2021年12月3日金曜日

 すっかり落葉の季節になった。晴れても風が冷たく、小春日とは言えない。今日で神無月も終わり。
 新しい資本主義ということでふと思ったんだが、地域振興券のような特定の目的にしか使えないような金をばら撒けるなら、株しか買えない投資振興券を配るというのはどうだろうか。当然ネット証券での利用可。譲渡不可。無期限で手持ちの金と合わせての購入は可。買ったらすぐ売っても良し(まあ利益が出ればの話だが)。売却益非課税。
 岩波の日本古典文学大系の『假名草子集』の方を借りてきた。さっそく「恨の介」を読んでみたが、「なきがらを」の巻八十七句目、

   かな聾の何か可笑しき
 ばらばらと恨之助をとりさがし  風国

 恨之助をばらばらととりさがしに行くのは、思の介、恋の介、緑の介、浮世の助という今でいうダチだったようだ。もっとも恨の介は一緒につるまずに、ぼっちを貫いていたようだが。
 恨之助を探せとなった時、かな聾(つんぼう)はこう思ったんだろうな。「言葉が聞こえなければこんなことにならなかったのに。」
 八十八句目の、

   ばらばらと恨之助をとりさがし
 顔赤うするみりん酒の酔     之道

は「顔に紅葉を散らしける」という下女のことか。

 さて、芭蕉さんの追悼も終わり、ここでちょっと気分を変えて、宗祇の『白河紀行』を読んでみようと思う。参考文献は『宗祇旅の記私注』(金子金治郎著、一九七〇、桜風社)、それと『宗祇の生活と作品』(金子金治郎著、一九八三、桜風社)。まあ、この種の者に「公注」なんてものは存在しないから、誰の注釈でも「私注」だけどね。
 日本の謙譲の美徳という奴で、意見を言う時にも「私見ですが」というが、政府や自治体の公式見解を別にすればすべて「私見」なんだから、別にことわる必要もないとも思うんだが。その立場にある人だけ気をつければいい話だ。
 そういうわけで今日も私見全開で行こうと思う。
 さて、冒頭の部分を見てみよう。

 「つくば山の見まほしかりし望みをもとげ、黒かみ山の木の下露にも契りを結び、それよりある人の情にかかりて、塩谷といへる処より立ち出て侍らんとするに、空いたうしぐれて、行末いかにとためらひ侍りながら、立ちとどまるべき事も、旅行くならひなれば打ちいでしに、案内者とて若侍二騎、道者などうちつれ、はるばると分け入るままに、ここかしこの川音なども、袖の時雨にあらそふ心ちして物哀れなり。」

 時は応仁二年(一四六八年)の冬。
 宗祇が都を離れ東国に下ったのは文正元年(一四六六年)で、この年は行助も東国に下ったことは、前に「寛正七年心敬等何人百韻」を読んだ時にも触れている。応仁の乱の直前の不穏な空気もあり、名だたる連歌師たちも続々と東国に避難する時期だった。
 翌年には心敬も東国に下向し、武州品川が新たな拠点になる。今の東京都の品川で、当時は港町で栄えていた。武州滞在中は宗祇は武州五十子(今の埼玉県本庄市)の長尾孫六(長尾景棟)を尋ねて、文明二年(一四七〇年)に隅田川の辺で『吾妻問答』を書き残している。
 白河紀行の旅の出発点は定かでないが、旅を終えた後には品川で「応仁二年冬心敬等何人百韻」の興行に参加しているから、この頃は品川が拠点だったのかもしれない。
 ここから筑波山や日光黒髪山(男体山)を経て白河へと向かう。この二つの山は当時なら武州の至る所から見えただろうから、あえて「見まほし」という以上、間近で見るのが旅の一つの目的だったと思われる。
 紀行に最初に登場する地名は塩谷で、これは栃木県の日光から矢板へ行く途中にある。芭蕉が『奥の細道』の旅で宿泊した玉入の辺りだ。この位置関係からしても、宗祇は日光二荒山神社と輪王寺を詣でたのではないかと思う。後に宗長も訪れている。勿論この頃はまだ東照宮はない。
 となると、筑波山にも登った可能性はある。そうなると、桃隣の『舞都遲登理』の旅のコースに近かったのかもしれない。
 陸路で筑波山に行ったとすると、鎌倉街道下道であろう。
 品川から後の東海道よりは山寄りのルートで御殿山から品川プリンスの裏を通り、二本榎通り、聖坂から赤羽橋を経て芝増上寺や江戸城の前を通り、浅草へ向かう。ちなみに江戸城は一四五七年太田道灌による築城なので、出来たばかりだった。
 浅草から先は古代東海道の道筋をなぞるように下総国府、柏、安孫子を経て布佐へ抜ける。そこから先は古代より陸地が増えているので、真っすぐ土浦の常陸国府へ向かうことになる。
 なお、奥田勲は『宗祇』(一九九八、吉川弘文館)の中で、船で那珂湊へ行き、そこから筑波へ行ったとしている。
 宗祇の『萱草(わすれぐさ)』には、

   筑波山をみ侍しに彼寺にて
 山高み雲をすそはの秋田かな

の句があり、筑波山に登ったのはまだ秋だったようだ。(早稲田大学図書館の「伊地知鉄男文庫、第1-3:荒木田守武写(神宮文庫蔵)の写本 第4-6:荒木田守武写(徴古館蔵)の写本 文明6年写の写本」を見たが、「山田かな」に読めるが、誤写か。)
 この後日光でも、

   日光山はじめてみ侍りし時
 黒かみに世をへし山や菊の陰

の句を詠んでいる。この後日光にしばらく滞在して冬になったのだろう。

   東へ下侍し時日光山にて初冬
   の比ある坊にて侍し會に
 しぐるなと雲にやどかるたかねかな

の句がある。
 このあと「ある人の情にかかりて」、塩谷へと向かう。芭蕉は船に乗ったようだが、陸路なら今市から轟(とどろく)の里を通って大渡で鬼怒川を渡り、船入、玉入のコースであろう。塩谷のどの辺に泊まったのかは定かでないが、奇しくも芭蕉が雷雨で急遽宿を借りた場所に重なる。宗祇もまたここで時雨で難儀することになる。
 旅立ちの時は道案内と護衛を兼ねてか、若侍二騎に道者を連れた四人パーティーになる。(RPG風に言うと騎士二人僧侶一人で宗祇は吟遊詩人?)。
 「ここかしこの川音」は大谷川と鬼怒川か。

 「しるべの人も両人はかへりて、只一人相具したるもいとど心ぼそきに、那須野の原といふにかかりては、高萱道をせきて、弓のはずさへ見え侍らぬに、誠に武士のしるべならずば、いかでかかる道には命もたえ侍らんとかなしきに、むさし野なども果てなき道には侍れど、ゆかりの草にもたのむかたは侍るを、是はやるかたなき心ちする。枯れたる中より篠の葉のうちなびきて、露しげきなどぞ、右府の詠歌思ひ出でられて、すこし哀れなる心ちし侍る。しかはあれどかなしき事のみ多く侍るをおもひかへして、

 嘆かじよ此の世は誰もうき旅と
     思ひなす野の露にまかせて」

 若侍二騎は塩谷まで案内して引き返したのだろう。残るは道者一人になり、那須野を大田原に向かうことになる。
 那須野は那須の篠原というくらいで、当時は背の高い笹が生い茂っていたのだろう。二メートル以上ある和弓も見えないほど背が高く、視界が利かなかったようだ。
 武蔵野はまだ薄が原だから視界が利くが、視界の利かない篠原の道は心細く、鎌倉右大臣実朝の、

 もののふの矢なみつくろふこての上に
     霰たばしる那須の篠原
              源実朝

の歌を思い起こし、

 嘆かじよ此の世は誰もうき旅と
     思ひなす野の露にまかせて
              宗祇法師

と詠むことになる。
 辛い旅だけど、人生はいつだって辛い旅なんだと思って嘆いてはいけないと思ってはみるものの、「思いなす」にも那須野というくらいで、野の露に袖を濡らす。これは泪なんかではない、というところだろうか。

 「同行の人々も思ひ思ひの心をのべて、くるるほどに大俵といふ所にいたるに、あやしの民の戸をやどりにして、柴折りくぶるなども、さまかはりて哀れもふかきに、うちあはぬまかなひなどのはかなきをいひあはせて、泣きみわらひみ語りあかすに、事かなはむ事ありて、関のねがひもすぎがたに、あるじの翁情あるものにて、馬などを心ざし侍るを、こしにかかりて、悦びをなして過ぎ行くに、よもの山紅葉しわたして、所々散らしたるなどもえんなるに、尾花浅茅もきのふの野にかはらず、虫の音もあるかなきかなるに、柞原などは平野の枯るるにやと覚え侍るに、古郷のゆかりは侍らねど、秋風の涙は身ひとりと覚ゆるに、同行みなみな物がなしく過ぎ行くに、柏木むらむら色づきて、遠の山本ゆかしく、くぬぎのおほく立ちならぶも、佐保の山陰、大川の辺の心ちらして行くままに、大なる流のうへに、きし高く、いろいろのもみぢ、常盤木にまじり物ふかく、大井河など思ひ出づるより、名をとひ侍れば、中川といふに、都のおもかげいとどうかびて、なぐさむ方もやと覚えて、此の川をわたるに、白水みなぎり落ちて、あしよはき馬などは、あがくそそぎも袖のうへに満ちて、万葉集によめる武庫のわたりと見えたり。」

 さて、日光から塩谷へ行き、那須の篠原を分け行くと、大俵という所に辿り着く。大俵は今の大田原になる。ここで一泊して、馬を借りて、白河に向かう。江戸時代の奥州街道は大田原から鍋掛を経て芦野に出る、今の県道72号線のある方のルートを通っていたが、古代東山道は黒羽から伊王野へ行き、今の県道76号線(伊王野白河線)の方を通り、白河関跡から白河に入っていた。
 ちなみに芭蕉の『奥の細道』の旅は、黒羽の翠桃を尋ねたあと、那須湯本の方へ行き、そこから芦野へ向かい西行柳を見て、一度奥州街道で境の明神を越えた後、白河関跡の方へ寄り道をしている。
 宗祇の時代はどちらのルートなのかよくわからない。まだ古代東山道のルートが残っていたとすると、黒羽へ出てから那珂川添いに進み、大田原市寒井の辺りで那珂川を越えることになる。
 大田原の「あやしの民」の主に馬を借りて、出発する。
 四方の山は所々紅葉して、薄や茅の茂る野の道を行く。柞原はナラ、コナラ、クヌギなどの落葉広葉樹林であろう。クヌギが多かったようだ。クヌギは葉が枯れたまま枝に残っているのでよくわかる。柏の木も所々色づいている。
 「大川の辺の心ちらして行くままに」とあるように、黒羽から那珂川に沿って北へ向かったのであろう。
 「大なる流のうへに、きし高く、いろいろのもみぢ、常盤木にまじり物ふかく、大井河など思ひ出づるより」とある、この場合の大井河は京都嵐山の大井川で今の桂川であろう。
 「名をとひ侍れば、中川といふに、都のおもかげいとどうかびて、なぐさむ方もやと覚えて」とあるように、那珂川から京の中川を思い出す。京の中川はかつて寺町通の方に流れていた川で、今出川とも京極川とも呼ばれていた。
 「万葉集によめる武庫のわたり」は、

 武庫川の水脈を早みと赤駒の
     足掻くたぎちに濡れにけるかも
             よみ人しらず

の歌で、那珂川は馬も足を取られそうになるような急流だった。大田原市寒井の辺りで那珂川を渡り、以後は黒川に沿って伊王野に向かうことになる。

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