2024年2月29日木曜日

  芭蕉さんの「句調はずんば舌頭に千囀(せんてん)せよ」という言葉は『去来抄』「同門評」の句の語順の問題を論じた文脈で登場する。
 ともすると「読書百遍意おのづから通ず」的な精神論にもなりがちだが、全く未知の言語ならいざしらず、辞書や文法知識や様々な情報があれば百回読まなくても、労力を節約することができる。
 近代の人だと、百囀なんて言われると、早口で何度も唱えて澱みなく発音できれば良いようなイメージがあるかもしれないが、むしろ句をできる限りゆっくり発声した方が良い。
 そして目の前で聞いてる人を想像すると良い。
上五を読んで、間を作って次に何が来るか期待させて、果たして聞いてる人は次に

 何を期待するか。
 次の中七で期待通りに盛り上がるか。
 最後の下五できちんと落ちが決まるか。

 それくらい計算しないといけないということで、無駄に百回唱えたところで何の意味もない。
 たとえば、

 うらやまし思い切るとき猫の恋 越人

の句も、元は「思い切るときうらやまし」で、これでは「ひがみたる」ということで直したという。
 意味的には、猫の恋(は)思い切る時うらやまし、だから

 猫の恋思い切る時うらやまし

 でも良さそうだし、口の中で何度も呟いても問題はなさそうだが、前に人がいて、ゆっくりと読み上げて聞かせることを想像してみると良い。尻つぼみな感じは否めないだろう。
 この句は、

 うらやまし
 えっ、何が羨ましいんや?

 思い切る時
 思い切るいうたら苦しいもんやろ、何でうらやましいんや?

 猫の恋
 あ、なるほど

と、この聞かせ方が大事。
 越人も流石に落ちを最初に言うなんてことはなかったが、あと一歩だった。
 「句調(ととの)はずんば舌頭に千囀せよ」というのはこういうこと。
 「調う」という言葉のこの使い方は、ねずっちの謎かけの「ととのいました」という時と同じ用法と考えても良い。

 猫の恋思い切る時うらやまし

は調ってない。
 こういう語順の整え方は其角さん(晋子)も上手い。

 切られたる夢は誠か蚤の跡 其角

 切られたる
 えっ、そりゃ大変やな

 夢
 何だ夢か

 はまことか
 えっ、ほんまに切られたん?

 蚤の跡
 あ、なるほど

 実際は百回囀(ツイット)しなくても、無詠唱でできればそれに越したことはない。
 「千囀(せんてん)」はしばしば「千転」と表記され、千回口の中で転がすことだと説明されることもある。確かに早稲田大学所蔵の文政期の写本には口篇はなくて、転になっているが、千回転がすでは意味が通らないので千回囀(さえず)るの間違いだろう。杜牧の詩に「夏鶯千囀弄薔薇」の用例がある。
 囀るという言葉は源氏物語玉鬘巻でも、大夫の監の言葉が訛りがひどくて意味がわからない様子を表すのにも用いられていて、鳥の囀りは無駄に長々と訴えることを揶揄するときにも用いられるが、囀りは本来繁殖期の求婚の声だからその意味でも玉鬘巻の用法は適切だ。囀りは相手に聞かせるもので、呟きではない。
 英語のツイットは辞書を見ると、なじる、あざける、しつこい批評または文句で困らせる、とか何かろくな意味はないが、実際ツイッターの実態を見るとなるほどと思う。Xになってだいぶ良くなった。ツイッターがXになった時に詠んだ句をもう一度。

 囀るなお前はもはや鳥じゃない

 それでは「雑談集」の続き。

 「山川といふ通称七年に及びぬれどもいまだ顔だに見合せぬに、志し他なく予が一癖をうつしければ尋常の反古も捨ず、はしりがき物しけり。彼花つみといふ集はやとひて清書なさしむ。又仮初に思いよりし句ともいかがなど問ひかはせば、古詩古歌の縁に叶へるも筆まめに引出ける。其力を強ひ此集にはげめかしといへば、勤めて閑かならず。それかやとより、我宿迄も心遥かにこそと折ふしの文緒は絶えずかしこといへる。同じく志シあり。

 凩よいつたたけども君が門     山川
   火燵へぐすと起臥の楽     角
 傘をかりて返さぬ雪はれて     渓石
   在所も近く薺うつなり     山川
 傀儡の肩にかけたるおぼろ月    かしこ
   馬にのせては狐うららく    仝

 鏡を形見といへる重高の歌にや。装束つくろひて鏡の間にむかへるに、

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉  実生 沾蓬」(雑談集)

 山川は寺村山川(てらむらさんせん)で、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺村山川」の解説」に、

 「?-? 江戸時代前期の武士,俳人。
  伊勢(いせ)津藩士。榎本其角(きかく)(1661-1707)の門人。通称は弥右衛門。」

とある。七年来の弟子というから、天和の終わり頃からの弟子なのだろう。天和三年刊其角編の『虚栗』にその名はなく、貞享四年刊其角編の『続虚栗』には、

 草まくら薺うつ人時とはん     山川
 子の泣てしばし音やむ砧哉     同

の句が見られる。他に嵐雪編元禄三年刊『其袋』、其角編元禄三年刊『いつを昔』、路通編元禄四年刊『俳諧勧進牒』などにもコンスタントに入集している。
 其角の弟子として活躍していながら、「いまだ顔だに見合せぬ」という状態だったようだ。直接教えを受けなくても、其角の書いたものを何一つおろそかにせずに勉強したようだ。
 それが認められて、其角編元禄三年刊『華摘』の清書を務めることとなった。
 ここに記された表六句は特に『華摘』にあるものではない。
 発句。

 凩よいつたたけども君が門     山川

 君が門は其角門のことであろう。会いに行こうとするといつも留守で、なかなか会えなかったということだろうか。会いに行っても凩だけが吹いている。
 脇。

    凩よいつたたけども君が門
 火燵へぐすと起臥の楽       其角

 「ぐすと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「ぐすと」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘副〙 いいぐあいにすっかりはいったり、また、円滑に抜け離れたりするさまを表わす語。すっぽり。するり。
  ※名語記(1275)五「かしらや、又、さしいでたる物を、くすとひきいるなどいへる、くす如何」
  ※咄本・鹿の子餠(1772)比丘尼「菖蒲革染をぐすとぬぎかへ、ぬっと二階へあがり」

とある。発句を家の中にいて木枯らしが戸を叩くという意味に取って、寒い日は火燵に出たり入ったりと一人気楽に過ごす。

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

の句はもう少し後になる。去来の句は戸を叩く音がしても生返事するだけで出て行かないという「あるある」だが、ここでは起臥とあるから、木枯らしの戸を叩く音に、一応起き上がって確かめには行くのだろう。
 留守中に来たという知らせを聞いて、会えなくて残念だったという気持ちも暗に込められているのだろう。戸を叩いたなと思ったらもういなかった、という意味で。
 第三。

   火燵へぐすと起臥の楽
 傘をかりて返さぬ雪はれて     渓石

 第三は発句を離れて大きく展開する。傘は「からかさ」。旅の時に被る「笠」ではなく、柄のある傘を区別してそう呼んだ。
 雪が降ったので傘を借りて帰り、そのままだった傘を、雪が晴れたので返しに行く。
 四句目。

   傘をかりて返さぬ雪はれて
 在所も近く薺うつなり       山川

 再び山川の句となる。場面を田舎に転じ、雪の晴を正月の七草の頃とする。
 「精選版 日本国語大辞典 「薺打つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「陰暦正月七日の前夜から早朝にかけて、摘んできた春の七草を刻む。《季・新年》
  ※俳諧・青蘿発句集(1797)春「薺うつ遠音に引や山かづら」

とあり、七草叩きともいう。ナズナを刻む時にそのリズムに合わせて七草歌を歌うが、拍子が各々自分の叩く拍子なため、合ってなかったりする。

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
               光孝天皇(古今集)

の歌の縁で雪と薺は付け合い。
 五句目。

   在所も近く薺うつなり
 傀儡の肩にかけたるおぼろ月    かしこ

 傀儡はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「傀儡」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 人形の一種。歌などに合わせて踊らせるあやつり人形。かいらい。〔新訳華厳経音義私記(794)〕
  ② 「くぐつまわし(傀儡回)」の略。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ③ (くぐつまわしの女たちが今様などを歌い、売春もしたところから) 舞妓や遊女。あそびめ。くぐつめ。てくぐつ。
  ※殿暦‐長治元年(1104)七月七日「今日不二出行一、密々にくくつにうたうたはす」
  [語誌]→「くぐつ(裹)」の語誌」

とある。正月にはこうした芸人も回って来たりしてたのだろう。
 六句目。

   傀儡の肩にかけたるおぼろ月
 馬にのせては狐うららく      かしこ

 「かしこ」は合略仮名で表記されている。其角・嵐雪などの集に見られる名だ。二句続く。
 「うららく」は麗(うらら)の動詞化であろう。春の季語になる。狐は近代では冬の季語だが、この時代は無季。馬と狐は稲荷様(お狐様)の初午で縁がある。初午は旧暦二月の最初の午の日で、その縁日には傀儡師がやってきて興行したりしたのだろう。

2024年2月24日土曜日

 
 今日は雨も上がり、時折晴間も出たので、四十八瀬川から戸川公園を経て水無川の方まで散歩した。
 戸川公園の河津桜も満開で、梅もまだまだ満開の見頃だった。
 水無川沿いの道はおかめ桜が咲き始めていた。
 丹沢の山は雲がかかってたが、雪が残っていた。

 それでは「雑談集」の続き。

 「正木堂鳥跡はむかし遊女あまた持ちて栄えけり。かかるいとなみあるべきことにもおもはずとて、所を去りけれども、なましひに高尊の席をたたれ、遊人もしひて交りをゆるさずなりにければ、後するがの国にしれる人とひ行きけれども、たのもしからずものしければ、有りつらへる世中をとかくもてあつかへる心にやなりけん。凩の森なるかたはらの池に身を投げ侍るそのほとりに茶酌にたんざくを付けて、

 とめこかし茶酌の雫雪の跡     鳥跡

 今は十とせにも成りぬべし。心をとけたる一句のさまいやしき人果には生まれながら、たふとき道に身をまかせけるも讃仏乗の因なるべし。」(雑談集)

 正木堂鳥跡は遊女屋の主人、いわゆる「轡(くつわ)」だったのだろう。『虚栗』のら其角・千之両吟歌仙「偽レル」の巻十九句目に、

   松ある隣リ羽かひに行
 百千鳥轡が仕着せ綺羅やかに    其角

の句がある。(轡には下級遊女の轡女郎の意味もあるが、ここでは遊女屋の主人が遊女を綺麗に着飾らせるという意味。)
 この轡はネット上の今西一さんの『芸娼妓「解放令」に関する一考察』によると、穢多に準ずるものとして差別され、遊女町以外で家を構えることが禁止されてたという。
 正木堂鳥跡はこうした轡であるとともに俳諧風流の徒でもあった。延宝九年刊言水編『東日記』に、

 更にけふ田毎の月よ段目鑑     鳥跡

の句がある。
 ある時、「かかるいとなみあるべきことにもおもはず」と自らの商売を恥じて、足を洗おうとする。「所を去りけれども」というのは遊郭の外に出るということか。遊郭の外に住むことを禁じられた者が出たらどうなるかという話だ。
 「高尊の席」はよくわからない。出家してお寺に入るとかそういうことか。遊郭で遊んでいた人たちも現役時代には親しくしていた人たちだったのだろうけど、相手にしてくれなかった。
 駿河の知人を頼っても断られ、行くところがなくなって、ついに「池に身を投げ侍る」となった。
 茶杓に短冊を付け、そこに、

 とめこかし茶酌の雫雪の跡     鳥跡

の辞世を記した。
 なぜ茶杓なのか、一つの推測だが、竹細工など賤民の仕事だったことから、住む所もないまま竹を削って茶杓を作って売って、何とか食いつないでたということか。
 冬になると野宿は辛い。雪が降れば凍死する危険が大きい。そこでもはやこれまでと観念したのだろう。雪にあっては我が命も茶杓で掬える僅かな雫のようなもの。それが最後の言葉だった。
 「今は十とせにも成りぬべし」と元禄四年(一六九一年)から十年前の出来事だったようだ。一六八一年は延宝九年のことで、『東日記』の出た年でもある。多分其角の門人というわけでもなく、噂に聞く程度の人だったため、自ら助けてあげるということもなかったのだろう。
 罪深き職業から足を洗おうとしても決して報われることはないこうした厳しい身分社会の不条理に、せめて死後の仏の加護祈るだけだった。「讃仏乗の因」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「讚仏乗」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 仏語。一切の衆生をことごとく成仏させる一乗真実の教法を賛嘆すること。仏乗を賛嘆すること。
  ※とはずがたり(14C前)三「ありし文どもを返して、ほけきゃうをかきゐたるも、さんふつせうのえんとはおほせられざりしことの」 〔白居易‐香山寺白氏洛中集記〕」

とある。一切の衆生が成仏できるのなら、鳥跡も成仏できたことであろう。

2024年2月23日金曜日

 今日も雨。雪にはならなかった。
 それでは「雑談集」の続き。

 「加州金沢の一笑はことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程お宿申さんとて遠く心ざしをはこびけるに、年有りて重労の床にうち臥しければ、命のきはもおもひとりかたるに、父の十三回にあたりて、歌仙の俳諧を十三巻孝養にとて思ひ立ちけるを、人々とどめて息もさだまらず。
 此願のみちぬべき程には其身いかがあらんなど気づかひけるに、死すとも悔なかるべしとて、五歌仙出来ぬれば、早や筆とるもかなはず成りにけるを、呼(カタイキ)になりても、猶ほやまず、八巻ことなく満足して、たれを我が肌にかけてこそさらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

 臨終正念と聞えけり。」

 加州一笑とあえて断らなくてはならないのは、尾張国津島にも一笑がいて、『阿羅野』でも加賀一笑、津島一笑と表記されていて、

 元日や明すましたるかすみ哉    一笑
 いそがしや野分の空に夜這星    同
 火とぼして幾日になりぬ冬椿    同

の三句が加賀一笑の句になる。その他時代は遡るが、芭蕉がまだ伊賀で宗房だった頃の伊賀にも一笑がいる。俳諧というのは本来人を笑わせるものだったから、破顔一笑ということで一笑の号を名乗る人があちこちにいたのかもしれない。
 (なお、底本としている『其角全集』大野洒竹編纂校訂、明治三十一年、博文館は「和州」と書き誤っている。早稲田大学図書館所蔵の『雑談集』を見ると「加」の文字のカの上に点があり、紛らわしい。)
 その一笑は芭蕉の『奥の細道』の旅の前年、元禄元年十二月に亡くなった。ただ、それ以前に、加賀へ来ることがあったら是非我が家に泊っていってくれと芭蕉にも伝えていて、其角もそのことを知っていたようだ。
 芭蕉は象潟で引き返すときに、もっと北へと、津軽や蝦夷も見て見たいという思いを我慢し、失意のまま北陸の海岸線の単調な道を猛暑の中、馬にも乗れずに歩き続け、その時は加賀まで行けば一笑に会えるということを心の支えとしていたのだろう。
 「重労」は早稲田大学図書館所蔵のを見ると「シウロウ」とルビがある。「労」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「労」の意味・読み・例文・類語」に、

 「⑥ =ろう(癆)」

とあり、精選版 日本国語大辞典 「癆」の意味・読み・例文・類語には、

 「① やせ衰えること。また、その病気。
  ② 薬物に中毒すること。薬物にかぶれること。また、その薬物の毒。〔説文解字‐七篇下・疒部〕
  ③ =ろうがい(労咳)〔改正増補和英語林集成(1886)〕」

とある。はっきりとはわからないが、ここでいう重労は重病ということでいいのだろう。
 その一笑はいつ死ぬともわからない状態にあって、父親の十三回忌供養のために、歌仙十三巻を奉納したという。
 十三巻満尾して、臨終の時の句が、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

だった。旧暦十二月の金沢は雪が降り、その美しい雪景色に、雪をもたらす雲もまた西方浄土からやって来るかのように見えたのだろう。

 「翌年の秋、翁も越の白根をはるかにへて丿松が家に其余哀をとぶらひ申されけるよし、

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    翁
 常住の蓮もありやあきの風     何處
 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州
 月すすきに魂あらば此あたり    牧童
 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口」

 そして翌年の七月十五日、芭蕉は倶利伽羅峠を越えて金沢に辿り着く。そこで金沢の大勢の人たちに迎えられて、一笑の死も知らされる。芭蕉も旅の疲れが出るが、曾良も体調を崩して療養が必要になる。
 お盆明けの七月二十日には一泉の家でようやく俳諧興行をして、

 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子     芭蕉

の発句を詠むが、これもお盆に備えていた瓜茄子のお下がりを頂きましょうという句であろう。
 七月二十二日に一笑の兄の丿松(べっしょう)のもとに願念寺で追善法要が営まれた。子の語句はその時の追善の句になる。

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    芭蕉

 『奥の細道』でも知られた有名な句で、説明も不要であろう。

 常住の蓮もありやあきの風     何處

 何処は大阪の上人でこの時金沢に来ていた。
 「常住」は仏教用語では過去現在未来変わることなく永遠に存在することを言い、無常の反対語になる。常住とはいわば仏であり、仏法でもある。秋風は季節の移ろいの無常を告げるけど、そこには仏様の台座の常住の蓮もあることでしょう、という意味であろう。

 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州

 乙州は近江大津の人だが、この時加賀に滞在していた。この句も説明は不要であろう。

 月すすきに魂あらば此あたり    牧童

 牧童は北枝の兄で、北枝の方は曾良が病気で先に帰ったあと、福井まで芭蕉を送っていった。
 薄はその姿から手招きするという意味があり、お盆に返ってきた一笑の魂も、まだこの辺りに留まっているのかな、ということか。月は真如の月の意味もあり、薄に招かれた魂は月の光で成仏する。

 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口

 雲口は金沢の人で、この追善法要の翌日には芭蕉を宮ノ越に誘っている。北枝・牧童・小春も同行しているが、曾良はまだ病気が治ってなかったようだ。
 「つれなし」に「啼く」を掛けて、蝉の鳴き声に我も釣られて啼くということか。蝉の抜け殻は、魂が抜けて天に飛び立つという意味で、死を象徴する。
 曾良は病気で追善法要に参加しなかったが、

 玉よそふ墓のかざしや竹の露    曾良

の句を奉納している。竹の露の玉を魂になぞらえて、墓の挿頭とする。神道家だけあって、仏教色がない。

2024年2月22日木曜日

  今日は一日雨。雲に隠れた山に雨に映える河津桜は紅一点を添えていて、梅の幹が黒ずんで見える中に梅の花もまた鮮やかに見える。
 あと、源氏物語の乙女巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「雑談集」の続き。

 「去年にかはりて山のにぎはひ又更なり。

 小坊主や松にかくれて山ざくら  角
 香煎ふる素湯に桜の一重かな   普船
 くもる日は一日花に照れけり   挙白
 さそはれて花に嬉しく親の供   浮萍
 物見よりさくら投げこめ遊山幕  亀翁
 花の雨小袖惜うてかへるかや   水花」(雑談集)

 「去年にかはりて」とあるのは、前の段の「其弥生」の句が元禄三年で、これはその翌年の元禄四年の花見と見て良いのだろう。『雑談集』はこの年にまとめられ、翌年刊行された。
 小坊主の句は、この年元禄四年の七月に刊行された去来・凡兆編『猿蓑』にも、

   東叡山にあそぶ
 小坊主や松にかくれて山ざくら  其角

とある。
 この句は「山桜(に)小坊主も松に隠れてや」の倒置であろう。小坊主が何で隠れているのか、やや言いおおせぬ感じが其角らしい。ただ、江戸時代に寛永寺だ花見をした人なら、その情景がすぐに浮かび、「あるある」と思ったのだろう。
 推測だが、いつもなら境内を掃除したり、せわしく働いてる小坊主だが、この日は花見の人が多くて、表へ出てこず、桜の無い松の木の辺りで何やらやってる、というそんな情景ではないかと思う。

 香煎ふる素湯に桜の一重かな   普船

 「香煎」には「コガシ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「香煎」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 麦や米をいって挽いて粉にしたこがしに、紫蘇(しそ)や蜜柑(みかん)の皮などの粉末を加えた香味を賞する香煎湯の原料をいう。こがし。
  ※狂歌・卜養狂歌集(1681頃)冬「或る人の許より、かうせんのおこしけるに、中に匙を入れておこし」
  ② =むぎこがし(麦焦)〔物類称呼(1775)〕
  ③ 茶事で、「こうせんゆ」をいう。寄付待合(よりつきまちあい)に人がそろった時、詰(つめ)(=末客)にあたる人、または亭主側から、のどをうるおすために出す。」

とあり、②の麦焦がしは、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「麦焦」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 大麦を煎ってこがし、臼でひいて粉にしたもの。これに砂糖を混ぜ、水で練ったりして食べる。また、菓子の材料としても用いる。煎り麦。はったい。麦粉。香煎(こうせん)。麦香煎。《季・夏》
  ※俳諧・五色墨(1731)「麦こがし我も付木の穂に出て〈蓮之〉 御葛籠馬の通る暑き日〈宗瑞〉」

と夏のものになっている。ここでは①の方で、「香煎湯の原料」とあるように、粉状の「コガシ」を素湯に入れて飲んでいたのだろう。そこに一重の花びらが落ちる。一枚の花弁というよりは、鳥などが落とした五枚の花弁がついた一重の花ということだろう。

 くもる日は一日花に照れけり   挙白

 この日は花曇りで曇っていたのだろう。それでも花そのものの白い輝きに、あたかも日が照ってるようだ。

 さそはれて花に嬉しく親の供   浮萍

 浮萍についてはよくわからない。普船とともに元禄三年刊路通撰『俳諧勧進牒』にその名があり、

 出がはりのあいだやあそぶ花のとき 浮萍
   六阿弥道者のうちむれたる中に
 いくたびの彼岸にあふや珠数のつや 同
 雛の日や子よりもうばの高笑    同

の句がある。
 親と同伴したいきさつは分らないが、親思い、家族思いの人柄が感じられる。

 物見よりさくら投げこめ遊山幕  亀翁

は其角の弟子の中でもよく出てくる名前で、元禄七年の大阪への旅にも同行し、住吉大社で他の同行者と一緒に江戸に帰り、其角のみが死の前日の芭蕉のもとを訪ねることになる。『雑談集』にこのあと大山詣の一連の句があるが、この旅にも親子ともども参加している。
 名前は「翁」だが、元禄三年の『俳諧勧進牒』には「十四歳亀翁」とある。父も岩翁で其角の門人。
 「遊山幕」は花見の人の宴席を囲う幕のことであろう。「物見遊山」という言葉に掛けて、物見をするより、遊山幕に桜を投げ込め、とする。
 幕で囲ったんでは花がよく見えないじゃないか。花がなければただの物見だ。ならば、桜を折って遊山幕に投げ込んでやろう。まあ、そこは冗談で、本当に桜の枝を折ったりはしない、というところか。

 花の雨小袖惜うてかへるかや   水花

 水花はよくわからない。
 挙白は「くもる日は」と言ったが、そのうち雨になってしまったのだろう。せっかくの小袖が濡れるのが惜しくて帰るのか、という意味だが、「かや」はこの場合反語に取った方が風流だ。

 「嵐蘭が母は田中宗夫と云ひし人の孫にて、かの宗夫の武功をよく知りて語り申されけり。
 和州誉田の田夫にてはじめ中間より後ち松倉豊後守の家老となり侍る。
 されば子孫に伝えて語りけるに士は畳の上にてむまれ田の畦にて死すべしと、これを家訓として心ざしをかかす懐旧、

 死なば爰秕穂に出る小田の霜   嵐蘭」(雑談集)

 嵐蘭が鎌倉から帰る途中に客死したのは元禄六年八月二十七日だから、その運命はまだ知る由もない。
 嵐蘭の死に際して芭蕉は『嵐蘭ノ誄』を書き記し、許六編の『風俗文選』に収録されている。
 母に関しても、

 「此三とせばかり、官を辞して、岩洞に先賢の跡をしたふといへども、老母を荷なひ、稚子をほだしとして、いまだ世渡にただよふ。」

と嵐蘭が老母を養っていて、

 「七十の母に先だち、七歳の稚子におもひを残す。」

この母のことを気遣うほど、嵐蘭の母親思いは門人の誰しも知る所だったのだろう。

2024年2月20日火曜日

 
 今日はおおいゆめの里の河津桜を見に行った。
 花は満開で、一部はもう散り始めていた。この前は五分咲きと聞いて、いつか見に行こうと思ってたが、土日は混むからと後回しにして、昨日は雨で今日は何とか花の盛りに間に合った。
 富士山は雲がかかって、なかなか全体の姿を現さなかったが、霞と雲の合間に何とか見ることができた。
 花見の人も多く、平日とは思えない賑わいだった。

 それでは「雑談集」の続き。

 「あすは桃のはじめに人心うつろひ安からんも覚つかなしと、上野の桜みにまかりしに、門主例ならず聞えさせ給へば、山の気色いと閑なるに花もうれふるにやと心うごかす。霞の底もしめやかに鳥の声定まらざりし。日比にかはることいたづらになせそと、亦とがむる人をも心つかひせしかば、興なくかへりぬべきに成て、風雲の私にひかれ、大師の御座清水の糸ざくらなど、只おぼかたに詠みけるに、彼さくらの木に添て、舞台の右の方に鐘かけたり。片枝はさながら鐘をきくばかりにほころびたれば、

 鐘かけてしかも盛りのさくら哉  角」

 「桃のはじめ」は後でこの日が弥生の二日なのがわかるから、三月三日の桃の節句のことであろう。この日は海に潮干狩りに行き、獲れた海産物をお供えする。延宝の頃の芭蕉の句に、

 竜宮もけふの鹽路や土用干し   桃青

の句がある。
 せっかく桜の季節だというのに、移ろいやすい江戸っ子の心はすっかり潮干狩りムードで、それならと、其角は上野寛永寺の桜を見に行く。花見の名所だった。
 寛永寺の門主の所を訪ねて行ったのだろう。この日は人も少なく上野山は静かで、「花もうれふる」というくらい寂しかった。
 晩春の霞の中に鳥の声もはっきりとは聞こえない。今までとうって変わった景色だし、門主からも何やらお咎めがあったのか、すっかり興も醒めてしまった。
 だったらと「風雲の私にひかれ」というのは、ちょっと別の所を散歩してみようくらいのことか。風雲といっても旅というほどのものでもあるまい。
 「大師の御座清水の糸ざくら」は上野山を西側に降りた不忍の池の北側にある谷中清水稲荷社のことだろうか。弘法大師が掘り当てた清水の伝説がある。
 この糸桜(枝垂桜)の木の横に鐘が掛けてあった。半鐘か何かだろうか。「片枝はさながら鐘をきくばかりにほころびたれば」とあり、この糸桜も綺麗に咲いていたのだろう。

 鐘かけてしかも盛りのさくら哉  其角

ということになる。

 「入相と聞えしほどに門主も薨御のよしをふれて、鳴り物とどめさせ給へば、悲き哉やかるる日かかる時ありて、かくは世をさとしめ給ふことよと仏身非情草木にいたる迄、さてのみこそは侍りけれど愁眉沙汰する事をおもひて、

 其弥生その二日ぞや山ざくら   角」

 夕方の入相の鐘の頃になって再び寛永寺に戻って来たのだろう。ここでお寺が静かだった原因が薨御(こうぎょ)にあったことを知らされる。
 薨御はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「薨御」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 親王、女院、摂政、関白、大臣などの死去すること。
  ※太平記(14C後)一三「兵部卿宮薨御(コウキョ)事」

とある。
 ウィキペディアを見ると寛永寺の項に、

 歴代寛永寺貫首(輪王寺宮)
  1.天海
  2.公海
  3.守澄法親王(第179世天台座主。輪王寺宮門跡の始まり。後水尾天皇第3皇子)
  4.天真法親王(後西天皇第5皇子)

とある。この4の天真法親王はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天真法親王」の解説」に、

 「1664-1690 江戸時代前期,後西(ごさい)天皇の第5皇子。
  寛文4年7月28日生まれ。母は清閑寺共子。延宝元年得度。8年東叡山(とうえいざん)輪王寺貫主となる。日光の大火のおり被災した住民に食料をほどこしたという。元禄(げんろく)3年3月1日死去。27歳。俗名は幸智。幼称は益宮(ますのみや)。法名ははじめ守全。法号は解脱院。」

とある。元禄三年三月一日死去とあるから、其角が上野に花見に行ったのはおそらくその翌日であろう。
 なお、この句は『五元集』には、

   辛未の春上野にあそべる日
   門主薨御のよしをふれて世上一時に
   愁眉ひそめしかば
 其弥生その二日ぞや山ざくら

とある。
 辛未は元禄四年で『雑談集』の成立した年とされていて、巻末に「元禄辛未歳内立春日筆納往而堂燈下」とある。つまり元禄四年の師走に書き上げられたことになる。西暦では年が改まって一六九二年になる。
 そうなると、この辛未の春は元禄四年の春(一六九一年)ということになり、この時に皇族関係で亡くなった人がいたかということになるが、『五元集』が後に編纂されたことを考えるなら、元禄三年庚午の間違いと見て良いのではないかと思う。
 愁眉沙汰するの愁眉はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「愁眉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 心中の悲しみや心配が表われた、しかめたまゆ。悲しみや心配のありそうな顔つき。
  ※傀儡子記(1087‐1111頃)「女則為二愁眉啼一、粧二折腰歩齲歯咲一」
  ※新撰朗詠(12C前)下「縦ひ酔へる面の、桃競ふこと無くとも暫く愁眉の柳与開くること有り〈慶滋保胤〉」 〔後漢書‐五行志〕」

とある。桜が今を盛りと咲き誇っているのに、今日は悲しんで顔をしかめるべき日ということで、

 其弥生その二日ぞや山ざくら   其角

の句を追悼に捧げることとなった。

2024年2月19日月曜日

  河津桜の季節になったが、同もしばらく雨が続きそうだ。気温が下がれば、花も長持ちしてくれるのだが。

 それでは「雑談集」の続き。

 「翁北国行脚のころさらしなの三句を書きとめ、いづれかと申されしに、

 俤や姨ひとり泣く月の友

といふ句を可然に定めたりと申しければ、『誠しかなり。一句人目にはたたず侍れども、其夜の月の天心にいたる所、人のしる事少なり』と悦び申されけり。されば友吉が、

 さらしなの月は四角にもなかりけり

といふ句は武さし野の月須磨あかし絵島にかけても影同じ。さみだれにかくれぬ橋いかでふみたがふべきや。」(雑談集)

 これも、五月雨の句の続きともいえる、ふるふらぬ論になる。

 「北国行脚のころ」とあるが、これは美濃から信州姥捨て山へ行った時の句で、これを其角に見せたのは江戸に帰ってからのことで、その翌年の春は『奥の細道』の旅に出るから、間違いではない。北国行脚の前ということになる。
 三句あったというが、他の句は残っていない。『更科紀行』には、

 いざよひもまださらしなの郡哉   芭蕉
 更科や三みよさの月見雲もなし   越人

の句が並べられているが、十五夜、十六夜、十七夜と日にちを違えた句で、この三句というわけではないのだろう。
 芭蕉は時折弟子に句を選ばせるが、本当に迷っている時もあれば、弟子の力量を試す場合もある。この場合どっちだったかはわからない。ただ、其角が選んだこの句に芭蕉も納得してったようだ。
 そんな目立った景物などがあるわけではないが、姨捨の伝説は誰もが知る所で、姨捨の月の天心に懸かれば、それを見た姨が独り泣いているその情は誰しもわかる。姨捨山の月でなければ詠めない句だ。
 これに対して、

 さらしなの月は四角にもなかりけり 友吉

の句は単に更科の月だからと言って特別四角かったりするわけではない、という句で、これならどこの月だって四角ではない。
 名所だから特別ではないという所に意味があるとしても、月の名所はたくさんある。つまりこの句の更科は武蔵野の月でもいいし、須磨明石など何でもいいということになる。
 五月雨の隠れぬ橋は琵琶湖の景色があって意味があるから勢田の橋は動かせない。それは姨ひとり泣く月が姨捨山の月でなくてはならないのと同じだ、ということになる。
 ちなみに友吉の句は其角撰『虚栗』に収録されている。

 「かりそめの旅に立出てても先づ思ひ合らる川風寒み千鳥なく也。此歌炎暑にも寒しとは俊成卿の雑談也。

 出女や一匹なけば蝉の声      自悦」(雑談集)

 歌は、

 思ひかねいもかりゆけば冬の夜の
     川風寒み千鳥なくなり
              紀貫之(拾遺集、和漢朗詠集)

の歌だろう。
 「此歌炎暑にも寒しとは俊成卿の雑談也」とあるのは、鴨長明『無名抄』の「俊恵歌体を定むること」の、

 「この歌ばかり面影あるたぐひはなし。『六月二十六日の寛算が日も、これだに詠ずれば寒くなる』とぞ、ある人は申し侍りし。」

のことか。だとすると、俊恵との記憶違いか。
 自悦は京の人で延宝の頃に『釈教俳諧』『洛陽集』『花洛六百句』などを編纂し、高政・常矩らとともに活躍した人のようだ。(『芭蕉と京都俳壇: 蕉風胎動の延宝・天和期を考える
』佐藤勝明著)
 句の方は、この句も同じように涼しくなるという意味か。
 出女はウィキペディアに、

 「出女(でおんな)は、 江戸時代の私娼の一種である。各地の宿場の旅籠にいて、客引きの女性であるが、売春もした。曲亭馬琴の『覉旅漫録』20に、岡崎の出女の項に、娼婦の意で用いている。
 森川許六編の『風俗文選』に載る直江木導の「出女説」には、「出女(省略)あるは朝立の旅人を送り、打著姿(うちぎぬすがた)をぬぎ捨てて箒を飛ばし、蔀(しとみ)やり戸おしひらきてより、やがて衣引きかつぎ、再寝(またね)の夢のさめ時は、腹の減る期(ご)を合図と思へり、(省略)やうやう昼の日ざし晴やかに輝く頃、見世の正面に座をしめ、泊り作らんとて両肌(もろはだ)ぬぎの大けはひ、首筋のあたりより、燕の舞ひありく景気こそ、目さむる心地はせられ」とある。飯盛り女、留女と同類のものである。」

とある。出女に見送られて宿を出るとちょうど蝉が鳴き始める、ということか。

2024年2月18日日曜日

  それでは「雑談集」の続き。

 「さみだれにかくれぬ物や勢田のはし  翁

 此はしの名大かたの名所にかよひて矢矧のはしとも申すべきにや、長橋の天にかかる勢多一橋にかぎるべからずと難ぜしよし、京大津より聞え侍るに、去来が、

 湖の水まさりけり五月雨

と云へ、まことに湖鏡一面にくもりて水天ニ接スとみえぬ。八景を亡せし折から此一橋を見付けたる時と云ひ、所といひ一句に得たる景物のうごかざる場をいかで及びぬべきや。文章のみものにあつからずと云へる瞽者のたぐひなるべし。」(雑談集)

 芭蕉の「さみだれに」の句は元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に収録されている。貞享五年五月末からの大津滞在中の句であろう。同じ頃、

 目に残る吉野を瀬田の蛍哉     芭蕉

の句を詠んでいる。貞享五年の春には『笈の小文』の旅で吉野を訪れていた。

 湖の水まさりけり五月雨      去来

の句も同じく『阿羅野』に収録されている。共に巻之七の「名所」の所に二句並べられている。
 勢田の橋はウィキペディアの「瀬田の唐橋」の項に、

 「歴史上、さまざまに表記・呼称されてきた。瀬田橋や勢多橋、勢多大橋のほか、勢多唐橋とも記される。また、瀬田の長橋とも称された。」

とあるように、充てる漢字もいろいろで、音があっていれば昔の人はそれほど字面にはこだわらなかった。和歌では「せたのながはし」が多く用いられる。

 さみだれにかくれぬ物や勢田のはし 芭蕉

 この句に対して京や大津の人から勢田の橋は他の橋でもいいじゃないかという、いわゆる「ふる、ふらぬ」の論が起きたという。名古屋の矢矧橋でもいいではないか、というものだ。
 単に五月雨の雨が強くてあたりの景色がよく見えない、というだけの句ならば、それも言えるかもしれない。ただ、琵琶湖の五月雨に朦朧とけぶる景色の風情は瀟湘八景の美にも通じる。
 勢田の橋とあれば、琵琶湖の景色が浮かんでくるが、矢矧橋は東海道岡崎宿の西の有名な長い橋ではあるが、比較的新しい橋なのか、和歌には矢作川は詠まれているが矢矧橋はないし、特に風光明媚で知られてたわけでもない。
 『阿羅野』ではこの後に去来の句が並べられているように、勢田の橋がなくても五月雨の琵琶湖はそれだけで一句のテーマとなるようなものだった。
 其角も「まことに湖鏡一面にくもりて水天ニ接スとみえぬ」という。其角の父は近江膳所藩の藩医で其角自身もこの辺りの景色の美しさは熟知していた。それだけに、五月雨の琵琶湖の風情を熟知していた京や大津の人からこんな横やりが入るのは解せぬことだ。
 もっとも地元の人にしてみれば当たり前すぎて、却って余所物の方がその美しさに感動するのかもしれない。
 「水天ニ接ス」は蘇軾『前赤壁賦』の「白露横江、水光接天。」のことで、当時は誰もが知るような漢詩の一節だった。

 「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」
 (壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)
 芭蕉もこのイメージで後の元禄六年に、

 ほととぎす声横たふや水の上    芭蕉

の句を詠む。
 「文章のみものにあつからずと云へる瞽者」というのは、実際に旅をしたりせずに、頭の中だけで歌枕のことや何かを考えている、ということか。まあ、当時は動画も写真もないから、実際琵琶湖を見たことないと、どういう景色か想像もつかなかったのかもしれない。
 瞽者は「コシャ」とルビがある。目の不自由な人のこと。

2024年2月17日土曜日

  それでは「雑談集」の続き。

 「西岸寺任口上人のたんざく二枚

 草ばうばう刈ぬも荷ふ花のかな
 蓼醋とも青海原をみるめかな

 伏見にて乞取り侍るその朝、京へ出るとて稲荷山にてふところさがしたれば、道すがらに落したるを、あはやとてかる籠かく男はしりかへらせけるに、誰人のひろひてか左の方の藪垣根にはさみてあり。海にひろへるかひありけりと、かさねて袖につつみけるかの短尺の畳紙の上に男山正八幡大菩薩と仇書せしを、おそろしと思ひて内を見ずしてやふね垣にははさみて捨てつらん。但シ神名のかろがろしからぬにや。旅する人は心得ぬべし。」(雑談集)

 任口上人はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西岸寺任口」の解説」に、

 「1606-1686 江戸時代前期の俳人。
慶長11年生まれ。京都伏見(ふしみ)西岸寺の住職。俳諧(はいかい)を松江重頼(しげより)に,和歌と連歌を里村昌程(しょうてい)にまなぶ。松尾芭蕉(ばしょう),井原西鶴(さいかく)らと交遊があった。句は「俳諧続独吟集」「古今誹諧師手鑑」などにある。貞享(じょうきょう)3年4月13日死去。81歳。別号に如羊。」

とある。
 芭蕉ともかかわりの深い人で、延宝五年(一六七七年)に磐城平藩藩主の内藤風虎主催の『六百番俳諧発句合』に芭蕉が素堂とともに参加した時の季吟・重頼とともに判者を務めた一人でもあった。
 貞享二年、『野ざらし紀行』の旅で伏見を訪れた芭蕉は老いた任口上人に会って、

 我がきぬにふしみの桃の雫せよ   芭蕉

の句を詠んでいる。
 其角はその前年の貞享元年二月中旬に上京している。(『元禄の奇才 宝井其角』田中善信、二〇〇〇、新典社)九月までの滞在の間に伏見の任口のもとを訪れ、この短冊を貰ったのであろう。
 「草ぼうぼう」の句は『阿羅野』の初秋の所にも見られる。夏の草ぼうぼうと茂った様に、それを刈らぬまま秋の花野になった、ということで秋の句になる。邪魔だからと刈ってしまえば花も咲かないという寓意を込めてのことであろう。
 「蓼醋とも」の句は蓼酢・海松ともに夏の季語で、鉢に入った緑色の蓼酢を海に見立てて、蓼の緑が海の海松の緑のようだ、という句であろう。
 任口上人のいた伏見西岸寺は宇治川に近い伏見桃山にあり、稲荷山は北へ一里ほど行ったところの伏見稲荷の辺りということであろう。別に山に登ったわけではなく、伏見稲荷のある伏見山の前をということ。
 そこで短冊を落としたのに気付いて、駕籠かきに引き返すように言ってしばらく戻ったら、誰かが拾っておいてくれて、道の脇の垣根の所に挿してあった。今でも落し物などはこうやって見える所に置いておく場合が多い。
 「海にひろへるかひありけり」は「青海原をみるめかな」に掛けて言っているのだろう。「かさねて袖に包みけるか」も共に七六で、脇になりそうでならない微妙な音数で面白い。二枚の短冊は重ね合わせて畳紙で包んであったのだろう。その紙に男山正八幡大菩薩と書いてあったので、拾った人も神のものなら着服したらばちが当たると思って、こうやって置いて行ってくれたのだろう、と推測し、神の名はおろそかにしてはいけないと旅人への教訓とする。
 男山正八幡大菩薩は石清水八幡宮のことで、伏見の南西、宇治川・木津川・桂川の交わる辺りだから、拾った人は石清水八幡宮のお札を京へ帰る人が落したと思ったのかもしれない。
 江戸時代は今よりはるかに治安が悪かったから、落したものが返ってくるというのは珍しいことだったのかもしれない。
 それでも元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅を終えたあと、路通と一緒に大津に来た時、路通が天和の頃に大阪の宿に置き忘れて行った五器が粟津に届いていたという、そういうこともあった。

2024年2月15日木曜日

  バレンタインは日本ではチョコレートの日として定着しているが、最初は女が男に告白する時にあげるもので、ただ女性からの愛の告白は稀で、実際に貰えない人が多い所から、実態は伴わなくても形だけチョコレートをあげるようになっていった。
 チョコレートが欲しい人は事前に知り合いの女に片っ端から根回しして、結構無理にチョコレートを持ってくるようにさせてたし、その一方で貰えない大半の男に対して一様にチョコレートを配って歩き、これが義理チョコと呼ばれるようになった。
 義理チョコは平成の頃まで多くの職場で行われていたし、バブルの頃はそれなりに華やかだったが、平成末になると急速に廃れ、友チョコや自分チョコが流行るようになった。
 友チョコと言っても男がチョコレートを交換する習慣がないので、女同士のということになるが、そこに最近は男の妄想が入って、百合イラストにチョコレートを組み込んだものがXのTLに多く流れている。これは百合チョコと言っていいものか。
 そういうわけでバレンタインはそのうち百合の日になるのではないか。
 戦後、欧米を中心に性の解放ということが言われて、自由恋愛が西洋の進んだ自由な男女の在り方だというのが世界的に喧伝されたが、八十年代くらいを境にして、西洋社会は性の自由に関してもジェンダーの自由に関しても大きく後退してゆくことになった。
 まあ、多分自由恋愛は男と女の騙し騙されの難しい駆け引きとなって、結局愛憎入り混じったどろどろとした地獄に落ちて行くことが多かったのだろう。七十年代くらいのポップスの歌詞は、そういうどろどろした世界を描いて、死にたくなるような苦しみを唄った暗い歌が多かった。
 八十年代には、男が女にモーションかけたり口説いたりする行為がセクシャルハラスメントとみなされるようになり、またこの頃にアメリカでは未成年のヌードが禁止された。
 そして、強姦が暴力によってではなく不同意によって定義し直され、性的同意の有無の証明が事実上困難であり、また強姦は夫婦間であっても認められるということで、現実の性行為に関しては誰しも委縮し、草食にならざるをえなくなった。
 同性愛に関しても、ゲイの開放は八十年代までで、特にアメリカではトランスジェンダーの観念が拡大解釈され、かつてのお転婆で男勝りの少女はトランスジェンダー認定され、いわば女性というジェンダーを剝奪されて、ホルモン投与や胸部の切除手術などを受けるようになっていった。それでいて男性になれるわけではない。あくまでトランスジェンダーという不安定な地位に留まっている。
 女性的な男性もまたトランスジェンダーに分類されるが、こちらの方も拡大解釈され、男性器を持ったままのトランスジェンダーが、本来男性から保護されるべき場所への出入りを要求したり、スポーツに女性として参加することを要求したり、ごく一部とはいえレズだと称して強姦事件をも起こしている。
 女性としてのジェンダーを奪われて孤立し、自殺に追い込まれることの多い女性トランスジェンダーに対して、傍若無人にふるま男性トランスジェンダーは、結局西洋社会が男尊女卑から脱却できなかった証拠ではないかと思う。結局ペニスを持つ者が優位に立っている。
 幸いこの流れの流入を今の所日本は喰い止めている。トランスジェンダーは自認ではなく、医者の証明を必要として、十分な管理下にある。
 多くの人はアメリカ式のやり方を正しいと思ってないし、それが日本に流入することは大きな危機感を抱いている。この問題で日本の岩盤保守層に亀裂が入り、岸田内閣の支持率を大きく低下させる原因になった。
 生まれながらの身体的性別と心のジェンダーは別物だし、一致する必要もない。心のジェンダーは多様かつ連続的なもので、どこからがトランスジェンダーだなんて境界線を弾くことはできない。それは虹の七色が連続したグラデーションで、切れ目がないのと一緒だ。
 そもそも日本では虹は七色だが、国によって六色だったり五色だったりする。色の区切りはあくまで任意のもので絶対的なものではない。
 それと同様LGBTのLとGは生まれながらの染色体上の性別で区別されているし、BはLとシス、Gとシスとに跨るもので、境界線はない。Tは日本では医学的診断を必要とするもので、染色体上の性別とジェンダーが著しく逆転するケースに限定されている。今のアメリカが典型的な男のシスと典型的な女のシス以外をトランスジェンダーで全部くくった上で、ありのままのジェンダーを受け入れず、無理やり肉体を男か女かどちらかに魔改造しようとしている。
 日本ではシスであってもある程度のトランスジェンダー的傾向を内包するものとして、幅広く固有の性癖が承認されている。バイに関しても肉体を改造する必要はない。性転換手術は極めて限られた人のものとされている。
 今の日本人は西洋をもはや手本とは考えてないし、西洋崇拝の時代をとっくに脱却している。
 性的には確かに七十年代のようなどろどろとした世界はなく、結婚は恋愛結婚から婚活結婚へと変わりつつある。これはかつての見合い結婚を家から切り離した核家族社会に適応させるものだ。そういう意味でバレンタインも恋愛や結婚から切り離され、主に女性を中心としてチョコレート祭へと姿を変え、男性は百合女性の夢を見る日になりつつある。
 セックスやジェンダーの困難な問題の解決には、様々な方法が試され、試行錯誤してゆくことを必要としている。そのためには各国、各民族が多種多様な考えでそれぞれ解決を模索してゆく「並列処理」の方が間違いなく効率が良い。

 それでは「雑談集」の続き。

 「荷兮集あら野に辞世とあり。

 散る花を南無阿弥陀仏と夕べ哉   守武

 彼集のあやまりか。神職の辞世として何ぞ此境をにらむべきや。只嗚呼と歎美してうちおどろきたる落花か。」(雑談集)

 元禄二年刊荷兮編『阿羅野』に確かにこの句があるが、言われてみればその通りだ。これに関しては江戸後期の『俳家奇人談』(竹内玄玄一著、文化十三年刊)にも、

 「世に、
 散る花を南無阿弥陀仏と夕べ哉(江戸亀屋源太郎所持守武自筆の短尺に、菩提山にてといふ前書して、この句あり)
の句を辞世なりと為すものは、非なること晋子すでに弁ぜり、天文十八年八月卆す。辞世の歌、

 越しかたもまた行末も神路山
     峰の松風峰の松風

 発句、

 朝顔に今日は見ゆらんわが世かな」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』岩波文庫)

とある。
 守武がこの句を詠んだのは間違いではないが、辞世の句ではなく、かつて朝熊山の梺にあった菩提山神宮寺に詣でた時の句だったのであろう。たまたま桜の散る季節だったということであれば、この句もその時の興で詠んだ句ということで納得がいく。
 芭蕉も『笈の小文』の旅でここを訪れ、

 此山のかなしさ告げよ野老堀    芭蕉

の句を詠んでいる。コトバンクの「日本歴史地名大系 「菩提山神宮寺跡」の解説」には、

 「[現在地名]伊勢市中村町 菩提山
五十鈴川が朝熊あさま山の山塊にぶつかり、北に方向を変える個所、丸山まるやま古墳群のすぐ下の標高八―一六メートルの個所である。尾根筋を径一〇〇メートル四方に加工したと思われる緩やかな傾斜地で、現在各所に土壇・土塁・石垣がみられる。「五鈴遺響」に記される寺伝によれば、天平一六年(七四四)聖武天皇の勅願により僧行基が創建し、その後、文治元年(一一八五)良仁が再建、中興開山と称された。弘長二年(一二六二)火災にあい、堂宇をことごとく焼失、宝暦一〇年(一七六〇)に朝熊ヶ岳明王院の尊隆により再建されたとある。「伊勢名勝志」によればもと内宮の神域内にあって太神宮寺と称され、その後、この地に移され菩提山神宮寺と改称、明治二年(一八六九)に廃寺となったという。」

とある。

 「先年上京の挨拶に、   季吟

 目をしやれよ花しほれたる庭など

 なんどいふ読み癖を通音の句なり。」(雑談集)

 其角は貞享五年に上方へ行っているが、これもその時のことだろう。この頃はまだ季吟も京にいた。将軍家の歌学方として江戸に移るのは翌元禄二年のことだ。(貞享五年は九月三十日に改元し、元禄元年となる。)
 この句の下五「庭など」は字足らずに見えるが、「にわなんど」と読んで五音になる。
 通音はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「通音」の意味・読み・例文・類語」に、

 「② 平安時代の韻学で、ナとダ、マとバのように類似した音で、清と濁とが相通じて用いられる関係にある音のこと。
  ※悉曇要集記奥文(11C後‐12C前)「通音者濁、濁。〈略〉通二声一、通二声一、通二声一、通二声一。互相通随レ便呼レ之也」
  ③ =つういん(通韻)③
  ※悉曇秘釈字記(1090)「アイウエヲ通音」
  ④ =つういん(通韻)④
  ※随筆・胆大小心録(1808)一四七「垣つ幡と万葉に見ゆるは、波と多と通音にて、ハタ薄・花すすきの類ひの証訓なり」
  ⑤ =つういん(通音)②
  ※滑稽本・大千世界楽屋探(1817)上「勇士をさして武者(むしゃ)といふ。其武者の言語応待を、武者言(ことば)といふ。むと もと通音(ツウオン)、且 しやの反(かへし) さ也。武者言(むしゃことば)を もさ言と呼来る」
  [補注]ふりがなのない例は「つういん」と読んでいた可能性もある。」

とあり、(通韻)②③④は、

 「② 悉曇(しったん)学で、同じ母音を持つ文字間の関係。
  ※悉曇蔵(880)二「右迦等三十三字承二上阿等一。是通韻也」
  ③ 平安時代以降の韻学で、五十音図の同じ段の文字に共通する音。大体現在の母音に当たり、アイウエオを指したが、ヤ行・ワ行の音は別と考えていた。通音。
  ※反音作法(1093)「初のアイウエオの五字者は、是諸字の通韻也」
  ④ 江戸時代以前の国語学の学説で、五十音図中の同じ段の文字が相通じて変化することを説明する語。「けむり」を「けぶり」、「あたり」を「わたり」というようなことをさす。通音。
  ※滑稽本・風来六部集(1780)放屁論後編「えびすはへびすの間違にて、あいうえを、はひふへほの通韵(ツウイン)より誤り来れり」

とある。
 この場合は④の意味で、今日の言語学で言う「交替」のことだが、其角のこの文脈は「など」を「なんど」と読んだりする「ん」の有無の交替は「念仏(ねんぶつ、ねぶつ)」「陰陽師(おんみょうじ、おみょうじ)」など、数多く見られる。また古くは「ん」の字は省略して表記されることが多かった。

 「五十匂百匂とわかるる事北野梵灯より始む。」(雑談集)

 匂は勻の字形を変えたもので、ここでは韵のことであろう。連歌の五十句連ねるものを五十韻(韵)と言い、百句連ねるものを百韻(韵)と言う。
 古い時代の連歌は百韻が標準で、あとの形式はその簡略化されたもので、あとからできたものであろう。中世の連歌のほとんどは百韻の形を取っている。
 つまり、五十韻ができたのは梵灯庵主(朝山師綱)が北野連歌会所にいた頃に定めたものということで、真偽のほどはよくわからない。

2024年2月14日水曜日

 今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。
 早咲きの梅もまだ残り、遅咲きの梅の開き始める、時期としては申し分なく、それだけに平日とはいえ大勢の人が来ていた。
 赤白ピンク、一重八重はもとより、源平咲きの梅、花びらの細い梅、五芒星のような梅などいろいろな花が咲いていた。蝋梅もまだ咲いていた。
 河津桜も三分咲きで、遠くの松田の河津桜もピンク色になってきた。
 遠くには丹沢の山も見える。二ノ塔三ノ塔のハート形ももちろんのこと。

 あれあげようバレンタインの三ノ塔

 それでは「雑談集」の続き。

 「貞享乙丑年九月十四日の暁の夢に鶴岡へまうで侍ると覚えて、その身ひら包首にかけ、菅笠手に持ちて段かづらの下道ならびの松を見あげ行くまま、沖のかたしきりに時雨来てはやく拝殿に走りつきたれば、社人立ちさわぎて蔀さしおろすと、その蔀はむさう屏風といふものを畳みたるやうに有りけるか、はらはらとさしおろすその陰によりて、雨しのぎたるさまを社人見とがめて、とく出でよとせめながら、時にとりてのけしき一句つかふまつらばゆるし侍らめとつぶやく。」(雑談集)

 貞享乙丑は貞享二年(一六八五年)で、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅から帰ったあとになる。九月十四日といえば十三夜の翌日で、十四日から十五日朝にかけての夢ということになる。
 夢に鎌倉の鶴岡八幡宮に行き、菅笠を手に持って若宮大路の段葛(だんかずら)を行くのだが、「下道ならびの松を見あげて」というのは、一段高い中央の段葛の道ではなく、その脇の道から、当時は桜ではなく松並木だった段葛を見あげる、ということか。
 後ろの海の方から時雨の雲が迫っていて、急いで拝殿に辿り着くと、神社の人達が大急ぎで蔀(しとみ)を閉めていて、その蔀は無双屏風を畳んだようだったという。どういうものなのかわからないが、蔀戸は通常上に跳ね上げて開けるもので、一枚の板のようになっているが、それが左右に折り畳み式になっているということか。
 多分その跳ね上がった状態の蔀戸の下で雨宿りをしたのだろう。閉めるからそこをどけということだろう。一句詠むから見逃して、ここだけは閉めずにいてくれ、ということで一句詠む。

 「あはれ爰にてこそとゆめそぞろに面白く海みやらるる松の葉の末に由井の浜風吹きわたり波と空とのわかるるやうにおもひまして、

 松原のすきまを見する時雨かな

と申し出でたれば、社人しはめる顔にて吟じ返し、当意よろしく神もさこそは、とうなづきぬともおぼえて、夢さめたり。」(雑談集)

 鶴岡八幡宮の拝殿は長い石段を登った所にあるので、登れば海が見える。時雨に沈む海の景色は、かつての日本人の愛した景色でもあった。大正の頃の北原白秋作詞の唱歌「城ヶ島の雨」のような「利休鼠の雨」であろう。
 上には近くの松の木の枝があり、見降ろせば海辺の松林の向こうに海と空が見える。上下の松に挟まれた雨にけぶって曖昧模糊となった水平線は、水墨画の瀟湘八景なども彷彿させる。最近の日本人の忘れてしまった美学であろう。
 この景色を其角は夢の中で、

 松原のすきまを見する時雨かな

と即興で詠む。
 やまと歌の言の葉の道は鬼神を感応させ、猛き武士(もののふ)も慰めるもので、その効果あったのか、急な雨でピリピリしてた社人の心も和ませ、神もお許しになると雨宿りが認められた所で目が覚める。

 「明れば十五日の朝深川の八幡宮に詣で侍る。次て芭蕉庵をとひて、ありし夢に申し侍りと語りければ、現にはかかる口きよき姿は及ぶまじきをと申されたり。魂の遊ぶ所まことに虚霊不昧なる事を知る。」(雑談集)

 目が覚めれば十五日の朝で、深川の富岡八幡宮に詣でる。一句ものにしたことへの感謝のお礼参りであろう。
 この頃其角は日本橋のてりふり町に住んでいたと思われる。(『元禄の奇才 宝井其角』田中善信、二〇〇〇、新典社)わざわざ深川まで行ったのだから、深川の第二次芭蕉庵にも寄っていこうと思ったのだろう。
 そこで芭蕉に夢の話をし、その発句を披露したのだろう。そしたら芭蕉は、起きてたらいろいろ句を上手く作ろうだとか、却って雑念が入って、こんな素直な奇麗な句は浮かばなかっただろう、と言う。
 「虚霊不昧」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「虚霊不昧」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「大学章句」の「明徳者、人之所レ得二乎天一、而虚霊不昧、以具二衆理一、而応二万事一者也」から) 天から享(う)ける明徳の精神は清浄霊妙で、邪欲に昧(くら)まされることなく、それ自体は空であるが万物に対し鏡のように照応するの意。天性の徳のすぐれて明らかなることをいう。
  ※惺窩文集(1627頃)二・小蓬壺記「虚霊不レ昧、衆理万事顧二諟明命一、通天之犀也、夜明之犀也」

とある。句を案じる時の巧者の弊の戒めともいえよう。

2024年2月12日月曜日

 今日は秦野の白笹稲荷神社の初午祭だった。
 去年もそうだったが、露店が並び、多くの人で賑わっていた。
 それでは其角『雑談集』の続き。

 「支那彌三郎入道宗鑑は生涯をかろんじて隠徳高く山崎の桑の門しかも車馬の喧きなし。ひとひ近衛殿宇治へ逍遥の比、去る法師しれるものなりと尋ね入らせ給ひけるに、痩労れたる老法師ひとり庭草取りなどして、そのほどの池のたたえに水かがみ見けるさまを、

 宗鑑がすがたをみよやかきつばた

と仰せ下されたれば、則ち、

 のまんとすれば夏の澤水

とつかふまつりける。」(雑談集)

 俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑は一四六五年頃の生まれで連歌師の宗長よりも二回りくらい年下になる。コトバンクの「デジタル大辞泉 「山崎宗鑑」の意味・読み・例文・類語」には、

 「室町後期の連歌師・俳人。近江の人。本名、志那弥三郎範重。将軍足利義尚に仕え、のち出家して山城国山崎に閑居したという。「新撰犬筑波集」の編者。荒木田守武とともに俳諧の祖とされる。生没年未詳。」

とある。
 芭蕉も貞享五年夏、『笈の小文』の旅を明石で終えて帰る途中、山崎に立ち寄り、

 有がたきすがた拝まん杜若    芭蕉

の句を詠んでいる。近衛殿が宗鑑を訪ねて行くと、宗鑑の痩せ細った哀れな姿を見て、まるで餓鬼のようだと「餓鬼つばた」の句を詠んだというのは、多分に伝説に属するものであろう。芭蕉や其角の時代にはこの形で流布していたようだ。
 時代が下って江戸後期の『俳家奇人談』(竹内玄玄一著、文化十三年刊)には、

 「ある時逍遙院殿(実隆卿)へ宗長諸とも参るとて、つねに愛しける杜若を折りて献りけるに、卿御覧じて、

 手に持てる姿を見れば餓鬼つばた

と興じ給ひけるを、

   のまんとすれど夏の沢水     宗長
 くちなわに追はれて何地かへるらん

 鑑が第三なり(案ずるに雑談集、俳諧句解、閑田耕筆等みな誤りて実隆公を竜山公とし、宗長が脇を鑑となす。」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』岩波文庫)

となっている。
 出典は『滑稽太平記』(作者、成立年不明)だという。ただ、近衛殿が竜山公近衛前久だとすると、天文五年(一五三六年)生まれの竜山公が天文二十三年(一五五四年)に宗鑑が没する前に会ったということだから、十代の頃の話となり、やや無理がある。その辺りから、同時代の三条西実隆の話とする方が、理にかなっている。
 どっちが正しいのか、はたまた両方とも都市伝説的なものなのかは定かではない。ただ、其角や芭蕉の知ってたのは『滑稽太平記』の方ではなく、其角が『雑談集』の方に記した方のもので、こちらの方が原型で『滑稽太平記』の方が尾鰭のついた話だったとも考えられる。

 「当意興ありけるにや。元政上人の隠逸伝には宗鑑が伝も入れらるべきを、此ワキ凡俗にかへりたる本心ありとてのぞかれ侍ると也。一句一生の徳を無(なみ)しけるはあさましき有様なれど、昼寝(ちうしん)のせめにおもひ合せてはいかにぞも思ひゆるすべき事ども也。」(雑談集)

 元政上人はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「元政」の意味・読み・例文・類語」に、

 「江戸前期の日蓮宗の僧。漢詩人。歌人。姓は石井氏。諱(いみな)は元政、法名は日政。はじめ彦根藩に仕えたが、のち妙顕寺の日豊に師事。京都深草に元政庵(竹葉庵・称心庵)を建てて法華経の修行に励んだ。詩文にすぐれ、熊沢蕃山、石川丈山、明人陳元、斌貝らと交遊。「深草の元政」とも。著に「扶桑(ふそう)隠逸伝」「本朝法華伝」「食医要編」、詩文集「艸山集」など。元和九~寛文八年(一六二三‐六八)」

とある。隠逸伝は寛文四年(一六六四年)刊の『扶桑隠逸伝』のことであろう。この宗鑑の伝承が省かれたことを残念がっている。
 餓鬼だから夏の沢水を啜って生きているというのが凡俗だというのだろうか。

 「後は山崎の草庵はそのまま古沓と法衣をのこして、さらに行く所をしらず。俗にやはた山の天狗になりて廿余年の後も月のあかき夜など八幡山崎のあたりをさまよひける。人に逢ひてもものいふことなし。凉(しをけ)しまなこ角(かど)ありて人をあやしとのみ見かはしたるをおそれて、それかともとがめず正に見たりしといふ人まれ多し。」(雑談集)

 宗鑑のいた山崎の草庵は残っていて、芭蕉も訪ねているし、其角も訪れていたのだろう。宗鑑はその後行方をくらまし、八幡山の天狗になったというのも、当時の宗鑑の伝説の一つだったか。

2024年2月11日日曜日

 随分また間が空いてしまったが、今年もいろいろ花を見に行った。寄(やどりき)の蝋梅、

 蝋梅や閉じた月日の溶け始め
 蝋梅や琥珀は虫の眠れるを

の二句は秦野の句会に出した。
 土肥の土肥桜、下田の水仙、熱海の熱海桜も見に行った。熱海桜を見に行った時は、海に島が若干浮き上がって見えるという、浮島という蜃気楼の一種を見た。

 島の浮く熱海穏やか早桜

 曽我梅林の梅も見に行った。

 富士の白雲の白きや梅の白

 さて、この俳話も長く休みがちだったけど、そろそろ何か読んでみようかと思い、其角の元禄四年刊の『雑談集』の俳論を見て行こうかと思う。

 「伏見にて一夜俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句いづれにてや侍ると尋ね出でられけり。折ふしの機嫌にては大津尚白亭にて、

 辛崎の松は花より朧にて

と申されけるこそ一句の首尾、言外の意味あふみの人もいまだ見のこしたる成るべし。」(雑談集)

 其角は貞享五年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが、その頃のことだろうか。其角も父の東順が近江膳所藩の医者だったことから、近江国とは縁が深い。
 そのことからも、伏見に来た時、芭蕉の名句はと問われると、この句が浮かんできたのだろう。伏見は近江から逢坂山を越え、京へ向かわずに山科から南に行ったところにあり、つい先だって近江から来たばかりだったかもしれない。
 「松は花より朧にて」と、後ろに何か省略した感じが、いかにも「言外の意味」を残し、近江に住んでる人すら思いつかないことだ、と近江に縁の深い人だからこそ言える言葉だ。
 ただ、この句の「にて」留の是非についてはいろいろ議論のある所で、其角としてはその議論を誘う意図があったのかもしれない。

 「其けしきここにもきらきらとうつろひ侍るにや、と申したれば、又かたはらより中古の頑作にふけりて是非の境に本意をおぼわれし人さし出て、其句誠に俳諧の骨髄得たれども慥なる切字なし。すべて名人の格的にはさやうの姿をも発句とゆるし申すにや、と不審しける。」(雑談集)

 「中古の頑作に」は「中古のかたくな作(さく)に」だろうか。「頑作」という単語が検索にかからない。
 中古は蕉風確立前の談林の作風に頑なにこだわっているという意味だろうか。談林もまた貞門の型を破ってきたが、そこでも雅語の使い方に證歌を求めたり、堅苦しい部分はあった。貞享の時代にあっては保守派に回ってたということだろう。伏見の任口は既に世を去っていたが、談林系の門人はまだ伏見にいくらもいたのだろう。
 発句というのは切れ字を使うもので、というのは当時の一般的な認識で、切れ字なくても切れている大廻しや三体発句は連歌の時代から知られていたが、「にて」留の発句は前例がないし、それ以降もほとんど真似されていない。
 荷兮編『冬の日』には、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

という発句があるが、この句には「や」という切れ字が入っていて、句は「霜月に鸛(こう)の彳々ならびゐてや」の倒置になるから、「て」留にそれほどの違和感はない。
 ただ、芭蕉が「松は花より朧にて」の句を詠んだのはその次の年の春であることから、この句の影響を受けた可能性は十分ある。
 いずれにせよ芭蕉のこの句は発句の体ではないというのは、当時の一般的な認識だったし、後に蕉門を離れた荷兮も元禄十年刊『橋守』巻三で、自分の「霜月」の句を「留りよろしからざる体」とし、芭蕉の句は「俳諧にあらざる体」としている。

 「答へに、哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へるによりて志らるべきか、おぼろ哉と申す句なるべきを句に句なしとて、かくは云ひ下し申されたるなるべし。朧にてと居ゑられて、哉よりも猶ほ徹したるひびきの侍る。是れ句中の句他に的当なかるべしと。」

 其角の答は、哉の句に「にて」留の第三を嫌うのは、哉と「にて」が似通ってるからだということから、この句は、

 辛崎の松は花より朧哉

としても良いような句で、哉より「にて」の方が「徹したるひびき」というのは、哉が治定の意味で、花より朧だろうかと疑いつつ、主観的に朧だと断定するのに対し、「にて」だと、「にては如何に」と強く疑問を問い掛けつつ断定することになる、そういうことではないかと思う。
 この語感の違いはもっともだと思し、哉と「にて」の働きの似ているのも納得できる。ただ、「哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へる」というのは特に式目にあるわけではない。『寛正七年心敬等何人百韻』では、

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬
   春にまかする風の長閑さ    行助
 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

というように、「哉」で切れる発句に「にて」で終る第三を付けている。もっとも、江戸時代の慣習としては、そういう嫌いもあったのかもしれない。
 この其角の議論は後に『去来抄』でも取り上げられることになる。

 「伏見の作者、にて留どめの難有あり。其角曰、にては哉にかよふ。この故に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫しくなれバ、にてとハ侍る也。呂丸曰、にて留の事は已に其角が解有。又此ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去来曰、是ハ即興感偶にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・来が辨皆理屈なり。我ハただ花より松の朧にて、面白かりしのみト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,10~11)

 「伏見の作者」とまで特定されているから、これは「雑談集」を読んだ去来・呂丸と芭蕉の問答であろう。

 「此論を再び翁に申し述べ侍れば一句の問答に於ては然るべし。但し予が方寸の上に分別なし。いはば『さざ波やまのの入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉』只根前なるはと申されけり。」(雑談集)

 「雑談集」での芭蕉の其角に対する答は、其角の言うのはもっともだが、そんなことを考えて「にて」にしたのではない。

 さざ波やまのの浜辺に駒とめて
     ひらの高根のはなをみる哉
             源頼政(新続古今集)
 近江路やまのの浜辺に駒とめて
     ひらの高根のはなをみる哉
             源頼政(夫木抄・歌枕名寄)

の歌を踏まえて、比良の高嶺の花の朧よりも辛崎の松の方がより手の届かないもののように見える、というこれは完全にネタを明かしてると言ってもいいかもしれない。
 芭蕉は春の霞のかかる松の朧に即興感隅したというより、比良の高嶺の花より朧なのが面白いという比較に重点を置いていて、こっちの方が朧じゃない?という問いかけにしたかったのではなかったかと思われる。
 いずれにせよ、芭蕉としては発句の慣習に囚われず、俳諧の自由というところにあえて「にて」留をしてみたのではなかったかと思う。そして、その試みはまだ談林の自由の残る貞享二年だからできたことで、後の俳諧の流れの中で、これ一句で終わってしまった試みだったのであろう。