2021年12月14日火曜日

 昨日はあれから八時に家を出て、足柄峠へふたご座流星群を見に行った。関東平野はどこも明るいので、静岡側に出ないと星もあまり見えない。峠から見ても東の空が月もないのに明るい。
 昨日は寒かったけど天気は良くて十日の月が出ていた。月明りで足柄城址も明るく照らされていた。東は都会の明りで西は月明りだったが、大きな流れ星が時折流れて行った。
 夜中を過ぎると月も傾き、富士山に沈むのが見えた。それとともに足もとも暗くなり、空にも薄暗い流れ星が見えるようになった。ただ、この頃から若干の雲が出てきた。午前二時頃までに三十個近い流れ星が見えた。
 四時ごろに家に帰ったが、この頃はまだ晴れていたのに、ちょっと眠って八時に起きると雨が降っていた。横浜の初雪の観測があったらしいが、ほんのわずかの間だったのか見ていない。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「むろの八嶋見てそれより日光山をのをのうちつれて、鹿沼といふ所へ綱房父筑後守綱重の館へたちより一宿す。亭主念比のいたはり、いろいろのことのはをよび侍らん。
 そのあした、亭主日光へあひともなはんとて出たちのいそぎなどのあひだに、

 わかえつつ黒髪山ぞ秋の霜

 所望はなかりしかど、あまりの心ざしどもの切なる謝しがたきばかり。」(「東路の津登」太田本)

 壬生から鹿沼を通って日光に行くコースは、後の芭蕉の『奥の細道』のコースとも重なる。
 壬生の亭主、中務少輔綱房の父、筑後守綱重の館が鹿沼にあり、そこで一泊する。そしてその案内で日光へと向かう。その時の句は特に連歌会だとかのために所望されたのではない。こういう発句だけを独立に詠むことも時折あった。

 わかえつつ黒髪山ぞ秋の霜    宗長

 「わかえつつ」は若返りながらという意味で、『古今集』巻十九、一〇〇三の壬生忠岑「古歌にくはへてたてまつれる長歌」に用例がある。
 この私も若返って黒髪山になるとしようか、既に髪には秋の霜が下りているが、となる。宗長は文安五年(一四四八年)の生まれで、六十一になる。四十で初老という江戸時代の庶民の寿命からすると、この頃の連歌師は長寿だった。

 「此所くろかみのふもとなれば也。座禅院は此息とかや。うまご・ひこ、類ひろくさかへたる人なれば、それを賀し侍るばかり也。
 鹿沼より日光山迄は五十里の道、此比の雨に人馬の行かひとをるべくもあらざりしや、かぬまより道をつくらせ、てらの坂本迄は遥々のことなり。
 さかもとの人家数もわかず作りつづけて、京かまくらの市町のごとし。山々よりつづらおりなる岩を伝へてよぢのぼれば、寺のさま哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原の峯幾重ともなし。
 左右の谷より大成川ながれ出たり。落あふ所の岩の崎より橋あり。ながさ四十丈也。中をそらして柱も立ず見へたり。山すげの橋と昔はいひわたりたるとなむ。此山に小菅生ると万葉集にあり。ゆへ有名と見えたり。
」(「東路の津登」太田本)

 筑後守綱重は壬生綱重でウィキペディアの「壬生綱房」の項には、

 「文明11年(1479年)、下野宇都宮氏の家老・壬生綱重の嫡男として誕生。主君・宇都宮成綱から偏諱を受けている。
 父・綱重が鹿沼城を任せられると、綱房は壬生城主となった。永正6年(1509年)に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。」

とある。また、

 「綱房は日光山を掌握しようと、二男・座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄期の頃に日光山御神領惣政所となり、日光山の統治者となった。」

とあるが、「座禅院は此息とかや」とあることから、先代の綱重の息子も座禅院別当代だったのか。
 座禅院は後の輪王寺のことで、室町時代に日光山を管理し、十五代に渡る権別当がいた。そのうち六人の墓が日光に現存しているという。輪王寺の名前は明暦元年(一六五五年)以降だという。
 鹿沼より日光山迄は五十里の道とあるが、江戸時代以降の里(約四キロ)だとするといくらなんでも遠すぎる。ウィキペディアには、

 「律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町(≒545m)から6町(≒655m)の間であった。なお本節では、明治に定められた「1町 = 1200⁄11m ≒ 109m」の比をさかのぼって使う。
 ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、半時(約1時間)歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになるが、目的地までの里数だけで所要時間がわかるという利点がある。しかし、やはりこれでは混乱を招くということで、豊臣秀吉が36町里(≒3927m)に基づく一里塚を導入し、1604年に徳川家康が子の秀忠に命じて全国に敷設させた(ただし実際には、独自の間隔で敷設されていた各地の里が完全に置き換えられることはなかった)。
 ‥‥略‥‥
 このように、もっぱら6町の里と36町の里が併存し、「小道(こみち)」「大道(おおみち)」や「大里」「小里」などと区別した。また、小道は東国で使われたため「坂東道」「東道」「田舎道」など、大道は「西国道」「上道」などとも呼ばれた。東国で小道が使われていた名残は、七里ヶ浜(神奈川県)や九十九里浜(千葉県)のような地名に残っている。陸奥国では江戸時代後期まで小道が使われていたが、すでに古風と思われていた。」

とある。
 ここでいう五十里が小道だとすれば655m×50で32キロ750メートル、これが妥当な距離だろう。
 「京かまくらの市町のごとし」という坂本は、今の東武日光駅のある辺りであろう。
 「山々よりつづらおりなる岩を伝へてよぢのぼれば、寺のさま哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原の峯幾重ともなし。」は座禅院(輪王寺)への道であろう。松杉は文明八年(一四七六年)日光山第四十四世別当になった昌源が植えたと言われている。
 「左右の谷より大成川ながれ出たり。落あふ所の岩の崎より橋あり。ながさ四十丈也。中をそらして柱も立ず見へたり。山すげの橋と昔はいひわたりたるとなむ。此山に小菅生ると万葉集にあり。ゆへ有名と見えたり。」
とあるのは大谷川と稲荷川の合流する辺りだろう。長さ四十丈(約百二十メートル)の橋というのが本当なら、今の神橋の四倍はある。旧甲州街道の猿橋に見られるような刎橋(はねばし)だったと思われる。
 今の神橋は刎橋と桁橋を組み合わせた構造を取っているという。古代中世の日光の橋は「山菅の橋」とも「山菅の蛇橋」とも呼ばれた。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「神橋」の解説」には、

 「日光開山の祖、勝道上人(しょうどうしょうにん)が大谷川の急流を渡れないでいたとき、対岸に現れた深沙(じんじゃ)大王の手にした2匹のヘビが橋をつくり、山菅(やますげ)がその上に生えて渡河するを得たという。のち、ここに架けた橋は山菅橋あるいは山菅の蛇橋(じゃばし)などとよばれ、現在は神橋とよばれる。寛永(かんえい)年間(1624~1644)の修復の際、現在の形に改造された。」

とある。
 「此山に小菅生ると万葉集にあり」という万葉集の歌はよくわからない。小菅は和歌では「岩小菅」あるいは「岩元小菅」「玉小菅」として三室の山、奥山、山里、山城、長谷の山、足柄、箱根などに詠まれている。

 「その日の入逢のほどに鏡泉房につきぬ。やがて明る日は座禅院にして連歌あり。

 世は秋もときはかきはの深山かな

 当山常住不退地僧侶繁栄陰々堅固なることを述侍るばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)

 鏡泉房は他本に「宿坊鏡泉房」とあり宿坊の名前だったようだ。翌日は座禅院で連歌会が興行される。発句は、

 世は秋もときはかきはの深山かな 宗長

 「ときはかきは」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「常磐堅磐」の解説」に、

 「〘名〙 (形動) 永久に変わらないこと。また、そのさま。
  ※書紀(720)神代下(鴨脚本訓)「生めらん児、寿(みいのち)は永くして、如磐石(トキハカキハのあまひ)に常存(またか)らまし」
  [補注]「日葡辞書」では、建物が密集しているさまの意としている。」

とある。
 普通に読めば世は秋だが、ここにいる人たちはいつも若々しいという御世辞か、「若々しくあれ」という祝言だが、「日葡辞書」の意味でこんな山奥なのに都のように家が建て込んで、という裏の意味を込めたのかもしれない。
 「繁栄陰々堅固なること」というから、常盤のように繁栄するとともに、これだけの大きな街になっているという意味を込めたとしてもおかしくはない。

 「夜に入てはてぬ。執筆は児の十七・八にやおぼゆるにぞ。一座終日の興もあさからず侍し。宮増源三などいふさるがくのまじはりあひて、夜更るまで盃もあまた度に成て、うたひ舞して心ゆきおもしろきさま、誰か千代もとおもはざりけん。
 翌日には本道同権現拝して、滝尾といふ別所あり。滝本に不動堂有。回廊あり。ひだりみなぎり落たる川あり。松風二十余丈に大石をしけり。なべて寺中の石をたたみてなめらかなり。是より谷を見おろせば、院々僧屋をよそ五百房にもあまりぬらんかし。
 中善寺とて四十里上に湖ありとかや。此寺より宇都宮へ六十里なれば、よこくらといふ人の所はんぶん道にして、綱重又同道して連歌有。

 遠く見し立枝や宿の薄紅葉

 もずの鳴櫨のたち枝のうす紅葉
     誰我やどのものと見るらむ

 ふと思ひ出侍るばかりなるべし。」(「東路の津登」太田本)

 連歌興行は夜に終わった。主筆(執筆)は十七八の若者が務めた。前にも乙丸が務めてた時があったから、若い者が担当することが多かったのかもしれない。
 宮増源三は宮増を名乗る能楽師集団の一人と思われる。ウィキペディアには、

 「宮増(みやます)は、能「調伏曽我」「小袖曽我」「鞍馬天狗」「烏帽子折」「大江山」などの作者として、各種作者付に名前が見られる人物。計36番もの能の作者とされながら、その正体はほとんど明らかでなく、「謎の作者」と言われている。
 その作風は先行する観阿弥、また後の観世小次郎信光などに通じるもので、面白味を重視した演劇性の強い作品が多い。
 永享頃から室町後期にかけ、宮増姓を名乗る「宮増グループ」と呼ぶべき大和猿楽系の能役者群が活動しており、近年の研究では能作者「宮増」はその棟梁を務めた人物、あるいはグループに属した能作者たちの総称であるとも考えられている。」

とある。江戸時代でも能楽は「さるがく」と呼ばれることがあった。「誰か千代もとおもはざりけん」は宗長の発句の「ときはかきは」の祝言を受けている。
 翌日、まず「本道同権現拝して」とあるのは座禅院の本堂の権現で、そのあと「滝尾といふ別所」へ向かう。座禅院(輪王寺)の北に今も滝尾神社があり、白糸の滝がある。傾斜した岩の上を流れ落ちる滝で、真下に落ちる滝ではない。「みなぎり落たる川」というのは正確な描写と言える。かつては不動堂や回廊のある立派な寺院だったのだろう。
 見晴らしのいい場所があったのだろう。見おろすと坂本に立ち並ぶ宿坊が見え、その数五百と言われるほどだった。
 「中善寺とて四十里上に湖ありとかや」は実際に行ったわけではなく、ここで聞いた話だろう。この頃の一里は655mなので約二十六キロになる。直線距離ではなく、うねうねと曲がりくねった山道を行く道のりであろう。
 宇都宮へ六十里というのも約四十キロになる。その半ばに横倉という人の住む所があったのだろう。そこまで綱重に送ってってもらい、そこで連歌興行たあった。発句は、

 遠く見し立枝や宿の薄紅葉    宗長

 山から離れた開けた土地だったのだろう。見えるがままに詠んだという感じがする。
 薄紅葉は庭の櫨(はぜ)の木だったのだろう。

 もずの鳴櫨のたち枝のうす紅葉
     誰我やどのものと見るらむ
              宗長法師

という和歌も残して行く。

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