今日は免許証の更新に行ってきた。二俣川まで行ったので、隣の希望ヶ丘でたぬきケーキを買った。今日も平和な一日だ。
それでは「東路の津登」の続き。今日は最終回。
「ここより宇都宮へ行おりふしも雨風いでてぬれぬれ日暮に着ぬ。明るあしたの晴間にぞ当宮めぐり侍る。まことかうがうしき神だち也。廿一年づつにつくりあらためらるとかやいづくもいづくもあたらしく見えたり。」(「東路の津登」太田本)
宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)であろう。下野国一之宮で日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)とは別のものとされている。遷宮が行われていたから「うつのみや」と呼ばれたという説もある。前回の遷宮は明応九年(一四九八年)に宇都宮成綱によって行われている。宇都宮成綱は壬生氏の主君でもある。
ところでこの宇都宮成綱だが、ウィキペディアによると、
「文亀3年(1503年)、積極的に勢力を拡大する成綱は下野国塩原の地を巡って会津の長沼氏との間に頻繁に争いを起こすようになる。また、同時期に蘆名氏の蘆名盛高も宇都宮領である下野国箒根を狙い北関東に侵攻しようとする動きを見せていた。」
とあり、宗長のやってきた時には、
「永正6年(1509年)、蘆名盛高が長沼政義を先頭に関谷片角原に出陣してくる。それに対して成綱は紀清両党、一門である塩谷氏やその家臣である大館氏、山本氏、塩原綱宗などを率いて、和田山片足坂の三郎淵で対陣した。平貞能の末裔である田野城主の関谷氏が突然宇都宮勢から蘆名勢に寝返り、宇都宮勢の動きを蘆名勢に密告しようとしたが、成綱はこれに気づき、攻撃する。その結果、蘆名勢は総崩れとなり、成綱ら宇都宮勢の大勝となる(片角原の戦い)。これによって、塩原領は永正7年(1510年)、宇都宮成綱の物となり、弟の塩谷孝綱に与えた。」
とあるが、その合戦の真っ最中だった。
「此宮より白川の関の間わづかに二日路の程といふ。され共、那須と鉾楯すること出来て合戦度々に及べりとなむ。一向に人の行かひもなければ、那須の原いとどたかがやのみ成となむ。ひたちのさかひをめぐれば、日数十五日ばかりに行かへりなんといふ。
日比雨もいとどかしらさし出べくもあらず降そひて、きぬ川・中河などといふ大河洪水のよしきこえしかば、爰にいつとなく滞留も益なし、さらばたち帰るべきにさだむ。あまりに無下にも遺恨にもおぼえて、
かつこえて行方にもと聞し名の
なこそやこなた白川の関」(「東路の津登」太田本)
冒頭に「白川の関のあらまし、霞と共に思ひつつなん」とあったのも結局実現できなかった。
宇都宮から白河へは古代には東山道が通っていた、今のさくら市と那須烏山市の境界の直線道で、将軍桜がある。今の国道293号線へ通じ、那須那珂川町小川の方へ出て、真っすぐ北へ黒羽を経て伊王野へ行く道があった。
宗祇の『白河紀行』はこの道ではなく、日光から玉入・矢板・大田原を経て黒羽へ出る、後の芭蕉が『奥の細道』で通るのと同じようなルートを通っている。この頃は宇都宮から矢板へ出る道があったのかもしれない。
ただ、宗祇が通った時も既に人の背より高い笹が茂り、視界の利かない道だった。このルートが使えたなら大田原で一泊して、翌日には白河まで行けただろう。
ここで「たかがや」というのも、背の高い萱や篠の茂る視界の利かない道だったのだろう。
「ひたちのさかひをめぐれば」というのは、一度常陸太田まで行き、そこから今の国道349号線のルートを行き、矢祭町の先は国道118号線に沿って行く道であろう。これも古代東海道の延長線上にある古いルートだった。相当な遠回りになるので、往復十五日も誇張ではあるまい。
「折しもこがの江春庵所労の人につきて同日にこの所へのことにて、長阿脈などこころみらる。余命おほからぬ身なれば、名医に面拝且快然の思ひなきにあらずや。」(「東路の津登」太田本)
長阿というのは宗長の僧としての名前だろうか。当時の連歌師には「阿」の付く人が多いが、時宗と関連していた。宗長も藤沢の遊行寺に立寄っている。
江春庵というと古河で兼載も診てもらっていて、「江春庵とて関東の名医その方にて養性あり」と前にも書いてあった。たまたま宇都宮に来ていて宗長も診てもらった。
兼載が前年に芦野の庵を引き払ったのも、文亀三年(一五〇三年)からの合戦の影響があったのかもしれない。
「十三日に壬生の館に帰来る道の雨風、蓑も笠もたまらず、大雨一夜車軸のごとし。十四日午刻ばかりに晴たり。
十五日は名月とて発句催あり。今宵の発句古来趣向ことつきぬらむ、いかがとおぼゆれどしゐてのことなれば、
月今宵ちりばかりだに雲もなし
今夜の青天の心成べし。」(「東路の津登」太田本)
十三日には大雨が降った。また別の台風が来たのだろうか。「車軸の如く」というのはそれだけ太いということで、今となってはあまりピンとこない言い回しだが、これは地面に飛び跳ねる王冠状の雫を車輪に喩え、車軸が降って来たみたいだというところから来たらしい。
十四日の午後には晴れて十五日の名月は塵一つない澄み切った空になった。順調に白河へ行っていれば白河の関で見る月だった。
月今宵ちりばかりだに雲もなし 宗長
句の意味もそのまんまと言っていいだろう。それに心に塵がないというのを掛けている。
「十六日に、大平といふ所に般若寺とて山寺あり。佐野への道にて一宿す。翌日に連歌あり。
鹿の音や染ば紅葉の峯の松
松・杉の山深き興ばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)
大平の般若寺は今の大平山神社で、壬生と佐野の間にある。神仏分離前は慈覚大師が開いた連祥院般若寺だった。
ここでの連歌会の発句、
鹿の音や染ば紅葉の峯の松 宗長
山なので当時は鹿の声も普通に聞こえてきたのだろう。鹿の悲しげな声に常緑の峰の松も紅葉するのではないか、という句だ。
「十八日にさのへとて、つなしげもここよりかたみに別おしみて出ぬ。又などいひ袖をひかえて、
六十年あまりおなじの二の行末は
君がためにぞ身をもいのらむ
綱重と長阿同年とあるに、おもひよそへて心をのべ侍るばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)
宗長は文安五年(一四四八年)の生まれ、壬生綱重も文安五年(一四四八年)の生まれで共に数えで六十二歳、タメになる。
この次いつ会えるかもわからないが、とりあえず「又」と言って別れて行く。
六十年あまりおなじの二の行末は
君がためにぞ身をもいのらむ
宗長法師
壬生綱重は永正十三年(一五一六年)、宗長はかなり長生きして天文元年(一五三二年)、この世を去っている。
別れを以て終わらせるところは、『奥の細道』の蛤の二見の別れにも受け継がれているのかもしれない。
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