2024年2月17日土曜日

  それでは「雑談集」の続き。

 「西岸寺任口上人のたんざく二枚

 草ばうばう刈ぬも荷ふ花のかな
 蓼醋とも青海原をみるめかな

 伏見にて乞取り侍るその朝、京へ出るとて稲荷山にてふところさがしたれば、道すがらに落したるを、あはやとてかる籠かく男はしりかへらせけるに、誰人のひろひてか左の方の藪垣根にはさみてあり。海にひろへるかひありけりと、かさねて袖につつみけるかの短尺の畳紙の上に男山正八幡大菩薩と仇書せしを、おそろしと思ひて内を見ずしてやふね垣にははさみて捨てつらん。但シ神名のかろがろしからぬにや。旅する人は心得ぬべし。」(雑談集)

 任口上人はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西岸寺任口」の解説」に、

 「1606-1686 江戸時代前期の俳人。
慶長11年生まれ。京都伏見(ふしみ)西岸寺の住職。俳諧(はいかい)を松江重頼(しげより)に,和歌と連歌を里村昌程(しょうてい)にまなぶ。松尾芭蕉(ばしょう),井原西鶴(さいかく)らと交遊があった。句は「俳諧続独吟集」「古今誹諧師手鑑」などにある。貞享(じょうきょう)3年4月13日死去。81歳。別号に如羊。」

とある。
 芭蕉ともかかわりの深い人で、延宝五年(一六七七年)に磐城平藩藩主の内藤風虎主催の『六百番俳諧発句合』に芭蕉が素堂とともに参加した時の季吟・重頼とともに判者を務めた一人でもあった。
 貞享二年、『野ざらし紀行』の旅で伏見を訪れた芭蕉は老いた任口上人に会って、

 我がきぬにふしみの桃の雫せよ   芭蕉

の句を詠んでいる。
 其角はその前年の貞享元年二月中旬に上京している。(『元禄の奇才 宝井其角』田中善信、二〇〇〇、新典社)九月までの滞在の間に伏見の任口のもとを訪れ、この短冊を貰ったのであろう。
 「草ぼうぼう」の句は『阿羅野』の初秋の所にも見られる。夏の草ぼうぼうと茂った様に、それを刈らぬまま秋の花野になった、ということで秋の句になる。邪魔だからと刈ってしまえば花も咲かないという寓意を込めてのことであろう。
 「蓼醋とも」の句は蓼酢・海松ともに夏の季語で、鉢に入った緑色の蓼酢を海に見立てて、蓼の緑が海の海松の緑のようだ、という句であろう。
 任口上人のいた伏見西岸寺は宇治川に近い伏見桃山にあり、稲荷山は北へ一里ほど行ったところの伏見稲荷の辺りということであろう。別に山に登ったわけではなく、伏見稲荷のある伏見山の前をということ。
 そこで短冊を落としたのに気付いて、駕籠かきに引き返すように言ってしばらく戻ったら、誰かが拾っておいてくれて、道の脇の垣根の所に挿してあった。今でも落し物などはこうやって見える所に置いておく場合が多い。
 「海にひろへるかひありけり」は「青海原をみるめかな」に掛けて言っているのだろう。「かさねて袖に包みけるか」も共に七六で、脇になりそうでならない微妙な音数で面白い。二枚の短冊は重ね合わせて畳紙で包んであったのだろう。その紙に男山正八幡大菩薩と書いてあったので、拾った人も神のものなら着服したらばちが当たると思って、こうやって置いて行ってくれたのだろう、と推測し、神の名はおろそかにしてはいけないと旅人への教訓とする。
 男山正八幡大菩薩は石清水八幡宮のことで、伏見の南西、宇治川・木津川・桂川の交わる辺りだから、拾った人は石清水八幡宮のお札を京へ帰る人が落したと思ったのかもしれない。
 江戸時代は今よりはるかに治安が悪かったから、落したものが返ってくるというのは珍しいことだったのかもしれない。
 それでも元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅を終えたあと、路通と一緒に大津に来た時、路通が天和の頃に大阪の宿に置き忘れて行った五器が粟津に届いていたという、そういうこともあった。

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