この辺も葉がかなり落ちて冬景色になってきた。
寒さのせいもあるのだろう。コロナの新規感染者は実効再生産数が1を少し越えるようになってじわじわと増えてきているが、これから年末にかけて爆発的に増えさえしなければ、正月休みでまた乗り切れるだろう。
今年もラジオに月刊ムーの編集長が来て来年の予言をしていた。今年ももうそんな時期になってしまったか。
去年の予言は大外れで、オリンピックはやったしバイデンさんはまだ生きている。来年も同じくバイデンさん死去、それと台湾有事だという。まあ、はずれてほしいけどね。
台湾有事というのはソチの後にロシアがウクライナに侵攻したから、北京の後にもというもので、ありそうだから恐い。
それでは「東路の津登」の続き。
「同十五日、氏宗息政定と彼是を初たちならびて、むさし野の萩薄の中を行過て、日ぐらし二日に分はてて、長尾孫太郎の館鉢形といふ所に着ぬ。政定に馬上ながら口ずさびに、
むさし野の露のかぎりは分も見つ
秋のかぜをばしら川のせき」(「東路の津登」太田本)
三田氏宗の息子の三田政定がここに登場する。
鉢形城は寄居の荒川沿いにある。「むさし野の萩薄の中を行過て」とあるから、山の中を通る鎌倉街道山の道ではなく、鎌倉街道上道の方を使ったのであろう。入間の辺りで合流したか。
鉢形城はウィキペディアに、
「1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年(文明8年)、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。これが鉢形城の始まりである。」
とある。
ただ、そのあと、
「1478年(文明10年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。」
とあり、
「以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。」
とあり、上杉顕定は永正七年(一五一〇年)の没だから、永正六年(一五〇九年)の時点では上杉顕定の城で長尾孫六左衛門忠景が顕定に仕えていた。長尾孫太郎もその一族のものであろう。伊地知本、西高辻本、祐徳本には長尾孫太郎顕方とある。
「此比は、越後の鉾楯により、むさしのさぶらひ進発のことあり。いづこもいづこもさはがしかりしかば、爰に一夜ありて、翌日に日たけて、杉山といふ人案内にて、長井左衛門宿所へとて送らる。夜に入てをちつきぬ。
門をさし橋を引て夜更ぬとて入ざりけり。あたりにだにといへどもやどさず。力及ばずして跡へ立かへり、よしあしの中の道一筋を、たどりたどりをくれる人のしりたるといふ宿を尋て、夜中過に人も馬もつかれはてて、はふはふつきぬ。
此あるじ成人情あるにてぞ、心をのべて其夜はあかし侍し。このあした利根川の舟わたりをして、上野国新田庄に礼部尚純隠遁ありて今は静喜といふ。彼閑居より罷よるべきよしあれば四・五日ありて連歌二度あり。
霧分し袖に見ゆべき野山かな」(「東路の津登」太田本)
「越後の鉾楯」は永正の乱のことで、ウィキペディアに、
「永正の乱(えいしょうのらん)とは、戦国時代初期の永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。」
とある。このうちの越後の内乱については、ウィキペディアに、
「永正3年(1506年)9月、越後守護代長尾能景が越中で戦死し、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった長尾為景が、永正4年(1507年)8月、上杉定実を擁立して越後守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で丸山信澄らと共に自害に追い込んだ。
これを討たんとした顕定は永正6年(1509年)、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。しかし翌永正7年(1510年)には寺泊から再び越後へ上陸。為景方が反攻に転じると坂戸城主長尾房長は上杉軍を坂戸城には入れず六万騎城に収容させた。為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却したが、援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり、長森原の戦いで顕定を戦死させた。この戦いで、顕定に従軍していた長尾定明や高山憲重らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退した。
その後為景は宇佐美房忠・色部昌長・本庄時長・竹俣清綱ら敵対勢力を破り、越中神保氏討伐へと繋がる。」
とある。
宗祇の尋ねた永正六年(一五〇九年)はまさに「これを討たんとした顕定」が「報復の大軍を起こす」ところだった。「むさしのさぶらひ進発のことあり」はこのことと思われる。
軍の準備で城中が騒然となっている中、とりあえずその日は一泊して、翌日杉山という者に案内されて長井左衛門宿所へ行く。
その後の描写はその時のことだろう。鉢形城は門を閉じ橋を外して入れないようにして、仕方なく引き返し、芦の中の一本道を辿って、案内してくれた三田政定の知り合いの家を訪ねて、夜中過ぎに人と馬を出してもらって、とりあえずその夜を明かすことができた。この家の者が杉山だったのだろう。
翌日、利根川を渡り新田の庄の礼部尚純の所へ行く。隠遁して静喜を名乗っていて、ここで連歌会が行われた。上野国新田は今の太田市・伊勢崎市・みどり市の辺りだという。太田市新田文化会館などに名前が残っている。新田文化会館の北西に東山道公園があり、古代東山道がここを通っていた。
この時の興行の発句、
露分し袖に見ゆべき野山かな 宗長
寄居城のごたごたで、草原の露に濡れつつやっとたどり着いた長閑な野山だった。
「かれより度々の便につきて、白川の関のあらましも出来て思ひ立ぬる心を述侍る成べし。又静喜の発句に、
朝霧をしらでまたぬる小萩哉
萩の発句にはいかばかりの風情みみなれ侍らず。源氏物語にや、かかる朝霧をしらではぬる物にもかなとあり。萩にとりなされぬるその工案あさからず。」(「東路の津登」太田本)
静喜に白河の関へ行く計画があることを言う。
また、
朝霧をしらでまたぬる小萩哉 静喜
の発句があって、その意味が分からず尋ねると、源氏物語だという。この部分、他の本には「若紫の巻」とある。
少納言の乳母の所へ行って若紫の姫君に会った後、帰りに六条御息所の家の前を通り、
あさぼらけきりたつそらのまよひにも
行きすぎがたきいもがかどかな
と御供の者に大きな声で読み上げさせると、下っ端の女房が出てきて、
たちとまりきりのまがきのすぎうくは
くさのとざしにさはりしもせじ
という返事が返ってきた、この場面であろう。
これから自分をさらってゆく君がこんなことをやっているとは、よもや小萩(若紫)は知るよしもない、ということか。
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