に波の苫屋は、

 立ちかへり又も来てみむ松島や
     雄島の苫屋浪にあらすな
                藤原俊成(新古今集)

であろう。「立ちかへり」は、

 立ちわかれいなばの山の峰におふる
     まつとし聞かば今かへりこむ
                在原行平(古今集)

の舞台を須磨から松島に移したもので、松島の海女の家に宿を借りる都人という趣向にしている。
 尹盛の句もその設定を借りて、都人が松島の波の苫屋に宿を借りるとする。
 八十七句目。

   波に笘屋のやどりをぞかる
 月も見よかかる藻汐の小夜枕     宗祇

 「小夜枕」は、

 松が根の雄島が磯のさ夜枕
     いたくな濡れそ蜑の袖かは
                式子内親王(新古今集)

の歌に用いられている。
 藻塩の小夜枕は「濡れる」ということで、我が泪を月も見よ、という意味になる。
 八十八句目。

   月も見よかかる藻汐の小夜枕
 衣にふかきあかつきのつゆ      穆翁

 月に露ということで、小夜枕に衣を濡らすとする。
 八十九句目。

   衣にふかきあかつきのつゆ
 帰るさの身もひややかに風吹きて   尹盛

 暁の露と来れば、後朝(きぬぎぬ)で恋に展開する。
 九十句目。

   帰るさの身もひややかに風吹きて
 わすれぬ思ひ心にぞしむ       宗祇

 「風吹きて」を「心にぞしむ」で受ける。
 九十一句目。

   わすれぬ思ひ心にぞしむ
 俤になりてや花もうかるらん     牧林

 前句の「わすれぬ思ひ」から、花を見てもあの人の面影を思い出しては憂鬱になる、とする。
 九十二句目。

   俤になりてや花もうかるらん
 こずゑかすめるいにしへの里     穆翁

 「いにしへの里」は古都の風情であろう。前句の「俤」はここでは往年の都として栄えた俤になる。

 さざなみや志賀の都はあれにしを
     昔ながらの山桜かな
                平忠度

など、桜に古都の面影を思う。

 名残裏、九十三句目。

   こずゑかすめるいにしへの里
 人も無き垣根に鳥の囀りて      尹盛

 いにしへの里には住む人のない廃墟があり、そこには鳥が囀る。
 杜甫の「春望」の「別れを恨んで 鳥にも心を驚かす」の心であろう。
 九十四句目。

   人も無き垣根に鳥の囀りて
 夕日かすかにのこる道のべ      牧林

 前句の「人も無き」を夕暮れで歩く人もいない道とする。
 後の芭蕉の、

 この道や行く人なしに秋の暮れ    芭蕉

の句を彷彿させる。
 九十五句目。

   夕日かすかにのこる道のべ
 入る山をさそひて鐘やひびくらん   穆翁

 夕日に入相の鐘となれば諸行無常の響きもあって、出家を誘われているかのようだ。
 九十六句目。

   入る山をさそひて鐘やひびくらん
 御たけはるけきみよし野の奥     宗祇

 吉野金峰山は「かねのみたけ」とも呼ばれている。前句を吉野金剛峯寺の鐘とする。
 九十七句目。

   御たけはるけきみよし野の奥
 出ぬべき仏にも身はよもあはじ    尹盛

 金峯山寺本堂(蔵王堂)の本の蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊を合わせたものとされている。「出でぬべき仏」はその釈迦入滅後五十六億七千万年後に出づるとされる弥勒菩薩のことで、そんな遠い未来のことなら会うことはできない、今は蔵王権現に祈ることにしよう、とする。
 九十八句目。

   出ぬべき仏にも身はよもあはじ
 たのまば心ふかくあはれめ      牧林

 弥勒は遠い未来にならないと現れないが、それでもそれを頼りにする心はそれだけ深く悲しいものだ。
 九十九句目。

   たのまば心ふかくあはれめ
 別ては誰先だたむけふの友      宗祇

 今日の友も、いつかは誰かから順番に亡くなって行くことになる。残されたならどうか憐れんでくれ。
 ここで連歌を楽しんだ横岡の連衆ともこれでお別れで、もう会えないかもしれないという思いがあったのだろう。応仁の乱で戦国の世となった今、そうでなくても人間いつ死ぬかわからない。
「誰」とはいうものの、宗祇自身が私が死んだら、という意味を込めていたのではないかと思う。
 挙句。

   別ては誰先だたむけふの友
 契りはかなや道芝の露        穆翁

 約束しても、いつかは旅の露となって果たされないかもしれない、それはわかっています。
 連歌の挙句は習慣上目出度く収めることが多いが、ここでは離別の情で終わらせる。