それでは明日の大晦日から鈴呂屋俳話の方も正月休みということで、今年は『阿羅野』の歳暮八句でもって終わろうと思う。
餅つきや内にもおらず酒くらひ 李下
江戸時代の餅搗きもいろいろで、田舎ではその家々で一族集まったりしただろうし、街中では専門の餅搗き屋が搗いたりもしていたし、自分ちで搗く人もいた。
まあ、人が集まる所での餅搗きは、いつの間にか酒宴になったりしていたのだろう。
吾書てよめぬもの有り年の暮 尚白
暮になって一年の間に書いたものとかを整理しようにも、自分で何を書いたかわからないようなものが出て来る。俳諧師だったらネタ帳のようなものもあったか。
もち花の後はすすけてちりぬべし 野水
「もち花」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「餅花」の解説」に、
「小正月の物作りの一種。米の粉を丸めただんごや餅で作物の豊熟した形を模し,柳,エノキ,栗,ミズキなどの枝にさしたもので,その年の農作物の豊作を祈って作られる。もともとは粥柱や粥杖(かゆづえ)などに由来し,削掛けの技術の衰えとともにホダレ(穂垂),繭玉,稲の花などに分化発展したものといわれている。餅花の大きな枝にはいっしょに農具や小判,宝船などをかたどっただんごやミカンがつけられることもあり,石臼や米俵を台にして神棚をまつる部屋に立てられる。」
とある。
花というだけあって、時期が終われば散るのが定め。歳旦ではなく歳暮の句だから、これは去年の新年を振り返っての句であろう。もち花同様に新年の誓いもいつの間にかどこか行ってしまった、という寓意もあるのか。
はる近く榾つみかゆる菜畑哉 亀洞
榾はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「榾・榾柮」の解説」に、
「① 炉や竈(かまど)でたくたきぎ。木の切端や枝、枯木など。《季・冬》
※永久百首(1116)冬「こりつみしほたなかりせば冬深き片山里にいかですままし〈源忠房〉」
② 大きな材木。また、地面に倒れて朽ちた木。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とあり、この場合は①の方であろう。
和歌にも、
里人の榾きる冬のふしくぬぎ
おほかはのへのあれまくもうし
藤原信実(夫木抄)
の歌に詠まれている。
冬に伐ってきて畑に積んであった榾を、春も近づくとそこを耕すので、榾を移動させる。
煤はらひ梅にさけたる瓢かな 一髪
煤払いも大勢でやる一年の締めくくりのお祭りのようなもので、昔の人は嫌な仕事を今でいうフェスにして楽しんでいた。
そうなると酒飲みはやはり一杯やりたいもので、庭の梅に木に瓢(ふくべ)を掛けておく。
木曽の月みてくる人のみやげにと
て、杼の実ひとつおくらる、年の
暮迄うしなはず、かざりにやせむ
とて
としのくれ杼の実一つころころと 荷兮
芭蕉の貞享五年秋の『更科紀行』の旅のお土産の杼(とち)の実で、芭蕉も、
木曾のとち浮世の人のみやげ哉 芭蕉
の句を詠んでいる。元禄二年春の「水仙は」の巻二十六句目にも、
語つつ萩さく秋の悲しさを
陀袋さがす木曾の橡の実 路通
の句がある。
ただ、この旅のあと、芭蕉は越人を連れて江戸に行くので、そのあと越人が名古屋に帰った時に受け取ったのであろう。受け取った頃には既にその年も暮れようとしていた。
荷兮としては、どう扱っていいのか困惑して、とりあえず句にしたという所か。
門松をうりて蛤一荷ひ 内習
蛤は夫婦和合の縁起のいいものとして、正月の吸物に用いられていた。百姓は山から松を取ってきて売り、その金で蛤を買って帰る。
その一方で蛤を売って、松を買って帰る人もいるわけだ。そうやって経済というのは成り立つ。
田作に鼠追ふよの寒さ哉 亀洞
田作りはウィキペディアに、
「田作りという名称は、イワシが豊漁で、余ったものを田に埋めて処理した時に米が豊作となったのが始まり。
田畑の高級肥料としてイワシが使われていた事から豊作を願って食べられた。」
とある。カタクチイワシを幼魚を干したものを醤油、みりんなどで煮る。「ごまめ」ともいう。
カタクチイワシの幼魚の干物は煮干しとか入りことか言われるもので、だしを取るのに用いられるが、イワシ自体が大漁に獲れて肥料にするくらいのものだから、それほど高価ではなく、鼠がちょろちょろしているような侘し気な年の暮れにも、田作りはふさわしいものだったのだろう。
これより後の句だが、
田作りの口で鳴きけり猫の恋 許六
の句がある。猫がいれば鼠を追っ払ってくれそうだが、その分猫が田作りを食うことになる。
というわけで、良いお年を。
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